このページの主な項目
架空説とはどんなものか
天皇の妻子
穂積臣の批判?
架空説への私見










初期天皇架空説


古代天皇は架空か

 日本書紀は謎の多い書物である。今日の歴史家は、古代天皇の部分はほとんど造作だという。あの天皇もこの天皇も実在しなかった、みんな書紀編纂者たちが創作したと考えるのである。たとえばWikipediaには「古代天皇の実在を証明することは難しいだろう」と述べられている。それが大方の見方のようだ。

 だが最近、私は歴史家たちの言うことは疑わしいと思うようになった。普通、歴史的人物は、文献に出ていること自体が実在の証明であって、それ以外の物的証拠は必要としない。たとえば私たちはヒトラーについて、疑いもなく実在した人物として論ずることができる。しかしほとんどの人は、彼が実在した物的証拠を持っているわけではない。示せるのはせいぜい何か本に書いてあるということだけである。私の所有物には、ヒトラーに関してまとまった記述や論述のある書物はない。実を言えば、多少とも誇張や創作を交えた物語にヒトラーが登場する場合が多い。

 もちろん、ヒトラーの実在性を疑う人などいるはずはなく、実在の証拠を出せと言われることもない。それでも「虐殺はなかった」などと言う人はいる。戦勝国側によって「悪の極致」とされ、まるで悪魔が人間の姿をまとって現れたような扱いであるから、疑問を持つ余地はある。最近読んだ小説にはヒトラーの隠し子がいて、その人物がやがてアメリカ大統領になるというパラレルワールドものがあった。ヒトラーの遺伝子を持つと悪魔になる、と思っている人は少なくないようである。そうした考えは迷信よりもっと悪いものだ。

 当時のドイツ人は、自分たちの利益が、国内に入り込んだ他民族によって奪われているということをひしひしと感じていた。マックス・ウェーバーのフライブルグ大学教授就任講演では、主としてポーランド国境においてドイツが経済的に侵食され、「低い段階の精神しか持たないスラブ民族が、低級であるが故に競争に打ち勝ち、もっと高貴な精神を持つドイツ民族の生存を脅かしている」と警告し、こうした民族を排除すべきだと述べた。スラブをユダヤに置き換えれば、ナチスの主張にそっくりである。もちろん、ナチスはユダヤだけでなくポーランド人も迫害した。当時のドイツ人は、みんながこうした憂いを抱えていたのである。ヒトラーはその「空気」にうまく乗ったのだ。政権奪取はクーデターに近い乱暴なやり方だったが、彼の政権下でドイツ経済はめざましい回復をとげ、失業率は劇的に低下した。だから当時のドイツ人はヒトラーを「キリストの再来」とまで崇めたのだ。だが彼の歩んだ道が少しでも違っていれば、悪魔でも独裁者でもなく、ちょっと風変わりで孤独な芸術家(画家)に終わっていただろう。

<架空説とはどんなものか>

 私が初めて日本の歴史を学校で教わったとき、日本書紀は非常に疑わしい書物であり、初期天皇はすべて架空の存在だと説明された。「こんなん信じたらアカンで」と言いながら、先生が話したところによれば、その論拠は異常な長寿、事績記事の欠如(つまり欠史)、諮号の後代性などである。要するに「後代の創作と考えれば説明が付く」ということであって、何か具体的な証拠に基づいて言うのではない。文献こそ証拠だという立場で言えば、古代文献のすべてが、初期天皇は実在したという前提に立っていることは明白であり、したがって歴史学的には実在した証拠があることになる。

 最近の歴史教育では、古代天皇はほとんど姿を消しているらしい。卑弥呼の時代の次に、いきなり聖徳太子時代になる。架空説、造作説が有力になり、日本の古代史はほとんど信用できないというので、中国文献を継ぎ合わせて記述しているのである。

 この文を読む人の中にも、古代天皇についてはほとんど知らない人があると思うので、表に整理した形で書いてみよう。

代数

諮号

即位時年齢

在位期間

崩御時年齢

事績記事

子供の数

~武

51

76

127

即位前記(東征)のみ

男3

綏靖

51

33

84

即位前記のみ

男1

安寧

29

38

67

なし

男2

懿徳

43

34

77

なし

男1

孝昭

30

83

113

なし

男1

孝安

35

102

137

なし

男1

孝霊

52

76

128

なし

男4女2

孝元

59

57

116

なし

男4女2

開化

51

60

111

なし

男3

10

崇神

51

68

119

四道将軍派遣など

男6女5


 神武天皇はともかく、二代目から九代目までは在位期間のわりには事績記事が少ない。これを欠史という。百年も在位して、何事もなかったとは信じがたい。もっと後の用明天皇は在位わずか二年で天然痘(?)のため早死にしてしまったが、いろいろなことがあったように伝えているのだ。名前だけでっちあげた天皇で、実在しなかったとする説の根拠の一つである。

