『古事記傳』１７－２
| 神代十五之巻【綿津見の宮の段】 |
於レ是其弟。泣患居２海邊１之時。鹽椎神來問曰。何虚空津日高之泣患所由。答言。我與レ兄易レ鉤而。失２其鉤１。是乞２其鉤１故。雖レ償２多鉤１。不レ受。云２猶欲１レ得２其本鉤１。故泣患之。爾鹽椎神。云Ｃ我爲２汝命１作Ｂ善議Ａ。即造２无間勝間之小船１。載２其船１以。教曰。我押＝流２其船１者。差暫往。將レ有２味御路１。乃乘２其道１往者。如２魚鱗１所レ造之宮室。其綿津見神之宮者也。到２其神御門１者。傍之井上有２湯津香木１。故坐２其木上１者。其海神之女。見相議者也。＜訓２香木１云２加都良１＞訓読：ここにそのイロト、ウミベタになきウレイいますときに、シオツチのカミきてといけらく、「いかにぞソラツヒダカのなきウレイたまうゆえは」ととえば、こたえたまわく、「われイロセとツリバリをかえて、そのハリをうしないてき。かくてそのハリをこうゆえに、アマタのハリをつぐのいしかども、うけずて、『なおそのモトのハリをえん』というなり。かれナキうれう」とノリたまいき。ここにシオツチのカミ、「あれナがミコトのためによきコトバカリせん」といいて、すなわちマナシカツマのオブネをつくりて、そのフネにのせまつりて、おしえけらく、「あれこのフネをおしながさば、ややシマシいでませ。うましミチあらん。すなわちそのミチにのりていましなば、イロコのごとつくれるミヤ、それワタツミのカミのみやなり。そのカミのミカドにいたりましなば、カタエのイのべにユツカツラあらん。かれそのキのウエにましまさば、そのワタのカミのミむすめ、みてアイはからんものぞ」とおしえまつりき。 口語訳：どうしようもなくて、弟が海辺で泣いていると、塩土の神がやって来て、「どうして虚空津日高が歎き悲しんでいるのですか」と尋ねたので、「私は兄と釣り鉤を取り替えたのですが、その鉤をなくしてしまいました。それを返せと言われたので、たくさんの鉤を作って返そうとしたところ、兄は受け取らず、あくまで失ったその元の鉤を返せと言われました。どうしようもなくて泣き悲しんでいるのです」と答えた。すると塩土の神は「私があなたのために、いい策を献じましょう」と言って、无間勝間の小船を作り、御子を乗せて、「私がこの舟を押し流しますから、そのまましばらく行きなさい。快適に進める海路があるでしょう。その海の道に沿って行くと、魚の鱗のように作った宮殿があります。それは海神の宮です。その宮殿にたどり着くと、門のところに湯津香木（かつら）があります。その木の上に登っていたら、海神の娘に会って、彼女がはからってくれるでしょう」と教えた。 海邊は「うみべた」と読む。書紀に「海畔（うみべた）」、古今集【恋三】（６６９）に「世をうみべたに云々」とある。万葉巻十二【廿丁】（３０２７）に「淡海之海、邊多波人知（おうみのみ、へたはひとしる）」、後撰集（１０９９）に「へたのみるめ」などもある。【万葉巻十四（３３８１）に「宇奈比（うない）」という言葉がある。「へ」を「ひ」と言うのは、山備（やまび）・濱備（はまび）など、古言に例が多い。すると「ウナヒ」も「海辺」のようにも思われるが、地名ではないかという疑いもある。この他に、海辺のことをそう言った例がないので、そう読むのは無理があるだろう。】ここでは「海邊」を先に読み、次に「泣患」を読むべき文の書き方である（「泣き憂いて海辺にいると」でなく、「海辺で泣き憂いていると」と読む）。【一般に、先に読むのと後に読むのとで、その言葉は重くも軽くもなるものである。】○鹽椎神（しおつちのかみ）は、一人の名前ではない。ものをよく知る人全般を言う名であり、「知識（しり）大都知（おおつち）」ということである。【「大」は例によって美称、「つち」も「野椎（ぬつち）の神」のところで言ったが、多くの例で見る通り美称である。】書紀には「鹽土の老翁（おじ）」、また一書には「鹽筒（しおつつ）」とも書いてある。【「つち」と「つつ」は通う音で同じ。続日本紀廿九に賀茂の朝臣鹽管（しおつつ）という人名もある。】「老翁」というのは、単に尊称とも取れるが、一般に年老いた人ほどものをよく知っているから、ここは実際に老人だったとも考えられる。【書紀に「一人の長老がいた」とあるが、これは「老翁」という語から、撰者が作った文かも知れない。】神武の巻に出る鹽土の老翁も、ものをよく知っている翁ということである。また事勝国勝長狹の神も、またの名は鹽土の老翁とある。これもものをよく知っている神だという意味で、この名があるのだろう。【延喜式神名帳に、薩摩國穎娃郡、牧聞（ひらきき）神社が載っている。ここは、この段の鹽土の神を祭っているという。今の世に開聞嶽というのがこれである。】○虚空津日高（そらつひだか）のことは、後に述べる。○「易レ鉤（はりをかえて）」。このところは言葉が足りない。師は「字が脱落したのだろう」と言った。実際、こう言ったのでは、互いの鉤と鉤を交換したように聞こえて紛らわしい。しかし字が脱落したようでもない。初めからこう書かれていたと思われる。それは、弓矢と鉤を交換したのだが、弓矢についてはここに関係がないので、省いて片方だけを言ったのであり、いにしえの文の書き方なのだろう。○汝命は「ながみこと」と読むことは、既【伝七の五葉】に述べた。○爲は「ミために」と読む。万葉に「御爲（ミため）」という語がたくさん見える。「奉爲」も同じように読む。○議は「ことばかり」と読む。万葉巻四【五十四丁】（７５６）に「事計爲與（ことばかりせよ）」、巻十二【十二丁】（２９４９）に「事計吉爲（ことばかりよくせよ）」など、この他にも例がある。○无間勝間は「まなしかつま」と読む。无間（まなし）は書紀に「無目」と書いてある通りの意味である。【「間」は借字】「かつま」は堅津間（かたつま）」が縮まった言葉で、書紀には「堅間（かたま）」とある。【師はこの書紀の字によって、「勝間」と書いたのもすべて「かたま」と読むべきだと言ったが、この記の文字遣いで、「かた」に「勝」の字を書いた例はない。また次に述べるように、地名などに「かつま」というのが多い。とすると、古くは「かたま」とも「かつま」とも言ったのだろう。】これは編んだ籠の竹と竹の間が緊密に締まって、目がないのを言う。【中巻で「八目の荒籠（あらこ）」、書紀で「大目の麁籠（あらこ）」などとあるのは、目が粗いことを言う。だが「かたま」というのを一般に籠のことと思い込んで、その「麁籠」まで「あらかたま」などと読むのは間違いである。粗いのを「かたま」などと言う道理はない。「こ」というのが、本来の「籠」の総称である。「筥（はこ）」というのも、「ふたこ」が縮まった名で、もともと蓋のある籠（こ）のことである。これを見ても、総称は「こ」であることが分かる。】万葉巻十二【九丁（２９１６）、卅四丁（３１５２）、卅九丁（３１９３）】に「玉勝間」とあるのも、この物である。【和名抄に、「周防國佐波郡、勝間は『かつま』」、「讃岐國三野郡、勝間は『かつま』」とある。三代実録卅七に「筑前國賀津萬（かつま）の神」、万葉巻十六（３８３５）に「勝間田之池（かつまたのいけ）」、これらはすべてこの物にちなむ地名と思われる。「かつま」と読むのが正しいことは、これらの例でも明らかだ。なお延喜式神名帳には「紀伊國名草郡、堅眞（かたま）神社」もある。】和名抄によれば「唐韻にいわく、籠は竹の器である。和名『こ』」、また「四聲字苑にいわく、レイ（たけかんむり＋令）ショウ（たけかんむり＋青）は小さい籠である。漢語抄にいわく、和名『かたみ』」とある「かたみ」は、「かたま」の転じた名である。【古今集以降の歌などでは、みな「かたみ」とだけある。小籠でさえあれば「かたみ」と言うのは、いにしえの意味とは違う。「かたま」は本来大きな籠にも小さな籠にも言ったからである。】○小船（おぶね）とは、ここでは必ずしも舟の形に作ったのではない。何にせよ、乗って水に浮かんで行けるものを船と呼んだのだろう。書紀（一書第一）に「以２无目堅間１爲２浮木１（まなしかたまをウケキとなす）」とあるのも同様である。和名抄に「唐韻にいわく、艇は小船である。釋名にいわく、一人か二人が乗れる船である。楊氏の漢語抄にいわく、艇は『おぶね』」とある。○「押＝流２其船１（このふねをおしながさば）」の「其（その）」は、本当は「此（この）」と言うべきところである。だからここではそう読んでおいた。○差暫は「ややしまし」と読む。「差」を「やや」と読む例は、万葉巻七【二十七丁】（１２７８）にある。暫は、万葉巻十五【十四丁（３６３４）、卅一丁（３７３１）】に「思末志久母（しましくも）」、巻十八【六丁】（４０８２）に「布禰之麻志可勢（ふねしましかせ）」などがあるのに依拠して読んだ。○味御路（うましみち）は、書紀に「可怜小汀（うましおばま）」ともあり、「可怜、これを『うまし』と読む」という註があって、また「可怜御路（うましみち）」とも書かれている。「たいへんいい道」というような意味である。ここで「御路」と書いたのは、「みち」という言葉の本義である。【ここでだけ、この記にも書紀にも「道」でなく「御路」と書いてあるのは、普通「道（ち）」を言うときにも「みち」と言って区別はしないが、「みち」と言うのは本来「ち」を賞めて「御（み）」を付けて言った語である。ここでは、たいへんいい道という意味で言うのだから、「御」を省略するわけには行かない。だから本義に基づいて「御路」としたのである。】○乘は、字の意味に従って「のりて」と読む。この道は、通常の陸の道ではない。水上だから乗ると言ったのは面白い。【万葉巻十一（２３６７）に「海原乃路爾乘哉（うなはらのみちにのりてや）云々」と詠んでいるのは、海路を船に乗って行く情景だから、これとは違う。また日本霊異記に「路に乗じて行く時云々」とあるのは、道のままに行くということで、これも違う。ここもそれに準じて、「道のまにまに」などと読めそうに見えるが、この記の例から見て、「まにまに」という言葉に「乗」という字を書くはずはない。書紀には「尋レ路（みちをとめて）」とあるから、ここも「尋」を「乗」と誤ったのかとも思えるが、やはりそうではない。】○往者は「いましなば」と読む。「ゆきます」というところを「います」という例は、古言に多い。中巻明の宮（應神天皇）の段で「須久々々登、和賀伊麻勢婆（すくすくと、わがいませば）」、この他万葉に多く見えているが、その歌のところに引用して述べる。【伝卅二の三十九葉】○「如２魚鱗１所レ造之宮室（いろこのごとつくれるみや）」。「魚鱗」は「いろこ」と読む。和名抄には「唐韻にいわく、鱗は魚の甲（よろい）である。文字集略にいわく、龍魚のたぐいの衣を鱗という。和名『いろつく』、俗に『いろこ』と言う。」、新撰字鏡には「鰭は魚の脊の上の骨、または『いろこ』」とある。【和名抄の「いろつく」という読みは納得できない。それに「いろこ」という語を俗言としているが、俗言ではない。今ではこれを「うろこ」と言う。「う」と「い」と、どちらが古語だろうか。魚も中昔には「いお」と言い、現在は「うお」と言うのが普通だが、実は古語でも「うお」と言った。だから鱗も、中昔の頃だけ「いろこ」と言い、もっと古くは「うろこ」だったかも知れない。ただ古い書物でそう読んだ例も見えないので、とりあえず和名抄に従って読んでおく。】「如２魚鱗１」というのは、壮麗で巨大な宮殿で、門などを多数並べて建ててある様子を、喩えたのだろう。【屋根の上の甍を言ったようにも取れるが、そうではないだろう。それだったら「所レ造（つくれる）」という言葉から遠い。】宇津保物語の藤原の君の巻に、「四面四町の殿に、面（おもて）ごとに御門を建て、いろこの如くに造り重ねたるおとどに云々」【「おとど」は殿舎のことである。】また梅の花笠の巻に、「色々のあげはりを、いろこのごと打ち渡して云々」などとあり、ものが多く重なり連なった様子の喩えである。【漢籍の楚辞九歌の河伯篇に「魚鱗屋兮龍堂（魚鱗の屋根、龍の堂室）」とあり、注に「言河伯所レ居、以２魚鱗１蓋レ屋、堂畫２蛟龍之文１・・・形容異制、甚鮮好也、・・・河伯水神也。故託２魚龍之類１、以爲２宮室１也（河伯の住処は屋根を魚鱗で覆い、堂室には蛟龍の文様が描かれている。・・・形や様子は普通のものとは異なり、色彩が豊かである、・・・河伯は水の神である。そのため魚や龍の類に託して＜なぞらえて＞宮室を作っていると言うのである）」とあり、また「靈何爲兮水中（霊はなぜ水中にいるのか）」、注に「言河伯之屋、殊好如レ是、何爲居２水中１而沈没也。（河伯の住む家はことのほか美しいが、なぜ水中に沈んでいるのか、と言う）」、また「乗２白オオガメ＜元の下に蠅のつくり＞１兮逐２文魚１（大亀に乗り、美しい文様のある魚を追って）」、あるいは「魚隣々兮ヨウ＜縢の糸を女に置き換えた字＞レ予（たくさんの魚が列を成して予（私）を送る）」、注に「ヨウ＜縢の糸を女に置き換えた字＞送也。言江神聞２己將１レ帰、亦使２波流滔々來迎１。河伯遣レ魚、隣々侍従而送レ我也（江神は自分が帰ろうとしていることを聞き、波と流れを滔々と迎え来させる。河伯は魚を遣わして、列になって私を送る道筋に侍従させると言う）」などと言っているのは、全体としてこの段によく似ているので、「如２魚鱗１造」というのも、これから取ったのかとも思われるだろうが、楚辞にあるのは、単に鱗で屋根を葺いたということである。