天照大神と大物主神 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
これらの神々の戦いについて書いてみたい。まだ調査が不十分なので、今後思いがけない資料が現れれば内容を変更する可能性がある。 この文章は、安本美典氏の論考に触発されて少し調べてみた結果を述べるものである。そのため、氏の論に多くを負っている。すべてに賛成というわけではないのだが、面白い着眼点だと思っている。 なぜ神武天皇陵は所在不明になったのか?最近の歴史学では、第十代崇神天皇以後は実在したかも知れないが、それより前の九代の天皇はすべて架空の人物というのが通説とされている。それによれば、もともと存在しない天皇だから、陵墓もなくて当たり前なわけだ。 この件はすでに別の項で述べたので、ここでは繰り返さない。ただ私は古代天皇実在説に立って、改めて日本古代史を問い直してみたい。初期天皇架空説を唱える人でも、日本書紀に記載された地名を取り上げて、比定地を探っているらしいからだ。 神武天皇陵は実際には現在公式に認められているミサンザイでなく、その南方にある丸山古墳だという説があるそうだ。神武天皇架空説を採る人はにやにやするだけだろうが、実在説を採る人も「あんな小さな古墳が偉大な天皇家開闢の祖、神武天皇陵であるはずがない」と思うらしい。しかし神武天皇が当時はまだ一地方氏族で、物部氏の容認でやっと大和に住むことを許されただけだったら、大きな古墳を作らなかったのも当然だ。 別の項で、神武天皇を初代とする初期天皇家は、後代には賤業とされた職業に携わっていた可能性があることを述べた。つまり朱の採掘や、水銀の精錬である。はじめは賤業でも、財を蓄えて力を着ければ豪族になり、やがては王にもなる。神武が大和入りしてすぐ大王になり、初代天皇になったと考えるのは(日本書紀にそう書いてあるのだが)、誤りだろう。 神武から数代の天皇家は、まだどちらかと言えば貧しく暮らしていたのではないだろうか。丹敷では船が難破し、一行はほとんど潰滅状態に至っているのだ。大王になるどころか、生き延びるのが精一杯だっただろう。神武は、後代になって「祖業」を築いた偉大な先祖と見られたにしても、まだ成功を収めるに至らないまま早死にしたと思うのである。 よく考えてみると、~武から開化までの九代の天皇の陵墓には、あまり目立ったものがない。崇神に至って初めて、箸墓古墳のような大型古墳が現れる。それに神武天皇の出身地とされる宮崎(日向)には、あまり古い古墳はない。大和で大型古墳を作り始めたのが先であり、日向ではそれより遅れて始まったらしい。つまりもともと天皇家の祖先には、巨大墳墓を築造する伝統がなかったのではないだろうか。古墳の多くは、いわゆる地方豪族による築造である。「古墳時代」と言えば、「天皇を中心とした巨大陵墓」が次々と作られた時代、という認識を持つのだが、事実はそうではない。大和平野の古墳群には、天皇家と無関係な当時の豪族の墓が相当数含まれているだろう。 神武天皇陵がミサンザイに治定されたいきさつは、安本美典氏の著作に詳しい。大筋を言うと、幕末に尊皇思想が有力になってきたので、徳川幕府でも天皇陵の調査を行うことになり、宇都宮藩が主体となって各地の御陵を調査した。当時丸山古墳説とミサンザイ説があり、調査委員は丸山古墳が単なる小高い丘でとても古墳のようには見えないし、周囲に被差別民の部落があり、「薄汚い連中」の住むところで、神聖なる初代天皇の墳墓ではあり得ないと報告した、というのである。 ちなみに、幕末には財政が逼迫していたのだが、この修陵事業には相当な大金を出したらしい。幕府内でも天皇を神聖視する考え方はかなり浸透していたのだろう。宇都宮藩は水戸にも近く、尊皇の気風は強かったと考えられる。 また、当時は孝明天皇による陵墓参りが企画されており、被差別民を立ち退かせる必要があったのだが、日程的に間に合わないという判断があったとも言う。 この部落を洞(ほら)部落と呼んだそうだが、この名称にも何やら謎めいた感じがある。