『古事記傳』22−1


境原の宮の巻【孝元天皇】


大倭根子日子國玖琉命。坐2輕之堺原宮1。治2天下1也。此天皇。娶2穗積臣等之祖。内色許男命<色許二字以レ音下效レ此>妹。内色許賣命1。生御子大毘古命。次少名日子建猪心命。次若倭根子日子大毘毘命。<三柱>又娶2内色許男命之女。伊賀迦色許賣命1。生御子。比古布都押之信命。<自レ比至レ都以レ音>又娶2河内青玉之女。名波邇夜須毘賣1。生御子。建波邇夜須毘古命。<一柱>此天皇之御子等。并五柱。

訓読:オオヤマトネコヒコクニクルのミコト、カルのサカイバラのみやにましまして、アメノシタしろしめしき。このスメラミコト、ホヅミのオミらがオヤ、ウツシコオのミコトのイモ、ウツシコメのミコトをめして、ウミませるミコ、オオビコのミコト。つぎにスクナビコタケイゴコロのミコト。つぎにワカヤマトネコヒコオオビビのミコト。<みばしら>またウツシコオのミコトのむすめ、イカガシコメのミコトをめして、ウミませるミコ、ヒコフツオシのマコトのミコト。またカワチのアオタマのむすめ、ナはハニヤスビメをめして、ウミませるミコ、タケハニヤスビコのミコト。<ひとばしら>このスメラミコトのみこたち、あわせてイツハシラませり。

口語訳:大倭根子日子國玖琉命は、輕の堺原宮に住んで天下を治めた。この天皇が穗積臣らの先祖、内色許男命の妹、内色許賣命を娶って生んだ御子は大毘古命、次に少名日子建猪心命、次に若倭根子日子大毘毘命である。<三柱>また内色許男命の娘、伊賀迦色許賣命を娶って生んだ御子は、比古布都押之信命である。また河内の青玉の娘、波邇夜須毘賣を娶って生んだ御子は建波邇夜須毘古命である。<一柱>この天皇の御子は、合わせて五柱であった。

この天皇の漢風諡号は、孝元天皇という。○輕(かる)は前に出た。○堺原宮(さかいばらのみや)。書紀には「四年春三月甲申朔甲午、都を軽の地に遷した。これを境原の宮という」とある。この宮の地は、境岡の宮(懿徳天皇)の段で言った。【ある人は、軽村の大道の西で、今も里人が「さかきばら」と呼ぶところだと言った。】○穗積臣(ほづみのおみ)。穂積は地名である。万葉巻十三【四丁】(3230)に「帛叫楢従出而、水蓼穂積至、鳥網張坂手乎過、石走甘南備山丹(みてぐらをナラよりいでて、みずたでホヅミにいたり、トナミはるサカテをすぎ、いわばしのカンナミやまに)云々」【「帛叫」は誤字に違いない。】と詠んでいる穂積だろう。だがその国は、大和にあることはもちろんだが、何郡にあるかは分からない。【上記の歌からすると、添上、城上、城下、十市などのうちだろう。甘南備山は飛鳥の神南備山で、奈良の京からその山までの道を言っているからだ。今城下郡に坂手村はある。また十市郡に穂津村というところがある。穂積はこれだとする説があるが、それではこの歌の道順に合わない。】和名抄には摂津国嶋下郡、尾張国丹羽郡、美濃国本巣郡、播磨国賀茂郡などに穂積郷があるが、それらではないだろうか。延喜式神名帳に「伊勢国朝明郡、穂積神社」というのもある。この姓は白檮原の宮(神武天皇)の段に「邇藝速日命が登美毘古の妹、登美夜毘賣を妻として生んだ子、宇摩志麻遲命、これは物部連、穂積臣、采女(女+采)臣らの祖である」と見える。旧事紀五にこの氏の系譜を乗せている。書紀の天武の巻には「十三年十一月戊申朔、穂積臣に姓を与えて朝臣とした」とあり、新撰姓氏録の左京神別に「穂積朝臣は、石上と同祖、神饒速日命の五世の孫、伊香色雄命の子孫である」、また「穂積臣は、伊香色雄命の子、大水口(おおみなくち)宿禰の子孫である」ともある。書紀の崇神の巻、垂仁の巻にも「穂積臣の遠祖、大水口宿禰」とある。○内色許男命(うつしこおのみこと)、内色許賣命(うつしこめのみこと)。「内色許」は「うつしこ」と読む。【「内」を古くは「うつ」と読んだ例が多い。】名の意味は、「うつ」は美しい、または顕見(うつしみ)る意味か。色許男、色許賣は神代の葦原醜男と同様である。【伝九の六十一葉】旧事紀に記されたこの氏の系譜を見ると、宇摩志麻遲命の子→味饒田(うましにぎた)命、彦湯支(ひこゆき)命。彦湯支命の子→大禰(おおね)命、出雲醜大臣(いずもしこおおおみ)命、出石心大臣(いずしごころおおおみ)命。出石心大臣命の子→大水口宿禰命、大矢口宿禰命。大矢口宿禰命の子→鬱色雄命、鬱色謎(うつしこめ)命、大綜杵(おおへそき)命、大峯大尼(おおみねのおおね)命となっている、この四人の母は坂戸由良都姫(さかとのゆらつひめ)である。同書七にも鬱色謎命は物部連の祖、出石心命の孫と書いてある。【しかしながら、この系譜には疑問もある。というのは、大水口宿禰は、新撰姓氏録に伊香賀色雄命の息子としてあり、書紀でも崇神、垂仁の御代にいた人とあるのに、この系譜では色許男の伯父になっているのはずいぶん違うからだ。】○大毘古命(おおびこのみこと)。名の意味は特に言うことはない。この命の勲功は、水垣の宮(崇神天皇)の段に出ている。○少名日子建猪心命(すくなびこたけいごころのみこと)。「日子」の「日」は少名毘古那神の例によって、濁って読む。「少名日子」は兄の「大毘古」に対して言う名で、【いにしえは「大」と「少」を対照的に使った例が多い。】「猪心(いごころ)」は勇猛な心を言うのだろう。【書紀に「男心(おごころ:旧仮名ヲゴコロ))」とあるのを考えれば、「猪(ゐ)」は「緒(を)」の誤りのようにも思えるが、】書紀の景行の巻(三年)に「屋主忍男武雄心(やぬしおしおたけおごころ:旧仮名ヤヌシオシヲタケヲゴコロ)命とあるのを、「一にいわく、武猪心(たけいごころ:旧仮名タケヰゴコロ)」とある。旧事紀には、伊香色雄命の子に「建膽心大禰(たけいごころおおね:旧仮名タケイゴコロオホネ)命【「猪(ヰ)」と「膽(イ)」では音が違うが、似ているので引いた。】という名もある。【とすると「男心」とも「猪心」とも伝わったのだ。】○若倭根子日子大毘々命(わかやまとねこひこおおびびのみこと)。父の天皇の「大倭根子」に対して「若倭根子」と称えたのである。「毘々」は「耳」と同じ称え名だ。【言葉の頭を濁って言う例はないが、これは「大」から続いているので音便によって「び」と言うのだ。「耳」については既に述べた。】書紀には「七年春二月丙寅朔丁卯、鬱色謎(うつしこめ)命を皇后に立てた。皇后は二男一女を生んだ。第一を大彦命といい、第二を稚日本根子日子大日々(わかやまとねこひこおおびび)天皇といい、第三を倭迹々姫(やまとトトひめ)命という。一にいわく、第三は天皇の弟、少彦男心(すくなびこおごころ)命という」と見え、開化の巻にも「母は鬱色謎命といい、穂積臣の遠祖、鬱色雄(うつしこお)命の妹である」とある。○伊賀迦色許賣命(いがかしこめのみこと)。「賀迦(がか)」は、旧印本には「迦賀」とあるが、伊邪河の宮(開化天皇)の段ではみな「賀迦」とあるので、ここも延佳本、その他一本によった。【ただし水垣の宮の段の「伊迦賀色許男(いかがしこ)命」は、諸本ともに「迦賀」とある。】名の意味は、「伊」は発語か。「賀迦」は「赫(かが)」だろう。【上を濁ったのは「伊」から続いているための音便で、そのため次の「か」は清音に読んでいる。これも音便だ。古言にはそういう例もある。朝倉の宮(雄略天皇)の段の歌に、「由布比能比賀氣流美夜(ゆうひのひがけるみや)」とあるが、これも「夕日の日蔭る宮」である。】「色許賣」は前述したのと同じ。河内国茨田郡の伊香は「いかが」、阿波国麻殖郡、伊加加志(いかがし)神社などもある。この比賣の命は、書紀【崇神の巻】には「物部氏の遠祖、大綜麻杵(おおへそき)命の娘」とあり、旧事紀でも大綜杵命の子としている。【旧事紀では、大綜杵命は鬱色雄命の弟である。】これらは異なる伝えである。○比古布都押之信命(ひこふつおしのまことのみこと)。「信」は「まこと」と読む。新撰姓氏録に「彦布都意斯麻己止(ひこふつおしまこと)命と書いている。【印本には「都」を「部」と誤っている。古い本には「都」とある。】名の意味は、「ふつ」は「太」、【「ふと」を「ふつ」と言った例は、万葉巻十八(4081?)に「太馬(ふとま)」を「ふつま」とある。「ふつつか」という言葉も「太つか」の意だ。】「押(おし)」は「大し」である。【前に述べた。】「信(まこと)」は「眞事」か。上下の例からすると、この名の後にも「一柱」と註があるべきところだ。書紀には「妃の伊香色謎命は、彦太忍信命を生んだ」とある。○青玉(あおたま)。名の意味は字の通りか。【延喜式神名帳に伊豆国那賀郡、青玉比賣神社がある。】○波邇夜須毘賣(はにやすびめ)。上巻の神名に、これと同じ名がある。その名の意味はそこ【伝五の五十七葉】で言った。この名は地名だろう。それは大和国十市郡の、天香山の近くにある。【この地のことも伝五で言った。】万葉巻一【二十三丁】(52)に「埴安乃堤(はにやすのつつみ)」、巻二(199)に「埴安乃御門之原(はにやすのみかどのはら)」、また(201)「埴安乃池之堤(はにやすのいけのつつみ)」などと詠まれているところだ。この比賣は、この地で生まれたので、名に負ったのだろう。【名に負ったというのは、比賣の名に負ったということだ。】○建波邇夜須毘古命(たけはにやすびこのみこと)。この名も母のもとで育って、その同じ地名を負ったのだろう。【延喜式神名帳に大和国十市郡、畝尾坐健土安(うねびにますたけはにやす)神社がある。この神社のことも伝五で言った通りだ。】書紀に「次の妃、河内の青玉繋(あおたまかけ)の娘、埴安媛は、武埴安彦を生んだ」とある。この御子は謀反人として滅ぼされたことが、水垣の朝の段に見える。

 

故若倭根子日子大毘毘命者。治2天下1也。其兄大毘古命之子。建沼河別命者。<阿倍臣等之祖。>次比古伊那許志別命。<自レ比至レ志六字以レ音。此者膳臣之祖也。>比古布都押之信命。娶2尾張連等之祖意富那毘之妹葛城之高千那毘賣1。<那毘二字以レ音>生子。味師内宿禰。<此者山代内臣之祖也。>又娶2木國造之祖宇豆比古之妹山下影日賣1。生子。建内宿禰。

訓読:かれワカヤマトネコヒコオオビビのミコトは、アメノシタしろしめしき。そのミいろせオオビコのミコトのミコ、タケヌナカワワケのミコトは、<アベのオミらがおや。>つぎにヒコイナコシワケのミコト。<こはカシワデのオミのおやなり。>ヒコフツオシノマコトのみこと、オワリのムラジらがおや、オオナビがいもカヅラキのタカチナビメにみあいて、ウミませるミコ、ウマシウチのスクネ。<こはヤマシロのウチのオミのおやなり。>またキノクニのミヤツコのおや、ウズヒコがいも、ヤマシタカゲヒメにみあいて、ウミませるミコ、タケウチのスクネ。

