オーディオは迷信だらけ1


アナログの方が音がいい?

 オーディオに関しては、さまざまな迷信めいたウワサが飛び交っており、それに関連した怪しげな商品が高価に売られるなど、ある意味では魑魅魍魎状態である。そのこと自体が悪いとは言わない。どんな世界(何らかの概念で括ることのできる人間の営み)でも、そうしたことはあるものだ。全くの詐欺行為もあれば、本人はだますつもりはなく真剣にやっていることもある。

 最近は「アナログの方が音がいい」ということを信じる人が、特に若い人に多いと聞く。そこで、アナログ時代の思い出と、CDとの出会いを中心にお話ししたい。

 その前に、まずアナログとディジタルの違いをお話しせねばなるまい。どうやら最近の若い人には、これをきちんと説明できない人も多いようだからだ。

[アナログ信号]

 アナログ信号とは、何らかの入力に比例した信号のことである。線形比例のこともあれば非線形比例のこともあるが、ここではすべて線形比例としよう。

 音声であれば、マイクロフォンの振動板は、無音であれば静止状態だが、音を受けると変位する。その変位量ないし変位スピードは、音圧(瞬時の空気圧)にだいたい比例する。これを電気量に変換すれば、音声に比例した電気信号に置き換わる。次に磁気ヘッドのコイルに送る、あるいはスピーカーのボイスコイルに送る。コイルには電流の変化量(変化するスピード)に応じた磁力が生ずる。それを磁気テープに記録すれば、録音できるというわけだ。またスピーカーであれば、固定マグネットに対してコイルが変位するので、結果的に最初のマイクの振動板の逆過程で振動する。途中に増幅器などが入るのだが、これも線形比例なので、それは省略する。

 以上、ごく簡単な話である。要するに信号経路のどの段階を取っても、必ず瞬時の入力に比例した信号が流れているのがアナログだというわけである。

[ディジタル信号]

 ここではPCM(パルス・コード・モジュレーション)を例に取り上げて説明する。

 ディジタル、ディジタルと言っても、マイクロフォンで音を拾い、最終的にスピーカーで音を再現しているのは変わりない。これらの過程は、今も昔も変わりなくアナログなのだ。ディジタルであるのは、途中の経路である。PCMでは、どこかの段階で数値コードに変換し。このコードを記録したり伝送するのだ。再生側では、数値コードからもとの電気信号を再現し、最終的にはアナログ的にスピーカーから再生する。

 数値コードは2進法の数値信号であり、たとえば2Vの電圧なら”10”を意味する2進符号にする。4ビット符号なら”0010”である。瞬時の信号を見ると、”0010”を1ビットずつ送っているので、原信号が2Vなのに、”0”または”1”を送っている瞬間がある。つまり、もはやアナログ的な比例信号ではなくなっている。あくまでディジタルである。3Vなら”0011”であって、”3”はどこにも現れていない。数値符号だからだ。

 何かの録音物を再生して、オシロスコープで信号を見ながら、一定時間ごとに「何分何秒後は何ボルト」と言葉で記録用紙に記入したとすると、その記録から元の信号を再現できるだろう(十分細かく記録できればという話だが)。だがその記録は単なる文字であって、元の信号を伝えることはできるが、信号に比例しているわけではない。

 われわれは株価の変動や温度変化をそうやって記録し、グラフにプロットして、なめらかな曲線でつなぐということを長年やって来た。皆さんも、校庭の百葉箱の温度計を一定時間ごとに読んで記録し、グラフに書いた経験がおありだろう。ディジタル録音は、それと同じことをやっている。

 文字は、知らない人には分からない。数字が何か量を意味していると思うのは、われわれが数字を知っているからである。異星人がわれわれのディジタル記録を手に入れたとして、それが何を意味するか分かるだろうか?ディジタル記録だと分かっても、その記録はどれぐらいの間隔で取られたものか分からなければ、元の信号は再現できない。

 もっとも、アナログ記録でも、たとえばレコード盤や録音テープが手に入っても、正確な回転数が分からなければ再生できないから、同じだと言えば言える。しかし、少なくともアナログ的な信号が伝送されている中間の信号が受信できれば、それは原信号に比例しているのだから、再現は可能である。アナログは、宇宙のどこでも通用しうる信号というわけだ。ディジタルの場合は、伝送中でも、再現に必要な情報がないかぎり、ただの不規則なパルスの列である。

[アナログ情報の欠点]

 アナログは原信号をそのまま次の段に送ろうとするので、途中に信号を劣化させる要因があっても、それもそのまま次に送ってしまう。信号を劣化させる要因というのは、たとえば電気的なノイズなどである。

