紹介している作品
「ラ・ボエーム」
「トスカ」
「蝶々夫人」
「トゥーランドット」

























































































































































ボエーム:フレーニ/カラヤン(DVD)




プッチーニ:オペラ全集(輸入盤)(ショルティ)




プッチーニ:オペラ全集(国内盤)(カラヤン/フレーニ/パヴァロッティ)icon











































































































トスカ/カバイヴァンスカ(DVD)icon





































トスカ/ゲオルギュー(DVD)icon
























トスカ/カラヤン=リッチャレッリicon
































































蝶々夫人:フレーニ/カラヤン(ポネル演出)(DVD)icon






















































蝶々夫人:フレーニ/シノーポリ(輸入盤)icon
















蝶々夫人:アレーナ・ディ・ヴェローナ(ゼッフィレッリ演出)(DVD)icon





























































































トゥーランドット/メータ(紫禁城公演)(DVD)icon






プッチーニ


プッチーニ(1858−1924)
(画像はWikipediaからいただきました)
 プッチーニは私の
偏愛する作曲家の一
人である。後期ロマ
ン派時代(1858年)
に生まれ、ロマン派
終焉の年(1924年)
に死んだ(もっとも、
本当の終焉はR.シ
ュトラウスの死の年、
1949年であるという
見方もある)。ドビュッ
シーは1918年に死
亡し、それより前の1
913年にはストラヴィ
ンスキーの『春の祭典』が初演されている。
アインシュタインの相対性理論は、1905年の発表
だ。もうロマン派の時代ではなかったのだ。プッチー
ニ自身、シェーンベルクの十二音音楽を熱心に支持
していたそうである。

 プッチーニと言えばヴェルディを連想するのが普通
だろうが、この二人は全く似ていない。世の中には
「プッチーニの音楽を憎む会」まであるそうで、彼ら
に言わせると「プッチーニはいずれ忘れ去られる」の
だそうだ。しかし私は、ヴェルディの方が忘れ去られ
ると思っている。ヴェルディのオペラは、かなりの部
分が安っぽく響き、アリアのメロディも、場面や歌詞
内容と無関係だ。

 モーツァルトも、たとえば「コシ・ファン・トゥッテ」の
「波よ、穏やかなれ」という三重唱では、二人の姉妹
に彼女たちを欺いているドン・アルフォンゾが加わっ
て、本当に後悔の無事を願っているような美しい場
面を展開するが、現実にも詐欺師が自分の言葉を
信じてしまう瞬間があるので、別に変ではない。それ
よりヴェルディのオペラの、ドラマを無視したような音
楽展開は、何だかまがい物を一杯並べたイカサマな
店のように思えてしまうのだ。「レクィエム」などでも、
印象は大して変わらない。

 ヴェルディ好きな人には不快に聞こえるだろうが、
要するに私はヴェルディが嫌いなだけで、他意はな
い。音楽談義は単に好き嫌いを語るものであって、
好きなものを嫌いだとか、嫌いなものを好きだと言う
のは間違いである。

 プッチーニの魅力は、単純なのに人の心をかき立
てずにおかない、あのメロディである。『私のお父さ
ん』のような名旋律が、調性音楽の最後の時期に書
かれたのは、ほとんど奇跡に近い。当時のほとんど
の作曲家は、「重要なメロディはすべて書かれてしま
った。もう新しい旋律を奏でる余地はない」と思い、
そのため無調や十二音に走ったのである。そこにプ
ッチーニが登場し、やすやすと、全く新しい繊細な感
受性に満ちたメロディを書いた。天才という他はな
い。

 ただプッチーニには「血の幻想」がこびり付いてい
た。評論家の中には「『トスカ』は傑作ではない」と言
う人がある。『トスカ』は、大衆の趣味に迎合した作
品で、大衆の趣味=芸術的な程度が低いのである
から、その人気は底が浅い、つまらないものである。
それは、「『東海道四谷怪談』は鶴屋南北の最高傑
作ではない」と言いたがる歌舞伎評論家の言葉にも
似ている。「東姫桜文章」なら評論家のお気に召す
かも知れないが、大衆は「四谷怪談」の方に注目す
る。そこに含まれる「醜い女への嫌悪」が差別的だと
考えられたのか、最近映画で見ることは少なくなった
が、かつて夏場には何度も映画化され上映された。

