このページの主な話題
チャイコフスキーの愛と死
バレエ「白鳥の湖」
組曲「白鳥の湖」
交響曲第1番〜第2楽章
幻想序曲「ロメオとジュリエット」
四季


































































































































































































キーロフ・バレエ/マハリナ





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ミラノ・スカラ座/ザハロワ















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チャイコフスキー


チャイコフスキー(1849−1893)
画像はWikipediaからいただきました
 チャイコフスキーは、疑いもなくロシア音楽最大の作曲家の一人だが、意外にも絶対音感がなかったということだ。しかし彼は美しいメロディをたくさん書いた。

 かつてドイツでブラームスに出会って、チャイコフスキーはブラームスを「人間的には尊敬するが、彼の音楽は嫌いだ。メロディを書く才能が全くないのではないか」と評した。また五人組に出会ったとき、「ムソルグスキーはおそらく最も才能がありますが、全く不愉快な人物です。R=コルサコフは人間的にも穏健で、私と同じような才能があります」と評した。ムソルグスキーに嘲弄されて不愉快だったにもかかわらず、才能は評価していた。そのときボロディンは欠席していたそうだが、もし出会っていたら、評価は微妙にずれていたかも知れない。

 ちなみにR=コルサコフは、後に思いがけずロシア音楽を指導する立場に任命されることになった。チャイコフスキーの評価が、ロシア政府の判断に影響したのは間違いないと思われる。何しろ正規の音楽教育を受けていないのだから、作曲法や管弦楽法なども、教授になってからドロナワで独学自習するありさまであった。目の回る思いをしただろうが誠実に取り組み、ついには堂々たる大家になり、教え子にはストラヴィンスキーのような大物もいる。

 バイロイトでワーグナーを聴いたときの、何やら冷淡な批評も面白い。演し物の間に食事を取る時、上流夫人たちの服装を見、おしゃべりを聞きながら「この人たちは本当に音楽が分かっているのだろうか」と考え込むのだが、彼自身もあまりワーグナーには感銘を受けていないのである。

 オペラ『エフゲニー・オネーギン』をドイツで公演することになったとき、予定ではチャイコフスキー自身が指揮することになっていたが、歌詞がドイツ語訳されていると知って自信をなくし、急遽代役を立てた。「マーラーという若い人が指揮をしました。その指揮ぶりは一言、『天才的』とだけ言っておきましょう」。現在ではマーラーは何よりもまず作曲家だが、ウィーン・フィルの歴代最高の指揮者でもあったという。

 チャイコフスキーの批評は、実に的確で面白いのである。絶対音感がなかったにしては、管弦楽法に優れていたのも特徴的である。いろいろな音色に通じていたからだろう。

 私のクラシック音楽との出会いも、チャイコフスキーの『白鳥の湖』の「情景」である。60年代には、彼のメロディは「ド演歌」とも呼ばれ、初心者向きの水準の低い音楽と考える風潮があって、しばらく離れていた時期があった。しかし改めて考えると、やはりチャイコフスキーの音楽は魅力的である。たとえば、ヴァイオリン協奏曲第二楽章のソロのメロディ、『四季』の「舟歌」や「トロイカ」、あるいは『なつかしい土地の思い出』の「メロディ」など、その甘美な情感に、誰が抗しうるだろうか。

<チャイコフスキーの愛と死>

 チャイコフスキーは同性愛者だった。現在ではこのことが、一部の人にとって、彼の音楽にまで抵抗を覚えさせる要因となっているようだ。だが同性愛だろうと異性愛だろうと、恋愛感情の本質には、それほど違いがあるわけではない。強いて言えば、彼の愛は叶わぬ恋、禁じられた恋であったが故に、常に悲嘆の色に染められていただけだ。多くの人はそうした恋を体験しているだろう。恋人の前で決して近づくことのできぬ距離、永遠の謎に直面したと感じるような恋だ。

