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「狗奴国」はどう読むか
裴世清は大和に来たか
奴国はどこにあったか




魏志倭人伝のもう一つの読み方


魏志倭人伝のもう一つの読み方

魏志倭人伝は書紀に劣らず謎の多い書物である。だが日本の古代の姿を伝える貴重な資料なので、これまで熱心に研究され、様々な読み方が試みられてきた。特に激しい論争は、そこに記載された里程である。邪馬台国はどこにあったかを探る手がかりであるから、関心が集中するわけだ。だが大勢の碩学が論争して決着を付けられないのに、私のような一介の古代史好きが口を挟む余地はない。ここでは、それには触れない。

 ただ一つだけ、そうした論争の中で見落とされていたかもしれないことをお話ししよう。

<「狗奴国」はどう読むか>

 女王国に対立した国として狗奴国の名前がある。普通、われわれはこれを「クナコク」と読んでいる。しかし、魏志倭人伝の当時、本当に「クナコク」と呼ばれていたかどうかは定かでない。「奴」を「ナ」と読むのは古い音にそういう発音があるからだが、魏の時代の発音は、実は分かっていないそうである。

 この「ナ」音を日本人が採用したのは、福岡あたりが古代に「ナの津」「ナのアガタ」と呼ばれていたことを「奴国」の表記に結びつけたためである。その結果、卑奴母離を「ヒナモリ」、倭奴国を「ワナコク」、狗奴国は「クナコク」、華奴蘇奴は「カナソナ」など、すべて「奴」を「ナ」と読んできた。

 なお景行紀には「夷守」の語句が登場し、ヒナモリと読む。書紀編纂者が卑奴母離を「ヒナモリ」と解し、混同させようとしたからであろう。ただし、魏志の卑奴母離は官職のようであるが、日本書紀の夷守は地名のようだ。

 もちろん、奴を常に「ナ」と読んだのでは後代の地名に結びつけることは困難であり、読みを時々「ノ」「ヌ」に変えて恣意的にこじつけることが行われる。

 そこまで恣意的な読みが許されるなら、別な読み方をしてもいいはずだ。狗奴国は「クナコク」と読まれ、「クナ」は「クマ」に通ずるなどと言われて熊襲に結びつけられるのが普通である。しかしこれは「クヌコク」とも読める。「クヌ」などという言葉はないと思われようが、当時の日本列島には、こんにちで言うズーズー弁を話す人たちが広範囲に住んでいただろう。すると、「クヌコク=クニコク」だった可能性もある。

 クニコクとは何か?この国の人々は自分たちの国を単に「国」と呼んでいたのではないだろうか。そこに朝鮮系の渡来人がやってくる。「クヌって何のことだ?」「どうやらナラ(朝鮮語の国)のことらしいぞ」「ナラナラか、あはは、そりゃおかしい」というので、彼らはその地を「ナラ」と呼ぶようになった。旧来の住民もその先進国の人たちに習って、その地を「ナラ」と呼んだ。

 まるでダジャレのような説だが、奈良県には、「ナラ」地名があちこちにあるそうだ。県名一つではなく、小さな村に付いているのである。古代の大和地方にやってきた朝鮮系の人々があちこちに住み、「ここはクヌ村だ」「クヌ丘だ」と言う人々に「クヌ村ならナラ村だ」「クヌ丘はナラ丘だ」と言って聞かせた、というのはありそうなことである。

 狗奴国は邪馬台国の南にあって、国境を接していたとされる。だが、魏志倭人伝は地図を載せているわけではない。必ずしもそう読む必要はないのである。改めて魏志倭人伝を読み直すと、この部分は次のように書かれている。

 次に斯馬国あり、次に巳百支国あり、…(中略)、次に奴国あり。これ女王国の境界の尽くる所なり。其の南に狗奴国あり、男子を王と為す。

 この「其の南」を「邪馬台国の南」と解するのが、一般的な読み方らしい。ここで文脈が明らかに違うと見て、全く切れているとするのである。岩波文庫版「魏志倭人伝その他」でも、訳文はここで切って別項目が始まるかのように編集してある。その結果、邪馬台国が南で狗奴国と国境を接しており、しかも女王国の南の端(極南界)は奴国であるという、訳の分からない地図になる。