ここは全体の様子を喩えたのだから、その意趣に違いがある。この話全体の様子が似ていることについては、後で論じる。】書紀に「其宮者、雉チョウ（土＋蝶のつくり）整頓、臺宇玲瓏（その宮は、高垣・姫垣が整い備わって、高殿は光り輝いていた）」、また「城闕崇華、樓臺壮麗（城門は崇高華麗で、楼台も壮麗であった）」などと書いてあるのは、ひたすら漢文を模倣して作った文で、古言にはまるで適合しない。「宮室」は二字を「みや」と読む。この「如」の字の上に「有」の字があるのが当然で、なくても「あらん（あるでしょう）」という言葉を添えて読むところだが、その前に「將レ有２味御路１（うましみちあらん）」といっており、後にも「有２湯津香木１（ゆつかつらあらん）」と言っているので、あまり同じ言葉を繰り返すのもよくないとして、ここは敢えて省いたのだろう。「あらん」という言葉はなくともその意味に聞こえて、不足というほどでもない。かえって語の勢いがいいようにも思われる。○其は「それ」と読む。上述した物を指して言う。書紀の景行の巻に「速津媛（はやつひめ）という女がいた。一集落の長であった。天皇はそれを聞いて出御され云々」、また「土蜘蛛を討とう。もしそれが我らの軍の勢いを恐れたなら云々」とある。【書紀は漢籍の書き方を模倣することに努めているが、これらの「其」の使い方は、あまり漢文らしくなく、わが国の古言の使い方である。書紀では、まれに撰者の狙いからはずれて、かえってこうしたいい部分も見える。】万葉巻十三【卅丁】（３３３０）に「衣社薄其破者（きぬこそはそれやぶるれば）」、伊勢物語（三十九段）に「女御高子（たかきこ）と申すいまそかりけり。それうせ給ひて云々」、この他物語文などに例が多数ある。○綿津見神（わたつみのかみ）は、前に大綿津見神などが登場して、名の意味はそこで述べた。また御禊の段で、底・中・上の三柱の綿津見神が誕生している。それは阿曇連の祖神であることが述べられており、新撰姓氏録に「安曇宿禰は海神・綿積（わたつみ）豊玉彦神の子、穂高見（ほだかみ）の命の子孫である」とあるのと、書紀のこの段【一書（第一）】に「海神豊玉彦」とあることを考え合わせると、この綿津見の神は、あの御禊のときに生まれた神である。万葉巻九【十八丁】（１７４０）に「海若、神之宮乃、内隔之、細有殿邇（わたつみの、かみのみやの、うちのへの、たえなるとのに）云々」【この歌は全体にこの段の話に似ている。参照せよ。】この海神の宮は、海底の国である。後世のなまさかしらの説は、古伝の趣にしたがっていない。【仏教書には「龍宮」というのが出てくる。その話は、不思議なほどこの段によく似たところがある。だから書紀の纂疏や口决では、この海神の宮を直接に龍宮としており、仏教を信ずる人は、本末を取り違えて、その龍宮を本義のように説く。また漢籍にもしばしば水神の宮のことなどが出ていて、それがまたよく似ているものだから、いずれにせよ、この段は異国の書に基づいて造ったものかと疑う人がある。しかしそれは、異国の書ばかり信じて、皇国の古い伝えを信じない態度である。およそ皇国の伝えは、書物こそ後に成立したのだが、事実は神代から語り伝えたままであるから、非常に古いものであり、異国のは、書物になったのこそわが国より少し早いけれども、その説は自分のさかしらを多く加えて、いにしえのままでないことが多いから、かえって皇国の書物より遙かに後である。だからこの段の伝承は真であり、本来の物である。仏書の龍宮のことは、綿津見解の宮のことが、上代に天竺などにも断片的に伝わって、そこにあれこれと造り事を加えて語ったものである。漢籍に似た話があるのもそうだ。そもそも皇国は、万国を照らす天津日大御神の本国であるから、あらゆることは皇国こそ本来のもの、主たるものとして、異国へも自然と流れ伝わったので、よく似たことも多いのは、そちらがこちらに似たのである。こちらがそちらに似たのではない。それを世のもの知り人は、この本末を知りもしないで、ただ後に万事を異国に学び、異国から伝わり、また物語書などで異国の故事を取って作り変えたこともあるため、何もかも異国をもとにしていると思い込み、神代の故事さえそのたぐいかと疑うのは、よくよく異国の書に惑わされたものである。たとえ本末のことは別としても、天地の中で、人の形、山川草木、その他のものも、皇国・漢・天竺の間に大きな違いはなく、みなおのずと同じような様子であるからには、いにしえの伝えなども、わが国と異国と、どうして似ていないはずがあるだろう。似ているからといって、必ず向こうのをこちらが学んだとおもうのはバカげている。人の形も他のものも、向こうのものを学ばなくても、自然に同じ形をしているではないか。また近い世の生さかしらな人々の中には、水の底に宮殿などあるはずがない、と思い、例の龍宮の説も信じない。この段のことも、実は海底ではないとして、あるいは薩摩の近くの一つの島だと言い、あるいは琉球のことだ、また対馬のことだなどと言って、その証拠などもあれこれ挙げるが、そんなことはいにしえの伝えごとに対する、例の儒者の自分勝手な解釈にすぎない。あのさかしらに漢籍に似せて書いた書紀でさえ、「彦火々出見尊を籠に入れて海中に沈めた」、また「海底に可怜小汀（うましおばま）があった」と書いているのだから、海底に違いないことは、これらで分かることである。】○井上は「いのべ」と読む。和名抄に「河内国【志紀郡】井於」、「甲斐國【山梨郡】井上」という地名があり、いずれも「いのべ」とあるからである。【延喜式神名帳に「大和國平群郡の猪上（いのべ）神社」、万葉巻七に「井上（いのべ）」があり、これらも地名である。】井戸のほとりということである。○湯津香木（ゆつかつら）は、前に天若日子の段に「湯津楓（ゆつかつら）とあって、そこで述べた。【伝十三の二十七葉】○其木上（そのきのうえ）。この「上」は、「下（もと）」に対して言う「上」である。【井上の「上」とは違う。】後に「その香木に登って」とあるので分かる。○海神は「わたのかみ」と読む。【他の古い書には「わたつみの神」にも「海神」とあるが、この記では使い分けている。】○相議者也（あいはからんものぞ）。これは前の大国主神の段で、「御祖命告レ子云。可レ參＝向２須佐能男命所レ坐之根堅洲國１。必其大神議也（御祖の神は子に『須佐之男命のいる根の堅洲國に行きなさい。あの大神なら良いように取り計らってくれるだろうから』と言った）」とあったのと同じである。前後の事情もよく似ている。考え合わせよ。【伝十の三十三葉】ここまでが鹽土の神が教えた言葉である。○註に「訓２香木１云２加都良１（香木を『かつら』と読む）」。旧印本などに「訓レ香１云２加都良木１（香を『かつらき』と読む）」とあるのは、「香」の下にある「木」の字を【二行で並んでいるので、＜訳者註：原本は細字で二行に分けて書いてある一行目は「訓香木」、二行目は「云加都良」となっていた。＞】誤って「良」の下に書いたのである。また真福寺本、延佳本ともに、「香」の下にも「良」の下にも「木」を書いているが、それも誤りである。【「良」の下に「木」があるのは、全く間違いである。訓注なのに、「き」という訓を用いているのは、例もないし筋も通らない。それに「かつらき」とは読むはずもない。「かつらのき」であれば、「の」の字もあるはずだ。これは「香」の下にある「木」を「良」の下に書いた本を見て、「香」の下の字が脱落していることを知って補ったのだが、「良」の下の「木」は衍字であることに気付かなかったのである。】そこでここは一本に従って書いた。書紀の一書（第一）には「時有一長老、忽然而至、自稱２鹽土老翁１。（ときにあるオキナたちまちきて、みずからシオツチのオジとなのる。）・・・老翁即取２嚢中玄櫛１、投レ地、則化＝成２五百箇竹林１。因取２其竹１、作２大目麁籠１、内２火火出見尊於籠中１、投２之于海１。（オキナすなわちふくろのなかなるクシをとりいで、チになげしかば、すなわちイオツタカムラになりぬ。かれそのタケをとりて、オオメのアラコをつくり、ホホデミのミコトをコのなかにいれて、ウミになげいれつ。）一云、以２無目堅間１爲２浮木１、以２細繩１繋＝著２火火出見尊１而沈之。所謂堅間是今之竹籠也。（あるいはいわく、マナシカタマをもちてウケキにつくり、ホソナワをもてホホデミのミコトをゆいつけて、しずめまつりき。いわゆるカタマはいまのタケのコなり）＜口語訳：一人の長老が突然やって来て、『私は鹽土の老翁と言います』と名乗った。・・・老人は袋の中から櫛を取り出して地上に投げた。するとたちまちびっしりと竹が生えて、竹林になった。老人はその竹を取って、目の荒い籠を作り、火火出見尊を中に入れて、海に投げ込んだ。あるいはいわく、すきまなく編んでよく水に浮かぶように作り、細縄で火火出見尊を縛り付けて、海に静めた。堅間というのは今の竹籠のことである。＞」、また一書（第三）に「是時弟往２海濱１、低徊愁吟時、有川鴈嬰レ羂困厄、即起憐心解而放去。須臾有鹽土老翁來（このときイロト、ウミベタにいでまして、うらぶれサマヨイたまうときに、カワガリのわなにかかりてくるしむをみそなわして、アワレとおもおしてときはなちやりたまう。ほどなくシオツチのオジきて）云々＜口語訳：このとき弟は浜辺にいて、すっかり気落ちして彷徨っていた。ところが川雁が罠に架かって苦しんでいるのを見てあわれみを催し、解放してやった。するとすぐに鹽土の老翁がやって来た。＞」、また別の一書（第四）には「時遇２鹽筒老翁１。・・・計曰、海神所乘駿馬者八尋鰐也（ときにシオツツのオジにあえり。・・・はかりけらく、『ワタのカミののるよきうまはヤヒロのワニなり』）云々＜口語訳：その時鹽筒の老翁に出会った。彼は一計を案じて、『海神が日頃乗っている駿馬は、八尋の鰐だ』＞」【文が長いので、ここでは省く。書紀を参照せよ。】などとある。これらはそれぞれが一つの伝えである。 故隨レ教少行。備如２其言１。即登２其香木１以坐。爾海神之女豊玉毘賣之從婢。持２玉器１。將レ酌レ水之時。於レ井有レ光。仰見者。有２麗壯夫１＜訓２壯夫１云２袁登古１。下效レ此＞以＝爲２甚異奇１。爾火遠理命見２其婢１。乞レ欲レ得レ水。婢乃酌レ水。入２玉器１貢進。爾不レ飮レ水。解２御頸之タマ＜王＋與＞１。含レ口。唾＝入２其玉器１。於レ是其タマ＜王＋與＞著レ器。婢不レ得レ離レタマ＜王＋與＞。故タマ＜王＋與＞任レ著。以進２豊玉毘賣命１。爾見２其タマ＜王＋與＞１。問レ婢曰。若人有２門外１哉。答曰有レ人坐２我井上香木之上１。甚麗壯夫也。益２我王１而甚貴。故其人乞レ水故。奉レ水者。不レ飮レ水。唾＝入２此タマ＜王＋與＞１。是不レ得レ離故。任レ入將來而獻。爾豊玉毘賣命思レ奇。出見。乃見感。目合而。白２其父１。曰吾門有２麗人１。爾海神自出見云２。此人者天津日高之御子。虚空津日高矣１。即於レ内率入而。美智皮之疊敷２八重１。亦キヌ＜糸＋施のつくり＞疊八重敷２其上１。坐２其上１而。具２百取机代物１。爲２御饗１。即令レ婚２其女豊玉毘賣１。故至２三年１。住２其國１。訓読：かれおしえしまにまにすこしいでましけるに、つぶさにそのコトのごとくなりしかば、すなわちそのカツラにのぼりてましましき。ここにワタのカミのミむすめトヨタマビメのまかたち、たまもいをもちて、ミズくまんとするときに、イにかげあり。あうぎてみれば、うるわしきオトコあり。「いとあやし」とおもいき。かれホオリノミコトそのオミナをみたまいて、「ミズをエしめよ」とこいたまう。まかたちすなわちミズをくみて、たまもいにいれてたてまつりき。ここにミズをばのみたまわずして、みくびのタマをとかして、ミくちにふふみて、そのたまもいにツバキいれたまいき。ここにそのたまもいにつきて、まかたちタマをエはなたず。かれタマつけながら、トヨタマビメのミコトにたてまつりき。かれそのタマをみて、まかたちに、「もしカドのトにヒトありや」とといたまえば、「アがイのべのカツラのうえにヒトいます。いとうるわしきオトコにます。アがキミにもまさりてイトとうとし。かれそのヒト、ミズをこわせるゆえに、たてまつりしかば、ミズをばのまさずて、このタマをなもツバキいれたまえる。これエはなたぬゆえに、いれながらもちまいきてたてまつりぬ」ともうしき。かれトヨタマビメのミコトあやしとおもおして、いでみて、すなわちミめでて、まぐわいして、そのチチに、「アがカドにうるわしきヒトいます」ともうしたまいき。ここにワタのカミみずからいでみて、「このヒトは、アマツヒダカのミコ、ソラツヒダカにませり」といいて、すなわちウチにイテいれまつりて、ミチのかわのたたみヤエをしき、またきぬだたみヤエをそのうえにしきて、そのうえにマセまつりて、モモトリのツクエシロのものをそなえて、ミアエして、すなわちそのミむすめトヨタマビメをあわせまつりき。かれミトセというまで、そのクニにすみたまいき。 口語訳：そこで教えられた通り少しゆくと、何もかも（塩土の神の）言葉の通りだったので、その香木に登って座っていた。すると海神の娘、豊玉毘賣の侍女が、玉器を以て出て来て、水を汲もうと井戸をのぞくと、人の姿が映っていた。