オーディオは迷信だらけ3


昔の音は良かった?

 昔の音は良かった。そういう人もある。私も昔LPで聴いたものがCD復刻されると買い求めて、聴いてがっかりした憶えがいくつかある。

 理由のないことではない。「アナログとディジタル」の項でご紹介したように、マスターテープそのものが若干経年変化する。磁化の反転パターンが密集しているところ(高音部)では、磁気層が互いに打ち消し合って、長い年月の間には磁力が失われて行く。つまり、高音部が減ってしまう。すると、音の色つやが少し褪せることになる。

 子供の頃、ミュンシュ=ボストン響のチャイコフスキー『悲愴』を愛聴していたが、10年以上前にCD復刻されたことがあり(輸入盤)、買い求めたところ、何だか亡霊じみた影の薄い音がしていた。昔聴いた音の雰囲気が全くない。「もう古くなったんだ」と諦めた。ところが、先頃出た復刻盤(国内盤)は、艶も実在感もあり、昔のイメージに近い音がするので驚いた。いかにも古い録音らしく、第一楽章中間のオケの一撃などは音量を絞ってあるので、最近のものを聞いている人には物足りないだろうが、LP時代は確かにこういう音だった。

 私はミュンシュのファンで、ボストン響時代も良かったが、晩年のパリ管の演奏も好きである。ところが、「EMIベスト100シリーズ」で出たパリ管による『幻想交響曲』(ベルリオーズ)は、音が納得できない。ヴァイオリンが上ずって聞こえるのである。かつて安く売られていたF.I.CのCDの方がしっくりしていた。

 余談だが、このF.I.C盤を買ったとき、同時にブラームスの『第一交響曲』も買った。ジャケットには「ボストン響」とあった。それに気付かず、当然パリ管だと思って買ったので、家へ持って帰ってから見直してがっくり。だがまあ一度聴いてみようとかけてみたら、演奏は記憶にあるパリ管と同じだった。念のためEMIの正規盤を買って聴いてみると、やはりパリ管の演奏だ。このF.I.C盤はLPからの復刻と思われ、ほぼ昔の音がしていた。ちなみにブラームスはEMI盤の方がいい音に聞こえる。

 こうした経験をすると、CD復刻といっても、昔と同じ音が聞けるとは限らない。しかし大雑把に言うと、CD復刻は、かなりいいものが多い。CDを初めて買った頃、F=ディースカウとベームによる『マーラー歌曲集』を聞いて、その音のすばらしさに驚いたことがある。総じてグラモフォンのLPは、あまり良い音がしなかった。ヴァイオリンに艶がなく、少し音が重なると薄汚い感じがしたのだ。私の知り合いにも、ベームの『ブラームス交響曲全集』を買ってみたら音が良くなかった、と言っていた人があった。しかし、そのブラームス交響曲全集も、CD復刻されたものはいい音に聞こえる。

 そういうイメージがあるので、「アナログの方が音が良い」と言う人には、全く賛成できないのだ。

 そうは言っても、LPより音の良くないCDが、わずかだが存在することは否定できない。リマスターの際に音域バランスなどに手が加えられ、時には前述のミュンシュの『幻想』のような結果になる。そういえばかつてLPで愛聴したミュンシュ=パリ管のラヴェル(ボレロ、ピアノ協奏曲他:輸入盤)は、CDの音があまり良くは聞こえなかった。ピアノ協奏曲は、LPでは輝きと色彩のある音だったのに、CDでは何だか色がすっかり抜けてしまい、モノクロームだった。もっとも、このCDで初めて聴いた「ボレロ」は、終結部の熱く強烈な盛り上がりに興奮させられたけれども。

 だが、ウェストミンスター室内楽シリーズやヴァンガードの復刻盤のように、明らかにLPを上回る音の聞けるものもある。ウェストミンスターのシューベルト『弦楽五重奏曲』など、昔LPで聞いていたときは全体に弱々しい感じで、情感があるのはいいけれども、今一歩のところがあった。ところが、CD復刻盤は強靱な音で、まるで録音現場に立ち会っているような迫力がある。演奏イメージまで変わってしまったが、断然こちらが本物だと思わせる音だった。

