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大地の歌
リュッケルト歌曲集
交響曲第3番
交響曲第9番








































































































バーンスタイン/マーラー交響曲全集icon

バーンスタイン=ウィーン・フィル/大地の歌icon























































































バーンスタイン=イスラエル・フィル/大地の歌(SACDハイブリッド)icon






クレンペラー/大地の歌icon








インバル/マーラー交響曲全集(輸入盤)icon

インバル/大地の歌(国内盤)icon










コリン・デイヴィス/大地の歌icon


















クーベリック=バイエルン放響/大地の歌icon
























シノーポリ/大地の歌icon








ワルター/フェリアー:大地の歌icon












ワルター/マーラー・ブルックナー交響曲選集icon


ワルター=NYフィル/大地の歌icon






























































































ルートヴィヒ/マーラー歌曲集icon















白井光子/リート・エディションicon








インバル/マーラー歌曲集icon

 









































バーンスタイン/マーラー交響曲全集icon







マーツァル/マーラー交響曲第3番icon






インバル/マーラー交響曲全集(輸入盤)icon












































































ワルター/マーラー・ブルックナー交響曲選集icon








バーンスタイン/マーラー交響曲全集icon




バーンスタイン/マーラー交響曲第9番(ベルリン・フィル・ライブ)icon




カラヤン/マーラー交響曲第9番(82年ライブ)icon









ジュリーニ/マーラー交響曲第9番icon





クレンペラー=ウィーン・フィルBOXicon








バルビローリ/マーラー交響曲第9番icon








インバル/マーラー交響曲全集(輸入盤)icon

マーラー


マーラー(1860−1911)
(画像はWikipediaからいただきました)
 マーラーが日本に初めて紹介された頃は、「妙な音楽だ」と思ったものである。盛り上がるかと思えば停滞し、ああ言うかと思えばこう言う。音は華々しいが、なぜか全体の印象は暗い。元気の裏側に絶望がつきまとい、上等な衣装に罪悪感のようなものが染みついて、洗っても洗っても落ちないのである。一言で言えば、それは何か大切な人か信念のようなものを裏切った人の音楽であった。

 グスタフ・マーラー(1860〜1911)はチェコ在住のユダヤの家庭に生まれ、幼い頃から音楽の天分を示した。父は家族に暴力をふるうことが多かったらしい。当初は彼が音楽家になることに反対していたとも言う。ただし、息子の才能が非凡なものだと分かってからは、積極的に音楽教育を受けさせようとした。家庭は貧しかったと伝えるが、ピアノもあり、ウィーン音楽院に通ったのだから、貧窮というほどではなかったようである。

 彼の音楽家としての経歴は、まず優秀な指揮者として始まった。ある時、チャイコフスキーがやって来て、ハンブルク市立歌劇場で「エフゲニー・オネーギン」をドイツ初演することになった。作曲者自身が指揮する予定だったのだが、歌詞がドイツ語に訳されていたので、チャイコフスキーは自信をなくし、指揮を降りることになってしまった。急遽代役に立ったのがマーラーである。チャイコフスキーはそれについて、書簡で「マーラーという若い人が指揮しました。その指揮振りについては『天才的』とだけ言っておきましょう」と評している。チャイコフスキーは批評家として的確であり、才能のない人に対しては辛辣だった。マーラーについてのこの言葉は、絶賛したと考えてもいいだろう。ただしおそらくチャイコフスキーにとっては、指揮は専門外であり、「自分より上手な指揮者はたくさんいる」と思っていたはずだから、それ以上マーラーに注目することはなかったようだ。

 後年、マーラーはウィーン・フィルの指揮者にも就任した。その本拠地である国立歌劇場には、胸像もあるそうだ。そして現在でも、ウィーン・フィルの歴代指揮者の中で、マーラーが最高だったという人がある。彼の演奏は、ブラームスやハンス・フォン・ビューローに絶賛された。

 しかし、当時のドイツ・オーストリアでは、ワーグナー指揮者でなくては成功と言えなかった。ワーグナーを指揮するには、ユダヤ人であることが障害になった。ワーグナーの残した妻、コジマたち遺族が妨害することがあったらしい。そこでマーラーはカトリックに改宗し、ワーグナーを指揮したが、これも大好評を博した。

 しかし今日では、もちろんマーラーは何よりもまず大作曲家である。作品は多くない。交響曲が十曲(『大地の歌』も含めて)、歌曲が四十曲あまり、学生時代の習作だがピアノ五重奏曲、未完に終わった交響曲第十番などがあるだけだ。CDの枚数にすると十数枚で、バッハやモーツァルトに比べると十分の一にすぎない。

