『古事記傳』18


白檮原の宮の巻【上巻】

神倭伊波禮毘古命。<自レ伊下五字以レ音>與2其伊呂兄五瀬命1<上伊呂二字以レ音>二柱。坐2高千穗宮1而議云。坐2何地1者平聞=看2天下之政1。猶思2東行1。即自2日向1發幸=御2筑紫1。故到2豊國宇沙1之時。其土人名宇沙都比古宇沙都比賣<此十字以レ音>二人作2足一騰宮1而獻2大御饗1。自2其地1遷移而於2竺紫之岡田宮1一年坐。亦從2其國1上幸而。於2阿岐國之多祁理宮1七年坐。<自レ多下三字以レ音>亦從2其國1遷上幸而。於2吉備之高嶋宮1八年坐。

訓読:カムヤマトイワレビコのミコト、そのいろせイツセのミコトとふたばしら、タカチホのミヤにましましてはかりたまわく、「いずれのところにまさばか、あめのしたのまつりごとをばタイラケクきこしめさん。なおヒムカシのかたにコソいでまさめ」とのりたまいて、すなわちヒムカよりたたしてツクシにいでましき。かれトヨクニのウサにいたりませるときに、そのクニビトなはウサツヒコ・ウサツヒメふたりアシヒトツアガリのミヤをつくりてオオミアエたてまつりき。そこよりうつらしてツクシのオカダのミヤにひととせましましき。またそのクニよりノボリいでまして、アギのクニのタケリのミヤにななとせましましき。またそのクニよりウツリのぼりいでまして、キビのタカシマのミヤにやとせましましき。

口語訳:神倭伊波礼毘古命は、彼の兄五瀬命と二人、高千穗宮で相談して言った、「どこに住んだら、天下を平らかに治めることができるだろうか。やはりもっと東に住んだ方がいいだろう」。そこで日向を出発して、まず筑紫に向かった。豊国の宇佐に到ったとき、宇沙都比古、宇沙都比賣という国人に出会った。彼らは足一騰宮(あしひとつあがりのみや)を作って一行をもてなした。そこから筑紫の岡田の宮に移動して、一年滞在した。また移動して、安藝の多祁理(たけり)の宮に遷り、七年暮らした。さらに遷って、吉備の高嶋の宮で八年間暮らした。

神倭伊波禮毘古命(かむやまといわれびこのみこと)。名前の意味は、巻十七【九十一葉】で述べた。【書紀に「諱(いみな)は彦火々出見(ひこほほでみ)」とあるのは納得できない書き方である。この天皇を「彦火々出見」と名付けた由縁は、伝十六の四十六葉で言った。しかしこれを「諱」と言うのは、漢籍に「〜帝の諱は〜」と書いてあるのを模倣したのだが、事実と大きく異なっている。皇国の上代の天皇たちの名は、諱などと言うべきではない。尊貴な人の名を呼ぶことを忌み憚るのは、外国の習慣だ。名はその人を誉め讃える意味のもので、上代には称え名でもよく「名」の字を付けた。大名持といったたぐいである。だから後世、万事漢の風俗を取り入れるようになってからこそ、天皇の名を諱と言うようになったが、上代のはどれも諱とは言えない。仁賢紀に「諱は大脚(おおし)」と書き、註に「他の天皇は諱を言わないのに、この天皇にだけ書いたのは、旧本によっただけのことである」と書いてあるが、この「大脚」を諱としたのも間違いだ。「他の天皇には諱を言わない」と書いてある以上、この天皇の彦火々出見という名も、古い書物には諱とされていなかったのを、撰者がさかしらにそう書いたのが明らかだ。上代に名を忌むということはなかったのだから、「いみな」などという語も古言ではない。「諱」の字の読みとして後に作った語である。またこれを「ただのみな」と読むのも古言ではない。これは称え名や諡(のちのな=おくりな)に対し、ただ普通の呼び名という意味で、後に作った語である。】この天皇は、後の漢風諮号では神武天皇という。すべて天皇の漢風諮号は、弘仁私記によると「師(太安萬侶か)の説で、~武などの諡は淡海御船が勅によって選んだものだという」とあって、実際そうなのだろう。【それは桓武朝のことだとある人が言ったのも、そうだろう。この御船という人は、続日本紀に「天平勝寶三年正月辛亥、無位御船の王に淡海の真人という姓を賜う」とあるのを初めとして、次々に官位を進め、「延暦四年七月庚戌、刑部卿従四位下兼因幡の守、淡海真人御船が卒した。・・・年六十四」とあって、そこに伝記が記されている。参照せよ。この人は廃帝(淳仁天皇)紀に「敏性聡慧で文史に明らかである」と書かれており、光仁紀にも「寶字以降は文人の首になった」とあって、大学頭、文章博士などにも任ぜられている。だから前代の天皇の諮号をこの人に命じて選ばせたのは、いかにももっともなことだ。桓武朝のことだと言う説もそうだろうというのは、続日本紀を見ると、持統以降、天皇が崩御した際は、和風諮号を奉ったことばかり書かれていて、漢風諮号のことは全く見えない。しかし天平宝字二年八月に寶字稱徳孝謙皇帝という尊号を奉ったことが出ている。これはその天皇の御世のことで、諡ではないが、漢風の音読による尊号の初めである。その同じ月に、豊櫻彦天皇に勝寶感神聖武皇帝という尊号を奉ったことも出ていて、これこそ漢風諮号の初見だ。しかしこの時にも、歴代の天皇に漢風諮号を贈った様子はない。光仁天皇が崩じ、尊諡を奉って「天宗高紹天皇」と称した。これは漢風諮号のように見えるけれども、そうではなく、まだ古い和風諮号である。文武天皇の「天眞宗〜」、桓武天皇の「皇統〜」などというのも、わが国の諡ではあるが、どことなく漢風の響きがあるのは、次第に漢国の様式が浸透してきたためだろう。この天宗高紹天皇というのも、漢風諮号は光仁天皇であって、本紀の初めには細字で光仁天皇と註してある。続日本紀では、すべてまず和風諮号を書き、その下に漢風諮号を注してあるので、これもその例に倣ったことは明らかだ。またこの後、仁明天皇まですべて和風諮号があるから、光仁天皇にだけないわけがない。孝謙天皇は出家したので、諡を奉らず、上記の宝字二年の尊号を用いるとある。嵯峨天皇の場合は、あったのに伝えられなかったのか、もともとなかったのか、物の本には見えない。これらの天皇以外は、仁明まですべて和風諮号がある。その後桓武天皇の時、淡海御船真人が在世した延暦四年七月までの間に、~武以後仁明天皇までの漢風諮号が選ばれたようである。というのは、延暦十六年に成立した続日本紀に、古代天皇の漢風諮号がしばしば見えるからだ。第一巻に天武天皇、天智天皇などという名がある。しかしこのように漢風諮号で記述した部分を見ると、それはみな撰者の文であり、昔の文を載せたところではどれも「〜の宮に御宇(あめのしたしろしめす)天皇」、あるいは「〜の宮の朝」とだけあって、漢風諮号で書いたところはない。これらの事実で、漢風諮号が選ばれた時期が分かるだろう。ところが甘露寺親長卿の記などに「文武天皇の御世、淡海公藤原不比等に勅して選ばせた」などとあるのは、あまり深くも考えずに書いたのである。たぶん淡海の御船という名はよく知られていないので、何となく淡海公と思い違えたのだ。○ついでに言うと、いにしえの御世については、普通たとえば「近江の大津の宮に御宇す天皇(天智天皇のこと)」、「飛鳥浄御原朝(天武天皇のこと)」などと書いたのを、後世の人は後の漢風諮号ばかり知って、真の本名を知りもせず、古い書物に書かれた名を見ても、どの天皇のことか分からない。ひどいのは、漢風諮号をその天皇の本名と思い込み、上代の事実を疑いさえする。古代を尊ぶ人は、よく心得るべきだ。○またついでに言うが、古文に「〜宮御宇天皇の御世」というのを、後世の俗文でどれも「〜天皇の御宇」と書くのは間違いだ。「御宇」は「天下を所知看(しろしめ)す」ということで「御宇の時」、「御宇の御世」となら言えるが、単に御宇と言ったのでは、その御時ということにはならない。】○「與2其伊呂兄五瀬命1(そのいろせイツセのミコトと)」。伊呂兄(いろせ)については伝九【二十六葉】にあり、五瀬命の名の意味は伝十七【九十葉】に書いた。○ここの注に「上伊呂」とある「上」の字は衍字だろう。他にこうした例がない。○この時の状況を考えると、五瀬命は葺不合命の第一子であり、父の死後は、この人が天津日嗣を受け継いだはずだ。【書紀には、この兄弟の生まれた順序に五つの異伝があるが、どの伝えでも五瀬命が長子である。】だからおそらく伊波禮毘古命も稲氷命や御毛沼命とともに、弟として五瀬命に仕えていたのだろう。しかし五瀬命は東征途上で命を落とし、業績を完成させられなかったので、そのことは確かな伝えにはないが、ここで特にこの一柱の名を挙げていることでも、本来は君主だったことが明らかだ。【もしこのとき、すでに伊波禮毘古命が天津日嗣の御子として、兄弟と相談したのだったら、稲氷命や御毛沼命も兄だから、ここにその名も挙げるべきだが、五瀬命だけを挙げている理由を考えよ。】とすると、ここを当時のありのままに書くと、「五瀬命はその弟若御毛沼命と云々」とあるはずだが、若御毛沼命が【伊波禮毘古命のことだ。】大業を成し遂げ、ついに天下を治める人となったので、その御世の初めを書くにも、この人を第一に挙げ、五瀬命を従のように書いたのだ。【このところは、書紀では初めから伊波禮毘古命が主とされ、「その兄たちと子供たちに言って」と書いてあり、五瀬命を特に取り上げてはいない。この記の趣とは異なる。しかしそれも伊波禮毘古命が天下の主となった後で書いたからそうなっているので、実際の主は五瀬命だっただろう。】五瀬命が崩じたとき、次は稲氷命が天津日嗣を受け継ぐはずだが、末っ子だった伊波禮毘古命が受け継いだのはなぜかと言うと、一般に上代には、幾人かの御子の中で、特に日嗣の御子と決まっているのが、必ずしも一柱ではなかった。日代の宮(景行天皇)の段にその証拠がある。【このことは、そこで詳しく言う。】とすると、この兄弟四人のうちで、五瀬命と伊波禮毘古命の二人が何かの理由で日嗣の御子と決まっていたのだろう。【あるいは、稲氷命が海に入ったことや御毛沼命が常世の国に行ってしまったことが、すでに古事記上巻の終わりに書いてある。その時はまだ日向の宮におり、東征の際にはもうこの二人はいなかったため、自然に伊波禮毘古命が継いだとも考えられ、ここで五瀬命だけが挙げられているのも、他の二人はもうその時にはいなかったからだとも言えるが、その二人が海に入り、常世の国に行ったのが、日向に住んでいた頃のこととすると、その理由がない。書紀にあるように、東征の時、紀伊の国の海でのことだというのは明らかである。この記はその時も場所も言わない伝えによるので、上巻の末に二人の名が出たついでに書いてあるが、実は東征にも同行していたのだ。またあるいは、この記と書紀の五つの所伝のうち四つは、みな伊波禮毘古命を末子としてあるが、一つの伝えには第二子と書いてある。それなら、五瀬命が死ぬと伊波禮毘古命が受け継ぐ道理であり、その第二子とするのが正しい伝えかとも思ったが、この記と食い違うので、それは採用できない。たぶん本来は五瀬命と伊波禮毘古命がいずれも日嗣ぎに決まっていて、父の死後は五瀬命が君主であったのを、五瀬命も死んでしまったので、伊波禮毘古命が継いだのだろう。】そのため、稲氷命は伊波禮毘古命を救うため、海に入ったのだろう。【このことは既に上巻、伝十七の九十三葉で述べた。参照せよ。】そうでないなら、海に入った理由が分からない。<訳者註:稲氷命と御毛沼命も東征途上で死んだのだが、宣長は「海に入った」とか「常世の国に行った」ということを、死んだとは解していない>○高千穂宮。この宮のことは伝十七【八十二葉】で述べたとおり、大隅国のことと思われる。【日向国の宮崎だという説は、古い書物の記述に合わない。日向国南方村というところに、神武天皇の社というのがあり、そこを皇居跡だと伝えるそうだが、信じられない。書紀などに日向の高千穂の峯といい、この記でも「日向を発って」とあるので、今の日向と考えるのは、まだ考えが足りない。上代には大隅、薩摩を含めた広い地域を日向と言ったことは、既に述べた。三代実録に「日向國高智保神」というのがある。和名抄には同国臼杵郡に智保郷が載っている。これらも高千穂山に関係した名ではあるだろうが、高千穂の宮はやはり大隅国にあることは疑いない。】○天下は、万葉巻十八【三十二丁】(4122)、巻廿【二十四丁(4360)、五十丁(4465)】に「あめのした」とあり、そう読む。【「の」を「が」と言ったことは古い書物にないので、よくない。】この言葉は天照大御神の治める高天の原に対し、この地上を言うのであって、古意にも合っているが、更によく考えると、もとは漢籍から出た言葉で、神代からの古言ではないとも考えられる。とは言え、非常に古い時代から広く言い習わした言葉ではある。【この天皇の御代には、まだこの言葉はなかったはずだが、漢籍が伝わってきてから言い出した言葉を、上代のことにも使ったのだ。】○政(まつりごと)は、君主が国を治める上で執り行う事柄のうちでも、神祇を祭ることが最も重要なことなので、【他国でも同様である。皇国ではなおさらだ。】その他のことも含めて「祭事」というとは、誰もがそう思うし、もっともなことだが、更に考えると、言葉の本当の起こりはそうでなく、奉仕事(まつりごと)ということだろう。というのは、天下の臣(おみ)・連(むらじ)・八十伴緒(やそとものお)が天皇の大命によって、それぞれの職務を奉仕することこそ天下の政だからである。奉仕(つかえまつ)ることを「まつり」と言うのは、「まつる」を延ばして「まつろう」とも言うから、君主に服従(まつろ)い、その命を承って行うことを言うのである。【とすると「つかえまつる」は「事服従」のことだ。また服従(まつろう)は奉仕(まつる)で、どれも元は同じである。書紀の雄略の巻の歌に「波賦武志謀飫褒枳瀰爾磨都羅符(はうむしもおおきみにまつらう)<這う虫も大君に奉仕う>」とある「まつらう」は奉仕(つかえまつ)ることを言い、万葉巻二(199)に「不奉仕(まつろわず)」とあるのは、服従しないということだ。これらの例から言葉が互いに通用して、本来同じ意味だと分かる。また神を祭ると言うのも、その神に奉仕することだから、同様である。だから政というのは、天皇が神に奉仕することと考えるとしても、言葉の意味はもちろん同じだが、その祭祀について言うのではなく、臣・連たちが天皇に奉仕することを言う。】古言では、政という言葉を天皇でなく、奉仕する人について言う。上巻、天照大御神の詔に、「思金神は御前のことを取り持って政をせよ」とあり、軽嶋の朝(應神天皇)の詔にも「大山守の命は山海の政をせよ。大雀の命(後の仁徳天皇)は食国の政を執れ。宇遲能和紀郎子(うじのわきいらつこ)は天津日嗣しろしめせ」とあり、また後に引く続日本紀卅一の文など、みなそうなっているので悟るべきである。【こういう言葉の本源からすると、「まつりごと」に「政」の字は当てはまらない。この字の意味から判断してはいけない。ただし臣下が君に奉仕することは、すなわち君が国を治めることになるから、煎じ詰めれば同意である。○「まつりごと」は「令服事(まつろえごと)<人を服従させること>」だという説もあるがもしそうなら「まつれごと」と言わなければ、自動詞・他動詞を取り違えていることになる。「まつり」とは自分が奉仕すること、「まつろえ」は他の人を奉仕させることだ。】○平(たいらけく)は、「安く」というような意味である。「難しい」の反対の容易であるということで、どの土地に行けば天下を容易に治めることができるだろうか、という意味だ。【何でも為しがたければ平らかでなく、容易なら平らかだ。そのため容易なことを「平けく」と言う。】天下を治める上では、その地によって便不便があるので、どこへ行けばいいかと相談したのである。○聞看(きこしめさん)とは、天下の臣・連・八十伴緒たちが執り行う奉仕事(まつりごと)を、天皇が聞き、かつ首尾を見ることである。続日本紀卅一【十四丁】の詔に「自2今日1者大臣之奏之政者不2聞看1夜成牟(きょうよりはオオオミのもうししマツリゴトはきこしめさずやならん)」とあるので了解せよ。【「聞看」というのでも、その政は臣下が実行し、天皇はもっぱらその報告を受ける立場であることが分かる。】聞看という言葉の意味は伝七【六葉、八葉、また十七葉】で所知(しらす)、所知看(しろしめす)のところに言った。また伝八【八葉】で「聞=看2大嘗1」に付いていったことも考え合わせよ。この言葉はこの巻にも下巻にもよく出てくる。続日本紀十七【十六丁】に「聞看食國(きこしめすおすくに)」、また【二十七丁】「天津日嗣高御座乃業者、伊夜嗣爾奈賀御命聞看止勅夫(あまつひつぎタカミクラのわざは、いやつぎにナがミコトきこしめせとノリたまう)」とある。○猶(なお)。この猶の意味は【普通よく言うのとは少し違い、】多くの候補からあれがいいか、これがいいかと思い比べ、最終的に一つに決めることで、【今の世に「とかくに(結局)」と言うような意味だ。】中昔の物語文などでも、この意味で使っていることが多い。ここは、住むべきところをあそこがいいか、ここがいいかと相談し相議って、ついに東方の地がいいだろうと決めたのである。万葉巻八【五十七丁】(1652)に「梅の花折るも不折(おらず)も見つれども、今夜の花に尚しかずけり」とある。○思東行は「ひむかしのかたにこそいでまさめ」と読む。【思の字は無理に読まない。こういうところを「おもう」、「おもおす」などと読めば、言葉付きが良くない(漢文読みに近くなる)。そう読まなくても、自然とその意味になる。】単に「ひむかし」と言わず、「方」という語を添えるのは古言である。漢籍でも古い訓では東西南北すべて「方」と言い添えている。【その使い所によっては、「方」と言わなければ言葉が足りないからである。いにしえ人は、こういう語の使い方をよくわきまえていたから、そう読んでいたのだが、今の人はそんな違いが分からないので、煩わしく思うだろう。】「いでます」は「行きます」ということで、いにしえには天皇の行幸も「いでまし」と言った。このことは前に述べた。この部分を書紀では「及2年四十五歳1、謂2諸兄及子等1曰(みとしヨソあまりイツツにおよびて、もろもろのイロネおよびミコたちにかたりてのたまわく)・・・【この間、<是時運>とあるところから<積慶重暉>とあるところまでは古意でない。撰者が例の漢意で潤色した文である。】・・・抑又聞2鹽土老翁1曰、東有2美地1、青山四周、其中亦有B乘2天磐船1飛降者A。(『またシオツチのオジのいいしをきくに、[ヒムカシのカタにうましくにあり、あおがきやまごもれり、そのくににアマのイワフネにのりてトビくだれるヒトもあり]とぞ。』)余謂、彼地必當レ足C以恢2弘大業1光B宅天下A、蓋六合之中心乎、厥飛降者、謂2是饒速日1歟、何不2就而都1之乎。諸皇子對曰、理實灼然、我亦恒以爲念、宜早行之。是年也太歳甲寅。(『アレおもうに、そのくににましてこそアメノシタのマツリゴトはたいらけくきこしめさめ。けだしクニのマナカならん。そのトビくだれりというものは、ニギハヤビをいうならんか。かならずそのくににいでましなん』とのりたまうに、みこたちモウシたまわく、『うべなり、おのれらもツネしかこそおもえれ。はやくいでまさね』とモウシたまいき。このとしはキノエトラのとしなりき)<口語訳:磐余彦は年四十五歳に及んで、兄たちと子供たちに語って・・・『また鹽土の老翁の言うところでは、[東の方に住むに良い土地がある。まわりを青山に囲まれた国だ。そこには、天磐船に乗って飛んできて降った人もある。]ということだ。私は思うのだが、その国に住んでこそ天下を容易に治められるのではないか。たぶん国のど真ん中にあるのだ。またその飛んできて降ったというのは、饒速日命のことではないだろうか。是非その国に行こうじゃないか』。すると兄や子供たちは『全くその通りだ。私たちも日頃からそう思っていた。是非早く行こう』と賛成した。これは太歳甲寅の年のことであった>」【ということは、書紀の趣旨は、日向にいて議論した時点で、すでに大倭国を目的地として出発したわけだ。だがこの記では、まだどこへ行くとも決めず、単に東を指して、良い場所を探し求めて行ったようだ。邇々藝の命が天降りの後で国を求めて旅をしたのと同様だろう。だから阿岐の国に七年、吉備の国にも八年いたのだ。もし初めから目的地を大倭の国と定めていたら、その途中でそんなにも長くいたはずはない。「太歳甲寅」については、論ずべき事がある。後に述べる。】ここで皇祖から長く住んでいた宮を捨てて、他の国に住もうと考えて、ついに東に遷ろうと決心したのは、その地勢を考えると、日向は西の端なので、天下を治めるには不便だから、中央にある国に住もうとしたのだろう。上に引いた書紀の文に「蓋六合之中心乎(けだしクニのマナカならんか)」とあるのはそのことである。<訳者註:「六合」は漢籍から出た言葉で、世界全体を意味する>○即(すなわち)。これは文の続きに置いただけで、意味としては軽い。話し合ってから間を置かずにすぐ、という意味ではない。○日向(ひむか)。上巻【伝五の十三葉、伝六の四十一葉】に出た。古くは大隅、薩摩を含む広い地域を指していた。○筑紫(つくし)。上巻【伝五の九葉】に出た。九州全体も筑紫と言うが、ここはそのうちの筑紫の国で、後の筑前・筑後を言う。○幸御(いでましき)の「御」は「行」の誤りである。【「御」の字でも通じるが、「幸御」などという言葉は記中にも他の古い書物にも例がない。こういうところはすべて「幸行」とあるのが通例だ。】これは筑紫に向かって行ったということで、すでに筑紫に着いたのではない。【だから次にはその途中のことがあり、筑紫に着いてからのことはさらに後に出ている。】○豊國(とよくに)。上巻【伝五の十一葉】に出た。この国は日向と筑紫の間にあるから、筑紫へ行く途中のことである。【日向のすぐ北に豊後、その北に豊前、その西に筑前がある。】○宇沙(うさ)。和名抄に「豊前國宇佐郡」とあるのがそうだ。書紀の神代巻には宇佐の島ともある。【海中にあるわけではないが、山川が巡っているので島という。】名の意味はまだ考えつかない。書紀には「その年冬、十月丁巳朔辛酉、天皇自ら諸皇子と舟師(海軍)を率いて東征に出た」とあり、その次にも「皇舟」とあるから、このあたりも海路で行ったのだろう。○土人は「くにびと」と読む。【これは豊国の国人とも考えられるが、やはり】宇佐の国人である。【書紀には「菟狹國造(うさのくにのみやつこ)」ともあるので、宇佐も国だと言える。後には郡、郷と言った程度の小地域でも、上代に国と呼んだこともあるのは、言うまでもない。】○宇沙都比古(うさつひこ)・宇沙都比賣(うさつひめ)は兄妹のようだ。名は地名による。書紀に「筑紫の国の菟狹に到ったとき、菟狹國造の祖で名を菟狹津彦、菟狹津媛という者がいた」とある。【菟狹を筑紫の国と言っているのは疑わしい。九州島の総称として言うのなら、日向も筑紫のうちなので、ここだけ特に筑紫と言うわけがない。旧事紀の巻三、饒速日命が天降る際の御伴の神たちの中に「天三降命(あめのみくだりのみこと)」という神があり、「豊国の宇佐の国造の祖」と言い、また巻十、國造本紀に「宇佐の国造は、橿原朝に高魂尊の孫、宇佐都彦命を国造とした」と言う。この説に拠り所があるとすれば、天三降命は高御魂尊の子で、宇沙都比古はその子なのかも知れない。】○足一騰宮(あしひとつあがりのみや)。書紀には「そこで菟狹の川辺に一柱騰宮を建ててもてなした。一柱騰宮、これを『あしひとつあがりのみや』と読む」とある。【菟狹川は景行紀にも出る。】この名は、宮の構造から出た名である。どんな構えかと考えてみると、宮の床の一方を岸の山に乗せ、もう一方は宇沙川の中に大きな一本柱を立てて支えたのだろう。【宇沙川の岸に山があるところだ。】騰(あがり)というのは、宮の片方の床を山の上に作って、一方を支えている宮柱は川の中に立てたため、そちらから見ると、高く上がって見えるからである。この宮は、一時的にもてなすために建てたものだから、特別こういう珍しく、趣ある形に作ったのだろう。【川の中に一本柱を立てて床を支えたのもことさら珍しい。だからこそ足一騰という名も付いたのだろう。柱を足とも言うことは、後世にも四つ足の門などという例がある。延佳本では、漢籍の一柱觀のことを引いている。似たようなことだ。】この名の意味は、種々考えてみたが、どれもよくない。上記のように考えておく。○御饗(みあえ)。上巻【伝十四の五十五葉】に出た。【○書紀に、「この時天皇は、侍臣天種子命(あめのたねこのみこと)に菟狹津媛を妻として与えた」とあり、中臣の系図に、天種子命の子、宇佐津臣命の名がある。これは菟狹津媛の生んだ子で、母の名を取ったのかも知れない。】○岡田宮(おかだのみや)。書紀には「十一月丙戌朔甲午、天皇は筑紫國の崗の水門に到った」とある。和名抄に「筑前國遠賀郡」がある。これか。仲哀紀にも「筑紫に行ったとき、岡の縣主の祖が云々」、また「山鹿岬を回って崗の浦に入り、水門に到った」ともある。【和名抄によると、筑前國遠賀郡に山鹿郷がある。万葉巻七(1231)に「水莖之崗水門(みずぐきのおかのみなと)」とあるのは、この岡の水門で、「水莖」は枕詞である。別に考えがある。】この岡と岡田は同じ地だろうか。他に岡田という地名は、古い書物に出ていない。○一年坐(ひととせましましき)。書紀には十一月甲午から【九日である】いて、十二月壬午【二十七日である】には安藝の宮に移ったとあって、この宮にいたのはわずか四十日ほどの間だ。この記と異なる。○上幸(のぼりいでまして)。地方から京に行くのを「のぼる」と言う。今でもそうである。【京から地方へ行くのを「下る」と言う。地方から見て京の方を「上(かみ)」と言い、畿内のことを「上方」と言う。京から地方を見て「下(しも)」と言う。ところが、今山城の伏見から南、奈良のあたりまでの国人の言葉を聞くと、京の方を下と言い、そちらへ行くことを「下る」と言う。奈良の方を上と言い、そちらへ行くことを「上る」と言う。これは昔、倭の京の頃の言い方がそのまま残ったのだろうか。さらに諸国の言葉を尋ねてみると、こうした珍しいものの言い方があるだろう。なお漢国で「西上東下」というのは、国土が東に偏って(傾いて)いて、水も東に流れているからである。】とすると、このときはまだ東に行くことを「上る」とは言わないはずだが、倭京が定まった後の言い方を、前のことにも及ぼして言っているのである。先に日向から筑紫へ行ったことは「上る」と言わず、ここで初めてその言葉を使ったのは、地勢を考えれば当然だ。【日向から筑紫へは北に進んでいて、必ずしも後の京の方へ行ったことにならず、「上る」とは言い難かったのだろう。今の国人は何と言っているか、知りたいものだ。筑前から安藝に行くのは東に進んでいるから、正に上っていることになる。】○阿岐國(あぎのくに)は、山陽道の安藝国である。名の意味は考えつかない。【山城国相楽郡の「和伎(わぎ)」は、崇神紀によると「我君(わぎ)」という意味だという。これに準じて考えると、この国の名もあるいは「我君(あぎ)」だろうか。そういう由縁から出た名だろう。】安藝郡、安藝郷もあるから、そこから出た国名だろう。【三代実録十四に、この国に安藝都彦の神という神名もある。】「岐」は濁って読む。「藝」も濁音に使う字だ。○多祁理宮(たけりのみや)。書紀には「十二月丙辰朔壬午、安藝國に到って埃宮(えのみや)に住んだ」とある。【「埃(え)」は、書紀~代巻に「素戔嗚尊は安藝国の可愛(え)の川上に降り着いて」とある「可愛之川」と同じだろうか。この川は今は可部川と言うそうで、可部という村もあり、和名抄の「安藝郡漢辨(かべ)」というところである。広島から出雲、石見に行く道は、この可部川に沿って上流へと上ると、上流では根谷川と言う。川上に八岐大蛇の住んでいた跡というのがある。また山縣郡の山の奥、石見国との境のあたりに、可愛の淵という場所もあるそうだ。広島の西に、川合川というのもある。川合は可愛の字音で、これこそ可愛の川だとも言う。この川の付近に、延喜式にも載っている速谷神社がある。今は速田大明神と言い、瀬織津姫を祭っていて、神武天皇が禊ぎを行ったところだと言うが、これらは信じられない。この他にも、この天皇の故事を伝えるところが所々にあるが、どれも本当らしく聞こえない。ところで、書紀に「埃の宮」とある「埃」の字は疑わしい。先に出た可愛之川と同じ所なら、ここにも「可愛宮」とあるはずだ。この他、可愛之山陵なども同じことで、そこの訓注に「可愛、これを埃(え)と読む」とある。ところがここで訓注に用いる仮名の字の音を使って川の名を書くなどのことは、他に例がない。】この埃の宮と、名は違うけれども同じなのだろうか。【「埃」の字が疑わしいことから考えると、あるいは元は「峻」で、「たけ」と読むのか、それとも、「シュン(土+峻のつくり)」も峻と同じ意味なので、この字だろうか。「たけ」は「たか」に通い、「嶽(たけ)」なども高いという意味である。万葉巻十三(3294)に「吉野之高(よしぬのたけ)」などと書いてある。】または初めから所伝が異なるのか、いずれにしても多祁理という地名は、高宮郡、高宮郷などがあるから、そこではないだろうか。【郡名、郷名とも和名抄には「たかみや」とあるが、上代には「たけみや」と言っただろうか。とにかく「け」と「か」は通音だ。前記の可部川の上流は高宮郡の中を流れているから、これが実際に可愛之川であり、「多祁理の宮、一名埃の宮」と言ったとも考えられる。また周防の国との境に大竹川というのがある。続日本紀十一にも見える。これかとも思ったが、そうではないだろう。延喜式神名帳には、安藝郡の多家(おおのみ)神社が出ている。今は府中村にあって、総社という。この「多家」を「たけ」と読むのかと思ったりしたがそうでなく、これは「おおのみ」と読む。この社の神主は、代々大呑(おおのみ)氏で、文字は違うが多家(おおのみ)である。「家」を「のみ」と読むのは、伊勢国壹志郡に今も「新家(にいのみ)」村というのがある。それらと同様である。】ところで「多祁理」の名の意味は「高」か、それとも「建」の意味か、【「高」の意味だったら、「理」にはまた別の意味があるだろう。】定かでない。○七年坐(ななとせましましき)。書紀には甲寅の年、十二月壬午【二十七日】に安藝国に到り、明年乙卯三月己未【六日】に吉備に移ったとある。その間わずか七十日ほどで、この記と非常に違っている。○遷上幸(うつりのぼりいでまして)。初め幸行(いでます)、次に遷移(うつらして)、次に上幸(のぼりいでまして)、さらにここで遷上幸(うつりのぼりいでまして)と言うのは、言葉の綾を成したのである。○吉備(きび)。上巻【伝五の二十二葉】にある。○高嶋宮(たかしまのみや)。この地は定かでない。【ある人が言うには、「備前国に高嶋という島がある。神武天皇の宮地はここだ。今も神異のことがある」という。その郡を詳しく尋ねてみたいものだ。また吉備の国人が言うには、「今の高嶋はとても小さい島で、天皇が住むような場所ではない。その島の北、ほど近いところの兒島の北浦に、宮浦というところがある。これが行宮(あんぐう:かりみや)の跡ではないか」という。あるいは「備中国に高(こう)の嶋というのがある。これだ」とも言う。だがこれは延喜式神名帳に備中国小田郡の神嶋神社があるので、「神(こう)の嶋」であって、高嶋ではないだろう。和名抄では、備後国三上郡に多可郷がある。これはあるいは島ではないだろうか。それなら高嶋の宮は、「たか」という島にあった宮という意味か。同国安藝郡にも高迫郷がある。あるいはこれを「たかせま」と読み、これかも知れない。しかしこれらはいずれも地理をよく知らないので、種々参考に挙げておいただけである。】さらによく尋ねるべきことである。○八年坐(やとせましましき)。書紀では「乙卯年春三月甲寅朔己未、吉備の国に移って行宮を建てて住んだ。これを高嶋の宮と言う。三年の間に、そこで舟をそろえ、武器と食料を調達して云々」と言い、戊午年の二月に難波に到ったとあるので、吉備の宮にいた期間は三年である。ここでもこの記と違っている。

