ここで取り上げ主なた話題
天才の憂鬱
交響曲第5番
ピアノ五重奏曲
弦楽四重奏曲第8番





ムツェンスク郡のマクベス夫人icon








































































































































































































































バーンスタイン/交響曲第5番(59年旧録音)icon



バーンスタイン/交響曲第5番(79年ライブ)icon












ハイティンク/ショスタコーヴィチ交響曲全集icon








小澤征爾/交響曲第5番icon














アシュケナージ/ショスタコーヴィチ交響曲全集icon



















バルシャイ他/ショスタコーヴィチ・エディションicon





























ショスタコーヴィチ/ピアノ曲・室内楽曲集icon




バルシャイ他/ショスタコーヴィチ・エディションicon






















































フィッツウィリアム四重奏団/ショスタコーヴィチ弦楽四重奏曲全集icon





バルシャイ他/ショスタコーヴィチ・エディションicon











ボロディン四重奏団他/ショスタコーヴィチ弦楽四重奏曲第8番他icon






ショスタコーヴィチ


ショスタコーヴィチ(1906−1975)
画像はWikipediaからいただきました
 ショスタコーヴィチは言うまでもなくロシア音楽史上最高の天才だったが、作曲活動の全体を通じて、ソヴィエト連邦時代に生きた。ゆえにソ連音楽史上の人物という見方もある。以前は彼を基本的に社会主義的な音楽家と見なす人がいて、その作品は「政治的プロパガンダを音楽にしたもの」と解釈されたことがあった。たとえば「題名のない音楽会」の黛敏郎氏は、放送の中で、はっきりそう断言していた。

 しかし70年代に西側の記者が彼にインタビュー(当時その記事が「レコード芸術」誌に掲載されていた)したとき、たばこに火を付けようとするその手は、神経質にぶるぶる震えていたという。

 彼と親交があった演出家のメイエルホリドは、1940年にスターリンの粛正で獄中死している。メイエルホリドは帝政末期から頭角を現し、現代の舞台演出にも多大な影響を与えた天才だったが、抽象化された舞台装置、演技動作の奇妙なパターン化などがスターリンには我慢ならなかったらしい。死体には激しい拷問の痕があったそうだ。

 ショスタコーヴィチ自身も同じ頃オペラ『ムツェンスク郡のマクベス夫人』で批判され、まかり間違えば生命の危険があった。『交響曲第5番』では、一見社会主義リアリズム路線に同調しているようだが、音楽の本質は変わっていないと思う。確かに初期のオペラ『鼻』のような強烈な音響は影を潜めたが、『交響曲第7番』などは革命を戯画化しているように聞こえるし、エフトウシェンコの詩による『交響曲第13番「バービイ・ヤール」』では、明らかにソ連政府を批判している。

 ヴォルコフの『ショスタコーヴィチの証言』には、彼がプロコフィエフを嫌っていたという記述がある。プロコフィエフは革命後、アメリカに亡命した形になっていて、犀利な前衛的作風であったが、1930年代に帰国してからは、ほぼ社会主義リアリズム路線に従った音楽を書いたので、「だらけた御用作曲家」と考えたのであろう。

 なお、ショスタコーヴィチの名前は、現在ではほぼこの表記に統一されたようだが、最初に知った頃はショスタコビッチなどと表記されていたものである。

 マーラーの項で、ショスタコーヴィチの音楽は裏切られた人の音楽であると述べたが、おそらく彼は新進作曲家だった頃には、社会主義ソ連では自由な創作活動が許されるはずだと考えており、芸術至上主義的なユートピアを思い描いていたはずである。だがソ連は次第に反動主義的とも言うべき理念を打ち出し、進歩的知識人や芸術家を迫害し始めた。「そんなはずはない」と、心の中で何度も叫んだことだろう。だが現に帝政末期の宮廷にも、メイエルホリドの前衛的な舞台芸術は受け入れられていたのに、スターリンに忌避され、ついには殺された。ショスタコーヴィチは、革命に裏切られたのである。

 パステルナークは『ドクトル・ジバゴ』で、詩と政治は無関係だと言った。「詩について、政治的見地でゴチャゴチャ言うのはやめてくれ」というのが本音であり、ショスタコーヴィチたち音楽家もそうだっただろう。ショスタコーヴィチの交響曲にしばしば見られる標題は、おおむね韜晦ではないかと思う。革命を讃えるかのような標題を名乗って、実は違った中身の音楽を奏でる。私の友人は交響曲第11番だったか、第12番だったかが初めてレコードになって紹介されたとき、それを聴いて、黒々した大地に十字架が並んでいるのを思い浮かべたそうである。後年『証言』で「私の交響曲は墓碑銘である」という言葉が多くの人に衝撃を与えたが、その十数年前に、音だけからそれを聞き取っていた人もいたのだ。

