『古事記傳』21−2


浮穴の宮の巻【安寧天皇】

師木津日子玉手見命。坐2片鹽浮穴宮1治2天下1也。此天皇。娶2河俣毘賣之兄縣主殿延之女。阿久斗比賣。生2御子1常根津日子伊呂泥命2。<自レ伊下三字以レ音>次大倭日子スキ(金+且)友命。次師木津日子命。

訓読:シキツヒコタマデミのミコト、カタシワのウキアナのみやにましまして、アメノシタしろしめき。このスメラミコト、カワマタビメのセあがたぬしハエのむすめ、アクトヒメをめして、ウミませるミコ、トコネツヒコイロネのミコト。つぎにオオヤマトヒコスキトモのミコト。つぎにシキツヒコのミコト。

口語訳:師木津日子玉手見命は、片鹽の浮穴の宮に住んで天下を治めた。この天皇が河俣毘賣の兄で、縣主波延の娘を娶って生んだ子は、常根津日子伊呂泥命。次に大倭日子スキ(金+且)友命。次に師木津日子命である。

この天皇の漢風諡号は安寧天皇という。○片鹽は「かたしわ」と読む。書紀雄略の巻に「堅磐、これを『かたしわ』と読む」と注があり、和名抄には「筑前国穂波郡、堅磐は『加多之方(かたしわ)』」、【この「方」を今の本で「萬」としているのは、「方」を「万」と誤ったのを、さらに「萬」と誤ったのだ。】延喜式神名帳に「越前国今立郡、加多志波(かたしわ)神社」がある。これらは「かたしわ」という名の例だ。ここに出たのも堅磐の地名で、「片鹽」と書いているのは借字か。【「しわ(旧仮名シハ)」に「鹽」を書くのは、「シハハユシ(しょっぱいということか)」などの「シハ」である。】これは万葉巻九【十九丁】(1742)の「河内の大橋を一人行く乙女を見て」に「級照片足羽河之、左丹塗大橋之上従(しなてるカタシワガワの、サニヌリのおおばしのウエゆ)云々」と詠んでいる地だと師が言ったが、その通りだろう。【「片足羽」を今の本で「かたあすは」と読んでいるのは誤りである。師(賀茂真淵)が「かたしわ」と改めたのが良い。】○浮穴宮(うきあなのみや)は、新撰姓氏録の河内国神別に浮穴直(うきあなのあたえ)があり、続日本後紀三に「女嬬河内国若江郡の人、浮穴直永子(ながこ)に姓を与えて春江宿禰とした」【和名抄の伊豫国の郡名に「浮穴は『うきあな』」というのがある。続日本後紀三に「伊豫の国の人、浮穴直千繼(ちつぐ)、同姓眞徳(まとこ)らに、姓を与えて春江宿禰とした」とあり、これらはいずれも春江宿禰という姓を与えたのを考えると、河内の国にいたのと同じ氏だろう。とすると、伊予の浮穴も、もとは河内の地名から転じたのだろうか。】とあるのと、天皇の母の出身地、川俣を思い合わせると、若江郡だろうか。ただ河内志では、片足羽(かたあすは)河を志紀郡と安宿郡との境にある石川の旧名と言っており、ある人もこの川だとして、歌にある大橋は、今は国府の渡しというところに掛かっているという。【石川は、石川郡から古市郡を経て、安宿(あすかべ)郡の西、志郡の東の境界付近を北へ流れ、大和川に入る川である。国府の渡しというのは大和国平群郡から、摂津国住吉郡に通じる大道で、この川を渡るところである。】これらは昔から語り伝えたことではなかろうか。天皇の名の「師木」も関係がある。【志紀郡】また「玉手」というのもこの石川に近く、いろいろ関連があるから、この宮はこの川に近いところだったのだろう。【若江郡も志紀郡の北に隣接している。○師の冠辞考でこの宮を交野郡にあると言ったのは、よりどころが分からない。交野郡にある舟橋川を、片足村川とも言うと言った。これもよりどころが分からない。ある説に大和国葛下郡の三倉堂村にこの宮の址があると言い、また高市郡にあるとも言うが、みなよりどころが分からない。】書紀には「二年、片鹽に都を遷した。これを浮穴の宮という」とある。【書紀で都を遷したと書いてあるのは、みな漢籍を真似て書いているだけで、実は後世のような大移動ではなかった。上代に、天皇の代わる度に都が変わったのは、たぶん上代には、皇子たちも父の天皇と同居しておらず、多くは別の地に住んでいたからだろう。そのため父天皇が崩御すれば、皇太子が皇位を継ぐに当たって、元から住んでいたところで即位して、そこが都となったのだ。というのは、諸臣たちも、多くはその本拠地に住んでいて、都といっても、後世のような大規模なものではなかったから、どこであれ、その住んでいた場所で天下を治めたのである。だからこの記のように、「〜の宮で天下を治めた」というのが実態であり、これこそ古言であった。】○河俣毘賣(かわまたびめ)は母で、前段に出た。○縣主(あがたぬし)は師木の縣主だが、前に「師木の縣主の祖、河俣毘賣」と出ていて、その兄ということから、ここでは「師木」を省いたのである。○殿延(はえ)は、書紀には「葉江(はえ)」とあるので、「殿」の字を延佳は「破」の誤りだろうと言い、師は「般」ではないかと言ったが、それらの字は記中で仮名に用いた例がない。やはり「波」の誤りだろう。【一本に殿の字の横に「波」と書いて、「御本」と書いてある。】だが「波」は字形が少し違うので、そうと決定することはできない。訓は取りあえず書紀の「葉」に従っておいた。この名が地名なのかどうかは定かでない。○阿久斗比賣(あくとひめ)。【「斗」の字を、旧印本、延佳本とも「計」と書いているのは誤りだ。「計」は記中で仮名に使った例がない。ここでは真福寺本、また延佳が「一本に斗とある」と言ったのと、他の一本に「斗」とあるのによった。】延喜式神名帳に「摂津国嶋上郡、阿久刀(あくと)神社がある。【この神社は芥川村にあるという。とすると「芥」は、もとは「あくと」だったのだろう。