 昔の音は良かった、というのは、必ずしもウソとは言えない。私も昔は貧弱な一体型のレコードプレーヤでいろいろな曲を聴き、その音はまだ記憶に残っている。それは憧れの色を帯びており、音楽の世界を大きく開いてくれた夢の音である。付いていたアンプの回路も真空管1本か2本と簡単で、確か出力は1W程度、スピーカーも6cm程度であった。高音も低音も出なかったはずだが、それで聴く音楽は壮大で美麗だった。

 音の良し悪しは、想像力で決まるのだろう。感動した曲なら、いろいろな演奏を聴いてみたいと思う。かつてブルックナーの『第7』をシューリヒトのLPで聴き、非常に感動した。現在も手元に何種類もの『第7』を置いている。なぜいくつも聴きたいかというと、実はもうシューリヒトを繰り返し聞いても、最初の感動がないのである。平たく言えば「飽きた」のである。ところが以前は避けていたカラヤンやワルターで聴くと、また新たな感動がよみがえる。そこに青春の日々の思いを甦らせてくれるものがあるのかも知れない。

 チェーホフの戯曲『かもめ』でヒロインが青春時代を回想して言う「ねえ、あの頃はいい時代でしたわねえ。優しくて、しおらしくて、みんなが勝手に不相応な夢を見ていた、本当にいい時代でしたわねえ」という言葉そのままだ。

 昔の音というのは、初恋の思い出に似ている。初恋というのは子供時代に幼稚園の先生が好きだった、などということではない。思春期に入って、同級生が好きになる。これからは彼女のために生きよう、彼女と二人でどこか究極の世界に行きたいと思う。だがそれがどんな世界なのか、自分は知らない。「初恋はなぜあれほど強烈なのか」と尋ねられて、ある精神科医が答えた。「そりゃ、初めてだからですよ」。「初めて」が2回も3回もあることはない。発達心理学の立場からいうと、初恋というのは、初めて世界の前に個人として立つ。世界を自分の前で再構築する。おそれと憧れの中で幼児期を脱するのだ。そのとき、すでに親の庇護下にはない(幼稚園児の「初恋」は初恋ではないというのは、その意味である)。

 音楽を初めて知る。そのとき、自分の中にあった全感覚が、再構成される。私は何となく音楽に親しんだわけではなく、クラシック音楽に出会うまでは、むしろ音楽嫌いだった。それまでは、学校で教えられる唱歌とか、ラジオから流れる「歌謡曲」のようなものしか知らなかった。知っているだけで、何か追求したいと思うような対象ではなかったのだ。だがある日兄が口ずさむ「白鳥の湖」のメロディを聴いたとたん、世界がすっかり変わってしまった。自分の持つ全感覚が、音楽の方に向く。それまで聞き逃していた音が耳に入ってくる。新たな価値観の下に世界を再構成していたのだ。

 それまでも、何か音楽的な資質があったかも知れないが、よく分からない。はっきりしているのは、幼児期から長調と短調の違いだけは本能的に判別していたことだ。なぜか概して短調の方が好きだったからだ。クラシック音楽の場合、主調は長調でも、途中には幾度か短調の部分があるし、短調の曲にも長調の部分が出てくる。聴きながら、「ほら、ここが短調、ここは長調」と言っても、私よりはるかに音楽に詳しいはずの兄にはそれが分からない。自然に、音楽の聴き取りは私の方が得意になった。

 後に、あるピアニストがフィンランドで暮らしていたところ、しきりに「短調の曲を弾け、短調の曲を弾け」と言われて、「短調ノイローゼになってしまった」という文章を読んだが、フィンランド人だけでなく、実は日本人もどちらかと言えば短調好みの民族だそうだ。「妻を娶らば才長けて」という歌など、元々は長調のメロディだったという。それがいつの間にか短調で歌われるようになった。ちなみに階名で言うと、「↓ソ↓ソドーレミレドレミミーソードレー」なら長調で、「ミミラー↑ドシラーシ↑ド↑ド↑ミーラシー」なら短調である(↓ソはオクターブ下、↑ドなどはオクターブ上)。調は多分ハ短調付近だろう。ここに書いた長調のメロディで、ミの音を半音下げればハ短調になる。

