『古事記傳』17−附


附巻【三大考】

三大考

天地国土の現在のありさま、またその生まれた最初の様子については、外国のものは、仏教書であれ、中国の儒教の説であれ、みな人間の浅知恵が及ぶ限りのことを考えて、推測で作った説に過ぎない。中でも天竺(インド)の説などは、女子供を騙すような他愛もない妄説だから、論ずるにも足りない。漢国の説は、少しはものを考えて作った説なので、ちょっと聞いたところでは、いかにももっともらしく聞こえるのだが、よく考えると、彼らの言う太極、無極、陰陽、八卦、五行など、本来は何もないところからひねり出した仮説にすぎず、それにあれこれの事象を無理に当てはめて見せて、まるで天地万物はこれらの「原理」がなくては生じないかのように説いただけであるから、やはり妄説である。一般に物の法則や原理は完全に突き止めることはできないものであるから、人知の及ぶところではなく、まず理論を立ててそれに事象を当てはめるような説は、どれも受け入れることはできない。人の浅知恵の及ぶところは、ただ眼前にする限り、心の及ぶ限り、推測できる限りのことであって、それらが及ばない本当の真理に至っては、どう考えても知るすべはない。とすると、この天地創成の初めから、現在のようになってきた過程なども、その八百万年、一千万年の後に生まれたわれわれが、どうして知り得ようか。だがわが皇大御国(すめらみくに)は、伊邪那岐・伊邪那美両大神が直接お作りになった国で、天照大御神がお生まれになった国、皇御孫尊(すめみまのみこと)が天地と共に、永遠にお治めになる国であって、万国に優って秀でており、四海の宗主国であるから、人の心もまっすぐで正しく、外国のように妙な詮索をして偽った説を言うこともないため、天地の初めのことなども、いささかも個人の作為を加えることなく、ありのままに、神代から伝わってきた。これこそ虚偽のない、真正の説なのである。そもそもかの漢国の説などは、少し聞くといかにも理屈が深そうで、本当のことに聞こえ、それに比べて皇国の伝えは、何だか浅はかで、特別な理論などもないように聞こえるけれども、あっちは妄説、こちらは真実であるから、後世になって、いろいろな考えが精緻になるに従って、それら虚妄の説の誤りが次第に明らかとなったのだが、皇国の伝えの真実は少しも違うことがない。というのは、最近の世になって、遙か西洋の人々は思いに任せて世界の海を巡り、この大地のあり方を、地は丸くて虚空に浮かび、日や月はその上下を廻っていると考えついたのだが、かの漢国の古い説はそういうこととは非常に違っていることからも、一般に理を先に立てて事実を無理に当てはめるやり方が、どんなに誤っているか分かるだろう。ところが皇国の古い伝えは、初めに虚空の中に一物が発生したことから、それに次いで色々の物が生まれてきたことも、すべて今の現実のあり方と少しも違わない。このことからも、古伝が真実であることが分かる。しかしかの遙か西洋の人々は、この大地の様子を実際に見て知り、虚空のことも精密に調べて、漢国の説に比べて優る点が多いが、それでも人間の推測できる範囲を出ておらず、その能力を超えた部分は、まだ知り尽くせないでいるのだから、まして日月がどうして現在のようになったのか、その初めのことは、知るすべを持たない。思うに、それらの国々にもそれぞれの言い伝えはあるのだろうが、それもやはり後代の人の推測に過ぎず、漢人や天竺の説と大差はない。皇国の伝えはそういうものではない。皇国は「神ながら言挙げしない国」といって、万事が外国のように、賢げに口うるさく論じたりしないで、ただ大らかな御国ぶりだから、大地の初めなども、そうした外国の説のように、「これはこういう理由でこうだ」、「それは何々の原理によってこうなる」などと細々とあげつらうことがない。ただあったことをそのまま、大らかに語り伝えただけである。だから上代に、まだ外国の説などといったものが入り混じらなかった頃には、世の人々はみな古い伝えを素直に伝えただけで、特に異論もなかったのだが、後に外国の小賢しい議論が入ってきて、人々はそういう説のうわべの見事さに騙されて、いにしえの伝えの真の趣を忘れてしまい、ひたすら外国の説ばかり信じることになった。そのため神の書を読み解く人も、みなその外国の説によって説こうとし、本当のいにしえの趣を理解する人は、世に一人もいなくなってしまったのである。だが本居宣長大人は、以前からその誤りを知り、少しも外国の考えを交えないで、全く皇国の古い伝えだけによって、神の書の趣を詳細に考えて、「古事記伝」を書いたので、ここにようやく神代からの真実の伝えが世に明らかとなった。私、中庸はつたない者ではあるが、神の御魂の祝福があって、幸いにもこの大人の同郷に生まれ、勤務の合間には直接その教えを受けて、正しい道の片鱗を伺うことができた。こうしてこの天地の成り立ちとあり方を、かの古事記伝によって見ると、人があれこれと作為して言っている、外国の説などは、とうてい及ぶところではない。実に限りなく深い神秘の妙であり、神代の伝説が最も尊いことが分かる。そこで、私が少し思いついたこともあるので、試みに大人に話して見たところ、それほど悪くもないとおっしゃってくださったので、その過程を十の図に描いてみて、また文も書き添えて一つの書にまとめ、「三大考」と名付けた。「三大」は「天地泉(あめ・つち・よみ)」の三つである。これを「大」と言うのは漢語のようでもあるが、書の題名だから、これでも良いかと思う。実際には、それらのありさまについて、外国のさかしらの説は一切採用していない。全く皇国の古い伝えに即していて、詳しいことは、すべて古事記伝に依っている。そのため、大部分のことは古事記伝に委ねて、詳しくは言わない。その書を参照されたい。日頃ただ漢の書物にばかり心を奪われている人は、奇妙に思うだろうが、そういう先入観は捨てていただきたい。