しかしその大半はかけがえのない価値を持つ。

私の好きな作品を列挙しよう。


『大地の歌』

 大地の歌は、マーラーの全作品でも最も好きな曲だ。非常に切迫感を持って開始する第一楽章、いわゆる「諦念」を描き出す長大な終楽章が好きである。中間楽章にはさほど興味がない。

 この曲を初めて詳細に聞いたときは、終楽章『告別』にすっかり参ってしまった。参ってしまった、というのは魅せられたという意味ではない。あまりに衝撃的で、文字通りノックアウトさせられたのである。特に曲の真ん中あたりで、独唱が沈黙し、長々とオーケストラだけが演奏を展開する場面だ。マーラーの抱えていた苦悩と憂鬱のすべてがどっかりとのしかかってきて、自分の人生にも大きな穴が明いたような気がした。当時の私は新築の家を購入したばかりで、自分のためにオーディオルームと書斎を兼用する部屋を持ち、その中で大きな満足感に浸りながら聞いたのである。第一楽章では「生は暗く、死もまた暗い」と歌われるが、人並みに苦労してきたなら、この世は煉獄だと分かっているので、別に衝撃的ではない。だが第六楽章に至ると、状況はもっと絶望的になって行く。「友よ、この世に私の幸福はなかった(宇野功芳氏訳)」の一句にやられてしまった。一週間ばかり食欲がなくなり、調べると軽い胃潰瘍になっていた。

 私の持っているCDは、以下のものである。歌手名はテノール、アルト(またはコントラルト、メゾ・ソプラノ、バリトン)の順である。第六楽章が特に重要だと思うので、アルトを[A]、メゾ・ソプラノを[M]などと記号で示した。

  • バーンスタイン=ウィーン・フィル(キング、F=ディースカウ[B])
  • クレンペラー=フィルハーモニア(ヴンダーリヒ、ルートヴィヒ[A])
  • インバル=フランクフルト放響(シュライヤー、ネス[M])
  • ショルティ=シカゴ響(コロ、ミントン[A])
  • コリン・デイヴィス(ヴィッカース、ノーマン[S])
  • シノーポリ(ルイス、フェルミリオン[M])
  • バーンスタイン=イスラエルフィル(コロ、ルートヴィヒ[A])
  • クーベリック=バイエルン放響(クメント、ベイカー[A])
  • ワルター=ウィーン・フィル(パツァーク、フェリアー[C])
  • ワルター=NYフィル(ヘフリガー、ミラー[MS])

 CDではなかなか理想的な演奏に出会えないのだが、最初の衝撃の出会いだったのは、ショルティ盤であり、今も私には一番しっくりする。録音が非常にいいと思う。楽器の音色に艶があり、しっかりと実在感を持って鳴り響く。独唱のミントンは、アナログレコードでは発音不明瞭に聞こえた。歌詞カードを見ながら追っているのに、今どこを歌っているのか、「オ」なのか「ア」なのか「エ」なのか、さっぱり分からなかった。再生装置が悪かったのかも知れないが、少なくともプレーヤー(及びカートリッジ)は少しマシなのを使っていたつもりなので、納得できなかった。それがCDでは改善されている。実を言うと、その発音の関係で、CD時代になってもなかなか買い直す気分にならなかった盤である。いつも「オーケストラは最高だが、歌手がダメだ」と広言していた。今聞くと歌手も立派で、曲を味わうには十分なものがある。強いて言えば、第六楽章最初のオーボエのフレーズがやや弱く録音されていて、少し印象を損ねるかも知れない。

 バーンスタインには期待するところだ。ウィーン・フィル盤は録音もよく、まだまだ当分現役で通る。彼を「アメリカのこましゃくれた才人」ぐらいにしか思っていなかったヨーロッパ(と日本)の音楽界に、実は正統的な名匠であることを見せつけた時期の名盤だ。独唱のF=ディースカウが問題だ。彼自身これを歌うことには強い興味があったであろうし、集中力の高い名唱である。だがこの曲の歌詞は元来男性の独白であり、それを少し軟らかいアルトが歌う、そのやや倒錯的な音世界にこそ本質があると思うので、やはり不満を感じる。

 妙な話だが、女性は決して世捨て人にならないのである。「髪を下ろして出家する」というといかにも世を捨てたように聞こえるが、実は「それまでの絆を断つ」というだけで、尼寺に入った時点で、再び新たな絆を作り始めるのである。ゲームをリセットしたが、新しいゲームが開始されている。