 ともあれ「昔の音は良かった」というのは、「音楽との出会い」と「音との出会い」を混同しているところがある。貧弱な音でも、音楽への「初恋」があったなら、それはすばらしい体験であり、すばらしい音だったことになる。そのレコードをもっといい音で聴きたいと思うのは、恋人の欠点が目につき始めたからかも知れない。

 おそらく、昔は良かったと思う人でも、その後あれこれと装置に改良を加えたり、コンポーネントを入れ替えたりして、昔の音から遠ざかってしまった。なぜ音を変えたいと思ったのか。ステレオが普及し始めると、友人の家や名曲喫茶など、いろいろな場所で音楽に触れる。それぞれに少し違った音がしていた。名曲喫茶は店が所有しているレコードをかけて聴かせるのだが、客の中には、良い音がすると思うと、レコードを持参して「これをかけてくれ」とリクエストすることもあったそうだ。

 聞き慣れたレコードを違った音で聴いてみたいというのは、飽きが来ているからである。聴くたびに新鮮な驚きを味わうことは難しい。レコードはかけるたびに劣化することはあっても、大切に扱えば、いつも大体同じ音がする。ほとんど全曲憶えてしまうほど聞き込めば、もう新鮮さはない。その曲との初めての出会いをもう一度体験したいという欲求があるから、いろいろな音で聴いてみたい、別の演奏も聴きたいと思うようになるのだ。

 なお厳密に言うと、初めて聴いたときが初めての出会いとは限らない。私の場合、二度目か三度目に聴いたときに初めて感動したことが多い。ブルックナーの『第7』などは、シューリヒトのレコードを数回聴いても分からず、ラジオ放送で他の演奏を聴いた後、初めて分かるようになった。

 音とは無関係なようだが、音楽を理解するということは、言語を理解するのに似たところがある。聞き慣れない音楽語法を習得する必要があるのだ。ポップス曲がヒットする要因の一つに、「今までの曲に似たところがある」という項目があるそうだ。どの曲とも全く似ていない、全く新しい曲というのは、よく理解できない。かといって、あまりにも紋切型の曲では魅力に乏しい。その中間のところに、ヒットする曲ができる。ベートーヴェンは中期に入ると突然それまで全く聴かれなかったようなメロディを書き始めたが、ドイツ民謡や狩の角笛の節回しには似たところがあった。そういう耳馴染みのいい要素がなかったら、ベートーヴェンも忘れられ、歴史の闇に消えてしまったはずだ。

 だから新しい歌を「新しすぎて大衆には分かりにくいが、ぜひ流行らせたい」と思えば、レコード会社は大々的なキャンペーンを張って、放送で繰り返し聞かせる。ややなじんだ頃には流行り始める可能性がある。クラシックは分からないという人は、実はこの音楽語法を獲得するまで聴いていないだけである。ただし、「試しに聴いてみるか」と思ってやみくもにいろいろ聞いても、余計分からなくなるだけだ。「名曲」というものはそのためにある。一通り音楽を聴いてきた人が、感動保証付きの曲を、聞き所の案内付きで紹介してくれる。研究家でもない限り、駄作をいくら聴いても時間の無駄だから、アリガタイことである。曲によっては「何だか、聞いた話と印象が違うなあ」ということも少なくないが、おおむね妥当な紹介が成されている。

 いつも疑問に思うのは、フルトヴェングラーやクナッパーツブッシュといった過去の巨匠を神格化して、中には「クナがやればJ.シュトラウスのワルツもブラームスのように変身する」とまで思っている人があることだ。J.シュトラウスの音楽は基本的にカフェなどで演奏されていた軽音楽であり、強烈な情動や瞑想は、表現意図に含まれていない。巨匠愛好癖の人々が、彼らの遺した録音ばかり聴いていて、そのレパートリーになかった曲、たとえばショスタコーヴィチやヤナーチェクに関心を持たないとすれば、残念なことである。どんな巨匠も、トスカニーニが言ったように「一介の楽師」であって、誠実な演奏家であれば、作曲家の意図を伝えることに努めているのである。誤った信仰から、名演奏家でさえあれば、駄作も名曲になるとは思わない方がいい。