「洞」というのは、中国では少数民族の居住地域を指し、朝鮮では神などの住まう場所を指すことが多いようなのである。 神武天皇の崩御の後、その墓守として、九州から東征に同行した家人を付けたという伝承があるそうだ。その時点では賎民ではなかったらしい。むしろ由緒正しい家系として誇りを持っていただろう。 ところが律令制が始まった頃、天皇陵の墓守は「陵戸」とか「守戸」と呼ぶ賎民とされた。ただし朝廷から相応の土地や毎年の俸給を得ていたらしいので、案外過酷な身分ではなかったようだ。他の身分との通婚禁止という制約はあったが、これも一種の身分保護だった可能性がある。いずれにしても、幕末の時点で国家の庇護もなく、ひどい状態に置かれていたのは、どこかの時点で政府の方針が変化したのであろう。 私は、陵戸や守戸という「賎民」は良民より劣った身分と認識されたというより、本来は「聖別」された人々だったのだろうと思う。通婚禁止というのも、聖別された人と世俗の民の血が入り交じるのを怖れたのだろう。それがいつしか聖なる身分であることが忘れられ、タブーの面だけが残って「穢れ」と感じられるようになった。 彼らは死者を保護する人々である。古代には、さして穢れの意味はなかったらしい。だが時代が下るにつれ、死の世界を畏れ忌避する風潮が強まった。日本の土着の宗教には、天国と地獄の観念がない。生者の世界と死者の世界の二つしかないのである。生者の世界は明るい光に満ち、美と希望と快楽がある。しかし死者の世界には腐敗と汚穢だけがある。 強いて言えば、その境界は顕宗天皇による雄略天皇陵毀損記事である。兄(後の仁賢天皇)が驚いて弟を諫め、結局企てを取り止めた(古事記では、兄がほんの少し陵墓の土を掘ったという)のだが、天皇がいくら恨みを抱いたとは言え、陵墓に触るというのは、やはりタブーだったのだ。彼ら兄弟が雄略に殺された父の骨を掘り出させて直に見たというのも、珍しい話である。 人類の歴史における最初の神は、祖先神だっただろう。つまり自分の親や祖父などを祭り、かつて自分を育ててくれた頃と同じように死後も見守って欲しいと願うのである。ここでは死霊は本来守護の霊である。しかし戦いで殺し合ったりするうち、死者の怨念や呪いが残留する可能性も増しただろう。ただし、多くの民族では、死者をいかに安らかに眠らせるかに心を砕いたようであり、おそらく死に臨んだときの苦しみ(ほとんどの死は苦しみを伴う)から、多くの人が死に対する恐怖を抱いたに違いない。 古い形が残る地方の葬送儀礼を見ると、死者がこの世に帰ってくることのないように、二重三重にあの世に送る仕掛けになっているらしい。死者に送る別離の言葉にも、繰り返し「戻ってくるなよ」という言葉が現れる。愛する人であっても、幽霊は怖ろしいというわけだ。 死者を保護する人々としての聖別された人々は、こうした恐怖の世界の入り口に立ち、生者の世界との境界線上で仲立ちとなっているのである。死者を聖視する観念が薄れ、単なる古霊になったとき、そこにはタタリへの畏れだけが残った。だがその幽冥の境界で怖れ気もなく死者に触れる人々は、多くの人にとって怖ろしい世界に半身を浸している人々である。 この身分規定は、しかし、中世には一度完全に崩れたという。古くは技術的な職能人の多くが賎民の扱いをされたらしいが、技術革新が相次ぐ中で、維持できなくなったのだろう。江戸時代にも職能人、芸能人で賎民身分を脱する人々がいた。 それに比較して、洞部落の人々はまるで朝廷からうち捨てられたかのような暮らしをしていた。私はここに何か歴史的ないきさつがあったのではないかという感じがするのである。 それは神武天皇系と違った皇統があり、その系統が長く天皇家を継いだため、神武の祭祀がいつか忘れられ、途絶えてしまったのではないかという仮説である。 神武天皇を実在した人物と考えるならば、少なくとも天武天皇の頃にはまだ陵墓のある場所は判明していた。天武天皇は壬申の乱の際、高市縣主の許梅(コメ)なる人物が事代主神の託宣を告げたのを受けて、許梅を遣わして神武天皇陵を祭り拝ませたという。 この頃には、天皇が陵墓に直接出かけて拝むことはなかったようである。