口語訳:若倭根子日子大毘毘命は、その後天下を治めた。その兄、大毘古命の子、建沼河別命は、<阿倍臣らの祖である。>次に比古伊那許志別命は、<膳臣の祖である。>比古布都押之信命が尾張連らの祖、意富那毘の妹葛城之高千那毘賣を妻として生んだ子は、味師内宿禰。<これは山代の内臣の祖である。>また木國の造の祖、宇豆比古の妹山下影日賣を妻として生んだ子は、建内宿禰である。

建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと)。「沼河」は「ぬなかわ」と読む理由も意味も、白檮原の朝(神武天皇)の御子、神沼河耳命と同様だ。【伝廿の三十六葉】この御子の軍功のことは、水垣の宮の段に出ている。○阿倍臣(あべのおみ)。「阿倍」は地名だろうが、どこのことか知らない。駿河国に安倍郡があり、大和国十市郡に安部村がある。【いわゆる安部文殊があるところだ。この地名は、古い書物に見えない。】また摂津国東生(東成)郡に安倍野(阿倍野)というところもある。このどれかではないだろうか。よく調べる必要がある。【延佳は頭書きで伊賀国の阿拝(アヘ)郡を引いて阿倍臣は敢臣(アヘのおみ)とも書くと言ったのは間違いである。敢(あえ:旧仮名アヘ)は「ヘ」を清んで読むので、阿倍臣とは違う。阿倍の「倍」は濁る。混同しないように。「阿拝郡」の「拝」も清音で、「敢」と同じだ。】書紀には、大彦命は阿倍臣ら全部で七つの氏族の先祖」と見え、垂仁の巻に「阿倍臣の遠祖、武淳川別(たけぬなかわわけ)命」と見えており、その後もこの氏の人が各御代に時々見える。孝徳の巻に、「天皇即位の日、阿倍内麻呂を左大臣とした」とある。【「蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだいしかわまろ)臣を右大臣とした」。これは左右の大臣が登場した初めである。】これはまた倉梯麻呂(くらはしまろ)ともいう人だ。【同じ御世の五年三月乙巳朔辛酉、阿倍大臣は死んだ。】天武の巻に「十三年十一月戊申朔、阿倍臣に朝臣の姓を与えた」、続日本紀に「大宝元年三月、阿倍朝臣御主人を右大臣とした」【御主人は「みうし」と読む。「うし」を「主人」と書くのはいくつか例がある。この人の姓は、天武紀や持統紀には布施朝臣とあって、持統天皇十年のところで初めて阿倍朝臣と出ている。続日本紀二には阿倍普勢臣(あべのふせのおみ)御主人と書いたところもある。布施朝臣は新撰姓氏録では「阿倍朝臣と同祖」とあるから、この氏の人はもと布施だったのを阿倍に改めたのだろう。大宝三年閏四月に死んでいる。】新撰姓氏録の左京皇別に「阿倍朝臣は孝元天皇の皇子、大彦命の子孫」とある。【続日本紀には「慶雲元年十一月、引田朝臣宿奈麻呂(すくなまろ)に阿倍朝臣の姓を与えた」、「和銅五年十二月、阿倍臣宿奈麻呂が言上して、『引田朝臣邇閇(にへ)、東人、船人、久努(くぬ)朝臣御田次(みたすき)、長田朝臣大麻呂、多祁留(たける)ら六人は、実際は阿倍氏の本家に等しく、宿奈麻呂と何の違いもありません。ただ住んでいるところによって氏が分かれただけです。できれば別の氏を名乗ることをやめて、ともに本姓を賜りたいと思います』と言った。詔して、そのことを許した」とある。○吏部王記にいわく、「昔安倍氏の先祖は、勅命で新羅を討ったときに軍功があった。大嘗会の日に報命して、この舞を舞った。そこで相伝えて『大嘗会の舞』とした。云々」と、北山抄の大嘗会の儀、吉志舞(きしまい)の頭書きにある。この氏の先祖に新羅を討たせたことは、天智紀(即位前記)に前将軍・後将軍ら五人を遣わして百済を救援させた。このときの阿倍引田比邏夫(あべのひけたのひらぶ)臣がそれだ。また二年三月、前将軍・中将軍・後将軍六人を遣わし、二万七千人を率いて新羅を討たせた。このときも比邏夫臣が後将軍の一人だった。これらのことを言うのだろう。】ところで建沼河別命の子孫は阿倍氏の他にも、新撰姓氏録に「竹田臣は阿倍朝臣と同祖、大彦命の子、武淳川別命の子孫である」と見え、国造本紀に「須羽(すわ)国造は纏向の日代の朝(景行天皇)の御代、建沼河命の孫、大臣命(おおみのみこと)を国造とした【「須羽」は、一本に「那須」とある。】という。○比古伊那許志別命(ひこいなこしわけのみこと)。【真福寺本、他一本に「志」を「士」と書いている。注も同じ。】名の意味はよく分からない。新撰姓氏録には「彦背立大稻腰(ひこせたつおおいなこし)命とある。○膳臣(かしわでのおみ)。膳は膳夫(かしわで)である。そのことは既に上巻に出た。【伝十四の五十五葉】書紀には「大彦命は膳臣ら、全部で七つの氏族の始祖である。」とある。【この「膳」の字を、今の本は「膽」に誤っている。】景行の巻に「五十三年秋八月、伊勢に行幸した際、東海に出て、上総国に行き、海路で淡水門(あわのみなと)に渡った。覺賀鳥(かくがどり)の鳴く声が聞こえたので、その鳥の姿を見たいと思って海上に出たとき、白蛤(うむぎ)を得た。そこで膳臣の遠祖、磐鹿六鴈(いわがむつかり)という者が蒲を襷にかけて、それをなますに調理して奉った。そこで六鴈臣の腕を賞めて、膳大伴部(かしわでのおおともべ)の姓を授けた」とある。【この故事は年中行事秘抄の「内膳司、忌火の御飯を供えること」の條のところに引いてあり、高橋氏文にもあるが、少々異なるところもある。その文は古いもののようだ。しかし誤字も多く、長いので、ここに引くことはできない。磐鹿六鴈は新撰姓氏録に大彦命の孫とあるから、伊那許志別命の子なのだろう。年中行事秘抄の辰の日の節会に、「高橋氏文にいわく、六鴈命は七十二年秋に死んだ。天皇の宣命に『十一月新嘗のことも膳職の御膳のことも、六鴈命が苦労して始めたことである。そこで六鴈命の御霊を膳職に齋(いわ)い奉って、春秋の永世の神財(かむたから)として仕え奉らせよう』と言った」とある。七十二年は景行天皇の御代である。天皇の宣命もその時のように聞こえるが、内容からすると、後の天皇の言葉だろう。書紀に「膳大伴部の名を与えた」とあるのは、この時にこの姓を与えたような書き方だが、そうではない。たくさんいる膳夫の伴部を、六鴈命の部下として率いさせたのであって、その伴部は広くいたから「大伴部」と言ったのだ。この伴の部を率いるから膳臣と言う。これがまさに姓になったのは、やや後のことだろう。履中の巻に「三年・・・遊宴した。膳臣余磯(あるし)が酒を献じたとき、桜の花が御盃に浮いていた。・・・そこで膳臣余磯をなづけて稚櫻部臣(わかざくらべのおみ)とした」とある。このことは下巻若櫻の宮(履中天皇)の段で言う。雄略の巻に「膳臣長野は宍(しし:獣肉)のなますを上手に作る。云々」、安閑の巻に「内膳卿、膳臣の姓を与えて朝臣とした」とある。新撰姓氏録の左京皇別に「高橋朝臣は阿倍朝臣と同祖、大稻輿(おおいなこし)命の子孫である。景行天皇が東国を巡って狩りをしたとき、大きな蛤を調理して献じた。この時天皇はそれが甚だ美味なのに感心して、膳臣の姓を与えた。天淳中原瀛眞人【諡は天武】十二年、膳臣の姓を改めて高橋朝臣とした」とある。【ここで膳臣という姓を与えたのを、景行の時のこととしているのは、紛れて伝えたのだろう。また「十二年」は「十三年」の誤りだろう。だが膳臣を改めて高橋朝臣としたということは、書紀には見えない。朝臣姓を与えたときもまだ膳臣と書かれていて、その後持統紀の五年に十八氏を挙げた中でも膳部とある。ただし中臣連を藤原氏と呼ぶのも天智の御代に始まっただろうが、天武の御代に朝臣姓を与えたところではまだ中臣のままだ。それと同じで、このころ既に高橋と言っていたのではなかろうか。高橋は住んでいたところの地名である。大和国添上郡にある。崇神紀に「高橋邑」、延喜式神名帳に「高橋神社」、武烈紀の歌に「タ(てへん+施のつくり)箇播志(たかはし)」とあるのがそうだ。続日本紀に「神護景雲二年二月、勅して『高橋・安曇二氏を内膳司に任命したのは、膳を奉る職としたのである。その他の氏をこれに任ずるときは、(この二氏を)名付けて正(かみ)とせよ』と言った」、また高橋氏文に「太政官符にいわく、高橋・安曇二氏を神事の御膳を供奉するものと定める」とある。この二氏が御膳のことにあずかるのは、諸書に見える。特別な由緒があるからだろう。安曇氏のことは伝六の六十八葉で言った。】また「膳大伴部は、阿倍朝臣と同祖、大彦命の孫、磐鹿六鴈命の子孫である。景行天皇が東国を巡って狩りをしたとき、上総国に行き、海路で淡水門に渡った。そのとき海中から白蛤が出た。そこで磐鹿六鴈が調理して、御膳を奉った。天皇はこれを賞めて、膳大伴部の姓を与えた」とある。【膳臣の他に膳大伴部とあるのは、後に景行紀の文によって、後に与えたものだろう。この姓があるからといって、上記の景行紀の「膳大伴部」をその通りに信じてはいけない。新撰姓氏録の記事は、景行紀の文をそのまま取ってこの氏の由緒にしたものだ。】また和泉国皇別に「膳臣は、宇太臣、松原臣、阿倍朝臣と同祖で、大鳥膳臣らもみな大彦命の子孫である」、【この文の書き方はおかしく思える。】摂津国皇別に「高橋臣は阿倍朝臣と同祖、大彦命の子孫である」などとある。大毘古命の子孫は、これら阿倍・膳の他にも多い。書紀には「大彦命は阿倍臣、膳臣、阿閇臣、狹々城山(ささしろのやま)君、筑紫國造、越國造、伊賀臣、全部で七族の先祖である」と見え、【阿閇(アヘ)臣は伊賀国阿拝郡に因む姓で、阿倍(アベ)とは清濁が違う。この清濁の違いが分からず、ここの阿閇を阿倍と区別しようとして「あとじ」などと読むのは大きな誤りだ。新撰姓氏録の河内国皇別に「阿閇朝臣は、阿倍朝臣と同祖、孝元天皇の皇子、大彦命の子孫である」、また「阿閇臣は、阿閇朝臣と同祖で、大彦命の子、彦瀬立大稻越命の子孫である」、また右京皇別に「阿閇臣は大彦命の子、彦背立大稻輿命の子孫である」。この他にも阿閇臣はたくさんある。とすると阿閇は伊那許志別命の子孫で、阿倍とは異なることが明確である。阿倍は建沼河別命の子孫だからだ。これを伊賀の阿拝(あへ)とする根拠は、続日本紀卅六に「伊賀国敢(あへ)朝臣云々」とあるからだ。狹々城山君のことは下巻の穴穂の宮(安康天皇)の段で言う。筑紫国造のことは玉穂の宮(垂仁天皇)の段で言う。越国造は、国造本紀に「高志国造は、志賀高穴穂の朝(成務天皇)の御代に、阿閇臣の祖、屋主田心(やぬしたごころ)命の三世の孫、市入(いちいり?)命を国造とした」とある。屋主田心命は、新撰姓氏録の伊賀氏の條に「伊賀臣は、大稻輿命の子、彦屋主田心命」とあり、伊賀臣は天武の御世十三年に朝臣名を賜い、新撰姓氏録の右京皇別に、「伊賀は大稻輿命の子、彦屋主田心命の子孫である」とある。一本に伊賀宿禰とあるが疑わしい。朝臣を誤ったのかも知れない。】新撰姓氏録に布勢朝臣、宍人(ししびと)朝臣、【大彦命の子、彦背立大稻腰命の子孫である。】許曾倍(こそべ)朝臣、名張、阿倍志斐(あべのしい)連、【大彦命の八世の孫、稚子(わくご)臣の子孫である。】若櫻部朝臣、【大彦命の孫、伊波我加利(いわがかり)命の子孫である。「我」の下に「牟都(むつ)」の二字が脱けたのか。】阿閇間人(あへのはしびと)臣、他田廣瀬(おさだのひろせ)朝臣、道公(みちのきみ)、音太部(おだべ?)、會加(えが)臣、杖部(はせつかべ)、坂合部首、久々智(くくち)、坂合部、伊我水取(いがのもいとり)、吉志(きし)、三宅人(みやけのひと)、日下連、【大彦命の子、紐結(ひもゆい)命の子孫である。】大戸首(おおべのおびと)、【大彦命の子、比毛由比(ひもゆい)命の子孫である。】難波忌寸(なにわのいみき)、難波、【大彦命の孫、波多武彦(はだたけひこ)命の子孫である】などの名が見える。○尾張連は前に出た。【伝廿一の廿二葉】○意富那毘(おおなび)。旧事紀五で、尾張連の系譜を記した中に、「饒速日命の七世の孫、建諸隅命の子、倭得玉彦(やまとえたまひこ?)命、またの名、市大稻日(いちおおいなび)命【母は葛木直の祖、大諸見足尼(おおもろみのすくね)の娘、諸見己(もろみこ?)姫】」と言っている。これだろう。○高千那毘賣(たかちなびめ)。名の意味は、「千」は前記の「千々速」の千々と同じだ。「那」は「名」か、旧事紀に兄の名が「稻日」と書かれていることから考えて「稻」の意味か。【師(賀茂真淵)は「兄の名と考え合わせれば、那毘(なび)と続いた名で、賣が女を意味する」と言った。これももっともだが、やはり高千那毘比賣(たかちなびひめ)というところを、「比」を一つ省いたのだろう。前出の倭登々(やまとトト)を省いて「倭登(やまとと)」と書いたのと同類だ。】この比賣は、旧事紀を見ると大稻日命に妹はなく、その父建諸隅命の妹に大海姫(おおあまひめ)命、またの名、葛木の高名姫(たかなびめ)命という名がある。この高名姫だろう。それはこの記にあるように、大稻日の妹だったのを、誤ってその父の妹の大海姫のまたの名と伝えたのだろう。【大海姫は水垣の宮の天皇(崇神)の妃で、別人である。】大稻日の母は葛木直の娘だから、妹も同母で、母のいた葛木に住んでいたので、「葛城の」と言ったのだろう。○注に「那毘の二字は音で読め」とあるのは疑問だ。「那毘賣の三字は」とあるべきだった。○味師内宿禰。「うましうちのすくね」と読む。味師は「可美葦牙(うましあしかび)」、「可怜小汀(うましおばま)」などと同様の美称である。「宇麻志麻遲」などという名もある。【「師」の字には意味はない。音を取って仮名に用いているのでもない。この字は、音をそのまま訓に用いて、借字として使ったことが多い。師木、土師(はにし)などがそうだ。これらも音を用いたのではない。記中、この字を仮名に使った例はなく、音と訓を混ぜて書いた例も滅多にないからである。】「内」は地名だ。このことは建内宿禰のところで言う。「宿禰」は、遠つ飛鳥の宮(允恭天皇)の段の歌に「須久禰(すくね)」とあり、この号が正しく見えた例である。【正しく見えるとは、仮名書きされていることを言う。】弘仁私記に「昔、皇子のことは『大兄(おおえ)』と呼び、近臣を『少兄(すくなえ)』と呼んでいた。『宿禰(すくね)』とは少兄という意味だ」とあり、この意味の名である。