 ところが男性が「世を捨てて山に入る」というと、ゲームはすべて終わらされているのが普通だ。新たな絆が生まれようとすると、それを拒絶する。道に迷った人が、山中の隠者に出会う。隠者は彼を助けてくれるが、「ワシは世を逃れてここに一人で住んでいる。事情は一切聞くな。今後二度とワシの前に現れるんじゃないぞ」と言って、旅人を帰す。本来の世捨て人はそうあるべきなのである。これが女性なら、「あなたはどういうお生まれで、どうしてこんなところにお住まいですか」と聞かれれば、「はい、私は関白ョ親の娘で、父が幼なじみの従兄に殺されたのをきっかけに、世をはかなむようになり」などと身の上を話しそうではないか。女性は、「この世で生きること」から離れることは決してできない。ここの歌詞は男性の独白である。男がそれを歌うことには何の矛盾もないのだ。だが私は、それでは「自然すぎる」と思う。

 ただし、終結部の「Ewig, Ewig」は、その意味で女性的かも知れない。男は「未知の宇宙」を苛酷な試練の場と考えるが、女は母の懐に抱かれる場所というイメージを持つことが多いそうである。ここに現れるのは、この世を離れたところに安らぎがあるというイメージだ。だがそこにあるのは、この世(たとえば都会の生活)よりもっと苛酷な生活かも知れないのである。

 もうだいぶ前のことだが、関西に「探偵ナイトスクープ」というテレビ番組があり、あるとき、視聴者が「無人島の生活を体験したい」と言う。そこで依頼を受けた「探偵」が適当な無人島を見つけ、その視聴者と一緒に暮らした。本人のイメージは、「夜明けと共に起き出でて、のんびりと磯で釣り糸を垂れ、日暮れと共に家に帰り」といったものだったらしい。だが無人島最初の日は、夜になると腹ぺこなのに食べるものがないし、思った以上に寒い。火を起こそうと木ぎれを拾ってきてこすり合わせるのだが、全く火が起こる様子はない。仕方がないので「探偵」がライターで火を付ける始末である。「どっかコンビニはないんすかねえ」「無人島にコンビニがあるわけないですよ」「森に木の実がたわわに実っているとか」「何もないですよ。何もないから誰も住まない。だから無人島なんです」「ああ、腹減った」というわけで、空き腹を抱えて寝るが、テントを張るのも大騒ぎ。やっと釣れた魚を料理して食べるが、ついでに拾った貝は臭くて食べられない。もう依頼者は帰りたい様子を見せている。結局、惨憺たる二,三日を経験して帰宅になったのだが、その間、一日中「腹減った、何か食うもんないか」と言い通しであった。

 野生の動物は、たいてい一日中えさを探して歩いている。人間も人間社会を離れたら、同じように常に食べて生き延びることを考えていなければならない。食べることで頭はいっぱいになり、芸術・哲学は愚か、善悪の見境さえ付かなくなる。隠棲は生やさしいことではないのである。釈迦の時代のインドでは、修行者になにがしかの喜捨をすることが常識だったそうであり、釈迦は人里近く住んで、乞食(こつじき)をして生きていくことができた。乞食は、碗を持って一日中回っても、何ももらえないことがある。それでも「これでよし」としなければならない。つまり乞食で入手した食べ物は、たまたま道端に落ちていたものを拾って食べたのと変わりない。王族の生まれだった釈迦は、乞食が「寄生」だと思わなかったようだが、実際は、出家者は人間社会の寄生者であった。

 マーラーは中国的な隠棲に憧れたが、真の隠棲は不可能だと思っていた。なぜなら彼は最初ユダヤ教徒であり、後にカトリックになった。この世は神によって創造され、誰もいないところにも、至る所に神は存在する。いくらこの世を逃れようと、神から逃れることはできない。人々の目に触れないからといって、この世(=神)から逃れていることはないのだ。ところが中国にはそういう神がなかった。だから隠棲は可能なのである。当時のドイツでは、中国文学が隠然たるブームであった。カフカなどもその影響を受けたが、それはまた別項で述べる。とにかく彼がこの男の台詞を女性に歌わせることは、人間観や世界観と強固に結びついた何かがあったからである。

 バーンスタインには、ルートヴィヒを独唱に迎えたイスラエル・フィルの録音も残っている。演奏は悪くないと思うのだが、どうしたわけか録音があまり良くない。オーケストラの音に艶が足りず、何か空回りしているように聞こえるのだ。性能の良くないラジオで音域だけ無理に広げたような音である。ウィーン・フィル盤よりかなり後の、アナログ技術絶頂期の録音なのに、なぜこれほどコンディションが悪いのだろうか、と首をひねってしまう。