 

故從2其國1上幸之時。乘2龜甲1爲釣乍打羽擧來人。遇2于速汲門1。爾喚歸。問=之2汝者誰1也。答=曰2僕者國神名宇豆毘古1。又問B汝者知2海道1乎A。答=曰2能知1。又問2從而仕奉乎1。答=曰2仕奉1。故爾指=度2槁機1引=入2其御船1。即賜レ名號2槁根津日子1。<此者倭國造等之祖>。

訓読:かれそのクニよりノボリいでますときに、カメのセにのりてツリしつつうちはぶりくるひと、ハヤスイナドにあいき。かれよびよせて、「いましはたれぞ」ととわしければ、「アはクニツカミ、なはうずびこ」ともうしき。また「いましはウミツジをしれりや」ととわしければ、「よくしれり」ともうしき。また「みともにツカエまつらんや」ととわしければ、「ツカエまつらん」ともうしき。かれすなわちサオをさしわたしてそのミフネにひきいれて、サオネツヒコというナをたまいき。<コはヤマトのクニのミヤツコらがオヤなり。>

口語訳:吉備の国を出て(東方に)向かっていたとき、亀に乗って釣りをしながら、羽ばたくように袖を振ってやって来る人がいて、速汲門で出会った。呼び寄せて「お前は誰か」と訊ねると、「私は国津神で、名は宇豆毘古と言います。」と答えた。また「お前は海の道を知っているか」と訊くと、「よく知っております」と答えた。また「天皇にお仕えするか」と訊くと、「お仕えいたします」と答えた。そこで舟の棹を差し渡して舟のうちに引き入れ、槁根津日子という名を与えた。<これは倭国造の先祖である。>

