『古事記傳』1−8


訓法について(訓法<よみざま>の事)


 およそ古い書物は言葉を厳正に扱うべきだが、この記は特別にそうすべき理由があるので、古語を詳細に考え、読みを重んじる必要がある。その理由はと言うと、序文に「飛鳥の浄御原の宮の御宇、(天武)天皇の詔で、家々にある帝紀および本辞は、既に正実を失い、虚偽が多いため、今その誤りを正しておかなければ、遠からず真の伝えは失われてしまうだろう。だから帝紀を撰び、旧辞を調べて偽りを除き、分かる限りの真実を後代に伝えよう」と仰せられ、稗田阿禮という人に、天皇自ら直接命ぜられて、帝皇日継と先代の旧辞を暗誦させられ、学習させられた、とあるのをよく考えるべきだ。帝紀だけでなく、旧辞本辞と言い、続いて安萬侶朝臣が撰述したことを述べているところにも、阿禮が暗誦した勅語の旧辞を撰録したと書いてあるのは、古語を伝える意図があったからだ。その詔命を敬い思うに、当時の世の習いとして、万事漢文風に書いてしまったら、一語一語ごとに漢文風の考え方に引き寄せられ、本来の言葉はだんだんに違った風に書かれて、そうなったら後にはついに古語は滅んでしまうだろうと、賢明な判断をし、また悲しく思ったのである。特にこの頃は、世の中が大きく変化した時代だったので、今正しい記録を残さなければ、と考えたのであろう。それをかの稗田阿禮に仰せて暗誦させられたのはなぜかと言えば、およそすべてのことは、話し言葉として言うとき、文字に書き取ることは難しく、本来の趣旨を十分伝えられず、ことに漢文にしたら、古語を書き違えずに書き取るのはますます難しい。そのためまず人の口から暗誦されることをよくよく聞いた後に、その言葉のままに記録させようという考えがあってのことと思われる。【当時、まだ本になってはいなかったとしても、人の言葉にはまだ古言が残り、失せ果ててはいなかったので、阿禮が暗誦したのも、漢文の旧記に基づいていたとしても、言葉付きをほぼ我が国の古語に戻して、口に唱えてみたのだろう。そうせずに、ただ書を他の書に書き写しただけだったら、元の漢文から離れられない。ある人は「その頃既に諸家の記録に誤りが多かったというのなら、阿禮は一体どの記録によって、本当の歴史を語ることができたのか」と疑った。たしかに当時、多くの記録は誤っていたのだが、よく考察して、慎重に撰び取ったのである。】この大御志(おおみこころざし)をよく考え、古語をなおざりにしてはならないことを知るべきである。もし語を大事にせず、ただ歴史の事実や経過だけを追求したのであったら、人の口に暗誦させるなど無用のことではないだろうか。またこの記を撰述させることを述べたところでも、旧辞が間違ったものになって行くのを惜しみ、先紀の誤っているのを正そうと考えて、安萬侶朝臣に仰せつけられ、阿禮が暗誦する勅語の旧辞をそのままに記録させたとある。ここにも「旧辞」とあることから、この大御世の天皇の大御志を推し測るべきである。浄御原の天皇は、撰録の前に崩御したので、その旧辞は阿禮の口に留まったままになっていたのを、この平城の御世(元明天皇)に至って、撰録を完成させたのである。そのため安萬侶朝臣の撰録の書きぶりも、その天皇たちの大御志に従って、古言を重視したことが明らかであり、高天原の註に「訓2高下天1云2阿麻1(高の字の下の天の字は『あま』と読む)」、天比登都柱の註に「訓レ天如レ天(天の字は天と読む:『あめ』でなく『あま』と読むという意味)」などと書き、あるいは声の上下も詳細に示したのだ。だから、これを読もうとする者は、上記の意図をよく理解し、一字一句もおろそかに扱ってはならない。しかしそのように慎重に取り組み、厳格に扱おうとすると、漢籍や後代の書を読むようには容易でない。その理由を述べよう。およそ古い書物は漢文で書いてあるため、文に従って読む場合、一語一語は古言に読むとしても、言葉の連接、言い振りがどうしても漢文調になり、皇国の言葉ではない。そのため書紀の古訓なども、文字にこだわらず、古言の言い方のままに付けたところが多い。だがそうした訓にも、後人の付けたものが混じっているらしく、やはり漢文調に読んでいる部分が多いのは、既に述べた通りである。おそらく平城の頃までは、世人も古語の言い方をよく知っており、当時の言葉自体まだ古かったので、漢文読みとの違いはよく認識されていただろうが、後代の人は漢文に目が慣れて、また漢文調の読み方ばかり聞き慣れて癖が付き、いろいろな言葉も漢文式の表現と我が国の語調との区別も付かなくなり、むしろ賢げに聞こえる漢文調を、かえって美しいと思うようになったので、すべての言葉が自然と漢文調になってしまった。【近世の人は古言の調子を知らない。書いたものを見ると、すべて漢文調で、ただ漢文を仮名で書いたようなものが多く、きわめて見苦しい。文章については上古、中古の書きぶりについて、別に論じる。】この違いをよくわきまえ、漢文調の混じらない、清らかな古代の言葉で読むべきだ。ともかくこの漢文臭を洗い去ることこそ、古学の任務である。それなのに世間の物知りたちが書紀を論ずるのを見ると、ただ漢文の潤色の多い文を重んじ、その理屈付けに終始していて、いにしえの言葉をなおざりにするのは、たいへん乱暴なやり方である。言葉より理屈を大切にするのは、異国の儒仏など、教誡を主眼とする書物ならさもあろうが、大御国の古い書物は、そのように人を教え諭したり、ものの理を論じることなど、つゆほどもなく、ただいにしえを書き記した言葉以外には、隠れた意味や理屈など、少しも込められてはいない。【書かれた言葉に他の意味があるという解釈は、やはり漢にへつらう考え方である。】まして使われた文字は、後代になって仮に当てたものであり、その意味ばかり追求したところで何になろう。ただ何度も古言を考え突きとめて、いにしえの様子をよく知ることこそ、学問の要であるべきだ。およそ人の有様や心映えは、物言いのありかたで推し測られるのであるから、上代のことも、その当時の言語を明らかにすることによってこそ、知られるものである。漢文に似せて書いた書を、そのまま読んだのでは、どうして古い時代の言葉を知り、その当時のありさまを知ることができようか。古い歌を見て、皇国のいにしえの心と言葉が、漢のそれと大きく違っていることを、推し測って知るべきだ。だが完全に古語で読もうとしても、大変難しいことである。それは、古い書物はみな漢文で書いてあり、全く古語のまま書いてあるということはなく、何を頼りにすればいいのか、手がかりがほとんどない。ただそうした古記にも、しばしば古語をそのまま書いてある部分、続日本紀などにある宣命の詞、延喜式の八の巻にある祝詞などは、これらは語の連接もすべて我が国の様式であるから、これらを熟読研究して、古い言葉の様子を知るべきである。特に古事記、書紀に載っている歌、また万葉集を熟読し誦すべきである。中でもこの記と書紀にある歌は、少しも漢文の風が混じっておらず、いにしえの心と言葉のままであるので、きわめて貴くありがたいものである。【これらの歌をよく調べると、言語はもちろんだが、いにしえの人々の暮らしぶりや心のあり方までが推し測られ、後代の人が大げさに言っている(漢風の)、いかにも理屈が深そうな説など、曲折に過ぎないことが明らかだ。】ただし、そうしたものは数が多くはなく、広く存在するものでもないので、不足であるが、万葉は歌の数がたいへん多く、その中に古言は多数残されているだろう。【万葉集も、訓は後代の人が付けたものなので、誤りもあり、古言でないことがたいへん多い。それは仮名に書いた歌、また他の歌集などを参照して、古語を選ぶべきである。】さて以上に挙げた書を読むについては、またいろいろと知っておかなければならないことがある。まず古記に出てくる歌は、きわめて古いものであって、みやびやかではあるが、テニヲハなどが省かれていて、言葉の続き具合が定かでないこともある。また宣命は、奈良時代の朝廷の詔であるから、しばしば漢文調が混じっている。