 それでも古代天皇の実在を認めるとして、書かれていることは事実なのか、本当に歴史文献として信頼が置けるのか、となると議論の余地がある。少なくとも、不自然な記述に対して別の解釈を試みることには、意義があるだろう。たとえば神武天皇の即位年を紀元前六百六十年に置いていることは、明らかに誤りである。考古学的証拠とは全く合致しないと思うからである。編纂者たちも確かな史料を持っていなかったはず(紀元前百年よりも前には、年の干支を記載した史料は存在しない)なので、それをでっち上げと考えてもいい。だがその誤りはなぜ起きたのか?

 現代の歴史家のように「初期天皇はすべて虚構だ」という仮定を前提に置けば、記事内容を論じるのも無意味になる。しかしすでに述べたように、本当に「虚構だ」と断定する証拠はどこにもない。津田博士の論考にも、具体的な証拠は示されていない。単に「虚構だと考えても説明は付く。その虚構は後代に起きたことを古代に起きたかのように作ったのだろう」という推論に過ぎない。現在伝わる日本書紀は、最良と思われる岩波古典文学大系本でも、平安時代の写本だ。成立当初のままとは考えがたく、後代に「修正」されたり加筆されたりした可能性がある。桓武天皇は日本書紀を改削させたそうである。すると、後代的なものが古代の記述に紛れ込むことはありそうなことである。それはすべて虚構だという「証明」にはならない。あくまで「そういう説明も可能だ」という仮説なのである。

 もし日本書紀をもっと詳細に読み、たとえば後代でなければ起こりえなかったことを発見すれば、それは後代の造作と言ってもいい。しかし「天皇」呼称が後代的であるからといって、初期天皇は架空の人物だとは言えないだろう。また崇峻紀や推古紀に「駅使(はいま)」という言葉が現れても、「当時はまだ律令制の駅馬制度がなかった」という理由で、「造作であり信用できない」という結論にはならないであろう。駅馬制が布かれた時点では、もうすでに実態として、駅馬に近い馬の使い方が行われていただろうし、日本書紀編纂の頃にはもう駅馬の制があったから、「馬を乗り継いで早駆けした」という伝承があれば、それを「駅使」と表現するのは不自然ではない。

 王とか大王という呼称も、その王が生きていたときの呼称ではないかも知れない。「西武王国」とか「松下王国」とか言っても、その創始者が初めから大王として生まれたわけではない。王国が成立したからこそ王になるのである。すると、初代天皇の~武は、初めは天皇どころか、王ですらなかった可能性もある。Wikipediaには、~武の業績は「とても一人の人物が行ったことと思えないから神話に過ぎない」などと書いてあるが、冷静に読めばそれほど超人的なことは書かれていない。

 書紀編纂時には、天皇家の初代をいくぶん神格化する傾向が生まれていた。したがって余計な修飾が加わっているのはやむを得ない。たとえば安芸の埃の宮(えのみや)といった呼称である。それが海辺の貧弱な掘っ立て小屋に過ぎなくても、後代の目から見れば「大王が住んだ場所だから宮殿だ」となる。松下幸之助の生誕地に石碑を建てる感覚と同じである。松下幸之助は神ではないのに、後代はあたかも神が降臨したかのように、その場所に記念碑を建てるのだ。これを神格化という。それは必ずしも造作ではない。その神格化された結果の修飾を取り除いてみれば、もっと単純な「事績」が見え、「一人の人物が行った」こととして納得できるのである。たとえば、~武は大和入りの後、事績らしい事績がない。記事のほとんどは、「東征」の記述である。「皇軍」という飾られた文字を単に「~武一行」と考えれば、どうやら~武は大和を制圧したというより、やっとの思いで大和に住むことを許されたと考える方が理にかなっている。