寛政三年辛亥五月

伊勢人 服部中庸

第一図

 

 

 

 

この円は虚空を表わす。現実にこうした円形のものが存在するわけではない。以下も同じ。

 

 

古事記によると、「天地の初めの時、高天の原に生まれた神は天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、その次に高御産巣日神(たかみむすびのかみ)、次いで神産巣日神(かみむすびのかみ)であった。云々」

この時は、まだ天地もなく、すべてただ虚空であった。天と地の生まれた初めは、次の部分に述べられている。それをここで天地の初めと言っているのは、後から言ったのであって、要するにこの世の初めを言っている。それに「高天の原に」と言うのも、まだこの時には高天の原はないが、この三神の生まれたところが後に高天の原という名になったから、そう言っているに過ぎない。

第二図

 

 

 

輪の中の三つの点は、前述の三柱の神を表す。

 

 

 

 

書紀によれば、「天地の初めの時、虚空の中に一つの物が生まれた。その形や色は言葉にできない」。あるいは「天地がまだ生まれなかった頃、たとえば海原の雲が、どこから生まれたともなく、ただ空に浮かんでいたように」、あるいは「天地の初めに、虚空に葦芽(あしかび)のようなものが生え出た」、また「浮き脂のようなものが虚空に発生した」などという。

このように書紀の各所伝は、少しずつ違いがあるけれども、すべてを考え合わせると、大体のところは分かる。「天地初判(天地の初めて分かれたとき)」というのは、単に漢文に似せたに過ぎない。「判」の字にこだわってはいけない。「天地未生之時(天地がまだ生まれなかった頃)」という文もある。また「虚中」、「空中」ともあるので、その時はまだ天も地もなかったことが分かる。日本書紀は漢文を真似た修飾を加えているので、細かく見ると文字の意味合いがぴったりしていない点が多く、漢籍に引き寄せられて、いにしえの伝えの趣旨がまぎらわしいものになってしまっているから、注意すべきである。○記では、この一物が生成したことは書かれていないが、「次に国稚(わか)くして云々」とあるので、すでに一物が生まれたことは分かる。○一物が生まれた後、次第に第十図に示すように成り終えるまで、すべての生成の過程は高御産巣日神・神産巣日神の産霊(むすび)によっている。その産霊はきわめて霊妙なものであって、その働きをわれわれの理屈で推し測ることはできない。この天地の初めを太極・陰陽・乾坤などという理屈で賢げに説く漢国人の説などは、すべてが産霊の神霊によって成り立っていることを知らないための妄説に過ぎない。

第三図


記によると、「次に国がまだ稚く(わか)、浮脂のように『くらげなすただよえる』とき、葦の芽のような萌え上がるものによって生まれた神の名は宇麻志葦牙比古遲(うましあしかびひこじ)の神、次に天之常立(あめのとこたち)の神、云々」。

前記の初めて生まれた一物は、浮脂のように、虚空に漂っていた。その中から、葦の芽のように萌え上がるものがあった。これが後に天になったものである。天になるべき物がすっかり萌え上がり終わって、その跡に残った物は、固まって地になった。しかしこの時には、まだ海と国土の区別もなく、すべてが入り混じったまま、ふわふわと漂っているばかりであった。

第四図


 

 

 

 

 

 

(これ以降の図は、外周の円を省いてある。紙の地を虚空と考えよ。)

地に生まれた十二柱の神は、記の文の順序に従ったまでである。必ずしもこれにこだわることはない。○黒白に分けて示したのは、黒いのは「身を隠した」とある神々である。

 

 

 

 

 

 