 だがことによると、この「其の南」は「女王国の境界の尽くる所」の南、すなわち奴国の南ではないだろうか。「次に斯馬国あり」以降の国々は、全く方位が書かれていない。仮に奴国が女王国から見てはるか東にあったとすると、「其の南」もはるか東方の国の南になる。たとえば奴国が後の丹波(丹後、但馬も含む)であり、女王国に同盟していたとするなら、「其の南」はまさに後の大和である。

 後漢書東夷伝では、『女王国の東、海を度ること千余里、拘奴国に至る』という。『其の南に狗奴国あり』とは方位が違っている。だが、これを逆に読めば、狗奴国は女王国の遙か東の、現在の大和であり、その北側には女王国の極南界(同時に極東界)があった。そこは丹波だった。

 私は何を言っているかというと、大和朝廷は魏志倭人伝の「狗奴国」の後裔ではないかということだ。われわれが日本人のルーツと思いがちな邪馬台国は、結局は歴史の表舞台から姿を消した。その後にいわば「敵役(悪役)」の狗奴国が権力を掌握した、というわけである。もちろん、邪馬台国は跡形もなく消滅したのではない。その痕跡は現在まで残っていると考える。ただ現代の歴史家は、大スター卑弥呼の倭国を主人公と見ていた。その卑弥呼と不和であった狗奴国は、いずれは誅殺されて滅び去る憎い悪役である。主人公が敵役に負けて、彼らがいつまでも栄えましたというような時代劇があるだろうか?

 だが、私は言いたい。歴史はドラマに似ているが、筋書きが決まっているというわけではない。卑弥呼の倭国がいかにひいきでも、実際には「悪役」の狗奴国に敗退して滅んだ可能性はある。

 魏志倭人伝にも、狗奴国に関する記事の他に、別項で「女王国の東、海を渡る千余里、また国あり、皆倭種なり」とある。そこのある国の名を魏志倭人伝は記載しない。普通に読めば、この「また国あり」の国は、狗奴国とは全く別のようだ。それこそ文脈が全く異なっており、一見全く関連がないかのようにバラバラに記載されているのだ。だが後漢書には、この位置(女王国の東、海を渡ったところ)に「拘奴国」があったと記されている。

 そもそも陳寿の地理感覚は混乱していた。彼は実際に倭国に来て見た上で書いたのではなく、単にそれまでの文献をつなぎ合わせたに過ぎない。その文献には「女王国の境界の南に狗奴国があった」、「女王国の東に狗奴国があった」、「女王国の極南界が奴国である」という記述があったのだと思う。当時の中国人は、倭人の地を南北に長く延びた大きな陸地と考えていたそうである。おそらく陳寿は「どうなっているのか」と呟きながら、伝えられたことをおおむねそのまま書き記したのだろう。ただし、彼の考える倭国の地理に合わせたので、東に狗奴国があるというデータがあっても、その国名は書かなかった。その結果、女王国の東、海を渡ったところにある国の名前や女王国との関係が曖昧になったと考える。

 実際は、女王国から東に同盟国の連なりがあって、その東の果てが奴国だった。そこが境界の尽きる所で、その南に狗奴国があった。すると、女王国から見ると東に狗奴国があった。全然矛盾していない。

 「近畿地方にズーズー弁などあるものか」と思う人もあるだろう。だが丹波(兵庫県丹波市氷上町稲畑)には奴々伎(ぬぬぎ)神社という神社がある。現代の人はこの名をずいぶん奇妙に思うようで、いろいろ解釈する人がある。このあたりはかつて沼貫(ヌヌギ)村といったそうで、その名から神社の名が出たという人もある。だが祭神はニニギノミコトであるから、「ニニギ」をズーズー弁で発音したと考えるのが正解だろう。かつては近畿地方でもズーズー弁が話されていたと思うのである。


<裴世清は大和に来たか>

 推古紀によると、裴世清は十六年の四月に筑紫に着いた。そして同八月に都に入った。正味四ヶ月だが、古代では出発時を1ヶ月目と数えただろうから、隋書に言う「東西五月」と一致する。

 だが、この「五月」は、瀬戸内海縦断の期間としては、当時でも異例の長さなのである。

人名

出発地

目的地

出発時

到着時

期間

来目皇子

大和

筑紫

推古十年二月

推古十年四月

三月

裴世清

筑紫

大和

推古十六年四月?

