本居宣長『古事記伝』(現代語訳)44_5

 

 

 

沼名倉太玉敷命。坐2他田宮1。治2天下1壹拾肆歳也。此天皇。娶2庶妹豊御食炊屋比賣命1。生御子。靜貝王。亦名貝鮹王。次竹田王。亦名小貝王。次小治田王。次葛城王。次宇毛理王。次小張王。次多米王。次櫻井玄王。<八柱>又娶2伊勢大鹿首之女小熊子郎女1。生御子。布斗比賣命。次寶王。亦名糠代比賣王。<二柱>又娶2息長眞手王之女比呂比賣命1。生御子。忍坂日子人太子。亦名麻呂古王。次坂騰王。次宇遲王。<三柱>又娶2春日中若子之女老女子郎女1。生御子。難波王。次桑田王。次春日王。次大俣王。<四柱>

 

訓読:ヌナクラフトタマシキのミコト、オサダのミヤにましまして、とおまりみとせアメノシタしろしめしき。このスメラミコト、ままいもトヨミケカシキヤヒメのミコトにみあいまして、ウミませるミコ、シズカイのミコ、またのみなはカイダコのミコ。つぎにタケダのミコ、またのみなはオカイのミコ。つぎにオハリタのミコ。つぎにカヅラキのミコ、つぎにウモリのミコ、つぎにオハリのミコ、つぎにタメのミコ、つぎにサクライのユミハリのミコ。<やばしら。>またイセのオオカのオビトのむすめオクマコのイラツメをめして、ウミませるミコ、フトヒメのミコト、つぎのタカラのミコ、またのみなはヌカデヒメのミコ。<ふたばしら。>まtオキナガのマデのミコのむすめヒロヒメのミコトにみあいまして、ウミませるミコ、オサカのヒコヒトのミコト、またのみなはマロコのミコ、つぎにサカノボリのミコ、つぎにウジのミコ。<みばしら。>またカスガのナカツワクゴのむすめオミナコのイラツメをめして、ウミませるミコ、ナニワのミコ、つぎにクワタのミコ、つぎにカスガのミコ、つぎにオオマタのミコ。<よはしら。>

 

口語訳:沼名倉太玉敷命は他田の宮に住んで、十四年間天下を治めた。この天皇が庶妹の豊御食炊屋比賣命を娶って生んだ子は、靜貝王、またの名を貝鮹王という。次に竹田王、またの名を小貝王という。次に小治田王、次に葛城王、次に宇毛理王、次に小張王、次に多米王、次に櫻井玄王。<八人である。>また伊勢の大鹿の首の娘、小熊子郎女を娶って生んだ子は、布斗比賣命、次に寶王、またの名を糠代比賣王という。<二人である。>また息長の眞手王の娘、比呂比賣命を娶って生んだ子は、忍坂の日子人の太子、またの名を麻呂古王という。次に坂騰王、次に宇遲王。<三人である。>また春日の中若子の娘、老女子郎女を娶って生んだ子は、難波王、次に桑田王、次に春日王、次に大俣王。<四人である。>

 

