『古事記傳』20


白檮原の宮の巻【下巻】

故坐2日向1時。娶2阿多之小椅君妹名阿比良比賣1<自レ阿以下五字以レ音>生子。多藝志美美命。次岐須美美命。二柱坐也。

訓読:かれヒムカにまししときに、アタのオバシのキミのいもナはアヒラヒメをめしてウミませるミコ、タギシミミのミコト。つぎにキスミミのミコト。ふたばしらませり。

口語訳:天皇は日向にいた時、小椅の君の妹、阿比良比賣を妻として生んだ子、多藝志美美命と岐須美美命の二人がいた。

阿多(あた)は地名で、薩摩の国にある。上巻で「隼人阿多君」とあるところ【伝十六の四十二葉】で言った通りである。【ここの阿多もその上巻の阿多君と同じで、姓のように聞こえるのに、地名だと言うのは、この御代の頃には、まだ姓を名乗る事がなかったからだ。このことは後で詳しく言う。ただしここではまだ地名だったが、後には姓になったから、やはり姓ではある。】○小椅君(おばしのきみ)も地名に因む人名である。【阿多は広い範囲を持つ地名だから、その中に小椅というところがあったのだろう。この地名は本などには見えないが、そうに違いない。今はこういう地名はないのだろうか。大隅や薩摩の人に確認したいものだ。旧事紀で景行天皇の御子たちを列挙したところに、「襲(そ)の小橋別(おばしわけ)の命は、三田の小橋別の祖」と言っている。この「三」の字は、一本に「兎」とある。どちらも間違いで、「吾田の小橋別」だろう。これもここの地名と同一のようである。小椅君はこの地で大きな勢力のあった人だからその名になったのだろう。これは名でなく、阿多氏から分かれた一つの姓のようにも思われるだろうが、姓だったらその下に名があるはずなのに、それを言わないのを姓とするのはどうか。「某氏の妹」などとは普通言わない。だが「君」という「かばね」は姓の下に付けるのが普通で、名に付けるものではないだろうとも言えるが、「かばね」というのは、元はその人を尊んで言ったことから起こった。この時代には、まだこれが姓だと言えるようなものはなかったから、単にその人が住むところの名などで「そこの君」と尊んで呼んでいたのが、その呼び名が代々伝わって、結局姓になったのだ。この小椅君などは妃の兄だったから、特に尊んで「そこの君」と言っただけのことだ。】書紀の神代巻(第九段一書第八)に「火闌降命は吾田君小橋らの本祖である」とある小橋もこの人のことだ。【この記でも書紀でも、「〜は〜氏の祖」とあるのは、その子孫の姓を挙げるのが普通で、名を挙げることはほとんどないから、この小橋もやはり姓のように見えるが、姓なら「君」は小橋の下に付くはずなのに、上に付いているからには名の方である。こういうところで名を書いているのは、やはり~代上巻で、「大三輪の神、この神の子は甘茂君(かものきみ)ら、大三輪の君ら、また姫蹈鞴五十鈴姫命である」とあるたぐいである。これもこの天皇の大后だったから、このように名を挙げたのだ。小橋も妃の兄なので、特にその名を書いたのだろう。とにかくこの時代には、まだ吾田の君というのは姓ではなく、尊んでそう呼んでいたのでそう書いただけのことだ。こういうことも、その時代に従って了解し区別すべきである。】この記では、「橋」、「階」など、みな「椅」の字を書いてある。いにしえには、一般的にこの字を使っていたらしく、万葉集、延喜式神名帳、新撰姓氏録、和名抄の郷名など、またその他の古い書物にもたくさん見える。【万葉巻七(1282〜1284)に「倉椅(くらはし)」、延喜式神名帳に下総国の高椅(たかはし)神社、阿波国の天椅立(あまのはしだて)神社、和名抄の武蔵国の郷名に「良椅は『よしばし』」など、この他にも例がたくさんある。】この字を旧印本で手偏にかいているのも、延佳本で記中にあるのをすべて土偏に書いているのも誤りである。ここでは一本に従った。他の古い書物にあるのも、記中の他の箇所にあるのも、みな木偏だからだ。【延佳がみな土偏にしたのは、さかしらに改めたものと思われる。また師(賀茂真淵)は「石偏だろう。碕は橋だと字書にある」と言ったが、これもどうだろう。埼も碕も古い書物では崎と同じ「さき」に用いていて、橋の意味に使った例はなく、字書にもそういう意味は見えない。椅も字書では橋の意味はないが、皇国の古い書物に多く見えているから、間違いなくこの字である。いにしえには、漢国の字の意味に関係なく、みんなが使っていたという例も多い。「倉」に「椋」、「隅(くま)」に「前」の字を書くたぐいだ。】○阿比良比賣は、和名抄に「大隅国の郡名、姶羅は『アヒラ(あいら)』」、また「同国大隅郡、姶臈(アヒラ)」、「熊毛郡、阿枚(アヒラ)」、【これらは、元は同じ地だったのだろう。書紀~代巻の「日向の吾平(あひら)の山上の陵」というのも同じ地である。】これらの地名に因む名である。書紀には「日向の吾田邑の吾平津媛を娶って妃とした」とある。【ここでも姓を書かず、吾田の邑とあることから、この記の「阿多」も地名だと分かる。】○娶は「めして」と読む。【「いれて」、「みあいまして」とも読める。】書紀ではこの字、また「御」、「納」、「通」などもそう読んでいる。○多藝志耳命(たぎしみみのみこと)。書紀では手研耳命と書いてある。名の意味は定かでない。あるいは倭建命の段に「私の足はもう歩けない。當藝斯(たぎし)の形になってしまった」とあり、その物の名に関連があるか。【「當藝斯」という物については、そこで言う。○書紀の「研」という字は「きしる」と読むので、借字だろう。】「耳」は尊称で、忍穂耳命などと同じ、そのことはそこ【伝七の五十四葉】で述べた。○岐須美美命(きすみみのみこと)。書紀にはこの御子は出て来ない。思うに、この名は「志」と「須」が通音で、「多」の字が省かれただけと見ると、兄の多藝志耳命とたいへんよく似た名前である。【旧事紀で「研耳(きすみみ)」と書いてあるのは、推量で書いたものだろう。】それに以下のところでは多藝志耳命のことばかり書いてあって、この御子のことは全然出て来ない。【この御子がいたなら、その行ったことも出ているのが当然だ。】これらのことから考えると、この御子については、多藝志耳命の名前に少し異伝があったのが、間違って二人のこととして伝えられただけで、書紀の方が正しいのではないだろうか。○この後、代々の王(みこ)たち【皇子(みこ)、皇女(ひめみこ)、男王(ひこみこ)、女王(ひめみこ)など、いにしえにはすべて王(みこ)と言った。】の名には種々のものがある。大まかに言うと三種類だ。一つには由縁によって、物の名などが付いている例。二つには、地名などから付いた名。三つには美称をもって付けた名だ。王たちだけでなく、凡人も大体この三種だろう。いくつか例を挙げると、垂仁天皇の御子が火中に生まれたので、「本牟智和氣(ほむちわけ)」と付けられ、景行天皇の御子が双子で生まれたので、父天皇が奇異に思い、碓(うす)に向かって叫んだから、この双子を大碓(おおうす)命、小碓(おうす)命(小碓命は後の倭建命)と名付けた。應神天皇は生まれた時に、腕に鞆の形に肉の盛り上がったところがあったので、大鞆和氣(おおともわけ)命といった。仁徳天皇と建内宿禰の子は同日に生まれ、木兎(つく)と鷦鷯(さざき)の瑞があったので、その瑞を取り替えて、皇子を大鷦鷯、建内宿禰の子は木兎と名付けた。清寧天皇は生まれながらにして白髪があったから白髪命といい、反正天皇は歯が特徴的だったので水歯別(みずはわけ)命と称した。これらは由縁がある物の名を取って名とした例である。また聖徳太子は厩の戸口で生まれたので厩戸といい、天武天皇の皇子、大伯(おおく)皇女は備前国の大伯の海で生まれたからこの名が付いた。これらは生まれたところの名を、その由縁によって付けたのだ。開化天皇の孫、沙本毘古(さおびこ)王は、沙本にいた。【この王が垂仁天皇の暗殺を図ったとき、天皇は夢で沙本の方から激しい雨が降ってきたのを見たという。】應神天皇の子、宇遲能和紀郎子(うじのわきのいらつこ)は山城の宇遲に住んでいた。仁賢天皇の娘、春日山田郎女(かすがのやまだのいらつめ)は春日に住んでいた。【書紀の継体の巻では、勾大兄皇子(まがりのおおえのおうじ)がこの皇女に妻問いした時、「春日(はるひ)の春日(かすが)の國に、くはし女(め)をありと聞て云々」と歌った。】雄略天皇の大后、若日下王(わかくさかのみこ)は河内の日下に住んでいた。【天皇がこの大后のもとに行くのに、日下に幸行したと書いてある。】またこの天皇は長谷(はつせ)宮に住んだので、大長谷若建命(おおはつせのわかたけのみこと)と称し、安康天皇は石上の穴穂の宮に住んだから穴穂命といったのなどは、その住んだ地名を名とした例だ。舒明天皇の御子、蚊屋皇子(かやのみこ)は吉備国の蚊屋采女を母として生まれ、天智天皇の御子、伊賀皇子は伊賀采女が母だった。これらは母の故郷の名を付けたと思われる。神武天皇は、初めは豊御毛沼命(とよみけぬのみこと)、あるいは狹野命(さぬのみこと)といったのが、後に大和で天下を治めるようになって、神倭伊波禮毘古命、または神倭伊波禮毘古穂々手見命と称した。【この名は書紀の神代下巻に見える。】倭男具那王(やまとおぐなのみこ)は、武功を称えて倭建命といった。これらは美称を名とした例だ。代々の天皇で長い名が付いているのは、このたぐいが多い。凡人にもそういう例はある。【凡人の例は、書紀の垂仁の巻に八綱田(やつなだ)の武功を賞めて、倭日向武日向八綱田(やまとひむかたけひむかやつなだ)という名を与えたという記事がある。また天皇の崩御後に諡を贈ることは、書紀の神功の巻に、神功皇后を葬った日に氣長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)という諡を贈ったとあるけれども、疑わしい。このことは伊邪河の宮(開化天皇)の段で言う。その他には記紀に例が見えない。続日本紀では、持統天皇の崩御後に大倭根子天之廣野日女尊と付けたとあり、その後の天皇にも同様の記事がある。これはいつ頃始まったことか、定かでない。書紀の天武の巻(五年八月)に大三輪眞上田君子人(おおみわのまかんだのきみこびと)が死んだとき、壬申の乱の功績によって、大三輪眞上田迎君(むかえのきみ)という諡を付けたとある。すると天皇の諡も、これ以前からあったかも知れない。後代は、仁明天皇の日本根子天璽豊聡慧尊というのを最後に、このことは絶えたのではないだろうか。文徳、清和、光孝の三代は、こういう漢風の諮号ばかりで、平城、嵯峨、陽成、宇多以降はその漢風のもなくなり、漢風なのは崇徳、安徳、順徳、崇光、明照、霊元などのみである。それらも「院」であって、天皇と言えるのは安徳だけだ。後醍醐は吉野でこそ天皇と言ったが、京都ではやはり院と呼んだ。「院」というのは退位後に住んだ宮の名が付けられたもので、正しくは某院の天皇、または某院の帝などと呼ぶべきところを、単に某院と言うのは、大変省略した言い方だ。圓融、花山、光厳、光明などは、漢風だけれども仏寺の名前である。桓武を柏原帝、仁明を深草帝、文徳を田村帝、光孝を小松帝ともいい、また宇多、醍醐、村上なども、みな御陵の地名である。平城、嵯峨、水尾(みずのお)などは、後に住んだところの名、陽成、朱雀、冷泉などは後の宮の名である。その後の諡はみな京都の町の名、あるいは京都周辺の地名を付けたのが多い。これらのことは、いにしえの諡のことを言ったついでに一通り触れたまでである。】大体いにしえの王たちの名は、上記の三種であって、稀に母の名に因む場合もある。孝霊天皇の子の千々速比賣(ちぢはやひめ)命は、母が千々速若比賣であり、孝元天皇の子の建波邇夜須毘古(たけはにやすびこ)命は、母が波邇夜須毘賣であったような例だ。継体天皇の子、茨田郎女(まんだのいらつめ)は、母が茨田連氏の出身で、用明天皇の子の當麻王(たぎまのみこ)は母が當麻の藏首氏の出である。それともこれらは母の姓だったのだろうか。應神天皇の子の大山守命は職名である。【この例は他にない。後世に式部卿親王、帥宮(そちのみや)といったたぐいだ。】これら以外にも様々あるだろう。これらを取り合わせて重ねて言っていることもある。また「某王、またの名は某、またの名は某」などとあるから、一般論としてだが、一人の王に二つか三つの名があったのが、そのうち一つだけが伝わり、他は忘れられた例もあるだろう。【たとえば生まれた時の由縁から付いた名は本来の名とし、その住んだ地名から呼ばれた名もあり、また美称をもって付けた名もあったのが、その中の一つだけが伝え残されたような場合である。】さらに細かなことは、その所々で言う。やや後には、乳母の名が付けられたこともある。文徳実録に「先朝の制で、皇子が生まれる度に乳母の姓を名としていた。そのため神野というのを天皇の諱とした」とある。これは嵯峨天皇の名の神野(かみの)というのは、乳母の姓だったということだ。こういう制(習慣)はいつ始まったのだろうか。上代から稀にはあったのか、定かでない。欽明天皇の御子の代から後に、姓のように見える名が多く見えるのは、この例か。桓武、平城などの御子の名は、みなこういう名だ。上記の嵯峨天皇の他に乳母の姓を取った証拠が書物に残っているのは、天武天皇が初め大海人皇子と言ったのが、崩御の時、大海(おおあま)宿禰蒭蒲(あらかま?)という人が最初に誄(しのびごと:弔辞のようなこと)を述べたことが出ている。これは乳母の親族のように思われる。孝謙天皇の名は阿倍と言ったが、乳母に阿倍朝臣石井という名が見え、平城天皇は初め小殿(おとの)と言ったが安倍小殿朝臣堺という乳母の名がある。桓武の皇女朝原内親王の乳母にも朝原忌寸大刀自という名が見える。これらがそうだ。【ところが嵯峨天皇の御子たちは、こういう古例を捨てて、みな普通に二字を選んで付けている。これが後世の名のようになった初めである。その名も、嵯峨天皇の子はみな「良」の字を下に付け、源の朝臣という姓になった人は、皇子は一字名で皇女は下に「姫」を付けた。淳和天皇の子も同様だが、多くは上に「恒」の字を付けていた。仁明天皇の子は下に「常」の字を付け、文徳天皇のは上に「惟」の字を付けていた。清和のは上に「貞」、陽成のは上に「元」の字、光孝のは上に「是」の字、醍醐のは下に「明」の字、村上のは下に「平」の字であった。皇女は、嵯峨天皇以降、今に至るまでみな「〜子」と言う。また清和天皇を「惟仁」といったのに始まり、醍醐天皇を敦仁、一条天皇を懐仁、後冷泉天皇を親仁、後三条天皇を尊仁と呼ぶ。これ以降は、皇子たちは一般に「〜仁」という名になった。例外は後鳥羽天皇を「尊成(たかひら)」、順徳天皇を「守成(もりなり)」、後二条天皇を「邦治」、後醍醐天皇を「尊治」と呼んだ例だけだ。時代に従い、万事が少しずつ移り変わって行くうち、人の名などもいにしえから今までに、変わってきたことを知らせるため、いくつか挙げてみた。】

 

然更求B爲2大后1之美人A時。大久米命曰。此間有2媛女1是謂2神御子1。其所=以3謂2神御子1者。三嶋湟咋之女名勢夜陀多良比賣。其容姿麗美故。美和之大物主神見感而。其美人爲2大便1之時。化2丹塗矢1。自B其爲2大便1之溝A流下。突2其美人之富登1。<此二字以レ音下效レ此>爾其美人驚而立走伊須須岐伎。<此五字以レ音>乃將=來2其矢1置レ於2床邊1。忽成2麗壯夫1。即娶2其美人1。生子名謂2富登多多良伊須須岐比賣命1。亦名謂2比賣多多良伊須氣余理比賣1。<是者惡2其富登云事1後改レ名者也>故是以謂2神御子1也。

訓読:しかれどもさらにオオギサキとせんオトメをまぎたまうときに、オオクメのミコトのもうさく、「ここにカミのミコなりともうすオトメあり。そのカミのミコなりともうすユエは、ミシマのミゾクイのむすめナはセヤダタラヒメ、それカオよかりければ、ミワのオオモノヌシのカミみめでて、そのオトメのカワヤにいれるときに、ニヌリヤになりて、そのカワヤのしたより、そのオトメのホトをつきたまいき。かれそのオトメおどろきてたちはしりイススギき。かくてそのヤをもちきてトコのベにおきしかば、たちまちにウルワシキおとこになりて、すなわちそのオトメにみあいて、ウミませるミコなはホトタタライススギヒメのミコト。またのなはヒメタタライスケヨリヒメともうす。<こはその『ホト』ということをニクミて、のちにかえつるミナなり。>かれここをもてカミのミコとはもうすなり」ともうしき。

口語訳:だがさらに正后に立てるべき乙女がいないか探していた。すると大久米命が「このへんに神の子だという娘がいるそうですよ。というのは、こういう訳です。三嶋の湟咋の娘で、勢夜陀多良比賣というのが大変美人だったそうで、美和の大物主神が懸想しました。そこで彼女が便所に入っている時、丹塗りの矢に化けて、便所の下の溝から、その乙女の陰部を突きました。乙女は驚いて立ち走り、動転したそうです。でも(きれいな矢だと思ったから)床の付近に置いておくと、忽然として美しい若者の姿になりました。彼がその美人を妻として生んだ子を、富登多多良伊須須岐比賣命、または比賣多多良伊須氣余理比賣と言います。<『ほと(陰部)』という名は具合が悪いということで、後に改名したのである>神の子というのは、ざっとこういうことです」と話した。