 プッチーニは「グラン・ギニョール」という人形芝居
を好んでいたそうだ。殺人や暴力、残虐行為を題材
にした、かなり異様な内容のもので、パリなどでは大
衆的な人気があった。プッチーニ晩年の三部作に含
まれる『外套』は、グラン・ギニョールで観た芝居をオ
ペラ化したものだそうである。

 初期の名作『マノン・レスコー』を初演するとき、主
役を歌うことになった歌手がプッチーニのもとに、一
番いいドレスを着て挨拶に行った。するとプッチーニ
は彼女の姿を見て、「でもマノンは血まみれになって
死ぬんだ、ほら、こんな風に」と言うと、飲みかけてい
たコーヒーを彼女の服にばしゃりと引っかけた。「ま
あ、何ということでしょう。私の一番いい服が台無し
になってしまいました」と、彼女は後年語っている(こ
の話は、ショーンバーグの『大作曲家の生涯』では、
少し違った風に書かれている)。

『マノン・レスコー』では、マノンは血まみれになったり
はしない。ただ野垂れ死にするだけである。最後の
アリアでは血まみれの幽霊が現れるのだが、それま
での場面には、それらしい登場人物は出て来ないの
で、なぜそういう幽霊が出てくるのか、観客には分か
らない。だがプッチーニの心の中には、いつも「血の
幻想」があった。『蝶々夫人』も、ロンドンで芝居を見
たところ、英語だったので筋書きはよく分からなかっ
たが感動したという。美しい女性が白装束に身を包
み、「腹を切って」血に染まる場面を観て興奮したの
だろう。

 すると、彼の音楽に聴く特有の美、心に突き刺さる
ようなメロディは、残虐行為や血まみれの死に、不
可分に結びついていたのであった。だからといって、
それが「底の浅い大衆的興味」などと言えるだろう
か?死とエロスはしばしば密接な関係にある。そうし
た特異なエロス的性向が、プッチーニにはあったの
だ。

 プッチーニはまた、台本に懲りまくった。演劇的効
果を最大にしようとしたのである。以前、『蝶々夫人』
をテレビで見ていて、「ハミング・コーラス」の場面に
感心したことがある。『トスカ』でも、殺人の後にパン
トマイムが続くが、いわゆるオペラティックな場面で
はないだろう。しかし、演劇性、視覚性においては、
効果的と言うより必然的なものだった。

 音だけ聴いていると、『トスカ』第二幕の名アリア
「歌に生き、愛に生き」は、ドラマとしての流れを断ち
切っているように聞こえる。実はプッチーニ自身、で
きればこのアリアを削除したいと思っていたそうだ。
これを削除して、前後の音楽をつなぐ形にすると、第
二幕はまるでワーグナーの楽劇のようになる。

 もし彼がもう少し後に生まれていたら、ハリウッドの
映画監督になっていたかも知れない。


『ラ・ボエーム』

 薄幸の美少女ミミと、貧しい生活を送る詩人の卵、
ロドルフォの哀しい恋を扱ったオペラで、プッチーニ
の最高傑作と考える人も少なくない。この美しいオペ
ラは、しかし、プッチーニが当初考えていた題材では
ない。彼はオペラ・ヴェリズモの考え方に関心を持
ち、『マノン』の次の題材としては、新聞で話題になっ
ていたある殺人を取り上げるつもりでいたそうだ。と
ころが、当時出入りしていた貴族の家で令嬢にその
話を聞かせたところ、あまりにも凄惨な話に慄然とし
た令嬢は、翌日からプッチーニと口をきかなくなって
しまった。「こういうのはだめなんだな」と思った彼
は、急遽題材を『ラ・ボエーム』の甘く美しい悲恋物
語に切り替えたということだ。

 この物語は貧しい若者たちの話なので、舞台がい
かにも貧相であり、最初はそれほど受けなかったと
いう。何しろ、当時のオペラは、王侯貴族たちのドラ
マを扱うのが普通であり、庶民の若者たちというの
は、やはりヴェリズモの路線上にあるものだった。

 ただ当時はレコードが普及し始めた頃でもあり、ド
イツでもトーマス・マンがまずレコードでこのオペラを
知り、甘美な二重唱に聴き入る場面が『魔の山』に
出てくる。かつてモンテヴェルディの作品は、盛んに
なり始めた楽譜出版によって世界中に広がり、多く
の作品が後世にも残ることになったのだが、レコード
とラジオ放送の登場は、それ以上に音楽を普及させ
た(また主要なレパートリーを固定化する、つまり狭
める働きもあった)。