 あまり知られていないと思うが、磁気テープに録音したものも、多くの劣化要因にさらされている。磁気ヘッドがある部分を磁化させても、その磁化部分がすっかり通過しないうちにヘッドの磁化方向が変われば、すでに磁化した部分を打ち消してしまう。そのため、磁化の反転が細かい(高い音)ほど、記録されにくい。これを防ぐにはテープの送り速度を速くすればいいのである。プロ用のテープレコーダが、家庭用のものよりテープ速度を速くしてあるのはそのためでもある。また磁化膜の磁力は、長い間には磁化の反転部分が互いに打ち消しあって、特に磁化方向の交代の激しい部分から(つまり高音部から)、弱くなってしまう。

 しかしこれらの劣化は、どの程度のものか分からないので、補正することはできない。リミックスでは高域を持ち上げるなどの操作が行われることも多いが、どの程度原音に近づけられるかは、行った者のセンスによる。

[ディジタル情報の欠点]

<サンプリング定理>

 たとえばあなたが百葉箱の温度計を10分ごとに記録したとしよう。あなたが見るごとに、温度計は18℃を指していた。ところが、他の同級生が5分間だけずれた時点で、やはり温度計を観察していたところ、彼の読んだ温度は、いつも25℃だった。あなたは「今日、日中は18℃一定だった」と報告し、友人は「いや、25℃一定だった」と主張した。どちらが正しいだろうか?

 二人が観測した時刻には5分間の差がある。ことによると二人とも正しく、10分間に一回の温度上下があって、たまたま二人ともその温度変化のサイクルにぴったり合ってしまったので、矛盾した結果となったのではないだろうか。

 結論を出す方法はただ一つである。観察者をもう一人増やし、二人の中間の時刻、2.5分ずれた時刻ごとの記録を取るのだ。彼の見た温度計が中間の温度、たとえば23℃と20℃の値が交互に現れていたなら、データを付き合わせて、ほぼ正弦波を描いたグラフになるだろう。それが正しいかどうかは別である。

 もし2.5分のデータを見ても、なおかつ意外な変動パターンであれば、もっと細かく刻んで観察する必要があることになる。

 このように、たとえば信号が5分ごとに変動するのであれば、2.5分ごとに観察する必要がある。この観察時刻の間隔は、「サンプリング時間」と呼ばれる。

 サンプリング定理では、「信号の持つ最大周波数の2倍以上のサンプリング周波数があれば、原信号は再現できる」という。この場合、百葉箱の温度計が、本当に10分間で1サイクルの変化だったのなら、あなたと同級生の観測した5分ごとのデータを並べて、正弦波で結べば良かったわけである。もちろん、観測誤差はあり得る。18℃と25℃の間で変動したのでなく、17℃と26℃の間で変動したのに、その最大値と最小値は見逃してしまった可能性があるからだ。

<折り返しノイズ>

 本当の温度変化のサイクルは8分間だったのに、10分ごとの観測値しかなかったとしよう。すると、奇妙な現象が現れる。あなたはある瞬間に25℃を観測する(これがその日の最高値)。次に見たときは2度目の山である25℃より少し後だったので、やや下がった値を見る。次にはまた少し下がった点を見る。こうして何度目かには最低値の18℃も見る。グラフに描いてみると、ゆっくりと変動するグラフが描かれるだろう。本当の温度変化サイクルは8分間だったのに、10分の間隔で観測したため、実際のサイクルより遅い、別のパターンが現れてしまったのである。

 あまり厳密ではないが、こういった現象を「折り返しノイズ」と呼ぶ。サンプリング周波数が必要な間隔より低い場合、低周波部分に、余計な信号が出てしまうのだ。

 ディジタル録音では、こうした現象を防ぐため、サンプリング周波数より高い部分を強力なフィルターで除いてしまう。CDの場合、サンプリング周波数は約44kHzで、音源は20kHzのフィルターを通している。万が一にも折り返しノイズが入らないようにするためだ。

<量子化ノイズ>

 もう一つある。あなたが温度計を読むとき、「25℃だった」というのは、”24.5℃”のように、0.5℃まで読んだのか、”24.8℃”だったという風に、0.1℃の桁まで読んだ結果だったのか、ということだ。もちろん先生の指示に従っただろうが、温度計は、見る角度で多少違った読みになるものである。真の値は24.5℃一定だったとして、それを0.5℃単位で読んだのだが、正面に坐って読んだこともあれば、横からのぞき込んだこともあるのなら、24.5℃より上か下かを記録しただけかも知れない。それを最終的に四捨五入したとすれば、あなたの観測の仕方が一定でなかったために、25℃と24℃の間を変動するグラフになる。

 前に2Vなら”0010”という例を挙げたが、アナログ信号をディジタル信号に変換するのに、最も普通に行われる方式が「逐次比較式」である。これは入力電圧を標準電圧と比較して、入力電圧が標準電圧より高ければ1、低ければ0を出力するという方式で行われる。