大后は、字の通り「おおぎさき」と読む。後世の皇后である。いにしえは天皇の妻たちを「后」と言って、その中の最も重要な女性を「大后」と言ったことは、上巻の八千矛神のところ【伝十一の三十葉】で言った通りだ。【「大」は大臣、大連などの大と同じく、数ある中の一人を特に尊んで言うのである。】しかしなお疑いを持つ人のために、もう少し言おう。いにしえに后と呼ばれた人は一人でなく、後に「妃」、「夫人」と呼ばれたような女性も含んでいた。【今の世に、童女の詞(童謡か?)で「十二人の后<この言葉不明>」というのは、愚かなようだが、かえっていにしえの意に近い。】倭建命の段の歌で、弟橘比賣命を「その后」と呼び、次に「倭にいる后たち」とあるのは、弟橘比賣命も倭にいるのも、共に「后」と言っているわけだ。【倭建命は、すべて天皇に準じて書いてある。】また「たち」と複数形なのを見ても、一人でないことは分かる。書紀の反正の巻【九丁】に皇夫人(きさき)、また夫人(きさき)、敏達の巻にも夫人(きさき)、これらをいずれも「きさき」と読むのはいにしえの意味に合っている。新撰字鏡にも「キ?(女+紀)は妃である。『きさき』」とある。【書紀に夫人を「意富刀自(おおとじ)」と読んでいるところがあるのは不審である。また妃、夫人、嬪、女御などを多くは「みめ」と読んでいる。「みめ」とは皇后をはじめ、夫人、嬪までを含めて言う言葉だから、この読みは悪くない。ただし~武の巻に「正妃を尊んで皇后とした」とあり、正妃を「むかいめ」、皇后を「きさき」と読むのは、字の通りならそうも読めるが、当時の実際の名ではない。「むかいめ」は皇后のことで、「きさき」は妃などにも言うからだ。だからこれは正妃を「きさき」、皇后を「おおぎさき」と読むのがいい。すべて妃・夫人などは「きさき」、皇后は「おおぎさき」と読むべきだ。】その后たちの中の第一を「大后」と言ったのは、ここを初めとして、玉垣の宮(垂仁天皇)の段に、大后比婆須比賣(ひばすひめ)命と見え、訶志比の宮(仲哀天皇)の段で息長帯比賣(おきながたらしひめ)命を大后といい、高津の宮(仁徳天皇)の段で大后石之日賣(いわのひめ)命とあり、また遠つ飛鳥の宮(允恭天皇)の段、朝倉の宮の段などでも、やはり大后という呼び方をしている。書紀の天智の巻に、天皇の病が重くなったとき、天武天皇が儲君(もうけのきみ:皇太子)だったが、後事を託そうとした天皇の言葉を辞退して「天津日嗣の業は、すべて大后に授けてください」と言ったことが出ており、これは皇后の倭姫王(やまとひめのみこ)のことである。【一般に書紀の例では、上代のことを書いたところも、後世の漢国の制度に従って、当時の大后を皇后と書き、御母后(おおみおや)の方を皇大后と書くのだが、ここはそれと違い、たまたま当時の呼び名のまま、当代のを大后と書いたのである。この他にも、同様に不用意に書いたために、漢国の様式と違い、いにしえの呼称のまま書いたところが往々にしてある。御子を皇子・皇女と書いたのが通例だが、時々「王」と書いてあるのもそういうたぐいだ。】万葉巻二に「近江大津宮御宇天皇聖躬不豫之時、大后奉御歌」、また「天皇大殯之時、大后御歌」、また「明日香清御原宮御宇天皇崩之時、大后御作歌」などと見え、伊予国風土記に、「天皇たちが湯に入るために行幸したことは五度あった。大帯日子天皇(景行天皇)と大后八坂入姫命の二柱が入湯したのを一度とする。帯中日子天皇(仲哀天皇)と大后息長帯姫命の二柱が入湯したのを一度とする云々」とあるのがその例だ。上記のように、いにしえに「大后」と言ったのは、その当時の御妻のうちの第一の女性である。それを後世、制度が何事も漢風になってからは、正式の文書では、その当時のは皇后、先代のは皇大后と書かれるようになった。しかし口に出して言う場合、また打ち解けて話す場合などは、奈良の頃までまだいにしえのままに当代のを大后、先代のを大御祖(おおみおや)といっていたのを、【とすると書紀で皇大后、皇大妃、皇大夫人などとあるのは、みな「おおみおや」と読むべきだ。いにしえの呼称はそうだった。実の大御母を「きさき」、「みめ」などと言うべきでない。それを清寧の巻で皇大夫人を「おおいきさき」などと読んでいるのは、いにしえの呼び方ではない。皇極の巻に天皇の母吉備姫王を「吉備の嶋の皇祖母命(おおみおやのみこと)」とあるのこそいにしえの呼称だ。また続日本紀九に藤原夫人を「文には皇大夫人と書き、語るには大御祖(おおみおや)と言え」と詔があるのを考えよ。皇后であれ夫人であれ、「大」の字を加えて母のこととするのは、漢国の定めであっても、皇国にそういうことはなかったのだ。だから文には漢様を用いていても、語るにはなおいにしえの言い方をしていた。まだ漢籍を用いなかった上代には、大妃、大夫人などという品の差別もなかったので、大后であれ他の妃たちであれ、母になったらみな大御祖と言った。孝徳紀に、皇極天皇を「皇祖母(おおみおや)尊」と号したことが出ている。天皇ですらそう呼ぶのだから、后も夫人も、大御祖と呼ぶことに区別はなかったことを悟るべきである。皇極は孝徳の姉だけれども、大御母に準じてこの号を奉ったのである。だがこれは御母ということなのに、「祖母」というのはどうかと疑う人がある。いにしえは母のことを一般に「みおや」と呼び、古い書物に「御祖」と書いていたから、その例のまま「祖」と書いたのだが、「皇祖尊」としたのでは先代の天皇と紛らわしく、母であることを示すために、「母」の字も入れたのだ。そういう例は他にもある。八咫烏を書紀では頭八咫烏と書いているのも、「八咫」は頭の大きさを示す言葉だったからである。】その後、ついには普通に語るにも当代の嫡后を単に「きさき」と言い、母を大后と称するようになったのである。【すべて何事もこう漢様になり果てては、いにしえのさまをよく知る人もいなくなり、たまたま古い書物に残っているのを見ては、かえって疑いを起こすようだ。師の万葉考ですら、前記の第二巻の「大后」を疑い、天皇がまだ存命中なのに大后というのは誤っているとして「皇后」に改め、また別のところで「夫人」の読みを論じるなど、かえって誤りを加えている。】○美人はみな「おとめ」と読む。【「美」の字に関係なく、いにしえには若い女はみな「おとめ」と言った。】○求は「まぎ」と読む。上巻の八千矛神の歌にも「夜斯麻久爾、都麻々岐迦泥弖(やしまくに、つままぎかねて)」とある。○此間は「ここ」と読む。倭国を指して言う。【「間」の字は一本に「國」とあるが、やはり「間」だろう。】○媛女もみな「おとめ」と読む。【「おとめ」を記中「美人」、「媛女」、「嬢女」、「嬢子」とも書いているが、みな同じことだ。】この媛女は、伊須氣余理比賣を言う。○神御子(かみのみこ)とは、たいていは神社の御霊が現実の男になって女と交わって生んだ子を言う。水垣の宮(崇神天皇)の段に、意富多々泥古(おおたたねこ)を神の子と言っているのと同様だ。その段のことを考え合わせよ。○三嶋(みしま)は摂津国にあり、書紀の雄略の巻に三嶋郡とある。後に分かれて嶋上、嶋下というのがそうである。【すべて諸国郡郷の名は、字は縮めて二字に書いても、読むときは元のままに読むのが普通だから、これも「みしまのかみ」、「みしまのしも」と読むべきなのだが、和名抄に「しまのかみ云々」と書いて、「み」を省いているのはどういうことか。】三嶋の藍御陵(継体天皇陵)は、諸陵式に「島上郡にある」と見え、延喜式神名帳に「嶋下郡、三嶋鴨神社」が載っている。伊予国風土記には「津の国の御嶋」と書いてある。万葉巻七【三十四丁】(1348)に「三嶋江之玉江(みしまえのたまえ)」、巻十一【三十九丁】(2766)に「三嶋江之入江」などとある。【後世の歌にも詠まれている名所だ。】今も嶋上郡に三嶋江村(大阪府高槻市の三島江町付近か)がある。【淀川沿いである。】○湟咋(みぞくい)。延喜式神名帳に嶋下郡、溝咋神社がある。この郡には溝杭荘というのがあり、そのうちの馬場村というところにこの神社がある(現在の茨木市五十鈴町のことか)。【この地は嶋上郡の堺に近く、三嶋江からあまり遠くない。】この神社がこの人を祭るか、他の神を祭るかは定かでない。また湟咋というのが本来の名で、後に地名になったのか、または地名がこの人の名になったのかも分からない、書紀には「溝クイ(木+厥)耳神」とある。【国造本紀に「都佐(とさ)の国造は、志賀の高穴穂朝の御代、長阿比古(ながのあびこ)の同祖、三嶋の溝杭命の九世の孫、小立足尼(おたちのすくね)を国造とした」とある。】○勢夜陀多良比賣(せやだたらひめ)。「勢夜」は地名だろう。聖徳太子傳暦に「勢夜の里」というのが見え、今大和国平群郡に勢野村がある。【太子傳に出ているのもこれだろう。】「陀多良」は何の意味か分からない。【「だ」と濁るのは、上から続いているから音便で濁ったのである。】内膳式の漬年料雑菜の中に「多々良比賣の花搗三斗【料盥三升】」と見え、衛門府風俗歌にも「多々良女(たたらめ)の花」、新撰字鏡に「シン(くさかんむりに辛)は『たたらめ』」とある。この花の名は、この比賣に関係あるのではないだろうか。この比賣の名は、書紀~代巻に「三島の溝クイ(織のへんを木へんにした字)姫」、~武の巻では「玉櫛媛」とある。○其容姿麗美は「それかおよし」と読む。容姿を「かお」と読む理由は上巻【伝十三の五十九葉】で言った。万葉巻十四【十三丁】(3411)に「可抱與吉(かおよき)」とあり、書紀の景行の巻に「容姿麗美(かおよし)」、垂仁の巻に「美麗(かおよき)」、雄略の巻に「麗(かおよき)」、允恭の巻に「艶妙(かおよし)」、孝徳の巻に「美姿顔(かおよし)」など、みな「かおよし」と読んでいる。上にある「其(それ)」はこの多々良比賣のことで、中昔の物語文でもこういう言い方が多い。【こういうところで「それ」とは漢文読みのように思う人もあるだろうが、漢文の「其」とは言っていることが大変違う。またこの字は「甚(いと)」の誤りかとも思われるだろうが、そうではない。】記中には「活玉依毘賣それ容姿端正(かおよし)」、「二嬢子(ふたおとめ)それ容姿麗美(かおよし)」また「髪長比賣それ顔容麗美(かおよし)」などあり、朝倉の宮(雄略天皇)の段に「河辺で洗濯している乙女がいた。それ容姿甚麗(かおいとよし)」などある。【ここで下に「甚」とあるから、上の「其」は「甚」でないことが分かる。】○美和(みわ)は大和国城上郡の大神(おおみわ)神社を言う。この社のことは、水垣の宮(崇神天皇)の段【伝二十三の三十四葉】で詳しく言う。○大物主神(おおものぬしのかみ)。書紀の崇神の巻に「おおものぬし」とあり、大穴牟遲神の和魂(にぎみたま)で、美和に祭られている神である。出雲国造神賀詞にも「乃大穴持命申給久、大美和乃神奈備爾坐(すなわちオオナモチのミコトのもうしたまわく、おおみわのカンナビにませて)・・・皇孫命能近守神登貢置天(スメミマのミコトのちかきマモリとして)」とあるので納得せよ。この大物主という名は、この詞で言うように、美和に鎮座した御魂の名であり、大穴牟遲命の一名ではない。倭の大物主とあるのでも分かる。【須佐之男命の出雲の熊野で祭られている名を「櫛御氣野(くしみけぬ)の命」と称し、また建御雷神が下総の香取に祭られている名を「齋主(いわいぬし)の命」と言うのと同様で、美和の社に限った名である。】だから上巻に大穴牟遅神のまたの名をいろいろ挙げたところでは、この名は出て来ない。古い書物では、この名は美和でだけ用いている。この名の意義は、書紀の一書(神代第九段一書第二)に「この時に帰順した神は大物主神と事代主神で、天の高市に八十万(やそよろず)の神たちを呼び集め、天に昇って忠誠を誓ったとき、高皇産霊尊は大物主神に『お前は八十万の神を率いて、永遠に皇孫の護りとなれ』」とあり、よく考えるとこの神の名は、初めは大己貴神としか書かれておらず、帰順するに至って名を変えて大物主神とあるのは、この時に高皇産霊尊が与えた名なのだろう。【神代紀でも特にこの段は、事の次第が紛らわしいので、古来あれこれ誤った風に論じられてきた。よく考えなければ間違うところだ。私には別に詳細な考察がある。その要旨を述べる。まず出雲の大神が「長く隠れた」というところまでは、この神の現身のことで、「大物主神と事代主神云々」と言うところからは、御霊のことである。神代の故事は、現身と御霊が区別なく語り伝えられているため、紛れてしまうことが多い。この段もこの違いを弁えることである。「長く隠れた」というのは、現身は「八十クマ(土+冂の中に口)手(やそくまで)」に隠れたことを言う。だが御霊はこの世に留めて、皇孫の守護神にした。その時高天の原に参上して高御産巣日命の詔勅を受け、大物主という名も賜ったのだろう。だからここに至って初めてこの名を挙げたのだ。とすると彼が率いる「八十万の神」も御霊を言うのである。この前の文に高皇産霊尊が「だから更に條々(おじおじ)に言う。お前は云々」とある「條々」のことは、現身だけでなく御霊のことも含めていたので、「お前が住む天日隅宮(あめのひすみのみや)」というのも御霊の住むところを言うのだ。このように現身と御霊の区別をしなければこの段は理解しがたい。一つの段の内で、前後この神の呼び名が変わっているのも、こうした区別があるからだ。】「物主」とは八十万神の首領として皇孫命を護るので、「神の大人(うし)」といった意味だろう。「物」という言葉は何にでも適用されるが、「人」のことを言う場合が多い。【たとえば「この人」、「かの人」を「この者」、「かの者」と呼ぶようなものである。】これもそうだ。それは、「神」というのは神代の「人」だったから、その「八十万神」を「もの」と言うのである。【あるいは神代紀に「葦原の中つ国の邪鬼」とある「邪鬼」は、弘仁私記で「あしきもの」と読んでおり、また「尸者」を「ものまさ(死者の代理となって弔問を受ける人)」と読み、中昔には「もののけ」と言ったなど、これらから見ると皇孫命を護る神霊のことを呼ぶのか。どちらにせよ、八十万の神を言うことは間違いない。】「主」は「の大人(うし)」が縮まった語である。「大」は例の美称だ。だからこの名は、現身はヤソクマデに隠れ、御霊がこの世に留まって守り神になった。その御霊の名だから現身の一名ではなく、大美和で祭っている神の名とするのだ。【上記のように高御産巣日命が名を与えたことで美和の神の名としたのだ。それを書紀で大己貴神の名を列記したところに「またの名大物主神」とあるのはいにしえの意と違っている。撰者がさかしらに加えたのか。世々の物知りたちが、単に大己貴命の一名としか考えないのは、古い書物を精査していないから陥る誤りである。】○見感而は「みめでて」と読む。この詞は上巻の海神」の宮の段で出た。【伝十七の二十六葉】○其美人(そのおとめ)は勢夜陀多良比賣を言う。○爲大便は「かわやにいれる」と読む。日代の宮(景行天皇)の段に「朝入レ厠之時(あしたにカワヤにいるときに))云々」という例もあるからだ。【師はこれを「くそまる」と読んだ。それは上巻に「屎麻理(くそまり)」とあり、書紀の神代巻に「送糞、これを『くそまる』と言う」とあるから、そう読むのももっともだが、それはその排泄した糞の方を主に言うところである。ここも同じようなことなのだが、糞について言っているわけではないから、そう読むのは良くない。また「かくしす」とか「けがしす」などと読むのは、糞と言うことを嫌って無理に取り繕って言ったので、古言のようには聞こえない。中昔の物語で「はこす(糞箱に大便をしたこと)」とあるたぐいだ。】○丹塗矢は「にぬりや」と読む。【「の」を入れて「にぬりのや」とするのは良くない。】矢に丹を塗るのは何のためか分からない。ただの飾りかも知れない。山城国風土記に「玉依日賣が石川の瀬見の小川で遊んでいると、上流から丹塗りの矢が流れてきた。家に持ち帰って床の近くに置いておいたら、妊娠して男子を生んだ。・・・可茂別雷命(かもわきいかづちのみこと)と号するいわゆる丹塗り矢は、乙訓坐火雷命(おとくににますほのいかづちのみこと)である」とある。似たようなことだ。○化(なりて)は大物主神が化身したのである。○爲大便之溝流下。この七字を「かわやのした」と読む。古くは厠を溝の上に作り、排泄物はすぐその水に流れるようになっていたから、【今の世でもそう作ったところがある。】河屋というのだ。【これを省いて、単に「河」とも言う。万葉巻十六(3828?)に、「川隅(かわぐま)」と詠んで「川」に厠の意味を含ませている歌がある。また今の世に、幼児の屎尿を受ける器具を「御河(おかわ)」というのもこれである。】○富登(ほと)は上巻で出た。○立走(たちはしり)。万葉巻五(896)に「難波津爾、美船泊農等、吉許延許婆、紐解佐氣弖、多知婆志利勢武(なにわづに、みふねはてんと、きこええば、ひもときさけて、たちばしりせん)」とある。○伊須須岐伎(いすすぎき)とは、つまり驚いて立ち走るさまを言う。大殿祭の祝詞に「夜女能伊須々伎(よめのいすすぎ)・・・事無(ことなく)」とあるのも、夜眠っている時、夢魔などに襲われて、心騒ぎ驚くことを言い、同じ意味だ。【「夜女」は夜目で、夜眠ることを言う。前に「朝目(あさめ)」とあったたぐいだ。これを師が祝詞考で、童女のこととしたのは当たらない。また童女と言いながら床に奉仕する(セックスの相手をする)とも言ったのは、どういうことだろう。一つの「夜」を童女(よめ)の「よ」と夜の「よ」と兼ねている訳はないだろう。】源氏物語の朝顔の巻で「内なる御門を・・・驚てあけさせ給ふ、御門守寒げなるけはひ、うすすきいで來て、速(とみ)にもえ開やらず」とある「うすすき」も同じ意味だろう。【「い」と「う」は、殊に近くて通音だ。これも門番が驚いて立ち走りながら出て来ることを言っている。契沖がこれを「舂(うすづき)」のことか、と言ったのは当たっていない。】また栄花物語【かゞやく藤壺の巻】に「そそき立て」、狭衣物語に「若宮おはしてそそきありき給ふ」などとあるのは、驚いたわけではないが、様子は同じである。【「す」と「そ」は通音だ。今の世で、人の振る舞いが静かでなく騒がしいのを「そそこし(そそかし)」と言うのも同言である。】大殿祭の祝詞で「取フ(くさかんむりに、呉の足を日に置き換えた字)計魯草乃噪伎(とりふけるカヤのそそき)【古語は蘇々岐】無久(なく)」とある「蘇々伎(そそき)」は乱れてせわしないことを言い、これも事は違うが意味は通う。万葉巻十六【九丁】(3791)に「古部狹々寸爲我哉(いにしえささきしわれや)」とあるのも、若い頃には浮き足だって騒いだことを言う。また上巻の海神の宮の段、須々鉤(すすち)のところ【伝十七の四十二葉】で言ったことも参照せよ。上記の例からすると、これは「い」を省いて言うこともあるようだ。【師はこの「い」も発語だと言ったが、他の発語の「い」とは少し違って聞こえる。これは「出(いで)」、「坐(います)」などの「い」と同じだろう。語頭に濁音を置く例はないので、「いで」を「で」と言うのは「い」を省いたのであって、「い」は発語ではない。ここもそれになぞらえて考えるべきである。】「伎」は助辞である。○「置2於床邊1(とこのべにおきしかば)」。倭建命の歌に「袁登賣能、登許能辨爾、和賀淤伎斯、都流岐能多知(おとめの、とこのべに、わがおきし、つるぎのたち)」とある。○富登多々良伊須々岐比賣命(ほとたたらいすすぎひめのみこと)。「富登(ほと)」は父の神が丹塗りの矢になって、母の陰部を突いたことに因み、「多々良(たたら)」は母の名によっている。【書紀に「蹈鞴」と書いてあるのは、借字だろう。】「伊須々岐(いすすぎ)」は前の文の「立ち走りいすすぎ」ということによる。○比賣多多良伊須氣余理比賣(ひめたたらいすけよりひめ)。「ほと」を「ひめ」に変えたのだ。「いすけ」は「いすすぎ」を通う音に縮めたのだろう。「より」は玉依毘賣の「依」と同じである。意味はそこで述べた。【伝十七の七十四葉】○「是者(こは)云々」の注は、またの名の注である。そもそもこの比賣のことは、書紀では「庚申年秋八月癸丑朔戊辰、天皇は正妃に立てる乙女を探していたところ、ある人が『事代主神が三島の溝クイ(木+厥)耳神の娘、玉櫛媛に交わって生んだ御子、姫蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)という乙女は、非常に美人だそうです』と教えたので、天皇は喜んだ」と見え、綏靖の巻にも「姫蹈鞴五十鈴媛命は事代主神の娘である」とある。この記と伝えが異なっている。ただし書紀でも~代巻には「大三輪の神の子、姫蹈鞴五十鈴姫命。【蹈鞴、これを『たたら』と読む】または事代主神が八尋の熊鰐に姿を変え、三島の溝クイ(織のへんを木へんにした字)姫に通じて生ませた子が、姫蹈鞴五十鈴姫命だともいう。これは神日本磐余彦火々出見天皇の后である」と見える。【このように神代巻では大三輪の神の子という方を主に書いておきながら、~武の巻では「一に曰く」と挙げることさえなく、事代主神の子としか書かなかったのは、どういうことか。二つともいにしえの伝えには違いないだろうが、~代巻と~武の巻が食い違っているように見えるではないか。ところで事代主神と言うのも、この神の鎮座する社の御霊のことであり、延喜式神名帳には「大和国葛上郡、鴨都波八重事代主命(かもつはヤエことしろぬしのみこと)の神社」、また「高市郡、高市御縣坐(たけちのみあがたにます)鴨事代主神神社」があり、この二つの社にいる御霊だろう。飛鳥神社も同神だが、「事代主」という名の神社の方がもとだろう。】○このくだりの大物主神の話は、水垣の宮(崇神天皇)の段にある、この神が活玉依毘賣のところに通った話とよく似ている。新撰姓氏録の大神(おおみわ)の朝臣の條に、「はじめ大国主神が三島溝杭耳の娘玉櫛姫を娶って云々」とあるのは、あれとこれを混同したものだ。【旧事紀で「事代主神が八尋の熊鰐に姿を変え、三島溝杭耳の娘、活玉依姫に生ませた子は天日方奇日方(あまつひかたくしひかた)命と姫蹈鞴五十鈴姫命である」というのも、二つのことを混同している。】また書紀の崇神の巻にある倭迹々姫(やまとトトひめ:正式には倭迹迹日百襲姫(やまとトトビももそひめ)のこともよく似ている。【仙覺が万葉抄で引いている土佐国風土記では、この倭迹々姫の故事を「三輪」の名の起こりとしている。】同神でありながら、このようによく似た話があちこちにあるのは、元は同一の事件だったのが、伝えが混乱して二つのことのように違ってしまったのか、もしくは神のことだから、いろいろな時に似たようなことが何度もあったのか、それは分からない。<訳者註:ここでは、宣長は乞食で語られる意富多多根子(おおたたねこ)の出生にまつわる伝承、つまり大物主神が活玉依毘賣に通って生ませた櫛御方命(くしみかたのみこと)の曾孫であること、活玉依毘賣は夫の正体を探ろうとして、彼の着物に長い糸を付け、朝になってその糸を辿ってみると三輪山に続いており、その糸が三輪残っていた。そのため美和山と言う、という物語を本源のものと見て論じているのである。それが山城国風土記の可茂社伝承、倭迹々姫伝承、姫蹈鞴五十鈴媛命出生譚に分かれたと判断したわけだ。明確な根拠はないが、彼の古事記を絶対視する立場からすると、当然のことであった>○「謂2神御子1也(カミのミコとはもうすなり)」までが、大久米命が天皇に語った言葉である。