(以上は音楽之友社の『名作オペラ ブックス6』を参
照しています)

 第二幕、カフェ・モミュスの場面はミミとロドルフォ
の共通の友人であるマルチェッロと彼の恋人、ムゼ
ッタが主役になる幕であり、特に「ムゼッタのワルツ」
は、一度聴くと忘れられないほどの名旋律だ。

 カラヤン=フレーニ、パヴァロッティ。CDは決定盤
と言うべき名演で、第一幕の「愛らしい乙女よ」以降
の甘美な表現は他にない。ほぼ同じDVDはロドルフ
ォがライモンディ、ゼッフィレッリ演出で出ている。

 ショルティ=カバリエ、ドミンゴ。昨年(2008年)は
作曲者の生誕150年だったので、CDによるオペラ
全集が数種類発売された。この演奏はソニー=BM
Gのプッチーニ=オペラ全集に入っているものであ
る。

 指揮者がショルティという人選に意表を突かれた
が、第一幕前半の男声ばかりの場面では力強く鋭
い演奏であり、ミミが登場すると一転して柔らかく繊
細になる。スコアがそうなっているのだが、ショルティ
はその対比を特別に強調しているように聞こえる。
録音が「指輪」のようなコンセプトで録られており、
「こんなのは『ボエーム』じゃない」と思う人もあるに違
いないが、「ムゼッタのワルツ」なども優しく演じら
れ、普通なら聞こえないようなパートの細かい音が
聞こえるので、興味深く聴ける。

 世界文化社『オペラ名作鑑賞』第三巻。一枚目に
サンフランシスコ歌劇場の公演でセヴェリーニ=フレ
ーニ、パヴァロッティの映像(89年)、二枚目にはプ
ッチーニ音楽祭の上演で、ロバートソン指揮、フェン
ティーニのミミ、ピザピーアのロドルフォというあまり
良く知らないメンバーの映像(07年)が入っている。
新旧の対比が興味深い。フレーニとパヴァロッティの
盤はさすがだ。ロドルフォの自己紹介がすごい名唱
だと思ったら、ミミはそれに引けを取らない圧倒的な
歌唱を繰り広げる。ミミが歌い終わった後、パヴァロ
ッティがしびれるほどの感動にとらわれてミミを見
る。フレーニも感動に潤んだような目でロドルフォを
見る。一瞬だが、二人の大歌手が見つめ合ってい
る。いろいろ見聞きしてきた人でも、思わず心を揺さ
ぶられるだろう。他の声楽陣のアンサンブルも緊密
で、名盤の一つになっている。この盤の舞台は伝統
的な演出だが、

 もう一つのロバートソン盤はやや抽象化された演
出である。冒頭の屋根裏部屋から華やかな赤に彩
られ、カフェ・モミュスの舞台も華やかだ。なかなか面
白いが、歌手のアンサンブルはもう一枚に比べると
やや散漫に聞こえるところがあり、最高とは言い難
い。だが最近の舞台ということで、興味深いものはあ
る。このオペラが好きな人は、一見の価値ありだ。


『トスカ』

 誰が何と言おうと、これはプッチーニの最高傑作で
ある。筋書きはかなりバカげているように思う。イタリ
アは一度共和制になったが、その後王党派が台頭
し、共和派(革命派)は弾圧されていた。そこでナポ
レオンはもう一度イタリアを攻撃する。その前夜、革
命派の闘士が脱走する。革命派に共感していた画
家のカヴァラドッシ(マリオ)は彼を匿うが、警視総監
スカルピアにかぎつけられる。スカルピアは、カヴァ
ラドッシの恋人である美しい歌姫トスカに目を付け、
マリオ(カヴァラドッシ)が浮気をしていると思わせ
る。嫉妬に駆られたトスカは、前後の見境もなくマリ
オの家に駆けつける。この第一幕の最終場面は、非
常に壮大である。

