『古事記傳』1−9


直毘霊(なおびのみたま)

【この篇では、「道」について述べる。】

 

皇大御国(スメラおおミクニ)は、かけまくもかしこき神の御祖先(みおや)、天照大御神(あまてらすおおみかみ)がお生まれになった大御国であり、

万国に優っている理由は、このことだけを見ても明らかである。世界中どこでも、この大御神の恩恵を受けない国はない。

大御神は、その大御手に天つ璽(あまつしるし)を捧げ持たれて、

御代御代(みよみよ)に御しるしと伝え来られた三種の神器とは、これである。

万千秋(よろずチアキ)の長秋に、自分の御子がお治めになる国であると宣言され給い、そのままに、

天津日嗣(アマツひつぎ)の高御座(たかみくら)が天地のように不動であることは、ここで既に決まっていた。

雲の横たわるはるかな天空から、ひきがえるが到り付く地の果てまで、皇孫(すめみま)の命のお治めになる国と定まって、天下に荒ぶる神もなく、皇道に従わない人もなく、

<訳者注:ひきがえる云々というのは、古代に「ひきがえるは地の果てまで行く」という伝承があったことから来たらしく、祝詞にその言葉がある。>

幾万代を経ようと、誰が大皇(おおきみ)に背き得ようか。御代御代の間に、時折まつろわぬ穢れ多い人もあったけれども、神代からの古い約束通り、神威を表して、たちまち滅ぼしておしまいになったのだ。

千万の世の行く末までも、天皇は大御神の子孫であり、

御代御代の天皇は、天照大御神の子孫であらせられ、そのため天津神の御子とも日の御子とも申し上げる。

天つ神の御心を大御心(おおみこころ)として、

何事も自分だけの考えでさかしらに判断されず、ただ神代からの古い伝えによって行い治められて、もし疑いがあるときは占いによって神のご意志を確かめられる。

神代も今も変わらず、

天津日嗣(皇位継承)だけでなく、臣、連、八十伴緒(ヤソとものお)にいたるまで、氏姓を重んぜられ、各々の家業をあやまたず嗣がせられ、祖先神たちの世と少しもと変わらず、一つの世のように、神代のままに保ってこられた。

神に守られた安らかな国として、平安を保ち治めてこられた大御国であるから、

書紀の難波の長柄の朝廷(孝徳天皇)の巻に、「惟神者(かむながらとは)、謂2随神道亦自有神道1也(カミノミチにしたがいタマイておのずからカミノミチあるをいう)」とあるように、神の道にしたがうとは、天下を治める仕方が神代から伝えられてきたままに行われて、少しも自分の賢しらを加えられないことをいう。そのように神代と同じく、大らかに世を治め給えば、自然に神の道が働いて、他に求めることもないことを「自有2神道1」と言うわけである。そのため現御神(あきつミカミ)として大八洲国をお治めになることも、それぞれの御世の天皇の治世も、つまるところ神がお治めになることと同じなのである。万葉集に「神随(かむながら)云々」とあるのも同じ意味である。韓人が「神国」と申したのも、もっともなことである。

いにしえの大御世には「道」などと言挙げする(はっきり口に出して言う)こともなかった。

だから古言に、「神ながら言挙げせぬ国」とある。

道は現実の道であり、

「美知(みち)」とは、この記に「味御路(うましみち)」とあるように、「山路(ヤマヂ)」、「野路(ノヂ)」の「ヂ」に「御」を付けたものであって、実際の路のことである。上代には、これ以外の(抽象的な)道などというものはない。

