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女性の年齢


初期天皇の在位期間


初期天皇の在位期間

 古代天皇に関する書紀の記述が疑われた理由の一つに、あまりにも長い在位期間と異常な長寿命があった。安本美典氏は何が根拠なのか分からないが、古代天皇の平均在位期間十年説を提唱している。書紀にある天皇の在位期間を表にしてみると、次のようになる。

代数

諮号

即位時年齢

在位期間

崩御時年齢

事績記事

1

~武

52

76

127

東征(即位前記)

2

綏靖

52

33

84

手研耳命を殺す(即位前記)

3

安寧

30

38

67

なし

4

懿徳

44

34

77

なし

5

孝昭

31

83

113

なし

6

孝安

36

102

137

なし

7

孝霊

53

76

128

なし

8

孝元

60

57

116

なし

9

開化

51

60

111

なし

10

崇神

52

68

120

多数


 初代から第十代までの天皇の年齢と在位期間である。ただし書紀の記載には矛盾も多く、たとえば第三代安寧は三十才で即位し、三十八年在位したはずなのに、崩御の年を五十七才としている。この表では、安寧の崩御時年齢を六十七才にしてある。五十七才だったとすると。崩御の年にその息子は父より十三才年下だったことになり、常識的にはありそうにないからだ。崇神も五十二才で即位し、在位六十八年なら崩御の年は百十九才だったはずである。垂仁紀には崇神が短命だったという記載もあり、年齢は事実ではないようである。

 だがこうして並べただけでは、えらく長生きだということしか分からない。少し乱暴だが、ひょっとして、子供の数から、真の在位年代を推定できないだろうか。もちろん古代には正后(せいこう)の他に妃(みめ)、早く言えば側室がいたので、誤差はあるだろうが、とにかくまとめてみよう。

代数

諮号

子供の数

妃の数

在位期間

その他

1

~武

3(男2)

76

妃は吾平津姫

2

綏靖

1(男)

なし

33

兄の神八井耳命は多氏の始祖

3

安寧

2(男2)(3?)

なし

38

磯城津彦命は猪使連の始祖

4

懿徳

1(男)

なし

34


5

孝昭

2(男2)

なし

83

長男天足彦国押人命は和珥氏の始祖

6

孝安

1(男)

なし

102


7

孝霊

6(男4女2)

76

末子稚武命は吉備臣の始祖

8

孝元

6(男4女2)

57

息子は多くの氏族の始祖

9

開化

3(男3)

60

后は孝元天皇の妃

10

崇神

11(男7女4)

68



 第三代安寧は、書紀に子供二人としながら、「一に云はく」として、三人説を併記している。それを除くと、第二代から第六代まで子供は一人か二人であった。この間、正后以外に妃を置いたという記事がなく、一夫一婦で推移している。だがこれでは、どうかすると家系が絶えてしまいかねない。第七代孝霊にいたって、急に子供の数が増えている。妃を置いたからだろう。皇子・皇女の中には、非常に著名な人物もいる。孝霊の皇女に箸墓古墳の被葬者とされる倭迹迹日百襲姫命があり、孝元の皇子には大彦命(七つの氏族の始祖という)がある。大彦命は四道将軍の一人で、稲荷山古墳の出土品に意富比コ(コ=土+危)という名が見えることから、実在の人物という人も少なくない。その兄弟には彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)がいるが、彼はあの怪人、武内宿禰の祖父と書かれている。

 「寧楽遺文」に収録されている計会帳などでざっと見たところ、奈良時代の人は大体25歳前後で第一子をもうけていることが多いようだ。30歳ぐらいまで生きていたら、二、三人子供がいても不思議はないだろう。これら初期天皇がいずれも30歳ぐらいで死亡したとしよう。すると、その子はまだ幼児である。幼児が後を継ぐこともあっただろうが、叔父が継ぐ(兄弟相続)こともあり、成長後に改めて叔父の後を継ぐことも少なくなかっただろう。

 ただし、25歳ぐらいで第一子というのはかなり大雑把な話で、統計処理などは行っていない。それに奈良時代の計会帳は、個別に見ると明らかにおかしい場合がある。妻が56歳で、一番下の娘が3才などと書いてあったりするのだ。もちろん申告通り記録したまでのことだが、当時の役人は不自然だと思わなかったのだろうか?

 とにかく、~武を除くと、初期天皇には妃がなかった。どちらかと言えば貧しく、そのころはまだ豪族ですらなかったのである。妃を置く余裕がなかったのだ。それだけに、~武の妃とされる吾平津姫の存在は疑わしく思える。先に彼女は実は五瀬命の妻だったのではないかと書いた。兄たちが東征途上で命を落とし、末子であった~武にピンチヒッターとしての相続の義務が生じ、五瀬命の妻と長男をそのまま引き継ぐことになったのではないかということである。

 つまり手研耳(タギシミミ)命は、実は神武の甥であった。あまり年の離れていない、兄弟のような存在であっただろう。書紀には~武没後の「相続争い」の物語が記され、手研耳命が一時「政権」を掌握したかもしれない「太歳」の文字がある。綏靖が手研耳命の軍を破って「皇位」につくのであるが、大した家産もなかったらしい当時の天皇家で、こうした争いが起こるのは不自然である。しかし、この記事はまた、当時手研耳命にも少なからぬ味方がいたという事情も窺える。

<女性の年齢>

 手研耳命について最も疑問なのは、~武の妻だった姫蹈鞴五十鈴姫を自分の妻としたことだ。姫は~武が即位直前におそらく饒速日命一族(後の物部氏)の紹介で知り合い、正后に立てている。このとき、彼女はおそらく十四、五才の美少女だったろうが、~武が七十六年在したとすると、もう九十才を超えている。いくらなんでも、そんな年齢で再婚するだろうか。

