『古事記傳』23


水垣の宮の巻【崇神天皇】

 

御眞木入日子印惠命。坐2師木水垣宮1。治2天下1也。此天皇。娶2木國造名荒河刀辨之女。<刀辨二字以レ音>遠津年魚目目微比賣1。生御子。豊木入日子命。次豊スキ(金+且)入日賣命。<二柱>又娶2尾張連之祖意富阿麻比賣1。生御子。大入杵命。次八坂之入日子命。次沼名木之入日賣命。次十市之入日賣命。<四柱>又娶2大毘古命之女御眞津比賣命1。生御子。伊玖米入日子伊沙知命。<伊玖米伊沙知六字以レ音>次伊邪能眞若命。<自レ伊至能以レ音>次國片比賣命。次千千都久和。<此三字以レ音>比賣命。次伊賀比賣命。次倭日子命。<六柱>此天皇之御子等。并十二柱。<男王七。女王五也。>

訓読:ミマキイリビコイニエのミコト、シキのミズガキのミヤにましまして、アメノシタしろしめしき。このスメラミコト、キのクニノミヤツコ、なはアラカワトベのムスメ、トオツのアユメメクワシヒメをめして、ウミませるミコ、トヨキイリボコのミコト、つぎにトヨキイリビメのミコト。<ふたばしら。>またオワリのムラジのおやオオアマヒメをめして、ウミませるミコ、オオイリキのミコト、つぎにヤサカイリビコのミコト、つぎにヌナキのイリビメのミコト、つぎにトオチのイリビメのミコト。<よばしら。>またオオビコのミコトのむすめ、ミマツヒメをめして、ウミませるミコ、イクメイリビキイサチのミコト、つぎにイザのマワカのミコト、つぎにクニカタヒメのミコト、つぎにチヂツクヤマトヒメのミコト。つぎにイガヒメのミコト、つぎにヤマトヒコのミコト。<むばしら。>このスメラミコトのミコ、あわせてトオマリフタバシラ。<ひこミコななはしら、ひめミコいつはしら。>

口語訳:御眞木入日子印惠命は、師木の水垣の宮に住んで、天下を治めた。この天皇が木國造、荒河刀辨という者の娘、遠津年魚目目微比賣を妻として生んだ子は、豊木入日子命、次に豊スキ(金+且)入日賣命の二人である。また尾張連の祖、意富阿麻比賣を娶って生んだ子は、大入杵命、次に八坂之入日子命、次に沼名木之入日賣命、次に十市之入日賣命の四人である。また大毘古命の娘、御眞津比賣命を娶って生んだ子は、伊玖米入日子伊沙知命、次に伊邪能眞若命。次に國片比賣命、次に千千都久和比賣命、次に伊賀比賣命、次に倭日子命の六人である。この天皇の御子は、全部で十二人だった。<男七人、女五人である。>

