『古事記傳』1−2


書紀について<書紀の論ひ(アゲツラヒ)>

 古事記について論ずるにあたり、書紀について論ずるのはなぜかと言えば、昔から世人は書紀だけを尊んで、物知りな人も書紀を読むことに一生懸命で、神代巻などについては、やかましいほど多くの注釈書も書かれたのに、この記はなおざりにして、注意に値するとも思っていない。その理由は、漢籍のみをありがたがって、大御国(おおみくに)のいにしえの心を忘れ果てているからである。そこでその漢意(からごころ)の迷妄を悟らせ、古事記の尊い理由を明らかにして、皇国の学問の道しるべにしようと思うのである。まず書紀は潤色が多いことを知って、その撰述の目的を知るのでなければ、漢意に囚われた心の病を取り除くことはできず、そのことを知った上でなければ記の良さは知りがたく、それを知らないでは古学の正しい道は知ることができないからである。さてその論というのは、まず『日本書紀』という書名こそ理解できない。これは漢の国の「漢書」「晋書」などという書名をまねて、御国の名を付けたのだが、中国は王朝がたびたび入れ替わったので、それぞれその国の名を付けなければ分かりにくいからそうしているのである。だが皇国は、天地の遠く長い昔から、天津日継(あまつヒツギ)続いていて、王朝が変わったなどということがないので、「何々の国の歴史」という必要がない。国号を掲げるのは、他の国号があるときだけである。いったい、何に対して「日本」と言うのだろうか。ただ漢(から)国に対して言っているのであって、漢にへつらった書名と思われる。【後の史書もこれに習い、文徳三代実録にまで「日本」の名を掲げてあるのは、いよいよおかしい。】それなのに、後代の人がこれをいかにも尊いように思っているのはなぜだろうか。私には妙な、いかにも辺国が大国にへつらった書名のように思われる。【ある人は、この書は漢国にも見せようとして書いたものなので、書名もこうしたのだろうと言うが、決してそうではあるまい。もしそうであったら、自分の国の史書の題名を外国人に見せるために付けたというのは、ますます良くないであろう。】さて、その叙述の様子は、もっぱら漢籍に似せようと務めた結果、意(こころ)も詞(ことば)も漢風の飾りばかりが多く、人の言語、物の実態まで、上代のそれとは違っていることが多い。まず神代巻のはじめに、「古天地未レ剖、陰陽不レ分、渾沌如2鶏子1云々(イニシエにアメツチいまだワカレズ、メオわかれざりしとき、マロカレタルことトリノコ<卵>のごとくして)」、「然後神聖生2其中1焉(シカリしてのちに、カミ、そのナカにあれます)」とある。これは漢籍の文をあちこちから集めてきて、適当に組み合わせたもので、編纂者の私説にすぎず、決して古くからの言い伝えではない。次に「故曰開闢之時、洲壌浮漂、譬猶3游魚之浮2水上1也云々(カレいわく、アメツチはじめてヒラクルときに、クニツチのうかれタダヨエルこと、たとえばアソブイオのミズノウエにうけるがごとし)」という。これこそいにしえの伝えであろう。「故曰」とあるので、それまでの文は新たに加えた潤色だと分かる。そうでないなら、この「故曰」の二文字は何の意味だろうか。初めに述べられたのは、その趣がすべて小賢しく、疑いもなく漢籍からの借り物であって、絶対に皇国の上代の心に合っていない。いにしえをよく考えるならば、自然と分かることである。そもそも天地の初めの様子は、本当に古い伝説の通りのはずなのに、どうしてうるさくひねりまわした異国のさかしらな説を借りてきて、まず初めに記述したのだろうか。【「書紀纂疏」(書紀の注釈書)を見ると、「故曰」を「一曰」とする。もしこれが正しいなら、余計におかしい。それなら異国の説を主として、御国の古伝を傍流のように書いたことになるからである。】およそ漢籍の説は、天地の成り立ちなど、あらゆることに凡人の浅はかな推測を当てはめて作り上げたものである。この点、いにしえの真実の伝えにはそういうことはない。誰が言いだしたともなく、ただ非常に古い頃から語り伝えたままを伝えるのである。これらを比べると、漢籍の方は理論的に深いように聞こえ、いかにもそれらしいが、我が国の古い伝えの方は精緻な理論もなく、考えが浅いように聞こえるので、みんなが漢籍の方に惹かれ、舎人皇子をはじめ、世々の識者も、それに惑わされてしまっている。