龜甲は、師(賀茂真淵)が「かめのせ」と読んだのに従う。亀は、和名抄に「龜は、大戴禮にいわく・・・和名『かめ』、兼名苑にいわく龜は一名鼇、漢語抄に曰く『うみがめ』」。また「ゲン(元の下に黽)ダ(單の下に黽<注:ただし單の縦棒は短く、口二つの下に田、その下に一の形>)は、玉篇にいわく、ゲンダは大亀である。和名『おおがめ』」などとあり、甲は同書に「甲は文字集解によると、龜蚌のたぐいの甲を『介』と言う。甲の音は俗に『古不(コフ)』」とあって、和名は書かれていない。【今も東国では龜の甲を「かめのかわら」と言うそうだ。とすると「古不」も甲の字の音ではなく、「かわら」の転じた言葉ではないだろうか。それはともかく、ここは亀に乗っていたことを言うだけなので、「甲」の字には関わらず、「背」と読むのがよい。なお「かわら」については、軽嶋の宮(應神天皇)の段、訶和羅前(かわらのさき)のところで言う。】書紀ではここを単に「亀に乗って」と書いている。○爲釣乍は「つりしつつ」と読む。【「乍」の字は、万葉などでもみな「つつ」と言うのに用いている。】「つつ」という語は、これをしながらあれもするということに使う。【だから「ながら」という語と同じ意味なので、後世「ながら」というのにこの字を当てたのは、間違いではない。しかしいにしえは、「ながら」に「乍」の字を書くことはなかった。】ここは釣りもしながら来ることで、「釣り」と「来る」の二つを合い交えて行うのである。【だが二つのことを合い交えた中でも、天皇の舟の方へ来るということを主体にしているので、「来る」は「乍」の下にある。一般により意味が軽く、ついでにしていることの方を「乍」の上に言い、より意味が重く主体になる行為の方を下に言うのが決まりである。】○羽擧は「はぶり」と読む。【上巻に「以此比禮三擧打撥(このひれミタビふりてうちはらいたまえ)」とある「擧」も、必ず「ふりて」と読むことは、伝十の卅九葉で述べた。参照せよ。】また「はぶき」と読んでも同じことだ。【いにしえは、「ふり」を「ふき」とも通わせて言った。】古今集の歌(139)にも、「山郭公打波夫伎(やまほととぎすうちはぶき)」とある。和名抄に「唐韻にいわく、ショ(者の下に羽)は飛び上がることである、字はまたショ(者の下に飛)とも書く。文選の射雉の賦にいわく、軒ショ(者の下に飛)は『はぶる』、俗に『はつつ』」とあり、日本霊異記にも「ショ(者の下に羽)は『はぶり』、また『かけりいく』とも言う」とある。万葉巻十九【九丁】(4141)に「羽振鳴志藝(はぶりなくしぎ)」、また【三十三丁】(4233)「打羽振、鷄者鳴等母(うちはぶり、とりはなくとも)」、これらは鳥について言っている。巻二【十八丁】(131)に「朝羽振、風社依米、夕羽振流、浪社來縁(あさはぶる、かぜこそよらめ、ゆうはぶる、なみこそきよれ)」、巻六【四十六丁】(1062)に「朝羽振、浪之聲躁(あさはぶる、なみのとさわぎ)」など、波風についても言う。すべて「振る」というのは、ものが動き挙がることを言う。後撰集の雑歌(1112)に「古へも契りてけりな、うちはぶき、飛起(とびたち)ぬべし天の羽衣」【これは「羽衣」の連想から鳥になぞらえて言っているが、人の動作を言っている点では、ここの「羽擧」にたいへん近い。】などとも言う。ここは鳥がはぶる(羽ばたく)ように、左右の袖を挙げて打ち振りながら来るのである。それは、天皇の舟を慕って、招いているのだろう。【書紀には「迎え奉る」とある。「来る」というのは、天皇の舟の方へやって来るのである。】袖を振って人を招くのは、いにしえにはよくすることだった。【万葉に多く見える。】○速汲門は「はやすいなど」と読む。【「吸」を「すう」と読むのは良くない。釈日本紀の秘訓にも「すい」とある。】書紀の神代巻、伊邪那岐の大神の禊ぎの段で、一書に「速汲名門」とあるのと同じ所だ。【ここに「名門(など)」とあるので、こちらもそう読む。「〜の門」ということである。この他にも「〜の〜」を「〜な〜」と言う例は多い。】延喜式神名帳に豊後国海部郡、早吸日女(はやすいひめ)神社がある。【続日本後紀十三、三代実録四十四などには、早吸刀i旧仮名ハヤスヒメ)神とある。】この地で、この神の名から来た地名だろう。速吸(はやすい)とは、大祓の祝詞に「速開都梼~云神、持可々呑弖牟(はやあきつめというかみ、もちカカのみてん)<弖は、底本正字は氏の下に一>」とある意味で、禊ぎに由来する神名だろう。「門」は海門である。【ある人は、「速吸門は豊前の早鞆の浦のことだろう」と言った。確かに潮の流れの速いことは、名にも現れているが、それでは地理が大きく違ってしまう。書紀の伝えでも宇佐より前にあるから、合わない。】○この一段については、書紀では日向を発って宇沙に到る前にあり、この記と事の順序が違う。考えてみると、この地名は豊後にあるのだから、書紀の伝えの方が正しいだろう。吉備から難波までの間に、こういう地名があるとは訊いたことがない。【書紀には曲浦(わだのうら)で魚釣りをしていたとあり、攝津国八田部郡に輪田の御崎(神戸市兵庫区の和田岬)というのがあるから、あるいはこの付近かとも思ったが、その曲浦は地名らしくなく、「わだのうら」という訓もどうかと思う。】この記は、一段の事の順序が乱れたのだろう。書紀によると、『至2速吸之門1、時有2一漁人1、乘レ艇而至。天皇招之、因問曰、汝誰也。對曰、臣是國神、名曰2珍彦1、釣=魚2於曲浦1、聞2天神子來1、故即奉レ迎。又問之曰、汝能爲レ我導耶。對曰、導之矣。天皇勅授2漁人椎サオ(木+竹冠に高)末1令レ執、而牽=納2於皇舟1、以爲2海導者1、乃特賜レ名2爲椎根津彦1。【椎、此云2辭毘1】此即倭直部始祖也。(訓読:ハヤスイナドにいたりますときに、オブネにのりてくるアマあり。スメラミコトよびよせて、よりてといてノリたまわく、「イマシはタぞ」とのたまう。こたえてもうさく、「アはクニツカミ、ナはウズビコ、うらまにツリしけるに、アマツカミのコいでませりときけり、カレむかえまつる」ともうす。またといてノリたまわく、「イマシよくアがシルベせんや」とのたまう。こたえてもうさく、「つかえまつらん」ともうす。スメラミコト、このアマにシイザオをさしわたして、とらえしめ、オオミフネにひきいれ、もちてウミツジのシルベとす。すなわちコトにシイネツヒコとナをたまいき。<椎、これを「シヒ」という。>こはすなわちヤマトのアタエのおやなり)<口語訳:速吸之門に到ったとき、一人の猟師がいて、小船に乗ってやって来た。天皇はカレを呼び寄せて、「お前は誰か」と訊ねた。すると「私は国津神で、名は珍彦と言います。曲浦で釣りをしていましたが、天神の御子がやって来たと聞いたので、お迎えにやってきました」と答えた。天皇はまた「お前は海路の道案内ができるか」と訊ねた。すると「お仕えしましょう」と答えた。そこで天皇は椎でできた棹を差し伸べてその先をつかませ、舟に引き入れて海路の案内人に任命した。また特別に名を与えて、椎根津彦と名乗らせた。これがつまり倭直部の始祖である』となっていて、この人に功績があったことも、後に出ている。【名を椎根津比古としたのは、この記と異なる。椎と言っている意味は定かでない。上記のように椎の棹(底本は木+竹冠に高)と言っているのは、「比々羅木(ひいらぎ)の八千矛」などと、その材料をかぶせて言う例もあるから不審はないが、この人の名とするなら、記のように「サオ」を付けるべきだろう。その棹の用材を名にするのはおかしいと思う。そこでよく考えてみると、新撰姓氏録に「神知津彦(かむしりつひこ)」とあるから、元々は「知根津彦(しりねつひこ)」だったのを、書紀では「しり」を「シヒ」と訛った伝えを採用したのではないだろうか。「り」と「ひ」は横に通う音である。たぶん海路をよく知っていたことから、称え名としたのだろう。後に「シヒ」と訛るようになり、この記の「槁根津日子(さおねつひこ)」を参照し、その槁を考察して「椎サオ」と作って書いたのではないだろうか。さらに考える必要がある。】古語拾遺に、「大和氏の遠祖、椎根津彦は、皇舟を先導して(大和に入り)、香山の峰で功績を挙げた」とある。○喚歸は「よびよせて」と読む。「帰」を「よせ」と読むのは、万葉巻三【四十丁】(391)に「樹爾伐歸都(きにきりよせつ)」と見え、上巻【少名毘古那神の段】の「歸來」も「よりく」と読む。万葉巻十五【十六丁】(3643)に「於吉敝欲里、布奈妣等能煩流、与妣与勢弖伊射都氣也良牟、多婢能也登里乎(おきへより、ふなびとのぼる、よびよせていざつげやらん、たびのやどりを)」とあるのは、「よびよせて」という語の例だ。【この歌の初めの二句は、ここによく似た場面だ。】○誰也は「たれぞ」と読む。下巻、朝倉の朝(雄略天皇)の歌にそう書いてある。【「たそ」と読むのは卑俗な言い方である。】○國神(くにつかみ)とは、その土地の人という意味で、当国の人を国人、その里の人を里人というのと同様である。【天神に対して国神と言ったわけではない。】ところで人と言わず、神と言っているのは、当時はまだ神代の呼び方が残っていたのか、それとも亀に乗ってやって来たというのは尋常でないから、本当に神だったのか。【後に出る贄持之子など、三人の名乗りでも国神と言っている。】書紀にも同様に書いてある。ところが、この下にその神名を名乗ったはずなのに、名がないというのは脱落したのだろう。国神とだけ言って終わるものではない。こういう答えの場合は、上巻に「僕は国神、名は猿田毘古神」、また後の段で「僕は国神、名は贄持之子という」、さらに「僕は国神、名は井氷鹿という」、あるいは「僕は国津、名は石押分之子という」とばかりあって、名を名乗らない例は他にない。そこでここでは、書紀や新撰姓氏録を参考に、「名宇豆毘古」の五字を補っておいた。【毘古の「毘」は、書紀の訓注から、濁音と決定した。】○海道は「うみつじ」と読む。書紀巻七【九丁】に「海路(うみつじ)」、万葉巻九【二十八丁】(1781)に「海津路乃、名木名六時毛、渡七六(うみつじの、なぎなんときも、わたりなん)」などがあり、海上を舟などで行く道を言う。【東海道、西海道などの「海道」ではない。】○從而仕奉乎は、師が「みともにつかえまつらんや」と読んだのを採用する。【「而」の字にこだわってはいけない。】○槁機は二字を一字として「さお」と読む。槁は、書紀ではサオ(木+竹冠に高)と書いている。和名抄にも「サオ(木+竹冠に高)、唐韻にいわく、サオは棹竿である。字はサオ(木+竹冠に高)とも書く。和名『さお』、楊子方言にいわく、『船を刺す竹』という」とあり、新撰字鏡にも「サオ(木+竹冠に高)は『さお』」とある。槁の字には「さお」の意味はないから、誤りだろう。【和名抄の印本にも「サオ(木+竹冠に高)」と掲げながら、唐韻を引くところは「槁」の字になっていて、これは誤りである。古い本では、それも「サオ(木+竹冠に高)」と書いてある。上記の古い書物ではみな「サオ(木+竹冠に高)」だが、漢籍では「サオ(竹冠に高)」とだけあることが多い。ただし玉篇に「サオ(木+竹冠に高)、古勞反(コの子音、ロウの母音、つまりコウ)、ふね(舟+工)を進める所以」とあるから、このものは竹だけでなく、木でも作るものだから、木偏を加えてサオ(木+竹冠に高)の字を作ったのだろう。そういう例も多い。】だが「機」の字はとうてい納得できない。この字は船の道具には関係がない。あるいはシュウ(木偏+口の下に耳+戈)の字を誤ったのだろうか。【シュウの字は、いにしえには「かじ」の意味にだけ用い、「さお」の意味に用いることはほとんどなかったが、軽嶋の朝(應神天皇)の段に、宇治川の渡し舟のことで「シュウを執る者」とあり、これは「さお」と読むしかない。和名抄二の渉人(渡し守)の條に「榜をギ(木+義)する」とある注に、「ギ(木+義)は正(ただす)である、和名『さお』」とあるので、このギの字の誤りとも言えそうだが、この字を「さお」と読む道理はない。「さお」はその下の「榜」の字の読みだろう。】それはどうあれ、ここは槁機の二字を「さお」と読む他はない。【師は景行紀に、大木が倒れた上を人々が往来することを、時の人が「瀰概能佐烏麼志(みけのさおばし)」と歌ったことから、ここの二字を「さおばし」と読んだ。なるほど丸木の一本橋は竿のようなものなので、竿橋の意味にも取れるから、これもそう読むとよく当たっているようだが、よく考えると当たっていない。上記の「さおばし」は小橋に「さ」を付けた言葉のように思われ、竿橋の意味とも決められないし、「機」を「はし」と読むべき理由がない。またここは次の文に「引き入れ」とあり、書紀にも「その先につかまらせて引き入れ」とあるから、橋にしてその上を歩かせたわけではない。「指度(さしわたし)」とあるのに惑わされて橋と考えてはいけない。】○指度(さしわたし)は、舟から棹を下ろして、亀の背に乗っているものに届くよう差し出してやることを言う。【書紀に「授」とある、その字の意味で理解せよ。】度(わたす)とは、こちらからあちらへ至らせることを言う。天皇の舟は高く、亀の背は海面すれすれだから、この棹の先に取り付かせて、舟の方へ引き入れたわけだ。○槁根津日子(さおねつひこ)。名の意味は、書紀巻三【十八丁】で、人名に劔根という名も見え、八尋鉾根などもあるのと同様で、サオをサオ根と言ったのである。こう名付けた理由は、この人が海路をよく知っていると言うので、ただちにこの人を先導者にしようと思い、ここで棹に取り付かせて引き入れたことから、この棹で漕いで行くと舟が安らかに行くという意味で、道しるべとしての能力を称えたのである。【単に棹で引き入れたという意味でのみ名付けたのなら、称える意味がない。そこには「海路の導き」という意味があるはずだ。】○倭國造(ヤマトのクニのみやつこ)。【「倭」のことや「國造」のことは、既に上巻で出た。】書紀では、~武二年のところに、「春二月甲辰朔乙巳、天皇は行賞を定めて、珍彦を倭の国造とした【珍彦は『うずびこ』と読む】」とある。【この人は、初めに「椎根津彦」という名を賜っており、これより前にところどころ登場したところでも、その名ばかり書いてあるのに、ここで名を賜う前の名を挙げているのはどういうことか。また、珍彦の訓注は、初めにあるべきなのに、ここに付けてあるのも妙だ。○旧事紀巻十「国造本紀」では、「大倭国を東征するとき、漁夫がいた。天皇は左右の臣に『海中に浮かんでいるのは何者か』と問い、すぐに粟(阿波)の忌部の首(おびと)の祖、天日鷲命をやって調べさせた。彼は帰ってきて、『これは単なる人です。名は椎根津比古といい、ここに連れてきました』と報告した。天皇が『お前は誰か』と問うと、『私は皇祖、彦火々出見尊の孫、椎根津比古です。』と答えた」と言っており、巻六では「妹の玉依姫を遣わして(ウガヤフキアエズを)育てさせたが、ついに一人の御子を生んだ。これが武位起(たけくらいおき)の命である」、また「武位起命は、大和国造の祖である」とも言っているのは、椎根津比古を彦火々出見尊の孫、武位起命の子としているわけだ。この説は信じがたい。彦火々出見尊の孫だったら、この人の子孫は、新撰姓氏録で天孫の部に入るはずだが、みな地祇の部に入れてあり、元来国つ神の子孫なのが明らかだ。】師木の水垣の朝(崇神天皇)の七年、夢に(大物主神の)教えがあり、倭直(やまとのあたえ)の祖、市磯長尾市(いちしのながおち)に倭大國魂神を祭り主とした。【この部分には倭直の祖ということは出ていないが、玉垣の朝(垂仁天皇)の三年、七年の段に倭直の祖、長尾市と見える。倭大國魂神のことは、伝十二の巻で言った。参照せよ。】またこのことは、(書紀の)一つの伝えとして師木の玉垣の朝、二十六年のこととする。【そこには大倭の直の祖、長尾市の宿禰とある。またこの大神を祀る地を「神地を穴磯の邑に定め、祠を大市の長岡の岬に作った」とある。この「穴磯」の字の旁らに「しき」と訓を付けてあるのは間違いだ。字の通りに読むと「あなじ」となる。だが崇神紀に「市磯長尾市」とあるのを考えると、「穴」は「市」の誤りかも知れない。また「長尾市」という名も、長岡岬の地名から出たのかも知れない。】これらはいずれも書紀に出ている。この長尾市はサオ根津彦の末裔で、大倭国造の先祖だが、この人が初めて大倭の大神を奉斎する神主になり、以後代々この氏の人が伝えて祭っていた。仁徳記に「倭直の祖麻呂<祖、麻呂(まろ)か祖麻呂(おやまろ)という名か不明>」という名が見え、「倭直、吾子籠(あごこ)」という名もある。雄略紀二年の段にも、「大倭国造、吾子籠の宿禰」という人が見え、欽明紀に「倭国造、手彦」という名がある。天武天皇十年四月己亥朔庚戌、倭の直龍麻呂に姓を賜い、連とした」【ここまでは直姓である。だが欽明紀までは国造とばかり書かれて、直とはないのだが、いつごろから直になったのだろうか。この記に「倭國造等之祖」とある「等」の字から考えると、この氏の人は、初めはみな国造という姓だったのだろう。書紀に「倭直の祖」とあるのは、直姓になった後のことを言っている。たぶん直姓になった後には、そのうちの一人を選んで国造としたと思われる。】同十二年九月乙酉朔丁未、倭直を連姓とした。【十年の時に連姓となったのは、龍麻呂一人だったのを、この時他の人も連になったのである。】同十四年六月乙亥朔甲午、大倭連に姓を賜い、忌寸とした。【これまでは、あるいは単に倭とあり、あるいは大倭と書いて、「大」の字の有無が定まらなかったが、この頃まではそうでもあっただろう。後には定まったはずである。】続日本紀六に、従五位下大倭の忌寸五百人を氏上として、神の祭りを掌らせた【神は大倭大神。】と見え、九の巻には大倭国造、大倭忌寸五百人とある。【これによって、国造は氏人の中に一人だけであることが分かる。】天平九年十一月壬辰、大倭忌寸、小東人、同水守の二人に宿禰の姓、他の同族の人々には連姓を賜う。神のお告げがあったからであるという。【他の族人に連姓を与えたのは、このときいまだ直姓の人もいたからと思われる。】同十年閏七月の段に、大養徳宿禰小東人という名があるが、これは天平九年十二月に、「大倭国を改めて大養徳国とした」とあり、国の名の字を変えたので、この姓も変わったのである。【同十九年三月、また元のように大倭国とした。】同十九年四月の段に、大倭の神主、正六位上、大倭宿禰水守に従五位下を授けたと見え、【この氏の人を大倭の神主と呼ぶのは、これが初めてである。】同廿年正月壬申朔甲戌、大倭の連、深田、魚名ともに宿禰の姓を賜う。天平勝宝三年十月丁巳、大倭国城下郡の人、大倭の連田長、古人ら八人に、宿禰の姓を賜う。神護景雲三年十月、大和国造、正四位下大倭宿禰長岡が卒した。五百足の子である・・・勝宝年中、忌寸の姓を改めて宿禰となった。などとある。ここで大倭と書かずに大和としているのは、天平勝宝の頃、国名の大倭を改めて大和と書くようになり、【このことについては、別に考察がある。また「やまと」に「大」の字を添えて大倭、大和などと書いてあるのは、みな「おおやまと」と読むべきだ。単に「やまと」と言うのに「大」の字を添えるのもよくない。】姓にもその字を書いたのだ。【後世のように、思いに任せてみだりに書いたわけではない。】新撰姓氏録に、【大和国神別地祇】「大和の宿禰は神知津彦命から出た。神日本磐余彦天皇が日向から大倭国に向かう途中、速吸門に到ったとき、漁人が艇に乗って来た。天皇が『お前は誰か』と訊くと、『臣(わたし)は国神、名は宇豆彦です。天神の御子がやって来たと聞いたので、お迎えに来ました』と答えた。そこで皇船に引き入れて、海の導き手とし、神知津彦と名付けた【一名椎根津彦】。彼はよく軍機の策を図り、天皇はこれを嘉して、大倭国造に任じた。これが大倭宿禰の始祖である」と見える。また【摂津国神別地祇】、「大和の連は、神知津彦命の十一世の孫、御物足尼(みもののすくね)の子孫である」、【続日本紀廿九に、「摂津国菟原郡の人、倉人水守等十八人に大和連の姓を賜う」とあるのはこの族ではないだろうか。同時に播磨国明石郡の人、海の直溝長等十九人には、大和赤石の連を賜う」。これも大和氏の分かれだろう。また新撰姓氏録の摂津国同部に「物忌の直は、椎根津彦命の九代の孫、矢代宿禰の子孫である」と見え、河内国神別地祇の部にも「等禰(とね)の直は、椎根津彦命の子孫」とある。】続日本後紀に、承和七年八月甲辰朔己未に、大和国の人、戸主従八位上大和宿禰吉繼、戸口掌待従四位下大和宿禰館子らに朝臣の姓を賜う。左京一条坊に住む地を与えた」とある。

 

故從2其國1上行之時。經2浪速之渡1而。泊2青雲之白肩津1。此時登美能那賀須泥毘古<自レ登下九字以レ音>興レ軍。待向以戰。爾取B所レ入2御船1之楯A而下立。故號2其地1謂2楯津1。於2今者1云2日下之蓼津1也。於是與2登美毘古1戰之時。五瀬命於2御手1負2登美毘古之痛矢串1。故爾詔。吾者爲2日神之御子1向レ日而戰不レ良。故負2賤奴之痛手1。自2今者1行迴而。背負レ日以撃期而。自2南方1迴幸之時。到2血沼海1洗2其御手之血1。故謂2血沼海1也。從2其地1迴幸。到2紀國男之水門1而詔。負2賤奴之手1乎死。爲2男建1而崩。故號2其水門1謂2男水門1也。陵即在2紀國之竈山1也。

訓読:かれそのクニよりのぼりいでますときに、ナミハヤのわたりをへて、アオクモのシラカタのツにはてたまいき。このときトミのナガスネビコ、いくさをおこして、まちむかいてたたかいしかば、ミフネにいれたるタテをとりておりたちたまいき。かれそこのナをタテツとつけつるを、いまにクサカのタデツとなもいう。ここにトミビコとたたかいたまうときに、イツセのミコト、ミテにトミビコがイたるイタヤグシをおわしき。かれここにノリたまわく、「アはヒノカミのミコとして、ヒにむかいてたたかうことふさわず。かれヤツコがイタデをなもおいつる。いまよりはもユキめぐりて、ヒをせおいてこそうちてめ」とちぎりたまいて、ミナミのかたよりめぐりいでますときに、チヌのうみにいたりて、そのミテのチをあらいたまいき。かれチヌのウミとはいうなり。そこよりめぐりいでましき。キノクニのオのミナトにいたりましてノリたまわく、「ヤツコがてをおいてやイノチすぎなん」と、オタケビしてかむあがりましぬ。かれそのミナトをオのミナトとぞいう。ミハカはやがてキノクニのカマヤマにあり。

口語訳:その国からさらに東へと上り、浪速の渡りを過ぎ、白肩の津に停泊した。このとき、登美の那賀須泥毘古は軍を出動させ、待ち受けて戦を仕掛けてきた。そこで(皇軍の兵士は)舟にあった盾を取って、舟から下り立った。それでそこを楯津と名付けたが、今は日下の蓼津と言う。ここで登美毘古と戦っている間に、五瀬命は登美毘古の放った矢で、手に傷手を負った。そこで「私は日の神の子だから、日に向かって戦うのは良くない。そのために、賤しい奴に傷手を負わされたのだ。これから迂回して、日を背に負って戦えばきっと勝てるだろう」と言い、南の方へ舟を進めた。血沼海に到って、手の血を洗った。そこで血沼海と言うのである。そこから更に南へ回って、紀国の男之水門に到ったとき(傷の具合が悪くなり)、「奴(やつこ)の手にかかって死ぬのか」と言い、雄叫びを上げて死んだ。そこでその水門を男之水門と呼ぶ。御陵は紀国の竃山にある。