死の穢れを怖れたのだろう。だが古くは、それほど強いタブーとは思われていなかったようである。仁徳紀の白鳥陵の陵守を役丁(えよぼろ)に充てようとして起こった怪異、顕宗紀の雄略天皇陵毀損事件などは、いわゆる「触穢(しょくえ)」に当たるだろう。神功紀の「阿豆那比(あずない)の罪」の記事も、天皇自ら遺骸を確認したのかもしれない。 天武天皇は、また天照大神を尊崇した天皇でもあった。われわれは天照大神こそ天皇家の祖先神であり、最高神であるという「常識」を持っているので何ら疑問を抱かないが、そのつもりで読むと、実は崇神以来、天智にいたる天皇家では、三輪の大神である大物主神の方がどちらかと言えば有力だったのだ。 崇神天皇紀の五年から六年にかけて、疫病の流行や百姓の流離、時には一揆も起こったので、内殿に並べて祭ってあった天照大神と倭大国魂神をいずれも外に出したという記事がある。それまでこの二柱の神と天皇が同殿共床していたのである。それがあまりにも畏れ多く、祟ったのだと考えたわけだ。その後天照大神は各地を巡幸することになる。 倭大国魂神は、それまで登場しない名前だが、大物主神と同神である。宮中から出すといっても、元々三輪山の大神だったから、宮中の神は分霊、分祀である。つまり宮中の祭祀をやめただけなのだが、それではあまりにも失礼だというので、この分霊にも新たな名を与えて別に祭ったのだろう。崇神紀には明示しないが、垂仁紀では穴磯邑(あなしのむら)に祭ったと書いてある。 大物主神と同神だというのは、この前後の記事で倭大国魂神は何も言っていないが、大物主神は「私を大田田根子に祭らせよ」など、あれこれ言っていて、事件(タタリ)の主体になっているからである。なお古事記では倭大国魂神の名は出て来ない。すべて大物主神のことである。 崇神紀と垂仁紀細註はこの記事が重複しているのだが、細かく見るとずいぶん違う。すでに倭姫によって天照大神が伊勢にたどり着いた後、倭大国魂神が神託を下したとある。崇神紀では崩御の年を120才と書いてあるのに、神託では、崇神が長生きできなかったとあるなど、かなり怪しげである。 いずれにせよ崇神八年には、天皇は大物主神を讃えて大々的な祭を行っているが、天照大神は豊鍬入姫に託し、その後各地をさすらうに任せた。 もっとも、皇女が奉斎するのだから、天照大神に対してもそれほど粗末な扱いをしたわけではない。古語拾遺によると、はじめ笠縫邑に遷したときには、立派な社を建て(もちろん新規の建立でなく、既存の社を修造したのだろうが)、夜を徹して盛大な宴を催したそうだ。姫はまだ少女だから、男の護衛たちも付いていれば、姫の世話をする女たちも付き従っていたはずであり、そんなに寂しい旅立ちではなかった。 だが、本来の地(三輪山)にずっといる大物主神と、鎮座の場所を求めて、各地をあてどもなく遍歴した天照大神とでは、扱いに格段の差があった。 諸本に見る遷幸経路は、非常に違った内容であるが、大体日本書紀の記述に近い白河本旧事紀ととほぼ同じ倭姫命世記を比べると、下記のようになる。
おそらく天皇紀の年代が大きく引き伸ばされているので、このような無理が生じたのだろう。最初の笠縫邑だけで33年というのは長すぎるように思う。そんなに長く皇女が住んでいたら、ちょっとした都のようになっていただろうと思う。その笠縫邑は、所在地があまりはっきりしていない。せいぜい3年いた程度ではなかろうか。 ここに挙げられた「宮」のうち比較的所在が明確なのは、丹波国吉佐宮であり、多少移動した可能性はあるが、現在の籠(この)神社と思われる。ここは豊受大神を祭る神社で、雄略22年に天照大神の要請で伊勢に遷され、外宮の大神になったという。 なぜこれだけあちこち移動したかというと、元々あった神社を伝い歩いたのであろう。想像だが、皇女が住むのに不便である、騒がしい、穢れがあったなどのことではないだろうか。小さな神社なら、神と一日中同居することになり、具合の悪いことも多かっただろう。 豊受大神を呼び寄せたとき、天照大神の言葉として「一カ所にいると苦しいし、食事もままならないから」と言っているので、斎王の生活は甚だ閉塞感に満ちたものであったと思われる。