【ただし、允恭天皇の名にも入っているのは、その兄の名の「大兄」に対して「少兄」の意味だろう。とすると、臣だけに限ったものでもない。「すくなえ」を縮めて「すくね」と言うのだ。弘仁私記では、この文の次に、一説として「帝王が相親しんで、『そこにねよ』と言った。多分『敬う』という意味だ」とあるのは幼稚で論ずるに足りない説だ。これは旧事紀の説である。この他、宿禰について旧事紀に書いてあることはみんな外れだ。】これはいにしえには、単に親しみを込めて呼んだ言葉であり、それが姓(かばね)になったのは、浄御原(天武天皇)の御世に始まったことなのだ。【このときに八色の姓が定められた。第一は眞人、第二は朝臣、第三が宿禰だ。その時、各氏族に与えられた状況を見ると、宿禰姓の多くはそれまでの連姓だった氏族に与えられているようだ。】ところでこの人のことは、書紀の應神の巻に「九年夏四月、武内宿禰を筑紫に派遣して、人々の現状を視察させた。武内宿禰の弟、甘美内宿禰(うましうちのすくね)は兄を陥れようとして、天皇に讒言して・・・天皇は武内宿禰と甘美内宿禰に質問したが、それぞれ激しく主張をぶつけ合い、どちらが正しいとも決めかねた。天皇は探湯(くがたち)によって神祇に伺おうと言った。そこで武内宿禰と甘美内宿禰が磯城の河辺で探湯を行ったところ、武内宿禰の勝ちと決まった。彼は太刀を取って甘美内宿禰を打ち倒し、まさに殺そうとしたとき、天皇は彼を許してやれと言い、その身柄を紀伊の直らの祖に引き渡した」とある。【紀伊の直らの祖というのは、武内宿禰の母の家である。「身柄を引き渡した」というのは、その家の奴婢にしたのだ。これが本当に應神九年のことだったら、味師内宿禰もたいへん長生きしたものだ。景行の末年に生まれたとしても、このときは百五十歳を超えている。】と見える。「武内宿禰の弟」とあるのは、この記と兄弟の順序が違っているようだが、母が違うので、この記の記述では、どちらが兄とも言えない。【名を挙げた順序は、母の尊卑によっているのかも知れない。】兄弟の順序は、書紀に「弟」とあるのに従って考えればよい。○山代内臣(やましろのうちのおみ)。山代は山背国である。【この国のことは水垣の宮の段で言う。】「内」は和名抄にある「山城国綴喜郡の宇智郷」である。書紀の雄略の巻に「山背内村(やましろのうちのむら)」、延喜式神名帳に「綴喜郡、内神社」などがある。【今、内里村というのがある。これだろうか。】この姓は、書紀の欽明の巻【十四年、十五年】に「内臣(うちのおみ)【名を欠く】」のことが見える。新撰姓氏録の大和国皇別に「内臣は、孝元天皇の皇子、彦太忍信命の子孫である」、また「山公(やまのきみ)は内臣と同祖、味内宿禰の子孫である」【これらは山代国の有智から、大和国に移住したのだろう。】○木國造(きのくにのみやつこ)。国造本紀に「紀伊国造は、橿原朝の御世に、神皇産霊命の五世の孫、天道根(あめのみちね)命を国造とした」、新撰姓氏録の河内国神別に「紀直は、神魂命の五世の孫、天道根命の子孫である」、また和泉国神別に「紀直は、神魂命の子、御食持(みけもち)命の子孫である」とある。【木国造は水垣の宮の段、書紀の敏達の巻にも見え、紀直は、書紀の神功の巻に紀直豊耳という人が見える。国造と直は同じ氏である。上巻に「天津日子根命は木国造の祖」とあるが、それは茨木の茨が脱けている。伝七の七十六葉で言った。】続日本紀に「神亀元年十月、紀伊国名草郡の大領、紀直摩祖(まおや?)を国造とした」、【天皇が紀の国に行幸したときのことだ。】「天平元年三月、紀直豊嶋を紀伊国造とした」、「延暦九年五月、紀直五百友(いおとも)を紀伊国造とした」などと見え、続日本後紀の承和二年、三代実録の貞観五年に、紀直氏の人に宿禰姓を与えたことが出ている。【続日本後紀に「嘉祥二年、紀伊守、伴宿禰龍男と国造、紀宿禰高繼とが不和になって云々」という記事がある。】貞観儀式に、出雲国造と紀伊国造を任命する式が載っている。他の国造とは違う由縁があるらしい。【特別な大神を祀るからだろう。この国造は日前・國懸の二大神の神官で、現在に至るまでこの氏は続いており、紀国造と名乗っている。その系図を見ると、天道根命を始祖として、「日前・國懸の両大神が天降ったとき、お伴に仕えた」とある。】○宇豆比古(うずひこ)。この名は白檮原の宮(神武天皇)の段にある槁根津日子(さおねつひこ)の名を、書紀で「珍彦(うずひこ)」と書いてあるのと同様だろう。書紀の孝元の巻では「兎道彦(うじひこ)」とある。【紀国造の系図を見ると、第一:天道根命、第二:比古麻、第三:鬼刀禰、第四:久志多麻、第五:大名草比古、第六:宇遲比古の順序である。今の世に、紀の国の若山に「宇治」というところがある。この地名に因む名だろう。○山下影日賣(やましたかげひめ)。名の意味は、まず「山下」は木々が紅葉した秋の山の色を言う。そのことは軽嶋の宮の段の最後に「秋山之下氷壮士(あきやまのしたびおとこ)」というのがあり、そこ【伝三十四の三十二葉】で言う。【書紀の孝徳の巻に、眞舌媛(ましたひめ)という名があるが、これは山下の「や」を省いたものか。】「影」は「輝く」で、【「かげ」、「かがやく」、「かがよう」、「かげろう」など、みな同じ語の活用である。】輝くように美しい容貌を賞めた名である。影媛という名は、書紀の武烈の巻にもある。○建内宿禰(「たけうちのすくね)。建内は「たけうち」と読む。【世間でこれを「武之内」と「の」を添えて読むことが多いが、それは古言を知らず、後世「竹内(たけのうち)」という地名があるのに引かされた、みだりな読みである。いにしえに「建之」などと言ったことはない。】「建」は例の美称で、「内」は味師内と同じく、住んでいた地名だ。つまり大和国有智郡である。延喜式神名帳の有智神社、諸陵式の有智陵【皇后井上内親王】などもこの郡にあり、万葉巻一(4)に「内乃大野(うちのおおぬ)」とあるのもここだ。兄弟共にこの地に住んでいたのだろう。【山城国綴喜郡の有智ではないだろう。建内宿禰が山城にゆかりあるということは、古い書物に見えない。書紀の神功の巻に「武内宿禰らは、精兵を選び、山背から出て菟道(うじ)に到った。云々」という文があるが、これは山背に住んでいて、そこから出発したのではない。味師内宿禰が山城の内臣の祖であるというのは、この人の子孫が後に山城国綴喜郡に移り住み、大和の故地の名からそこを内村と呼舞踊になって、そのことから内臣と言うようになったか、または大和にいたときに既に内臣と呼んでいたのが、山城に移ってそこを内村と言うようになったのか、いずれにせよ大和がもとで、山城にあるのはその子孫の住んだ土地だろう。】下巻、高津の宮(仁徳天皇)の段の歌に、この人を「宇知能阿曾(うちのあそ)」と詠んでいる。書紀の神功の巻にもそう書いてある。【「阿曾」は「あそみ」の略である。「あそみ」のことは、その歌のところで言う。】続日本紀の慶雲四年の詔に、「建内宿禰命」と言っている。書紀には「彦太忍信命は、武内宿禰の祖父である」とあり、景行の巻に「三年春二月庚寅朔、天皇は紀伊国に行って、諸々の神を祭ろうと卜ったところ、あまり良い結果が出なかった。そこでみずから行くことは止め、屋主忍男武雄心命【一名武猪心】をやって祭らせた。屋主忍男武雄心命は、阿備柏原(あびかしわばら)に出て神祇を祭った。その後そこに九年住んで、紀直の遠祖、菟道彦の娘、影媛を娶って武内宿禰を生んだ」とある。この記の伝えと異なる。【他の書物も、書紀と同じように建内宿禰を孝元天皇の曾孫、彦太忍信命の孫としている。】そうなるとこの人の誕生日は、成務の巻に「初め天皇と武内宿禰は同日に生まれた」とあるのと年紀が合わない。【というのは、景行の巻三年に父の命が紀国に行って、九年その地に留まっている間に生まれたのだから、この人は景行四年から十二年までに生まれたことになるが、成務天皇は景行四十六年に立太子したとき、年二十四とある。とすると二十三年に生まれたわけだ。武内宿禰の生まれた十二年より十一年後のことになる。またこの天皇が皇太子になったのは、景行の巻には五十一年のこととあるから、四十六年とあったのを誤りと考え、その年二十四歳として計算すると、景行廿八年に生まれたことになり、上記の十二年より十六年遅れている。また父の天皇が崩じたとき、百七歳だったとあるのから計算すると、景行十四年に生まれたことになるが、これでも二年遅れだ。こういう風に成務天皇の年紀もあれこれみな合わないから、この人の生まれた年も、定かには分からない。そのことは後にも述べる。ただ成務天皇と同日の生まれと言うことは本当なのだろう。しかし仁徳天皇がこの人の子の木菟宿禰と同日に生まれたというのと、同じ話になっているのは怪しい。あるいは二つのことが混同されて伝わっているのか。ところで今、紀伊国名草郡安原郷の松原村というところにこの人の誕生の地という古い井があるのは、いにしえから伝えた真伝ではないだろうか。】この人は志賀の宮の段に初めて登場し、大臣にしたとある。【これは大臣という呼び名の初めでもある。大臣についてはそこで言う。】訶志比の宮(仲哀天皇)、軽嶋の宮(應神天皇)を経て、高津の宮(仁徳天皇)の段まで見える。書紀には景行天皇の廿五年から見えて、【この年、武内宿禰を派遣して、北陸および東方諸国の地形、百姓たちの実態を検察させたというが、そうすると彼の生まれた年はますます分からない。十二年生まれなら、この年はわずか十四歳である。四年の生まれとしても弱冠廿二歳。そんな子供に大任を負わせるだろうか。ただ倭建命は十六歳で熊襲討伐に遣わされたのだから、そういうこともあるだろうか。だがそうなると成務天皇の生まれ日とはいよいよ違ってくる。】同十五年に、棟梁の臣に定めたとある。【「棟梁の臣」とは、欽明の巻に「任那はお前の国の棟梁である。棟梁を折ったら、誰が家を建てられるだろう」、推古の巻に「両僧は仏教を広めて、ともに三宝の棟梁となった」、続日本紀八に「道藏は、実に法門の袖領、釈道の棟梁である」、同廿三に「臣の父および叔父は、ともに聖代の棟梁で、ともに明時の羽翼となった」などとある。漢籍にもある字で、「股肱」などというのも同じ意味だ。要するに群臣を率いる意味で、「長」というのと同じである。近世でも、大工の長を棟梁という。ここもそういう意味で書いてあるから、読みは字にこだわらない。「臣連八十伴緒(おみむらじやそとものお)のかみ」と読む。これを字にこだわって「むねまちぎみ」とか「むねとるまちぎみ」などと読んでは、いにしえの意にも言にもならない。またこれを官名のように解するのも誤りだ。】成務天皇三年には大臣としたとあり、その後仁徳天皇の五十年まで見える。上代の人の中で、後世まで名高いことは、この大臣に及ぶ人はなく、世にあまねく語り伝えている。まことに六つの御代の朝廷に仕え、甚だ忠誠で功績も大きかった【続日本紀三に、藤原不比等に食封を与える詔で、「汝の父、藤原大臣の仕えたさまは、建内宿禰命が朝廷に仕えたさまと全く同じである」と言っている。また天平八年の詔で「昔、軽の堺原の宮で天下を治めた天皇の曾孫、建内宿禰は、君に忠を尽くし、人臣の節をまっとうして、八氏の祖となって万代の基を築いた云々」ともある。】長命であったことは世に類なく、高津の宮の天皇の歌にも「那許曾波、余能那賀能比登(なこそは、よのながのひと)」【「汝こそは、世の長の人」ということだ。】と詠み、【書紀には「儺虚曾破、豫能等保臂等、儺虚曾波、區珥能那餓臂等(なこそは、よのとおびと、なこそは、くにのながびと)」とある。「世の遠人、国の長人」ということである。】大臣の答歌にも「阿禮許曾波、余能那賀乃比登(あれこそは、よのながのひと)」とある。実際、書紀の年紀を信じるなら、およそ三百歳にもなろうかというほどだ。【景行天皇の四年から仁徳天皇の五十年まで、二百八十九年である。十二年から計算すると二百八十一年だ。だが仁徳の五十年から後、どれほど生きていたのか、死亡がいつとも書かれていないから、寿命は分からない。允恭五年にこの人の墓のことが書かれているので、それより前に亡くなっていたのだ。この大臣については、後世の書物などに、あれこれ言われているけれども、みな不確かなことばかりだ。しかし一、二例を挙げると、帝王編年記には「仁徳天皇七十八年庚寅、大臣武内宿禰が死んだ。年は未詳、一説に景行天皇九年己亥誕生・・・紀朝臣氏久が言うところでは、『武内宿禰大臣は、六代の帝に大臣として仕えたが、その死んだ地は分からなかった』、一書にいわく、『東夷を平らげて還るとき、体が苦しくなって甲斐の国に入ったが、死んだ地は分からなかった』、また一書にいわく、『美濃国不破山に入った』、また一書にいわく、『大和国葛下郡に還ってきて死んだ。室の破賀墓がこれだ』という」と言っている。他の書物にもこれと同様のことが、あれこれ書いてある。水鏡には「仁徳五十五年に死んだ。年二百八十歳」と言い、公卿補任には「景行九年己卯に生まれ、仁徳七十八年庚寅に死亡、年三百十二」とある。年は、あるいは二百五十五とも、二百八十とも、二百八十二とも、二百九十五とも、三百六十とも、とりどりに言われる。愚管抄には三百八十余歳とある。また武内伝という本に、「因幡国風土記にいわく、難波の高津の宮の御代、五十五年春三月、大臣武内宿禰、年三百六十余歳は、当国に下向して、龜金に草履を残していなくなった、隠れた場所は不明である。おそらく因幡国法美郡、宇倍(うべ)山麓に神社があり、宇倍神社と呼ぶが、これが武内宿禰の霊である。昔武内宿禰は東夷を平らげて宇倍山に入った後、どこで死んだか分からない」という。延喜式神名帳に「因幡国法美郡、宇倍神社、名神大」、また「筑後国三井郡、高良玉垂命(こうらたまだれのみこと)神社、名神大」とあり、これらもこの大臣を祭るという。民部省圖帳の残編というのがあるが、「高良玉垂宮、玉垂命を祭る。天平の年に武内宿禰と荒木田襲津彦を祭って相殿とした」とある。この他にも、この大臣を祭るという神社はかれこれ見える。なお高良は、今は「こうら」と読んでいるが、「高」の字は、古い書物では「こ」の仮名に使っていたから、「こら」というのが本来だろう。】

