このページの主な項目
半島で戦っていた人々
欽明以降の救援記事
欽明と八幡神





欽明天皇紀の疑問


欽明天皇紀の疑問点

 日本書紀によると、欽明代に新羅が任那日本府を滅ぼし、天皇は百済救援軍を送ったが、屈辱的な敗北を喫したとある。この記事を読むと、日本書紀には古事記とは違った性格があることを示している。古事記は基本的に天皇礼賛の意図で貫かれており、雄略、武烈両天皇の悪行記事もほとんどない。もちろん欽明の敗戦記事もなく、ひたすら子孫の系譜を書き連ねる。それに対し、日本書紀はできるだけ正確な歴史を書きとどめようとしているかのようである。

 すでに述べたように私は「日本≠倭」と思っているが、それは旧唐書にそう書いてあるからだ。中国としては日本からの使者が「日本から来た」と名乗っても、倭人であることは明らかであり、「日本≦倭」と認識するのが自然であった。それなのに「日本≠倭」と考えたとすれば、それは使者が「倭から来たのではない、日本である」と言ったからに違いない。

 そのつもりで見ると、欽明紀の記述にはあきらかにおかしい点がある。天皇は援軍を送ったように読めるのだが、実際に百済で戦っていたのはもっぱら韓地で生まれたいわゆる韓子(からこ)と筑紫勢力であり、大和からの派遣軍に違いないと思われる人物は、ほとんど登場しないのである。

百済からの使者

半島情勢

援軍派遣・詔勅

高麗・新羅・任那と共に朝貢




聖明王、任那などに詔勅を伝え任那復興を相談する




新羅と日本府の共謀が発覚


遣使


任那復興の詔


百済、会合を企てるが失敗



新羅に通じた日本府の河内直らを訴える



上表

高麗内乱

使者を送る


高麗内乱

船と馬を贈る

救援要請


援軍の約束

援軍停止の要請

高麗、日本府と共謀?

城作りを救援(370人)

11

高麗の捕虜を献上



12


百済、高麗を伐ち漢城回復


13

救援要請

高麗・新羅連合

激励の詔


仏教公伝

百済、漢城を失う


14

救援要請

余昌、高麗で勝利

内臣派遣、馬、船等を贈る

15

救援要請

筑紫の物部氏活躍

援軍千人を約束



余昌の危地を筑紫国造が救う 内臣、百済救援

16

上表

聖明王の死

吉備に屯倉を置く

17



筑紫の軍船、筑紫の兵を派遣




備前に屯倉を置く

23


新羅、任那日本府を滅ぼす

河辺臣らを派遣



河辺臣敗戦




大伴連狭手彦、高麗に侵攻


32



新羅に任那滅亡の情を問う


 欽明八年からたびたび救援要請が来ており、そのたびに援軍の約束やあまり中身のない激励の詔勅が出されている。しかし十四年に至るまで、実際に援軍を派遣する様子がなかった。十四年には内臣(うちのおみ)を派遣したのだが、その名が分からないという。十五年の救援要請は筑紫が舞台であり、これを受けたのは内臣と佐伯連であった。内臣はすぐに援軍千人の約束をしている。筑紫では重要戦略の決定権を持っていた人物のようにも読める。また彼は筑紫の勢力を率いて救援したらしく、もっぱら筑紫の勢力が活躍している。

<半島で戦っていた人々>

 「日本≠;倭」という私の考え方からすると、倭は筑紫を中心とした勢力である。このころ半島で戦っていたという「日本兵」は、大和朝廷の派遣軍でなく、実際は筑紫勢力=倭兵であった。二十三年の河辺臣の記事は、筑紫から出発したとか、他のところから出たという記述がなく、いきなり半島の地から出陣したような書き方である。このときの大将軍、紀男麻呂宿禰(きのおまろのすくね)はいかにも日本人の名前だが、河辺臣の名「瓊缶(にえ)」は韓子の名前かも知れない。彼らは元々任那の日本府周辺に住んでいたのではないかという印象を受けるのだ。

 欽明は、聖明王が死んだと聞くと、大臣の蘇我稲目を吉備に派遣して屯倉を作らせた。また彼は備前にも屯倉を作っている。屯倉はもちろん朝廷の直轄地だが、このときの目的は防衛だったのではないだろうか。百済が滅んで高麗・新羅の連合軍が筑紫に攻め込み、倭国まで滅ぼされたら、大和=日本は強大な敵と直接戦うことになる。大和では、それに備えて防衛線を築こうとしていた。そう考えるとつじつまは合う。何か当時は吉備、備前までは支配下に入れたが、それより西には進めなかったような感じがする。