後には大きな斎宮殿も建てられたが、最初はごく小さな神社だったかも知れない。外宮を建てることで、多少とも閉塞感をなくそうとしたのだろう。現在は内宮の施設内で朝夕の御饌を奉っているようだが、豊受大神がもともと食事を与える神であることを考えると、初期には外宮で御饌を用意して運んだ可能性もある。もちろん、外宮を建てるのに合わせて、内宮の建て替えも行っただろう。 事のついでだが、この豊受大神もかなり不思議な神である。保食神(うけもちのかみ)、倉稻魂神(うかのみたまのかみ)とも同一視され、人間に食物を与えてくれる尊い神である。ところが風土記に現れる姿は、少々違っている。摂津国風土記(逸文)によると、稻倉山というところに「止輿宇可乃賣(とようかのめ)の神」が住み、いつも飯を盛っていた。このため稲倉山という名が付いた。のちにわけがあって、やむを得ず丹波の比遅の麻奈韋(ひじのまない)というところに遷ったという。 丹波の比遅の麻奈韋は、丹後国風土記逸文(奈具社)に見える「比治の真名井」だろうが、その伝承は、羽衣伝説によく似たところがある。 ある老夫婦が、八人の天女が舞い降りて水浴びするところをこっそり見ていた。それがあまり美しいので、老翁はその一人の天女の衣を隠した。彼女たちが天上へ帰るときになって、一人だけ脱いだはずの衣が見当たらない。そのうち仲間はみんな天に帰ってしまった。一人残された天女が嘆き悲しんでいると、老翁が現れて「わしの娘になれ」と言う。天女は泣く泣く承知した。彼女は働き者で、造った酒は美味なだけでなく、一杯飲むとどんな病も忽ち治ってしまう。その酒の謝礼は車一杯に財宝を積み上げるほど珍重された。ほどなく老夫婦の暮らしは豊かになった。 すると、じいさんばあさんはあるときから急に心変わりして、「お前は元々わしらの娘じゃない。さっさとどこかへ行ってしまえ」と、つらく当たるようになった。天女は涙ながらに「私とて、好んでここに留まったのではありません。元はと言えばあなた方の方から、娘になれと仰ったのではありませんか」と抗弁した。すると老人がますますいきり立つので、少し家を出たところで泣いた。道行く人に尋ねられると、「久しく人間界にいましたので、もう天上に戻るすべもありません。かといって、人間界には親類縁者もいません。どうしたらいいのか分かりません」と涙ながらに語った。 その後天女は荒塩という村に行った。村人に「私の心は荒れる潮のようです」と語ったので、その村を荒塩というのである。また哭木(なきき)の村に行って、槻の木に寄りかかって泣いた。そのためその村を哭木の村という。さらに竹野の奈具の村に行って、「ここに来て私の心は少し『なぐしく』なった(和んだ)」と言った。これが奈具社の豊宇賀能賣命である。 われわれに天地のあらゆる食物を恵んでくれる美しくも優しい豊饒の女神は、同時に泣く神、果てしない悲嘆と憂愁に沈む神なのである。そもそも豊受大神は、月読尊に殺された保食神(ウケモチノカミ、あるいは素戔嗚尊に殺されたオオゲツヒメ)と同体であるとされる。摂津国風土記逸文の止輿宇可乃賣神にしても、どこかから遷ってきたように読める。「出雲の大神の悲劇」で考察したように、保食神の本来の地が丹波(現在の亀岡)であって、殺され国を奪われて追い払われた神だったとすると、大体つじつまは合う。というのは、この風土記逸文の最後に「丹波に帰って行かれた」とあるからだ。 この大神については、丹波で大神とされていたことぐらいしか分からないが、その後いろいろ考えていると、大阪府茨木市に幣久良山(てくらやま)という謎めいた地名があるのに気が付いた(ブログ「古代史と音楽とミステリー」で取り上げた)。山と言っても小さく、むしろ古墳のような姿をしている。邪馬台国三島説というのがあり、それによると幣久良山こそ邪馬台国の核心を成していたのだそうだ。 古来、摂津国風土記の「稲倉山」は所在不明とされている。だが、幣久良山の名は「久良」が万葉仮名のように見えるので、古代には「幣」も「へ」と読んでいたのではなかろうかという気がした。