 

此建内宿禰之子。并九<男七女二。>波多八代宿禰者。<波多臣。林臣。波美臣。星川臣。淡海臣。長谷部君之祖也。>次許勢小柄宿禰者。<許勢臣。雀部臣。輕部臣之祖也。>次蘇賀石河宿禰者。<蘇我臣。川邊臣。田中臣。高向臣。小治田臣。櫻井臣。岸田臣等之祖也。>次平群都久宿禰者。<平群臣。佐和良臣。馬御クイ(木+織のつくり)連等祖也。>次木角宿禰者。<木臣。都奴臣。坂本臣之祖。>次久米能摩伊刀比賣。次怒能伊呂比賣。次葛城長江曾都毘古者。<玉手臣。的臣。生江臣。阿藝那臣等之祖也。>又若子宿禰。<江沼財臣之祖。>

訓読:このタケウチのスクネのこ、あわせてココノタリ。<むすこななたり、むすめふたり。>ハタのヤシロのスクネは、<ハタのオミ、ヤハシのオミ、ハミのオミ、ホシカワのオミ、オウミのオミ、ハツセベのキミのオヤなり。>つぎにコセのオカラのスクネは、<コセのオミ、サザキベのオミ、カルベのオミのオヤなり。>つぎにソガのイシカワのスクネは、<ソガのオミ、カワノベのオミ、タナカのオミ、タカムコのオミ、オハリダのオミ、サクライのオミ、キシダのオミらのオヤなり。>つぎにヘグリのツクのスクネは、<ヘグリのオミ、サワラのオミ、ウマミクイのムラジらのオヤなり。>つぎにキのツヌのスクネは、<キのオミ、ツヌのオミ、サカモトのオミのオヤ。>つぎにクメのマイトヒメ。つぎにヌのイロヒメ。つぎにカヅラキのナガエのソツビコは、<タマデのオミ、イクハのオミ、イクエのオミ、アギナのオミらのオヤなり。>またワクゴのスクネは、<エヌマのオミのオヤ。>

口語訳」この建内宿禰の子は、全部で九人あった。<息子が七人、娘二人である。>波多八代宿禰は、<波多臣、林臣、波美臣、星川臣、淡海臣、長谷部君の先祖である。>次に許勢小柄宿禰は、<許勢臣、雀部臣。輕部臣の先祖である。>次に蘇賀石河宿禰は、<蘇我臣、川邊臣、田中臣、高向臣、小治田臣、櫻井臣、岸田臣らの先祖である。>次に平群都久宿禰は、<平群臣、佐和良臣、馬御クイ(木+織のつくり)連らの先祖である。>次に木角宿禰は、<木臣、都奴臣、坂本臣の先祖である。>次に久米能摩伊刀比賣。次に怒能伊呂比賣。次に葛城長江曾都毘古は、<玉手臣、的臣、生江臣、阿藝那臣らの先祖である。>また若子宿禰は、<江沼臣の先祖である。>