<天才の憂鬱>

 ショスタコーヴィチは神童だったらしい。彼がまだ少年の頃、社交界の集まりで何気なくピアノを弾いていると、周りに上流夫人が集まってきて、「ねえ、この子すごく上手よ」「本当、すてき」と噂になり、いつの間にか人だかりになることが多かったという。本人はただ弾いているだけで、何がそんなに人を引きつけるのか、さっぱり分からなかった。「音楽の申し子」と呼ぶべき感性を持っていたのである。ソヴィエト連邦時代の最高のピアニストの一人だった(ラフマニノフは国外に亡命状態だった)。

 だが1927年には、すでに交響曲第1番を発表して新進作曲家として世界に認知されていたにもかかわらず、連邦政府から第1回ショパンコンクールに出場させられ、屈辱感と体調不良から、自分でもまずいと思うような演奏しかできなかったそうだ。ソ連政府としては必勝を期して送り出した「選手」だったわけだが、この頃からショスタコーヴィチは、政府に不信感を抱き始めたようである。

 日本人には、コンクールの成績を過大視する人が多いようだ。以前、宮本笑里というヴァイオリニストの初CDが出たとき、私もジャケット写真の美しさに惹かれて買ったクチだが、その才能にも感心した。だがあるユーザーレビューで、「この人はもう少し大きなコンクールで入賞するなどのキャリアを積んだ方がいいと思います」と発言している人がいた。自分の鑑定眼に自信がなく、そうした実績を判断基準にするのだろう。「コンクールで一位だって?そりゃすごい!」「三位だって?まずまずだな」「六位?ふうん」というような見方では、音楽など分からない。

 音楽は聞く人によって受け取り方が違うので、客観的な基準などはどこにもない。そのときの審査員の感じ方次第だし、出場者のその時の気分によっても違ってしまう。もちろん国際コンクールに入賞するような人と全くの素人では、歴然たる違いがあるのが普通だ。しかし入賞者ともなると、一位でも六位でも、そんなに違っているわけではないのだ。

 芸術は、スポーツ競技のような競い方では決められない。たとえばある楽句がどれだけ速く弾けるか、ショパンの13連符や23連符を正確に弾けるかどうかなどを競うとすれば、それはバカげているだけでなく、完全な間違いだ。それでは機械で演奏するのが最高ということになる。

 よく言われるように、ショパンコンクールでは、一位になったピアニストより二位の人の方が活躍する例が多い。審査の時に完成度の高い演奏をした方が、独創的だが問題の残るピアニストより、平均的に高い評価を受けるからである。努力すれば達成できる程度のことなら、シャカリキになって練習すれば、誰でも一位になれる可能性があるが、それをさらに踏み越えて新しいことをする。「誰もこんな風には弾けないだろう」と思うような演奏というものがある。

 いわゆる秀才は優等生的な演奏をして、コンクールで一位になるが、天才は未知の演奏をして、コンクールでは二位以下に甘んじる。だがそのあとのキャリアでは、その未知の世界が次第に深化する、あるいはよりよく理解されるようになる。もちろん、一位になったピアニストがみんな悪いわけではない。ポリーニ(60年一位)が若い頃に録音したベートーヴェン後期ソナタ集などは抜群の秀演だった。だがたとえばアシュケナージ(55年二位)はハラシェヴィチ(同年一位)より活躍しているし、内田光子(70年二位)もオールソン(同年一位)より格上のように思う。

 およそすべての評価は、過去に為したことへの評価であって、未来(可能性)への評価ではない。

 人は、彼が「何を目指しているか」で評価されるべきであって、「それまで何をしてきたか」はさほど重要でないというのが私の持論だ。こう言えば、ほとんどの人は「人が何を目指すかはおおむね分かっている」と思う。それは富とか権力に決まっていると思いこむらしい。