WEBで検索すると、実際に古墳があり、頂上には幣久良神社というのがあって、「へくら」と呼んでいたそうである。これはもっと古くは「ぺくら」だっただろう。 ところが、朝鮮語では稲とか米を「pye」、「pyo」などというそうで、「ぺくら」が実際に「稲くら」の意味だった可能性があるのだ(ただし「くら」の意味は不明である)。保食神が丹波で殺され、死体は摂津まで運ばれて墓が築かれた。稲の神であるから、「ぺくら」と言った。そう考えると、何となく読み流していたが、「飯を盛ったから稲倉山」というのは、やはり少々飛躍している。「飯盛山」と呼んだというのならよく分かるのだが。 丹波の出雲の大神の妻である三穂津姫が即ち田心姫(多紀理姫)であるなら、「出雲の大神の悲劇」で取り上げるような丹波侵略の時点で、三穂津姫も殺されてしまったのかも知れない。 まあそれは妄想に過ぎないが、ある古文書には雄略の夢に現れた天照大神が「私がかつて素戔嗚尊と誓(うけ)いして生まれた三女神は、筑紫の宗像に天下らせたが、その娘は今丹波にいる。彼女を呼んでほしい」と告げたとある。(これはある神社の伝承だが、その後「神宮雑例集一」に同じ記事があることに気が付いた。いずれもあまり古い文書ではないが、何らかの伝承によるのだろう。) すると、豊受大神は宗像三神のうちの一柱だったことになり、必ずしも荒唐無稽ではない。最近知ったところでは、能登半島の沖にある舳倉島(へくらじま)にも奥津姫神社があるそうで、その島の名前は幣久良山と関係があるかも知れない。田心姫は奥津姫そのものだ。 その後「式内社の調査」といった文献を読んでみたところ、かつて幣久良神社は祭神を倉稻魂神としていた。しかしここは三島であるから、後には、藤原氏の氏神である天児屋命を祭神とする阿為神社の勢力が強くなったらしい。今は阿為神社に吸収された形になっている。もっとも、その流れがあるので、阿為神社の祭神は天児屋命と宇賀御魂神を両方祭っているそうである。 倉稻魂(うかのみたま)神は保食神(うけもちのかみ)と同じ神だそうだが、これが稲荷神の本体で、要するに食物神である。御饌神(みけつかみ)であることから、狐と結びつけられたという(関西で狐を「ケツネ」と言うからだそうだ)。この神は生きているように扱われる。伝承では、死んだ体から五穀を生い出し、豊饒の神となる。東南アジアなど南方系の説話だということだが、新約聖書のイエスの言葉にも、「一粒の麦、地に落ちて死なずば、唯一つにて在らん。もし死なば、多くの果(み)を結ぶべし」(ヨハネ伝第12章)とある。古代のユダヤの民も、この農耕民族特有の説話を知っていたのかも知れない。 豊受大神については、外宮を尊崇する伊勢神道では、月読尊に殺されたのでなく、月読尊と同体であり、またの名は国常立尊、すなわち国土の根本神であると言う。日本書紀などのあらゆる記述を否定する異説なのでとても信じがたい説だ。つまり伊勢神道の色濃い白河本旧事記によると、殺神犯は天熊人であって、月読尊は事件後保食神の死体を検分に行ったのだという。日本書紀とは全く逆転している。倉稻魂神との関係もよく分からない。 だが丹後には咋岡神社というところもあり、その神社の背後の咋石嶽(くいしだけ:久次嶽ともいうそうだ)には、宇氣持神の死んだ姿を映す岩があると伝える。やはり天女は死体の形で丹後に遷されたのではなかろうか。 ちなみに、稲荷神は元明天皇の時にどこかから伏見に勧請され、今は全国の稲荷神の総本社になっているが、丹波には伏見稲荷より古い稲荷神社があり、「元稲荷」と称しているということだ。 伊勢神道の神代史は、後代に外宮の神官たちが作り上げた偽史であるから、真剣な検討に値しないようだ。何しろ彼らが外宮を内宮より上位とする最大の論拠は、内宮(天照大神)の神託で、神宮の御饌はまず外宮に捧げ、その後に内宮に捧げよと言った、とあることに尽きる。先に食べるから上位だというわけだが、論拠としては弱いだろう。たとえば江戸の将軍のお毒味役は、将軍より先に食事を摂ることになるが、将軍より偉いわけではない。