【人が口に出して話していた言葉には、奈良時代まではまだ漢文調が混じっていなかっただろうが、文に書いたものは、もう少し早くから漢文の書き方に引かれて、自然にそういう調子になってしまっただろう。その後聖徳太子が、たいへん漢学を好み、孝徳天皇の御世に至っては、ますます万事漢風に行われたので、古語を伝える中にも、漢文調が混じってしまったことはあり得る。続日本紀の宣命はそれより後の時代のものだから、漢字の音のような言葉も、まま混じっている。それにつけても、上代の詔の言葉がたいへんゆかしい。書紀にあるのはいにしえの伝えでなく、多くは撰者が作って書き加えたものなので、漢意に満ちており、非常にうるさい。】延喜式の祝詞は、非常に古い言葉が多いけれども、すべてが上代の言葉というわけでなく、近江朝か浄御原朝にでも定められたものと思われ、これもまた、漢文から移った言葉が全くないとは言えない。【世に大祓(おおはらえ)の詞は、神武天皇の御世に作られて、そのまま伝わったと信じる人がいるが、やはりいにしえのことをよく知らないからである。この詞も後世に作り定められたものであって、後代の言葉遣いが混じっている。すべての祝詞のうち、最も古いものは、出雲の国造の神賀(かむほぎ)の詞だ。】だからこれらの中からも、少しでも漢文臭のあるものは選び捨てるべきである。この記と書紀の歌は、古言のままで非常に清らかではあるけれども、やはり普通の文章と歌との違いはあるので、そのことをよくわきまえて考察すべきである。万葉には、いろいろに違った姿の歌があり、たいへん古い歌もあるが、平城の頃以降の歌は、また漢文調の言葉遣いが混入していることがあるので、このことをわきまえるべきである。漢の写りばかりでなく、古代と後代と、世の中の変化によって言葉遣いも大きく変わったということがある。だいたい奈良朝以前の言葉を「古語」と考えるべきだ。平安朝以降はすべての言葉遣いが昔とは違い、音便によって廃れてしまった言葉も多い。【音便による言葉は、古い書物の訓に使ってはならない。大御神を「おほんがみ」、臣を「おん」と読むたぐいがこれである。書紀の訓には、これに似た音便の読みが多い。○古今集を始め、物語の文は中古の雅言である。伊勢物語、源氏物語などの物語文は、最初から仮名書きだったので、かえって古い書物より漢意の混じることが少なく、優れていることがある。というのは、漢語から出た言葉や、漢字を音読みしたまま使った言葉も多いのだが、皇国の言葉付きに書いてあるため、全くの漢にはなっていない。中古の文のことも、別のところで論じる。】ところが、古い書物の中には、どう考えても本当の古言には読めない部分がある。もとは古言が伝わっていて、それを後に漢字で書いたのだから、それから元の古言に戻すのに困難はあるまいというのが理屈だが、漢文に移し替えてのち、はじめの古言が廃れてしまい、今は伝わっていない場合もあるだろうし、そもそも皇国の上代には、万事、万物に、あまり詳細に名称を決めていなかった。すべて語彙が少なくて足りたのである。だが中国は万事うるさく詮索するお国柄で、何もかもあまりにも詳細に名称を付ける。そのため、我が国ではただ大体のことを言い伝えてきたのが、漢字に写すときには、それぞれの名称に分けて書いた場合もあるであろう。そうした場合、漢語に完全一致する古言はないけれども、字音にしたがって読む(音読みする)という習慣もなく、それぞれの状況で、新たに訓を作った場合もあっただろう。【奈良時代までは、漢語を音読みのまま使うことはほとんどなかった。漢籍を読むにも、可能な限り訓で読んでいたのである。】そうした場合、真の古言とは違ってしまうけれども、奈良時代までにできた言葉はやはり古言と考え、必要に応じて用いてよろしい。この記は、あの阿禮が口に誦したのをそのまま書き留めたというものなので、非常に昔から伝わった古言と感じる言葉も多く、当時の言葉付きと思われる部分も多いけれども、すべてを上代のままの言葉に読むことはできない。であるから、書かれた言葉をすべてそのまま阿禮が語った言葉と心に思い定めて、その時代の心をもって読むべきである。他にも心得ておくべき事がある。同じ言葉が何カ所かに繰り返し出てくる場合、一つは詳しく書き、一つは字を省略して書いていることがあるが、それは詳しい方を本来の形として、省略形の方も、省略された字を補って読むことである。たとえば、「成坐流神之御名者(なりませるカミのミナは)」という言葉を、「成神名」、「所成坐神名」、「所成神御名」などと書き、「所」、「坐」、「御」の字をそれぞれ省略したり詳しく書いたりしているわけだが、すべて同じ言葉である。【夜見の国の汚穢によって生まれた「八十禍津日(やそまがつひ)の神」に「所成坐」と「坐」の字を書いてあり、その次の神たちは、天照大御神でさえ、ただ「所成」と書いて「坐」を省いてある。これは意味があって、ことさらそう書いたのであり、こうした省略形にも、必ず省いた字を補って読むべきことを知らせているのである。その書き方の意味を悟らずに、すぐに「本に誤脱がある」と思うのは間違いだ。】また上巻の天照大御神の詔に「「如レ拝2吾前1云々」、中巻の大物主神の言葉に「令レ祭2我御前1云々」とあるのも、「御」の字を補って読むべきである。一般に「御(み)」、「坐(ます)」、「賜(タマフ)」、「奉(まつる)」などの字は省かれることが多いが、時々は省かずに書いてあるので、その形で省いた書き方も読むことが必要だ。また同じ言葉を一つは仮名、一つは漢文で書いてあることがある。その場合は、漢文も仮名の読み方に従う。「立2天浮橋1」とも「於2天浮橋1多々志」(いずれも「あめのうきはしにたたし」)とも書くような例である。【この「立」の字の註に「訓レ立云2多々志1(立の字は『たたし』と読む)」と書いてあるのは、こうした場合、漢文書きの方も仮名書きの読み方で読めという意味に思われる。】「不伏人(まつろわぬひと)」を「麻都漏波奴人」と書いてあるのも同様である。同じ状態のことを、一つは古語で、一つは漢文で書いてあることもある。神世七代の註に、「上二柱、独神各云2一代1、次雙十神、各合2二神1云2一代1也(かみつフタバシラは、ひとりがみをオノオノいちだいという、つぎにナラビマスとばしらは、おのおのフタバシラをアワセテいちだいという)」と書いてあるように、「二柱」は古語、「十神」、「二神」は漢文だが、古語の方に従って、「十神」を「とばしら」、「二神」を「ふたばしら」と読むのである。このように、一つの段の中で古語と漢文に書いてあるのも、みな漢文は古語の訓をもって読めという一般則を知らせているわけである。他の箇所でも、神々の数を上げるところで「若干神」、「若干柱(いくはしら)」とある。これも前記の例によって読む。【中巻、下巻に皇子の数を言うのも、みな「若干柱」とある。また「二柱神」、「三柱の神」と言うこともあれば「二神」、「三神」と書くこともあるのだが、これらも「柱」を補って読む。その場合によって、このように適宜読み分けるべきである。】ある一句が全くの漢文で、古語からはほど遠い書き方になっているところもしばしばあるが、その文字に囚われるのでなく、その状態により、適当な古語を考え探して読むべきである。書紀の神代の巻に「顧眄之間、此云2美屡摩沙可利爾1(みるまさかりに)」(訳者註:「屡」の正字は「尸+婁」)とあるのが、その一例である。崇峻の巻に「哀不忍聴」とあるのを「いとおしがりたまいて」と読んでいるのも、訓注は付いていないが、そういう例になる。一般に書紀の訓注には古語が多い。それはこの記の読みに従って付けたものだ、と卜部氏が釈(釈日本紀)でも述べているが、実際そうだろう。文字にこだわらない古訓は、多くはこの記から取られている。だが現在この記の古訓を探してみると、かえって書紀の訓が適当なことも多い。それはこの記では漢文にばかり書いていて、仮名書きしなかったために漏れた古語が、たまたま書紀の訓注に残っていることがあるからだ。この記を読む上で注意すべき点は、大体以上のようなことである。またそれぞれその箇所でも触れる。