その理由は、およそ漢籍の説は賢い昔の人たちが、あらゆることを深く考え、理論的に考察して、自分も人もその通りだと納得するように造り定め、賢い文章で巧みに書いておいたものだからである。だが人間の知性は限りがあり、世界の本当の真理はとうてい分かるものではない。この世の初めがどうであったか、どういう理由でこの世が生まれたか、推測できるものではない。こういう推測は、ごく最近のことさえ大きく間違っていることが多いのに、理屈さえ通せば天地の始めからおわりまで、すべて推し測ることができると思うのは、たいへん身の程知らずと言うべきで、人間の知性には限りがあって、本当の真理は測り知れないことが分かっていないのである。すべて「理にかなっている」というだけで物事を信じるのは誤りである。「理にかなっている」という判断も、凡人には正しくできない。そのことを説くのも凡人、信じるのも凡人であったら、どうして本当に良いか悪いか、判断できるだろう。中国でおおげさに言われる聖人などという人でも、知恵にはなお限りがあって、至らないことが多いのに、それより知恵の遅れた人たちが書き残したものなどは、どうして信じ得ようか。それなのに、世の識者たちがそうした憶測の説にだまされて、このことを悟らず、書紀の潤色の部分をさえ、「道の旨(むね)」だと思っているのは、大変浅ましいことである。書紀の最初の部分は、ただ飾りとして加えた、序のようなものとして見過ごしにするのが妥当である。次に「乾道独化、所以成2此純男1(アメのみちヒトリなす、このゆえに、このオトコノカギリをなせり)」、また「乾坤之道相参而化、所以成2此男女1(アメツチのミチ、アイマジリテなる。コノユエニこのオトコオミナをなす)」とある。これらも撰者の考えで新たに作ったさかしらの文である。「乾坤(天地)」などという思想は皇国にはなく、それに相当する古言は存在しない。古い言い伝えでないことは明らかだ。もし古い伝えであったなら、ただ「天地之道」と言うはずである。もっとも、これは「天地」を「乾坤」と言ったので、文字が換わっているだけとも言え、まだ許されるけれども、この神たちを、その「乾坤之道」によって生まれたかのように書いているのは、非常な誤りである。この神たちも、高御産巣日(たかみむすび)神と神御産巣日(かみむすび)神の御霊(みたま)によってこそ、お生まれになったのであろう。そのようにしてお生まれになった事情は、どうにも測り知れないものなのに、いかにも賢げに「乾坤之道」などと書いているのは、漢意によった造りごとに違いない。また伊邪那岐(イザナギ)神を陽神、伊邪那美(イザナミ)神を陰神と書いて、「陰神先発2喜言1、既違2陰陽之理1(メカミまずヨロコビのことばをアグ。すでにメオのコトワリにたがえり)」などというのも、漢意に基づく誤りである。およそ世の中に、陰陽の理などというものはない。元来皇国にまだ文字がなかった時代に、そんなことがあるはずもないので、古い言い伝えには「男神、女神」「女男(めお)之理」ということならあったかも知れないが、このように改めて書いたのは、単に文字面が違うだけでなく、非常に学問の妨げとなることである。なぜなら、なまじ漢学の素養のある人は、この文を見て、「伊邪那岐命、伊邪那美命という神は、仮に名付けたものであって、実は陰陽造化のことを言う」などと解釈し、あるいは漢文の『易経』を引いて、陰陽の理論をもって説明しようとするので、神代のことは、すべて造り事だという話になり、いにしえの伝説は何もかも漢意で説明されて、真実の道は立てられなくなってしまうからだ。そもそも書紀の撰者は、そこまでのことは思わず、ただ文章を漢籍に似せて飾り立てただけであろうが、この文が後代に至って、こうしたさまざまな邪説を生むきっかけとなって、真実の道が見えにくくなった根本的な原因である。しかしながら、この「陰陽の理」というものは、はるかな昔から、世の人々の心に深く染みついていて、誰もがそれを天地自然の原理であって、あらゆるものごとは、この理を離れては存在しないと思っているだろう。それこそ漢籍に惑わされた考えである。