 仮に造作だったとしても、その動機は何だったのか?歴史学者は「国の起源を古く見せるためであり、それによって天皇を権威づけた」と言う。なるほど明治以降の皇国史観では「天皇家は古いのだ、だからアリガタイと思え」という教育が行われたらしいが、書紀編纂当時にもそういう考えがあっただろうか?書紀には、大和の地には神武が入り込む以前、すでに饒速日(ニギハヤヒ)命一族(後の物部氏)が住んでいて、河内など周辺にも勢力を伸ばしていたらしいことが述べられている。当時、大和の大王は饒速日命一族の長である可美真手命(ウマシマデノミコト)だったのだ。古いほどアリガタイのであれば、彼は天皇家よりアリガタイことになるだろう。

 ここで余談だが、私が中学の二年生だった頃、「天皇家は世界一古い王家である。故に天皇制は維持しなければならない」と力説する同級生がいた。もう戦後の高度成長期のことである。当時はむしろ「古いものは何でも悪い」という考え方の方が有力だった。私は「世界一古い」ということと「維持しなければならない」という二つの命題を「故に、だから」という言葉ですんなりと接続できるような論理的結びつきはないと感じた。というよりむしろ、そうした過去を一度精算して(つまり天皇制を廃止して)、大統領制の国を作った方がいいのではないかと思っていた。

 といっても当時の私には、「大統領」と「総理大臣」の区別は付いていなかった。天皇が実は国家元首であり、総理大臣はその元首に仕える「臣下」であることが、学校では十分に教えられていなかったからだ。現在の憲法の枠組みの中では、「臣下」などというものは存在しないはずである。すべての人間は平等であり、天皇も人間なのだ。だから日本の憲法には、国家元首が誰であるかは明記されていない。日本人は、天皇が国家元首かどうかは分からない。首相が元首だと思っている人も少なくないが、首相は総理大臣であって、元首の臣下にすぎない。諸外国は明確に天皇が国家元首だと考えている。現に昭和天皇の大葬の礼では、外国の元首クラス(大統領や国王など)が出席した。日本人がほとんど知らなかった国(たしかブルネイ)の王子様がやって来られたことを憶えている人も多いだろう。首相の葬儀には決してないことである。

 ただし、天皇家が世界最古の王室であることは、事実である。日本書紀に書かれたことをすべて否定して、続日本紀からが本当の歴史だとしても(それに近いことを言う論者もいる)、まだ世界最古である。

 もっとも、明治時代の皇国史観では、南朝正統論が主流だったらしいので、南北朝時代を境に、天皇家は一度途絶えたことになるかもしれない。そうすると現在の北朝系天皇家は、古さではデンマークの王室に次いで、世界第二の王家である。

 古いからアリガタイとか、誇りに思うというのは、個人の自由だ。アイスマンのDNAを調べた人が、やはりアルプス近くの地方に彼の子孫が幾人か住んでいることを発見した。その人たちは「誇りに思うよ」と感想を述べていた。もちろん私も、彼らはそれを誇りに思っていいと思う。だが何を誇るのかということは、それぞれの人によって異なるだろう。古い起源を持つから誇らしいのか?では他の人々は、古い起源を持たないのだろうか?他の人々はどこからともなく、新しく発生したのだろうか?

 かつてアメリカが高度成長を遂げた頃、彼らは「アメリカは若い国だ、ヨーロッパは年老いた国だ、だからアメリカは勝つ力があるのだ」と誇った。日本が生まれたばかりの国であったら、若さを誇るという選択肢もないではなかったのである。

 とは言っても、古代には、というより戦前までは、「若い」という言葉はあまりいい意味に使われなかった。若いとは、愚かである、思慮が浅い、弱々しいというイメージに結びついていた。むしろ「老」の方がいい意味を持ち、智恵がある、強壮でリーダーシップがあるというものだった。かつては若死にが普通で、五十才まで生きていたら、それは生命力が強いということであり、それだけで尊敬に値した。現代の日本人の大半は「若い」というのを賞め言葉だと思っているが、昔は逆だったわけだ。その意味では、日本書紀編纂者が何が何でも古く見せようとしたという可能性はある。ただ彼らは、中国より古いなどとは思っても見なかった。遠慮したということではないだろう。文化、文明において中国が先輩であることは、明らかだった。

 それはさておき、私は「古事記の方が古い、だから古代については古事記の方が正しく伝えているはずだ」といった議論は好まない。後代の研究者の方が、歴史を正しく認識できた事例は少なくないからだ。それに古事記が古いといっても、今から見ればたかだか八年の差なのだ。私に言わせれば「誤差範囲」の違いである。