上を見ると、木の上に美しい若い男がいた。彼女は「不思議なことだわ」と思った。火遠理命は彼女をみて、「水をください」と言った。女は水を汲み、玉器に入れて奉った。ところが火遠理命は水を飲まず、首に掛けていた玉を解き、口に含んで、玉器の中に吐き入れた。すると玉は器にくっついて、女が取ろうとしても離れない。仕方がないので、玉が付いたまま持ち帰って、豊玉毘賣命に奉った。豊玉毘賣命はその玉を見て、「もしや門の外に人が来ているの？」と尋ねた。すると侍女は、「いつも水を汲む井戸のほとりの香木の上に人がいます。とても美しい殿方です。私のお仕えする君（海神）にもまして貴いお姿です。その人が水をくれと言うので、差し上げましたら、水を飲まず、玉をこの中に吐き入れましたの。するとぴったりくっついて離れません。仕方がないので、そのままお持ちしました」と答えた。豊玉毘賣は「不思議な話もあるものね」と思い、自分で外へ出て火遠理命を見ると、すっかり一目惚れしてしまった。豊玉毘賣と火遠理命は互いに視線を交わし、思いは双方同じだった。豊玉毘賣は父に「私の門のところに、とても美しく立派な殿方がいます」と言った。すると海神は自ら出て火遠理命を見ると、「この人は、天津日高の御子で、虚空津日高でいらっしゃるぞ」と言い、宮の中に連れて入り、海獣の皮の敷物を八重に敷き、その上に絹の畳を八重に敷いて、火遠理命をそこに坐らせた。すぐにたくさんのごちそうを取りそろえて饗応し、娘の豊玉毘賣を火遠理命に娶（めあわ）せた。その後三年になるまで、その国に留まった。 備は「つぶさに」と読む。前の八千矛神の歌の段で、「麻都夫佐爾（まつぶさに）」とあった。漏れなくすべて、ということであって、ここは鹽土の神の教えの通り、ことごとく【俗に言う「いちいち」ということである。】違ったところがないということだ。このところでは、前に鹽土の神の言葉にあるので、「教えの言葉の通り」と書くだけにして、詳しい描写は省いてある。○豊玉毘賣（とよたまびめ）。名の意味は、書紀の一書（第一）に父の神の名を豊玉彦とあるので、それによる名であろう。【父神の名は、ある人の説に「鹽盈珠・鹽乾珠を持っていることによる」という。それもありそうなことだ。しかし単なる尊称とも考えられる。】ただしこの記では父神の名がないので、豊玉は比賣だけの名であり、容貌が美しいことを称えた名でもあるだろう。山城国風土記に「久世郡水渡社、【祇社】天照高彌牟須比（あまてるたかみむすび）の命、和多都彌（わたつみ）豊玉比賣の命という」と見え、【延喜式神名帳に水度神社三座とあるのがそうである。】また延喜式神名帳に「阿波国名方郡、和多都美（わたつみ）豊玉比賣神社」が掲載されている。【また同郡に「天石門別（あまのいわとわけ）豊玉比賣神社」もある。これはどういう由縁のある名だろうか。】○從婢は「まかたち」と読む。書紀では「従者」と書き、欽明の巻に「従女」、遊仙窟に「婢」、あるいは「侍婢」などとあるが、どれも同じように読む。「前子等等（まえこらたち）」の意味である。【「マヘコラタチ」の「ヘ」を省き、「コラ」を縮めて「カ」と言うのである。】天皇の御前に侍う臣たちを「前つ君」【書紀の景行の巻に「まえつぎみ」とある。後に音便で「もうちぎみ」と言う。】と言うのと、意味が似ている。「子等」と言うのは、女を言う古言である。万葉などの歌に多い。【「子等（こら）」とは複数と限らず、一人の場合も言うので、「ら」と「たち」と重なっているようでも差し支えない。】○玉器は「たまもい」と読む。書紀の武烈の巻の歌に「タ（木＋陀のつくり）摩暮比爾、瀰逗佐倍母理（たまもいに、みずさえもり）【「玉モイ（怨の心を皿に置き換えた字）に、水さえ盛り」である。】とある。和名抄瓦器類に、「説文にいわく、モイ（怨の心を皿に置き換えた字）は小さい盂（さら）である。字はまた『椀』に作る。辨色立成にいわく、和名『まり』。俗に言う『もい』」とある。【「もい」はたいへん古い語であり、「俗に言う」とあるのは誤りである。】万葉巻四（７０７）に「片モイ（土＋完）」とある。【モイ（土＋完）の字はワン（土＋宛）の誤りか。】大膳式に、「片モイ（土＋宛）十二口」、「片モイ（土＋宛）四十八口」、「片モイ（土＋宛）八十七口」、豊受大神宮儀式帳に「御水（みもい）四毛比（もい）」、「御水六毛比」などとある。【「主水（もいとり）」、また催馬楽の飛鳥井の歌に「御母比（みもい）も寒し」などとある「もい」は、水を言う。ただし池や川の水もみな「もい」とは言わない。「もい」は汲んで飲む水のことである。前掲武烈紀の歌から考えると、それは水を汲む器の名から出たのではなかろうか。】また内膳式に、サラケ（瓦＋里）十一口【水を汲んで運ぶ道具】、由加十六口【水を汲んで運ぶ道具とある。和名抄に「俗に大桶のことを『ゆかおけ』と呼ぶ」とある。】主水式には水を汲むための器として、「缶一口、土ワン（土＋宛）一合、【盤を加える】片盤五口」など見え、この他も水を盛るうつわは種々式に見える。後世には、井戸から水を汲み上げるには、縄の付いた釣瓶のような道具を用いたが、【和名抄に「罐は水を汲む器である。楊氏漢語抄にいわく、『つるべ』」とある。】上代の井戸には浅い泉のようなものも多かったので、水を盛る器で直接くみ取ることもあったと思われ、ここの玉器も、盛って飲む器で汲んだとも考えられるし、または汲んだ水を入れるための器だったとも考えられる。【後の文に「汲んだ水を玉器に入れて奉った」とあるのだから、汲み上げるだけの道具ではない。】書紀ではここを「玉鋺」、「玉壺」、「玉瓶」などと書いてある。ミナ「たまもい」と読む。【「玉鋺」は「たままり」と読まれている。「まり」も古い語のようではある。この「鋺」については、下巻若櫻の宮（履中天皇）の段に「隱面大鋺」とあるところ、伝卅八で述べる。】竹取物語に、「天人のよそほひしたる女、山中より出來（いでき）て、銀（しろがね）のかなまりを持て、水を汲みありく云々」とある。○有光は「かげあり」と読む。書紀には「人影が井の中にあるのを見て」とある。【ここでは「影」と書かないで「光」とあるので、「ひかり」とも読むのだろうか。だが白檮原の宮（神武天皇）の段に「其井有光（そのいひかれり）」とあるのとは違って、ここは光明があったのではない。単に人影を言う。「かげ」は「かがやく」、「かぎろい」などと言う「かが」、「かぎ」と同じ言葉であるから、「ひかり」と読んでも、煎じ詰めれば同じ意味である。】火遠理命の木の上に座っている姿が、井戸の水に映って見えたのである。○註に「訓２壯夫１云々」、この註は既に大穴牟遲命の段にあるので、ここでまた書く必要はなかった。○見其婢。ここの婢は「おみな」と読む。○「乞欲得水」は「みずをえしめよとこいたまう」と読む。【「えしめよ」は「えさせよ」といった意味である。】万葉巻廿【十丁】（４２９３）に「山人乃和禮依志米之夜麻都刀曾許禮（やまびとのわれにえしめしやまづとぞこれ）」とある。○婢乃は、ここではまた「まかたち」と読む。○御頸之タマ＜王＋與＞（みくびのたま）は、前に出た。【伝七の三葉】○含口は「ミくちにふふみて」と読む。書紀應神の巻の歌に、「府保語茂利（ふほごもり）」、万葉巻十四【三十五丁】（３５７２）に「布敷麻留（ふふまる）」、巻十八【十六丁】（４０７７）に「敷布賣利（ふふめり）」、巻十九【四十六丁】（４２８３）に「布敷賣流波（ふふめるは）」、巻廿【三十一丁】（４３８７）に「保々麻例等（ほほまれど）」、同【四十三丁】（４４３５）に「布敷賣里之（ふふめりし）」などがある。また巻七【十七丁】（１１８８）に「含而（ふふみて）」、巻八【十七丁】（１４３６）に「含有（ふふめり）」などもある。だがこうして玉を口に含んで唾と一緒に吐き入れたのは、どんな意味があったのだろうか。【以前は、珠を口に含んだのは、かみ砕いたのだと思っていたが、続く文を見ると、そういうことでもない。あるいは珠を器にくっついて離れなくする術なのかも知れない。神代にはそういうたぐいの術が、しばしば見える。そうした理由は、その珠を海神の娘に見せるためである。それはこの珠が、普通の飾りの珠に比べてすぐれて美麗であり、凡人の持ち物でないことを、海神の娘に知らせる意味があったのだろう。これにはさらに考察が必要だ。】○タマ＜王＋與＞任著は、「たまつけながら」と読む。万葉巻十六【二十九丁】（３８８４）に「角附奈我良（つぬつきながら）」とある。○我井上（アがいのべ）。この「我（あが）」という言葉の使い方は、どこか漢文めいた感じがするが、上代にもこう言ったことがあるのだろう。「吾君（あがきみ）」というのはもちろん古言だが、それと同じだからである。次にある「吾門（あがかど）」も同様である。【伊勢物語に「わがみかど六十餘國」とあるのは、漢文の「吾朝」を取ったように見えるが、これも古言と違ってはいない。こうした「吾」は、普通に言う「吾門（あがかど）」、「吾家（あがいえ）」とは少し異なるので、ここで論じておいた。】今の俗言で「こちの（うちの）」といった意味である。○「益２我王１」。我王（あがきみ）は、綿津見神を指す。【「きみ」という言葉に「王」の字を当てるのは、仏教書にある海龍王を考えたのだろうか。これは皇国を離れた外国のことであるから、「王」と言っておかしくないようでもあるが、やはり古文には、こうしたところでこういう文字を使うのはどうかと思う。書紀にも「我王」、「其王」などと書いてある。】ここは「アがキミにもまさりて」と読む。「にも」とは、この婢が、いつもは綿津見の神こそこの世で最も貴く美しいと思っていたことから言う。【単に「に」と言ったのでは、彼女の心が伝わらない。】書紀の一書（第四）に「告２其王１曰、吾謂２我王獨能絶麗１、今有２一客１、彌復遠勝（そのおうにつげていわく、アレおもえるにアがキミのみすぐれてうるわしと。いまマラヒトのあるをみれば、いよよマタはるかにうるわし）と」＜口語訳：その王に知らせて『私はこれまで、私のお仕えする王だけが貴く美しいお方だと思っていましたが、今度いらしたお客様を見ると、王様にも増して貴く美しいご様子ではありませんか』と言った＞」とあるのと同じである。○貴（とうとし）は、この巻末の豊玉毘賣の歌に「斯良多麻能、岐美何余曾比斯、多布斗久阿理祁理（しらたまの、きみがよそいし、とうとくありけり）」、巻二【二十七丁】（１６７）に「春花之、貴在等（はるはなの、とうとくあらんと）」、催馬楽に「安名多不止、介不乃太不止左也（あなとうと、きょうのとうとさや）」などとあるのと同じで、めでたく良いことである。これは「貴い」の本義である。【太占（ふとまに）、太祝詞（ふとのりと）、太幣（ふとみてぐら）などの「太」と同言で、「とうとき（旧仮名タフトキ）」は「ふとき」に「た」を添えた言葉である。後世は音便で「タフト」を「とうと」と言うため、違う言葉のように思われているが、上代はもとの仮名の通りに読んだから、同じ語である。】○奉水者は「たてまつりしかば」と読む。「水」の字は読んではいけない。【その前に水のことは出ているからである。】○任入將來は「いれながらもちきたりて」と読む。書紀では「門前有一井。井上有一湯津杜樹枝葉扶疏。時彦火々出見尊就其樹下、徒倚彷徨、良久有一美人排闥而出、遂以玉鋺來當汲水、因擧目視之、乃驚而還入、白其父母曰、有一希客者在門前樹下（カドモトにイあり。そのイのべにユツカツラあり。ときにヒコホホデミのミコトそのコのもとに、たたずみますに、しばしありてかおよきオトメかどをひらきてイデきて、タマモイをもちてミズをくまんとして、ふとミまつりて、おどろきてカエリいりて、そのオヤたちにもうしけらく、『カドなるコのもとにめずらしきヒトいます』）＜口語訳：門の側に井戸があった。そのほとりには枝葉の茂った湯津杜樹があった。彦火々出見尊はその木に近付き、そこにたたずんでいたが、しばらくすると美しい女性が戸を開いて出て来て、玉鋺でミズを汲もうとしたとき、ふと目が会った。彼女は驚いて家に逃げて帰り、父母に『門のところの樹の下に見たこともない客人がいます』と告げた。＞」。また一書（第一）には「有一美人容貌絶世、侍者群從、自内而出、將以玉壼汲玉水、仰見火々出見尊、便以驚還、而白其父神曰、門前井邊樹下、有一貴客、骨法非常（いとかおよきオトメ、マカタチあまたイて、うちよりイデきて、タマモイもちてミズくまんとして、ふとホホデミのミコトをみて、おどろきてかえりて、そのオヤのカミにもうしけらく、『カドのイのべなるコのもとに、とうときマラヒトませり。ただびとのサマならず』）云々。＜口語訳：見たこともないような美しい女性が、大勢の従者を従えて中から出て来た。玉壺で水を汲もうとしたとき、ふと火々出見尊の姿を仰ぎ見て、驚いて家の中に逃げ帰り、父神に『門のところの井戸のそばの樹の下に、とても貴いご様子のお客様がいます。その姿は凡人のようではありません。』＞」、「一云、豊玉姫之侍者、以玉瓶汲水、終不能滿、俯視井中、則倒映人笑之顏。因以仰觀、有一麗神倚於杜樹。故還入白其王（あるいはいわく、トヨタマヒメのマカタチ、タマモイもちてミズをくむに、みちがたくて、イのうちをみれば、ヒトのえめるカゲさかさまにうつれり。