記には、「次に生まれた神は国之常立神、・・・上のくだり、国之常立神から伊邪那美神まで、合わせて神世七代という」。これを天神七代と呼ぶのは、後世の俗説である。この神々は天神ではない。地に生まれた神である。○前記葦の芽のように萌え上がるものは、次第に高く登り、次第に出来上がって天になったが、その跡に残った、後に地となった部分は、まだ固まらないで、混沌として漂っていた。○記によると、伊邪那岐命は、愛妻の伊邪那美命にもう一度会いたいと思って、黄泉の国に追って行ったという。つまり黄泉という国があった。しかし、その黄泉の生まれた初めのことは、記にも書紀にも述べられていない。伝えがないから、確かなことは知ることができないが、前記のように萌え上がるものがあって天になったことから考えると、一物から垂れ下がるものもあって黄泉になったのであろうか。それは根の国・底の国とも言って、地下にある国だからである。そこで、そういう意味でこの図を描いた。「泉」と書いた部分がそうである。泉の字は、漢文を借りたに過ぎず、この字について論じても始まらない。それが垂れ下がって生成したのは、天が萌え上がって成立したのと、どちらが先でどちらが後なのか、分からない。理屈で推測するのは、例の漢意であって、妄説である。なおこの黄泉のことは、第七図のところで詳しく言う。○これ以後、天・地・泉が分かれ、次第にその距離が開いていって、ついには第十図のようになった。

第五図


 

 

これ以降の図は、天に生まれた神々も地に生まれた神々も、その図に関連するものだけを挙げ、他は省いた。

 

○外国のある場所やその大小、また数は、この図では大まかな様子を描いたに過ぎない。ただし皇国のある場所はこの図のような様子になっている。その理由は次に言う。

○この図は、二柱の神が国を生み、また外国なども生まれて、国土と海が分かれた後の様子である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

記には「天神たちは、伊邪那岐・伊邪那美の二神にこの漂っている国を作り固めよと命じた。・・・この八嶋をまず生んだので、大八嶋国と呼ぶ。云々」、書紀によると、「ところどころの島々は、潮の沫(あわ)が凝り固まってできた。」という。二柱の神がこの大八洲国を生んだことは、世人が漢意で見るために、信じられないというので、種々生賢しい説が唱えられるのだが、それは自分勝手な理屈ばかりで、言うに足りない。ただ古伝のままを信じるべきである。人が子を生むように、神が腹から産んだものだ。その詳しいありさまがどうだったか、伝えられていないので分からないが、考えてみると、まず高天の原から下って、天の浮橋に立ち、沼矛(ぬぼこ)で前記の浮き脂のように漂っていたものをかき回し、鉾を引き上げるときに、その先端からしたたり落ちたしずくが凝り固まって、オノゴロ島になった。そのしずくは微少なものだが、それが生じたことで、その周りに漂っていた物質が集まり、一緒に凝り固まって、広く大きな島になったのだから、大八洲を生んだのも、そのように二柱の交合の滴が女神の腹に宿って凝り固まり、生み出したばかりの頃はやはり微少なものであって、そこに漂っていた物質が集まって、大きな国土になったのである。卑近な例では、人の生まれる様子を考えてみると良い。父母の性交の時に出る滴は小さいものだが、月日と共に大きくなって、人の子の形になるではないか。また人も鳥獣・魚虫なども、生まれたばかりの時には小さいけれども、次第に成長して大きくなる。中でも蛇などは、生まれたばかりのときは普通の虫と変わらないが、長い年を経て大蛇になると、ことのほか大きい。草木も同じことで、生えたばかりの双葉の頃は至って小さいが、長年の間には雲を衝くばかりの巨木になる。神代の年月は極めて長いのだから、この国土も、生まれてから現在の形に出来上がるまでは、何万年も経過しているだろう。その間には、どのようにでも大きくなるはずである。国土の生まれた最初は、産霊の神の特別な神霊によって生まれたわけだから、女神の腹から産み出されたことを疑う余地はない。このことを疑うのは正しい倭魂(やまとだましい)ではない。生賢しい漢意の考えである。こうして国を生んで、国土と海水が分かれることで、次第に大地は固まってきた。○諸外国の初めは、二柱の神が大八洲を生み、国土と海水が分かれるに従って、あちこちで潮の沫(あわ)が凝り固まり、上記のように大きくも小さくもなった。これもまた産巣日神の産霊によって生まれたのだが、外国はこの二神の生んだ地ではない。ここが皇国と諸外国の尊卑、美醜の分かれるところである。この後、諸外国はみな少名毘古那神が造営した。上記のことは、すべて古事記伝に出ている。参照して、その理由を知るべきである。○皇国のありかは、図のように大地の頂上である。というのは、初め葦の芽のように萌え上がったものの根の部分だからで、天地が分かれた後も、なおしばらくは天の浮橋というところを通じて天地を往来できた国であり、今も完全には断絶せず、天とまっすぐに向かい合っている臍のところこそ皇国だからである。そもそも大地は虚空に浮かんでいた球体であるから、どちらが上、どちらが下、あるいは横と言えるものではない。こちらから下と見える場所では、また自分が上で、こちらは下と思うものである。だが横の方でも、どの場所も同じことであると考えるのは表面的な理解であって、天地が離れた後の、現在の状態だけを考え、元の状態を知らないからである。大地には上下もあり、前後もあるという、師の説もある。第十図のところで言う通りである。


