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辛酉革命説

紀元前660年?


紀元前660年?

 書紀編纂者たちはどの時点から歴史を始めるか、さぞ頭を痛めたことだろう。書紀を神代から始めることは、当然決まっていた。唐では「国の初めの神」を尋ねていたからだ。神代は歴史ではなく、神話だと考えていたに違いないから、年代に気を遣うことはなかった。だが人代となると、年代を確定する必要がある。彼らはおそらく初代「天皇」の神武から、第四十代天武天皇に到る天皇家の系図は持っていた。しかし、それぞれの天皇の在位年代を確定するには無理があった。なぜなら、日本側にそこまでの古い記録は存在しないからである。

 後世、志賀島の金印が現れた。これは後漢の光武帝から賜ったものに間違いない。偽造説もないではないらしいが、金をかけて偽造する意味も全くないので、本物だろう。こういった印章は中央機関に置かれるのが普通で、紛失しないよう厳重に管理されるものであるから、たやすく移動しなかったはずだ。つまり、当時の倭奴国は、志賀島に近い場所にあったと考えるのが自然である。

 だがもちろん、書紀編纂時の大和朝廷は、そんな古い時代のことは知らなかった。中国の史書に合わせて書く他はないのである。

 中国の史書に現れる最も古い記事は、「周の時、天下太平、倭人来たりて暢草を献ず」というものだ。そこで書紀編纂者たちは、周代にさかのぼって「倭=日本」という定式を確実にする必要があると考えただろう。それには、神武天皇は周代の人物だとする必要があった。そのため大和朝廷の始まりを紀元前六百六十年という、およそあり得ない年代に設定した。これは東周(春秋時代)の初め、楚に成王がいた時代である。

 実際は『論衡』にあるのは周の成王の時代のこととしているのだが、それならさらに五百年昔のことである。書紀編纂者たちが架空の天皇を作って年代を古く引き伸ばして書いた、というのが定説だが、彼らはそこまで古くしなかった。あと十人ほど天皇を作って、みんな百年ほど生きていたことにすればいい。なぜそうしなかったのだろうか。

 一つには、書紀編纂者たちは中国古代の正確な年代を知らなかった。もう一つは、『論衡』の前半だけを読んだ。あるいは~武「東征」を周の「東遷」とシンクロさせたかった。または周の成王と楚の成王とを混同した。仮説さえあれば、どうにでも理屈が付くので、これ自体はあまり重視すべきではないのだろう。どうにでも説明できるというのは、どうでもいいことだからだ。

 彼らが正確な年代を知らなかった可能性はある。前漢第三代の武帝より前には、年の干支がなかった。したがって計算で求めたと思われる。

 ところが、日本では立年称元法が基本だったが、中国では踰年称元法を採ることが多かった。立年称元法は、即位の時点で元年となる。つまり前の天皇の末年と、新天皇の元年は重なっている。ある天皇が在位三十年で、次の天皇も在位三十年なら、両方で六十年でなく、五十九年になる。ところが踰年称元法の場合は、即位した時点ではまだ改元せず、翌年の初めに改元するので、年の重なりがない。踰年称元法で書かれた記事をすべて立年称元法だと思い込んだ場合、在位期間をすべて加えた後、代数−1を差し引く計算になる。何十代もあれば、何十年もの誤差が出るわけである。

 私は、実は彼らは年代を適当に引き伸ばしただけで、架空の天皇を作ったのではなかったと考える。架空と見なされている欠史八代の天皇にも、その子孫である古代氏族の名前が続いている。これらの皇別氏族たちには、「自分の先祖は第何代の○○天皇」という伝承があったに違いない。すると、うかつな創作はできないはずなのだ。妙な系譜を押し付けられれば、豪族同士がもめ事になる可能性がある。内戦状態にでもなれば、その豪族たちに守られている朝廷も無事では済まない。

<辛酉革命説>

 紀元前六百六十年は辛酉なので、辛酉革命説に基づく年代設定ではないかという説もある。しかし私は、後に宋に渡った僧「然(チョウネン)の「神武即位は甲寅」という記述に注目したい。

 甲寅は漢の武帝が太初元年(紀元前百四年)、「今年を甲寅(実際には閼逢・摂提格=あっぽう・せっていかく)として、年を干支で書き表すことを始めよ」と詔したと伝えられるように、元来は干支の初めであったと思われる(現在の干支の初めは甲子)。ちなみに、この年は後にリュウキン(リュウは劉、キンは音+欠)の計算で甲寅でなく丙子とされた。彼の計算は百年に一年のずれがあり、現在では丁丑とされる。

