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古事記の編纂方針
など黥ける利目
黥面文身
万葉集と古事記
宣長の誤読








古事記はなぜ書かれたか


古事記はなぜ書かれたか

 古事記は、その序文において、編作の動機を明記している。天皇の勅命を受けて、各氏族の伝承から「削偽定実」を経て、正しい歴史を記述することだったという。このことはよく知られた話だ。しかしなぜこの時期にそれが必要だったのか、その八年後に編纂が開始された日本書紀では、なぜ古事記を漢文化するだけで済ませられなかったのか、古事記が「削偽」したはずの多数の異説が、なぜ日本書紀に改めて列挙されているのか、疑問は尽きない。

 それどころか、古事記には、日本書紀のどの「一書」にもない異説が述べられている。一例を挙げると、たとえば宗像三~の誕生の順序は、日本書紀に各種述べられているのに、古事記はそのどれとも異なっている。それは日本書紀に漏れた伝承を記録しようとした結果ではあるまいか。つまり日本書紀を読んだ人物がその内容に不満を持ち、自家の伝承を元に、新たに書き下ろしたのではないのか?

 古事記は、序文で述べる述作時期より、百年後に忽然と現れた書物である。弘仁私記の多人長によって存在が明らかにされ、彼の歴史観にぴったり一致している。しばしば古事記真書説の根拠になる万葉仮名の用法も、彼は知り尽くしていた。つまり古事記が偽書だとすると、多人長がその「犯人」である可能性は大きい。

(上記については、万葉集に採録された歌があり、多少訂正を必要とする)

 古事記偽書説は目新しいものではないそうだ。本居宣長の詳細な研究が現れるまでは、むしろ偽書説の方が有力だった。しかし日本書紀に並ぶ「神聖な」書であると考えられるようになったのは、明治皇国史観においてである。

 古事記が日本書紀を参照して書かれたという証拠(状況証拠)はあるが、日本書紀が古事記を参照したと思われる部分はない、とも言う。多くの神々という意味で「八百万(やおよろず)」の神、という表現があるが、日本書紀では「八十万(やそよろず)」と表記し、古事記では「八百万」と書く。これも明らかに日本書紀の方が古代的な表現で、古事記はかなり時代が新しいのだそうだ。

(ちなみに、古事記より早く出現した「古語拾遺」では、常に「八十万」と表記する。日本書紀に合わせただけとも取れるが、この頃はまだ八十万の表記が一般的だったとも考えられる)

 他にも怪しい状況はあるが、それは別項に譲るとしよう。もし多人長が古事記を編作したのだとすれば、その動機は何だったのだろうか。


<古事記の編纂方針>

 古事記の編纂方針は、

  1. 大物主神こそ天皇家の最高神であるという主張

  2. おおむね日本書紀の天皇紀配列に従った「歴史」の記述

  3. 氏族の系譜を詳細に記す

といったものであっただろう。

1.大物主神こそ最高神である

 古事記は、崇神天皇以降、天照大神について、ほとんど無視している。日本書紀に比べると、唖然とするほどの違いである。

 日本書紀では、歴代斎王の境涯、時には悲劇や、伊勢に落ち着くまでの天照大神の遍歴について大略が記載されている。しかし古事記では斎王について細註で「この皇女は伊勢の斎宮だった」と記すのみであり、天照大神が伊勢にいる事情はほとんど分からない。そもそも日本書紀にある「崇神までは宮中に天照大神を祭っていた」という一文がないのである。ただ倭建命が蝦夷征伐に向かう途中伊勢に立ち寄り、倭比賣(ヤマトヒメ:古事記の中では「倭」が女性名に付いた珍しい例)に面会したエピソードだけが詳しい。

 これに反して、大物主神に関しては、日本書紀より詳しい記述がある。崇神六年の大物主神のタタリには、日本書紀に出る倭大国魂神の名は(もちろん天照大神も)登場せず、すべて大物主神の話として語られる。それどころか、意富多多泥古(オオタタネコ:書紀の太田田根子)の出自を詳しく記し、書紀にある倭迹迹日百襲姫命の大物主神伝説と似通った「三輪山伝説」を展開する。

 書紀に登場する倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトビモモソヒメのミコト:読みにくい名前だが、やまと・ととび・ももそひめの中央の「ととび」を「鳥飛び」と解釈して読むと、それほど読みにくくない)の話はこうである。彼女は、毎夜正体不明の男性の訪れを受けていた。ある日「あなたに昼間お目にかかりたい」と言ったら、男は「では明日、お前の櫛を入れる箱の中にいてやろう。その姿を見て驚くのではないぞ」と返答した。ところが、姫が櫛の箱を開けたところ、そこにはきれいな小蛇がいた。姫は驚いて叫んだ。すると蛇はたちまち美しい男の姿になり、「よくも私に恥をかかせたな。以後は絶対に会わん」と言って、空に上って三輪山目指して行ってしまった。姫は「ああ」と後悔してどすんと尻餅をついて座り込んだが、たまたまそこに箸があり、陰部を突いて死んでしまった。姫のために大きな墓を築き(昼は人が造り、夜は神が造った)、それを箸墓と言う。

 一方、意富多多泥古の所伝はこうである。意富多多泥古の数代前の先祖に活玉依比賣という美しい女性がいた。そこに夜な夜な美男子が通ってきた。程なくして妊娠したので、父母が怪しみ、「その男の衣の裾に針を刺して、麻の糸をつないでおけ」と言った。朝見ると、その糸は鍵穴を通っており、その先を追うと三諸の山だったので、男はこの山の神であることが分かった。残ったのは麻糸の三つの輪だけであったので、その山を三輪山と呼ぶ。云々。

 似ているようで似ていない。この二つの話の共通点は、男が三輪山の神だったらしいことだけである。このタイプの説話を神婚説話と呼び、他の氏族にも起源伝承には同じような話がたくさんあったものと思われる。

 たとえば息長氏と関わりの深い三上氏は天目一箇神(あめのまひとつのかみ)の子孫となっている。しかしこの神は近江の三上山の神である。また天之御影神という別名もあって、播磨国風土記や、丹波の伝承にも同じ名前が登場する。たいていは崇拝されたらしい山の山頂に鎮座しているので、類似した神婚説話があったであろう。

 また神武天皇の正后であった姫蹈鞴五十鈴媛は、ある夜母のもとにやって来た事代主神(書紀本文の説:一説には大物主神とあり、古事記は大物主神説)が産ませた娘という。「山城国風土記」逸文の賀茂社の説話も、神の名こそ違え、これによく似ている。

 大物主神は蛇体だという説は、雄略紀にもある。天皇が「大物主神をこの目で見たい」と言ったので、小子部連スガルが宮中に連れてきたが、それは恐ろしい大蛇で、雷鳴と稲妻を呼んだので、天皇は驚愕して宮中に逃げ込んだというエピソードがある。