延喜式神名帳には、但馬国養父郡、伊久刀(いくと)神社もある。和名抄には、同国二方郡に久斗(くと)郷もある。これらは名が似ているので一応挙げておく。】書紀に「三年春正月戊寅朔壬午、淳名底仲媛(ぬなかわそこなかつひめ)命【また淳名襲媛(ぬなそひめ)とも言う】を立てて皇后とした。一書にいわく、磯城の縣主葉江の娘、川津媛、また一書にいわく、大間(おおま)宿禰の娘、糸井媛ともいう」とある。【淳名底仲媛命は、懿徳の巻に「事代主神の孫、鴨王(かものきみ)の娘」とある。鴨王という名は解せない。というのは、「王」というのは皇族でなくては言わないのに、事代主神の子にこういう名がある理由がないからだ。たぶんこれは大和国葛上郡の鴨都波八重事代主神社か、あるいは高市郡の高市御縣坐鴨事代主神社の御陵が、現身の男になって婦人と交合して生ませた子だったので、「鴨の神の御子」という意味で「鴨の御子」と呼んでいたのが、名前のようになって、「鴨王(かものみこ)」と書いたのだろう。これを旧事紀では天日方奇日方(あまつひかたくしひかた)命としている。そのことは水垣の宮(崇神天皇)の段で述べる。】○常根津日子伊呂泥(とこねつひこいろね)命。名の意味については、まず「常」は何の意味か分からない。【書紀が言うように、母が淳名底仲媛だったら、その「底」を取ったのかも知れない。底と常が通うことは、上巻で言った通りである。】「根」は美称【書紀には「根」の字がない。】「伊呂泥」は「伊呂勢(いろせ)」と同じで、同母兄という意味か。書紀ではこの名を「某兄(いろね)」としており、神代巻、~武の巻、欽明の巻、孝徳の巻でも「兄」の字を同じように読む。和名抄にも「兄は、日本紀にいわく、『いろね』」とある。【同母姉を「いろね」と言うから、この「泥(ね)」は女を意味するように思われるだろうが、そうではない。白檮原の宮の段で、神淳河耳命が兄を「那泥汝命(なね、ながみこと)」と呼んでいるように、「なね」というのも女に限らない。「いろね」もこれに準ずる。】とすると、これは男女に共通する呼称である。【同母姉のことを言うのは、「あね」の「あ」を省いて「ね」と言うのだ。】「いろ」というのは、その人を親愛の情をもって呼ぶ言葉で、「〜入彦(いりびこ)」、「〜入姫(いりびめ)」の「いり」、また「郎子(いらつこ)」、「郎女(いらつめ)」などの「いら」も同じ言葉の活用で、同じ意味だ。日子坐(ひこいます)王の御子の伊理泥(いりね)王、崇神紀の飯入根(いいいりね)という名なども「いろね」と通うので分かる。同母兄弟を「伊呂勢」、「伊呂杼(いろど)」、「伊呂妹(いろも)」、母を「伊呂波(いろは)」などと呼ぶのも【「いろは」は「いろはは」である。】親しみと愛情を持って呼ぶのである。【万葉巻十六(3875)に「伊呂雅せる菅笠小笠(いろけせるすががさおがさ)」と詠んでいるのも、「いろ」は人を親しんで言ったのだろう。】この「いろね」を書紀で「某兄」と書いた「某」の字は何の意味か。【あるいは、いにしえには人に親しんで言うことから転じて、その名を言う時に、名でなく単に「いろ」と呼んだことがあるのだろうか。「某」は「なにがし」、「それがし」などと、名に代えて言う言葉である。書紀では、この後に出る蠅伊呂泥(はえいろね)、蠅伊呂杼(はえいろど)も、ハエ(糸+亘)某姉、ハエ某弟と書いてあり、垂仁紀[一丁](崇神元年二月條のことか)に某邊(いろべ)とも書いてある。】○大倭日子スキ(金+且)友命(おおやまとひこすきとものみこと)。日子は、倭に付けて読む。スキは師木である。上巻で阿遲スキ高日子根(あじすきたかひこね)命を阿遲志貴ともあった。これが証拠である。【伝十一の五十七葉で言った。】師木の縣主から出て、この父の天皇や弟の名に付いているのと同じである。「友」は「ともし」という言葉で、美称である。【「ともし」を「とも」とだけ言うのは「久し」を「ひさ」、「恋し」を「こい」とだけ言うのと同じだ。】その意味は、心におむがしく(喜ばしく)、よろしいと思うことで、万葉巻二【二十六丁】(162)に「味凝文爾乏寸、高照日之御子(うまこりのあやにともしき、たかひかるひのみこ)」、巻九【十五丁】(1724)に「欲見來之久毛知久、吉野川音清左、見二友敷(みまくほりコシクモしるく、よしぬがわオトのさやけさ、みるにともしく)」、巻十三【三丁】(3229)に「五十串立神酒座奉、神主部之雲聚山蔭、見者乏文(いぐしたてミワすえまつる、かんぬしがウズのやまかげ、みればともしも)」【今の本では、「山」を「玉」に誤っている。「山蔭」は日蔭の蔓(かづら)のことである。「山かづら蔭」とも詠んでいる。】などとあるのがそうだ。この他にも「ともし」という言葉はよく使われている。【これは羨ましいという意味、あるいは恋しいという意味で使われている。「乏」という字を書くのは、不足に思うという意味から転じた意味の一つに過ぎない。本義ではないから、この字にこだわってはいけない。】倭建命に段に御スキ(金+且)友耳建日子(みすきともみみたけひこ)という名もある。書紀の懿徳の巻の奇友背(くしともせ)命も同じ美称である。○師木津日子命(しきつひこのみこと)。師木は兄のスキと同じ。書紀には、「后は二人の皇子を生んだ。第一は息石耳(おきしみみ)命、第二は大日本彦耜友(おおやまとひこすきとも)天皇である。一にいわく、三人の皇子を生んだ。第一は常津彦某兄(とこつひこいろね)(この長子は敬称がない)、第二を大日本彦耜友天皇、第三は磯城津彦命ともいう。」【旧事紀で常津彦を息石耳のまたの名としているのは、推測で書いたのだろう。】