かれあおぎみれば、うるわしきカミかつらのきのうえにませり。かれカエリいりてそのキミにもうせり。）＜口語訳：あるいは次のようにも言う。豊玉姫の侍女が、玉瓶で水を汲もうとしたが、いくら汲んでも器が一杯にならない。不思議に思って井戸をのぞき込んでみると、知らない人の笑顔が水に映っていた。驚いて仰ぎ見ると、杜樹の上にとても美しい神が坐っていた。そこで宮に帰り、その王に告げた。＞云々」、また一書（第二）に「門前有一好井。井上有百枝杜樹。故彦火々出見尊跳昇其樹、而立之。于時海神之女豊玉姫、手持玉鋺來、將汲水、正見人影在於井中乃仰視之、驚而墜鋺、鋺既破碎、不顧而還入。謂父母曰（カドのもとにシミズあり。そのシミズのへにモモエカツラありき。かれヒコホホデミのミコトそのキのうえにオドリのぼりて、たちてましき。ときにワタノのカミのミむすめトヨタマヒメ、タマモイもちきて、ミズくまんとして、ヒトのカゲのイのうちにあるをみて、おどろきてモイをおとして、モイすでにクダケつるを、かえりみずてカエリいりて、オヤにもうしけらく）＜口語訳：門の側に清らかな泉（井戸）があった。そのほとりに枝の茂った杜樹があった。そこで彦火々出見尊はその枝の上に飛び乗り、立っていた。そこへ海神の娘豊玉姫が、手に玉鋺を持って出て来て、水を汲もうとしたとき、人の姿が井戸の水に映っていたので、仰ぎ見て、驚いて鋺を取り落とし、鋺が砕け散ったのも放ったまま、家に逃げ帰って、父母に言った＞云々」などとある。しかしどの伝えでも、玉を唾と共に吐き入れたということは出ていない。○見感は「みめでて」と読む。「めで」という語は、書紀の允恭の巻の歌をはじめ、多く見える。【「めずらし＜旧仮名メヅラシ＞」、「めでたし」などの言葉も、この言から出た。】「見感」は中巻白檮原（神武天皇）の段、倭建命の段にもあり、記中「見驚（みおどろき）」、「見喜（みよろこび）」、「見畏（みかしこみ）」などとある類の古言である。○目合（まぐわい）のことは、既に述べた。【伝十の卅葉】○而白の「而」の字は、延佳本や一本にはない。【旧印本では「而」の字があって「白」の字がない。】ここでは真福寺本他一本にあるのを採った。○天津日高（あまつひだか）は、前に出た。【伝十五の三葉】○虚空津日高（そらつひだか）。谷川氏は、「天津日高は天子のことで、虚空津日高は太子のことである」と言った。【この説はいにしえの意とは違っているように思われるが、よく考えると】確かにそうであろう。というのは、邇々藝命、穂々手見命、鵜葺草葺不合命は、みな天津日高と言っている。これは天津日嗣の位にあることを意味する。ここでは、穂々手見命はまだ皇太子の身分だから、天津日高の御子と言ったのである。【ここでは天津日高は、この尊の名ではない。】それを「虚空津日高」というのは、虚空は天と地の間の部分を言うので、天の次に尊ぶべき名だからである。【普通はこれを通わせて、天のことも「空」と呼び、空のことも「天」と言うのは、地上から見ると天も空の方にあるからである。だから今の俗言で、「上（かみ）」を「そら」と言うこともある。また「地の上はすなわち天である」というのは漢籍の意であるから、言うべきでない。】書紀の神功の巻に「於天事代、於虚事代（あめにことしろ、そらにことしろ）云々」。これは「天」と「虚空」を区別して言った例である。書紀の一書（第一）に「白其父神曰、門前井邊樹下、有一貴客、骨法非常。若從天降者、當有天垢、地來者、當有地垢。實是妙美之虚空彦者歟（そのオヤのカミにもうしけらく、『かどのイのべなるコのもとに、とうときマラヒトませり。ただびとのサマならず。もしアメよりくだれらば、アメのケあるべく、ツチよりきたれらば、ツチのケあるべきを、マコトこはマグワシソラツヒコというものにやあらん』）＜口語訳：（豊玉姫は父の神に『門のところの井戸辺の樹の下に、とても貴いご様子のお客様がいます。そのお姿は、普通の人のようではありません。もし天から降られたのなら、天の穢れもあるでしょうし、地から来られたのなら地の汚れもあるでしょう。それが全くないので、本当にこれは妙美之虚空彦という方ではないでしょうか。』と言った。＞」とあるのは、大きく異なった伝えだが、虚空彦という名の意味、また虚空を天と地の間と解していることは、ここによく似ている。【この書紀の記述は、天の垢も地の垢もないと言って、虚空を極めて優れた意味に解している。とすると、この記の虚空津日高の名も、そういう意味に解せられないこともないけれども、既に天津日高という極めて尊い名があるので、その御子と言うからには、それに次ぐ名として書かれていることは疑いない。だから虚空を天と地の中間に取っていることは同じで、ただ天に次ぐと解するのと、より優れた方に解するのとの違いがある。ところでこの記では「虚空津日高」とあるのを、書紀では「虚空彦」とあり、邇々藝命の名の「天津日高」も「天津日子」とあって、「日高」の名は出てこない。これは当時の天皇の諱が氷高（ひだか）と言ったため、書紀撰者が気を使って、みな「彦」に置き換えたのだろう。しかしそれはたいへんな間違いであった。子孫の天皇の御名に抵触するからといって、祖神の名を変更するものではない。それに、機械的に「彦」に改めた結果、「天津彦彦」などと同言が重なってしまっている。】○美智皮（ミチのかわ）。書紀には「海驢」と書いて、「これを『みち』と読む」とある。釈日本紀には「海馬である」と注し、【「海馬」は漢語である。本草には「陳藏器にいわく、海驢・海馬などの毛皮は、陸上では風や潮によって、その毛が立つ。」とある。】書紀口决には、「海驢の皮は、陸にあっても、潮が満ちるときは自然に毛が立つ」とだけあって、それがどんな物か書いてない。建長八年の百首歌合に衣笠内大臣の「我戀は海驢（みち）の寐（ね）流れ寤（さ）めやらぬ夢なりながら絶（たえ）やはてなむ」【夫木集にある（夫木抄１７０６３）】紀伊の国の人が言うには、「今紀伊の海に『あしか』という動物がいる。そこでは昔から『海馬』という字を書く。日高郡に『あしか嶋』というのがあり、毎年秋から冬にたくさん寄りついて、岩の上で眠り、また波の上に浮かびながらも眠って、なかなか目を覚まさない。大きいのは一丈ほどもある。足がなく、水かきのようなものがある。この動物は西の海にもいる。和名抄に『葦鹿』という名を載せて『本来の文字は未詳』とある。たぶんこれが海驢だろう」ということである。【ある人は、「あしかは本草綱目に『海獺』とある動物だ」とも言う。】ある本によると、「山東志にいわく、海驢は文登の海にいる。形は驢（ロバ）に似ている。秋の頃、嶋に登って子を生み、乳で育てる。皮は製して雨具にする。それは水に濡れない」とある。今考えるに、海に住む生物で「トド」という動物がいる。岩の上に上がって、よく眠る。皮は馬具に用いる。その首は馬に似て、大きさは小馬ぐらいである。これが海驢だろう。陸奥、松前、蝦夷、その他の国々の海辺にもたまにいるという。【本草綱目に「東海の嶋に海驢がいる。常に海を泳ぐが、毛皮は濡れない」とある。】またある人が言うには「今も北の海に海驢がいる。その皮は満ち潮では柔らかになり、干潮では枯れる。今も敷皮として使う」という。これらの説のうち、どれが「美智」に相当するだろうか。【上述紀伊国の人のいう「あしか」と、ある書にある「とど」とは、同じものが違った呼び方をされているのか、あるいは別物なのか、さらに調べなければならない。互いにそれほど違った動物ではないようだ。また近年、西国の海で捕まえたと言って、「水豹（あざらし）」というものを見せ物にしているが、体長は三尺ほどで、やはり「あしか」に似た動物のようである。これは私が実際に見たから言うのである。「水豹」という名は、最近になって勝手に考えて付けたものだから、何ら論ずるに足りない。】今の世に「美智」という言葉が残っているところはないかどうか、よく調べて決定すべきである。○疊（たたみ）は白檮原の宮の段の歌に「須賀多々美、伊夜佐夜斯岐弖（すがたたみ、いやさやしきて）」、倭建命の歌に「多々美許母、幣具理能夜麻能（たたみこも、へぐりのやまの）」、遠つ飛鳥の宮（允恭天皇）の段の歌に「和賀多々彌（わがたたみ）」などとあり、非常に古い言葉である。動物の皮を畳にした例は、この後で引く「弟橘比賣命云々」、万葉巻十六（３８８５）の「韓國乃云々」、などがある。「皮疊」や「キヌ＜糸＋施のつくり＞疊」の語があることから考えると、上代には氈・茵（かも・しとね：毛皮や草などをそのまま敷物にすることか）のたぐいも「たたみ」と呼んだようだ。【上述の白檮原の宮の歌に、菅畳を敷いて二人で寝たとあるから、ただ敷いて寝るためのものも「たたみ」と言ったことが分かる。】和名抄に「疊。和名『たたみ』」とある。【この頃には、畳は今の畳と同じような形になっており、皮やキヌ＜糸＋施のつくり＞のものは畳と呼ばず、氈（かも）・茵（しとね）・席（むしろ）など、それぞれ別になっていた。またその畳にも様々なものがある。長帖、短帖、狭帖、半帖、また厚帖、薄帖などがあった。「帖」の字は、「畳」の音と通わせたのであろう。またその端の部分に暈ラン（糸＋闌）端、錦端、両面端、布端、緑端、黄端など、種々あった。掃部寮式などに詳しく書いてある。海人藻芥（あまのもくず：室町時代の有職故実書）に「畳のことは、帝王・院は繧繝縁、神仏の前の半畳は繧繝縁を用いる。この他に用いてはならない。大紋の高麗縁は、親王や大臣が用いる。それ以下の者が用いてはならない。六位、侍は黄縁。諸寺諸社の三綱等は、みな黄縁を用いる。・・・四位五位、雲客は、紫縁を用いる。」とある。】○キヌ＜糸＋施のつくり＞は「きぬ」である。和名抄には、「絹、和名『きぬ』、帛は俗に『はくのきぬ』と言う。アシギヌ＜糸＋施のつくり＞は和名『あしぎぬ』」【「あしぎぬ」とは、唐韻にいわく、キヌ＜糸＋施のつくり＞は繪の布に似たものである。とあるように、粗く悪い絹という意味の名である。】などとあって、それぞれ違いがあるが、古い書物では単なる「きぬ」に絹の字もキヌ＜糸＋施のつくり＞の字も通わせて用いた。○八重は例の「禰重（いやえ））」であって、単に幾重にもということである。書紀には「海神は八重の席薦（たたみ）を敷き設けて、内へと招き入れ」とある。この記の中巻、倭建命の段の、弟橘比賣命が海に投身するところで「菅疊（すがだたみ）八重、皮疊（かわだたみ）八重、絹疊（きぬだたみ）八重を波の上に敷き、その上に下りた」とある。万葉巻九【十一丁】（１７９５）に「吾疊三重乃河原之（わがたたみミエのかわらの）」【「畳」に「三重（ミヘ）」と続けるのは、三（ミ）には関係なく、重（ヘ）にかかるのである。これを「三重は表、中、裏を言う」などと解釈するのは後世の意である。】巻十六【二十一丁】（３８４３）に「薦疊平群（こもだたみへぐり）」、同【二十九丁】（３８８５）に「韓國乃、虎云神乎、生取爾、八頭取持來、其皮乎、多々彌爾刺、八重疊、平群乃山爾（からくにの、とらというかみを、いけどりに、やつとりもちき、そのかわを、たたみにさし、やえたたみ、へぐりのやまに）」【「八重疊」までの七句は、平群（へぐり）の「へ」の序である。】上記すべて、「畳」は「へ」という語への序（枕詞）であって、【「へ」は一重（ヒトヘ）、二重（フタヘ）の「重（ヘ）」である。】幾重にも重ねるため、こう続けるのである。ものを重ねることを「畳む」とも言うから、畳という名も、重ねる意味である。【広いものを折って小さくすることを「たたむ」と言うのも、折れば重なるからである。】とすると、畳というものは、上代には、必ず幾重にも重ねて敷いたのである。【万葉巻十一（２７７７）に「疊薦隔編數（たたみごもかさねあむかず）」とあるが、これは薦（こも）を重ね編んで、一つの畳に作るのを言う。これは少し後代のことで、上代には幾重にも敷いていたのを、便利なように一つに重ね編み、厚く作ったのだろう。上代の畳は、後世のような厚いものではなかったと思われる。】後世に神今食、新嘗祭などで神座として八重畳というものを設けるのは、上代の儀である。○「敷２其上１」の「其」の字は、旧印本、また一本に「具」とある。ここでは真福寺本、延佳本によった。○「坐２其上１」の「坐」は「ませまつりて」と読む。書紀清寧の巻に「柴の宮を権（かり）に建てて、安置（ませ）奉（まつ）り」、敏達の巻に「その仏像二体を請（ませ）て」、孝徳の巻に「仏像四体を迎え、塔の内に坐（ま）せて」、万葉巻十二【十八丁】（３００５）に「君乎座而（きみをいませて）」、この他にも「ませ」と読むことは多い。「まさせ」を縮めた古言である。○百取机代物（ももとりのつくえしろのもの）。前に出た。○具は「そなえて」と読む。祝詞に「置足弖（おきたらわして）」と言うのと同じで、俗に「とりそろえて」と言う意味である。【俗に神にものを奉るのを「そなえる」と言うのは、「具（そな）えて奉る」ことから転じた。】○「令レ婚」は「めあわせまつりき」と読む。書紀の一書（第一）によると、「於是豊玉彦遣人問曰、客是誰者。何以至此。火々出見尊對曰吾是天神之孫也、乃遂言來意。時海神迎拜、延入、慇懃奉慰、因以女豊玉姫妻之。故留住海宮、已經三載。（ここにトヨタマヒコひとをやりてトイたまわく、「マラヒトはタぞ。