この天皇の後の諡は崇神天皇という。○師木(しき)は和名抄の「大和国城上【しきのかみ】郡、城下【しきのしも】郡」とあるのがそうである。【これは師木を上下二郡に分けたのである。「師」に当たる字を省き、「城」の一字にしたのは、郡名を必ず二字にすることが決まっていたからで、葛城では「城」を省いて葛上、葛下と書くのと同様だ。皇極紀には「志紀の上の郡」とある。】延喜式神名帳に「城上郡、志貴御縣坐神社(しきのみあがたにますかみのやしろ)」もある。【この社は、今も金屋村というところにあって、志貴の宮と言うそうだ。】~武紀に「倭の国磯城邑」、垂仁紀に「磯城の嚴橿之本(いずかしのもと)」などが見える。後の欽明天皇の師木嶋の宮もこの地である。万葉巻十【三十九丁】(2143)に「敷野(しきのぬ)」と詠んだのもここか。【ただしこれは「あしき野」の「あ」を省いたのかも知れない。「芦城(あしき)」はあちこちに見え、万葉巻八(1530)に「蘆城野(あしきの)」と言って萩を詠んでいる。】名の意味は「石城(いしき)」ではないだろうか。○水垣宮(みずがきのみや)。一般に「水垣」とは「みずみずしい垣」と称賛した名だが、【「水」は借字だ。書紀で「瑞」の字を書いているのは全く当たっていないが、「みず」に用いる字がないので、書紀が例となり、誰もがこの「瑞」の字を書くのに慣れてしまった。】宮の名としたのだ。【この宮の垣が水垣だったからというのではない。水垣のことは、師(賀茂真淵)の冠辞考に詳しい。歌に「水垣の久し」と続けて詠むのは、この宮の名によってのことだと昔から思われてきたが、よく考えるとそうではない。こう続けて詠むのは、万葉巻十一(2415)の「處女等乎袖振山水垣乃、久時由念來吾等者(おとめらをそでふるやまのミズガキの、ひさしきときユもいつつあれは)」というのが最初である。この歌は、巻四(501?)には人麻呂の歌として載せてあるが、人麻呂より古い時代の歌のように聞こえる。これは、石上振社(いそのかみのふるのやしろ)が非常に古い頃からの社であって、その水垣も久しい世々を経てきたものだから、「久し」の枕詞になったのだ。後には「振山(ふるやま)」とは言わず、ただ「水垣の久し」とだけ詠むようになった。それは、上記の歌の言い回しに委ねて省いたのだ。この宮によって言うのなら、「水垣の宮の」と言わなければ言葉が足りない。「水垣」とだけ言ったのでは、宮の名にならないだろう。】この宮は、「三輪山の東南、志紀御縣神社の西にある」と大和志で言っている。確かにそのあたりだろう。書紀にいわく、「三年秋九月、都を磯城に遷した。これを磯城瑞籬宮(しきのみずがきのみや)という」とある。○木國造(きのくにのみやつこ)は前【伝二十二】に出た。○荒河刀辨(あらかわとべ)。和名抄には、「紀伊国那賀郡、荒川郷」がある。【今も荒川庄といって、八つの村がある。】この地名に因む名だろう。【また名草郡に荒賀という郷もある。そこのことは、古語拾遺の~武の段にもある。しかしそれではないだろう。】「刀辨(とべ)」は前【伝八の廿八葉、伝廿二の五十六葉】でも言った。また伊邪河の宮の段の、春日建國勝戸賣のところ【伝廿二の五十七葉】で言ったことも考え合わせよ。旧事紀五に「大新河命は、紀伊の荒川戸ベ(イ+卑)の娘、中日女(なかつひめ?)を妻として、四人の息子を生んだ」とある。【大新河命は、物部連の祖である。】○遠津年魚目目微比賣(とおつのあゆめめくわしひめ)。「遠津」は紀の国の地名だろう。【遠津の下に「の」を補って読む。】万葉巻七【十七丁】(1188)に「遠津之濱(とおつのはま)」、巻十一【三十五丁】(2729)に「遠津大浦(とおつおおうら)」【この歌のすぐ次に、「木海之名高之浦(きのうみのなたかのうら)」と詠んだ歌がある。「大浦」の「大」の字は、「之」を誤ったのではあるまいか。】などがある。「年魚」は和名抄に「鮎魚は和名『あゆ』、崔禹錫の食経にいわく、春に生まれ、夏に成長し、秋には衰え、冬に死ぬ。このため年魚と呼ぶ」とある。「目」は「群」である。【「むれ」は「め」に縮まる。このことは冠辞考の「あぢさはふ」、また「しぬのめ」の條に詳しく述べられている。年魚は水中を群で泳いでいるのが特に目立つので、こう言う。】この句は「目微(めくわし)」の序に言う言葉だ。そのことは万葉巻十三【三十丁】(3330)に「隠來之長谷之川之、上瀬爾鵜矣八頭漬、下瀬爾鵜矣八頭漬、上瀬之年魚矣令咋、下瀬之鮎矣令咋、麗妹爾(こもりくのハツセのかわの、かみつせにウをヤツカづけ、しもつせにウをヤツカづけ、かみつせのアユをくわしめ、しもつせのアユをくわしめ、くわしイモに)云々」とあるのも、みな「麗(くわ)し」と言うための序辞であり、ここと全く同じだから、この歌を見て得心すべきである。【上代には、鵜に咋(く)わせて鮎を捕るのが一般的だったから、「鵜」とはっきり言わなくてもそう聞こえたのだ。】人の名にも枕詞を用いることは、「眞髪觸奇稻田姫(まがみふるくしなだひめ)」、境原の宮の段にある「山下影比賣(やましたのかげひめ)」などの例がある。「目微」は「めくわし」」と読む。目が特別に美しいのを称えて言った名だろう。【枕詞から続けて言う意味は、「年魚群(あゆめ)」と言って、その群を鵜に「食わせて」と言うのだ。「群」を「目」に掛けて言った例は万葉に多い。この名は、私は、初めは「まぐわし」と読んで、「ま」は「眞」のことだと思っていたが、それは良くない。】「微(くわし)」は上記の万葉の「麗(くわし)」と同じだ。意味は字の通りである。【「うるわし」は「うらくわし」の縮まった語で同意である、「微」の字を書いたのは「微妙」、「精微」などという「微」である。これには「細」という字を書くこともある。】書紀のこの巻(崇神巻)には「倭迹速神浅茅原目妙姫(やまととはやかむあさぢはらのめくわしひめ)」ともある。○豊木入日子命(とよきいりびこのみこと)。「木」は城のことだろう。「入」は前【伝十一の五十一葉】、また日子スキ(金+且)友命のところ【伝廿一の十丁】に言った。考え合わせよ。とすると兄の名と同じ意味である。【一般に同母の兄妹はほぼ同じ名である例が多い。】書紀にいわく、「また妃、紀伊国の荒河戸畔の娘、遠年魚眼眼妙媛(とおつあゆめめくわしひめ)【一にいわく、大海(おおしあま)宿禰の娘、八坂振天某邊(やさかふるあめいろべ)】は、豊城入彦命と豊鍬入姫命を生んだ」とある。○尾張連(おわりのむらじ)は、前【伝廿一の二十一葉】に出た。○意富阿麻比賣(おおあまひめ)。和名抄に尾張国海部郡、海部郷がある。これから出た名だろう。旧事紀五に「饒速日命の六世の孫、建宇那比(たけうない)命、城嶋連の祖、草名草姫は二男一女を生んだ。・・・七世の孫建諸隅(たけもろすみ)命、妹大海姫命、またの名は葛城高名姫命、この命は磯城の瑞籬の宮で天下を治めた天皇のとき、皇后に立てられて一男二女を生んだ」という。【ここで尾張連の始祖を饒速日命としたのは、大きな偽りごとである。この氏の祖は天火明命だ。伝十五、伝廿一の尾張連のところで言った通りだ。この建諸隅命、大海姫命の世継ぎの書き方はたいへんまぎらわしく、はっきりしないけれども、全体をよく考えると、天火明命の子が天香山命、その子が天村雲命、その子天忍人命、その子天戸目命、その子建斗米命、その子が建諸隅命、大海姫である。また名草姫というところで、「爲レ妻(を妻として)」の二字が脱けている。他の例では皆そう書いてある。】女であってもある氏の祖としている例は多い。前【伝廿一の四丁】に言った。○大入杵命(おおいりきのみこと)。倭建命の段に柴野入杵(しばぬいりき)という人名も見える。「杵」は「君」の意味だろう。【「木」の字を書かないのは、「城」の意味でないからだ。この記は借字も仮名のように使っていて、その言葉の内容によって用いる字が異なり、決まった使い方が多い。安易に見過ごしてはいけない。】書紀にはこの御子は見えない。○八坂之入日子命(やさかいりひこのみこと)。