このページの主な項目
神々の性別
古代の八幡神
邪馬台国の神
八幡神の変貌と復活
猿田彦はなぜ伊勢の海に沈んだか


八幡神の苦悩


八幡神の苦悩と復活

 日本の有力な神として、誰もがすぐに思い浮かぶのは、まず天照大神、出雲大社の神(大国主命?)、八幡大神である。八幡神に次いで多いと思われるお稲荷さん(宇賀御魂神)も挙げられるだろう。その他、日本書紀には大物主神が登場し、また古代には神と思われたかも知れない仏もある。この中では、八幡神が最も遅れて歴史に登場する。他の神は日本書紀に登場するが、八幡神は続日本紀の時代になってやっと姿を現すのだ。しかし強力な託宣の力で、出現するや否や朝廷の最も篤い信仰対象となった。

 現代人には神と仏の区別がつきにくいかもしれないので、簡単に説明する。神が人間とは一線を画す超越的な存在であるのに対して、仏は人間である。仏・仏陀とは「悟りを開いた人」という意味であって、修行すれば誰でも仏になれる。仏教固有の名称というわけでもなくて、ジャイナ教など他の宗教でも、最高指導者は一般に仏陀と呼ばれたそうだ。人間であるから、病気になったり死ぬこともある。現に仏教の創唱者とされるゴータマ・シッダールタは食あたりで死んだ。豚肉にあたったのだろう。豚肉の食中毒は非常に重篤になることがあり、モーゼの「出エジプト」でも、豚肉を食べて中毒したユダヤ人一行が危うく全滅するところだったので、今後は決して豚肉を食べてはならない、という戒律が生まれたとある。

「仏になる」「成仏する」「お陀仏」と言えば、日常語では死ぬことを意味する。しかし本来の仏教では、死んだだけでは仏にならない。悟りに達すれば仏になる。「生き仏」という言葉があるが、本来の仏はこの世に生きているものであって、死んだ仏は残念ながら仏であることもやめている。死ねばみんな仏になるというのは、いわゆる葬式仏教になってからのことである。

 死んで仏になるというのは、生き残った者に心の慰めを与えるための言葉であって、気休めに過ぎないだろう。ほとんどの人は生きている間に修行ができていないので、仏になることはとうていありそうにない。しかし、生き残ったものが死者にお経を上げたり供養したり回向してあげると、死んでからでも成仏することは可能だと言い出した。それが葬式仏教というもので、江戸時代にはこの形で庶民に普及した。死んだ両親にお経を上げたりするのは、やはり親孝行だということで、庶民には分かりやすい形だっただろう。

 本来の仏教は、自ら修行し悟りを開くもので、この世で往生をとげる、いわゆる現世往生こそ基本なのである。現代の庶民の多くが知っている仏教は、鎌倉時代以降の非常に歪曲した形の仏教だ。江戸時代になって大いに庶民に浸透した観音信仰も仏教だが、ヒンズーの神を祭ってあったりするので、一般の人には神との区別が付きにくい。このことはまた別に論じたい。

 普通の神は永遠不滅であって、死ぬことはない。「普通の神」とはおかしな言い方だが、古代神話には死んだ神もある。たとえば伊弉冉尊は死んで黄泉の国に行ったし、少彦名(スクナヒコナ)神も常世の国に行ってしまったという。同様のことは、エジプト(オシリス神話)やギリシャ(伊弉諾・伊弉冉とそっくりなオルフェウス神話)にも見られる。

 永遠不滅なものは誕生することもないはずだという議論がある。なぜなら誕生以前の世界には神はいなかったので、その神が存在しなくても世界は存在できる。神の存在しない世界が再び出現する可能性は十分あるわけで、その神は死ぬかも知れないのである。

 これに対し、ユダヤ教やキリスト教の神は天地創造神であり、そもそもこの世界は神がいなければ存在しなかったし、神がいなくなれば宇宙が存在し続けることもできない。ゆえにそもそも神がいないなどということは、この世がある限りありえないのである。

 だが、多くの神は、実際に生まれたり死んだりしたのだから仕方がない。

 ともあれ天照大神や大物主神、八幡神は死ぬことなく現在も生き続けていることになっている。出雲の大神は出雲大社にいるが、この世を去った神とされる。また熊野三山の神も伊弉冉尊、あるいは素戔嗚尊であるが、いずれもこの世を去った。もっとも、伊弉冉尊は書紀本文では死んだのかどうかはっきりしない。伊弉諾尊は死んだというのでなく、淡路島に幽宮(かくりみや)を造って隠れ住んだとあり、まだ淡路島にいるようだ。素戔嗚尊がこの世を去った神であることはあまり意識されていないようだが、書紀にはそう明記されている。

 日本書紀本文では、最初に自生神が現れ、多くは独身で子供を作らず、そのまま消えてしまう。子供を産む神は伊弉諾尊・伊弉冉尊以降に出る。彼らの生んだ神で最高の尊位にあるのが天照大神で、次に月読尊が生まれるが、これはあまり大きな役割を与えられていない。日本書紀本文では次に蛭児が生まれ、第四に素戔嗚尊が出る。蛭児を除いた三柱を三貴神ともいう。蛭児は船に乗せて流してしまい、神統から外されている。

 だが神々の系譜は、実のところはよく分からない。別のところで書いたように、伊弉諾尊・伊弉冉尊は天照大神の実の両親ではないらしいからだ。天照大神自身も、もともと九州地方にいた神だろうと思うのだが、今では伊勢神宮にいるものとされて、本来の出身地が分からなくなっている。日向の神だったとすれば、現在の日向にも痕跡が残っていてよさそうなものだが、それらしいものがないのである。現在の九州地方でも、天照大神は伊勢神宮の神であって、九州には本拠はないと思われている。