○およそ言葉は「弖爾袁波(てにをは)」でつなぐもので、その続き具合によってさまざまな意味に使い分ける。だからこれを用いるやり方には、連接される二つの語によって厳正な規則があるわけで、古語を読むには、これをよく考えて、正しい読みを探るべきだ。【漢文には助字こそあるものの、「てにをは」に当たるものがない。助字は単に言葉を助けるものであって、「てにをは」のように細かく意味を分けるほどのものではない。だから助字がなくても、文の意味は分かる。ところで古い書物はすべて漢文だから、読もうとすれば「てにをは」も読む人の考えで決めることなのだが、最近はその定まりをよく知った人がいなくなり、間違っていることが多い。漢文のようなつもりで読めば、その読みも、意味合いは遠くないとしても、「弖爾袁波」が整っていなければみやびやかでない。】その定まりを言おうとすれば、様々なことがあって、長くなるので、ここで簡明に述べることはできない。これについては、別に詳しく書いたものがある。

○仮字の清濁については、以上に述べたように、この記と万葉集では区別して用いているが、特にこの記では区別が正確なので、厳格に守って読むべきだ。ただの一つでも、恣意的に読んではならない。古代と今とでは、清濁の変わった言葉も多いので、今の世の言葉で判断することはできないからである。【宮人と里人では、宮人が「比」と言うところ、古い本にはみな「比」と書いてあるのに、里人の「比」には濁音の「毘」を書いてある。それなのに、こうした場合に、連言の下の言葉の頭はみな濁音だと思ってしまうのは誤解である。言葉によって清濁は一定しないのは、上述の通りである。総じて最近の古学を行う人たちは濁音を好む傾向があり、濁らない音も濁って言うのが古語だと考えるのは間違いだ。昔の書物の仮名遣いをよく考え合わせて、読むべきだろう。】

○古言の声の上下について言えば神の御名などに小さく「上」などと書き添えたところがしばしばあるが、漢国で言う四声の名を借りて、読む声の上がり下がりを示したのだ。およそ漢国の言葉には、平上去入の四種類がある。我が国の言葉にも、それに倣って言えば、平上去の三種類がある。【入声はない。理由は別に論じる。】契沖が説くところによると、一音の語について平上去を言うなら、日は平、樋は上、火は去である。毛は平、蹴は上、気は去である。二音の語について言うと、橋は平、端は上、箸は去である。弦(つる)は平、釣は上、Iは去である。この例で理解するべきだという。この説の通り、平は上がらず下がらず平坦に言い、上は上がる声、去は下がる声である。【漢国では下と言わず去と言うが、下がる以外にない。現在行われている四声は誤っていて、本当のものではない。】また契沖が言うところによると、鴨【鳥の名】は平声であるが、鴨川と言うときは上声、鴨社(かものやしろ)と言うときは去声である。何か言葉が続くときは、同じ言葉もこのように変わるものだと言う。このように言葉が続くとき、その上の言葉の声だけでなく、下の言葉の声も変わる。地名の鴨は、単独では去声だが、下鴨(しもがも)と言うときは平声になり、鳥の名の鴨は平声なのに、真鴨と言うときは上声になる。また地方地方で音に違いがあって、同じ言葉も声が違う。それは京畿の声を標準とし、その他の地方のを訛りとする。ところで、記において、こうした読む声を示したのは上巻に多く、中巻と下巻ではごくまれである。上巻でも神名に多い。それは普通の言葉と違って、口に唱えるときに誤りが多いからである。だがその字の元の読みのまま読んでいいところには付けておらず、言葉が続いて元の声と変わる場合に付けてある。豊雲《上》野神(とよくもぬのかみ)など、雲は本来平声であるが、雲野と続くため上声になるので、訛って元の平声のままに唱えることを考えて、上声と示したのである。その他もこれに倣って理解すべきである。それなら上声の言葉が平声や去声になるところもあるはずだが、平、去は付けた例がなく、ただ上のみ示してあるのはなぜかというと、言葉が続いて元の声が変わる例は、平、去が上に変わることが多く、上声が平去に変わることは、稀である。そのため記で声を付けた中に、平去に付けるべきところは、自然となくなったのであろう。ただし「宇比地邇《上》神、須比地邇《去》神」というところにただ一つ去声が示してあるのは、「比地邇」という同じ音が二つ並んでいて、一つの「邇」は上声、もう一つの「邇」は去声であり、すぐに声が変わるからである。【この「邇」は「土」であって、本来は去声であるが、「比地邇」と続くために、一つは上声になるので、《上》と付けたのは他の例と同じなのだが、《去》と付けたのは他の例にないけれども、すぐ前に上声があるのにつられて、誤って読むかも知れないと配慮したのである。】また山津見という神の名が続いてたくさん出ている部分で、「大山《上》津見」、「奥山《上》津見」には声を付け、「淤縢山津見」、「闇山津見」には付けていない。これは、付けない方は本来の声のまま、平声に読めということである。また「奥津嶋比賣命、市寸嶋《上》比賣命」、これも同様である。【「須比地邇」に去声を付けた例によるなら、これら元のままの声の方にも「山《平》」、{嶋《平》}と付けるべきだが、そうしなかった理由はというと、「須比地邇」の方は初出であり誤りやすいが、「山津見」はたくさん並んでいる中で、付けたのと付けないのがあるから、付けていないのが元の声であることはすぐに分かるし、それ以前に「須比地邇」の例があるから、疑いもない。また「奥津嶋比賣命」は、「山津見」の例で明らかだろう。】声を付けたのは、大体以上のような例で分かる。そもそも神の名を読むにも、古くはそのように声の上げ下げも正しくし、言葉を厳正にしようとしたのである。後世の人は、ただ根も葉もない漢意の理屈付けばかり言い、実の言葉をおろそかにして、本当はそこにこそ注意するべきであることに気付かないのは、どうしたことだろうか。