 ショーンバーグは彼の音楽について「過度の情緒性」と評したが、ほとんどの音楽ファンが、彼の音楽に陶酔的な愛の時、恋人の背信に胸の張り裂けるような思い、といったものを感じ、共感するのは不自然ではない。

 いずれにせよ、恋とか愛とか言っても、精神的な現象だけでないのは確かだろう。男が女性を美人だと思うのは、若く健康的だという印象と結びついているそうだ。自分の子孫がより生物学的に有利な条件で生まれると思うからだという。対象の社会的地位も、恋愛感情に結びついている。男尊女卑社会では男子の同性愛が多く見られ、女性の地位が高い社会環境では女子の同性愛が目立つ傾向がある。

 チャイコフスキーの音楽がそうした特異性に関係なく、普遍的な音楽になっていることは、確かな事実だ。彼の結婚が悲惨な結果になったのも、妻への愛や思いやりが不足だったというより、不幸な出会いだった、残念なことだったというだけである。

 彼の死をめぐる疑惑がある。公式には彼は生水を飲んでコレラで死亡したとなっているが、ヒ素を飲んで自殺したのではないかという。この頃、彼の同性愛の相手に侯爵の甥がいて、秘密法廷により自殺を強要された、という説がある。チャイコフスキーの名誉が問題だったのでなく、相手の少年の名誉を守るためであった。

 彼が死亡する少し前、政府関係者らしい複数の人物に取り巻かれているのを見た知人がおり、彼に挨拶したところ、不機嫌そうに首を振っただけだったので、いつも愛想の良いチャイコフスキーにしては珍しいこともあるものだと思った、という。

 エルネスト・W・ハイネ著の『大作曲家の死因を探る』(市原和子訳・音楽之友社)によると、当時の検事総長が自宅で秘密法廷を開き、チャイコフスキーに自決を迫ったそうだ。詳しい情報がないので、どこまで事実かは分からないが、陰謀とスパイ行為の渦巻いていたロシア帝政末期の状況からはあり得る話だ。

 Wikipediaによれば、直接の死因はコレラに起因する肺水腫であり、ヒ素を飲んだ証拠はないという。しかし、肺水腫だからヒ素中毒ではないというのも、あまり筋が通っていない。ヒ素の経口的摂取による急性中毒の症状は、激しい嘔吐や下痢など、全般にコレラに似ていて、肺水腫も起こるそうだ。Wikipediaの「症状がコレラに似ていた・・・コレラによる病死だったというのが定説になった」というのは、自殺説を打ち消したい(大音楽家の最期を汚したくない)人々の主張である。ヒ素ならば起こりえない症状があったというのではなく、疑惑は解消されていない。単に「定説となった」ことだけが主張を支える論拠となっていて、何か科学的な根拠に基づいて疑惑を否定しているわけではない。

 逆にコレラによる死なら、伝染を防ぐため、死後の処置はもっと厳重なはずだったが、特別な注意が払われた形跡はないという。状況がいかにも怪しいのだ。彼の遺骨を調べれば判明することなのだろうが、そこまでして突きとめなければならない問題でもなかろう。彼の死因によって何かが変わるとは思えないからだ。ハイネの前掲書によると、彼が秘密法廷で判決を受けたのは、交響曲第6番『悲愴』の初演直前のことらしく、すでに作品は完成していて、彼も出来映えに非常に自信を持っていた。そうだとすると、この曲で表現されているペシミスティックな感情と、「自殺行動」は全く無関係で、作品の解釈が変わることはないのである。

バレエ『白鳥の湖』

 この作品が初演されたのは1877年だが、大失敗だったそうで、彼は生前、二度と上演させないとして封印してしまったという。しかし後に抜萃して組曲を編んでおり、音楽には自信があったらしい。