 もちろん例外はある。たとえばエルガーの『チェロ協奏曲』は、今でもそれほどの大傑作だとは思わないが、ジャクリーヌ・デュ・プレ(オケはバルビローリ)の演奏で聴くと、「これがあの曲か」と見まごうばかりの大名曲になっていた。エルガーの作品はあまり表出力がないので、弱く聞こえてしまうことが多い。ジャクリーヌの希有の天才がそれを最大限に引き出したのだろう。その彼女の演奏もすべてが名演というわけには行かない。

[ブラインド・テストは信用できるか]

 これもだいぶ昔の話だが、あるオーディオ雑誌が、アンプの試聴をダブル・ブラインド方式で実施したことがある。かなり低価格のアンプから超高級アンプまで、さまざまなプリメイン・アンプを鳴き合わせて、どれが良いか悪いかを採点させるのである。試聴したのは有名なオーディオ評論家たちで、日頃はそこにも並んだ超高級アンプのどれかを愛用している。もちろん、どのアンプが鳴っているのか分からないように、薄いカーテンを前に垂らしておいたのである。

 結果はさんざんだった。いつも愛用しているアンプの音を「見せかけだけのニセモノ」と断じた人もいたし、日頃は見向きもしないような一番安いアンプを「これはすばらしい」と絶賛した人も多かった。中に一人だけ、自分の愛用しているアンプを当てた人がいて、試聴会の後の座談会では鼻高々な発言をしていたが、その人も他のアンプでは、どれが高級品か安物か全く分からず、バラバラな評価をしていた。トータルの集計では、確か一番安いアンプが最高クラスの評価を受けていたように記憶している。

 座談会では、「せめてどのアンプが鳴っているのか、顔だけでも見せて欲しかった」と言った評論家がいたが、顔を見ればどのアンプか分かるから、ブラインド・テストにならない。結局、ほとんどのオーディオ評論家たちが恥をかかされたような結果になったためか、その後同様の企画は行われていないようだ。

 これで分かったことは、アンプによる音の差は微妙なもので、値段の差に比例するものではないこと。数万円のアンプと、100万円以上するアンプとの差も、ごくわずかなものなのである。

 また、「当ててやろう」と意気込んで聞くのと、自宅の居心地の良い居間で、くつろいだ気分で聞くのとでは、違って聞こえていた可能性があることだ。当ててやろうというのは、神経がぴりぴりした状態である。

 アンプの顔も、そういう意味では音に無関係ではない。いかにも安物の顔をしたアンプでは、素人でも良い音がしそうな気がしないだろう。中身は立派でも、安いアンプでは、筐体などを安価に仕上げてあるので、あまり立派な外観というわけには行かないのだ。

 くつろいで聞くと良い音に聞こえるというのは、心理的効果と言えばその通りである。しかしリラックスした気分で聞けないので、普段愛用している機器の音が違って聞こえたというのでは、また逆の意味での心理的効果があったという感じがする。

 この「ブラインド・テスト」の問題点は、知らず知らずのうちに、アンプのテストでなく、評論家たちの耳のテストになってしまっていたことにある。一番安いアンプが最高評価であっても、記事を読んだ人たちには、その機種が良い音だというより、それを当てられなかった評論家の耳が悪いように読めたはずだ。それは全く目的外の判断である。目隠し状態で彼らが良い音だと言ったなら、それを受け入れるべきだった。ただ評論家たちの普段行っている製品評価を見ると、値段に比例した評価をしていることは否定できない。オーディオ評論家は、耳の良し悪しでその名乗りを上げていると言うよりも、多くは単にハイエンド・ユーザーに過ぎないのだから、どうにも仕方がない。

 では、本当のブラインド・テストはどうやるべきなのかと言えば、そんな方法はないと答えるしかない。これがたとえば「超音波帯域まで録音された音を聞けば、脳波が異常になる」という意味のテストだったら、ダブル・ブラインドで十分だ。生理的効果を測定していることになるから(私はそんな効果はないはずだと思っているが)。