物事の理屈やさまざまな教えにせよ、「何の道」、「かの道」などというものは、異国で言うことだ。

異国は天照大御神の国ではないから定まった主というものがなく、ありとあらゆる邪神どもが所を得て暴れ回り、人心も荒れ、行いが乱れて、国を乗っ取れば賤しい人物もたちまち国の主となる。だから上位に立つものは下臣に地位を奪われまいかと思い、下臣は上の隙に乗じて地位を奪おうと常に狙い、互いに仇を為し合うので、上古から国が安定しないのである。その中で、威力があり智恵も深くて、人を手懐けて国を奪い、あるいは人に国を奪われまいとすることばかり上手で、しばらくの間、国をよく治め、後世の模範となった人を、中国では「聖人」と名付けたのだ。乱世には戦いになるから、名将というものが出るように、国の風俗が悪く、治まりがたいのを強いて治めようと、世々あれこれとその方法を思い巡らし、それをずっと続けてきたために、そういう賢い人も出てくるのである。それなのにこの「聖人」なるものが、神の如く世に優れて、自然に飛び抜けた徳があると思うのは誤っている。そういう聖人たちが作って定めたものも「道」と言うようだ。それなら中国人の「道」というものも、ただ人の国を奪う方法と、人に国を奪われないための方法との二つに過ぎないようにも思われる。人の国を奪おうとすれば、すべてに心を砕き、苦しみに耐え、善行に努めて人を手懐けるため、聖人は真の善人のように見えるのだし、その作っておいた道の様子も、一見うるわしく、万人に満足の行くようにできているので、なかなか結構なようだが、実際には自分自身その道に背き、君主を滅ぼして国を奪ったわけだから、言っていることはみな偽りであって、本当は善人などではない。それどころか大変な悪人である。元来そのように人を欺く人が造った道だからだろうか、後世の人も、うわべでは尊重し従うかのように扱っているようだが、本当には一人も守りつとめる人がないので、国の助けにもならず、虚名ばかりが広まって、ついに世に行われることがなくなって、「聖人の道」は、むやみと人の行いをそしる儒者どもの、ただの騒がしいさえずりの種になってしまう。それなのに儒者どもの書いた「六経」などというものばかり尊重して、「中国は正しい道が行われている国だ」などと声高に言い合っているのは、非常な誤りである。このように「道」ということを人為的に作って定めたのは、元々正しい道が行われていなかったからであるのに、かえってすばらしく尊いことのように考えて言うのこそおこがましい。そもそも後人が、その道に従って行動しているというならともかく、それらしい人は世々一人も見当たらないことは、中国の歴史を見れば明らかである。さてその「道」とはどういうものかというと、「仁義禮譲孝悌忠信」などと口やかましい徳目をあれこれ作って、人を厳しく従わせようとするものらしい。そうであれば、後世の法律というものを儒者は「先王の道に背く」などというが、その「先王の道」もまたいにしえの法律ではないか。また「易」などというものを作って、非常に奥深いことのように言葉を飾り、天地の理をきわめつくしたなどと思っている。ただ世人を手懐けあざむくための偽りではないか。そもそも天地のことも、ただ神のしわざであって、極めて霊妙で人知を越えており、この世ならざるところからやって来るのであるから、限りある人間の知恵では測りようがないのに、どうして窮め尽くすことができようか。それを聖人の言うことであれば、何でも理の極みと信じ、尊んでいるのこそたいへん愚かなことである。その結果、聖人どもの言ったことに習って、後人が万事自分の浅知恵で推測するのは、中国人の癖である。大御国の学問をする人は、このことをよく考え、ゆめにも異国の説などに惑わされてはならない。あちらの国では、事ごとにあまり細かに注意して、あれこれと論じ定めようとするので、人の心もさかしらに悪くなり、かえって事をこじらせ、いよいよ国が治まらなくなるのであろう。ならば「聖人の道」は、国を治めるために作って、かえって国を乱す種になっている。何をするにも大らかにして事足りることなら、その方が良いではないか。皇国のいにしえは、そうした理屈をひねり回す教えも何もなかったけれど、国は下の下までも乱れず、天下は穏やかに治まって、皇位の継承は極めて古くから伝わって来た。かの異国の名で言えば、これこそ無上に優れた大道であって、実際には道があるゆえに「道」という言葉がなく、道ということを言わないけれども、道があるのである。それを大げさに言い立てるのと、そうでないのとの違いを思え。言挙げするとは、かの異国のように理屈を言い立てることである。たとえば才能でも何でも、優れた人は言い立てないけれども、生半可な出来の悪い連中は、かえって少しのことでもできたら大げさに言いふらして誇るようなものである。漢の国では、道が貧弱だから、かえって「道」と言えなくもない程度のことばかり声高に言うのである。儒者はそれを知らず、皇国を「道がない」と軽んずるのだ。儒者がそれを知らず、万事漢のことを尊いと思っているのはまだしも、我が国の智恵ある人までが、このことを知らないで、道というものがある漢国をうらやみ、無理にも「こちらにも道がある」と、ないことを言い立てて争っているのは下らない。猿どもが人を見て「毛がないのか」と笑ったので、人が「自分にも毛があるぞ」と、細かな産毛を無理に取り出して見せて、争っているようなものだ。毛はない方が尊いことを知らない、馬鹿者の所行だと分からないのだろうか。