 書紀本文では、伊弉冉尊は死んだのかどうかはっきりしないが、第二の一書から第六の一書には火の神を産んだときに死んだことが明記されている。われわれになじみの深い、伊弉諾尊が死んだ伊弉冉尊を追って黄泉の国へ行った話は、この第六の一書にある。しかしここではまた、天照大神と月読尊、素戔嗚尊の三貴神が生まれたのは、黄泉の国から逃げ帰ってきた伊弉諾尊が、川で禊ぎをしたときであると書かれている。この所伝は古事記の説とほぼ同じである。

 伊弉冉尊を重要視して祭っているのは、紀伊にある熊野神社である。熊野には素戔嗚尊もいる。素戔嗚尊も世を去って根の国に行ってしまった神である。だから熊野三山をこの世とあの世の境界という人もある。クマノのクマは隅という意味があり、人目に付かないところに潜み隠れるということだそうだ。根の国と熊野は、深い関係がある。


<神々の性別>

 天照大神は女神である。素戔嗚尊の姉とされ、素戔嗚尊は弟と呼ばれている。間には月読尊(ツクヨミノミコト)もいる。この神の性別は明記されていない。天照大神は天を支配する最高神で、太陽である。素戔嗚尊は地を支配し、その力は黄泉の国にも及んでいるらしい。月読尊はもちろん月の神である。読むという字が付いているので、暦の神かも知れない。

 日本書紀には星の神の名前も登場する。本文では香香背男(かかせお)、第二の一書では天津甕星(あまつみかほし)、またの名は天香香背男といって、命や尊がついていない。天孫族に最後まで抵抗し、倭文神(しとりがみ)に封じ込められた悪神なので、尊称がない。この神は名前のみで、物語がない。日本書紀の神代巻は、天地創造から始まっているが、天照大神の誕生以降の物語は、おおむね弥生時代の記憶のように思われる。香香背男の話は、もっと古い時代のものなのではないだろうか。

 月読尊もほとんど活躍しないが、日本書紀には保食神(ウケモチノカミ)を殺した話が出ている。このいきさつからすると、武器を携えて行ったことは分かるので、おそらく男だっただろう。白河本旧事紀は明確に男神と記載する。

 亀岡に大井神社という神社があるが、その社伝では、月読尊は市杵嶋姫と共に亀に乗って桂川をさかのぼって来たという。これも女二人で来るのはおかしいように思えるので、やはり月読尊は男だっただろう。

 天照大神としばしば同じ神社に共存している神に、いわゆる宗像三神がある。これは三柱の姫神である。天の安河で天照大神と素戔嗚尊が誓約(うけい)を行ったときに生まれた神で、日本書紀の本文では田心姫(たごりひめ)、湍津姫(たぎつひめ)、市杵嶋姫(いちきしまひめ)の順に生まれたとする。ただし「一書に曰く」の多い部分でもあり、三女の市杵嶋姫が実は長女だという説もあるし、古事記では次女としている。当の宗像大社は、日本書紀本文の説を採用しているそうだ。

 八幡宮の起源は不明な点が多いが、御許山(おもとやま)が現在考えられる八幡神の発祥の地だという。ここにはまず宗像三~の比刀iひめ)大神が天下ったという説がある。八幡神は後から出現したということになっている。

 ところが宗像の比淘蜷_は、八幡神とは別のようにも伝えられる。つまり八幡神は應神天皇で、男神だというのである。かなり混乱していて、明らかに大和朝廷が送り込んだ勢力である大神氏が應神天皇を付会したのだ。

 八幡神の本来の形が分かりにくくなっている最大の理由は、社伝があまり古いものではないことにある。現在伝わる最も古い史料として『八幡宇佐宮御託宣集』があるが、残念ながら鎌倉時代以降に成立したものである。これは源平の争乱で、平氏方についた宇佐八幡を源氏の武将が襲い、神宮に伝わる記録のたぐいをすべて持ち去ったため、古伝が残らなかったのだという。

 ただし他にも奇妙な伝説があり、阿蘇神社に伝わるところによると、八幡神は神武天皇の息子で、阿蘇明神(長男)、高知尾明神(次男)との三人兄弟だった。ともに日向に天下ったが、放浪するうちに高知尾明神は土地の美しい娘に惹かれて高千穂の村に止まり、別れることになった。同じような成り行きで阿蘇明神も阿蘇に止まった。

 八幡神は分かれるとき、兄弟から「お前は帝王(天皇)に生まれて護国の神となれ」と言われ、宇佐のあたりまで行って神功皇后の腹中に宿った。これが應神天皇である。この伝承では、明確に八幡神は男神となっている。

 だが、宇佐八幡は、しばしば中央の社殿に祭られている比売大神が中心ではないのか、と言われる。この比売大神は宗像三神とも、八幡神の本来の姿とも考えられることがある。

 あるいは八幡神は本来女神であったのではないのか。現在は男神であり應神天皇の神霊とされているが、それは、「護国の神たるべき使命」を果たすため、天皇家との不離一体の関係を強調する必要からであろう。

 たとえば広島県呉市にある亀山神社は、八幡神を祭る神社で、一時大神がここに遷座して建てられた非常に古い神社である。古くは「日売島神社」「大屋比売神社」などと呼ばれたという。この姫島は、『摂津国風土記逸文』の姫島(大阪市西淀川区)とも関係があり、都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)に追われて新羅からやって来た阿加流比売(あかるひめ)が、初めは筑紫にいて、後に摂津に渡ったという、その道程にあたる。

 亀山神社に八幡神が鎮座したのが創建の703年頃だとすると、持統天皇の頃になる。古代と違って、年代は明確だ。古事記では應神天皇代に似たような話があり、日本書紀ではさらに古代の垂仁天皇紀にある記事だが、実際は天武・持統時代の事件だったのかも知れない。だがそうだとすると、日本書紀編纂者にとってもまだホットニュースだったはずで、大きな年代錯誤を犯すとは考えにくい。

 八幡神は続日本紀という正史に初めて登場するのだが、それ以前の形は、よく分かっていない。欽明天皇代に顕現したというのだが、元来は應神天皇の頃に新羅から渡ってきた神だという。その元いた新羅ではどういう神だったのか、なぜ異国の地で王室を補佐しようとするのか、なぜ幡を神威の象徴として立てるのかなど、一切不明なのである。