 しかし、耳で聞いて「良い、悪い」と言っているのでは、そもそも客観的な何かを測定していることにはならないだろう。単に試聴者の印象を語ったに過ぎないのだ。印象というのは、対象から受ける心理的効果である。だから「良い」と言っても、そこには様々な含みがある。値段や外観が立派なのもその一つであり、見た目に立派だという印象は強い心理的効果として働くはずだ。超高級アンプともなれば、実際の音はどうあれ、外観から来る満足感も味わいながら聴くのが普通である。それを取り除いて純粋に音の評価をすることは非常に難しいし、取り除くための工夫自体が余計な要因になりかねない。

 ある人は、「重量のある商品は良い音がする」と言った。これは全く客観的な基準でもあるし、無意味でもなかった。昔のアンプは、電源部に余裕があると、音の安定感や余裕感が出ると言われていたのである。電源を強化しようとするとトランスを大きくすることになって、必然的に重量が増す。スピーカーではもっと極端で、貧弱な箱にユニットを入れてあれば、振動板が動くときに箱が反作用で逆方向に動き、出てくる音は弱くなってしまう。だからいわゆる「腰の弱い」音になる可能性がある。音の腰というのは、たぶん100Hzから200Hz程度の中低音域のことだ。ほぼチェロのC,G弦に相当する音域だ。この付近がしっかり再現されれば、芯のある音になる傾向がある(あくまで全体のバランスだが)。なお真空管アンプは電源トランスの他に出力トランスがあったので、重量は当然大きく、この限りではない。

 最近のいわゆるディジタル・アンプも、この公式に当てはまらない。電力効率が高く、比較的簡略な電源でも大出力が得られるし、音もいいという。私は聴いていないからあまり無責任なことは書けないが、真空管アンプを愛好し、自作していた人が、ディジタル・アンプにしたら想像以上に良かったそうだ。いずれにせよ、先に挙げたブラインド・テストの結果から見ると、アンプによる音の差はそれほど大きくなく、物理特性が満たされてさえいれば、ちゃんとした音が再生できるらしい。

 そう言えば、ある雑誌がディジタル・アンプとアナログ・アンプのブラインド・テストを行ったこともある。結論を言うと、両者をブラインドで聞き分けるのは非常に難しいようだ。確か「最高のアナログ・アンプ」と評価されたのが、実はディジタル・アンプだった。ただ、電源部の品質は、アナログ以上に音に影響するのではないかという気がする。

 私も初期のトランジスタ・アンプの音が嫌いで、目で見なくても真空管の音かどうか分かったという記憶があるので(トランジスタは例外なく軽石の表面のようにざらついて色彩に欠け、真空管では瑪瑙の表面のようになめらかでみずみずしく、色彩感も豊かな音がした)、ブラインド・テストが全く無意味とは思わない。しかし私が聴いてはっきり分かる音の違いが、他の大部分の人には分からなかったという事実がある。準コンプリメンタリの時代で、純コンプリメンタリが登場した70年以降のアンプは、あまり真空管と差がなかった。両回路方式で物理特性に違いがあるらしいが、聴感との相関は分からない。調べてみると、歪み率特性などは、むしろ準コンプリメンタリ回路の方が真空管に似通っているのである。私には高調波歪みが乗っているというより、鳴っている音とは無関係な、微細なノイズがランダムに発生しているように聞こえた(ちなみに、こういう音はまだ消滅したわけでなく、安物のカーステレオなどで聴くことができる)。

 そういうことがあったため、CD時代になると、友人は私の耳にディジタル音は合わないのではないかと想像したようだ。トランジスタが登場→耳慣れない→嫌いな音、と考えたのだ。だからディジタルが登場→耳慣れない→嫌いな音、という図式になる。だがCDは、私には非常にいい音に聞こえた。最高級のレコードプレーヤでも、アナログではこれだけの音は出せないだろうと思った。