八坂は地名か、【山城国愛宕郡に八坂郷があるが、それと決めることはできない。】それとも彌栄(いやさか)の意味(賞め言葉)か、定かでない。この人の娘も八坂之入日賣(やさかのいりひめ))命という。書紀に、豊城命などの母を「一説に八坂振天某邊(やさかふるあめいろべ)」とある。○沼名木之入日賣命(ぬなきのいりびめのみこと)。「沼名」の意味ははっきりしない。神沼河命(かむぬなかわのみこと)、書紀の安寧の巻の淳名底仲媛(ぬなそこなかつひめ)、孝昭の巻の淳名城津媛(ぬなきつひめ)、他田の宮の天皇(敏達)の名、沼名倉(ぬなくら)云々、浄御原の宮の天皇(天武)の名、天淳中原(あめのぬなはら)云々と言う。このように人名によくあるのは、沼矛(ぬぼこ)の「ぬ」で、玉という意味だろうか。そうだとすると「名」は「の」という意味で、【「の」を「な」という例は多い。】「瓊の城」ということだろう。【珠城の宮というのもある。】日代の宮の段に沼名木郎女(ぬなきのいらつめ)という皇女もいる。「沼(ぬ)」と言った例は、堺原の宮の段に怒能伊呂(ぬのいろ)比賣、玉垣の宮の段に沼帯別(ぬたらしわけ)命など、さらに多い。ところで、書紀の垂仁の巻で、大倭の大神を祭る人を卜ったところ、淳名城稚姫(ぬなきのわかひめ)が卜(うら)に食(あ)った、とあるのは、この姫のことではないだろうか。○十市之入日賣命(とおちのいりびめのみこと)。和名抄の「大和国十市【とおち:旧仮名トホチ】郡」の地名によるか。【「十」の仮名は「旧仮名トヲ(towo)」であるのに、「トホ」となっているのは、地名だからだろう。地名の仮名には、普通にはない文字を使うことがままあるが、ここは普通に「とおち」と読んでおく。】「之」は書紀には「瓊(に)」とある。書紀にいわく、「次の妃、尾張の大海媛は、八坂入彦命、淳名城入姫命、十市瓊入姫を生んだ」という。○御眞津比賣命(みまつひめのみこと)。開化天皇の御子に同じ名があり、そこに出た。垂仁紀の初めに「母の皇后は御間城姫といい、大彦命の子であった」とある。【旧事紀では御間城入姫とある。】「津」と「城」の違いがあるが、どちらが正しいだろう。【師(賀茂真淵)は「城」を「つ」と誤ったかと言った。そういうこともあったかも知れない。開化の皇女も、兄が御眞木入日子と言うのだから、妹も御眞木日賣になりそうなものだ。だがその皇女は書紀には名がないのを考えると、この大毘古命の娘と取り違えたのではないだろうか。】○伊玖米入日子伊沙知命(いくめいりびこいさちのみこと)。「伊玖米」は地名か、定かでない。【旧事紀五に「活目邑五十呉桃(いくめのむらのいくるみ)」という名があるが、「邑」の字が一本に「色(しこ)」とあるから、これも地名とは言い切れない。万葉巻三の長歌(478)に「活道山」とあるのを「いくめちやま」と読んでいるが、これは「いくじやま」である。八雲御抄に「いくぢ」と出ているのが正しい。その反歌に「見之活道」とあるのを「いくじ」と読むと、六字になって調子が良くないと思う人もあるだろうが、この句は「みししいくじの」と読むのである。「見し」を「みしし」と言うのは、古言の語法だ。巻六(1042〜1043の詞書)に「活道岡」とあるのも同じところで、山城国にある。】記中、また書紀にも伊久米天皇(垂仁のこと)とだけ書いたところがある。「伊沙」は「勇」である。黒田の宮の段の、比古伊佐勢理毘古命のところ【伝廿一の四十四葉】も考え合わせよ。「知」は例の尊称である。【また「ち」の意味として、訶志比の宮(仲哀天皇)の段で、伊佐比宿禰(いさひのすくね)のところ、伝卅一の十葉でも考えを述べておいた。】書紀の景行の巻に皇子五十狹城入彦(いさきいりひこ)命、神功の巻に吉師の祖五十狹茅(いさち)宿禰、海上五十狹茅(うなかみのいさち)などの名がある。○註にある「玖」の字は、諸本みな「久」とあるが、本文と違っているのはおかしいから改めた。○伊邪能眞若命(いざのまわかのみこと)。「いざ」の意味は思い付かない。【「伊佐」と同じ言葉を、「さ」を濁って言うこともあったかと思ったが、そういう気はしない。】應神天皇の御子にも同じ名がある。また神功の段に矣奢沙和氣(いざさわけ)大神、履中天皇の名、大江之伊邪本和氣命(おおえのいざほわけ)命などがあり、書紀の神代巻に去來之眞名井(いざのまない)、伊邪河なども、「伊邪」という言葉の例である。書紀にはこの御子はなく、彦五十狹茅(ひこいさち)命という名がある。【應神の子に同じ名があるから、書紀の方が合っているだろうか、しかし「彦五十狹茅」では兄の名と同じになるから、これも疑問だ。】○國片比賣命(くにかたひめのみこと)。【「片」の字を、一本に「斤」と書いているのは誤りである。ここでは延佳本および真福寺本によった。】「片」は「堅固」の意味ではないだろうか。さらに考察すべきである。○千々都久和比賣命(ちぢつくヤマトひめのみこと)。「千々」は栲幡千々姫命の「千々」と同じ。【伝十五の七葉】黒田の宮の段に「千々速眞若比賣」という名もあった。「都久」の意味は思い付かない。玉垣の宮の段に石衝別(いわつくわけ)王、石衝毘賣という名がある。この名は、書紀を考え合わせると、もともと「千々都久【この二字は音で読む】倭比賣(ちぢつくやまとひめ)命」であったのを、「倭」の字を「和」と誤って、【国名の「倭」を後に「和」に改めたため、後世は倭と和を通用させて用いるので、古い書物にある「倭」の字も「和」に写し誤った例が多い。】後人がさかしらに註を「和」の字の次に移し、また「二字」を「三字」に改めたのだろう。【「つくわ」というのも「わひめ」というのもあり得ない名である。】そこで「和」を「やまと」と読んだ。弟の名が倭日子(やまとひこ)であるのも考えよ。○伊賀比賣命(いがひめのみこと)。和名抄に伊賀国伊賀郡がある。これによる名か。しかし何の由縁があってその国の名を付けたのか、分からない。【ただし八坂入彦の娘たちが美濃国に住んだことも、景行紀に見えるから、この比賣も理由があって伊賀に住んだかも知れない。伊賀国風土記に「猿田彦神の娘、吾娥津媛(あがつひめ)命は・・・この神の治める国だったので、吾娥郡という。・・・後に伊賀と改めた。吾娥の音が転じたのである」という。伊賀郡には阿我郷もある。考えるに、吾娥津媛を猿田彦神の娘と伝えたのは誤りで、実はこの伊賀日女命が下って住んだことを言うのではないだろうか。これはせめてもの思いつきを言ったまでである。同国の延長の風土記には「伊賀の国は、昔伊勢国に属していた。大日本根子彦太瓊天皇の御世、癸酉に分けて伊賀国とした。もとこの名は、伊賀津姫が支配した郡であったからだ。云々」とある。】書紀にはこの皇女の名はない。それについて言うべきことがある。次に言う。○倭日子命(やまとひこのみこと)。名の意味は、特別なことはない。【延喜式神名帳に「河内国大縣郡、若倭彦命(わかやまとひこのみこと)神社」がある。これは何の由緒による神名か知らない。】書紀には「元年2月辛亥朔丙寅、御間城姫を皇后に立てた。これ以前、后は活目入彦五十狹茅天皇、彦五十狹茅命、國片姫命、千々衝倭姫命、倭彦命、五十日I彦(いかつるひこ)命を生んでいた」とある。○男王七、女王五也。この数は合わない。男王六、女王六だ。そこで思うに、書紀には伊賀日賣命の名がなく、五十日I彦命の名があるから、伊賀比賣は伊賀日子の名を誤ったのではないだろうか。【ただしこれは写し誤ったのでなく、最初に稗田阿禮が暗誦したときに誤っていたのだろう。ところが「男王七、女王五」というところを太安萬侶はみな阿禮が暗誦したまま書いた。なぜそういうことが分かるかというと、この段では、「ひこ」をすべて「日子」と書いて、「比古」と書いたところはない。とすると、この記が文字に記されたとき、この名が男王だったら「日子」と書くはずの字を、後に「比賣」と二字共に移し誤ることは考えられない。「日子」と「比賣」では字の形もたいへん違っている。】