真福寺本にはこの初めに例によって「御子」とある。○この天皇の後の漢風諡号は、敏達天皇という。○他田宮(おさだのみや)。【「他」の字を旧印本に「池」と書いたのは誤りである。】「他」は「おさ」と読む。書紀に「譯語(おさ)」と書かれた意味である。【推古紀に「通事」ともある。また欽明紀、新撰姓氏録、和名抄の筑前の郷名に「曰佐」とあるのは仮名である。ただしこれも韓国から見て書いた字だろう。この「曰」を「日」と書いたのは誤りだ。「おさ」というのは、ある人は韓語だと言う。そうでもあるだろう。また「他」と書くのも韓国から見てのことか、それとも皇国でのことで、「隈」を「前」、「股」を「俣」と書くたぐいか。その意味は知りがたい。他国の語を通わせる意味かとも思ったが、そうではないだろう。】和名抄に、駿河国有度郡の郷名にも「他田」というのがあり、「おさだ」と読んでいる。この宮は、延喜式神名帳に「大和国城上郡、他田坐天照御魂(おさだにますあまてるみたま)神社」がある。【持統紀に「皇子大津に譯語田の舎で死を与えた」とある。】この地である。大和志にこの大宮を「同郡、大田村にある」と言っている。【上記の神社も同じ村にあると言う。これは「他田」と「大田」と、読みが似ているので推量で言ったのか、他によりどころがあるのか、おぼつかない。】ある説では同郡の戒重(かいじゅう)と言うところだとも言う。日本霊異記や神明鏡では「磐余の譯語田の宮」とある。帝王編年記では十市郡にあると言う。【上記の大田村も十市郡の境から遠くない。戒重はもう少し郡の境に近い。磐余は十市郡である。】いにしえはこの他田のあたりまで石村(いわれ)と言い、十市郡に属していたこともあったのだろう。書紀に「元年夏四月壬申朔甲戌、皇太子は天皇の位に就いた。この月、百済大井を宮とした。四年・・・この年海部の王家の土地と絲井の王家の土地とを卜った。結果は吉と出た。そこで譯語田の宮を築き、これを幸玉(さきたま)の宮と呼んだ」とある。○壹拾肆歳(とおまりよとせ)。【真福寺本には「十四歳」とあるが、書き方が前後の例と違う。】この年の数は書紀とも同じである。○庶妹は「ままいも」と読む。前にも言った。【伝廿九の四十三葉】○靜貝王(しずかいのみこ)。【「貝」の字は、旧印本他一本などでは「見」と書いており、真福寺本には「具」としてある。みな誤りである。ここは延佳本によった。次に出る二つの「貝」も同じだ。】名の意味は思い付かない。【次の武田王のまたの名の「小貝」と並んだ名か。それなら「貝」は借字で、別の意味があるだろう。それとも「貝」は別名の「貝鮹」による名で、「靜」は賞めて言った名か。万葉巻十一(2352)に「新室蹈靜子(にいむろふみしずのこ)」とあるのも、「蹈」までは序で、「靜子」は賞めた名と思われる。】○貝鮹王(かいだこのみこ)。【「鮹」の字を「鮪」と書いた本は誤りである。ここは真福寺本、延佳本によった。】和名抄に「日本紀私記(弘仁私記)にいわく、貝鮹は『かいだこ』」とある。【このものは貝の内にある小さな鮹で、両手両足を殻の外に出して、海の中を泳いで行くものだと言う。】主計式に「貝鮹の脂六斤」などが見える。この物に由縁があって名になったのだろう。○竹田王(たけだのみこ)。名は乳母の姓か。新撰姓氏録に「竹田臣」、「竹田連」などがある。または地名か。