漢籍を基準に考える思考方法を棄てて、よく現実を見れば、天地はただの天地、男女はただの男女、火と水はただ火と水にすぎず、それぞれの性質、形状はあっても、それらはみな神の仕業なのである。その理由と原因は、極めて深く霊妙であり、人間の測り知られるところではない。それなのに漢国の人の癖として、賢げぶった浅はかな心で、万物の理を強いて求め、この「陰陽之理」ということを造り言い立てて、あらゆるものがこの理に従っているように、話を作ったものである。【このように、『陰陽』はただ漢人の作り話であって、本来中国でしか言われない説であるから、他の国にはそうした説がないらしく、天竺(インド)の仏説などを見ると、世界の初めや人間の初めなどもみな地水火風のいわゆる『四大』で説明しており、陰陽五行の説などというものはない。その(五行の)文字はまれに見えるけれども、おそらく仏経を漢訳したときに加わった、言葉の上だけのことと思われ、真理を説き明かすための原理として扱っていない。およそ天竺は漢よりも大げさに物の理を説く国なのに、それでもこのようであることでも、『陰陽』の説は漢だけの私説であることを知るべきである。】それは元来賢い人がよく考えて作りだした思想であり、十のうち六つ七つは当たることもあるので、世の人々はみなそれを信じて疑うこともないのだが、その『陰陽』は、またどうして陰陽となったのかというと、もうその根本の生成原因は分からない。(すべての生成の根本原因として)太極、無極などと言われることもあるが、それはまたどういう理由で太極、無極となったのかといえば、もうその先の本当の生成原因は結局分からないのだから、実のところ陰陽も太極無極も、何の役にも立たない無駄ごとであり、ただ人知の推測できる範囲にある事柄の小さな理屈付けに、あれこれ名前を与えただけのことだ。そもそも天照大御神は日(陽)の神であって女神(陰神)、月夜見(つくよみ)命は月(陰)の神であって男神(陽神)であらせられる。これを見ても陰陽の理が真実の理に合わず、いにしえの伝えと異なることを知るべきである。それをなお陰陽の理に拘泥して、かえってこれをそれに適合させようと曲説する(天照大神を男と主張するなどの)説は、全く取るにも足りない。また美都波能賣(みずはのめ)神を罔象女、綿津見(わたつみ)神を少童などと書いてあるのも、漢にへつらった書き方で、見苦しい。その結果、~武の巻に至っては、天皇の詔として「是時運属2鴻荒1、時鍾2草昧1、故蒙以養レ正、治2此西偏1、皇祖皇考、乃神乃聖、積レ慶重レ暉(コノときに、ヨ、アラキにあい、トキ、くらきアタレリ。カレ、くらくしてタダシキみちをヤシナイテ、このニシノほとりをシラス。みおや、カミヒジリニシテ、よろこびをツミひかりをカサネテ)」(東征の初めに当たって述べた詔勅)とあるなど、意味も言葉遣いも、全く上代の姿でない。もっぱら潤色のために撰者が作った文である。崇神の巻に、「詔曰、惟我皇祖諸天皇等、光2臨宸極1者、豈為2一身1乎云々(みことのりしてノタマワク、これワガミオヤ、もろもろのスメラミコトタチ、あまつひつぎをシラシシコトハ、あにヒトハシラノみためナランヤ云々)」、「不2亦可1乎(またヨカラザランや)」、これも同様だ。およそ書紀のある古い時代の詔詞はこのたぐいで、特に上代の各巻にあるのは、潤色のために造り加えたものと思われる。そのため、どうにも古い言葉が正しく読めなくなっている。その他も推して知るべきだ。続紀(続日本紀)には、古語の詔【いわゆる宣命】と漢文で書いた詔を、別に書いてある。それを見ると、平城の時代に至っても、古語の詔詞には、漢文めいた言葉遣いが見られない。まして上代の言葉は、そうした古語の言葉遣いに似て、さらに古い言葉だったと推測される。それなのにこの書紀の詔詞は、古めかしいところは少しもなく、ひたすら漢文に似せてある。また~武の巻に、天皇の言葉として「戦勝而無レ驕者、良將之行也(たたかいカチテおごることナキハ、いくさのきみのシワザなり)」とある。およそこのようにさかしげに漢文めいたことは、すべて潤色であると思われる。すべて言葉というものは、その時代時代の言い振りがあって、人の行いや心にかなっているはずだが、書紀の人の言語が、上代の人々の行いや心に合っていない点が多いのは、漢文的な飾りが過剰だからである。