このページの主な項目
みみずのこと
南北の時代
四谷雑談集が語る「真相」
類似系=累の物語
羽生村事件の真相
祐天の疑念
江戸怪談の系譜
四谷怪談の不気味さ
結び























































映画版「東海道四谷怪談」
中川信夫監督



























岩波文庫「東海道四谷怪談」





































三遊亭圓朝「真景累ヶ淵」





































































三田村鳶魚「芝居の裏おもて」


日本怪談集(江戸篇)

































高田衛「お岩と伊右衛門」






























近世奇談集成(1)
































































































































新編「江戸の悪霊祓い師」


近世奇談集成(1)





























































































































































































新編「江戸の悪霊払い師」









































































































































































































エリアーデ「世界宗教氏(3)」



















































ソクラテスの弁明・クリトン





































岩波文庫「江戸怪談集(上)」


岩波文庫「江戸怪談集(中)」


岩波文庫「江戸怪談集(下)」





























江戸怪談をめぐって


鬼が走った日−怪談の変容
画像はWikipediaからいただきました
 元禄時代の初め頃、一人の女が鬼となって江戸の
町を走った。彼女は夫に裏切られ、世間に欺かれ、何
もかも失ったのだった。そのまま失踪した彼女の物語
は密かに伝えられ、およそ150年後に甦って、全く違
った物語ではあったが、再び江戸の町を走り抜けるこ
とになる。

画像は北斎の怒濤図<女波>

<みみずのこと>

 ある夏の昼下がり、私は家の近くにある駅前のショッピングモールで通路のベンチ
に腰を掛け、一本130円のカンチュウハイをすすっていた。よく晴れて日差しは強か
ったが、そこは木陰になっていて、さほど暑くはない。そのころ私には仕事もなく、これ
から何かをするというメドも立ってはいなかった。買い物の主婦たちが周りをにぎやか
にしゃべりながら通り過ぎていくのをぼんやりと聞き流していただけである。

 ふと、目の端で何かが動いているのに気がついた。前日の雨で地上にはい出した
大きなミミズが、通路の端でのたくっていたのだ。煉瓦敷きの通路の端は幅が約10
センチ、深さはほんの5ミリばかりの浅い溝になっていて、ミミズはその溝の中にい
る。なんだか生々しい薄桃色の体は、長さ20センチ以上もあったろうか。長々と溝の
中程に斜めに横たわっているのだが、すぐ向こうは生け垣のある土の地面である。
弱っていて、そこまでたどりつけないでいるらしい。

 よく見ると、もう死にかけているのか、ミミズの体にはたくさんの黒蟻がたかっている
のだ。どうやら全身のあちこちを噛まれていて、たまに鋭い痛みが走るのであろう。体
を突然波形に縮めたり、ぐるぐるのコイル形になったり、頭をもたげて左右に振ったり
しているが、黒蟻の攻撃を逃れられないでいるのである。

 私は一瞬ミミズを助けてやろう、何かその辺に落ちている木ぎれか棒を使って、溝
の中からすぐ向こうの土のある場所へはじき出してやろうと考えた。土はまだ湿って
いて、そこならミミズも地中に潜り込んで逃げおおせるかもしれない。だが何か使える
ものはと辺りを見回すうちに考え直した。これは、いわば自然の摂理というやつだ。ミ
ミズは今死ななくても、どうせいつかは死ぬ。たまたま私の目の前で弱って死にかけ
ているだけのことである。一方黒蟻たちは久々の大物の餌にありついて、張り切って
いる。当然彼らにも生きていくための方策が必要なのだし、自分の体の何百倍もある
ミミズに対して果敢な攻撃を続けている彼らも、命がけなのである。ミミズの巨体が強
くのたくる瞬間には、黒蟻の方にも何匹かの犠牲が出ているだろう。弱肉強食と言お
うか弱肉弱食と言おうか、自然の営み、あるいは掟というのが偶然私の目に留まった
だけのことだ。ミミズに味方するのが正しいか、黒蟻に味方するのがいいのか、誰に
も決められはしない。

 私がミミズを助けようと思ったのは、その苦しみのたうつ姿が目立っていたからだ
が、それを助けたとすれば、目障りなものを取り除いたにすぎない。何ら「正しい」こと
ではなく、私の小さな満足(あるいは不快の除去)を得られるだけのことだ。

 元通りベンチに腰をかけてカンチュウハイをすすり続けた。日がじりじりと照りつけ
る夏の午後、商店街のにぎわいの片隅でのたうち回り緩慢な死を遂げていくミミズ。
それは、私になぜか「四谷怪談」を連想させた。無惨な姿になってこの世とあの世の
中間で血を流しながら、憤怒に身を焦がし続ける怨霊。鶴屋南北は、なぜあんな陰惨
な劇を書いたのだろうか。


<南北の時代>

 昭和三十年代前半、まだテレビは一般に普及しておらず、庶民の娯楽の最たるも
のは映画だった。ゴジラや東映の時代劇、キング・コングなどが私の映画体験の中心
だった。中でも「白蛇伝」に始まる東映のアニメには夢中になったものである。私もア
ニメ作家になりたいと思っていたほどだ(数年前、中国のアニメがテレビで紹介されて
いて、その絵が「白蛇伝」にそっくりだったのに驚いたことがある。日本のアニメは世
界中に影響を与えたらしい)。

 ところで、当時は夏になると必ず「お化け映画」、つまり怪談ものが上映されていた。
もちろんその代表が「四谷怪談」である。

 私の母は映画が大好きであった。家の近所に映画館があったせいもあって、子供
の頃はよく私を連れて行ってくれた。しかし怪談映画だけはどうしても見に行こうとしな
かった。後で知ったのだが、まだ結婚して間もない頃に父が母を映画館(大阪の梅田
にある「北野シネマ」だったそうだ)に連れて行ったところ「四谷怪談」が上映されてい
て、その怖ろしさに震え上がった母は、もう二度と怪談ものは見ないと決めたらしい。

 そんなこととは知らない私は、小学校の二年生か三年生の頃の夏、近くの映画館に
「お化け映画」(「東海道四谷怪談」、「怪談累ヶ淵」、「怪談本所七不思議」の三本立
て)がかかった時、母に見に連れて行ってとせがんで困らせた。看板に立てられた大
きなお岩さんの姿が、奇抜で面白そうに見えたのである。父も母も「そんなもの見に行
くな」、「怖くて夜便所に一人で行けなくなるぞ」と止めたのだが、「怖いぞ、怖いぞ」と
言われると、なおさら見たいのが人情だ。そのうち、兄の友達が見に行こうと誘った
ので、子供同士で見に行くことにした。

 父母が言ったとおり、本当に怖かった。三本のうち「怪談本所七不思議」だけはちょ
っとユーモラスな妖怪たちが出てくる映画で楽しめたのだが、「四谷怪談」と「累ヶ淵」
の二本はあまりにも怖くてほとんど前の椅子の後ろに隠れるようにして見た。おかげ
で筋書きも分からない(もちろんまだ子供だったから、まともに見てもあの複雑な筋は
理解できなかっただろう)。

 おそらくくぐもった音響のせいもあったのだろう。幽霊が恨み言を述べるせりふがよ
く聞き取れないながらも、なんだか地の底から響いてくるような気がした。ヒュードロド
ロと鳴り出すだけで怖くなる。とにかく画面が陰惨に過ぎたのである。見る前は面白そ
うだと思っていたお岩さんの大看板が、見た後では正視できなくなった。映画館は通
学路にあったので、上映中は看板を見ないように顔を伏せて歩いた。だが、夏が来る
ごとに怪談映画が掛かるので、何気なく歩いていて、ふとお化けの顔に直面して、ギョ
ッとすることも少なくなかった。その後長い間悪夢にうなされるようになったほどであ
る。

 ちなみに私の見た「東海道四谷怪談」は、題名と見た時期からすると、数ある同種
映画の中でも怖さおよび芸術性で最高傑作と評されている中川信夫監督作品だった
ようだ。ほとんど画面を見ていなかったので何も語れないが、制作後三十年以上たっ
ても東南アジアで上映されて大人気だったそうだから、優れた作品だったのは間違い
ない。

 映画の原作が四世鶴屋南北の歌舞伎作品「東海道四谷怪談」であることは、広く知
られている。初演は文政八年(1825年)、鶴屋南北が70歳頃の作品である。これ以
前のおよそ20年もの間は彼の独擅場で、出す芝居のほとんどがヒットした。文化・文
政時代の歌舞伎を「化政演劇」と呼ぶことがあるが、実質的には南北の時代だった。
そのため「大南北」と呼ばれていたという。

 岩波文庫版『東海道四谷怪談』(河竹繁俊校訂・解説)によると、彼は1755年(宝
暦五年)の生まれで、紺屋の型付け職人の息子であった。生まれた土地が芝居小屋
に近く、少年の頃から関心を持ち、21歳で芝居作者の世界に飛び込んだが、長い下
積み生活が待っていた。やっと勝俵蔵と名乗っていた50歳の頃、「天竺徳兵衛韓国
噺(てんじくとくべえいこくばなし)」で名声を博した。

 以前私の聞いていた話では、立作者となるのに名跡が必要だったので、三世鶴屋
南北の娘と結婚し、その名を襲ったということだったが、必ずしもそうではないらしい。
勝俵蔵として有名になった後、57歳で鶴屋南北を襲名したのである。

 ところで彼の出自である紺屋(こうや)という職業は、古くは賎民身分とされた。その
ため、名声を博してからも「大南北も元はと言えば紺屋のせがれ」などと言われたそう
である。ただし、江戸時代には賎民身分から脱していて、彼ももはや賎民ではなかっ
た。

 歌舞伎役者も似たようなもので、古くは賎民の職業と見なされた。ただし1708年に
は正式に賎民身分を脱したという。『東海道四谷怪談』では、武士である伊右衛門よ
り、かえってその殺人を目撃した非人の方が正義感を持っているように見える。まだ
差別され賎視されていた人々に、何らかの同情を持っていたのだろう。

 私の子供の頃に映画がそうだったように、江戸後期には、芝居見物こそ庶民の娯
楽の王様だった。木戸賃が払えなければもっと安い見せ物小屋もあったが、芝居とな
れば怪異と驚異だけでなく、歴史劇、悲劇や喜劇、復讐劇も味わえた。観客は子供連
れのことも多く、幕間(まくあい)には桟敷席で弁当を食べたりしていた。これを幕の内
弁当と呼ぶそうだ。

 南北はごく初期の作品からすでに怪談ものの趣向やSFX的なからくり(けれん)を多
用して人気を博していた。それをいわば集大成した作品が「東海道四谷怪談」だった
のである。この中には幽霊の意表をつく出現、戸板返しの場面でのほとんど不可能と
も思える早変わり、産女(姑獲鳥:うぶめ)の格好をしたお岩、牡丹灯籠の筋立てを借
りた場面(夢の場)など、盛りだくさんな趣向がある。それだけでなく、台本を読む限り
では思わず吹き出すようなユーモラスな場面もほどよく入っていて、本来は怖いばか
りの芝居ではなかった。

 ただ、あのお岩さんの顔は誰でも怖い。怖いというより、生理的に不快なのである。
「あれではとても生きていられまい」と感じるはずだ。共演する役者までが怖がるほど
だという。もちろん観客は見たその日から悪夢にとりつかれた。陰惨なイメージが強
すぎて、本来の芝居としての味わい方ができなくなったことは少々残念でもある。

 ちなみに当時のヨーロッパはホラー文学の曙時代と言ってもいい。1814年にホフ
マンの怪奇小説が現れ、1818年にはメアリ・シェリーの「フランケンシュタイン」が出
ている。そこには南北のようなスプラッタ的と言おうか、血なまぐさくどろどろした要素
はない。世界的に見ても、南北劇のすさまじさは特異現象であったのだ。