十市郡に「竹田神社」が延喜式神名帳に見え、「竹田の原」、「竹田の荘」などが万葉巻に見える。書紀の推古の巻に「卅六年、天皇が崩じた。・・・遺詔に『今年五穀が実らず、百姓は大いに餓えている。だから私の陵を作らず、厚く葬礼すべきではない。竹田皇子の陵に葬ればよい』。壬辰、竹田皇子の陵に葬った」、扶桑略記に「竹田皇子の陵は河内国石川郡の磯長の山田」とある。○小貝王(おかいのみこ)。名の意味はまだ思い付かない。書紀の雄略の巻に「小鹿火(おかい)の宿禰」という人も見える。○小治田王(おはりだのみこ)。乳母の姓か。新撰姓氏録に「小治田朝臣」、「小治田宿禰」、「小治田連」などがある。それとも地名か。【後に出る。】○葛城王(かづらきのみこ)。前に同じ名がある。書紀にはこの人はない。○宇毛理王(うもりのみこ)。この姓は見当たらないが、乳母の姓だろう。【延喜式神名帳に「阿波国勝浦郡、宇毛理比古(うもりひこ)神社」がある。】○小張王(おはりのみこ)。「小」の字は、書紀では「尾」と書いている。乳母の姓である。この姓は前に出た。○多米王(ためのみこ)。乳母の姓である。新撰姓氏録に「多米連」、「多米宿禰」などが見える。用明天皇の子にも同名がある。○櫻井玄王(さくらいのゆみはりのみこ)。欽明天皇の子にも同じ名があった。名の意味はそこで言った。【それは書紀のようにただ「櫻井王」だったのだろうが、ここの名から紛れて、そちらの王も「玄王」と言ったのだろう。】書紀に「冬十一月、皇后廣姫が亡くなった。五年春三月、豊御食炊屋姫尊を立てて皇后とした。皇后は二男五女を生んだ。一番上を菟道貝鮹(うじのかいだこ)皇女、【またの名を菟道磯津貝(うじのしずかい)皇女という。】この皇女は東宮(ひつぎのみこ)聖徳に嫁した。二番目を竹田皇子、三を小墾田(おはりた)皇女、これは彦人大兄皇子に嫁した。四にウ(廬+鳥、茲+鳥)守(うもり)皇女、【またの名は輕守(かるもり)皇女】、五が尾張皇子、六が田眼(ため)皇女、この皇女は息長足日廣額(おきながたらしひひろぬか)の天皇に嫁した。七に櫻井弓張皇女という」とある。○伊勢大鹿首(いせのおおかのおびと)は延喜式神名帳に「伊勢国河曲郡、大鹿三宅(おおかのみやけ)神社」がある。この地から出た姓である。続日本紀十七の詔に「伊勢の大鹿の首云々」、【また廿三、卅四に「大鹿臣子虫」という人が見えるが、同姓か異姓か。】新撰姓氏録に【未定雑姓】「大鹿の首は津速魂の命の三世の孫、天兒屋根命の子孫である」とある。【大神宮雑事記の治暦三年のところに、「河曲の神戸の預、大鹿武則云々」、東鑑に伊勢国に「大鹿俊光」、「大鹿兼重」、「大鹿國忠」などという人が見える。】○小熊子郎女(おくまこのいらつめ)。名の意味は思い付かない。書紀には父の名が小熊で、この娘の名は「菟名子(うなこ)夫人」【「夫人」の名は例の漢文風に作って書いたものだろう。】とある。「くま」と「うな」の読みが似ているので、どちらにせよ紛れたのだろう。○布斗比賣命(ふとひめのみこと)。「ふと」は称え名である。【「命」とあるのは珍しい。】○寶王(たからのみこ)。名の意味、同じ名の例などは前に言った。【伝廿九の四十八葉】○糠代比賣王(ぬかでひめのみこ)。【旧印本、他一本、また一本などに「王」の字がない。ここは真福寺本、延佳本によった。】「ぬか」ということが男女の名によく出てくるのは、どういう理由によるものか分からない。【「糠」は借字である。】