超常現象と心理トリック


ユリ・ゲラーと時計の「奇術」

 超常現象という言葉がいつ頃から使われ始めたかは明確ではないが、おそらく70年前後、「超能力」という言葉が現れた頃だろう。昔は超能力などという言葉はなく、個々に念力、透視、予知能力、瞬間移動などと呼ばれていた。これらをひっくるめて超自然的現象とか怪奇現象という表現はあったような気がする。

 いずれにせよ、超常現象とは、普通の物理法則の範囲を超えた現象ということであろうが、UFOやUMA(未確認生物)まで超常現象に分類されているのには、少し納得できないものを感じる。今論じられているUMAの多くは、実在するかどうか分からないだけであって、実在したら単なる自然現象だ。

 もっともネッシーなど、少なくとも一部の人は、ただ一頭の怪獣が恐竜時代から生き延びてきたと信じているらしいが、それなら神秘現象かも知れない。私はネッシーの実在を信じない。ウワサの出所は、ちょっとしたジョークか、いたずららしいからだ。聞いたところでは、50年代の終わり頃だったか、ネス湖のほとりにある土産物屋の主人が、ふと思いついておもちゃの恐竜を浮かべた写真を撮り、店に飾っておいた。するとある旅行者が驚いてこの写真を買い取り、持ち帰ってマスコミに広めた、というのが真相だということだった。

 熱帯向きと思われる恐竜の仲間が、地球上でもかなり寒い地方にのみ生き残ったというのも不自然に感じる。少なくとも、その種が生き延びているのなら、ひとつがい以上の個体がいて、ネス湖は怪獣でうようよしていると思う方が合理的である。だがそんな様子は全くない。一頭だけが最後の生き残りとして見られるというのであれば、かつては多くの個体が目撃されたが、近年になってまれにしか見られなくなった、という経過をたどるだろう。ネッシーの場合は、全く逆のようだ。

 多くのUMAは、オカピに似ているだろう。オカピは長い間幻の動物だったが、近年に至って生存が確認された。未知の動物だったというだけで、神秘現象でも何でもない。生息地域が地理的に限定されていたため、発見が遅かったのである。そういう動物がいても、生物学の体系を覆すことにはならなかった。オウム貝、シーラカンス、山椒魚のようなものでも、ダーウィンの進化論が覆ることはなかった。

 巨大イカも時々話題になる。しかし海中の生物は、陸上より重力の制約が小さいので、巨大化する可能性がある。生物学者は興味を持っても、特に不思議だとは考えない。だから私は、UMAは「超常現象」のカテゴリーには当てはまらないと思うのである。

 UFOについても同様である。多くのUFO信奉者の主張に反して、天文学者のほとんどは地球外生命の存在を信じている。私はかつて「宇宙人の存在を信じるか?」と聞かれて、「信じるとも。なぜなら、私は宇宙人だからだ」と答えたことがある。相手は一瞬ギョッとするが、地球人は全員宇宙人であって、この4次元宇宙の外に存在するのではない。

 単なる定義の問題と思われるだろうがそうではない。「では異星人の存在は?」と聞かれると、やはり「信じる」と答える。地球人のような姿をしている可能性は小さいだろうが、地球以外のどこかに知的生命体と呼べるものが存在していても、何の不思議もない。現に地球人が存在するのだから、宇宙を等方的である(つまり地球だけが特別なのではない)と考えるなら、他にも存在すると考える方が合理的なのある。

 では「異星人がUFOに乗って地球にやってきている」というのはどうか?こうなると、かなり怪しい。数億光年の彼方の星の住人が、数百万年かけて亜光速で飛来したというなら、その生命体の寿命はうんと長く見積もった方がいい。たとえば6億年の寿命を持つ生命体があり、その生涯のうち1千万年を長期旅行に費やしてやって来る。地球人が1年間の旅行をするようなものである。これなら納得できる。おそらくその生体反応速度は極めて遅く、地球人の生涯などほとんど目にも留まらないであろう。バクテリアのようなものがめまぐるしく繁殖し、滅んで行く一瞬の過程にしか見えないと思う。

 たとえば、森である。1本の樹木でなく、その集合体である森林を一つの個体として考えると、森の寿命は、地球上のほとんどの生物に比べて圧倒的に長い。この場合、個々の樹木は細胞のようなものであり、地球人による森林破壊は、バクテリアの病毒のようなものだということになる。こうした形で異星人が地球にやってきているというのであれば、私も否定しない。だが意思疎通は極めて困難であろう。

