このページの主な話題
シベリウスの沈黙
シベリウスの交響曲
交響詩『エン・サガ』
交響詩『ポヒョラの娘』
『春の歌』
メリザンドの死
組曲『カレリア』




































































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シベリウス


シベリウス(1865−1957)
(画像はWikipediaからいただきました)
 昔、テレビで日フィルの演奏を放映する定時番組があった。当時の常任指揮者は渡邊暁雄で、シベリウスを得意としていた。私はこの番組で『交響曲第二番』を知ったのである。確か晩年のフリッツ・ライナーの指揮する姿もこの番組で見たと思うのだが、記憶違いかも知れない。

 シベリウスは高齢になるまで生きていたが、1930年頃以降は全く作品を発表していない。「謎の沈黙」と言われるが、八番目の交響曲の作曲を続けていたらしい。ある人は、シベリウスがピアノで第8交響曲を弾くのを聴いたと証言しており、遺稿の中には楽譜があったとも言われているが、公開されていない。おそらくシベリウス自身が発表を拒んだのだろう。彼は晩年自己批判傾向が強くなり、「交響曲第八番は何度も完成したが、一度は草稿を燃やしてしまった」という。


<シベリウスの沈黙>

 彼の沈黙はどういう性質のものであったのか?『沈黙」と言えば維摩詰(ゆいまぎつ:ヴィマラキールティ)の沈黙が有名だ。「維摩の一黙、雷の如し」の維摩である。『維摩経』は大乗仏典の一つで、非常に重要視されているが、中身はかなり奇妙なものだ。維摩詰は知性に優れた在家信者で、かねがねブッダの高弟や菩薩たちも一目置いていたが、彼が病気だというので文殊菩薩が見舞いに行く。そこで維摩詰と菩薩の対話が行われ、彼がすでに悟りの境地に達していることが明らかになる。その境地の究極の表現が「沈黙」であった。

 この経典は、在家信者がブッダの下で修行している出家信者以上の境地に達しているという物語で、本来の仏教の方法論を否定している。キリストは「私が平和をもたらすために来たと思うな。かえって不和をもたらし、人をその父母から分かつために来たのである」と言った。シッダールタも、同じように、「悟りを求めるなら出家せよ(家族から別れよ)」と言った。

 だがおそらく大乗仏教成立時には、在家信者を増やす必要があったと思われる。信者を増やすと言っても、全員が出家したら、教団を養う者はいなくなる。一方、出家しない限り悟りも開けず、救いもないなら、在家信者になるメリットはない。シッダールタが彼の教えを創唱した頃は、小さな教団に過ぎなかった(実態は後代のギリシャ的な哲学の一学派であり、宗教ではなかった)から良かったのだが、アショーカ王による国教化とその後の危機を経て、仏教は大きく揺らいでいた。

 話を元に戻すと、「『完全に』語るためには沈黙のみが有効」とか、ヴィトゲンシュタイン的な「語り得ぬことについては、人は沈黙せねばならない」という意味の(論理的・意識的)沈黙だったのかどうか、ということである。

 言葉が人に情報を伝えるものであるなら、「世界はAであって非Aではない」などという「分析的言辞」を重視することになる。だが「世界はAであると同時に非Aであることができる」と考えるなら、言葉は否定されることになる。「Aであるならば非Aではない」というのは「論理」の出発点であり、それを否定すれば、何事も語り得ないからである。

 だが言葉による情報伝達をすべて否定しても、「あっ!」とか「えっ?」といった、言わば感嘆詞のようなものは残るかも知れない。それだけが悟りに際して発語できるという考え方もある。バラモンの経典にも、『ブラフマンが顕現するのは稲妻が光るのに似ている。人はただ、その瞬間「あー」と嘆ずるだけである(つまり、理性の言語によって説明することは不可能である)』と述べる。(筑摩書房「世界文学大系」第四巻『インド集』70ページの大意)