 

於是七媛女遊=行3於2高佐士野1。<佐士二字以レ音>伊須氣余理比賣在2其中1。爾大久米命見2其伊須氣余理比賣1而。以レ歌白レ於2天皇1曰。夜麻登能。多加佐士怒袁。那那由久。袁登賣杼母。多禮袁志摩加牟。爾伊須氣余理比賣者。立2其媛女等之前1。乃天皇見2其媛女等1而。御心知2伊須氣余理比賣立1レ於2最前1。以レ歌答曰。加都賀都母。伊夜佐岐陀弖流。延袁斯麻加牟。爾大久米命。以2天皇之命1詔2其伊須氣余理比賣1之時。見2其大久米命黥利目1而。思レ奇歌曰。阿米都都。知杼理麻斯登登。那杼佐祁流斗米。爾大久米命答歌曰。袁登賣爾。多陀爾阿波牟登。和加佐祁流斗米。故其孃子白2之仕奉1也。於レ是其伊須氣余理比賣命之家在2狹井河之上1。天皇幸=行2其伊須氣余理比賣之許1。一宿御寢坐也。<其河謂2佐韋河1由者。於2其河邊1山由理草多在。故取2其山由理草之名1號2佐韋河1也。山由理草之本名云2佐韋1也>

訓読:ここにナナおとめタカサジヌにあそべる、イスケヨリヒメそのナカにありき。オオクメのミコトそのイスケヨリヒメをみて、ウタもてスメラミコトにもうしけらく、「やまとの、タカサジヌを、ナナゆく、オトメども。たれをしまかん」。ここにイスケヨリヒメは、そのオトメどものサキにたてりき。スメラミコトそのオトメどもをみそなわして、ミココロにイスケヨリヒメのイヤサキにたてることをしりたまいて、ミウタもてこたえたまわく、「かつがつも、いやさきだてる、エをしまかん」。ここにオオクメのミコト、おおきみのミコトをそのイスケヨリヒメにノレルときに、そのオオクメのミコトのさけるトメをみて、アヤシとおもいて、「あめつつ、ちどりましとと、などさけるトメ」と、うたいければ、オオクメのミコト「オトメに、ただにあわんと、わがさけるトメ」とうたいてぞコタエける。かれそのオトメ「つかえまつらん」ともうしき。ここにそのイスケヨリヒメのミコトのいえサイガワのべにありき。スメラミコトそのイスケヨリヒメがりいでまして、ヒトヨみねましき。<そのかわをサイガワというよしは、そのカワのべにヤマユリグサおおかりき。かれそのヤマユリグサのナをとりて、サイガワとなづけき。ヤマユリグサのもとのなサイといいき。>

歌部分の漢字表記(旧仮名):
倭の、高佐士野を、七行く媛女ども、誰をし覓かむ。
かつがつも、いや先立てる、愛をし覓かむ。
あめつつ、千鳥ましとと、など黥ける利目
媛女に、直に遇はむと、我が黥ける利目

口語訳:七人の少女たちが高佐士野を遊んでいたが、伊須氣余理比賣もその中にいた。大久米命は彼女の姿を目に留めて、歌で天皇に「きれいな女の子が七人もいますぜ。どの子がいいですか」と訊ねた。この時、伊須氣余理比賣は少女たちの先頭に立って歩いていた。天皇はざっと見て、先頭の少女が際立って美しいと思い、歌で「そうだな、まあ取りあえず、先頭にいる少し年長の子にしておこうか」と答えた。そこで大久米命は、天皇が嫁に欲しいと言っていることを、伊須氣余理比賣に告げた。彼女は驚いたが、大久米命の目が黥(いれずみ)で鋭い目つきになっているのを奇妙に思い、「鳥のように、千鳥のように、どうしてそんなに鋭く黥(さ)けているの」と歌で質問した。大久米命は「あなたの美しい顔をはっきり見ようとして、こんなに裂けているのですよ」と歌って答えた。すると伊須氣余理比賣は「お仕えいたします」と言った。この時、伊須氣余理比賣の家は狭井河のほとりにあった。天皇はその家に行って、一夜を共に明かした。<その河を狭井河と言ったのは、川のほとりに山百合がたくさんあった。そのため山百合の名を取って狭井河と言った。山百合はもともと「狹井」と言ったからである。>

七媛女は「ななおとめ」と読む。上巻に「八稚女(やおとめ)」とも見え、日代の宮(景行天皇)の段に「二嬢女(ふたおとめ)」ともある。○高佐士野(たかさじぬ)は、この後の歌に夜麻登能(やまとの)とあるけれども、どこの地か不明だ。【大和志に「十市郡南浦村(橿原市南浦町か)にある」というのは何か根拠があるのか、例によっておぼつかない説だ。師は城下郡にあると言ったが、「夜麻登」を倭郷のことと見て言ったことだから、採用できない。】新撰姓氏録の未定雑姓に、河内国佐自努公(さじぬのきみ)というのがある。【右京皇別にもこの姓がある。また延喜式神名帳で、常陸国新治郡に佐志能(さじの)神社がある。】○遊行は「あそべる」と読む。【最後を「べり」とすると言葉が切れるが、ここを「べる」と読んで次の語に続けるのが、雅文の格である。】○大久米命云々。この段は天皇が幸行して、高佐士野で七人の媛女の遊んでいるのに出会ったが、その時大久米命も同行していたのである。それを幸行のことも、大久米命の同行も言わないで、その通りに聞こえるのは、古文の妙である。この人は以前から伊須氣余理比賣を見知っていたのだろう。それでこの七人の中に彼女がいるのを見つけたのだ。その容貌が際立って美しく、他の少女たちと紛れることはなかったから、「あの子」と指して言わなくても、天皇にははっきり分かるはずだと思って、こんな風に歌ったのである。○夜麻登能(やまとの)は「倭の」である。大和国のことだ。【他の国からであれば「国」と言うだろうが、倭にあっては国というはずもないから、これは城下郡の倭郷のことだろう、という疑いもあって当然だが、一般に歌は五言で始まり、七言で始まるものはないから、初めに五言を置くために国名を出したのである。五言の句を四言あるいは三言に言うのは、いにしえには普通だった。】○那那由久は「七行く」で、七人で行くのを言う。○袁登賣杼母は「媛女ども」である。○多禮袁志摩加牟(たれをしまかん)は「誰を覓かん」で、「し」は助辞である。「まく」とは求婚することを言う。【契沖が「しまかん」とよんで、「し」を発語とし、枕を纏(ま)くことに解し、万葉巻二(86)の「磐根四巻手(いわねしまきて)」を引いたのは当たらない。】上巻の八千矛神の歌に「夜斯麻久爾、都麻麻岐迦泥弖(やしまくに、つままぎかねて)」とある。○この歌の意味は、眼前に七人で連れ立って遊び歩いている少女たちの中の、どの少女に天皇は心着いただろうか、と訊ねているのである。それは、この中に伊須氣余理比賣がいるとあらかじめ知らせておいたので、どの少女が彼女と思いますか、という意味である。○「立2其媛女等之前1(そのオトメどものサキにたてりき)」、これは大美和の大神の子だったから、いつも尊ばれていて、ここでも先に立ったのか、母が特に良家の娘だったからか、それとも特に理由はなくて、たまたまこの時先頭にいたのか、解釈はどれでもいいだろう。○御心知(みこころにしれる)云々。大久米命が思った通り、天皇は先頭に立っているのがその姫だと、はっきり見て取ったのだ。○最前は天皇の歌から「いやさき」と読むべきである。【師は「まさき」と読んだがどうだろうか。近世には「真っ先に」と言うことが多いけれども、古言には未だ見当たらない。】上巻の夜見の段に「最後」とあるのも「いやはてに」と読んだ。そこのところ【伝六の二十八葉】を考え合わせよ。○加都賀都母(かつがつも)は「且々も」である。これは事がまだはっきりせず、はつはつに(かすかに)見えていることを言う。たとえば「且々に見える」とは、まだ定かでなく、かすかに見え初めたことである。それははっきり見えるのと、まだ見えないのとの中間の状態だから、「且つ見え且つまだ見えない」という意味で、「且且(かつがつ)」と重ねて言ったのだろう。万葉巻四【四十丁】(652)に「玉主爾、珠者授而、勝且毛、枕與吾者、率二將宿(たまぬしに、たまはさずけて、かつがつも、まくらとアレは、いざふたりねな)」【「勝且毛(かつがつも)」を「玉主爾(たまぬしに)」の前に移して解釈するべきだ。】これは「取りあえず玉主に玉を授けておいて」ということで、玉を授けるのが主たる意図というわけではないが、まあとにかく授けて事を始めたという意味である。【この「勝且」が誤字だというのは、この句を前に移して読むことを知らないのだ。】この他、中昔の物語文にもよく見え、みな同意である。【今の世でも、ものが十分でないのを「かつかつだ」と言うだろう。】○伊夜佐岐陀弖流(いやさきだてる)は「最前(いやさき)立てる」である。普通「いや」という言葉には「彌(弥)」と書き、万葉ではところどころ「u」とも書き、顕宗の巻では「轉」ともある。これらは意味が共通で、同じように聞こえるが、ここは上文に「最前」とあるように七人の少女たちの先頭に立っていたという意味に思われる。【俗言で「一(いっち)に」と言うのと同じだ。】○延袁斯麻加牟(えをしまかん)は「可愛(え)を覓かん」で「し」は助辞である。延(え)は伊邪那岐・伊邪那美の大神が愛袁登古、愛袁登賣と言い合った「愛」を【この「愛」は仮名である。】書紀では「可美」とも「可愛」とも「善」とも書いてある意味で、可愛い少女のことを「可愛(え)」とだけ言ったのだ。そうした例は、下巻の輕太子(かるのみこ)の歌に「宇流波斯登、佐泥斯佐泥弖婆(うるわしと、さねしさねてば)」とある「宇流波斯」は「うるわしい妹」ということである。万葉巻十四【九丁】に「曾能可奈之伎乎、刀爾多弖米也母(そのかなしきを、とにたてめやも)」、また【十九丁】(3451)に「加奈之伎我、古麻波多具等毛(かなしきが、こまはたぐとも)」。また【三十一丁】(3551)に「可奈思家乎於吉弖(かなしけをおきて)」【この「け」は、「き」を東国方言でこう言ったのだ。】などとあるのも、「愛する男」というのを「かなしき」とだけ言っている。これらと同じだ。○以天皇之命(おおきみのみことを)というのは、彼女を娶りたいという詔勅のことである。○黥利目は後の歌から「さけるとめ」と読む。「黥」は単に借字であって、「さける」は「裂ける」である。それは生まれつき裂けているのを言う。誰かが目を裂いたわけではない。【黥は、罪人の顔に入れ墨を入れたことを言い、「めさく」と読む字である。それは目の辺りを裂くので、そう言ったのだろう。だがここでこの字を使ったのは、彼の目が大きくて、裂いたように見えたためか、あるいは見たところ入れ墨を入れた者のように見えたから言ったのか、どちらにせよ借字だろう。黥については、穴穂の宮(成務天皇)の段に「面黥」とあるところで言う。師は冠辞考「みつみつし」の條でこの文を引いているが、この字を「黠」に改めて書いている。確かに黠であれば「慧である」、「堅である」とも注されていて、「さとし」とも「かしこし」とも読むから、黥よりは「利目」の意にふさわしい。だが歌に「さける」とあるのは、疑いなく「裂ける」であり、ここもその言葉の借字に違いないから、やはり「黥」の字だろうと思われる。もし「黠」の字なら、三字続けて「さときめ(賢そうな目)」などと読むべきではなかろうか。しかしここでは目の様子を言っているから、やはり「さける」だろう。思奇(あやしとおもう)というのも、「さとき」ではおかしいだろう。】従ってここは、この命の目が甚だ大きく、裂けているように見えたのを言う。利目(とめ)は、大きくてよく見えている目のことだ。【俗に「目の利(と)き(目がさとい)」というのは、素早く物を見て、様子を瞬時に見て取るのである。それとは少し違って、物を明らかによく見ることを「利」と言っている。ただし煎じ詰めれば、それも同じことで、耳、口などが「利き」と言うのも同じだ。】そもそもこの命の目は、「満々(みつみつ)し久米」と名にあるように【このことは伝十九で言った。】人とは違った目だった。そのため伊須氣余理比賣は見て怪しく思ったのである。○阿米都々(あめつつ)【四音で一句である。】知杼理麻斯登々(ちどりましとと)、この二句は非常に難解だ。だが例によって試みに強弁するなら、鳥の名を四つ並べたのか。というのは、「あめ」は不詳ながら、和名抄に「胡エン(燕の足を鳥に置き換えた字)は『あまとり』」とあり、これを単に「あめ」とも言ったかも知れない。「つつ」は鶺鴒の一名で【それとも「あめつつ」が千鳥の枕詞かも知れないが、その意味は分からない。】「ちどり」は古歌にも例が多いから論ずるまでもない。「ましとと」は書紀の天武の巻に「巫鳥、これを『しとど』と言う」とあり、和名抄にも「鵐は『しとど』」とある鳥で、「眞鵐(ましとど)」ではなかろうか。【「眞」と言うのは「真鴨(まがも)」、「真牡鹿(さおじか)」などの「真」である。】このように鳥の名を並べたのは、鳥の目が丸くて聡しげだから、それに大久米命の目を喩えたのだ。【刀の具に「鵐目(しとどめ)」という言葉があるのも、形が似ているからだ。これらを見ても、この鳥たちが目の形容に似つかわしいと思うべきだ。また天竺の国に舎利佛(しゃりほつ)という僧がいたが、「舎利」は鳥の名(鷺のことという)で、母の目がいかにも明晰で、その鳥に似ていたので、舎利と呼んでいたのを子の名に付けた、ということもある。】いにしえの歌には、鳥をものの喩えに使った例が多い。神代の沼河日女の歌に、「私の心は浦須の鳥です」と言い、八千矛神の歌に「奥つ鳥、胸見る時」、また「群鳥(むらとり)の吾が群れ往(い)なば」、「率鳥(ひけどり)の吾が率け往なば」などとあり、朝倉の宮(雄略天皇)の段に「鶉鳥(うずらとり)領布(ひれ)取り掛けて鶺鴒(まなばしら)尾行令合(おゆきあえ)、庭雀(にわすずめ)うずすまり居て」など、鳥の名を次々に並べた場合もある。だがこの考えにもやはり満足できないところがある。【というのは、鳥を喩えに使うのはもっともだが、それは一つのことに一つの鳥を挙げて喩えるのであって、上記の朝倉の宮の段にある歌も、鳥の名を三つ出していても、それぞれ別のことの喩えだ。ところがここでは、目のことだけを言っているのに、鳥の名を四つも並べているのは、他に例がない。あるいはこの「さける利目」を大げさに強調するため、ことさらに重ねて言ったものか。万葉巻十四(3527)には、「おきにすむ小鴨(おかも)のもころ、八尺鳥(やさかどり)いきづく妹を云々」と鳥の名二つを言った例はある。後の人は、もっとよく考えていただきたい。】○那杼佐祁流斗米(などさけるとめ)は、「何故裂ける利目」である。○この歌の意味は、「あなたの目を見ると、胡エン(燕の足を鳥に置き換えた字)、鶺鴒、千鳥、眞鵐などの目のようだ。どうしてそんなに鋭く裂けた目をしているのか」と質問したのだろう。【この歌を契沖が「『あめ』は天、『つつ』は千鳥を呼ぶ声だろう。あるいは千鳥のことを『つつ千鳥』とも言ったのではないだろうか。倭建命が死んで、八尋の白千鳥になって天を翔けたとあるから、『つつ天千鳥』と呼びかけた意味だろう。『まし』は汝(いまし)で、千鳥を言ったのだろう。『とと』は『つつ』に通じる。これも千鳥を呼ぶ言葉か」と言ったのはすべて間違っている。「つつ」とか「まし」と言って千鳥に呼びかけるというのは、この場面にふさわしくない。また倭建命が死後千鳥になって天を翔けた例はあっても、天千鳥と言ったというのもどうかと思われるうえ、天と千鳥の間に「つつ」という呼びかけの語を挟んで言うはずはないだろう。師はここを五言、六言、七言に読み、初めを「天地(あめつち)」、中の句を「取坐(とりまし)」、最後を「黠(とさ)ける利目」とした。歌の意味は「天地をも手に取るように、賢げな眼差しの勇士」と言ったのだ、と言った。しかし「天地」と言うのに「つ」という助辞を挟むはずはない。もし「地(つち)」の元の言葉を「つつち」だったとすれば、そういうこともあるだろう。延喜式神名帳に、対馬の「都々智(つつち)神社」が載っている。しかしこれは意味が違うだろう。また「天地をも手に取るように、賢げな眼差しの勇士」という意味で「とりましととな」などと言ったのでは、語の調子が整わない。「ととな」はどう解釈しようというのか。しかも「杼」は常に濁音に用いる字で、清音に使った例はないのに、この説だと二箇所ともに清音に読むことになる。師は自分でもおかしいと思ったらしく、誤字があるのではないかと疑っていた。この「杼」の字は、記中「梯」と書いてあるところが多いので、ここも実は「梯」で、清音の「と」か、とも言ったが、梯は「て」の仮名にすることはあっても、「と」に使う字ではない。記中、この字を使った箇所はみな「杼」の誤りである。】○袁登賣爾(おとめに)は「媛女に」ということだ。「あなたに」と言っているわけだ。○多陀爾阿波牟登(ただにあわんと)は「直に会おうとして」ということである。万葉などの歌でも、目の当たりに会うことを「直に逢う」と言うことが多かった。古言である。○和加佐祁流斗米(わがさけるとめ)は「吾が裂ける利目」である。彼女から「どうしてそんなに鋭く裂けているの?」と怪しんで訊ねられたので、「これは天皇のために、あなたを見つけようとして裂けているのですよ」という歌なのだ。○「白2之仕奉1也(つかえまつらんともうしき)」とは、天皇が娶りたいと言ったことを大久米命の歌で聞いたから、それに「承知しました」と答えたのである。○伊須氣余理比賣命(いすけよりひめのみこと)。この比賣の名は全部で十二箇所に出ているが、初めて出たところと、ここの二箇所だけが「命(みこと)」とあり、その他には命という言葉がない。これは大后で次の天皇の御母だから、どこでも「命」と尊称を書いてあるはずなのに、そうでないのは何か理由があるのか、【理由があるなら、逆に二箇所に命と書いてあるのはなぜか。】また理由はないのか。いぶかしいことだ。○狹井河(さいがわ)は延喜式神名帳に大和国城上郡の狹井坐大神荒魂神社(さいにますおおみわのあらみたまのかみのやしろ)」【令義解や四時祭式に「狹井の社」とある。】があるから、そこの川だろう。【大和志に「狹井河は三輪山の源を発し、狹井寺の跡をめぐって箸中村に到り、纏向河に合流する」とある。本当にこの川かどうか、さらに調査の必要がある。】○上は「ほとり」ということだ(川上とか上流ではない)。よく弁えなければいけない。○之許は、師が「がり」と読んだのに従う。【「のもとに」と読むのも悪くない。】万葉巻十四【三十丁】(3536)に「伊可奈流勢奈可、和我理許武等伊布(いかなるせなか、わがりこんという)」【「吾之許(わがり)」である。】また(3538)「己許呂能未伊母我理夜里弖(こころのみイモがりやりて)」、【三十三丁】(3549)に「和我理可欲波牟(わがりかよわん)」など、この他にも例が多い。○一宿は「ひとよ」と読む。○御寢坐也(みねましき)は、玉垣の宮(垂仁天皇)の段にも「爲御寢坐也(みねましき)」とあり、丹後国風土記に「神の御寢坐(みねませる)間に云々」と見え、若櫻の宮(履中天皇)の段には「大御寢坐(おおみねましき)」とある。○註に「佐韋河(さいがわ)」とあるが、延佳が言うには「印本で『佐阿(さあ)』と書き、別本で『韋河(いがわ)』ともある。参考のため補正しておく」とある。【私が見た本でも「韋河」とあり、一本に「佐井河」とあった。これも良くない。】これが正しいだろう。○山由理草(やまゆりくさ)は百合の一種なのだろう。他に例がなく、和名抄でも「百合は和名『ゆり』」と、一種しか挙げていない。万葉の歌では「さゆり」とか「ひめゆり」というのがある。【「やまゆり」は百合の紅い花か。山丹(やまに)というのがそうだと新井氏が言った。そうかも知れない。万葉にある「さゆり」は単なる百合であろう。「さ」は単に添えて言うことが多い。姫百合は別の一種で、「夏の野のしげみに咲る」と詠んでいる(万葉1500か)などは、上記の漢名「山丹」というものと思われる。今の世に姫百合と言うのも山丹だ。「山百合」というのは他に見えないが、木草の名で「山〜」と言う例は多いから、この姫百合も山百合と言ったかも知れない。師は山の字を「少」の誤りだと考えて「さゆり」と読んだ。だが「小夜」、「佐枝(さえだ)」などの「さ」を「小」あるいは「少」などと書いたのは後世のことで、古い書物には例がない。それに諸本みな「山」とあり、「少」と書いたのは一つもないから、どう考えても従うことはできない。】○「山由理草之本名云2佐韋1也(やまゆりくさのもとのなサイといいき)」。新井氏は「百合を『ゆり』と言うのは、韓地の方言と思われる」と言った。そうだったら、本当にいにしえの名は「さい」だったのだろう。師の冠辞考、「さきくさ」の條に、「いにしえ三枝と書いて『さきくさ』と言ったのは『さゆり花』だっただろう」と言い、ここの文を引用して、【その中で山の字を少の字に改めて「さゆり」と読んだことが誤りなのは、上述の通りだ。だが「さゆり」が単に百合のことだったら、山百合を「さゆり」と言うのも、実際上違いはない。ただし「由理」が反伊(「い」の音)だから、「さゆり」と「さい」と音が近い。それで元は同じ名が転訛したと思う人もあるかも知れない。だがそれは間違いだ。その名は本来別である。】「さい」と「さき」とは音が通うと言った。本当にいにしえは、この「佐韋草」を「三枝(さきくさ)」とも呼んで、同じもののことだったのだろう。【今の世に、人名で「三枝」と書いて「さいぐさ」と言うのがある。これは「き」を音便で「い」と言っているのだ。】「韋(旧仮名ゐ)」と「紀(き)」の音が通った例は、書紀の~武の巻で「山城(やまき)の水門(みなと)、またの名は「山井(やまゐ)の水門」とあって、これも同一の名を「ゐ」とも「き」とも言っている。延喜式神名帳に大和国添上郡の率川坐大神御子(いざかわにますおおみわのみこ)神社三座があり、これをある書で「三座の中央がこの伊須氣余理比賣命、左は事代主神、右は玉櫛媛だ」と言っている。その通りだろう。【ただし事代主神というのは、書紀の~武巻の伝えに依っていると思われる。~代巻やこの記の記述からすると、左は大物主神に違いない。「大神御子神」というのとも合う。】すると神祇令に「孟夏(うづき)三枝(さきくさ)祭」、これを令義解で「率川(いさがわ)の社の祭である。三枝の花で酒樽を飾って祭る。そのため三枝と言う」【四時祭式のこの祭の條に、三枝の花のことは見えないが、それは官の御幣に含まれないからである。】とある。その由緒があるからだ。○この註の文には疑問がある。というのは、本文には「狹井河」とあるのに、わざわざ字を変えて「佐韋河」と書いているのはなぜか。後の歌に「佐韋賀波(さいがわ)」と書いてあるのに依るのだろうが、歌はすべて仮名書きしてあるのだから無論だけれど、註は本文のままに書くべきだろう。また「狹井」は地名で、そこにある川を狹井河と呼んだ、ということだろうに、持って回って「佐韋草が多かった」などと説明したのも、どういうことだろう。【あるいは、元は川の名から出て、その付近の地名になったのか。それとも地名の方が草の名から出たのを、ここは川の名の註だから、川の名にも掛けて言ったか。】