いかにしてかここにきませる。」ホホデミのミコト「われはアマツカミのミコなり」とノリたまいて、きませるユエをつげたまう。ときにワタのカミむかえおろがみて、イていれまつり、ネモコロにつかえまつりて、よりてむすめトヨタマヒメをあわせまつりき。かれワタツミのミヤにすみたまいて、ミトセになりぬ。）＜口語訳：豊玉彦（海神）は人をやって質問させた。「あなたはどなたですか。どうしてここに来られたのですか。」火々出見尊は「私は天神の孫です。」と答え、やって来た用向きを告げた。そこで海神は迎えに出て火々出見尊を拝し、宮の内に連れて入って、懇ろに尊をもてなし、豊玉姫を妻に差し出した。火々出見尊は海神の宮に住み、三年に及んだ。＞」、一書（第三）に「是時海神自迎延入、乃鋪設海驢皮八重、使坐其上。兼設饌百机、以盡主人之禮。（このときワタのカミみずからむかえイていれまつり、すなわちミチのかわヤエをしきまけて、そのうえにまさしめ、またモモトリのツクエシロのモノをそなえて、いやいやしくアロジしたまいき。）＜口語訳：このとき、海神はみずから火々出見尊を迎えに出て宮の内に連れて入り、海獣の皮を幾重にも重ねた席を設けてその上に尊を坐らせた。またたくさんのごちそうを用意して饗応し、うやうやしくもてなして（主人としての）礼を尽くした。＞」、また他の一書（第四）には「海神聞之曰試以察之、乃設三床請入。於是天孫於邊床則拭其兩足、於中床則據其兩手、於内床則寛坐於眞床覆衾之上。海神見之乃知是天神之孫、益加崇敬。（ワタのカミこれをききて「こころみてん」といいて、すなわちミツのトコをまけてイレまつりき。ここにアマツカミのミコへつのトコにしてはそのミあしをのごい、なかつトコにしてはそのミてをおし、うちつトコにしてはマトコオウフスマのうえにあぐみイたまいき。ワタのカミそをみてゾすなわちアマツカミのミコにますをしりて、ますますイヤビまつりける。）＜口語訳：海神はこれを聞くと、「試してみよう」といい、三つの床を設けて火々出見尊を迎え入れた。すると天孫は周辺の床ではその足をぬぐい、中の床では両手を押し付け、奥の床では、眞床覆衾（まとこおうふすま）の上で、くつろいで座っていた。海神はこの所作を見て、天神の孫であると知り、ますます崇敬の度を加えた。＞」ともある。 於レ是火遠理命。思２其初事１而。大一歎。故豊玉毘賣命聞２其歎１。以白２其父１言。三年雖レ住。恆無レ歎。今夜爲２大一歎１。若有２何由１故。其父大神。問２其聟夫１曰。今且聞２我女之語１云３。三年雖レ坐。恆無レ歎。今夜爲２大歎１。若有レ由哉。亦到２此間１之由奈何。爾語Ｃ其大神。備如Ｂ其兄罰２失鉤１之状Ａ。是以海神悉召＝集２海之大小魚１問曰。若有Ｂ取２此鉤１魚Ａ乎。故諸魚白之。頃者赤海ソク＜魚＋即＞魚。於喉ノギ＜魚＋更＞。物不レ得レ食愁言。故必是取。於レ是探２赤海ソク＜魚＋即＞魚之喉１者。有レ鉤。即取出而清レ洗。奉２火遠理命１之時。其綿津見大神誨曰之。以２此鉤１。給２其兄１時。言状者。此鉤者。淤煩鉤。須須鉤。貧鉤。宇流鉤云而。於２後手１賜。＜於煩及須須亦宇流六字以レ音。＞然而。其兄作２高田１者。汝命營２下田１。其兄作２下田１者。汝命營２高田１。爲レ然者。吾掌レ水故。三年之間。必其兄貧窮。若恨＝怨２其爲レ然之事１而。攻戰者。出２鹽盈珠１而溺。若其愁請者。出２鹽乾珠１而活。如レ此令２惚苦１云。授２鹽盈珠鹽乾珠并兩箇１。即悉召＝集２和邇魚１。問曰。今天津日高之御子虚空津日高。爲レ將レ出＝幸２上國１。誰者幾日送奉而覆奏。故各隨２己身之尋長１。限レ日而白之中。一尋和邇白。僕者一日送。即還來。故爾告Ｂ其一尋和邇。然者汝送奉。若渡２海中１時。無Ａレ令２惶畏１。即載２其和邇之頸１。送出。故如レ期。一日之内送奉也。其和邇將レ返之時。解２所レ佩之紐小刀１。著２其頸１而返。故其一尋和邇者。於レ今謂２佐比持神１也。訓読：ここにホオリのミコト、そのはじめのことをおもおして、おおきなるナゲキひとつしたまいき。かれトヨタマビメのミコトそのナゲキをきかして、そのチチにもうしたまわく、「ミトセすみたまえども、つねはナゲカスこともなかりしに、コヨイおおきなるナゲキひとつしたまいつるは、もしなにのユエあるにか」ともうしたまえば、そのチチのオオカミ、そのミむこのキミにといまつらく、「けさアがむすめのかたるをきけば、『ミトセましませども、つねはナゲカスこともなかりしに、コヨイおおきなるナゲキひとつしたまいつ』ともうせり。もしユエありや。またここにきませるユエはいかにぞ」とといまつりき。かれそのオオカミに、つぶさにそのイロセのうせにしツリバリをはたれるサマをかたりたまいき。ここをもてワタのカミ、ことごとにハタのヒロモノ・ハタのサモノをよびあつめて、「もしこのツリバリをとれるウオありや」とといたまう。かれもろもろのウオどももうさく、「このごろタイなも、『ノミトにノギありて、ものエくわず』とウレウなれば、かならずコレとりつらん」ともうしき。ここにタイのノミトをさぐりしかば、ツリバリあり。すなわちとりいでてすまして、ホオリのミコトにたてまつるときに、そのワタツミのオオカミおしえまつりけらく、「このハリを、そのイロセにたまわんときに、ノリたまわんさまは、『このハリは、おぼち、すすじ、まぢち、うるぢ』といいて、シリエデにたまえ。しかして、そのいろせアゲタをつくらば、ナがミコトはクボタをつくりたまえ。そのいろせクボタをつくらば、ナがミコトはアゲタをつくりたまえ。シカしたまわば、あれミズをしれば、ミトセのあいだ、かならずそのイロセまずしくなりなん。もしそれシカしたまうことをうらみて、せめなば、シオミツタマをいだしておぼらし、もしそれウレイもうさば、シオヒルタマをいだしていかし、かくしてたしなめたまえ」ともうして、シオミツタマ・シオヒルタマあわせてふたつをさずけまつりて、すなわちことごとにワニどもよびあつめて、といたまわく、「いまアマツヒダカのミコ、ソラツヒダカ、ウワツクニにいでまさんとす。タレはイクカにおくりまつりてカエリコトもうさん」とといたまいき。かれおのもおのもミのナガサのまにまに、ヒをかぎりてもうすなかに、ヒトヒロワニ、「われはヒトヒにおくりまつりて、カエリきなん」ともうす。かれそのヒトヒロワニに、「しからばナレおくりまつりてよ。もしワタナカなるとき、ナかしこませまつりソ」とのりて、すなわちそのワニのくびにノセまつりて、おくりだしまつりき。かれいいしがごと、ヒトヒのうちにおくりまつりき。そのワニかえりなんとせしときに、ミはかせるヒモガタナをとかして、そのくびにつけてナモかえしたまいける。かれそのヒトヒロワニをば、いまにサイモチのカミとぞいうなる。 口語訳：ある夜、火遠理命は、ここに来た初めのことを思い出し、大きなため息をついた。これを聞いた豊玉毘賣命は、父神に「三年間ここに住んでおられて、いつもは嘆息することなどなかったのに、今夜は大きなため息をついておられましたわ。何か事情がおありなんでしょうか」と言った。そこで父の大神はその婿の君に「今朝私の娘が言うには、『三年間ここに住んでおられて、いつもは嘆息することなどなかったのに、今夜は大きなため息をついておられました』ということです。何か事情がおありでしょうか。また、ここに来られた理由はどういったものですか」と尋ねた。そこで火遠理命はその大神に、兄が失した釣り針を返せと責めるので困り果てた状況を詳しく語った。すると海神は、海の大小の魚を悉く呼び集めて、「この釣り針を取った魚はいるか」と尋ねた。そのとき諸々の魚たちは「この頃鯛が、『喉にとげのようなものがあって、ものが食べられない』とつらがっています。この鯛が取ったのでしょう。」と申し立てた。そこで鯛の喉を調べてみると、釣り針があった。それを取り出してきれいに洗い、火袁理命に奉ったが、綿津見の大神は「この針をあなたの兄に渡すとき、『この針は、おぼち、すすぢ、まぢち、うるぢ』と言って、後ろ手に渡しなさい。そうして、兄が高いところに田を作ったら、あなたは低いところに田を作りなさい。また兄が低いところに田を作ったら、あなたは高いところに田を作りなさい。そうすれば、私は水を支配していますから、三年の間には、あなたの兄さんは、貧しくなってしまうでしょう。だけどもし兄さんが恨んで戦いを挑んできたら、今度は鹽盈珠を出して兄を溺れさせ、苦しいからよしてくれと言ったら、鹽乾珠を出して助けてあげなさい。」と言って、鹽盈珠と鹽乾珠の二つを与えた。それから海の鰐たちをすべて呼び集め、「いま天津日高の御子、虚空津日高が地上の国に帰ろうとしておられる。お前たちの中で、だれが御子を何日で送って還ってこられるか」と尋ねた。そこで鰐たちは、それぞれ体長によって送る日の長さを申し立てたが、その中で一尋鰐は「「私は一日で御子を送って帰ってこられます」と言った。そこでその一尋鰐に、「ではお前が御子を送れ。ただし海中を進むとき、御子に怖ろしい思いをさせてはならんぞ。」と命じ、その首に御子を乗せて送り出した。すると本当に言った通り、一日で送った。その鰐が帰ろうとしたとき、御子は持っていた紐小刀を鰐の首に付けて送り返した。その一尋鰐を、今は佐比持神と呼ぶ。 「思２其初事１（そのはじめのことをおもおして）」とは、単に本国を懐かしく思い出したのである。【あの兄に釣り針を返せと責められたことを言うように思えるだろうが、そうではない。】三年も経った前のことなので、「初めの」と言ったのである。書紀には「海神の宮に住むようになって、三年が経った。そこは楽しく不自由もなかったが、やはり故郷を懐かしく思う気持ちがあった。そのため、しばしばため息をつくことがあった。豊玉姫はこれを聞き、その父に『天孫は時々寂しそうにして、ため息をついていますわ。やはり故郷を懐かしく思っておいでなのでしょう』と言った」とあり、一書（第一）に「この後、火々出見尊は、しばしばため息をついた。豊玉姫が『あなたはもしかしたら、故郷に帰りたいんじゃなくて？』と尋ねると『実はそうなんだ』と答えた。豊玉姫は父に『ここにいる貴い客人は、地上の国に帰りたいと思っておられますわ』と言った」などとあるのを見よ。○大一歎は「おおきなるなげきひとつしたまいき」と読む。【旧印本、延佳本などでは「おおきになげきます」と読み、師（賀茂真淵）は「いたくなげきたまえり」と読んだ。そういう読み方は普通だろうが、そう読むのだったら、「一」の字は書く必要がない。しかし、ここにもこの次にも「一」の字があるからには、この字は読む必要があるようだ。そこでいろいろと読み方を考え、字の通りに「おおきにひとたび」などと読むべきかとも思ったが、それもいにしえの雅言の使い方ではない。】「なげき」は「長息（ながいき）」で、こころに思いが高まると長い息が漏れるのを言う。【それは、悲しいとき、憂いのある時はもちろんだが、うれしいとき、愛しいときなども、すべて思いが心に余って、とどめがたいときには、長息がある。漢国でも、「歎」の字など、両方の意味があることは、こちらと同じである。その中でも哀しみや憂いは、特に胸に迫る感情であるから、後には専らその意味にばかり取るようになって、「なげき」と言えば、すなわち哀しみ憂うることになった。】万葉巻十三【十六丁】（３２７６）に「吾嗟八尺之嗟（わがなげくやさかのなげき）」、同【三十四丁】（３３４４）に「杖不足八尺乃嘆（つえたらずやさかのなげき）」、巻十四【二十九丁】（３５２７）に「也左可杼利、伊伎豆久伊毛乎（やさかどり、いきづくいもを）」【これは「にお：ヘキ（辟＋鳥）テイ（へんはまだれに虎、つくりは鳥）＜におどり：かいつぶり＞」が息の長い鳥なので、八尺鳥（やさかどり）と言い、「息づく」の枕詞としている。】などがある。これらは息がたいへん長いことから八尺と言う。「伊伎豆久伊毛」というのも、長い息をついて恋い思う妹ということである。巻五【六丁】（７９９）に「和何那宜久、於伎蘇乃可是（わがなげく、おきそのかぜ）」【「長い息の風」である。「おきそ」は「息嘯（おきうそ）」だろう。】などもある。「大（おおきなる）」というのは、その長息（なげき）の声が高く大きいのを言う。【漢文でも、普通に「長大息」と書く。】思いの深さに従って、その声も大きくなったのである。万葉巻十三【十四丁】（３２７０）に「此床乃、比師跡鳴左右、嘆鶴鴨（このとこの、ひしとなるまで、なげきつるかも）」、巻廿【三十四丁】（４３９８）に「於比曾箭乃、曾與等奈流麻デ（泥の下に土）、奈氣吉都流香母（おいそやの、そよとなるまで、なげきつるかも）」、古今集戀歌一（５２１）に「つれもなき人をこふとて山彦の答へするまで歎きつるかも」、これらは嘆きの声が大きくて、物に響いたのである。「一（ひとつ）」は一声である。歎きにその数を言うのは、中巻倭建命が「阿豆麻波夜（あづまはや）」と言ったところにも「三歎」とある。【しかしそれを「みたび」と読んではいけないことは、そこで述べる。漢文にも「一唱三歎」などと言っている。】万葉巻四【三十九丁】（６４６）に「遍多嘆久嘆（たびまねくナゲクなげき）」などがある。ところでここでは、思いが浅くて一声だけだったというのではない、この時まで心に秘めていた思いを、三年にもなって、たいへん長くなったため、抑えきれずに思わず漏らしたため息である。