 また同時に、倭国が存続した方がいいという考えもあっただろう。欽明二十三年の詔勅で「率土(くぬち)の賓(ひと)」という言葉が現れる。国内の人々といった意味だ。率土は王土のことで、梁書から引用した語句らしいが、陸続きの地として、筑紫までを意識しはじめた可能性がある(安閑紀にも同じような言葉が現れるが、意味合いが違っているようだ)。一応は海が間にあるとは言え、ごく狭い海峡であり、陸続きと言っても不自然ではない。伝えられる限りでは、日本も倭も同じような言葉を話していたようだ。継体紀の磐井の乱でも、磐井は近江毛野臣に「オレとお前は、昔は友達として同じ釜の飯を食った仲」と言っている。磐井は当然倭王の一人(倭の五王に対応するかどうかは不明)で、大和朝廷に対立していたが、同一民族で、言葉も同じだったわけだ。任那の危機を眼前にして、同一民族同士で争っている場合ではないという認識が生まれても不思議ではない。

 このころ、大和は倭国を救援したと思う。援軍を出すという形でなく、百済や任那から大勢の難民が押し寄せて倭国が崩壊の危機に直面し、その難民を大和朝廷側が引き受けたのであろう。倭国でも大和の救援を恩義に感じ、以後は大和に外交権を譲ったと考えているのだが、どうだろうか。

 倭国と大和がそれまでしばしば対立していたのに、ある時期大和が日本の統一政権になった、というと武力制圧したと考えるのが普通だろうが、そうした大きな戦闘があった様子はない。平和的な委譲があった、と考えた方がいいように思う。倭の五王の時代、倭国は中国の冊封体制に入ることで自国の発展を図ろうとしていた。中国を盟主と仰いでいたわけだ。しかし新羅の猛攻を受けるようになると、むしろ同一民族の大和との同盟を望むようになり、ついには盟主として認めるようになったのではないだろうか。


<欽明以降の救援記事>

 実際の「政権」委譲がどの時期だったかは、今では分からない。欽明の次に敏達が立ち、やはり百済救援のために、火葦北国造の子である達率(だちそち)日羅(にちら)を百済から召喚して、戦略を立てようとしたが、日羅は伴の者に殺されて果たせなかったとある。このあと、敏達は救援を試みていない。本気で百済を救援する意図はなかったような気がする。

 次の用明、崇峻の両天皇は在位期間が短く、これといった動きはない。崇峻の代には、大軍を筑紫に派遣したとある。崇峻暗殺後、推古三年にこの大軍は呼び戻された。しかし推古八年には再び新羅を攻めるため、境部臣と穂積臣を将軍として派遣した。この両将軍も名前が分からない。書紀は、新羅は一時的に降伏したが、将軍達が去るとまた百済を攻めたという。

 推古十年、新羅を攻める将軍に来目(くめ)皇子を立てた。ところが皇子は筑紫で病気になり、十一年には薨去してしまった。そこで当摩(たぎま)皇子を改めて将軍とした。しかし当摩皇子に従っていた妻が明石で急死した。皇子はそこで妻を葬り、そのまま都に帰ってしまった。三十一年には新羅を討とうとして大軍を出しところ、新羅は直ちに降伏したが、「実は日本天皇に背く意図はありませんでした」という使者が来て、蘇我馬子が「あんなに性急に新羅を攻めるのではなかった」と悔やんだという記事がある。それまでのいきさつを見ると、日本はたびたび新羅に煮え湯を飲まされているので、この後悔はあまり理由がない。

 欽明天皇以後の百済救援記事は、このように何となくあやふやである。天皇の詔勅には具体的な内容がなく、激励を繰り返すばかりのように読める。実際に百済で戦っていたのは、もっぱら筑紫と韓子の兵であった。それどころか、この間、大和朝廷は新羅や高麗の使者を受け入れ、それなりに処遇したらしい。

 新羅からやって来た欽明二十一年と二十二年の使者に対しては、前者を厚遇し後者を冷遇したので、新羅は日本が攻めてくるかも知れないと思って備えを固めたという記事があるが、これは創作かも知れない。待遇に差を付けて見せるのは、中国風の離間の策である。この場合は、同時に使者として赴いた複数の人物の間に大差を付けて、冷遇された人物に厚遇された者を「あいつはきっとあちらの国に内通しているんだ」と思わせるわけで、去年の使者と今年の使者を比べたのでは、戦略としての意味はない。これでは「日本の態度が急変した」と思わせただけである。この間、半島では特別な事態の進展がなかったように書かれており、ここで突然「朕は怒っておるぞ」と言う必要はなさそうである。しばし小康状態の後、二十三年に至って新羅が任那を滅ぼしたとあるので、その必然性を説明するために挿入した話かも知れない。