第六図

記に、「既に国を生み終えて、さらに神々を生んだ。・・・伊邪那美神は、火の神を生んだことにより、遂に死んだ。・・・伊邪那岐命はその愛妻伊邪那美命にもう一度会いたいと思って、黄泉の国まで追って行った。・・・そこでその伊邪那美命を黄泉津大神(よもつおおかみ)と言う。・・・その所謂黄泉比良坂(よもつひらさか)は、今出雲の国の伊賦夜坂(いうやざか)であると言う。」とある。これ以降、黄泉の国にいる神は伊邪那美命である。だがこの段の伊邪那美神の言葉に「黄泉神(よもつかみ)と相談しよう」とあるから、その時既に別の神もいた。そこで第四図にはこの神も挙げておいた。しかしその名も伝わらないし、何柱だったかということも記載がないので、特に重要な神ではなかったのだろう。○黄泉比良坂は、この世と黄泉の国との境界である。それはこの世から大地に入る際(きわ)なのか、大地の中にあるのか、大地と黄泉の国との間にあるのか、詳しくは伝わっていない。記によると、出雲の伊賦夜坂がその場所のようである。しかしそれは、単に「黄泉比良坂に通じるところは伊賦夜坂だ」という意味で語り伝えたのだろう。

第七図

 

 

 

 

 

天は日である。その中にある国を高天の原という。
泉(よみ)は月であって、その中にある国を夜之食国(よるのおすくに)という。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

記に「そこで伊邪那岐大神は言った。・・・筑紫の日向の阿波岐原(あわぎはら)に到って、禊祓(みそぎはらい)をした。・・・このくだり、八十禍津日(やそまがつひ)の神から速須佐之男命まで、十柱の神は、身を滌(すす)いだことによって生まれた神である。・・・天照大御神に『お前は高天の原を治めよ』と言った。・・・次に月讀命に『お前は夜之食国を治めよ』と言い、次に須佐之男命に『お前は海原を治めよ』と言った。」とある。