 

後其伊須氣余理比賣參=入2宮内1之時。天皇御歌曰。阿斯波良能。志祁去岐袁夜邇。須賀多多美。伊夜佐夜斯岐弖。和賀布多理泥斯。然而阿禮坐之御子名日子八井命。次神八井耳命。次神沼河耳命。<三柱。>

訓読:のちにそのイスケヨリヒメおおみやのちにまいれるときに、スメラミコトみうたよみしたまわく、「あしはらの、しけこきおやに、すがたたみ、いやさやしきて、わがふたりねし。」しかしてアレませるミコのミナはヒコヤイのミコト。つぎにカムヤイミミのミコト。つぎにカムヌナカワのミコト。<みばしら。>

歌部分の漢字表記:葦原の、醜き小屋に、菅疊、いや清敷きて、わが二人寝し

口語訳:後にその伊須氣余理比賣が后として宮に入った時、天皇が最初の出会いの頃を懐かしんで、「昔は粗末な小屋だったけれど、菅畳を清らかに敷いて、二人で寝たものだなあ」と歌った。そうして生まれた御子が日子八井命、次に神八井耳命、次に神沼河耳命である。<三柱である。>

宮内は「おおみやのち」と読む。○御歌曰は「みうたよみしたまわく」と読む。○阿斯波良能(あしはらの)は「葦原の」である。○志祁去岐袁夜邇(しけこきオヤに)は「醜き小屋に」である。「醜(しこ)き」を延ばして「しこけき」と言ったのは、寒き、暑きを「さむけき」、「あつけき」などと言うのと同様だ。【ただしこういった格なら「しこけき」と言うところを「こけ」を入れ替えて「しけこき」と言ったのも、一つの格なのだろう。または上下を誤ったのかも知れない。一本には「去」の字を「志」と書いているが、それも「しき」は「恋しき」、「悲しき」などの「しき」のように思われ、やはり「醜(しこ)しき」の意味になる。この「志祁去岐」について、契沖も師も「繁(しげ)き」の意味だと言った。それは葦原の繁った中にある小屋というのだろうが、その意味なら「葦原のしげみの小屋」などと言わなければ分からない。この言は小屋に付いているから、葦原のことでなく小屋のことなのは明らかだ。】万葉巻四【五十四丁】(759)に「牟具良布能穢屋戸爾(むぐらふのきたなきやどに)」、巻十三【十四丁】(3270)に「刺將焼、小屋之四忌屋爾、掻將棄、破薦乎敷而(さしやかん、おやのしきやに、かきすてん、やれごもをしきて)」、巻十九【四十四丁】(4270)に「牟具良波布、伊也之伎屋戸母、大皇之、座牟等知者玉之可麻思乎(むぐらはう、いやしきやども、おおきみの、まさんとしらばタマしかましを)」などとある。これは上記の狹井河のほとりにあった家である。この比賣の家がそんなに粗末だったはずはないが、天皇の大宮に比べれば、大変小さいものだったから、こう詠んだのだろう。それに上代には、一般に海や川のほとりは葦原だったから、この家の周囲もそうだっただろう。○須賀多多美(すがたたみ)は「菅畳」である。倭建命の段で、弟橘比賣(おとたちばなひめ)命が海に入ろう(自殺しよう)とする時、波の上に菅畳八重、皮畳八重、キヌ(「施」のへんを糸へんに置き換えた字)畳八重を敷いて、その上に降りた、とある。○伊夜佐夜斯岐弖(いやさやしきて)は「彌清敷きて」だ。書紀で「潔身」を「身をさやめて」と読んでいる。「さやめて」は「清めて」ということだ。万葉に「清」を「さや」と詠んでいる、と契沖は言った。「いや」は、ここでは何重にも重ねたという意味だろう。この家は「醜(しき)屋」だったけれども、天皇が寝るのだから、菅畳を何重にも重ね、清潔にしたのだ。【もしこの意味なら、「いやしきさやめ」とか言うべきだろうが、「いやさや」とあるので、別の意味かとも思えるが、何重にも重ねて敷き、清潔だったという歌だから、「清らかに敷いて」という意味である。師は「多く(さわに)」という意味だと言った。「障る」を「さやる」とも言ったから、それもありそうだが、畳とはたくさん重ねることを言うのが本来の意味だから、それをさらに多いという意味で言うのは適当でない。】○和賀布多理泥斯(わがふたりねし)は「朕(わたし)が二人で寝た」ということだ。最後は「き」とありそうなものだが、「し」と言うのは「わが」の「が」の結びの決まりである。【「が」は「の」の格と同じ。】○この歌は、伊須氣余理比賣を宮内に召し入れて共に寝る時、かつての新枕(にいまくら)の頃を思い出し、あんな醜屋に似合わないほど菅畳を重ね敷いて、珍しい旅寝の夜を過ごしたことだなあと詠んだのだ。○阿禮坐(あれませる)は「生坐」で、生まれたということだ。「阿禮」という言葉の意味は、新(あら)、現(あら)と通う。生まれると言うのは身が新たに成ることで、また現れることでもある。【「うま」を縮めると「あ」だから、「あれ」は「うまれ」のことだ、と思うのは違う。「うまれ」は「所レ産」であって、言葉の元が異なる。】明の宮(應神天皇)の天皇が生まれたのも「その御子は阿禮坐(あれまし)き」とある。続日本紀一に「天皇の御子阿禮坐牟(あれまさん)、彌繼々(いやつぎつぎ)に」と見え、月次祭の祝詞にも「阿禮坐皇子等乎毛惠給比(あれまさんみこたちをもめぐみたまい)」とあり、万葉巻一【十六丁】(29)に「阿禮座師神之盡(あれまししかみのことごと)」、巻六【四十二丁】(1047)に「阿禮將座御子之嗣繼(あれまさんみこのつぎつぎ)」などと見える。書紀の允恭の巻にも「皇后は大泊瀬の天皇を産んだ」とある「産」を「あらします」と読んでいるのは、「生坐(あれまさ)しむ」ということだ。【「阿禮坐」とはその御子を主語として言い、「生まれた」という意味だ。母を主語として言うなら「あらします」と言う。「生坐(あれまさ)しむ」からだ。また「生む」は母が主語になっているから、その子を主語にするには「生まれる」と言う。「所レ生」ということだ。だから古い書物で「生」の字を書いたところには、この区別がある。母を主語に「某生レ某」と言う時は、親が子を生むのだから、「うむ」とか「あらします」などと読む。子が主体だったら、子が生まれたので「うまる」とか「あれます」と読む。それを世人はこの区別が分からず、どちらが主語になっていても「あれます」というのが古言だと思っているのは間違いである。何でも文字に頼るから、古言にはこうした区別があることを知りようもない。こうしたたぐいの間違いが多い。例を一つ二つ挙げると、「賜う」と「賜る」を混同し、「遣わす」と「遣わされる」を混同する。みな誤りである。「賜う」は賜う人が主語になり、「賜る」はそれを受ける人が主語である。「遣わす」は使いに遣る人が主語で、「遣わされる」は使いに出された人が主語だ。言葉遣いは、こうした例に準じて学ぶべきである。】○日子八井命(ひこやいのみこと)。新撰姓氏録には「彦八井耳(ひこやいみみ)命」とある。【旧事紀も同じ。】「八井」という意味は分からない。弟の「沼河(ぬなかわ)」という名から考えると、字の意味の通りだろうか。この御子については、後で論じる。○神八井耳(かむやいみみ)命。名の意味は、「八井」は上記と同じ。「耳」は上巻の忍穂耳命で言ったように尊称である。次の御子も同じだ。書紀の綏靖の巻に「四年夏四月、神八井耳命が死んだ。畝傍山の北に葬った」とある。【この墓については、大和志に「高市郡山本村にある。御陵山と言い、かたわらに小さな祠がある。岩井耳と称する」とある。山本村は畝火山の近辺にある。】○神沼河耳(かむぬなかわみみ)命。「沼河」は書紀によって「ぬなかわ」と読む。上巻には沼河比賣という名があった。万葉巻十三【九丁】(3247)に「沼名河之底奈流玉(ぬなかわのそこなるたま)」とあり、延喜式神名帳に越後国頸城郡、奴奈川(ぬなかわ)神社がある。和名抄の郷名に「沼川は『ぬなかわ』」とある。これからすると、「な」は「の」の意味ではないだろうか。【浄御原の天皇(天武)の名の天淳中原瀛眞人(あめのぬなはらおきのまびと)、淳中は「ぬな」と読む、とある。これも「中」は借字で、同じ意味だろう。】だが「沼河」とは沼のように水がよどんで深い川のような所を言うのか、あるいは砂でなく泥で濁った川なのか。またこの名は、どこかの川の名に因むのか、兄の名の「八井」もこれも、称え名になった理由があるのか、単なる地名か。詳細は分からない。書紀によると、「庚申年九月壬午朔己巳、姫蹈鞴五十鈴媛命を召し納(い)れて正妃とした。辛酉年(翌年)春正月庚辰朔、天皇は橿原宮で帝位に即(つ)いて、この年を天皇の元年とし、正妃を尊んで皇后とした。皇后は皇子神八井(かむやい)命、神淳名川耳(かむぬなかわみみ)尊を生んだ」とある。【書紀に上古の御代御代に皇后を立てたことなど、こう詳細に「某年某月某日」と月日まで書かれているのは、極めて疑わしい。そのことは別に「眞暦考」で論じた。参照せよ。またはっきりと「皇后とした」などというのも、漢国の習いであって、皇国の上代にそんなことがあったはずはない。皇后はいつからと言うこともなく、自然に皇后になったのである。神八井耳命は、綏靖の巻ではこの記と同じように「耳」の字があるが、ここにないのは、後に脱落したためか、あるいはこの記に「日子八井命」という名もあるから、初めから「耳」を省いて言うこともあったのか。】