 私はこの組曲の第一曲である有名な「情景」によってクラシック音楽に開眼した。その後、白鳥と王子のデュエットの「情景」(グラン・アダージョと呼ぶこともある)がそれ以上に好きになった。特に終盤、チェロが加わってからの音楽が美しい。この曲は主調が変ホ短調なのだが、メロディの冒頭は変ト長調である。ただし冒頭はミラソドという五音音階的な音型なので、長調と短調の境界線上のメロディとも言える。普通は冒頭から泣き濡れるようなヴィヴラートをかけて、転調の前後も表情が連続する。いつの間にか短調に変わっているような感じだ。いったんヴァイオリンが休んだ後、次に少し元気よく長調で再登場する。三度目の登場も長調で、最後にチェロが出てくる。この時はほぼ最初のヴァイオリンのメロディをなぞっていて、そこにヴァイオリンが対旋律をもって絡む、それが実に美しい。

 死後、マリウス・プティパによる復活上演は大成功を収め、ほどなくしてクラシック・バレエの代表作というか、代名詞になった。初演時の白鳥の扮装はロング・スカートだったが、プティパの演出で、おなじみのほとんど水平に開いた超ミニスカート(チュチュというそうだ)になった。この衣装で伏せると、チュチュのおしりがちょうど白鳥の尾のようにぴんと上向きに立ち、そのつもりで見ると、いかにも軽やかで繊細な鳥の姿だ。

 再演に当たっては、音楽も一部改作されたそうである。日本楽譜出版社から出ている組曲『白鳥の湖』は、第4曲の「情景」(グラン・アダージョ)のラストが短調のままで暗く終わるが、今日では、ラストが少し明るい長調になって終わる版がよく演奏される。組曲版のオリジナルは短調だったようで、このラストは改作版ではないだろうか。もっとも、バレエのオリジナルは結尾部分がなく、すぐ他の曲に接続される形だったらしい。しかし屈指の名場面であり、今日では結尾を付けた形で上演されることが多いようである。

 物語は、ある国の王子ジークフリートが白鳥を追って湖までやって来ると、白鳥たちが美しい乙女の姿になる。彼女たちは元は人間で、悪魔ロートバルトによって白鳥の姿にさせられ、真夜中だけ人間の姿に戻るのである。しかしその中の誰かが人間の男の愛の誓いを得ることができれば、人間に戻れるという。ジークフリートは白鳥のオデット姫に心を惹かれ、人間の姿に戻ったとき、城で開かれる舞踏会に来てくださいと頼む。やがて時間切れになり、乙女たちはまた白鳥の姿になって飛び去ってしまう。

 悪魔ロートバルトは、オデットが舞踏会に来られないように手を打った上、自分の娘オディールをオデット姫そっくりに変装(一般に黒鳥の扮装で出る)させて、舞踏会にやってくる。僧とは気付かぬ王子は、オディールをオデットだと思って求婚し、愛の誓いを口にする。そのとたん、窓の外には嘆き苦しむオデットの姿が見え、王子はだまされたことを知る。

 王子はまた湖までやって来て、ロートバルトとの対決になるが、ついに王子は敗れて湖に没し、人間の姿に戻ったオデットも飛び込んで死ぬ。そして二人はあの世で永遠に結ばれる。

 こういう話で、元来は悲劇である。ドイツあたりの民話を元にしているのだろうが、バレエでこういう物語を語るのは、相当無理があった。現に、結末をハッピーエンドに変えても、音楽的には不都合がない。よく見るのは、王子が悪魔を打ち負かし、白鳥たちが人間に戻るという結末である。

 そもそも物語など知らなくても、美しいメロディが次から次へと現れる中、白鳥の衣装を身に着けたバレリーナたちが踊る幻想的な舞台を見るだけで、十分楽しいのである。

 ともあれ、この作品は映像で見るのが一番だ。プリマ・バレリーナの踊りを見ていると、「人体とは、こんなにも美しいものか」と感嘆する。

 キーロフ・バレエ。白鳥はマハリナ、王子はゼレンスキー。90年収録の映像である。小学館版『華麗なるバレエ』の第1巻に入っているほか、DVD単発でも売られている。解説書籍付きの小学館版がお奨めである。

