『古事記傳』1−5


諸本ならびに注釈(諸本又注釈の事)

 古事記は、現在流布している本が二種類ある。一つは寛永年間の版本で、誤字脱字が多く、訓も間違ったままつけられているので、たいへんよろしくない。もう一つはそれより遅く、伊勢の神官で度会延佳(わたらいノブヨシ)という人の校訂した本で、各種の伝本を考え合わせ、誤字を直してあり、訓もだいたい納得できるものである。だが時には自分のさかしらの考えで字を改めたような部分があり、すべてを受け入れるには躊躇する。この人(延佳)は古語をよく知らず、ただ書かれたことのおよその意味を一通り考えて読んだだけなので、その訓は古言や古意とは大いに異なり、後世の心と漢意だけで解釈した。だからそれを採用すべきでない。だがこれら二つの本を除いて、原書に近い本はまれにしかなく、現在は非常に手に入れにくいのであるが、私は先頃かろうじて一冊の本に出会った。しかし見ると、誤字脱字はなおたくさんある。最近はまた、延佳が校合して、あれこれ書き入れた本、京の村井氏【敬義】が所蔵する古本も見たが、これらもさして違いはなく、村井氏の本はほぼ古い版本と同じだった。その後、尾張国名児屋の真福寺という寺【俗に大洲の観音と呼ぶ。】に伝えられた本を写したものを目にしたところ、これは他の版とは違った珍しい部分が多く、誤字脱字は非常に多い。こうした状況を見ると、現在誤りのない本はほとんど存在しないらしい。しかし以上に挙げた本は、それぞれ特質はあるが、互いに見比べると役に立つ点が多い。

○この記に、注釈があるとは聞いたことがない。ただ「元々集」という本には「或記云【古事記釈】」、また「古事記釈註曰云々」とあるので、昔は釈註というものがあったのかと思われる。それは誰が作ったのだろうか、その書名さえ他には見られない。まして今は全く分からない。【ある偽書に、この記の註だといって、名を作って引いているものがあるが、根も葉もないことで、言うに足りない。】


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