書紀に「次に采女伊勢の大鹿の首小熊の娘、菟名子夫人は太姫皇女【またの名は櫻井皇女】と糠手姫皇女とを生んだ。【またの名は田村皇女。】」とある。○息長眞手王(おきながのまでのみこ)。【諸本に「眞」の字がない。ここは延佳本によった。このことは前に言った。】前に出た。【この巻の八葉】○比呂比賣命(ひろひめのみこと)。称え名だろう。書紀に「四年春正月・・・同年冬十一月、皇后廣姫が薨じた」、諸陵式に「息長の墓は、舒明天皇の祖母、名を廣姫という。近江国坂田郡にある。兆域は東西一町、南北一町、守戸三烟」とある。○忍坂日子人太子(おさかのひこひとのみこと)。「太子」は「みこのみこと」と読むべきだということは、前に言った通りだ。【伝卅九の十八葉】「忍坂」は住んでいた所だろう。この地は前に出た。【伝十九の二十九葉】「日子人」は称え名で、景行天皇の子にも「日子人大兄王」というのがいた。【この名も、書紀には「彦人大兄皇子」とある。】名の意味はそこで言った。【伝廿六の十一葉】書紀の孝徳の巻に「皇祖大兄【彦人大兄という】」とある。【かの天皇の祖父王である。】この王が太子に立てられたことは、書紀には見えないが、【だからある説にここの「太子」の字を「大兄」の誤りかと言うのは、かえって良くない。】用明の巻にも「太子彦人皇子」とあり、舒明天皇の父王であるから、その時代に追尊して「太子」と言ったのだろう。諸陵式に「成相の墓は押坂の彦人大兄皇子である。大和国廣瀬郡にある、兆域は東西十五町、南北廿町、守戸五烟」とある。【こんなに兆域が広いのはどういう理由があるのだろうか。地形によったのだろうか。大和志に「平尾村にある。王子冢と言う。疋相(ひきそう)村と隣り合う。墓の保鳥に小さい冢が六つある」。】新撰姓氏録【未定雑姓】に「御原眞人は淳名倉太珠敷の天皇の皇子、彦人大兄王の子孫である」とある。○亦名(またのな)。【諸本「亦」の字を落としている。ここは真福寺本、延佳本によった。】○坂騰王(さかのぼりのみこ)。東大寺古文書の中に、「大和国添上郡、酒登荘」というのが見える。この地名だろう。○宇遲王(うじのみこ)。【「遲」の字は、諸本で「庭」に誤っている。今は一本によった。】乳母の姓だろう。新撰姓氏録に「宇治宿禰」【また「宇遲部」も】ある。書紀に「七年春三月、菟道皇女を伊勢の祠に侍らせた。池邊皇子に犯され、事が発覚して解かれた」とある。○三柱(みはしら)。【この二字は諸本にない。ここは一本によった。】書紀に「四年春正月、息長眞手王の娘、廣姫を立てて皇后とした。これは一男二女を生んだ。最初は押坂彦人大兄皇子と言い、【またの名は麻呂古皇子】、二は逆登皇女と言い、三は菟道磯津貝皇女という」とある。この磯津貝という名は、伝えの紛れだろう。【というのは、前に「菟道貝鮹皇女、またの名は菟道磯貝皇女」とあるのに、兄弟の中に全く同じ名はありそうにないからだ。前にあるのはこの記も同じだから、誤りではない。ここの名は、この記に「宇遲王」と見え、書紀にも七年のところでは「菟道皇女」とあるから、前のと紛れて誤ったのだ。ともに「菟道」と言ったからである。】○春日中若子(かすがのなかつわくご)。この「春日」は地名のように聞こえるのに、書紀には「春日の臣」とあるから、やはり姓か。「中若子」は書紀に「仲君(なかつきみ)」とあるから、「若」の字は「君」を誤ったものか。