 具体的には、4ビットの例であれば、0〜15を表現できるのだが、4ビット(ビットとは、2進法の桁数のことである)のDA変換器を用意しておく。入力が13.2であれば、まず8を意味する「1000」と比較する。入力の方が大きいので、”1”を出力し、次に12を意味する「1100」と比較する。やはり入力の方が大きいので、また”1”を出力して、14を意味する「1110」と比較する。今度は入力の方が小さかったので”0”を出力して、比較電圧の2ビット目を「0」にリセットし、最後の桁をONにして、13を意味する「1101」と比較する。すると入力の方が大きいため、”1”を出力する。

 最終的に、出力されたのは”1101”という信号である。

 もし入力が7.8だったとすると、まず8を意味する「1000」と比較すれば出力は”0”、次に4ビット目はリセットされ、「0100」と比較される。この出力は”1”となり、次に6を意味する「0110」と比較され、というように、最高位ビットから順に比較されて、”0111”という信号(7を意味する)が出力されるであろう。13.2からは”13”、7.8からは”7”を意味する符号化信号が出力されたわけである。

 このように、逐次比較型では、基本的に最低位ビットより小さい単位の値は切り捨てられる。そのため、「丸め誤差」が発生してしまう。あなたの観測姿勢が一定でなかったために誤差が生じ、さらに四捨五入したため、本来存在しなかった24℃と25℃の間の変動が現れたのを思い起こして欲しい。このような信号の欠落を「量子化ノイズ」と呼ぶ。

(この比較方式は、コンピュータで言う「二分探索法」というデータ検索方式に似ている。たとえば1024個のデータが、値の順番に並んでいるとする。この中からあるデータを検索したい。その時、頭から順に検索したい値とデータを比較して行くことができる。まず1番目と検索しようとするデータを比較する。合わなければ2番目のデータと比較する。こうして順に比較して、合ったところで終わりにする。平均比較回数は512回になるだろう。

「二分探索法」では、まず中央にある256番目の値と比較する。求める値が中央の値より小さければ、大きい半分は無視して、先頭と中央の半分、つまり256番目の値と比較する。もし中央の値より大きいなら、今度は小さい方を無視して、末尾と中央の半分、つまり768番目の値と比較する。このようにして、次々に検索する領域を半分に減らして行く。すると、10回目にやっと求める値に出会う確率と、9回目までに出会う確率は大体同じであるので、平均比較回数は9回である。頭から順に探索するより、はるかに効率が高くなる)

 A−D変換後のディジタル情報はあまり外乱要因の影響を受けないのだが、A−D変換中はそうでもない。入力信号は、ディジタル変換の間アナログ的に保持されている。それは何らかの要因で変動することがある。また比較に用いる基準電圧も、全く変動しない保証はない。すると、原信号は中途半端な電圧だから、最低位ビット付近の誤差は、やむを得ないのである。

 CDの「ダイナミック・レンジ」は、こういう最低位ビットの誤差を仮定して、それをノイズとしている。ちなみに、ダイナミック・レンジとは、最大音量と最低音量の違いというか、「幅」を意味する。最近のディジタル録音は、こうした現象の影響をできるだけ小さくするため、よりビット数の多いD−A変換器を使い、最低位ビットの一つ下の桁で四捨五入を行うなどの方法を講じている(17ビット録音などというのはそのためである)。

[アナログの利点とディジタルの利点]

 アナログの利点は、原理が単純なことである。ただひたすら入力信号に忠実な伝送に務めるのだ。長い歴史があるので、信号を乱す要因もかなり分かっている。分かったからといって、その対策も確立されているわけではないのだが、各社各様に工夫している。その工夫した内容もそれなりに分かりやすい。

 たとえば、「振動系を軽くすれば入力に対して素早く忠実に動く」というのは分かりやすい。重ければ、鈍重にしか対応しないだろう。NFB(負帰還)はアンプの歪み率などを劇的に低下させたが、負帰還を多くかけるアンプは不自然な音になりがちだったので、その前の裸特性を徹底的に追求して、ノンNFBアンプにした、と聴けば、良い音がしそうに思う。

 ディジタルの利点は、伝送経路におけるノイズなどに強いことである。現在は違っているようだが、昔は「TTL」といえば、各ビットの値が1であれば3V、0であれば0Vで伝送されていた。少々悪い伝送路で、1V程度のノイズが入って来ても、それは無視されて0として扱う。アナログなら、こうしたノイズはそのまま後段に伝えられてしまうのである。

 PCM録音を世界で初めて実用化したのはDENONだった。当時は「デンオン(電音)」と呼んでいたが、現在では「デノン」と呼ぶ人も少なくない。そのDENONのPCM録音の最初の広告に載っていたのが、「宇宙通信技術を録音に使った」ということだった。宇宙には様々なノイズ要因が飛び交い、宇宙船が少し離れると、信号はノイズに埋もれてしまう。しかしPCMコードなら、もっと離れた宇宙空間から送られてきても、ノイズとの判別ができる。判読に誤りがあっても、補正用ビットを付け加えて復元可能にすることができる。