 應神天皇との縁が深いように見えるが、そうではないだろう。日本書紀の記載を読むと、仲哀までの天皇は筑紫などの九州勢力に武力で対立してきたが、應神天皇は友好的だった。

 たとえば應神末期の記事には、中国(呉)から連れ帰った四人の機織り女の一人を宗像神社に献じたと出ている。宗像の三女神は、宇佐神宮の比賣大神と同一かも知れない。これは伝承と違って、当時すでに八幡神の基礎ができていた(應神時代にすでに八幡神の前身が存在した)ことを示すものだろう。機織り女を献げたのは一種の関税である。この頃には海外貿易の重要性が増し、その玄関口としての北九州も重視されるようになったのだろう。朝廷は北九州人の権益や信仰の自由を保証し、おそらく自治権も認めていたのだと思われる。

 なお当時の「呉」は、必ずしも中国大陸のことではなかったという。日本書紀によると、大和朝廷は、それまでほとんど海外と通好していない。時たま渡来人が現れる程度である。記事内容もほとんど半島記事だ。中国記事が現れるのは、推古紀まで待たなければならない。仲哀天皇に至っては、海外に国があることすら信じなかった。いくら何でも、そこまで無知だったとは思えないが、外交の意欲を持たない国だったことは確かなようである。倭国は早くから中国に使節を送っていた。魏志倭人伝の時代には、魏が優勢と見て、国交を求めていたようである。

 應神天皇の時代は、馬が伝わってきたというので、五世紀前半のことだろう。三国時代は終わり、呉はすでに滅亡していたと考えられる。もちろんかつての呉、江南地方(その頃は東晋?)に人材を求めた可能性はあるが、実際には半島だったのではないだろうか。それまでの大和は、むしろ新羅の方に親近感を持っていたように見える。筑紫の倭国は、百済との結びつきが強い。應神が百済に使者を送ったとしたら、画期的なことだったかも知れない。

 当時の九州人は、應神とその母である神功皇后に強い親しみを持ったように思われる。八幡神は、もともと母子神信仰から来ているという説もある。だがもちろん、後には磐井の乱が起こり、九州は再び大和朝廷に武力攻撃を受けることになる。風土記はもっぱら景行天皇の九州侵攻を語る。日本武尊や継体は筑紫を舞台にした局地戦争だったが、景行の九州征伐は、ほぼ九州全域に及んだらしい。

 実を言えば、書紀の神功皇后は印象が強いのに、應神天皇は何だか存在感に乏しい。文字や馬がこの天皇の御代に伝わったと書かれているが、何かを積極的に企て実行した人ではないからだ。逆に言えば、景行天皇のような暴力的な九州征伐もなく、九州人にとって安心できる天皇だったのだろう。

 おそらく八幡神は自ら生き延びる道を考え、つまるところ大和朝廷に服属して、かつて邪馬台国を守ったように、今度は大和朝廷を守る護国の神として再臨する他はないという結論に至ったのだ。そのとき、思い出されるのがかつて北九州に友好的だった應神天皇であり、旗印に掲げるには、これ以上の存在はなかった。

 神武天皇は人代の最初の天皇であって神ではないのに、阿蘇神社の社伝では、その息子が神であるのは、こういう関係を強調するための付会だ。

 日本書紀編纂者にも、神代と人代の区別は付いていた。神が人を生むことはあっても、人から神は生まれない。彼らは神代の年代を定めようとはしていない。ただ神々の系譜を記述するだけである。その系譜にも混乱があるようで、特に大己貴命の系譜は怪しくなっている。だが、諸説を列挙するだけで、矛盾点を解消しようとした形跡がない。つまり、本文に矛盾したところがあり、「一書に曰く」を取捨選択すれば解決できそうなところでも、敢えてその努力をしていない。「神代のことは人知では測り知れないものさ」と言い合っている編纂者たちの姿が見えるようである。


<古代の八幡神>

 歴史に登場する以前の八幡神の姿については、中野幡能氏の『八幡信仰史の研究』が最も詳細である。

 それによると、山国川周辺にある薦(こも)神社を中心とした古代信仰があり、これが宇佐氏の奉斎する神であった。この神は、しばしば宗像三~と同神とされる。

 ところが『豊前国風土記』逸文には、それ以外に香春岳(かわらだけ)に新羅からやって来た神が住み着いたという。この山は三つの岳からなり、三姉妹神がそれぞれの峯に降ったというのだが、その名は第一の岳に大姫尊、第二に忍骨尊、第三に豊姫尊と言い伝えるそうだ。忍骨尊って、姫神なのか?とにかく銅を産出する第三の峯が最も重要だったようで、その豊姫尊が香春三~の中心的存在であった。香春はもとカハルで、朝鮮語のカル、つまり銅のことだろうという説がある。香春岳には採銅所があった。

 この香春三~が宇佐氏の三姫神と結びつき、同一化した。その場所は香春(豊の国)と薦神社(山の国)の中間地点、綾幡であっただろうという。そこには矢幡神社がある。中野幡能氏は、ここで「ヤハタ」という名前ができたと推測する。われわれは現在「ヤハタ」とも「ハチマン」とも呼ぶが、成立期には「ヤハタ」と呼ばれたのだそうだ。

 だが、われわれは「辛国の城に、始て八流の幡と天降って、吾は日本の神と成れり」という八幡神は、やはり最初から幡をその特徴としていたのではないかという考えを捨てきれない。この「ハタ」は、秦氏のことだったかも知れない。秦氏は養蚕、機織り、酒造り、治水工事など多くの技術を持ち、東漸して山背国に勢力を張った(最近、筑紫の秦氏が東漸したのでなく、ほぼ同じ氏族が別の経路で丹波などにも渡来し、後に再会して同盟した、といった形もありうるように思っている)。