 書紀編纂者たちは、神武天皇が東征に出発した年を甲寅としており、「太歳」の表記がある。その七年後に大和入りを果たし、この辛酉年を即位の年として、また「太歳」と記してある。彼らはむしろ立太子の年の甲寅を重視したとは考えられないだろうか。というのは、辛酉の年は、書紀においては、別に大したことは起こっていないからである。西暦紀元元年は辛酉だが、もちろん偶然だ。

 もっとも、「太歳」の記載があっても、それが即位年だったとは限らない。たとえば神武崩御の後、二代目「天皇」の綏靖(スイゼイ)の前に、手研耳命(タギシミミノミコト)が一時的に「政権」を握ったらしい記載があり、その年も「太歳」と書いてある。この年を無視すると、皇位に空白がある。おそらくこの空白を嫌って書いたものだろうが、なぜそんなエピソードを書いたのか、彼らの意図が全く見えない。もちろん、天皇家の権威を高める意義はない。初代天皇の頃から「皇位争い」はあったというだけのことである。何か書き落としてはならない理由があったのではないだろうか?私には手研耳命の「反逆」事件は、ただの造作とは思えない。

 ここまで、「皇位」とか「即位」の語をカッコ付きで書いたのは、「当時は天皇の称号はなかった」というだけの意味ではない。天皇どころか、神武以降、欠史八代の間は大王ですらなかった。せいぜい豪族の片隅に座ることを許された程度であった。と言うより、後に述べるように、当時の大和の実際の大王であったに違いない物部氏の祖先(饒速日命)一族からは、むしろ蔑視されていたのではないかと思っているのである。当時の天皇家は、まだ貧しかったと思われるからである。

 いずれにせよ、紀元前六百六十年という年に、隠された陰謀や暗号の意味はないと思う。この年が「太歳辛酉」というので、那珂通世博士の讖緯説(辛酉革命説)がある。つまり日本書紀編纂者は~武即位を大革命と見て、辛酉のこととしたという説だ。しかし、辛酉の年に革命が起きるということをはっきり述べた三善清行の「革命勘文」は、日本書紀成立より二百年近く後に現れた。しかも辛酉はめでたい年というより、何か忌まわしい争乱が起こりそうな年と考えられていた。そのため辛酉には改元が行われるようになったという。改元すれば命が革まったことになり、難事が避けられると思ったわけだ。それ以前には、辛酉年を特別視した例が見られない。辛酉革命説はかなり根拠薄弱なのである。ちなみに、三善清行は辛酉革命(しんゆうかくめい)だけでなく、甲子革令(かっしかくれい)ということも言っている。これが注目されず、辛酉革命ばかりが強調されるのは、やはり日本の学界では、権威者が何か言うと、みんなが一斉にその口まねをするという傾向があるのだろう。

 立派な実績のある歴史学者が書いた本に、「古代天皇は実在したという論者を見ると、知的怠惰を感じる」という文があった。彼は何を書いているのか?それは歴史学の議論なのか?「知的怠惰」があるから自動的に間違っているのか?単に「そんな説は嫌いだ」と言っているだけなのではないのか?つまり歴史学者は、好き嫌いを基準に「正しさ」を判定しているのではないだろうか?

 非常に疑問なのは、推古紀にある裴世清来日記事である。隋書と日本書紀は全く一致しないと思うのだが、多くの歴史家は相違に目をつぶって、一致しているとする。誰か権威者が「一致している」と言ったらしいのである。疑問を持つのは、いわゆる「九州王朝説」の論者ばかりだ。九州王朝説とは、九州(太宰府付近)に大和朝廷と同じくらいの権力があり、白村江の敗戦まで、その王権が存続したとするものだ。

 私は九州に王権があったという考えを否定しない。ただヤマト王権と同じような国家権力であったと思わない。隋や唐に依存していたもっとゆるやかな連合体であり、唐以外に頼れる権力機構があるならば、簡単にそちらによりかかるようなものだっただろう。九州王朝説の論者は、ヤマト権力が武力で九州を征服して、王権ばかりかその語り伝えたものまで強奪したと考えている。しかし、当時それらしい争いがあった形跡はない。

 私は倭国が窮地に陥り、大和がそれを救援したので、平和的に「王権」委譲が行われたと思う方が、はるかにありそうなことと思う。元来同じ言葉を話していた同じ民族である。中国よりずっと頼りになったのだ。


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