 何しろ、LPでは不可避だったトレーシングに伴う歪み要因が、全く存在しないのである。もちろん、かつて悩まされた回転ムラや偏心による音の揺れもない。携帯型のCDプレーヤを持っている人も、ディジタル出力があれば、まともなアンプにつないでみて欲しい。立派な音がするはずだ(アナログ出力はあまり良くないと思う)。

 こういう経験をすると、人は音の良し悪しを純然たる聴感より、先入観で決めるものだということがよく分かる。これは「天然物質=安全、合成物質=危険」といった図式と似ている。実際はそういうものでなく、天然物質に危険なものは多い。むしろ合成物質の方が安全性は高いものだ。「化学肥料を使っていないから安全です」と言われるとそうかなと思う。だが実際はそうではない。天然肥料は、ヒ素、鉛などを含む確率が高い。これらの元素は天然の土の中に存在している。

 昔の合成食塩には、電気分解工程に伴う微量の水銀が残留していたことがあり、「合成は恐い」という先入観を植え付けた側面がある。しかしそれ以上に、多くの人にとって「化学物質への恐れ」は、化学に対する無知から来ていることが多い。私はよく言うのだが、現代人にとっての化学は、まだ得体の知れない錬金術とあまり変わりない。硫酸と聞くと何だか恐い感じがあるかも知れないが、実際には、硫酸根は塩として至る所にあり、われわれは日常的に接している。体内にも存在して、汗にも含まれている。

 ディジタル音と言えば「不自然な音」と考えるのは当然かも知れないが、そうではない。他のところで気温観測に百葉箱の中の温度計を一定時間ごとに観測する、という例を挙げたが、そういう観測の仕方は極めて自然である。もっと細かく記録したいと思うのも当然かも知れないが、百葉箱の扉を開けた瞬間の温度変化などを記録したところで、何の益があろう。そこまで知りたいなら、自記記録式温度計にすると良いわけだ。自記記録式温度計はペンで線を描く。その線は、ペンの太さより小さい振幅の波形を描くには適していない。人間の感覚は、そういう「ぶれ」を本能的に無視する。波形の細かいギザギザを無視してなめらかな曲線で結ぶのは、高い周波数成分をカットするのに相当する。それがフィルタリングである。

 ペン先がうんと細ければ、普通のペンより小さな振動が検出できる。たとえば、波形グラフの最大振幅が±30cmとすると、そのグラフを描く線の上下の幅は、CDでは0.01mm程度になる。顕微鏡的細かさだ。アナログの場合は線幅がもっと太くなり、最良でも0.1mmぐらいだろう。線が太いというのは、信号にあいまいさがあることで、±0.1mmより細かい振動は、判別できない。これがアナログとディジタルの違いの一つである。微細で正確というのは、それだけ原信号に忠実なのである。

 いずれにせよ、新しい技術だからといって、別に突飛な音がするわけではない。ましてや音を聴いただけで脳波が変テコになったなどということは、まずありそうにない。

 昔、ある映画に瞬間的な映像を混入して商品を宣伝するという話が、いかにももっともらしく語られたことがあった。映画館の売店に置いてある飲料だか菓子だかの映像を、映画の1秒24コマの中に1コマだけ、ただし何度か繰り返して観客に見せたところ、その商品の売り上げが上がった、というのである。識閾下(サブリミナル)の映像ともいう。識閾下というのは、明瞭に意識できる限界以下という意味である。「刑事コロンボ」でも取り上げられていた。ほとんど見えていないにもかかわらず、そうした映像は無意識のレベルに刷り込まれ、後催眠状態に似た行動を引き起こす。この宣伝手法はナチスの宣伝のように、非人道的な目的に使われかねないというので、法的には禁止されることになった。

 ところが、これは真っ赤な作り話の疑いが高いという。何度か追試され、最初に報告されたような効果は確認できないそうだ。

 それでも、一度聴かされた話は簡単には忘れられない。超音波説のヨタ話も、この識閾下の映像に似ている。ありもしない効果だと証明されても、実際にはあるのじゃないか、自分は常人よりも聴覚が鋭敏なのじゃないか、何か不思議な体験ができるのじゃないか。そういう期待から、話がふくらまされて伝わっていく。その意味ではまた、UFOや超常現象にも共通する。目撃者は「ボクは確かに見たんだ」と言うが、何の証拠もない。それは「ボクにはこちらの方がいい音に聞こえる」と言っても、物理的差異はどこにもない、なぜそう聞こえるかは分からないというのに似ている。