九は九人である。師が「ここのたり」と読んだのに従う。○男は「むすこ」、女は「むすめ」と読む。【「むすこ」という呼び方は、古い書物には多くは見えないが、中古の物語文などでは、貴賤の別なく普通に使う言葉である。「むすこの君」などとも言った。「むすめ」は書紀の訓にもよく出て来て、これまた中古でも今でもよく言う言葉だ。とすると、これに対して「むすこ」と言うのも、古言であったことは疑いない。ただ「むすこ」、「むすめ」とは今でも普通に言い慣れて、何だか古言でないように感じるので、書紀の訓などは「おのこ」、「めのこ」などと付けることが多い。和名抄では男子、女子とのみ挙げられ、和名が書かれていない。新撰字鏡にも見えない。】○波多八代宿禰(はたのやしろのすくね)。「波多」は住んでいたところの名だ。この地名は諸国に多く、すぐにどことも決められない。やはり大和国だろうか。それは書紀の~武の巻に「層富(そお)縣の波タ(口+多)丘岬(はたのおかざき)に、新城戸畔(にいきとべ)という者がいた」と見え、【今も添下郡に新木村というのがあるから、この波タ(口+多)は添の上下郡のうちにあったのだろう。】延喜式神名帳に「高市郡、波多神社、波多ミカ(瓦+長)井(はたみかい)神社」があり、和名抄には同郡、波多郷もある。【推古紀に、「廿年五月五日、藥獵(くすりがり)して羽田に集まり(薬猟の集合場所か)、相連なって朝廷にやって来た」とあるのは、この波多だろう。小治田は高市郡だからだ。書紀の履中の巻に「鳥往來羽田之汝妹(とりかようはたのなにも)」とある羽田も同じことだろう。】この二つのどちらかだろうか。またこの人の子孫は、河内・和泉にそこそこ見えるので、和名抄の「河内国茨田郡の幡多(はた)」、延喜式神名帳の「和泉国和泉郡の波多神社」、「日根郡の波太神社」などとある地でもあろうか。「八代」は、これも地名かそうでないか、定かでない。この人の名は、書紀には「羽田の矢代の宿禰」と書かれている。【應神紀三年、履中紀の初めなどに出ている。】○波多臣(はたのおみ)。波多は上記と同じ。この氏は、書紀の天武の巻に「十三年十一月、波多臣に姓を与えて朝臣とした」と見える。推古の巻に「波多の臣廣庭」、持統の巻に「羽田朝臣齋(むごえ)」【続日本紀一に「波多朝臣牟後閇(むごえ)」とあるのと同じ人である。】廃帝紀に八多(はた)朝臣百嶋(ももしま?)などの名が見える。新撰姓氏録【右京皇別】に「八多朝臣は石川朝臣と同祖、武内宿禰命の子孫である」とある。○林臣(はやしのおみ)。林は地名である。これも諸国に多いので、どことも定めがたいが、和名抄にある「河内国志紀郡の拝志(はやし)郷」がそうではないだろうか。というのは、河内国にこの氏がいたからだ。天武紀に「十三年十一月、林臣に姓を与えて朝臣とした」とあり、新撰姓氏録【右京皇別】に「林朝臣は石川朝臣と同祖、武内宿禰命の子孫である」、また【河内国皇別】に「林朝臣は道守朝臣と同祖、武内宿禰命の子孫である」、続日本紀卅九に「河内国志紀郡の人、林臣海主・野守らの姓を改めて朝臣とした」とある。【新撰姓氏録に林宿禰、林連などの名も見えるが、これらは別の氏である。また蘇我入鹿を「林臣」と言ったことが皇極紀に見えるが、これはどこの地名に因む名だろうか。】○波美臣(はみのおみ)。これも地名と思えるが、定かでない。延喜式神名帳に「近江国伊香郡、波彌(はみ)神社」、【同郡に與志漏(よしろ)神社もある。八代に近い。】「丹後国丹波郡、波彌神社」がある。これらの地ではないだろうか。天武紀に「十三年十一月、波彌臣に姓を与えて朝臣とした」とある。【本によっては「彌」を「禰」に誤っている。釈日本紀に「彌」とあるのが正しい。】新撰姓氏録にはこの姓は見えない。続日本紀廿に「播美(はみ)朝臣奥人という名が見える。○星川臣(ほしかわのおおみ)。【「星」の字を諸本みな「黒」と書いているのは誤りだ。真福寺本に「星」と書いてあるのが正しい。】星川は和名抄に「大和国山邊郡、星川【ほしかわ】郷」とあるのがそうだ。【武蔵国久良郡、伯耆国會見郡にもこの郷名がある。延喜式神名帳には「伊勢国員部郡、星川神社」もある。】天武紀に星川臣麻呂という名が見える。【またその子、黒麻呂というのが続日本紀七に見える。】「十三年十一月、星川臣に姓を与えて朝臣とした」とある。新撰姓氏録【大和国皇別】に「星川朝臣は石川朝臣と同祖、武内宿禰命の子孫である。敏達天皇の御世、その住んでいた地の名に因んで星川臣の姓を賜った」とある。○淡海臣(おうみのおみ)。崇峻紀に近江臣滿という名が見える。この姓は、新撰姓氏録には見えない。【淡海眞人、淡海朝臣など見えるが、みな異姓である。】○長谷部君(はつせべのきみ)。続日本紀廿六に長谷部木麻呂、長谷部公(はつせべのきみ)眞子、廿九に「参河国碧海郡の人、長谷部文選などの人名が見えるのは、この氏の人ではないだろうか。【和名抄には、参河国碧海郡に「谷部」という郷名があり、それに「はせべ」と訓を付けているが、拠りどころがあるだろうか。この訓で良いなら、この郷はもとは長谷部だったのを「長」の字を省いて二字とした一例だ。続日本紀に、この氏の人が見えているから、これから出た姓かもしれない。】この姓も新撰姓氏録には見えない。【長谷部造があるが異姓である。】上記の氏々の他にも、新撰姓氏録に【左京皇別】「道守朝臣は波多朝臣と同祖、八多八代宿禰の子孫である」、また【河内国皇別】「道守朝臣は波多朝臣と同祖、武内宿禰の子、八多八代宿禰の子孫である」、「道守臣は道守朝臣と同祖、八多八代宿禰の子孫である」、また【和泉国皇別】「道守朝臣は波多朝臣と同祖、八多八代宿禰の子孫である」、三代実録九に「右京の人、岡屋公(おかのやのきみ)祖代に八多朝臣の姓を与えた。彼は八太屋代(はだのやしろ)宿禰の子孫である。」などある。○許勢小柄宿禰(こせのおからのすくね)。「許勢」は居住地の名で、和名抄の「大和国高市郡、巨勢郷」がそうである。延喜式神名帳に「同郡、巨勢山坐石椋孫(こせやまにますいわくらひこ)神社」がある。万葉に巨勢山を詠んだ歌が多い。【巻一の廿四丁(54)、巻七の六丁(1097)、巻十の六丁(1822?)、巻十二の十九丁(3018?)。また巻一の廿二丁(50)、巻三の廿六丁(314?)、巻十三の十一丁(3257)、廿七丁(3320)に「巨勢道」、巻一の廿四丁(54)に「許湍乃春野乎(こせのはるのを)」などがある。】「小柄」は「おから」と読む。【旧印本に「柄」を「鞆」と書いているのは誤りだ。諸本みな「柄」と書いている。和名抄に「柄は、器物(道具)の茎柯(=柄)である。和名『え』、あるいは『から』」とある。三代実録五には「男韓(おから)」と書いてある。名の意味は思いつかない。この人は、三代実録では第五男としている。○許勢臣(こせのおみ)。「許勢」は上述の通り。この氏は、後に引く続日本紀の文によると小柄宿禰の子、乎利(おり)宿禰の子孫である。書紀の継体の巻に「元年、許勢男人(おひと)臣を大臣にしたことが見える。【廿三年九月死亡。】孝徳の巻に「大化五年、巨勢徳陀古(こせのとくだこ)臣を左大臣とした」。【斉明紀に「四年正月死亡」。】この他にもこの氏の人はあちこちに見える。天武紀に、「十三年十一月、巨勢臣に姓を与えて朝臣とした」とある。新撰姓氏録に【右京皇別】「巨勢朝臣は石川朝臣と同祖、巨勢雄柄(おから)宿禰の子孫である」、「巨勢ヒ(木+威)田(ひだ)朝臣は雄柄宿禰の四世の孫、稻茂(いなもち)臣の子孫である。稻茂の子の荒人は、天豊財重日足姫天皇、諡皇極の御世、葛城の長田を作らせたが、その地の野を上ったところなので、水を十分に注ぐのが難しかった。荒人は機械などを工夫するのが上手で、初めて長ヒ(木+威)を作って、川水を高いところに運び、田を潤した。天皇はたいへん喜んで、ヒ田臣の姓を与えた」、また「巨勢斐太(ひだ)臣は、巨勢ヒ(木+威)田と同氏で、巨勢雄柄の四世の孫、稻茂臣の子、荒人の子孫である」【許勢稻茂は欽明紀に見える。】「巨勢ヒ田臣は武内宿禰の子孫である」などと見える。○雀部臣(さざきべのおみ)。天武紀に、「十三年十一月、雀部臣に姓を与えて朝臣とした」とある。続日本紀十八に「典膳正六位下、雀部朝臣眞人らが言上して『磐余玉穂の宮(継体天皇)、勾金椅(まがりのかなばし)宮(安閑天皇)のとき、雀部朝臣男人が大臣として仕えましたが、誤って巨勢と記録されました。男人大臣は、眞人らの先祖であります。巨勢男柄宿禰には、息子が三人ありました。星川建日子というのは、雀部朝臣らの先祖です。伊刀宿禰というのは、輕部朝臣らの先祖です。乎利宿禰というのは巨勢朝臣らの先祖です。浄御原の朝廷が八姓を定めたとき、雀部朝臣の姓を賜りました。ですから巨勢と雀部は、もとは同祖ですが、姓が別になった後に大臣に任ぜられたのです。・・・どうか巨勢大臣を改めて雀部大臣とするようお願いいたします。』・・・大納言従二位巨勢朝臣奈弖麻呂(弖の正字は氏之下に一)もそのことを証言した。そこで治部に下知して、請願通り改めさせた」とある。【男人大臣のことは、許勢臣のところで述べた。】新撰姓氏録【左京皇別】に、「雀部朝臣は巨勢朝臣と同祖、建内宿禰の子孫である。星川建彦宿禰は、諡應神の御世に、皇太子大鷦鷯(おおさざき)尊に代わって、木綿襷を掛け、御膳のことをつかさどった。それで大雀臣の姓を賜った」とある。これが「雀部」の名を負うもとである。また【摂津国皇別】「雀部朝臣は巨勢朝臣と同祖、建内宿禰命の子孫である」【文徳実録六に、「雀部朝臣春枝、林朝臣並人らの姓を改めて紀朝臣とした」】とある。ところで、神八井耳命の子孫にも同じ姓があった。【伝二十五の五十六葉】「さざきべ」と読むこともそこで言った通りだ。○輕部臣(かるべのおみ)。「軽部」と言うのは、大和国高市郡の「輕(かる)」に因むだろう。こう名に付いている由縁は定かでない。【新撰姓氏録に「軽部は倭日向建日向八綱多(やまとひむかたけひむかやつなだ)命の子孫である。雄略天皇の御世、加里乃郡(かりのこおり)を献じたので、軽部君という名が与えられた」とあるのは、別の氏だが、「軽部」という名が付いた由縁の一例だ。】この氏は、上に引いた続日本紀の記事によると、小柄宿禰の子、伊刀宿禰の子孫である。天武紀に、「十三年十一月、輕部臣に姓を与えて朝臣とした」と見える。新撰姓氏録には見えない。【「輕部」、「輕部連」などあるが、みな異姓だ。】上記の氏々の他にも、新撰姓氏録【未定雑姓】に、「鵜甘部首(うかいべのおびと)は武内宿禰の子、己西(こせ)男柄宿禰の子孫である」とある。○蘇賀石河宿禰(そがのいしかわのすくね)。「蘇賀」は居住地の名で、延喜式神名帳に「大和国高市郡、宗我坐宗我都比古(そがにますそがつひこ)神社」がある。この地である。万葉巻十二【二十七丁】に「眞菅吉宗我乃河原(ますがよしそがのかわら)」と詠んでいるのもここだ。【後世に、ここは出雲だ、いや下野だなどと言っているのは間違いだ。】書紀の推古の巻に「蘇我馬子大臣は、天皇に奏上させて『葛城縣は、もと私どもの本拠地でした。その縣に因んで名としたのです』云々」とある。【「その縣に因んで名とした」というのは少しおかしい。皇極紀に蘇我蝦夷大臣が先祖の廟を葛城高宮に建てたこともある。】とあるのを見ると、蘇賀は葛城郡にあるように聞こえるが、今も曾我村は高市郡にある。葛城の下縣に近いから、いにしえはその辺りまで葛城縣だったかも知れない。「石河」は和名抄にある「河内国石川【いしかわ】郡」がそうである。三代実録卅二に「石川朝臣木村が言上して『始祖の大臣武内宿禰の子、宗我石川は、河内国石川の別業(本拠地以外の領地)で生まれました。それで石川を名にしたのです。宗我の本家を継いだので、宗我宿禰の姓を賜りました』云々」【「宗我宿禰の姓を賜った」というのは誤っている。このとき「宿禰」はただ名に付いているだけで、まだ後の姓(かばね)のようなものではなかった。敏達紀に蘇我馬子宿禰の石川の宅が見えるから、代々別業などあったのだろう。今、大和国高市郡にも石川村があるのは、この氏が住んだのでそういう名になったのではないだろうか。それはともかく、この人の名は河内の石川に因んでいる。】この人は、書紀の應神の巻【三年】にも出ている。○蘇我臣(そがのおおみ)。上記の蘇我によっている。この氏人は、履中紀に蘇我滿智(まち)宿禰、蘇我韓子(からこ)宿禰などが見える。宣化紀に「元年、蘇我稻目(いなめ)宿禰を大臣とした」【欽明紀に、卅一年三月に死亡。】、敏達紀に、「元年、蘇我馬子宿禰を大臣にした」【推古紀に、「卅四年五月死亡。稻目宿禰の子であった」】舒明紀では蘇我蝦夷が大臣だった。【皇極紀の四年六月、子の入鹿と共に殺された。】孝徳紀では蘇我倉山田石川麻呂臣が右大臣だった。【これが右大臣の初出である。大化五年三月に滅ぼされた。】天智紀に「三年五月、大紫蘇我連(むらじ)大臣が死んだ。」【この人は、この前には見えない。ただし続日本紀六に「近江朝の大臣、大紫連子(むらじこ)」とあるのはこの人のことである。】「十年、蘇我赤兄(あかえ)臣を左大臣とした。【天武紀元年八月配流。】後にこの氏は石川に改まった。天武紀に、「十三年十一月、石川臣に姓を与えて朝臣とした」と見える。【「石川」に改まったのは、これより前のことらしい。天武代のことではあるだろう。】新撰姓氏録【左京皇別】に「石川朝臣は孝元天皇の皇子、彦太忍信命の子孫である」と見える。三代実録卅二に「右京の人、石川朝臣木村、箭口(やぐち)朝臣岑業(みねなり?)の石川・箭口を改めて宗岳朝臣(むねおかのあそみ)とした。木村は言上して云々」【これに続く文は上で引いた。新撰姓氏録に「箭口朝臣は宗我石川宿禰の四世の孫、稻目宿禰の子孫である」とある。古今集に宗岳大頼という作者があり、この宗岳を「むねおか」と仮名にも書いているのに、餘材抄に「蘇我あるいは宗我と書いてきたのを宗岳に改めたのは、馬子・蝦夷・入鹿・赤兄などみな逆臣だったから、この後は蘇我氏の人も聞こえず、続日本紀から続日本後紀まで、この氏は見えない。とすると蘇我と書いていたときに、逆臣がいたことを忌み、我を岳に改めたのだろうか。この集は、古い本ではみな眞名(漢字)で宗岳と書いていたのを、『むねおか』とは後人が推測で書いたものか」と言っている。