○いわゆる助字のたぐいは、記にもいろいろあって、いくつかはただ漢文の助けになるだけで、古語には関係がないこともある。また漢文には関係なく、古語のために使ったこともある。漢文の助けに使いながらも、古語に適合した例もある。いずれにせよ、世間で漢籍を読むときに使うのとは違っている。ここでその助字のたぐい、またその他のことも、よく出る字を列挙して、どう読むべきか述べてみよう。

<之>
 「能(の)」と読むのが普通である。ただし必ず「の」と読まなければならないときと、そう読んではいけないときがある。総じて用言(動詞)に続くときは、漢文の格であるから、捨てて読まない。「吾所生之子(あがうめるみこ)」、「出向之時(いでむかうとき)」などである。【これらを能(の)と読むのは、皇国の言葉でない。後世の人は、こうしたところにも「之」を加えて読むのは、漢籍読みの癖が写ったのであり、間違いである。】体言(名詞)に続いた場合は、必ず読む。「天之〜」、「国之〜」といったたぐい、「淡路之」、「穂之狭別」などの「能」という読むべきところには、丁寧に「之」の字を書き送って、古語を明らかにしているのである。後世に誤って「之」の字を省いて読む人があるが、この記によって正さなければならない。【「国之常立神(くにノとこたちノかみ)」を「クニトコタチ」と誤って読む人が多い。】また我が国の昔の漢文によく用いられた「之」字の用法がある。ほとんどは一句の終わりに添えられていて、真の漢文とは違っているが、書紀には多く見える。そういうものは決して読まない。「云々2之1(これをシカジカす)」といった場合も読まない。「云」と「之」を書き誤った例も多い。「詔之」を「詔云」とするなどである。これは「之」であろうと「云」であろうと、古語ではないので読まない字である。

<於>
 「邇(に)」と読む字である。「於レ某(某に)」と用いる。古い書物にはこういう用法が多い。

<者>
 「波(は)」と読むのが普通である。「於2今者1(いまニ)」とあるのは、単に「伊麻」というのに付け加えたもので、読むべきでない。また「者也」とある者の字も読んではいけない。

<而>
 「弖(て)」と読むのが普通である。「従2八十神之教1而(やそがみのオシエシままにシテ)」というのは「志弖(して)」と読み、「為而」という意味である。【いつも「志弖」と読という意味ではない。またよく「オシエニしたがいて」と読むのは古語ではない。】「随2云々1而(しかじかのマニマニ)」などとあるのは、「随」を「麻邇麻邇(まにまに)」と読んで、「而」は読まない。【「而」の字は、「随」を「したがいて」と読む漢文の習いによって書き送ったのである。○およそ「而」の字は、漢籍では句の頭にあるものだが、御国では必ず何らかの言葉の下に付いている。】

<牟>
 「袁」という「弖爾袁波(てにをは)」に用いている。「地牟阿多良斯登許曾(ところヲあたらしとこそ)」のような例である。万葉にも多い。【後世は絶えてないことである。】この他、ただ漢文の助字である場合もある。

<乎>
 「夜(や)」とも「加(か)」とも「夜母(やも)」とも「加母(かも)」とも、そのときの言葉の続き具合で適宜に読む字である。

<哉>
 ほぼ「乎」という文字と同じように読む。【これを「加那(かな)」と読むのはいにしえの言葉でない。奈良の頃までは、「かな」といった言葉はない。万葉集でもすべて「かも」と読んでいる。まれに「哉」という字を書いたのも、「かも」と読むべきだ。それを「かな」と読むのは誤っている。書紀の訓注でも、この字は「かや」、「かね」と読んでいる。】

<也>
 すべて漢文の助字として用いている。ただその中でも「那理(なり)」と読んでもよろしいところに置かれていることが多い。【漢籍の訓でも「なり」と読めるところが多いので、この字を「なり」と読むことが普通になった。しかし奈良朝までに、この字を「なり」として使うことはめったになかった。万葉でも、この字を「や」の仮字として用いるのみである。「なり」には「有在(ありなり)」と書いていたのだ。元々「〜邇阿理(〜にあり)」の縮まった形だからである。】

<歟>
 (「か」と読み)、一般に行われるように疑問の意味に用い、また「只」、「焉」などと同じような助字にも用いる。書紀にも同様の例がある。

<焉>
 漢文にのみ用いる助字である。

<故>
 語の下に付いている場合は「由惠(ゆえ)」、「由惠爾(ゆえに)」と読むことが普通である。【軽嶋の宮(應神天皇)の段の大御歌に、「志波邇波、邇具漏岐由惠(シハニハ、ニグロキユエ)云々」とあり、また書紀の雄略の巻の歌に「耶麻能謎能、故思麻古喩衛爾云々(やまのべの、こしまこゆえに、云々:麻の字の正字は麻の下に糸)」とあるのを見ると、「ゆえに」は非常に古い言葉だろう。】この字が句の頭にあるときは「迦禮(かれ)」と読む。記では非常に多く用いられている。中でもこの字の意味(前句の事情が原因で、という意味)でなく、単に次の一句を起こすだけで、本来なら「於是(ここに)」というべき箇所にたいへん多い。それについて思うには、「かれ」は「かかれば」の縮まった形ではないだろうか。「かかれば」は「かくあれば」ということで、上を受けて次を起こす言葉である。しかし「かかれば」を縮めたら「迦禮婆(かれば)」となるのが当然だろうが、その「婆」を省いたのはなぜかと言うと、古い言葉では「ば」を省いても「ば」の意味である例が多い。【そうした例は万葉集に多い。これは別に論じている。また長歌に、「奴禮婆(ぬれば)」とか「都禮婆(つれば)」とあるべきところを「婆」を省略して「奴禮(ぬれ)」、「都禮(つれ)」としているところがある。これも別に論じる。】しかしその「かれ」という語に「故」という字を当てたのはなぜかと言うと、「祁婆(けば)」、「泥婆(ねば)」、「閇婆(へば)」、「禮婆(れば)」のたぐいは理由を語ることが多く、「ゆえ」の意味に通じるので、【第四の音(エ段の音)に続く「バ」は、「ゆえ」に通じることが多い。「ゆけばなりけり」と言えば「ゆく故なりけり」の意味であり、「あればなり」と言えば「ある故なり」の意味になるようなたぐいである。】「迦迦禮婆(かかれば)」は「如是有故(かかるゆえに)」という意味に通じるため、この字を当てたのであろう。【また「加良爾(からに)」という語は、故という意味に近いので、「加禮(かれ)」も「加良(から)」の活用形かとも考えられるが、そうではあるまい。「から」は別の語だろう。また漢籍で句の頭に出る「故」は「加流賀由惠爾(かるがゆえに)」と読むのが普通だが、これも「加々流賀由惠爾(かかるがゆえに)」を縮めた形と思われる。また句の頭に出る「而」を「志加斯弖(しこうして)」と読むことから考えると、「然(しか)るがゆえに」の「し」を省いた形ででもあろうか。】