「從2其國1(そのくにより)」。この前の文には速吸門だけがあって、国と言うべき対象がない。どういうことだろうか。【前の段で事の順序が乱れているので、こういうことにもなるのだろう。】○上行も「のぼりいでます」と読む。○浪速は、字の通り「なみはや」と読む。【ここではまだ「なにわ」と読むべきでない。ただし後には、「なにわ」を浪速と書いても間違いではない。】書紀には、「皇師(みいくさ)はついに舟を並べて東へ向かった。難波の崎に到ったとき、潮が大きく起こり、流れがひどく速かった。そこで浪速(なみはや)の国と名付けた。またの名は浪華(なみはな)とも言う。いま難波(なにわ)と言うのは、訛ったのである」とある。このことは、師の冠辞考、【「おしてる」の條】に詳しく出ている。参照せよ。難波は、古くは難波の国とも言い、摂津国西生(西成)郡から東生(東成)郡西部にかけての総称で、古い書物に多く見えることは言うまでもない。○渡(わたり)とは、海であれ川であれ、渡って行くところを言う。【後世の歌などで「難波わたり(難波の辺り)」と言うのとは違う。】万葉巻一【二十六丁】(62)に「對馬乃渡々中爾(つしまのわたりわたなかに)云々」、巻六【四十五丁】(1058)に「泉川渡乎遠見(いずみがわわたりをとおみ)云々」などあり、この他にもたくさんある。「〜の渡り」というのは、みなこの意味だ。景行紀に柏濟(かしわのわたり)、吉備の穴濟(あなのわたり)、向津野(むかつぬ)の大濟(おおわたり)、名籠屋(なごや)の大濟(おおわたり)など見え、川では仁徳記に考羅(かわら)の濟(わたり)などがある。また難波の大渡などもこの記にある。【高津の宮(仁徳天皇)の段】いずれも海路について言っている。○經(へて)は、経過してということだ。難波津には泊まらず、ここを過ぎてさらに海路を進んだのである。【難波は、西から大和に上るには、すべての舟が停泊する地なので、これを通過したというのは、書紀にあるように、このとき波が非常に速く、舟を泊まらせるのが難しかったのだろう。そういうことになったのは、ここから直接東に向かうには、悪所があるので、南に行かせようとする神の配慮があったのだろう。次のことと考え合わせよ。】このことは、後で論じる。○青雲之(あおくもの)は、「白」の枕詞である。「青雲」といったのは、祈年祭の祝詞に「青雲能靄極、白雲能墜坐向伏限(あおくものたなびくきわみ、しらくものおりいムカブスかぎり)」、【月次祭の祝詞にもある。】万葉巻二【二十五丁】(161)に「向南山陣雲之青雲之(きたやまにタナビクくものあおくもの)」、巻十三【二十九丁】(3329)に「白雲之棚曳國之、青雲之向伏國乃(しらくものタナビクくにの、あおくものムカブスくにの)」、巻十四【二十八丁】(3519)に「安乎久毛能伊弖來和伎母兒(あおくものイデコわぎもこ)」、巻十六【二十九丁】(3883)に「青雲乃田名引日須良霖曽保零(あおくものタナビクひすらこさめそほぶる)」などがある。青い雲などというものはないが、大空が蒼いことをそう表現したのだ。【今の世の人も、晴れた空を青雲と言う。ところが、漢国で青雲というのも、そうである。上記の万葉の歌に「たなびく」とあるので、空だというのはどうかと思う人もあるだろうが、「たなびく」とは雲であれ霞であれ、あまねく空全体を覆うことを言う。「たなぐもる」と言うのも同じだ。万葉の歌に詠まれた様子をよく考えて理解すべきである。それを後世の人は、「たなびく」とは、空に一刷毛描いたような雲だと言い、「たなぐもる」とは薄曇りのことだと思うのは、みな間違っている。古歌に「山にたなびく」というのは、山全体を押し包むのを言う。とすると、雲という語を使って言う以上、青雲にも「たなびく」と言って不都合はない。上記の引例の「北山にたなびく」と詠んでいるのは、北山の上の空のことだ。また「いでこ」の枕詞に遣ったのは、曇って雨が降るときなどは、晴れるのが待ち遠しく、青空が見えることを願う意味である。】ここで「白」とは、一般にものが鮮明なのを言う。「いちじろし」、「とおしろし」などの「しろ」もこれだ。【「御火(みひ)白く焼け」などと言うのも、灯りのためだから、「鮮やかに焼け」という意味である。また太平記などに「矢前(やさき)白く射通して」と言うのも、矢先が鮮やかに見えるほど射通すことを言う。】晴れた空の青は鮮明なものだから、「青雲の白」と続けて言うのだろう。【師の説に、「青雲は本来白雲だから、「白」に続くのである。とてもよく晴れた空の白雲は、青く見えるものだから、見たままに青雲と言う」とあるのは納得できない。白雲だけれども青く見えるというのなら、「白雲の青」と言うべきだろう。それによく晴れた空の雲は、いよいよ白く見えるもので、青く見えることなどはあるまい。上に引いた祝詞の文、また万葉巻十三の歌で、青雲と白雲は別のことなのが明らかだ。またある説に、「白馬を青馬という例があるから、雲に限らず、白いものを青いと言う。甚だしく白いものは、青く見えるからである」と言うのも納得できない。非常に白いものは青く見えるからと言って、何でも青と言うことがあろうか。それでは白と青との違いがはっきりしないではないか。かの白馬節会を青馬とも言うのは、白馬のことを青馬と言うのではない。元は実際に青馬であって白馬ではなかった。だから万葉、文徳実録、延喜式などでも、みな「青馬」としか書いてなく、古い書物に「白馬」という語はなかったのを、後世に白馬と書くようになり、「白馬節会」といい、また元の名で「青馬節会」とも呼ぶのである。平兼盛集に「降る雪に、色もかはらで牽(ひく)ものを、誰(たれか)青馬と名付け初(そ)めけむ」、これは白馬を用いても、なお青馬という名が残っていることから歌ったものである。○またある人は、この青雲というのは地名だろう、枕詞ではないだろうと言ったが、地名らしくない。】ところで、歌でも宣言などでもない地の文に、こういう枕詞を置くことは、三代実録二【十九丁】に「薦枕高御産栖日神(こもまくらタカミムスビのカミ)」というのがあり、上代には同様の例が他にもあることが分かるだろう。【拆鈴五十鈴宮などというのは、神の詔言(のりこと)だから、ただの地の文ではない。】○白肩津(しらかたのつ)。【白は「しら」か「しろ」か分からない。とりあえず書紀の訓に従って「しら」と読んでおく。】この名の意味は分からない。この地のことは、後で論じる。○泊(はて)というのは、舟が到着することを言う。○登美(とみ)は地名である。書紀には「戊午年十二月癸巳朔丙申、皇軍はついに長髄彦(ながすねひこ)を撃った。連戦しても勝てずにいたとき、突然空が暗くなり、氷雨が降ってきた。すると金色の不思議な鵄(とび)が飛んできて、天皇の弓の弭にとまった。その鵄は稲光のように明るく光り輝いた。このため長髄彦軍は、皆目が見えなくなり、戦う気力をなくしてしまった。長髄というのは、この邑の元の名で、それからまた人名にもしたのである。皇軍は、この鵄の瑞(しるし)を得た(それで勝つことができた)ので、時の人たちはそこを鵄邑(とびむら)と呼ぶようになった。今は鳥見(とみ)と言う。これは訛ったのである」とある。【これはこの段の時のことでなく、熊野から山を越えて大倭国に入り込んでからのことだが、後のことを以前のことに溯らせて、ここで「登美」と言ったことが分かる。ところで、「鳥見と言うのは訛ったのである」とあるが、この記ではすでに「登美毘古」と呼んでおり、彼の妹のことは、書紀に鳥見屋媛(とみやびめ)としているので、当時から「とび」とは言わず、「とみ」と言っていたのだ。とすると、上代には「あぶ」も「あむ」と言っていたように、鵄を「とみ」とも言ったのだろう。それを「訛った」と言うのは、鳥の名の「とみ」を言うのと、地名の「とみ」を言うのと、声の上下(イントネーション)の違いがあったのかも知れない。盾津(たてづ)を蓼津(たでづ)と言うのが、「て」の清濁の違いだけなのに「訛った」と言うのと同様だ。】なおこの地名は、延喜式神名帳に大和国城上郡等彌神社、また添下郡登彌神社と、二箇所見えているが、ここは城上郡の「とみ」で、今の世に外山(とび)村というのがこの名の遺るところだろう。~武紀の終わりに「そこで鳥見山の山中に霊畤(まつりどころ)を建てて、そこを上小野榛原(かむつおぬのはりはら)、下小野榛原(しもつおぬのはりはら)と名付け、皇祖神を祭った」とあるのも、【「榛原(はりはら)」は、今の世に萩原(はいばら)という駅があるのがそうだという。たぶんそうだろう。この村は長谷(はせ)の東方にあって、今は宇陀郡に属し、上記の外山村からは少し遠いけれども、いにしえに「登美」と言ったのは少し広い範囲だったと思われるので、その駅の辺りまでを含めて「鳥見山中」と言ったのに違いない。】天武紀、【廿九の十八丁】に迹見(とみ)の駅家(うまや)とあるのも、この「登美」だ。【その迹見の駅は、飛鳥の宮から泊瀬(長谷)に出て、帰る途中に立ち寄ったところだから、今の外山村の辺りがよく当てはまる。】また延喜式神名帳にある城上郡の宗像神社のことを、元慶五年の官符に【類聚三代格に載っている。】「大和国城上郡、登美山にある」と書いている。【この神社は、今外山村にある春日神社だという。】また万葉巻四【四十九丁】(723の題詞)、巻八【三十七丁、三十九丁】(1549、1560と1561、いずれも題詞)などで「跡見荘」と言い、「射目立而跡見乃岳邊之(いめたててとみのおかべの)」と言うのも、同じ「登美」だ。【というのは、巻八に「跡見田荘にて詠める歌二首(1560、1561)」と題を書いておいて、その一首(1561)は「吉名張乃猪養山(よなばりのいがいのやま)」と詠んでいる。吉名張(よなばり)は今も城上郡にあり、その村は前記の萩原に近いところだからだ。】さて添下郡の「登彌」は、今も鳥見荘というところで、【書紀六(垂仁紀三十五年十月條)に「迹見の池を作った」と見え、続日本紀六に「大倭国添下郡の人、忌寸果安・・・登美・箭田(やた)の二郷を云々」とあるのは、こちらの登彌である。また斑鳩の富の小川というのも、この登彌に因む名ではあるまいか。斑鳩は平群郡だが、この川は添下郡から流れている。】ここの登美ではない。○那賀須泥毘古(ながすねびこ)。前掲のように、書紀には「長髄というのは、この邑の元の名」とあり、妹も一名長髄媛とあるから、そうなのだろう。【兄妹が同じ地名に比古、比賣と付けて名にするのは、いにしえには普通だった。和名抄には「野王いわく、髄は骨の中の脂である。和名『すね』」とある。だが俗言に脚を「すね」と言うので、長髄というと脛が長いための名のように思うだろうが、髄の字に足とか脛の意味はない。ただ骨の中の脂ということなら、長というのは似つかわしくない。あるいは「髄」は借字ではないだろうか。】○待向(まちむかい)。待は待ち受けたのである。古語には「待何々」という例が多い。向は迎える意味なら「むかえ」とも読めるが、ここは敵対するのだから「むかい」と読む。この那賀須泥毘古の本拠は大倭の登美だったのだが、ここでは天皇の舟の泊まるところへ出向いて、防戦したのである。○楯は、和名抄に「兼名苑にいわく、楯は一名ロ(木+鹵)、和名『たて』」、また「釋名にいわく、幅が狭くて長いのを『歩楯』といい、歩兵が持つものである。和名『てだて』」とある。名の意味は「立て」ということだろう。兵庫寮式に「およそ踐祚大嘗会には、神楯四枚を新たに作る」【各長さ一丈二尺四寸、本の幅四尺四寸五分、中の幅四尺七寸、末の幅三尺九寸、厚さ二寸、丹波の楯縫氏が作る】戟八竿、・・・その材料は黒牛の皮八張、【各長さ八尺幅六尺】掃墨一斗三升六合、【楯ごとに二升八合、戟ごとに三合】・・・商布四段四尺、【裏の材料、楯ごとに二丈六尺】云々」【これ以外にもそのものの材料が詳しく見える。】とある。これでいにしえの楯の造りは大体分かる。【楯を作ることを「縫う」と言うから、皮を板の面に縫い合わせて張り、裏には布を張るのだろう。その材料の板については書いてないが、厚さ二寸とあるから、板に張るのでなければできないだろう。】○取(とり)は、軍士が手に取るのである。○下立(おりたつ)は、舟から陸へ、兵士が降りて立ったのである。【楯を下ろして立てたのではない。】○其地(そこ)とは白肩の津のことだ。○於今者は、三字を「いまに」と読む。この記中に例が多い。【このことは、伝十の十二葉で言った。師はこれを「いましくは」と呼んだ。これは万葉に見える古言で、「今は」という意味である。だがここはその意味ではない。そう読むと、「於」の字が余分だ。「者」の字は、普通の使い方のように「てにをは」の「は」の意味ではなく、「今者」の二字を合わせて「いま」ということだ。これも記中によくある。】○日下は、「くさか」と読み、地名である。これは河内国河内郡の日下ではないだろう。【河内の日下は、古い書物によく出てくる名高い土地だ。そこのことは、下巻雄略の段で言う。また日下と書く文字のことも、そこで言う。】というのは、難波の海を過ぎて、さらに海路を進んで泊まった津なのだから、難波より南方にある海辺の地でなければならないからだ。そこで考えてみると、和泉国大鳥郡に日部【くさべ】郷がある。延喜式神名帳に、同郡日部神社もある。この郷は、今は草部村と言っている。これは実は日下部で、ここの日下はこれだろう。【「下」の字を省いて日部と書いているのは、諸国・郡・郷の名は必ず二字に書けという決まりがあるからで、大和の葛城の上下の郡だったのを葛の上下、磯城の上下の郡だったのを城の上下と書くのと同じである。それを和名抄に「くさべ」と書いているのは、「か」の字が脱け落ちたのか、それとも今も草部と書いていることから見ると、当時すでに訛って「くさべ」と言い習わしていたのか、いずれにしても元は「くさかべ」だっただろう。日下と二字続いてこそ「くさか」と読めるのであって、「日」の一字を「くさ」と読むことはない。春日を「かすが」と読むからといって、春の一字を「かす」とは読めないのを考えよ。また今の草部村は海辺ではないが、極端に遠いわけでもない。いにしえは海辺まで含めた広い場所を指していたのだろう。なお日下と日下部を通用して言ったことは、下巻雄略天皇の歌に日下山のことを「久佐加弁能許知能夜麻(くさかべのこちのやま)」と詠んでいるなど、例がある。】玉垣の宮(垂仁天皇)の段に、「日下の高津の池」とあるのも、この日下だろう。その池は書紀では「高石の池」とあり、高石も大鳥郡の海辺だそうだ。【この高津と高石の名を並べてみると、いにしえは高石の辺りまで「日下」と言ったことが分かる。高津の津の字は師の誤りで、この記にあるのも、正しくは「高師の池」だったかも知れない。あるいは、この時に天皇の舟が泊まった津だから、高津と言うのも似つかわしく、いずれにせよ、大鳥郡に日下があった証拠になる。またこの高津の池のことを、一説に「河内国の日下村にある」というのは、和泉にも日下があるということを知らないで、みだりに唱えたものだ。】また新撰姓氏録の和泉国皇別に、日下部の首、日下部などという姓がある。これらも日子坐王(ひこいますのみこ)の末裔で、河内国の日下部と元は同じである。【河内国の日下部氏のことは、伊邪河の宮(開化天皇)の段で述べる。】考えてみると、日下部氏の人たちが分かれて、この和泉国大鳥郡に住み、勢力が広がったからその地を日下と呼ぶようになった可能性もある。とすると、和泉の日下も、元は河内の日下から出たということになる。書紀には、「三月丁卯朔丙子、川を遡って、すぐに河内国の草香邑(くさかむら)にある青雲の白肩の津に到った。夏四月丙申朔甲辰、皇軍は兵を整えて、徒歩で龍田まで進んだ。その道は狭くて険しく、人が横に並んで歩くことができないほどだった。そこで一旦引き返して、膽駒山(生駒山)を越えて東に進み(更欲東踰)、中州(大和平野)に入ろうとした時に、長髄彦はこの知らせを聞いて、『天神の子たちがやって来た理由は、きっと私の国を奪おうとしているのだ』と言い、すぐに自分の兵をみな招集して、孔舍衞坂(くさえのさか)に待ち受け、皇軍と会戦した」とある。この記とは趣が違う。【ここで「川を遡り」とあるのは腑に落ちない。草香が河内の日下だとしても、難波から川を遡ったところではない。非常に地理が誤っている。まして和泉にあるのだから、お話にならない。これは地理を考えないで、潤色のために作った文ではないだろうか。それをこの文にこだわり、白肩の津を今の枚方(ひらかた)だという説もあるのは、甚だしい間違いだ。ここに河内の国とあるので、草香は河内の日下だとばかり誰もが思っているのも違う。河内の日下は海辺ではなく、舟が泊まるような地ではないから、川にも「津」とは言うけれども、その日下は船が通るほどの川もない。白肩の津、草香の津などというのは、海辺に違いなく、和泉の日下であることに疑いはない。和泉も、もとは河内の国だったのを、分けて一国としたのは、霊亀二年以降のことだから、古い書物で河内の国と言っていたのは論ずるまでもない。また「更欲東踰(さらに<生駒山を>こえて)」の「東」の字は、龍田の前にあるはずの字だ。なぜなら、龍田から行くのも生駒山から行くのも、いずれも東に進むことだから、龍田のところにこそこの字を書くべきだが、生駒のところにこの字を置いたのは、これもまた地理が紛らわしく聞こえる。<訳者註:当然ながら宣長は、古代の地形が現在と大きく違っていて、枚方の辺りまで海だったことは知らなかった>】また「草香の津に帰り着いて、盾を地面に立て、雄叫びを上げた。そこでその地を盾津と言った。今蓼津と言うのは、訛ったのである」というのも、この記と異なる。【この記の趣は、舟が泊まったところに敵軍が待ち伏せしていて、防戦のために楯を取ったわけだから、すんなりと頭に入るが、書紀の記載だと、「虜亦不敢逼(アタまたあえてせめまつらず)<口語訳:敵はあえて追って来ようとしなかった>」と言っているのに、草香の津に帰って盾を立て、雄叫びしたのは何のためなのか、よく分からない。あるいはいにしえの軍隊の祝い事などでもあろうか。】○蓼津(たでつ)。この地名は他の古い書物に見えず、今も遺っていないようだ。○登美毘古(とみびこ)は、つまり那賀須泥毘古のことだ。彼の妹も登美夜毘賣(とみやびめ)と言うから、兄をこう呼ぶこともあっただろう。【ただし「登美」とは例の鵄(とび)の奇瑞によって、彼が討たれた後に人が付けた名だから、生きていた頃は登美毘古とは言わず、死後に世の人が彼を呼ぶ名なのだろう。】○痛矢串(いたやぐし)。痛(いた)とは、物事がひどく切であることを言う。「甚」の字を書くこともある。後の「痛手」の「痛」である。串はものを貫くものなら何でも言う。【玉串などの語もある。】だから矢が体を貫いたのも言う。【この「串」の字は、元はクシ(串の縦棒が二本)の字で、字書には「肉を焼く道具」とある。だがこちらの国では、古くから串の字形を用いた。串の字には、本来の「くし」の意味は見えない。ただし「ものを相貫くことである」と注され、字の形もクシ(串の縦棒が二本)に似ているから、取り違えたのだろう。漢国でも、この二字を混同していることがある。和名抄には、「唐韻にいわく、クシ(串の縦棒が二本)は肉を炙るクシである。和名『やいくし(焼き串)』」とある。これも古い本では串の字を書いてある。】○負(おう)は、手傷を負ったのである。敏達紀(十四年)に「如B中2獵箭1之雀烏1(かりやをおえるすずめのごとし)<口語訳:矢が突き刺さったままの雀のようだ>」とある。一般に負うとは身に受け持つことを言う。ここは書紀には、「流れ矢が五瀬命の肱に当たり、皇軍は戦い続けることができなくなった」とあり、上記の孔舍衞坂での戦闘中のことである。この記も場所が異なり、【この「流矢」も「いたやぐし」と読むのは、この記による読みだが、当たっていない。痛矢串とは体に当たったからこそ言うのだ。】○詔(のりたまわく)は、五瀬命の詔である。○吾者(アは)云々。この言葉でも、この時の主君が五瀬命だったことは明らかだ。【書紀では、この詔も伊波禮毘古命の言葉になっている。】○日神(ひのかみ)。天照大御神を日神と呼ぶのは、ここが初出である。上巻には天照大御神としか書いていないのを、こう呼び方を変えているのは、上代には、その神自身が行ったり見聞きしたことを語るには、その神の名を用い、【このことは、後の高倉下(たかくらじ)の夢の段も同じ。】ここでは高天の原にいる神を、この地上の国から仰ぎ見る立場で【次に「日に向かって」とあるのを合わせて考えよ。】言うので、こういう言い方になったのだ。これらを見ても、古言の使い分けの精細なことを知るべきだ。【書紀は漢文を真似るのが主旨なので、こうしたところでは古言に関係なく書いており、神代巻でも「日の神」という語がよく出る。】○御子(みこ)とは、御子孫を言う。子孫は何代後でも、すべて子と言うことは、前に述べた。○向日(ひにむかいて)。前には「日神」と言ったのが、ここでは単に「日」と言っている。これまた古言の細かな使い分けである。前にはその御子と言ったので、神という言葉を添えて言い、今度は単に仰ぎ見る日のことを言うだけだから、神とは言わない。【これらは、煎じ詰めれば違いはないようだが、よく考えるとやはり多少の違いがあるだろう。今の世の人でも、単に天の日を言うときに天照大御神とは言わず、日とだけ言う。しかしこの神の身に起こったことを言うときには、天照大御神と言い、「〜し賜う」、「〜坐(ま)す」などと、尊敬語を付けて言う。天の日については、単に「日が出る」、「日が入る」などとだけ言い、「出賜う」、「入り賜う」などとは言わないけれども、「不敬だ」とはせず、神代の沼河比賣の歌にも「日が隠らば」とあるから、これはおのずと古意の使い分けに適っている。○ここで皇祖を日の神と言い、天の日をただ日と言っているので、天照大御神と天の日とは異なるものと考えるのは間違いだ。天照大御神がすなわち天の日であることは、上巻に言った通りである。】日は東から出て、西の方へ廻って行くものなので、東に向かって戦えば、それに逆らうことになる。○不良は「ふさわず」と読む。この読みについては伝四【三十一葉】で述べた。【これを書紀で「天道に逆らう」と書いているのは、古意でなく漢意によることは、初めの巻で述べた。】○賤奴は二字で「やつこ」と読む。賤は良の反対語で、やはり奴の意味だ。続日本紀三十二に「鹿島の神賤(かみやつこ)」、「紀寺の賤(やつこ)」、また万葉巻七【二十七丁】(1275)に「住吉・・・賤鴨無(すみのえの・・・やつこかもなき)」などがある。どれも奴婢(ぬひ)のことだ。卑賤だということとは違う。【師は、奴をすべて「やいつこ」と読んだ。それは書紀の神功の巻の歌に依るのだが、その歌の「やいつこ」も、「奴」の意味かどうか分からない。その他に「やいつこ」という例は見当たらない。万葉巻十八(4132か)にも「夜都古(やつこ)」、和名抄でも「夜豆古(やつこ)」とあるので、こう読む他はない。】ただしここでは賤奴は借字のようで、実は君臣(きみやっこ)の臣の意味だ。【良人の反対語として賤とも奴とも言うのは、普通の人々の基準で言うのである。これはそうでない。天皇に対して普通の人を「やっこ」と言うのだから、「臣」の意味だ。一般に君に対しては、臣をすべて「やっこ」と言うので、書紀などでも君臣の意味で言う臣は、みな「やっこ」と読んでいる、それを後世人は、臣はみな「おみ」とばかり思い、「やっこ」というのはひたすら賤しい人と考えているのは、誤っている。「おみ」というのは、朝廷に仕える人々に対する尊称で、君臣の臣ではない。君に対しては、貴人であろうとも、臣をすべて「やっこ」と言ったのだ。国造(くにのみやつこ)、郡領(こおりのみやつこ)、伴造(とものみやつこ)なども、みな臣の意味だ。このことは伝七の巻で詳しく言った。欽明紀で、陪臣を「いややつこ」と言っているのも、臣の臣だから又臣(いややつこ)という意味である。「いや」は重なる意味だ。いにしえには、君に仕える人も、普通の人々の中で良人に使われる人も、ともに「やつこ」と言ったのだが、漢国では臣とか奴婢とか細かく区別したので、後人はこの文字に拘泥して、臣を「やつこ」と言うことを知らず、また「やつこ」は君臣の臣にも使うことを知らない。しかしここは文字に関係なく、賤奴を臣の意に用いたのだ。】天皇から見ると、普通の人々はみな臣だから、こう言った。下巻、穴穂の宮(安康天皇)の段に「都夫良意富美(つぶらおおみ)」の言葉で、「賤奴意富美(やつこおおみ)」とみずから言っている。【これは自分のことだから、僕(やつがれ)と漢文で言うのと同じように聞こえるだろうが、そうではない。これも臣という意味だ。ただし漢文で自分のことを臣と言うのとは違い、卑下する言葉ではない。またこの人は書紀では圓大臣(つぶらのおおおみ)と書かれていて、大臣であるのに「やつこ」と言う。これを見ても、「やつこ」は、単に賤しい人を言うのでないことは分かる。】ここでは、皇子に対して、普通の人を臣と言ったのだ。すべていにしえは、天皇のみならず、皇子・諸王までも皇胤は、天皇同様に大君、また王といって、普通の人々とは混じらず、一線を画していた。その差別は非常に厳正だったのである。【だから上代には、皇太子は言うまでもなく、諸皇子、諸王まで、皇胤の人を臣と呼ぶことなどは一切なく、みずからもそう呼ぶことはなかった。ところが後には、何事にも漢風を用いるようになり、皇太子さえ天皇に対して臣と言うことがある。だが朝廷の人々をすべて並べ上げるときは、諸王・諸臣、あるいは王臣とも言って、王(みこ)と臣(おみ)を区別するのは、古意が遺っているからである。】○痛手(いたで)は、後世も言う言葉で、深手というのも同じだ。上記の痛矢串のことを言う。【前の文は地の文だから、そのものを客観的に見て言っている、こちらは本人の言葉だから、広く痛手と言っているのだ。痛手と言えば、矢傷に限らず、何にでも言える。】訶志比の宮(仲哀天皇)の段の歌に「布流玖麻賀、伊多弖淤波受波(フルクマ=振熊が痛手負わずは)」とあり、刀や矢で傷付けられたとき「手傷を負う」というのは、一般に人のすることを「手」という事が多く、【書法、撃剣、相撲、囲碁など、その他にも技を指して「手」という事が多い。できるだけのことをすべて尽くすのを「手を尽くす」、何かの技をする人を指して「〜手」と言うことも多い。敵を討つ兵士も「討手」と言い、捕らえる人を「捕り手」というたぐいだ。追手、搦手というのも、もともとこちらから誰かを追う人のことを追い手と言い、向こうで待ち受けて搦め捕る人を搦手というわけだ。それが転じて、ものを見る人を「見手」、聞く人を「聞き手」と言うたぐいも様々なことにある。また物を造る人のことを古くは手人(てひと)と言った。物を造ったとき、仕上がりが悪いのを隠して出来がいいように欺くのを、「手を為(す)る」と言い、人にだまされることを「手を食う」と言う。この他、万事のことに「手」という語が使われる。中でも敵を倒すような行為に関する言葉には、殊に多い。】刀剣で撃つのも矢で射るのも、手でするから、そうした武器で傷つけられることを、手を負うと言う。【人に傷つけられた傷を手傷というのもこれである。】○行迴(ゆきめぐり)は、それまでの行程をまっすぐ進まないで、他の方向に進み、目的のところへ行こうとするのである。○背負は「せおいて」と読む。【この背を「そびら」と読むのは良くない。「そびら」については、伝七の三十七葉で述べた。】「おう」とは、身に受け持つことを広く言い、必ずしも背に持つことに限らない。だからこそ「背に負う」とも言う。【普通は背に負うことも単に「負う」と言うが、ここでは背後にすると言うことを言っているので、「背負う」ということを強調している。】この言は、今の俗語でも言う。下巻朝倉の宮(雄略天皇)の段に「若日下王(わかくさかのみこ)は天皇に奏して、『日に背いて出発するのは、畏れ多いことです』と言った」とあるのは、意味が異なる。【同じ「背」だが、そちらは後方にして背くという意味だ。この段で言っているのは、背に負うのである。だからそちらでは「負う」とは言わない。ここは書紀にも「日神の威を負うのである」とある通り、その威を借りる意味がある。】○南方は「みなみのかた」と読む。【南の字も、東を「ひむかし」と言うのに倣って「む」を添え、「みむなみ」と読むのは誤りである。】○血沼(ちぬ)。玉垣の朝の段に「血沼の池」があり、書紀の崇神の巻に「茅渟の縣」、允恭の巻に「茅渟の宮」、【続日本紀十五にも「智努の離宮」という語が見える。】などあるのは、みな同じ所だ。欽明の巻に「河内の国(の国司)が言上して、『泉の国の茅渟の海中に云々』」、続日本紀に霊亀二年三月癸卯、「河内の国の和泉、日根の両郡を分割して、珍努(ちぬ)の宮に供させた」【「宮」の字を印本に「官」としているのは間違いである、古い本には「宮」とある。また和名抄に「霊亀二年、河内の国の和泉、大鳥両郡を分割して和泉国を置いた」とあるのは間違っている。】「四月甲子、大鳥、和泉、日根の三郡を分割して、初めて和泉の監を置いた」、「天平十二年八月甲戌、和泉の監は河内国に合わせた」、「天平宝字元年五月乙卯、和泉などの国を元のように分けて立てた」とある。これらから、血沼は和泉国和泉郡だと分かる。この郡は、大鳥郡の南に続いており、「南方から廻り幸(いで)ます」という行程もよく合う。万葉巻七【十二丁】に(1145)「陣奴乃海(ちぬのうみ)」、巻十一【十二丁】(2486)に「珍海(ちぬのうみ)」、「血沼之海」ともある。【巻六(999)に「千沼囘(ちぬま)」、巻九(1809)に「智奴壯士(ちぬおとこ)」などもある。】いにしえは名高いところだった。【黒鯛の一種に「ちぬ」という魚がある。和名抄で「海セキ(魚+即)魚」を当てている。この魚は血沼の海の名産だったからその名に負ったのだろう。そういう例はわが国でも漢国でも多い。それをこの魚がよく捕れることから地名になったという説は、原因と結果を取り違えていて、この記の趣旨とも合わない。】○紀國(きのくに)。上巻に出た。○男之水門(おのみなと)。延喜式神名帳に和泉国日根郡、男神社(おのかみのやしろ)【二座】、和名抄に同郡、呼唹(乎)(おお)郷がある。【今も男里(おのさと)村というところがある。男神社もこの村にある。和泉志に「一座は神武天皇、今は男森明神と称する。もう一座は五瀬命、今は濱天神と称する」という。】これである。日根郡は和泉郡の南だから、ここも道程が合う。ただし「紀國」とあるのは、誤伝だろうか。【一説に「雄山(おのやま)というところがある。昔は日根郡だったが、今は紀国に属する」と言い、他の説には「名草郡の若山に雄町(おのまち)というのがある。竈山からは約三里離れている」という。これらも関係がありそうには聞こえるが、古い書物に確かな記事がないので、採用できない。】あるいは古くは紀国との境まで男郷で、もっと古くはこの郷も紀国に属していたのかも知れない。【今の男里(おのさと)から西南に大きな道を辿って行くと、国境まで五里余りの距離だが、真南に進むと、国境までそれほど遠くない。○書紀にはこの地を茅渟の山城(やまき)の水門、またの名は山井の水門とある。これも疑わしい。というのは、茅渟は非常に広い範囲を指したかも知れないが、男里からはるかに遠い。それに崇神の巻に「茅渟の縣(あがた)、陶(すえ)の邑」とある陶は、今は陶器荘(とうきのしょう)と言って、大鳥郡である。延喜式神名帳に山井神社とあるのも大鳥郡にあり、日根郡の男郷からはますます離れる。】○「負2賤奴之手1乎死(やつこがてをおいてやイノチすぎなん)」。この「乎」の字は、【旧印本に誤って「守」と書いていたのを、延佳が「乎」に改めたのはいいが、「死」の下に付けたのは良くない。今は一本によった。】「や」と読む。こうした箇所に「乎」の字を置くことは、記中にはしばしば見られる。上巻に「此口乎不答之口(このくちやこたえせぬくち)」【伝十六の十六葉】などとあるのと同様だ。「死」は「いのちすぎなん」と読む。万葉巻五【二十八丁】(886)に「道爾布斯弖夜伊能知周疑南(みちにふしてイノチちすぎなん)」とあるのと、語勢がよく似ている。人が死ぬことを「過ぎる」と言うのは、師の冠辞考の「黄葉(もみじば)のすぎ云々」の條に述べられている通りだ。またこれに「命」という語を付けて言うのも古言では普通だ。書紀の雄略の巻【十七丁】(九年三月)には「命過」と書かれている。○男建(おたけび)は伝七【四十二葉】に出た。○崩は「かむあがりましぬ」と読む。【書紀もそう読んでいる。ただし神武天皇の崩御だけは「かむあがりしましぬ」と、「し」を添えて読む。実際「神上(かむあがり)」は元は用言(動詞)なのを体言(名詞)にした語だから、直接「ましぬ」と続けるのはおかしく、「しましぬ」と言うのが正しいはずだ。しかしそう読んでは、何だか穏やかでない(天皇の意志で死んだように聞こえる)。上巻に「神避坐(かむざりましぬ)」とある「神避」も同様で、体言に使っていても「かむざりしましぬ」と読んでは変に聞こえるから、今も「し」を入れないで読む方を採る。】記中、「崩」の字を書いた例については、宇治若郎子(うじのわきいらつこ)のところで言う。ところで「神上」とは、万葉巻二【二十七葉、日並知皇子命の薨の時の長歌】(167)に「天原、石門乎閇、神上、上座奴(あまのはら、いわとをたてて、かむあがり、あがりましぬ)」とあり、天所知(あめしらす)ということと同じ意味である。人は死ねば尊卑の別なく、底津根の国【つまり夜見の国だ。】に行くわけだが、天皇を初め、尊貴な人々についてはこれを忌み憚って、逆に「天に上った」と表現するもので、古言である。【このことは伝十三の四十六葉にも言ってある。参照せよ。】○水門(みなと)。上巻に出た。○「謂2男水門1也(おのみなとという)」。これは男建(おたけび)に因む名だから、「建(たけび)の水門」などとあるのが当然だが、単に「男」と言うのはなぜかと言えば、この「男」は、ただ男子を言っているのでなく、猛々しく雄々しいという意味である。だから「男」だけでも「男建」の意味が含まれている。○陵を「みはか」と読むことは、前【伝十七の八十四葉】に述べた。○即(やがて)とは紀の国で没したので、その近くに葬ったことを言う。【陵墓が倭の国にあるなら、こう断る必要はないが、他国のことだからこんなふうに書いてある。】○竈山は「かまやま」と読む。書紀の読みもそうだ。【これを「かまどやま」と読むのは良くない。筑紫にあるのは「かまど山」で、「竈門山」と書く。混同しないように。】延喜の諸陵式に、「竈山の墓は彦五瀬命である。紀伊国名草郡にある。兆域は東西一町、南北二町、守戸三烟」とある。【この御陵が、このように後の式にも載り、毎年御幣を奉っていたことからしても、五瀬命は、実は天皇だったと分かる。他のすべての皇子と同格の人だったら、そういうことはなかったはずだ。上代の皇子たちの墓で、諸陵式に載っているのは、五十瓊敷入彦(いにしきのいりひこ)命、日本武尊、菟道稚郎(うじのわきいらつこ)皇子などの他には例がない。ここで陵と言わず墓と書いているのは、その天皇の御代として立てられなかったからである。飯豊皇女などにも墓と書いてあるのと同じだ。】延喜式神名帳には、同国同郡に竈山神社が載っている。【この社も五瀬命を祀っているという。そうでもあろう。しかしその社の主神が異神なのかどうかは定かでない。】この社は「和田の竈山明神」といって、名草郡宮郷(みやごう)、和田村の西南三町ほどのところにある。【宮郷とは、日前(ひのくま)の宮の辺り、十七村の総称である。】弱山(わかやま)から一里半ほど東南で、いにしえの大道【今は俗に小栗街道という。】の近くである。近世は、国の殿から毎年使いを派遣している神社だ。その近くに丸山という大きな怩ェある。古びた巨木が生い茂っている。これこそ竈山の御陵ではないだろうか、さらに国人に詳しく尋ねてみたい。【一説で、「今の世に九度(くど)山というところがこれだ」というのは間違いだ。九度山村は高野山の近くにあり、怡土郡だから、名草郡とは那賀郡を挟み、たいへん遠い。この説は、今俗に竈とクド(穴の下に忠)とを取り違え、竈を「くど」と呼ぶところもあるから、推量で付会したものだ。また「紀国に加信土(かしと)山というところがある。これは『信』を『ま』と読んで、つまり『かまど山』だ」と言う人もあるが、これも間違いだ。紀国に加信土山などという山はない。この説は万葉巻九(1680)にある「木方徃君我信土山(きへゆくきもがまつちやま)云々」という歌を誤読したことから出たのである。】書紀には「五月丙寅朔癸酉、皇軍は茅渟の山城の水門【またの名は山井の水門。茅渟は『ちぬ』と読む】に到った。このとき五瀬命は矢傷の痛みがひどくなり、剣を強く握りしめ、雄叫びして『残念だ、勇士でありながら賤しい奴に傷を負わされて、報復もせず死ぬとは』と言った。そのため世人はそこを『雄の水門』と呼んだ。さらに進んで紀伊国の竈山に到ったとき、五瀬命は軍中で死んだ。そこでその竈山に葬った」とある。【竈山に到って死んだとあるのは、この記と異なる。この記では男の水門で死んだと書いている。】○初めからここまでは、五瀬命が天皇だったから、上述の事件はみなこの命(みこと)に関した話である。【だからこの次の記事は「故神倭伊波禮毘古命」と書き出している。しかしまだ大倭国に入る前に死んだから、天皇一代として立てられることはなかった。だからこの記でも、この命の段を特に立てないで、初めから伊波禮毘古命の段として、その中の一挿話のような書き方をしている。このことは初めに論じた。】