 地球人そっくりの形で異星人が現れる可能性は小さい。あなたも数億光年の彼方にある星を目指して宇宙船に乗り、数百万年かけて飛行する場合を考えてみるといい。いくら亜光速でも、目的地に到達できるのは、数百代後の子孫である。今から数百代前の人類が目指していた目標と、現代人の目標がかけ離れているように、子孫の世代には、そもそも自分たちがなぜ出発し、どこに向かおうとしているのか、ほとんどのことは忘れられているだろう。

 そんな遠方に出かけようと思うようになるのは、自分の代のうちに少なくとも目的地を目にすることができる場合だけである。そこであなたは死を迎え、あなたの息子が地球まで帰るのなら、まだしも許せると思う。数億光年というのは大げさかも知れないが、どうやら百万光年以内には、異星人が良そうな星は見当たらないということなので、試みに書いたのである。

 超光速という考えもあるが、残念ながら現在のところでは、タイムトンネルを通過するには、あなたの体は素粒子レベルにまでバラバラになるようだ。通過後に自動的に元の形に再結合するという可能性がないわけではないが、「そうだったらいいなあ」という夢物語に過ぎない。

 超光速とは、過去にさかのぼることだ。つまりタイムマシンなのである。以前、あるテレビ番組で、「どちらとも決しがたいことをアンケートで決める」という試みをしていたが、その際「タイムマシンは過去へさかのぼる機械であるか、未来に行く機械であるか」という問題に対し、アンケートが採られたことがある。結果は「未来に行く機械である」という答が多かった。しかし、時間の方向は未来に向かっているのだから、特別な機械は不必要である。あなたが二千年後の未来に行ったとしよう。しかし、再び現在に戻ってこられないとしたら、ほとんど無意味であろう。二千年後から現在に戻るというのは、過去にさかのぼることであって、これこそタイムマシンの不可欠の要素である。

 念力、透視、予知能力、テレパシーのような現象は、超常現象だと認めて良い。いままで多くの「超心理学者」がこうした異常現象の存在を実証しようと努力し、多くの場合に成功してきた。ところが、彼らの実験結果を第三者が検証しようとすると、とたんにデータが崩壊する。不思議に思われるだろうが、これは本当のことである。ある学者がマウスを使った実験で、マウスにも念力があって、実験装置に望ましい方向への影響を与えているというデータを出した。喜んだ研究所長が、第三者による検証実験をさせると、結果は何ら意味のないデータだったそうだ。他の研究員が最初の研究者の実験を観察すると、時々肯定的な結果を出すように機械を操作していたのだった。他人はそれを詐欺行為とか明らかなまやかしと呼ぶかも知れないが、本人は機械が正常に動くように絶えず調整していたつもりで、無意識に自分が望む結果をでっち上げてしまったと思われる。

 今まで、超能力を実証したという実験のすべてが、客観的な検証に耐えられず、歴史の闇に消えてしまった。テレビなどで行っている実演はすべて手品であることが分かっている。

ユリ・ゲラーの壊れた時計

 ユリ・ゲラーは、われわれの認知の隙を突いた「実験」も行った。最初に来日したとき、彼は番組の最後でこう言った。「この番組は録画で、放映時間にはアメリカに帰っていますが、放映終了後の三十分間、念波を送ります。みなさんのお家に壊れた腕時計があれば、それを取り出して、『回れ、回れ』と念じながら、文字盤を時計回りに指で撫でて下さい。私の念波と一致すれば、時計は回ります。ただし、ディジタル時計は私の念波には応答しないので、アナログ時計で行って下さい」というのである。

 これを実際にやってみたなら、おそらく80%以上の人は、壊れた腕時計が回り始めるのを見て驚いたはずだ。非常な神秘を感じた人もあるだろう。

 だが、これは心理的トリックに過ぎない。「壊れた時計はテコでも動かない」というのが、思い込みなのである。私はたまたま、こういう現象が「念波」などなくても、普通に起こることを知っていた。だから私の家族も面白がって、家中から古い腕時計を持ち出してきて、やってみた。確か八個もあって、そのうち七個が動いた。動かなかった一つは、針が落ちて、文字盤の上に錆び付いていた。これではいくらユリ・ゲラーの念力が強力でも、動く気遣いはない。なお、我が家で動いた時計のほとんどは、ユリ・ゲラーが「念波」を送るのを止めた後に動いたのである。