「一」という字にその意味が見えている。【次の言葉を見ると、豊玉毘賣はこのため息を聞いて驚いた様子であり、この比賣にも、国を懐かしむ気持ちを語らなかったらしい。とすると、それまで心に秘めていたことは明らかだ。書紀でこの歎きを「しばしば漏らした」とあるのとは、趣が異なっている。】○恆無歎は、「つねはなげかすこともなかりしに」と読む。「つねは」は、「今までは」という意味である。【それで「は」という「てにをは」を添えて読んだ。】それは中巻倭建命の段に、「吾心恆念２自レ虚翔行１（アがこころつねはソラよりもかけりゆかんとおもいつるを）＜口語訳：私の心は、今までは天空をも翔り行く思いだったが＞」、万葉巻七【三丁】（１０６９）に「常者曾不念物乎、此月之過匿巻、惜夕香裳（つねはかつておもわぬものを、このつきのすぎかくれまく、おしきよいかも）」などと同様である。○今夜（こよい）は昨夜のことを言う。これは後の父神の言葉に「今朝きいたところでは」とあり、歎きを聞いた翌朝のことだからである。いにしえには、その夜が明けた朝でも、まだ「今夜」と言ったことは、攝津国風土記の「夢野の鹿」の話に、「明くる朝、牡鹿はその妻に『今夜、私は夢で、自分の背中に雪が降り下りたのを見た』と語った」、伊勢物語に「今夜（コヨヒ）夢になむ見え給ひつると云へりければ」、源氏物語野分の巻で、野分（のわき）した翌朝の言葉に「今夜（コヨヒ）の風」とある。和泉式部物語に「いたく零明（ふりあか）して、明旦（つとめて）、今夜の雨の音は云々」などがある。○若有由哉は、「もしなにのゆえあるにか」と読む。後の文に「若渡２海中１時無令惶畏」とあるのも「若（もし）」と「無（な）」と重なっているが、古言ではこうした言い方もしたのだろう。【書紀仁徳の巻（二十二年）の皇后の歌に「あによくもあらず（良くないの意）」、万葉巻四に「豈不益歟（あにまさらじか）」などとある「豈」の使い方も、聞き慣れぬ感じがする。これらと同様である。いまの俗言で言うなら「何か理由があるのでしょうか」ということと見ると、「若し」という言葉は穏やかに聞こえるけれども、「何」という語をこういう風に使った例は、雅言では他にない。】○父大神。ここにいたって「大神」と言ったのは、火遠理命の舅になったからだろう。○聟夫は「ミむこのキミ」と読む。【単に「むこ」と読むと、皇祖を軽んずるように思う。】和名抄に、「爾雅にいわく、娘の夫を壻と言う。聟、ムコ（工＋几の下に耳）とも書く。和名『むこ』」とあり、新撰字鏡には、「聟は『もこ』」とある。○今且。「且」の字は、諸本どれもこう書いてあるが、「旦」の字の誤りであることは確実だ。「けさ」と読む。○爲大歎（おおきなるなげきしたまいつ）。ここには「一」の字はない。そうあるべきところである。○若有由哉（もしゆえありや）。書紀には、「海神乃延２彦火々出見尊１、從容語曰、天孫若欲レ還レ郷者、吾當レ奉レ送（ワタツミすなわちヒコホホデミのミコトをひきて、おもぶるにかたりてもうさく、『あめみまもしクニにかえらんとおもおさば、われまさにオクリまつるべし』）＜口語訳：海神は彦火々出見尊を宮室に招いて、静かに『天孫の尊、もし故郷に帰りたいと思われるのでしたら、私がすぐに送って差し上げましょう』と語った」とある。○「亦到２此間１之由奈何（またここにきませるゆえはいかにぞ）。」書紀には、豊玉姫との婚姻記事の前に「因問２其來意１時、彦火々出見尊、對２以情之委曲１（かれここにきませるゆえをとうときに、ヒコホホデミのミコト、アリサマをつばらかにこたえたまいき）＜口語訳：そこで（海神が）『どういうわけでここにいらっしゃったのですか』と尋ねると、彦火々出見尊は事情を詳しく語った」＞云々」とある。他の数種の一書でも同様である。実際、これは初めに聞いておくことだ。それをこの記では、ここに至って初めて質問している。それは、歎きの理由は何だろうと思っているので、初めここに来た理由も質問したのである。【「ここ」を「此間」と書くことは漢文では普通のことであり、万葉にもよく出てくる。】○海之大小魚は「はたのひろもの・はたのさもの」と読み、【書紀の「大小之魚」もそう読むべきである。】それは前の天宇受賣命の段で「悉追＝聚２鰭廣物鰭狹物１以問＝言」とあるところと、文意が全く同じだからである。【この記では、同じ言葉を、一つは言のままに書き、一つは言葉の意味によって書いている例が多いことは、初めの巻で言った。ここも言葉の意味によって書いたもので、訓は前に出たのを参照するようになっている。】また、書紀の一書（第二）で、ここを「盡召２鰭廣鰭狹１而問之（ことごとにハタのひろもの・ハタのさものをめしてといたまわく）」と書かれたのを見て理解せよ。【こう読むことを知らずに、その「大小之魚」を「とおひろくいきイオども」とか「とおしろく」とか読むのは、古言めいて、何やら理由がありそうに思えるが、みな誤りである。＜訳者註：日本古典文学大系本では「トオシロクちいさきイオども」と読んでいる。＞】○頃者（このごろ）。この言はどうだろう。鉤を飲んでから、既に三年経っている。ここは書紀の一書（第一）に「赤女（あかめ）が長い間口を病んでおります」という方がよく当たっている。○赤海ソク（魚＋即）魚は「たい」と読む。鯛である。書紀には「赤女（あかめ）」とあり、「赤女は鯛の名である」と注がある。【ただしこの注は、後人が付けたのかも知れない。】一書（第一）には「赤女、あるいは赤鯛とも言う」とあり、また一書（第三）には「鯛女（たい）」とあり、一書（第四）には「赤女はすなわち赤鯛である」とある。仲哀の巻に「海ソク（魚＋即）魚（たい）」とあるのと、和名抄に「辨色立成にいわく、海ソク（魚＋即）魚は『ちぬ』」とあるのを考えれば、「赤海ソク＜魚＋即＞魚」が鯛であることは疑問の余地がない。【「ちぬ」は、灰色をした鯛で、黒鯛のたぐいである。和名抄では「ちぬ」と「くろだい」は別にしているが、大きな違いはない。普通の鯛は、「ちぬ」と形が全く同じで、赤いから赤海ソク（魚＋即）と書く。橿を白檮と書くようなものである。また仲哀の巻にあるのは、色が赤いものと黒いものを総称して「海ソク（魚＋即）魚」を鯛にあてたのである。一般に古い書物では、漢字を当てるのに、その人それぞれの考えで、多少の違いがある。いろいろな場合を考え合わせて決定すべきである。よく調べなければ取り違えるものである。】「たい」は、和名抄には、「崔禹錫の食経にいわく、鯛は、味は甘く、冷製でも毒がない。顔はフナ（魚＋即）に似て、色が赤い。和名『たい』」と見え、新撰字鏡にも「鯛は『たい』」とある。【師はここの赤海ソク（魚＋即）魚も、書紀を根拠に「あかめ」と読んだ。それもそうだが、この記の書き方からすると、もし「あかめ」だったら赤女と書くはずだ。また、書紀で赤女を「赤鯛である」としているので、ある人の説に「鯛の一種で、特に色が赤いのを言う」と言ったのも良くない。後世ならそういうこともあるだろうが、上代には、それほど細かく分けて名付けたことはなかったはずだ。赤鯛というのも、普通の鯛なのだが、黒鯛があるので、後に「赤」を付けたと考えられる。それを上記仲哀の巻の「海ソク（魚＋即）魚」を「たい」と読んでいるのだから、ここの「赤海ソク（魚＋即）魚」も「あかだい」と読んで、特に赤いのを言うと考えるのは誤りである。また「あかちぬ」と読むのも間違いだ。】この「たい」の下には「なも」という辞を補って読む。語の勢いから、必ずそうすべきである。○喉は「のみと」と読む。「呑門」の意味である。和名抄に「喉は和名『のんど』」、【これは「み」を音便で「ん」と言ったので、後代のことである。】万葉巻五（８９２）に「能杼與比（のどよい）」という言葉がある。【喉声で鳴くことを言う。】「み」を省いたのである。【こうした場合、省かれた音の下は濁音になることが多い。今の世でも「のど」と言う。】○ノギ（魚＋更）は「のぎあり」と読む。和名抄に、「唐韻にいわく、ノギ（魚＋更）は魚の骨などが刺さって喉にあることである。和名『のぎ』」とある。【また字書には「骨が引っかかって飲み下せないこと」ともある。】○愁言故は三字で「うれうれば」と読む。自分の愁いを人に語ることを「憂う」と言うので、「愁言」の二字をそう読む。【また「れば」というところに「故」の意味がある。】○是とは鯛のことである。【「これが」という意味だが、こういうところで「が」と言うのは、雅言ではない。】古文にはこういう例が多い。【漢文の「是」とは用法が違う。】書紀には「海神は大小の魚を呼び集めて尋ねたが、みな『知りません』と答えた。ただ赤女だけが最近口に病があって出席していなかったので、強制的に連れてこさせ、その口を調べたところ、果たして失くした釣り鉤が出て来た。」、一書（第一）では「海神は海の魚をすべて呼び集めて、その鉤を知る者はいないか尋ねた。だが一つの魚が『赤女が長い間口の病を患っています。たぶんこれが呑んだのでしょう』と言った。そこで赤女を呼び出して云々」。また一書（第二）には「海神は（彦火々出見尊を）気の毒に思って海の大小の魚をすべて呼び集めて尋ねたところ、みな『知りません。ただ赤女は口に病があって、ここに来ていません』【あるいは『口女（くちめ）は口に病があって』とも言う】と答えた。・・・海神は『この口女めが、これから先、餌を呑むことは禁止する。また天孫の御子の御饌となることも禁ずる。』と言った。口女魚（いな）を天子の御饌に奉らないのは、これが原因である。」【この一書は、前半では赤女（たい）のことを言い、最後は口女（いな）になっているのは変だ。前半に赤女とあるのは、口女を写し誤ったのだろうか。また「あるいは『口女は云々』」という注も解せない。これは一本にこういう話が載っていたのを、後人がつじつま合わせに注したのかも知れない。】また一書（第四）では「海神が赤女と口女を召し出し、【赤女は赤鯛であり、口女は鯔魚（ぼら・いな）のことである。】尋ねると、口女は口から鉤を採りだして奉った。」ともある。○清洗は「すまして」と読む。洗い清めることを「すます」と言った。○「給２其兄１（そのいろせにたまわん）」ここは火遠理命を尊敬し、兄の火照命を卑しんで、御兄だけれども「給う」と言うのである。○淤煩鉤（おぼち）。書紀の一書（第三）によると、海神は、「この鉤をあなたのお兄さんに返すとき、口で『大鉤（オホヂ）、踉鉤（ススヂ）、貧鉤（マヂチ）、癡ケ（馬＋矣）鉤（ウルケヂ）』と言い、それが終わると、すぐに後手に授けなさい。」と教えた、とあるのを考え合わせると、「淤煩鉤＝大鉤」である。【「大」は借字である。この「大」の意味から説明するのは当たらない。他の三鉤はみな借字ではないが、この「大」だけは借字でないとすると、意味不明である。】「煩（ぼ）」は濁音だが、この「淤煩」の「煩」は清音に言うこともある。この言葉は万葉で「欝悒（オホホシク）」というのがよく出てくるが、それである。巻四に「朝居雲乃欝（あさいるくものおほおしく）」などもある。明るくない、鬱陶しいといった意味である。【巻十の十六葉（１９２１）、巻十二の十八葉（３００３）などに「不明」とあるのも、今は「ほのかにも」と読んでいるが、これも「おほおしく」と読むのが正しい。「ほのか」も、もとは「おほのか」の「お」を省いた言である。】これは仮名では「意保々斯久（おほおしく）」など、「ほ」に通常清音の字を用いる。【万葉巻五（８８４）、巻十一（２４４９）、巻十四（３５７１）、巻十六（３７９４）】ところがまた、巻十七【七丁】（３８９９）では「於煩保之久（おぼおしく）」と濁音にも書いている。【清んでも濁っても言う語なのだろう。】また「おぼつかない」、【これも普通は濁って言うが、万葉巻八（１４５１）、巻十（１８７５）などでは「於保束無（おほつかなく）」と清音の「保」を書いてある。】「おぼろ」なども明るくないことで、もとは同言である。【上記の「欝悒」を「いふかし」、「いふせし」とも読むところがあり、これらの「いふ」も「おぼ」に通じ、「おほおしく」ともとは同じである。「淤」が「伊」に通うのは、「淤伎（おき）」と「伊伎（いき）」の通用と同じ。ところで「いふかし」、「いふせし」も普通は「いぶかし」、「いぶせし」と「ふ」を濁るのだが、万葉では清音で書いてある事が多い。】また「オホロカ」、「オホヨソ」、「オロシカ」、「オホカタ」などと言うのも、詳細でなく、明快でないことで、同じである。「オホ」とだけ言うこともある。ここでの「淤煩（おぼ）」は、心が屈曲して晴れないことを言う。【気持ちが晴れることを「明らむ（明るくなる）」と万葉などで言うのは、晴れないのは明るくないからである。】万葉巻二【卅丁】の、日並皇子の薨去に当たって舎人たちの慟傷（かなしびいたむ）歌（１８９）に「旦日照、嶋乃御門爾、欝悒、人音毛不爲者、眞浦悲毛（あさひてる、しまのみかどに、おほおしく、ひとおともせねば、まうらかなしも）」、巻四【三十三丁】（６１１）に「今更妹爾、將相八跡念可聞、幾許吾胸、欝悒將有（いまさらに、いもにあわめやともえかも、ここだわがむね、おほおしからん）」、巻五【二十六丁】（８８４）に「國遠伎、路乃長手遠意保々斯久、許布夜須疑南、己等騰比母奈久（くにとおき、みちのながてをおほおしく、こうやすぎなん、ことどいもなく）」【「許布夜」は「恋うや」である。】