 

故神倭伊波禮毘古命。從2其地1迴幸到2熊野村1之時。大熊髮出入即失。爾神倭伊波禮毘古命シュク(條の木を火に置き換えた字)忽爲2遠延1。及御軍皆遠延而伏。<遠延二字以レ音>此時熊野之高倉下。<此者人名>齎2一横刀1到レ於2天神御子之伏地1而獻之時。天神御子即寤起詔2長寢乎1。故受=取2其横刀1之時。其熊野山之荒神自皆爲2切仆1。爾其惑伏御軍悉寤起之。故天神御子問B獲2其横刀1之所由A。高倉下答曰。己夢云2天照大神高木神二柱神之命以1召2建御雷神1而詔。葦原中國者伊多玖佐夜藝帝阿理祁理。<此十一字以レ音>我之御子等不平坐良志。<此二字以レ音>其葦原中國者。專汝所2言向1之國故。汝建御雷神可レ降。爾答白。僕雖レ不レ降。專有B平2其國1之横刀A。可レ降。<此刀名云2佐士布都神1。亦名云2甕布都神1。亦名2布都御魂1。此刀者坐2石上神宮1也。>降2此刀1状者。穿2高倉下之倉頂1。自レ其墮入。故建御雷神教曰。穿2汝之倉頂1以2此刀1墮入。故阿佐米余玖<自レ阿下五字以レ音>汝取持。獻2天神御子1。故如2夢教1而旦見2己倉1者。信有2横刀1。故以2是横刀1而獻耳。

訓読:かれカムヤマトイワレビコのミコト、そこよりメグリいでましてクマヌのむらにいでませるときに、おおきなるクマやまよりいでてスナワチうせぬ。ここにカムヤマトイワレビコのミコトにわかにオエまし。またミイクサもみなオエてこやしき。このときにクマヌのタカクラジ。<これはヒトのナ>タチをもちてアマツカミのミコのこやせるところにマイきてタテマツルときに、アマツカミのミコすなわちさめまして、「ながいしつるかも」とノリたまいき。かれそのタチをうけとりたまうときに、そのクマヌのヤマのあらぶるカミおのずからミナきりたおさえて、かのオエこやせるミイクサことごとにさめたりき。かれアマツカミのミコそのタチをエつるユエをといたまえば、タカクラジこたえもうさく、「おのれイメにアマテラスオオミカミ・タカギノカミふたばしらのカミのミコトもちて、タケミカヅチのカミをめしてノリたまわく、『アシハラのナカツクニはいたくさやぎてありけり。アがミコたちヤクサミますらし。かのアシハラのナカツくには、もはらイマシがことむけつるクニなれば、イマシタケミカヅチのカミくだりてよ』とノリたまいき。ここにミこたえもうさく、『おのれくだらずとも、もはらカノクニむけしタチあれば、くだしてん。<このタチのナは、サジフツのカミという。またのナはミカフツのカミという。またのナはフツノミタマ。このタチはイソノカミのカミのミヤにます。>このタチをくださんサマは、タカクラジがクラのムネをうがちて、そこよりおとしいれん』ともうしたまいき。かれタケミカヅチのカミおしえたまわく、『イマシがクラのムネをうがちてこのタチをおとしいれん。かれあさめよくイマシとりもちて、アマツカミのミコにたてまつれ』とおしえたまいき。かれイメのおしえのままにツトメテおのがクラをみしかば、マコトにタチありき。かれこのタチはタテマツルにこそ」ともうしき。