 

故伊久米伊理毘古伊佐知命者。治2天下1也。次豊木入日子命者。<上毛野。下毛野君等之祖也。>妹豊スキ(金+且)比賣命。<拜=祭2伊勢大神之宮1也。>次大入杵命者。<能登臣之祖也。>次倭日子命。<此王之時。始而於レ陵立2人垣1。>

訓読:かれイクメイリビコイサチのミコトは、アメノシタしろしめしき。つぎにトヨキイリビコのミコトは、<カミツケヌのキミ、シモツケヌのキミらのおやなり。>いもトヨスキヒメのミコトは、<イセのオオミカミのミヤをいつきまつりき。>つぎにオオイリキのミコトは、<ノトのオミのおやなり。>つぎにヤマトビコのミコト、<このミコのときに、はじめてミハカにヒトガキたてたりき。>

口語訳:伊久米伊理毘古伊佐知命は、後に天下を治めた。次に豊木入日子命は、<上毛野君、下毛野君らの先祖である。>その妹、豊スキ(金+且)比賣命は、<齋王となって伊勢大神の宮に仕えた。>次に大入杵命は、<能登臣の先祖である。>次に倭日子命。<この王の時、初めて陵に人垣をたてた。>

「故伊久米(かれいくめ)云々」、書紀に「四十八年春正月己卯朔戊子、天皇は豊城命と活目尊に『私はお前たち二人の子が同じように可愛い。そのため、どちらを世継ぎにすればいいか、迷っている。それぞれ夢を見よ。私はその夢で占おう』と言った。二皇子はそれぞれ沐浴し、祈(うけい)して寝た。それぞれ夢を見た。夜が明けると、兄の豊城命は『私は三諸山に登って、東に向かって八回槍を突き上げ、八回剣を振る夢を見ました』と言い、弟の活目尊は『私は三諸山に登って、縄を四方に引き巡らし、粟を食べている雀を追い払う夢を見ました』と言った。天皇はそれを聞いて、『兄は東方だけを向いていたから、東方の国を治めよ。弟は四方に臨んでいたから、天津日嗣を受けよ』と言った。四月戊申朔丙寅、活目尊を皇太子に立てた。豊城命には東の国を治めさせた。これが上毛野君、下毛野君の始祖である」とある。○上毛野(かみつけぬのきみ)は、和名抄に「上野【かみつけの】國」とある国だ。【「毛」の字を省いて「上野」と書くのは、二字に縮めて書いた例である。斉明紀には「上毛野國」とある。後世「野」を省いて「かみつけ」とだけ言うのは訛りだ。それをまた「こうづけ」と言うのは、「み」を音便で「う」と言い、音便で「うん」と言った後の音は濁ることが多いから、「つ」も濁って言うのだ。】万葉巻十四の上野国の歌(3404)に「可美都氣努(かみつけぬ)」、また(3406)「可美都氣野(かみつけぬ)」などと詠んでいる。【また一つ(3405)に「可美都氣乃」という表記もある。「乃」は「奴」の誤りだろう。和名抄の頃にこそ「野」を「の」と読むようになったが、いにしえにはそんな読み方はしなかった。また「ぬ」を省いて「かみつけ」と言ったこともなかったから、「の」は助詞でもない。この国を詠んだ歌は全部で十二首あるが、「乃」と言ったのは上記のただ一首で、他はみな「ぬ」であるのでも分かる。】名の意味は思い付かない。毛は草木のことか。木を「け」と言った例もある。【顯昭古今注に「坂東は足柄の関から東、さほどの山もなく、みなはるかな野である」と言っている。】ところでここは、「野」の下の「君」の字が脱けているのだろう。そこで補っておいた。この氏は。書紀の垂仁の巻に上野君の遠祖、八綱田(やつなだ)の軍功のことがあり、これを賞めて「倭日向武日向彦八綱田(やまとひむかたけひむかひこやつなだ)」という名を与えたとある。景行の巻には「五十五年春二月、彦狹嶋(ひこさしま)王を東山道十五国の都督に遣わした。これは豊城命の孫である。ところが春日の穴咋邑(あなくいのむら)まで行った時、急に病みついて死んでしまった。その時、百姓たちはその王が目的地まで到着しなかったのを悲しみ、ひそかに王の遺体を盗み出して、上野国で葬った。五十六年秋八月、御諸別(みもろわけ)王に詔して『お前の父、彦狹嶋王は任地に到らないうちに死んでしまった。そこで今度はお前が東国を領地にせよ』と言った。御諸別王は天皇の命でもあり、また何とか父の業を継いで果たそうと思っていたので、すぐに東国に向かった。そこでよく政治を行い、時に蝦夷の反乱があればすぐに兵を起こしてこれを討った。・・・これによって東方が平らかになった。そのためその子孫が今も東国にいる」とある。【彦狹嶋王は、垂仁紀に見える八綱田の子ではないだろうか。新撰姓氏録に「八綱田命は豊城入彦命の子」と所々に見え、垂仁紀に「上野君の遠祖、八綱田」とあるからである。ただこの人が彦狹嶋王の父ならば、書紀に「王」とあるはずなのに、そうでないのは不審である。】国造本紀に「上毛野国造は、瑞籬朝の皇子、豊城入彦命の孫、彦狹嶋命が初めて東方十二国を治めるよう封ぜられた」とある。この氏の人は、應神紀に荒田別(あらたわけ)、巫別(かんなぎわけ)、仁徳紀に竹葉瀬(たけはせ)、田道、安閑紀に小熊、舒明紀に形名、天智紀に稚子、天武紀に三千(みちぢ)などが見え、「十三年十一月、上毛野君に姓を与えて朝臣とした」とある。新撰姓氏録【左京皇別】に「上毛野朝臣は、下毛野朝臣と同祖、豊城入彦の五世の孫、「多奇波世(たけはせ)君の子孫である云々」、【この続きに、雄略天皇の御世、百尊(ひゃくそん)という人が、應神天皇の陵のあたりで馬を換えたことが挙げられているが、それは雄略紀に「九年、河内国が言上して、『飛鳥戸郡の人、田邊史(たなべのふひと)伯孫(はくそん)が云々』」のことと同じで、上毛野君には無関係である。ここにそのことを書いたのは誤りだ。豊城入彦命の子孫にも田邊史という人があるので、取り違えたのだろう。上記の佰孫(ひゃくそん)は右京諸蕃に「田邊史は漢王の子孫、知ソウ(てへん+總のつくり)の子孫である」とある氏で、非常に異なっている。漢人の子孫だからこそ、百尊、徳尊などという名があるのだ。また上記豊城命の子孫である田邊氏が史(ふひと)というかばねだったことは、上野氏の祖のうちで、韓国に渡って由縁があったことも幾つか見え、そうした理由から出たのだろう。であればかの漢王の子孫である田邊氏も、この田邊氏と何らかの関係があったかどうかは知らない。】また【右京皇別】「上毛野君は、崇神天皇の皇子、豊城入彦命の子孫である」、続日本紀十八に「田邊史難波らに上毛野公の姓を与えた」、卅四に「田邊史廣本(ひろもと?)ら五十四人に上毛野公の姓を与えた」、【新撰姓氏録に「田邊史は、豊城入彦命の四世の孫、大荒田別命の子孫である」ともある。】三代実録七に「上毛野公藤本、上毛野公赤子ら、同族の男七女人に朝臣の姓を与えた。豊城入彦命の苗裔である」とあり、また続日本紀廿九には陸奥国の吉彌侯部(きみこべ)氏の人々に、上毛野陸奥公、上毛野名取朝臣、上毛野鍬山公、上毛野中村公などの姓を与えたことが見える。これらも豊城命の子孫ではないだろうか。【新撰姓氏録に、「吉彌侯部は上毛野朝臣と同祖、豊城入彦命の六世の孫、奈良君の子孫である」、続日本紀廿に「勅して、今からは君子部を改めて吉彌侯部とせよと命じた」とある。】続日本後紀四に「左京の人、上毛野公諸兄に朝臣の姓を与えた」、九に「陸奥国椰麿郡の大領、丈部人麻呂の戸一烟に、姓を与えて上毛野陸奥公とした」という。○下毛野君(しもつけぬのきみ)。和名抄に「下野【しもつけの】」とあるのがそうだ。