 舞踏会で、眩惑された王子が黒鳥に愛を誓った瞬間、窓の外に嘆き悲しむ白鳥の姿が見える場面を分かりやすく見せる。王子はさほどハンサムとは言えないが、跳躍はすばらしい。私の持っている数枚の中では、最も滞空時間の長い跳躍ではないだろうか。白鳥も美しく演じられ、高度な難技を軽々とこなしている。白鳥のポーズとでもいうのか、両腕を後ろに伸ばして上体を反らすポーズが、完璧に決まっている。結末は王子が悪魔に打ち勝ち、ハッピーエンドで終わる。

 グラン・アダージョは長調版の結尾が付いている。この映像は、実演では、特にコール・ド・バレエ(群舞)ではいささか気になる、舞台を踏みならす音がほとんど聞こえない。音楽を別に録ったものかも知れない。

 ボリショイ・バレエ。白鳥はミハリチェンコ、王子はヴァシュチェンコ。89年収録の映像である。実演の収録のようで、音の状態があまり良くない。足音を抑えて録ろうとしたらしく、やや中高音の張り出した音だが、音量が絶えず変動しているので、受信状態の悪いラジオを聞いているような気にさせられる。このDVDでは、舞踏会の終わりに、嘆き悲しむ白鳥の姿が窓の外に現れると、王妃が「まあ、あれは」と驚いて目を見張る。すると黒鳥のオディールが窓の前に行き、「違うんですの、お母さま。あれは私の姿が映っているんですわ」とばかりに、白鳥と同じ仕草をして見せる。思わず吹き出すような演技だ。そうした細かい演出が他にも見られ、映像は大変面白い。

 マリインスキー。白鳥はロバートキナ、王子はコルスンツェフ。指揮がゲルギエフの06年収録版である。足音はかすかに聞こえるが、気になるほどではない。グラン・アダージョはゆったりしたテンポで演じられる。やはり長調の結尾が付いた版だ。演出はほぼマハリナのDVDと同じだが、チュチュのデザインのせいか、白鳥たちの踊りの幻想味が強い。最後はハッピーエンドで、照明も変化する。新しい録画・録音なので、音・映像ともほぼ万全の出来映えになっている。

 ミラノ・スカラ座。白鳥はザハーロワ、王子はボッレ。04年収録のブルメイステル版である。基本的にプティパ/イワノフの演出を踏襲しているのだが、原作では説明不足だった、オデット姫が悪魔によって姿を白鳥に変えられてしまう場面がプロローグとして演じられる。演技も細かいところで変えている。たとえば白鳥たちの踊りでは、ロシア系の舞台は縦並び(舞台前方から奥に向かって並ぶ)の形が多いが、このDVDではどちらかと言えば横並びの配置が主体である。

 この盤もハッピーエンド型で、結末では悪魔が倒れた後、オデット姫が人間に戻った姿を見せる。

 さすがはイタリアというべきか、第1幕はボッティチェリの『春』を思わせる背景に華やかな衣装デザインの女性たちが続々と登場し、色彩の饗宴といった趣向が楽しい。プリマはなかなかの美人(王子も美男)で、白鳥のポーズも決まっており、黒鳥の魅力もひとしおだ。

 録音はマリインスキー(ゲルギエフ)の盤には及ばないが、まずまずいい音がしている。足音は聞こえるが、それほど気にならない。

組曲『白鳥の湖』

 コンサート用の組曲版は、「情景」、「ワルツ」、「4羽の白鳥たちの踊り」、「情景(グラン・アダージョ)」、「ハンガリーの踊り」、「情景(終曲)」の6曲から成っている。

 レヴァイン/ウィーン・フィル。92年のディジタル録音である。グラン・アダージョは結尾が短調の版を演奏している。日本楽譜出版社のスコアと比較すると、終曲は拡張されて、第4幕の音楽をほとんど全部演奏している。スコアでは、通常第4幕の、王子が登場する場面で演奏される音楽が結尾になっている。ホルンに壮麗な旋律が現れ、全曲中最も壮大な響きを持つ部分である。バレエはこの後にロートバルトとの対決、そして最終曲に続く。これを最終曲(王子と白鳥の昇天)まで演奏しているのである。