此天皇之御子等并三柱之中。大倭日子スキ(金+且)友命者治2天下1。次師木津日子命之子二王坐。一子孫者。<伊賀須知之稻置。那婆理之稻置。三野之稻置之祖。>一子和知都美命者。坐2淡道之御井宮1。故此王有二女。兄名蠅伊呂泥。亦名意富夜麻登久邇阿禮比賣命。弟名蠅伊呂杼也。

訓読:このスメラミコトのミコたち、あわせてみばしらのうち、オオヤマトヒコスキトモのミコトは、アメノシタしろしめしき。つぎにシキツヒコのミコトのミコふたばしらませる。ひとはしらのミコは、<イガのスチのイナキ、ナバリのイナキ、ミヌのイナキのおや。>ひとばしらのミコ、チチツミのミコトは、あわじのミイのみやにましき。かれこのミコみむすめふたばしらましき。イロネのなはハエイロネ。またのなはオオヤマトクニアレヒメのミコト。イロドのなはハエイロドなり。

口語訳:この天皇の御子、合わせて三人のうち、大倭日子スキ(金+且)友命は後に天下を治めた。師木津日子命には子が二人いた。一人は<伊賀の須知の稻置、那婆理の稻置、三野の稻置の先祖である。>もう一人の子、和知都美命は淡道の御井の宮に住んだ。この御子には二人の娘があった。姉を蝿伊呂泥、またの名は意富夜麻登久邇阿礼比賣命という。妹の方は蝿伊呂杼といった。

二王は「ふたばしら」と読む。「王」の字のことは、伊邪河の宮(開化天皇)の段で述べる。○一子孫者は「ひとばしらのみこは」と読み、「子孫」を「御子」の意味に取る。【そう読まなければ、後の「祖」とあるのと対応が良くない。】この御子の名は、漏れて伝わらなかったのだろう。○伊賀(いが)は、伊賀国風土記にいわく、【残篇が一巻ある。】「猿田彦神は、はじめこの国を『伊勢加佐波夜(いせかざはや)之國』とした。そして二十余万年この国を治めた。猿田彦神の娘、吾娥津媛(あがつひめ)命は・・・この神が治めた国なので、吾娥の郡といった。その後、清見原の天皇(天武)の御代に、吾娥の郡を分けて、国名とした。・・・後に伊賀と改めた。これは吾娥が訛ったのである。」【和名抄には、伊賀郡に吾娥郷が載っている。】同延長の風土記に「伊賀の国は、いにしえは伊勢の国に属していた。大日本根子彦太瓊(おおやまとひこふとに)天皇の御代、癸酉の年に分割して伊賀の国とした。この名は、もともとここは伊賀津姫が治めていた郡なので、それを郡名としており、そのまま国名としたのである」とある。【国造本紀に、「伊賀国は・・・難波の朝(孝徳天皇)の御世、伊勢国に附属していたが、飛鳥朝(天武天皇)の御世に分割された」とあり、倭姫命世記に「伊賀の国は天武天皇の庚辰年七月に伊勢国の四郡を分割して、その国を立てた」とある。】この国の名は、以下の三つの姓に係っている。○須知之稻置(すちのいなき)。和名抄には「伊賀国名張郡、周知(すち)」とあり、延長の風土記には同郡に周知山がある。また延喜式神名帳には「同国阿拝郡の須智荒木(すちあらき)神社」が載っている。【この社は今も荒木山にある。延長の風土記には、「荒木山に神がいる。須智明神といい、祭っているのは猿田彦、武内宿禰、葛城襲津彦である」と見える。】この二箇所のうち、どちらだろうか。【和名抄にはまた、播磨国飾磨郡にも周智郷がある。】○那婆理之稻置(なばりのいなき)。和名抄に、「伊賀国名張郡は『なばり』」とある。【延長の風土記には「名張」の名について説があるが信じがたい。】書紀の天武の巻に、隠郡(なばりのこおり)、隠驛家(なばりのうまや)、名張などが見える。