 八幡神は、最初は辛嶋氏がその中心になっていたようだが、後に大和の三輪一族の系統らしい大神(おおが:大和での呼び名はおおみわ))氏が祭祀権を握るようになった。辛嶋氏は名前からしても渡来系であり、古くから筑紫地方に住み着いていたらしい秦氏とも関係があるのだろうが、伝承からすると、少し遅れて渡来した一族のように思われる。

 いずれにしても、鷹居社で荒ぶる神となっていた八幡神の心を和らげたのは、大神氏の伝承では大神比義(ひぎ)だというのだが、辛嶋氏の伝承では、辛嶋勝(すぐり)乙目(おとめ)となっている。鷹居社を立てた後、辛嶋勝意布売(いふめ)と共に奉斎したという。オトメ、イフメというのはどう見ても女性である。巫女の才能のある女性を選抜して、その地位に当てたのだろう。

 しかし、このことは、八幡神が辛嶋氏のもたらした神でなく、もともとこの地にいた神であったことをも意味するだろう。それはあるいは宇佐氏の神だったかも知れない。~武紀には椎根津彦を「国つ神」としているが、宇佐氏の遠祖である菟狭津彦・菟狭津媛についてはそういう記載がない。

 宇佐氏の伝承では、高魂尊または天三降命が祖先だというので、天神系ということであろうか。その後に佐知彦命(宇佐国造の始祖とされるので、菟狭津彦と同一人物か)がいて、代々三角池の池守を勤めたという。つまり薦神社の宮司のような存在であろう。「佐知」の名は親から子へ引き継がれたようで、数百歳になる佐知翁と呼ばれる人物がいたそうである。

 この宇佐氏の神が、辛嶋氏の神と合一したわけだが、全く異質なものを無理に合わせたというより、元来は同質の神だったのを、それぞれ別に祭っていたのではないだろうか。辛嶋氏の神は、香春岳に降臨した三柱の神という。その後に大神氏が大和の神を無理に組み合わせようとしたので、やや奇妙な形になった。

 ついでに宇佐家伝承について触れておくと、「神武天皇は東征の途上安芸で没し、後を継いだ~武の兄、景行天皇が実質的な初代天皇として九州征伐を行った」という。これでは東征でなく西征になってしまうが、要するに九州はまだ倭国であったため、大和に強大な勢力が出現したことを知らなかったのだろう。

 景行に次いで偉大な天皇として伝えられるのは、神功皇后である。日本武尊の名は、宇佐家伝承には登場しない。日本書紀は彼の熊襲征伐を重大事件のように書くが、風土記には出て来ないし、存在感は希薄である(これに反し、常陸国風土記では、「倭武天皇」の活躍が景行天皇以上に印象的である)。そして宇佐家伝承では、神功皇后と彼女の息子は共に筑紫で死亡し、應神天皇は、実は神武天皇が宇佐津姫を娶って産ませた子の孫であり、本来宇佐氏であるという。ここまで来ると、全く信憑性に欠けるように思え、ただ「へえへえ」と聞いておく以外にないが、刺激的ではある。

 ちなみに、この「宇佐家伝承」の底流にあるのは、「因幡の白兎」説話に見るような、古代における菟佐(うさ)族と和邇(わに)族の抗争の歴史なのだという。

 八幡宮について言えば、一之御殿に應神天皇、二之御殿には比売大神、三之御殿には神功皇后を祭っているが、そのうち二之御殿はひさしが少し引っ込んでいる。社伝では、33年ごとの建て替えの際、この二之御殿だけは位置を動かしてはならないと語り伝えていた。

 なぜかと言えば、二之御殿の下には「御量石(みはかりいし)」なるものが埋まっていて、これは世の中が盛んなときには少し浮き上がり、低迷しているときには沈むという、不思議な話があるのだそうだ。大正年間の社殿改修の際、現場を担当した建設技師がこの伝承を信用せず、二之御殿を少し前に出してひさしを揃えた方がいいと主張した。しかし宮司が頑固に反対するので、では掘ってみようということになった。古い社殿を取り払った後、人夫に掘らせたところ、1mほど掘ったところで何かかちんと音がして、平らな石のようなものに当たった。宮司と技師は思わず顔を見合わせたそうである。掘り出してみようという意見もあったようだが、技師が「いや、もういい」と埋め戻させ、二之御殿は元通りの位置に再建された。

 以上は宇佐公康氏著『宇佐家伝承・古伝が語る古代史』(1990年:木耳社)による。私なりの表現なので、正確には同書を参照されたい。

 こうした話は、やはり二之御殿こそ中心的な存在だという印象を裏書きするものである。

 いずれにせよ、八幡神は数度に渡って変貌を遂げた。

 九州地方の人たちは、大和朝廷では、神功皇后と應神天皇に特に親しみを感じていたようである。風土記には景行天皇がよく登場するが、客観的に見ると凶悪な強盗団が九州にやってきて踏み荒らしたような印象が強い。磐井の乱なども、朝廷軍を批判しているように読めなくもない。だが神功皇后が登場する記事は、全く違う。むしろ賞賛しているように読める。

 大神氏も地元民の感情を知っており、この二人の天皇(神功皇后は今では摂政とされて天皇の系譜から外されているが、古くは天皇と考えられていた)を付会したのだと思われる。


<邪馬台国の神>

 邪馬台国は九州にあっただろうが、その信仰の姿はよく分かっていない。大分には八面山という山があり、その近くに三角池(みすみいけ)という古い池がある。そのほとりに鳥居があり、薦(こも)神社というが、中世になって社殿が造営されるまで、池自体が社殿であった。現在も池を内宮、後に建立された社殿を外宮という。

 逵日出典(つじ・ひでのり)氏の名著「八幡神と神仏習合」(講談社現代新書)によると、鳥居から八面山を見ると三角池の向こうに優美な山の姿が見える。どうやら八面山が御神体だったのだ。

 その写真を見たとき、私は「八面山こそ、もと卑弥呼がいた場所であり、その山頂で神託を受けたのだ」という思い込みに取り付かれてしまった。無論証拠は何もない。原始のみずみずしくも透明な、神秘の光を感じてしまったのである。