 クレンペラー(フィルハーモニア)盤は、多くの人がベスト・ワンに推す名盤だ。キャストは申し分なく、テノールがヴンダーリヒ、メゾ・ソプラノはルートヴィヒである。演奏内容も非常に優れている。録音はEMIとしてはいい方だが、特有の鈍重な音質で、鋭利に切り込んでくると言うより、鈍器でドシンとやられる感じである。オーディション・コロレ(色聴)の持ち主である私としては、色が単色であるのも残念だ。とは言え、漂う緊張感は、随一かも知れない。

 インバル盤は、全集(ブリリアントの輸入盤)が大変廉価で買える。第四番はワンポイント・マイクの優秀録音として評判になった名盤で、聞いてみると第三楽章の強烈な最強音をディジタル歪みなく捉えるように、全体のレヴェルを低く抑え、ミキサーの使用を最小限にしてある。そのためかスピーカーで聴くと、音がくっきりと立ってこない。すべてが間接音のヴェールをまとっているように聞こえる。しかしヘッドフォンでは、その間接音が効果的に聞こえ、印象は一変。楽器の艶やふくらみ感もあって、十分な音質で聞こえてくる。「大地の歌」(メゾ・ソプラノはヤールド・ファン・ネス)は演奏内容も悪くない。インバル盤のマーラー演奏には、時折陶酔的な表情も現れ、独特の雰囲気がある。

 コリン・デイヴィス。ジェシー・ノーマンの歌唱が聴ける豪華なCDだが、意外に評価されていない。中間のオーケストラのみの演奏はゆったりしたテンポで、いかにも沈鬱な、身振りの大きい演奏だ。廉価盤になっているので、一枚持っていて損はない。デイヴィス盤にしかない瞬間もあり、ここに取り上げたCDの中では、一番ユニークかも知れない。このテンポ設定になじめるなら、深沈たる音楽造りに心惹かれるものを感じるだろう。欠点を言うなら、ロン響の音が相変わらず無彩色である。もっとも、これは私が音を聴くと色彩を感じるという共感覚を持っているから、特別そう思うだけかも知れない。タワー・レコードで出たラヴェルの「子供と魔法」は同じロン響(プレヴィン指揮)だが、非常に色彩感があって、すばらしかった。オーケストラの特質と言うより、指揮者の違いかも知れない。デイヴィスの指揮した録音には、無彩色に聞こえるものが多い。ここに取り上げた「大地の歌」のCDでは、色彩を感じるのは、ショルティ盤、バーンスタインのウィーン・フィル盤、シノーポリ盤、ワルター盤である。

 クーベリック=バイエルン放響の七十年録音。名歌手ジャネット・ベイカーの歌唱である。クーベリックがドイツ・グラモフォンで録音した交響曲全集は、極めて優れたものであった。特にその第三番と第二番「復活」は今も非常に秀演であったと思う。あまり強烈にならない、柔らかなニュアンスでありながら、実は音楽の本質を余すところなく表現していた。それに、ほぼ同時期のドヴォルザークの交響曲第8番の録音がちょっとささくれた初期のトランジスタアンプのような音なのに比べて、マーラーは音質もしっかりしていた。色彩感も十分である。私は廉価盤落ちしたレコードを買うまで、マーラーの交響曲をほとんど知らなかったのだが、第三番には大いに惚れ込んだ。

 ところが、グラモフォンの全集には「大地の歌」が入っていなかった。ここではAUDITE盤を取り上げる。HMVによると非常に高音質だそうだ。確かに年代の割にはざらつきもなく、なめらかで鮮明に響く。だが、私にはモノクロームに聞こえた。モノクロームなだけでなく、なめらかな感じがあるので、変な言い方だが爬虫類の肌触りで、私にはむしろ気味悪く聞こえる。演奏はいいものだが、ベストとするには躊躇する。クーベリック特有と言えそうな節回しというかタイミングの取り方があり、たとえば静かな楽句の後に強音がやってくるときの、一瞬の息づかいが独特なのである。彼のマーラーが好きな人は「ああ、これこれ」と思わずうなずいてしまうだろう。

 シノーポリ盤。これは中では一番録音が新しく、ディジタル録音である。そのせいか、音は一番さえていて、実在感と色彩感がある。女声はイリス・フェルミリオンで、やや高音よりの声だ。オーケストラはソロ楽器が精緻に鳴り、どちらかと言えば室内楽的に聞こえるが、第六楽章中間部では、スケールの大きな響きも聞かれる。これも廉価盤なので、持っていて損はないと言うより、得である。秀演の一つだと思う。