 あなたは「壊れていて長年動いたことがなく、ねじも巻いてないのに、なぜ動く?」と言うだろう。だがよく考えてみていただきたい。アナログの腕時計が「壊れる」というのは、ちょっと動いては止まる、ということを繰り返すようになったことである。結果として、ほぼ常時デタラメな時間を指すようになる。

 私は高校時代、そういう壊れた腕時計をそのまま使用していたことがある。時々ちゃんとした時刻を確かめて、腕時計の指す時間との時間差を把握しておき、時間を知りたいときは、とっさに計算していたのだ。ところがあるとき時間を聞かれて答えたところ、ある後輩の女の子が文字盤をのぞき込んで、答えた時刻は正しいのに、時計は全く違う時刻を指しているので、驚いてしまったことがあった。詳しいことは忘れたが、確か聞かれた時刻は夕方の4時5分くらいで、文字盤は8時50分といったところであった。なぜそんなことをしていたかと言うと、要するに、合わせたところで知らない間に止まっている。揺するなどしてやると、またしばらくは動く。しかし15分ほど動いてまた止まる。針を合わせたところで、全く意味がなかったからだ。

 ユリ・ゲラーの「念波」で時計が動いたからといって、驚くには当たらない。時計が直ったわけではなく、しばらくするとまた止まってしまったはずだ。それは、壊れた時計そのものなのである。時計の機能は、長時間動き続けることにある。短時間動いただけなら、全然直ったことにはならない。

 では「ねじも巻いてないのに」という点はどうか?それはあなたが、壊れた時計に見切りを付ける直前の行動を思い起こすと分かる。あなたはぎりぎりまでネジを巻き、それでも動かないので放置した。その後、時計はほとんど動いていないので、ネジもゆるまなかったのだ。腕時計は、微細なゼンマイの力で動くようにできている。わずかな衝撃で動き、微細なゴミなどで止まる。長期間放置し、ネジの巻き戻ろうとするポテンシャルが目一杯にかかっているとき、手に持っていじり回せば、どういうことが起こるか?あなたにも想像が付くはずだ。

 要するに、物理法則には全然反していないのだ。あなたの頭の中にある思い込み(「壊れた時計はテコでも動かない」)の方が、むしろ事実に反しているのである。ユリ・ゲラーは、こうした思考の隙を突いたという点では、なかなか上手な手品師だった。

 私は思うのだが、こうした心と事実世界のギャップこそ、超能力の住むところだろう。いくらあり得ないと論証されても、なおかつ「あるかも知れない」と思う。心霊スポットと呼ばれるところは、不気味な場所であることが多い。幽霊が出るなどというウワサがなくても、何となく危なそうに見える。人間は暗闇を本能的に警戒する。そこには危険が潜んでいるかも知れない。気を付けていても、あまり暗ければ、対策の立てようがない。そういうとき、恐怖心が生まれる。恐怖心に囚われると、潜在する危険が想像力の中で一挙にふくらみ、さらに恐怖をあおり立てることがある。パニックである。心霊スポットに関連づけられる怪談は、ほとんどが創作だそうだが、そう教えられても、恐怖心は個人的な体験だから、理性だけで抑えることは難しい。

 子供の頃は夜が怖かったが、大人になると平気だという人がほとんどだろう。夜道に慣れ、そんなに突飛なものが出てくることはないと知れば、平気になる。そういう大人でも、その夜道で何か得体の知れないものが飛び出せば驚いたり、恐ろしく感じるのが普通だ。一瞬対処方法が見つからないからである。

 こういう客観的・理性的事実と、心の中の主観的事実(それも事実のうちだ)にギャップがあるとき、心的事実の方が強く働き、理性的判断を歪めてしまう。科学者でもそういう弱点を持っており、しばしば捏造疑惑などを引き起こす。

 自称「超能力者」のあまり高度でない手品は、手品師が見ると、すぐにタネが見破れるものが多いそうだ。一番だましやすいのは、科学者だそうである。あり得ないことが起きたとき、すぐに「あり得ないことが観察された」と思う。手品師は、どうやったらそういう現象を見せられるかという観点で見る。もちろん観客の目をごまかすのに慣れているので、簡単にはだまされない。

 ユリ・ゲラーの「超能力」も、単に面白い手品として愉しむなら、私は否定しない。しかし元々あまり売れない奇術師だったユリ・ゲラーが、「超能力(タネも仕掛けもない正真正銘の能力)」と銘打って、同じような芸を公開すると、とたんに売れるようになった、というのはやはりおかしいだろう。ある人物は超能力を名乗っても誰も被害を受けていない、ゆえに自分は無罪だと主張したらしい。しかしありもしない「超能力」を騙ってただの奇術を披露し、日本人(特に若い世代)に有害な影響を与えた罪は軽くない。オウム真理教の教祖が空中浮揚をするところは、数人の信者によって目撃されたそうだが、それは単なるエンターテイメントでなく、詐欺行為の一環だった。それがやがてはもっと大きな犯罪行為にもつながった。