万葉巻十四、下野国の歌(3424)に「之母都家野(しもつけぬ)」、また(3425)「志母都家努(しもつけぬ)」などとある。【中昔から「野」を省いて「しもつけ」と言っているのは訛りである。】国造本紀に、「下毛野国造は、難波の高津の宮の御世に、元の毛野國を上下に分けた。豊城命の四世の孫、奈良別を初めて国造とした」【原文「初賜2國造1」は、「初」の字の下に「定」の字が脱けている。奈良別は、新撰姓氏録に「奈良君」とある人物のようである。】天武紀に「十三年十一月、下毛野君に、姓を与えて朝臣とした」、新撰姓氏録【左京皇別】に「下毛野朝臣は、崇神天皇の皇子、豊城入彦命の子孫である」、続日本紀廿九に「陸奥国信夫郡の人、吉彌侯部廣國に下毛野静屈(しずべのきみ)、玉造郡の人、吉彌侯部念丸(おしまる?)ら七人に下毛野俯見(ふしみ)公という姓を与えた」と出ている。【「静屈」は「静戸公」を誤ったのだ。安達郡に静戸郷がある。安達と信夫は隣接した郡である。】卅七に「吉彌侯横刀、吉彌侯夜須麻呂に、いずれも下毛野朝臣の姓を与えた。吉彌侯間人、同姓總麻呂に、いずれも下毛野公の姓を与えた」、続日本後紀三に「近江国の人、志賀忌寸田舎麻呂(たやまろ?)ら四人に、下毛野朝臣の姓を与えた。五十瓊殖天皇の皇子、豊城入彦命の苗裔である」、九に「陸奥国の人、大部繼成ら卅六人に、下毛野陸奥公の姓を与えた」などとある。○豊木入日子の子孫は上記の他にも、新撰姓氏録に「池田朝臣は、上毛野朝臣と同祖、豊城入彦命の十世の孫、佐太公の子孫である」【十世は、一本に十一世とある。】また「住吉朝臣は、上毛野と同祖、豊城入彦命の五世の孫、多奇波世君の子孫である」、「池原朝臣は住吉と同氏」、「上毛野坂本朝臣は、上毛野と同祖、豊城入彦命の十世の孫、佐太公の子孫である」、「車持公は、上毛野朝臣と同祖、豊城入彦命の八世の孫、射狹(いさ)君の子孫である云々」、「大網公は、上毛野朝臣と同祖、豊城入彦命の六世の孫、下毛君奈良の弟、眞若君の子孫である」、【「毛」の下に「野」の字が脱けているのだろう。】「桑原臣は上毛野と同祖、云々」、「川合は上毛野と同祖、云々」、「垂水史(たるみのふひと)は、上毛野と同祖、豊城入彦命の子、彦狹嶋命の子孫である」、【彦狹嶋命を豊城命の子と言っているのは間違いだろう。】「商長首(あきのおさのおびと)は上毛野と同氏」、「佐味朝臣は上毛野朝臣と同祖、云々」、「大野朝臣は同豊城入彦命の四世の孫、大荒田別命の子孫である」、「垂水公は、豊城入彦命の四世の孫、賀表眞若命(カホのまわかのみこと)の子孫である、云々」、「佐自努(さじぬ)公は、豊城入彦命の孫、大荒田別命の子孫である」、「下養公は、上毛野朝臣と同祖、云々」、「廣來津(ひろきつ)公は、下養公と同祖、云々」、「韓矢田部(からのやたべ?)造は、上毛野朝臣と同祖、豊城入彦命の子孫である。三世の孫、彌母里別(みもりわけ)命の孫、現古(うつしこ?)君云々」、「車持公は、同豊城入彦命の子孫である」、「廣來津公は、上毛野朝臣と同祖、豊城入彦命の子孫である。三世の孫、赤麻里云々」、「止美(とみ)連は、尋來津(ひろきつ)公と同祖、云々」、「村擧首(むらこそのおびと?)は、豊城入彦命の子孫である」、「佐代公(さじのきみ)は、上毛野朝臣と同祖、云々」、「珍(ちぬ)縣主は、佐代公と同祖、云々」、「登美首は、佐代公と同祖、豊城入彦命の子、倭日向建日向八綱田命の子孫である」、「葛原(くずはら)部は、佐代公と同祖、云々」、「茨木造は、豊城入彦命の子孫である」、「丹比(たじひ)部は、上に同じ」、「輕部は、倭日向建日向八綱田命の子孫である」、「我孫(あびこ)は、豊城入彦命の子、八綱多命の子孫である」、「佐自努公は、豊城入彦命の子孫である」、「伊氣は、豊城入彦命の四世の孫、荒田別命の子孫である」、「我孫公は、豊城入彦命の子、倭日向建日向八綱田命の子孫である」などと見え、続日本紀四十に「池原公綱主らが言上して、『池原・上毛野の二氏は、豊城入彦命から出て、その入彦命の子孫、東国六腹の朝臣は、それぞれ住んでいるところによって姓を賜わり、氏を名乗っております。しかしながら古今同じ国に住み、百王(百代)といえども変わりません。どうか今住んでいるところの名に因んで、住吉朝臣の姓を賜りたく存じます』と願い出た。勅して綱主ら兄弟二人に、請願のとおりに姓を与えた」とある。三代実録七に「伊勢国多氣郡の百姓、麻績部愚麻呂、麻績部廣永ら十六人を、本姓の中麻績公に復させた。愚麻呂らが言うところでは、豊城入彦命の子孫だと言う」、卅二に「左京の人、都宿禰御酉、都宿禰良香、都宿禰因雄、都宿禰興道ら四人に、朝臣の姓を与えた。先祖は御間城入彦五十瓊殖天皇の子孫だと言う。上毛野・大野・池田・佐味・車持の朝臣と同祖である」などと見える。下野国河内郡の二荒山神社は、この豊木入彦命を祭るという。その通りだろう。○豊スキ(金+且)比賣命(とよすきひめのみこと)。諸本共にここには「入」の字がない。脱けたのだろうか。ただし書紀の垂仁の巻でも豊耜姫(とよすきひめ)命とある。また豊城入日子も書紀で豊城命と書いた例もあるから、「入」を省いて呼ぶこともあったのだろう。前後の例によると、「命」の下には「者」の字があったはずだ。【倭日子命のところは、注で「この王の」と受けているので、「者」の字はなくて当然だ。】○拜祭は「いつきまつる」と読む。【このことは伝十五の二十八葉で言った。】○大神之宮は「おおみかみのみや」と読む。倭建命の段に「伊勢大御神宮(いせのおおみかみのみや)」とあるからだ。書紀の崇神の巻には「五年・・・六年・・・そこで天照大神を豊鍬入姫命に託して、倭の笠縫邑に祭った。そこに磯堅城神籬(いしきひもろぎ)を立てた」と見え、垂仁の巻に「廿五年三月、天照大神を豊耜姫命から離し、倭姫命に託した。そこで倭姫命は大神の鎮まるべき地を求めて云々」とあって、【豊スキ(金+且)入日賣命を任から離したのは、年老いたからだろう。皇太神宮儀式帳に「豊耜入姫命は、御形(みかた)長くなった。そこで纏向の珠城の宮の天皇(垂仁)の御世に、倭姫内親王を御杖代(みつえしろ)として奉齋させた」とあり、「御形長成」とは年老いることを言う。】この大御神が伊勢の宮にいるのは、倭比賣命に交替してからのことで、豊スキ比賣命が祭っていたのは、まだ伊勢にたどり着く前であったが、「伊勢大神之宮」とあるのは、後に伊勢の大神と呼んでいるので、それを初めにさかのぼって言っているのである。こういう例は普通に見られる。ここで「宮」と言っているのは、倭の笠縫邑にいた頃の宮を言う。伊勢の大神がいた笠縫邑の宮、といった風に考えると良い。【伊勢の大神とは天照大神ということで、その大神の宮である。伊勢という言葉を「宮」までに係ると見ては誤る。】○能登臣(のとのおみ)。和名抄に「能登国能登郡」とある。これである。続日本紀に「養老二年五月甲午朔乙未、越前国の羽咋、能登、鳳至、珠洲の四郡を割いて、初めて能登国を置いた」、「天平十三年十二月丙戌、能登国を越中国に合わせた」、「天平宝字元年五月乙卯、能登国を旧のように分けて立てた」とある。【和名抄に「霊亀二年、越中国を割いて(能登国を)置いた」と言い、また「養老二年、越中国の四郡を割いてこの国を置いた」というのは、どちらも誤りだろう。】名の意味は定かでない。延喜式神名帳に「能登郡、能登比刀iのとひめ)神社、能登生國玉比古(のといくくにたまひこ)神社」もある。