 第二幕では、スカルピアはマリオを拘束し、拷問に
かける。脱走した革命派闘士の隠れ場所を吐かせ
るためだが、白状しない。そこでトスカを呼んで、マリ
オが拷問の苦痛に叫ぶ声を聴かせ、彼女に言わせ
ようとする。彼はこの間に、いよいよ彼女に対する欲
望を募らせる。トスカは「ああ、あなたが苦しめてい
るのは、私なのですわ」と叫ぶ。その通りである。彼
女を苦しめ、追い詰めて陵辱することこそスカルピア
の目的になっている。

 トスカはついに革命派闘士の隠れた場所を白状
し、拷問は終わるのだが、スカルピアは、マリオに直
ちに死刑を言い渡す。驚いたトスカは、何とか死刑
は許してくれと嘆願する。そこでスカルピアは、彼女
の貞操と引き替えに助けてやろうという。死刑執行ま
で、もう時間がない。追い詰められたトスカは、やむ
なくスカルピアに肉体を与えることを承諾する。ここ
で打ちのめされたトスカが歌うのが、有名なアリア
「歌に生き、愛に生き」である。その後、結局トスカは
スカルピアを殺す。

 この第二幕は、オペラ史上最悪の悪党であるスカ
ルピアが、実はヒーローになっている。プッチーニ
は、美しい女主人公を汚辱に塗れさせようと躍起に
なっている、スカルピア自身のように思われる。音楽
的には、トスカがマリオの拷問を知る場面のサスペ
ンス感、スカルピアが死んだ後に、トスカが演じる
「パントマイム」など、見所、聞き所がいっぱいであ
る。ただし、プッチーニを「悪趣味」と言う人の非難
も、ここに集中している。

 確かにかなり煽情的な内容で、誰が見ても強烈な
印象を受ける幕である。スカルピアが死んだ後のパ
ントマイムで、トスカが死体の頭の両側に燭台を置
き、胸には十字架を載せて立ち去る。これも非常に
視覚的な効果があると思う。

 第三幕では、処刑を前にしたカヴァラドッシが名ア
リア「星は光りぬ」という曲を歌うのだが、後日談的
なエピソードに過ぎないという印象は拭えない。トスカ
は、マリオはスカルピアが言った通り、見せかけの
銃殺(空砲を撃つ)だけで助かるものと信じている
が、本当に殺されてしまう。彼女は呪いの叫びを上
げながら。城壁から身を投げる。かくしてトスカ、マリ
オ、スカルピアの主役三人はすべて死んでしまう。

 全体として、カヴァラドッシは影が薄く、悪党スカル
ピアの存在感が圧倒的である。かつての日本では、
このように悪党が主役になるはずがないと信じられ
ていたため、彼のパートを過度に低く見る傾向があ
った。音楽之友社のスコアの解説を見ると、スカルピ
アの歌う場面を「軽薄な旋律で表現されている」と書
いていた。全く、アホかいな。かつての音楽観が、い
かに教養主義的なものだったか、よく分かる。

 実際はそうでない。スカルピアの悪党振りこそプッ
チーニが最も描きたかったものだ。というより、彼に
こそプッチーニは感情移入していると思う。オペラは
まずスカルピアの動機で開始され、第1幕の終わり
もスカルピアの場面だ。このオペラには、罠に落ちて
苦しみもがく美しい女、愛のために殺人を犯し血に
染まる女。彼の趣味だった要素がすべて出そろって
いる。

 だからトスカの抜萃と言えば、第二幕だというのが
常識だ。マリア・カラスの「コヴェント・ガーデン・コン
サート(ダイエットしてオードリー・ヘプバーンのように
なった時の映像)」でも、第二幕のほぼ全曲を演じて
いた(スカルピアはゴッビ)。

 バルトレッティ指揮=カヴァイヴァンスカのトスカ、ミ
ルンズのスカルピア、ドミンゴのカヴァラドッシ。

 オペラ映画のDVDで、舞台では分からないところ
まで映像になっており、分かりやすい。オペラの舞台
になった場所が実写され、見応えがある。カヴァイヴ
ァンスカは、私の目にはそれほど美女のようには見
えないが、いかにも可憐で、「歌に生き、愛に生き」で
は、哀れを催すほどだ。トスカにはこのカヴァイヴァ
ンスカのような可憐タイプと、カラスが演じたような攻
撃的なと言おうか、激情タイプがある。第二幕のパン
トマイムでは、死体の胸に十字架を載せるだけであ
る。