<欽明と八幡神>

 私がそれでも欽明天皇にこだわるのは、八幡神の起源伝承に登場するからである。すなわち、「八幡宇佐宮託宣集」によると、八幡神は欽明三十二年に初めて現れたという。八幡神は應神天皇の御霊とされ、宇佐には第一殿に應神天皇、第二殿には謎の姫神、第三殿には神功皇后を祭っている。欽明がなぜ関係するのか分からない。

 應神や神功が九州地方で特別に親近感を持たれていたらしいことは、さまざまな伝承から見て取れる。風土記では神功皇后を賞賛を込めて書いているし、應神は阿知使主を呉に遣わして衣縫女などの工女を連れてこさせたが、途中宗像の大神が工女を欲しがったので、四人のうち一人を宗像大社に奉仕させたという記事がある。通行税のような意味かも知れないが、景行、継体、仲哀のように九州征伐の意図が全くなかったことは分かる。神功皇后はまた、仲哀が熊襲征伐をしようとするのを止めた。かつて景行の大和朝廷軍に痛めつけられた思い出のある九州地方の人々にとっては、ほっとする気持ちだったことだろう。

 だが欽明は何をしただろうか。書紀を読む限り、ほとんど何もしていない。私の言うように「倭≠日本」であって、任那の日本府を経営していたのが倭であったとすると、百済救援で活躍していたのは倭の勢力であって、大和はほとんど動いていない。もっと後の天智天皇は、白村江で応援したと思うのだが、「先陣の水軍が敗れたので、一度退いた」とあり、気持ちの逸る倭の勢力と、援軍のつもりでいる大和の軍の間に、戦いぶりの違いがあったかも知れない。

 天智紀には、戦後百済人を難波や近江に住まわせたと出ている。明らかに倭を救援しているのだ。欽明紀には、そういった記事がない。しかし、欽明天皇は仏教に関心があったらしい。早くから神仏習合が進んでいた筑紫では、欽明に同調できるものを感じていたのかもしれない。


<欽明天皇と秦氏>

 欽明記の冒頭、即位前記に秦大津父(はたのおおつち)という人物が登場する。このエピソードを引用しておこう。

 天皇(当時は皇太子)が若い頃見た夢で、「あなたが秦大津父という人物を寵愛すれば、成人して後、必ず天下を治めるようになるだろう」と言う人があった。そこで探し求めたところ、山背の国、紀伊郡の深草の里(現在の京都市伏見区)に該当する人物がいた。この人を呼んで、
「あなたには、何事か変わったことがあったか」
と訊ねると、
「さあ、別にこれと言って変わったこともありませんが。ただ最近、伊勢で商売をしての帰り道、二頭の狼が血みどろになって争っているのを見ました。そこで馬から下り、『お前たちは強い神だが、そんなことをしていると、猟師がやってきて、二頭とも生け捕られてしまうぞ』と教えて、喧嘩をやめさせ、二頭とも逃がしてやりました。少し変わったことと言えば、その程度ですかなあ。」
と答えた。
 この答えを聞いた天皇(皇太子)は「これこそその答えだろう」と言い、それからは常に大津父を身近に置き、寵愛した。そのため、大きな富を成した
 いよいよ皇位を継ぐときになって、彼を大蔵省(おおくらのつかさ)とした。

 上記の太字の部分、「そのため大きな富を成した」という部分は、普通は「秦氏が権力に近づいて、巨富を築いた」と解釈されるのだが、最近読んだ「謎の渡来人 秦氏」(水谷千秋著:文春新書2009年)で、違う読み方があるのを知った。この文は主語がないが、その前後はいずれも欽明天皇が主語である。すると、これも欽明が主語の文ではないかというのである。

 つまり、「秦氏の財力によって、欽明が大きな富を築いた。(それによって権力基盤を造った)」というわけである。この読み方は面白い。秦氏が引用部分にあるように、当時から商売を盛んに行っており、山背地域の開発など、大規模な工事を行う力があったことはよく知られている。一方天皇家は、おそらく継体紀の磐井の乱などの戦闘で、かなり財力をすり減らしていた可能性がある。