 八幡神の最初にいた場所は御許山(おもとやま)だという。いかにも八幡神の大元であったという名前だが、さらに古くは、八幡神は薦神社にあったのではなかろうか。確かにそのほうがより原始的で、起源が古そうに見える。

 たとえば八幡神は、隼人征伐のとき、三角池の薦を刈り取って枕を編み、この薦枕を自分のよりしろとして連れて行けと神託で述べている。薦神社が八幡神の安らぐ場所であるからだろう。

 八面山は頂上が平たく、台形をした特異な姿の山である。邪馬台国の「台」の字がこの山容から来ていてもおかしくない。そこで八幡神は邪馬台国の神だった、と考えてみることにした。ただし邪馬「壱」国説にも相当な合理性があると考えているので、「台」の字にはこだわらない。

 実は「八幡=邪馬台国」説は、すでに八幡研究の権威、中野幡能氏が唱えているという。その説によると「ヤバタイ」が「八幡=ヤハタ」になったというのだが、どうだろうか。私は「幡」の字は、やはり八幡の神威の象徴であるあの幡であると思っている。または秦氏の秦であろうか。秦を「はた」と読むのは、機織りの技術があったからだとも言う。

 機織りなど大した技術でないと思うのは、現代人の考えだ。古代には大変な技術革新だったのである。繭から糸を紡ぎ、大がかりな織機に掛けてぱたん、ぱたんと動かすと見る見るうちに布が織り上がって行く。恐るべき先進技術だったのだ。

 私の子供の頃は、まだ衣料が豊富ではなく、服が破れても繕ったりつぎを当てて、長く着ていた。高度成長期に入って化学繊維が普及すると価格が安くなり、現在では、デザインなどにこだわらなければ百円ショップにも衣料がある(その代わり日本の繊維産業は衰えてしまった)。服部(はっとり)というのは、宮中の衣服を司る部門だが、「はたおり」が「はとり、はっとり」になったという。衣服の供給が重要視されていたからである。

 それはともかくとして、八幡信仰に、邪馬台国の神に通ずる原始信仰の面影を感ずる人は、他にもいるということだ。ただし中野幡能氏は、薦神社が八幡神の発祥の地であるとは見ていない。三角池は渡来人によって作られた人工の池だという見方があり、そうならば薦神社が生まれたときには、もう八幡神の変貌が始まっていたのかも知れない。

 しかしもし八面山の上に卑弥呼が住み、そこで神託を受けていたとすれば、その神が薦神社で生まれたということにはならない。そのあたりにかつて卑弥呼を依り代として住んだかも知れないだけである。

 魏志倭人伝には、卑弥呼の祭祀の模様が書かれていない。八幡を象徴するあの旗も登場しない。しかし、隣国が卑弥呼の国を襲ったとき、魏の国に応援を求めたところ、魏では軍隊を派遣する余裕がなく、代わりに黄幢を貸し与えたという記事がある。これは黄色の旗だったのだろう。

 現代人は「旗を見たぐらいで敵が驚くものか」と思う。しかし前述のように鮮やかな黄色に染められ、風にやわらかくなびく魏の旗は、当時の倭人の目には、大変なハイテクの産物と映ったに違いない。その旗の背後には、極めて威力の強い国の姿が見えていたのである。

 八幡神が後世、旗を神威の象徴として立てるようになったのは、この事件からではないだろうか。

 八幡神は最初「鷹居社」というところに祭られたそうだが、そのときは「五人行けば三人殺して二人を生かし、十人行けば五人殺して五人を生かし給う」というすこぶる荒々しい神だったという。似たような記述は、天照大神の遍歴のときにもあった。天照大神が伊勢に鎮座する前、藤方片樋宮にいたことがある。そのとき阿佐賀山に悪神があり、やはり同様に「百人行けば五十人を殺して五十人を生かし、四十人行けば二十人を殺して二十人を生かした」という。ただし阿佐賀は現在の三重県の阿射加神社のある地とされているが、その神は猿田彦神であり、八幡神との直接的な関係はない。

 荒れすさぶ神である八幡神を鎮めたのは、大神氏の伝承では大神比義だという。だが、辛嶋氏の方は辛嶋勝乙目という女性名である。私は八幡神の本体は宗像三~と同体であると考えており、それは姫神なので、本来女性が奉斎すべきであった、つまり辛嶋氏の伝承が正しいだろうと思っている。大神氏の伝承は大和朝廷向けの公式発表に過ぎず、実情を伝えていないように思う。

 いずれにせよ、その甲斐あってやや神の心が和んだので、鷹居社に社殿を建てた。それ以前には社殿がなかったのである。おそらく小さな森に祠を置いたようなものだったのだろう。

「妖怪は零落した神の姿である」というのが、柳田国男の見解だ。この頃の八幡神は、まさに零落した神だった。かつては大神としてその地に君臨していた神が落ちぶれて、人々に忘れられかけていた。するとタタリや怪異を表すようになる。

 出雲の大神も、もといた丹波を追われて播磨に遷幸していたとき、道行く人の半数を取り殺した。怒れるタタリ神だったのだ。神威の強い神は、同じような立場に置かれたとき、同じようなやり方で怒りを表すのであろう。

 いずれにせよ八幡神は、辛嶋氏が奉斎する以前からいた神なのである。元の形は非常に原始的な信仰だっただろう。数度の変遷を経て、大神氏によって男神(應神天皇の生まれ変わり)とされた後で歴史に登場したので、よく分からなくなっているが、本来の姿は姫神だと思う。中野幡能氏は、この大神氏の付会は、中央で起こっていた仏教導入の動きと同期したものと言っている。

 つまり大神氏が筑紫に現れた頃、大和朝廷の実権は蘇我氏の手に握られていた。蘇我馬子は仏教を日本に導入しようとしていたが、隋書に「新羅から仏教を取り入れた時に文字を学んだ」とあるように、筑紫ではすでに仏教が上陸していたらしい。神仏習合も八幡神に始まるようである。いわゆる僧形の八幡神の像がある。