考えると、宗岳とは餘材抄の考えのように、字だけを変えたもので、読みはそのまま「そが」と読むのかも知れない。しかしその頃になると、姓氏も古くからの由緒に関係なく、書かれた文字そのものにこだわるようになり、読むにも響きのいいのを選んで、人名のような姓もたくさんできていたから、初めから「むねおか」と読んだものかも知れない。そうだとすると、「そが」に当たる良い字を選んで、その訓を取ったのだろう。なお続日本紀以降、蘇我氏の人が見えないのは、石川姓に改まったからである。石川朝臣の人は、その後も多く見える。】○川邊臣(かわのべのおみ)。この地名は諸国にありふれているから、どことも定めがたい。和名抄の「摂津国河邊【かわのべ】郡」、これだろうか。その他も畿内に山城国葛野郡、大和国十市郡などにも、この郷名はある。この氏の人は、書紀に時々出ている。天武紀に、「十三年十一月、川邊臣に姓を与えて朝臣とした」と見える。新撰姓氏録【右京皇別】に、「川邊朝臣は、武内宿禰の四世の孫、宗我宿禰の子孫である」とある。【この宗我宿禰は宗我石川宿禰とは別だろう。】○田中臣(たなかのおみ)。この地も確かでない。舒明紀【八年六月】に「岡本の宮が焼けたので、天皇は田中の宮に移り住んだ」とあるのは、大和国高市郡の田中村のことだろう。神楽歌に「殖槻(うえつき)や、田中の杜や」とあるのは、添下郡のことという。【殖槻は、万葉巻十三の長歌(3324)に見える。催馬楽(田中)に「田中の井戸」とあるのもここだろうか。】その郡にも田中村がある。これのどちらかではないだろうか。上巻に「倭の田中の直」という姓もあった。【伝七の七十六葉】この氏人は、天武紀に田中臣足麻呂、田中臣鍛師(かぬち)などの名が見える。「天武十三年十一月、田中臣に姓を与えて朝臣とした」と見える。新撰姓氏録【右京皇別】に「田中朝臣は武内宿禰の五世の孫、稻目宿禰の子孫である」とある。○高向臣(たかむこのおみ)。この地も確かにここと定めることはできない。和名抄に「越前国坂井郡、高向は『たかむこ』」、延喜式神名帳に同郡、高向神社もある。【この地は継体紀に見え、「越前国の邑の名」という注もある。継体天皇の母、振媛(ふりひめ)の出身地の名である。】また因幡国八上郡に多加牟久(たかむく)神社がある。河内郡錦部郡に、高向村がある。これらのうちのどこかだろう。【推古紀に高向の漢人玄理という人名がある。この高向は河内だろう。この玄理は漢人なのに、河内志で武内宿禰の胤と言っているのは、高向臣姓と思い違えた誤りである。】この氏人は、舒明紀、皇極紀、天武紀などに見える。天武紀に「十三年十一月、高向臣に姓を与えて朝臣とした」、新撰姓氏録【右京皇別】に「高向朝臣は石川と同氏、武内宿禰の六世の孫、猪子臣の子孫である」と見え、元明紀に摂津大夫従三位、高向朝臣麻呂という人が見える。○小治田臣(おはりだのおおみ)。【旧印本では「小」の字が脱けている。諸本みなこの字がある。】これは推古天皇が住んだ小治田の地だろう。この地のことは、その段【伝四十四の七十葉】で言う。欽明紀に蘇我稻目宿禰の小墾田(おはりだ)の家のことが出ている。この氏人は、天武紀に小墾田臣麻呂が見える。「天武十三年十一月、小墾田臣に姓を与えて朝臣とした」、新撰姓氏録【右京皇別】に「小治田朝臣は上に同じ」とある。【「上に同じ」というのは、田中朝臣と同じということだ。この他に小治田宿禰、小治田連などもあるが、別姓である。】○櫻井臣(さくらいのおみ)。和名抄に「河内国河内郡、櫻井【さくらい】郷」がある。聖武紀に「天平十六年閏正月、天皇は難波宮に行幸した。安積(あさか)親王は脚の病のため、櫻井の頓宮に還った」【これは河内の櫻井である。】とあるのがそうか、安閑紀に櫻井の屯倉、崇峻紀に櫻井寺、推古紀に櫻井が見えるが、これらも上述の河内ではないだろうか。延喜式神名帳に「和泉国大鳥郡、櫻井神社」がある。また大和国十市郡にも、櫻井というところがある。【その他の国々にもこの地名がある。】この氏人は、舒明紀に櫻井臣和慈古(わじこ)が見える。天武紀に「十三年十一月、櫻井臣に姓を与えて朝臣とした」とあり、新撰姓氏録【左京皇別】に「櫻井朝臣は石川朝臣と同祖、蘇我石川宿禰の四世の孫、稻目宿禰大臣の子孫である」とある。○岸田臣(きしだのおおみ)。この氏人は、天智紀に岸田臣麻呂が見える。天武紀に「十三年十一月、岸田臣に姓を与えて朝臣とした」とあり、新撰姓氏録【右京皇別】に「岸田朝臣は武内宿禰の五世の孫、稻目宿禰の子孫である。その子、小祚(おそ)臣の孫、耳高が岸田村に住んだので、岸田臣と名乗った」とある。ここに岸田の村の国名を言わないのは、大和だろうか。山邊郡にこの名の村がある。そちらだろうか。文徳実録九に、摂津の国人でこの姓が見える。○平群都久宿禰(へぐりのつくのすくね)。「平群」は居住地の名で、和名抄の「大和国平群【へぐり】郡」である。平群郷もある。延喜式神名帳に同郡、平群石床(へぐりのいわとこ)神社、平群神社、平群坐紀氏(へぐりにますきのうじ)神社などがある。倭建命の歌に「多多美許母、幣具理能夜麻能(たたみこも、へぐりのやまの)云々」とあり、【雄略天皇の歌にも見える。】万葉巻十六【卅丁】(3885)に「八重疊平群乃山爾(やえだたみへぐりのやまに)云々」などがある。この人は書紀の仁徳の巻に「昔天皇が生まれた日、木菟(つく)が産殿に入り込んだ。明くる日、譽田(應神)天皇は大臣の武内宿禰を呼んで、『これは何かの瑞兆か』と聞いた。大臣は『吉祥です。私の子も昨日生まれましたが、そのとき鷦鷯(さざき)が産屋に飛び込んできました。これも奇異なことです』と答えた。天皇は『私の子と大臣の子と、同じ日に生まれて同じような瑞(しるし)があった。これは神の心だろう。その鳥の名を取り替えて、それぞれ子の名にして後々の契りとしよう』と言った。そこで鷦鷯の名を皇子(後の仁徳天皇)に付けて大鷦鷯皇子(おおさざきのみこ)とし、木菟の名を大臣の子に付けて木菟宿禰(つくのすくね)とした。これは平群臣の始祖である」とある。【日本紀竟宴歌に「都玖數久禰、須女羅加美許珥、那加弊世流、許己路波幾瀰遠、伊婆布奈理氣利(つくすくね、すめらがみこに、なかえせる、こころはきみに、いわうなりけり)」。三の句は「名換えせる」である。和名抄に「木菟は、爾雅の注にいわく、鴟に似て小さく、兎の頭に毛の角があるようなものだという。和名『つく』(みみずく)」とある。】この人は第三男と三代実録に見える。【後に引く。】履中紀に「二年、この時に当たって、平群木菟宿禰、蘇我滿智宿禰、物部伊苣佛(いこふつ)大連、圓大使主(つぶらのおおおみ)らに共同で国政を執らせた」とある。【するとこの人は、應神紀の三年から履中紀の二年まで見えており、その間百三十年だから、長寿で、百五十歳以上になっていただろう。】○平群臣(へぐりのおみ)。平群は上述した。この氏の人は、雄略紀の初めに「平群臣、眞鳥を大臣とした」【武烈紀の初めで、眞鳥大臣は、子の鮪臣(しびのおみ)と共に殺された。】、この他にも見える。天武紀に「十三年十一月、平群臣に姓を与えて朝臣とした」とあり、新撰姓氏録【右京皇別】に「平群朝臣は石川朝臣と同氏、武内宿禰の四世の子、平群都久(つく)宿禰の子孫である」とある。三代実録五十に「右京の人、平群臣春雄、平群臣秋雄、平群臣秋常、春常ら四人に朝臣の姓を与えた。春雄はみずから出自を都久宿禰だと言った」とある。○佐和良臣(さわらのおみ:旧仮名もサワラ)。さてこれはどこの国だろう。あるいは和名抄に筑前国早良(さわら:旧仮名サハラ)郡があり、早良郷と平群郷が並んでいるので、これだろうか。【ただしこれは郡名も郷名もともに佐波良(旧仮名サハラ)とあるから、仮名が違っている。しかし新撰姓氏録には、この姓も「早良」と書かれており、その郡・郷ももとは「さわら」だったのを。後に「わ」を「は」と唱え誤ったのだろう。「早」の字は音が「サウ(そう)」だから、「ウ」の音を通音の「ワ」に通わせて取ったのだ。初めから「ハ」であったら、入声の「フ」の韻の字を使うところだ。こういったことは、すべての地名の仮名の用法をよく解し得たときに初めて分かることである。】その他、延喜式神名帳に「美作国大庭郡、佐波良神社」、「摂津国嶋下郡、佐和良義(さわらぎ)神社」などがある。この氏人は、続日本紀卅六に「佐波良臣静女」という名が見え、新撰姓氏録【河内国皇別】に「早良臣は平群朝臣と同祖、武内宿禰の子、平群都久宿禰の子孫である」とある。○馬御クイ(木+織のつくり)連(うまみくいのむらじ)。クイの字は、説文に「杙(くい)である」と注し、玉篇に「牛を繋ぐ杙」と注しているから、「くい」と読む。これは地名のようでもなく、どういう由縁の姓か定かでない。他の書物に見えたこともない。新撰姓氏録【大和国皇別】に「馬工連は、平群朝臣と同祖、平群木兎宿禰の子孫である」とあるのは、この姓と同じように思われるけれども、「御クイ(木+織のつくり)」と「工」とが同じ意味になりそうな気はしない。【和名抄に「筑前国嘉麻(かま)郡、馬見は『むまみ』」とあり、延喜式神名帳に「近江国蒲生郡、馬見岡(まみおか)神社」、「野洲郡、馬路石邊(うまじいそべ)神社」があり、斉明紀に「能登臣、馬見龍」という人名もあるが、これらは単に「うまみ」と続いている名を挙げたに過ぎない。ただし「馬路」は「うまみち」か「うまぢ」か分からない。】上記の氏々の他にも、都久宿禰の子孫には、新撰姓氏録に「平群文室(へぐりのふみや)朝臣は都久宿禰の子孫」、「都保(つほ)朝臣は平群朝臣と同祖、都久足尼の子孫」、「額田首(ぬかたのおびと)は早良臣と同祖、平群木兎宿禰の子孫である。父の姓を受け継がないで額田首の姓を負う」などがあり、未定雑姓にも「韓海部首(からあまべのおびと)は武内宿禰の子、平群木兎宿禰の子孫である」などが見え、三代実録五に「味酒首(うまさけのおびと)文雄、味酒首文主、味酒首文宗ら三人に、いずれも巨勢朝臣の姓を授けた。これより先に、巨勢朝臣河守らが奏していわく、『文雄の言によると、先祖は武内宿禰大臣に出ています。大臣の第五男、巨勢男韓(おから)宿禰は巨勢朝臣の祖、第三男、平群木兎宿禰は、文雄の先祖です。木兎宿禰の後、味酒臣の姓を賜り、淪落して(落ちぶれて)伊勢国に住んできました。文雄の親、宗にいたって臣を改めて首の姓を賜り・・・そのため改姓を望み、朝夕思いを刻んできました・・・ただし、祖胤の流れに従って平群の姓を賜るのが当然なのですが、この名は少し平凡です。巨勢という名はたいへん義理が通って、いい名だと思います。・・・特に巨勢朝臣の姓を賜り、長年の沈淪の感懐を慰めたく思います』。その通りにした」【延喜式神名帳に「伊勢国員辨郡、平群神社」があるのは、この氏人が、この国に淪落していたときに祭った社ではなかろうか。】○木角宿禰(きのつぬのすくね)。「木」は紀伊国か。建内大臣の生まれた国で、由縁があるからだ。または和名抄にある「山城国紀伊【き】郡、紀伊郷」がそうか。このどちらかだろう。「角」は和名抄の「周防国都濃(つぬ)郡、都濃郷」がそうだ。その理由は次に言う。国造本紀で周防国造の次に「都怒(つぬ)国造は、難波の高津の朝に紀臣と同祖の都怒足尼(つぬのすくね)の子、田鳥足尼を国造とした」とある。なお角宿禰のことは應神紀、仁徳紀に見える。○木臣(きのおみ)。「木」は前記と同じ。この氏人は、雄略紀(九年)に「紀小弓(おゆみ)宿禰、紀大磐(おいわ)宿禰、小鹿火(おかひ)宿禰」と見え、【顕宗紀に紀生磐(おいわ)宿禰とあるのは、大磐と同じか。】欽明紀に紀男麻呂(おまろ)宿禰、その他にも見える。天智紀(十年)に「紀大人(うし)臣を御使大夫とした。【御使は今の大納言のようなものか。】」、天武紀に「十三年十一月、紀臣に姓を与えて朝臣とした」とあり、新撰姓氏録【左京皇別】に「紀朝臣は石川朝臣と同祖、建内宿禰の子、紀角宿禰の子孫である」、また【右京皇別】に「紀朝臣は石川朝臣と同氏、屋主忍雄建猪心命の子孫である」ともある。【建猪心命は景行紀に見えて、建内大臣の父である。】三代実録九には「左京の人、山村忌寸安野、夏野、全子らに紀朝臣の姓を授けた。紀角宿禰の子孫である」と見える。延喜式神名帳に「大和国平群郡、平群坐紀氏(へぐりにますきのうじ)神社【名神大、月次。新嘗】」がある。【この神社は、「平群坐」とあることからすると、この木臣だけでなく、建内大臣の子孫の氏々、すべての氏神なのだろう。】○都怒臣(つぬのおみ)。雄略紀に「九年、紀小弓宿禰を大将軍として、新羅を討たせたところ、小弓宿禰は新羅で病みついて、死んでしまった。子の小鹿火宿禰が父の喪に従って還るとき、一人角国(つぬのくに)に留まった。倭子連(やまとごのむらじ)に託して八咫鏡を大伴大連に奉り、『私は紀卿(きのまえつきみ:大磐宿禰のことという)と一緒に朝廷にお仕えすることはできません。ですから角国に住まわせてください』と願い出た。そこで大連は天皇にこのことを伝えて、角国に留め住まわせた。角臣たちは、初め角国に住んでいた。角臣の名称はこれから始まったのである」とある。角国は、周防の都濃郡である。【小鹿火宿禰は、紀氏ということも、小弓宿禰の子ということも、書紀でははっきりとは書いていないが、そう読める文だ。】これには疑わしい点がある。すでに先祖の名を角宿禰と言っているのは、角国に因む名だろうに、小鹿火宿禰に至って、初めて角国に留まったことから、角臣と名付けたとはつじつまが合わない。そこで考えるに、角宿禰も仁徳四十三年に百済に遣わされたことがあり、還ってきたときに角国に留まったのは角宿禰であるのを【前に引いた国造本紀の記事も考え合わせて】誤って小鹿火宿禰のことのように語り伝えたのではないか。または先祖の代から由縁のあった土地なので、小鹿火宿禰も留まったのではないか<訳者註:上記のように「角臣たちは、初め角国に住んでいた」と解すると、宣長のような疑問は起きないが、おそらく「角臣たちはこのとき初めて角国に住んだ」と解したことから出た疑いだろう。原文は「是角臣等、初居2角國1」>。この氏人は、天武紀に都努臣牛甘(うしかい)が見える。「十三年十一月、角臣に姓を与えて朝臣とした」とあり、新撰姓氏録【左京皇別】に「角朝臣は紀朝臣と同祖、紀角宿禰の子孫である」【延喜式神名帳に「日向国児湯郡、都濃神社」がある。