 ワルター=ウィーン・フィル盤。モノラルの古い録音なので敬遠していたが、世評が高いので、最近出たSHM−CD盤を衝動買いした。モノラルということを別にすると、音の質自体は非常にいいと思った。くっきりと立つ音で、潤い感や色彩感、つやもある。もちろん古い録音だから、びりつきや混変調ひずみのようなものがつきまとうのだが、実在感があって、しとどに濡れる情感を呼び覚ます。シノーポリ盤の録音と比較すると、ワルターのは「主観的な音」、シノーポリのは「客観的な音」と言えそうである。音楽が聴き手の気持ちのある場所のすぐそばで鳴り響いているのだ。全体は、なぜかショルティ盤によく似ており、今でも衝撃力のある名演である。

 ワルター=NYフィル盤。ウィーン・フィル盤が良かったので、急遽購入した(マーラー、ブルックナー交響曲選集)。これをベストとする人もあり、決してつまらない演奏ではない。録音はマックルーアで、この人らしいすっきりした繊細な響きに録られている。ウィーン・フィル盤に比べると「客観的」な音だ。ヘフリガーの歌唱がやや抒情よりであるのを気にする人がいるかもしれない。ミラーの歌唱は丁寧な歌い口である。ウィーン・フィル盤のド迫力と比べてしまうのでやや損をしているが、基本的には同じ解釈である。ワルターの演奏は、日本では「温かみのある」とか「優しい」と表現されることが多く、そういうイメージを先入観として持っている人は少なくない。テンポ設定が中庸なので、そういう印象が強いのかも知れないが、少なくともマーラーに関しては、バーンスタインと共通な没入型の演奏だ。マーラーの直弟子だったからというより、元来オペラの指揮からスタートしたので、激しくドラマティックな表現を聴かせることも少なくなかった。メロディの歌わせ方は、オペラ経験から来ているかも知れない。

 改めて聴き直してみると、やはりいいと思うのは@ショルティ、Aクレンペラー=フィルハーモニア、Bバーンスタイン=ウィーン・フィル盤である。番外としてワルター=ウィーン・フィル盤を挙げておこう(中身はいいが、モノラルなので)。この曲を演奏するほどの人なら、われわれ素人と違った抜群の才能と、伝えるべき独自のメッセージを持った演奏家に違いない。その意味では、どの演奏にも耳を傾ける価値はある。趣味はあくまで個人的な好みであって、


「リュッケルトの詩による歌曲集」

 マーラーは交響曲作家だが、私は最初のうち、彼の交響曲になじめなかった。主な理由は、演奏時間が長かったことで、ほとんどの交響曲はレコード2枚組だった。当時はレコード1枚が2500円、2枚組だと5000円である。月給が二,三万円だった私にとっては、月に一枚買えるかどうか?という状況である。レコード2枚組というのは、とても手が届かない高価なシロモノだったのである。

 それでも、あるとき決心して「マタイ受難曲」(LP4枚組。現在はCD3枚組が一般的)を買った。自分でも驚きだ。まだ月給5万円程度の頃だったと思う。もらった給料の9割は家計に消えていたので、ボーナス時の金で買ったのだろう。

 リュッケルト歌曲集も、クレンペラーのレコード(アルトはルートヴィヒ)で知ったのだが、そのレコードのメインはブラームスの「アルト・ラプソディ」、次にワーグナーの「ヴェーゼンドンク歌曲集」、残りがマーラー歌曲集で、「子供の魔法の角笛」と「リュッケルト歌曲集」から五曲選ばれていた。購入の動機はブラームスとワーグナーで、マーラーは余白を埋めるだけのお添え物である。なお、このレコードとそっくり同じ組み合わせのCDが廉価盤で出ていた(残念ながら廃盤のようである)。西野茂雄氏の分かりやすく味わいのある名訳が付いていた。

 このレコードに入っていたマーラー歌曲は、リュッケルト歌曲集の「私はこの世に忘れられ」、「真夜中に」、「菩提樹の香り」と、「子供の魔法の角笛」から「浮き世の暮らし」、「美しいトランペットの鳴り響くところ」だった。

 実際に聞いてみると、ブラームスが一番つまらなく、ワーグナーは面白かったが、意外にもとびきり上等だったのが「お添え物」のマーラーであった。特に「私はこの世に忘れられ」、「真夜中に」、「美しいトランペットの鳴り響くところ」の3曲には魅せられた。美しさに酔った、というのではなく、麻薬的な頽落の魅力があった。高貴なる頽廃、深々とした怠惰、何かがすっかり崩れ去った後に訪れる、永遠の美の時間なのである。