しかしやや後になると、書籍というものが伝わって、読み学ぶことが始まって以来、その国の考え、言葉付きなどを習得して、いろいろなことにそれが入り交じる御世になり、大御国のいにしえの考えや言葉付きは、人々の生活から切り離して「神道」と名付けられた。それはかの外国の「道」に似て紛らわしいので神と言うのだが、またその言葉を借りて、こちらでも道と言うのである。

「神の道」と言う理由は、後に詳しく述べる。

そうして御代御代を経るうち、ますますその漢国の風習や考え方を尊び学ぶことが盛んになって、ついには天下を治めるやり方までが、万事漢の様式になり、

難波の長柄の宮(孝徳天皇)、近江の大津の宮(天智天皇)の頃になると、天下の制度もすべて漢のようになった。その後は、いにしえの風習や言葉は、ただ神事にのみ用いている。だから後代になっても、神事の中には、皇国の古い言葉や行いの様式などが、なお残っている可能性が大きいのだ。

一般の人々の心まで、そうした考えに染まってしまった。

天皇の大御心を心とせず、万事自分のさかしらで判断するのは、漢人の心である。

その結果、平安だった大御国にも、みだりがましいことが起こるようになり、異国に似たようなことも、後世は入り交じってきた。

めでたい大御国の道を差し措いて、他国の賢げな理屈っぽい意識や言動をよいこととして習い学んだので、清く素直だった人の心も行いも、みな汚くねじ曲がり、ついには、その他国の厳しい道でなくては治まりがたく思われるまでになってしまった。そうした後の世のありさまを見て、聖人の道でなくては、国は治まらないと考えるのは、その治まりがたい世になったのが、元々その聖人の道の罪であることを知らないのである。いにしえの大御代は、そういう道などなくても治まっていたことを思え。