 補正ビットとは、数学的な処理によって、読み出された信号が正しいかどうかを判別するためのビットである。たとえば奇偶ビットなどは代表的なものだ。1バイトの信号(バイトとは情報の単位で、8ビットである。前記の4ビットの信号というのを1バイトと考えて見るといい)は必ず偶数の”1”になるビットで構成されている、その偶数というのは、補正ビットの数を加えた数である、と約束しておくと、たとえば”0111”には”1”が3つあるので、補正ビットは”1”となる。”0111,1”(最後の”,1”が補正ビット)という信号である。”0101”なら、”0101,0”というわけである。それが合っていなければ、情報に誤りがあることになるのだ。たとえば”0111,0”という信号を受け取った場合、その”0111”もしくは最後の補正ビット”1”のどちらかが、誤っている。どちらが正しいか、前後の信号からも判別できるように仕組まれていて、かなり正確に原信号が復元できる。

 CD−ROMであれば、万が一にも読み取りミスがあってはいけないので、非常にシビアに補正される。音楽用CDでは多少欠落があって、補正ビットでも補正しきれない場合には、適当に補間しておけばいい。音が途切れないようにすることの方が大切である。だから傷の多い音楽用CDでは、音楽用のプレーヤなら無事に演奏できるのに、CD−ROMドライブだと音飛びしてしまうことがある。これをCD−ROMドライブに問題があると考える人があるが、大きな誤解だ。

 CDの良さの一つは、回転ムラが全くないこと。アナログ時代には、回転ムラとレコードの偏心に悩まされたものだ。ある時、買ったレコードの中心孔がずれていたので、かけるたびに「ワウワウ」と音の揺れが生じ、一生懸命孔を削った思い出がある。また初期のプレーヤは、モーター自体に回転ムラがあった。回転ムラがほぼ解消されたのは、70年代になって、ダイレクト・ドライブ方式が出現してからである。最近、CDでも再生スピードに変動があるという人がいるが、長時間にわたるゆっくりした変動は回転ムラとはいわない。アナログ時代の回転ムラは、耳に付くものだった。安物のカセットであれば、ビブラートでもかかっているのかと思うほど、すべての音が細かく揺れていた。

 音の分離の良さも特徴だろう。アナログ時代は、管弦楽の全強奏など、ほとんど「おだんご」状態で、その中でフルートがどう鳴っているとか、ヴァイオリンがどうとか言える音にはならなかった。私はかなりいいカートリッジを使っていたのだが、そうした場面になると、ヴァイオリンはコンクリートの塊の中から細い針金がのぞいているようだったし、フルートも何の艶もなくやせ細って鳴っていた。低音にモジられた、という表現をしていた。低音の振幅が大きいので、その中に高音の微細な振動波形があっても、完全には再生されないのである。

 たとえばあなたが腕を一杯に伸ばした状態で、鶴を折るとしよう。次に腕を反対側に振りながら、さらに折り続けるとする。できそうにないでしょう?というより、そもそもレコードにそういう振動が刻まれていたかどうかも疑わしい。

[なぜ「アナログは音がいい」と言われるのか]

 もう20年ほど前のある日、久々の「大阪オーディオ・フェア」に出かけた。その時、STAXだったと思うが、大きな衝立型のコンデンサ・スピーカーが置かれたブースがあった。なぜかモノラルのレコードをアナログ・プレーヤで再生していた。室内楽だが、管楽器が重なってくると、混変調歪みのために、どの楽器もやせ細った表情になる。「ああ、これこれ」と懐かしかった。昔私の装置でも、同じような音がしたからである。ということは、私の装置が悪かったのではないのだ。アナログ・レコードでは、楽器を完全に分離することは難しい。おそらくその時は最高級のプレーヤを使っていただろうが、それでもアナログ特有の、音の重なりの悪さを脱することはなかった。

 なぜそのデモで、特に音の悪いレコードをかけていたのか、私には知るよしもない。私には、浮浪者が薄汚い服のまま、立派な宮殿に上がり込んだような違和感があった。多分何か誤解があり、「昔のレコードは良かった」と思っている人がいたのだろう。最新のCDには、もっとはるかに良い音のするソースがある。「アナログは良かった」と思うのはいい。別に反対はしない。けれども、その考えにとらわれて、事実に目をつぶるのは、あまり感心しない。

 あからさまな事実を言えば、アナログは良くなかった。再生が難しく、現在では下らないと思うようなことに気を遣っていた。たとえばカートリッジにかける針圧は、平均して1.5g前後であるが、少し重く、2g程度にすると鈍重になり、軽くすると繊細だがいかにも軽い音になる。重くすると、細かい振動(高音)に追従せず、高音成分が減るようだ。反対に軽くすると、本体が振られてコイルの本体に対する相対的な変位量が小さくなり、特に低音域の遅い振動が小さくなって、量が減るらしい。だからメーカー推奨針圧が1.2gでも何だか納得できず、毎日のように「ああでもない、こうでもない」と針圧を変化させていた。軽めに設定して、低音はトーン・コントロールで持ち上げて聞いていたこともある。そして気が付くと、全く変なバランスになっていたこともある。