 事実音が良かったというなら、それはそれでよい。問題はそれが何か科学的な事実であるかのように主張することにある。科学的事実は追試したり検証できる形で提示されるべきだ。誰かが何かを主張するなら、一度目撃した、私は体験したというのでなく、同じ条件下では全員が見ることができ、体験できるということが必要だ。

 検証するというのは、みんなで「見た、見た」と口を揃えることではない。反証できる可能性が必要である。「ボクは見た」と言う人に「ボクは見なかった」と言っても、それは単に独立した別々の主張であって、反証ではない。「本当に見たのか?勘違いじゃないのか?」と疑念を差し挟んでも、反証にはなっていない。本当の反証とは「目撃したはずはない」と証明することだ。しかし、「現に見たんだ」と言う人に、そんな反証を与えることはできない。過ぎ去った一回切りの、個人的な体験談だからだ。反証が挙げられる問題ならば、反・反証も挙げられる可能性があり、かくして議論は前に進むことができる。反証可能性のない単なる目撃情報について議論しても、何の成果も上がらないのが普通だろう。

 評論家たちはアンプやスピーカーの音質についてほぼ価格に比例した評価を下し、超高級品なら「特選品」に選んで、言葉を尽くして絶賛する。実際いい音に聞こえたんだからしようがない。ところが前記のように、ブラインド・テストで価格という判断基準をなくすと、とたんにバラバラな評価になる。そのとき彼らが評価基準にしようとしたのは、実際に聞こえている音であって、オルガンや木管楽器など、特定の楽器を取り上げて、より解析的に議論する。その方が正しいようにも思える。普段はもっと漠然とした印象レポートを書いているのだ。しかし、そういう条件下ではスピーカーが一機種に限定されるわけで、音に集中すればスピーカーの音質を聞き込んでいる可能性もあるだろう。

 本来、最も良い音は生の音であって、それ以上でもそれ以下でもない。生の音以上に良いという音がどんな音か知らないが、オーディオ評論家たちの中には、それを公言する人もいる。生の音以上に「音楽」を伝えるというのだ。そういう人はどれだけ音楽を知っているのか?「レコード芸術」誌で長らく録音評欄を担当していた高城重躬(たかじょう・しげみ)氏は原音再生派(生の音が最高という主義)だったが、ピアノがお上手だったそうで、楽譜も読めるし、記事内容からすると、どうやら絶対音感もあったのではないかと思われる。

 だが当時から「どうせ原音再生などできっこない。いかに原音らしく聴かせるかが問題」といういわゆる「音の化粧派」もいた。ある海外の録音技術者がやはりそういう「音の化粧派」だったが、来日した折り、高城氏がすごいシステムを組んでいるというので、聴きに行ったことがあるそうだ。結局その技術者のオーディオ観が変わってしまった、というエピソードがある。

 「音の化粧派」というのは、この録音技術者と同じく、当時(アナログ・ディスク時代)の技術的限界を知り、「どうせ原音再生なんてできっこない」という主義である。高城氏は技術的限界で原音再生ができないなら、少しでもその限界を破って原音に近づけるべきだと思っていたはずである。

 ところが、日本では「音の化粧派」の主張は、「原音以上に良い音をつくるべき」という考え方のように受け取られた。「音の化粧派」の代表格はやはり故人になってしまったが、瀬川冬樹氏だった。「原音とは違うかも知れないけれども、聴いて心地良い。それが良い音だ」と言う。「原音再生派」の方が当然技術に凝り固まっていて、「音の化粧派」はもっぱら音楽を論じているものと思ったが、実際はそうでもない。瀬川氏はもっぱら音の良し悪しを論じていた。どういう音楽を愛されたのか、今でもよく分からない。おそらく機種によってそれぞれ個性的な音が出る、そういう状況を「音の楽園」として愛されていたのだろう。