 ただし白河本旧事紀によると、実際は神が姿を見せたのでなく、「人皇の分際で神を呼び付けるとは無礼な」と怒った神が、代理の使者として大蛇を送ったという。白河本旧事紀ではこの後も宮中に現れて、たびたび天皇の行いを責めることがあった。

 白河本旧事紀は、日本書紀を丸写しした部分も多いが、古事記にも日本書紀にもない異説が見られる。全体としては伊勢神道の影響が色濃く、たとえば月読尊=豊受大神と明確に記してある。陰陽五行説や仏教用語だけでなく儒教色も表れており、平安時代以降に成立したものだろう。しかし、すべてその時その場ででっち上げたものとも思えない。熊野三山の起源説話や「欠史八代」の天皇紀にある記事などは、初めて読んだときにはずいぶん奇抜な印象だったが、実は類似の話が他の形でも伝えられている。

 日本書紀が完成してから、『古語拾遺」のように、「遺(も)りたること」を書き留めておこうとする動きが各氏族の間に広がり、古事記や先代旧事本紀が書かれたというのが、私の推論である。

 その古事記は、大物主神こそ天皇家が最も重視すべき最高神だという「イデオロギー」の所産のような気がする。第十代崇神天皇以後、第四十代の天武天皇が伊勢神宮を復興するまで、天照大神は大物主神の脇役に追いやられていた。ところが古事記が書かれた頃には、天武による宗教改革が始まっていた。日本書紀の伊勢神宮に関する記述が詳細なのは、そのためであろう。しかし客観的に見ると、同時期には仏教が重んじられるようになってきており、この両神の対立はほとんど終わっていた。

 天武天皇の代には、伊勢神宮の大規模な修造工事が行われたという。斎宮殿もその時着工されたのだろう。また宮居が傷むのを憂慮して、遷宮の制度を定めた。天武の皇女の多くが斎宮になったが、最初の大来皇女(おおくのひめみこ)は、初Pで潔斎した。この時はまだ斎宮殿が完成しておらず、既存の神社を斎宮として行ったのだろう。斎宮なる存在は、用明天皇の皇女酢香手姫が推古三十年に退いた後、およそ五十年の間途絶えていたらしい。天照大神と神武天皇を特に尊んだ天武天皇にとっては、復活が急がれるべき制度であった。

 だが多人長の頃はどうだっただろうか。もう古代の神は主役の座を降り、国の宗教は、仏教が中心になっていた。天武の定めた伊勢の遷宮と斎宮の制度は生きていたし、新たに登場した八幡神という強力な神を天皇家では伊勢の神以上に崇めていた。これら大神たちと仏の間で、大三輪の神は目立って凋落したのである。多氏にとっては、まさに悲憤慷慨、血涙下る時代だったのだ。

 そう考えると、伊勢神宮についての記述の乏しさ、仏教登場の頃から後の古事記の記事がほとんど何もないことは、納得できる。たぶん古事記編作者には、「昔は大物主神こそ天皇家を守る中心の神だった」という主張が重要だったのだ。それはもちろん、多氏の家系にとって、大物主神が最も大切な神だったからである。古事記の編作者は、多人長である可能性が高いと思う。彼が多氏の伝承を中心に、日本書紀に漏れた、あるいは軽視された各氏族の伝承をまとめたのが古事記だったのだろう。

2.日本書紀に従った歴史の記述

 現在では日本書紀と古事記をいずれも「歴史書」と呼び、両者を混同している人も少なくない。しかし古事記はそもそも歴史書ではなく、ただ日本書紀の記述順序に従って、説話を配列したものである。

 日本書紀は国家の正史であるということから、「天皇家のために書かれた天皇家礼賛の書」というのが定説のようになっているが、そう思うのは日本書紀を読んでいない人である。日本書紀には、天皇家にマイナス材料になる記事がいくつかある。実際は古事記こそ天皇礼賛の書であって、そうしたマイナス記事はほとんどない。例外的に雄略記に市辺押磐皇子の謀殺記事など記されている程度だ。

 古事記の記す雄略天皇の像と、日本書紀とはかけ離れている。書紀には「大悪天皇」という表現があり、気まぐれな暴君のイメージが強い。ところが古事記では、心の広い立派な天皇であったように書かれている。ただし好色であったらしい。赤猪子(あかいこ)の話などは、その典型である。天皇があるとき、美和河(三輪川)のほとりで一人の美少女に出会い、「いつか宮中に召すから、結婚するな」と言い残した。しかし天皇はそのことをすっかり忘れてしまい、その美少女(赤猪子)は八十才の老婆になるまで待っていた。それから百取(ももとり)の机代物(つくえしろのもの:結婚の時の嫁からの捧げ物)を持って、天皇のもとを訪れた。天皇は「まるで憶えていない。だが、この年まで結婚せずに待っていたというのは、あわれである」と述べ、丁重にもてなした。せっかくだから一度ぐらい男女の交わりをしようと思ったが、あまりにも老婆なのでかえってかわいそうだと思って何もせず、たくさんの贈り物を持たせて帰した。

 いかにも昔話で、誰でも作り話だと思うだろう。だが、ともかく古事記の描く雄略の姿は、ちょっと間抜けで心優しい大王だった。

 日本書紀には他にも悪王が登場する。それは武烈天皇だ。古事記はこの天皇のことをほとんど何も書いていない。また欽明紀の百済での敗戦の状況も、古事記にはない。これらは、天皇家礼賛の書であるべき古事記にとっては、触れたくない歴史だったのである。

 他にも疑問点がある。

 たとえば、古い書物は神功皇后を十五代天皇としているが、現在では皇統譜から除かれている。私は古くは神功皇后の即位記事があり、「皇后」という呼称はすべて「天皇」と表記されていたかも知れないと思う。

 なぜかというと、摂政と言うからには、後継天皇が成長した時点で、天皇位を譲って隠退するのが当然である。清寧天皇の崩御後、顕宗天皇が立つまでの一時期、青皇女が政務を執った。清寧が顕宗を皇太子にしたというが、事実はまだ幼かったのであろう。このような中継ぎの役割が摂政にはある。ところが、應神天皇は、神功皇后の崩御後に初めて、六十九才で皇位に着いている。普通は前の天皇が皇太子を立てるのだが、神功皇后紀では、皇后が應神を皇太子にしている。摂政前紀、本紀という構成も、間違いなく天皇紀である。

 それを「摂政」として、天皇表記を削り取ったのは、桓武天皇代のことであろう。弘仁私記の序によると、延暦代に「誤った系譜」を伝える本を焼き捨てさせたという。われわれが現在目にすることができるのは、それ以後の写本である。

 だが、細註の形で途中に埋め込まれた文までは、修正の目が行き届かなかった。そのため、本文ではすべて「皇后」としてあるのに、細註には「天皇」という表記が残った、と思うのである。