 世界文化社『オペラ名作鑑賞』第十巻。一枚目は
アレーナ・ディ・ヴェローナの06年公演で、オーレン
指揮、チェドリンスのトスカ、ライモンディのスカルピ
ア、アルバレスのカヴァラドッシ。ライモンディ以外は
全く知らない名前である。野外劇場での上演で、第
一幕の大聖堂は豪奢であり、フィナーレでは本物の
大砲による祝砲が放たれる。トスカはどちらかと言え
ば激情タイプで、容姿も悪くない。カヴァラドッシは、
あまりハンサムとは言えない。第二幕のパントマイム
では、死体の頭の側に十字架像を立てるだけであ
る。第三幕は巨大な天使像のもとで演じられ、かなり
現代的な演出であるが、意図がよく分からない。お
そらく何もなければ舞台全体に城壁を巡らせること
になり、無理があるからだろう。

 もう一枚はシュトゥットガルト国立歌劇場の61年上
演、名指揮者パタネの指揮、テバルディのトスカ、ジ
ョージ・ロンドンのスカルピア、トービンのカヴァラドッ
シ。メンバーは豪華だが、モノクロの映像で、舞台装
置は少々小作りだし、音声がモノラルだ。テバルディ
のトスカが見られるのと、ロンドンのスカルピアとの
やりとりは緊迫感があり、すばらしい。ただカラスのト
スカを見てしまった目には、テバルディは動作にキレ
がないので、落ち着き払った太めのオバサンのよう
に見えてしまう。

 二枚目には、この他にボーナス映像として、ヴィス
コンティによる映画『トスカ』が入っている。オペラ映
画ではなく、ところどころプッチーニの音楽を挿入し
た劇映画である。オペラでは聖歌が入っている場所
で、トスカは「カロ・ミオ・ベン」を歌っている。第一幕
の終結部の音楽はほとんどないし、反対に舞台では
省略された説明的な場面が克明に描写されていて、
全く別の作品だ。筋書きも多少違うように思う。しか
し、オペラを理解するには参考になる。

 パッパーノ指揮=ゲオルギューのトスカ、ライモン
ディのスカルピア、アラーニャのカヴァラドッシ。映画
版のDVDである。この盤の魅力は、ゲオルギューが
大変な美人であること。スカルピアが奸計を巡らして
トスカを手に入れようとするのだから、セックスアピー
ルの溢れる美人でなければ、映像と筋書きがかみ
合わない。その意味では、ゲオルギューの美しさは
理想的だ。カラス以降では最高のトスカだと言える。
攻撃性もあるのだが、いくぶん可憐タイプ寄りのトス
カだ。恋人の命と引き替えに貞操を与えると約束し
てしまった後、国外逃亡に必要な通行許可証を要求
するとき、彼女の目には涙が溜まっている。スカルピ
ア役のライモンディは、貫禄がありながら、いかにも
偏執狂的な演技をしていて、これまた面白い。ただ
パントマイム場面で、死体の頭のところにろうそくを
置く所作が省略されたのは解せない。それは原作戯
曲にあった場面であり、おそらくプッチーニの趣味か
らすると、最も面白く思っただろう。省略してはならな
い部分だと思うのだが。

 ちなみに、もうずいぶん前だが、テレビで見た佐藤
しのぶ主演の二期会公演では、指定通りに演技して
いた。私はこの時の放映で初めてこのオペラの全容
を知ったのである。

 カラヤン=リッチャレッリ、ライモンディ、カレーラ
ス。CDである。この演奏は、第一幕の終結部(テ・デ
ウム)が強烈で、打楽器が祝砲らしい音で入ってい
る。それが衝撃的なので、他の印象がかすんでしま
うほどだ。リッチャレッリは、可憐タイプのトスカであ
る。カレーラスによる「星は光りぬ」は、なかなかの名
唱である。


『蝶々夫人』

 この作品との出会いは、中学生三年生の時であ
る。学校の授業の音楽鑑賞で聞かされたのが「ある
晴れた日」や「宮さん宮さん」が現れる部分だった。
その時は強い印象はなかった。そもそも文部省の音
楽教育方針は完全な誤解に基づいていた。「宮さん
宮さん」なら、日本人は誰でも知っているので、それ
がれっきとした「クラシック音楽」になっているなら、ク
ラシックになじめるようになるはずだと思っていたの
である。だが、私のように戦後世代なら、そもそもそ
の「宮さん宮さん」を教えてもらわなければ、分からな
いのだ。それにそれが「巨匠」の音楽に取り入れら
れたからといって、何も感激することはないだろう。
外山雄三氏にはしばしば俗謡、民謡を取り入れた作
品があるが、クラシック・ファンには、それを聴くと失
笑する人もいる。それなのに西洋音楽史に名を残す
巨匠なら感激する。どこか間違ってはいないだろう
か?