 最近は「音の化粧派」とも一線を画した、音の快楽派とでも呼ぶべき評論家が多いように思う。これも昔のアナログ時代のことだが、当時分かりやすいオーディオ評を書いて結構人気のあったある評論家が、友人の家を訪問して、その装置の音を聴いたレポートが出たことがある。その時聴いたのはモーツァルトの『レクィエム』だった。文章を読んでいると、その評論家はこれほどの超有名曲なのに、ほとんど聴いたことがなかったようである。「音楽はあまり良く分からないが、それでもジュスマイヤーが書き継いだ部分を過ぎると、とたんに集中力がなくなって」という意味の文章があった。最高の天才の音楽か、二流の作曲家の作品かは、自分の鑑賞能力があれば、音だけ聴いて自動的に分かると言いたかったらしい。

 アホかいな。ジュスマイヤーが後半を作るときには、モーツァルトのそれまでの素材やスケッチを元にしたのだから、全然違う音楽というわけではない。モーツァルトだったらここでもっと新しいアイデアを出したはずと思う場面でも何も出て来ないので、退屈にはなる。コピーペーストでまとめてあるからだ。しかし、ジュスマイヤーとしては最善の仕事をしており、初めて聞いた人に「前半は良い音楽だったが、後半はヘチョイ音楽だった」などと判断することは不可能だと思う。たぶんその評論家氏は、「ここからは弟子のジュスマイヤーが書き継いだ」と聞いたとたんに、自分が集中力をなくしただけのことであろう。

 私が「音の快楽派」というのは、音楽が好きなわけでも技術に詳しいわけでもなく、装置が変われば音も少し違って聞こえるという、そのこと自体を愉しんでいる人たちである。原音再生派というのはそうでなく、「真実はただ一つ」といった考え方で、装置によって音が違うなら、それは何か技術的な欠陥なり、情報の欠落が存在することを意味する。

 私は原音再生派にごく近い立場なのだが、録音物にはある程度化粧派の考え方が反映していることを否定するものではない。市販される録音物では、平均的な家庭における再生装置の性能を考慮する必要があるはずだ。エジソンの蝋管蓄音機は高音部が弱く入り、「サシスセソ」の音が不明瞭だった。そのため、歌手は「サシスセソ」を強く発音する必要があったそうだ。そうなると原音再生(真の生の演奏の再現)という前提は、録音現場においてすでに違ったものになっていた。電気録音が始まってからは機器の性能も発達し、さすがにそういうことはなくなったが、LP片面の演奏時間(約30分)に収めようと、普段よりテンポを速くしたり、一部カットしたという例はあったようだ。

 とにかく比較的貧弱な再生条件でも、原音に近いイメージが得られるように細工するのは、理由のないことではないし、必ずしも悪とは言えない。録音技術者が「音に化粧を施す」というのは、そういう意味もあるのだ。

 また「原音」についての捉え方の違いもあり、オーケストラ録音では管楽器、弦楽器それぞれに最適なマイクロフォンを配置して、全奏でも各楽器の音がくっきり立って聞こえるようにしたものもあれば、客席で聴くような渾然一体となった音を目指したものもある。

 録音物がそういうものなら、その再生には、極端に言うと音盤一つ一つについて、最適条件を選択する必要があると思う。ブラインド・テストでは自由度が小さく、そうした調整ができないことも問題点の一つだろう。

 結論を述べると、音の良し悪しについては、一つの判定方法だけで決定することは困難であり、ごく平凡だが、自分で聴いて確かめるという方法が最も確実なようである。後悔しないためには、やたらな俗説に踊らされず、自分のお気に入りの録音物のイメージが十分に再現されるかどうかを確かめることであろう。むやみに高価な製品を買い、高品質ケーブルなどにお金を費やすのは、全くのムダだと考える。と言っても、そうしたモノで心理的な満足感が得られるなら、それなりの意義はあるから、頭から否定はしない。ただそうした俗説に対し、確たる測定結果もなく野放しにして、ムダなことを承知しながら便乗しようとするメーカーの姿勢にも、問題がありそうだ。


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