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武烈天皇は少年王だった?
大悪天皇と呼ばれた雄略


ワカ大王の話


ワカ大王

 古代の天皇には、しばしば「ワカ」の名のある大王がいる。開化天皇の名、稚日本根子彦大日日(ワカヤマトネコヒコオオヒヒ)、幼武(ワカタケル=雄略)、小泊瀬稚鷦鷯(オハツセノワカサザキ=武烈)などである。

代数

諮号

諮号

子供の数

先代天皇

先代の事績

10

開化

稚日本根子彦大日日

男3

孝元

なし

13

成務

稚足彦

なし

景行

九州征伐

20

允恭

雄朝津間稚子宿禰

男5女4

反正

なし

22

雄略

大泊瀬幼武

男3女2

安康

殺された天皇

23

清寧

白髪武広国押稚日本根子

なし

雄略

多数

26

武烈

小泊瀬稚鷦鷯

なし

仁賢

なし


 なお代数は、神功皇后を第十五代天皇として数えたものである。神功皇后は「摂政」とされ、すでに皇位の系譜から外されている。外されたのはごく最近、大正時代に入ってからである。「日本書紀私記」においては「女帝」と呼ばれ、実質的に天皇の扱いだが、「釈日本紀」では「神功皇后は即位しなかった」と述べ、古事記でも天皇としていないことを指摘している。しかし、多くの文献は、かつて神功皇后を第十五代天皇としていた。神功天皇と表記した例もある。「本朝皇胤紹運録」にも、神功皇后の名前に「第十五」の添え書きが残っている。摂政は天皇に変わって政務を執ることで、應神天皇がまだ幼かったため、神功皇后が政務を行ったということである。しかし書紀によると、應神は神功皇后が崩御の後に即位した。彼女は間違いなく天皇だったのである。

<武烈天皇は少年王だった?>

 武烈は四十九才で即位し、五十七才で崩御するまで八年間在位したと言うが、『扶桑略記』にはわずか十才で即位し、十八才で崩御したとある。武烈には子がなく、後継には應神五世の孫、継体が招かれることになった。十八才で没したとすれば、子がなかったのも納得できる。古代天皇の年齢はしばしば偽られているが、ざっと見たところでは、二十五才ぐらいで第一子をもうけるのが平均的なようだ。

 武烈紀には悪行記事が多いが、漢籍などから採られたものであろう。実際はまだ子供だったので、幼稚ないたずらが多く、「あんな子供はかなわん」と臣下たちが閉口することがあり、それがいつの間にか「稀代の悪王だった」という話になったというのが真相かも知れない。

 それはともかく、昔は「若い」ということはあまりいい意味ではなかった。音が「弱」に通じることもある。逆に「老」の方がいい意味があり、尊敬されたのである。すると、これらの「ワカ」大王は、実際はまだ若いうちに死んでしまい、幼名がそのまま残ったと考えられないだろうか。


<大悪天皇と呼ばれた雄略>

 ここに挙げた天皇は、雄略以外は事績記事が少ない。雄略自身の事績記事も、分量がたくさんある割には、内容は大したことはなく、どちらかと言えば愚かな悪行記事が多い。古事記は天皇家礼賛の姿勢が貫かれているので、悪行は一切書かれないが、日本書紀には「大悪天皇」と書かれ、愚行が挙げられている。

 現在は、雄略を倭の五王の一人、武に比定する人が多い。しかしその根拠は、かなりあいまいなものである。倭王武は雄略の頃の人物と思われる、雄略の諡であるワカタケルのタケルを中国人が意訳して「武」と表記したと思われる、といった推論であって、確証がない。雄略が倭王武の頃だというのも、日本書紀にある新羅、百済の記事からそう考えているのだが、これは神功皇后紀から見ても、あまり信頼が置けるとは言えない。

 倭王武の上表文が宋書に載っていて、「祖禰(そでい)自ら甲冑を貫き、山川を跋渉し」という、なかなかの名文だ。宋書に収録されたのは、中国人も「立派な文章だ」と感心したからだろう。これが倭王武の書簡であるからには、当然彼は「倭王武」または「倭武王」と署名したのだ。立派な漢文が書けるのに、自分の名前だけは漢字で書けなかったはずはないからだ。では稲荷山鉄剣銘では、彼の名はどう表記されていただろうか。ワカタケルと仮名で音書きされていたのではなかったか?