これはこの氏と関係があるだろうか。】○坂本臣(さかもとのおみ)。「坂本」は、和名抄の「和泉国和泉郡坂本【さかもと】郷」である。【後に引く諸書で分かる。】この氏人は、根臣(ねのおみ)が穴穂の宮(安康天皇)の段に見える。書紀の雄略の巻に、根使主(ねのおみ)が日根に稲城(いなき)を作ったことが出ている。【日根は和泉国の郡名である。】その他も書紀のあちこちに見える。天武紀に「十三年十一月、坂本臣に姓を与えて朝臣とした」とあり、続日本紀卅六には「天応元年、和泉国和泉郡の人、坂本臣糸麻呂ら六十四人を朝臣姓とした」とある。新撰姓氏録【左京皇別】に「坂本朝臣は紀朝臣と同祖、紀宿禰の子、白城宿禰の子孫である」、また【和泉国皇別】に「「坂本朝臣は紀朝臣と同祖、建内宿禰の子、紀角宿禰の子孫である。その子白城宿禰の三世の孫、建日臣が、居住地の名から坂本臣の姓を賜った」、また【摂津国皇別】に「坂本朝臣は紀朝臣と同祖、彦太忍信命の孫、武内宿禰の子孫である」とある。続日本後紀に「讃岐国の人、坂本臣廣野が讃岐の籍を除いて、和泉の旧墟に還りたいと願い出た。これを許した。・・・坂本臣廣野ら十三人の臣姓を改めて朝臣とした。建内宿禰の子、紀角宿禰の子孫である」とある。上記の氏々の他にも、角宿禰の子孫は、新撰姓氏録に「掃守田首(かにもりだのおびと)は、武内宿禰の子、紀都奴宿禰の子孫」、「紀祝(きのほふり)は、建内宿禰の子、紀角宿禰の子孫」、「紀部は、建内宿禰の子、都野宿禰の子孫」、「紀辛梶(きのからかじ)臣は、建内宿禰の子、紀角宿禰の子孫」、【一本には「辛」の字がない。】「大家(おおやけ)臣は、建内宿禰の子、紀角宿禰の子孫である。諡天智の庚午の年、大きな家に住んでいたので、大宅臣の姓を賜った」、「掃守田首は、武内宿禰の子、紀角宿禰の子孫」、「丈部首(はせつかべのおびと)は上に同じ」などがある。○久米能摩伊刀比賣(くめのまいとひめ)。「クメ」は地名で、大和国高市郡の久米だろう。【この地のことは、伝十九の八葉で出た。】「摩」は「眞」、「伊刀」は「いとおしむ」という意味の名である。上巻の八千矛神の歌に「伊刀古夜能(いとこやの)」とあるところ【伝十一の三十九葉】を参照せよ。○怒能伊呂比賣(ぬのいろひめ)。「怒」の意味は分からない。【「ぬ」という言は、人名によくあるから、あるいは「沼」などの「ぬ」と同様で、玉だろうか。玉を称え名に用いた例は、玉依比賣などがある。「沼」を用いた例は、水垣の宮の段(崇神天皇)の、沼名木之入日賣(ぬなきのいりひめ)命のところで言う。伝二十三】久米が入っているから、これも地名だろうか。「伊呂」は浮穴の宮(安寧天皇)の段、常根津日子伊呂泥命のところ【伝廿一の十葉】で言った通りだ。同じ段に蠅伊呂泥、蠅伊呂杼という名もある。同じ意味だ。○葛城長江曾都毘古(かづらきのながえのそつびこ)。「葛城」は前に出た。【伝廿一の一葉】この人が葛城にいたことは、彼の娘、石之比賣(いわのひめ)の歌に「迦豆良紀多迦美夜和藝幣能阿多理(かづらきたかみやわぎえのあたり:葛城高宮吾家のあたり)」と詠み、書紀の允恭の巻にこの人の孫、玉田宿禰の家が葛城にあったらしい記述があることなどで分かる。「長江」も地名のように思われるが、どこなのか定かでない。【天武紀に「九年、朝妻(嬬)に行幸した。そこで大山位以下の馬を長柄の杜で見た(騎射をさせた)」<訳者註:大山は当時の位階名>とあるのは、延喜式神名帳に「大和国葛上郡、長柄神社」というのがそうだ。この「長柄」を書紀では「ながら」とも「ながえ」とも呼んでいるが、古い書物で「え」の仮名に「柄」を書いた例はまず見当たらない。それに葛上郡には今も名柄村というのがあり、「ながら」と言っているから、「ながえ」ではないだろう。】軽嶋の宮(應神天皇)の段、遠つ飛鳥の宮(允恭天皇)の段に河内の惠賀(えが)の長江(ながえ)という地名があるが、延喜式神名帳に「志紀郡、志紀長吉(しきのながえ)神社」とあるのがそうだ。だがそことも決められない。【ただし子孫は河内国に多く見える。後に引く通りだ。】「曾」は「熊曾」の「そ」と同じ。その意味は伝五【十六葉】で言った。この人は非常に勇猛だったので、この名が付いたのだろう。「都(つ)」は「の」という意味の接続詞だ。書紀の景行の巻に日向襲津彦(ひむかそつびこ)の皇子という名もある。この人のことは、書紀の神功の巻、應神の巻、仁徳の巻によく出てくる。【神功の摂政三年に初めて見え、仁徳の四十一年まで出ている。その間およそ百五十年である。長生きした人だったのだろう。】万葉巻十一【二十六丁】(2639)に「葛木之其津彦眞弓荒木爾毛(かづらきのそつびこまゆみあらきにも)云々」と詠んでいる。【駿河国風土記に荒木田襲津彦とある。伊賀国風土記には「阿拝郡、荒木山。神がいて、須智明神という。祭るのは猿田彦、武内宿禰、葛木襲津彦である」という。延喜式神名帳に「須智荒木神社」、古今著聞集に「伊賀の荒木白髪明神の相殿の葛木襲津彦は、武内宿禰の子である」などとある。】○玉手臣(たまでのおみ)。「玉手」という地は大和にも河内にもあり、そのことは伝廿一【卅七葉】で言った。この姓がどちらに因んでいるのか分からない。天武紀に「十三年十一月、玉手臣に姓を与えて朝臣とした」とあり、新撰姓氏録【右京皇別】に「玉手朝臣は、武内宿禰の子、荒木曾頭日子命の子孫である」とある。○的臣(いくはのおみ)。「的」は「いくは」と読む。【書紀の景行の巻に「的邑で食事をした、この日、膳夫たちは盞(さかずき)を忘れてきた。時の人は、その忘れてきたところを浮羽(うきは)と呼んだ。今は訛って『いくは』と言う。昔、筑紫の方言で、盞を『うきは』と言ったからである」とある。筑後国風土記でもこの話を載せ、「・・・天皇は『私の盞がなあ(あがウキハや)』と言った。それでそこを『うきはや』郡と呼んだ。後の人は誤って生葉(いくは)郡と言う。土地の言葉で酒盞を『うき』と言うからである」とある。「うきはや」は「酒盞惜乎」という意味である。「はや」は嘆息の意味で、「残念だなあ」という意味が含まれている。和名抄に「筑後国生葉郡は『いくは』」とある。この筑後の生葉の故事は、ここには何の関係もないけれども、「的」を「いくは」と読む証拠として挙げたのである。延喜式神名帳に「尾張国海部郡、伊久波神社」、和名抄に「淡路国津名郡、育波は『いくは』」、万葉巻二(123〜125)に園臣生羽という人名もある。この「いくは」の「く」を「ぐ」と濁るのは誤りである。「生葉」とも書くことで、清音に読むことが分かる。】「いくは」に「的」の字を書くのは、書紀に「令レ射【仁徳の巻】」、「射2於朝庭1【孝徳の巻】」、「射2于西門庭1【天武の巻】」などの「射」を「いくう(旧仮名イクフ)」とも「いくいす(旧仮名イクヒス)」とも読み、「射(イクフ)」は的を射ることだから、「イクハレ」という意味で、的のことを「イクハ」と言ったのではないだろうか。【なお天武紀には、「射」を「いくさ」と読むところがある。】あるいは「いくは」は元々「的」の古名で、「イクフ」は「的射(イクハいる)」という言葉だった可能性もある。【和名抄には「的は『まと』」とだけあって、「いくは」という言葉は見えない。ただし射藝の具に、「漢語抄にいわく、射ダ(土+朶)は『いくはどころ』、世間で言う『あむづち』」とある。】新撰字鏡に「的は人の姓である。『ゆくは』」とあるのは、この姓を言う。【「伊」を「ゆ」と言っているのは、国名の「壹伎」を「ゆき」とも言うのと同様である。】この氏が「的」という名になったのは、書紀の仁徳の巻に「十二年秋八月庚子朔己酉、高麗の客を朝廷で饗応した。この日、群臣・百寮を呼び集めて、高麗が献じた鉄の楯と的を射させた。ほとんどの者は射通すことができなかったが、ただ一人、的臣の祖、盾人(たてびと)宿禰だけが鉄の的を射貫いた。高麗の客人たちは、その射的の技倆を見て恐れ入り、みな立ち上がって帝を拝んだ。次の日、盾人宿禰を賞めて、的戸田宿禰(いくはのとだのすくね)と名乗らせた」という。【思うに、この人は初めから盾人という名で、この時に「戸田」という名を与えたように言っているのは誤りではないだろうか。初めの名が戸田で、この時に盾人という名を与えたのだろう。「鉄の的を射貫いた」とあるが、このとき盾も同じように射貫いたので、その名を賜ったように思われる。應神紀十六年のところに既に「的戸田宿禰」とある「的」は、後に賜った名で前のことを書いているのであり、戸田はその頃の名なのだろう。日本紀竟宴の歌に「久魯加禰能、麻度遠度保世流、伊佐美爾蘇、奈烏多麻波利弖、與爾都多弊計留(くろがねの、まとをとおせる、いさみにぞ、なをたまわりて、よにつたえける)」とある。】この氏人の名は、この後にも時々見える。だが後には衰えて、大した人も出なかったのだろうか。浄御原の朝の御世に、朝臣姓を与えた氏々の中には含まれず(天武十三年十一月、五十二氏に朝臣姓を与えた)、後まで臣姓である。新撰姓氏録【山城国皇別】に「的臣は石川朝臣と同祖、彦太忍信命の三世の孫、葛城襲津彦命の子孫である」、また【河内国皇別】「的臣は道守朝臣と同祖、武内宿禰の子、葛城曾都比古命の子孫である」、また【和泉国皇別】「的臣は坂本朝臣と同祖、建内宿禰の子、葛城襲津彦命の子孫である」とある。○生江臣(いくえのおみ)。「生江」は地名のようだが、どこのことか分からない。この氏の人は、続日本紀十七に「尾張国山田郡の人、生江臣安久多(あくた)」、廿に「生江臣智麻呂」、廿九に「生江臣東人」などの名が見える。国造本紀に「穂国造は、泊瀬の朝倉の朝(雄略天皇)、生江臣の祖、葛城襲津彦命の四世の孫、菟上足尼(うなかみのすくね)を国造とした」、【穂国(ほのくに)は三河国寳飫(ほ)郡である。】新撰姓氏録【左京皇別】に「生江臣は、石川朝臣と同祖、武内宿禰の子孫である」とある。○阿藝那臣(あぎなのおみ)。これも地名か。未だ思いつかない。【万葉巻十四、相模国の歌(3431)に「阿之我里乃、安伎奈乃夜麻爾(あしがりの、あぎなのやまに)云々」とある。伽婢子(おとぎぼうこ)という本に「永正年中、近江の滋賀郡松本に、眞上の阿祇奈君(あぎなのきみ)という人がいた。云々」】新撰姓氏録【摂津国皇別】に「阿支奈臣は、玉手朝臣と同祖、武内宿禰の子、葛城曾豆比古命の子孫である」、また【大和国皇別】「阿祇奈君は、玉手朝臣と同祖、彦太忍信命の孫、武内宿禰の子孫である」とある。ところで、上記の氏々の他にも、曾都毘古の子孫は新撰姓氏録に「葛城朝臣は、葛城襲津彦命の子孫」、「鹽屋連は道守連と同祖、武内宿禰の子、葛木曾都比古命の子孫」、「小家連は鹽屋連と同祖云々」、「原井連は上に同じ」、「與等(よど)連は鹽屋連と同祖云々」、「布忍(ぬのし)首は名と臣と同祖」、「布師(ぬのし)臣は上に同じ」、また【未定雑姓】に「下神(しもがみ?)は葛城襲津彦命の子、腰裙(こしも)宿禰の子孫」とある。続日本紀四十に「忍海原(おしぬみ)連魚養(いおかい?)らが言上して、『謹んで古記録を調べましたら、葛城襲津彦の第六子、熊道足禰というのが、魚養らの先祖です。熊道足禰の六世の孫、首麻呂は、飛鳥浄御原の朝廷の辛巳の年、(宿禰を)落として連姓を賜り、それ以来・・・願わくはこの旧号を除いて、朝野宿禰の姓を賜りたく存じます・・・朝野は、居住地のもとの名です』と言った。請願の通りに与えた」とある。続日本後紀四に「大和国の人、忍海原連嶋依、同姓百吉らに、朝野宿禰の姓を与えた。葛城襲津彦の子孫である」、十二に「右京の人、参議従三位朝野宿禰鹿取および子、全部で男女十九人に宿禰を改めて朝臣の姓を与えた。國牽天皇の三世の孫、武内宿禰の第六男、葛木襲津彦の子孫である」などと見える。○又若子宿禰(またわくごのすくね)。「又」の字は、そこまでの例によると、「次」とあるべきだ。【それをここだけ「又」と書いたのはなぜか、理由があるのかどうか分からない。】それに他には「宿禰」の後に「者」の字があるのだが、そこも違っている。「若子」は「わくご」と読む。書紀の武烈の巻の歌に「思寐能和倶吾(しびのわくご)」【「鮪の若子」である。】継体の巻の歌に「ケ(りっしんべん+豈)那能倭倶吾(けなのわくご)」【「毛野の若子」である。】舒明の巻の歌に「氣菟能和區呉(けつのわくご)」【「毛津の若子」である。】、万葉巻十四(3459)に「等能乃和久胡(とののわくご)」【「殿の若子」である。】などの例がある。いにしえに、若い人を賞めて言った言葉だ。そのためこの宿禰は、それが名に付いている。○江沼財臣(えぬまのおみ)。「財」の字は「間」が正しいだろうと延佳は言った。実際そうだろう。江沼間は地名で、和名抄の「加賀国江沼郡」がそうである。国造本紀【能登国造の前】に「江沼国造は、柴垣朝(反正天皇)の御世に、蘇我臣と同祖、武内宿禰の四世の孫、志波勝足尼(しはかつのすくね)を国造とした」とある。書紀の欽明の巻に「越の人、江淳(えぬま)臣、裙代(もしろ)」という名が見え、続日本紀卅五に「女孺(めのわらわ)江沼臣麻蘇比(まない)」、日本後紀に「江沼臣小並」などの人が見える。新撰姓氏録【大和国皇別】に「江沼臣は、石川と同氏、建内宿禰の子、若子宿禰の子孫である」とある。【なおここと上の坂本臣のところで、「祖」の字の後に「也」の字がないのは、他の例と異なる。】○上の九人はみな武内宿禰の子である。この大臣の子孫はこの他にも新撰姓氏録に「田口朝臣は石川朝臣と同祖、武内宿禰大臣の子孫である云々」、「曰佐(おさ)は紀朝臣と同祖、武内宿禰の子孫である。欽明天皇の御世に、同族四人、国民三十五人を率いて帰化した」【これはこの大臣の息子たちが韓国に渡った記事が書紀に多く出ているから、その渡った先の国で生まれた子の末裔ではないだろうか。】「曰佐は紀朝臣と同祖、武内宿禰の子孫」、「池後(いけじり)臣は建内宿禰の子孫」、「山口朝臣は道守朝臣と同祖、武内宿禰の子孫」などと見え、三代実録十四に「苅田首(かりたのおびと)安雄に姓を与えて紀朝臣とした。安雄はみずから武内宿禰の子孫と語った」、続日本後紀四に「丹波国の人、大村直福吉(おおむらのうきち?)およびその同族合わせて五人に紀宿禰の姓を与えた。武内宿禰の枝分かれである」などとある。【また新撰姓氏録に「出庭臣は孝元天皇の皇子、太忍太信命の子孫」とあり、これもこの大臣の子孫だろう。】