高天の原は、天にある御国である。書紀によると「大日レイ(靈の下の巫を女に置き換えた字)貴(おおひるめのむち:天照大神のこと)は・・・このとき、天地はまだそれほど離れていなかったので、天の柱を通って天上に上がった」という。天と地と泉は、初めは一体であったのが、次第次第に分かれ、遠ざかっていったのだが、この時にはまだそれほど遠くなかったことは、以下の図を見て理解すべきである。○また書紀に「伊弉諾尊は天に登って報告を済ませ、仍(そのまま)日の少宮(わかみや)に留まった」、という。日の少宮が天上にあることは、「仍留」の字で明らかである。○天は、漢国などでは虚空の他に何か実体があるものではなく、あるいは理屈付けをし、あるいは「気」について言うだけである。またいろいろと何かありそうに説くこともあるが、それも実体のあるものとしては言わない。だが皇国の古い伝えでは、虚空と天は別であって、天はもともと葦牙(あしかび)のように萌え上がるものが成ったものなので、はっきりした実体があり、高天の原と言って、その国もある。天竺などで言う天は、高天の原に似て実体があるけれども、それはみな妄説だから、論ずるに足りない。ところで高天の原が虚空の上にあると考えるのは、表面的な理解で、誰でもそう思うだろうが、その高天の原を治める天照大御神は、今現実に空に見える(太陽のこと)のに、高天の原というものは見えたことがない。また大御神は大地を廻って、下の方へも回り込むので、高天の原は上にあると言い切ることはできない。たとえ高天の原はあまりに遠いので見えず、大御神はその光が強いから形だけが見えるといっても、地の下をも廻っているのをどう説明しようか。異国の説にある天のように、高天の原は大地を包んで、上下四方全体にあると言っても、かの葦牙のように萌え上がって天になったというのに会わない。だから、この高天の原のある場所は、どう考えてもはっきりしない。そこで私、中庸がつくづく考えてみて、異国で言う天はどうであれ、わが古典で天と言い高天の原というのは、虚空でもなければ虚空の上にあるのでもない。日が即ち高天の原なのだろう。とすると、日は天照大御神ではない。その治める国であって、大御神は日の中にいるのだ。というのは、記の神武天皇の段で、「私は日の神の子孫だから、日に向かって戦うのは良くない」とあり、これによって日と日の神とは別であることが分かる。日の神とは日を治める神ということで、高天の原を治める神というのと同じである。須佐之男命が天に登ったとき、大御神は男のような装いをして待っていた。このことから、人のような体を持つ神であったことは明らかである。八咫鏡をこの大御神の御象(みかた)と言うのは、大御神自身は人のような姿だが、光が強いために遠目には丸く見えるのだとも言えるが、それはこの地上から見たときのことであり、鏡を作ったのは高天の原でのことなのだから、御形を写すのであれば、その実際の姿を写すべきだろう。どうしてこの地上から見た姿を写す必要があるだろう。そもそもこの鏡を大御神の御象だというのは、書紀の一書にあるだけで、その他のどの一書にもなく、この記にも出ていない。とすると、この鏡は、天照大御神の姿に似せたのでなく、姿を映すためのものである。それは大御神が天の石屋にこもったとき、この鏡を見せて、大御神自身の姿が映っているのを見て、自分と同じぐらい尊い神が訪問したのだと思わせるために作ったものだった。かの書紀の一書の説は、「姿を映す」ということと「姿を写す」ことを取り違え、誤って伝えたものである。ところで日はかの葦牙のように萌え上がるものが成ったものであり、天というのは、すなわちこれである。またこれを高天の原と呼ぶのは、古事記伝にある通り、その天にも、この地上のように国があるのである。ただしこの地上の国はみな地球の外表面に貼り付いたように存在するが、高天の原は内部にあるようだ。というのは、記で天若日子が雉を射上げた矢は、高天の原にいた高木の神のところにまで届き、それを射上げたときの穴から突き返したとあるからだ。内部に国があることを、この地上の例から疑うべきではない。物の理は際限なく深く霊妙だからである。天は、元来その質がこの地上とは異なっている。清らかに透き通っているので、内側の国に住む大御神の光も外へ透き通って、虚空も大地も、あまねく照らすのである。とすると日の光と思っているものは、実は日の光でなく、天照大御神の放つ光輝である。また第三図・第四図に挙げてあるように、高天の原には五柱の天神がおり、また伊邪那岐命もいるのだが、その高天の原を治める君主は、天照大御神ただ一人である。だが君主でないなら、その他の神は臣下だと思うのは漢意である。君ではないが、臣でもないのだ。みな極めて尊い神々である。○夜の食国(おすくに)というのは、私、中庸の考えでは、泉(よみ)の国である。泉は根の国・底の国とも言って、大地の下の方にあることは、図の通りだ。その泉はすなわち月であって、月読命が治める国である。とすると、月読命は月ではない。月の中にいる神である。これは天照大御神が日の中にいるのと同じことである。というのは、夜の食国というのを、ただ月が夜を照らしていることと思ったのでは、食国というのに合わない。必ず国があるはずだ。泉の国は夜の国で、その国を治めているから月読命と言うのである。国の名の「黄泉(よみ)」と、神名の「読(よみ)」と、全く同じであることを考えよ。「よみ」とは、月は夜見えるものだから付いた名だろう。書紀の一書で、月読尊が保食神を殺した段に、「天照大神は・・・月読尊と一日一夜分かれて住んだ」とあるが、この「一日一夜というのは納得できない。たぶん古伝に「日夜」とあったのを、漢文めかした潤色を加えて「一日一夜」と書いたのだろう。書紀にはそういう例が多い。「日夜分かれて住んだ」というのは、天照大御神は高天の原に住み、月読命は夜の食国にいるからである。その隔て離れる様子は、図で理解して戴きたい。大御神の名は「大日女(おおひるめ)の命」とも言って、その光の及ぶ限りを昼と言い、光が及ばないところを夜と言う。夜の食国は、大御神の光が及ばない国である。そもそも現在のように日月が廻るようになったのはずっと後のことで、それは第九図、第十図のところで言う。初めのうちは、ここまでの図のように、天地泉の三つが接続していたので、旋回することもなく、泉は大地に遮られて、いつも日の光は届かなかった。この夜の食国は、高天の原のように内部にあるものか、大地の国のように外側にあるものかは分からない。もし外側にあるものなら、月の中に何かむらむらと見えているのは、その国ではないだろうか。黄泉の国には、伊邪那美命がいるけれども、そこを治めているのは月読命である。ある人はこれを疑って、「夜の食国が月だというのは分かる。しかしこれを根の国・泉の国と同一だというのは納得できない。根の国は、須佐之男命が追い払われて行った国である。月読命が治めている国ではないだろう。」と尋ねたが、私はこう答えた。「伊邪那美命が泉の国にいるのは、須佐之男命が「妣(母)の国・根の堅洲国」と言ったので、黄泉と根の国が同一であることは論ずるまでもない。その根の国を夜の食国とする理由は、まず師の古事記伝九の巻で、月読命と須佐之男命は同神ではないかと思われる点が多々ある、として、その理由を挙げている。私、中庸がつくづくと考えたところ、書紀に「月読尊は滄海原(あおうなばら)の潮の八百重(やおえ)を治めよ」とあるのだが、また一書および記には、須佐之男命に「滄海原を治めよ」とあって、現に潮の干満が月の運行に伴っている。これは、須佐之男命が月読命と同一神であることを示しているようではないか。また書紀の諸伝を見ると、どの一書でも須佐之男命の悪行を書いてあるが、かの保食神の一件に関しては、須佐之男命は登場せず、月読尊の悪行となっていて、記ではそれが須佐之男命のしわざとなっている。これらは、同一神だからこそと思われる。また月読命の「読(よみ)」と「黄泉(よみ)」と名付けた夜の食国とは、関連するだろう。記で、須佐之男命が初め大泣きに泣いた(泣きいさちる)理由を伊邪那岐命が尋ねると、「僕は母の国・根の堅洲国に行きたい(欲レ罷)。それで泣いている」と答えた。この「欲レ罷(まからんとおもう)」は、母の国に行きたいと希望しているように聞こえるだろうが、そうではない。「欲」の字は「将」の意味で、「罷らんとす」と解するべきである。つまり穢れた泉の国に行かねばならない悲しさで泣いていたのだ。つまり、初めからこの神には「黄泉の国を治めよ」と事依さして(任命して)あるのであって、これは月読命に夜の食国を治めるよう任命したのと同じである。書紀には、「素戔嗚尊は破壊的なことを好む性質だったので、根の国を治めさせた」、また「お前は極遠の根の国を治めよ」などとあり、最初から根の国を治めるよう任命してあったように思われるのと考え合わせよ。おそらく、須佐之男命というのは月読命の一名であったのが、まぎれて別神のように伝わり、事依さしの件など、すべて二つになったのである。書紀に「月神は日の対となって天を治める。そこで天に送った」などとあるのは、月日が大地の周囲を旋回するようになってから、その外観を見て伝えたことだろう。月読命と須佐之男命を同一神と考えて読むと、その元の紛れは顕著で、すべて明らかになり、夜の食国が泉の国・根の国であることは疑いがない。

