東征の意味 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ところが、改めて「東征」の経過を見てみると、少し違った見方ができる。
五瀬命(~武兄弟の長男)の死亡の後、急に「誰それを殺した」という記事が増えている。追い詰められ、必死の強盗殺人集団となっていたのだ。書紀では出発の時点で~武が太子であり、東征のリーダーだったように書かれているが、実は五瀬命こそリーダーだったのだろう。~武は四人兄弟の末弟である。古代には末子相続の慣習があったという説もあるが、九州地方では後代に至るまで、かなり頑固に長子相続を守っていた。長子相続の場合、長男が死ねば次男が継ぎ、次男も死ねば三男が継ぎ、というように順送りするのである。なお末子相続の慣習があったらしいのは古代のユダヤ人であり、旧約聖書を見ると、なるほどそうなっている。古代天皇も、弟、末弟が天皇位を継いだ記事が多いので、末子相続説にも傾聴すべき点はある。 吉備で三年間も留まっていたのは、長すぎる。本当に最初から大和を目指したのなら、せいぜい一年で足りるはずだ。「東征」の最初の目的地は、実は吉備だったのではないだろうか。吉備は製鉄王国であった。当時は、鉄に大変な価値があった。吉備で一儲けしようと考えたとしても、それほどおかしくはなかった。 つまり、この三年間は、ただの準備期間ではあるまい。収入の当てがない状態になってみると分かるが、人間は何もなしで一ヶ月生き延びるのは大変である。道ばたに食べ物が落ちているとか盗み食いが可能な環境でも、三ヶ月生きていられれば、上出来である。三年後にも船を持っていたことなどを考え合わせると、~武たちは、瀬戸内海運を営んでいたのではなかろうか。 ~武たちは吾田の出身だということなので、多分阿多隼人の一族だろう。日向という地名もつじつまが合っている。だが隼人は後に大和朝廷にたびたび反抗している。おそらく~武たちは、地元であまりよく思われていなかっただろうという気がする。はっきり言えば、彼らは不良少年グループで、地元の鼻つまみ者だった。「吉備で一旗揚げよう」と出て行ったとき、「厄介者が出て行って、この村もやっと静かになった」と思われたのが真相ではなかろうか。その厄介な連中が他郷で成功したと聞いても、「それなら同郷のよしみで世話になろう」と思うより、「へえ、あのどうしようもないヤツらがねえ」と驚くだけだったのだろう。 書紀では、~武は出発の時四十五才だったとしている。しかし私は、~武はまだ少年だっただろうと思う。大和入りすると、すぐ嫁探しをしている。また古事記によると、自分で歩いてその娘を見に行っている。身分の高い人物が取る行動ではないし、たいへん熱心な求婚だったようである。 先に長子相続のことを書いたが、昔の長子絶対の相続制度では、次男や三男は結婚もできず、長子に万一のことがあればピンチヒッターとして立つようなことが行われた。長男が死んで、その長男に嫁と子供があれば、兄嫁も子供も次男が引き継ぐ。中世ぐらいまでの貧しい農村では、そうやって家産を継いだのである。次男以下には、他家に養子に出るとか、山に入って林業や炭焼きをする選択肢もあった。だが悪くすると、一生兄の監督下で働くことになる。それを居候と言った。 ~武には吾田邑に吾平津姫(あひらつひめ)という妻がおり、手研耳命(たぎしみみのみこと)という息子があった。しかしこれは、本当は五瀬命の妻で、手研耳命も五瀬命の子ではなかっただろうか。ところが難破して兄をすべて失い、~武少年が相続しなければならなくなった、というのが真相ではないだろうか。昔は十才以上年の離れた兄弟は珍しくなかった。彼らもそれぐらい年齢が離れていたと考えられなくはない。第一子が生まれるのは平均して二十五才ぐらいであるから、二十才も離れて兄弟から見ると、自分と五才ぐらいしか離れていない甥があることになる(実は私も母方の叔父との年齢差が十才ぐらいしかなく、小さい頃は「兄ちゃん」と呼んでいたものである)。 吾平津姫というのは、固有名詞ではないかもしれない。つまり初めは兄嫁という意味で吾田の姉さん(あたのいらつめ)と呼んでいたのが、「アタイラツメ」「アタイラツヒメ」「アヒラツヒメ」となった可能性がある。この女性は、東征には同行しなかった。古代には、戦争に行くにも妻が同行することが多かった。