外宮が毒味役だと言うつもりではなく、よだれの出るようなごちそうをひもじい思いのまま運ばせるのはかわいそうでもあり、合理的でないという配慮の結果のように思うのである。おそらく、神託の前には、天照大神に先に召し上がっていただくという考えから、ちょっと無理なほどの努力をすることがあった。それが何か不都合を生じたのだろう。たとえば、食事を運ぶ神官がついつまみ食いをした、といった事件があり、「外宮で食事を済ませてから運べ」という規則にしたのだ。「内宮が優先」という常識があったからこそ、そういう神託によって外宮を先にすることになっているのである。 豊受大神を祀る籠(この)神社は、少し違った所伝を伝える。彼女を捕らえた老人は塩土老爺であり、「ワシの嫁になれ」と迫った。天女は籠に捕らえられた鳥のように我が身を嘆いたので、籠神社の名前があるという。しかも古い読みは「この」神社でなく「こもり」神社であるとする伝承がある。 塩土老翁(しおつつのおじ)神は、日向に降臨した天孫が吾田で出会った神である。その地にいた事勝国勝長狭(ことかつくにかつながさ)という神なのだが、第四の一書では、またの名を塩土老翁というとある。子の山幸彦も彼の教えを受けている。智慧と思慮の神であって、天女を捕らえてむりやり妻にするような行動は似つかわしくない。日向にいたはずの神が若狭に住んでいたというのも意外だが、かつて九州にいた海人族が一時若狭に移り、最後に伊勢の海に住んだという伝承もあるので、本来は隼人族の伝説なのかも知れない。ちなみに日本書紀は事勝国勝神とも書いており、事勝国勝を姓、長狭を名と認識していたようだ。姓と名を持つ神は珍しく、あまり神の名らしく思えない。 いずれにせよ、豊受大神は元来丹波の大神だったのに、松尾の神である月読尊に殺され、その墓は摂津三島に築かれていた。しかし藤原氏もしくは中臣氏の勢力に押され、さらに丹後に遷された。幣久良神社は次第に忘れられ、周辺が農地になるなどして縮こまってしまったが、ある人物がその神社の木を切ったところ、神の怒りに触れて病に倒れたという話が残っている。祟り神になっていたのである。 ところで、丹波(特に丹後)には、この豊受大神と奥津嶋姫神(彼女たちは実は同神だと思われる)を祀る神社が非常に多い。この奥津嶋姫は、日本書紀本文では田心姫となっているが、数多い「一書」では、三女神の順序をあれこれ入れ替えた記事がある。しかし、丹後あたりで「奥津嶋姫」を祭っている神社には、主祭神を「思姫(おもいひめ)」、「恩津嶋姫(おんつしまひめ)」などとしているところがある。「思」、「恩」というのは、「田心」を字に書いたとき、上下がくっついて(当然縦書きだから)、そういう字に読めたのだろう。これらからすると、やはり奥津嶋姫は多紀理姫なのだろう。 だが普通、神社の主祭神と言えば、口に出して唱えられるものだ。たとえ国の公式の書物でも、字面を見誤ったのが、そのまま口伝えに伝えられるとは思えない。「思姫」など、とんでもないという気がする。この理由は、これらの神社の本当の主祭神が出雲の大神であって、それがある時期に隠されて、后神を表看板にしたのだと考えると、納得できる。 日本書紀には、崇神天皇が出雲の振根を殺した後、「出雲の臣たちは、恐れて出雲の大神を祭らなかった」という記事がある。真相は、実際に出雲の大神を祭ることが厳重に禁止された時期があったのではないだろうか。後に大神の祟りがあきらかになり、「朝廷」も再びその大神を祭ることを許さざるを得なくなった。そういう歴史的事実があったのではないかと思う。 しかし、傍国である丹後や越前では、後々まで出雲の大神を隠すことが多かった(亀岡の「元出雲」、出雲大神宮も中心の神である大己貴命は、空位のままであるという)。そのため、代わりに后神である奥津嶋姫、つまり多紀理姫を主祭神のように装ったのではないだろうか。そう考えると、代役の神であるから、あまりその名にこだわることがなかった。だから「田心」を「思」と誤認しても、さほど抵抗はなかった。 古代にはそうした「宗教改革」が何度かあった。書紀の崇神天皇の記事は、かなり大規模に神々を整理したように読める。