 針圧を重くするとレコード盤との摩擦が大きくなり、レコード盤がターンテーブルの上でスリップすることもあると聞き、重しを買って載せていた(結果は重しなしの状態と変わらず)。音にビリ付きを感じると、録音のせいだと思わず、どうにかしてそれを止めようとして悪戦苦闘だ。

 結論を言えば、当時あれこれと思い悩んでいたことのほとんどは、全くの空振りであった。シュワルツコップのR.シュトラウス「子守歌」のビリ付きは、原録音にあるものだった(録音年代を考えれば信じがたいが)。

 使っていたカートリッジは、最初がサテンのM−11Eであり、柔らかく艶っぽい音がしたが、やや鈍重なところがあった。次が多分同じサテンのM−117Eだ。華やかで色彩感が鮮明だったが、今度は少し軽い印象があった。型名は忘れたが、ヤマハのムーヴィング・コイル型を使ったこともある。これは清潔感があったのだが、「雨上がりの音」といった印象だった。最後に使っていたのは、オーディオ・テクニカのAT−33Eである。ヤマハに比べると熱く艶のある音がして、かなり気に入っていた。

 ターンテーブルも問題だった。最初はマイクロ精機のベルト・ドライブだっただろうか。何となく回転精度(偏差)に疑問を持つようになり(ストロボで見ると少し速かった)、テクニクスのダイレクト・ドライブ方式に換えた。少し音が軽く、ラジオ放送的に感じたが、重しを載せるなどして使っていた。

 CDが登場したのはその後だったと思う。

 とにかく、最初の出会いは衝撃的だったと言っていいだろう。82年のことだが、大阪・梅田の阪神百貨店にリスニング・ルームがあり、たまたま立ち寄ったとき、そこでCDのデモがあったのである。再生されたのは堤剛の弾くフォーレの「エレジー」などだった。チェロの音の艶、管弦楽伴奏の各楽器の分離と粒立ち、鮮明さ、すべてが最高級の再生音に聞こえた。しかもCDプレーヤの値段は16万8千円という「安さ」である。驚かないでもらいたい、そのクラスの再生ができるプレーヤは、アナログであれば最低でも50万円はする。16万8千円というのは、驚異的な安価であった。

 実は私は、これに先立って72年頃からPCM録音に興味を持ち、ほとんどCDと同じようなレーザー・ピックアップで読み出すディスク・システムを考え、それに必要なA−D変換器も独自に考案していたのだ(当時市販されていたA−D変換器はスピードが遅く、まだ録音には使えなかった。私の考案したA−D変換器は、サンプリング周波数をうんと高く取ることができた)。だから、ソニーの発表したCDプレーヤには、大いに興味があった。何しろ、私が友人に自分のアイデアを語ると、ほとんどの人はディジタルそのものに疑念を呈し、「そんなものでちゃんと音になるのか?」と言っていた時代である。

 だが時代は変わった。変わりすぎて、CD登場の頃、「ディジタルだから音がいい」というCMまであった。これには、ディジタルの方がいいと思っていた私も反発を覚えた。ディジタルだからいいとは限るまい。何しろ、録音現場はアナログなのだ。悪い録音をディジタルにしても、音が良くなることはあり得ない。

 逆に「アナログの方が音がいい」というのも間違いである。アナログとディジタルは、伝送と記録の方式だけが違うのであって、録音と再生は今までと同じだ。そのアナログは再生が難しく、あれこれ苦労させられたのは前述の通り。大金持ちならいざ知らず、われわれのような大衆には、「アナログの方がいい」などと言えるほどのすごい装置には手の届きようがない。

 少なくとも大多数の人には、現在CDというメディアで提供されるような(回転ムラもトレーシング歪みもない)音がアナログ・プレーヤで手に入る可能性は全くない。今の1万円のCDプレーヤで聞ける音は、昔の十万円以上のアナログ・プレーヤに相当する。

 にもかかわらず、「アナログの方が音がいい」と言われる理由としては、今では手に入らなくなった音を、何かこの世ならざる美音のように思いなす、想像力(妄想)のためであろう。「手に入らない→禁じられている→この世ならざる」という連想は、オカルティズムである。この世ならざるものはこの世にはないのだ(この世になかった新しい音楽を創るといった行為は別である)。アナログが姿を消したのは、単にディジタルに比べて劣った面が多いからに過ぎない。