 

故天皇崩後。其庶兄當藝志美美命。娶2其嫡后伊須氣余理比賣1之時。將レ殺2其三弟1而謀之間。其御祖伊須氣余理比賣患苦而。以レ歌令レ知2其御子等1。歌曰。佐韋賀波用。久毛多知和多理。宇泥備夜麻。許能波佐夜藝奴。加是布加牟登須。又歌曰。宇泥備夜麻。比流波久毛登韋。由布佐禮婆。加是布加牟登曾。許能波佐夜牙流。於レ是其御子聞知而。驚乃爲レ將レ殺2當藝志美美1之時。神沼河耳命曰2其兄神八井耳命1。那泥<此二字以レ音>汝命。持レ兵入而殺2當藝志美美1。故持レ兵入以將レ殺之時。手足和那那岐弖<此五字以レ音>不2得殺1。故爾其弟神沼河耳命乞=取2其兄所レ持之兵1。入殺2當藝志美美1。故亦稱2其御名1謂2建沼河耳命1。

訓読:かれスメラミコトかむあがりましてのちに、そのまませタギシミミのミコト、そのおおぎさきイスケヨリヒメにたわくるときに、そのミバシラのオトミコたちをしせんとハカリごつほどに、そのみおやイスケヨリヒメうれいまして、うたよみしてそのミコたちにしらしめたまえりし。そのミウタ。さいがわよ、くもたちわたり、うねびやま、このはさやぎぬ、かぜふかんとす。また、うねびやま、ひるはくもとい、ゆうされば、かぜふかんとぞ、このはさやげる。ここにそのミコたちききしりまして、オドロキてすなわちタギシミミをしせんとしたまうときに、カムヌナカワミミのミコトそのいろせカムヤイミミのミコトにもうしたまわく、「ナネ、ながミコト、ツワモノをとりていりてタギシミミをしせたまえ」ともうしたまいき。かれツワモノをとりていりてしせんとしたまうときに、てあしワナナキてエしせたまわざりき。かれここにそのいろとカムナナカワミミのミコトそのいろせのもたせるツワモノをこいとりて、いりてタギシミミをしせたまいき。かれまたそのミナをたたえてタケヌナカワミミのミコトとももうしき。

歌部分の漢字表記(旧仮名):
狹井河よ、雲立ちわたり、畝火山、木の葉騒(さや)ぎぬ、風吹かんむとす
畝火山、晝は雲とゐ、夕されば、風吹かむとぞ、木の葉騒げる

口語訳:天皇が死ぬと、御子たちの庶兄の當藝志美美命は伊須氣余理比賣を犯し、弟の御子たちを殺してしまおうと謀った。伊須氣余理比賣は苦慮して、歌を詠んで御子たちに知らせた。その歌は、「狹井河の方から、雲が湧き起こる。畝火山では木の葉が騒いでいる。風が吹こうとしているようだ」。また「畝火山は、昼は雲が覆い、夕べになれば、風が吹こうとしているのか、木の葉が騒ぐことだ」。御子たちはこれを聞いて、その意味を知り、驚いて當藝志美美を殺してしまおうと思った。この時、神沼河耳命は兄の神八井耳命に「お兄さん、武器を持って當藝志美美の部屋(寝所)に入って、殺してしまいなさい」と言った。そこで神八井耳命は武器を持って當藝志美美の部屋に入ったが、いざ殺そうとすると、手足がぶるぶる震えて、殺すことができなかった。そのため弟の神沼河耳命が兄の持っている武器を受取り、部屋に入って當藝志美美を殺した。そこで彼の名を称えて「建沼河耳命」とも言う。

庶兄は新撰字鏡に「庶兄は『まませ』」とある。こう読む。【上巻に「庶兄弟」とあったのは、単に「あにおとども」と読んだ。それは異母兄弟すべてを言う言葉に、「まま某」という言葉を知らないからだ。また書紀の綏靖の巻で庶兄を「いろせ」、用明の巻で庶弟を「はらから」と読んでいるのなどは、みな間違いだ。】また同書では、嫡母を「ままはは」、テイ?(白+丁)は「ままいも(異母妹)」などとある。【漢国では、「庶」の字は、「嫡」に対して言う。嫡妻の生んだ子を嫡子と言い、妾が生んだ子を庶子と言う。だから庶兄とは、嫡妻が生んだ弟から見て、妾が生んだ子を呼ぶ名である。ここではその決まりの通りに庶兄と書いてある。だが皇国では、嫡・庶を言わず、異母兄弟はいずれも「まませ」、「ままおと」と言ったらしいことは、新撰字鏡に嫡も庶も「まま」とあるのでも分かるし、和名抄に「継父は『ままちち』」、「継母は『ままはは』」と見え、昔も今も、なさぬ子(自分が生んだ子でない子)を「ままこ」と言い、なさぬ仲の親子を「まましき仲」と言う。】○嫡后は「おおぎさき」と読む。前文に大后とあるのと同じだ。○娶は、ここでは「たわく」と読む。書紀に「通」【景行の巻、允恭の巻】、カン(へんは女二つを縦に書き、つくりは干)【允恭の巻】、淫【安康の巻】など、みなそう読む。およそ男女の性交が義に反して行われることを「たわく」と言ったようだ。新撰字鏡に「カン(へんは女二つを縦に書き、つくりは干)は亂であり犯淫である。『たわく』」とある。【同書に「淫は『たわる』」ともあり、これも元は同じ言葉だろう。万葉巻二十に「多波和射(たわわざ)」とあるのも、また「狂(たぶれ)」もみな同言で、もともと男女のことだけでなく、あらゆる事に言ったのだろう。】この當藝志美美命が嫡后を犯したことは、書紀には出ていない。疑わしいことだ。この次に嫡后が思い悩んで歌で御子たちに知らせたことなどから見ると、まだ犯すには至っていないけれども、力尽くでも犯そうと思って、夜這いしたことを「たわく」と言ったのかも知れない。【「よばう」、「つまどい」などと言うのも、既に性交した場合も、まだ性交に至らない場合にも言うから、「たわく」も同様ではなかろうか。また上巻には「將婚(よばい)」、「欲婚(よばい)」などとも書いてあり、ここでも性交しようとしたことを言うから、將という字、あるいは欲という字を書くべきなのに、単に娶とあるからには、あるいはもう性交したということだろうか。もしくは書紀では綏靖天皇の御母だったから、そのことを忌み嫌って書かなかったのか。ただ書紀の伝えでは、天皇の元年に皇后となって、七十六年に天皇が死んだ時には非常な高齢で、そんな事実があったはずもない。しかしこの記の伝えでは、この大后がどれくらいの年齢で后になったか書かれておらず、およそ書紀の年数は、強いて論じることができないことも多いので、どうとも決めることができない。この御名に「命」という尊称を省いて書いている例が多いのは、そういうみだらな事があったため、当時から貶める傾向があったのかも知れないし、當藝志耳命の名も、この後では「命」を落として書いていることも考えるべきだ。しかし、たとえそういうことがあったとしても、大后が心から同意して交わったわけでなく、當藝志耳命の無理強いに抵抗しがたかったのは、歌でその悪事を間接的に御子に知らせたことでも分かるだろう。】○三弟は、「みばしらのオトみこたち」と読む。前に挙げた三柱の御子である。○將殺は「しせんとして」と読む。上巻沼河比賣の歌に、「伊能知波、那志勢多麻比曾(いのちは、ナしせたまいソ)」とある。【「命はナ殺し給いソ」である。】水垣の宮(崇神天皇)の段に「奴須美、斯勢牟登、・・・宇迦迦波久斯良爾(ぬすみ、しせんと、・・・うかがわくしらに)」【「ひそかに弑(しい)しようと伺っていることを知らずに」ということだ。】などと見え、書紀のいろいろな巻に「弑」、「殺」を「しせまつる」と読んでいる。「しせ」は「死なせ」の縮まった語で、「殺す」ということの古言である。【「弑」の音から出た語ではない。】○謀之間は「はかりごつほどに」と読む。独り言を言うのを「ひとりごつ」、政をするのを「まつりごつ」と言うのと同様で、謀をするのを縮めてこう言う。書紀では、「神日本磐余彦天皇が死んだ時、神淳名川耳尊は親思いの性質が深く、純粋に悲しみ、特に葬礼のことを気に掛けた。その庶兄、手研耳命は年長で、天皇の仕事を長く一緒に行っていたため、いろいろのことをすべて手研耳命に委ねていた。しかし彼は心がねじ曲がっていて、葬礼の間も自分の思うままに振る舞い、ついには二人の御子を殺してしまおうと思うようになった。太歳己卯の冬十一月、神淳名川耳尊は兄の神八井耳命と相談して、彼の意図を知り、防ごうと思った。山陵のことが終わると云々」とある。【大后の生んだ子は三柱の御子だから、天津日嗣はこの御子たちの誰かであることは論ずるまでもないのだが、それを手研耳命が殺そうとしたのは、自分が皇位に就こうとしたからである。大后を犯そうとしたのはそれ以上にひどいことだ。】○御祖、いにしえには御母はみな御祖(みおや)と言った。このことは前に述べた。○患苦は「うれいて」と読む。上巻にも「その御祖、哭(な)き患(うれ)いて」とあった。○以歌は「うたよみして」と読む。【「うたもて」と読むのも悪くはない。】○佐韋賀波用(さいがわよ)は「狹井河より」である。この川のことは前に言った。「用」を延佳本で「由」と書いたのはよくない。このことも前に述べた。○久毛多知和多理(くもたちわたり)は「雲起ち亘り」である。これは狹井河から雲が立つのでなく、【狹井川に雲が立ち昇るのは、白檮原の宮から見えない。】その方からという意味である。都から狹井川は東北の方にある。その方角から雲が立ち起こるのを、この姫の生まれ故郷だから、女性の感じ方として、それをいつも狹井川の方と思っていたから、こう詠んだのだ。○宇泥備夜麻(うねびやま)は畝火山である。○許能波佐夜藝奴(このはさやぎぬ)は「木の葉騒ぎぬ」だ。木の葉がさやさやと騒ぐのだ。万葉巻二【十九丁】(133)に「小竹之葉者、三山毛清爾、亂友(ささのハは、みやまもさやに、さやげども)」【「清」は借字だ。】巻十【三十八丁】(2134)に「葦邊在、荻之葉左夜藝、秋風之、吹來苗丹、鴈鳴渡(あしべなる、おぎのはさやぎ、あきかぜの、ふきくるなえに、かりなきわたる)」、古今集十九(1047)に「小竹の葉のさやぐ霜夜を」などと詠んでいる。上巻に「葦原中國者、伊多久佐夜藝弖(正字は氏の下に一)有祁理(アシハラのナカツくには、いたくさやぎてありけり)」【伝十三の五葉】この段では前にも同じ言葉があった。また須勢理毘賣の歌に、「多久夫須麻、佐夜具賀斯多爾(たくぶすま、さやぐがしたに)」ともある。【伝十一の五十一葉】○加是布加牟登須(かぜふかんとす)は風が吹こうとしているということだ。○この歌全体の意味は、狭井川の方から雲が立ち渡って、大宮のほとりの畝火山の木の葉が騒ぐのを見て、風が吹こうとしていることを知った、という叙景で、これに喩えた裏の意味は「當藝志美々の方では、謀計をめぐらしているぞ、お前たちを殺そうとしているぞ」と言ったのであり、雲が立ち木の葉が騒ぐのは、謀計をめぐらす喩え、風が吹こうとしているというのは、殺そうとする喩えだ。【雲の立ち昇る方を「狹井川より」と詠んでいるから、當藝志耳命の家がその方にあったのかとも思われるが、そこまでの意味はないだろう。彼の家がどこにあったかは分からないが、書紀では片丘にあった大室(正字は穴かんむりに音)で寝ていたという。片丘は葛下郡にあるから、畝火山の西に当たる。この室は、そこにあったか。それが家ではなくとも、その付近に住んでいたのだろう。これからすれば、都の東北ではなかったと考えられる。ところで雲の立ち渡るのは風が吹きそうな様子と言えるが、木の葉が騒ぐのは、もう風が吹いているわけで、これから風が吹こうとしているという意味にはならないだろうと思う人があるかも知れないが、そういう風に細かに詮索するのは後世の考え方である。木の葉が騒ぐのは、風が吹くことに関係したことだから、そう詠んだのだ。こうした点は、いにしえには大らかに詠んでいた。また風は山上から吹き始めて、山下へ吹き下ろすものだから、山上の木の葉の騒ぐのが見えて、まだ山下に吹いていない時の歌だとも言えようが、それはあまりにもくだくだしい議論だ。】○又歌曰は、単に「うた」と読む。○比流波久毛登韋(ひるはくもとい)は「昼は雲と居」で、「雲と居」とは雲でいることを言う。夕べには風になりそうな雲が、昼の間はまだ雲のままでいると言うのだ。「居」とは立ち騒いだりせず、山際に掛かって留まっていることである。【突然黒雲が起こって、激しい雨が降りそうな気配があるのに、結局雨は降らないで、風が吹き出してその雲は晴れ上がって行く、といったことはよくあることだ。これも雲が風になったのである。師はこの句を「雲のように居るのである。または『たち』を縮めると『ち』になるが、それを通わせて『と』と言ったのか。それなら『雲立居』だ」と言ったが、これは二つ共によくない。「雲のように居る」とは、何が雲のようなのか。また「立居」などという言葉はないだろう。そうだったら立っており、且つ居て(静かに坐って)もおりすることになる。ここはとにかく静まっている意味でなくてはならない。】○由布佐禮婆(ゆうされば)は「夕去れば」で、夕方になれば、といった意味だ。万葉に多い詞である。「明け去れば」、「朝去れば」、「春去れば」、「秋去れば」、また「春去りぬれば」などとも言い、「夕さらば」、「春さらば」、「秋さらば」なども言い、「夕去り来れば」、「春去りくれば」、「春去りにけり」、「春去り往く」とも、様々に言う。みな「去る」とはその時になることを言う。【過ぎ去ってしまったという意味ではない。「春去往(はるさりゆく)」と言うのも、春になって行くということで、「春去りにけり」と言うのも「春になった」という意味である。】今の世の俗言でも、夜を「夕さり」、「夜(よ)さり」などと言うのは、これから出た言葉だろう。○この歌は當藝志美々が昼の間は意志を押し隠して、さりげない風を装っているのを雲が静まっている様子に喩え、夕べになればお前たちを殺そうと謀っているぞということを、風が吹こうとして木の葉が騒いでいる様子に喩えたのである。○聞知(ききしり)とはこの歌を聞いて、その意味を知ったのだ。○「爲レ將レ殺2當藝志美々1之時(タギシミミをしせんとしたまうときに)云々」。書紀に「(神武天皇の)山陵のことを終わって、弓部(ゆげ)の稚彦(わかひこ)に弓を作らせ、倭鍛部(やまとのかぬちべ)の天津眞浦(あまつまうら)に眞カゴ(鹿の下に弭)鏃(まかごやのさき)を作らせ、矢部(やはぎ)に箭を作らせて、弓矢がそろった時、神淳名川尊は手研耳命を射殺そうと思った」とある。○兄は「いろせ」と読む。その説明は伝九【二十六葉】にある。○那泥(なね)は人を親しく、かつ尊んで呼ぶ名である。書紀神代巻に「阿姉(なねのみこと)」と見え、万葉巻四【五十丁】(724)に自分の娘を「名姉(なね)」と言い、【今の本は読みを誤っている。】巻九【三十二丁】(1800)に「妹名根(いもなね)」と言っている。普通にも男には「兄(あに)」、女には「姉(あね)」と言うから、「なね」は女に限った呼称のように思われるだろうが、ここで兄をそう呼んでいるから、男にも使う呼び名で、【「いろね」も女を呼ぶ言葉のようだが、安寧天皇の御子に常根津日子伊呂泥(とこねつひこいろね)命という名があるから、やはり男にも使う言葉だ。】「泥(ね)」は、天津日子根など、よくある「ね」だ。○汝命は「ながみこと」と読むことは前【伝七の五葉】で言った。○兵は、和名抄に「兵庫寮は『つわもののくらのつかさ』」とあるから、「つわもの」と読む。刀、鉾のたぐいの総称だ。書紀で「鉾刃」、「兵器」、「兵仗」、「兵革」などをみなそう読んでいる。【漢国でも「兵」の字はもと「械である」とも「戎器である」とも注され、その意味だったのを、その兵を取り扱う人も「兵」と呼んだ。それも誤って「つわもの」と読んだので、後世には勇士の呼び名のようになり、「強者」の意味に解して、刀や鉾の類(武器)のことだと分からないようになった。皇国では、いにしえに人を「つわもの」などと言うことはなかった。書紀などで人を指して言う「兵」、あるいは「卒」をそう読むのは誤りである。それは「いくさびと」などと読むのがよい。】名の原義は「鐔物(つみはもの)」である。【和名抄に「鐔は『つみは』」とある。】匠具、農具その他にも、色々な道具で刀や鉾と同様のものは多いが、鐔が付いているのは兵器だけだ。だからこう言うのである。【「つみは」の「み」を省き、「つは」と言うのは、後世に鐔を「つば」と言うのと同じだ。ところで書紀では、ここで新たに武器を作ったことが出ており、ついには「彼を射殺した」とあるから、ここに「兵」とあるのも弓矢だろうか。もしそうなら、刀・鉾のたぐいから転じて、弓矢なども(鐔はないが)同じように「つわもの」と言ったのだろうか。ただしこの記の伝えは弓矢でなく、刀や鉾の類かも知れない。○諸々の器物を一般に「うつわもの」と言うから、兵器も元は「うつわもの」と言い、本来は器物の総称だったのが、特別に兵器の名になったのだろうか。または兵器の方が本来で、それが器物の総称になったのか。どちらにせよ「うつわもの」と「つわもの」は元は同じ語のようで紛らわしいが、初めから別の言葉であって、「うつわもの」は坏(つき)のたぐいで、空埴物(うつはにもの)の意味だったのを「に」を省いて言ったのだ。これは、土師(はにし)を「はじ」と言うのと同じである。物を中に入れるために、中空に作るからだ。だが後には土で作ったわけでなくても、容器の総称になったのだ。】○持は「とりて」と読む。書紀の神功の巻に「荷持、これを『のとり』と読む」とある。【しかし、「もちて」と読むのも悪くない。】○「故持レ兵(かれツワモノをとりて)」は神八井耳命の行為である。○和那那岐弖(わななきて)は、書紀には「戦慄(ふるいおののき)」とある。神功の巻に「戦々栗々(おじわななく)」、清寧の巻に「慄然振怖(おじおののく)」、敏達の巻に「搖震(わななきふるう)」、皇極の巻に「動手(てわななく)」、「掉戦(ふるいわななく)」などの語があり、新撰字鏡には「悸は動である。また惶である。『わななく』」とあり、また「コウ(りっしんべんに告)はセン(りっしんべんに戦)である。『わななく』、あるいは『おののく』」とあり、この他物語文でもよく出てくる語である。【「わ」と「を」は特によく通う音で、「をののく」も同言である。俗言で体が震えることを「わだわだ」とも「をどをど」とも言うが、これも同じだ。】○弟は「いろど」と読む。下巻、若櫻の宮(履中天皇)の段に「伊呂弟(いろと)」とあるのと同じ。○書紀には「このとき手研耳命は片丘の大ムロ(穴の下に音)の中で、一人大きな床に寝ていた。渟名川耳尊は神八井耳命に「今がいい機会だ。このことは誰にも言うな。事は慎重を要する。この陰謀は誰も参加していないから、今日の事は私と兄さんだけのことだ。私がまずムロの戸を開ける。兄さんは彼を射殺してくれ」と言った。そこで連れだって入った。神渟名川耳尊はその戸を突き開けた。神八井耳命は手足が震えて、矢を射ることができない。そこで神渟名川耳尊がその兄の所持する弓矢を受け取り、手研耳命を射た。一発は胸に当たった。二発目は背に当たった。こうして遂に彼を殺した」という。【ここで「大ムロ中に寝て」とあるから、この記に「持兵入而云々」、「持兵入云々」、「所持之兵入云々」と三度も「入る」と言ったのは、當藝志耳がその中にいたからか。それとも大した意味はないのか。また三箇所共に、「入」の字が「兵」の字に続いているのは、他の意味があるのか。これは参考のために言っておくだけである。】○「亦稱2其御名1謂2建沼河耳命1(またたたえてそのミナをタケヌナカワミミのミコトとももうす)」。これは元の名の「神」を「建」と改めたというのでなく、このことによって、またの名としてこうも呼んだということである。頭の「亦」の字に、その意味が見えている。だから次のこの命のくだりでは、また「神」と書いてある。「建沼河耳命とも申す」と読むべきである。大毘古命の子にも「建沼河別(たけぬなかわ)命」の名がある。