<爾>
 この字は特に多く用いられる。一般には「許々爾(ここに)」と読む。また時には「かれ」と読んでいい場合もある。この記の書きぶりは、一連の文が終わって、次の文が始まるとき、その頭には必ず「於是(ここに)」、「故(かれ)」、「爾(ここに)」の三つのどれかを置いている。それはただそのときの言葉の勢い、語の音調などによるのであって、それぞれ違った意味があるわけではない。だからまた「故爾(かれここに)」、「故如是(かれここに)」などと、重ねて置くこともあるが、どれも同じだ。ただしこの三つの言葉のうち、「爾」は「於是」とあるのと同様の勢いのところに現れることが多く、「故爾」はあるが「爾於是」と重ねた例はない。これらを考えると、「爾」は常に「ここに」と読み、「かれ」と読むべきではないようにも見える。しかしまれには、「故」の字を置くのと同じ勢いのところで「爾」が置かれることもあり、その場合はやはり「かれ」と読むのがふさわしい。またあまり続いてたくさん出てくる箇所では、捨てて読まない方がいいこともある。【一般に「爾」、「於是」、「故」というのは、今俗に「そこで」と言うのと同じ語勢である。「爾」の字はしばしば「その」とも読まれ、「そこ」に通じるからである。また「爾時」は「そのとき」とも読んでも「このとき」と読んでも意味は同じになるので、「この」と「ここ」とは同じことで、「ここに」と読むのが文字の意からも適切である。また「是(ここ)」と「如是(かく)」とは本来同じ言葉であり、「迦禮(かれ)」が「如是有者(かくあれば)」の縮めた形であるからには、「かれ」という読みとも自ずから通じる。】また上巻に「自レ爾」とあるのは、「それより」とも「これより」とも読むことができ、中巻に「爾祟」とあるのは「そのたたり」とも「このたたり」とも読んでよろしい。

<乃>
 「須那波知(すなわち)」と読む。【漢文でこの字や「爾」の字を古くは「いまし」と読んでいた。それは「汝」と紛れたのであろう。ただし「土左日記」には「いまし羽根といふ所に来ぬ」、「いましかもめ群衆(むれき)てあそぶ所あり」などという例があるそうだ(訳者註:いずれも「汝」でなく「現在」の意味)。】その他、漢文の筆法として置いたらしいところもある。そういう場合は読まない。

<即>
 「乃」の字と同じように用いる。読みも同じである。

<爲>
 「淤母本須(オモホス)」、「淤母布(オモフ)」を「以爲」と書き、また「爲」の一字だけを書いたところも一つ二つはある。「爲レ直2其禍1而(そのマガをナオサンとして)」のように用いたところある。これは漢文なら「將(まさに〜せんとす)」の字を用いる部分である。「爲レ將レ出=幸2上國1(うわつくににイデマサントす)」、「將=爲2待攻1而(まちせめんとシテ)」などと書いたところもある。こういった変格の書き方はよくある。【正格漢文ではない。】

<將>
 「將レ罷(まからむ)」のように用いる。万葉もこうした使い方で、「將レ見(みん)」、「將レ聞(きかん)」などと書いてある。「將レ殺時(ころさんとするトキニ)」ともある。これは漢文の読みと同じである。

<欲>
 多くは「將」と同じように、ただ「ム」と読む。「欲レ爲2力競1(チカラクラベセム)」などのたぐいである。書紀の欽明の巻に「爲レ欲2熟喫1(こなしハマントす)」などとも読む。また「淤母布(オモフ)」と読むべきところもある。「欲レ罷2妣国1(ははのクニニまからんとオモウ)」などである。書紀でもそう読むことが多い。【単に「む」と読んでいいところでも、書紀では「淤母布(オモフ)」、「淤煩須(オボス)」などと読むことが多い。それも意味は同じだが、語の勢いを考えるべきである。先の「欲レ爲2力競1」も「せんとオモウ」、「せまくホリス」と読むのも意味は同じだが、そう読むところではない。「欲」の字を万葉では必ず「ほる」、「ほりす」というように用いているが、どの書でもそう読むと思い込むのは間違いである。聖武紀の宣命に「欲レ奉レ造止思(つくりタテマツラントおもう)云々」、光仁紀にも「御体欲レ養止奈母所念須(みみヤシナワントなもオモホス)」とあり、これらは必ず「ム」と読む以外にないことを知るべきである。下に「思」、「所念」とあるのだから、「欲」の字は「おもう」とも「ほりす」とも、どうして読めようか。漢籍ではすべて「ほっす」と読むが、これは「ほりす」が訛ったのである。だがその中でも花について「欲レ開(さかんとす)」、また「欲レ落(ちらんとす)」などの例は、「ほっす」の読みではおかしい。意志を持たない物に「ほっす」、「ほりす」は不適当である。これは字書に「將レ然也(マサニしからんとするナリ:今にもそうなろうとしている)」とあるので、「さかんとす」、「ちらんとす」と読むべきであろう。我が国の古い本でもすべて「ほりす」とのみ読むと思い込んでいるのは、字書の「期願之辞」という注ばかり考えて、「將レ然也」ともあるのを知らないのである。】

<以>
 「以2云々1」とあるのは、多くは「袁(を)」と読むべきである。「云々以」とあれば、多くは「て」と読む。「よりて」と読んでいい箇所もまれにある。普通に「もて」、「もちて」と読むところもある。その中には元の古語のままのところもあれば、漢文読みが写ったところもある。「是以(ここをもて)」などの使い方は、おそらく漢文の読みから出たのであろう。けれどもこういうのも、古くから言い習わしたと見え、言葉付きは非常に古く、万葉集にも多くある。古語のうちと考えていい。だがこれを「もって」と詰まって読むのは、後世のいやしい言葉付きであって、言うに足りない。「もて」と読むのも、省略して言う言葉である。正しくは「もちて」と読むべきである。中巻の歌に「岐許志母知袁勢(きこしもちをせ)」、下巻の歌に「加微能美弖母知(かみのみてもち)、比久許登爾(ひくことに)」、万葉集巻二十に「麻蘇泥(泥の下に土)毛知(まそでもち)、奈美太乎能其比(なみだをのごい)」【これらの「もち」は、後世なら「もて」と書くところである。】、また万葉巻三に、「我袖用手(わがそでもちて)、将隠乎(かくさんを)」【「用」の字を書いてあるが、「以」の意である。】、「石卜以而(いしうらもちて)」、同じく巻十一に「何有依以(いかならんよしをもちてか)」などとあるのは、いずれも「もちて」である。【この他にも万葉には、「以」、「持」、「用」などの字を「母知(もち)」と読むべきところで「母弖(もて)」との訓を付けていることが多い。】ただし同巻十(1891)に「手折以而(たおりもちて)」、また十五(3733)に「奈爾毛能母弖加、伊能知都我麻之(なにものもてか、いのちつがまし)」などとあるので、「もて」と読むのも誤りではない。