推古十六年八月

五月

新羅・任那の使人

筑紫

大和

推古十七年九月

推古十七年十月

二月

犬上御田鍬

対馬

難波

舒明四年八月

舒明四年十月

四月

百済の弔使

筑紫

難波

皇極元年正月

皇極元年二月

二月

百済の王子

筑紫

難波

皇極二年四月

皇極二年六月

三月

高田根麻呂

大和

薩摩

孝徳白雉四年四月

孝徳白雉四年七月

四月


 このうち、犬上御田鍬の帰国した舒明四年には、『日本書紀暦日原典』によれば九月に閏があるので、三月でなく四月だったとした。

 高田根麻呂が薩摩で難破したのはやや例外だが、筑紫−薩摩間が一ヶ月とすると、大和−薩摩の旅程は三月である。瀬戸内海は450km、九州本島の南北は約300kmであるから、瀬戸内海の水旅が平均二、三ヶ月であるならば、九州沿岸は一ヶ月が妥当である。

 つまり裴世清来日時の瀬戸内航行は、平均二、三ヶ月であった(正味一、二ヶ月)。日本書紀によると、裴世清はその二倍の時間をかけている。彼は何をしていたのだろうか。

 私は、彼は何もしていなかったと思う。彼は瀬戸内海を縦断しなかった。筑紫にあった倭王の館で皇帝の訓示を垂れた後、「朝命はすでに達した。道を改めよ」と言うと、さっさと引き上げたのである。なぜそう思うかというと、筑紫に来るまでの描写は詳細で、阿蘇山や産物などもはっきりと書いているのに、「また十余国を経て海岸に達す」のところはついでにさっと触れただけ(聞いたことを書いただけ)のような印象があるからである。この部分は、「筑紫の東に秦王国がある、また十余国を経て海岸に達する」という。つまり「東の方向に進めば秦王国その他いろいろあるよ」と聞いて書いただけであろう。

 また裴世清が小野妹子と共に来日したというのも、私には疑わしく思われる。「三国史記」では、「裴世清が倭国へ向かう途中、我が国を通過した」と、一人で倭国へ向かったような書き方である。日本書紀の通りだとすると、「日出処の天子」の使者は、煬帝を激怒させたにもかかわらず、翌年まで唐に滞在したことになる。しかし私は、おそらく「皇帝が無礼をお怒りだ。さっさと帰れ」と滞在させずに追い返したと思う。その後になって煬帝はふと思い直して、裴世清を派遣した。隋書は、そう読む方が自然な記述のように思う。

 秦王国については、さほど謎はない。当時、現在の宇佐の地に、秦氏一族が住んでいたそうである。裴世清は「詳細を調べる暇はない」と考えたようだが、「その人華夏に同じ」という。中国風の服装で歩いているのを遠くから見たのかも知れない。または「東には秦王国があって、中国人と同族ですよ」と聞かされたことを書いただけなのかも知れない。いずれにせよ、筑紫から陸続きの場所である。海を渡ったところにあるという記述はない。ここに書かれた秦王国は、宇佐周辺にいた秦氏のことであろう。

 そんなことより、私が問題だと思うのは「東西五月、南北三月」という倭国(タイ国)のサイズだ。瀬戸内海は約450km、九州は南北約300kmなので、倭国の中心を筑紫として、この距離を陸路の歩行日数だとすると、矛盾はない。ただし、一日の旅程が「五月」を正味四ヶ月と考えても、4kmぐらいしかないことになる。古代人はものすごく体力があり、健脚だったと考える人が多いようだが、現代人でも一日に40kmぐらいは歩けるので、4kmというのはどう考えてもおかしい。