 私が子供のとき見た映画で、怖かったもう一本の「怪談累ヶ淵」は、三遊亭円朝の
作品「真景累ヶ淵」の映画化だったらしい。幕末の安政六年(1859年)に上演された
もので、長い複雑なストーリーを持っている。三遊亭円朝は怪談話を得意とした落語
家で、噺はほとんど自作した。ストーリーはさておき、その話芸は天下一品だったそう
である。言文一致体を模索していた明治の文豪たちが誘い合って聞きに行き、夏目
漱石も感心したと言うから並の芸人ではなかったのだ。

 累ヶ淵の物語は四谷怪談とも関係がありそうなので、後で述べる。

 さて、江戸中村座が「東海道四谷怪談」を上演したのは、1825年の夏のことだっ
た。当時は夏興業が済むと、芝居小屋は閑散期に入るのが普通だった。たださえ暑
い夏、密閉された小屋に何百本と灯される蝋燭の照明である。もちろん冷房などあろ
うはずがない。考えただけでも暑苦しい。だからどんな芝居を打っても小屋は不入り
だったのである。

 そこで芝居小屋は、どんなときでも大入りになる「忠臣蔵」のような人気演目をかけ
るのが普通だったという。そこに南北は新しい怪談劇を登場させた。それも忠臣蔵の
裏物語として創作し、二つの演目を同時進行的に交互に上演したのである。

 山口剛によると「文政八年五月のことである。江戸の中村座の櫓には、振袖を咬へ
た女の生首のものすごい絵凧が懸けられてある。怪談狂言の作者鶴屋南北、怪談狂
言の家元尾上菊五郎の立籠るこの小屋の狼火である。もうどんなおそろしい新怪談
が見られることかと、江戸の人は寄ると触ると、噂とりどりであった。」(『山口剛著作
集』第二巻、江戸文学篇二「怪異小説について」より。中央公論社昭和47年刊)=
(興文社『日本名著全集』第十巻『怪談名作集』巻頭解説:昭和2年)

 初演は「割れかえるような大当たりだった(山口剛)」と伝えられる。当時の「評判記」
でも「上出来」と大好評だったようだ。今日で言う「興行収入記録」を塗り替えたわけで
ある。不入りの時期に奇跡のような大当たりを見た他の芝居小屋でも、競って怪談も
のを上演したという。「夏は怪談」という習慣は、この時に始まったらしい。死者の霊が
あの世から帰ってくるという、お盆の時期に近いことも要因の一つであろう。

 噂は上方にも伝わり、翌年には一座が大坂でも上演している。今度は忠臣蔵を除
いて怪談部分だけとし、脚本も少し改めた。岩波文庫で出ているものが初演の脚本に
一番近いらしいが、何度も上演されてそのたびに少しずつ変わっているという。大坂
公演の脚本は「いろは仮名四谷怪談」として原作の主要な異本の一つになっている。

 そもそも演出もいろいろに工夫されたようで、たとえば肝心のお岩さんの顔も、初演
の時とは違っているらしい。現在は左右どちらかの半面が爛れているようになってい
るが、初演の時は顔の上半分が全部血まみれになっていたそうである。この趣向
は、南北の「怪談岩倉万之丞」という合巻にも現れる。

 歌舞伎は一人の作者が作り上げるものでなく、何人ものスタッフが手分けして脚本
を書き、演出も作者と役者が協議して決めたりするものだった。高田衛氏の『お岩と
伊右衛門−四谷怪談の深層』(洋泉社2002年)によれば、「戸板返し」の早変わり
も、すでに「天竺徳兵衛韓噺」において、尾上松助が工夫したトリックを応用したもの
だそうである。だから「評判記」でも、見巧者はとっくに仕掛けを見破っている。

 この場面は、隠亡堀で釣りをしている伊右衛門の元に、戸板に荒縄で縛り付けられ
た死骸が流れ着く。伊右衛門が引き上げてみると、なんとそれはお岩であった。ぎょ
っとする伊右衛門に、お岩が「恨めしい、伊右衛門どの」と言う。戸板を裏返すと、裏
には小仏小平の死骸があって、「旦那さま、薬を下され」と言う。もちろん筋書きから
言っても二人はとっくに死んでいるのだから亡霊なのであるが、それよりも江戸っ子の
度肝を抜いたのは、この二人が実は同じ役者の一人二役であることだった。短時間
に戸板の裏表に入れ替わるとは、まるで奇術のようだ。

 だが仕掛けはすぐ見破られた。その戸板には首と腕を出し入れする穴が開いてい
て、死骸の胴体は人形で作ってある。役者は戸板の裏側にいて、裏返しの瞬間、素
早く首と腕を抜き、扮装を変えてもう一度首と腕を出すのである。

 提灯抜けという名場面は、当初はなかったらしく、何度か上演するうちに、役者の発
案を取り入れたという。これは大きな提灯が突然ぱっくりと割れ、中からお岩の亡霊
が現れて宙に飛び去るのである。

 鶴屋南北は初演に先立って、「これは事実談である。稽古中に祟りと思われる事故
も起きたので、四谷のお岩稲荷にお参りした」などと言い触らしたそうだ。もちろん祟り
というのはウソで、物語は四谷付近で伝えられていた巷説をもとにした南北の創作で
ある。ただし「役者がお岩の墓を建てたところ、お参りする人が大勢あった」という記
録はあるから、お参りなどの事実はあったらしい。現在でもこの怪談は事実に基づくと
思っている人がいるらしいから、話が不気味であるほど、噂は根強いということであ
る。当時その噂があまりやかましくなったからだろう、町奉行では町方に調書まで作ら
せている(文政十年「於岩稲荷来由書上」)。

 この「書上=かきあげ」が主たる典拠としているのは「四谷雑談集」であると思われ
るが、それによると、実際にあった事件は南北劇とは全く違った性格のものである。
そもそも幽霊などほとんど登場しないのだ。


<四谷雑談集が語る「真相」>

 話の元になった事件は貞享四年(1687年)頃から元禄年間に起きたと思われる。
もちろん、お岩にまつわる話は市井の一小事件にすぎず、元は四谷左門町あたりで
語り伝えられた巷説であった。公式に記録されたのは「書上」が初めてである。当時
すでに百五十年近く経過していて、どこまでが真相かは分からない。三田村鳶魚氏の
「四谷怪談の虚実」(中公文庫『芝居の裏おもて』所収)によれば、お岩稲荷に祀られ
ているお岩さんは、事件のお岩さんの数代前の先祖らしい。

 もっとも、一番古い資料としては、享保十二年(1727年)に現れたらしい「四谷雑談
集(よつやぞうたんしゅう)」がある。これは出版されたものでなく、手書きの写本なの
で正確な成立年代は分からないが、そのうち現在知られている最も確からしい日付
が、享保十二年になっているのだ。写本であるから、書き写す際に多少内容にも変化
があったらしく、異伝もあるという。

 早稲田大学「近世実録全書」第四巻の版は、図書館などで借りて読むことができ
る。また口語訳では高田衛氏編の「日本怪談集江戸編」(河出文庫)もある。入手難
だが、古書店などで買い求められる。「雑談(zoudanでなくzoutanと読むそうだ)」と
は珍談奇談の類のことであり、もちろんいわゆる怪談も含まれる。古くは鈴木正三の
「奇異雑談集」という百物語系統の本も存在した。

 「四谷雑談集」では発端にお岩が夫の伊右衛門に騙され、絶望から失踪(おそらく
入水自殺)するまでの経緯が述べられ、そのあとお岩を騙すのに関わった関係者の
家が奇妙な事件や事故から没落していくのが語られる。「集」といっても、独立したい
ろんな話を集めたのでなく、お岩の祟りとして巷説に物語られていた話を集大成した
ものということであろう。四谷雑談集は「実録」と銘打たれているので、いちおう事実に
忠実と考えておいて、その概要を紹介しよう。

 四谷左門町の同心田宮伊織は五四歳の時眼の病気を患って先が長くないと悟った
が、一人娘のお岩しかいないため、「このままではお家が断絶する」と婿養子を取るこ
とを企てた。ところが、このお岩は性格が悪かったので嫁のもらい手がなかったうえ、
21歳の時天然痘にかかり、道行く人が顔を背けるような醜い娘になってしまってい
た。それをうまく騙して、摂州浪人の伊右衛門を婿養子にした。伊織はその直後、延
宝八年(1680年)に死んだ。

 伊右衛門は食い詰め浪人の身は免れたものの、田宮家はさほど豊かなわけではな
く、内職に精を出す毎日である。そのうえ女房が醜いのは何としてもお面白くない。数
年も暮らすうち、どうにかしたい気になってきた。たまたま近隣の与力伊藤喜兵衛は
すごい美人を二人も妾にしていて、そのうちの一人、お花が特に伊右衛門の気を引
いた。伊藤喜兵衛の方でもお花が妊娠したので、「この年で子供を作るのは外聞が
悪い」と考え、お花を誰かに押しつけようとしていた。

 そこで伊右衛門は喜兵衛と共謀して一計を案じ、家計をだんだんに苦しくなったよう
に偽装した。着物や家財を片っ端から持ち出しては他家に預け、「博奕に負けて売り
払った」と言い聞かせたのである。そのうえお岩にたびたび家庭内暴力を振るった。
取り乱した様子のお岩が伊藤家に相談に行くと、喜兵衛は「お前さんは伊右衛門と離
縁して奉公にでも出なさい」と勧めた。そこでお岩は気が進まぬながらも離縁して、あ
る武家屋敷へ縫物奉公に出た。

 その後、伊右衛門はお花を後妻に娶り、田宮家に居座った。これが貞享四年(168
7年)のことである。父伊織の死から七年後だが、後の場面で、霊媒を呼んでお岩の
霊を呼び出したとき、お岩が「此家へ来たりて一年程は左(さ)もなかりしが、母も此世
を去り給ひて誰憚る者もなくなりて」と言ったとあるので、父の死後まもなく母も死んだ
ことになる。

 さて、家計を立て直して伊右衛門との生活を再開するのを楽しみに奉公していたお
岩だが、たまたま顔見知りだった煙草売りの男がやってきて、「ああ、お岩さん、こん
なところで奉公なさっていたんですか?あの伊右衛門は元の田宮家の屋敷で後妻を
取って、子供も四人いますよ」とぺらぺらしゃべるのを聞いて怒り狂った。ただ裏切ら
れただけではない。自分の生まれ育った家を乗っ取られたのだ。そのまま奉公先を
飛び出して四谷御門の外へ駆けて行った。田宮家の中も少しのぞいてみたらしい。そ
れから江戸城のお堀のある方へ走って行って、行方知れずになった。たぶん身投げ
をしたのだろうということになったが、死体はついに上がらなかった。

 ここまでが発端である。このときお岩が鬼のような形相で走り抜けた通りを「鬼横
町」と呼んだということだ。「鬼が走った日」のことを四谷では長く語り伝えた。現地で
は鬼横町の場所ははっきりしているのだろうが、地図などでは確認できない。高田衛
氏の著書『お岩と伊右衛門〜四谷怪談の深層』で見ると、223ページの古地図の中
央付近に、並んだ屋敷の途中の抜け道のような短い通りに「ヲニヨコ丁」とある。その
上方に「於岩イナリ」があるので、これがそうだろう。