口語訳:神倭伊波禮毘古命がそこから半島を廻って熊野村に到ったとき、大きな熊が突然山から出現し、またすぐに消え去った。神倭伊波禮毘古命は急に気が遠くなり、また皇軍の兵士たちも気が遠くなって、倒れ伏してしまった。この時、熊野の高倉下<たかくらじという人名>が横刀を持って天神の御子の伏せっているところにやって来て、その刀を献げたところ、天神の御子は目を覚まし、「何と長いこと眠っていたものだ」と言った。その刀を受け取ると、熊野の荒ぶる神たちはみな自然と切り倒されてしまい、伏せっていた兵士たちもみな目を覚ました。そこで天神の子は高倉下にその刀を手に入れた状況を問いただしたところ、「私は夢で、天照大御神と高木の神が建御雷神を呼び寄せ、『葦原の中つ国は大変騒がしい。私の御子たちもえらいことになっているようだ。あの葦原の中つ国は、お前が独力で平定したようなものだから、ちょっと降ってきてはくれまいか』と言うのでした、すると『私が降るまでもないでしょう。あのとき働いた太刀がありますから、それを降しましょう。そのやり方は、高倉下の倉のてっぺんに穴を開けて、そこから落とし入れることにしましょう』と答えました。そして私に『お前の倉のてっぺんに穴を開けて、この刀を落とし入れておく。後はよろしくこの刀を天神の御子に届けてくれ』と教えました。そこで夢の教えの通り、朝早く私の倉に行ってみると、本当に刀があるではありませんか。そういうわけでこの刀は、あなたにお届けする次第です」と答えた。

其地(そこ)とは男水門を指す。○迴幸(めぐりいでまし)。ここまで三度出て来たが、それは初めに「行き廻り」とあるのと同じ意味で、直接倭を指して進まず、南へ迂回することだった。熊野までの道もそうだ。○熊野村(くまぬのむら)は、紀の国の牟婁郡にある。この地は牟婁郡の半分以上を占め、数十里にわたっていてたいへん広く、一国としてもいいところなのに一郡にも立てられず、和名抄の郷の名にも載っていないのは、山国だったため、いにしえには人口が非常に少なかったのだろう。【牟婁郡の郷は、五つに過ぎない。】名の意味は、ここの大熊のことから出たのか、それとも出雲の熊野から来たのか、【これについては、伝十の二十八葉で言った。合わせて考察せよ。】定めがたい。書紀の神代上巻に「熊野の有馬の村」と見え、延喜式神名帳に熊野早玉神社【大】、熊野坐神社【名神大】などがある。○大熊髮。髪の字は誤りに違いない。これをあれこれ考えたが、序文にこれを「化熊出爪」と書いている「爪」も誤字で、正しくは山か穴だろうから、ここも「従レ山(やまより)」の二字を髪と誤ったのだろう。「つめ」と「かみ」の草書体はよく似ている。【一本に「髴」とあるので、これを採って「ほのかに」と読むべきかとも思ったが、それなら「見えて」と言うはずが「出た」とあるから、そうではないだろう。また延佳の頭書きに「異本に(弓+ムの下に非;読み不明)と書いてあり、あるいは鰐の字の誤りか」と言ったのは、書紀の神代巻に「熊鰐」という語があるのを考えたのだろうが、ここには関係がなく、間違っている。】○出入。「入」の字は納得できない。その次に「失せぬ」とあるので、「入」と言う必要がない。【ひょっとしたら「出即入失」とあったのを、上下誤ったかとも思ったが、「入」と言った以上、「失」とは言わないと思われる。もしくは出たり入ったり、何度かして後に消えたという意味かとも考えたが、それでは「即(すぐに、の意)」の字がおかしいだろう。】そこで、今は取りあえずこの字を読まずにおいて、「大きな熊が山から出現して、すぐに消えた」と解釈した。とにかくこの熊は、普通の熊でなく、序文に「化熊」とあるように、荒ぶる神が熊に姿を変えて現れたものだった。○シュク(條の木を火に置き換えた字)忽は「にわかに」と読む。書紀の天武上巻でそう読んでいる。また安康の巻、欽明の巻などでは「たちまちに」と読んでいる。そう読むのも悪くない。○爲遠延は師が「おえまし」と読んだのによる。「爲」の字があるのは、どうかと思う書き方だが、日代の宮(景行天皇)の段に「爲泥疑也」ともある「爲」の字の使い方である。【こういうところでこの字を添えて書くのは、古文の書き方だろう。】それも単に「泥疑(ねぎ)つ」と読むところで、爲の字は読みようがないから、ここもこの字は捨てて読まず、「ます」という語を補うべきだ。この「遠延(おえ)」を、書紀では「瘁」と書く。【「瘁」は辞書によると病のことだという。】また景行の巻に「信濃の坂を越える者は、しばしば神の気(いぶき)に当たって、バク(やまいだれ+莫)臥した」【これを引用して、和名抄には「バク(やまいだれ+莫)臥は和名『宇江不世利(うえふせり)』」とある。「宇」は「乎(お)」の誤写だろう。】仁徳の巻に「大蛇の毒におやされて、多く(の人)が死んだ」、欽明の巻に「毒害(おやしそこない)」、景行の巻に「吉備の穴の濟(わた)りの神、また難波の柏の濟りの神はみな人を害する心を持ち、毒気を放って、道行く人を苦しめた」と見え、倭建命が伊服岐(いぶき)山の神に惑わされたことなど、みな同じようなことだ。○御軍(みいくさ)は兵士のことである。万葉巻二【三十四丁】(199)に「御軍士乎喚賜而(みいくさをめしたまいて)・・・御軍士乎安騰毛比賜(みいくさをあともいたまい)」、巻六【二十五丁】(972)に「千萬乃軍(ちよろずのいくさ)」、巻廿【二十七丁】(4370)に「須米良美久佐(すめらみくさ)」【皇御軍士である】などとあり、みなその兵士を「いくさ」と言っている。師の説に、「いくさ」とは箭(さ)を射合わすことだったのを、用言を体言にして、軍人も「いくさ」と言うようになった、という。【書紀の持統の巻(持統三年)に「習レ射(いくさをならう)」、また「觀レ射(いくさをみる)」などもある。】○伏は「こやしき」と読む。書紀の推古の巻、聖徳太子の歌に「伊比爾惠弖、許夜勢屡、諸能多比等阿波禮(いいにえて、こやせる、そのたびとあわれ)」とある。このことは、下巻允恭の段の歌に「都久由美能許夜流(つくゆみのこやる)」とあるところ【伝三十九の六十八葉】でさらに述べよう。書紀によると、「天皇は、皇子手研耳(たぎしみみ)命とともに、軍を率いて進み、熊野荒坂の津【またの名は丹敷の浦】に到った。そこで丹敷戸畔(にしきとべ)という者を殺した時、神が毒気を吐いて、一行はみな瘁(お)えた。そのため先へ進めなかった」とある。○高倉下(たかくらじ)。書紀の~武の巻(即位前記)に出る兄倉下・弟倉下の訓注に「倉下、これを『衢羅餌(旧仮名クラジ)』と読む」とあるのに倣って、ここもそう読む。名の意味は定かでない。【後の文に「倉の頂を穿って云々」とあるのに因んだかとも思ったが、この名は他にも出てくるので、それとは別だろう。また書紀の欽明の巻に「鞍橋、これを『矩羅膩(旧仮名クラヂ)』と読む」とあるが、これは馬の鞍橋によって付けた名だとあり、また「膩」は「ち」の濁音だから、こことは違う。】書紀の推古の巻に吉士倉下(きしくらじ)という人名がある。続日本紀卅【十一丁】に秦勝倉下(はたのすぐりくらじ)という名が見える。また藤原倉下麻呂(くらじまろ)の名もある。延喜式神名帳には、大和国宇陀郡に椋下(くらじ)神社がある。【この神社の名を印本で「むくもと」と読んでいるのは間違いだ。】書紀のこの巻に菟田の高倉山というのもある。【旧事紀で、この高倉下を「饒速日命の子、宇麻志摩治命の兄」とし、「天香語山(あめのかごやま)命が天降って手栗彦(たぐりひこ)命という名になった。また高倉下命ともいう」とあるのは、例の根拠不明の説だ。また一説に熊野の神藏(かむのくら)大明神はこの高倉下だと言うのはありそうなことだが、さらに調べる必要がある。】<訳者註:丹後に伝わる海部氏文書の高倉下は、旧事紀の説と類似点がある。>○此者人名(これはひとのな)という四字の注は、後人が書き加えたのではないだろうかと師は言ったが、多分そうだろう。○一横刀(たち)、この「一」は読まない。【こういうところに「一」と言うのは漢文の流儀だ。】一般に横刀というのは、みな単に「刀(たち)」のことである。「横」という字にこだわってはいけない。○天神御子(アマツカミのミコ)。これは神倭伊波禮毘古命を指す。この呼び方のことは伝十四【十五葉】で言った。○寤起は「さめまして」と読む。【師は「おどろきまして」と読んだ。それももっともだが、ここは単に眠っていたわけでなく、病気のようになっていたのだから、酒の酔いが醒めるのと同じような意味であり、「さめ」と読む方がいいだろう。倭建命の醒井(さめがい)の故事も考え合わせよ。】○長寢乎は師が「ながいしつるかも」と読んだのに従う。これは、悪神の息に当たって気を失っていたと気付かずに、単に長く眠っていたと思って言ったのである。○受取。この前に「献(たてまつる)」とあるのは、まだ醒めていない時のことだから、単に天皇の元に持って来たことを言い、こちらは醒めた後に正しく受け取ったことを言う。○荒神は上巻に荒振神とあるのと同じ。「あらぶるかみ」と読む。○爲切仆は、「きりたおさえて(旧仮名キリタフサエテ)」と読む。【「れ」というところを「え」と言うのは古言の格だ。】「仆」の仮名は、新撰字鏡に「タフル」と見える。【「爲」の字は珍しい書き方だが、「為(ため)に切り倒されて」という漢文流の意味合いだろう。】ここに「自(おのずから)」とあるところに注意せよ。まだ切らないのに、自然と切り倒されたのだ。この太刀を献げただけで天皇が目を覚まし、受け取ったときには兵士たちもことごとく醒め、悪神が切り倒されるとは、奇しくとも霊異とも、言葉に尽くせぬほどのご神徳である。○惑伏は、前に遠延而伏とあったのと同じで、師が「おえこやせる」と読んだのが良い。○己夢云は、「おのれイメに」と読む。【「云」の字は読んではいけない。】いにしえはみな「いめ」と言い、「ゆめ」とは言わなかった。師の説で、「いめ」は「寝目」だという。「め」は「見え」が縮まった語で、【「目」も「見え」だ。】眠(いね)たる間に見るという意味だ。○伊多玖佐夜藝帝阿理祁理(いたくさやぎてありけり)。この語は上巻に出ていたので、そこで言った。【伝十三の五葉】これは悪神たちが荒び、このように天皇を悩ませたことを言う。○我之御子等(アがミコたち)。「子」とは、子々孫々すべてに言うことは、既に述べた通りである。○不平は「やくさみ」と読む。この語の意味はあまりよく分からないが、古言だろう。書紀の神代上巻に、須佐之男命が荒びて、「日神擧體不平(ひのカミおおミみヤクサミたまう)」と見え、【弘仁私記では「やすからず」と読んでいる。】天武の巻に「朕身不和(アレみヤクサム)」とある。【これは天皇が「私は病気だ」と言ったのである。】ここも荒神の息におえ悩むことを言っているので、意味は同じだ。【書紀の神代下巻に「彼地未平」とある「未平」は「さやげり」と読んだ。また允恭の巻の「皇后之色不平」とあるのは、「ようもあらず(良くもない)」と読む。遊仙窟では「不平」を「ことごとし」と読んでいる。これらはどれもここの「不平」に相当しない。】○坐良志(ますらし)。一般に「らし」というのは、こうではないかと他のことを推量することに言う。○專汝(もはらいまし)云々。この平国(くにむけ)については上巻にあり、伝十四で詳しく述べた。【「專(もはら)」、「言向(ことむけ)」の解説も既に出た。】○可降は「くだりてよ」と読む。【この「降」の字を師は「あまくだる」と読んだ。それは「天降」と書くのに倣ってそう読むのは道理だけれども、「天降る」とは天から降ることをこの地上の国から見て言うことで、天上にあって言うことではない。だからこの記では、天上で言うときは、みな単に「降る」とある。】○專有の專の字は、有の字の下にある意味合いだ。○「平2其國1之横刀(かのくにむけしたち)」。上巻には、この記でも書紀でも、この刀のことが書かれていない。【「十掬劔(とつかつるぎ)を抜いてさかさに浪の穂に刺し立てて」とはあるが、これはこの剣のことを言っていない。】だがその時、主に携えて行って功績を成し遂げた刀はあっただろう。ましてこの神は、伊邪那岐大神が迦具土の神を切った刀から生まれ、もともと剣に由縁の神である。○可降は「くだしてん」と読む。【延佳本およびある一本には、この下に「是刀」があり<この刀降してん>、師もある方がいいと言ったが、旧印本また他の一本にはなく、釈日本紀が引用したところにもないので、考えるとやはりない方がいい。あっても悪くはないが、次の文に「降2此刀1状者」とあり、言葉が重なって煩わしい。】○佐士布都神。佐士の意味はよく分からない。後の文に高佐士野という地名もある。延喜式神名帳には、壹岐島壹岐郡に佐肆布都(さじふつ)神社、同佐肆布都神社が載っている。<訳者註:同名の神社が壱岐郡に二箇所あるということ>○亦名云(またのなは)の云の字は、師は衍字だと言ったが、こう書いた例も多い。○甕布都神(みかふつのかみ)。甕は【和名抄に「チョウ(偏は長の下の部分をムとした字、つくりは瓦)は『みか』、甕は『もたい』」とあるが、新撰字鏡では「甕は『みか』」とあり、書紀でも「みか」と言うのにこの字を借りている。】借字で、「みか」の意味は伝五の巻【七十三葉】で言った通りである。三代実録四に、「河内国の従三位彌加布都(みかふつ)命の神、比古佐自布都(ひこさじふつ)命の神に、ともに神階を加えて従二位とした」とある。【これはどの神社のことか、延喜式神名帳に見えない。当時従二位とされるほどの神なら、神名帳に載らないはずはなく、いぶかしいことである。あるいは枚岡神社四座のうちにいるのだろうか。若江郡の弓削神社を今は布都大明神と呼ぶが、それではないだろう。】○布都御魂(ふつのみたま)。書紀では「フツ(音+師のつくり)靈」と書き、「これを『ふつのみたま』と読む」と訓注がある。フツ(音+師のつくり)の字は、廣韻、玉篇などに「断つ音」と注したような意味だろう。今の世でも物がすっぱりと切れるさまを「ふつ」と言う。【「ふっつり」、「ぷっつり」などと言う。狭衣物語に「ふつと見はなつ」ともある。】とすると、この剣の鋭利で切れ味鋭いことを称えた名だろう。【上巻に出た建布都(たけふつ)の神、豊布都(とよふつ)の神、またここに出ている佐士布都、甕布都、書紀の經津主(ふつぬし)の神などの「ふつ」はすべて同意だ。】延喜式神名帳に備前国赤坂郡、石上布都之魂(いそのかみふつのみたま)神社、【この神社のことは、伝九の三十四葉で言った。】阿波国阿波郡の建布都(たけふつ)神社、壹岐島石田郡の物部布都(もののべふつ)神社などというのも載っている。○石上(いそのかみ)神宮は、延喜式神名帳に「大和國山邊郡、石上坐布留御魂(いそのかみにますふるのみたま)神社、【名神大、月次・相嘗・新嘗】とあるのがそうだ。和名抄では同郡に石上【いそのかみ】郷もある。この神宮のことは、玉垣の宮(垂仁天皇)の段に「印色入日子(いにしきいりひこ)命の造った横刀一千口を石上神宮に奉納した」とあり、書紀にもこのことを載せて、「この後五十瓊敷(いにしき)命に命じて、石上神宮の神宝を管理させた。一説に、その一千口の刀は忍坂の邑に所蔵されていたのを、後に忍坂から石上神宮に移して納めた。このときに神が『春日の臣の族で、市河という者に治めさせよ』と言ったので、市河に命じて治めさせた。これは今の物部の首の始祖である。」【新撰姓氏録によると「布留(ふる)の宿禰は、柿本の朝臣と同祖、天足彦國押人(あまたらしひこくにおしひと)命の七世の孫、米餅搗大使主(たがねつきのおおおみ)命の後裔である。男木事命(の子?)、市川朝臣は大鷦鷯天皇(仁徳天皇)の時に倭に達して(赴いて)、石上の御布瑠(みふる)村の高庭の地に布都奴斯(ふつぬし)神社を祀った。そこで市川臣を神主とした。(その?)四世の孫が額田臣、武蔵臣である。斉明天皇の時、宗我蝦夷(そがのえみし)大臣が武蔵を物部の首、また神主の首と名付けた。ここで臣の姓を失い、物部の首となった。その子、正五位上、日向(ひむか)は天武天皇の時、社地の名によって布瑠宿禰の姓に改められた。云々」とある。春日の臣と柿本朝臣は同祖である。ただしこの文に「市川朝臣」とある「朝」は衍字だろう。また「達」とあるのは、「幸」の誤りだろう。また市川臣を大鷦鷯天皇の時の人とするのは書紀と異なる。】また「(垂仁)八十七年・・・五十瓊敷命は妹の大中姫(おおなかつひめ)命に『私はもう年老いたから、神宝の管理ができない。これからはお前が管理してくれ』と言った。大中姫命は辞退して、『私はか弱い女なのに、どうして天神の庫に登れると言うの』と言った。五十瓊敷命は『神庫(ほくら)は高いと言っても、私が梯子を作り付けてある。登れないということはないはずだ。』と言った。諺に『神の神庫も梯(はしだて)のまにまに』というのは、このことがもとである。その後、大中姫命は物部十千根(もののべのとおちね)の大連にこの事務を引き渡して管理させた。物部の連らが今も石上の神宝を管理しているのは、このためである」とあり、【書紀の垂仁二十六年に「天皇は物部十千根大連に『しばしば出雲の国に使いを出してその国の神宝を調べさせているが、はかばかしい報告ができる者がいない。お前がみずから出雲国に行って調べよ』と命じた。そこで十千根大連は出雲に行き、神宝を詳しく調べ、明確に報告した。そのため神宝を管理させた」とあるから、後にこの人が石上の神宝を管理するようになったのも理由のあることだ。前記の市河という人は春日の臣と同祖で、十千根大連の物部とは異姓だが、同じ頃ともに石上の神宝を管理して、いずれも物部氏なので紛らわしい。よく考えると、この時この神宝を管理していたのは実は一人だったのが、所伝が紛れたのかとも思ったが、そうではない。十千根大連が神宝の管理をしたことは明らかで、後に「石上朝臣」と姓まで改め、子孫に至るまでその職務を行っていることは確かだ。また市河臣の子孫の物部氏も、後に社地の名から布留宿禰と名を変えているから、これも神宝の管理に携わっていたことは確かである。すると、十千根大連が上級管理者であり、市河臣もその副管理者として、ともに神宝の管理に当たっていたのだろう。古今集雑の上(870の詞書)に、「石上並松(いそのかみのなんまつ)が宮づかへもせで、石上といふ處にこもり侍りけるを、にはかにかうぶり賜はれりければ、よろこびいひつかはすとて、よみてつかはしける、布留今道(いまみち)云々」というのは、石上氏と布留氏が、ともに古くから縁が深かったので、祝賀の歌を詠んで贈ったのだろう<訳者註:従七位石上並松が従五位下を賜ったことを、布留今道が喜んで歌った>。彼らが共に物部氏なのは、もともと物部氏の名は、この神宮の兵器を管理していたことから出たということだろう。】また同年、牟士那(むじな)という獣の腹から出た八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)も、「今石上の神宮にある」と見え、天武の巻に「三年八月戊寅朔庚辰、忍壁皇子(おさかべのみこ)を石上神宮に派遣して、膏油で神宝を磨かせ、『元来諸家から神府(ほくら)に集めてあった神宝は、すべてその元の家の子孫に返還せよ』と勅した」とあり、【神府は、石上の宮の神庫である。】日本紀略に「延暦二十三年二月丙午朔庚戌、大和国石上の社の兵器類を山城国の葛野に運び納めた」とも見え、類聚国史には「同廿四年二月庚戌、石上神宮を造る従五位下石川朝臣吉備人らが、工程の計画を終えて、単功十五万七千余人(たぶん必要な延べ人数だろう)と申し上げ、太政官がこれを報告した。天皇は『この神宮が他の神社と異なる理由は何か』と訊ねた。臣(太政官か)が『兵器をたくさん納めてあるからです』と答えた。天皇はまた『どういう理由から兵器がたくさん納めてあるのか』と訊ねた。答えて『昔から天皇がこの神宮に行くたびに、そこに収めてきたからです。都からやや遠いので、非常の事態に備えるべきです。どうか占って、運び遷すようにしてください』・・・山城の国葛野に移し収めた」【ここまでは前年二月のことを後から書いたものだ。昔から(昔來)の「來」の字は「在」の誤りか。】とあって、次に天皇の病の記事がある。これが石上の神の祟りだということが巫(かんなぎ)の託宣で告げられ、天皇の年齢である六十九人の僧に石上神宮で読経させ、お告げの文を奉り、典薬頭、従五位上中臣朝臣道成たちを遣わして、山城に移してあった兵器類を石上神社に返納したことが見えている。【文が長いので、ここには引かない。】とするとこの神宮は、布都御魂の刀を主神として、上代から種々の神宝、兵器類を収めていたようである。【中昔の頃、奈良の僧の訴えで、春日の賢木(さかき)を京に上らせたときには、この布留の神宝も合わせて上らせたのだろうか。その賢木を奈良に帰らせるとき、まず布留の神宝を出し、次に本社の榊の御正体を出したと、二條の良基の大臣の榊葉日記に書いてある。○神皇正統記に、「この剣を豊布都神という。初めは大和の石上にあった。後には常陸の鹿島神宮にある」とあるのは誤りである。これは旧事紀に「建甕槌の神、またの名は豊布都の神は、今常陸の国の鹿島にいる大神で、即ち石上の布都大神がこれである」というのを取って書いたのだ。建甕槌の神と布都の御魂の神を混同して、今は鹿島にいるというのは例の妄説だ。この剣は後々まで石上にあるのであって、どうして鹿島にいることがあろうか。】続日本紀に「神護景雲二年十月甲子、石上の神に封五十戸を充てた」、文徳実録に、「嘉祥三年十月乙巳朔辛亥、大和国従一位勲六等、石上神の神階を加えて正一位とした」、三代実録に、「貞観元年正月廿七日、大和国正三位勲六等、石上神に従一位を授けた」、「同九年三月十日、大和国従一位勲六等、石上神の神階を加えて正一位とした」と見える。【現在この神宮のあるところは、布留村である。石上というところは少し離れている。これは、昔は石上という地名がやや廣い範囲に及び、布留村もそのうちに含まれていたのが、後には今の一村の名に残ったのだ。】この石上神宮は、上記のようにこの記でも書紀でも布都御魂とあり、上巻に出た建御雷神のまたの名、またこの刀の那などもみな「何々布都」と言い、前記の備前の国にあるのも布都御魂とあるので、いにしえにはすべて「布都(ふつ)」とのみ言った。ところが延喜式神名帳になると「布留御魂(ふるのみたま)」と言っており、「ふつ」と「ふる」の違いについて考えると、書紀の履中の巻に「石上振(ふる)神宮」とあり、顕宗の巻の言挙げに「石上振之神榲(いそのかみふるのかみすぎ)」、武烈の巻の歌に「伊須能箇瀰賦屡(いすのかみふる)」とあるから、「ふる」と言うのも古言と思われる。しかしこれらはみな地名について言っており、【上記の新撰姓氏録の文にも「御布瑠村」とある。】古くは直接神の名を指して「布留御魂」と言ったことはなかった。【聖徳太子傳曆にも、物部府都(ふつ)大明神と書いてある。】とすると、「ふる」というのは、神の名の「ふつ」とは本来別だったのが、【地名に「ふつ」と言った例もない】いつも布留という地名の方を言い習わして、振神宮【これも振(ふる)は地名だ。】などと言ったので、神名の「ふつ」も語が通うため、混同されて、延喜式の頃にはとうとう布留御魂とも言うようになったのだろう。【ところが備前の石上などには、かえって後々まで上代の呼び名が失われず、布都之魂の神社と言った。○布留(ふる)という地名の意味は、旧事紀で饒速日命の十種の神宝を「由良由良止布瑠部(ゆらゆらとふるえ)、これがいわゆる布瑠の言(ふるのこと)の元である」と言うのを、伝十の卅七葉に引いて論じた通りだ。また同書の物部氏のことを書いた巻に、「伊香色雄(いかがしこお)命・・・布都大神の社を大倭國山邊郡、石上邑に遷し建てて、天祖が饒速日命に授け、天から受けて来た天璽瑞寶を同じく収めて奉斎した。石上の大神と名付け、国家のため、また氏神として崇めた」とあるように、先祖が伝えた十種の神宝もこの神宮に収めて、共に物部氏の管理下で氏神として祀ったことから「ふる」が地名になったのだろう。全般的に旧事紀は信じがたい書物だが、物部氏のことなど詳しく書いてあるのは、拠り所がありそうで、捨てがたい内容だ。師の説で、「石上神宮にフツ(音+師のつくり)靈の劔があるため、初めはそこを『ふつ』と言ったのだろうが、後には語が通うことから『ふる』と言ったのだ。フツは『斷聲(物を切る音)』とも注して、刀を『振る』に音が通う。だから古く『ふつ』と言ったのは、刀を振ることだ」と言ったが、地名を「ふつ」と言ったことは文献にない。またいしにえに、刀を振ることを「ふく」と言ったことはあっても、「振る」と言った例はないうえ、「フツは『斷聲』)」と言いながら、「刀を振ること」としたのは納得できない。断声とは前述のように「物を切断する音」ということであって、「刀を振る」というのとは大きく違っている。「つ」と「る」と音が横に通うからと言って、大きく違ったことをまぜこぜにしてはいけない。】○倉頂は「くらのむね」と読む。○墮入(おとしいれん)の下に脱文があるようだ。というのは、建御雷神の言葉がこれ以下にも続いてはいるが、「墮入」というところまでは天照大御神に対して答えている言葉で、「故阿佐米」以下は高倉下に教える言葉だから、どこかにその境界がなくては通じがたい。そこでここでは、「故建御雷神教曰。穿2汝之倉頂1以2此刀1墮入。」という十七字を加えておいた。【必ずこういった意味の文があったはずだが、前後に「墮入故」という語が重なっているので、その間の語句が脱け落ちたのだろう。】こういう句がなければ、「故阿佐米余玖云々」も前の答えの言葉に続いてしまう。よく味わうべきである。この部分は、書紀では「武甕雷神は答えて、『私が行かなくても、私が国を平らげた時に携えて行った剣があります。これを降したなら、自然と国は平和になるでしょう』と答えた。天照大神は『それはいい考えです』と言った。そこで武甕雷神は高倉に『私の剣、名はフツの御靈というのを、お前の倉の中に落としておく。それを天孫に献げてくれ』と言った」とある。【これを採るなら、この記の文も「可降」までが答えた言葉、「降2此刀1状者」以降が高倉下への教えの言葉と考えることもできるが、そうだったらどこかに「そこで建御雷神は教えていわく」といった文がなければならない。そのうえ「高倉下の倉の頂」と言っているのもどうかと思う。高倉下に対して言っているのなら、「高倉下の倉」と特別に言う必要はない(単に「お前の倉」と言えば足りる)。だからこの記で「墮入」までの文は、高倉下への言葉ではなく、天照大御神への答えの言葉である。】○阿佐米余玖(あさめよく)は、師の説では「『旦(あさ)目(め)吉(よく)』だ。後世の人も。朝のうちに吉(よ)いものを見れば、『朝目吉(あさめよし)』と言って喜んでいるだろう。また否かの人が『夜の目、佐の目も合わせず』と言うというのは、『夜の目朝の目も合わせず』という言葉だと言った。【冠辞考の「いなのめ」の條に見える。】この意味だ。朝に起き出て、一番にこの刀を見るのは、朝目が吉(よ)いことになる。江次第の大嘗会の條に、「天皇は丑の刻に・・・主基殿では、天皇が廻立殿に還った後、采女が進み出て南の戸の下に『阿佐女(あさめ)・主水(もいとり)、朝夕の御饌を平けく(無事に)奉仕しました』と言う」【新嘗祭の手順にもこのことがある。】とある「阿佐女(あさめ)」と同意だろう。また「寤(さめ)」という言葉も、もとは「朝目」ということかも知れない。【伊勢の家集に「人々宵の目さまして」ということも見える。】○如夢教而は「いめのおしえのまにまに」と読む。【「而」の字を「して」と読むと「爲而」の意味になるので、不適切である。まだ見ないうちに「爲而」ということはないからだ。】○旦は「つとめて」と読む。一般に夜にあったことを言った後、その明くる朝のことを言うとき、「つとめて」と言う。○獻耳は「たてまつるにこそ」と読む。そう読むのは、ここで高倉下が話したのは、天神の御子が「この横刀を手に入れた事情は」と訊ねたのに対する答えだから、「この刀を得てこのように献(たてまつ)る理由は、これこれだからこそです」という語の勢いであり、「こそ」と読む必要がある。【すべて耳という字が「こそ」と言うのに当たることは、初めの巻で述べた。また「〜こそ〜侍れ」と言うべきところで、「〜こそ」とだけ言って文を閉じ、「侍れ」の意味を含めるのも雅言ではよくある。】書紀には「高倉は『おお』と返事したと思うと目が覚めた。早朝、夢の教えに従って自分の倉を見ると、本当に剣が屋根を突き破って落ち入り、床に逆さまに立っていた。そこでこれを取って天皇に献げた。このとき天皇は眠り込んでいたが、忽ちに目を覚まし、『はてさて、どうしてこんなに長く眠っていたんだろう』と言った。次に、中毒して眠り込んでいた兵士たちもみな目を覚ました」とある。