 もちろん歴史家たちはそれだけで古事記を重視するのではない。現代の書紀否定論者の考えでは、書紀は国家公認の正史だが、古事記は成立後も長く秘匿されていた秘史だった。この「国家公認」であることが、多くの歴史家に書紀をうさん臭いものと思わせ、むしろ「秘史」の中に真相が隠されていると感じさせるのである。

 造作した歴史で当時の古代豪族たちを納得させることができたかどうかも大問題だ。書紀完成の翌年には、早くも第一回書紀講筵が行われたという。これは博士が希望者に日本書紀を読み解いて聴かせるのである。広く公開された書物だったのである。自家の出自についてそれぞれの伝承を持つ豪族たちは、書紀にでたらめなことが書いてあれば、当然抗議したであろう。第一回の博士は、Wikipediaによると、何とあの太安万侶だったという。「釈日本紀」はこの時の博士の名を記さず、この説は出典がよく分からない。とにかく当代超一流の学者が担当していたのは確かだろう。

 当時の本は、まだ数多く印刷されることはなかった。おそらく写本を作らせ、主だったところに配布したと思う。原本に近い本があまり残っていないところから見ると、部数は限られていただろう。しかし当時は貴族の子弟でも、読み書きのできない者が少なくなかったそうである。そこで読み聞かせる必要があった。おそらく文字の読み方を基本から教えるようなものだっただろう。日本紀講筵は、数年がかりで行われたということだ。しかし、それを受講した人物は、年端もいかない少年少女だったのではない。それぞれの氏族のホープのような人物だったはずである。気骨も知識もあっただろうと思う。もし一族の伝承からかけ離れたような話を聞かされたら、「ワシの聞いた話と違う」「何であんなヤツがウチと同格なんだ」「ウチはそんな天皇の子孫じゃない、何代目の天皇の子孫だぞ」と、収拾の付かない騒ぎになったはずだ。

<天皇の妻子>

代数

諮号

即位時年齢

在位期間

崩御時年齢

妃の数

子供の数

子供の子孫

~武

51

76

127

男3

多氏

綏靖

51

33

84

男1


安寧

29

38

67

男2

猪使連

懿徳

43

34

77

男1


孝昭

30

83

113

男2

和珥臣ほか

孝安

35

102

137

男1


孝霊

52

76

128

男4女2

吉備臣

孝元

59

57

116

男4女1

七族の先祖

開化

51

60

111

男3


10

崇神

51

68

119

男6女5



 妃(みめ)とは正后以外の妻である。~武はさておき、二代目から六代目までは妃がなく、子供の数が少ない。男の子が一人だけであれば次の天皇になるわけであるから、余分な子孫は出ない。しかし男の子が複数であれば、皇位に着かなかった兄弟の子孫(皇別氏族)がある。それを右端に書いた。

 この表に挙げた数字は、日本書紀によった。古事記では少し異なっており、たとえば開化天皇については、男4、女1として、その子孫の系譜も詳しい。懿徳の子も男2で、子孫の記述もある。古事記がデタラメということではなく、日本書紀は本文をはしょって書き、失われた系図一巻の中に、もう少し詳しく載せたと思われる。

 二代目綏靖から第六代孝安まで妃を置かなかったのは、貧しかったからであろう。当時はまだ豪族とさえ認識されていなかったと想像される。~武の妃というのは、故郷吾田邑に置いてきた吾平津媛という女性で、後に「皇位」争いの原因となった手研耳命を産んでいる。だがこれについては、私はかなり疑わしく感じている。

 孝霊以降は子供の数が急に増えており、孝霊の娘に倭迹迹日百襲姫命、孝元の息子には大彦命など、古代のビッグネームも見られる。これ以降、正后の他に複数の妃を置いているのは、天皇家の「祖業」が成功を収めて、大和の豪族へと発展を遂げたからである。私はその「祖業」がどちらかと言えば賤しいもので、王家にふさわしいものではなかったために、詳しい記録が残っていたとしても忘れられ、ついには破棄されたのではないかと思う。しかし微賎の者と蔑視されながらも、奮闘努力して後の天皇家の基礎を築いた先祖の記憶は残った。

 実際、余計な装飾を取り除いてみると、大和へ転がり込んだ~武一行は、破滅寸前の惨めな状態だったはずなのである。彼らが将来大和で支配的な力を持つようになる要素は、ほとんどなかった。「東征」と呼び、強大な軍事力で大和を制圧したように書いてあっても、それは後代、~武が神格化されてからの修飾である。実のところは難破して兄たちと大切な船、それに多分武器の大半も失い、道も分からずに熊野の山中に踏み迷っていた、餓えた強盗殺人集団であった。