第八図


記によると、「大穴牟遲命・・・御祖(みおや)の命は子に『須佐之男命のいる根の堅洲国へ行きなさい。あの大神がいいように取り計らってくれるだろうから』と言った。そこで命ぜられた通り、須佐之男命のもとを尋ねて行った。・・・大神は黄泉比良坂まで追ってきて、遙かに遠くから大穴牟遲命に呼ばわった。・・・国作りを始めた。」、「それ以降、大穴牟遲命は少名毘古那神と二神相並んで国を作り固めた。だが後に、少名毘古那神は、常世の国に行ってしまった。」ともある。大国主命が生きたまま泉の国に行き、また還ってきたのは、この記載の通りである。とすればこの頃、まだ大地と泉は離れておらず、地中から通う道があったのである。黄泉比良坂のことは、第六図を参照せよ。

この後、記によると「天照大御神が「豊葦原の千秋長五百秋(ちあきながいおあき)の水穂の国は、私の子、正勝吾勝勝速日天忍穂耳の命が治めるべき国だ」と言って、天降らせた。このとき天忍穂耳命は天の浮橋に立って言った。・・・また天に上って・・・」また「日子番能邇々藝命がいざ天降りしようとしているとき、天の八衢(やちまた)にいて、上は高天の原を照らし、下は葦原の中つ国を照らしている神があった。」

第九図

記には「天津日子番能邇邇藝命は、天の石座を離れた。天にたなびく雲を押し分け、神威によって道を押し開いて、天の浮き橋に立ち、ついに筑紫の日向の高千穂の久士布流多氣に降り立った。」とある。天の浮橋の行き来は、初め伊邪那岐・伊邪那美の二神が天地を往来したときには近い距離だったように思われるが、この皇御孫命の天降りの様子は、非常に遠いようであり、次第に天地の間が離れていったと思われる。天の浮橋は天地が相続く筋であるが、天地が離れて行くに従って、次第に細く薄くなって、皇孫の天降るまではまだあったけれども、天降って後はとうとう切れて断絶し、永久に天地の行き来はできなくなった。これは喩えて言うと、人の子が、生まれるまでは臍の緒で胞衣とつながっているのが、誕生後は切れて離れるようなものである。これらは単に状況が似ているというのでなく、意味合いもそっくりだ。皇孫の天降ったのは、子供が生まれたようなものだ。二柱の神が生んで作り、天照大御神が生まれたこの国の君主が決まって、天降り治めたのは、この天地が完全に成り終わったのである。これは木や草の実が熟するのと、全く同じ理屈だろう。これからしても皇国が天地のもとであり、皇孫の命が四海万国の大君であることは明らかで、尊貴などと言うのもまだまだ平凡な表現である。それを世の人々は、いたずらに外国の妄説に惑わされ、皇国がこれほど尊いことを知らない。たまたまこういうことを聞いても、かえってそれを論破しようとするのは、どうした曲がった心だろうか。○天の浮橋のことは、上記の書物などを見ると、古事記伝にも言われているように、一つだけだったのでなく、あちこちにあったらしい。たぶん筋は一筋だったが、その端が地上に着くところで幾筋にも分かれていたのだろう、それともその筋が下の方では分かれていたのかも知れない。そういう細かいことは分からない。いずれにしても、全体の様子は変わらない。○地と泉が断絶した時期がいつかということは、分からないけれども、天地が離れた時代に準じて、おおよその時期は推測できる、大国主命が、生身のままで黄泉の国とこの世を行き帰りしたことは、上述の通りである。その後、長い時間をかけてこの国を作り固め、経営した。しかし出来上がった後は、皇孫の命にこの国を譲り、八十クマ(土+冂の中に口)手(やそくまで)に隠れてご奉仕するというのは、この世を去って黄泉の国に住み、幽事(かくりごと)を掌るということで、普通の人の死と同じように聞こえるので、このときには、もう地上から黄泉に通う道は途絶えていたのだろう。これも細かくは知ることができない。普通世の人々が死ぬときには、屍はこの世に留まり、魂だけが黄泉に行くので、この国から続く道がなくても行けるのだが、生き身のままで行き来するのは、その道がなければならないはずである。

