本居宣長『古事記伝』(現代語訳)44_8

 

 

 

豊御食炊屋比賣命。坐2小治田宮1。治2天下1參拾漆歳。御陵在2大野岡上1。後遷2科長大陵1也。

 

訓読:トヨミケカシキヤヒメのミコト、オハリダのミヤにましまして、みそとせまりななとせアメノシタしろしめしき。みはかはオオヌのオカのえにありしを、のちにシナガのオオミササギにうつしまつりき。

 

口語訳:豊御食炊屋比賣命は小治田の宮に住んで天下を三十七年間治めた。御陵は初め大野の岡の上にあったが、後に科長の大陵に遷した。

 

真福寺本には、この初めに「妹」とある。○この天皇の後の漢風諡号は推古天皇という。○小治田宮(おはりだのみや)。この地は穴穗の宮の段に出た。また書紀の安閑の巻に「小墾田(おはりだ)の屯倉」、欽明の巻に「蘇我の稻目大臣の小墾田の家」などが見える。この巻に、「泊瀬部天皇五年十一月、天皇は大臣の馬子宿禰に殺された。後を継ぐものがいない。群臣は淳中倉太玉敷天皇の皇后、額田部皇女に踐祚させようと請い、皇后は辞退した。百寮は表を奉って勧めた。三度勧められて、天皇の璽印を受けた。冬十二月壬申朔己卯、皇后は豊浦宮で皇位に就いた。十一年冬十月己巳朔壬申、小墾田宮に遷った」と見える。また皇極の巻に「元年十二月、天皇は小墾田宮に遷った」、孝徳の巻に「小墾田宮云々」、斉明の巻に「元年冬十月、小墾田に大宮を作って、瓦葺きにしようとした」、天武の巻に「小墾田の兵庫」、続日本紀廿三に「小治田宮に行幸した」、また「小治の岡本の宮」、廿六に「紀伊の国に行幸した。・・・この日大和国高市の小治田の宮に到った」、万葉巻十一【二十七丁】(2644)に「小墾田之坂田乃橋之(おはりだのさかたのはしの)」、【今の本は「坂」の字を「板」に誤っている。】日本霊異記に「・・・その雷の落ちたところは、今雷岡と呼ぶ。【右京の小治田宮にある。】」などがある。「小治田」は飛鳥と同じ地で、このころは飛鳥を小治田と言ったのだろう。【というのは、上に引いた続日本紀に「小治田の岡本の宮」と言っているのは、そのまま飛鳥の岡本の宮と聞こえ、日本霊異記に「雷岡」とあるのは、今も「雷土(いかづち)村」と言って、飛鳥の神奈備山というところだ。また万葉に「小墾田之坂田乃橋」とあるのと、用明紀・推古紀に「南淵の坂田寺」とあるのとは同地で、今飛鳥の東南の方に近く南淵村、坂田村などがある。これらを考えると、飛鳥の地を広く小治田と言ったのだろう。この小治田の宮を大和志では「豊浦村にある」と言っている。豊浦村も近い地ではあるが、この天皇が初めに住んだ豊浦宮こそその村の辺りにあるだろう。小治田宮は、今の雷土村、飛鳥村、岡村、坂田村などのあたりに地の内にあっただろう。ある説に十市郡の大福(だいぶく)村がその地だというのは違う。】○參拾漆歳(みそまりななとせ)。【真福寺本には「卅七歳」と書いてある。】この年は、即位の年から数えたものだ。○ここに旧印本、真福寺本、また一本などに「戊子年三月十五日癸丑崩」という例の細注がある。【旧印本では本文である。真福寺本では、癸丑の後に「日」の字がある。旧印本では「年」の字を「歳」と書いている。ここは真福寺本、ほか一本によった。前の例がそうだからである。】年と月は書紀と合う。十五日というのは違っている。【癸丑は書記に合う。この細注に干支を記したのは、前に例がないから、これは書紀によって後で記したものではないだろうか。元からの注であれば、書記と干支の伝えが異なっている。書紀は丁未朔であるから、癸丑は七日である。この細注では己亥朔である。】書紀に、「三十六年春二月、天皇は病に伏せた。三月丁未朔壬子、天皇の病がひどくなり、癸丑に崩じた。【ときに年七十五】直ちに南庭で殯した」とある。【この天皇の年紀は、書紀に記されたのに違いがある。崩じた時七十五ならば、欽明天皇の十五年に生まれたことになる。ところが敏達天皇の五年に皇后に立った時、十八歳とあるのはどうか。その年は廿三歳に当たる。また三十四歳の時敏達天皇が崩とあるのも違う。かの天皇の崩の年は三十二歳に当たり、立后十八歳とすれば二十七歳に当たる。どうか。崇峻天皇崩の年に三十九歳というのは合ってはいるが、三十四歳云々とは合わない。】ある書に「春秋七十三、あるいはいわく七十、あるいはいわく八十五」と言っている。○大野岡上(おおぬのおかのえ)は、書紀の敏達の巻に「十四年、蘇我大臣馬子宿禰は、大野丘の北に塔を建てて拝んだ。云々」とある地だろう。【大和志に「高市郡の廃大野の丘の塔は、和田村に礎石が今も残る。敏達天皇十四年・・・即ちこれである」と言っている。】また天武の巻に、「・・・大野に到って日が暮れた。夜半におよんで隱(なばり)郡に到った」、【この大野は山邊郡で、大和から伊賀の名張へける道で、今も大野村、大野寺がある。承元三年三月、後鳥羽上皇の行幸があった、宇陀郡の大野の石仏というのがこれである。宇陀郡の境に近いところだ。】また諸陵式には「大野の墓は、大和国平群郡にある」【この墓は大和志に「高安村にある」と言っている。】などもあるが、これらではないだろう。○科長大陵(しながのおおみささぎ)。【師は「大」の字は「上」の誤りかと言ったが、それは科長中陵があるからである。しかしこれは科長の陵のうちで、大きかったから「大」と言ったのだろう。】書紀に「天皇が崩じた。・・・先にこの天皇の遺詔にいわく、『今年五穀が実らず、百姓は大いに餓えている。私のために陵を作り、厚い葬儀を行うことはなくせ。竹田皇子の陵に葬れば宜しい』。壬辰、竹田皇子の陵に葬った」とある竹田皇子の陵がどことも記されていないのはどうか。これが大野の陵か、科長の陵か、定かでない。【この記によると、竹田皇子の陵は大野の岡だろう。後に科長に改葬したことは、書紀では漏れたのだろう。かの遺詔で、民の苦しみを思って、厚く葬ることを止めさせたのに、科長は「大陵」とあるから、たいへん大きなものだったように聞こえる。初めに葬った陵ではないだろう。それを扶桑略記に「竹田皇子の陵は河内国石川郡、磯長の山田」と言っているのは、この天皇の御陵によって言ったのだろうから、よりどころにはならない。】諸陵式に「磯長の山田陵は、小治田宮で天下を治めた推古天皇である。河内国石川郡にある。兆域は東西二町、南北二町、陵戸一烟、守戸四烟」とある。【扶桑略記に「康平二年六月二日、河内の国司が『盗賊が推古天皇の山陵を暴いた』と言上した」と言う。】大和志に「南山田村にある」と言っている。【前皇廟陵記にも同様に言っている。】

 

古事記下巻終

(終の字はない本もある。また巻の字も共にない本もある。)

 



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