 もしそうだとしたら、神功皇后を天皇の系譜に含めない古事記は、桓武天皇以降の述作だということになるわけだ。

 ただしこれは確実な証拠がない話であるから、あまり固執はしない。神功皇后を「天皇」と明記した史料は多くない。仮に桓武天皇が「神功皇后を『天皇』と書いたものは良くないから、すべて『皇后』に改めよ」と詔勅したとしても、完全に抹消することは困難だったはずであり、風土記などではもう少したくさん見つかってもいい。

3.様々な氏族の系譜をできるだけもれなく記載する

 古事記はまた、日本書紀には出て来ない氏族の伝承を豊富に記載している。歴代天皇の子の数が日本書紀より多く書かれていることがあり、「欠史八代」の天皇も、後継氏族がつぶさに記載される。他の記録では確認できないものもあるが、当時は存在した氏族なのだろう。

 古事記における仁賢天皇以下推古天皇に至る間の記述は極めて内容に乏しい。継体天皇の磐井の乱の件が簡単に触れられている程度だ。しかしそれに反して、皇子皇女の記載は詳細だ。そこには何か執念のようなものが感じられる。

 一方、日本書紀には豊富にある半島や大陸の記事は、古事記にはほとんど出て来ない。強いて言えば国号の「日本」を常に「倭」と書いていることと、神功皇后のいわゆる「三韓征伐」を記載している程度である。

 別のところでも述べたように、「日本は古くは倭といった」というのは、誤解である。魏志倭人伝には、倭は小国に分かれていたと書いてある。つまり、それぞれの使者はそれぞれの国名を名乗っていたということだ。中国はその倭人の国を総称して「倭」とよんでいた。だから正しくは、「日本は古くは中国から倭と呼ばれていた」ということである。日本書紀には、国名変更のことが一切出てこない。というより、日本はそもそもの初めから日本だった。『日本』表記をすべて『倭』に書き換えてみても、中国の歴史書に似せられるだけで、自国の古い歴史が復元されるというものではない。古事記はこの点に対する誤解に基づいて書かれた擬古書である。

「日本は古くは倭といった」というのは、弘仁私記で多人長が述べた考えであるが、釈日本紀に至ると、日本国号自体も唐から授かったなどと述べている(延喜講記にあるという)。当時は日本国号が唐にも受け入れられてもう百年以上経過していた。書紀編纂当時の大和朝廷の苦悩は忘れられていたのである。

 逆に、古事記が正式国名を「倭」とするなら、どこかの時点で「日本」に変更した記事がなくてはならないが、それはどこだっただろうか。古事記は推古記の簡単な記載で終わっていて、最後まで「日本」が現れない。私は、国名変更の時期は推古代だったろうと思っているが、古事記編作者も「倭の歴史は推古までだ」と言っているのかも知れない。

 それはともかく、氏族の伝承を豊富に記載したのは、やはり「古語拾遺」と同じく、「遺(も)りたること」をできるだけ伝えたかったからであろう。


<など黥ける利目>

 古事記の疑問点の一つは、おそらく書かれた時期は日本書紀より新しいとしても、その記事には明らかに非常に古い古代の伝承が含まれていることだ。

 書かれた時期が新しいという根拠として、前述したように「八百万の神」という表記があり、どうやら『古語拾遺』が書かれた頃までは、「八十万の神」という表現が普通だったように思う。

 時代錯誤的な表現はもう一つある。崇神天皇(第10代)条に、大物主神のお告げで、意富多多泥古を各地に探し求めたときの表現で、「駅使(はゆまづかい)を四方(よも)に班(あか)ちて」というのである。駅馬使を四方八方に飛ばした、ということだ。もちろん、当時は駅馬の制がなかった(書紀によると、第16代應神天皇に至って初めて馬が導入されたことになっている)ということを言っているわけではない(なおこの部分は、日本書紀では各地にお触れを出して、としか書かれていない)。

 正式の駅馬の制は、書紀編纂の少し前になって定められたと思われるのに、日本書紀にも崇峻、推古紀に「駅馬」が登場している。その用途は、国事の急を告げるものであった。何しろ、『続日本紀』の最初の頃までは、国が各駅に配置する馬の数まで決めていた。当然、重要な国事を速く伝えるために使用されたのだ。昔の記録に「馬を走らせて急報した」とあれば、書紀編纂者は「当然駅馬だ」と考えたであろう。

 蛇足だが、駅馬について触れておこう。馬という動物は、初速こそすばらしく速いが、20kmほど全力で走ると、へばってしまう。犬に追わせると、最初は大きく引き離されるのだが、長距離を追い続けても疲れることがないので、やがては追いついてしまう。人を乗せていればなおさらだ。だから、馬が疲れる程度の距離ごとに、乗り換え用の馬を用意しておく。その場所を「駅」と呼んだ訳である。電車の駅は、馬が走るわけでもないのに馬偏が付いている。元は馬の乗り継ぎ場所で、いわばレンタカーのようなものであった。この駅を守る駅司は重要な仕事だったようで、続日本紀には、一部の駅司が「いい馬を惜しんで貸さず、謝礼が少なければ駄馬を貸した」というので処罰されたという記事がある。

 おそらく駅馬の制は、制定後しばらくは、重要な国事にだけ使用されたと思う。だがもう少し後、『万葉集』の時代になると、「愛しい男に一刻も早く会いたい女が駅馬で駆けつける、その鈴の音がする」という意味の歌が詠まれている。国事でも何でもない、単なる恋愛沙汰だ。プライベートと言えば、これ以上はないであろう。

 つまり『万葉集』時代には馬の数が増えて、カネさえ払えば自由に利用できるようになっていた。現代なら、「急ぐならタクシーで」と思うのと同じように、「急ぐなら駅馬で」というのが「常識」になっていただろう。

 そのため古事記編作者も、ついうっかり編作当時の気分で、「急いで探すのだから駅馬を使うのが当然」と考えて書いたと思うのである。これは文献証拠などというものではなく、私の「心証」である。書紀編纂者たちはもっと慎重だったのか、それなりの記録が存在していたのかは不明だが、應神紀より前には馬が全く登場しない。

 ともかく、古事記は『万葉集』以降だと考える。

 しかし、だからといって古事記のすべてが「クズカゴ」行きという訳には行かない。そこには、今では失われてしまった貴重な伝承が残っていると思う。

 ~武は、大和入りを果たすとすぐに正后を立てたいと思った。この理由として、おそらく~武はまだ若く、現代なら少年と呼んでもいい年齢だった、また故郷の宮崎に残した妻というアヒラツヒメは、おそらく本来は五瀬命の妻であり、もう~武から見るとオバサンだったので、呼び寄せる気もなかっただろうと推論した。

 そのとき、おそらく物部氏の世話だろうと思うが、比賣多多良伊須氣余理比賣(ひめたたらいすけよりひめ)が紹介された。

 そこで、~武は大久米命と一緒に、この事代主神(または大物主神)の血を受け継ぐという少女を見に行った。その場所は高佐士野(たかさじの)という。元来、比賣多多良伊須氣余理比賣という姫は大阪三島(現在の茨木市)の出身だが、古事記では「倭(やまと)の高佐士野」と書かれているので、この場所は大和盆地だった、という解釈が多い。現在茨木市には「溝咋(ミゾクイ神社」があり、ここが姫蹈鞴五十鈴姫の出身地だったとされているが、その神社の伝承でも「まだ少女の頃大和の地に移住した」と、古事記の記述に寄り添った言い伝えになっている。