<所>
 「生む」を「宇米流(うめる)」、「成る」を「那禮流(なれる)」とあるべきところに、「所」の字を加えて「所生(うめる)」、「所成(なれる)」と書くたぐいである。こういった用法は、他にも多く見られ、みな同じである。これを万葉では「生有(うめる)」、「成有(なれる)」などと、「有」の字を使って書いている。【こういう使い方の「所」の字を「ところ」と読むのは漢文読みであって、古言ではない。】また「不レ知レ所レ出(いでんところをしらず)」、これは前記の「所生」を「うめるところの」と漢文読みするのと同じ格ではあるが、この言葉は「不レ知2可レ出之処1(いずべきところをしらず)」と書く意味のもので、「所」に意味があるから、「ところ」と読む。下巻の高津の宮の段に「女鳥王之所レ坐(めどりのみこのマスところ)」とあるのも、坐す所という意味であるから、やはり「ところ」と読む。

<耳>
 記では、この字はすべて漢文の格によって置いてあるので、普通に「能美(のみ)」と読んでは古語にならない。別に読み方がある。例を挙げよう。「欲レ奪2吾國1耳」というのは、「吾國袁欲奪止爾許曾阿禮(あがクニをうばわんとにコソあれ)」と読むべきである。「愛友故弔來耳」、これは「愛友那禮許曾弔来都霊(うるわしきともナレコソとぶらいキツレ)」と読む。【「なれこそ」は「なればこそ」の意。】「起2邪心1之表耳」、これは「邪心袁起世流表爾許曾阿禮(あしきココロをおこせるシルシにこそあれ)」と読む。「是者無2異事1耳」、これは「是者異事無許曾(コはケシキことナクコソ)」と読む、こう読めば、いずれも「こそ」というのが「耳」の意味になる。というのは、「地牟阿多良斯登許曾(ちをアタラシトこそ)、我那勢之命為2如此1(あがナセのミコトかくシツラメ)」とあるのは、「以レ地為2可惜1故(ところヲあたらしとオモウゆえに)、我那勢之命爲2如此1耳(あがナセのミコトかくシツルのみ)」と言うのと全く同じであることから、悟るべきである。そもそもこの字を「のみ」と読んではならない理由は、皇国の言葉に於いては「のみ」という言葉は文の中間にのみあるべきで、文末がこの言葉になるはずはないから、古語にならない。【それなのに、文を「のみ」と結んで古語と違うはずはないと思うのは、漢籍を読み慣れ、聞き慣れた後人の過ちである。】書紀の允恭の巻に、「多ダ(イ+襄に似た字。正字はパソコンにない)比等用能未(ただヒトヨのみ)」、万葉巻十一に「但一耳(ただヒトリのみ)」などと「のみ」で結んだ例はあるが、これらは「唯一夜」、「唯一人」で、二夜でなく、二人はないという意味で、「のみ」という語の意味合いが重いから、漢文のような軽く言い捨てた「のみ」とは違う。【ならば昔から「のみ」という読み方があるのはなぜかと言えば、漢文でこの字は「語决辞」といって、物事がその事に決まって、他に疑いの余地がないところに置くからである。だから漢文では、この読みも不適当ではない。しかしそういうところに「のみ」という言葉を使うのは、皇国の語法ではない。たとえ語の意味は同じでも、置き所や使い方には、我が国と中国では違いがあることをよくわきまえて言葉を使うべきである。】

<亦>
 「麻多(また)」と読む場合と、「母(も)」と読む場合がある。

<且>
 亦の字と同様に使う。【字書に「又也」と注してあるのは、その意味である。】「麻多(また)」と読む。「加都(かつ)」と読めば間違いになる。この字を読むに当たって、「また」と「かつ」の違いを言うなら、漢籍に「君子有レ酒、多且旨(クンシさけアリ、おおくマタうまし)」というような例は、「多いうえに、また旨い」と言っているのである。この意味の「且」は、いずれも「また」と読む。「かつ」という訓は不適当である。文頭にある場合も同じである。【漢籍に関する古い本に、文頭の「且」を「曾能宇閇(そのうえ)」と読んでいることがある。それはよく当たっている。】また「我歌且謡(われウタイまたウタウ)」というのは、【注に、「曲合レ楽曰レ歌(きょくアリてガクにアウをカとイウ)、徒歌曰レ謡(アダにウタウをヨウとイウ)」とあり、歌と謡とは異なる。】歌い、また謡うのである。こうした場合の「且」は、「また」と読んでも「かつ」と読んでもいい。この(「また」と「かつ」の)二つの語は、漢文では同じような使い方だが、こちらの言葉に移して読むには、こうした違いがある。しかし「また」は意味が広いので、どの場合にも使うが、「かつ」はこれをしながら、またあれもする、という場合に使う言葉で【伊勢物語の歌に、「かつ恨みつつなほぞ恋しき」とあるのは、恨めしくもありながら、また恋しくもあるわけだ。この例で「かつ」の意味を知るべきである。】その意味でなければ、「かつ」という読みは正しくないと知るべきである、【それなのに、最近の人は、この違いを知らず、「且」の字を見ればどれもこれも「かつ」と読み慣わして、「また」と読むべきときにも「かつ」と読んで違和感を持たないのは、誤った読みに口も耳も慣れてしまったのである。】そもそも漢文の「且」の字を「かつ」と読み誤っているから皇国の文も同じように誤り、使うべきでないところでも「かつ」という言葉を使う人が多いので、ここで詳しく述べておいた。この記に出る「且」の字は、ほとんど「又」の字と同じと考えるべきである、と言いたいのである。ただし、「まず」と読むべき箇所も一つ二つある。【その理由は、それぞれそのところで述べる。】

<及>
 「〜及〜」とある場合、「及」の字は「また」と読む。「淤余毘(および)」と読むのは漢文の読みだから、古語として不適当である。これを「また」と読むのは、「天若日子之父天津國玉神及其妻子(アメのワカヒコのチチあまつクニタマのカミまたソのメコ)」とある次に「天若日子之父亦又其妻(アメのワカヒコのチチまたソのツマ)」とある。「及」と「亦」と、使い方が全く同じだ。また「八尺勾玉(玉の正字は王+總のつくり)鏡及草那藝劔亦常世思金神(やさかのマガタマまたクサナギのツルギまたトコヨのオモイカネのカミ)」、「國造亦和気及稲置(クニのミヤツコまたワケまたイナキ)」などと、一連の語句の中で「及」と「亦」を重ねて言うとき、すべて同格に使っていることでも分かる。【ただしこれらの例で、同じ「亦」の字を二度は用いず、一つには「及」の字を使ったのは、当時既に漢文調の読みが写って、こういうところで「及」を「および」と読むこともあったため、「また」という言葉が重なってうるさいので、一つは「および」と読ませようという意図があって、「及」の字を書いたのかも知れない。そうであれば、他のところの「及」も「および」と読んで、何ということもないだろうとも思われるが、それでもよくない。】ただし「また」と読んだ場合に語勢が良くないときは、その語のありさまに従って、「登(と)」とか「波多(はた)」とか、下から返って(返り点を付けた形で)、「母(も)」と読むとか、捨てて読まないということもあってよい。とにかく「および」と読んではいけない。

<可>
 多くの場合は、普通に「倍志(べし)」と読んで良い。まれに「可還」を「加幣里麻勢(かえりませ)」と読むようなこともある。

<忽>
 「不」の字の意味に使う。「受(ず)」と読むべきである。書紀にもそういう例が多い。【この字は、一般には「禁止之辞」と注されたように、「那加禮(なかれ)」という意味れるが、この記での用法はそうでなく、みな「不」の字を使うところに出る。】それは「何々することなし」と読んでもいいが、「何々世受(せず)」と読むのが正しい箇所に出る。【なお「非」の字と「不」の字とは違う格であるが、我が国の古い書物は、「不」と書くべきところにしばしば「非」と書いているのも、これに似ている。】