 音がいいというのは、現実より良い音がすると言うことではない。大部分の録音技師は、現実の音を最高として、それに近づける努力をしてきた。その意味では、ディジタル録音は、今までで一番良い音を提供している。若者たちがディジタル録音を否定するとすれば、それは現実否定の心情でしかないだろう。

[ディジタル方式と音の透明度]

 もしある方式が音がいいとすると、その方式は、繰り返し同じ経路を通しても、やはり良いはずである。

 たとえばここにガラス板があり、それは非常に透明で、向こうの風景が余すところなく見えるとする。そこに対抗馬としてPMMA(ポリメチルメタアクリレート)の板が登場し、透明度を競い合いとしよう。

 透明度と言っても、実際は光の波長によって違うのだが、ここでは全可視帯域波長としておく。

 ガラスの減光率が厚さ1cmについて10%であったら、1cmを通り抜けた光は90%である。原光を1とすれば、通過した光は0.9になる。もう1枚のガラス板を重ねれば、残った0.9の光の0.9倍、つまり0.81になる。3枚通れば0.729だ。単位透明度(この場合は0.9/cm)の厚さ(cm)乗である。これを理解しない人もいるのは何だか情けないが、そういうものだと理解していただきたい。

 さてPCM録音発表から間もない頃、DENONがデモ用に、次のような実験を行った。

 ある演奏を録音し、それをスピーカーから再生した音をマイクで再び録音し、さらに再生して、同じことを繰り返す。これを限りなく繰り返せばどうなるか。記録系に欠陥があれば、そのたびに情報が欠落するので、だんだん音が悪くなる。

 このことを、アナログ系とディジタル系で行ったのである。もちろん録音系と再生系のA−D変換以降、D−A変換以前までの比較である。マイクとスピーカーは同一だった。ということは、記録系の違いだけが、何度も経路を通るうちに強調されてくるわけだ。

 そのやり方で繰り返すと、確か10回〜20回ぐらい通った後だったと思うが、アナログ系の音は、もはや元の音楽の原形をとどめていなかった。なにやらごうごうと風の吹き渡るような音がする中に、たまにピアノの音らしきものがポロンと鳴っているだけだ。ところが、ディジタル系の音は、まだ元の音楽が全部聞こえる。ちょっと周波数特性にデコボコがあり、やや安っぽい音にはなったが、スピーカーやマイクの特性が相乗的に強調された結果だろう。とにかく、アナログの方が、もう全く音楽としての形をとどめていないのとは、大変な違いだった。

 先に透明度の式について「これを理解しない人がいる」と書いたので、ちょっと付け加えておきたい。たとえば先頃北朝鮮が核実験を行った。このとき、日本は、相当する飛行物体を確認したら迎撃ミサイルを打ち上げるといった。この迎撃ミサイルの命中率は、50%だと言う。ミサイルはまず東北で打ち上げ、次に東京地方で打ち上げるという2段階構えで配備された。あるテレビのアナウンサーが「ここで撃墜率は50%、次のここで50%、合計100%ということなんですが」と説明していたので驚いた。確率50%のミサイルが2段階に配備されたら、両方で75%である。アナウンサーの計算なら、3段階に配備したら150%、4段階なら200%だ。しかし確率というものは100%を超えることはない。100%を超える確率というのは何を意味するだろう?「絶対確実」という意味なのか?

 そうではない。それは「計算間違い」を意味するのである。

 正しい計算は、2段階配備の時75%、3段階配備では確率87.5%、4段階配備で93.75%とすべきだ。最初に4基のミサイルが飛んできて、迎撃率50%のミサイルが打ち上げられたら、2基を打ち落として、2基は通過する。次のミサイルが迎撃するのは2基であり、そのうちの半分、つまり1基だけが打ち落とされて、残りの1基は通過する。最初のミサイルのうち、4分の3が打ち落とされ、4分の1は通過する。迎撃率50%とはそういうことである。

 これを聞いたときにぞっとしたのは、もしかすると、自衛隊の幹部が記者に説明するとき、「50%が2段階で100%」という説明をしたかも知れないという懸念が心をよぎったからである。まあ私のしてきた仕事も理系の仕事ばかりだったが、身の回りにもこういう初歩的な確率計算のできない人がいた。サイコロを振ったら、どの目が出る確率も6分の1だと知っていても、「6の目に賭けたとして、勝つ確率は」と聞かれると「出るか出ないか二つに一つなので50%」などと答える人がいた。アホか。6分の1(約17%)に決まってるだろうが。そういうお粗末な頭しかない人が、実は日本の産業を引っ張る中枢の立場にいるのである。これでは日本経済がダメなのも無理はない。経済だけでなく、軍事的にもそうなら、非常に危ういわけだ。

 とにかく、ディジタル系の録音は、かなり「透明度」が高い。それは、原音を忠実に伝える程度(忠実度)が高いということを意味する。そして最高の音は原音である。原音を超える「この世ならざる美音」などは存在しない。「この世のものとも思えぬ怪音」ならあるかも知れないが。