 だが私はそう見ていない。~武は宮崎の出身であり、大久米命もそうであるから、彼らから見て「ヤマト」というのは、要するに物部氏の勢力範囲のことであったはずだ。そこには三島地方(北摂津)も含まれていただろう。

 ともかく、まだ馬もない時代だから、彼らははるばる歩いて三島まで行った。姫は友達(おそらく親戚や幼なじみ)と一緒に、初秋の野辺で遊んでいた。

 大久米命は「倭の高佐士野に七行く媛女(おとめ)ども誰をし枕(ま)かむ(七人もいますぜ。どの娘にしましょう)」と歌で~武に問いかけた、天皇は、先頭に立って歩いているやや年長の娘が際立って美しいのを見て、もうほとんど一目惚れ状態だったので、「えへん、そうだな、まあ取りあえず、先頭のあの子にしておくか」といかにも適当に答えたような返事をした。

 大久米命は彼女に近づき、「ねえちゃんどうだ、この人がお前を嫁に欲しいといっている。嫁に来るか?」と話しかけた。

 姫は「まあ!」と驚いたが、ふと大久米命の目尻の入れ墨を不思議に思い、

「あめつつ、ちどりましとと、など黥ける利目(などさけるとめ)」

と歌で問いかけた。

 この歌の前半の意味は不詳である。アメ、ツツ、チドリ、マシトトはすべて鳥の名と解釈されうるそうだ。その解釈だと、後半の「など黥ける利目」=「なぜそんなに(鳥のように鋭く)目が裂けているの?」というところにのみ意味があることになる。

 大久米命はこれに答えて、「媛女(おとめ)に直(ただ)に逢はむと我が黥ける利目」と歌った。これは「あなたの美しいお顔をはっきり見ようとして、こんなに裂けているのですよ」という意味である。

 このところは、古事記全編でも特に美しい場面だと思う。初秋の野辺を行く美しい七人の少女、姫の少女らしい驚きと好奇心、現在では意味不明ながら、透き通った古代の少女の声が聞こえそうな歌だ。実に清新で溌剌とした、夢のように美しいエピソードではないか。

 これに限らず、古事記は「歌物語」の性格があり、本居宣長は、そこにに魅かれたのである。日本書紀に比べると、古事記は女性の歌が多いように思う。あえかなる、たおやかな感性で詠まれた古代の歌、それは実に不思議で、タイム・マシンに乗って古代の透明な神秘の光に照射されるようである。

 今は失われた古い風土記の世界が、古事記に残っていると思う。おそらく「摂津国風土記」が残っていれば、謎とされているこれらの古代部分は、かなり解明できるだろう。だが現に残っていないのだからどうしようもない。

 この入れ墨は、歌舞伎の隈取りや、奴凧の奴の目尻に入っているようなものと思って良いが、遺物として残るものではないので、正確なところは分からない。これらの入れ墨はいずれも目尻が跳ね上がる形に入っている。

 ところが『播磨国風土記」の「麻跡(まさき)の里」条には、應神天皇がその山の稜線がなだらかに下がっているのを見て、「人の眼を割(さ)き下げたるに似たり」と言ったので、「目割(まさき)」と名付けたとあり、当時の入れ墨は目尻が下がる形に施されたと思われる。

 とにかく、彼女は~武の死後まで生き残っていた。そして晩年にいたって、息子が殺されそうだというので、

佐井河よ 雲立ちわたり 畝傍山 木の葉騒(さや)ぎぬ 風吹かむとす

と歌って教えた。この歌は、残念ながら古代的ではない。『古今和歌集』以降、五七五七七の型が整ってからの歌のようである。はるか後の歌のはずの、雄略天皇御詠とされる『万葉集』巻頭の歌でさえ、ここまで整っていない。平安時代の誰かが創作したものだろう。

 「あめつつ」の歌は四七七である。雄略の「こもよ みこもち、ふくしもよ みふくしもち」も、全く後代のような韻律を持たない。柿本人麻呂の歌も、総じて古代的であり、韻律が七五調から外れる傾向がある。もっとも、反歌は五七五七七の型にぴったりはまっている。おそらく長歌はより歌謡的に歌われ、韻律も自由度が高かったのだと思う。反歌の方は朗唱的に歌われたのだろう。

 ちなみに、五七五七七とか、応援歌のように三三七拍子とか言っても、本質は四拍子ないし八拍子である。五七五七七の場合、読むには「古池や・・・、・かわず飛び込む、水の音・・・」といったふうに、五音には三拍の休止を挟み、七音には一拍の休止を挟む。「かわず飛び込む」は音節が3+4であるから、頭に休止を置く。「雲立ちわたり」なら4+3と考えられるから、末尾に一拍置く。

 平安時代になると、ある程度日本書紀的な歴史観が定着した。その頃には、書紀講筵が完了すると、盛大な饗宴が行われて「竟宴和歌」が詠まれるようになった。そこで書紀や諸家の伝承に合わせて、古代にはなかった歌が創作され、それが古事記に織り込まれた。そう考える方が筋が通っている。


<黥面文身>

 ところで、この『など黥ける利目』は、当然ながら魏志倭人伝に出てくる「黥面文身」を連想させるであろう。倭国では、男はいずれも黥面していた。ところが比賣多多良伊須氣余理比賣は、大久米命の入れ墨を見てびっくりしている。男はみんな黥面だったとすれば、このような歌が詠まれることはなかっただろう。

 私は邪馬台国九州説なので、この歌にも違和感はない。当時、大和地方には黥面の風習がなかったのだと思う。後代には、罪人などの目に入れ墨をしたというが、日本書紀の履中五年には、天皇が淡路島で狩りをしたとき、連れて行った馬飼部たちがまだ入れ墨したばかりで、その傷が癒えていなかった。すると淡路の大神(伊弉諾尊)が現れ、「馬飼部たちの入れ墨の血が臭くてかなわん」と告げた。それ以後、馬飼部の目に入れ墨することを止めた、とある。

 これは、たまたまその時血が臭かったと言っているのでなく、入れ墨そのものが異習であったと言っているように思う。入れ墨の血が臭いのなら、傷が十分癒えてから連れて行けばいいので、入れ墨そのものを全く止めるという話にはならない。

 明らかに、大神は黥面を異習、異俗として嫌ったのだ。伊弉諾、伊弉冉両尊は淡路島や紀州に強く固着した「近畿」の神であり、そこには黥面文身の風習がなかったことを意味するだろう。同時に、天皇家の祖神であった天照大神は黥面の風習があった地域の神なのだから、伊弉諾たちの御子でもないことになる。