 しかし、富や権力も、それを使って何かを達成するための手段であり、最終目的とは言えない。たとえばあなたの目的が富だとすると、一生贅沢に遊んで暮らせるほどの大金が手に入れば、それでもう人生の目的は達成されたと思い、「夕べに死すとも可なり」という心境になるだろうか?ほとんどの人はそうでない。その大金を使ってやりたい放題の贅沢、美味しい食べ物を食べ、美しい音楽に浸り、美女を侍らせるというようなことを夢見るのだ。これらの夢に、すべて「美」という文字が使われているのは偶然ではない。富と権力でなく、大多数の人にとっては美と快楽こそ最終目的だからだ。大金を手に入れた歓びは、「明日から」そうした贅沢三昧の生活が待っているという希望によってもたらされるのであり、それで目的達成ということではない。

 ところが一部の人は、少し違った目的を持っている。ショスタコーヴィチは作曲家として、芸術的な野心を持っていた。聞く耳があれば、そのすべての萌芽を交響曲第1番に聴き取ることもできる。

 ラフマニノフも超絶的なピアニストで、アメリカでは大いにもてはやされ、生活のためにたくさんの演奏会をこなした。しかし自分は作曲家だという意識が強く、演奏活動のために作曲活動が妨害されるのを嘆くことがしばしばだった。比較的初期の「前奏曲嬰ハ短調」ばかりリクエストされるのには、辟易したという。

 新しい音楽を創る、新しい感動を生み出す。それも「美と快楽」の一つだと言えば言えるが、誰も聴いたことのない新しい音楽を創り出す歓びは、この世のあらゆる既存の快楽の享受、山海の珍味を味わい尽くすなどといった行為とは大きく違っているだろう。そういう行為はしばしば、感覚の麻痺である。たとえば美を味わおうとして高価な名画を買いあさる。ゴッホの「ひまわり」に莫大な金を出す。それも無価値とは言わないが、ゴッホの絵画が人を驚かせたのは、比較的色彩に乏しい生活環境の中で、見るも鮮やかな色彩だったからである。いつもきんきらきんのカラー画像に接している現代人にとって、ゴッホの色彩は、もう名画たるべき最大の機縁を失った。現代人が「ひまわり」を見て感動するのは、その莫大な金銭的価値に対してだけだ。「ほう!これが一億円の名画か!」というわけである。

 アインシュタインは特許局の職員だった頃、博士号を手に入れようとして、相対性理論など、いわゆる奇跡の年の3つの論文を書いた(当時は単なる大卒、日本で言えば学士だった)。彼は富や名声を望んでいたのだろうか?

 実は、彼は博士の学位を取得してどこかの大学の研究室に迎えてもらい、静かな研究生活を送る中で、もっと世界の謎を探りたかったのである。ところが相対性理論という驚異の理論を送り出したために、どこへ行っても「その理論の説明をしてくれ」と頼まれる。結局その後半生は、ほとんど自分が書いた若い頃の理論の解説(要するに教授としての活動)に追われた。私は想像するのだが、彼はずいぶん失望したと思う。どこでも顔を出したとたん、「おお!あれがあの相対性理論のアインシュタインだ!」と感嘆される。しかし、本人は「もうそんな昔の業績など、どうでもいいよ」という気持ちだったはずだ。理論としても完璧であり、実験的にも確立されているのに、何を最初から蒸し返して、「何でも知っている科学解説者」を気取る必要があろうか?

 世の中には、富や権力より、高貴な精神性、真理に触れる崇高の感情をより重んじる人たちがいるのだ。彼らは同時代者からは誤解されることも多く、時には全く蔑まれる。もっとよく理解される頃には、この世を去っているということになりがちだ。

 ショスタコーヴィチが目標としたのは作曲家である。交響曲第1番を発表して世界を驚かせた後に、ピアニストとしてコンクールに出場せよと言われる。新しいものを創りたいと願う彼にとって、既存の楽曲を演奏する腕前など、余技以上のものではない。そんなもので「国家の威信」とやらに煩わされたくはなかったのだ。逆に言えば、連邦政府の無理解を感じたのだ。

『交響曲第5番ニ短調』

 最近は「革命」と標題を付けて呼ぶ人もいるが、前記の理由から、私はそれを認めない。いかにも革命の勝利に見せかけた、人間の苦悩と反撃の音楽とでも言おうか?だがその反撃は、必ずしも全面的な勝利の喜びで終わっているような気がしないのである。作曲者は喜びを強制されている状態、と言ったそうだが、その方が似合っている。ただし、それですべて説明できるものではない。明らかに、政治的状況を離れた美が表現されているように聞こえるからだ。

