ワカ大王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
なお代数は、神功皇后を第十五代天皇として数えたものである。神功皇后は「摂政」とされ、すでに皇位の系譜から外されている。外されたのはごく最近、大正時代に入ってからである。「日本書紀私記」においては「女帝」と呼ばれ、実質的に天皇の扱いだが、「釈日本紀」では「神功皇后は即位しなかった」と述べ、古事記でも天皇としていないことを指摘している。しかし、多くの文献は、かつて神功皇后を第十五代天皇としていた。神功天皇と表記した例もある。「本朝皇胤紹運録」にも、神功皇后の名前に「第十五」の添え書きが残っている。摂政は天皇に変わって政務を執ることで、應神天皇がまだ幼かったため、神功皇后が政務を行ったということである。しかし書紀によると、應神は神功皇后が崩御の後に即位した。彼女は間違いなく天皇だったのである。 武烈は四十九才で即位し、五十七才で崩御するまで八年間在位したと言うが、『扶桑略記』にはわずか十才で即位し、十八才で崩御したとある。武烈には子がなく、後継には應神五世の孫、継体が招かれることになった。十八才で没したとすれば、子がなかったのも納得できる。古代天皇の年齢はしばしば偽られているが、ざっと見たところでは、二十五才ぐらいで第一子をもうけるのが平均的なようだ。 武烈紀には悪行記事が多いが、漢籍などから採られたものであろう。実際はまだ子供だったので、幼稚ないたずらが多く、「あんな子供はかなわん」と臣下たちが閉口することがあり、それがいつの間にか「稀代の悪王だった」という話になったというのが真相かも知れない。 それはともかく、昔は「若い」ということはあまりいい意味ではなかった。音が「弱」に通じることもある。逆に「老」の方がいい意味があり、尊敬されたのである。すると、これらの「ワカ」大王は、実際はまだ若いうちに死んでしまい、幼名がそのまま残ったと考えられないだろうか。 ここに挙げた天皇は、雄略以外は事績記事が少ない。雄略自身の事績記事も、分量がたくさんある割には、内容は大したことはなく、どちらかと言えば愚かな悪行記事が多い。古事記は天皇家礼賛の姿勢が貫かれているので、悪行は一切書かれないが、日本書紀には「大悪天皇」と書かれ、愚行が挙げられている。 現在は、雄略を倭の五王の一人、武に比定する人が多い。しかしその根拠は、かなりあいまいなものである。倭王武は雄略の頃の人物と思われる、雄略の諡であるワカタケルのタケルを中国人が意訳して「武」と表記したと思われる、といった推論であって、確証がない。雄略が倭王武の頃だというのも、日本書紀にある新羅、百済の記事からそう考えているのだが、これは神功皇后紀から見ても、あまり信頼が置けるとは言えない。 倭王武の上表文が宋書に載っていて、「祖禰(そでい)自ら甲冑を貫き、山川を跋渉し」という、なかなかの名文だ。宋書に収録されたのは、中国人も「立派な文章だ」と感心したからだろう。これが倭王武の書簡であるからには、当然彼は「倭王武」または「倭武王」と署名したのだ。立派な漢文が書けるのに、自分の名前だけは漢字で書けなかったはずはないからだ。では稲荷山鉄剣銘では、彼の名はどう表記されていただろうか。ワカタケルと仮名で音書きされていたのではなかったか? 隋書の「日出処の天子」は、阿毎多利思北孤と仮名で書かれていた。中国人に意訳してもらわなくても、そういう書き方もあったのである。 雄略紀には、もう一つおかしな点がある。悲劇の斎王、栲幡皇女(たくはたのひめみこ)の事件である。 彼女が伊勢にいたとき、阿閉臣(あへのおみ)国見という人物が讒言して、廬城部連(いおきべのむらじ)武彦が、皇女を妊娠させたと告げた。武彦の父は非常におそれ、息子を殺してしまった。天皇は皇女を尋問したが、「私は知りません」と言って、何も答えない。彼女は夜、ひそかに神鏡を持ち出して五十鈴川のほとりに埋め、首をくくって死んだ。