 実際のところ、天照大神の本当の起源は全く不明なのである。この非常に美しい姫神の本拠地は、伊勢神宮だと思い込んでいる人が多い。しかし本来、神は自分の生誕地を離れるものではない。~武が天照大神を背負って九州から大和地方へ移ってきたとすると、それはあくまで分霊である。彼の故郷には天照大神の生誕地があり、本社があると考えるべきだ。ところが、九州地方には、それらしいものが見られない。今は忘れられた地方神として、全く無視するやり方もある。だが神の寿命は長く、信仰はそれほど簡単には消滅しない。

 ましてや天皇家の祖先神として重んじられるようになったのであれば、その故郷に残るはずの「本霊」の方は、もっと派手派手しい形になっていてもいいだろう。ところが、天照大神に関しては、どうやら後代の付会と思われる神社しか見当たらない。

 かろうじて天照大神らしいのは、八幡の大神だ。九州地方に古くからいた神と思われ、邪馬台国北九州説からすると、卑弥呼の神に違いない。卑弥呼=天照大神という考え方もあり、私も初めて魏志倭人伝を知ったときはそう考えたのだが、今はそう思っていない。卑弥呼自身は巫女であり女王でもあったので、神ではない。卑弥呼が奉斎し神託を受け取った、その神が八幡神だと思う。その本体は、第二殿に祭られている固有神名が不明の比刀iひめ)大神のように思われる。姫神であったのだ。

 もちろん「邪馬台国東遷説」もあり、それによると倭国の中心だった邪馬台国はいつか東に移動して、大和で朝廷を作ったのだそうだ。

 だがそんな移動の痕跡はない。邪馬台国が移動したと言うからには、百人程度の移住ではなく、少なくとも数万人規模の大移動のはずだ。戦争か疫病か飢饉か、倭国崩壊の危機に瀕していたことになるだろう。問題は、伝承には何も残っていないことだ。神武東征の軍は、せいぜい数十人だったと思う。当時の舟は、後代の帆船のような大きな船ではない。カヌーに近いものだ。日本書紀は、船をつないであったと記すが、小舟を並べてつなぎ、安定感を増そうとしたのであろう。ところが大波を受けると、すべての船が一斉に遭難する。

 とにかくその程度の舟では、大群衆が海で移動することは難しく、大部分は陸路をたどったはずである。それは、その経路に住んでいた人々には「通った後にはペンペン草も生えない」ような大災厄だっただろう。そういう伝承が、何も残っていないのだ。私は邪馬台国東遷説を採らない。

 それでも八幡神と天照大神が同一神であったとすれば、考えられるのは、九州地方には南方まで天照大神信仰があり、~武はその分霊を背負って東に向かった。だが南九州の信仰はやや原始的で、当時すでに北九州で始まっていたであろう仏教との混交がなかった。そのため、天皇家で祭っている間に、そもそもの起源である八幡神との性格が違ったものになってしまった。

 とにかく、姫蹈鞴五十鈴姫にとって、~武たちは異様な風体をした一行で、突然の結婚申し込みにはさぞかし驚いたことだろう。古事記には触れられていないが、~武自身も黥面だった可能性が大いにある。

 少なくとも後代、部民や罪人に入れ墨を施すのが天皇家ないしその所属する民にとって普通の習俗だったのだから、大久米命は、さして高い身分ではなかったように思われる。彼の末裔については、あまりよく分かっていない。そうした人物と、まるで親しい友人のように話している神武天皇とは、どれぐらいの身分だったのか?

 後世、権力者が美女を「お召しになる」のとは全く違う、この真剣な求婚場面では、神武は果たして「天皇」だったか?おそらくまだ「豪族」とさえ見られていない、渡り者集団の一人に過ぎなかったのではないか?それに、彼は本当に五十過ぎの、当時で言えば「老人」だったのか?私には、~武はまだ初々しい少年だったように思えるのである。ただし、周囲を驚かせるような才知と、その後の天皇家の礎を築くだけの能力があったのだろうと思う。

 こうして、古事記はいろいろな想像をかき立てくれる。おそらく失われた摂津国風土記などの古文献が残っていれば、多くの疑問が氷解しただろう。もちろん、播磨国風土記のように、かえって疑問が増える内容のものもあり、大和国風土記に至っては、そもそも書かれなかったのではないかと思う。

 風土記の編纂は、理由が明確でない。私は当時最大の国家事業だった、日本書紀編纂のための史料にするのが第一の目的だったように思う。書紀はそろそろ完成に近づいていた。しかし、そうした書物の編纂をすると、当然の疑問が多く芽生えたはずである。

 こんにちの歴史家は、書紀編纂を政治的意図の産物としか見ないから、編纂者たちの知的好奇心を非常に軽く見る傾向がある。だが、書紀講筵に参加した貴族たちも、自家の系譜もさることながら、歴史そのものに興味を示したそうだ(実用の書としては、自家の系譜の証明に使うことが多かった)。

 神代紀に頻出する「一書に曰く」も、「政治的意図」の達成には何の役にも立たない、些末な事実の詮索である。編纂者たちは、諸家の伝承に矛盾があると思ったら、もっと多くの資料を欲したに違いない。だが、何かの事実の傍証を求めても、誰に資料の提出を求めるべきか分からない。いっそ全国にそれぞれの伝承を書き記した書物を提出させた方がいい。それが風土記撰述の詔勅になったと思うのである。

 もちろん、もう大筋が出来上がっていた時点であるから、とんでもない異聞が登場したら、彼らも破棄せざるを得なかった。しかし、書紀に織り込むことができるなら、できるだけ記載しようとした。

 まあこれは他のところでも述べたので、もう繰り返さない。とにかく古事記編作者は、古風土記を見ていると思う。~武の求婚、猿田彦の最期、神功皇后のエピソードなどは、風土記から採った記事であろう。古事記序文が偽作されていても、その本文をすべて捨て去るには忍びないのである。


<万葉集と古事記>

 万葉集は大伴家持の編集だろうと言われている。疑うべき理由は何もないので、その通り信じるとしよう。その中には、古事記からの引用がある。前述したように、古事記が公然と姿を現したのは、多人長の書紀講筵は弘仁4年(813年)以降のことだが、それ以前は隠されていた。しかし、大伴家持は延暦4年(785年)に世を去っている。

 したがって、ここまでに述べたことは一部訂正しなければならない。多人長が最終的な古事記完成者だということはおそらく確かだと思うが、原本はもっと前にあり、少なくとも大伴家持はそれを見ているということである。巻第二の90は、仮名遣いこそ違え、同じ歌であることは明らかだ。

90 君が行き 日(け)長くなりぬ 山たづの 迎へを往かむ 待ちには待たじ
    <ここに山たづと云ふは、今、造木(みやつこぎ)といふそ>

と訓読されている歌だ(岩波古典文学大系『萬葉集一』)。古事記では軽大郎女の歌として書かれていて、ほぼ同じように読まれている。念の入ったことに、付記された「山たづ」の注釈まで古事記と酷似している。