いずれにしても適切とも聞こえない名である。【書紀には「わか」には「稚」の字だけを用いているから、「若」の字は「君」の誤りではない。ただし「君」の下に「子」の字が脱けたのか。「仲君」という名はどうにも収まりが悪い。「吉彌候部(きみこべ)」という姓もあるから、君子という名はあるだろう。続日本紀廿に「君子部の姓を改めて、吉美候部とした」とある。新撰姓氏録に「吉彌候部」があるのを、今の本では「候」を「隻」に誤っている。】○老女子郎女(おみなこのいらつめ)。「老女」は「おみな」と読むことは、前に言った通りだ。【伝九の十八葉】続日本紀十三に「紀の朝臣意美那(おみな)」、「家原の音那(おみな)」などという人も見える。【書紀にこの名を「老女君夫人」とある「君」の字は、類聚国史には「子」と書いているから、「君」の字は「子」を誤ったのだろう。これによってみると、父の名の「君」の字も、「子」を誤ったものでもあるだろう。「仲子」という名には例がある。また「藥君」の「君」も「子」の誤りか。この記に「郎女」とあるのを「夫人」と書いたのは、例の漢文風である。】○難波王(なにわのみこ)。乳母の姓である。新撰姓氏録に「難波忌寸」、「難波」、「難波連」などがある。この王は崇峻紀にも見える。新撰姓氏録に「路眞人」、「守山眞人」、「甘南備眞火地」、「飛多眞人」、「英多眞人」、「大宅眞人」、「成相真人」などはこの王の末裔と見える。また橘朝臣もこの王の末裔である。【新撰姓氏録に、「橘朝臣は、甘南備の眞人と同祖、敏達天皇の難波皇子の息子、贈従二位栗隈王の息子、治部卿従四位下美努王、美努王が従四位下縣の犬養の宿禰東人の娘、正一位縣の犬養の宿禰三千代夫人を娶って左大臣諸兄、中宮大夫佐爲宿禰、贈従二位牟漏女王を生んだ。・・・和銅元年十一月己卯、大嘗會の廿五日癸未の曲宴に於いて、橘宿禰の姓を太夫人に与えた。天平八年十二月丙子、参議従三位行左大辨葛城王に詔して、橘宿禰諸兄を与えた」とある。続日本紀十二の「天平八年十一月丙戌、・・・壬辰云々」を考えるべきである。十八に「左大臣正一位橘の宿禰諸兄に朝臣を与えた」とある。また万葉巻六の卅二葉(1025のことか)を考えるべきだ。】○桑田王(くわだのみこ)。乳母の姓だろう。当時この姓があったのだろう。【新撰姓氏録に「桑田眞人」があるが、これは天皇の孫の子孫とあるから違う。】地名ではないだろう。【丹波国に桑田郡がある。】後に同名がある。○春日王(かすがのみこ)。地名だろう。【この二人の順序は、書紀とは違う。】この王は崇峻紀に出る。新撰姓氏録に「香山眞人は諡敏達の息子春日王の子孫である」、「春日眞人は、敏達天皇の皇子、春日王の子孫である」、「高額眞人は春日眞人と同祖、春日王の子孫である」とある。○大俣王(おおまたのみこ)。乳母の姓か、地名か、はっきりしない。さらによく考えるべきである。玉穗の宮の段に同じ名が見え、後にも同名の人【女王である。】がある。舒明紀に「八年秋七月、大派(おおまた)王云々」、皇極紀にも見える。新撰姓氏録の「茨田眞人は、敏達天皇の孫、大俣王の子孫である」、【「孫」というのは誤りだろう。】書紀に「四年春正月・・・この月に一夫人を立てた。春日臣仲君の娘、老女君夫人【またの名は藥子娘(くすりこのいらつめ)という。】は三男一女を生んだ。一に難波皇子、二に春日皇子、三に桑田皇女、四に大派皇子という」とある。