万葉巻一(43)に「吾せこは何所(いづく)ゆくらむ、おきつ藻の隠(なばり)の山を今日か越(こゆ)らむ」、また(60)「暮(よひ)に逢ひて朝(あした)面無(おもな)み隠(なばり)にか、け長き妹が廬せりけむ」、巻八(1536)に「暮(よひに)相(あひ)て朝(あした)面羞(おもなみ)隠野(なばりぬ)の、芽子(はぎ)は散(ちり)にき黄葉(もみぢ)はやつげ」、これらはみなこの地を詠んでいる。【今の本で「かくれ」と読んで、伊勢にあると言っているのは誤りである。「なばる」は「隠(かく)る」の古言である。万葉巻十六の三十丁の長歌(3886)に「おしてる難波の小江(をえ)に廬作(いほつくり)、難麻理弖居(なまりてをる)葦蟹(あしがに)を」とあるのが証拠だ。これも今の本は読みを間違っている。「難」は「な」の仮名である。】○三野稻置(みぬのいなき)。書紀の持統の巻に、「伊賀国伊賀郡、身野(みぬ)」と見えるのがこの地だろう。【天武紀には三野縣主というのがあるが、別の氏だろう。】書紀に「磯城津彦命は猪使連(いづかいのむらじ)の祖」とある。【この姓は、天武天皇十三年に宿禰となった。】新撰姓氏録の右京皇別に、「猪使連は、安寧天皇の皇子、紀都比古(しきつひこ)命の子孫」【「紀」の上に「志」の字が脱けている。】また左京皇別に「新田部朝臣は安寧天皇の皇子、磯津彦命の子孫である」と見える。【「磯」の下に「城」の字が脱けている。】書紀では、この二氏は漏れている。○一子は「ひとばしらのみこ」と読む。○和知都美命(ちちつみのみこと)。「和」の字は正しくは「知」だろうと師が言ったが、確かに和知(わち)とは聞き慣れぬ感じがするから、「ちち」が正しいだろう。「ちち」という名は孝霊天皇の御子に千々速比賣命、その母の千々速眞若比賣、崇神天皇の御子に千々衝倭姫命などの例がある。「都」は助辞、「美」は耳と同じ尊称である。○淡道之御井宮(あわじのみいのみや)は、何郡の何郷にあるのか、よく分からない。御井は高津の宮(仁徳天皇)の段に「朝夕淡道嶋の寒泉を汲ませて、天皇に献げた」とあり、書紀の反正の巻に「天皇は初めの子を淡路の宮で生んだ。そこに井があり、瑞井といった。それを汲ませて、太子を洗った。」どれも同じで、上代から名高い名水だったのだろう。【この泉は今もあるのだろうか。水が絶えたとしても、その跡はあるだろうか。国人に聞くべきだろう。】「宮」とは、この御子が住んだから言うのだろう。【御子が住む前から宮があったのではないだろう。】この御子がこの地に降った理由は、伝えがないから分からない。○此王(このみこ)。「王」は「みこ」と読む。理由は伊邪河の宮の段で言う。○二女は「みむすめふたばしら」と師が読んだのに従う。○兄は「いろね」と読む。○蠅伊呂泥(はえいろね)。名の意味は分からない。あるいは地名などか。【「蠅」は借字だろう。仮名は「はえ(旧仮名ハヘ)」である。】「伊呂泥」のことは前述した。明の宮(應神天皇)の段の終わりの方に「百師木伊呂辨(ももしきいろべ)」という名も見える。○またの名の意富夜麻登(おおやまと)は大倭、久邇(くに)は国のことである。阿禮(あれ)の意味は分からない。【あるいは「明浄(あれ)」の意味ででもあろうか。賀茂の齋王を「阿禮袁登賣(あれおとめ)」と言うのも明浄の意味のように思われるからだ。それは潔斎して清まっていることから言うのだが、これはただ「清い」という美称ではないだろうか。】○弟は「いろど」と読む。○蠅伊呂杼(はえいろど)。「蠅」は上記と同じ。伊呂杼は「伊呂弟」である。書紀では「弟」、「妹」の字もそう読む。この二人の娘は、いずれも黒田の廬戸の宮(孝霊天皇)のとき、天皇の妃となって、子も生んだ。その段に見える。書紀のその巻に、姉を倭國香媛(やまとのくにかひめ)、またの名はハエ(糸+亘)某姉(はえいろね)、妹はハエ某弟(はえいろど)とある。