 確かに『蝶々夫人』は、日本では特に人気がある
のかもしれないが、実は海外でもプッチーニの三大
オペラの一つとされ、繰り返し上演される演目なので
ある。プッチーニがこの作品に取り入れたのは、日
本の歌だけではない。ピンカートンの登場場面には
アメリカ国歌が使われているし、「フランス印象派」の
和声なども取り込んでいた。日本音階は、フランスの
作曲家たちが模索した新しい音階の一つでもあっ
た。

 彼は日本の歌を取り入れるに当たって、日本から
来た大使夫人に取材し、また日本のレコードも買い
込んだそうだ。そのためか、引用が非常に正確であ
る。西洋の作曲家には、他にも「知り合いの日本人
の歌を聴いて書いた」といったケースがあるが、しば
しば大きく変形されている。「引用する上は徹底的に
研究しよう」という姿勢だったようだ。

 ただし日本人の宗教感覚はさすがに理解できなか
ったようで、キリスト教に改宗したというので親戚の
ボンゾ(坊主)に絶縁されたり、第二幕冒頭でスズキ
が「イザナギ、イザナミ」と祈る場面などはひどいもの
である。仏教は比較的寛容な宗教で、キリスト教に
入信しても、仏教を捨てたことにはならない。仏教に
反する主張があれば別だが、よほどあら探ししない
限り、仏教から見て、キリスト教の教え(徳目や戒
律)は両立可能なのである。ただキリスト教は他の
宗教との教義の違いを際立たせる必要があったの
で、次第に論点を先鋭化し、霊魂の不滅や復活を信
じるよう強制した。それを信じないならキリスト教徒で
はない。今日、大多数のアメリカ人と日本人は、こう
いう「根本教義」を受け入れていない。それでも社会
的な約束事としての徳目や戒律を守って生きること
は可能だ。私も無宗教だが、父母の葬儀は浄土真
宗の形で行ったし、仏壇にご飯や花を供えている。

 かつてテレビで見たカラヤン=フレーニのオペラ映
画(ポネル演出)では、スズキが机ぐらいの高さの棚
にイザナギやイザナミの小さな人形を並べて祈って
いたが、キリスト教圏では「異教徒=偶像崇拝」とい
うイメージなので、当然そうなるわけだ。実際、仏教
では仏像や観音像を尊ぶ。しかし、われわれは神像
をもっていない。例外は八幡神だが、神仏習合の中
で八幡神を「菩薩」としたからであって、事実上は仏
像である。マンガを除くと、天照大神の像を見た人は
いないだろう。たいていはお札に神の名が書かれて
いるだけのはずだ。七福神は像があるが、あれは神
像でなく、実は仏像である。インド仏教が衰え、次第
に土着のヒンドゥー教的と融合していった結果、そう
した神々が仏教に入り込んだのだ。

 カラヤン盤では、畳の上を革靴で歩いていた。日
本人にはショッキングな場面だが、西洋人にはよく
分からないだろう。畳は床であり、床を土足で歩くの
は普通だからだ。だが、さすがに彼らも布団の上を
土足で歩いたりはしない。

 日本人は、安土・桃山時代まで、板の間暮らしが
基本であって、畳はもともとベッドだった。広い板の
間に畳が一枚あって、その上に寝たのだ。掛け布団
としては、昼間着ていた衣服を上に掛けたのであ
る。それが江戸時代になると、板の間全体に畳を敷
き詰めて暮らすのが普通になった。縁側の板の間を
土足で踏んでも、それほどひどくは叱られないが、畳
を踏むのはとんでもないと思うのは、そういう歴史的
ないきさつがあるからである。

 ちなみに布団も、江戸時代に木綿が普及して登場
したそうだ。落語の「花色木綿」では、盗まれた品を
リストアップするときに、布団を「着類(きるい)」と呼
んでいる。当時は布団がまだ着物の一種と認識され
ていたのだろう。