 CDデッキを初めて買ったとき、真っ先に感じたのは、それ以上調整できない音だということだった。FM放送を聞いているのと何ら変わりなく、もどかしく思っても、針圧を変えるような操作をすることは難しい。とにかくその日、それは与えられた音として受け入れるしかないと諦めて、改めてシステムの調整を行った。

 ところが二、三日後のある日、トイレに行こうとして部屋の外に出たとき、驚くべきことに気がついた。アナログで聞くと、ドアの外だと、音楽が全く分からないのである。ドアを閉めたとたん、音像がぐちゃぐちゃになり、ただ「何か音がしている」ということしか分からない。これに対してCDだと、何をかけているのか、考えなくても分かる。ドアの外で聞く必要など全くないのだから意味はないのだが、どこかに何か違いがあるのだ。

 そのうちに分かってきたのは、アナログだと管弦楽全奏はぐちゃぐちゃの団子だが、CDでは割合個々の楽器がしっかりと鳴っていて、団子ではない。しかしまた、その団子状態が激しく盛り上がる感じを作りだし、ある種の興奮の瞬間となる。同じ場面でも、CDは冷静に分析的に再生される。だから何となく冷たく、白けるように感じることもあったのだが、次第に「こちらの方がマスターテープに近いんだろうな」と思うようになった。

[アナログ時代の思い出]

 LPは、かけるたびに劣化していく。何回かけても同じ音がするCDとは、全く違う。再生中にドコドコ歩いて、その振動から溝飛びを起こすと、その箇所の音溝に傷が付いてしまい、いつも溝飛びが起こるようになることもある。非常にデリケートなメディアだった。

 だからLPの再生は、いわば真剣勝負だった。かなりベテランだった私の月平均の収入が10万円たらずの時代に、LP1枚が2500円だったのだ。子供の頃に比べれば安くなっていたが、それでも現在の感覚で言うなら、一枚が一万円の商品と考えても良い。粗略に扱える品物ではない。製盤上の理由で表面に小さな孔があり、プチッ、プチッと余計なノイズのするレコードもあった(スクラッチ・ノイズ。またはプチ・ノイズとも言う)。聞くたびにドキッとしたものである。雑誌によると、スクラッチ・ノイズの大半は「手入れの不良」であるというので、レコードクリーナーをあれこれ買い込み、必死で磨いたが、もともとある傷が治るはずはなかった。

 ちなみにスクラッチ・ノイズの多かったのは日本コロムビアであり、東芝の赤盤はなぜかあまり耳に付かなかった。ほこりが付きにくい材質だっただけでなく、周波数成分が低かったようである。当時は盤質の違いということが取りざたされた。日本コロムビアのレコードは少し盤質が硬い感じで、東芝はかなり柔らかいように思った。ビクターはその中間で、スクラッチは少なめだった。聴感だけで言うと、日本コロムビアのレコードは変形の少ないやや硬質の材料であり、ビクターやキングの材料は柔軟だが復元力のあるもの、東芝の赤盤は可塑性があって、変形すれば元に戻らないものという印象だった。事実はどうか知らない。耳で聞いた印象だけだ。とにかく大切なレコードなので、わずかなノイズにも敏感だったということだ。

 なお後には東芝もなぜか赤盤を止めて、黒いレコードになった。この時の印象は、キングに近いものだった。赤盤は全体が赤く透明で、明かりに透かしてみるときれいだ、といって喜ぶ人もいたが、私はあまりきれいな赤ではないと思っていた。少し重い赤で、鬱陶しい感じがあった。それでもリヒテルのシューマン「幻想曲」、フルトヴェングラーの「英雄」などは、いろいろな店を回って買い求めたものである。黒盤になってから買ったのは、シュワルツコップのR.シュトラウス「四つの最後の歌」その他、などである。音は気に入らないことが多かったが、演奏内容がすばらしかった。

 話のついで、というより余談だが、上記の体験は70年代以降のことである。最初にクラシックを知った60年代の中頃は、直径17cmLPやフォノシートというものがあった。17cmLPは演奏時間が片面10分程度で、大曲は収まらないが、当時の人気曲、「マドンナの宝石」や「ツィゴイネルワイゼン」やオペラの序曲といったクラシック入門曲を収録するには適していた(30cmLPは片面の収録時間が30分)。17cmではEPレコードというのもあったが、ジュークボックス用に考案されたもので、レコード盤の自動搬送機構のため中央の穴が大きく、ドーナツ盤と呼ばれていた。回転数が45回転と速く、片面に5分程度が限界だったので、主に流行歌に使われた。

 フォノシートは、もっと奇想天外だろう。プラスチックのぺらぺらした白いシートで、片面しか入っていないが、値段は安かった。たぶんプレスが簡単だったのではないかと思う。本の付録などに付いていた。私はこれで「セビリャの理髪師序曲」とか「序曲フィンガルの洞窟」などを知ったのである。柔らかい材質なので、音は良くなかったはずだ。トレースする針に負けて、レコード盤の方が歪むからである。