 三田村鳶魚の著作では、妙行寺などで過去帳を調べると、お岩稲荷のお岩は寛永
十三年(1636年)に世を去った古い時代の人で、言い伝えでは美貌の賢夫人であ
り、田宮家中興の祖と崇められた女性であった。しかし田宮家五代目伊左衛門の妻
だったらしいお岩(らしい)のは、元禄15年が命日といい、これも遅すぎるのではない
かと言っている。私は、これはお岩が死亡と認定され、最初の葬儀を行った日付では
ないかと推量する。後述するように、お岩が家を出た後、伊右衛門に次々と四人もの
子供ができたというのに、彼女が全く知らないわけがないと思うからだ。

  1. お岩が離縁となり、奉公に出る
  2. 伊右衛門が後妻を家に入れる(貞享4年:1687年)
  3. 後妻が子供を産む(元禄元年:1688年以降)
  4. お岩が事実を知り、「鬼走り」後失踪(不明)
  5. 後妻の子供および後妻が死ぬ
  6. お岩の命日(元禄15年:1702年)
  7. 伊右衛門の命日(正徳5年1715年)

 このように見ると、 3と4が入れ替わってもそれほどおかしくない。この言い伝え全
体が作り話でないのであれば、おそらく後妻(本名はおこと)が産んだ最初の子(実は
伊藤喜兵衛の子)のことを知ってすぐに狂走したことと思われる。おことは入籍した時
すでに伊藤喜兵衛の子を身ごもっていたというから、第一子が生まれたのは翌年(元
禄元年)のことだろう。するとその直後、元禄元年かその翌年にお岩の失踪があった
とする方が妥当だろう。

 物語の大半はその後日談、つまり伊藤喜兵衛の家の断絶、伊右衛門の妻子の相
次ぐ死と伊右衛門自身の奇妙な死、仲人を務めた秋山長右衛門家の滅亡を語るも
のである。

 たとえば、伊藤喜兵衛はお花を伊右衛門に押しつけて片づけた後、養子を取って家
を継がせ、自分は隠居して伊藤土快(どかい)と名乗った。ある日養子(二代目?喜
兵衛)は友人と吉原に遊びに行った。夕方になって友人は酔い覚ましに独りで界隈を
散歩していたところ、たまたま遺恨を持つ者に出くわし、殺されてしまった。二代目喜
兵衛は友人が戻ってこないので探しに出て、殺されているのを発見したが、「場所が
悪い」と届け出もせず逃げ帰り、知らぬふりをしていた。後にこれが発覚して、「不届
きである」というので、養子は処刑されてしまった。伊藤土快にはもう跡継ぎもなかっ
たので、家は断絶となったのである。

 小二田誠二氏の研究によれば、この吉原の殺人事件は、実名こそ違え、公式記録
にもあるそうである(国書刊行会『叢書江戸文庫』第26巻「近世奇談集成一」月報「写
本の本懐」)。実際にあった処刑の日付は元禄7年4月27日となっている。もちろん
祟りかどうかは分からないし、そもそも伊藤喜兵衛がお岩の失踪事件に関わったかど
うかも分かっていない。しかし何がしかの事実を参照して書いたものには違いなかろう
という。

 実際、「四谷雑談集」の記述では、伊藤喜兵衛が最も悪辣だった。伊右衛門が婿入
りした当初から、家の修理などの大工仕事にたびたび呼びつけ、さながら召使いのよ
うに利用していたのである。また「己れが気に入りたる同心は頭(かしら)へ取り成し、
少しの事にも褒美を取らせ、己れに合はぬ者あれば左(さ)もなき落度を言立て、思
ひ掛けなく御扶持を召放される者多かりき」(早稲田大学出版局『近世実録全書』第
四巻:昭和4年)というえこひいきの多い人物だった。逆らえば同心をクビになりかね
ないのだから、伊右衛門もやむなく従ったわけだ。

 この「雑談集」には、伊右衛門の死の場面のように、明らかな誇張あるいは創作も
見える。ふとした事故がきっかけで耳に腫れ物ができ、寝ているとそれを鼠が食いか
じる。それが痛いと言うより快感のように感じて放置しておいたら、だんだん鼠の数が
増えて、これは危ないということになった。そこで伊右衛門を長持ちの中に入れてお
いた。すると、どこから入ったものか、たくさんの鼠が長持ちに入ってついに伊右衛門
を食い殺したというのである。

 三田村鳶魚氏の考証(前掲)によれば、実在した伊右衛門(実名は伊左衛門)の死
は正徳五年で、お岩の失踪後20年以上も生きていた。ほぼ天寿を全うしたわけで、
とても祟りで死んだとは思えない。だがお岩を騙して追い出した後にめとった後妻(お
花でなく、実名はおこと)は早死にしたし、もうけた子供も次々に死んでしまい、本人は
「お岩には済まぬことをした」と後悔したのかもしれない。もうそれ以上妻もめとること
もしなかったので、田宮家はいったん断絶した。

 この後、お岩と伊右衛門の婚礼の仲人を務めた秋山長右衛門の家も没落してしま
った。

 おそらく「雑談集」の語る伊右衛門の死の経緯は、それまでに流布していた百物語
怪談を付会したものだろう。別の百物語集には、猿が背中を掻いてくれるのが快感
で、掻くに任せていたら、とうとう殺されてしまったという話がある。

 他にも不可解な点がある。たとえば「離縁して奉公に行け」というところである。なぜ
離縁しなければならないのか、現代の私たちにはピンとこない。しかし、次のような話
を読めば、当時はそういうことがあったのだなあと納得できる。

 江戸で商売をしていた男が、妻には内緒で美人の妾を囲っていた。そのうち、だん
 だん古女房が疎ましくなり、なんとか離縁して妾を女房にしたいと思った。だが、女 
 房にはこれといって落ち度はない。そこで男は一計を案じ、家財を少しずつ持ち出 
 して次第に窮迫するかのように見せかけた。最後に妻に「とうとう生計が立ちゆかな
 くなった。ついてはわしもどこかに奉公するから、お前も奉公しろ。だが奉公するとな
 ると、夫婦ではいられない。ここで形ばかり離縁して、また元手が貯まってから改め
 て夫婦になろう」と言い聞かせて離縁した。

 先妻はいつか夫と元の鞘に収まるのを楽しみに一所懸命に奉公していたが、ふとし
 たことから元の家に行ってみると、夫は若く美しい後妻とともに、元のままに商売を
 しているではないか。怒り狂った先妻は、ある夜後妻の喉に食いついて殺してしまっ
 た。

 この話は『叢書江戸文庫』27「続百物語怪談集成」(国書刊行会)」で読める。(「新
説百物語」巻之三「先妻後妻に食ひ付きし事」/明和四年:1767年刊行)

 四谷で語られていた巷説は、当初この形に近かったようである。お岩は伊左衛門が
裏切るとは夢にも思わず、家計を助けるために必死で働いていたのである。婿養子
が離縁するということになると、普通は婿の方が家を出て行くのが道理だが、「雑談
集」では、伊右衛門が婿入りする時、同心の株を買ったとあり、簡単には追い出せな
いという事情が語られている。これは伊藤喜兵衛が嘘を言った可能性が高い。「みん
なで寄ってたかって騙した」ということだろう。

 次の疑問点。

 この中に関係者が、変事が相次ぐのに困って霊媒を招き、お岩の霊を呼び寄せる
場面がある。そして「そなたは生霊か、死霊か」と質問している。これに対して霊媒は
(つまりお岩の霊は)、「生きていようと死んでいようと関係はない。三つの家を絶やす
まで祟ってやるだけだ」とはぐらかしている。この問答は、今日の多くの人々には納得
のいかないところであろう。今日では「霊」といえば一般に死霊のことだからである。

 しかし、江戸時代の初期にはまだむしろ生霊の方が一般的であったし、死霊よりも
威力があった。南北の少し前に活躍していた山東京伝の「桜姫曙草紙全伝」には、桜
姫に恋慕した清玄の生霊が(無意識に)いろいろな怪異を表す場面がある。

 源氏物語の六条の御息所(みやすんどころ)の霊は日本文学に最初に登場した怨
霊ではないかと思うが、やはり無意識の嫉妬が現した生霊である。江戸初期に多く見
られた百物語系の怪談集では、半数近くが狐狸などの化けた妖怪であり、これも生
霊と見られなくはない。

 生霊を退治するには、その霊の本体を探し出して殺すのである。そうすれば怪異は
止む。これに対して、死霊の多くは念仏や法会開催で鎮める(成仏させてしまう)のが
正しい対処の仕方である。つまり、生霊と死霊では対策の立て方が違うので、関係者
は悩んでいたのだ。

 そういえば上田秋成の『雨月物語』の中の一編、「蛇性の婬」では、蛇の妖怪である
真奈子(まなご)の正体が明らかになって、豊雄は真奈子との縁を解消し、富子という
女性と結婚する。ところが二日目の夜、冗談などを言って楽しく会話している途中に、
「富子即(やが)て面をあげて、『古き契を忘れ給ひて、かくことなる事なき人を時めか
し給ふこそ、こなたより増して悪(にく)くあれ』といふは、姿(かたち)こそかはれ、正し
く真奈子が声なり。」(有朋堂文庫『上田秋成集』昭和6年より引用)という印象的な場
面になる。これも真奈子の生霊が富子に取り付いたのだ。

 初めはこの「かくことなる事なき」の意味がさっぱり分からなかったが、実は『源氏物
語』「夕顔」にほとんど同じ言葉が使われていた。六条の御息所の生霊と考えられる
霊が出現して、「かく、ことなる事なき人を、率(い)ておはして、時めかし給ふこそ、い
と目ざましく、つらけれ」(岩波日本古典文学大系)と言うのである。「かく異なる事なき
人」とは、「このように取り立てて特徴もない平凡な女」という意味だった。

 上田秋成がこの場面で『源氏物語』を用いたのは、言わば定型パターンの踏襲によ
って、生霊が出現したことを明瞭に示したかったのだろう。ただし霊の出現の仕方が
少し違い、源氏物語では「いとをかしげなる」(とても美しい様子をした)女が枕元に現
れてこのせりふを言ったとある。夕顔に直接取り付いたわけではなかった。

 なお「四谷雑談集」に取材したと思われる作品は、南北劇以前にも幾つか現れてい
る。たとえば柳亭種彦の「近世怪談霜夜星」(文化五年:1808年)は、登場人物の名
前が変えられ、経緯も少し違っているものの、ほぼ原形に近い筋書きになっている。

 この「四谷雑談集」は、現代人が読むとさほど恐ろしいものではない。書かれた当時
は差し障りがあったのか、出版されることはなく、貸本屋を通じて写本が貸し出された
らしい。それをこっそり借りて読むのは、楽しみでもあり、怖くもあったようだ。

 死霊が強い霊であるという認識が広がったのは、元禄三年に出版された「死霊解脱
物語聞書(しりょう・げだつものがたり・ききがき)」という本以来のことであろう。元禄
三年といえば、田宮伊右衛門が後妻お花を娶った貞享四年から三年後のことであ
る。この物語に語られているのは、出版に先立つこと十八年前の寛文十二年(1672
年)、鬼怒川沿いの羽生村という村で起こった事件である。菊という農婦(といっても
当時数えで十四歳、満十三歳の少女妻)に、その二十六年前に殺された累(かさね)
という女の死霊がとりついて、自分を殺した男(菊の父)を告発した他、様々なことを
述べたのだ。

 この事件は、江戸の人々に強い衝撃を与えたようである。「聞書」が出版される前に
も、いち早く事件の簡単な報告が現れているそうだ。しかも「聞書」が書かれた頃に
は、まだ関係者の大半は存命であった。著者は残寿という僧で、これら関係者にも直
接インタビューして「聞書」を書いたものらしい。