若い男にとって、性欲の処理は大問題である。遠征に同行しないというのは、言わば「浮気自由」ということだ。行った先の女性と適当にやってよろしい。あんたには期待してないから。これに対し、遠征に妻が同行する場合は、戦闘に勝って新しい土地や住居を獲得することを期待するのではないだろうか。 名草戸畔(名草村の女村長)を殺したのは、現地女性を拉致しようとしたのを留められたからかもしれない。この名草戸畔は、首と胴、脚をバラバラに切り離されたと言うから、惨殺されたのである。現地ではそれぞれの部分を別々の神社に祭っている。別々に祭るというのは、全部を一体にして祭ると甦ってくるかも知れないという、~武たちの恐怖感の表れであろう。もちろん、現地の人々が彼女を敬愛していた証拠でもある。 丹敷戸畔(丹敷村の女村長)の殺され方は詳しく残っていない。当時の~武たち一行は、ほとんど武器を失っていたと思われるから、数人の男たちがのしかかって絞め殺したのではないか。現地の伝承では、丹敷の男たちが難破した~武たちを必死の思いで救助したという。丹敷戸畔は嵐の中で、救助するために男たちを指揮していたと思う。言わば~武たちにとって、命の恩人なのである。その彼女を殺してしまった。よほど切羽詰まっていたのだろう。 その後、一行は神の吐く毒気に当たって、全員意識を失ったとある。想像をたくましくするなら、おそらく丹敷戸畔の屋敷には、朱(硫化水銀=丹=に)があったのだ。彼らはそれが朱であれば、加熱したら水銀が取れると聞いていた。そこで朱を皿に盛って火にかけた。おそらく外から見られないように密室で実験しただろう。亜硫酸ガスと水銀蒸気が立ちこめ、全員が気絶してしまった。 そもそも水銀という元素は硫黄分との親和性が強く、酸素との結合力が弱いので、硫化水銀を空気中で加熱すると硫黄が外れて亜硫酸ガスとなり、水銀は金属水銀になる。これを「空気還元」と呼ぶ。水銀は常温で液状の金属だが、飲み込んでもほとんど害はない。しかし水銀蒸気は猛毒で、即死することもある。水俣では、海底汚泥などに住むメチル化菌が排水中の水銀をメチル水銀という有機金属化合物に変え、これが魚貝類を介して人間の体内に取り込まれた。有機化合物は脂肪などに蓄積しやすいからである。亜硫酸ガスも非常に毒性が高い。ごく薄い亜硫酸ガスで気道が腫れ上がり、窒息することがある。彼ら全員が死亡してもおかしくはなかった。 このとき、高倉下(たかくらじ)という人物が現れて~武たちを救う。天照大神が、地上が騒がしいので、~武たち助けるために神々のうちの誰かを遣わそうとする。だがその程度なら神剣フツノミタマだけで十分だと言われて、それもそうだと思い直し、高倉下の夢の中に現れて「明朝お前の倉の中に神剣を下すので、~武に渡すように」と告げた。高倉下は朝になると倉を開いてみた、神剣は床に逆さに立っていた。そこでそれを~武のいる所へ持って行った。~武たちは気を失って倒れていたが、高倉下が神剣を献げると意識を取り戻して「はてさて、ずいぶん長い間眠ったものだ」と言った。 このエピソードにどんな意味があるのか、全く分からない。神が下した神剣を~武に渡すのに、なぜ高倉下という人物を介する必要があったのだろうか。この人物は書紀にはこれ以後登場しないが、旧事紀には饒速日命の子で、またの名を天香語山(あめのかごやま)命ともいい、尾張氏の系統であると伝えるそうだ。また丹後に伝わる海部氏系図にも記載されているそうだが、その関連はよく分からない。当時は大きな影響力を持っていた人物かも知れない。書紀に何の記載もないのは書き漏らしだろうか。しかし系譜にこだわった古事記でも、単に「人の名」としか述べていない。 高倉下の正体はさておき、~武たちははじめ吉備で稼ごうとしたが、海運業を営んでいたので、まもなく朱が鉄よりも高価であることを知った。朱は色が美しいだけでなく、木の柱などに塗ると、防虫と殺菌の効果があり、非常に長持ちする。古代には不老不死の霊薬とも思われたほどである。焼くと前述のように猛烈な有毒蒸気を出すのだが、鮮やかな朱色の物質から銀色に輝く液状の金属が生成する化学反応の不思議は、いわゆる錬金術の源泉となった。 また彼らは、朱を精製して作った水銀も見たことがあっただろうと思う。金属水銀は、古代から鉄の甕に入れて運ぶ。