<雖>
 「杼母(ども)」、「登母(とも)」と読む。【この字は漢籍で「伊閇杼母(いえども)」、「伊布登母(いうとも)」と読むが、それも古言である。古言には「いう」という言葉を添えて言うことが多い。後世の言い方にもよくある。「あらざることなし」を「あらざるということなし」と言うたぐいである。】

<是>
 「許禮(これ)」あるいは「許能(この)」と読むのが普通である。「これ」を「こ」というのも古言の一つである。【「それ」を「そ」、「われ」を「わ」と言うのと同じ格である。】その他「これ」を「ここ」と言うことも多い。【「それ」を「そこ」と言うのと同じ。】また「於是(ここに)」とあるべきところを「是」一字で書いた部分もある。「天菩比神是可遣(アメのホヒのカミ、これヤルべし)」とか「八重事代主神、是可白(ヤエコトシロヌシのカミ、これモウスべし)」」などの「是」の字は、漢文の格に似ているが、そうではない。古語であって、「これ」と読むべきである。【これは神の名を言って、次に「この神を」と言っているのである。「天の菩比の神という神がいる。これを遣いにやろう」ということだ。漢文で「此」という字を書くのとは異なる。】

<其>
 普通は「曾能(その)」と読む。ただしあまり頻繁に「其」の字が出てくる場合は、中には捨てて読まない場合もある。「彼」の字と通じ、いずれも「その」または「かの」と読むべきところもある。また「この」と読んでいい箇所もある。また上に言った物を指して、「それ」と言うのに、この字を使ったところもある。「如2魚鱗1所造之宮室(イオのウロコのゴトつくれるミヤ)」、其綿津見神之宮者也(それワタツミのカミのミヤなり)」などとあるのがそうだ。【中昔の物語にも、先に人の名を出して「それ何々」と言うことが多い。同じ用法である。古語であろう。】

<相>
 「阿比(あい)」と読むのが普通である。この字はたいへん多く出てくる。中には捨てて、読まないところもあるだろう。

<竟>
 「袁波理弖(おわりて)」、「袁閇弖(おえて)」、「波弖々(はてて)」などと読む。またそう読むと煩わしくなるところもあり、その場合は捨てて読まない。

<訖>
 「竟」と全く同じ意味に用いられる。読みも同じである。

<至>
 多くの場合は「麻傳(まで)」と読む。「伊多流麻傳(いたるまで)」と読むのは、ごくまれである。「八拳須至2于心前(ヤツカひげムナサキにいたるマデ)」というのは「至レ到(いたるマデ)」の意味である。【その理由は、須(ひげ)が胸先に届く年齢になるまでということで、「いたる」はひげが胸先に至る(訳者注:到る)のである。「まで」はその年齢になるまでということである。だからここは、普通は単に「まで」というのを「いたるまで」と言うのではない。】

<到>
 普通に読むように「伊多流(いたる)」と読むこともあれば、「由久(ゆく)」、「伊傳麻須(いでます)」と読むところもある。

<臨>
 この字は、多くは漢文の格で用いる。それをよくあるように「能叙牟(のぞむ)」と読めば古語にならない。「臨2産時1」というのは「産時爾那理弖(こうむトキにナリテ)」と読み、「懐妊臨産」とあるのは「懐妊阿禮麻佐牟登須(ハラマセルみこアレまさんとス)」などと、そのときの語のありさまや前後関係にしたがって読む。

<各>
 通常のように「淤能淤能(おのおの)」と読み、「淤能母淤能母(おのもおのも)」と読んでいいところもある。語のありさまにより、「阿比(あい)」、「美那(みな)」、「迦多美邇(かたみに)」と読むべきところもある。

<諸>
 「天神諸(アマツかみモロモロ)」、「八百万神諸(ヤオヨロズノかみモロモロ)」、「御子等諸(ミコたちモロモロ)」などのように、語の下に付くのが古語である。「毛呂毛呂(もろもろ)」と読む。「諸人」、「諸国」、「諸神」のように語の上に付くのは、古語の場合もあるが漢文の格である場合もある。「諸人」は万葉にも「毛呂比登(もろひと)」とあって、古言である。「諸国」などは漢文のようで、書紀にも「久爾具爾(くにぐに)」とある。そう読むべきだろう。「諸神」は「迦微多知(かみたち)」と読む。また「くにぐに」のように「迦微賀微(かみがみ)」と読むのもいいだろう。【これを「もろかみ」などと読むのは間違いだ。】「もろ〜」とは読むときと読まないときがあるが、「もろもろの〜」という言い方は、何についても言われる。

<於是>
 「許々爾(ここに)」と読む。【今俗に「そこで」という語勢のところに使う。】上巻に「在2于此處1(ここにあり)」と書くべきところを「於是有(ここにあり)」と書いた例がある。これは異例の書き方だが、記にはこういったことがよくある。

<是以>
 「許々袁母弖(ここをもて)」と読む。これは元々の皇国の言葉と思えない。おそらく漢籍を読むために造った言葉であろう。だがそれは非常に古いことと思われ、言い方がいかにも古い。「これを」と言わず、「ここを」と言うのは、いにしえの言い方である。【およそいにしえは、「それ」を「そこ」、「これ」を「ここ」と言ったものである。万葉にも「曾禮由恵爾(それゆえに)」と言うべきところを「曾許由恵爾(そこゆえに)」と言い、「許禮袁思閇婆(これをおもえば)」とあるべきところに「許々毛閇婆(ここもえば)」などとある。現在、漢籍を読むのに「是以」を「ここをもって」と読んでいるのは、こうした古い言葉が珍しく残ったわけである。この他にも、奈良以前の古言が、我が国の書物では廃れて残らなかったのに、漢籍の読み方に残っていることがしばしばある。注意すべきである。】

<故爾>
 「迦禮許々爾(かれここに)」と読む。「故」は軽い意味で使っている。

<即爾>
 「爾」の字は捨てて読まない。

<爾即>
 これも「爾」の字は捨てて読まない。

<云爾>
 中巻にただ一つだけある。語の終わりにあり、単に「伊布(いう)」と読む。「爾」の字は捨てて読まない。

<如此>
 「迦久(かく)」と読む。「迦久能碁登(かくのごと)」という読みも、朝倉の宮の天皇(雄略天皇)の歌に見えるので、古語である。しかしほとんどの場合は単に「かく」と読む。

<然而>
 「斯加志弖(しかして)」と読む。【漢籍で「斯加宇志弖(しこうして)」と読むのは音便の「う」が混じった俗言である。】ときには「佐弖(さて)」とも読む。万葉に「然而毛(さても)」とある。「しか」を縮めて「さ」と言うのは普通のことである。【それを考えると「さて」は「しかて」の縮まった形とも思われ、おかしいようだが、そうではない。「さて」は「しかありて」の短縮形である。「あ」を省いて「しかりて」となったのを、また「り」も省略して「さて」になったのである。もしそうなら、「しかりて」とも読むべきだろうか、しかしそんな読みは見たことがない。】