 享保十二年(1727年)に最初の「雑談集」がまとめられたものだとすると、伊右衛
門(本名は伊左衛門)の死後十二年、お岩の失踪から少なくとも二十五年たってお
り、直接の関係者はもう誰も存命していなかった。物語がいわゆる都市伝説と化して
多少の尾ひれが付くのは仕方がないだろう。誰もがよく知っている物語に似たような
シチュエーションがあると、人は無意識にそのよく知っている物語の方に引き寄せて
語るようになる。お岩の悲劇も、もっと昔に起こった累の物語に似通ったものとなっ
た。


<類似系=累の物語>

 「死霊解脱物語聞書」は江戸前期を通じて密かなベストセラーだったという。基本的
にはフィクションである怪談と違って、この物語はドキュメンタリであるため、いわゆる
文学史上の怪談には分類されないが、そこに登場する累の霊は、南北の四谷怪談
が登場するまで、我が国の代表的な怨霊となった。何よりもこれが純国産の、庶民
(農民の女)の怨霊であったことは、人々にとって身近な恐怖として感じられたであろ
う。すぐに能狂言や芝居になり、繰り返し、しかも徐々に変形しながら上演され語られ
続けた。

 この話は高田衛氏の名著「江戸の悪霊祓い師」(ちくま学芸文庫)にほぼ全容が紹
介され、詳細に考証されている。前掲の『叢書江戸文庫』26巻「近世奇談集成一」
(国書刊行会:1992年)にも原典が収められているので、興味のある方は参照され
たい。

 江戸前期の怪談を見ると、狐狸といった動物霊の妖怪が多い。人家においても「猫
又(ねこまた)」という妖怪があった。西洋で言う「九尾の猫」、何度も生き返る動物の
妖怪と思われる。ポオの「黒猫」もそうだった。

 実は江戸前期の怪談のうち、人間の怨霊話には中国からの輸入品が多かった。
「牡丹灯籠」などは全くの翻案物語である。「皿屋敷」の話も、大坂の作家都賀庭鐘
(とが・ていしょう)の怪談話から派生したのではないかと思われるが、彼の作品はほ
ぼ常に中国怪談の翻案なので、やはり原典が中国怪談にあるのであろう。

 これに対して、累怪談は我が国で起きた実際の事件だったのが特徴である。

 累は、今日一般に「かさね」と呼ばれるが、もしかしたら「るい」であったかもしれな
い。かさねという名はとてもいい名前だったらしいのだが、この話が広まってから女児
につける人はいなくなった。同じく「岩」は女性にとって縁起のいい名前とされていた
が、南北の四谷怪談が現れてからは、誰も付けない名前になったという。

 羽生(はにゅう)村は、現在の茨城県水海道(みつかいどう)市付近にあった。寛文
年間には、まだ飯沼と呼ばれる大きな淡水湖があったかも知れない。その鬼怒川べ
りで起こった事件である。

 寛文十二年(1672年)の正月、与右衛門という百姓の一人娘、菊に累という女の
霊が取り付き、一村挙げての大騒ぎとなった。前年に菊の母親が世を去ったのだ
が、この母親は与右衛門の六人目の妻であった。それまでの妻はみんな子を産まず
に死んだのである。もう跡継ぎ息子の誕生は望めないはずで、やむなく菊に婿養子を
取り、前年の秋(菊の母の死後すぐ)に婚礼を済ませていた。

 菊はその正月に14歳というから、満13歳。誕生日前なら満12歳である。いくら当
時の結婚が早いと言っても、まだまだ少女であった。

 累と名乗る怨霊がこの菊を通じて語ったのは、「26年前、与右衛門に殺された」と
いうことである。彼女は正保四年(1647年)の八月に殺され、犯行はこのときまで発
覚しなかったのだ。もちろん事件は菊が生まれる十数年前の出来事である。

 累は醜い女だった。「聞書」では生まれつき醜かったと述べられているが、菊が正気
に戻って後、顔一面に「もがさのあと」があった、と言っているから、実際は天然痘の
ためだったらしい。「顔かたち類いなき悪女にして剰(あまつ)さへ心ばへまでも、かだ
ましきゑせもの也」、顔かたちが醜いだけでなく、心もねじけていたので、村人からは
嫌われていた。もちろん、彼女を娶る男などいるわけがない。だが彼女は親の遺産と
して田畑と少しの蓄えがあったので、それなりに生計を立てて独り暮らしをしていた。

 あるとき、ここに与右衛門という貧しい男が入り込んで、入婿に収まった。だがしば
らくするうち、「こんな醜い女房を持っていると、財産目当てなどと陰口は叩かれるし、
いっそ殺してもっと見栄えのいい後妻を娶ろう」と思うようになった。

 哀れ成哉(なるかな)賎しきものの渡世ほど、恥がましき事はなし。此女を守りて一 
 生を送らん事、隣家の見る目、朋友のおもわく、あまりほゐ(本意)なきわざに思い 
 けるか、本より因果を弁(わきま)ふるほどの身にしあらねば、何とぞ此妻を害し、 
 異女(ことおんな)をむかゑんとおもひ究めて、有日(あるひ)の事なるに、夫婦もろと
 もはたけに出て、かりまめと云物をぬく。

 ぬきおわって認(したた)めからげ、彼の女に多くおふせ(負わせ)。其身も少々背 
 負ひ暮近くなるままに、家地をさして帰る時、累が言ふやう、「わらわが負ひたるは 
 はなはだ重し。ちと取りわけて持給へ」とあれば、男のいわく「今少し絹川辺まで負 
 ひ行。彼(かし)こより我かわり持べし」とあるゆへに、是非なく苦しげながらやうや 
 う、絹川辺にいたるとひとしく、なさけなくも女を川中へつきこみ、男もつづゐとび入 
 り、女のむないたをふまへ、口へは水底の砂をおし込、眼をつつき喉(のんど)をし
 め、忽ちせめころしてけり。

 引用は国書刊行会「叢書江戸文庫26『近世奇談集成(一)』」(1992)からである。

 ある日、夫婦で畑に出て刈豆というものを抜いたが、与右衛門は累に荷物のほとん
どを背負わせた。その帰り道、累が「私の荷はあんまり重いです。少し取り分けて持
ってください」と頼むのを、「まあ鬼怒川べりまではそのまま行け。そこで代わってやろ
う」と言い、重い荷物にあえぎあえぎ峠を登り切ったところで、無情にも累を鬼怒川に
突き落とし、胸板を踏みつけ川砂を口に詰め込んで溺れ死なせたのであった。彼女
が死ぬと、事故死として届け出、さっさと葬儀も済ませてしまった。累には親類兄弟も
なかったので、与右衛門は誰はばかることなく累の家産を横領した。ただし、この殺
人を目撃していた者が二人いた。

 その後与右衛門は後妻を娶ったが、子供もなく死んでしまい、次々と五人まで嫁を
取り替えた。しかしいずれも子供がなくて死んだ。やっと六人目の妻が女の子を産ん
だので、菊と名付けて大事に育てた。しかしその女房も菊が十三の年に死んだ。そこ
でその年の暮れに金五郎という養子を取って婚礼を挙げさせた。ところが、年が明け
た正月に、菊は突然累の怨霊に取り憑かれたのである。この後、三月に至るまで、
累の怨霊は繰り返し現れて菊に取り付くことになる。

 もちろん、累の死後十数年を経て生まれたのであるから、菊が彼女を知るわけがな
い。その口から殺人事件の詳細が語られたので、村を挙げての大騒ぎとなったの
だ。それどころか、累の怨霊は、殺人の目撃者がいたことも明らかにした。その確か
な証言もあって、与右衛門は頭を丸めて出家することとなった。

 このあと、物語は執拗に取り憑く怨霊を祐天上人が念仏の力で「解脱」させる経過
を語る。もっとも、累が解脱した後にも、「助」という少年の霊が新たに取り憑くなどの
展開がある。

 ところで「聞書」では、累殺しは巻頭で簡潔に語られているだけであり、物語の大半
は怨霊を追い払う祐天上人の奮闘に当てられていた。しかし、歌舞伎などで上演され
ているのは、クライマックスが累殺しになっている。たとえば累怪談ものの中でも名作
とされる「伊達競阿国戯場(だてくらべおくにかぶき)」がそうだ。初期の狂言ではもう
少し「聞書」に忠実だったのではないかと思われ、累は最初から醜い女として登場す
るが、「伊達競」に至ると、累は最初美女として登場し、殺された姉の呪いによって醜
く変貌することになっている。なぜ姉が妹を呪うかというと、この姉は絹川という相撲
取りに殺され、彼の恋人が妹の累だったからである。しかも累は殺されたとたん、もと
の美女の顔に戻る。つまり、この頃にはまだ四谷怪談(南北の作)的な怨霊劇ではな
かった。

 ここで累の物語とお岩の物語の類似点を列挙してみよう。

項目

累の物語

お岩の物語

容貌

醜い女(天然痘)

醜い女(天然痘)

性格

かだましきゑせもの

至って性質悪しく

持っていたもの

親から受け継いだ田畑

親から受け継いだ家

与右衛門に殺される

伊右衛門に騙される(自殺)

後妻

五人まで早死にした

一人だけだが早死にした


 このように見ると、基本的には同じ物語の作り替えとさえ見える。違いは累が農民
の娘で、お岩は武家の娘であったことだ。

 また事実談としては醜い女であった累とお岩は、芝居として上演されるようになった
とき、いずれも美しい女が芝居の途中で醜く変貌するという筋書きに変化して行く。こ
のことも共通点であろう。

 作劇上の必要からこのようにしたと考える人もある。劇の初めから醜い女では、ヒロ
インに感情移入しにくく興味が半減するというわけだ。しかし、私はある女性論者が言
ったような、「罪なくして殺され家産を奪われた女への鎮魂」という要素が大きかった
のではないかと考える。

 「死霊解脱物語聞書」、「四谷雑談集」のいずれも、累やお岩を心までねじけていた
と書いているが、それを示す具体的な記述はない。それどころか、「聞書」のごく簡単
な記述にも、累にはけなげなところがあることが分かる。重い荷物を夫の命に従って
背負ったまま、あえぎあえぎ峠を登ったのである。どうやら自分のような醜い女と一緒
に暮らそうと言ってくれた与右衛門を大事にしなくてはと思っていた様子が見て取れ
る。「雑談集」のお岩もそうだったらしい。

 お岩のまた思ひけるは、我々には親類もなく味方に成るべき人もなし、是れ程広き
 江戸中に知る人は大勢あれども、沁々(しみじみ)と内証咄しする人もなければ、只
 だ伊右衛門殿を神とも仏とも親とも子とも兄弟とも明かし暮らすのほか無き処に、何
 時の頃よりか余所歩きして、

という文章がある。伊右衛門に頼り切っていたのだ。伊右衛門がかなりすさまじい家
庭内暴力を振るい出したときには、「あんな人じゃなかったのに」と気も動転して隣家
(伊藤喜兵衛の家)に駆け込み、大泣きして相談している。どうやら、彼女たちが醜か
ったこと以外に、殺されたり自殺に追い込まれる理由は見いだせない。累殺しを目撃
した村人がその後26年もの間沈黙していたのは、「あんな醜い女なら殺されても仕方
がない」と思ったかららしいし、お岩にも忠告するとか、いい解決策を考えてやろうとす
るものはおらず、彼女を死ぬほどの絶望状態に追い詰めて顧みなかったのである。


<羽生村事件の真相>

 こういう事件は、あえて真相を語る必要もないのだが、合理的な説明は可能なの
で、一応触れておく。

 第一の事件である累殺しは、与右衛門の犯行であることが確実である。本人も自白
し、償いとして出家したと記録にある。

 問題はもう一つの事件、つまり菊を通した死霊の出現だ。当時この事件は霊魂およ
び「あの世」の存在を証明したものとして、また怨霊を「解脱」させた念仏の「法力」を
実証したものとして喧伝されたようである。

 もちろん現代の我々にはとても信じがたい。累殺しから十数年たって生まれた菊の
口からはじめて殺人の真相が明かされたことが、本当に死霊の実在を証明するの
か?というより、菊は本当に累殺しを知らなかったのか?