 

爾神八井命讓2弟建沼河耳命1曰。吾者不レ能レ殺レ仇。汝命既得=殺2仇1。故吾雖レ兄。不レ宜レ爲レ上。是以汝命爲レ上。治2天下1。僕者扶2汝命1。爲2忌人1而仕奉也。

訓読:ここにカムヤイミミのミコトいろとタケヌナカワのミコトにゆずりてもうしたまわく、「アはアタをエしせズ。ナがミコトすでにエしせたまいヌ。かれアはアニなれども、カミとあるべからず。ここをもてナがミコト、カミとまして、あめのしたしろしめせ。アレはナガミコトをたすけて、イワイビトとなりてつかえまつらん」ともうしき。

口語訳:その結果、神八井命は弟の建沼河耳命に位を譲って、「私は敵を討つことができなかった。だがあなたは見事に敵を討った。私の方が兄だと言っても、人の上に立つべきではないだろう。あなたが上に立って、天下の政を執れ。私はあなたを助けて、齋人として仕えよう」と言った。

讓(ゆずりて)という言は、仏足石歌に「由豆利麻都良牟(ゆずりまつらん)」とある。○得殺仇は「えしせたまいぬ」と読む。「仇」の字は読まない。「仇を」という言葉は上にあるから、ここでもう一度言うのは煩わしいだけだ。また「得殺」とあるのを、普通なら「殺すことを得(う)」と読むが、それは漢文読みである。「えしせ」というのこそ古言だ。このことは前に述べた。○雖兄は「あになれども」と読む。【この「兄」を「いろせ」などと読んでは良くない。】○不宜爲上は「かみとあるべからず」と読む。この「上(かみ)」はこの兄弟の間の上下を言うのでなく、天下の万人の上ということで、天皇になることを言う。一つの姓の中で長となった人を氏上(うじのかみ)と言い、【氏の長者と同じ。】長子を「子の上(かみ)」と言い、【兄の字を「このかみ」と読むから、一人に限らないように思うだろうが、そうではない。漢字の意味にとらわれて、本来の意味を見失ってはならない。】諸々の官僚の長官も「かみ」と言い、これらも諸々の人がある中で最上の地位にあることを言って、同じ意味だ。そして「爲」を「とある」と読むのは、「たる」と言うのと同じである。「たる」は「とある」が縮まった語だ。だから「たる」と言うところで「とある」と言うのは、古言に多い。【こういう「たる」、「たり」に二種類ある。体言(名詞)に下に付いている場合は、みな「とある」、「とあり」のことだ。ただし漢文で「瑟兮カン(イ+間)僩兮(ヒツたりカンたり)<出典は『大学』>」など言うのは用言(形容詞)の下に付くけれども、字音そのままで活用しないので、体言と同じようにやはり「とある」の縮まったものである。用言の下に付くのは、一般に「てある」、「てあり」の縮まった語だ。「言いたり」、「聞きたり」などと言うのはこれである。「〜たらん」、「〜たれ」などと活用するのも、上記の二種だ。】○汝命爲上(ながみことかみとまして)。この爲上は「かみとまして」と読む。普通の人なら「あり」、「ある」と言うところを、尊んで言う時は「ます」と言う例である。続日本紀の宣命に「皇坐弖天下治賜君者(スメロギとましてアメノシタおさめたまうきみは)云々」、また「君坐弖御宇事(キミとましてアメノシタしろしめすミコト)云々(弖の正字は氏の下に一)」などとあり、この他も皆そうである。○上代には、日嗣の御子というのは一人に限らなかったから、【このことは前にも言ったし、この後にも言う。】神八井命も神沼河耳命も、ともに日嗣の御子だった。この時は、どちらが皇位に就くか、まだ決まっていなかったから、こういう議論をしたのだ。前もって決まっていたら、こんな事を論じることはないはずだ。それを書紀では「四十二年春正月壬子朔甲寅、皇子神淳名川耳尊を立てて、皇太子とした」とありながら、この場面では「於レ是神八井耳命懣然自服、讓2於神渟名川耳尊1曰、吾是乃兄、而懦弱不能致果、今汝特挺神武、自誅2元惡1、宜哉乎、汝之光=臨2天位1、以承2皇祖之業1。<口語訳:この時、神八井耳命は恥じて神淳名川耳尊に譲り、『私は兄ではあるが、臆病で敵を討つことができなかった。お前は勇気があって、見事に敵を討った。確かに、お前こそ天の位を引き継ぐにふさわしい』と言った>」とあるのは、奇妙に思う。【というのは、既に神沼河耳命が皇太子に決まっていたのなら、皇位を継ぐことは議論の余地がないのに、ここでいまさら「譲曰(ゆずりてもうさく)云々」などとあるのはどういうことか。また「宜哉乎(うべなるかもよ)云々」というのは、以前から定まっていたようにも取れるが、そうだったらなおさら「譲曰」という語に合わない。ここは「哉乎」の二字を省いて、「宜C汝之光=臨2天位1以承B皇祖之業A」などと書くべきだ。書紀の「某年某月某日某を立てて皇太子とした」というのは、上代の記事はすべて疑わしいが、ここに「宜哉乎」と書いたのは、上文の立太子の記事とつじつまを合わせようとしたのだろう。】上代には、武勇をもって天下を治めたということが、この段でよく分かる。○僕は「あれ」と読む。【前にも「吾者(あれは)」とあり、書紀にも「吾」とある。】○忌人は師が「いわいびと」と読んだのが良い。この読みは、黒田の宮(孝霊天皇)の段に「いわいべ」を「忌瓮」と書いてあるので納得せよ。「いわう」と「いむ」は、元は同じ言葉で「齋」の字を書くこともあり、【後世では「忌」を「いむ」とばかり読んで、「いわう」には「齋」、「祝」とばかり書くようになったが、「齋」は「ものいみ」とも読むことから、同言だと分かる。】諸々の凶事、汚穢を忌み避けて、万事に慎むことである。だから多くの場合は神に仕えることを言う。【後世には「いわう」とはもっぱら吉事を寿(ことほ)ぐことを言い、「いむ」とは単に嫌い悪んで遠ざけることにのみ言って、まるで反対の意味のように思われている。しかし寿ぐことは、その対象となる人や物を良かれと願うので、凶悪なことを遠ざけ、慎む意味から転じた。嫌い悪んで遠ざけることを「いむ」と言うのも、凶悪なことを遠ざけるのだから、意味は同じだ。】書紀の~武の巻に「時勅2道臣命1、今以2高皇産靈尊1朕親作2顯齋1、用レ汝爲2齋主1(ときにミチノオミのミコトにミコトノリすらく、いまタカミムスビのミコトをもて、われみずからウツシイワイをなさん。イマシをもてイワイのウシとして)・・・顯齋、此云2于圖詩怡破毘1(顯齋、これをウツシイワイという)」、また~代巻(第九段)に「是時齋主神號2齋之大人1(このときのイワイヌシのカミをイワイのウシという)。齋、此云2伊幡毘1(齋、これをイワイという)」とある。【この訓注の中で、今の本で「齋」の字の次に「主」という字があるのは誤りである。これは「齋之大人」の齋に対する訓注であって、「いわい」としか書かれていないから、「齋主」の訓ではない。後人が賢しらに加えたのだろう。この文を「齋主と齋之大人とは同じ言葉なのに、こんな風に言っているのはどうか」と疑う人もあるが、よく分かる文だ。「齋主」とはその時の職務の名で、「齋之大人」はその神の名となった由縁を言っている。後世まで香取の神の名を「いわいぬしの神」と呼んでいることで理解せよ。】などとあり、万葉巻七【四十丁】(1403)に「三幣帛取、神之祝我、鎭齋杉原(みぬさとり、みわのはふりが、いわうすぎはら)」、巻十四【廿丁】(3460)に「爾布奈未爾、和家世乎夜里弖、伊波布許能戸乎(にうなみに、わけせをやりて、いわうこのとを)」、など、他にも多い。ここの忌人は、書紀にも「私はお前を助けて、神祇者(いわいびと)となって仕えよう」とあり、天皇が自ら行う神事を助ける職を言う。それは、上代には神事を最も重要な業として、【職員令でも神祇官を第一として。太政官より先に書いてあるなどは、上代の意が残っていたのである。後世は、何事もこうありたいものだ。】書紀の上記の引用文中にも「朕親作2顯齋1」と見え、神功の巻には「皇后は吉日を選んで齋宮に入り、自ら神主となった」ともあって、天皇は自ら神に仕えたので、【後世まで、大嘗にはこの様式が残っている。】その扶助をするのは、たいへん重要な役目であった。上文に「扶2汝命1」とあり、書紀にも「爲2汝輔1」とあるのに注意せよ。【「齋主」と言わずに「齋人」と言ったのはなぜかと言うと、齋主というのは中臣、忌部などが諸々の神職を率いて務める職だから「主」と言うのだ。ところがここで神八井耳命が仕える内容はそうでなく、天皇が自ら行う神事を助ける方の役目だから、「主」とは言えない。】○仕奉(つかえまつらん)は、神事に仕えることと見るか、天皇に仕えると見るか、いずれにしても違いはない。

 

故其日子八井命者。<茨田連。手嶋連之祖。>

訓読:かれそのヒコヤイミミのミコトは、<マンタのムラジ、テシマのムラジのおや。>

口語訳:その日子八井命は、茨田連、手嶋連の先祖である。

日子八井命(ひこやいのみこと)。書紀にはこの御子の名はない。新撰姓氏録には「神八井耳命の子、彦八井耳命」と言う名がある。【その文は後に引く。旧事紀にも名は「彦八井耳命」とあって、神淳名川耳尊の弟としている。】そこで思うに、この人が白檮原朝の御子だとすれば、兄弟たちが當藝志耳を討った場面で、この名も見えるはずだが、そこには二人の名しかないから、書紀の伝えが正しく、新撰姓氏録にある通り、実は神八井耳命の子なのではないだろうか。それをこの記でその兄としているのは、混同して伝えたのだろう。それは、この人が長命で、武勇があったなどの理由で、父に比べて名高かったからだろう。だから新撰姓氏録に茨田連などは、直接に神八井耳命の子孫と書かず、その子、彦八井耳命の子孫だと書いたのは、その氏々が、こちらを本祖と伝えていたからと思われる。○茨田連(まんたのむらじ)。茨田は河内国にある地名で、そこから出た姓である。その地は、下巻に茨田堤とあるところ【伝三十五の十五葉】で言う。この姓は、高津の宮(仁徳天皇)の十一年に茨田堤を築いた時、河内の人で茨田連衫子(ころものこ)という人物が功績を立てたと書紀にあり、継体紀にも茨田連小望(おもち)という名が見える。天武の巻には、「十三年十二月戊寅朔己卯、茨田連に宿禰の姓を与えた」とある。新撰姓氏録の河内国皇別に、「茨田宿禰は多朝臣と同祖、彦八井耳命の子孫で、苣呂母能古(ころものこ)は、仁徳天皇の御代に茨田堤を作った」とある。【苣呂母能古の名を、今の本で「男野現宿禰」と書いているのは誤りである。古い本によって改めておいた。】また続日本紀に、「文武天皇二年八月戊子朔、茨田の足島(たるしま)に連の姓を与えた」、【万葉巻廿(4359の後)に茨田連沙彌麻呂(さみまろ)という人名が見える。】また新撰姓氏録の右京皇別に「茨田連は多朝臣と同祖、神八井耳命の子、彦八井耳命の子孫である」、続日本後紀に「承和六年四月壬子朔庚申、右京の人、正六以上茨田連魚麻呂(いおまろ?)ら七人に姓を与えて、忠宗朝臣とした」。また新撰姓氏録の山城国皇別、茨田連は茨田宿禰と同祖、彦八井耳命の子孫である」ともある。【この他にも同書の河内国皇別に「下家連は彦八井耳命の子孫である」、また「江首(えのおびと)は彦八井耳命の七世の孫、來目津彦(くめつひこ)大雨の宿禰、大碓命の子孫である」、また「尾張部は彦八井耳命の子孫である」などとも見える。これらは茨田連から分かれた氏だろう。○新撰姓氏録の撰者、萬多(まんた)親王の名は乳母の姓を取ったのである。それはこの氏の人だったかも知れない。この名も、初めは「茨田」と書いていたのを、後に「萬多」と改めたのだ。】○手島連(てしまのむらじ)。手島は和名抄に「摂津国豊島【手島】郡、豊島は『てしま』」とある。この地からでた姓である。新撰姓氏録の摂津国皇別に、「豊島連は多朝臣と同祖、彦八井耳命の子孫である。日本紀に漏れている。【松津首は豊島連と同祖】」とある。

 

神八井耳命者。<意富臣。小子部連。坂合部連。火君。大分君。阿蘇君。筑紫三家連。雀部臣。雀部造。小長谷造。都祁直。伊余國造。科野國造。道奧石城國造。常道仲國造。長狹國造。伊勢船木直。尾張丹羽臣。島田臣等之祖也>

訓読:かむやいみみのみことは、<おおのオミ、ちいさこべのムラジ、さかいべのムラジ、ひのキミ、おおきだのキミ、あそのキミ、つくしのみやけのムラジ、さざきべのオミ、さざきべのミヤツコ、おはつせのミヤツコ、つけのアタエ、いよのくにのミヤツコ、しなぬのくにのミヤツコ、みちのくのいわきのくにのミヤツコ、ひたちのなかのくにのミヤツコ、ながさのくにのミヤツコ、さのくにのミヤツコ、いせのふなきのアタエ、おわりのにわのオミ、しまだのオミらがオヤなり。>

口語訳:神八井耳命は、<意富臣、小子部連、坂合部連、火君、大分君、阿蘇君、筑紫三家連、雀部臣、雀部造、小長谷造、都祁直、伊余國造、科野國造、道奧石城國造、常道仲國造、長狹國造、伊勢船木直、尾張丹羽臣、島田臣等の先祖である。>