<然後>
 「斯加志弖(氏の下に一)能知(しかしてのち)」とも、「佐弖能知(さてのち)」とも読む。

<以爲>
 「淤母布(オモフ)」、または「淤母本須(オモホス)」と読む。【「オモホス」を「淤煩須(オボス)」、「淤母本由(オモホユ)」を「淤煩由(オボユ)」と読むのは音便のために崩れた言葉である。この記を読むときには使ってはならない。】

<所謂>
 「伊波由流(いわゆる)」と読む。これは「所有(あらゆる)」と同じ言い方の言葉である。【これを漢籍の読みと考える人もあるが、そうではない。奈良以前からの古言である。「いわゆる」の元は「いわるる」、「あらゆる」の元は「あらるる」であって、「るる」が「ゆる」になるのは、非常に古い物言いであり、万葉にたくさん例がある。それなら「〜といわゆる」とその物の言葉の下に付くべきだが、「いわゆる〜」と上に付いているのは(漢文調で)少し納得できないところもあるが、中古の物語文にもそう書いてあり、古くからこう言われてきたのであろう。】

<所由>
 「由恵(ゆえ)」と読む。

<者也>
 多くは「那里(なり)」と読むところにある。「者」の字はあってもなくてもいいようなものだ。しかしまれには「者也」を「神也」として「加微那里(かみなり)」と読む場合もある。

<故於是>
 「故爾」と言ったのと同じ意味である。「迦禮許々爾(かれここに)」と読む。

<故是以>
 「迦禮許々袁母弖(かれここをもて)」と読む。書紀の天武の巻にも同じ言葉が出ている。また宣命にも例が多い。古い言葉であろう。

<何由以>
 「那叙(なぞ)」、「那杼(など)」、「伊加傳(いかで)」、「伊加爾志弖(いかにして)」などと読む。その言葉のありさまにしたがって読む。「何―由」、「何―故」、「何―以」などとあるのも、同様である。これらを字に従って読むと、我が国の言葉付きにならない。

<詔之><告之><白之>
 【これらの「之」の字を、延佳本はみな「云」と書いてある。それももっともに思えるが、他の諸本はすべて「之」の字になっているので、ここでは「之」としておく。】

<告言><白言><問曰><答曰><答詔><答告><答言><答白><誨告><誨曰><議云><議白>
 こうした言葉をみな文字のまま普通に読むと、古語にならない。「詔之」は続日本紀の宣命に「詔賜都良久(のりたまいつらく)云々」、「勅豆良久(のりたまいつらく)云々」とあるのにしたがって読むべきで、「白―之」、「白―言」などは、古事記上巻に「白都良久(もうしつらく)云々」とあるのによって読む。「議―云」、「議―白」は宣命に「謀家良久(はかりけらく)云々」とあるのによって読む。【「つらく」は「つる」で、「けらく」は「ける」である。】これに準じて、「問曰」は「といけらく」、「答曰」は「こたえけらく」、「答詔」は「こたえタマイつらく」、「誨告」は「おしえタマイつらく」、などと読むべきである。「つらく」、けらく」が続いて煩瑣になる場合は「詔之」を「のりタマワク」、「白言」を「もうさく」と読んでも良い。また「答」を字の通りに「こたえ」と読むと煩わしくなるところが多い。その場合「答詔」を単に「のりタマワク」、「答白」を「もうさく」などと読む。「告」の字は、古い本に「のる」という言葉に使っているので、この記では「詔」の意味に使い、読みも全く同じである。これらの言葉はいずれも下の語が短いので、下から返って(返り点を付けた形で)、「詔之」を「〜とのりたもう」、「問曰」を「〜ととう」と読んでも良い。とにかくそのときの語勢によって読むべきである。

○一般に「詔(のりたまわく)云々」、「曰(いわく)云々」、「白(もうさく)云々」とあるとき、文の初めに「のりたまわく」、「いわく」、「もうさく」と言っておいて、文の終わりには、また「とのりたもう」、「という」、「ともうす」を付けるのが古語の格(きまり)である。古い書物はみな漢文の格なので、その終わりの言葉は書いてないが、古語のままに書いたものにはすべてこの言葉がある。記では「詔云、豊葦原之水穂国者、・・・有祁理告而(のりたまわく、トヨアシハラのミズホのクニは、・・・ありけりとノリタマイテ)」とあり、また「詔云、此地者云々甚吉地詔而(のりたまわく、ここはシカジカありてイトよきところとノリタマイテ)」などとも書いてある。【その他もこれにならって読むべきことは明らかである。】出雲国造の神賀詞に、「乃大穴持命乃申給久(スナワチおおなもちのみことのモウシタマワク)」云々(しかじか)と「申天(もうして)」とあり、また遷却祟神祝詞に、「諸神等皆量申久(かみたちミナはかりてモウサク)、天穂日之命乎遣而(アメのホヒのミコトをつかわして)、平気武止申支(ことむけんとモウシキ)」、続日本紀の宣命にも「云天在良久(いいてあらく)、・・・と云利(いえり)」、とか「謀家良久、・・・等謀家利(はかりけらく、・・・とはかりけり)」、「是東人波常爾云久(このアズマビトはツネにイワク)、・・・止云天(といいて)」などとある。歌でも万葉巻九(1740)に「吾妹兒爾、告而語良久(わぎもこに、のりてカタラク)、・・・登、言家禮婆(と、いいければ)」、同十三(3303)に「里人之、吾丹告楽(さとびとの、あれにツゲラク)、・・・登、人曾告鶴(・・・と、ひとぞツゲつる)」、巻十七(4011)には「乎登賣良我、伊米爾都具良久(おとめらが、いめにツグラク)、・・・登曾伊米爾都気都流(・・・とぞいめにツゲつる)」など、その他にもたくさん見え、どれも同様の例である。古語だけでなく、中古の文も同じだ。【古今集(418)に「親王の云ひけらく、<狩りして天の川原に至る>といふ心を詠みて、盃はさせと云ひければ」とか、また土左日記に「かぢとりの云ふやう、黒き鳥のもとに、白き波をよすとぞ云ふ」、あるいは源氏物語の玉葛(鬘?)に、「此の男(おのこ)どもを召取(よびとり)て、かたらふことは、おもふさまになりしかば、同じ心にいきほひをかはすべきこと、などかたらふ」といった例がある。その他にもたくさんある。】この(省略された)言葉は必ず読む。【今でも文章を書くには、この格を守るべきである。だが今の世の人は、すでに初めに書いた言葉をまた終わりにも書くのは煩わしく、拙く感じて、終わりを省いて単に「と」とむすぶことが多いだろう。それは近世の、漢文読みに慣れた人のさかしらであって、誤りなのである。漢籍でも、昔の訓点の本を見ると、結びの所に「〜といえり」などと書いてある。これをただ「と」と言い縮めたのは、古今集にあるが、その歌は、一説に柿本人麻呂、あるいは奈良の御門の御歌とも言うが、とにかく一つか二つにすぎない。これらは歌の注にあり、それ以下に言葉がないので、そんなに聞き苦しくもないのだが、以下にも言葉が続くところで「と」だけで結ぶのは、上下整わない文になるだろう。だいたい今の人は、さかしらな考えで誤ることが多いので、少々くだくだしいけれども、やや詳細に述べたのである。】


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