 

此天皇之御子等。并十七王之中。日子人太子。娶2庶妹田村王亦名糠代比賣命1。生御子。坐2岡本宮1治2天下1之天皇。次中津王。次多良王。<三柱>又娶2漢王之妹大俣王1。生御子。智奴王。次妹桑田王。<二柱>又娶2庶妹玄王1。生御子。山代王。次笠縫王。<二柱>并七王。

 

訓読:このスメラミコトのみこたち、あわせてトオマリナナハシラませるなかに、ヒコヒトのミコのミコトは、ままいもタムラのミコまたもみなはヌカデヒメにみあいまして、ウミませるミコ、オカモトのミヤのましましてアメノシタしろしめししスメラミコト。つぎにナカツミコ、つぎにタラのミコ。<みばしら。>またアヤのミコのいもオオマタのミコにみあいまして、ウミませるミコ、チヌのミコ、つぎにいもクワダのミコ。<ふたばしら。>またままいもユミハリのミコにみあいまして、ウミませるミコ、ヤマシロのミコ、つぎにカサヌイのミコ。<ふたばしら。>あわせてナナハシラ。

 

口語訳:この天皇の子は全部で十七人いた。その中で日子人太子が庶妹田村王、またの名を糠代比賣命というのを娶って生んだ子が、岡本宮に住んで天下を治めた天皇である。次に中津王、次に多良王。<三人である。>また漢王の妹、大俣王を娶って生んだ子が、智奴王、次に妹の桑田王。<二人である。>また庶妹の玄王を娶って生んだ子は、山代王、次に笠縫王。<二人である。>全部で七王いた。

 

十七王之中(とおまりななはしらませるなかに)。これは上の例によると「之」の上に「此」の字が落ちたのかとも言えるが、日代の宮の段などにも「并八十王之中云々」というのがある。○田村王(たむらのみこ)。【この上には「寶王」とあるから、この記も書紀も、「村」の字は「から」の誤りかとも思ったがそうではない。】書紀にも「糠手姫皇女、またの名は田村皇女」とある。田村は地名だろう。というのはその生んだ子の名も田村皇子【舒明天皇】と書紀にあるから、母の住んだ地にその御子も住んだように思われるからだ。それは新撰姓氏録【吉田連の條】に「奈良京田村の里」【続日本紀十八に「藤原朝臣仲麻呂の田村の第」、また廿に「田村の宮」、卅七に「田村の後宮」などがあるのもこの地だ。】とあるところだろう。諸陵式に「押坂の墓は田村の皇女、大和国城上郡、舒明天皇の陵内にある。守戸なし」とある。【書紀の皇極の巻に「二年九月、吉備嶋の皇祖母命が薨じた」とあるのをこの田村皇女だという説があるのは、「祖母」の字で誤ったのである。「祖母」は親しい母の意味で、皇極天皇の母のことである。また天智の巻にも「三年六月、嶋の皇祖母命が薨じた」とあるのは、上記と同じことが誤って重なったのだ。】○「坐2岡本宮1治2天下1之天皇(おかもとのみやにましましてあめのしたしろしめししすめらみこと)」は舒明天皇である。書紀の舒明の巻に「息長足日廣額天皇は、淳中倉太珠敷天皇の孫、彦人大兄皇子の子である。母は糠手姫皇女という。・・・元年春正月癸卯朔丙午、・・・その日に天皇の位に就いた」【位に就く前の名は田村皇子とある。】「十三年冬十月己丑朔丁酉、天皇は百濟宮で崩じた。云々」、皇極の巻に「元年十二月、息長足日廣額天皇を滑谷の岡に葬った。二年九月、息長足日廣額天皇を押坂陵に葬った。【ある本にいわく、廣額天皇を高市天皇という。】」とある。【下の「葬」の前に「改」の字が落ちたのか。】諸陵式に「押坂の内の陵は、高市の岡本の宮で天下を治めた舒明天皇である。大和国城上郡にある。兆域は東西九町、南北六町、陵戸三烟」とある。【太子傳暦には「押坂の内山の陵」とある。この御陵は大和志に「忍坂村の上にある。今は丹冢(たんづか)と呼ぶ」と言い、「押坂の墓は田村皇女、押坂の内の陵は大伴皇女、押坂の墓は鏡王、三つとも舒明天皇の陵の域内にある」と言っている。この御陵は、忍坂の東北の方の山の上にあり、南の方が崩れて大きな岩構えが少し現れて見えているという。】岡本の宮は、書紀のかの巻(舒明)に「二年冬十月、天皇は飛鳥の岡の傍らに遷った。これを岡本の宮という」とあるのがそうだ。【また「八年六月、岡本の宮に災害があり、天皇は田中の宮に遷った」とある。】この宮は斉明の巻に「二年飛鳥の岡本の宮に於いて、さらに宮の地を定め、宮室を作った。天皇はすぐに遷った。これを後の飛鳥の岡本宮という」とあるのもこの地だ。この宮は帝王編年記に「高市郡嶋の東岳本の地がそうだ」と言っている。【「嶋」は今「嶋の荘」というところ、「岳」は今の「岡」というところである。岡本の宮という名は推古紀にも見える。】大和志に「岡村にある」と言う。ここにこの御子たちを挙げた挙げ方は、すべての例と違う。【すべての例は後に天下を治めたと言っても、みな名を挙げておいて、後に至って「某命は天下を治めた」と記してある。ここのように初めから「某の宮に坐(ましまし)て、天下を治めた天皇」と挙げた例はない。】これに二つの意味があるだろう。一つはこれは天武天皇の父親であるから、特に尊んで言ったのか。【この記は天武天皇の詔命によるからである。またその天皇みずからの口から誦んだものならばなおさらである。】二つには、この記は推古天皇で終わり、この天皇【舒明】の御世までは書かないので、後に天下を治めた天皇だから特に例を変えてこう挙げたのか。やはり前の意味だろう。○中津王(なかつのみこ)は、三人のうちの第二の御子だから「仲」と言ったのだろう。【「津」の上に「の」を添えないで読む。】○多良王(たらのみこ)。乳母の姓か、【新撰姓氏録に「多々良公」はある。】地名か、定かでない。○漢王(あやのみこ)。「漢」は「あや」と読む。乳母の姓である。「漢直」は明の宮の段に見える。この王のどの子か、定かでない。斉明紀に同名が【「天皇は初め橘豊日天皇の孫、高向王に適(みあい)まして、漢皇子を生んだ」と】見える。○大俣王(おおまたのみこ)、同名が前に出た。○智奴王(ちぬのみこ)。乳母の姓だろう。皇極天皇、孝徳天皇の父である。書紀の皇極の巻に「天皇は押坂彦人大兄皇子の孫、茅渟王の娘である」、諸陵式に「片岡の葦田の墓は、茅渟皇子である。大和国葛下郡にある。兆域は東西五町、南北五町、守戸なし」とある。○桑田王(くわだのみこ)。同じ名が前にもある。○山代王(やましろのみこ)、笠縫王(かさぬいのみこ)。この二人も、欽明天皇の御子に同じ名がある。この三人が続いて同名があるのは、いささか疑わしい。あるいは伝えの紛れではないか。