 

天皇御年肆拾玖歳。御陵在2畝火山之美富登1也。

訓読:このスメラミコトみとしヨソヂマリココノツ。ミハカはウネビヤマのミホトにあり。

口語訳:この天皇は崩じた時四十九歳だった。御陵は畝傍山の美富登にある。

肆拾玖歳(よそぢまりここのつ)。書紀には「三十八年十二月庚戌朔乙卯、天皇は崩御した。時に年五十七」とある。【この年数によると、綏靖天皇が十五歳の時に生まれたことになる。ところがその廿五年に立太子したとき、年二十一とあるのは十年違っている。その年は十一歳だったはずだ。】○美富登(みほと)は御陰(みほと)である。【上巻に見える。】これは山を人の体に見立てて言ったので、頂き、腹、腰、脚などとも言う類だ。書紀の懿徳の巻に「元年秋八月丙午朔、磯城津玉手見天皇を畝傍山の南の御陰井上(みほとのいのべ)陵に葬った」とあり、諸陵式に「畝傍山の西南、御蔭井上陵は、片鹽の浮穴の宮で天下を治めた安寧天皇である。大和国高市郡にある。兆域は東西三町、南北二町、守戸五烟」とある。【「蔭」は「陰」を写し誤ったのか、または「富登」ということを嫌って、そのころ「みかげ」と言い換えたのかも知れない。さらに詳しく調べて定めるべきである。】この御陵は吉田村というところにある。畝火山の西南に付いた高い岡で、【書紀に「南」とあるのは、諸陵式からすると「西」の字が脱けたのだろう。】かの慈明寺村の南にある御陵と全く同じ様子だ。【御陰井(みほとい)は吉田の里の路傍にあって、普通の小さい井戸である。御陵はこの井戸から一町あまりのところで、西北の方に当たる。】

 


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