また日本書紀が完成間近だった元明・元正天皇の頃に、神社を整理、統廃合したという記事があり、近代にも明治時代に、国学者(本居宣長たち)の誤認に基づいて、神社の名称を変えさせられたとか、主祭神を変更させられた例がある。われわれが現在目にすることができるのは、そうした多くの改変を経た後の姿なのである。 ある女の子が天照大神の名を見て「テンテルダイジン」と読んだ、という笑い話がある。「アマテラスオオミカミ」と読むのが常識だが、かつては「アマテルオオカミ」などと読むのが普通だった時代もあるらしい。この名は、要するに空を治める神としての太陽神であるということしか意味しておらず、何だか固有名詞らしくない。Wikipediaなどには「現在ではアマテラスと片仮名表記するのが一般的」と書かれている。なるほどそう書くとギリシャ神のような感じで、一見しゃれて見えるが、字面だけの遊びのレベルであって、問題の本質とは無関係・無用のことだろう。 それはともかく、どうも古代天皇にも神武天皇系とそうでない(どちらかと言えば物部系寄りの)天皇があり、たとえば崇神天皇は明らかに物部系、天武天皇は神武系だったように見えるのである。古代には、その間で最高権力の奪い合いがあったのではなかろうか。 そんなことを考えていたら、白河本旧事紀に出会った。偽書の呼び声も高いものだが、「欠史八代」の天皇についても、それぞれ記事がある。これによると、第五代孝昭天皇の時に、殿中に大物主神を祭るようになったのであり、それまでは天照大神だけを祭っていたという。なるほど、そうだったのか、と納得した。第十代崇神までの間のどこかで殿中に入ったことは確かだろうから、必ずしもでたらめとは言い難い。 神武天皇が大和に入ったとき、その地を支配していたのは物部氏であり、彼らは大物主神を信奉していた。しかし神武天皇は天照大神を尊崇していた。この二柱の神は次第に対立するようになった。 そこで崇神が下した判定は、二柱とも宮中から出すこと、天照大神はどこへでも好きなところへ行けということであった。その後、大物主神を讃える神事を行い、また出雲の大神の神宝を検校(調べるという意味だが、実際は没収)するなど、天皇家の信仰を大物主神だけに絞り込もうとした。垂仁代には倭姫が神宮を伊勢に定めたことが出ており、景行天皇(倭姫の兄)はたびたび伊勢を訪れたらしいが、その後は天照大神の影が薄い時代が続く。中では雄略が大物主神に不敬を働いたことや、伊勢でも不祥事が起こったことが目を引く。ただし伝承では雄略代に豊受大神を遷して外宮を造営したらしいので、どちらかと言えば伊勢を重視していたのかも知れない。 とにかく、はっきり伊勢重視の方向を打ち出すのは、天武天皇の代である。崇神以来、数百年もの間、ほとんどの天皇は天照大神より大物主神を重んじていたのではないだろうか。 少なくとも、推古朝の斎王だった酢香手姫が隠退してから、天武代の斎王復活まで、50年近く伊勢神宮は顧みられなかったらしい。この間、斎王の記録が全く欠けているのだ。『太神宮諸雑事記』によると、天武二年に天皇自ら神宮に参拝した、もしくは飯高郡から遙拝したという記事があり、その後に多基子内親王が太神宮に入ったという。これは大来皇女のことらしいが、なぜ名前が違っているのか分からない。 ともかく、この後、天武の詔勅によると思われる社殿および塀や付属施設の大修復、式年遷宮の取り決めがあったそうだ。壮麗な伊勢斎宮の建設も、このときの発案だろう。 私は、多分天武天皇は直接伊勢神宮に参詣し、当時はかなり衰えて、見すぼらしい姿になっていたのを見たのだと思う。斎王制度を復活するためにも、そのままにしては置けなかったし、社殿が傷む前に更新しなければ、奉仕はできないと考えただろう。 こうして、天照大神を尊崇する天皇の系統が主権を握る時代となった。大物主神を最高神とする一族にとっては、口惜しい雌伏の時代だっただろう。それは古事記編作者の立場でもあった。 日本書紀は中国が納得する国史を編纂する事業だった。そこには孝徳紀にあるように、「国の初めの神」が明記されている必要があった。