皇女の行方を捜すと、神鏡の埋まっている地面から虹が立ち上っていて、そのそばに皇女の死骸があった。解剖してみると、腹の中には水があっただけで、妊娠はウソだったことが分かった。武彦の父は早まって息子を殺してしまったことを後悔し、讒言した国見を殺そうとしたが、国見は石上神宮に隠れた。 この事件は、雄略三年に起こったとなっている。栲幡皇女はまたの名を稚足姫皇女(わかたらしひめのひめみこ)ともいうが、その母は韓媛(からひめ)といい、円大臣(つぶらのおおおみ)の娘である。円大臣は、安康天皇を殺した眉輪王(まよわのおおきみ)をかくまったので雄略に攻められ、「娘(韓媛)と領地を差し上げよう」と命乞いしたが、殺されてしまった人物である。その後で栲幡皇女を産んだとすると、雄略三年にはまだ赤ん坊で、妊娠騒ぎなど起こりようがない。 おそらく雄略の年齢自体が偽りで、系譜にも混乱があるのだろうが、意味が全く分からない。総じて日本書紀では、男系のつじつま合わせに熱心で、女性の年齢がデタラメになる傾向がある。この事件などはどう考えても収まりが悪い。群書類従の「斎宮記」や「二所太神宮例文」には「白髪内親王」という名で記されているのも、何だか怪しい。白髪という言葉が名前に付いているのは、清寧天皇の諡(白髪武広国押稚日本根子天皇)だ。生まれながらの白髪だったため、不思議だというのでこの名になったという。少し後代の仁賢紀には手白香皇女の名が見え、手白髪とも書かれる。継体天皇の正后となった女性で、もちろん斎宮ではないが、名前の類似は気になる。ただし岩波古典文学大系の注には、「タシラカは水を入れる大きな容器をいうらしい」とある。 この雄略の諡、大泊瀬幼武天皇(おはつせのわかたけのすめらみこと)も、彼が若くして没したため、幼名がそのまま残ったのではないか、と疑っているのである。そのつもりで見ると、雄略の「事績」には、幼稚な行いや軽率の振るまいが多いようだ。 たとえば雄略七年、小子部スガルに命じて三諸岳の大神を連れてこさせたら、それは怖ろしい大蛇で、天皇が斎戒しなかった無礼を怒り、雷鳴と稲妻を呼んだので、天皇は怖れて宮中に逃げ込んだというエピソードがある。子供っぽい好奇心だったと読めなくもない。 また九年の三月に、雄略は新羅に親征しようと考えたが、神が「行くな」といったので、取りやめたという。これなども雄略がまだ少年だったので、群臣が身を案じて引き留めたと考えられなくはない。もっとも、皇位争いがあった後で、まだ政権が安泰でなかったとすると、都を明けること自体が危険だったかも知れない。 允恭天皇は皇子、皇女が多かった。また雄略にも子供の数が多い。允恭の息子は、雄略を除くと殺されたり、軽皇子のように素行が悪くて系譜から除かれたりして、ほとんど消えてしまう。雄略の子も、清寧天皇および仁賢の正后となった春日大郎皇女を除くと、殺されたり自殺して消えている、雄略の正統性が疑わしいからそうなったのか? 日本書紀を読む限り、雄略は天皇直系で、何も怪しい要素はない。むしろ雄略に殺された市辺押磐皇子(いちべのおしわのみこ、またはおしはのみこ)の方が傍系になっていて、殺される理由がないような気がする。ただ雄略がまだ幼かったとすれば、もう成人していた市辺押磐皇子に人望が集まった可能性はある。 ところで允恭および雄略天皇がもし若くして没したとすれば、子供の数が多すぎるように思う。大部分が正史から消えていったにせよ、果たして本当に彼らの子供だったのか、という疑問がある。たとえば雄略の兄弟には酒見皇女という妹がいたが、この女性はその後どうなったのか、全く不明である。その女性が稚足姫皇女という名前で登場していたら、雄略とほぼ同じ年齢ということであるから、妊娠騒ぎも起きたかもしれない。もっとも、それを証明することは不可能である。 |
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