 累の怨霊は何度か繰り返して菊に取り憑くのだが、最初の出現の後、正気に返っ
た菊が村人に累という女について語る場面がある。「世にたぐひなく恐ろしき老婆の
姿成(なり)しが」、つまり菊の見た累はこの上なく醜い老婆の姿だったという。このく
だりで、読者はあっと気付くことになる。結局は、すべて菊の妄想だったのである。

 なぜかと言えば、累は殺されたときまだ若かったはずなのだ。与右衛門が累を殺そ
うと決意したのは、「此女を守りて一生を送らん事(このように醜い女を守って一生を
送るのでは」と考えたからである。老婆であれば「待っていればそのうちに死ぬ」と思
ったであろう。殺さなければならなかった最大の理由は、まだ若い女だったからに違
いない。

 与右衛門の出身は定かではないが、高田衛氏の前掲書『江戸の悪霊祓い師』(ちく
ま学芸文庫版128ページ以降)によれば、当時は江戸の地を住みやすくするために
鬼怒川や利根川に対する大改修が行われていた時期であり、他郷から流れてきた工
事関係者や労務者のたぐいが羽生村のような土地に出入りしていたらしい。与右衛
門もそうした他郷の出身だったのであろう。つまりは親の家が継げず、山に入って林
業や炭焼きを営むか、他郷に仕事口を探すしかない次男坊、三男坊だったのだと思
われる。

 彼が累の家に入り込んだときは、まだせいぜい二十五歳ぐらいだったと考えるのが
自然だ。累もやはり二十代で、まだ老婆とは呼べない年齢だったに違いない。

 ではなぜ菊が見たのは老婆だったのだろうか。それは菊が父の妻としてイメージで
きるのは、父親の年齢(たぶんそのころは五十代で、当時としてはもう老人である)と
釣り合う年代の女、つまり老婆だったからなのである。

 このように考えると、怨霊はすべて菊の妄想だったことになる。おそらく、彼女は自
分の父親が、遠い昔に怖ろしい殺人を犯したことを誰かから聞いて知ったのだろう。
声高にしゃべらなかったにしろ、その事実は村人の間で「公然の秘密」だったのに違
いない。

 当時、菊はまだ数えで十四歳、満年齢なら十二歳と幼かった。思春期に差しかかっ
たところだ。栄養状態の良くない昔なら成長も遅かっただろうから、初潮を迎えて間も
なく結婚したことになる。肉体と生活の大きな変化は、彼女の心に強い衝撃を与えた
であろう。

 しかも、彼女は累と同じく入り婿を迎えている。無意識に自分を累になぞらえて考え
たとしても当然であった。優しかった、しかし殺人者である父への愛憎、父と同じよう
に自分を殺すかも知れない夫。そうした状況への恐怖がこの少女妻の心の中で荒れ
狂ったのだと思われる。

 彼女が初めて父親の犯罪を知った時のショックは、いわば身近な親しい人が化け
物だったと知ったのに等しい。「お前のお父っつぁん、人殺しだぞ」と、誰かから聞かさ
れるのを想像してみるといい。自分を慈しみ育ててくれた父の姿が、突然恐ろしい地
獄の影を引きずり始めるのだ。しかも彼女が地獄巡りを語る内容からは、当時庶民
に対して行われていた浄土宗系の「あの世」の光景が、そのまま見て取れる。『往生
要集』の内容そのままなのである。


<祐天の疑念>

 祐天和尚は、事件後、「尼になりたい。祐天和尚の弟子にしてください」という菊の
希望を拒絶したことも記されている。村人がみんな「それはもっともな願いだ」と賛同し
て祐天に願い出ると、最初は

 菊が剃髪の事、さらさらもって無用也。其故は、菊よく聞け、汝此度累と助が怨霊に
 取付れしゆへ、それ成(なる)与右衛門も金五郎も、世にたぐひなき苦労を受けしな
 り。その上の又その方出家せば、いよいよ二人の者に苦をかけんか。自今以後は
 其身もそくさい(息災)にて、与右衛門にも孝をつくし、夫にも能(よく)したがひ、現世
 も安穏にくらし、後生には極楽へ参らんと思ひ、ずいぶん念仏をわするな。

と理由にもならないことを言って断るのである。つまり「お前は今度、怨霊に取り憑か
れたために、父親も夫も多大の迷惑を被った。この上出家すれば、彼らはもっと苦し
むだろう。これからは父と夫によく仕えて、平凡な農婦として暮らせ」というのだ。

 この時の祐天の考えは、いろいろに解釈できる。浄土宗の教えを広めるためには、
彼女が尼になれば「地獄を見てきた尼さん」として信仰を集め、大勢の人が彼女の説
法を聞きたいと尼寺を訪れることになっただろうが、祐天はそれを拒んだ。後に再度
の訴えに対しては、より子細に説明している。

 在家は在家のわざあり。出家は出家のわざあり。跡前(あとさき)しらぬ若輩者、修
 (しゅ)しもならはぬ比丘尼のわざ、いとふびんの事也。・・・(中略)・・・此菊剃髪し 
 て、袈裟衣を着して、此(ここ)や彼(かしこ)と徘徊せば、燐郷他郷の人までも、「是
 ぞ地獄極楽を、直(じき)に見たる、お比丘尼様よ、ありがたの人や」とて、敬ひほめ
 そやされば、本より愚痴の女人成(なる)ゆへ、我身のほどをもかゑりみず、鼻の下
 ほゝめいて、あらぬ事をもいゝちらし、少々地獄極楽にて、見ぬ事までのうそをつ  
 き、人の心をとらかし、信施はかずかず身につみて、富貴栄花にくらすならば、厭離
 の心は出まじぞや。


 つまり全く人生経験もないままに地獄極楽を実見してきたという彼女が尼になれば、
無知な大衆からは盲目的にもてはやされ、お布施も多く集まり、思いもかけず富貴な
一生を送ることになるだろう。修行もできないままに自ら悟りを開いたかのように錯覚
し、時には嘘八百を並べ立ても大衆に迎合するようになるかも知れない。それではか
えって修行の妨げになるはずだと言うのである。この祐天の説明は非常に詳細で、
『聞書』の著者、残寿が祐天から直接聞いたことであろう。つまり、だが真意はどうだ
ったのだろう。

  1. 彼女が平凡な農婦として一生を終えることこそ、怨霊解脱の証明になると考え
  2. 祐天は彼女の特異な経験を嫉んだ
  3. 彼女に取り憑いた怨霊を信じなかった

 多分、一般的には1.の解釈が成されているだろう。つまり念仏の力によって、いっ
たん怨霊が解脱したからには、それは二度と再帰しない。それを証明するには、普通
の庶民としての一生を送る方がいい。尼になれば日夜念仏三昧になるだろうから、死
霊は近寄らなくて当たり前だ。それでは父から娘を奪い、夫から妻を奪うことになり、
彼女がこの世にある限り、憑依事件を長く確定したものとしてしまう。だが仏法には物
事を正常化させる働きがあることを広めることが重要である。つまり、浄土宗の教え
を特に権威づけるためには、そもそも憑依事件がなかったならばこのようであったと
いう状況に引き戻すことが得策だということだ。

 しかし2.の解釈もあり得る。後に祐天は悪霊祓いのスーパースターとしてもてはや
され、浄土宗教団の最高位に上り詰めた。もし地獄を見てきた菊が出家してどこかの
尼寺にいたら、彼女ばかりがスターになり、祐天の存在もかすんでしまうかも知れな
い。祐天には自分を特別な霊能者として位置付けたい考えがあったので、それに対
抗する特別な憑依者の存在を打ち消したかった。

 地獄を見てきた菊が、近隣の住民の「あの世でオレの親を見たか」という質問に、
一つ一つ「お前の親は何々地獄、お前の親は何々地獄」と答えたという場面がある。
腹を立てたある男が「みんな地獄だと?何を言う。オレの親は絶対に悪いことをして
いない」と言うと、「お前の親はかつて旅の僧の衣服を奪ったことがある。証人もいる」
と喝破したので、男は赤面して引き下がった。祐天以上に強烈な能力があったのであ
る。残寿はこの話を疑わなかったが、「あまり詳細に渡るので、一々書かない」として
いる。

 だが祐天が悪霊祓い師としてもてはやされたというのは、偶然に過ぎない。彼は後
年一時隠退して、一人研鑽に励んだ。これをきっかけに出世しようという強い意志は
なかったように思われる。ただし「南無阿弥陀仏」の六字名号は、求めに応じて書き
与えた。

 私は3.の考えを支持する。祐天は少女を救いに出かけたが、悪霊が取り憑いたと
は思っていなかった。最初に菊が怨霊に取り憑かれた時、父親は「お前が生まれる
前のことなのに、真相を知るわけがあるまい」と言い、「目撃者がいる」と、手もなく論
破されている。おそらくそのことから、累殺しは公然の秘密であり、菊も誰かからその
話を聞かされていたと推理したであろう。ところがこの少女は意外にも利発であり、な
まなかな道理を説いても容易に憑依状態を脱する気配がなかった。悩乱し泣き叫ぶ
姿は、傍目には苦しそうであっても、実は彼女の心の状態からすると唯一の救いの道
だったのだ。それを仏による、「まっとうな」救いの道に引き戻す方法はあるのか?

 祐天は半ば暴力的に菊に念仏を唱えさせ、妄想を追い払うことに成功した。その後
も「助」という怨霊との格闘があるのだが、私には付け足りとしか思えない。そもそもこ
の「助」の存在は、全く裏付けがない話なのである。

 真相は、菊には祐天による累の妄想払拭が忘れられず、父よりも夫よりも、祐天こ
そ頼るべき人と思い、再び彼を呼び戻そうとして、憑依状態に入ったのであった。最
後に「尼になって、祐天の弟子になりたい」と思ったのは、そのためであろう。「助」な
どというのは、古老が適当に理屈付けをした架空の存在だったのだ。菊に取り憑いた
「霊」は、最後まで累のみであると考える。

 祐天は累の一件が片付いた後、寒い中で菊がわらの寝床に寝かされているのを憐
れみ、着物や食べ物を与えている。だが田舎寺のことで、「助」の怨霊を成仏させた
後には、何程のこともできなかった。元来、近隣の信徒の寄付(お布施)でまかなって
いるのだから、それを元に返すだけである。大したことができないのは当然だ。それ
でも農婦でいるよりは、ずいぶん安穏な暮らしができそうである。

 しかし彼女の憑依体験は、祐天には信ずるに足りないものと思われた。彼は後年
一時隠棲して、仏法の研究を行ったという。その中では「死後の霊魂などは虚妄であ
る」、「現世往生こそ仏法の目的である」といった仏教の根幹に触れたであろう。

 彼自身も合理的思考のできる人物だったらしく、高位に登ってからは、寺の防火の
ために学生僧たちをいろは48組に分けて、分担制で見回りなどをさせたという。「心
構え」や闇雲な「信心」に頼らず、現実的なシステムとして取り組んだのである。その
効果は絶大だった。当時寺院が失火で焼失することは珍しくなかったが、祐天が指導
者になった寺では、全く火事がなかった。これが江戸の町火消しの起源になったとも
言われている。