この氏は国造本紀に「能等国造は、志賀高穴穂の朝(成務天皇)の御世に、活目帝(垂仁)の皇子、大入來命の孫、彦狹嶋命を国造に定めた」とある。【この文には誤りが多い。】斉明紀に「能登臣馬見龍(うまむたつ)」、万葉巻十八(4069後書)に「羽咋郡の擬主帳、能登臣乙美(おとみ)」という名が見える。【性霊集に能登臣廣成という人物が見える。】新撰姓氏録には、この氏の人は見えない。○此王之時(このみこのとき)というのは、この王が薨じて、葬った時を言う。「薨じた」とも「葬った」とも言っていないが、次に「御陵」とあるので、そう聞こえる。玉垣の宮の段の終わりに、「その大后、比婆須比賣(ひばすひめ)命のとき、石棺作りを定めた。また土師部を定めた」とあるのと同例で、古文のさまである。○於陵は、「みはかに」と読む。【「墓」と書かず、「陵」とあるのは、いにしえには文字に関わりなく、貴人の墓には特に理由なくこの字を書いたものだろう。】延佳本で「於」の字の上に「止」の字を書いたのは、なまさかしらに加えたのであって、かえって大きな誤りになっている。【その理由は次に言う。】諸本共に「止」の字はない。○「立2人垣1(ひとがきをたてたりき)」。ヒトガキというのは、人を大勢立ち並ばせて、垣のようにするのを言う。舞楽の「垣代(かいしろ)」というのもこの意味だ。皇太神宮儀式帳で、「遷宮の儀」を述べたところに「人垣となって仕えている男女らに、太玉串を捧げ持たせ、左右に分かれて立たせ、・・・まず禰宜、次に宇治内人、次に大物忌父、次に諸々の内人・物忌たち、および妻子たちが人垣となって立ち、衣垣(きぬがき)を曳いて、盖(みかさ?)判羽(さしば?)などを捧げて幸行する。<訳者註:盖判羽は、笠などで上部を覆うようにするのだろう。春日大社の行事などでも、ご神体が行幸するときは、神官たちが隙間なく周りを取り囲み、上部も羽の付いた長い棒で覆い隠すようにする。神が人の目に触れないようにするためだということだ>止由氣宮儀式帳にも「人垣となって仕える内人ら、ならびに妻子らは、全部で六十人【男三十人、女三十人】」と見える。ここにあるのは、この王を葬るとき、墓の周囲に生きた人を大勢人垣に立たせて埋めたのである。それは王が自分で「こうしてほしい」と遺言したからだろう。「始めて」とあるから、こうすることは、この王から始まったと見える。書紀の垂仁の巻に、「二十八年冬十月丙寅朔庚午、天皇の同母弟、倭彦命が薨じた。十一月丙申朔丁酉、倭彦命を身狹桃花鳥坂(むさのつきさか)に葬った、このとき近習の(親しかった)者を集めて、陵域(陵の周り)に生きたまま埋め立てた。数日経っても死なず、昼夜泣き叫んだ。だがとうとう死ぬと、腐爛した死体に犬や烏が群がって食べた。天皇はかれらの泣き叫ぶ声を聞いて心を痛め、群卿たちに『生きていた間に愛した人を、死んだ後に殉死させるのは、とても悲しいことだ。それは古風(昔からの慣わし)だといっても、良からぬことだと思う。これからは相談して、殉死をやめるようにせよ』と言った」とある。ここには「人垣」と書いてはいないが、【人垣と書かなかったのは、漢文のように書こうとしたからだ。いにしえの伝えには、ここも人垣とあったはずだ。】殉死した人がたいへん多かっただろうことは想像が付く。【ある人が質問して、「書紀に殉死は古風とあるのと、この記にこの王の時に初めて人垣を立てたとあるのとは、反対のようである。すると、延佳本で上に『止』の字があるのが合っているのではないか?」答え。「延佳は書紀の記事を誤読しているのだ。よく見ると、書紀の書いていることも、この記と異なってはいない。というのは、生きたまま人を埋めることは、たいへん古い頃からの慣わしだったとしても、それまで人垣を立てるほど大勢を埋めたことはなかったのだ。それをこの王の時に、殉死者を非常に多くして、初めて人垣を立てたというわけだ。次に引用する続日本紀の文に『倭彦王の故事に従って』とあるのも、人垣を立てた初めだからだ。書紀の趣も、前例のないほどひどかったように聞こえるだろう。それを延佳のように『止』の字を加えたのでは、かえって書紀の趣とも違ってしまう。なぜかと言うと、天皇が『今後殉死をやめるようにせよ』と言ったのは、この王の時の殉死があまりひどかったから、今後は止めよと言ったのであって、この王を葬るときにそういって止めさせたのではない。それを『この王の時に止めた』とはどうして言えようか。このことを止めたのは、書紀の同じ巻に『三十二年、日葉酢媛(ひばすひめ)命が薨じたとき、天皇が群臣に、死に従うというやりかたは、前に良くないと知った。今度の葬儀はどのように行うべきかと下問したところ、野見宿禰が進み出て・・・その土物(はにもの:埴輪)を日葉酢媛命の墓に初めて立てた。そこで詔して、今後、陵墓には必ずこの土物を立てよ。生きている人を犠牲にしてはならないと言った』とある。この時である。また続日本紀卅六にも、『土師宿禰古人、同道長らが言上して・・・昔、纏向の珠城の宮で天下を治めた天皇の御世に・・・凶事があるごとに、大勢の殉死者を埋めていました。皇后が薨じたとき、帝は群臣たちに、後宮の葬礼はどのようにしたらよいかと訊ねられました。群臣たちは、倭彦王子の故事に従って行うべきでしょうと答えました。この時、臣たちの遠祖、野見宿禰が進み出て、愚かな意見ですが、殉死というのは、ことに仁政というものが国に益となり、人を利するという道に反するのではないでしょうか。・・・それを殉死者に代えよう。・・・』とある。この時から殉死はなくなったのだ。もし倭日子命の時にもう止めていたのなら、比婆須比賣命のときに、どうしてこんな議論があっただろうか。もし『倭日子の故事』というのを殉死を止めたことと解するなら、野見宿禰の埴輪には、何の功績もないことになる。よくよく考えて、延佳が加えた『止』の字は誤りだと理解すべきである。」】ところで、この書紀の文によると、人垣を立てたのは、中央の石構えの内ではなく、【「陵域」とあるからだ。】そこからやや遠ざけて立ち並ばせたようで、またさほど深くも埋めず、地上に近いところだったようだ。【「犬や鳥が来て屍肉を食った」とある。】この墓は、大和志の高市郡の部に「どこにあるかは未詳、一説に野口村にあるという・・・その墓室は方丈あまり、大石五片で精巧に磨かれている。今は半壊し、石棺も石蓋も路傍に捨て置かれている。俗に鬼の厠(せっちん)、鬼の几(まないた)などと呼ばれている」と言っている。だが思うに、これは身狹桃花鳥坂とは場所が異なる。【いわゆる鬼の厠、鬼の魚板(まないた)と呼ばれるところは、野口村には近いが、野口村では身狹桃花鳥坂とあるのに合わない。鬼の厠、鬼の魚板がこの王の墓だとするのも拠り所がない。いにしえの陵墓は、どれもみな大石を用いているから、それだけでは誰の墓とも決められない。荒木田久老いわく、「野口村の辺り、鬼の厠などという大石のあるところから少し東に、王の墓というのがある。里人は武烈天皇の陵だと言うが、『この天皇は行いが大変悪かったので、生きながらここに埋められた』と伝えているのは、倭彦命の陵に近習の物を行きながら埋めたことを、混同したのではないか。そうであれば、倭彦命の墓は、この王の墓だろう」という。これは理由のある考えだが、やはり場所が違うので採用できない。】