 少し明るい気分があるが演奏水準は高く、グラン・アダージョはヴァイオリン、チェロともに情感がこもっている。おそらくレヴァインはこの曲を軽いメルヘンとして捉えていたのだろうが、ウィーン・フィルのメンバーはもっと情緒的に捉えているように思う。「ハンガリーの踊り」のヴァイオリンのグリッサンドなども、オケの自発的な表情ではないだろうか。

 メータ/ロス・フィル。これは廉価盤で出た交響曲全集の中に収められているもので、録音は79年となっているが、一部ディジタル録音が入っているようだ。80年に世界中のレコード会社が一斉にディジタル系を採用したので、ちょうど端境期の録音である。耳で聞いてどれがアナログ録音、どれがディジタル録音と分かるものではない。デッカの録音は、音質の変化が小さかったようだ。

 グラン・アダージョは短調の結尾が採用されている。弦楽器(コントラバス)奏者出身のメータらしく、ヴァイオリン、チェロともに涙を湛えた演奏だ。メータは、元来縦の線より、メロディラインの横の流れを重視する指揮者だと思う。そこに抒情味というか、濡れるような情感が出ていた。ロス・フィル時代のメータは、それが分かりやすく表現されていて、実に良かった。

 なお第6曲は、「王子登場」の部分までは省略され、その後の音楽が演奏されている。楽譜を見ながら聞いていると、面食らう感じである。

 カラヤン/ベルリン・フィル。やはり交響曲全集に含まれていた演奏(左に挙げたのは、3大バレエ組曲のみのCD)である。第1曲の「情景」は、もう少しと思わないでもないが、主旋律を囲むオーケストラの響きが惻々と迫る孤絶感を描き出す。彼の指揮ぶりからすると、そういう感情表現を目指したわけでなく、単に楽器のバランスを取った結果に過ぎないようなのだが、非常にすばらしい。グラン・アダージョの冒頭のハープのソロも想像以上だし、ヴァイオリンが大きな表情をもって歌い出す。なかなかいい演奏だが、ラストは長調の版である。第6曲は、メータ盤と同じく、「王子登場」までは省略され、その後の部分を演奏している。

交響曲第1番ト短調『冬の日の幻想』〜第2楽章「憂鬱な土地、霧の土地」

 チャイコフスキーには交響曲が『マンフレッド交響曲』を含めて7曲ある。第4交響曲以降の後期作品が有名だが、この第1番の第2楽章は、名曲の一つだと思う。茫漠とした弦のアンサンブルで始まり、表題の通り、霧が徐々に薄れて行くような感じだ。孤独な旅人が眺めていると、霧が次第に薄れ、平原の彼方に、暗い森と鈍く光る川の流れがぼんやりと見えてくる。やがてオーボエ・ソロが始まるあたりまでは長調だが、メロディが進むと短調の哀しい調子に傾いて行く。主旋律は楽器を変えて三度現れ、その三度目がホルンによって奏されるのだが、ここで大きく盛り上がり、最後はまた序奏部の弦のアンサンブルに戻って、霧に閉ざされて行く。

 彼が26歳の年の作品だが、オーケストレーションが巧妙だと思ったら、実は後に改訂している。残念ながら、他の楽章がそれほど魅力的でないので、広く知られていないのはもったいない。なお主調はト短調とされているが、第1楽章の主題は五音音階的で、調性感はかなりあいまいである。

 カラヤン/ベルリン・フィル。交響曲全集の中の一枚だが、これは超名演と呼んでいい。ややゆったり目のテンポで演奏している。ホルンが現れるところはオケの威力を全開にして、非常に痛切な、悲劇的な響きを作り出す。ここでもソロを取り巻くオケが全部聞こえ、情感が身に迫る。