第十図

○天・地・泉の大きさ、小ささは、必ずしも図の通りではない。その間の距離も、図とは関わりがない。この図は、非常に距離を縮めて描いてある。







 

 

                                                        

 

 

 ○これは天・地・泉が連結していた頃の筋が断絶し、天も泉も、大地の周囲を旋回するようになったところの図である。こういうように図に表したのは、ほぼ月齢が十五日の正午頃に、西の方から見たときの、おおよそのありさまである。

 

天は日のことで、泉(よみ)は月である。それらは上の図に示したように、初め天・地・泉は三つの珠を貫いたように、一本の筋によって連結していて、天はいつも大地の頂にあり、泉は常に地の下の方にあって、いずれも大地から見ると動くことはなかったのだが、皇孫命が天降って、天下を治めるようになってからは、その続いていた筋は切れて断絶し、三つの独立した玉になった。これ以来天と泉が大地の周りを廻り始めて、現在のようになった。これらは、神の産霊の、極めて深く霊妙な理によるので、人間の浅知恵でなぜそうなったか、いつそうなったかなど、測り知ることはできない。世人が日はすなわち天であり、月はすなわち泉であることを知らないのは、初めまだ回っていなかったとき、いつも天は頂上にあり、根の国は下の方にあったことに慣れて、頂上を天と考え、根の国は地下にあると思い込んでいるので、廻るようになった後でも、まだそのときのままにとらえ、廻るものを日月と呼んで、天・泉とは別物と考えるからである。ある人がこう質問した。「日が廻ることなく、いつも頂上にあったときには、昼夜の別はなかったはずだ。大地の上半分はいつも昼、下半分はいつも夜である。ところが鎮火祭の祝詞にある、伊邪那美命の言葉には、『日七日夜七夜』とあり、記の黄泉の段に『一日』とあり、大穴牟遲神が泉の国に行った段にも昼夜があった様子が見えるし、天若日子の段にも『日八日夜八夜』とあって、これらはみなまだ皇孫命が天降る前の出来事だから、日が廻り始めるより前のことだ。、一体何によって昼夜を分けたのか、不審である。」答え。「日月が地の周りを廻るようになったからこそ、日の出入りで昼夜を分けるようになったのだ。まだそうなっていなかった頃は、日の出入りでなく、他の方法で昼夜を分けて、世が運営されていたのであって、その昼夜の長短もあっただろう。そして後に日が廻るようになってからも、昼は地の上方を廻り、夜は下の方を廻るように、その長短なども、本来のままに運行しているのだろう。泉国は、元は地の下にあったので、いつも日の光が当たらなかったため、暗かったのだが、他に光があったかどうかはともかく、やはり昼夜の定まりがあったことは、この国土と同じである。それに地の下半分に存在する国々の昼夜については、今も『夜国』といって、夜がちの国もあると言うから、当時の地の下半分に日の光が当たっていなかったことは、論ずるまでもない。すべて外国の地が成り終わったのは、皇国よりはるか後のことと思われ、まだ皇孫命が天降らなかった頃のことは、とかく論ずることはできない。百余万年も前のことだからである。」また質問する。「日神が天石屋に籠もったとき、『天地共に常夜往く』とある。昼夜を分けるのが日の出入りに関係ないとすると、闇になったからと言って『常夜』とは言わないはずだが、どうか。」答え。「闇になったことを常夜と言うのは、後代の言で表現しただけだから、問題はない。こうしたことは、しょっちゅうある。長鳴鳥(鶏)を鳴かせたというのも、大御神が普段からこの鳥を愛好していたと考えれば、おかしくない。ただ納得できないのは、沼河比賣の歌に、『青山に日が隠(かく)らば、ぬばたまの夜は出(いで)なむ』とある。この時まだ日は廻っていなかったのに、こう歌ったのは不思議である。」またある人は、こう質問した。「皇国は大地の頂にあって、正しく天に向かう国であるというのは納得できない。もしそうだったら、日の廻りは、春分・秋分の時、天の中央を通るはずだが、実際は南の方に片寄っており、斜めに廻っているのを見ると、大地の頂上とは言い難い。どうか。」私はこの理屈が分からなかった。師に質問したところ、師の考えでは、「これは人の顔が頭の頂上でなく、目も鼻も口も、前の方に片寄って付いているのと同じである。地は休憩をしていて、その形には上下前後の違いはないようだが、実際には違いがないわけでもない。日月星はみな、東から西へと廻って、南北に廻ることがない。そのため、だから日を常に横の方に見る国もある。とすればこれは、明らかに東西と南北の違いがあるということで、どの方向も同じというものではない。これに準じて、上も下もあることを悟るべきである。つまり上の方の真ん中は皇国であって、南の方は前である。北の方は後ろで、東は左、西は右である。<訳者註:中国などでは『君子南面す』といって、貴人は南向きに着座するものとされていた。南を向くと、東は左になる。>だから日月がやや南に寄って廻るのは、人の顔が前の方にあるのと同じことで、前の方を廻るということからも、皇国が頂上に位置するということはますます明らかである。」