 

此天皇之御世。役病多起。人民死。爲レ盡。爾天皇愁歎而。坐2神牀1之夜。大物主大神顯レ於2御夢1曰。是者我之御心。故以2意富多多泥古1而。令レ祭2我御前1者。神氣不レ起。國安平。是以驛使班レ于2四方1。求B謂2意富多多泥古1人A之時。於2河内之美努村1見=得2其人1。貢進。爾天皇。問=賜=之2汝者誰子1也。答曰僕者大物主大神。娶2陶津耳命之女。活玉依毘賣1。生子。名櫛御方命之子。飯肩巣見命之子。建甕槌命之子。僕意富多多泥古白。於レ是天皇大歡以。詔之天下平人民榮。即以2意富多多泥古命1爲2神主1而。於2御諸山1拜=祭2意富美和之大神前1。又仰2伊迦賀色許男命1作2天之八十毘羅訶1。<此三字以レ音>定=奉2天神地祇之社1。又於2宇陀墨坂神1。祭2赤色楯矛1。又於2大坂神1祭2黒色楯矛1。又於2坂之御尾神。及河瀬神1。悉無2遺忘1。以奉2幣帛1也。因レ此而役氣悉息國家安平也。

訓読:このスメラミコトのみよに、エヤミさわにおこりて、オオミタカラうせて、つきなんとす。ここにスメラミコトうれいたまいて、かむとこにましませるヨ、オオモノヌシのオオカミ、ミいめにあらわれてノリたまわく、「こはアがみこころぞ。かれオオタタネコをもて、アがみまえをまつらしめたまわば、カミのケおこらず、クニたいらぎなん」とノリたまいき。ここをもてハユマヅカイをヨモにあかちて、オオタタネコというひとをもとむるときに、カワチのミヌのむらにそのひとをミえて、たてまつりき。ここにスメラミコト、「イマシはたがコぞ」とトイたまいき。「アはオオモノヌシのオオカミ、スエツミミのミコトのむすめ、イクタマヨリビメにみあいて、ウミませるミコ、ナはクシミガタのミコトのコ、イイガタスミのミコトのコ、タケミカヅチのミコトのコ、おのれオオタタネコ」ともうしき。ここにスメラミコトいたくよろこびたまいて、「アメノシタたいらぎオオミタカラさかえなん」とノリたまいて、すなわちこのオオタタネコのミコトを、かんぬしとして、ミモロヤマに、オオミワのオオカミのみまえをイツキたてまつりたまいき。またイカガシコオのミコトにおおせて、アメのヤソビラカをつくり、アマツカミ・クニツカミのやしろをさだめまつりたまいき。ウダのスミサカのカミに、あかいろのタテホコをまつり、またオオサカのカミに、くろいろのタテホコをまつり、またサカのミオのカミ、カワのセのカミまで、ことごとにおつることなく、ミテグラたてまつりたまいき。これによりてカミのケことごとにやみて、アメノシタたいらぎき。

口語訳:この天皇の御世に、疫病が大流行し、人々が次々に死んで、ほとんど死に絶えそうなほどであった。天皇はひどく心を痛めて、神の床に寝ていた夜、大物主大神が夢に現れ、「これは私の心が為したわざだ。もし意富多多泥古に私を祭らせたら、神の気は起こらず、国は平和になるだろう」と言った。そこで駅馬を四方に飛ばして、意富多多泥古という人物を求めさせたところ、河内の美努村というところで、その人を見出したので、朝廷に連れてこさせた。天皇は「お前は誰の子か」と訊ねた。すると「私は大物主大神が陶津耳命の娘、活玉依毘賣を妻として生んだ子、櫛御方命の子、飯肩巣見命の子、建甕槌命の子、それが私、意富多多泥古です」と答えた。天皇はこれを聞いてたいへん喜び、「これで国は平和になり、人々は富み栄えるだろう」と言った。すぐに意富多多泥古命を神主として、御諸山で意富美和の大神の前を拝祭させた。また伊迦賀色許男命に命じて天之八十毘羅訶を作らせ、天神地祇の社を定めて奉らせた。また宇陀墨坂の神に赤色の楯矛を奉り、大坂の神に黒色の楯矛を奉って祭らせた。さらに坂の御尾の神、河の瀬の神に至るまで、すべての神に漏れなく幣帛を奉った。これによって疫病は静まり、国は平安になった。