 これらの子孫の名前は、新撰姓氏録に載っている。皇別というのは天皇からの別れということで、それ以外の有力氏族の多くは「神別」である。理論的には天皇家自体も神別氏族ということになるが、天皇の血を特に尊貴と見て別に立てたわけで、言い換えれば初代天皇を神に等しい存在としているのである。

 古代豪族たちにとっては、自分の血筋こそ何より大切だった。当時は実力など関係ない。高貴の血筋であれば高貴の身分になれる。現代のわれわれは、高貴の血筋から最低最悪の人物が生まれたこともあることを知っている。血筋は能力の証明ではない。だから不合理だと思う。

 だが現代人でも、能力を学歴で測ったりする。学歴が正確に能力に反映していると思う人はいないだろう。博士号を持ちながら仕事をまとめる能力のない人、周囲からリーダーだと思われているけれども、本人は部下が簡単にやってのける仕事がまるでできない、などというケースは枚挙にいとまがない。だが不合理だと思っても、何か基準が必要となれば、学歴で切る、経歴で切る、血筋で切るしかないのである。

 われわれは「その人の能力」と言うとき、実は「その人の未来に行うであろうこと」を言っている。だが未来は誰にも分からない。一人の剣豪が現れて、大勢の盗賊を切り払い、追い払う。「これは天下一の豪傑だ」と思っても、もっと強い剣豪が現れて、あっという間に打ち負かされるかも知れない。優劣は負けるまで分からない。現代人は、「勝つまで分からない」と思うだろうが、事実は逆である。「負けるまで分からない」のだ。あるパイロットが優秀であるかどうか、現代人はそれまでのフライト時間で測ろうとするだろう。フライト時間一万時間のベテランパイロットと、一千時間の中堅パイロットと、どちらが信頼できると思うか?誰でも一万時間飛んだ方が信頼できると思う。だが事実はそうでない。そのパイロットの操縦する飛行機が落ちたときに初めてヘボパイロットだったと判明するのだ。

 言い換えれば、人の評価はすべてその人の過去に対する評価であって、未来への評価ではない。その意味では、血筋で決めるといったこともある程度の合理性はあるのである。血筋が尊ければ、たとえば教育水準も高いだろう。公金が目の前にあるとき、貧しい者よりも豊かな方が目のくらむ度合いは低いだろう。自分より才知の劣ったものが高位に着くと、誰でも「ちくしょう」と悔しく思うが、それが血筋によるのだと知れば、「ちぇっ、しょうがねえな」と、悔しさも半減である。

 反対に、賤しい身分の者が才知だけで登用されたりすると、悔しいどころではない。えこひいきではないか、色仕掛けではないかとやかましい。菅原道真の非運や加賀騒動も、それが原因になった。「才知の評価」が、客観的でないように見えるからだ。これに対し、血筋は動かしがたい客観性を持っている。

 それはさておき、日本書紀編纂者がいい加減な思いつきでデタラメな天皇の名を作ったり削除したりすると、当時の古代豪族にとって耐え難い系譜になってしまうということはお分かりだろう。

 上記の簡単な表からでも、たとえば猪使連(いつかいのむらじ)にとっては、安寧の名が書紀編纂者によってデタラメに作り出されたのだったら、皇別氏族としての誇りも何もあったものではない。現代では猪使連など有力氏族と思えないから、「そんなもの、何とでもなる」と考え勝ちだが、天武の代までは存続していた氏族である。どこかの馬の骨がしゃしゃり出て「実は私は安寧天皇の子孫です」と名乗ったと思うか?その程度で他の氏族達をだませたか?おそらく袋だたきにあって引っ込まされたと思わないか?