そもそもこの天地の間のありとあらゆることは、すべてが神の御心であるから、

およそ世の中のことは、春秋の移り変わり、雨が降り雪が降るようなことも、また国の上人の身の上に起こる吉事、凶事なども、ことごとく神が行われるのである。ところが神には善神も悪神もあり、行われることもそれによって決まるから、およそ普通の人間の理屈で測り知ることはできないわけである。それを世の人々は、賢い人も愚かな人もみな、外国の「道」の説に惑わされ、この心が分からない。皇国の学問をする人ならば、古い書を見て必ず分かることを、その人たちでさえ分かっていないのはどうしたわけか。吉凶万事外国で、仏教では因果と言い、漢の道の教えでは天命と言い、天の為すわざだと考える。これらは全部誤っている。仏教については、世の中の学ぶ人はよく知っていることだから、今は論じない。だが漢の国の天命の説は、賢い人もこれに惑い、まだ誤りをさとる人がいないので、これについて述べよう。そもそも天命ということは、かの国でいにしえに主君を滅ぼし国を奪った「聖人」が、自分の罪を免れるために作った偽りのご託宣である。本当は天地には心がないのだから、「命」もあるはずがない。もし本当は天に心があり、理もあって、善人に国を与えようと思っているのだったら、周の代の終わりにも、聖人が出てくるはずなのに、そうならなかったのはどうしたことか。もし周公や孔子が出た上は、もう道が備わったので、その後は聖人を出さなかったというなら、それはおかしい。あの孔丘ののち、その道があまねく世に行われ、国がよく治まったというなら、納得できるが、実際はその後、いよいよ道は廃れ果て、何もかも無駄口になってしまって、国もますます乱れたのに、「もう道は備わった」として聖人を出さず、国の災厄も顧みず、ついにはその国を秦の始皇帝のような荒ぶる人に与えて、人々を苦しめたのは、どういう天の曲がった心からか、非常にいぶかしい。始皇などは天が与えたのでないから、秦は長く持たなかった、と曲論することもできるだろうが、しばらくの間にせよ、あんな悪人に国を与える道理はないだろう。また国を治める君主に天命があるなら、下の諸人にも善悪のしるしがあって、善人は長く栄え、悪人は速やかに禍を受けるべき理屈なのに、そうではなく、善人も凶運を受け、悪人も栄えることは、昔も今もよくあるのはなぜか。本当に天の仕業なら、そうした間違いが起きるはずはあるまい。後世になると、次第に人の心もさかしくなり、国を奪って「天命だ」と言っても世人が納得しないので、うわべは国を譲ったように見せる「禅譲」という形をとることもあり、これをとても悪いことのように言う人もあるようだが、かの古代の「聖人」たちも、実際はそれと同じではないか。後世の王たちの「天命」は信じなくても、いにしえの聖人の天命を真実だと思い込むのは、なにを勘違いしているのか。いにしえには天命があったが、後世にはなくなったというのこそおかしいだろう。ある人は、舜は堯の国を奪い、禹も舜の国を奪ったと言ったが、そうでもあろう。後世の王莽や曹操なども、うわべは禅譲だったが、本当は簒奪なのを考えると、舜や禹もそうだった可能性が大きいと思われるのに、上代は人の心が素朴で、禅譲と唱えられれば、本当と思い、その国内の人たちもみな欺かれたのかも知れない。王莽や曹操の頃は世人もさかしくなり、欺かれなかったので、悪事が露顕したのだろう。彼らのような悪人たちでも、上代であれば立派な聖人として仰がれたであろうに。

禍津日神の御心の荒ぶることは、しかたのない、とても悲しい業である。

世の中に、凶事や病気など、正しい理に合わず、邪悪なことも多いのは、どれもこの神の御心であって、激しく荒びませるときは、天照大御神や高木大神などの大御力(おおみちから)にすがっても制しかねる場合もあるので、まして人の力では、どうにも仕方がない。善人も災いに遭い、悪人も福を受けるなど、普通の道理に合わないことが多いのも、みなこの神の仕業であるのに、外国には、神代の正しい伝えがなく、その理由が分からないから、単純な天命の説を立てて、何事も当然の理として決着しようとするのは、たいへん身の程知らずのことである。

それでも天照大御神は高天原に坐(いま)して、大御光はいささかも曇ることがなく、この世を照らせられ、天つ御璽も失われることなく伝えられて、お命じになったように天下は御孫がお治めになり、