いろいろな神社の社伝を見ると、太祖を「国常立神(くにのトコタチのかみ)」としているものが多いように思うが、言葉の意味としては「国土造営の神」、つまりは国の初めの神ということであって、固有名称のようには思えない。書記編纂者たちが、最大公約数というより最小公倍数として選んだ名称だろう(日常会話ではよく誤解されたまま使用される言葉だが、最大公約数は、「与えられた数のすべてを包含する数」ではない。それは最小公倍数の方である。たとえば2,3,4,6という4組の数を与えられたら、公約数は存在しない。2と3は互いに素なので、共通の約数がないからである。当然、最大公約数も存在しない。だがその場合でも最小公倍数は存在する。それは12だ。12は2,3,4,6すべての整数倍である数のうち、最小である。「最大」、「最小」という言葉に惑わされて、本来の意味とは逆の使い方をする人が多い)。 だが古事記が私の考えるように、日本書紀のおよそ百年後に書かれたものだとしたら、もう仏教が最重要視される時代になっていた。天照大神と大物主神の対立という構図は、終わっていたのだ。古事記は仏教登場以降のことについて沈黙している。日本書紀は天武天皇の天照大神を最高神とする「イデオロギー」によって書かれたと思うが、仏教についても沈黙しない。これは天武天皇が仏教をも重んじたためということになるが、私はむしろ次のように考える。 筑紫(古代の倭)には百済からの仏教が早く伝わり、神仏習合も進んでいた。一方大和では倭との同盟後、新たな統一国家(日本)を形成する上で、倭の歴史と大和朝廷の歴史を統一する必要があったため、推古天皇の頃から仏教の受容にも寛容ないし積極的であった。つまり宥和政策であり、天武天皇もそれを継続する考えであった。 もちろん、新羅からの別経路で大和に仏教が伝わっていた可能性もあり、状況は複雑である。日本書紀の古代部分は、百済より新羅との通好記事が多いように思う。そのルートは、若狭から丹波を通る道であろう。天日槍命やツヌガアラシトのたどった道である。ただ百済王家の王名や王子王女の名前は、いかにも仏教的なので、新羅よりいっそう仏教信仰が盛んだったろうと思うだけである。 もう一つ疑問なのは、大物主神と事代主神の関係だ。天神地祇の別で言えば、いずれも地祇に属するのだが、大物主神は国譲りで天孫側に付いたらしい。事代主神は、古事記では国譲りの際に姿を消した後、二度と登場しない。しかし日本書紀では、本文では姿を消すことになっているのに、第二の一書では国譲りの後も生き残って(?)いて、大物主神と共に天孫に従っている。そしてこの二柱の神は、ごく近しいように見える(古事記もほぼ同じ)。姫蹈鞴五十鈴媛の父は、大物主神と事代主神の両説が併記されていて、ほとんど混同される状況があったようだ。
書紀の第三の一書以下は、ほぼ国譲りの後の話なので、ここには挙げていない。第一の一書では、事代主神は国を譲ることを承諾しただけで、隠れたとも去ったとも述べられていない。建御名方は、古事記にのみ登場する。 国を譲って隠れた大己貴神(大国主命)と大物主神は同一神だという説もあるが、書紀も古事記もそうは書いてない。大己貴神にとって、大物主神は彼方から「海を光して」やって来た神、つまり外来の神である。そもそも国譲りでは、大物主神はほとんど働いていない。むしろ国を奪った側にいたように読める。 なお、建御名方については、諏訪地方に謎めいた伝承があり、かつてその地方を支配していた一族が、出雲勢力の侵入によって衰退したという。その時代というのが、どうやら縄文時代後期のことらしい(縄文海進が終わった頃の話のようなので)。そういえば国譲りのエピソードも、同じ時期の記憶に重なっているようである。日本神話は、実際には考えられているより、ずっと古代の記憶を伝えているかも知れない。 天香香背男(あめのかかせお)も謎の神で、倭文神社というところには、香香背男を封じ込めた岩があったりするらしい。これらについては、いずれ調べてみたい。 |
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