銅などは水銀とアマルガムになるので具合が悪く、鉄が最も容器に向いていたのである。そして朱を焼くと水銀ができることも知っただろう。ただ古代日本には、まだ水銀精錬の詳しい方法を知っているものはなかった。中国からの高価な輸入品だったと思われる。何に使われたのかは分からない。銅鏡に水銀を着けて磨くと、銀色に輝く美しい鏡になるという。そうした装飾的な用途だっただろう。後代には金の精製やメッキにも使われたが、~武の頃の日本にはまだ金が豊富ではなかった。実は日本は世界でも有数の金の産地であり、江戸時代には輸出していたこともある(現在も四国から九州にかけて、中央構造線沿いに最大級の金鉱があるそうだ)。しかし古代には採鉱の技術がなかったのだ。 ちなみに、硫化物を空気中で焼くと純金属になるという性質は、水銀だけではない。銀、銅も同じような性質がある。こうした金属は、自然に純粋な金属として産出することもあった。水銀も朱の鉱脈には自然水銀が混ざっていることがある。和銅のとき発見されたのは、自然銅だった。金は銅の鉱脈に伴っていることが多く、ほとんど化合物にならないので、産出するときは自然に純金として出る。ただし金の地殻中平均濃度は2ppbという微少量である。 神武天皇が丹生川上流で行ったという奇妙な神事は、水銀に関係があるかも知れない。吉野山中で出会った井光(いひか)という人物は、朱の採鉱者だという説がある。~武たちは大和入りまで、おそらく食料や女を強奪するためだろうが、激しい暴力と殺戮を行った。だがこの井光たちは殺していない。想像をたくましくするなら、~武は朱を焼いて危うく命を落としかけたことを井光に話し、井光は「焼いて出てくる毒気を水にくぐらせるんだ」というようなことを話したと思う。「水にくぐらせる?どうやるんだ」「さあ、それはわしも知らん。中国ではそうやっていると聞いただけだ」 この後、~武は奇妙な儀式を行った。椎根津彦に天香具山の頂の土を採ってこさせ、それを使って土器を作ったのだ。土器を作るというのは、あまり身分の高い人がすることではない。後代、野見宿禰が埴輪を考案し、土師氏の祖先となった。彼らは賎民身分でこそないにせよ、実際に手を汚して土器を作るのは、部民といったやや賤しい身分の人々が行っていただろう。 このとき~武が作ったものは、厳瓮(いつへ)、平瓮(ひらか)、飴(たがね)などというものである。少し長いが、岩波古典文学大系の「日本書紀」を引用してみよう。読みは現代仮名遣いで書いた。 (椎根津彦が香具山の土を持って帰ってくると)是に天皇、甚(にえさ)に悦び給ひて、乃ち此の埴(はにつち)を以て、八十平瓮・天手抉(あめのたくじり)八十枚、厳瓮を造作りて、丹生の川上にのぼりて、用て天神地祇を祭り給ふ。則ち彼の兎田川の朝原にして、たとへば水沫(みなわ)の如くして、呪(かし)り着くる所有り。天皇、又因(よ)りて祈(うけ)ひて曰はく、「吾今当に八十平瓮を以て、水無しに飴を造らむ。飴成らば、吾必ず鋒刃(つわもの)の威(いきおい)を仮らずして、坐(い)ながらにして天下を平(む)けむ」とのたまふ。乃ち飴を造りたまふ。飴即ち自づからに成りぬ。また祈ひて曰はく、「吾今当に厳瓮を以て、丹生之川に沈めむ。如(も)し魚(いお)大きなり小さしと無く、悉(ふつく)に酔ひて流れむこと、たとへば艨iまき)の浮き流るるが猶(ごと)くあらば、吾必ず能く此の国を定めてむ。如しそれ爾(しか)らずは、終(はた)して成る所無けむ」とのたまひて、乃ち瓮(いつへ)を川に沈む。其の口、下に向けり。頃(しばらく)ありて、魚皆浮き出て、水の随(まま)にあぎとふ。時に椎根津彦、見て奏(もう)す。天皇大きに喜びたまひて、乃ち丹生の川上の五百箇(いおつ)の真坂樹(まさかき)を抜取(ねこじ)にして、諸神(もろかみたち)を祭(いわ)ひたまふ。 一体何の話だろうか、全くイメージがつかめないが、岩波古典文学大系の注釈によると、平瓮は平たい皿、天手抉は丸めた土の中央に指で穴を開けたようなものかという。また飴は、土を拳で握り固めたもの(つまり土団子)としている。厳瓮は不明。前後関係からすると、平瓮と天手抉を合わせて厳瓮と称したとも考えられる。無理に現代語に訳すと、 天皇は大変喜ばれて、この土で八十の平瓮と八十の天手抉、つまり厳瓮を造られた。それを持って丹生川の上流に登り、神々を祭られた。