 ~武伝承のほとんどは即位前記の東征物語である。即位してからは欠史八代と同じく、何も話がない。私の仮説のように水銀精錬に関わったため早死にしたとすれば、~武没後、姫はまだほとんど少女と言ってもいい年齢で残されたのではないだろうか。手研耳命が五瀬命の息子であり、~武と年齢の近い叔父甥関係にあったとすると、姫を娶ることは不自然ではない。

 また綏靖も実は手研耳命とあまり年齢が離れていなかった可能性がある。彼は姫蹈鞴五十鈴姫の妹五十鈴依姫(イスズヨリヒメ:叔母)を娶ったと言うが、逆に言うと、母とされる姫蹈鞴五十鈴姫ともあまり年齢が離れていなかったのであろう。古事記は姫蹈鞴五十鈴姫(ヒメタタライスズヒメ)の名を比賣多多良伊須氣余理比賣(ヒメタタライスケヨリヒメ)と記す。これは五十鈴依姫にかなり似ているように思う。

 また、綏靖の妻には「一書に云はく」として別の名が二つ挙がっている。それによれば磯城縣主の娘、川派媛(かわまたひめ)、あるいは春日縣主の娘、糸織媛(いとりひめ)ともいうとある。ところが次の安寧の正妻は渟名底仲津媛(ぬなそこなかつひめ)というのだが、やはり「一書に曰く」として、磯城縣主の娘、川津媛(かわつひめ)、大間宿禰の娘、糸井媛(いといひめ)の名が挙げられている。あまりにも似た名前で、ほとんど同一人物のように見える。このころの「天皇」が極端な短命で、兄弟相続や叔父甥相続でやっと家を存続させていたとしたら、彼らが先代の妻や子をそのまま引き継いだ可能性はある。

 何を言いたいかというと、私は~武没後の「相続争い」は、実はまだうら若かった姫蹈鞴五十鈴姫を手研耳命と綏靖が奪い合ったという話なのではないかと疑っているのである。綏靖も~武の子でなく、丹敷浦で死んだ兄の子だったのではないのか?五十鈴依姫は実は姫蹈鞴五十鈴姫自身ではなかったのか?

 当時の天皇家はまだ豊かでなく、奪い合うべき家産も「皇位」もなかったはずだ。もちろん~武が始めた「祖業(私の妄説では水銀の精製と売買)」はあったが、それは共同で運営することもできる。たぶん製造担当と営業担当に分けて運営していただろうから、互いに争うことはあっても、殺し合うまでには至らないと思う。だが恋の争いなら、この世にたった一人しかいない女性を奪い合うのだから、殺し合っても不思議はない。

 彼ら初期天皇が異常に早死にだったとすると、何代か前の大叔父のような人物が後を継ぐこともあっただろう。それを父子相続のように書けば、「息子」はかなりの年齢になっているから、必然的に「父親」も長命になってしまう。古代天皇については、もともと長命伝承があったのではないかという説があるが、極端に短命だったら、かえって長命だったという話になって伝わる可能性があるのだ。たとえばある天皇の妻が、四代後の天皇の時代にもまだ元気でぴんぴんしていた、などということが起こりうる。

 ただし、これは「何代目は誰それ」という系譜だけが伝わり、その年齢などは伝わらなかった、という仮定の下で言えることで、考えようによっては不自然かも知れない。だがそういう場合もあり得ると思う。たとえば「誰それ商店」を名乗って商売していたとしたら、その商店主の名前が変わるたびに取引相手に説明しなければならない。「何代目六衛門」などと名乗ったら、代数だけは伝わることになる。初期天皇の系譜は、それに近かったかも知れない。

 系譜には他にも怪しい所がある。

 倭迹迹日百襲姫命は孝霊の皇女で、崇神天皇代に大物主神の訪れを受けて神の妻になった。ところが、彼女が孝霊の末年に生まれたとしても、孝元五十七年、開化六十年を経て、崇神元年にはもう百才を超えている。失礼ながら、枯れ木のような老婆だったはずである。大物主神がいくら物好きでも、と思うのは私だけだろうか。

 彼女は崇神と兄妹もしくは姉弟の関係にあったという説がある。つまり二人とも孝霊の子か孝元の子であったという考えである。孝元の息子には武埴安彦命がいるが、後に崇神に謀反して殺された。古代の相続争いには、反逆した側にもそれなりの理由があるものだ。仮に開化没後、孝霊の息子だった人物(崇神)が脇から来て「政権」を奪ったとしたら、武埴安彦命がやや成長して後、非常に不満を抱いた可能性はある。

 開化の正后だった伊香色謎命(いかがしこめのみこと)も不思議な女性である。彼女は孝元の妃であり、彦太忍信命を生んだ。正后が立ったのは孝元七年であり、年齢からしてもこれと前後して伊香色謎命を妃にしたと思うのだが、そうすると開化の妻になった頃には、もう少なくとも六十才だということになる。それから開化の子を産むとは思えない。それとも孝元は百才近くになって妃を娶ったのだろうか。

 たとえば孝元がせいぜい三十五才ぐらいで崩御し、開化はもう十七才になっていたとする。伊香色謎命には幼い子供があったが、まだ二十才ぐらいだった。年齢の近い義母であれば、恋情が生まれてもおかしくはない。実際は、そういうところだっただろう。

 いずれにせよ、古代天皇を巡る女性たちの生きた年代は、矛盾が多い。天皇の年齢を無理に引き伸ばしているので、女性の年齢も不自然に長くなったのである。


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