 そういえば、最近読んだ本だが、「物部氏は存在しなかった」と主張する人がある。その解析手法は、神の名を一字一字古代朝鮮語に翻訳する(たとえば饒速日の名のニギ・ハヤ・ヒそれぞれを朝鮮語で解釈して並べ立てる)という突飛なものであり、最終的な論旨は「古代天皇は存在しなかった、ゆえに古代天皇に付き従ったという物部氏も存在しなかった」というに尽きる。その「古代天皇は存在しなかった」という前提については全く論証されておらず、学界の定説だから、というわけで「公理」として扱っているのである。

 だが物部氏の子孫は本宗家滅亡後も生きていた。物部守屋の奴の半分は四天王寺の奴となったと日本書紀にあり、明治まで賎民扱いされたらしいが、誇りを持って生き延びたそうだ。守屋の近侍だった捕鳥部万(ととりべのよろず)の最期は、日本書紀では非常な同情をもって描かれ、ただの逆賊のようではない。物部の別れは新撰姓氏録にも掲載されており、まだまだ有力な氏族だったように思われる。

 書紀講筵の受講者の中には、相当博学の人物もいたようである。「釈日本紀」には、日本書紀のある部分が漢籍の引用であると指摘した人物がおり、博士が「未不詳」としか答えられないような質問をする受講者がいた様子が窺える。陰陽五行説や易経を持ち出して説明するのはご愛嬌だ。よく「天照大神は男神だった」と新発見をしたかのように言う人がいるが、陰陽五行説では陽は男、陰は女であって、陽の極である太陽は男神ということになる(中国では父神とする)ので、日本書紀完成直後から性別が疑問とされてきたのが分かる。

 とにかく日本書紀は、完成当時から多くの豪族達の目に触れ、当時の世界観の中で「検証」を経てきたのだ。これに対し古事記は、日本書紀の歴史観が浸透した後でどこからともなく出現した。史料を博捜してまとめた形跡はないが、日本書紀の天皇の系譜を採用しているので、改めて一から検証し直されることはなかった。書紀の「一書」と同じように考えられたのであろう。「古語拾遺」も「漏れたること」を書いた、と言っているが、新撰姓氏録にも「日本紀漏」の名族がある。古事記は系譜の記載に熱心で、日本書紀にはない記載も多い。

 たとえデタラメな歴史であっても、朝廷の権威があれば豪族達を黙らせることができた、と言う人もいる。その人たちは、またしばしば「この『歴史』によって朝廷の権威が確立された」とも言うので、因果関係がずいぶんおかしいが、一応認めておこう。だが当時の古代豪族は、蘇我馬子までは行かないとしても、天皇に直言することを怖れなかった。むしろ天皇家の権威は、古代豪族たちに守られていたというのが真相である。天皇が主張することに関しては何も異議を唱えることができないというのは、明治時代以降の皇国史観教育の下でのことである。

 書紀編纂の頃は、昇殿を許された人たちならば、天皇を直に見て物を言うことができた。持統天皇がその六年の三月、伊勢参りをすると言い出したとき、中納言大三輪高市麻呂は「農事多忙の折りですから、そのような物入りはすべきではありません」と反対した。真相は「伊勢よりも三輪山に参詣すべきだ」と主張したとも言われる。天皇はそれでも伊勢参拝を強行した。大三輪高市麻呂が罰せられた形跡はない。しかし彼は不満のあまり、職を辞してしまった。後に復官運動をしたらしいが、さすがに中納言という高位には戻れなかった。

<穂積臣の批判?>

 唯一書紀への批判らしいことが記録に表れているのは、養老六年正月、穂積臣(ほづみのおみ)老(おゆ)が天皇を名指しで批判して斬刑に処せられることになったという記事である。ただし減刑されて佐渡へ流罪になり、後には流罪も解かれて都に復帰を果たしている(彼は書紀講筵に参加したかどうか定かでないが、学殖ある人物で、独力で日本書紀を読んだのだろうと思う。当時はまだ第一回の書紀講筵が終了していない。自分で最後まで読み切ったのである。都に復帰できたのも、その学殖が買われてのことであると思う)。

 老という名前から、現代人の思う老人のイメージを持ってはいけない。前にも述べたが、戦前までは、老と若とでは老の方がいいイメージだった。穂積臣老は正五位上であり、穂積氏の出世頭であったろう。当時の朝廷は藤原氏を重用し、穂積臣老も藤原宇合に官位で追い越された。それはもちろん面白くなかったに違いないが、それだけで天皇を痛烈に批判することは考えにくい。藤原氏は特別なのである。他の人物に比べると、穂積臣老の出世スピードは、かなり速いほうであった。事件の十二年前には副将軍にも任ぜられている。斬刑に処せられるというのは、よほど痛烈な批判だったのだ。

 それは、穂積氏の最も大切なことが書紀に漏れていたからではないだろうか。穂積氏は熊野の神官の家系であるから、やはり熊野大社にまつわることだったと思う。熊野大社は二カ所あり、一つは出雲大社との関連をあれこれ推測されている島根県の熊野大社である。穂積氏が関係しているのは紀伊の熊野三山である。穂積氏は大族であり、熊野を起点に全国に広がり、その直系の子孫は鈴木氏だったらしい。もっとも、鈴木氏の本家は昭和年代に絶えてしまったそうである。