異国には本来定まった主がいないので、ただの人も国を奪えばたちまち王となり、王もたちまちただの人となって、滅び失せたりもするのがいにしえからの風俗である。国を奪おうとして失敗した人を「賊」と呼んで卑しめ憎み、成功した人を「聖人」と呼んで尊び仰ぐ。要するに聖人も本来は賊であり、ただ奪い取るのに成功した人のことである。我が国の尊い天皇は、そうした賤しい異国の王どもとは、全く違う。この御国をお生みになった神祖命が、自らお授けになった皇統であって、天地の始めからお治めになる国と定まった天下であるから、大御神の大命にも、悪い天皇だったら従わなくて良いなどとはおっしゃっていないのであり、善い天皇も悪い天皇も、傍目でうかがい測るなどということをしない。天地のある限り、月日の照らす限りは、幾万代を経ようとも、動くことのない大君である。だから古語でもそのときの天皇を「神」と申し上げ、真の神であらせられるので、善悪を論じることなく、ひたすらかしこみ敬い奉るのが、真の道である。それなのに、近頃は世の中が乱れて、この道に背いてかしこくも大朝廷(おおみかど)にはむかって天皇を悩まし奉った、北条義時、泰時、また足利尊氏などは、天照大御神の大恩をも顧みない、汚い賊なのに、禍日神の心は不可解であって、世の人の心はみなその賊の方になびき、子孫までしばらくは栄えた。この世を照らしませる天つ日の神を尊ぶべきと知っていても、天皇をかしこみ奉ることを知らない奴(やっこ)も世にいるのは、漢籍の意に惑わされて、あの国のみだりな風俗をすばらしいことのように思って、正しい皇国の道を知らず、この世を照らしませる天つ日の神がすなわち天照大御神であることも信ぜず、天皇は天照大御神の御子であらせられることを忘れたのが原因であろう。

天津日嗣(あまつひつぎ)の高御座(たかみくら)は、

皇統を日嗣と呼ぶのは、日の神の御心を御心として、その御業を引き継ぐからである。その御座を高御座というのは、高いからでなく、日の神の御座だからである。日には高照(たかてる)、高日(たかひ)、日高(ひだか)などの古語があるのを考えれば分かる。日の神の御座を代々受け継いできて、その御座に坐します天皇なので、現在の天皇は日の神に等しいことは疑いがない。そうであれば、天の日の神の恩恵を受ける人々は、誰もが天皇をかしこみ敬い、尊び奉るのが当然であろう。

天地の限り、常磐(ときは)に堅磐(かきは)に末代まで不動の道は、霊妙で人知を超え、異国のどんな道より優れており、正しく高く貴い徴である。

<訳者注:常磐に堅磐にとは、永遠に形を保つ非常に堅い磐のように、といった意味>

漢国では、道を言うことはあっても、真の道はないため、もとよりみだりであるが、世々ますます乱れ、ついには傍の国人(元や清)に国は悉く奪われてしまった。彼らを「夷荻」などと呼んで軽蔑し、人間のように思ってもいなかったのだが、その勢力が強く、ついに奪い取られてしまったら、やむなく「天子」と呼んで仰ぎ見るなど、たいへんに浅ましいことではないか。これでも儒者は、なおいい国だと思うのか。王だけでなく、一般に貴い血筋と賤しい血筋が決まっていない。周と言った時代までは、封建制とやらいうのがあり、このけじめがあったようではあるが、それも王が変われば下まで変わるので、本当のけじめはつかない。秦以降は、ますますこの道が立たず、みだりであって、賤しい下層の女でも、王の寵愛を受けるとたちまち后の地位に昇り、王の娘も、正しい血筋でないものにめあわせて、恥とも思わない。昨日まで山賤(やまがつ:卑しい身分の田舎者といった意味)だった者が、今日は国の政を執る高官になるなど、およそ貴賤が定まらず、鳥獣のありさまと変わりがないように見受けられる。