これらの「おほおしく」のような意味である。＜訳者註：岩波日本古典文学大系本では「おぼぼしく」と濁音に読んでいることが多い。＞○須々鉤（すすぢ）。師の冠辞考【ふせやたきの條】に、『「廬八燎須酒師競（ふせやたきススシきそい）云々」、「すすしきそい」とは、男たちの気分が進み（高揚し）、すずろぎ（そぞろになって）、我あらず争うことを言う。古事記に「須々鉤」とあるのを、書紀神代巻で「踉ボウ（足＋旁）鉤（すすのみぢ）」とある。これも「すずろぐ」ことである。また古事記に「美人驚而、立走伊須々岐伎（おとめおどろきて、たちはしりいすすぎき）」とあるのも、立ち走り「すずろいだ（動転した）」のである。後世の書に「すずろ」、「そぞろ」など言うのもこれである。』とある。また前の須佐之男命の「勝佐備（かちさび）に云々」というところ【伝八の四葉】で引いた師の説に『「佐備（さび）」は「すさび」である』とあるのは、ここによく該当する。「すさ」は「すす」と同じで、上記の「すさび」は進み荒ぶる意味だから、ここの「すす」も進みすずろいで荒ぶる意味である。書紀には「踉ボウ（足＋旁）鉤、これを『すすのみぢ』と読む」とある。【玉編に「踉ボウ（足＋旁）は行こうとすることである」、また「ボウ（足＋旁）は異装で行くことである」と注し、他の字書には「踉は高く踏む（浮き足立つ）ことである」、「跳踉は勇躍の様子である」ともある。進みすずろぐ意味に近い。新撰字鏡に「猖獗（底本は羊＋厥）は『すすのみ』」とあるのも、荒ぶる意味に近い。「ケツ（羊＋厥）」は「獗」だろう。この「すすのみ」の「のみ」は、言葉の活用の辞で、「音」を「おとない（訪ない）」、「商（あき）」を「あきない」などと言う「ない」の類だろう。】この記に「のみ」という語がないのは、まじないであるから、言葉の調子を整えるため、「おぼ」、「すす」、「まで」、「うる」と、みな二音に揃えたのだ。【書紀の一書（第一）で「貧窮之本（までのもと）、飢饉之始（うえのはじめ）、困苦之根（たしなみのね）」といっているのも、本、始、根と言葉を変えることで、文を整えたのである。】この四つの言は、本来用言（動詞）なのを、活用させて体言（名詞）としたのである。【そのことは次に述べる。】一般に動詞としても名詞としても使う語は、動詞の時は下に活用の辞を加え、名詞の時はそれを除くことが多く、【動詞としては「渡り」、「渡る」と言う語を、名詞としては「海（わた）」といい、動詞としては「歌い」、「歌う」と言うのを名詞形では「歌」と言うたぐいである。】上記の「おほおしく」は用言だが、ここでは「おぼ」と言い、「すすむ」、「すずろぐ」は用言だが、ここでは「すす」として体言にしたのである。【また「すすのみ」というのは用言だが、下の活用辞をそのままにして体言としたのであり、「渡り」という用言（動詞）を、そのまま渡るところを「渡り」と言ったり、「歌い」という用言をそのままに、歌うものを「謡（うたい）」とも言う。これもよくあることである。】○貧鉤は「まぢち」と読む。書紀にもそう書いてあり、昔からそう読んでいる。「まぢ」は「まずし（旧仮名まづし）」が縮まったものか、それとも「まづし」が「元は「まぢし」だったかも知れない。○宇流鉤（うるぢ）は、書紀（一書第三）に「癡ケ（馬＋矣）鉤、これを『うるけぢ』と読む」とあり、この字の意味（愚かということ）である。【「ケ（馬＋矣）」も字書には「痴のことである」とある。】書紀景行の巻に失意（おろけ）とあるのも【敏達の巻に「於呂礙（おろけ）」という人名もある。】同じ言葉だろうか。【俗に「うろたえる」、「うろうろ」、「うるむ」などと言うのもこの言葉から転じた。また水が冷たくないことを「ぬるい」と言うのも「うるい」に通う。塗り物の材料を「うるし」と言うので知るべきである。また俗に「鈍い」ということを「ぬるい」と言うのも「うる」から来ている。】書紀には「うるけ」とあるのを、この記で「け」が省かれているのは、上述の「すす」と同じく、二音に揃えたからである。これら四つの「鉤」は、書紀に「膩（ぢ）」とあるのに従って、「ぢ」と読む。【「膩」は女利（ヂョの子音、リの母音：つまりヂ）と読む字で、「ち」の濁音の仮名である。ただし「淤煩鉤」、「貧鉤」の二つは清音の「ち」に読む。直前に濁音があるからである。古言で濁音が二つ重なることは滅多にない。】この「ぢ」には二つの考えがある。一つは「さち」の「ち」と同じで、「取り」である。【「海佐知・山佐知」の「佐知」が「幸取（さきとり）」の意味であることは上述した。】というのは、この失くした釣り鉤は、元は海佐知毘古の幸取だったのを、ここでは呪って、幸の反対の不幸を取る道具という意味で【幸取（さち）も幸を取る道具であることは。すでに言った。】「欝悒（おぼ）取り」、「踉ボウ（足＋旁）（すす）取り」、「貧（まぢ）取り」、「癡ケ（馬＋矣）（うる）取り」【この四つは、不幸のすべてである。このように「～取り」というからには、その上はみな体言である。】ところが「取り」の意味なのに「鉤」の字を書いているのはなぜかと言うと、その取る道具が鉤であり、詳しく言うと「～取鉤（～とりばり）」だからである。【上記の「佐知」も詳しく言うと「幸取弓（さきとりゆみ」）、「幸取鉤（さきとりばり）」である。】もう一つの考えは、「鉤」の字はもと「釣」であったのを、後代の人がさかしらに「鉤」の誤りと解して、改めたかも知れない。【書紀の今の本で、この二字は互いに誤っていることが多い。そこで書紀に倣って、この記も同じように改められているかも知れない。真福寺本では、この四つの鉤は、みな「釣」と書いてある。だがその本では、その前にある鉤の字もみな釣と書いているので、根拠にはできない。】その「釣」を「ち」と読むのは「つり」が縮まった形で、主事の不幸を釣り寄せる道具ということである。ものを釣る道具を差して「～釣り」と言うのも、「取る道具を「～取り」というのと同じである。というわけで、いずれにせよ全般の意味は、第一の解釈と同じだ。この二つのうち、読者は気に入った方を採ればいい。ただ「幸取」を反対にして言うのだから、「取り」とした第一の案が少しいいだろう。【この「ち」を単に鉤の古名と思い、または「つりばり」を縮めると「ち」になるなどと言い、この段の「鉤」の字をすべて「ち」と読むのは、考えが足りない誤りである。】○後手（しりえで）は黄泉の段で、すでに出た。【伝六の廿二葉】ここでは、やはり呪いの動作である。書紀の一書（第二）には「後ろ手に投げ棄てて与えなさい。決して正面を向いて与えてはいけませんぞ」とある。【これをあの事代主神の逆手と混同してはいけない。後手と逆手は異なる。】書紀（本文）では、海神は「この鉤を兄に与えるとき、ひそかに『貧鉤（まぢち）』と唱え、その後で与えなさい」と教えた。また一書（第二）には「貧鉤（まぢち）、滅鉤（ほろびち）、薄葉鉤（おとろえち）」とあり、一書（第三）では、海神は、「この鉤をあなたのお兄さんに返すとき、口で『大鉤（オホヂ）、踉鉤（ススヂ）、貧鉤（マヂチ）、癡ケ（馬＋矣）鉤（ウルケヂ）』と言い、それが終わると、すぐに後手に授けなさい。」と教えた。また一書（第四）では海神は「この鉤をお兄さんに返すとき、『天孫、汝の八十連属（やそつづき）の子孫まで、貧鉤、狹々貧鉤（ささまぢと）』と言い、言い終わると三度唾を吐いてから（唾を吐くのは呪いを強める行為）与えなさい。」と教えたとある。○然而（しかして）は「そうして」ということである。この言葉があるのは、上に述べたことを次にかけて言うためである。○高田は「あげた」と読む。書紀でそう読んでいる。【字の通り「たかた」と読むのも悪くない。諸国にそういう地名も多い。しかし】万葉巻十二【十七丁】（２９９９）にも「水乎多上爾種蒔（みずをおおみアゲにたねまき）」とある。【田中道麻呂によると、尾張、近江、美濃などでは、今も田の中の水のつかないところを「あげ」と言うそうだ。】土地が高く、よく乾く田である。○下田は書紀にクボ（さんずいへん＋夸）田とあるのに依って、「くぼた」と読む。窪み低くて、水が多い田である。○掌水故は「みずをしれば」と読む。【師は「みずをしれるからに」と読んだ。「故」を「からに」と読んだのは良くない。ここはそう読むべきでない。「掌」を「しれる」と読んだのは良い。ここでもそれによった。この字は、普通「つかさどる」と読むが、ここをそう読むと古言にならない。】「しる」は天下を知る、国を知るなどの意味で、水を保ち掌って、おもいのままに操るのである。だから兄が高田を作れば、私は日照りにして水不足にしよう。兄が下田を作ったら、雨をどっさり降らせて、田をダメにしよう、という意味である。万葉巻十八【三十二葉】（４１２２）に「安米布良受、日能可左奈禮婆、宇恵之田毛、麻吉之波多氣毛、安佐其登爾、之保美可礼由苦・・・安之比奇能、夜麻能多乎理爾、許能見油流、安麻能之良久母、和多都美能、於枳都美夜敝爾、多知和多里、等能具毛利安比弖、安米母多麻波禰（あめふらず、ひのかさなれば、うえしたも、まきしはたけも、あさごとに、しおみかれゆく・・・あしびきの、やまのたおりに、このみゆる、あまのしらくも、わたつみの、おきつみやえに、たちわたり、とのぐもりあいて、あめもたまわね）」、これは海神が水を掌ることから、雨乞いをしたわけである。○三年之間（みとせのあいだ）は、だんだんに貧しくなって行く過程が、三年続くことを言う。【これを間の下に「に」という「てにをは」を添えて「あいだに」とか、「ほどに」などと読むと、三年経った後には貧しくなっているというように聞こえ、意味が異なる。「に」を添えて読んではいけない。】中巻明の宮（應神天皇）の段に「その兄は八年の間、しぼみ病み枯れた」とあるのも同じである。○貧窮は、「まじしくなりなん」と読む。後の文に「自レ爾以後、稍愈貧（それよりのちややいよよまじしくなりて）」とあるのがそうだ。【師は「まじたしなみなん」と読んだが、音の重なり具合がおかしく聞こえるだろう。「たしなむ」は古言で、「窮」の意味に近いが、ここは「貧」が主眼であって、「窮」の意味は軽い。そのため、後の文では「貧」とだけある。また書紀の一書（第一）に「貧窮の本（まぢのもと）」とあるのも、「貧」に主眼がある。書紀の一書（第三）に「襤褸（やつれ）」とあるのはこの言に相当するが、「やつる」というのはその形状（外観）について言うから、「貧窮」の意味には当たらない。】高田を作れば日照りになり、下田を作ると雨ばかり多くて、いつも収穫を得られず、貧しくなるだろうということだ。○恨怨其（それうらみて）の「其」の字は、「若（もし）」の字の下にあるべき意味で、火照命を指す。次の「若其愁請者」の「其」と同じである。○爲然之事（シカしたまうこと）とは、釣り鉤を渡すときに呪いをかけること、また田を作っても収穫がないことなどをすべて言う。田を作って収穫がないのは、海神がそう計らうのだが、弟の命のためにするので、これも弟の命のしわざとして、こう言う。○鹽盈珠・鹽乾珠は「しおみつたま・しおひるたま」と読む。【「しおみちだま・しおひだま」と読むのかとも思ったが、やはりそうではない。乾は、書紀の景行の巻に「ふ」と訓注があるから、「ひる」とは言わず、崇神の巻十一年、「急居（どしんと腰を落とすこと）」に「菟岐于（つきう）」と注があるのと同格で、「ひう」、「ふる」と活用するようだ。しかし「ふる」というのは採用するには耳慣れないので、取りあえずここは、普通の読み方のように「ひる」としておく。】中巻の終わりの方に「振浪（なみふる）比禮（ひれ）、切浪（なみきる）比禮、振風（かぜふる）比禮、切風（かぜきる）比禮」というのが出てくるが、この類である。【書紀の仲哀の巻に「皇后（神功）は豊浦の津に泊まった。この日、皇后は如意珠を海中から得た」という記事がある。これは土佐国風土記に「香川郡玉島。ある説によると、神功皇后が諸国を巡ったとき、ここに船を泊めた。皇后が島に下りて休んでいると、磯辺で一つの白い石を拾った。丸くて鶏卵のようである。皇后が手のひらに捧げ持つと、四方に光を放った。皇后はたいへん喜び、『これは海神がくださった白真珠だわ』と言った。よって島の名とした。」とあるのと同一の事件だが、国が異なるので、伝えも異なるのだろう。だが書紀に「如意珠」と書いてあるのは納得できない。どうにも読みようがない（漢語風にしか読めない）。その頃はまだ文字などなかったのだから、「如意」などという名があったはずはないのに、強いて漢文を真似ようとするあまり、こんな名さえでっち上げたのは、後世を惑わすものである。それにしても如意と書いたのは、ただ玉の美しさを賞めて書いただけなのか、それともこの姫の尊（神功皇后）は新羅を攻めたとき、その国に到るまで、潮が押し上げたという、それがこの珠の働きだったがゆえに、その意味で付けた名か。しかしかの国まで潮が押し上げたのが、この珠の働きだったことは、この記にも書紀にも見えないのは、どういうことだろう。宇佐の宮の縁起に、神功皇后が干珠・満珠を龍宮から得て、三韓を征伐したと言っているが、古い伝えか。