 レコード盤の細かいぎざぎざを針がトレースするときに起こる現象を考えるには、たとえば櫛の歯を指で撫でてみるといい。櫛の歯は曲がりながら応答する。そうすると、元の波形(つまり櫛の歯形に刻まれた音溝)とは違った波形の応答になる。硬い材質で、たとえば石の表面に細かいぎざぎざがあれば、少しましかも知れないが、針先はそのぎざぎざの奥まできちんとたどるだろうか?ぎざぎざの先端部分にコツコツコツと小さく当たるだけかも知れない。音溝に忠実なトレーシングというのは、カートリッジの針先が刻まれている通りに、溝の底までなぞること(これをコンプライアンスと言った)で、メーカーはそのために奮闘していた。中にはレコードメーカーでも、針先がトレースするときに材質が柔らかいために起きる変形をあらかじめ補正した形に音溝をカッティングしたというものも現れた。針先方向に少し傾けた波形に刻んであったのだ。聴いてみると、別に何の変わったこともなかったが、私より耳のいい人なら違いが分かったのだろう。

 ともかくレコードの再生は難しい要因が多くて、非常に高価なものでなければ完璧な再生はできなかったのだ。ところが、放送局などで使われるプロ用のプレーヤというと、もちろん高価だが、それほど再生性能を追求したものではなかった。それよりも丈夫であるとか、トレーシングが安定しているといったことが重視されていた。カタログ上は、家庭用プレーヤの方が優秀だったのである。ところがスペックでは劣るはずのプロ用のプレーヤの再生音が、実はかなりすごいものだった。堂々たる低域、中音部の充実、高音の輝き。音楽としての実在感が圧倒的だったのだ。当時のマニアは、スペックには目もくれず、プロ用プレーヤに憧れた。プレーヤだけで、一台百万円ぐらいするにもかかわらずだ。

 CDが現れた現在、当時あれこれ思い悩んだのは、一体何のためだったのかと、不思議に思う。DA変換後のアナログ部分はさておき、そこまでの再生波形が原音に忠実に伝えられることは、保証済みだ。針先が音溝をなぞる様子を想像する必要など、全くない。スクラッチ・ノイズもないので、レコード盤の材質について思い悩むこともない。

 もう一つは、ダイナミック・レンジの問題だ。無音溝(音が入っていない溝)でも、カートリッジを落とすと何やらゴーという音がある。これがLPのバックグラウンドで、その上に音が鳴る。最低音量と最大音量の幅は、良くて75db(デシベル)、少し条件が悪ければ60db程度であった。もっとも、住宅環境によっては、真夜中でも環境雑音が大きいので、実質的にはもっとダイナミック・レンジが狭いこともあった。子供の頃聴いていたレコードは、初めからダイナミック・レンジが狭く録音されていたので、最弱音から最強音まで聞き取るのが容易だった。CDのダイナミック・レンジは90dbもある。無音部分は、全く音がない。そこに突然音が鳴る。それがCDの欠点だと言う人さえ出る始末だ。アナログ時代だったら、「何とアリガタイ」と涙に暮れるところなのだが。

 よく考えれば、CDは昔夢に見た性能をほとんど実現している。アナログ時代の小説には、ときどき自動車にLPプレーヤを搭載している場面が登場する。車の振動を考えれば、非常に難しかっただろう。CDなら普通である。20kHzでカットしていることを問題にする人がいるのだが、LPはせいぜい18kHz止まりだった。再生環境(プレーヤの性能や環境ノイズ)を考えれば、それ以下の音しか聞こえないだろう。

 そう言えば、かつてカートリッジメーカーが「周波数特性競争」をしたことがあった。本当の目的はコンプライアンスの向上にあったのだが、カタログ上の数値として、「100kHzまで再生」などというのをうたい文句にしていた。レコードメーカーの技術者が、「100kHzといっても、そもそもレコードに全く入っていないものを」と苦笑していたそうだ。

 このことは別に取り上げる。というのは、この点に大きな誤解が潜んでいるように感じるからだ。アナログ時代の思い出は懐かしいが、だから音楽体験に重要だったとは思えない。先にも述べたように、LPはいつも同じではない。かけるごとに劣化して行く。だから「今の最上の状態を聴いているんだ」と考える。CDのように「明日も明後日も、いつも同じ音なんだ」というのとは、心構えが違っていた。収入に対する価格も高かった。リヒターの「マタイ受難曲」は、月給が数万円程度だったときに、1万円で買った。今は当時の何倍かの収入があるが、同じ商品が輸入盤なら、5千円を切っている。いかに安いか。というより、昔はいかに高価だったか。

 貴重品を貴重な体験として聴く。それこそアナログの魅力なのである。


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