 だが逆に、彼の「霊能」は評価が高くなるばかりで、彼の書いた名号は防火に役立
つとか、火事になったが彼の名号だけは不思議に焼け残ったとか、珍妙な伝説の対
象にもなっている。もし自分で「霊能者だ」と言いふらしたのでは、このような結果には
ならないだろう。彼自身は累事件以降にも、たびたび悪霊に取り憑かれた人からの依
頼を受けており、ことごとく問題を解決しているが、自分の能力でなく、仏の教えの力
だと考えていたようだ。

 つまり彼は、菊が霊能者であることによって、かえって仏の道に入る適応性がある
ことを疑ったと思うのである。彼の見るところ、悪霊とはその個人の心の悩乱に過ぎ
なかったであろう。

 たまたま累の事件が有名になったため、彼は悪霊祓い師、近世の怪僧と見られる
ことになり、宗門の最高位に登った人物なのに、吉川弘文社の『事典日本の名僧』で
も除かれている。だが彼の立場からすると、「怨霊は菊の妄想にすぎない」と言い切っ
てしまうことは、事件に関わった多くの人に恥辱を与えることになり、彼らが存命中で
あれば、かえって事件を紛糾させることになりかねなかった。浄土宗の念仏が悪霊を
祓うのに有効であると示されればそれで良かったのだろう。

 祐天は12歳(まだ祐典と名乗っていた)の頃、暗愚のためどうしても経文が憶えら
れず、ついに師である檀通上人から勘当(破門)を言い渡された。本来生家へ返すと
ころだったが、貧しい百姓の子供であり、暮らしに困って寺へ連れてこられたので、生
家からも勘当になっている。結局寺には置いてやるが、僧籍はなく、正式の教えも受
けられないという立場になってしまった。そのため、自殺を図ったが果たせず、成田
山新勝寺にこもって断食行を行ったところ、三七日目(21日目)の夜、不動明王が現
れて剣を呑ませた。それからは不思議に経文がすらすらと頭に入ったという。

 しかし勘当は解かれず、許されるのは檀通上人の死の床においてであった。その
時38歳というから、25年以上もの間勘当されたままだったのだ。彼が累事件など
数々の憑依事件に関わったのはまだ勘当中のことで、正式の僧ではなかった。にも
かかわらずその間にも他宗との法論などで駆り出され、雄弁を賞賛されたという。(早
稲田大学出版局『近世実録全書第八巻』「祐天上人」:昭和三年より。この中には、累
事件の経過がほぼ『聞書』そのままの形で記載されている)

 私は、彼が少年の頃、吃音(どもり)だったのではないかと思う。「暗愚」というのは
誤解だったに違いない。吃音には精神的なストレスや強迫観念に起因するケースが
あり、きっかけさえつかめば、普通に話せることも珍しくないそうだ。後には雄弁で知
られた彼が、暗愚で全く経文を憶えられなかったとは信じられない。むしろ経文の内
容に疑念を持つことの多い性質であり、一文字読んでは「これはどういう意味か」と考
え、考える度につかえて先へ進めなかったと見る方が妥当であろう。

 それでもこう語り伝えられるのは、異例の出世を遂げた人物が、「自分もかつては
出来の悪い子供だった」と回想するようなものだ。長く正規の僧職になかったことは事
実らしく、あるいは怨霊事件や他宗との論争など、浄土宗への挑戦を受けた時、「彼
ならば失敗しても『あれは正規の僧ではない』と言い抜けることができる」というので、
便利に使うことができたと考えられる。

 彼の考えが浄土真宗的な他力本願とはかなり違っていたことがお分かりだろう。親
鸞は徹底的な他力本願であった。彼はある信徒から「私は一日に何百回の『南無阿
弥陀仏』を唱えます、これで救われるでしょうか」と問われて、「それはまだ自力に頼っ
ている。真実仏の慈悲にすがるならば、ただ一回の念仏でも足りるのである。しかし
唖者が、ただの一度も念仏を唱えることができなくても大丈夫かと問われると、何とも
答えられない」と答えている。

 祐天は、「山のように薪を積み上げた車を目的地に送り届けようとする時、一念に
『行け、行け』と思うだけで進むだろうか。力を入れ、大勢で押して行かなければなる
まい。民の罪業はこの薪の山のように重い。ただ一念で足りるとは愚かである」と言
う。「一念だけで足りる」と主張したのは一向宗(浄土真宗)の僧であろう。

 信仰のあり方としては親鸞が正しいのだが、本来「ただ一向に念仏を唱えて」という
教えは、「易行道」の方法論である。仏教が教えているような、出家して一心に修行を
するという生活は、誰にもできるものではない。従来のどんな方法も「難行道」であっ
た。それでは貧しい庶民には、永久に仏による救いが得られない。ところが浄土宗で
は「ただ『南無阿弥陀仏』と唱えるだけで、阿弥陀の広大無辺の慈悲により救われる」
と説いた。親鸞は比叡山の学生だった(抜群の秀才でもあった)頃、この法然の教え
に出逢い、「これこそ大衆を救う道だ」と思って、入門したのである。比叡山の仏教
(天台宗)は非常に難解で、修行僧でも落ちこぼれてしまう人がいた。

 つまり天台の教えは大衆を救うものでなく、一部の選りすぐった者だけが救われる。
「それは本当の仏の教えか?」と、親鸞はいつも疑問に思っていたに違いない。特に
「変成男子」説は疑わしく思ったであろう。

 変成男子説とは、「女人はそのままでは罪業が深いので救われないが、信仰が深
ければ男子の姿に成り変わって往生できる」というものである。シッダールタによる創
唱期の仏教は、女性も賎民も全く差別しなかった。しかし彼の死後、次第にヒンズー
に同化し、変質する中で、女性の経血を不浄として忌み、「女は生まれつき穢れてい
る」とするようになった。だが人類の半分は女性であり、「女は穢れているから救われ
ない」と言うのでは、衆生を救うという教えに反している。そこで、変成男子説の登場と
なったのである。「女性も救われる」という教えなのだが、実際は男尊女卑観を強化し
ていた。ある話の中では、信仰の深かった女性が世を去った時、彼女が全裸の姿で
雲に乗って現れ、見る間に胸がぺちゃんこになって股間に男根が生えた、とバカバカ
しくもグロテスクな描写をしている。

 親鸞が法然上人の黒谷で見たものは、無知文盲の男女がみんな等しく救いに与っ
ている様子であった。変成男子説も賎民(被差別民)への差別もなくなっていなかった
が、当時の彼が知る限りでは究極の易行道(大衆が等しく救われる道)であった。念
仏さえ唱えれば救われるというのだから、これ以上簡単な方法はない。彼の広めた
浄土宗(浄土真宗)は、当時の身分制度の下で、最も優れた教えである。だが強いて
言えば、彼は聾唖者に対しては、方法論を持っていなかった。元来彼は理念の人で
あり、方法論を欠いていたのである。

 これに対し、祐天は方法論、手順を重視した。車は押さなければ動かない、火は水
をかけなければ消えない。念仏だけですべて事足りると思うのは妄想だ。彼の書いた
名号があれば火事に遭わない、などと言い伝えられたのは、彼にとっては迷惑だった
だろう。仏の加護を願いながらも、為すべきことをきちんと為す、という考えだったの
だ。

 その意味では、彼の仏教は儒教に親近感があった。こんにちの人々は儒教などほ
とんど関心がないだろう。儒教は封建主義的な社会構造の中でこそ意義があるもの
だ。孔子の教えは「論語」で分かると思う人が多いだろうが、実はそれでは何も分から
ない。論語は弟子たちに語った余談を集めたもので、教えの本体は述べられていな
い。孔子が教えたのは古来の祭祀礼式の詳細であり、それを学ぶことによって、どの
国でも立派な宰相として、大切な国事を司ることができるという、方法論だった。

 ミルチア・エリアーデの大著『世界宗教史』(文庫版第三巻:ちくま学芸文庫、島田裕
巳訳:2000年)では、『孔子の考えた道徳的・政治的変革は「全体教育」というべきも
ので、一般の人間を「君子」に変える方法のことであった。道にそった儀礼的行動をと
ることができるなら、つまりは儀式と「礼」を正しく行うことができるなら、誰もが「真人」
になることができる。』と述べている。正しい礼法に従うなら、否応なく人間は道徳的に
なり、国は自然に治まる。正しい心から正しい行動が生まれるのでなく、正しい行動
から正しい心が生まれるという、プラグマティックな考え方であった。「人間は悲しいか
ら泣くのでなく、泣くから悲しいのだ」。実際、人は泣くことによっていよいよ悲しみを募
らせるものである。

 もちろん逆に言うと、いわゆる結果論、「結果が悪かったから行動のどこかに間違
いがあったのだ」という話にもなる。人には、良かれと思って行動しても、結果が悪か
ったという記憶が多少なりともあるはずだ。その時の状況判断の誤りを、後からちくち
くとつつく評論家の立場である。その意味では法家の思想ともそれほど違わなかっ
た。法家は人間のとるべき行動を庶民に至るまで、できるだけ細かく規定すれば、国
は道徳的にも正しくなり、無事に治まると考えた。だが「規則は破るためにある」という
無道の者もあれば、王侯貴族には法が及ばないなど、問題は多かった。何より悪い
のは、法として成文化すれば必ず抜け道があり、明らかに悪であるのに処罰できない
ケースがたびたび生ずることだ。

 こんにちでは、「法を守ることが即ち善であり、法を破ることが即ち悪である」と思っ
ている人が少なくないだろう。しかし、法律と道徳の概念は別の範疇に属する。道徳
は心にとっての規範であり、法律は行動の規制である。宗教的立場からは、他人の
妻を見て情欲を起こすものは、すでに姦淫を為したのである。他人の財宝を見て欲心
を起こせば、すでに盗みを犯したのである。法の立場では、悪心を起こしただけで罰
せられることはなく、行為が問題だ。逆に、たとえ善意に基づく行為でも、法律に違反
すれば罰せられる。何年前だったか、けが人を搬送するために高速を逆走したトラッ
クがあった。もちろん「緊急避難」として罰せられなかったが、頭の硬い連中がその是
非を論じたことがある。われわれ古い人間には、何を論ずる必要があるのか、全く理
解できなかった。昔は善悪の方が問題で、法律はそれに次ぐものであった。それが逆
になれば、法律の抜け穴を探したり、法の裏をかくことが賢い行為ということになりか
ねない。実際、法の条文に適ってさえいれば何をしても構わないとか、お巡りさんに捕
まらなければいいとか、幼稚な善悪論がまかり通っている現今である。

 法に適っていて意図も良い場合、法に適っているが意図は悪い場合、法に適ってい
ないが意図は良い場合、法に適っておらずその意図も悪い場合、という4つの場合を
並べると、昔なら適法性に関係なく、意図が悪い行為を悪と呼び、良い行為を善と考
えた。それが善悪の基準を法に対する適否のみに置くと、部分的に評価の逆転が起
きてしまうわけだ。

 法は残念ながら、現実のデータがある程度出そろってからでなければ整備されな
い。「盗電」という行為は、現在では窃盗と認められているが、かつて「電気には形が
ないから、形のある物体を盗む窃盗罪に当たらない」という反論は、なかなか有力だ
った。法律では財物を「何らかの形のある物体」としているからだ。多くの役人はイン
ターネット時代に入ってからもコンピュータが使いこなせず、現在ではインターネット犯
罪と呼ばれるようなことが、当初は野放しだった。最近でも、アメリカで犯された殺人
で、日本の裁判では証拠不十分という理由から無罪となった容疑者が、米国で改め
て訴追されて「一事不再理」の原則に反するかどうかが争われたことがある。

 このように、法というものは、書いてあることだけでは決定的ではないので、ヨーロッ
パでは最終的に裁判で決まることになっているのだ。成文法の欠陥(すでに起こった
こと、完全に一致することしか判断できない)を補うためである。日本人はあまりその
ことが良く分かっていない。