 隋書の「日出処の天子」は、阿毎多利思北孤と仮名で書かれていた。中国人に意訳してもらわなくても、そういう書き方もあったのである。

 雄略紀には、もう一つおかしな点がある。悲劇の斎王、栲幡皇女(たくはたのひめみこ)の事件である。

 彼女が伊勢にいたとき、阿閉臣(あへのおみ)国見という人物が讒言して、廬城部連(いおきべのむらじ)武彦が、皇女を妊娠させたと告げた。武彦の父は非常におそれ、息子を殺してしまった。天皇は皇女を尋問したが、「私は知りません」と言って、何も答えない。彼女は夜、ひそかに神鏡を持ち出して五十鈴川のほとりに埋め、首をくくって死んだ。皇女の行方を捜すと、神鏡の埋まっている地面から虹が立ち上っていて、そのそばに皇女の死骸があった。解剖してみると、腹の中には水があっただけで、妊娠はウソだったことが分かった。武彦の父は早まって息子を殺してしまったことを後悔し、讒言した国見を殺そうとしたが、国見は石上神宮に隠れた。

 この事件は、雄略三年に起こったとなっている。栲幡皇女はまたの名を稚足姫皇女(わかたらしひめのひめみこ)ともいうが、その母は韓媛(からひめ)といい、円大臣(つぶらのおおおみ)の娘である。円大臣は、安康天皇を殺した眉輪王(まよわのおおきみ)をかくまったので雄略に攻められ、「娘(韓媛)と領地を差し上げよう」と命乞いしたが、殺されてしまった人物である。その後で栲幡皇女を産んだとすると、雄略三年にはまだ赤ん坊で、妊娠騒ぎなど起こりようがない。

 おそらく雄略の年齢自体が偽りで、系譜にも混乱があるのだろうが、意味が全く分からない。総じて日本書紀では、男系のつじつま合わせに熱心で、女性の年齢がデタラメになる傾向がある。この事件などはどう考えても収まりが悪い。群書類従の「斎宮記」や「二所太神宮例文」には「白髪内親王」という名で記されているのも、何だか怪しい。白髪という言葉が名前に付いているのは、清寧天皇の諡(白髪武広国押稚日本根子天皇)だ。生まれながらの白髪だったため、不思議だというのでこの名になったという。少し後代の仁賢紀には手白香皇女の名が見え、手白髪とも書かれる。継体天皇の正后となった女性で、もちろん斎宮ではないが、名前の類似は気になる。ただし岩波古典文学大系の注には、「タシラカは水を入れる大きな容器をいうらしい」とある。

 この雄略の諡、大泊瀬幼武天皇(おはつせのわかたけのすめらみこと)も、彼が若くして没したため、幼名がそのまま残ったのではないか、と疑っているのである。そのつもりで見ると、雄略の「事績」には、幼稚な行いや軽率の振るまいが多いようだ。

 たとえば雄略七年、小子部スガルに命じて三諸岳の大神を連れてこさせたら、それは怖ろしい大蛇で、天皇が斎戒しなかった無礼を怒り、雷鳴と稲妻を呼んだので、天皇は怖れて宮中に逃げ込んだというエピソードがある。子供っぽい好奇心だったと読めなくもない。

 また九年の三月に、雄略は新羅に親征しようと考えたが、神が「行くな」といったので、取りやめたという。これなども雄略がまだ少年だったので、群臣が身を案じて引き留めたと考えられなくはない。もっとも、皇位争いがあった後で、まだ政権が安泰でなかったとすると、都を明けること自体が危険だったかも知れない。

 允恭天皇は皇子、皇女が多かった。また雄略にも子供の数が多い。允恭の息子は、雄略を除くと殺されたり、軽皇子のように素行が悪くて系譜から除かれたりして、ほとんど消えてしまう。雄略の子も、清寧天皇および仁賢の正后となった春日大郎皇女を除くと、殺されたり自殺して消えている、雄略の正統性が疑わしいからそうなったのか?

 日本書紀を読む限り、雄略は天皇直系で、何も怪しい要素はない。むしろ雄略に殺された市辺押磐皇子(いちべのおしわのみこ、またはおしはのみこ)の方が傍系になっていて、殺される理由がないような気がする。ただ雄略がまだ幼かったとすれば、もう成人していた市辺押磐皇子に人望が集まった可能性はある。

 ところで允恭および雄略天皇がもし若くして没したとすれば、子供の数が多すぎるように思う。大部分が正史から消えていったにせよ、果たして本当に彼らの子供だったのか、という疑問がある。たとえば雄略の兄弟には酒見皇女という妹がいたが、この女性はその後どうなったのか、全く不明である。その女性が稚足姫皇女という名前で登場していたら、雄略とほぼ同じ年齢ということであるから、妊娠騒ぎも起きたかもしれない。もっとも、それを証明することは不可能である。


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