 

御陵在2川内科長1也。

 

訓読:みはかはカワチのシナガにあり。

 

口語訳:御陵は川内の科長にある。

 

この上に「此天皇御年若干」という言葉があるところだろう。年齢を記さずとも、「此天皇」という言葉はなければならない。【これまでの例は皆そうだった。殊にここは「合わせて七王」からすぐに「御陵云々」と続いたのでは、日子人太子の御陵のように聞こえるので、どうかと思う。】○この上に旧印本、真福寺本、また一本などには「甲辰年四月六日崩」という例の細注がある。【旧印本では本文に続けて大字に書いている。この注は、年も日も月も書紀とは異なる。】書紀にいわく、「十四年秋八月乙酉朔己亥、天皇は病が重くなり、大殿で崩じた。この時殯宮を廣瀬に建てた。云々」、年は記されない。ある書で四十八と言っている。○川内科長(かわちのしなが)。書紀の崇峻の巻に「四年夏四月壬子朔甲子、譯語田天皇を磯長陵に葬った。これはその母の皇后を葬った陵である」、諸陵式に「河内の磯長の中尾の陵は、譯語田の宮で天下を治めた敏達天皇である。河内国石川郡にある。兆域は東西三町、南北三町、守戸五烟」とある。大和志に「葉室村の西にある」と言っている、この科長に合わせて六つの陵がある。【この天皇、推古天皇、孝徳天皇、また石姫皇后、聖徳太子】延喜式神名帳に「科長神社」もある。

 



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