 しかし、古代の旅は苛酷だったに違いない。道も険しかっただろうし、コンビニやレストランがあるわけではない。お金を持って歩くわけでもない。当時はまだ通貨制度がなかった。続日本紀の時代には、大和朝廷が通貨の使用を定着させようと、あの手この手で苦心したことが見えている。

 国家権力というものは、軍事力や宗教的権威だけで成立するものではない。通貨制度が成立し機能するためには、その通貨の価値を保証する物産という基盤がなければならない。私が子供の頃には、「昔の人は貝殻を貨幣として使った」とまことしやかに教えられた。本当のことかも知れないが、それはある貝殻一枚がナニモノカに相当するという、基準価値が存在していてこそ成り立つ話である。基準価値は変動するけれども、ある近接した期間内ではそれほど変わらない。たとえば、将来テレビは今の百倍の値段になるかも知れないけれども、明日の朝目が覚めたら、突然百倍になっていたなどということはないと思って暮らしている。テレビが百倍の値段になるなら、自分たちの給料もそれなりに上がっているはずだ、と誰もが思う。明治の初めには、一円が庶民には相当な大金だった。今はちょっとしたおやつが百円を超える。だからといって、みんなが何も買えなくなって貧しくなったのではない。むしろ反対だ。みんながいろいろなものを買えるようになって、豊かになった。なぜだろうか。貨幣の額面価値は間違いなく下がったのだが、実質価値は上がったのだ。

 一円玉(アルミ1g)を鋳つぶして、地金で売ったとすると、一円にはならない。現代の貨幣の価値は地金の値段でなく、国家が付与した価値で決まっている。それは、国家の設置した経済基盤が存在し、そこでは貨幣が正確にその額面相当のナニカと交換できるということである。これを「国に信用がある」という。国家権力とはそういうものだ。税を納めなければならないとしても、その国の内部にいる限り、信頼の置けるシステムが確立しているのである。

 旅をするには、道々食いつないでいく必要がある。最初こそ食料を持って行くのだろうが、二、三日で尽きてしまい、あとはドングリを拾ったり果実を採ったりして、食べるために歩き、歩くために食べるのだ。きちんとした地図もない。それは言わば行き当たりばったりの旅だったであろう。食料が豊かに手に入る土地であれば、必ず人が住んでいるから、里から里へ伝い歩きするような感じである。人里であれば泊めてくれることもある。人心が素朴だった時代には、遠方からの客は歓迎されることが多かったようだ。情報をもたらしてくれるからである。だから話をして聴かせるだけで、食べ物と寝床にありつくこともあった。旅人もまた、「この先に村がある」と聞けば、希望を持って進むことができる。「里」という距離は、日本では大体4kmぐらいだった。

 こうしたわけで、古代の旅は時間がかかった。筑紫から難波まで山陽道を歩いたとすると、五ヶ月というのは誇張かも知れないが、正味三ヶ月はかかっただろうと思う。

 日本書紀については、古代部分のほとんどを書紀編纂者による創作と言う論者が多いが、そういう人も、推古紀の裴世清来日記事は疑わない傾向がある。しかし彼の見たタイ(イ+妥)国は、『東が高く西が低い』、また『水が多く陸地が少ない』国だった。大和盆地は、どちらかと言えば西の生駒山脈が高く、東の大和高地はそれより低い。推古の時代は、葛城山寄りに王宮があったから、東南が高い。『西が低い』という記述は、全くの誤りになる。もちろん盆地であるから、陸地ばかりで水は少ない。私は大阪生まれの大阪育ちなので、街中にはかなり大きめの川が多い。奈良盆地は、少し歩くだけで渇きを覚えるほど水の少ない土地である。大和朝廷にとって最も大切な山である三輪山には触れることなく、阿蘇山について書いているのも奇妙である。

 これが北九州で、たとえば太宰府のあたりのことだとしたら、描写は完全に一致する。太宰府のすぐ東は山地である。西には平地が広がっていた。海辺の狭い土地なので、当然水が多く陸が少ない。また阿蘇山も、九州地方では特別な存在であった。