 要するに、超常現象を個人的な楽しみとして楽しむのは良い。それを根拠に科学に対する不信感をかき立てたり、誤った信条を広めようとすることが許せない。それは害悪である。かくいう私も超常現象については興味があり、テレビなどでは大いに楽しんでいる(それだからユリ・ゲラーの番組も見たのである)。次はどんな奇抜な超常現象を紹介してくれるかと思うと、やはり楽しみである。だがそれを盲目的に信じて、「これで現代科学は否定された」などとアホなことを言う人を見ると、腹が立ってくるのだ。本当に現象が起こったのであれば、そのメカニズムを明らかにするのは、目撃者に立証責任がある。科学者側から「これこれの錯覚」、「こういった手順で行われた手品」などと言われれば、それに対する再反論に終止しているのが超常現象支持派の一般的傾向である。

 よくあるのは、「未知のエネルギー」という論法だ。未知のエネルギーの存在を立証するのは、素人には容易でない。だから科学者がそれを立証すべきだというのである。自分がやるべきことを人に丸投げしているわけで、おそろしく怠慢な議論だが、本人はその怠慢に気が付いていない。あからさまに言うと、「未知のエネルギーが存在して」というのは、「何だかよく分からないが何かがあるんだ」というあやふやな言明に過ぎない。「言う」ということは、何か客観的な事実を提示するなり、新たな解釈の可能性を提言することだ。

 ある「超能力者」が、前方に縦に並んだ2つの振り子を見つめて「念力」をかける。すると驚くなかれ、前方の振り子は動かず、遠い方の振り子が揺れ始める。要するに、何らかのエネルギーが放射されているなら、近いところに強く作用し、遠いところでは働きが弱くなる。その強さは距離の二乗に反比例する。この「超能力」はそうでないと言っている。近いところで作用せず、遠いところで強く働いている。それにはいくつかの可能性がある。手前の対象を避けて、カーブするエネルギーが放射された。手前の物体は透過したが、遠くの物体では焦点が結ばれ、力として働くようになった。

 物体に無作用のまま透過する波は、実際にある。たとえばニュートリノだ。だがそういうものは、ビームとして集中しても、やっぱりほぼ無作用である。作用は、粒子の衝突とか交換から発生すると考えられるからである。

 では任意のものを避けて通るエネルギーはあるのか?ある程度の質量を持った物質ならそういう現象がある。野球のカーブボールは、空気の抵抗によって曲がった軌道を描く。イオン化した粒子であれば、磁界や電界によって軌道が曲げられる。もし彼の「念波」が一つの磁界となって張られていて、その上に別の念動力波粒子が送られたとすれば、カーブしたかも知れない。

 ところが奇妙なことに、その超能力者は、自分の発するエネルギーを自由にコントロールできないのだそうだ。テレビで公開した以上のワザがなく、もう少し拡張した程度の能力すらなかった。要するに、少し状況が変わればタネを仕込むことができなかったのだろう。

 変な波を考えなくても、もっと簡単な説明もある。二つの振り子の固有振動数に明確な違いがあれば、気付かれずにテーブルを揺り動かすことで、どちらか一方を選択的に振らせることが可能である。私の見た「実験」では、そうした点で注意が払われていた形跡がなかった。

 できれば本当の超常現象を見たい。「夢のお告げ」とか、「ゲームの先行きを読む」などは、私も経験がある。「ゲームの先行き」については、今も友人たちに不思議がられている。ほとんどランダムに目が出る(ちょっと数え切れないほど目の種類の多い)遊びをやっていて、「次は何が出る」ということを連続して数十回当てたのである。自分でも、その時は予知できる気がしていた。確率で言えば、数兆回に一回の珍しい出来事だっただろう。だからといって、自分が超能力者だとは思っていない。