 ところが、大伴家持の参考にした『類聚歌林(るいじゅかりん)』という書物には、これによく似た歌が磐媛皇后(仁徳天皇の后)の歌(万葉集85)として出ていた。そこで、万葉集編者は日本書紀を調べたが、仁徳紀にも允恭紀にもこの歌は出ていなかった、と注釈する。85の歌は、

85 君が行き 日(け)長くなりぬ 山たづね 迎へか行かむ 待ちにか待たむ

とあり、90の歌とは歌意に違いがある。

85 あなたが行かれてからずいぶん日が経ちました。山を尋ねて迎えに行きましょうか、このままお帰りを待ちましょうか。
90 あなたが行かれてからずいぶん日が経ちました。お迎えに行きましょう。とても待っていられません。(「山たづ」は「迎え」の枕詞)

 仁徳紀は書紀全体でも特に歌の分量が多い。多情な天皇であったからだろう。万葉集に採録されたものもあり、古事記にも共通する歌がある。

 允恭紀では、太子であった軽太子が同母妹の軽大郎女と情を通じたが、太子は天皇に次ぐ高い身分であるから罰することができず、姫だけを伊予に流したとあり、太子が悲しんで詠んだ歌が2首掲載されている。ただし允恭天皇崩御の後には、太子がこうした不品行のため人々に嫌悪され、自死したとある。

 古事記では、軽太子はすぐに廃嫡となり、伊予に流された。姫がその後を追って行き、ついに伊予で共に死んだとある。このエピソードだけで12首の歌が出ており、悲しい恋物語として美化されている。

 この後の天皇の系譜は、暗殺や簒奪が相次いだように見え、軽太子の事件はその混乱の引き金になったとも考えられるので、何か隠れた事情があったのだろうか。当時としては、いったん立てられた太子が廃されて、他の人物が天皇になったのだから大事件であった。収録された歌が多く、秀作も含まれているので、歌人として著名だったかも知れない。

 古事記では、軽大郎女を又の名は衣通郎女(そとおしのいらつめ)としているが、日本書紀では、この名は允恭天皇の妃(皇后の妹)のことで、衣通郎姫と書かれている。光り輝く美しい女性で、その光が衣を通して輝き出ていたので、この名があるという。当然『源氏物語』の構想にも影響しただろうが、それはまた別の話だ。ただ『源氏物語』のモチーフの一つに近親相姦イメージがあることは、軽太子のエピソードに関連するだろう。

 現存古事記と万葉集は仮名遣いに違いがある。

古事記の表記
岐美賀由岐 気那賀久那理奴 夜麻多豆能 牟加閇袁由加牟 麻都爾波麻多士(此云山多豆者、是今造木者也)

万葉集の表記
君之行 気長久成奴 山多豆乃 迎乎将往 待ニ(=ヤネに小)者不待(此云山多豆者、是今造木者也)

 この表記の違いが何に起因するのかは分からないが、古事記歌中に「夜麻多豆」とあるのが注記には「山多豆」とあり、万葉集では完全一致しているので、こちらが本来の表記のように思う。万葉集は漢文的な表記や、「山」を「やま」と読むような訓読が行われていて、一音一字で書いた日本書紀の表記とは違っている。古事記編作者は、その方向をより徹底させたという気がする。

 つまり古事記の原本は、公然と言及された弘仁の書紀講筵より30年以上前に存在し、人々の目に触れていたと思われる。多人長という大秀才によって厳密な校訂が施された後に世に現れたと考える。

 万葉集の注釈は基本的に日本書紀を根拠にしている。「倭」の文字も、現在の奈良地方を指して言う場合か、「倭文(しとり、しずおり)」の場合にのみ用い、国の名として使われる「やまと」は、常に「日本」と書かれるようであり、日本書紀に近い立場を取ったと考えられる。だが古事記を否定しておらず、歌人として、多数の歌が掲載された古事記に魅力を感じていたのだろう。

 また軽太子の事件は、今のわれわれから見ると大変な醜聞のようだが、万葉集には、皇子皇女が亡くなった近親に寄せる歌がしばしば登場し、そこではまるで死んだ恋人を偲んで詠んだような表現が見られるので、この時代には、類似の恋愛事件が、しばしば起きたと思われる。

 想像をたくましくすれば、古くは皇子と皇女が別々に育てられ、あまり会ったこともないような状況だったかも知れない。「あなたの妹はxxの宮にいるのよ」と名前だけ聞かせられれば、何となく運命の人が分け隔てられてどこか遠くにいるという気にもなるだろう。

 いずれにせよ、「日本=倭」という命題を確立しようとしていた大和朝廷にとっては、古事記は無用の書物だった。古事記では最後まで「日本」が出て来ない。純粋漢文ではなく、日付や年代があいまいなため、外交資料としても歴史としても使えないものだっただろう。


<宣長の誤読〜よもつへくひのこと>

 現在、古事記は基本的に宣長が『古事記伝』で示した読みに従って読まれている。「宣長なんて古い、今はもっと進歩している」と言う研究者もありそうだが、私の目には、基本的に宣長を超えているとは思えない。

 たまたま豊受大神のことを調べていて、摂津国風土記逸文に出てくる「稲倉山」は、実は大阪府茨木市にある幣久良山のことではないかと思いついたことから、急に「よもつへぐい」の「へ」が気になり始めた。

 別項に書いたことだが、もう一度ここで書くと、次のような話である。

 豊受大神は、天照大神の要請で伊勢の外宮に遷されることになったとき、丹後の籠(この)神社にいた。だがそれ以前には摂津の稲倉山にいたらしい。

 攝津の國の風土記に云はく、稻倉山。昔、止與宇可乃賣(とようかのめ)の~、山中に居まして、飯を盛りたまひき。因りて名と為す。(宇は口へん+宇)

 又曰はく、昔、豐宇可乃賣(とようかのめ)の~、常に稻椋(いなくら)山に居まして、山を以ちて膳厨(みくりや)の處と為したまひき。後、事の故(よし)ありて、已むこと得ずて、遂に丹波(たには)の國の比遲(ひぢ)の麻奈韋(まなゐ:地の名なり)に還りましき。

<口語訳>摂津国風土記によれば、稲倉山というところがあるが、昔豐宇可乃賣の神がこの山にいて、飯を盛っていた。そのため稲倉山という。また、豐宇可乃賣の神がいつも稲椋山にいて、食物を供するところとしていたが、後に事情があって、やむを得ず丹波の比遲の麻奈韋に帰って行かれた。

 だが、この稲倉山は、現在所在不明とされる。

 幣久良山は、山といっても古墳のようなごく小さい山である。現在は「てくらやま」と呼ばれている。しかし、「久良」は万葉仮名そのものだ。すると古代には「へくらやま」だったのが、後代幣帛を「みてぐら」と読むのにつられて、「てくらやま」と呼ぶようになった可能性があり、さらに古くは「ぺくらやま」だったのではないか。これが古代朝鮮語に関係するなら、稲はpyoまたはpyeと言われていたそうだから、幣久良=稲久良だった可能性があるのである(飯を盛ったから稲倉山というのは日本人の語感からすれば少し違和感があるが、朝鮮語では稲、米、米飯を区別しないそうだ)。