 といっても、日本の神は一般に図像がない。男神か女神かは明記されていることが多いが、ほとんどはまるでユダヤ教の神のように、名前だけで姿がないのである。かつてオペラ映画「蝶々夫人」(フレーニのヒロイン、カラヤンの指揮)を見たとき、蝶々さんが小さな人形を並べて「イザナギ、イザナミ」と祈るのを見て、西洋人から見ると日本の宗教はこう見えるのだなあと感心したのを覚えている。異教徒は必ず偶像崇拝であると考えるわけだ。

 ところが、日本でそういう意味の偶像があるのは、実は仏教であり、道教である。日本人から見ると、キリスト教で磔刑像を飾るのこそ偶像崇拝的だ。ユダヤ教徒なら、キリスト像は許せないと思うのではなかろうか。ただし天照大神も鏡や剣の形らしいし、想像で神の姿を絵に描いたからといって、日本では「けしからん」と責められることはない。外国人なら鏡や剣が神の依り代であり神威が宿っているという考えはおかしいと思うだろうか?だがキリスト教徒も「聖遺物」の伝承を持っている。聖杯や十字架の破片に霊力が宿っていると考えているのだ。

 仏教が豊富な仏像を持つのは、ギリシャ人の影響だそうである。仏教は古代宗教の中では、ギリシャ哲学に類縁の要素を持っていた。原始仏教は超絶的な能力を持つ教祖が教団を率いるようなものでなく、むしろ静かに論理的な対話を交わす学究の集いだった。アレクサンドロス以来、インドには多くのギリシャ人が入り込んだが、彼らは仏教に興味を持ったらしい。インドから祖国に戻ったギリシャ人は「インドには女の哲学者がいる」と伝えたという。これは尼僧のことで、今日のわれわれには「哲学者」とはほど遠く感じられるが、仏教の論理性が、ギリシャ人には宗教と言うより哲学と感じられたのだ。ギリシャ人は神々や偉人の像を刻むのに熱心である。そこでブッダの像も刻んだ。ユダヤ教やキリスト教が言う偶像崇拝の宗教になったのである。


<八幡神の変貌と復活>

 八幡神は鷹居社にあったとき、かつてその地で大神の座にあった神が、その座を追われたときに示すような苦悩と憤怒の荒ぶる神であった。土地の人々は、それを猛烈なタタリ神として畏れ、敬して遠ざけていたのだろう。鎮まってから社殿を建てたと言うことなので、それ以前は社もなく、せいぜい小さな祠だったに違いない。

 しかし大神氏が奉斎するようになると、應神天皇の神霊であるという説が生まれ、大和朝廷に協力的な神として、大いに発展する。

 ところが養老三年(719)の隼人の乱では、朝廷側について隼人征伐を行った。そのあと、大勢の隼人を殺した罪に苦しみ、最初の放生会(ほうじょうえ)を行なったという。大和朝廷はこれ以後八幡神を信頼するようになった。

 東大寺の大仏造立にも大いに協力した。まず銅を献上したが、朝廷では大仏に塗る金が足りないので、中国へ行って買い求めようとした。そこでまず八幡神にお伺いを立てたところ、神は「金は必ずこの国で出るから、中国へ行ってはならない」と告げた。そこで中国行きは取りやめたが、翌年には託宣通り陸奥で多量の金が出たという。

 この話は「できすぎ」と言うので、あらかじめ準備しておいて託宣したのだと解釈する人もある。だが、私はありそうな話だと思う。日本は産銅国だった。銅が出る土地では金も出る。古代人もその程度の知識はあっただろう。

 大仏完成の後、八幡神は奈良の都に上って大仏を礼拝した。筑紫では早くから神仏習合が始まっており、神が仏を拝んでも不自然ではなかった(これに対し、伊勢の大神は仏教に対する嫌悪をあらわにしており、仏僧は伊勢神宮に入ってはいけないことになっている)。

 しかしその後厭魅事件が起こり、主犯は薬師寺の僧行信と八幡神宮の大神田麻呂とされ、流罪になった。厭魅とは人を殺そうとする呪詛のことである。呪詛の対象が誰であったかは分からない。八幡神は大いに恐懼して、朝廷から授かっていた領地などを返還した。

 さらに天平勝宝七年(755)八幡神は禰宜たちに「汝ら穢らわしくして過ち有り。神吾、今よりは帰らじ」といって宇佐神宮を去り、伊予の宇和嶺に行ってしまったという。このあとおよそ26年の間、宇佐神宮には八幡神がいなかった。その後託宣により宇佐に大尾社を建て、そこに遷座した。

 名高い道鏡事件(称徳天皇がニセの八幡神の神託によって寵愛の僧道鏡に皇位を譲ろうとした事件)で、和気清麻呂が八幡神の神意を確かめたのは、この大尾社である。

 中野幡能氏の推論によると、道鏡を天位に付けよというニセの託宣は、厭魅事件で大神氏が八幡神宮を去り、宇佐氏が実権を握ったことと関係があるということである。宇佐氏は古来比盗_を祭っていた。八幡神が伊予に行ってしまっても、宇佐神宮には比盗_が残っていたと考えることもできる。道鏡がその隙を狙って、自分に近しい中臣氏を禰宜として送り込み、この人物がニセの託宣を受けたというわけだ。

 しかしさらに裏があったかも知れないと、中野幡能氏は考える。道鏡が「法王」となり、絶大な権力を握ったことに警戒心を抱いた藤原氏が、中臣氏と組んで道鏡追い落としを図ったとも考えられるというのである。宇佐氏は中臣氏の始祖とされており、その中臣氏から藤原氏が派生したのだから、彼らがグルであったことは十分考えられる。

 いずれにせよ、この間も朝廷の八幡神への信仰は衰えなかった。貞観二年(860)には石清水八幡宮が造営されている。それ以後全国で八幡神を勧請することが一般的になった。