 交響詩『タピオラ』では、音楽は奥深い森に消えて行く。シベリウスには、それ以上書くべきものが見えなかったのかも知れない。

 またあるとき、私は彼のある曲を聴いていて、「歌のない曲」と感じたことがある。本来声楽パートがあって然るべき曲なのに、なぜかそれがない。いわばカラオケのような作品だ。あるいは彼は初期の『クレルヴォ交響曲』のような、大規模な声楽付き交響曲を構想していて、適当な題材を見つけることができなかったのではないか?「沈黙」は、言葉が見つからないということでもある。

 まあ、無用な想像はやめておこう。とにかく彼は沈黙した。交響曲第八番の楽譜が残っていたとしても、すでに老齢に達した私が耳にすることはないだろう。


<シベリウスの交響曲>

 シベリウスの交響曲は、『クレルヴォ』を含めると8曲ある。交響曲は創作の中心だっただろう。だが実際の作品目録は交響詩や歌曲の比重が大きく、彼の創作動機がどちらかと言えば文学的なものだったことが示唆される。

 私は数種の交響曲/管弦楽曲集を所有している。内訳は以下のようなものだ。
演奏
録音年
ベルグルンド/ヘルシンキ・フィル
84-87
C.デイヴィス/ロンドン響
92-94
ヴァンスカ/ラハティ響
96-97
バルビローリ/ハレ管
66-70
 ベルグルンド/ヘルシンキにはアナログ録音もあるが、解釈にはほとんど変化がないので、ここではディジタルによる二度目の録音を挙げておく。コリン・デイヴィスは、昔ボストン響で全集を録音していて、なかなかすばらしかった。ロン響盤はテンポが全体に遅く、かつてのスポーティな青年イメージはない。ヴァンスカは2006年に出た『エッセンシャル・シベリウス』というセットに含まれている。交響詩などには演奏者にヤルヴィも名を連ねている。解説書には日本語訳も付いていた。バルビローリはやや古いアナログ録音だが、今も傾聴に値する名演奏だと思う。


交響詩『エン・サガ(伝説)』
 比較的若い頃の作品だが、半音階下降に彩られた固執主題は、ほとんど麻薬的な魅力を持っている。フルトヴェングラーは、シベリウスの作品では、これだけを演奏したそうだ。その録音も聴いたことがあるが、意外にもオケのコントロールが効いた精妙な表現だった。

 ベルグルンド。現代の標準的演奏と言うべきである。このセットには組曲『恋人』が入っていないのが残念。

 デイヴィス。テンポが遅いと感じられるが、エネルギーが不足しているわけではないので、これはこれで納得できる。ただ私には少し無彩色に聞こえる。最後は夜の彼方に消えていく感じでなく、昼間の薄暗がりに引っ込んで行くように聞こえるのである。ボストン響の録音は、もう少し色彩感があったように思う。

 ヴァンスカ。デイヴィスと同じくらいに遅いテンポである。演奏は申し分ないし、録音がすごくいいように聞こえる。真っ暗な闇に鋭い輪郭を持った音が立ち並ぶ。神秘の彼方からやって来て、また消え去って行く音の物語が聴けて、魅力一杯のCDだ。

 バルビローリ盤には、『エン・サガ』は入っていない。

 カラヤン/ベルリン・フィル。76年のEMI盤である。北欧やイギリスの演奏家とは違うテンポ変化があり、身振りの大きい表現である。あまりドイツ音楽流のドラマはない曲だと思うのだが、何が何でもドラマに仕立てようとしている。そのため、他の演奏にはない表情になる部分があり、興味深い。


交響詩『ポヒョラの娘』
 曲名は、昔は『ポポヨラの娘』などと言っていたことがある。昔パイというレコード会社がバルビローリの古い録音を出していたが、カッティング・レヴェル(音量)が低く、ピアニッシモはほとんど聴き取れない。だが中間部の金管の強奏による、ポヒョラの娘出現場面は鮮やかな印象を残した。トランペットが高音でけたたましく鳴るのでなく、ずっくりした中音部での合奏で、あまり華やかな音を好まなかったらしいシベリウスの、面目躍如たるすばらしいクライマックスである。

 そう言えば、シベリウスには中間部にクライマックスがあり、終結部では一つ一つ火種を消して行くように消えて行く構成が多い。その最後は永久の沈黙に至る。そう考えると、彼の作曲活動にも重なるところがある。もしかすると彼の「沈黙」は、その音楽と不可分に結びついていたのかも知れない。