 英米の裁判はゲームのようなもので、一時的にせよ裁判官と陪審の眼をくらまして
勝訴すれば、後で誰かが「騙された」と気付いても、もう遅い。極端な例はアガサ・クリ
スティ原作の映画「情婦」という作品だろう。判決が下された直後に意外な真相が明ら
かになるのだが、もう判決は確定している。あれでは証人が偽証罪に問われるだろう
が、少なくともメインの事件については決着している。

 ソクラテスが法に従うと言って毒杯を仰いだことを、「悪法もまた法なり」などと言う。
これをソクラテスの言葉と思っている人が少なくない。だがソクラテス自身はそんなこ
とを言ってはいない。「クリトン」を読むと、アテネの国法は、もし市民がその法律を気
に入らないと思えば自由に議論することができたし、他国に出る自由もあった。「ソク
ラテスの弁明」の最後には、不当判決に対する抗議も行っている。「悪法もまた法な
り」という言葉は、「クリトン」の粗雑な要約にすぎない。言い出したのは明治の大法学
者、穂積陳重らしい(手元の資料では確認できないが)。明治の頃は耳慣れぬ法律
が数多く公布され、日本国民に遵法精神を諭す必要があったので、「つべこべ言わず
に法律を守れ」という意味で言われたのだろう。ソクラテスが従ったのは、法に述べる
かれこれの条文ではなく、死刑判決であった。これを蔑ろにすれば、国家の根幹を成
す法制度(裁判制度)に害悪をなすことになる。ゆえに従う、と言ったのである。

 われわれは日常、意識的にであれ無意識的にであれ、小さな法律違反を犯してい
るだろう。だからといって国家が転覆するとは思えない。ソクラテスの裁判はアテネを
揺るがせた大事件であり、判決後も彼の無罪を主張する人々がいた。そんな中で彼
が脱獄したら、大混乱になるかも知れない。ソクラテスはアテネの国制をあくまで愛
し、守りたいと思った。それには判決に服するのが一番いいと考えたのである。

 裁判は言わば動法である。条文は静法である。条文は容易に変更できないが、裁
判では、後々解釈や判断が修正される場合がある。言わば自己修復能力があるは
ずだ。すでに誤った裁判が行われた。しかしその裏をかいて脱獄したのでは、法は自
ら修正する機会をなくすだろう。ソクラテスが最も恐れたのはそれだろうと思う。

 私は、親鸞は偉大な宗教者であると思っている。おそらく日本仏教最高の天才だろ
う。だが、彼は理念の人であり、個々の状況についての具体的な方法論はなかった。
教義がしばしば誤解され、後には武家政治に服属させられて、おそらく親鸞自身はあ
るまじきことと思ったであろう女性や賎民への差別も、払拭することができなかったの
はそのためである。ソクラテスが理念を重んじる人であり、その結果国制や法への批
判を欠いていたように、親鸞も国を変革するほどの教団を形成しながら、たやすく打
ち負かされてしまった。

 もちろん仏教徒が政治を行うのは似つかわしくなく、またそうすべきではないのだ
が、より鋭い問題提起が可能ではなかったか、何が正しく、何が誤りなのか、明確な
判断基準を提示することができなかったのか、疑問は残ってしまうのだ。スピノザを
「神に酔える無神論者」と評した人がいるが、親鸞は「仏に酔える無道者」だった。

 祐天は徳川家の宗旨だったという浄土宗の僧侶であり、幕政批判のようなことは、
ほとんど行わなかった。ただ綱吉の生類憐れみの令に対しては、将軍にお目通りの
際、直接に苦言を呈したという話が残されている。これを事実と見るか、こしらえた話
と見るかは自由だが、当時の庶民にとっては、「祐天様なら理不尽な法令に文句を付
けたはず」と、無条件に信じられたのであろう。

 何しろ、綱吉の悪政に辟易していた人々は、将軍の死を聞くとみんなが祝杯を挙げ
たので、一時的に酒が値上がりしたという。それどころか、綱吉はお世継ぎ騒動(柳
沢騒動)の結果奥方に殺されたという暗殺説があり、彼を殺したとされる奥方は、普
通なら大悪女とされるところだが、「護国女太平記」のような物語では、国を守った賢
女と褒め称えられている。綱吉はそれだけ庶民から憎まれたということだ。なおこの
暗殺説は、事実としては確認できないが、徳川家の内部でも語り伝えられたというか
ら、全くのデタラメでもないようだ。

 いずれにせよ、祐天は明確な方法と手順を追求する傾向が強く、親鸞のように「信」
をすべての上位に置く考えとはずいぶん違っていたと思われる。


<江戸怪談の系譜>

 江戸初期の怪談には、狐狸に化かされたというたぐいの話が多い。少し珍しいのに
は、植物妖怪もある。「怪談」と聞くと、われわれは日本怪談の極致とも言うべき南北
「四谷怪談」を思い浮かべるだろうが、初期怪談はそんなものではなかった。中には
笑い話のようなものもある。

 たとえば百物語系の怪談集『宿直草』(とのいぐさ)に、「博奕打ち女房におそれし
事」という愉快な話がある。

 ある女房が亭主に愛想を尽かして、実家へ帰ろうと思った。路銀も持たず、とぼとぼ
と夜道を行くうち人の近づく声がしたので、傍らの墓堂に隠れた。ところが何としたこ
とか、数人の男たちが中へ入ってくる。女房は仕方なく天井によじ登り、あわやと息を
詰めて下の様子を見ていた。男たちはそこへ居座り、博奕を始めた。そのうち、一人
が大きく負けて一座を少し離れ、あくびをした時、上を向いて、女房を見つけた。

 あやしの女有りて、鉄漿(かね)黒く紅赤く、髪はみだけて下になだれ、裾は下がり 
 て風ひるがへり、夜目遠目仄かにして、灯の火影に化生(けしょう)のものと見えた 
 り。(高田衛編・岩波文庫『江戸怪談集』上:1989年)

 ぼんやりした灯りの中で、暗い天井に浮かぶ女の白い顔、お歯黒の黒い歯、口紅
の赤さ、髪の乱れ、まるで幽霊のように見えたのだった。

 側なる者に、「あれは何ぞ」と指差しすれば、これも心得ず顔に見る。ひとりふたり五
 人の者、目と目を合はせ、しばし物も云はず堪(こら)へかねたる風情なりしが、一 
 人つい立ちければ、残り者の捨てられたる心地して、我先にと逃げ行きて、あと見 
 返らずなりければ、

 側にいた者に「おい、あれは何だ?」と女房の顔を指さしたら、彼もぽかんとしてい
る。しばらく何も言わずに互いに目と目を見合わせていたが、そのうち一人が立ち上
がると、他の者も「オレを置いて行く気か」とばかりに続いて、みんな逃げてしまった。

 女房が降りてみると、賭の金はそのまま置いて逃げていたので、ありがたく頂いて
親の家に無事帰り着いたという。

 まるで落語のネタのような話で、私は読み返す度に笑いがこみ上げてくる。

 他にも『諸国百物語』にある「気ちがひの女をみて、幽霊かと思ひし事」、『近代百物
語』の「野馬にふまれぬ仕合わせ吉(よし)」なども、思わず吹き出してしまうような話
だ。

 もう少し後の怪談でも、大坂の作家都賀庭鐘(とが・ていしょう)による屈指の名編
『古今奇談英(はなぶさ)草紙』(寛延二年:1749)には、ほとんど幽霊が登場しな
い。第八篇の「白水翁が売卜(まいぼく)直言奇を示す話(こと)」には、やや怨霊めい
たものが登場するが大きな活躍はなく、全体はむしろ推理小説の観を呈している。
『古今奇談莠句冊(ひつじぐさ)』にある「絶間池(たえまいけ)の演義強頸(つよくび)
の勇衣子(ころもこ)の智ありし話(こと)」もそうだ。この話には、ある家人が主人の大
切な五つ組みの磁器の一つを失って責められ、井戸に身を投げて死ぬが、夜になる
と「五器はないか、五器はないか」と恨めしげにささやくというプロットが含まれ、後の
皿屋敷怪談(お菊が皿を数える話)の原型と見られているものである。しかし、実は手
の込んだ詐欺だったという結末になっていて、やはり推理小説的な構成である。

 推理小説というと、ポオが始祖でシャーロック・ホームズで隆盛を極め、とヨーロッパ
にしかないと思いがちだが、中国にも宋代には「棠陰比事(とういんひじ)」(1200年
代)という推理小説集がある。たぶん西欧の推理小説にも影響を与えたであろう。ほ
とんどは創作でなく、実際の裁判の判例を集めたものだそうだが、古代的な語呂合わ
せによる解決も混じえながら、大半は明白な物証と推理による犯罪の暴露話である。
都賀庭鐘のには、当事者も知らない目に見えぬ因縁、不可解な怪奇現象が、普通の
悪党や詐欺師による故意の仕業と解明される話が、面白く思われたのだろう。

 山口剛の『怪異小説について』を引用すると、

 怪と奇と妖の字義を、その本来にまで溯って推究することはさうまで必要でない。妖
 怪と変化、幽霊と怪物を早い頃から混同するやうに、古くは怪談と奇談との別を樹 
 ててゐなかった。・・・(中略)・・・少なくとも『雨月物語』前後は奇談も、怪談も、怪異 
 談もけぢめはなかった。

 江戸怪談の系譜をたどると、寛文年間に現れた「因果物語」や「曽呂利物語」のよう
に比較的素朴なものから、同じ時期の「伽婢子(おとぎぼうこ)」のような中国系怪談
の流行した時期、「死霊解脱物語聞書」を経て「東海道四谷怪談」に至る、人間の怨
霊の活躍する時期に分かれるようである。

 草も木も言立てる遠い昔にはあやしい神々が多かった。・・・(中略)・・・平安朝の裏
 はさびしかった。貴族の生活のはなやかさも、ほんのうち見の相に過ぎない。若い 
 美しい男と女が恋の戯から、「いづれか狐ならんな」といふ言葉の陰にも、人迷はせ
 の狐の恐ろしさが隠れてゐる。折角人目を避ける恋のかくれ家にしても、家が古く、
 庭が荒れてゐると、そこに潜み住む変化(へんげ)の邪魔がはげしかった。まして不
 断の脅威に駆り立てられるのは、もののけの闖入である。生き霊や死霊が、いつ何
 時何人の上に何をゆかりに祟りをなすか、人間の身には測り知るべくもなかった。 
 病めばまづくすし(薬師:医師)よりさきに験者(げんじゃ:まじない師)を招ずるので 
 ある。(山口剛:前掲書より)

 人間の亡霊は、かえって古い時代の話に多い。『源氏物語』の六条御息所だけでは
なく、大江匡房(おおえの・まさふさ)の口述とされる『江談抄』(1100年頃成立)や同
時期と思われる『今昔物語集』には、六条にあった河原院に源融(とおる)の亡霊が
出るという話が載っている。いわゆる都市伝説の一つであり、一説には、源氏物語の
幽霊もこの噂をヒントにしているだろうと言う。河原院は源融が贅をこらした建物で、
当時はそのすばらしさが評判だったが、死後は宇多上皇が一時住んだだけで、後年
は荒れ果てていたそうだ。かつての栄華を偲ぶべくもなく荒れた屋敷は不気味なもの
で、何か物の怪が取り憑いていそうに見える。

 他にも『今昔物語集』には、「在原業平が美しい娘を誘拐して、北山科の廃屋の校
倉に隠れようとしたところ、突然稲光がして雷鳴がとどろいた。業平は剣を構え、女を
背に隠して立ち向かおうとした。しばらくして雷は止んだが、振り返ると女の首と着物
だけが残っていた。校倉に住む鬼に食われたのだった」という話を載せている。