 この沈潜と再浮上の歴史を見ると、元来筑紫の大神だった八幡神は、朝廷に撃滅されて路傍で祟り神になっていた。この頃は自分を貶めた朝廷に、激しい怒りを抱いていただろう。ところが大神氏によって應神天皇の生まれ変わりだとされたとき、朝廷に忠誠を尽くす神として変身を遂げ、同胞とも言える隼人を征伐し、朝廷の宗教になろうとしている仏を礼拝した。これはこの神が元来筑紫の人民の守り神であり、朝廷に勝てないなら忍従して彼らを守ろうとしたからであるように見える。厭魅事件でも恐懼の念を表して、筑紫が朝廷に敵対しないことを表明している。


<猿田彦はなぜ伊勢の海に沈んだか>

 阿佐賀山の荒れ狂う悪神は、猿田彦神だった。この神は、日本書紀の本文でなく第一の一書に現れる。なかなか印象的な存在である。

 初め、天照大神が地上を治める神として、天孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を天降りさせようとしたところ、その道を偵察に行った者が、天八達之衢(あまのやちまた:道が四方八方に分かれるところ)で異形の神を見たと言う。巨大な体躯と異様に長い鼻、ぎらぎら光る赤い目をしており、口の端にも光があった。

 その神の正体を聞き出させようと、次々に八十萬の神を使いにやらせたが、皆その神ににらまれただけですくみ上がってしまい、何も聞き出せなかった。そこで天鈿女命(あめのうずめのみこと)を呼び、「お前は女ながら特別に大胆だから、誰なのか聞いておいで」と言った。

 天鈿女命はその衢の神の前へ行くと、裸になって見せ、にっこりと微笑みかけた。衢の神は「お前は何のためにそんなことをするのか?」と訊いた。

「天孫が天降りされる道にいるあなたは誰なの?」
「天孫が天降りされると聞いたので、ご案内しようとお迎えに出て来たのだ。わしの名前は猿田彦大神」
「あなたが先に行く?それとも私が先?」
「わしが先に立って道案内しよう」
「あなたはどこに住んでいるの?天孫はどこに行かれることになっているの?」
「天孫は筑紫の日向の高千穂のクジ(木+患)触峯(くじふるのたけ)に降られるのだ。わしは五十鈴川の上流に帰る」

 猿田彦はそのとき、天鈿女命のヌードに気を呑まれてうっかり名前も居場所も教えてしまったのに気づき、「わしの正体を聞き出したお前が、帰りにはわしを送って行け」と言った。

 こうして「怪しい神がいる」と大騒ぎしたのは、実は邪神でないと分かったので、天孫は無事に降臨した。後で天孫は天鈿女命に猿女君(さるめのきみ)と名乗れと言った。

 なお猿女の君は実際に人代に存続して、舞踊や音楽芸能に携わったが、女系の一族ということになるので、その血統は長く保たれなかったらしい。一夫一婦制であれば、男系だろうと女系だろうと、確率から言っていつか系統の断絶する日がやってくる。男系である天皇家や徳川の血筋が絶えなかったのは、一夫多妻だったからだ。一妻多夫で子供がたくさん産めるということはないが、一夫多妻なら、男系の子供の数が多いのが普通だ。「お世継ぎ」の他に傍系を作っておけるので、当主に子供がない場合も、傍系から「お世継ぎが出せるわけだ(一般人は一夫一婦制なので、昔は家を絶やさないために養子を取ることがよくあった)。

 古事記の口述をしたという稗田阿礼は猿女の君の一族とされ、このことから稗田阿礼は女だったという説がある。もちろん、いわゆる口誦文芸にも深く関わっていただろう。

 猿女の君の住んでいた郷は小野氏のいた場所に近く、交流もあったというから、現代にも天鈿女命の子孫が(ただし小野氏の子孫として)いるかもしれない。

 それはともかく、こうして登場した猿田彦は、道の分岐点に立つ案内の神、または道で邪神の侵入を防ぐ神とも見られ、道祖神(さいのかみ)、塞神、岐(ふなど、くなど)の神と同一視される。日本書紀の第二の一書では、猿田彦は登場せず、大己貴神が隠れる際、岐の神を薦めて道案内役としたことになっている。

 そのほか、上記のようないきさつから、天鈿女命と性的な関係があったとか夫婦になったという俗説があり、男性性器に似た石や、男女の人形に性器の絵を描き込んだものを立てて厄除けの神とするなどのことが行われた。

 このような俗信の神は猿田彦から大きくかけ離れており、起源が別にあるのではないかと、柳田国男が「石神問答」で追究したが、結論は出なかった。柳田国男は道教的な信仰が、古い時代に日本に入ってきて、集落の安全のために方位の神として石神を立てたのではないかと考えていたらしい。

 天鈿女命は美人というより、滑稽な仕草で人を笑わせるコメディアンのような存在だ。「おかめ・ひょっとこ」のおかめであるともいう。ただしひょっとこは猿田彦ではなく、よく知られているように「火吹き男」、火吹き竹で火を起こそうと「ぷう」と吹いている形である。

 猿田彦は異様に長い鼻から、天狗のイメージで考えられた。江戸時代には天狗の存在が信じられ、平田篤胤も熱心に追究している。

 この少しユーモラスなイメージのある猿田彦が、阿佐賀山で荒んだ悪神になっていたという。八幡神も出雲の大神も、一時期何かにすさまじい怨みを抱く怨霊神になっていた。それは、かつて大国を支配する大神だった神が、他の神との戦いに敗れて敗残の神となり、怖ろしいタタリ神となった憤怒の形なのであろう。

 猿田彦の最期の事情は日本書紀にはなく、古事記に記載される(白河本旧事紀には猿田彦の名は登場しない。単に岐の神と書いているだけだ)。阿邪訶(あざか)にいたとき、比良夫貝(ひらぶがい)に手をはさまれ、海の底に引きずり込まれて溺れ死んだということだ。海の底に沈んだとき、底度久御魂(そこどくみたま)、都夫多都御魂(つぶたつみたま)、阿和佐久御魂(あわさくみたま)という三柱の神が生まれた。