 決定的に疑問なのは、『東西五月』の距離を、五ヶ月かけて移動していることだ。すでに見たように、瀬戸内海は二、三ヶ月で航行できる。なぜ五ヶ月かかったかというと、書紀編纂者がこの『東西五月』を裴世清の実際の旅程と考えて、そのように書いたからである。しかし実は、『東西五月、南北三月』というのは伝聞なのである。

『夷人里数を知らず、ただ計るに日を以てす。その国境は東西五月行、南北三月行にして』

 つまり、この距離は『夷人』が言ったことであり、裴世清が実際に東西を旅して書いたのではないのだ。もし実際に旅したなら、彼は距離を日数でなく里数で書いただろう。瀬戸内海の450kmは、中国式にいうと「千余里」になったはずである。

 それは魏志倭人伝の一節『女王国の東、海を渡る千余里、また国あり』とか後漢書の『女王国より東、海を度ること千余里、拘奴国に至る』を思わせる。瀬戸内海を縦断すれば、狗奴国があったのだ。そこは後に「ナラ」と呼ばれた地である(前述のズーズー弁説)。


<奴国はどこにあったか>

 狗奴国=大和であれば、その北にあったという「女王国の境界の尽くるところ」、すなわち「奴国=ヌコク」は丹波だったということになるのだが、果たして丹波は「ヌコク」と呼ばれたことがあるのだろうか?ここでまた(恣意的だが)、ズーズー弁が登場する。文献では確認できないが、丹波はある時期「にのくに」と呼ばれたことがあるという。もしかすると、「ヌコク=ニコク」ではないのか?

 丹波という国の名は明確でない。書紀では、もっぱら「タニハ」という呼び名である。古代の日本人は「ン」や「マミムメモ」の発音が苦手だったらしく、「ン」を「ニ」で代用することがあった。たとえば岡山など中国地方では最近まで夏の盆の行事を「ボニ」と言っていた。また馬(マー)や梅(メー)を昔は「ンマー」、「ンメー」と言ったらしい。これが江戸期には「ムマ」、「ムメ」と表記され、「ウンマ」、「ウンメ」と読まれていたのが「ウマ」、「ウメ」となったという説がある(ただしこれは橋本進吉氏の説とは少し違う)。

 古代にはハ行の音はP音で発音されることが多かったので、タニハもタニパ、またはタヌパ、タンパだっただろう。ただタンバというのは丹波の音読みである。タンバという名前が先だったのか、丹波という表記が先だったのかは、今では分からない。丹(に)という文字からは水銀(正確には硫化水銀=朱)が連想されるが、丹波に特に水銀が多かったという事実はない。古代は亀岡市のあたりは湖だったことが分かっている。その水が赤く見えたので「丹の海」(ニノウミ)と言い、それが後に丹波湖になったという話がある。ただし、その湖が干上がった後の遺跡分布から考えると、この古代は縄文時代以前のことである(もっとも、有史時代にも保津川が氾濫すると、古代丹波湖の面影を彷彿とさせる光景が見られたそうである)。

 私の仮説からすると丹波を古代にはニコクと呼んだという証拠があればいいのだが、後代になって丹波を丹州、丹国と呼んだことから来たと考える方が自然である。奴国=ニコク説は、丹国という表記が先行し、後に丹波国となったのでなければならないが、その証拠は見つからない。私の仮説は非常に根拠薄弱なのである。

 ともかく、丹波には崇神の代まで大和朝廷に抵抗する勢力がいたらしい。この地はまた、筑紫と深い関係があったと思われるフシがある(別項)。となれば、魏志倭人伝の最後にある「狗奴国の侵攻」を崇神の丹波征伐と結びつけてみたいところだが、それは違うだろう。私は神武を卑弥呼より後の、四世紀の人物と考える。神武の武器は鉄の武器だったと思うからである。崇神は神武より後代の人物である。従って、邪馬台国と戦った狗奴国の王ではない。

 おそらく製鉄技術を持った渡来系の人々(饒速日命一族)が旧狗奴国に入り込み、彼らは後に物部氏となった。畿内地方では、彼らこそが実質的に大王であった。河内、摂津も彼らに抑えられていた。丹波には入り込めず、どちらかと言えば友好的に交易する形を採ったように思われる。だが時には対立することがあったのだろう。


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