 バーンスタイン/NYフィルの旧録音(59年)。前記の「十字架を聴いた」友人がこの演奏のレコード(もちろんLP)でショスタコーヴィチ・ファンになり、私も彼から初めて聴かされて衝撃を受けたものである。全曲を覆い尽くす青黒い闇の深さ、神経がピリピリするようなメロディラインに加え、第一楽章のタガの外れた皮肉な行進曲、クライマックスでヒステリックなまでにハイポジションで弾かれるヴァイオリン、ピアノやシロフォンを交えたオーケストラの響きは、それまで知っていたベートーヴェンやブラームスとは全く違う音の世界であった。もう古い録音なので、復刻盤も芳しくないのではないかと思い、このCDは長らく敬遠していた。だが79年の東京ライブ盤にはあまり感心できなかったので、改めて59年盤を買ってみたら、色彩感こそ乏しいものの、思ったよりいい音がしていた。バーンスタインとしては、マーラー同様に共感できる作曲家だったのだろう。第3楽章の夜の果てに立つような孤絶感は、東京ライブより強いように思う。この曲は37年に作曲された。59年当時はまだ尖鋭な現代音楽だったのである。

 ハイティンク/コンセルトヘボウ。81年録音で、交響曲全集(輸入盤)の中の一枚である。ピカピカに磨いた黒檀材のようなしっくりと耳になじむ音で描かれ、感銘も深い。この全集は、すばらしい出来栄えだ。昔のハイティンクの録音(バルトーク、チャイコフスキーなど)には、いつもがっかりさせられていたものだが、ショスタコーヴィチが彼の体質に合っていたのだろうか。

 小澤/サイトウ・キネン。このオーケストラは、技術的には世界最高だと思っているのだが、常設オケでないのが惜しまれる。もっとも、クラシックの演奏だけでメシを食うのが難しい日本に、これだけのレベルの常設オケがあるはずもない。

 演奏は小澤が熟慮の末に到達した解釈であり、どこにも不満はない。非常に丁寧に情感を込めて演奏されており、今や古典名曲となったこの曲にふさわしい。録音も万全で、シロフォンが埋もれることもない。ただしクライマックスには、小澤のうなり声が入っている。第3楽章の弦のアンサンブルはさすがに精妙に弾かれている。終楽章では大きなクライマックスを作り出すのも面白い。

 アシュケナージ/ロイヤル・フィル。デッカの全集盤に含まれるもので、歌詞対訳付きが欲しかったので、国内盤で購入した。曲目解説はアンドリュー・フースの原文を翻訳したもので、内容はいいようだが、翻訳はずいぶん変てこだ(翻訳者の名誉のため、名前は伏せる)。歌詞対訳は一柳富美子氏によるもので、こちらは立派な出来映えである。

 指揮者としてのアシュケナージはあまり評価されていないようだが、コンセルトヘボウを振ったラフマニノフなどはすばらしかった。強力にオケをコントロールする指揮者ではないので、オケの能力の差が出やすいのかも知れない。しかしショスタコーヴィチに対する共感は深いように思う。

 第1楽章のクライマックス付近でのシロフォンはやや埋もれ勝ちだ。ピアニスト出身の指揮者にしては弦楽器のアンサンブルが厚く、表情も豊かである。全般には孤絶感と悲劇感の強い表現で、特に第3楽章など、非常に魅力がある。

 バルシャイ/ケルン放響。ショスタコーヴィチ・エディションという27枚組ボックスセットに入っているものである。このセットはオペラや歌曲以外はほとんど網羅されていて、内容が充実している。バルシャイは、かつては名ヴィオラ奏者として知られていたと思うのだが、ショスタコーヴィチの交響曲第14番「死者の歌」を初演したり、弦楽四重奏曲を弦楽合奏の「室内交響曲」に編曲するなど、この作曲家と縁が深かったという。

 やはり弦楽奏者らしく、全般に弦楽器の比重が大きい響きだ。ショスタコーヴィチと言えば、前述したように高音と低音が張り出し、中声部がやや後ろに引っ込んだ音、という印象があるのだが、この盤はそうでないので、ぴりぴりした感じが少なく、温かみを持っているように聞こえる。どうとるかは個人の好みだろうが、私には少し食い足りない演奏だ。

『ピアノ五重奏曲ト短調』

 この曲は何とスターリン賞を受賞したそうだ。晴朗闊達なピアノで開始され、彼特有の固執音型もあまり深刻に響かないので、聴きやすい作品になっている。もちろん社会主義リアリズムとは全く無縁で、やはり悲劇性を内包しているのだが、作曲者としては少しリラックスした気分に浸れる時期だったのだろう。第4楽章の最後には、少し悲嘆の表情が出るが、長くは続かない。一般的な音楽ファンにも人気の高い曲だそうだ。