 「式内社調査」などを見ると、実際ここに古くは幣久良(へくら)神社があり、倉稲魂神を祭神としていたというから、あまり見当外れでもない。

 するとあの「よもつへぐい」の「へ」は、飯とか食べ物を意味していたのではないか、と思いついた。

 だが調べてみるとそうでもない。それどころか、この有名な「よもつへぐい」という言葉は、そもそも存在しなかったのではないか、と思えてきた。

 この言葉は日本書紀神代の第五段一書第六に出てくる。伊弉諾尊が死んだ伊弉冉尊を追って黄泉の国に至ったとき、伊弉冉尊は次のように答えた。

 吾夫君尊、何来乃晩也。吾已食(さんずいへん+食)泉乃竈牟。

(訓読:アがナセのミコト、なんぞオソクいでましつる。ワレすでにヨモツヘグヒせり)

(口語訳:ああ、あなた、どうしてこんなに遅くいらっしゃったの。私はもう黄泉の国の食事を食べてしまったわ)

 日本書紀は「食(さんずいへん+食)泉乃竈」の読みを「譽母都俳遇比」と書く。

 古事記では、このくだりは次のようになっている。伊弉冉尊の答は

 悔哉、不速来。吾者為黄泉戸喫。

(訓読:悔しきかも、とく来ずて。アはヨモツヘグヒしつ)

(口語訳:ああ、残念だわ、もっと早く来なかったのが。私はもう黄泉の国の食事を食べてしまったわ)

(以上、原文と訓読は岩波古典文学大系本による。なおさんずいへん+食の字は、にすいへん+食とするテキストが多い)

 これを現在「よもつへぐい」と読んでいるのは、日本書紀の「譽母都俳遇比」をそう読んだからだが、弘仁私記(乙本)には「與毛豆比久比」とあり、「よもつひくひ」という読みがあったことが分かる。調べると、どうやら古くは一般に「ひくひ」と読んでいたらしい。

 ところが宣長は『古事記伝』において、「俳の字は『ハイ』である。仮名で『ハイ』と読む字(杯など)は常に『ヘ』と読んでいた。古来これを『ヒ』と読んできたのは間違いだ」と述べた。なるほど「ai」が「e」の音になる例は多いから、何となく分かる議論だ。たとえば江戸弁では「入る」が「へえる」になることは明らかだ。

 彼には「古事記を元にして日本書紀が書かれた、だから日本書紀にあることは、すべて古事記にもある。両者を付き合わせれば、必ず正しい読みが分かる」と信じていた。そのため、「食(さんずいへん+食)泉乃竈」=「譽母都俳遇比」はすなわち「黄泉戸喫」に対応すると考えた。つまり「俳」=「戸」=「へ」と結論した。このことから「戸」は「竈」に対応するとして、竈字の読みを「へ」だと主張する。

 しかしよく考えれば、「ハイ」が「ヘ」に変わることは経験的に分かるが、だから「ハイ」は常に「へ」だと言うことはできないだろう。「ハイ」→「ヘ」の変化だけでなく、「ヘ」→「ハイ」の変化も論証しなければ、完全な証明にはならない。古代に「ヘ」と読まれていた文字が常に後代「ハイ」と読まれているという事実はない。そうであれば、後代には「e」音はほとんど消え去ってしまったはずだ。たとえば「配」は古代に「ヘ」と読まれ、後に「ハイ」になったのか?「内」は古代に「ネ」と読まれたか?なぜ古代に一音節の発音だったのに、後代二音節になったのか?

 かなり疑問だったので、日本書紀における「俳」字の用例を調べたら、実は「譽母都俳遇比」以外には「俳優」、「俳人」しかない。これらはいずれも「わざおぎ」と訓読される熟語である。「俳」字の読みを確定するための他の例がない。

 ついでに古事記、万葉集における用例を調べたら、古事記では一度も使用されていない。万葉集では「俳徊」「徊俳」(たもとほり)の例があるだけである。この万葉集の例は、現在では「徘」が正しいとされるので、誤字であろう。古代には、「俳」の字はあまり用いられていなかったのだ。江戸時代以降、俳句が盛んになったので、今ではなじみ深いのだが、古代には見慣れぬ文字の一つだっただろう。

 実際、俳句関係の言葉(俳趣、俳味など)を除いて「俳」字を使った熟語といえば、「俳優」ぐらいしか思いつかないはずである。それどころか「俳」の意味を答えよと言われれば、誰もが絶句する。他にはほとんど使われない文字だからだ。

 なぜそんな文字を表音仮名として使ったのだろうか。どこかで誤写された可能性はないのだろうか。調べたところ、この部分が私には読めない文字で書かれた伝本もあるらしい。だが誤写説を立証するほどではない。

 いずれにせよ、いくつかの日本書紀注釈書を見た限りでは、「へくひ」は一つもなく、すべて「ひくひ」であった。ということは、「よもつへくひ」の読みは、本居宣長の発明だった可能性が大きいのである(ただし『神道大系』に収められた注釈本などを一通り調べた結果である。他に「へくひ」説があるかも知れない)。

 しかし、「戸」は明らかに「へ」と読むだろう。「黄泉戸喫」は「よもつひくひ」とは読めないではないか?

 そう思ったら、おそらく宣長の術中にはまっている。「黄泉戸喫」の読みが「譽母都俳遇比」であるという証拠はどこにもないのだ。宣長は両者が一致するはずだと思った。その結果、竈は「へ」と読むと結論した。しかし、「食(さんずいへん+食)泉乃竈」と「黄泉戸喫」では、語順が違っている。前者は漢文的だ。後者はそうでない。古事記の記述が「喫黄泉戸」ならぴったり対応するだろうが、全く違うと言わざるを得ない。つまり竈=戸という等式は成り立っていない。

 これも気になったので、「戸」の用法も調べてみた。すると、「戸」をはっきり「へ」と読む例は、日本書紀にしか出て来ない。ざっと見ると、日本書紀でも固有名詞や現実の戸、扉を意味する場合はほとんど「と」または「ど」と読んでいる。「へ」と読むのは、素戔嗚尊のエピソードで「奥津棄戸」を「おきつすたへ」と読んでいる箇所、允恭四年に盟神探湯を行った「辞禍戸岬(岬は本当は石+甲)」を「ことのまがへのさき」と読んだ例を除くと、抽象的な家、一族を表したり数詞として戸数を表す場合だけである。

 古事記では、およそ百回出る「戸」字のほとんどは「と」または「ど」であり、「へ」と読んでいるのは、「黄泉戸喫」と、大年神の系譜に出る「大戸比売神」を「おほべひめ」と読んだ二例だけである。例外的な読み方なのだ。