 平安期のこうした物の怪は、場所や住居に取り憑くものだったようだ。「平安朝の裏
はさびしかった」のである。人口密度が高く、人の入れ替わりが激しかった後年の江
戸では、広大な屋敷が長年にわたって荒れ放題に放置されることはなかっただろう。
柳田国男流に言うと、怨念の対象である人に取り憑く怨霊でなく、オバケだったことに
なる。もっとも、屋敷の所有者がいなくなれば更地(さらち)ということになり、「さら屋
敷」が「皿屋敷」伝承に結びついて、また怪談のネタになったという説があるから、廃
屋や幽霊屋敷が姿を消したわけではなかった。ただ江戸の町は大火に見舞われるこ
とが多く、頻繁に建物が更新される。霊が住み着く暇もなかったらしい。だから城とか
大名屋敷のように、あまり変わらずに建っている建築物の方が、そういう怪談に結び
つきやすかった。

 どんな建物でも、永続性を持って建っている限り、多かれ少なかれ怪談を生ずるよ
うだ。「学校の怪談」は言うまでもないが、『オペラ座の怪人』のように、ヨーロッパには
劇場にまつわる怪談が多い。百年も前の名優の像があると、それが夜中に動き出す
とか、声を出したという話になる。あちらでは劇場が長く同じ場所に建っているからで
あろう。日本の芝居小屋はたびたび移転させられたり、建て替えられたりしたせい
か、ヨーロッパのような劇場怪談はほとんど聞かない。怪談劇などの演し物にまつわ
る因縁話の方が多いようだ。

 こうした魔物、妖怪を退散させる方法に、中国では「急急如律令」というおなじみの
呪文があった。至急に律令で定めた如くせよ、というのであって、いかにも法治主義
のお国柄だ。常陸国風土記にも、「夜刀の神」に対して「天皇の命に従え」と説得する
話がある。こうした場所の霊(つまり妖怪)には有効だったのだろう。

 江戸中期以降の怪談は、死霊にせよ生霊にせよ、人の霊が妄念執着の対象であ
る人に憑くものが多い。かつて自然に近いところに暮らし、野の狐狸の妖怪に恐怖し
た人々が、都市化が進むにつれ、人の心の怪を恐怖の対象とするようになったの
だ。

 同時期には、幕府によって仏教が奨励された。宗門改めによって、自然神などの素
朴な信仰だけで暮らしていたような人々も、仏教徒に数えられるようになる。目的はキ
リシタン禁圧のためだったが、ほとんどの国民は必ずどれかの寺の檀家でなければ
ならなくなった。寺は布教活動より地獄・極楽図を見せて因果の説を説く教育機関の
ようになり、人々の葬式も取り仕切った。仏教にはいろいろ宗派はあるが、全体として
はあまり違いはない。他宗との差別化を図るには、宗論、法問といった内容のない口
先の議論を磨くことになる。

 あの世を説いてきたからには霊界の専門家であるから、人の怨霊事件となると仏
教僧が登場するのは自然な話である。累には、生家や田畑に憑く場所の霊、すなわ
ち妖怪の性格があるが、それは明確でない。もっぱら与右衛門への怨みを晴らさん
がために出現したように見える。助という子供の霊は血筋に関係して現れ、高田衛氏
が「水童=かっぱではないか」と考えているように、土地の霊の性格がより強い。助に
直接つながる最後の人物は累であり、彼女はすでにこの世にない。与右衛門は助と
は関わりがない。だが、他国からこの土地へ来て関わることになった。

 累の怨霊と助の霊とは全く性格が異なるということは、誰でも感じるのだが、助の霊
がより前時代的な村落の伝説の性質を持ち、累の方が江戸中期以降の怨霊的な性
格を持っていることには、あまり注意されない。だが事実として、演劇化されてのち、
江戸の人々に恐れられたのは累の怨霊である。最後にお岩の怨霊が出現すると、そ
れはもっと身近な怪として感じられるようになる。お岩の怨霊は、いつの間にか背後
に立っている。ふと隣を見ると、そこにいる女がお岩の顔に変わっている。

 特定の場所に執着している霊は、そこに近づかない、陰陽師のまじないで封じ込め
る、といった手段があった。

 主に人に憑く怨霊では、『曽呂利物語』の「耳切れうん市が事」(耳なし芳一の原型
)の話のように、憑かれた人を経文で守る。あるいは『宿直草』の「幽霊の方人の
事」(
)のように、憑かれた人の住む家に経文を書いた札を貼って守るという手順に
なる。だが、ところが「四谷怪談」の怨霊は、心の隙に入ってくる恐怖が産むものであ
る。すでに生き方の指針としての役割を失い、葬式仏教と堕した従来の仏教では、と
ても鎮められそうになかった。

  1. 岩波文庫『江戸怪談集(中)』に収録

  2. 岩波文庫『江戸怪談集(上)』および国書刊行会『叢書江戸文庫26』「近世奇
    談集成(1)」に収録


<四谷怪談の不気味さ>

 初めて行く町で、ふと見ると人家の前に犬が坐っている。そちらを見ると、犬もじっと
こちらの顔を見ている。人間は人の目をまず第一の関心事とするが、犬もまず人の
目に着目するようである。何の意味もない陰影に人の顔を見出す「心霊写真」の現象
なども、そうした人の心理によるのだそうだ。四谷怪談における恐怖の要因が、お岩
の顔の醜怪さにあることは当然だ。

 しかし不気味さの本当の要因は、そこにはないような気がする。先に「生霊ならばそ
の霊の本体を殺せば祟りは止む。死霊ならば念仏往生させる方法がある」と述べた
が、南北の怪談劇では、そうした「方法」が全く無効なのだ。醜怪な怨霊は念仏しても
お祓いしても、退散も消滅もせず、怨みの対象を一人残らず血みどろの死に導くま
で、繰り返し出現する。仏教普及の目的で書かれた「死霊解脱物語聞書」の世界から
は非常に離れている。『英草紙』の合理性もなく、不必要なまでに残虐凄惨である。山
口剛によると、化政期の文芸のこうした傾向は、文化三年の式亭三馬による合巻『雷
太郎強悪物語』に端を発するという。それは仇討物語の枠組みを取りながら、ひたす
ら酷烈無残で不気味な物語だった。

 しかし仇討物語なら、最後には何らかのカタルシス(浄化作用:結末を見てすっきり
する心の状態の変化)がありそうなものだ。「東海道四谷怪談」には、それがない。累
の物語もその影響か、三遊亭圓朝の『真景累ヶ淵』に至って、やはり不条理な呪いの
物語となる。このような怪異が起きるのは、「古き契りを忘れ果て」た報いであって、
具体的な契約とその履行を踏みにじった結果とも言えよう。

 南北は、若い頃に大坂で修行したという。皆川博子氏の小説『鶴屋南北冥府巡』に
は、千日前刑場近くに住む被差別民の部落に宿を借りる場面があったような記憶が
あるが、手元に本がないので確認できない。だがそうしたことは十分考えられる。彼
は被差別民に同情的であった。この世のしきたりが、怪談劇以上に不条理の作用を
していることは明白だった。病毒や災禍、貧窮、時には無実の罪を着せられるといっ
た不運も、何ら合理的な説明の付くものではない。そうした中で、被差別民同士が、
かえって一般市民よりもいたわり合い、かばい合って生きていたという。

 たとえば穢多(えた:被差別民の呼称)に犯罪の疑いがかかると、町奉行は裁きの
場に容疑者を座らせることを嫌い、穢多頭に裁判を任せることが多かった。その結
果、普通の市民なら死刑になるような事案でも、せいぜい他の穢多部落に追放する
程度で、滅多に死刑判決が出なかったそうだ。だが、どちらかと言えば貧窮の人々の
上に、不運が降りかかることは多かっただろう。

 大坂は商人経済の町であり、金銭を中心とした合理主義的な契約の世界である。
儒教・仏教といった価値観は、あまり問題ではなかった。もちろん生まれつきの身分
は、契約ではない。しかし当然ながら、ここでも貧窮層は経済的合理の世界からはじ
き出されていた。

 鶴屋南北は、その名跡を継ぐ権利を手に入れるために、三世鶴屋南北の娘と結婚
したと言われる。愛のない結婚だったのかも知れない。それでも、終生この妻を大切
に扱った。恐ろしい女の亡霊を描いたから、妻を恐れたのではないだろう。彼は無学
で、体系的な理論などは知らなかったが、おそらくキリスト教的な平等思想にも触れた
ことがあり、性差別にもそれなりの考えがあったのではないかと思う。

 彼は美女惨殺を描くことを好んだのに、なぜかその心にはフェミニズムが同居して
いたように感じるのである。たとえば、序幕に輿茂七とお袖の夫婦が売春宿で顔を合
わす場面がある。輿茂七は買おうとした女が自分の女房なので怒り出すが、そのうち
女房に反論されて、ぐうの音も出なくなる。このあたりは上方喜劇のようなおかしさ
だ。当時、窮迫した武家の妻には、身売りする例もあったというが、この場面のお袖
はなかなか毅然としている。儒教的な貞節とも、仏教的な誠実、夫婦の契りとも無縁
に、生々しい生存の事実に直面して身売りせざるを得ないお袖という存在を、彼は否
定的に見ていない。

 儒教、仏教、合理的契約からもはじかれた人々は、どう生きればいいだろう。それ
は何の価値基準も持たない、虚無の世界である。生の感情や恨みつらみだけが息づ
き蠢いている世界で、最後まで光が見えず、カタルシスのない怨霊劇が繰り広げられ
る。その虚無の深さと暗さが、南北劇の恐ろしさなのだった。


<結び>

 元禄の初め頃、一人の女が怒りの形相すさまじく、江戸の町を走り抜けた。彼女は
病のために醜くなったとは言え、武家の娘として誇り高く、昂然と顔を上げて生きてき
た。だが信じていた夫に裏切られ、世間からも裏切られて、家産をだまし取られたの
だ。彼女が鬼のようになって走り抜けた小さな通りを、近隣の人々は鬼横町と名付け
たという。

 走る彼女の目に、この世はどう映っただろう。何もかも昨日のようではない。一切は
色を失い、まるであの世の光景のように白けて見えている。醜くなっても娘として愛し
てくれた父母はすでに亡い。それでも、女として愛されたことはなくとも、昨日まではた
だ一つのよりどころとして、夫を信じていたのだ。もうこの世に頼るべきものはなく、明
日もない。延々と墓場を走り続けるような感覚だっただろう。

 およそ150年後、彼女は怪談劇の主人公として、再び江戸の町を走った。偶然か
どうかはともかく、「東海道四谷怪談」の題名の通り、その怨霊は東海道を走り抜けて
大坂の町をも走った。その物語は本来のものとは大きく違っていたが、どこかに元の
悲しく哀れだったお岩の姿をとどめていた。それは悲惨な運命を強いたこの世への怒
りであり、絶望のかたちだった。それはまた、当時の女たちすべての閉塞感を代弁し
ていたかも知れない。実際にはむしろ恐怖をかき立てたのだったが、「女の怨みはか
くも恐ろしい」という認識が浸透することになった。

 南北劇は、意識的にであれ無意識的にであれ、当時の庶民が持っていた「ご政道」
や儒仏など諸教への不信をあからさまにし、おそらくは女たちの苦しみまで映し出し
ていたのだ。それが私には、逃げ場もなく黒蟻たちに全身を噛まれ、のたくり、もがい
ていたミミズの姿のように思えてくるのである。


とっぷ  本の虫
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