兎田川の朝原というところに、水が激しくたぎり落ちるところがあった。天皇は神に祈っておっしゃった。「今から平瓮を使って、水なしに飴を造ろうと思う。もし飴ができたら、武力に頼らずして天下を従わせることができるだろう」と。そして飴を造られた。飴は自然に出来上がった。また神に祈っておっしゃった。「これから厳瓮を丹生川に沈める。大小の魚が酔っぱらって、槇の葉が浮きつ沈みつ流れるように流れに従ったら、この国を平定できるだろう。そうならなかったら、ついに目標は達成できないだろう」と。瓮を丹生川に沈めた。その口は下を向いていた。しばらくして、魚が浮き上がり、流れのままに口をぱくぱくさせて漂った。椎根津彦はこれを見て、天皇にご報告申し上げた。天皇は大いに喜ばれ、丹生川のほとりにあった数多くの榊を抜いて、神々へのお供えとされた。 この記事は単にまじないか占いのようなことと解釈するのが一般的である。しかし、~武たちはこの後も戦闘を行っており、「武力に頼らずして天下を従わせることができる」という予言は外れたのである。なぜこのようなタワゴトを記録したのだろう。天手抉を「丸めた土の中央を窪ませて穴を開けたもの」とする解釈も問題である。その口は下を向いていたというからには口があったわけで、実はこれは土瓶型の土器なのではなかろうか。(この解釈に達した後、「釈日本紀」を見たら、「土瓶」と書いてあった。私のように解釈する説は昔からあったようだ)
土瓶型の土器は縄文時代からあったらしく、現代の土瓶とほぼ同じ形である。 ただしここで~武が行ったのは、土瓶を逆さにした形で、たぶんその口を長く引き伸ばしてあっただろう。丹敷戸畔の屋敷にあった朱を乾燥したまま土団子に造り、平たい皿に載せ、その上に土瓶本体をかぶせて火であぶる。そして土瓶の口を水の中に入れる。 すると有毒な亜硫酸ガスは水に溶け、水銀蒸気は冷やされて、水の底に溜まるのである。有毒成分が入った水のため、魚が口をぱくぱくさせて浮き上がる。亜硫酸ガスは還元力が強く、多量であれば水は酸欠水になる(というより、亜硫酸は水に入ると徐々に酸化されてと硫酸になる)。 つまり~武は、日本で初めて水銀の蒸留精錬装置を造ったのであろう。当時の水銀取引の実体は分からないが、中国から非常に高価な金属として輸入していたと思われるので(自然水銀もあったが、量は少なかった)、後に天皇家に大きな富をもたらす「祖業」の礎を造ったのである。 ここでの文には、火であぶるということは書かれていない。しかし、実験の成功を祝って道臣(みちのおみ)命に厳姫(いつひめ)の号を授け、また土の神、火の神などを讃えている。 実はこのときの実験は成功したけれども、中国で普通に行われていた方法ではない。~武たちも、後には中国式に変更していっただろう。 中国の技術文献「天工開物」に載っているのは、次の図のような形である。蓋には小さな穴が開いており、ここにチューブ状の取り出し管が取り付けられる。この管の先を水槽につけるのである。釜本体の横にも孔があり、ここからは火吹き竹のようなもので息を吹き込む。
息を吹き込むのは、竃内部が亜硫酸ガスでいっぱいになると、硫化物を酸素で還元するという原理であるから、それ以上蒸留が進まない。そのため、空気をどんどん送り込む必要があるからである。上蓋に取り付けたチューブは、一回ごとに壊して、内部に残留する水銀も回収したのであろう。丹生神社などの水銀遺跡では、このタイプの釜が出土しているが、チューブは出ていない。 このタイプであれば、水銀含有量の少ない(低品位の)朱でも、効率よく水銀を取り出せるという。しかし有毒ガスが充満する釜の中に息を吹き込むのであるから、危険な作業であった。別項で初期天皇の在位年代について考えてみるが、書紀では異常な長寿命に書かれている初期天皇は、実際はむしろ異常な短命だったのではないかと思われる。 なお上記は松田壽男氏の名著『古代の朱』(ちくま学芸文庫2005年)を参考に書いた。 まとめると、初期天皇家は水銀の採掘と精錬に携わり、当初は微賎のものとされていた。しかしその中で富を蓄え、数代後には大和を支配するまでになった。この時点で改めて初代の~武が神格化された。兄も船も失って山中を彷徨うという破滅状態から身を起こし、ついに大和最大の豪族になった経緯が長く語り伝えられたのだろう。 