 比良夫貝という名前からすぐに連想されるのは「拾う貝」という言葉だ。関西方言では「ひろう」を「ひらう」と言うことがあるからだ。猿田彦の巨体を引きずり込むのだから、よほど大きな貝であろう。あこや貝には非常に巨大なものがあるという。

 沈んだときに生まれた三柱の神は、猿田彦が溺れ死んでいる様子を表している。体が海底に横たわり、そこから小さな泡粒が海流にゆらゆら横流れしながら立ち上っている。海面に近づくにつれ、(水圧が低下するので)その泡は次第に大きくなり、しまいに海面でぱちんと弾ける。まるで溺れ死ぬ様子を実況で放送しているようだ。現実に海に素潜りして貝を拾う「アマ族」でなければ名付けられない神のような感じである。

 猿田彦大神を祭る阿射加神社は、三重県松阪市にある。小阿坂町と大阿坂町の二カ所にあるが、もともとは一つの神社だったのを応仁の乱の頃場所を移したので分かれたらしい。小阿坂町にあるのが社伝を詳しく伝えており、祭神は猿田彦神、伊豆速布留(いずはやぶる)神、竜天大神という。だが伊豆速布留神というのは荒らぶる悪神という意味に過ぎず、主祭神たる猿田彦と全く同じだ。神社本庁の説明は本居宣長の説と同じで、底度久御魂、都夫多都御魂、阿和佐久御魂を祭っているという。

 猿田彦が溺れ死んでいる様子を表す神を祭っているというのは、要するに猿田彦が再び蘇ってくることのないように、永久に海の底に沈めておく呪術であろう。これらの神の名前は聞いただけでも息苦しく、早く浮かび上がりたくなる。

 これに似ているのは、倭文神社の香香背男である。磐座があるのだが、その下に星の神香香背男を封じてあるという。

 日本書紀の記述と古事記の記述を比べると、どうやら日本書紀の方が素朴な古伝を伝えていて、古事記は全般にもっと整理された新しい記述のように思えることが多いのだが、ここではむしろ古事記の方が古い記事であり、製鉄民族が侵入する前の(つまり記紀以前の)伝承を伝えているような気がするのである。

 物部氏(製鉄族)はどこからかやって来て大和を支配する一大勢力になったのである。日本書紀はそれ以後の「歴史」を書いているが、古事記では時折それ以前の伝承が垣間見えるようだ。かつて青銅の一族がいたことは確実だが、彼らが大和も支配していたのではないか?その大神が猿田彦で、伊勢の海に追い詰められ、そこでほとんど滅亡させられたのではないだろうか?

 島根で生まれたとされる佐太大神(猿田彦)がなぜ伊勢の海で溺れ死んだか?彼は天八達之衢に立っていた。もしかすると彼の勢力範囲は、その頃島根から丹波、大和までに及んでいたのではないだろうか。遠来の客(大物主神)を製銅の根拠地たる大和まで案内し、やがてその客に国を奪われ、伊勢の海に一族もろとも沈められてしまった。

 もっとも、島根の佐太大社では、佐太大神を猿田彦と同一視することに、当初強く反発していたそうである。祭神も佐太御子大神以外は天神族ばかりのようで(素戔嗚尊も祭られているが)、地祇族の猿田彦神とは違っている可能性もある。

 私は、天八達之衢というにふさわしい場所は、南丹波(口丹波と言う。今の亀岡の地)か淡路島であろうと思う。丹波は山陰・北陸地方と吉備、播磨、山城(今の京都)、摂津、河内、大和を結ぶ古代の重要地点であるばかりでなく、丹波の国自体が大国で、古代日本最大の豊穣の地だった。

 淡路島は言うまでもなく瀬戸内地方の、特に海上の道を支配するためには重要な拠点である。淡路島の名前の起こりはいろいろ説があるらしいが、私は「阿波道」と考える。

 阿波の古代史は十分に研究されていないようだが、「淡路=阿波道」とすれば、丹波と同じくらい古代(記紀以前)から注目されていた場所ということになる。陸続きではないので、完全に大和朝廷に服属させるには、少し時間がかかったのであろう。四国最大の神社は讃岐の金刀比羅宮で、ここには大物主神が祭られているが、少し時代が新しく、中世に成立したようだ。それより古い時代にも神社があったのだろうが、今ではよく分からない。垂仁天皇紀などに「淡路島に狩りをした」という記事があるのは、このころ阿波の国を朝廷の支配下に置くための勢力誇示の動きがあったためかとも思われる。

 ともかく、製鉄技術を持つ大物主神が大和の地を支配するより前に、猿田彦の一族が銅器の製造に関わる技術を持っていたという可能性は十分にありそうである。だが大和朝廷(大物主神)は、銅鐸を知らなかった。そもそも銅を産出する場所を知らなかった。

 それ以上に大和の地の特徴は、水銀の産地だった。もう少し正確に言うと、吉野や伊勢がその中心地だった。

 水銀は、地上では主に硫化水銀として産出する。朱色の美しい物質で、砂状を呈している。「朱」とは硫化水銀そのものを意味し、丹(たん)、日本語では「に」ともいう。また「辰砂(しんしゃ)」とも呼ばれるが、中国南部の奥地で採掘された朱が特に高品質であり、辰州を経由して華北へ運ばれたので、この名があるという。

 大己貴命の「業績」の中には、病虫害を防ぎ、薬を作ったという記事があるが、これは朱を見つけたということかも知れない。当時は不死の霊薬としても珍重され、高価に取引された。古くは、日本は朱を輸出していたようだ。魏志倭人伝にも、倭が水銀を産出すると書かれている。

 製銅や製鉄には、朱は必要ではない。だが古代には、それだけで大したお宝だったのだ。猿田彦一族は、その価値を知らずに、物部一族に丹波や伊勢の産地を教えたのかも知れない。そしてある日、この遠来の客が強盗に変わり、猿田彦を海に追い詰めて殺したのだろう。


もくじ

















































































































































































































































































































































































































































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