ということであった。また質問があった。「それが本当なら、日月をやや南に見る国は、みな大地の頂上と言える。なぜ頂上は皇国と限定できるのか。」答え。「皇国が地の頂上だというのは、日月が南に寄って回転するから分かるのではない。本来頂上だから、日月が南寄りに廻ると言っているのだ。だから皇国と同じように日月が南に傾いて見える国々があるのは、たまたま皇国の東西に当たる筋(緯度)が近いからに過ぎない。」○日と地と月の三つは、初めは一つであって、均一に入り混じって、かの浮き脂のような物質であった。その中に清明なるものが分かれて、葦牙の萌え出るように、上の方に上がり去って天となったのが日である。重く濁ったものは、分かれて下に降り去って、泉になったのが月である。そしてその中間に残りとどまっている物質が大地である。だから日の質は清明であって、地においては火に近いものである。しかし火と全く同じというわけではない。かの浮き脂のような物質の中で渾然としていたうちは一つだったが、すでに分かれて日になったところと、地に残りとどまって、火になったところとは違いがあり、地にある火は、日が昇り去った後に残った滓のようなものである。元が同じだから、熱いことも明るいことも、よく似ている。しかし日と火の熱さは、全く同じではない。また明るさも日は火と違っており、火のように物を照らす光はなく、喩えて言うと炭火のようなものである。この世を照らす光は、日の光ではない。この光は、その中にいる天照大御神の放つ光である。なぜ分かるかというと、大御神が天石屋に籠もったとき、天地がみな暗くなったからである。」ある人が質問した。「火は日の滓のようなものという。その滓に光があって、日に光がないというのは、どうしてか。」答え。「滓は凝り固まったものだから、かえって光は強いのだろう。同じ火でも、炭火などは、炭に着いているだけで、火として凝り固まっていないので光らない。燃え上がった火は、純粋に火として凝り固まって燃えるので光るということから分かる。日は何か物に着いているのではないが、本来清明で、凝り固まっていないものが成ったのであって、火とはそのさまが違う。また月の質は重く濁って、この国土に於いては、水に似たものである。しかしこれも水と全く同じではない。分かれ下って月になったところと、地に残りとどまって、水になったところでは、違いがあって、地にある水は、月が垂れ下がり終わった後に残った滓のような物である。ただしこれは、重く凝り固まって濁ったものの滓であるから、滓の方がかえって軽く淡いのである。現に潮の干満が月の廻りに従うのも、本来同じ物の部分だから である。ところで、記で須佐之男命に治めよと命じた海原、また書紀に「滄海原(あおうなばら)の潮の八百重(やおえ)」とあるのは、泉の国を言ったのでもあろうか。○前述のように、天地がつながっていた頃の天の浮橋は、幾筋もあったように聞こえる。それなら、富士、信濃の浅間嶽、日向の霧島山などは、その筋が切れて離れた痕跡ではあるまいか。山の形もそういう様子をしている。また今でも火が出るのは、初めに昇って行った「気(け)」の名残が、なおも残っていて、昇るのではなかろうか。○水晶などを使って、日の火、月の水を取るということがある。これは日は火、月は水であるから、その火や水が降って来るのだと思うだろうが、そうではない。日月が親しくうつるので、その「気(け)」に引かれて、地中の火や水が寄ってくるのである。<訳者註:この項意味不明。ガラスレンズのことか.。淮南子「天文訓」に陽燧(ようすい)という器具で日の火を取るとあるが、これは銅盤で凹面鏡を作り、焦点のところに置いたものを燃やす仕組みである。陰燧または方諸というものも挙げられ、大はまぐりで月光を集めると水が取れるという。陽燧は今でも正しいが、方諸は五行説による妄想にすぎない>○遙か西の国の説に、この大地も常に回転しているという説もあるそうだ。一般に西の国は、こうした測りごとが非常に精密だから、そういうこともないとは言えない。だが大地が回転するとしても、いにしえの伝えに合わないというものではなく、上記の論旨にも問題はない。○外国では、星を日月に並んで重視するが、皇国の古い伝えには星のことは出て来ない。ただ書紀に、「星の神香々背男(かかせお)」という賤しい神の名が登場するだけである。日月と並べて大げさに言い立てるようなものではない。

寛政三年五月廿五日に書き終えた。

           服部中庸


三大考を読んで、最後に書く(あとがき)

はとりの中つね(服部中庸)のこの「あめつちよみ(天地泉の三大)のかむがへ(考)」は、かの知識深く、ものをよく考えるという西洋人も、まだ考え至るに及ばなかったことを、見事に解明した。驚くべき考えである。こうして高天原も夜の食国も、不審だった点が余すところなく、すべて明らかになった。これによっても、いにしえの伝え事は、いよいよますます尊いことである。皇国の成り立ち由縁は、いよいよますます尊いことである。

宣長


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