貧窮のどん底にあった人物でも、後に一族繁栄の基礎を築いたなら、神格化されてもおかしくない。またその一族が大王どころか、一豪族ですらなく、むしろ当時蔑視されていたような家業に携わっていたとすると、詳しい伝承が残らなくても不思議ではない。実は~武の伝承はほとんど即位前記で尽きていて、即位後は大した記事がない。その意味では、欠史八代の一人である二代目綏靖とあまり変わらないのである。 だが元来下賤の者であっても、富を築けば「富貴」と呼ばれ、やがては高貴の身分と見なされるようになる。貧窮にあった松下幸之助が、電球ソケットの発明から身を起こし、やがて「経営の神様」、「松下王国」などと呼ばれるようになる。生誕の地には石碑もあるそうだ。 ~武もそうした立志伝中の人物であり、編纂過程で貧窮伝承が削られて、日向出発時点から高貴な神の子の身分として飾り立てられた。「東征」途上で立ち寄った場所には、貧しい掘立小屋でも「埃の宮」などと、まるで宮殿があったかのような名が付けられた。そのために物語全体が神話のように非現実に思えてしまう。Wikipediaには「とうてい一人の人間が行ったとは思えない」と書いてあるが、余計な装飾を取り払って読むと、~武は別にそれほど大変なことを行っていない。日向から大和へやって来て住んだだけのことである。現地の抵抗に会って苦労したようで、そのために吉野山中を彷徨うこともあったが、後ではいい思い出になったのだろう。 実は「天皇家」の成功が確実になったのは、第七代孝霊からである。「偉大」な初代~武天皇は、墳墓の場所さえ明確ではない。現在~武天皇陵とされている場所は、陵墓ではないであろうという。古墳時代なのに、なぜ大きな古墳がないのか。それは彼が死んだときはまだ大王家どころか、有力豪族ですらなかったからだろう。 私は、~武一行が大和入りした時はまだ貧しく、かつて吉備で商売道具にしていただろう舟も失い、それと共に武器の大半も失って、ほとんどボロボロの状態だっただろうと想像した。それでも当時の大和の大王であった饒速日一族は、彼らの大和入りを許し、小さいながら磐余付近に「領地」を与えた。 古代の人たちは、見知らぬ旅人に一夜の宿を貸すことにはあまり抵抗がなく、時には村を挙げて大歓迎するほどだったらしい。それは、生きて目的地にたどり着けるかどうか分からない、古代の旅の辛さが分かっていたからだけでなく、遠来の客はまれには珍品を持ち、多くの場合にはまだ見ぬ異国の情報(物語や事件の知らせ)をもたらしてくれたからだ。 だが、異郷のものが「この村に住まわせてくれ」とやって来るのは迷惑だった。受け入れたとしても、村外れにぽつんと離れて住み、農業には携われないで、山で猟師や木樵をしていたのではないだろうか。 もっとも、これには証拠がないが、TVの「ナントカ世界紀行」などといった番組を見ると、現代文明とはかけ離れた暮らしをしている人たちを取材すると、彼らが村人総出で踊りを披露したり、宴席を設けてごちそうを振る舞う場面を見ることが多い。TV取材ではそれなりの謝礼を支払っているからだろうが、そうした謝礼(贈与)を受け取ること自体が友好の印であった。 日本書紀斉明六年三月条に、そういうエピソードが出ている。粛慎(みしはせ)を攻撃する前に、海辺に贈与の品を積んで様子を見ていたところ、粛慎の一団がやってきて、いったんは受け入れるそぶりを見せたものの、やがてすべて返して寄こした。そこで戦闘に踏み切ったとある。もし彼らが贈与の品を喜んで受け取るなら、交易あるいは取引が可能であり、それは結局友好的な関係を結ぶということである。 つまり~武の大和入りは、饒速日一族との何らかの取引の結果であり、双方に利益になると考えられるものであった。しかし大きな領地ではなく、田地も広くはなかった。海の民だったらしい彼らが、慣れない手つきで農業を行っても、どの程度やって行けたかは疑わしい。それなのに後には大王家に発展したわけだから、その力を蓄えた特別な理由がなければならない。それが水銀事業だったのではないか、それが当時は賤業と見られていたため、後には記憶から抹消され、~武は初めから大王として君臨したという話になったのではないかということである。 |
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