また同じ~武の言葉として、「今我是日神子孫、而向レ日征レ虜、此逆2天道1也(イマわれはヒのカミのウミノコにして、ヒにムカイてアダをうつは、これアメツチのミチにサカレリ)」【この御言葉、この記には、ただ向レ日而戦不良(ヒにムカイテたたかうはヨカラズ)とある。】、また「獲2罪於天1」などとある「天」は、ほとんどが漢意の天であって、いにしえの人々の心とは違っている。【天命、天心、天意、天禄などとあるたぐいは、みな同様である。】なぜかと言えば、天はただ空の上にあって、天の神がおられる御国だというだけのことで、心も魂もあるものではない。ならば天の道などというものはなく、「皇天之威」などというものもない。そこに罪を獲るはずもない。それをいかにも天に神霊(みたま)があるように言い、人の禍福も何もかも、その仕業であるというのは漢の国のことで、全く誤りである。【続日本紀の宣命に、「天地の心」とあり、万葉集に「天地のなし(為し)のまにまに」とあることを見ると、奈良時代にはすでに漢の考え方が広まって、いにしえの教えと違ったことも混じっている。外国で万事「天(抽象的原理)」というのは、神代の正しい伝えがなく、世の中のことはすべて神(実在の神)の行いによることを知らないのである。「天帝」、「天之主宰」などというのは神のことを言うように思われるけれども、これらも本当に神がいると知って言っているのではない。ただ仮に名付けただけで、実は「天の理」を言っているのであるから、天の神とは違う。「皇天」という言葉を「アメのカミ」と読むのは、「皇天」などという文字が太古にはなく、本当は「天神」とあるべきなのをわきまえた上であれば、読み方としてはこれでいいが、「皇天」すなわち「天神」と考えるのは間違いである。すべて書記を読むには、常にこの違いをよく考えるべきである、そうでなければ漢意に囚われてしまう。】ひたすら漢文に似せようとするから、こうした誤りが起こる。後代の人はまた漢籍のような考え方に惑わされているから、この違いが分からず、これらの文を見ると、逆に「天つ神というのは仮の名で、実は天のことだ」などと考えてしまうので、大いに学問の妨げとなっている。【天つ神は、人間と同じく実体のある神である。漢意で言う「天」のような空理に基づく仮の名ではない。天神という御称(みな)で言っている「天」は、そのおられるところの御国を呼んで言うのみであって、神が天だと言うのではない。】綏靖の巻に、「天皇風姿岐嶷、少有2雄抜之気1、及レ壮容貌魁偉、武芸過レ人、而志尚沈毅(スメラミコトみやびすがたイコヨカナリ、おさなくしてオオシキいきさしマシマス、おとこざかりにイタリテみかたちスグレテたたわし、タケキワザひとにスギタマウ、しかしてミココロザシおごごし)」と言い、崇神の巻には「天皇識性聡敏、幼好2雄略1既壮年寛博謹慎云々(スメラミコトみたましいサカシ、わかくしてオオシキコトをこのみたまう、スデニおとこざかりにしてヒロクつつしみて)」などと言うのも、古い伝えを漢字に写して書いたものでない。上代の伝えは、ただ天皇の行われたことを語るだけであり、ここに書かれたことはただ撰者が飾りに付け加えたものと思われる。また應神の巻に、淡路島のことを「峯巌紛錯、陵谷相続、芳草薈蔚、長瀾潺湲(タケいわおマヨイまじりて、オカたにアイつづけり、コウバシキくさシゲクもくして、タカキなみソソギながる)」、雄略の巻にも馬を賞めて「カク(獲のけものへんをさんずいに置き換えた文字)略而龍ショ(者の下に羽)、クツ(炎+欠)聳擢而鴻驚、異体峯生、殊相逸発(モコヨカにして、タツのごとくにトブ、アカシマにタカクぬけいでて、カリのごとくにオドロク、あやしきカタチかとくナリテ、ことなるカタチすぐれてタテリ)」とあるたぐいも、潤色が過ぎてたいへんうるさい漢文になっている。また~武の巻に「弟猾大設2牛酒1、以労2饗皇師1焉」、崇神の巻の「盍命2神亀1、以極致レ災之所由也」など、これらの文は潤色のため真実を失って、書紀解釈上の妨げとなっている。皇国では、上代に牛を食べたことはなく、また占いに亀の甲を用いたことはない。【牛酒、神亀などと書いたのは、撰者はただ文を飾っただけのつもりだろうが、後代の人はこれを真実と思うから、学問の妨げになるのである。牛を食い、亀で占うのは、外国の風習である。】