「私はこの世に忘れられ」では、隠棲する人が、もう誰も私を生きていると思わないだろうという。実際自分はもうこの世にいない。そこにこそ愛があり、歌があるのだ。永遠の愛と歌が。

「真夜中に」は、「自分は何のために生きているのか」と疑問を感じたことがある人なら誰でも分かる、真夜中のある瞬間に訪れる思惟を描いている。国木田独歩に、真夜中にふと目覚めて「ああ、不思議だ、自分はなぜここに、この時にいるのか」と感じたという文章がある。自分は永遠なるものによって生かされている、その事実は、自分がこの世に、まだ分からない何らかの使命を帯びて生まれてきたことを告げていると思うのである。

「美しいトランペットの鳴り響くところ」は、前述のように「子供の魔法の角笛」の1曲だが、ある意味ではマーラーの音楽語法の秘密を物語っている。遠いところに出征して死んだ兵士が、真夜中、幽霊になって恋人のもとを訪れる。「さあ、一緒に行こうよ、あの美しいトランペットの鳴り響くところへ!」と誘うのだが、そのトランペットというのは、進軍ラッパである。曲の随所にラッパが鳴り響く。幽霊の言葉は明るい長調で書かれており、生きている少女には哀切な短調の旋律が当てられる。幽霊には、もう不安も迷いもない。ラッパの音も草むす野原も、ただただ遠く輝かしく美しい。

 クレンペラー=フィルハーモニアとルートヴィヒ盤。先にも述べたように、「アルト・ラプソディ」、「ヴェーゼンドンク歌曲集」との組み合わせである。何といっても、「真夜中に」の強烈な音響が印象に残る。これ以外の録音では聴けない響きだ。歌唱も優秀である。ブラームス、ワーグナーも最上級の名演だと思う。

 だがどうやらカタログから消えているらしいので、左の欄にはエドリアン・ボールトとのマーラー歌曲を併録してあるらしいCDを紹介しておく。

 バーンスタインのウィーン・フィル盤。交響曲全集に含まれていたもので、ハンプソンのバリトンである。もちろん悪いはずはないが、クレンペラーの強烈な印象の前ではかすんでしまうのが正直なところだ。

 白井光子のメゾ・ソプラノ、マリナー指揮セント・アカデミー管の演奏。「白井光子リート・エディション」という10枚組セットの中の1枚に入っていた。歌唱は大変聴き映えがする。だが録音バランス上、オーケストラが抑えられ、やや曇った感じに聞こえるのが不満だ。このCDでは夫君ホルのピアノ伴奏の方の曲がバランスの問題もなく、面白く聴ける。「美しいトランペットの鳴り響くところ」は、緊張感があってなかなかいい。

 ゾッフェル(メゾ・ソプラノ)、インバル指揮ウィーン交響楽団。クレスト1000シリーズの1枚で、「亡き児をしのぶ歌」、「リュッケルト歌曲集」、「さすらう若人の歌」が収められている。オーケストラの音量は幾分抑え気味だが、冴えた音に録られているので不満は感じない。音の質も美麗である。交響曲全集の補巻といった存在だが、録音レヴェル(音量)が普通になっているので、聴きやすい。歌詞対訳はPDFファイルで入っている。なかなかの名演で、昔を思えば、こんなに安く買えるのが信じられないほどだ。私はクレンペラー=ルートヴィヒ盤の次にこれを推薦する。「子供の魔法の角笛」その他の録音は未聴。

 『リュッケルト歌曲集』は入っていないが、ルチア・ポップとテンシュテット/ロンドン・フィルの「子供の魔法の角笛」もご紹介しておきたい。ヴァイクルのテノールはあまり好みではないが、ポップの歌ったナンバーは最高クラスの名唱である。「美しいトランペットの鳴り響くところ」で、真夜中にドアが開いて濃紺の荒野が見え、霧と共に亡霊が部屋に入ってくる、その場面の迫真感は、クレンペラー=ルートヴィヒ盤を上回る名演と思う。なお私の所有しているのはEMIレッドラインという廉価輸入盤のシリーズで、余白にはヴァイクルによる「さすらう若人の歌」が収録されている。ただし残念ながら、これもカタログから消えたようだ。