 紀伊熊野大社の起源や祭神については諸説あり、確かなことは分からない。おそらく最も古い伝承は、高皇産霊尊を祭ったというものであろう。白河本旧事紀には、神武五十八年、熊野山中に高皇産霊尊が顕現したので、熊野三山を開いたという記事がある。熊部血伐狭田(クマベノチチサダ?)命という猟師が熊を追って山中に入ったところ、櫟(いちい)の枝に満月のようにまん丸な、明るく光るものがある。「あなたはどなたですか」と尋ねると、「私は高皇産霊尊だ」と名乗った。この神は筑紫の日子山(英彦山)、淡路の弓玄羽山(諭鶴羽山)を経て紀州の山中に到ったというので、~武が天村雲命に調べさせると、その通りだった。天皇は大いに喜び、改めて狭田命と天村雲命をその櫟の木の下に向かわせたところ、月は三つあった。高皇産霊尊の他に、伊弉諾尊と伊弉冉尊がいたのである。そこで熊野三社を建ててこれらの神を祭った。この熊部血伐狭田命が紀州の穂積臣の祖先となった。

(熊部血伐狭田はここで仮にクマベノチチサダと読んだが、「伐」を「チ」と読むのかどうか、よく分からない。私が読んだのは新国民社の三重貞亮訓注本なのだが、天皇紀は畏れ多いと言うことからか、活字でなく影印である。小さくてあまり鮮明でないため、「伐」につけられた読み仮名がはっきりしない。「キ」かも知れないが、私の目には「チ」のように見えるので、今はこうしておく)

 これとほぼ同じ伝承が熊野大社の社伝にもあるという。ただし時代がもっと下がり、猟師の名も千代包(ちよかね)または千代定(ちよさだ)、近兼(ちかかね)などという。彼が追った動物も熊であったり猪であったりする。書紀にはこの記事はなく、熊野は伊弉冉尊が隠れた場所であり、合わせて素戔嗚尊を祭ったように書かれている。穂積氏の本流には、高皇産霊尊を祭神とする言い伝えがあって、穂積臣老は、それが漏れたことを批判したのかも知れない。真相は今のところ不明である。

 穂積臣老が流された先の佐渡島では、瀬織津媛命という姫神を祭り、信仰を広めたと伝えられる。この神は謎の存在で、日本書紀には登場しない。人によっては『縄文の神』ともいう。起源は那智の大滝の神であったらしい。だから水の神、水分(みくまり)の神である。水分とは、水源からの水を各田に公平に分けるという意味があるようだ。だが天照大神とも並々ならぬ関係があった。書紀神話の一つに、天照大神(一書には稚日女尊=わかひるめのみこと)が機殿で神衣を織っていたとき、素戔嗚尊が斑駒の皮を剥いで投げ入れたので、天照大神は驚いて艪ナ体を突いてしまったという話がある。天照大神は織姫でもあったのである。また「倭姫命世記」では、瀬織津媛命を天照大神の荒魂として荒祭宮に鎮座しているとする(神功紀に出る天疎向津媛=アマサカルムカツヒメは、この女神のことかも知れない)。

 何はともあれ、この穂積臣老の一件を除けば、書紀は特別な批判もなく、各古代豪族に受け入れられたようだ。なお穂積臣老は日本書紀を批判したのでなく、天皇を「名指しで批判した」ということが罪に問われたのである。原文は「乗輿(じょうよ)を指斥(ししゃく)す」となっていて、天皇の乗る輿を指さして非難したという表現である。呪詛に等しい行為と見なされたのであろう。

<架空説についての私見>

 結論を言うと、書紀の古代部分を全くのでっち上げとする現代歴史家の解釈は、おそらく明治皇国史観への反発から生まれた、感情的な議論だろう。戦前は、相当無理のある歴史も、神聖犯すべからざるものとして丸呑みさせられたそうだ。

 その時代に、勇気を持って「古代天皇架空論」を唱えた人がいた。津田左右吉博士である。当時は「とんでもない凶説」とののしられ、学者生命だけでなく、体の命の危険さえあった。津田博士は執行猶予にはなったものの、有罪とされた。裁判官も、天皇について研究することすら許されないような状況は異常だと感じていたという。そのため、当時の「空気」から見ると、格段に寛容な判決になった。だが戦後になると「あれこそ科学的だった、博士は勇気があった」という捉え方が主流になった。