またはかの書紀の如意珠の記事と、新羅の国まで潮が押し上がったこととをこじつけて、推測で言ったものだろうか。これも確かではない。その二つの珠は、後に肥前国佐嘉郡、河上の宮というところに納まったという。そこで釈日本紀にも「元暦の頃、宇佐の宮監行のとき、本宮から『満瓊・涸瓊二種が当宮にある』との注進があった。・・・『二種の瓊は以前から当宮にあります。神功皇后が三韓征伐をされたとき、新羅の海潮が宮の庭に満ちたことを考えると、この瓊を以てそのようにされたのでしょう。ただし、確かな記録はありません。』」という。これにも納得のいかない点がある。神功皇后の玉は、このとき新たに海中から出たのだから、神代の珠ではないのに、宇佐の宮に神代の珠があるのは、どういう由縁からか、理解できない。そこで思うに、宇佐の宮にあるというのは神功皇后の珠であり、肥前の国の河上の宮にあるのこそ神代の珠なのに、あれこれを混同して、何かのいきさつで紛れたのだろう。その河上の宮というのは延喜式神名帳に「佐嘉郡、與止日女（よどひめ）神社」とあるのがそれだという。ある書に豊玉姫を祭るとされているのも由縁がある。ところで神功皇后の得た玉も、本当に干珠・満珠であって、新羅の国まで潮が上ったのもその玉の働きだったとすると、海神の持つ鹽盈珠・鹽乾珠は、ここで火遠理命に与えたものだけでなく、他にも幾つもあるものと思われる。】万葉巻十九【二十九丁】（４２２０）に「和多都民能、可味能美許等乃、美久之宜爾、多久波比於伎弖、伊都久等布、多麻爾末佐里弖（わたつみの、かみのみことの、みくしげに、たくわいおきて、いつくとう、たまにまさりて）云々」とある。○若其（もしそれ）。「其」の字は「それ」と読む。【この下に「兄」の字が落ちているのかとも思ったが、そうではない。】火照命のことである。【漢文の「其」とは用法が異なる。】後の文にも「若其愁請者（もしそれうれいもうさば）とある。○令惚苦は「たしなめたまえ」と読む。書紀で「厄」、「辛苦」、「困厄」、「劬勞」などをそう読んでいる。【この言葉は、「たしなみ」と言えば自分のことである。「たしなめ」と言うときは、「め」は「ませ」を縮めたもので、人をたしなませることである。ここの「令」の字に当たる。】「惚」の字は前に出た。【伝六の廿六葉】○「授２鹽盈珠云々１」。此の文は、最初に言うべきことなのだが、「出２鹽盈珠１云々」と先に言い、後にこの文を書くのも、古文の一つの書き方である。書紀には「また潮滿瓊（しおみつたま）と潮涸瓊（しおひるたま）を授けて、『潮滿瓊を海水に漬（ひた）せば潮はたちまち満ち、あなたの兄さんを溺れさせることができます。もしお兄さんが後悔して祈れば、今度は潮涸瓊を海水に漬けると、すぐに潮が引きますから、助けて上げなさい。こうして兄をたしなめれば、あなたのお兄さんはあなたに従うでしょう』と教えた。」【ここには「瓊を漬す」とあり、この記に「珠を出す」とあるのと、使い方の伝えが異なる。】一書（第二）には「思則潮溢之瓊（おもえばしおみつるたま）と思則潮涸之瓊（おもえばしおひるたま）をその鉤に添えて奉り云々」とある。また一書（第三）には「また潮滿瓊と潮涸瓊の二種の神宝を授けて、その瓊の使い方を教えた、また『兄が高田を作ればあなたはクボ（さんずいへん＋夸）田を作りなさい。反対に兄がクボ田を作れば、あなたは高田を作りなさい』と教えた」とある。他の一書（第一）では「あなたの兄さんが海を渡ろうとするときは、私は必ず波風を立てて、溺らせ苦しめるでしょう」、また一書（第四）では「あなたのお兄さんが海に出て釣りをしているとき、あなたは海辺で風招（かざおき）しなさい。そうすれば私は瀛風（おきつかぜ）・邊風（へつかぜ）を起こし、奔波（はやなみ）を立てて溺れさせます」とあって、これらには瓊のことはない。○和邇魚（わに）の「魚」の字は読まない。【前後はただ「和邇」とあるのに、ここだけ「魚」の字を付けているのは、漢名に倣って付けたのだろう。漢名では「鰐」とも「鰐魚」とも言い、「鯉」を「鯉魚」、「鮒」を「鮒魚」とも書く。】○上國（うわつくに）は、書紀に「上國、これを『うわつくに』という」とある。海神の宮は海底にあるので、われわれの住む御国は上にあるからこう言った。【ある人は漢文で言う「上国」のことかと思って、尊んで言う名だと言ったが、間違いである。】鎮火祭の祝詞に「吾名セ（女＋夫）能命波、上津國乎所知食倍志。吾波下津國乎所知牟止申弖（アがナセのミコトは、ウワツクニをしろしめすべし。アはシタツクニをしらんともうして）」【これは黄泉の国で言った言葉だから、現世を上つ国と言っている。黄泉の国も根の国、底の国と言って、下の方にあるからである。】○誰者幾日（たれはいくかに）。これは言葉が少なくても、その意味はよく分かる。古文である。【それを「誰者」というのが耳慣れないので、違った風に読むのは間違っている。「たれは」と言わなければ、意味が明らかにならない。】○覆奏（かえりこともうさん）。中巻にもこうある。「覆」は「復」である。書紀でも「復命」を「服命」と書き、万葉に「都」を「堵」と書いているなど、時々ある。音が通うというだけで、全く違う意味の字を使っているのは、古い書物では普通のことだ。【漢籍にも「覆奏」という言葉はあるが、意味が違う＜「覆奏」は、調べ直すなどして再度奏すること＞。また、漢籍で「覆」を「復」と書いた例はあるが、「復」を「覆」と書くことはない。】○己身は二字で「み」と読む。【「己」の字を分けて読んではいけない。】この上に「各」とあるのが「己（おの）も己も」の意味だからである。○尋長の二字を「ながさ」と読む。【「ひろ」、あるいは「ひろのながさ」とも読めるが、】前に出た八俣遠呂智にも「長さ」とあった。○一尋和邇（ひとひろわに）。【「ひとひろの」と「の」を付けて読むのは良くない。後に出る「八尋和邇（やひろわに）」もそうである。】書紀の一書（第四）に『鹽筒老翁（しおつつのおじ）は考えて、「海神の乗る良い馬は八尋鰐だ。それが今背びれをたてて、橘の小戸にいる。彼に相談して見よう」と言って、火折尊と一緒に行った。すると鰐は「私は天孫を八日で海の宮までお連れすることができます。しかし我が君（海神）の最も良い馬、一尋鰐こそは、天孫を一日でお送りできます。ですから私はこれから帰って、この一尋鰐をお連れしましょう。それに乗ってください。・・・」言い終わると、八尋鰐は海に入っていった。天孫は鰐の言ったとおり、海辺で待っていた。八日経ったとき、待ちに待った一尋鰐がやってきた。そこでそれに乗って海に入った』とあるのは、他のとは大きく異なる伝えである。【一尋和邇に乗ったのは帰るときのことなのに、この伝えでは、それに乗って行ったという。】だがこれを考えると、八尋和邇が八日で行く行程を、一尋和邇は一日で行くわけで、書紀纂疏では「短い者は身が軽く、行くのが早いが、長いものは身が重く、遅いのである」と言っている。【身の回りを見ても、大きい方が早そうなものだが、かえって小さい方が早いというのは、鰐は実際そういう動物なのかどうか、調べる必要がある。】「隨２己身之尋長１限レ日而白（それぞれ身長に従って何日かかるかを申告した）」とあるから、長さによって速さに違いがあるのだろう。書紀の一書（第一）には「火々出見尊を大鰐に乗せて故郷に送った」とあるのは、大きいのと小さいのと、反対の伝えである。また一書（第三）に「すぐに鰐たちを呼び集めて『天神の孫が今帰ろうとしておられる。お前たちは何日でお送りできるか（幾日之内將作以奉致）』と尋ねると、鰐たちはその長短にしたがって、日数を決めて申し立てた。中に一尋鰐がいて、『私は一日でお送りできます』と言った。そこで一尋鰐に遅らせた。」【「作」の字は「供」の誤字か。】とあるのは、この記と同じ内容である。○「若渡２海中１時（もしわたなかをわたるときに）」。万葉巻一【二十六丁】（８２）に「對馬乃渡渡中爾（つしまのわたりわたなかに）云々」とある。この「もし」は、次の「惶畏」に懸かる言葉である。【海中を渡るのは初めから決まっていることで、「もし」という必要はない。】○無令惶畏は「ナかしこませまつりソ」と師が読んだのに従う。これは海中を行くのは怖ろしいことだから言うのか、それとも鰐は怖ろしい動物だから言うのだろうか。○「載２其和邇之頸１（そのわにのくびにのせまつりて）」。背に乗るのが当然なのに、首に乗せたのは、鰐は書紀にも「その背びれを立てて」とあるように、背に鰭があって乗れないからだろう。○如期は「いいしがごと」と読む。○紐小刀（ひもがたな）。前に出た。【伝十六の十六葉】これを首に付けて帰したのは、送ってくれた功績を賞めて賜物としたのだろう。○佐比持神（さいもちのかみ）、書紀には紐小刀のことも、この神のことも、ここではなく、神武の巻に「進到２于紀伊國１・・・海中卒遇暴風、皇舟漂蕩。時稻飯命乃歎曰、嗟乎吾祖則天神、母則海神、如何厄我於陸、復厄我於海乎。言訖乃拔レ劔入レ海、化＝爲２鋤持神１（すすみてきのくににいたりて、・・・わたなかにからしまかぜおこりて、みふねただよう。ときにイナイノミコトなげきてのたまわく、「ああ、わがみおやはアマツカミ、イロハはワタツミのカミなるに、いかなれかワをクヌガにたしなめ、またウミガにたしなめたまう。」いいおわりて、すなわちツルギをぬきてウミにいりて、サイモチノカミとなりたまいき）＜口語訳：進んで紀伊国に到ったとき・・・海中に暴風が起こって、皇軍の船が漂流した。このとき、稻飯命（いないのみこと）は嘆いて、『私の祖神は天神、母は海神なのに、どうして私を陸で苦しめ、いままた海で苦しめるのか』と言うと、剣を抜いて海に入り、鋤持神（さいもちのかみ）となった＞」とあるのは、非常に異なった伝えである。【この記に「今に言う」とあるのからすると、後代まで海中に佐比持神という神があり、その伝えが二通りあったのだろう。この神が二つあるのではない。】名の意味は、天孫から賜った紐小刀を首に付けていたからである。「佐比（サヒ）」は書紀推古の巻の歌に「多智奈羅磨、句禮能摩差比（たちならば、くれのマサヒ）」【これは「呉の眞佐比」が優れた太刀であるということを歌ったのである。弘仁私記には、「呉の眞鋤は良剣の名である」とある。】また神代巻に「蛇韓鋤之劔（おろちのからサヒのたち）とある。【「呉の眞鋤」と「韓鋤」と、意味合いがよく似ている。「韓鋤」を「からすき」と読むのは間違いである。「佐比」に書紀で「鋤」を当てた理由は分からない。このことは次でさらに言う。この「佐比」の「比」を濁って読むのもよくない。ここでも書紀推古の巻でも、すべて清音の「比」になっている。濁る根拠はない。「錆」と同じ意味に解するのは妄論である。】中巻の倭建命の段で、木で作った偽りの刀を「佐味那志爾阿波禮（さみなしにあわれ）」と歌っている「佐味」も「佐比」に通い、同じことのように聞こえて、【師の冠辞考でもそう言っている、和名抄に、「越中國新川郡、佐味は『サヒ』」、「越後國頸城郡、佐味は『さみ』」とあり、やはり「比（ひ）」と「美（み）」が通う例である。】ともにほぼ刀のことのようだが、上記の「佐味」は、そのまま刀と解しては、穏やかでない。【冠辞考に、木刀は身（刀身）がないという意味で「さみなし」と言ったのである。刀に身（み）ということは、昔も言った、として佐比持神のことを引用している。今考えると、「さみなし」はやはり「身無し」のように思われる。「佐比持」を「身持」と解するとおかしくなる。】だから、かの「佐味」とは、やはり別であろう。ということは、「佐比」は物を切るときの様子から来た言葉で、「須加比（スカヒ）」が縮まった語で、前に出た「須加流劔（すかるのたち）」、「布都御靈（ふつのみたま）」などと同類の剣の名ではないだろうか。前に出た都牟刈之大刀（つむかりのたち）のところ【伝九の卅五葉】も考え合わせよ。【ある人の説に、神代紀に竹刀（あおひえ）があるから、佐比は小刀（さひえ）だろうというのがあるが、推古紀の歌を見ると、大刀を眞佐比と言っていて、小刀だけの名ではない。それに「小」は「ささ」と言うことはあっても、「さ」とだけ言った例はない。「須加比」が縮まったのかという考えについて言うと、書紀で「鋤」の字が書かれているのは、いにしえには鋤のことを「スカヒ」と言ったのが、この「佐比」の元の言葉と同じだったので、通わせて借りた字ではないだろうか。和名抄の農耕の具に「ダン（金＋傳のつくり）は鋤の一種である。漢語抄にいわく、『サヒツエ』」とあるから、鋤（すき）も「サヒ」と言ったのではないだろうか。】続日本紀十に紀の朝臣佐比物（さいもち）、類聚国史九十九に玉作の佐比毛知（さいもち）など、人名にも見える。【天武紀に小子部連スキ（金＋且）釣（さいち）、また小子部連スキ（金＋且）劔（さいち）という人名がある。これは同じ人で、「釣」、「劔」のどちらか（または両方）が誤りだろう。いずれも「ち」という読みは解せない。書紀の「鉤（鈎？）」の誤訓に起因するのだろうか。また斉明紀に「膽振スキ（金＋且）、これを『イブリサヘ』と読む」とある。これは「サヒ」を「サヘ」とも通わせて言ったと思われる。】 ＜訳者註：本稿はできるだけ現代仮名遣いで書くことにしているが、「サヒ」の「ヒ」の読みを論じ |