この道はどんな道かと追求すると、天地自然に成立した道ではないようであり、

これをよく知って、漢国の老荘の道などとは混同しないようにせよ。

人が作った道でもない。この道というのは、かしこくも高御産巣日(たかみむすび)神の御霊により、

世の中のあらゆる事や物は、ことごとくこの大神の御霊が根元である。

神祖(かむろぎ)伊邪那岐(いざなぎ)大神と伊邪那美(いざなみ)大神が始められ、

世の中のあらゆる事や物は、この二柱の大神がお始めになった。

天照大御神がそれを受けられ、継承され、伝えられた道である。であるからこれを神の道と申す。

神の道という言葉は、書紀の石村池邊(いわれのイケベ:用明天皇)の宮の巻に初めて出る。しかしそれは、単に神を斎き祭ることを指して言う。同じく書紀 の、難波の長柄の宮(孝徳天皇)の巻に「惟神者(かむながらとは)、謂2随神道亦自有神道1也(カミノミチにしたがいタマイておのずからカミノミチあるをいう)」とあるのが、正しく皇国の神の道を指して言っている。その理由は、ここに引用したように、「その道」といっても、ことさら特別な行いがあるわけではない。だからただ神を斎き祭るだけであっても、煎じ詰めればおなじことである。それを漢籍に「聖人設2神道1(せいじんシントウヲもうけて)」とあるのを取ってきて、我が国の方にも名付けたなどと言う人がいるが、物事を知らない妄言である。なぜなら、神という名で指すものが、我が国と中国では、最初から違う。あちらでは、いわゆる天地陰陽の測りがたく霊妙な働きのことを言っており、空理空論であって、本当にそれがあるわけではない。皇国の神は、現在の天皇の御祖であり、実体のない空しいものではない。だから漢籍の道とは測りがたく霊妙な働きの道という意であるが、こちらは皇祖神が始められ、世々継いでこられた道であって、意味合いが大きく異なっている。

その道の心は、もろもろの古い書物をよく味わって読めば今でもよく分かるものなのに、世々の物知りたちは、みな禍津日神に取り付かれたのか、漢籍にのみ惑わされ、考えることや言うことはみな仏道と漢の道であり、真の道を悟ることができないらしい。

いにしえは道などと言挙げをしなかったので、古い書物には、「道」めいた意味合いのことや言葉は少しも書かれていない。ところが舎人親王から始まって、世々の識者と言われる人々は、道の心を理解できず、道の教えのようなことをうるさく言い立てる。漢籍のことばかり心に染みつき、それを天地自然の理と思っているため、それにすがるというわけではないが、おのずとそれに取り付かれ、あちらへばかり心が流れて行くらしい。それいう異国の道を、自国の道の助けになるはずだと考えていても、心は異国に奪われて行くのである。一般に漢国の説というのは、陰陽乾坤などをはじめ、どれも元来「聖人」どもが自分の智恵で推し測りこしらえたもので、少し聞いただけだと、いかにも理論が深いように聞こえるかも知れないが、その垣の内(領分)を離れて外から眺めれば、別に何ということもなく、案外浅はかなことを言っている。だが昔も今も世人は、この垣の内に迷い入り、出て離れる事ができないらしいのは残念である。大御国の説は、神代から伝えられてきたままであって、人の賢しらを少しも加えないので、一見内容が浅いように聞こえるが、実は底知れず人知の測り知れない、深妙な理がこもっているのに、それを知ることができないというのは、そういう漢国の書物の垣の内に迷い込んでいるためである。そこを出て離れない限り、たとえ百年千年と力を尽くして学んでも、道のためには何の役にも立たない無駄ごとになるだろう。ただし古い書物は、みな漢文に移して書いてあるので、中国のことも一通りは知っておくべきで、文字を知るために漢籍も暇があったら学んでよかろう。皇国魂(みくにだましい)がしっかりとできて、ふらふら迷うことがないなら、さほど害はないものである。

だから自分の身に受けて行うべき神の道の教え(特別の方法論)だなどと言って、いろいろなことをするのも、みな漢の道の教えをうらやんで、最近になって作り出した個人的な考えにすぎない。

「秘説」などと大げさに言って、少数の人を選び、ひそかに伝える説などは、みな後世になって偽造したものである。善い教えであれば、何であれどんどん世に広めることこそ善いことだろう。秘め隠して、人に広く知らせず、自分の私物にするなどというのは、たいへんひねくれた心の汚いやり方である。

かしこくも天皇がお治めになる天下の道を、下の者が下の者でありながら自分の道にしようとするのは畏れ多いことである。

下にある者は、とにかく上のお命じになることに従っていてこそ、道に適うだろう。神の道の行いが別にあるとしても、それを勝手に教え学んで、別に行ったら、それは上に従わない私事ではないか。