 ベルグルンド。『伝説』と同じようなことが言える。やはり過不足のない十全な演奏で、曲の魅力はたっぷり楽しめる。

 デイヴィス。やはり『伝説』の表現に似ている。それなりの聴き応えはあるが、少し陰影感と色彩に乏しく聞こえる。

 ヴァンスカ。これはやはり最上級の演奏である。やや青白い幻想的な音で描かれる。

 バルビローリ。やや古いアナログ録音だけあって、最弱音は大きめに、最強音は抑え気味に入っている。最近の録音に比べるとダイナミック・レンジが狭いのだが、SN比の良くない聴取環境でも聞きやすい。親密な気分に溢れた演奏である。


『春の歌』
 手持ちの録音はベルグルンド盤しかなく、あまり人気のある曲とは言えないようだ。交響詩とも何とも分類しがたい作品である。三省堂の『クラシック音楽作品名辞典』では「即興曲」となっている。北国の春の訪れを描いた曲で、シベリウスらしいほの暗い音色で、春の喜びが控えめに、かつ地味に歌われる。

 主題は、シベリウスの作品でも、最も息の長い部類に属するだろう。主調は長調であるが、このメロディの中にかなりの短調部分がが混入していて、春と言っても、きらきら輝くようなものでなく、もの悲しい雰囲気が漂っている。高山植物が儚げに咲いている気分、というところだろうか。

 最終部では鐘の音が鳴り渡り、「今春が来た!」と高らかに宣言しているようだが、全体のほの暗さは如何ともしがたい。シベリウス好きにとっては、心惹かれる曲であろう。ベルグルンドの演奏は申し分ないものだ。


組曲『ペレアスとメリザンド』〜メリザンドの死
 この組曲(全9曲)は劇音楽からの編集版である。フォーレにも同名の作品があるが、そちらは透明で繊細な描写だ。シベリウスの曲は冒頭からほの暗い音楽で、メリザンドは物憂く儚げに描かれる。

 最後の『メリザンドの死』は非常に哀しい音楽である。途中で最強音になるが、この部分は口惜しい気持ちを爆発させているように聞こえる。

 ベルグルンドは全9曲を録音している。穏当な解釈で、まずは満足できる演奏だ。

 エッセンシャル・シベリウス盤(ヤルヴィ)はやはり音が美しく、深い感動が込められている。

 デイヴィス盤には『ペレアスとメリザンド』は入っていない。

 バルビローリ盤では4曲だけ録音されている。録音レヴェル(音量)が高いせいか、冒頭曲はえらく力演に聞こえる。その分終曲は静かな曲に聞こえるが、全体に気合いの入った演奏である。


組曲『カレリア』
 この曲は、日本では特に好まれるそうだ。シベリウスとしては全体に明るく楽しい気分を持ち、重苦しくない。メロディも五音音階が多用され、親しみやすい。

 ベルグルンド盤。第1曲と第3曲のみ録音している。ゆったりしたテンポだが、なかなか鮮やかに盛り上がる。

 デイヴィス盤。第1曲序奏はベルグルンドと同じようなテンポで始まるが、主部に入っても同じように悠然とリズムを刻む。おかげで細部が分かりやすい。第2曲はほぼ普通のテンポで、繊細感を持って演奏されている。第3曲もテンポは普通だ。木管の音が気になるときがあった。

 エッセンシャル・シベリウス盤(ヤルヴィ)。第1曲序奏は誰よりも遅いが、主部のテンポは普通。どの曲も繊細感が強く、楽しめる。

 バルビローリ盤。第1曲の序奏は主部とほぼ同じテンポで開始される。かつてはこういうスタイルが一般的だった。第2曲は味わい深く聴ける。じっくりと聞くなら、これが一番かも知れない。

 カラヤン盤。やはりかなり重厚長大型の演奏になっている。第2曲では、悲劇感が強く出る。全体のヤマ場を終曲に築こうとしているようだ。それが妥当かどうかはともかくとして、面白味もある。

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