 脱線ついでに付け加えると、私が昔「花色木綿」の
話を知ったときには、「花色」というのは「花柄」のこ
とかと思っていた。実は「はなだ色」がなまって「花
色」になったもので、はなだ色とは、紺色に近い青だ
ったそうである。木綿は、そのままでは虫食いが生じ
やすいが、染色すると虫食いになりにくく、長持ちす
る。だが当時はあまり華やかな色がなく、染め物と
言えば「紺屋(こうや)」による藍染めが一般的だった
のである。

 ところで、彼の書いた有名な女声用アリアには、長
調の曲が多いように思う。長調を偏愛していたような
気がするのである。「私の名はミミ」などは、初めて
知り合った男女の自己紹介だからいいとして、「歌に
生き、愛に生き」や「ある晴れた日」などもそうであ
る。『マノン・レスコー』の終幕でマノンが歌う「一人寂
しく」は短調だが。

 シノーポリ=フレーニ(CD)。可憐に美しく演じられ
ている。録音も優秀なので、第一幕の二重唱などは
聴き映えがする。「ある晴れた日」は、蝶々さんが空
しい夢と分かって歌っているのがよく分かる名唱だ。

 世界文化社『オペラ名作鑑賞』第八巻。一枚目は
浅利慶太演出、林康子の蝶々さんによるミラノ・スカ
ラ座の舞台(86年)である。解説書にあるように、外
国人スタッフの演出は、畳の上を革靴で歩くなど、日
本人には抵抗感のあることが多い。このDVDでは、
さすがにそういうことがない。「イザナギ、イザナミ」の
場面も、像に向かって祈ったりはしない。ただボンゾ
による絶縁場面などは省略も改変もできなかった。
音はあまりいいとは言えない。

 もう一枚は八千草薫の主演(歌はモスクッチ)する
オペラ映画(54年製作のカラー)で、いくらか短縮さ
れているものの、ほぼオペラに忠実に映画化されて
いる。数種のDVDの中で、最も美しく愛らしい蝶々さ
んである。よくこんな映画を撮ってくれていたものだ。
これほど清純で可愛い蝶々さんが見られるだけで
も、最高だと言いたい。歌手の声質がやや強靱で、
八千草薫の容貌と似合っていないが、許容範囲だ。
本物の日本家屋のようなセットで、庭や風景も夢の
ように美しい。ピンカートンが靴のまま座敷に上がる
場面があり(シャープレスは靴を脱いでいる)、「イザ
ナギ、イザナミ」の場面は仏壇の仏像に向かって祈
っている。だが大した傷ではないだろう。50年も前
の映画なので、音声は当然モノラルで、音には期待
しない方がいい。

オーレン/アレーナ・ディ・ヴェローナ管:アレーナ・
ディ・ヴェローナにおける2004年公演で、ゼッフィレ
ッリ演出だ。蝶々さんはチェドリンスという歌手であ
る。やや太めだがなかなかの美声で、録音も悪くな
いので、聞き映えがする。最近はかなり日本の情報
も入っていると思うのだが、未だに西洋人は日本と
中国の区別が全く付いていないのだと思い知る舞台
である。岩山のような場所を町人姿の人々が行き交
う冒頭のセットから、衝撃的である。衣装だけは日本
風に着付けている(昔見た外国人演ずる蝶々夫人
の写真で、ほとんど肩まで出るほど前を大きく開けて
着ているので、ショックを受けたことがある)。さすが
にスズキが神像に向かって祈ることはないのだが、
蝶々さんの家は中国風だし、ボンゾはまるでカトリッ
クの僧侶のような衣装で登場する。日本の文化がど
ちらかと言えばモノクロームで簡素であることが、理
解されていない。というより、ゼッフィレッリのこのオ
ペラに抱くイメージが、こういうものなのだろう。この
作品はあくまで日本という「架空の国」を舞台にした
イタリア・オペラなのである。


『トゥーランドット』

 中国を舞台に書かれたオペラで、いわゆる三大オ
ペラ(『ラ・ボエーム』、『トスカ』、『蝶々夫人』)に次い
で人気が高いそうだ。皇帝の一人娘トゥーランドット
姫は、歴史的ないきさつから男嫌いになり、求婚者
に難しい三つの謎を出して、それに答えられなけれ
ば、求婚者の首をはねるという。ところがティムール
の王子カラフは、一瞬垣間見たトゥーランドットに一
目惚れしてしまい、父王や従者のリューという娘が止
めるのを聴かずに、求婚者として謎に挑戦する。