 アシュケナージ=フィッツウィリアム弦楽四重奏団。ピアノ、弦楽四重奏共に気迫を込めて演奏している。かなり劇的な表現で、やはり内省的・悲劇的要素を強く打ち出している。

 前述のショスタコーヴィチ・エディション盤。これは名前を知らない奏者だが、ピアノがアウアー、ヴァイオリンがボルとローゼンタール、ヴィオラがトンプソン、チェロはホーゲヴェーン(?)となっている。演奏、録音共に良いが、明るく素直な表現で、ほとんど悲劇の要素がない。能天気とも言えそうだが、今後はこうした表現の方が主流になるのではないだろうか。

『弦楽四重奏曲第8番ハ短調』

 この曲の第2楽章にユダヤの『死の舞踏』が現れるが、これはピアノ三重奏曲第2番の終楽章から採られた。収容所のユダヤ人が自分の墓穴を掘らされながら歌ったり踊ったりしたといい、ショスタコーヴィチは、その話に強いショックを受けた。自分のことのように感じ、この「D−S−C−H(ただしS=Esとする、つまり図の音型)」で開始する曲にも埋め込むことにしたようだ。

  曲全体はショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲の中でも、厳しい緊張感に支配されており、いわゆる「楽しむ音楽」からはほど遠い。将来これも『交響曲第5番』のようにカドの取れた優しい曲になることがあるだろうか。

 60年の作品であり、東西冷戦下とはいえ、日本は高度成長期で、私なども能天気な(といっても子供なりに悩みの多い)毎日を過ごしていた。だが当時のソ連は「ルイセンコ学説」が幅をきかせる妙な国で、良心的な科学者が排除され、ショスタコーヴィチも毎日生命の危険を感じながら過ごしていたのだ。日本にも「ソ連の言うことは何でも正しい」と思い込む人がいた。ルイセンコ学説について、「ソ連の研究では、獲得形質は遺伝するらしい」などと、さも重大なことのように学校で教えられたのを記憶している。

 今振り返ってみると、日本の高度成長は冷戦の結果でもあったのだ。当時のアメリカは太平洋防衛圏を強固ならしめんがためにアジアを支援し、日本には米軍基地からの仕事がたくさん入ってきたようだ。後にベトナム戦争が泥沼化すると、日本は天井知らずの急成長を遂げ、終結するととたんに不況に陥った。2000年代前半のイラク戦争期には「好況感なき景気回復」と言われる、トロ火のような好景気の時期があった。日本は直接的な武器を作っていないとしても、アメリカの戦争を支援する産業が多く存在する。戦争があれば日本は潤うのである。

 フィッツウィリアム弦楽四重奏団。かつての代表的全集録音の一枚である。まだ音も良く、これさえあれば他は要らないと思うCDだ。怒りの音楽と言おうか、劇的で尖鋭、攻撃的な表現である。ショスタコーヴィチの死の年、75年から77年にかけて録音された全集だから、まだバリバリの現代音楽だったわけで、切実感もあっただろう。

 ルビオ・クァルテット。前述の『ショスタコーヴィチ・エディション』の中の一枚で、愛好家には好評だという。なるほど聴いてみると気迫十分だし、録音が新しいためか柔らかい音がして、なかなか美しく響く。その美しさが音楽の本質にぴったりしているかどうかは別問題だ。

 なお『ショスタコーヴィチ・エディション』には、この曲をバルシャイが編曲した『室内交響曲』も含まれ、比較してみるのも面白い。

 ボロディン弦楽四重奏団。「デッカ・ベス100シリーズの一枚で、他にドヴォルザークの『アメリカ』、ボロディンの『弦楽四重奏曲第二番(第3楽章「夜想曲」が有名)』という魅力の二作品を収録した廉価盤である(『アメリカ』の演奏はヤナーチェク四重奏団)。演奏はどの曲も最高水準で、やや古い録音ながら、音質も悪くない。ショスタコは特に優れているように思う。「死の踊り」のくだりはオーケストラのようにスケールの大きな響きを作っているが、弦楽器4本だけなのに、どう弾けばこんな響きになるのか、不思議なほどだ。終楽章冒頭の和音は柔らかく弾かれており、フィッツウィリアムの炸裂するような表現を聞き慣れていると、やや物足りなく感じる。しかし全体としてはすばらしい。


とっぷ   音楽談義

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