景行の巻で、倭建命の東国征伐のことむけに、「天皇持2斧鉞1、以授2日本武尊1曰、云々」とある。しかしいにしえ、こうしたときには矛や剣を賜るのが普通であって、斧鉞を賜るなどということはなかったのである。これも古事記に「給2比々羅木之八尋矛1(ひいらぎのヤヒロボコをたまう)」とあるのが本当なのに、無理に漢籍に似せようと「斧鉞」と書いたのである。形容詞などの言葉を飾るのはまだしも許せる事情もあるが、このように具体的な物まで別物に置き換えてしまうのは、やり過ぎではないだろうか。他にも同様の部分は多い。書紀を読む人はよく注意すべきである。また継体紀で、まだ越前の三国におられたとき、臣連たちが相談して天皇の位にお迎えしようとしたところ、お断りになって、「大男迹天皇、西向譲者三、南向譲者再(オオドのスメラミコト、ニシにむかいてユズリたまうことミタビ、ミナミにむかいてユズリたまうことフタタビ)」とあるが、いにしえには、そうしたことは行われなかった。このあたりの文は、すべて漢籍の文をそのまま取ってきたものだ。そもそもこうした人の行いまでも造り飾り立てて、漢籍に似せたのは、どうした目的からだろうか。また綏靖天皇元年に、「春正月壬申朔己卯、云々」「尊2皇后1曰2皇太后」とあるのも【これより後の御代にも、すべて同じように書かれる。】、上代のありさまではない。なぜかというと、上代に「大后」とはその時の正后のことを言い、大御母(おおみはは)命のことは大御祖(おおみおや)と読んだのである。【このことは、中巻の白橿原の宮の段で詳しく述べる。古言のままに言うと、皇后は「意富岐佐伎(おおぎさき)」、皇太后は「意富美意夜(おおみおや)」と読むべきである。皇太后を「意富岐佐伎」と読むのは適当でない。】これと同じく、皇后のことを、次の代になって皇太后と号したというのも、上代の様式でない。大御母命は、最初から大御親(おおみおや)に決まっている。【上代には話し言葉以外に文字というものはなかったのであるから、「御号(みな)」などというものもなかった。】すべてこのような御号をはっきりと改めるようなことは、漢国のことである。その上「某年月日」と月日まで記したのは、いよいよ漢風である。こうした上代のことに月日を言い立てるのは、別に論ずる。書紀について論ずべき点はまだ多く存在するが、今はただ漢籍に借りた潤色が多く、古学の妨げとなっていることを、いくつかの例を引いて述べておいたのである。これらと同類の言葉は、これに準じて分かっていただきたい。漢意の文章は、いかにも理が深いように聞こえて、人の心に訴えかけ、惑わせるものなので、書記を読む人は、このことによく注意しなければならない。
○書記を読むことはなかなか困難である。なぜかと言うと、まず上述のように、漢籍に借りた潤色が多いからである。これを書かれたままに読むには、字音も含めて漢文を読むように読むべきだと思われるけれども、また随所に訓注を付けて古言を書いた部分もあり、すべて漢文のように読むべきでもないようである。それなら完全に古言のように読もうとすると、そういう読み方ができない部分が多い。また文字の意味を考えて、あえて古言に置き換えて読もうとしても、言葉は皇国の言葉に置き換わっているが、文の連接や意味合いが、なお漢文のようになることが多い。だから全くの古言、古意に読むには、文にこだわらず、字も頼らず、全体の意味合いを考え、古事記や万葉の言葉遣いを参考に読むべきである。そうすれば、十字二十字も読み捨ててしまう部分が出てくる。ではあるが、今の世の人は、自然と今の世の人の考え方があり、上代の意や言を全く違えず、詳細に知ることは難しいものであるから、いろいろ工夫しても、日本語として美しく読むことはできない書物である。最近の本の訓は、可能な限り古言に近づけて訓じてあり【この記にあることは、しばしばその訓に習って読んでいる。】、古言もその訓に残っていることが多い。しかし漢文風の潤色の部分などは、その文のままに、字を頼って読むので、もう古意ではなく、言葉の続き具合ももっぱら漢文の読み方である。このことを念頭に置いて読むことである。


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