 そして見事謎を解くのだが、どうしても結婚したくな
いトゥーランドットはやはり承知しない。そこで、今度
はカラフ王子の方から謎を出す。彼はそれまで名前
を告げていなかったので、「私の名前は何か?」とい
う無茶な質問だ。翌朝までに答を出せば、おとなしく
首をはねられようというのである。そこでトゥーランド
ット姫は国中に「今夜は誰も寝てはならぬ」とお触れ
を出し、宮殿に引きこもって考える。だがもちろん、
考えて分かるものではない(この夜にカラフが歌うア
リアが、有名な「誰も寝てはならぬ」である)。

 そこで従者のリューを拷問して、王子の名を吐か
せようとする。リューは苦しみのあまり自殺してしま
う。このオペラでは、リューが実は主役のように思え
る場面である。プッチーニは、死んだリューの葬送場
面まで書いて、息を引き取った。だから『トゥーランド
ット』は、彼の絶筆ということになる。

 その後をアルファーノという作曲家がプッチーニの
スケッチなどをもとに作曲し、完成版にした。現在は
もちろんこの形で上演されるが、初演(指揮はトスカ
ニーニ)では、プッチーニが筆を置いた箇所までが
上演されたそうだ。

 確かに、リューの死のあとは急にバタバタと事件が
解決してしまい、それまでの大仕掛けな造りにくらべ
てあっけない感じがある。

 リューという娘には、かつて事故で重傷を負ったプ
ッチーニをかいがいしく世話してくれた、ドーリアとい
う小間使いの娘の投影があるということが、広く信じ
られている。嫉妬深い妻のエルヴィーラは二人の間
に性的関係があると邪推し、公然と言いふらした。
写真で見る限り、ドーリアはなかなかの美少女だっ
たようで、エルヴィーラとしては心穏やかでなかった
のだ。ドーリアは恥辱のあまり自殺してしまった。し
かし死後、ドーリアは処女だったと判明し、エルヴィ
ーラは禁固刑と罰金を科せられることになった。プッ
チーニは遺族に巨額の賠償金を払って示談にした。

 性的関係はなかったとしても、プッチーニも彼女を
深く愛していたらしく、自殺の知らせを聞くと、引きこ
もって数日間泣き暮らしたという。

 前に書いたように、プッチーニの女声用アリアで有
名なものには長調の曲が多いが、リューの最後のア
リア「氷のような姫君の心も」は短調であり、『トスカ』
のパントマイム場面の音楽が嫋々と流れる短調の
音楽であるように、不吉な死の調べとも言えよう。

 プッチーニの死と共に、ロマンティック・オペラは終
焉を告げる。もう次の時代が始まっていたので、時
代遅れのオペラだったとも言えなくはない。だが同時
に、大衆が好み、口ずさむ音楽こそ「正しい音楽」な
のだという観点から見ると、彼はいわゆる「クラシッ
ク」分野における最後の正しい作曲家だったのかも
知れない。

 メータ=ラーリン(カラフ)、フリットーリ(リュー)、カ
ゾッラ(トゥーランドット)。紫禁城で行われた上演で
ある。このDVDの特徴は、何より超豪華な舞台であ
る。メイキング映像を見ると、中国がいかに力を入
れたかが分かる。この公演の音声はCDになってお
り、プッチーニ・オペラ全集にも入っているが、カラヤ
ン盤などに比べると、物足りないところがあるだろ
う。

 世界文化社『オペラ名作鑑賞』第七巻。一枚目は
マゼール=カレーラス(カラフ)、リッチャレッリ(リュ
ー)、マルトン(トゥーランドット)。ウィーン国立歌劇場
における83年上演の画像である。豪華メンバーだ
けあって、これはなかなかのものである。音もかなり
いい方だ。舞台は、さすがに紫禁城にはかなわない
が、それほど貧弱には感じない。

 もう一枚は58年製作のオペラ映画である。モノク
ロで音声もモノラルであり、少々貧弱に見える舞台
装置といい、あまりお奨めできるものではない。ただ
コレッリのカラフはなかなかハンサムだし、マッティオ
ーリのリューも少女というよりはマダムっぽいが、な
かなか美人である。


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