 

此天皇。御年伍拾漆歳。御陵在2劔池之中岡上1也。

訓読:このスメラミコト、ミとしイソヂマリナナツ。みはかはツルギのイケのナカのオカのエにあり。

口語訳:天皇は崩じたとき、五十七歳だった。御陵は劔池の中の岡付近にある。

御年伍拾漆歳(みとしいそぢまりななつ)。書紀には「五十七年秋九月壬申朔癸酉、大日本根子彦國牽天皇は崩じた」とあり、【ここは単に「天皇は」とあるところなのに、名を書いたのはどういうことか。】年齢は書かれていない。【父の天皇の三十六年春正月に立太子したとき、年十九とあるから、百十六歳になる。この記と非常に違っている。】ある書では百十七とも百二十六とも書かれている。○劔池(つるぎのいけ)。書紀の應神の巻に「十一年冬十月、劔池を作った」とあって、【この記にもその御世にこの池を作ったことが出ている。】舒明紀に「七年秋七月、珍しい蓮が剣池に生えた。一本の茎に二つの花が咲いた」とあり、皇極の巻三年にも「剣池の蓮の中に、一本の茎に二つの蕚のあるものが生えた。云々」とある。万葉巻十三【十九葉】(3289)に「御佩乎劔池之蓮葉爾(みはかしをツルギのイケのはすばに)」など見える。御陵は書紀の開化の巻に「五年春二月丁未朔壬子、大日本根子彦國牽天皇を池嶋の上の陵に葬った」とあり、【この池は應神の御世にできたのだから、陵の名称はその後のことだろう。】諸陵式に「劔池の嶋の上の陵は、輕の境原の宮で天下を治めた孝元天皇である。大和国高市郡にある。兆域は東西二町、南北一町、守戸五烟」とある。大和志に「石河村、剣池の南にある。俗に中山塚という。陵のほとりに円丘が六つある」という。【前皇廟陵記に「ある説に剣池は高市郡難波にある。池の中に霊剣がある」という。難波というのも霊剣があるというのも納得できない。】この池は、石川村の東にあり、今も大きな池だ。【東西は四町あるという。池の西の堤の下がすなわち石川村である。】御陵の山は、南の方から池に中に突き出して、本当の島のような形をしており、【この山の周囲は七町半あるという。】池はその東北の方から西南の方まで広がってめぐっている。【應神天皇の御代にこの池を作ったというのは、御陵に手を付けないで、その周りに掘ったのだろう。】


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