人間はみな、産巣日神の御霊によって、生まれながらにして、身に備わった限りのことは自分でも分かって良く行うことができるものであるから、

世の中に生きとし生けるものは、鳥虫に至るまで、自分の身の程に応じて、必ず能力の及ぶ限りのことは、産巣日神の御霊によって、生まれながらに知っていて、行い得るものであるが、その中でも人間は特に優れた存在であり、優れている程度に合わせて、知るべき限りは知り、すべき限りは行うものであるのに、どうしてそれ以上のことを強制する必要があるのだろうか。教えない限りは何一つ知ることも行うこともできないと言うなら、人間は鳥や虫にも劣ると言うのだろうか。いわゆる「仁義禮譲孝悌忠信」などの徳目は、人には必ずあるもので、その限りは、教えてもらわなくても自然とよく知って行うことができるのにあの「聖人の道」は、元々治まりがたい国を、強いて治めようと作り出したもので、人に備わった能力の限度を過ぎて、なおも厳しく教え込もうと強制するものだから、真の道には適っていない。だから口では人みな大げさに言いなから、本当に教えの通りに行う者はほとんどいないのに、それを天の理に従う道だなどと考えるのは、大きな間違いだ。またその道に背いた人を、「人欲」などと言って憎むのも解せない。その「人欲」というのは、どこからどうしたわけで発生したのか。やはりちゃんとした理由があって生まれたに違いないから、それもまた天理ではないか。また百世を経ても、同姓であれば結婚しない制度などは、中国でも、上代からそうだったのではない。周代の定めである。そう厳しく定めたのは、国の風俗が悪く、親子や同母の兄弟の間でもみだりがましいことが多く起こって、家族と他人のけじめがなく、治めるのが難しかったためであって、そうした制度の厳しさは、かえって国の恥である。どんなことでも、法が厳しいというのは、罪を犯す者が多いからであろう。そうした定めは制度として立てられるけれども、真の道ではない。人情に合わないため、従う人が非常に少ない。後世はさておき、早くも周代にさえ、諸侯という身分の者でもこれを破ることが多かったので、ましてそれ以下は言うまでもない。自分の姉妹などと関係を持った例もある。それなのに儒者どもは、昔からこのように世人が守り通せなかったことを忘れ、無駄な定めの条文をとらえて、何かすばらしい取り決めのように言いまた考え、皇国を無理に貶めようとして、ともすると古代には兄弟が婚姻したことを言い出して、「これこそ皇国の振る舞いだ」などとそしるのを、こちらの物知りたちも快からず、御国の欠点と思い、適当に口でごまかすだけで、いまだ明確にその理由を説明することもなかったのは、「聖人」のさかしらを当然の理だと思い込み、それにへつらう心があるからである。へつらう心さえなければ、中国と違ったところで、何のことがあろう。そもそも皇国に於いては、結婚を禁止したのは同母兄弟だけであり、異母兄弟が結婚した例は、天皇を始め、世に普通に行われ、平安以降も忌むことはなかった。ただし貴賤の別はうるわしく存在し、おのずからみだりなことはなかった。これがわが神祖の定めた、正しい真の道である。ところが後の世では、その漢国の定めを少々取り入れ、異母兄弟も「兄弟」と呼んで、結婚してはならないことになった。だから今の世であればそれを犯すのは悪いことだろうが、いにしえはいにしえの定めがあったのであり、異国の法制をもって議論するようなことではない。