意富臣(おおのおみ)。意富は地名で、和名抄に「大和国十市郡、飫富(おお:旧仮名オホ)」とあり、【今の本では「飫」を誤って「飯」と書いてある。上総国望陀郡の飫富も「飯」に誤っているが、読みが「オフ(旧仮名)」となっているので、誤っていることが分かる。大和にある地名もこれに準じて知るべきだ。今も十市郡に多村というのがあり、「太」とも書く。延喜式神名帳に「多坐彌志理都比古(おおにますみしりつひこ)神社」があり、臨時祭式に「太社(おおのやしろ)、あるいは多社に作る」とあるのがそうである。この社は、今も多村にある。この氏神ではないだろうか。】これから出た姓である。書紀にも「神八井耳命は・・・これは多臣の始祖である。」と見え、景行の巻に「多臣の先祖、武諸木(たけもろき)」、天智の巻に「多臣蒋敷(こもしき)」、天武の巻に「多臣品治(ほんじ)」などの名が見えて、同巻の十三年十一月戊申朔、「多臣に朝臣の姓を与えた」とある。新撰姓氏録の左京皇別に「多朝臣は、諡~武の皇子、神八井耳命の子孫である」とある。古事記の撰者、太朝臣安麻呂はこの氏の人である。【万葉巻十七(3926の後)には太朝臣徳太理(とこたり)という名も見える。】三代実録に、貞観五年九月五日、「右京の人散位、外従五位下、多臣自然麻呂(じねんまろ)に朝臣の姓を与えた。信濃国諏方郡の人、右近衛の將監、正六位上、金刺舎人貞長に、大朝臣の姓を与えた。いずれも神八井耳命の子孫である」とある。○小子部連(ちいさこべのむらじ)。小子の読みは、和名抄に越中国婦負郡の郷名、小子は「ちいさこ」とあるのによる。この姓の人は、書紀の雄略の巻に「少子部連スガル(螺および贏の下の「貝」を「虫」に置き換えた字:ス・ガルかスガ・ルか不明)」【七年に、この人は天皇の命令で三諸岳の雷神を捕らえた勇気により、雷(いかづち)という名を賜った。新撰姓氏録に「小子部雷」とあるのはこの人である。この故事は日本霊異記に詳しく載っている。<訳者註:書紀の記事と日本霊異記の記事は、内容がかなり異なっている>】天武の巻に小子部連ショ(金+且)鉤(さいち)」という名も見える。同巻の十三年十二月戊寅朔己卯、小子部連に姓を与えて宿禰とした」、新撰姓氏録の左京皇別に「小子部宿禰は多朝臣と同祖で、神八井耳命の子孫である。大初P幼武(おおはつせのわかたけ:雄略)天皇のとき、諸国に使わされて、蚕(こ)を集めよと命じられたが、命を聞き誤って小児を多数集めてきた。天皇は大笑いして、姓を小兒部連とせよと言った」とあり、また和泉国皇別に「小子部連は、神八井耳命の子孫である」ともある。○坂合部連(さかいべのむらじ)、坂合は「さかい」と読む。書紀には「境」とも書かれている。【一般に境は坂合の意味である。】だがこの姓がここに出ているのは納得がいかない。というのは、新撰姓氏録の大和国皇別に、「坂合部首は阿倍朝臣と同祖で、大彦命の子孫である。允恭天皇の御代、国境の標(しるし)を作って立てたことに因み、坂合部連の姓を賜った」【連の姓を賜ると書きながら、この姓(かばね)を書いてないのはどうしたことか。脱落だろうか。】また左京神別に「坂合部宿禰は、火明命の八世の孫、邇倍足尼(にえのすくね)の子孫」、右京神別に「坂合部宿禰は、火闌降命の八世の孫、邇陪足尼の子孫」ともあり、【火明命と火闌降命と伝えが違っている。】和泉国神別には「坂合部は、火闌降命の七世の孫、夜麻等古(やまとこ)命の子孫である」ともある。皇別と神別と、二つの坂合部氏があるけれども、神八井耳命の子孫としたのは見当たらない。上記の一つか二つが紛れて、ここに挙げたのではないだろうか、書紀の雄略の巻には、坂合部連、贄(にえ)宿禰、【これは神別の方だ。】推古の巻に「境部臣摩理勢(まりせ)、境部臣雄摩呂(おまろ)【これらは臣姓だから別の氏か。】孝徳の巻には坂合部連磐積(いわつみ)、斉明の巻に同磐鍬(いわすき)、藥(くすり)、石布(いわしき)などの名がある。天武の巻十三年十二月に「境部連に宿禰の姓を与えた」【これらは皇別の方か、神別の方か分からない。】と見える。○火君(ひのきみ)。【「火」の字は、本によって「大」、「炊」、「エン(火二つを横に並べた字:炎の俗字という)」などに誤っている。今は延佳本他一本によった。】「火」は地名で、筑紫の肥の国である。名の由来などは上巻【伝五の十一葉】で述べた。そこで引いた肥後国風土記に、「肥君らの先祖、健緒組(たけおぐみ)」とある。これはこの氏の先祖だろう。書紀の欽明の巻十七年には、筑紫の火の君が見える。【これも今の本は火を大に誤っている。】国造本紀に「火国造は、瑞籬朝(崇神天皇)、大分国造と同祖、志貴多奈彦(しきたなひこ)命の子、遲男江(ちおえ?)命を国造に定めたとある。【大分国造と同祖とあるから、この氏だろう。】新撰姓氏録【右京皇別】に「火は、多朝臣と同祖」、また【大和国皇別】に「肥直は、多朝臣と同祖、神八井耳命の子孫である」とある。【景行紀(四年二月條)に火國別(ひのくにのわけ)、また(十二年十二月條)に火國造とあるのは別姓である。】○大分君(おおきだのきみ)。大分は地名、書紀の景行の巻に、「十二年天皇は遂に筑紫に到り、豊前国に・・・冬十月、碩田国に到った。その地はたいへん広大で、うるわしかった。そこで碩田と名付けた。碩田、これを『おおきだ』と読む。」とあるのがそうだ。風土記にも同じ記事がある。和名抄には「豊後国大分郡は『おおいた』」とあるが、「き」を「い」と言ったのは、後の音便である。【大隅国桑原郡にも大分郷があるか、それではない。】「きだ」を「分」と書くのは、「段(きだ)」の意味だ。この氏の人は、書紀の天武の巻に大分君惠尺(えさか)、同稚臣(わかみ)【この臣は「見」とも書く。】が見える。壬申の乱で功績のあった人物だ。○阿蘇君(あそのきみ)。阿蘇は地名で、和名抄の「肥後国阿蘇郡【あそ】阿蘇郷」がこれである。書紀の景行の巻に「十八年六月、阿蘇の国に到った。その国は広遠で、人の姿が見当たらなかった。天皇は『一体この国に人はいるのか』と言った。すると突然阿蘇都彦(あそつひこ)・阿蘇都媛(あそつひめ)の二柱の神が人の姿になって現れ、『われら二人がいるのに、どうして人がいないと言うのか』と言った。そこでその国を阿蘇と名付けた」とある。国造本紀には、「阿蘇国造は、瑞籬朝に、火国造と同祖、神八井耳命の孫、速ミカ(瓦+并)玉(はやみかたま)命を国造に定めた」とある。【延喜式神名帳に「肥後国阿蘇郡、健磐龍命(たけいわたつのみこと)神社、名神大、阿蘇比刀iあそひめ)神社、國造(くにのみやつこ)神社」とある。国造本紀科野国造の條に、「神八井耳命の孫、建五百建(たけいおたけ)命」とあるのは、健磐龍と同名と思われる。阿蘇の社伝では、「本宮の武磐龍命は神八井耳命の子である。阿蘇姫神は武磐龍命の妃で、速甕玉(はやみかたま)命の母である。國造神は速甕玉命で、武磐龍命の子である。一説には神八井耳命の子であるとも言う」とある。書紀の、人になって出現した阿蘇都彦は、健磐龍命の神霊だろう。阿蘇山については、筑紫風土記に「肥後国閼宗(あそ)縣、その坤(西南)の方二十余里に、一つの禿げ山がある。これを閼宗岳という」とある。】○筑紫三家連(つくしのみやけのむらじ)。三家は「みやけ」と読む。「みやけ」のことは、日代の宮(景行天皇)の段で倭屯家(やまとのみやけ)とあるところ【伝二十六の三十三葉】で言う。筑紫の屯家は、書紀の継体の巻に糟屋屯家(かすやのみやけ)、【糟屋は筑前にある】安閑の巻に「二年五月、筑紫に穂波の屯倉、鎌の屯倉などを置いた」とあり、宣化の巻に筑紫・肥・豊の三国の屯倉は散在して互いに隔たっている」など、所々に出ている。また安閑の巻に「櫻井田部連(さくらいのたべのむらじ)、縣犬養連(あがたのいぬかいのむらじ)、難波吉士(なにわのきし)らに、屯倉の税を管掌させた」とあるから、この姓は筑紫の屯家を管理していたことから出たのか、または三家という地名にちなむのか。地名は和名抄に「筑前国那珂郡三宅、筑後国上妻郡三宅」などが見える。書紀の天武の巻には、「筑紫の三宅連得許(とこ)」という人名も見える。○雀部臣(さざきべのおみ)。「さざきべ」と読む。【「さざいべ」と読むのは、後の音便だ。】新撰姓氏録の和泉国皇別に「雀部臣は、多朝臣と同祖、神八井耳命の子孫である。」【また志紀縣主は雀部臣と同祖】と見える。建内宿禰の子孫にも雀部臣があって、新撰姓氏録のその條に「雀部」と言う由縁が挙げられている。【その分はそのところで引く。】あるいはこの氏にも、同じような由縁があるのかも知れない。地名では、和名抄に「參河國寳飫郡、雀部『ささべ』」、「上野國佐位郡、雀部『ささいべ』」、「丹波國天田郡、雀部」などがある。○雀部造(さざきべのみやつこ)。この名は他に見えない。○小長谷造(おはつせのみやつこ)。小長谷というのは、雄略天皇の名が大長谷と言うのに対し、武烈天皇を小長谷若雀(おはつせのわかさざき)命といったことに因む。その段に、「天皇には子がなかったので、御子代(みこしろ)として小長谷部を定めた」【書紀には小泊瀬(おはつせ)の舎人を置いたとある。】とある。するとこの名は、神八井耳命の子孫で、その小長谷部に住んでいた人が姓としたのだろう。【大和国の長谷を歌で「小長谷」と詠んでいるが、これはその地名から直接出た姓ではない。】書紀の仁徳の巻に、「小泊瀬造の先祖、宿禰臣(すくねのおみ)に賢遺臣(さかしのこりのおみ)という姓を与えた」、天武の巻に十二年九月乙酉朔丁未、小泊瀬造に姓を与えて連とした」とある。【続日本紀十三に小長谷の常人(つねひと?)、廿九に小長谷部の宇麻呂(うまろ)、日本後紀十九に小長谷直浄足(きよたり)などの人名が見える。これらも小長谷部から出た姓だろう。】○都祁直(つけのあたえ)。都祁は地名で、【この「祁」は清音である。濁ってはいけない。】和名抄に「大和国山邊郡、都介(つけ)、【続日本紀六に「大倭国、都祁之道を開いた」、延喜式神名帳に「山邊郡、都祁山口(つけのやまのくち)神社」、主水式に「山邊郡、都介」なども見える。】これである。書紀の仁徳の巻に、「闘鶏(つけ)の稲置、大山主(おおやまもり)」、允恭の巻に「闘鶏国造の姓を貶めて稲置とした」とある。【仁徳の巻に出たのと允恭の巻のとは、同じ姓と思われるのに、仁徳の巻で国造と言わず、稲置と書いてあるのはなぜだろう。あるいは初め稲置だったのが、允恭天皇までに国造になったのか、それとも貶められた後の姓を、古い時代にも及ぼして書いたのか。<訳者註:仁徳は允恭の三代前>】これらもこの氏と同じかどうか分からない。【地名は、都祁と闘鶏は同じである。】○伊余國造(いよのくにのみやつこ)。伊豫國のことは上巻【伝五】に出た。和名抄に「伊豫国伊豫郡」とある。【延喜式神名帳に「伊豫郡、伊豫神社、名神大」、「伊豫豆比古命(いよつひこのみこと)神社」、続日本紀廿七に「久米郡、伊豫の神」ともある。】国造本紀に「伊余国造は、志賀の高穴穂の朝(成務天皇)の御世、印旛国造と同祖、敷桁彦(しきたなひこ)命の子、速後上(はやのちあがり)命を国造に定めた」とある。【「印波国造は、輕島の豊明の朝(應神天皇)の御代、神八井耳命の八世の孫、伊都許利(いつこり)命を国造に定めた」とある。印旛は下総国に含まれ、郡名になった。】○科野國造(しなぬのくにのみやつこ)。信濃国のことは、上巻【伝十四】に出た。国造本紀に「科野国造は、瑞籬の朝の御世、神八井耳命の孫、建五百建命を国造に定めた」とある。○道奧石城國造(みちのくのいわきのくにのみやつこ)。道奥は、書紀の斉明の巻にも道奥と書かれており、また「陸道奥(みちのく)」とも書かれている。万葉巻十四(3427)、巻十八(4094)に「美知能久」と見える。【「の」に「お」の音が含まれるので、「お」は省かれる。】和名抄には、「陸奥は『みちのおく』」とある。【古今集顯注密勘にいわく、「陸奥国と書いて『みちのおくのくに』と読む。歌では『みちのおく』を略して『みちのく』とも書く。俗に『みちのくに』と言うのは、歌の詞でない。まして『むつの国』などと言うのはひどい。『陸』を『むつ』と言うのだと思うが、『みち』と読むのだという。『陸』を『むつ』と言うというのは、数の六(リクまたはロク)にこの字を借りるからで、この国名の『みち』を『むつ』と訛るのは、これと混同したのである。」】奥は口に対して、「道の口、道の後」の後(しり)と同じである。都から行くのに、その地方の初めのところ(都に近い方)を道の口と言い、終わりの方(遠い方)を後(しり)とか奥と言う。陸奥は東北の果てにあって、実に道の奥というのにふさわしい。【筑紫でも、大隅や薩摩を「奥」と呼んだことが、檜垣の家集に見える。また陸奥国でも黒川郡より北の方を「奥の郡」と呼ぶことが、大同五年の官符に見える。同様に源氏物語の若菜の巻に播磨国の中で、この国の奥の郡という言葉が見える(明石入道の物語の部分)。】石城(いわき)は、和名抄の「陸奥國磐城郡」とあるのがそうだ。【「いわき」とある。この郡の内に、磐城郷もある。名取郡、宮城郡、桃生郡にも磐城郷があるが、それらではない。】後には郡や郷になった地も、いにしえには国と言った例が多い。【春日国、吉野国、難波国などと言い、長谷小国(はつせおぐに)などとも言った。】また国と言いながら、重ねて地方の総称の「陸奥」も書いているのは、書紀の敏達の巻に「火葦北國造(ひのあしきたのくにのみやつこ)」などの例がある。続日本紀八に、「養老二年五月甲午朔乙未、陸奥国の石城、標葉(しねは・しめは)、行方(なめかた)、宇太、亘理、菊多の六郡を分割して石城国を置いた」とあるのは、後のことである。【今の本で、ここの「陸奥」を「常陸」と書いているのは誤写である。ここは古い本によった。】類聚国史に「天長三年、外正六位上、磐城臣藤成(ふじなり)に外従五位下を授けた」とあるのはこの氏の人か。国造本紀に「石城国造は、志賀高穴穂の朝の御世、建許呂(たけころ)命を国造に定めた」とあるのは別の氏である。【というのは、同紀に師長(しなが)、須惠、馬來田(まくた)などの国造のところに「茨城国造の先祖、建許呂命云々」とあり、その茨城国造のところには「天津彦根命の孫云々」とある。茨城国造は書紀の神代巻に出ていて、天津彦根命の子孫だ。常陸国風土記にも「茨城国造の祖、祈許呂命」とある。この「祈」は「祁」の誤記で、上に「多」が脱けているのだろう。すると建許呂命というのは、天津彦根命の子孫ということになる。】○常道仲國造(ひたちのなかのくにのみやつこ)。「常道」は「常陸」のことだ、万葉巻廿【二十六丁】(4366)に「比多知(ひたち)」、和名抄に「常陸は『ひたち』」【「ひた」に「常」という字を書くのは、万葉巻十八(4064)に「等能乃多知波奈、比多底里爾之弖(とののたちばな、ひたでりにして)」とあって、常に変わらず照るということを「ひたでり」と言っている。この意味である。巻十三(3295)にも「常土(ひたつち)」という語がある。今の本では「常」を「當」に誤っている。「ち」に「陸」を書いているのは、陸奥の陸と同じく、陸道の意味だ。古今集顯注密勘に「常陸は『ひたかち』を『ひたち』と言うのだ。陸を『かち』とも読む」と言ったが、契沖は「陸を『かち』と読む例は知らない。『ひたち』は『ひたみち』だ」と言った。これが正解だろう。古歌に「東道(あずまち)の道のはてなる常陸」と詠んだのは、東海道の果てだからだ。】常陸国風土記に「往来の道路は江海(湖や海)の渡りで隔てられず、郡郷の境は山河の峯や谷で陸続きになっている。そこで近通の意味で『ひたみち』と名付けた<訳者註:岩波日本古典文学大系本では「近通」を「直通」の誤りとしている>」【これは「常道」ということだ。】また「一説には、倭武尊が東夷を巡って征討したさい、新治の縣を通過する時、国造の毘那良珠(ひならす)命を遣わして新しい井戸を掘らせたところ、水が清らかに澄み、たいへんすばらしかった。そこで輿を停めて水を味わい、手を洗った。そのとき、衣の袖が泉に垂れて濡れた。そこで袖を『ひたす』意味でその国の名とした。国人の諺に『筑波岳(つくばね)に黒雲掛かり、衣袖漬(ひだち)の国』というのは、これである」ともある。「仲」は和名抄に「常陸国那珂郡」とあるのがそうである。【この郡の内に那珂郷もある。】国造本紀は、「仲国造は志賀穴穂の朝の御世、伊豫国造と同祖、建借馬(たけかしま)命を国造に定めた」と言う。○長狹國造(ながさのくにのみやつこ)。和名抄に「安房国長狹郡は『ながさ』」とあるのがそうだ。【続日本紀に「養老二年五月甲午朔乙未、上総国の平群、安房、朝夷、長狹の四郡を分けて、安房国を置いた」とあるから、元は上総国に含まれていたらしい。あるいは、上記の「常道」は、この長狹にも言ったのか。もしそうだったら、上代には上総、下総、安房を呼ぶ総称として、「常道」と言ったのかも知れない。これは試みに指摘しておくのである。上総国夷隅郡(スミの正字は、さんずい+先二つの下に鬲)にも長狹郷がある。また同国望陀郡に飫富神社がある(現在の飯富町にある大井神社のことか)。長狹国造の祖神だろう。】○伊勢船木直(いせのふなきのあたえ)。船木がどこにあるのか、未詳である。【神鳳鈔に志摩国船木原の御厨がある。志摩国は、いにしえには伊勢国と同じように見なされたから、これかも知れない。また多気郡には、今の世に舟木村というところがある。】和名抄では、他の国にこの地名が時々見える。たぶんこれはみな船を作る木材を伐採していたところだろう。【書紀の推古の巻廿六年に、安藝国の山で船材(ふなき)を伐採させたことが見え、和名抄に「同国安藝郡船木は『ふなき』」とある郷は、この地だろう。○続日本紀廿八から卅六まで、船木直馬養(うまかい)という人の名が見え、日本後紀一に船木直安麻呂が見えるが、これらは越前国の人で、他の氏である。】○尾張丹羽臣(おわりのにわのおみ)和名抄に「尾張国丹羽【にわ】郡とあるのがそうだ。【この郡の内に丹羽郷もある。また延喜式神名帳に同郡、爾波(にわ)神社も載っている。】続日本紀十七に丹羽臣、眞咋(まくい)という名の人が見える。○島田臣(しまだのおみ)。和名抄に尾張国海部郡、嶋田郷があり、これである。【延喜式神名帳には、「同国中嶋郡、大神社(おおのかみのやしろ:おおじんじゃ)、名神大」、臨時祭式に「大はあるいは多とも書く」と見え、文徳実録五に「尾張国多の天神」、三代実録卅に「尾張国多の名神」などとあるのは、みなこの神社のことだ。丹羽臣、嶋田臣などは多臣から分かれたので、その祖神だろう。】続日本紀卅七に嶋田臣宮成(みやなり)という人の名がある。新撰姓氏録右京皇別に、「嶋田臣は多朝臣と同祖で、神八井耳命の子孫である。五世の孫、武惠賀前(たけえがさき)命の孫、仲臣(なかのおみ)子上(こがみ)は、稚足彦天皇【諡は成務】の御代、尾張国島田の上下二縣に荒ぶる神がいたのを、子上を派遣して平らげさせた。復命の時に、名を島田臣と改めさせた」【仲臣は子上の姓で、あるいは仲国造氏か。尾張に多神社があり、丹羽臣も同祖だから、この子上が悪神を平らげた功績により、嶋田の地を賜って、そこに住んだのだろうか。もしそうなら丹羽臣も同じくこの子上の子孫かも知れない。】文徳実録七に「嶋田朝臣清田・・・弘仁十四年、臣の姓を改めて朝臣とした」とある。【清田は、続日本後紀八にも見え、同十六に嶋田朝臣貞繼という人の名も見えて、この人は類聚国史では弘仁元年の條にも朝臣とある。】これら十九の姓の他にも、新撰姓氏録には「右京皇別、志紀首は多朝臣と同祖で、神八井耳命の子孫である。」、「園部は同氏」、「河内国皇別、志紀縣主は多朝臣と同祖で、神八井耳命の子孫である。」【この氏の人三人に宿禰姓を与えたことが、三代実録六に見える。】「紺口(こむく)縣主は、志紀縣主と同祖云々」、「志紀首は志紀縣主と同祖云々」などと見える。

 