「あり得ないこと」と「ありそうにないこと」

 70年頃、友人から面白おかしいウソ週刊誌が送られてきた。面白かったので、私もできるだけ信じがたい記事を載せようとして、「20世紀の終わりにはソヴィエト連邦がアメリカに屈して、自由主義経済に移行する」という記事を書いた。すると友人が「アホか」と言った。当時の知識人たちは、個人的にはアメリカ支持であっても、客観的にはいずれソヴィエトが勝利を収めると思い込んでいた。私の書いた記事は、単に彼らの神経を逆なでするというより、「あってはならない」ほど不愉快な記事だったのだ。全くの偶然だが、その記事の内容は当たっていた。私自身が信じていなかったのだから、予言ではない。もしや、その後に続く記事、「ソ連崩壊後、唯一の超大国となったアメリカの自己崩壊」も事実になるのだろうか?アメリカの世界支配が終わったら、日本はどうすればいいのか?つまり私の考えたいことは、「とうていありそうにない」と思うことが起きた場合、どうすればいいのか、ということだった。

 ブラウン神父は、「この世にはとうていありそうにないことと、絶対にあり得ないことがある」と言う。「絶対にあり得ないこと(科学的に不可能なこと)」が起こったと聞いても、へえと感心するだけでおしまいになる。ところが「とうていありそうにないこと(社会常識から考えてあり得ないようなこと)」が起きたと聞くと、誰でも「何だって?それが事実なら、こりゃ大変だ」と慌てる。

 変だと思うだろうか?絶対あり得ないことの方が衝撃的ではないか?だがそうではない。たとえば「教祖が宙に浮いたのを見た」と聞いても、われわれは、「へえ、でも、だからどうだって言うの?」と思うだろう。何も歴史が代わるわけでなく、社会を変えるのでもない。

 ところが、畏れ多い話だが、「昨晩、天皇陛下がサンダルを履いてコンビニにやって来て、豆腐を買っているのを見た」と聞けば、それは大変なことである。どこかの怪しい教団の教祖が宙に浮こうがヒゲが伸びようが、それは何の影響もない。だが天皇陛下がコンビニに現れて豆腐を買ったのなら、身の毛もよだつ思いがする。教祖が宙に浮くことは物理的にあり得ない。天皇陛下がコンビニで買い物をすることは、物理的には大いにあり得ることだ。ただ社会常識から考えると、とうていありそうにない。物理的にあり得ないことなど、何が起ころうと、われわれの生活にはほとんど関係しないだろう。社会的にあり得ないことは、受け入れるのが大変だ。それが真実なら、われわれは生活のすべてを見直す必要があるかも知れない。社会全体が変わってしまったのだ。もしや革命が起きたのか?それなら、明日から何が起きるか分からない。

 超能力は底が浅いと、私は常々言っている。信奉者には、想像できる不思議しか起きないからだ。たとえば「宇宙人(正確には異星人)」は、例外なく地球人ないし地球生物と似たような姿をしている。想像力の幅が狭く、どこかで聞いたような話を繰り返している人が多い。実際に異星人がいたなら、彼らは地球人と大きく違っているはずなので、見る人により様々な違った側面が見え、時には奇想天外な報告があって然るべきである。

 たとえばまだ西欧で東洋が神秘だと思われていた時代、日本という国について言われていたことを考えてみると良い。変わった国は、実際以上に奇抜に見えることがある。日本の場合は宣教師たちが国内に住み、ある程度意思疎通ができたので、彼らの報告はあまり変ではないが、やはり「日本人は右側から馬に乗る」「西洋ではのこぎりを押して切るが、日本人は引いて切る」だのといった報告は、西洋人から見るとひどく奇妙に思えただろう。本当に見たというなら、そうした細かい観察結果も出てくるはずだ。ところがよくある目撃・体験情報には、世間で一般的に言われていること以上の観察報告がない。ということは、その報告自体に信憑性がないような気がするのである。

 もう一つは、論理学の法則に照らしてみると、超常現象の仮定は怪しいものだということである。というのは、それを仮定してしまうと、どんな奇妙な現象でも、苦もなく「説明」できてしまうところが怪しい。

 論理学では、「誤った仮定を置くと、すべての誤った命題が証明可能になる」という超論理学的命題がある。たとえば「1=2」という誤った命題を真と仮定すると、明らかに間違った任意の命題が「証明」できるそうだ。

 超常現象は、それによく似ている。「この仮定さえ認めれば、何でも言えるようになる」というのは、間違った仮定の特徴だからだ。「それを認めなければ、すべてが不可解になる」というのであれば、その仮定は真である可能性がある。たとえばニュートン力学を認めなければ、多くの物理現象は未解明だっただろう。だが超常現象は、それを認めなくても説明できるものが多い。「怪しい仮定を置かなくても説明できるならば、あえて仮定しない」というのがいわゆるオッカムの剃刀の原則なので、私も仮定しないことにしているのである。


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