 メータ/ロス・フィル。やはり交響曲全集の一枚である。カラヤンに比べるといくらか速めで、ホルンの登場もかなりあっさりしている。もう少しと思わないでもないが、音はきれいだ。全体にカラヤン盤の音は背景が不透明な感じがある。メータ盤の方は青黒い闇に輝きのある音がぽっこりと浮かび上がるように聞こえ、何だか音自体が悲劇的な色合いを帯びている。


幻想序曲『ロメオとジュリエット』

 この曲の第2主題は「愛のテーマ」として、ラフマニノフの音楽と共に、ハリウッドの映画音楽制作者に影響を与えたらしい。非常に濃厚なというか、肉感的なまでの陶酔の旋律である。五人組の影響を強く受けているそうで、バラキレフのすすめで作曲したという。だがロシア・ロマンスを集めたCD(別項)で聞くと、バラキレフはやはり素人作曲家の域を出ないようだ。

 曲はいかにも悲劇的な雰囲気の序奏で始まり、やがて急速な闘争のテーマとなるが、あまり脈絡なく愛のテーマが出てくる。少し唐突な展開のように思う。しかし部分部分は魅力的だ。

 カラヤン/ベルリン・フィル。交響曲全集に入っているもの。やはり強力な演奏で、クライマックスの盛り上げもすばらしい。彼の音楽性がチャイコフスキーの音楽によく合っていたのだろう。

 メータ/ロス・フィル。これも交響曲全集の一枚で、すっきり颯爽とした演奏だ。あまり濃密な情感は鬱陶しいと感じる人には、かえって良いかもしれない。

 ミュンシュ/ボストン。『悲愴』とのカップリングで先般復刻されたものである。私の常用している装置のサラウンド・モードで聞くとあまり良い音ではないが、ヘッドフォンで聞くと案外いい音に聞こえる。いかにもミュンシュらしい熱血たぎる演奏だ。オケの能力(特に木管)には、やや注文を付けたくなる部分もある。

 バーンスタイン/NYフィル。90年の録音である。私の持っているのは「パノラマシリーズ」という二枚組の廉価盤だ。序奏は誰よりも遅いテンポで演奏している。闘争のテーマは普通のテンポになるので、全体として彼らしい身振りの大きい演奏になっている。愛のテーマもたっぷりしているが、マーラー演奏に比べると思い入れは弱いようだ。むしろ打楽器の強打一発で訪れる突然の結末、といったコーダ部分が力演である。そうした劇的な展開に重きを置いた演奏に聞こえる。


『四季』

 1月から12月までの12曲から成る有名なピアノ曲集で、元々は月刊雑誌の付録のような位置づけで毎月1曲ずつ作曲されたそうだ。家庭で演奏する曲ということで、テクニックをあまり要しないように作られている。チャイコフスキー自身、この仕事を大いに気に入っていたという(始めた頃は月に一曲というのを負担に感じていたそうだが)。特に6月「舟歌」や11月「トロイカ」は名旋律である。

 詩人の三好達治は、酒を飲むとこの「舟歌」のメロディに乗せて、「久方の光のどけき春の日に」の歌を歌うのがオハコだったそうだ。「久方の」の部分は朗唱風に流し、「光のどけき春の日に」の部分から、メロディにするのだそうである。実際に歌ってみると、チャイコフスキーのメロディは、日本語の歌によく合うのである。日本人がチャイコフスキー好きなのは、日本語のリズムに近いからかも知れない。

 トロップ。持っているのはこれだけである。不満な点は何もない。音がきれいだし、個性的なルバートもあるが不自然なところはなく、十分に楽しめる。前述のように『四季』はアマチュアでも弾ける易しい曲という前提で作曲されたので、プロなら上手であって当たり前だが、それ以上に憂愁に満ちたチャイコフスキーの音楽がよく表現されている。併録のラフマニノフも秀演のように思う。


とっぷ  音楽談義
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