「交響曲第3番ニ短調」

 マーラーの交響曲では、第9番と並んで一番好きな作品である。初めて聴いたのはクーベリック=バイエルン放響のレコード(アナログ)で、その魅力にすっかり取り憑かれてしまった。これはいわゆる廉価盤で、2枚組3000円で出ていた商品を「クラシック全品1割引」の店で買ったのである。実に自然な息づかいでのびのびと進行する音楽だった。特に第1楽章のイメージが支配的だが、緑の森と淡い青の空に突然金色の鳥が飛んだかと思うと、群青色の闇に白い半透明の幻が浮かび上がり、そのうちにトロンボーンがまるでシュペングラーの「西洋の没落」か、ニーチェの「神は死んだ」のような予言の楽句を出す。この楽句は少しずつ形を変えながら、繰り返し出現する。楽曲構造としてはモザイク型だ。ただし終結部は少し安っぽい行進曲になっている。

 現在気に入っているのは、バーンスタインのDG全集(輸入盤)に入っているNYフィルの演奏である。第1楽章はクーベリックより青みが強く、闇が深い。「神は死んだ」のフレーズも、クーベリックよりいっそう深刻に響き、ほとんど衝撃的である。バーンスタインはNYフィルの常任指揮者を退いた後、主にヨーロッパで活動していたのだが、こんな録音も残していたと初めて知った。これが同曲のベストではないだろうか。

 マーツァル=チェコフィルの演奏もいいものである。レコード・アカデミー賞受賞盤で、録音がすばらしく良い。バーンスタインに比べると、乱れのない整然とした演奏だ。もちろん小さく縮こまった演奏ではない。スケールも大きく、オケの優秀さが際立つ。立派ではあるのだが、バーンスタインのようにどこまでも音楽に没入して行くタイプではなく、精密にコントロールされた演奏である。

 インバル=フランクフルト放響盤。廉価な全集で買ったもので、大見得を切るところや陶酔的な表情もあり、マーツァルに比べると、むしろバーンスタインに近い表現である。

 日本でインバルが注目されるようになったのは、ブルックナーの第3、4交響曲に初稿版を採用した録音が出たのがきっかけであろう。それまでもアラウのショパンの協奏曲でオケを振ったりしていたが、「ソツがない」とか「手堅い」といった批評がなされていることが多く、職人指揮者で、なかなかうまいけれどもそれ以上ではない、という印象が支配的であろう。だが、それは大きな誤解である。私はあるとき、彼のライブの放送録音でブルックナーの第3交響曲を聴いたのだが、それは大きな興奮を作り出す即興性に満ちた演奏だった。安物のトランジスタラジオから出る貧弱な音で聴いたのに、ぞくぞくした。CDでは、それが味わえないのが残念だ。すべてが鮮明で、整理されているのである。

 しかし、マーラーの録音はなかなかの秀演と言っていい。録音はやはりワンポイント・マイクによるのだろうか、残響成分が多めである。私の常用スピーカーでは、全体の響きやオケの質量感はいいのだが、低弦がやや不鮮明で、モゴモゴした感じに聞こえる。オーケストラを部屋の外で聴いたようなもどかしい感じなのである。ところが、ヘッドフォンで聴くと印象は一変する。ピラミッド・バランスのオケで、低弦が柔らかすぎる感じはあるが、音程がつかめるので、特に欠点ではない。常用スピーカーは5.1チャンネルのサラウンドなので、残響成分が邪魔をしているのかも知れない。


「交響曲第9番ニ長調」

 この曲はかなり渋い作品のように思うが、意外にも人気が高い。リュッケルト歌曲集の「私はこの世に忘れられ」と共通した気分だと言う人が多いと思うが、歌曲では「明るい隠遁生活」を歌っているのに、交響曲の方は苦渋の色が支配的だ。第1楽章では、金管の音色が印象的で、そのせいか、私はこの交響曲を思い浮かべるとき、いつも黄金色の音楽として考える。アルバン・ベルクはこの曲に非常な興味を持ち、特にオーケストレーションに夢中になったという。

 ベルクはもちろんシェーンベルクの十二音楽派の作曲家だが、今聴くとむしろ後期ロマン派に属するのではないかと思う。青年期の歌曲は、マーラーに似たところがある。彼は、人の内部にある闇と狂気に興味があった。だから殺人とか自殺とかいった題材を熱心に取り上げた。彼が伝統的な音楽から離れて12音音楽に興味を持ったのは、喜怒哀楽といったありきたりな感情でなく、「心の怪」を表現するために、新たな音楽言語を必要としたからであると、私は思う。