 

於レ是亦高木大神之命以覺白之。天神御子。自レ此於2奧方1莫レ使2入幸1。荒神甚多。今自レ天遣2八咫烏1。故其八咫烏引道。從2其立後1應2幸行1。故隨2其教覺1。從2其八咫烏之後1幸行者。到2吉野河之河尻1。時作レ筌有2取レ魚人1。爾天神御子問2汝者誰也1。答=曰3僕者國神名謂2贄持之子1。<此者阿陀之鵜飼之祖。>從2其地1幸行者。生レ尾人自レ井出來。其井有レ光。爾問2汝者誰也1。答=曰3僕者國神名謂2井氷鹿1。<此者吉野首等祖也。>即入2其山1之。亦遇2生レ尾人1。此人押=分2巖1而出來。爾問2汝者誰也1。答=曰B僕者國神名謂2石押分之子1。今聞2天神御子幸行1故參向耳A。<此者吉野國巣之祖。>自2其地1蹈穿越幸2宇陀1。故曰2宇陀之穿1也。

訓読:ここにまたタカギのオオカミのみこともちてサトシもうしたまわく、「アマツカミのミコ、ここよりオクツカタにナいりましソ。あらぶるカミいとおおかり。いまアメよりヤタガラスをおこせん。かれそのヤタガラスみちびきなん。そのタタンしりよりいでますべし」とサトシもうしたまいき。かれそのミサトシのまにに、そのヤタガラスのしりよりいでまししかば、エシヌガワのかわじりにいたるましき。ときにヤナをうちてナとるひとありき。ここにアマツカミのミコ「イマシはたれぞ」ととわしければ、「アはクニツカミ、ナはニエモツのコ」ともうしき。<こはアタのウカイのおや。>そこよりいでませば、オあるひとイよりいでく。そのイひかれり。「イマシはたれぞ」ととわせば、「アはクニツカミ、ナはイヒカ」ともうしき。<こはエシヌのオビトらがオヤなり。>かくてそのヤマにいりまししかば、またオあるひとあえり。このひとイワオをおしわけていでく。「イマシはたれぞ」ととわせば、「アはクニツカミ、ナはイワオシワクのコ。いまアマツカミのミコいでますときけるゆえにマイむかえつるにこそ」ともうしき。<こはエシヌのクズのオヤ。>そこよりフミうがちこえてウダにいでましき。かれウダのウガチという。

口語訳:また高木の大神は「天神の御子は、ここから奥に入ってはいけない。悪神が大勢いるからだ。天から八咫烏を遣わそう。その八咫烏に着いていけばよい」と教えた。そこで教えの通り、八咫烏に着いていくと、吉野川の川尻に出た。そこに梁を作って魚を捕っている人がいた。天神の御子が「お前は誰か」と聞くと、「私は国津神で、贄持之子と言います」と答えた。<これは阿陀の鵜飼の先祖である。>さらに進むと、井戸から尾の生えた人が出て来た。その井戸の中は光っていた。「お前は誰か」と聞くと、「私は国津神で、名は井氷鹿と言います」と答えた。<これは吉野の首たちの先祖である。>ここから山に入って進んで行くと、また尾のある人に出会った。この人は大きな岩を押し分けて出て来た。「お前は誰か」と聞くと、「私は国津神、名は石押分之子と言います。今天神の御子がいらっしゃったと聞いたので、お迎えに参りました」と答えた。<これは吉野の国巣の先祖である。>そこから山を踏み穿ち越えて、宇陀に出た。だから宇陀之穿と言う。