 もちろん、当時の人たちでも、全員が津田博士の説を悪魔が唱えたかのように忌み嫌ったのではない。江戸時代から、日本書紀を読んだ人なら、たとえば町人学者山片幡桃のように、おかしい、おかしいと言ってきたのだ。いわば健全な常識の範囲で議論していたのである。だが時代の「空気」が狂気じみていた。たとえ津田説が正しいと知っていても、敢えて「イケナイ説だ」と訴えようとする人がいた。そうすれば自分の忠誠心を証明することになるからである。ナチスの言うことはおかしいと思っても、周囲の「空気」がナチス支持であれば、自らナチスに入党してまで自分の立場を有利にしようとする人がいたそうだが、それと同じ心理なのだ。「みんなで渡れば恐くない」という。理性的に考えればでたらめであっても、「空気」に従う。みんなと同じ方向に進んでいれば安心なのである。それが普通だとしたら、空気の流れと反対方向に歩くのは勇気のいることだ。

 問題は、いくら勇気があったとしても、それだけで正しいことにはならないのに、津田説の結論部分だけがあたかも公理のように受け入れられていることだ。現代の歴史家の多くは、もはや古代史部分は論ずる必要もないかのような扱いをしている。

 われわれ戦後生まれの現代人は、当時のような教育は受けていない。それどころか、始めから古代天皇架空論に立った日本史を教えられた。現在の高校教科書がどうなっているかは知らないが、参考書を見た限りでは、卑弥呼のあと、あやふやな「倭の五王」に関する記述が続き、聖徳太子が隋の煬帝に「日出処の天子」の国書を送ったという話になっているらしい。それでは天皇家はどこでいつ生まれたのかを探るすべはない。何しろ、日本の古代について、詳しい文献は記紀以外にはないのである。 寧楽遺文なども、古代天皇にまで遡るものではない。辛うじて『新撰姓氏録』があるが、それは古代氏族たちの始祖伝承が記紀の記載とほぼ一致していたことを確認するだけの文献である。ところが書紀に一致する文献が出てくると、歴史家たちは口を揃えて「書紀に合わせて後代に造作された」と主張するので、文献証拠などは一切証拠にならないとされてしまう。それならば、古代史の研究は不可能ではないのか。文献を一切信じないというのなら、何を基礎に据えればいいのか?考古学だろうか?

 実は考古学的資料でも、最も期待されるのは文字資料なのである。稲荷山鉄剣銘のように古い時代の文字が出てくると、大騒ぎだ。日本書紀編纂の原史料、つまり書紀に記された時代に書かれたもの(同時代史料、つまり~武に関しては~武の時代に書かれた文字史料)が残っていないからだ。

 放射性炭素による年代測定は、「14Cの濃度がほぼ一定だ」ということに基づいている。太陽からやって来る粒子によって、大気の上層で作られるからだ。だが全く変動がないわけではないから、測定対象試料に近い年代の、確定したリファレンス試料との比較で決められる。リファレンスの年代を間違っていたら、結果も間違っているのである。土器の製造年代も、正確に決定することはできない。様式の考察から先後関係を決め、古い物からABCDEと並べることができたら、傍証などから、そのいずれかの年代を推定する。たとえばCの年代を一緒に出土した物や地層の深さ、または文字資料で決定する。すると、その他のABDEについてもおよその年代が分かるという。

 太安万侶の墓が発見されたとき、決定的な証拠となったのは墓誌である。多くの古墳の年代が推定に留まっているのは、墓誌がないからなのだ。要するに、文字資料こそ、歴史家たちのよりどころなのである。だが書紀や古事記を切り捨ててしまえば、古代の文字資料はほとんど消え去ってしまう。残念ながら、書紀などが参照したと思われる元の文献は(中国文献を除けば)残っていない。何もない霧の彼方だ。ならば、日本古代史は本来書紀本文の内容検討を出発点とすべきであり、そこに矛盾や不自然さがあれば、「それはなぜか?」と追求するようなやり方の方が本筋ではないだろうか。

 私は単なる古代史愛好家に過ぎないので、碩学たちの緻密な研究には対抗できないが、古代天皇実在説に立って日本書紀を読み直すうち、いくつか奇妙なことに気がついた。それをお話しして行きたい。



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