 セザンヌといえば印象派の巨匠で、どちらかと言えばしゃれた絵を描いた人と思う人が多いであろう。だがセザンヌの初期の絵画には、殺人を取り上げたものがある。ある宿に金持ちらしい客が泊まった。その夜、宿屋の主人は妻と共謀して裏庭で客を強殺し、金を奪った。三面記事ネタだ。当時、世間を震撼させた事件だが、いわば市井の小事件に過ぎない。これをセザンヌは絵に描いている。画面は一面に暗い色で覆われ、右側にある建物の裏で、二人の夫婦が一人の男を殺している場面である。なぜ彼はそんな絵を描いたのだろう。正しい光の下で殺人が暴かれ、夫婦が捕らえられるというのではない。闇の中で、つまり「無明」の中で、どろどろした欲望が渦巻き、死にかけている人にさらにとどめを刺そうとする。美しい行為でないことは、百も承知だ。というより、その行為が美しいかどうか、考える余裕もないのである。ただただ殺し、奪う。そういう永遠に暗い場面を描くのである。その衝動は何か。

 当時はフロイトの精神分析が流行していたことも考え合わせないではいられない。心の、自分でも知らない暗い小道。そういう題材に、ベルクも興味を持ったのだった。

 ワルター=NYフィル盤。この演奏で初めてこの曲を聴いた。LPレコードの時代だった。何がいいのかよく分からない、鬱陶しい曲に聞こえた。「渋い曲」という印象は、この録音で植え付けられたものである。苦渋の面が表に出すぎているとも言えるが、そもそも「心の沸き立つ楽しい音楽」の対極にある音楽なので、それもやむを得ない。ここで挙げたのは、前記の「マーラー、ブルックナー交響曲選集」に含まれていたものである。もちろん古いが、今でも十分鑑賞に堪える音質である。

 バーンスタイン=コンセルトヘボウ。グラモフォンの全集に入っている。完璧な出来映えであり、バーンスタインの全録音の中でも最も完成度の高いものだろう。何と言ってもオーケストラの音色がすばらしい。この曲ではほぼ理想的なCDである。

 バーンスタイン=ベルリン・フィル。いわゆる「伝説の名演」で、彼がベルリン・フィルを振った唯一の録音である。すばらしく響く瞬間もあり、時に弦の強奏がいかにも悲痛な叫びに聞こえる。放送録音ということで、音に厚みが乏しいのが少し残念である。

 カラヤン=ベルリン・フィル(82年)。これもライブ録音だそうだが、極めて完成度の高い演奏である。ウワサによると、カラヤンはバーンスタインの演奏を聴いてあまりのうまさに震撼し、以後彼がベルリン・フィルを振ることを禁じたという。しかしこの録音は完璧なだけでなく、唯一無二と言っていいユニークな演奏になっていて、面白さでは抜群だ。82年には、カラヤンは第9を集中的に演奏していたそうで、このCDの録音が完成したとき、初めてバーンスタインを超えたと思ったのか、以後はこの曲を取り上げなかったという。

 ジュリーニ=シカゴ響。普通なら全体の音響に埋もれてしまって聞こえてこないような音まで聞こえてくる、絶妙の音力バランスである。特に第2、3楽章でその印象が強い。録音技術によるところもあるのかも知れない。繊細で入念、美しい演奏だが、ややハイ上がりの音質なので、神経質な印象を受ける人もあるだろう。

 クレンペラー=ウィーン・フィル。ザルツブルグでのライブ録音である。放送用音源だそうで、少し乾いた音がするのは事実だが、低弦がごりっとした音に録られ、重量感のある響きがする。タメの効いたフレージング、極端に遅い第2楽章はいかにもクレンペラーらしい。第3楽章はウィーン・フィルの演奏技術の高さを思い知らされる。実演はさぞかしすごかっただろうが、バーンスタインやカラヤンの名盤に比べ、CDとして最高とは言い難い。しかしクレンペラーのファンなら一聴の価値はある。

 バルビローリ=ベルリン・フィル。あまりのすばらしい演奏に感動した楽団員が自発的に録音を申し出たというエピソードのある名盤。独特の気迫と熱気を感じる演奏である。バルビローリらしい息の長いフレージングは魅力だ。それにEMIとしては珍しいほど録音が良く、古いにもかかわらず艶のある音がしている。廉価盤で全曲がCD1枚に収まっているのもお買い得だ。今も存在価値はあると思う。

 インバル=フランクフルト放響。全体に壮麗、壮大な演奏で、時折、他の録音では聴けなかったような細かいフレーズの表情付けがあり、興味深い。ただしこれもヘッドフォンで聴いた結果である。

 なお、世評の高いテンシュテットやベルティーニは未聴である。


とっぷ  モーツァルト  シューベルト
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