いにしえの大御代には、下々まで、ただ天皇の大御心を心として、

天皇が思し召す御心のままにお仕えして、私心は微塵もなかった。

ひたすら天皇をかしこみ敬い、天皇に従って、大きな慈しみの御蔭(みかげ)に隠れ、銘々祖神を祭りながら、

天皇が御祖神を斎き祭られるように、臣、連、八十伴の緒、天下の百姓も、それぞれの祖神を祭るのは普通のことで、また天皇が朝廷のため、天下のために諸々の天つ神、国つ神をお祭りされるように、下の者も折に触れ、幸いを願って善神に請い祈り、禍を逃れるためには、悪神をも祈り和めて、時に身に穢れがあれば、お祓いをするなど、みな人情であって、必ず行うものだ。それのに、心さえまことの道にかなっておれば良い、などと言うのは、仏教や儒教の立場ではそうかも知れないけれども、神の道には大きく背くことである。異国では、神を祭るにもまず理を先に立てて、あれこれ議論する。淫祠邪教などと言って、特定の神を罰することもあるが、みなさかしらのことである。およそ神には、仏などのたぐいとは違って、善神だけでなく悪神もあって、その神の心に応じて所行にも善悪があるものだから、悪人も栄え、善人も災いに遭うことがある、これが正常な世の中だ。ということは、神の心は理の当不当をもって考え推測できるものではないのである。ただその怒りをおそれかしこみ、ひたすらお祭りするものなのだ。だから祭るにも、そういう心映えがあって、何としてもその神のお喜びになることをしようとする。万事を忌み清めて少しも穢れがないようにし、美味なものを可能な限りたくさんお供えし、琴を弾き、笛を吹き、また歌い、舞をするなど、面白く祭るのである。これはすべて神代の習いであって、いにしえの道というものである。それなのに、ただ心が至る、至らないといったことばかり言い立てて、お供え一つにも関心を持たないというのは、漢意にとらわれたための誤りである。さて、神を祭るには、何よりもまず火を厳重に忌み清めるべきであることは、神代の書の黄泉の段を見れば分かる。このことは、神事だけでなく、いつも注意し慎むべきで、みだりにしてはならない。火が穢れたときは、禍津日神がところを得て、荒ぶる神として現出され、世の中にさまざまの災厄が起こるのである。そうであれば、天下において、火の穢れは特に忌まわしいことである。今の世には、神事の際、また神のおられる所でこそ、どうにかこうにかこの火の忌みが行われているだろう。だがそれもしないようであれば、「火の穢れなど馬鹿なこと」と思う、なまさかしらな漢意が広まったからである。その結果、神の書を読み解くことのできる世の物知りたちでさえ、漢意の理屈ばかり、うるさいほどに説いて、この忌みの説についてはなおざりにしているのは、どうしたことだろうか。

ほどほどに身相応の営みをして、穏やかに楽しく世を渡る他にはなかったのであり、

そう生きる他に、何の教えが必要であろう。生まれたばかりの赤ちゃんにものを教えたり、また職人や匠といった人たちが物の作り方を弟子に教え、いろいろな芸の達人などがやはり弟子に芸を教えるということは、上代にもあっただろうし、儒仏の教えなども、いうなればこれらと似たようなものと言えなくはないが、よく考えれば、別物である。

いったい「その道」といって、別に教えを受けて行うべき業があるだろうか。

ある人は「それでは神の道というのは、漢籍の老荘の道というのと同じようなものか」と疑って質問したが、私はこう答えた。「その老荘の学を行う人たちは、儒学のさかしらをうるさく思い、自然というものを尊ぶので、おのずと似てくる点もある。だが彼らも、大御神の国でない悪い国に生まれ、代々の聖人の説を聞き慣れているので、「これが自然だ」と思うものも、やはりその「聖人」とやらが説く自然であって、万事は神の御心から出た仕業だということを知らないので、根本に於いて非常に違っている。

どうしても神の道を知ろうとするなら、汚れた漢意を祓い清め、清らかな御国の心をもって、古典をよく学習せよ。そうすれば、その他に受けて行うべき道などはどこにもないことが分かるだろう。それを知ることこそ、実は神の道を受けて行うことなのである。ということは、こうまで論じたのも、神の道ではないのだが、禍津日神のしわざを見て黙っているわけにも行かないので、神直毘(かむなおび)の神、大直毘(おおなおび)の神の御霊の力をお借りして、この禍(まが)を直そうとしたまでである。

これは、私の自分勝手な心で言うのではない。ここで述べたことは、すべて古典に逐一証拠のあることだから、それらをよく読む人は決して疑わないだろう。


以上は、明和八年十月九日、伊勢国飯高郡の御民、平の阿曾美(たいらのあそみ)宣長、かしこみかしこみも記す。

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