 ただ私は、秦氏は結局倭国と大和勢力の和解と統一を画策し、ついには「日本」の国名の下に統一国家を作り上げた原動力ではないかと思っている。他でも書いたが、よくある「多元史観」では、倭国は大和勢力に滅ぼされたとする意見が多いと思う。しかし、それらしい形跡が見えない。この時期に倭国大乱のような争いがあったという証拠は出ていないはずだ。

 上記の本で水谷氏も書いているように、秦氏は争いを好まず、自ら大きな権力を持つ意志もなかったらしい。少なくとも表面上は、ひたすら天皇家に奉仕した豪族で、加藤謙吉氏などは「隷属的な民」とまで言っている。しかし私は思うのだが、秦氏がもといた朝鮮半島で、ほぼ同族同士が互いに血みどろになって争うのを嫌い、いわば政治難民として渡来したのだったら、こちらでもほぼ同族である倭国(北九州勢力)と大和勢力が争っているのを見て、非常に危惧を抱いただろう。

 秦氏が単一の部族でないことは確かである。歴史の表面に出たとき、彼らは既に多様な知識と技術を持つ、雑多な集団に見える。それぞれの家については、一子相伝の技術や知識であったはずのものが、非常に多様なのである。つまり、先祖や来歴を異にする多様な人々が、日本統一の前に、渡来人ネットワークを作り上げていたのではないだろうか。

 結局、彼らは何か暗黒の陰謀を廻らせたというわけでなく、倭国と大和の間に平和的な関係を築こうとしたのだという気がする。彼ら自身は、秦大津父(造とも族長とも書かれていない)が商売で身を立てていたように、平和でありさえすれば、やっていける自信があったのだろう。「隷属的」というのは、やはりおかしい。なぜなら、自ら人に隷属するなどということは、普通誰でも望まないことだからだ。サラリーマンは「隷属的」に会社に奉仕するだろうか。確かに奴隷のような気分で会社勤めをしている人は見かけるが、そういう人ほど部下や後輩を自分の奴隷のように扱うものであり、私は「頭がおかしい」と思っている。人は自分の利益にならなければ、進んで奴隷扱いされたくはないものだ。秦氏は平和な暮らしを望んだのだ。敢えて最高権力の近くにいたいと思わなかったのは、おそらく権力をめぐる内部抗争などを見てきて、危険だと思っていたのだろう。

 倭国と大和が平和的に統一国家になったというのは、劇的なところがないので、あまり魅力的な仮説ではないが、その方が中国史に出る「日本」の登場によく合致するように思う。なぜかと言えば、「日本国」を名乗る使者が登場して以降、もう倭国からの使者はなかったからである。もし倭国が力任せに叩き潰されたのだったら、小さい勢力になってもその残党はいつまでも残り、自分たちで唐に使者を送るとか、救援を求めることをしたはずである。任那も滅亡後、まだ数十年はその勢力が残っていたようだ。ところが中国の書物には、そういう形跡がまるでない。

 強いて言えば続日本紀に出る隼人の乱がその表れかも知れないが、詳細は分からない。何しろ「日本」としては「倭=日本」を国是としているのだから、国内文書にそれに反する記事が残っているはずはない。辛うじて旧唐書などに垣間見える程度である。

 また秦氏の神は、後の宇佐八幡に残っただろう。隋書に見える「秦王国」はいろいろ取りざたされているが、古代から、秦氏の前身と思われる渡来人が、宇佐の辺りに住んでいたらしいので、これを言うのだと思う。すると、八幡神は秦氏本来の神と、筑紫の宗像三女神の「習合」した形のように思われる。宗像三女神は、出雲の大神である大己貴命と婚姻したという説話が残っており、それらしい痕跡は丹波や越前にまで広がっているから、それがかつての倭国連合の広がりと一致するのだろう。

 ただし、全国の神社はたびたび整理されたらしく、崇神天皇のとき、そしておそらく天武のとき、また元明・元正天皇の頃には、統廃合があったようだ(明治政府によるのもある)から、古代の神々については分からなくなっているところが多い。

 いずれにせよ、このエピソードは、「血みどろになって戦う二頭の狼」が倭国と大和勢力のことを意味するのだと私には思われる。欽明はそういう秦氏の「日本統一」の提案を受け入れたのだろう。欽明が九州地方でも比較的好意的に受け取られているらしいことと合わせて考えると、興味深い。ただ倭国と大和の連合が確立するまでにはまだ長い年月を要した。最終的に両者が和解したのは、推古の頃で、それが成って初めて遣唐使が派遣されたと考えている。


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