神沼河耳命者治2天下1也。

訓読:かむぬなかわみみのみことはアメノシタしろしめしき。

口語訳:神沼河耳命は天下を治めた。

書紀の綏靖の巻に、「元年春正月壬申朔己卯、神淳名川耳尊は天位に着いた。この年、太歳庚辰」とあるから、父の天皇が崩御してから三年を過ぎている。【神武天皇の元年が辛酉とあり、崩御の年七十六年となっているから、丙子に当たっている。それから丁丑、戊寅、己卯と三年過ぎて庚辰になる。】すべて上代のことは年紀にこだわっても仕方がないが、この御代の初めを三年の後としたのには、何か拠り所があったように思える。【その理由は分かりようもないが、あれこれ考えると、】「神日本磐余彦天皇が死んだ時、神淳名川耳尊は孝心が深かったので、悲慕してやむことなかった。特に葬礼のことに意を尽くした。その庶兄、手研耳命は・・・遂に諒闇の終わりに到ると、威をほしいままにして、二人の弟を殺してしまおうと思うようになった。そして太歳己卯の冬十一月・・・山陵のことを終えて云々」とあるから、手研耳命の害意から、御陵に葬ることも四年になるまで【子年から卯年までは四年である。ところが~武紀の最後に、「崩御の翌年秋九月に葬った」とあるのは、ここと食い違っている。】延び延びになってしまい、その間は、どの御子が次の天皇になるかを決めることもできずにいたのを、ついに手研耳命を殺して、世の中が静まり、神八井耳命が位を譲ったことで、やっと位が定まったのではなかろうか。【ある人がこの即位が遅かったのは、三年の喪が明けてからということだと言ったが、それは漢国の儒教の考えだ。皇国では、その頃三年も喪に服することはなかった。】

 

凡此神倭伊波禮毘古天皇。御年壹佰參拾漆歳。御陵在2畝火山之北方白檮尾上1也。

訓読:すべてこのカムヤマトイワレビコのスメラミコト、みとしモモチマリミソナナツ。ミハカはうねびやまのきたのかたカシのオのうえにあり。

口語訳:この神倭伊波禮毘古天皇は、死んだ時百三十七歳だった。陵は畝火山の北、白檮の尾の上にある。

記中、各御代の終わりのところで、死んだ時の年齢や陵を書く場合、多くは「この天皇は御年云々」、または「天皇は御年云々」などとあるのだが、このように「凡此」と凡の字を置いてあるのは、これ以外では訶志比の宮(仲哀天皇)の段の終わりに「凡此帯中津比古天皇之御年云々」とあるのと、軽嶋の宮(應神天皇)の段の終わりに「凡此品陀天皇御年云々」とあるのだけだ。【この「凡」の字は、普通では理解できない。「おおよそ」と言っても、「おおかた」と言って、「すべて」と読んでも、みな古語の決まりに合わない。適当な読みが見当たらないのだ。そこでつらつら考えてみると、】ここでしばらくこの天皇のことを離れて、他のことを長々と語り、最後にその御代の一段を総括した言葉と思われる。だから「すべて」と読んでおく。それは上巻で「すべて伊邪那岐・伊邪那美二神で生んだのは、島が十四島、神三十五神」という「すべて」は、島や神々を次々と生んだ最後に、それを総括して言う言葉だった。また日代の宮(景行天皇)の段で、皇子たちを挙げた最後に「すべてこの大帯日子天皇の御子たちは、記録したのが廿一王、この記に入れなかったのが五十九王、合わせて八十王である」とあるのも同じだ。これらは「すべて」ということが当然だが、ここではそうした例と少し違うけれども、事の締めくくりに言っているという点では似ているから、やはりその意味から転じて言ったのだろう。【年数を数え上げるという点で似ているのかとも思ったが、物の数を「すべていくら」といった風には言うけれども、寿命や年数は、そんな言い方はしない。】○壹佰參拾漆歳は「ももちまりみそななつ」と読む。【「歳」の字は、漢文では書くけれども、皇国ではいにしえから今に至るまで、人の年数を「何歳」とは言わず、単に「幾つ」と言う。これこそ古言だ。】書紀には「七十六年春三月甲午朔甲辰、天皇は橿原の宮で死んだ。このとき年百二十七歳」とある。この記とは十歳の違いがある。初めから伝えが異なるのか、それとも「二」と「三」、「廿」と「卅」など、よく間違う字だから、古い写本で間違えたのかも知れない。今、どちらが正しいかは決められない。○穂陵は「みはか」と読む。理由は上巻【伝十七の八十四葉】で言った通りだ。○北方は「きたのかた」と読む。【師は、「方」をすべて「べ」と読んだが、ところによるだろう。いつも「べ」と読むのが古言だと決め込んではいけない。】○白檮尾上は「かしのおのうえ」と読む。【「白檮の尾」の上という意味で、白檮の「尾の上」ではない。】万葉巻廿【六十一丁】(4507)に「多加麻刀能乎能宇倍乃美也(たかまとのオのうえのみや)」とある。【「う」を省いて読むのも悪くない。だがまた、「おのえ」と読むのばかりが古言と思ってはいけない。】山で「お」と言うのに、「峯」と「尾」の二通りある。「尾」は鳥獣の尾と同じく、山すそが長く引いているところを言う。このことは、朝倉の宮(雄略天皇)の段に、「向かいの山の尾から、山の上に登った」とあるところ【伝四十二の八葉】でさらに言う。白檮の尾とは畝火山の北面の尾で、白檮の木がたくさんあったからこの名が付いたのだろう。「上」と言うにも本当の上を言うのと、「ほとり」と言うのとの二通りある。「うえ(旧仮名ウヘ)」とは裏表(うらうえ)と言い、裏は内で表は外であり、上も「ほとり」もいずれも外面に当たるから、もとは同意であった。【ともに「う」を省いて「へ」とも言う。だが後世には「うえ」は上、「へ」は「辺」の意味に使い分けて、二つの言葉になった。また「邊(辺)」の字は邊裔、邊垂(いずれも辺境といった意味)などと言い、中央でなく端の方を言う。しかし「ほとり」と言うのは、物の表面のことでもある。】ここの「うえ」は上のことを言う。書紀には「翌年秋九月乙卯朔丙寅、畝傍山の東北の陵に葬った」とある。諸陵式に「畝傍山の東北の陵は、畝傍の橿原の宮で天下を治めた神武天皇の陵である。大和国高市郡にあり、兆域は東西一町、南北二町、守戸五烟」と見える。この御陵の所在は、今は不詳である。ただし綏靖天皇陵と伝えているのこそ、【里人は主膳塚と呼ぶ。綏靖を訛ったのだろう。また綏靖塚とも呼ぶ。】綏靖でなく、【綏靖天皇の陵については、そこのところで言う。参照せよ。】この~武天皇陵だろう。それは山本村の西、慈明寺村の南に続く高い場所で、つまり畝火山の西北の方にある岡の上であり、まさに尾の上と呼べる地形だ。【これは山の西北に当たるから、書紀や諸陵式に東北と書いてあるのと違うが、御陰(みほと)井上陵(安寧天皇)も、この山の西にあるのを、書紀では南と書いてあるような間違いもあるから、必ずしも東北とあるのに固執すべきではない。諸陵式は、書紀の記事のままに書いたのだろう。この記では北の方ともあるのだ。松下氏(見林)の「前皇廟陵記」に、この御陵について「ここ百年ほど壊れて糞田となり、百姓はその田を『~武田(じぶでん)』と呼ぶ。おそろしく汚いところで、痛哭の極みだ。数畝を余して一封としている。・・・そもそも神武天皇は、神代の草昧の後を引き継いで東征し、中州を平定して王道をここに開いた。わが国の億兆の君臣は、その廟陵を尊崇するのが当然だろう。澆季(末世)もここに至ったかと、悲憤に堪えない」とある。大和志にも「四條村にある」とある。これらが言うのは、四條村の一町ほど東で、畝火山からは五、六町も東北の方に当たり、田圃の中のわずか三、四尺ほどの高さの小丘であって、松が一本、桜が一本生えている。誰でもここをこの御陵の跡と思うかも知れないが、そうではない。まず地形が「白檮の尾の上」などと言えない。久しい時の後には山が平らになることもあるが、それでもやはり山には見えるものなのに、ここの地形は全く違う。山とは全く離れており、その間に山の尾が崩れたような小高い所も見当たらない。最初から平地だったように思われる。上代の王陵を今見ると、築造当時そのままの姿で残っているところもある。暴かれ破壊されて、内部の様子まで見えるようなことも多いが、どれも高く大きく、山のような姿をしている。内部もいい加減ではなく、築造時はさも厳めしく立派だったと推測されるのに、この地はまるで上代の御陵の跡には見えない。同じ山のほとりでも、安寧、懿徳の御陵はそれぐらい高く大きいのに、この御陵だけがそんなに粗末なはずがないだろう。これはやや近い時代になって、馬鹿者がたまたま畝火山の東北に小さい丘を見つけ、根拠もなくこう定めたのだろう。しかし白檮の尾の上とあるのも考えず、他の上代の御陵の様子も知らないで、非常に軽率なことである。】昔、承和の頃ですら、成務天皇の陵を神功皇后と誤っていたことが、続日本後紀に出ているから、まして最近の世では、間違ってしまうことはありそうなことだ。歴代の御陵は、上代の諸々の定めや、祭の様式など、どうなっていたのだろうか。詳しいことは分からない。書紀の天武の巻には、壬申の乱の時、神霊のお告げによって「高市郡の大領、高市の縣主許梅(こめ)を遣わして、神日本磐余彦天皇の御陵を拝祭させた。そのため馬や兵器を奉った」という記事が見える。これは臨時のことだが、御陵を祭り、幣帛を奉ったことが、書物に見える初めである。【この後も、決まった奉幣などの式は必ずあっただろう。】続日本紀に、神亀五年八月、皇太子が病になったため、使いをやって諸陵に幣帛を奉った」【これは御陵に祈りを捧げたことが物の本に出た初めである。】また年号が天平と改まった時、諸大陵に使いをやって幣帛を奉ったとある。【当時、取り分けて「大陵」と言ったものがあったのかどうかは分からない。】「同二年九月、使いをやって、渤海からの貢ぎの品を山陵六箇所に献げさせた」【これは外国からの貢ぎの品を御陵に奉ったことが本に見える初めである。六箇所というのは、どことどこだったのだろう。】などと見える。職員令に「諸陵の司は、正(かみ)が一人、陵の霊の祭り、【義解に、「十二月に荷前(のさき。諸国からの貢ぎもので、その年の初物)の幣を奉る」というのがこれである】喪葬のことや凶礼のこと、諸陵および陵戸の名籍などを掌る。佑(まつりごと人)一人、史一人、土師(はにし)十人、凶礼を行うのに必要な員外の人は、臨時に召集する。使部十人、直丁一人」とあり、続日本紀に「天平元年八月、諸陵司を改めて寮とし、増員して給与を増やした」とある。【和名抄に、「諸陵寮は『みささぎのつかさ』」。】書紀の持統の巻に「五年十月、詔して、およそ先皇の陵戸は五戸以上とする。・・・もし陵戸が不足したら、百姓を充当し、その徭役(底本はこの二字ともにんべん)を免じ、三年に一度交替させよ」という。【陵戸は上代からあったのだろう。近つ飛鳥の宮(顕宗天皇)の段に、韓袋(からふくろ)の子たちに市邊王の御陵を守らせたと見える。これを書紀では「陵戸とした」と書いてある。】喪葬令に、「およそ先皇の陵は【義解に、先代以来の帝王の山陵をいう。】陵戸をおいて守らせる。陵戸でなくて陵を守る者は、十年に一度交替させる。兆域の内で他の者の埋葬や耕作・牧畜・伐採などを行ってはならない。」【陵戸というのは、永くそれぞれの陵に所属する戸である。「陵戸でなくて陵を守る者」というのは、持統紀に「百姓を充当し」とあるのと同じで、陵戸がいなくなったり不足した時は、近隣の百姓から選んで、その陵を守らせるのである。諸陵式の各陵のところに「守戸」とあるのはこれである。】諸陵式に「およそ山陵は、陵戸五烟を置いて守らせる。功績のあった臣の墓には、墓戸三烟を置く。陵戸・墓戸でなくてその職に当てて守らせる者は、まずその陵墓に近いところの者を採用する」、また「およそ陵墓の側近くに原野があれば、寮は守戸に言いつけて、彼らを所在の国司のもとに移し、共に相知ったうえで焼き除かしめよ<訳者註:この文の意味は不明確だが、陵墓付近に耕作されていない野原があれば、守戸たちの身柄を一旦国司の屋敷などに避難させ、周知徹底した上で焼いて耕作地にせよという意味か。>」、また「およそ諸陵墓は、毎年二月十日、官人をやって巡検させ、当月一日に名を記録し<一日付けでということか>、省に報告せよ。その兆域の垣や溝が損壊していることがあれば、守戸に修理させ、その担当の官人が巡察して出来映えを確認せよ」、また「およそ毎年十二月、幣を諸陵墓に奉る。陵ごとに五色の帛各三尺、倭文一丈、木綿十三両、麻三斤五両、裏の材料の薦五尺、黒葛(つづら)三両、遠墓および近墓の幣は、遠陵と同様である。【それぞれに奉る幣物の目録は、内藏式に見える。】同月上旬、・・・幣を頒つ日、それぞれの陵墓のことに与る者を当てる。【ただし神功皇后の陵は、寮の主典以上の者を当てる。】云々」と見える。【この諸陵の幣物は、大蔵省から供する。大蔵式に「十二月、諸陵の幣を供する。その物は、調を納める日に、別に正倉に収め、供する幣の数量は諸陵式による」とあるのがそうだ。参議以下が大蔵省の正倉院に向かい、幣を取り分ける儀も、諸陵式や大蔵式に出ている。この日、天皇は建禮門の前の幄に行幸する。その儀礼は貞観儀式にある。ところで、上記に近陵・遠陵、近墓・遠墓とあるのは、道が遠い、近いということではない。近陵墓はいわゆる「十陵八墓」で、その他はすべて遠陵墓とする。「近い」とは、当代の天皇に親しく近いことだ。だから近い陵の幣物はたいへん多く、そのうえ別の貢ぎの幣物もたくさんあり、そちらは別に内藏寮から供出した。その目録も内藏式に見え、また中務式に「およそ十二月に諸陵に奉る幣は、・・・その別貢の幣は、臨幸の便のいいところへ送って奉る。その使いは参議以上、また参議でない三位は、太政官が担当者を定め、その他は省が決める云々」などとあるように、近遠によって大変大きな差がある。そもそもこの近遠が定まったのは、三代実録に「天安二年十二月九日、(清和天皇が)詔して十陵四墓を定め、年の終わりの荷前の幣を献げた」とあるのが初めではないだろうか。その十陵とは天智天皇、田原天皇(志貴皇子)、光仁天皇、桓武天皇、平城天皇、仁明天皇、文徳天皇の七代、これは当代の天皇の祖に当たる人たちである。平城はそうでないが、血筋が近かったので加えられたと思われる。嵯峨、淳和は近いけれども、遺詔により山陵を置かなかったので入れない。このように七人を定めたのは、漢の七廟の定めをまねたのだろう。他の三陵は、桓武の母(高野新笠)、妻(藤原乙牟漏)、崇道天皇(早良親王)である。崇道天皇は延暦の廃太子で、その頃祟りがあったため、特別に祭られたのだ。次に四墓は贈太政大臣正一位藤原朝臣の多武(たむ、とう)の峯の墓、藤原朝臣冬嗣(ふゆつぐ)の墓、尚侍藤原朝臣美都子(みつこ:冬嗣の妻)の墓、源朝臣潔姫(きよひめ:藤原明子の母)の墓である。冬嗣は文徳天皇の外祖、美都子は同じく外祖母、潔姫は清和の外祖母だったからである。ところが多武峯は藤原不比等で、清和の御代に特に祭るべき理由はなかったのに、ここに含まれているのは、この時天皇はまだ幼かったから、すべて藤原良房公の発案であろう。三代実録の今の本に、上記の多武峯の墓を藤原鎌足とあるのは、後人がさかしらぶって改めたものだ。古い本にはこの名はない。多武峯は藤原不比等と、諸陵式にも見え、贈太政大臣正一位というのも、鎌足では適合しない。また「元慶八年十二月廿四日、毎年荷前の幣を十陵五墓に献げることを定めた」とあり、この時には先に定められた陵墓から除かれたのと、新たに置いたのがあった。その後御代御代に、廃置があって、延喜式の頃は十陵八墓になっていた。そして後々には、ただ近陵墓の祭りだけのようになって、遠陵の奉幣は廃れてしまい、なかなか物の本に見ることもできない。嘆かわしいことである。そもそも近陵墓は当代に近いのを殊に手厚く祭ったわけで、それも当然のことだが、天智天皇の祭だけを特に長い間継続したのは、これもまた漢国の定めに、太祖の廟は百世の後でも廃しない、というのに倣ったのだろう。しかし、初め清和天皇がこの天皇陵を第一に置いたのは、当代の父から上七世だったからだろうし、必ずしも太祖としたからではないと思われる。それを後々にもなお、この天皇を殊に祭っていたのは、どういう理由かよく分からない。続日本紀の代々の宣命に「近江大津宮御宇大倭根子天皇乃、與2天地1共長、與2日月1共遠、不改常典止、立賜敷賜覇留法乎(おうみのおおつのみやにアメノシタしろしめししスメラミコトロギの、アメツチとともにながく、ヒツキとともにとおく、あらためぬツネのノリと、たてたまいしきたまえるノリを)云々」などとあるので、特別な理由もありそうだが、この天皇は皇太子だった頃から、藤原鎌足と謀略を廻らし、蘇我入鹿を殺した武功と、天下の諸制度を漢様に改めたことはあるけれども、その他には特別なことも行わなかった。おおかた孝徳の御代に、諸制度に於いていにしえからの伝統を捨て、万事漢様に改めたのも、この天皇と藤原大臣の謀から出たと思われ、後世にこの天皇を「中興の主」などと言うのも、この漢様のことを多く始めたからだろう。だからといってこの天皇の陵を特別に祭るくらいであれば、神武天皇の御陵をこそ第一に手厚く祭るべきだし、他にもあるだろうにと思う。上代の御陵は、前記のようにどれも巨大で、たいへん厳めしく立派な造りになっていたのは、誠にそうありたいものだったのが、仏道などというものが広まって、畏れ多くも火葬にするということも始まり、中頃の御代にはみなそうでないものはなく、御陵はないも同然になった。ただ「法華堂」とか言って、全く仏舎のような形なのは、大変あさましく、悲しい習慣だったが、近い御代に至って、この火葬にすることが止んだのは、禍日神の荒びもようやく静まって、何事もめでたかったいにしえに立ち返る時が来たのだろうか。また漢国の風俗では、王も臣も墓の他に廟というものを建てて先祖を祭っているが、皇国では陵墓を祭って、その他に廟はない。書紀の皇極の巻に、蘇我蝦夷大臣が自分の先祖の廟を建てて、八ツラ(イ+肖)(やつら)の舞を行ったとあるのは、漢の国王の真似をしたのだろう。】


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