 ついでに万葉集における用例も調べたが、ここでは「いはひべ」と訓読される「齋戸」=「齋瓮」または「忌戸」=「忌瓮」の用例を除けば、ほとんどが「と」、「ど」である。もっとも「五十戸を一村とする」といった規定ができたので、「村(ムラ)」を表すのに「五十戸(本来の読みはイソヘ)」と書いている。「齋戸」の読みも実は「いはひど」ではないかと疑うほど、「へ」の読みは少ない。

 そもそも「黄泉戸喫」の直後に出る「黄泉戸大神」も、われわれは「ヨミドのおほかみ」と読むことに、何ら疑問を持たない。「黄泉戸喫」をたとえば「ヨミドのクラヒ」と読んだところで、不都合はないのだ。宣長がこれを「よもつへぐひ」と読んだ最大の理由は、日本書紀の記載と一致させたかったことにある。

 日本書紀でも、「奥津棄戸」は読みが付いているので間違いないのだが、「辞禍戸岬(石+甲)」は少し怪しい。岩波古典文学大系本の注釈は「禍戸は『マガヘ』と読むべく、その意は虚偽(マガ)を真実と合わせる意」と一見もっともらしいが、よく考えると分からなくなる。「たがう」は違うことだが「たがえる」は故意または過失で違わせることだ。「まがう」は真実が紛れる、間違えることで、「まがえる」は真実をねじ曲げることになりそうな気がするのである。

 「古事記伝」で、宣長は「『辞禍戸岬』は『ことのマガツヘのさき』と読む。なぜなら古事記には『八十禍日前』とあり、書紀に『岬(石+甲)』とあるから、古事記は『やそマガツヒのサキ』である。したがって書紀は『マガツヘ』であって、『ヒ』と『ヘ』は音が通じる。諸本みな書紀を『マガト』としているのは誤りだ」と書紀と古事記を全く同一視した議論をしている。しかし古伝は「マガト」であるらしい。そもそも「禍戸」と「禍日」が同一の読みでなければならないという根拠は、宣長の信念以外にはない。

 現代では音韻論が盛んになり、「日(ヒの甲音)」と「戸(ヘの乙音)」が通音であるというのは否定されたようだが、その後もこの「戸」は「へ」と読むのが正しい、という考えは残ったらしい。現代の学者も「禍戸は『マガヘ』と読むべく」などと断定的に言っているのだが、その根拠は「宣長大先生」がそう言ったから、という他にはないようである。宣長は「つ」を補ってまで両書の記述を似せようとしたが、さすがに現代の学者はそこまではしなかった。しかし、おおむね大先生の足跡を追っている。

 もう一つ怪しいのは「大戸比売神」で、古事記にしか登場しないが、「此は諸人の以ち拝く竈神ぞ」とあるので、宣長は「竈は『へ』と読むことが明らかだから、この神の名も『おほべひめ』と読むべきである」と主張した。後の研究者も、これをそのまま踏襲しているようで、岩波古典文学大系本では「ヘッツイを掌る神」と注釈している。

 竈を「へ」と読むというのは、どう見ても根拠薄弱だが、あるWEBの辞書で「よもつへぐい」を調べると「黄泉竈食い」などと典拠不明な書き方をしてある。説明によると、竈は「へっつい」とも言うから、「へ」と読むという。だがその「へっつい=へつひ」はまた「家つ火」、「家つ魂」、もしくは「戸つ火」、「戸つ魂」などと語源解釈されており、頭の一字を取って「へ」と読むのはおかしい。「火」もしくは「魂」の消えてしまった「家」、「戸」の文字だけでは竈の意味にはならないだろう。

 「へっつい」→「へ」の説も本居宣長が出所かと思ったが、「古事記伝」には出ていなかった。おそらくその考えも浮かんだが、私と同じような疑問もあって、主張することを避けたのではなかろうか。

 竈には「おくどさん」と呼ぶ地方もあり、その「くど」は「ほと」または「ほど」(いずれも女性性器の意)から来ているという説もある。それなら、むしろ「おほどひめ」と読んだ方が、筋が通りそうだ。

 すると、古事記に出る「戸」字のうち、現在「へ」または「べ」と読み慣わしている例は、いずれも「と」または「ど」の読みでよく、無理に例外的な読み方をする必要はないことになる。

 宣長は古事記を読み解くのに長い年月を費やし、数多の文献を渉猟して、徹底した研究を行った。「古事記伝」はその成果で、当時としては最高水準の著作である。しかしその方法は現在もそのまま通用するものではない。彼の信念は彼の粘り強い研究を可能にしたが、限界にもなった。それは「日本書紀は古事記を元に書かれた」という信念である。

 「釈日本紀」の第二巻は、日本書紀に出てくる言葉の漢音読みばかり並べてある。「倉稲魂」を「サウタウコム」とするたぐいだが、われわれ現代人には、なぜそんな読みが必要だったのか、さっぱり分からない。むしろ「倉稲魂はウカノミタマと読む」と言われた方が感心する。だがかつて日本書紀が書かれたときは、中国外交にぜひ必要な歴史書だったと分かれば、大和言葉での読みより、漢音で読むことの必要がより大きかったと納得できる。

 何しろ中国へ行った日本の使者は、国の地理や歴史、国のはじめの神の名などを質問されていた。書紀完成後は中国に携えて行き、「クニノトコタチノミコト」というより、「コクジョウリツソン」などと説明する必要があったと思う。もちろん使者自身も理解しておかなければならないから、それが大和言葉でどう読むのかは知っておく必要があった。「奥津棄戸」のような例は、葬制の違いがあって、中国人にとっては読んだだけでは分からない言葉だったのだと思われる。

 しかし粟田朝臣真人による中国外交の成功以来、もう改めて中国から日本の歴史を問われることはなく、弘仁私記の時代には、もっぱら国内向けの歴史教育に使用されることになった。そこで人々は書紀を大和言葉で読もうと努力するようになった。すると逆に後の国学者たちに似た考え、つまり「日本の歴史は漢文でなく、大和言葉で書いてあるべきだ」という考えも出て来たに違いない。

 前項で書いたように、原古事記は万葉集とほぼ同じ仮名遣いだったであろう。それは歌にいくらか漢文的な表記法や漢字の訓を交えた方法だ。しかし日本書紀では、歌の部分を一字一音の表記としていた。中国で「歌って見せろ」と言われる可能性があり、その場合は日本語のまま歌う必要があったからに違いない。古事記はもっと徹底して大和言葉を写そうとした。書紀の表記に不満があったのだろう。地の文は漢文だが、和文的な表現も多く、中国向けでないことは明らかだ。「日本」はすべて「倭」で置き換えてあるが、もう「日本」国号を名乗っていた時代なのに、それが最後まで出て来ないのも不可解である。おそらく編作者は、宣長の言う「漢意(からごころ)」を嫌ったのではないかという気がする。



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