覺白(さとしもうし)。これも夢で教えたのだ。【ここでは夢と言っていないが、「また」という言葉に夢の続きだという意味を含めている。前に高倉下の夢の教えが出ているからだ。】ここは天神の御子に教えたようでもあるが、白(もうす)の字の下に「之」があるので、まず「さとしもうしたまわく」と読み、「天神の御子云々」をその教えの言葉と考えるのがいい。○奧方(おくつかた)とは、行く先を言っている。【今も口熊野、奥熊野と言う。】○莫使入幸は、師が「ナいりましソ」と呼んだのに従う。【「使」の字、「幸」の字にこだわってはいけない。「使」の字は、あるいは「便」の字の誤りかも知れない。】○「自レ天(アメより)」。高木の神は天にいる神だが、ここは地上の国に天降って言う言葉だから、こう言ったのである。○八咫烏(やたがらす)。名の意味は八頭烏(やあたがらす)で、頭が八つあることだ。八咫は借字だということは、上巻の八咫鏡のところ【伝八の卅四葉から三十八葉まで】で言った。八頭だったのは、かの八俣大蛇が八頭八尾だったのと同じようなことである。八は七、八の八でなく、幾つもあるという意味で言ったのだろう。序文では単に大きな烏と言っている。なおこの烏のことは、八咫鏡のところで論じたことを考え合わせよ。【和名抄には「歴天記にいわく、太陽の中には三足の烏がいて、赤い色をしている。思うに、文選でこれを陽烏とある。日本紀でこれを頭八咫烏と言う」とあるのは不審である。】新撰姓氏録の山城国神別【天神の部】に「賀茂の縣主は、神魂(かみむすび)命の孫、武津之身(たけつのみ)命の子孫である。鴨の縣主も賀茂の縣主と同祖である。神日本磐余彦天皇【諡は~武】が中州に行こうとしたとき、山中は極めて険しく、行く道に迷った。そこで神魂命の孫、鴨建津之身(かもたけつのみ)命が大きな烏に姿を変え、飛んでその道を誘導した。ついに中州に到達したとき、天皇はその功績を誉め讃えて、特に厚く褒賞を与えた。八咫烏の名はこれから起こった」と見え、山城国風土記に「可茂(かも)の社を可茂と名付けたのは、日向の曾の峯に天降った神は、賀茂建角身(かもたけつぬみ)命である。神倭石余比古(かむやまといわれひこ)の先に立って、大倭の葛木山の峯に宿った。そこから次第に移って、山代国の岡田の賀茂に到り、山代河の流れに沿って下った。葛野河と賀茂河とが合うところに到り、遙かに賀茂河を見て「小さいとは言っても、石川は清い流れだ」と言い、それを石川瀬見の小川と名付けた。その川を上って、久我の国の北山のもとに鎮座した。その時から賀茂と名付けた。賀茂建角身命が丹波国の神野の神伊可古夜日女(かむいかこやひめ)を娶って生んだ子は、玉依日子(たまよりひこ)、次に玉依比賣という。玉依比賣が石川瀬見の小川で遊んでいたとき、上流から丹塗りの矢が流れてきた。これを持ち帰って床のほとりに挿しておいたところ、男子が生まれた。・・・外祖父の名に因んで可茂別雷(かもわきいかづち)命と名付けた。・・・可茂建角身、丹波の神伊可古夜日賣、玉依日賣の三柱の神は、蓼倉の里、三井の社にいる。玉依日子は、今の賀茂縣主らの先祖である」と見える。【とするとこの八咫烏の神は、愛宕郡の賀茂上社、別雷神の外祖父で、下社の御祖神の父に当たる。この神はまず日向の曾の峯に天降り、そこから東方に飛んできて、道案内となり、天皇が中州に入った後は葛城山に行き、そこから山代へ移った。延喜式神名帳に山城国相楽郡に岡田鴨神社、大、月次・新嘗がある。和名抄には同郡賀茂郷。】古語拾遺にも「賀茂の縣主の遠祖、八咫烏は、天皇の乗り物を導いて、奇瑞を菟田の道にあらわした」とある。【それなのにこの記にも書紀にも、賀茂の縣主の祖ということが見えないのは、伝え漏らしたのだろうか。ただし書紀に「また頭八咫烏も恩賞に与った。その子孫は葛野の守殿(とのもり)の縣主部である」とある。これが賀茂の縣主と同一かどうか、定かでない。またこの守殿は地名だろうか。】続日本紀三に「慶雲二年九月丙戌、八咫烏の社を大倭国の宇太郡に置いて、これを祭った」とあるのは、延喜式神名帳に大和国宇陀郡、八咫烏神社とあるのがそうだろう。【この社は、今は「おとごろすの社」と言って、鷹塚村にあるという。また釈日本紀には「賀茂建角身命は、大和国宇陀郡の八咫烏神社、山城国愛宕郡の久我神社、同国同郡の三井神社、以上鎮座するところ三箇所」とある。久我、三井の二社も延喜式神名帳に載っている。特に三井神社は名神大で、月次、新嘗に与っている。】○遣は「おこせて」と読む。【遊仙窟などでもそう読んでいる。一般に遣の字は、こちらから向こうへやる場合、「やる」、「つかわす」などと読む。向こうからこちらへ来させる場合は「おこす」と読む。今の世の俗文には「申し越す」などと言うが、この「越す」は「おこす」の省略形なのに、「越す」の字の意味と思い違え、こちらから向こうへ申しやることも「申し越す」と言うのは間違っている。】万葉巻十八【二十四丁】(4105)に「思良多麻能、伊保都々度比乎、手爾牟須妣、於許世牟安麻波、牟賀思久母安流香(しらたまの、いおつつどいを、てにむすび、おこせんあまは、むかしくもあるか)」、巻十九【十二丁】(4156)に「紅之八鹽爾染而、於己勢多流、服之襴毛(くれないのやしおにそめて、おこせたる、ころものすそも)」などとある。○從其立後は「そのタタンしりより」と読む。「立つ」は先に立つ、後に立つなどの「立つ」で、行くことである。「従(より)」は「歩従行(かちよりゆく=徒歩で行く))」、「舟従行(ふねよりゆく=舟で行く)」などという「従」だ。【この「従」の字は、「したがいて」、「つきて」とも読めるが、やはり「より」というのが古言だろう。】書紀には「こうして皇軍は中州(うちつくに)に行こうとしたが、山中は嶮絶(けわしく)、行く道もなかったため、踏み迷い進むことができなかった。この時天照大神は天皇の夢に現れ『今、頭八咫烏をやるので、それを道しるべにしなさい』と告げた」とある。○書紀ではこの次に「果たして空から舞い降りる頭八咫烏があった」とある。この記にもそういう文があるべきところだが、それはなく、すぐ続けて「故隨2其教覺1云々」と言うのは、言葉が足りないようだが、こういうのがこの記では普通であり、古文のさまなのだろう。○教覺は「みさとし」と読む。○吉野は「えしぬ」と読む。下巻の朝倉の宮(雄略天皇)の段の歌にも「美延斯怒能(みえしぬの)」とあり、書紀の天智の段(十年十二月)の童謡にも「美曳之弩能、曳之弩能阿喩、阿喩擧曾播、施麻倍母曳岐(みえしぬの、えしぬのあゆ、あゆこそは、しまべもえき)」とある。この童謡で「良き」というところを「曳岐(えき)」と言っているから、「良し」を「えし」ともいい、いにしえはこの地名もそう言っただろう。【万葉巻十八二十三丁の家持の歌(4098)には「與之努(よしぬ)」とある。】和名抄に、「大和国吉野郡、吉野は『よしの』」とある。この地は上代から今に至るまでたいへん名高いところであるのはもちろん、山も河も万葉集をはじめ、世々の歌に数え切れないほど詠まれてきた。また地の広いことは、この郡は大和国の半分以上を占め、南は紀伊の熊野に続いている。○河尻(かわじり)。書紀の仁徳の巻(十一年四月)に「流末(かわじり)」ともある。吉野川は、源がはるか東、大台ヶ原というところ【伊勢の国との境である。】に発し、川上の荘というところを経て流れ出る。下は宇智郡に流れ、紀国の伊都、那賀、名草三郡を経て、【紀ノ川という】海に入る。ここで熊野から山越えして吉野へ出たというのは、まだ川上と言うところだろうに、河尻と言っているのは、地理を考えると違っているようだ。【今の上市、飯貝というあたりより下流でなくては、河尻とは言えない。それより上流なら、川上と呼ぶべき地勢である。】また贄持、井氷鹿、石押分といった人物の現れる順序も、地理に合っていない。このことは、以下に論じる通りである。そこで考えるに、この時の行程は、熊野から吉野の東方の山中を経て宇陀へ越えたのであり、河尻というところから石押分のことまでは、この時でなく、後に別にそこへ行った時のことだったのが、前後混同して伝えたのではないだろうか。この時の道筋は、正しくはどの地か、定かに分からないが、書紀に「熊野の荒坂の津、またの名は丹敷の浦に到り、そこで丹敷戸畔という者を殺した。この時神の吐く毒気に当たって、人も物もみなおえて(病みついて)しまった」とあり、次に高倉下のことが述べられている。今も熊野の東北の果てで、伊勢の国【度会郡】の境に近いところに、錦浦という地がある。これがその丹敷の浦と思われ、天皇の歌にも「伊勢能宇美能(伊勢の海の)云々」と詠んでいて、【いにしえは詠んでいる歌に、縁もゆかりもない土地を詠むことはなかったから、この時に伊勢の海の境まで行き、実際に見たのだろう。】これらを考えると、この時に熊野の地を東北へ行き廻り、丹敷の浦まで行ったのだろう。【この記では、前に「熊野の村に到って」とあり、高倉下の記事があって、この段もその時のことで「ここより奥に入ってはいけない」とあるのを見ると、この場所も熊野の地の中程までのことである。はるか東方の伊勢の海の境まで到ったように思えないが、前の段に「日を背負って」とあるからには、ずっと東方へ廻って行って、西の方から倭国へと侵入したのでなければ話が合わない。】さてそこから大倭国に入ろうとしたところ、「山中は嶮絶(けわしく)、行く道もなかったため、踏み迷い進むことができなかった」と書紀にあり、八咫烏の導きでやっと越えることができたのを考えると、この道はさぞかし大変な荒山中だったろうと思われるから、かの丹敷の浦から伊勢の大杉谷に進み入って、【今紀国の河内村というところから伊勢の大杉村へ越える山道があるという。河内村は錦浦から遠くない。】吉野へ越えたのだろう。大杉谷というのは多気郡の西の端で、【伊勢の宮川の川上である。】たいへん山深く、西は吉野川の源流がある大台ヶ原に続き、今も里人が吉野へ越える山道がある。【大杉村から吉野の川上荘の鹽の葉村というところへ、八里半ほどあるという。この鹽の葉村は、大台ヶ原の西にあって、伯母谷などというところを経て吉野に出るところである。】これこそ東から西を目指して進む道だから、前の文の「日を背負って」というのによく合っている。この部分は、書紀には「果たして空から頭八咫烏が飛来した。天皇は『この烏がやって来たことは、夢の教えの通りだ。これは大変なことだ、私の皇祖天照大神が私を助けてこの大業を成功させようとしているとは』と言った。この時、大伴氏の遠祖、日臣命(ひのおみのみこと)が大來目(おおくめ)を率いて、皇軍の主将として先に山に入り、道を開いた。烏が飛んで行く方向をよく見極め、その後を追って、遂に菟田の下縣に到達した」とあって、吉野を超えたとは書かれていない。【書紀の伝えを取って、この時は吉野を経たのでなく、熊野から直接宇陀に出たとすると、その道は前述の伊勢の大杉から河俣谷を越え、高見山を越えて宇陀に出たということになる。河俣谷というのは大杉より北にあり、飯高郡の西の端で、高見山を越えて大和に入る道だ。高見山は河俣谷の西の端にあり、伊勢と大和の境である。この山を越えて西は、吉野郡のうちの杉谷村というところに出る。このあたりは宇陀郡との境に近い。】しかしながら、地理を考えると、吉野の東の方の山奥を経て宇陀に出たとする方がいいように思える。【書紀の伝えは、吉野のことは道の途中だから省いたのではないだろうか。】ただし河尻と言った後、石押分の登場までは、上述のように、後にあったことなのを、同じ吉野だから混同してここに述べたのだろう。その理由は後に言う。○作筌は「ヤナをうちて」と読む。それは書紀に「梁、これを『やな』と読む」とある訓注による。和名抄では、「毛詩の注にいわく、梁は魚の梁である。和名『やな』、唐韻にいわく、籍は魚を捕る箔である。漢語抄にいわく、『やなす』」。また「野王(玉篇か)が案ずるに、筌は魚を捕る竹コウ(竹かんむりに句)である。和名『うえ』、コウ(竹かんむりに句)は魚を捕る竹の器具である」とあり、筌は「うえ」だから、【万葉巻十一の四十七葉(2832)に「山河爾筌乎伏而(やまがわにウエをふせて)」とあり、これは「伏せて」とあるから「うえ」に間違いない。】「やな」とは別だが、こうした物の名などは、古い書物ではその書いた人の心の赴くままに字を当てたのだから、やはりここは「やな」に「筌」の字を書いたのだろう。【「作」の字も「やな」によく合う。】意味が遠くない物では、そういう例も多い。また「作」を「うち」と読んだのは、万葉巻三【三十九丁】(386)に「梁者不打而(やなはうたずて)」、また(387)「梁打人乃(やなうつひとの)」、巻十一【三十二丁】(2699)に「八名打度(やなうちわたす)」などの例による。書紀にも「作(うちて)」とある。【古今六帖の夜那(やな)の歌(1652)に「やな見れば川風寒く吹時ぞ浪の花さへ落まさりける」とある。】○魚は「な」と読む。すべて食べるための魚を「な」と言う。万葉巻五【二十三丁】(869)にも「奈都良須(なつらす)」【「魚釣らす」である。】とある。○贄持之子(にえもつのこ)。書紀では苞苴擔と書いて、「これを『にえもつ』と読む」とある。この通りに読む。【師は持を「もち」と読んだ。一般に「〜之」と言う時、その上の語は必ず体言(名詞)である。書紀に「もつ」と書いてあるのは、この記でも上巻に「たけび」と読む「建」の字を「たけぶ」と注したのと同様、言葉の基本形を示したのであると見なせるから、「もち」と読むのももっともだ。しかしさらによく考えると、「擔」の一字なら基本形を示していてもいいが、ここは「苞苴擔」と一連の字の読みを示しており、しかも人の固有名で、活用する言葉とは思えず、「もち」であったら、「もつ」と注するはずはない。そこでここは訓注のまま読んだ。後にある「石押分」の「分」の字も、これと同じである。】「之子」は別に添えた名だから、「もつの」と用言(動詞)から「の」に続いていてもおかしくない。こういった「〜之子」というのは、浦嶋之子などの例である。書紀の仁徳の巻に、「衫子、これを『ころものこ』と読む」という人名も見える。この他にも幾つかある。この贄持という名は、この時に魚を捕って、天皇たちに食べさせたことから来たのだろう。子孫も鵜飼いだから、由縁はある。○阿陀(あだ)は和名抄に大和国宇智郡、阿陀郷がある。これだ。【和名抄に「陀の字は濁って読む」とあるのは、当時もう訛って「あた」と清んで呼ぶこともあったのか、あるいは後人が書き加えたのか。後世の歌人の説に「清んで読め」とあるが、いにしえの読みには合わない。】万葉巻十一【三十六丁】(2699)に「安太人乃八名打度瀬速(あたびとの、やなうちわたすせをはやみ)」、巻十【三十四丁】(2096)に「阿太乃大野之芽子花散(あたのおおぬのはぎのはなちる)」などとあるのもこの地と思われ、【今の西阿田村、東阿田村は、吉野川の北にあって、伊勢から紀伊に通じる大道である。南阿田村は河の南にある。またこの辺りの十村をすべて阿陀郷と言っている。阿田村には贄持に屋敷跡というのがあると大和志に書いてある。】贄持が魚を捕っていたのも、ここだろう。吉野の河尻とあるのに合っている。【この段を熊野から越えて来た時のこととすれば、地理に合わない。というのは、熊野から吉野に越えるには、国栖(くず)を経過して阿陀の方に到るはずで、ここで贄持のことを先に言うのは、道順と違っているからだ。また吉野から踏み穿って宇陀に出たとあるからには、阿陀は経過地ではなかったことになる。そのためこの段は、別の時のことだろうと言うのである。】鵜飼いのことは、この天皇の歌に「宇可比賀登母(うかいがとも)」と出るところで言う。なおこの段は、書紀では【兄猾・弟猾の事件の後に】「この後天皇は吉野を見ておきたいと思った。そこで菟田の穿邑から、兵士たちを引き連れて見回った。吉野に到った時、・・・さらに進むと・・・また川に沿って西に進むと、梁を打って魚を捕っている者がいた。天皇が訊ねると『私は苞苴擔(にえもつ)之子と言います』と答えた。これは阿太(あだ)の養ウ(盧+鳥)部(うかいべ)の始祖である。」とあり、熊野から宇陀へ越えたのではない。その後、別の時のことだ。これこそ正しい伝えだろうから、今はこれによって論じておく。また事の順序も、書紀はまず井光、次に磐排別(いわおしわく)、次に苞苴擔とあり、この記とは異なっている。【この順序はどちらでも道順と違っていないが、この記の方が優れている。そのことは後に述べる。】○生尾人は「おあるひと」、○有光は「ひかれり」と師が読んだのに従う。○井氷鹿(いひか)は、書紀には「井光」と書いてある。この意味の名だ。「光」を「ひか」とだけ言うのは、和名抄に「伊勢国朝明郡田光『たひか』」という郷名がある。【延喜式神名帳に多比鹿(たひか)神社もある。】この井氷鹿に逢った地は、今の飯貝だろうか。「井光り(いひかり)」を訛って「イヒカヒ」と言ったことから「飯貝」と書き、それが後に「いがい」に訛ったのだろう。この村は吉野川の南岸で、上市の向かい側にある。【書紀の順序でも、今の飯貝の地でよく合う。というのは、まずこの地に来て、次に「さらに少し進むと」とあるのは、川上の方へ行ったので、そこで国栖のことがあり、そこから「川に沿って西へ進むと」と言うのは川に沿って下ったわけで、次に苞苴擔のことが出ているのは阿陀だから、道順によく合っている。】○吉野首(えしぬのおびと)。書紀には「吉野に到った時、井戸から出て来た人がある。その身は光っていて、尾があった。天皇が『お前は誰か』と聞くと、『私は国神で、名は井光と言います』と答えた。これは吉野首の始祖である」【この記では「井有レ光(イひかれり)」と書いて、この人の身が光っていたことはないが、書紀で人が光っていたと言うのは、少し異なっている。】天武紀に「十二年十月乙卯朔己未、吉野首に連の姓を賜う」とある。新撰姓氏録では「大和国神別、【地祇】吉野連は、加彌比加尼(かみひかね)の後裔である。神武天皇が吉野に行幸して神瀬に到着した時、人をやって水を汲ませたところ、使者が帰って『井光女(いひかめ)がいます』と報告した。天皇がこの女を呼んで、『お前は誰か』と聞くと、『私は天から降った白雲別神(しらくもわけのかみ)の娘で、名は豊御富(とよみとみ)と言います』と答えた。天皇はその場で「水光(みひか)姫」と名付けた。今吉野の連が祭る水光の神はこれである」とあり、【加彌比加尼と水光姫が同じかどうか、紛らわしい記事だ。】この水光姫がすなわち井氷鹿のように聞こえるが、【水と井は意味も近く、音も横に通う。】女とするのは異なる伝えだ。続日本紀五に「和銅三年正月壬子朔甲子、正六位上吉野連久治良(くじら)に従五位下を授けた」と見え、続日本後紀十八に「嘉祥元年十一月丁巳朔辛未、大和国吉野郡の大領吉野連豊益(とよます)に功績があることが聞こえたので、仮に外従五位下を授けた」とある。○「入2其山1之(そのヤマにいりましかば)」。上に「從2其地1幸行者(ソコよりいでましかば)」とあるのを考えれば、「之」の字は「者」の誤りではないだろうか、【師は之の下に「時」の字が脱けているのだろうと言った。】この道は、飯貝から川に沿って上らないで、吉野山に入って国巣(くず)に越える道だろう。そのため「山に入る」と言ったのだ。【大和志に、川上荘の碇村に井光の邸宅跡があると言う。「いひかり」を訛って「いかり」と言うのはありそうなことだ。だがその碇村は国栖(くず)より山の奥、東南にあって、川上の方なので、ここに「山に入って」とあるのに合わない。碇村から国栖の方に出たら、「山から出た」と言うべき地理であって、書紀に「東に少し行って」と言うのとも合わない。】○遇生尾人は「おあるヒトあえり」と読む。【「おあるヒトにあいたまえり」と読むのは雅言でない。この言い方については伝十六の廿二葉で述べた。】○巖。和名抄に「巖は『いわお』」とある。石秀(イハホ)の意味である。○石押分之子は、「いわおしわくのこ」と読む。書紀では「磐排別之子」と書き、「排別、これを『おしわく』と読む」とある。【師は「別」を「わき」と読んだが、やはり「わく」と読むべきだ。これは上記「贄持」のところで行った通りである。】このくだり、三人の名は、みな出現の時の様子に因んで名付けたように読めるが、【前記の水光姫という名は、天皇が名付けたと新撰姓氏録にあるのも参照せよ。】それぞれこの時に天皇の問いに答えて、「何々という」と名を答えたように書いてあるのは、後のことを先に及ばせて書いたものである。○「今聞云々(いま〜ときいて)」は、上巻に「『僕は国神、名は猿田毘古神という。ここに出て来たのは、天神の御子が天降られると聞いて、お迎えに参ったのだ』と答えた(猿の正字は、けものへん+爰)」というのによく似ている。○吉野之國巣(えしぬのくず)。昔から「くず」と読んでいるが、もし「くず」なら「国」という字は書かないはずが、ここでも軽嶋の宮(應神天皇)の段でも、また他の古い書物にも、みな「国」を書いているのを考えれば、上代には「くにす」と言っていたのが、やや後には音便で「くず」になったのだろう。【一般に言葉の中巻にある「に」は、省かれて、その下の音が濁音になる。これは自然の音便だ。】しかし確かに「くにす」と言ったという証拠もないので、従来通り「くず」と読んだ。今、吉野川沿いに南国栖村というのがあり、【「南」と言うからには、昔は「北国栖」もあったのだろうか。】そのあたりの七村をみな含めて「国栖荘」と言う。万葉巻十【十六丁】(1919)に「國栖等之春菜將採司馬乃野之(くずどもがハルナつむらんしばのヌの)云々」とある。【この歌の初句を今の本で「くにすらが」と読んでいる。これがいにしえの読みか。あるいは「くず」と言うことを知らず、みだりに読んだものか。袖中抄に引いたのでは「くずびとの」とある。】書紀には「また少し進むと、またも尾の生えた人が岩を押し分けて出て来た。天皇が『お前は誰か』と訊ねると、『私は磐排別(いわおしわく)の子』と答えた。これは吉野の國樔(くず)部の先祖である。」とあり、新撰姓氏録の大和国神別に、【地祇】「国栖は、石穂押別神(いわおおしわくのかみ)の子孫である。神武天皇が吉野に行幸した時、川上で遊んでいた人があり、天皇が見ると穴に入った。しばらくすると、また出て遊んだ。ひそかに様子を伺ってから呼び寄せて訊ねたところ、『石穂押別神の子』と答えた。その時に国栖の名を与えた云々」とある。【ここで「石穂押別神の子」とあるのは、異なる伝えである。あるいは「神」の字が誤りなのか、または「之子」という名から、その父の名と思い誤ったのか。】なお国栖のことは、軽嶋の宮の段【伝三十三の初め】で詳しく言う。○「自2其地1(そこより)」は、吉野郡のうちの東方の山奥から、と考えるべきである。上文を受けて、国巣の地からと考えてはいけない。その理由は、上述した通りである。【上のくだりで、河尻というところから国巣までの順序が、地理に合わないからだ。ここを国巣からとするなら、後の「蹈穿越(ふみうがちこえて)」という文が合わない。国巣から宇陀へ抜ける道は、さほど険しい道ではなく、行程も長くない。○このとき熊野から進んだ道を、今の世に熊野の本宮から吉野郡へ越えて、十津川や天川を経て下市に出る道があるから、これだとして、宇智郡の阿陀に出て、次に飯貝を経て吉野山に入り、国栖に到ったとも言えるかも知れない。そう見ると「河尻」というのも合う。だがその十津川などを経由するのは、北に向かって大和に到る道だから、かの「日を背負って」とあるのに合わず、またこの時に阿陀に出た上は、そこから直接大和の国中(くんなか)に出るべきなのに、そうはしないで、また吉野の山中に入り、東の宇陀に出たというのは理由もなく、また「蹈穿越」という文も、国栖からの地形に合わないなど、あれこれと不適合な部分が多い。だからとにかく、「河尻」とあるところから「国栖」のところは、書紀の伝えのように、別の時のことと考えるべきである。】○蹈穿越(ふみうがちこえて)とは、八咫烏の道案内の通り、道もない荒々しい山中を行き貫いたのである。【穿の字は、「通るのである」とも「貫くのである」とも字書に書いてある。】○宇陀は、和名抄に「大和国宇陀【うだ】郡」とあるのがそうだ。この郡に、今も宇陀という邑がある。万葉に「宇陀の大野」、「宇陀の眞赤土(まはに)」などと詠んでいる。【巻二の三十丁(191)、巻七の三十七丁(1376)、巻八の四十八丁(1609)】○穿(うがち)。宇陀郡に宇賀志村というところがある。これは「うがち」が訛ったのか。このことはさらに後で論じる。【伝十九の二葉】○「也」の字は、延佳本にはない。ここでは旧印本及び一本によった。【前の文に「日下之蓼津也」、また「故謂2血沼海1也」、後にも「故其地謂2宇陀之血原1也」など、みな「也」の字があるからだ。旧印本には、また「穿」と「也」の間に「指聲」の二字がある。これを師は「穿指聲」の三字は、宇牙智邑(うげちのむら)という四字を誤ったのだと言った。なるほど「穿」と「宇牙」、「指」と「智」、「コエ?(士の下に巴)」と「邑」とは字形が似ている。だがこの地名は「うがち」でこそあれ、「うげち」ではない。「牙」の字は「ゲ」の仮名であって、「ガ」には用いない。そこでまた「指聲」は「能邑(〜のムラ)」の誤りかとも考えたが、こういうところに「能」の字を書くはずはないので、やはりこの二字は衍字と考えるべきだ。これは元々後人が「穿」の字のそばに「〜と声(ショウ)を指す」と注しておいたのを、後の人が本文と取り違えて書き加えたのだろう。中昔には「指レ聲」ということがあったと思われる。】書紀に「果たして空から舞い降りる頭八咫烏があった。天皇は・・・ついに菟田の下縣に到った。そこでその到り着いたところう菟田の穿邑と名付けた。穿邑、これを『于介知能務羅(うがちのむら)』と言う」とある。【この「穿」を今の本で「うげち」と読んでいるのは、訓注の「介」の字を「け」の仮名と思い込んでいるからである。この字は和名抄などでは「け」の仮名として用いているが、書紀では「か」の仮名にのみ用い、「け」に用いた例はない。混同してはいけない。万葉巻五の七丁(800)に「宇既具都(うげぐつ)」とある。「穿沓(うげぐつ)」のことだ。これは沓が破れて穴の開いたのを言い、「うげ」は「うがたれ」が縮まった語であり、「穿つ」というのとは活用が異なっている。】

 


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