役病(えやみ)。この「役」の字は、旧印本と延佳本では「疫」の字を書いている。それが正字だ。しかし真福寺本、その他の本でも、みな「役」と書いている。下文の「役氣」も同様である。この記の書き方ではそういう例が多いので、ここではそれによった。【「疫」と書いた本は、後にさかしらに改めたものだろう。】和名抄に「疫は『えやみ』、一にいわく、『ときのけ』、説文にいわく、『民がみな病むことである』」とある。【また「瘧(おこり)(底本正字は、やまいだれに雨+巳:雨の左棒を伸ばしてたれに作る)は『えやみ』という。一にいわく、『わらわやみ』」とあり、昔は瘧も「えやみ」と言ったようだ。】書紀にも「疫病」、「疫疾」、「疾疫」、「疫氣」など、みな「えやみ」と読む。【また「えのやまい」と読むところがある。大鏡で「延(え)」とだけ言ったところもある。和名抄に「龍膽(りんどう)は『えやみぐさ』」とある。】そう名付けたのは、「役」を「え」とも「えだち」とも言うのを、【「えだち」は「役立」である。役については、軽嶋の宮(應神天皇)の段で言う。】疫病も、漢籍で「民がみな病むことである」と言うように、人ごとに病むのが、「役(え)」に指名されて立つのに似ているからだろう。【師は「疫を『え』と言うのは、字音から来ている。次の文に『神氣』とあり、これがそうだから、ここの疫病も『かみのいぶき』と読むべきだ」と言った。私も初め「役」も「疫」もともに「え」と読むことからすると、字音を取ったのだ。本当の古言だったら、こんな風に同音の字で同意であるはずはない、と思ったが、後によく考えると、そうではなく、いずれももともとの古言である。「役(え)」は自然に字音と同じだった。わが国の古言と漢字の字音が、自然に似ているということも、稀にはある。それも悉く彼の国から取ったものと思うのは、かえって誤りだ。そして「疫(え)」は、その「役」に似ているから言うのは、上記の通りである。「疫」の字そのものも、「役」から出たと思われる。釋名に「疫は役である。言わば鬼があって、役を行うのである」と言っている。このように漢国でも「役」から転じて「疫」という、これまたわが国での意味と自然に合ったのである、向こうに倣ったのではない。書紀の欽明の巻にも「国内に疫病が流行し、大勢の人が死んだ。それが長く続いて、いよいよ甚だしくなり、治療することもできなかった」、敏達の巻にも「この時国に疫病が流行し、民に死者が多かった」ということがある。○多起(さわにおこる)。「おこる」とは、今の世の言で「はやる」ということである。書紀では「行」の字を書いている。【漢国では「行」と言うのだ。わが国でこれを「おこなわる」というのは、漢籍読みである。】中昔の書物でも、みな「はやる」と言っている。○人民は「おおみたから」と読む。書紀では「民」、「人民」、「萬民」、「兆民」、「黎民」、「民庶」、「衆庶」、「黎庶」、「億兆」、「人物」、「人夫」、「庶人」、「居人」、「戸口」、「百姓」、「元々蒼生」、「業々黔首」など、みなそう読んでいる。【ただし「み」はみな「む」と読んでいる。それはやや後の音便である。古言は正しく「み」と読むべきだ。】大御宝ということである。「王民」、「公民」、「良人」などもそう読むべきだ。これらは賎民に対して言う言葉である。すると「おおみたから」とは、もとは良人に限る言葉であって、奴婢には適用されなかったのか、それとももともと良賎を選ばず言った言葉か。その違いは定かでないが、それはどうあれ、普通は単に諸々の民という意味で用い、ここもそうである。【古い書物の趣を考えると、確かに奴婢に対して良人を公民と言っているような箇所も、「おおみたから」と読む他はないので、「おおみたから」とは、元は良人に限っていった名のように思われる。しかしまた、良賎の区別に関わりなく、単に広く民を言う場合にも、「天下の公民」と言った例が多い。これは賎に対して良を言う「おおみたから」を、いつも公民と書き慣れて、その字を借りて、良賎に関わらないところでも、通わせて使ったのだろう。なお公民のことは、玉垣の宮の段、伝廿四の六十葉で言う。】江家次第の非常赦に、検非違使の佐の言う言葉に「依2其事1殊以免給、各罷=還2本貫1、重犯不2奉仕1、爲2公御財1、御調物備進禮(そのことによりてことにもってゆるしたまう、おのおのモトツサトにまかりかえり、かさねてオカシまつらず、オオミタカラとなりて、ミツギモノそなえたてまつれ)<現代語訳:そのこと(特赦となった事情:新天皇の即位など)によって、特別にお許しがあった。各々、もといた里に帰り、再び罪を犯さず、公民となって税を納めよ>」とある。ここには「おおみたから」という言葉が正しく見えている。【「公」という字は、普通「公民」と書き習わしている「公」の字を取っただけである。これを「おおやけ」と読んではならない。ここの「人民」を、師は「あおひとくさ」と読んだ。ここはそう読んでも良い。しかし記中に「人民」とあるところで、そう読んでは良くないところもあり、やはり「おおみたから」と読むのがどこであっても良い読み方だ。】<訳者註:賎民(被差別民)には一般的に納税の義務がなかった>○死は「うせて」と読む。書紀でも「死」、「薨」、「卒」など、そう読んでいる。【また、これらを「みうせぬ」とも読む。「み」は「みまかる」の「み」で、「身」のことだろう。】○爲盡は「つきなんとす」と読む。「爲」は漢文で「將」と書く意味である。書紀にいわく、「五年、国内に疫病が大流行し、人々が大勢死んで、且大半矣(つきなんとす)<訳者註:岩波古典文学大系本の訓読は『なかばにすぎなんとす』となっている>」とある。○愁歎而は「うれいたまいて」と読む。○神牀は「かむとこ」と読む。【または「かみゆか」とも読むべきか。】ここは書紀に「天皇は沐浴斎戒して、殿の内を清め、祈っていわく云々」というところに当たり、上記のように神の教えを請い願って祈り、斎戒して殿内にいた。その床を「神牀」と言ったのだろう。【下巻の穴穂の宮の段にも「坐2神牀1」と見えるが、それは誤字と思われる。】○大物主大神のことは、白檮原の宮の段、【伝二十の十五葉】で言った。○「顯レ於2御夢1(ミいめにあらわれて)」とは、天皇の夢に現れたのである。「顯」とは、このような疫病の流行は、この大神の御心であるぞと、その神の名が顕われ知られた意味で言う。訶志比の宮の段に「この時に三柱の大神の御名は顕われた」とあるのと同じだ。【ただ姿が現れたというだけの意味ではない。師は「あらわし」と読んで、御名を顕わしたのだと言った。これも煎じ詰めれば同じ意味だが、やはり「あらわれて」と読むのがしっくりするだろう。】そもそも世の中のことには、顕露事(あらわにごと)の他に幽事(かみごと)があって、その幽事は、なぜ誰がしたかはよく分からない事を言う。疫病のたぐいも、この幽事であって、何の理由で誰が行ったことかはわからないのを、神の教えを請い祈ることによって知るのである。【書紀の神代巻に「天兒屋命は神事(かみごと)の宗源(もと)を掌る者である。そのため太占(ふとまに)の卜事(うらごと)をもって仕えさせた」とあるので理解せよ。ここに「神事」とあるのが、つまり「幽事」であって、その宗源を掌るとは、卜事をもって神の教えを請い祈って、幽事を何の理由で、どの神がそうしたかを知る、その卜事、請い祈ることを掌ることを言う。よくよく文の意味を味わうべきである。】そうしてその幽事は、大物主大神の仕業だったと分かったのである。【幽(かくれたる)と顕(あらわなる)を相照らして考え、かの「かみごと」を幽事と書き、ここでは顕(あらわる)と言っている意味を悟るべきである。】○是者(これは)は、「このように疫病が流行するのは」という意味だ。○我之御心(あがみこころぞ)。玉垣の宮の段に「太占(ふとまに)に占って、『どの神の御心ですか』と尋ねたところ、『その祟りは、出雲の大神の御心である』」、訶志比の宮の段に「天照大神の御心である」、書紀の景行の巻に「今風が起こり、波が激しくなって王(みこ)の船を沈ませようとしているのは、きっと海神の御心ですわ」、神功の巻に「この時、軍卒を集めるのは難しかった。皇后は『きっと神の御心だわ』と言い、大三輪の社を立て、刀と矛を奉ったところ、兵士たちは自然と集まってきた」、允恭の巻に「淡路嶋で狩をした。・・・終日狩りをしても、獲物は一つも獲れなかった。そこで狩を一旦中止して卜ったところ、嶋の神が祟って、『獲物が一つもないのは、私の御心だ。赤石(明石)の海の底に真珠がある。その珠を私に奉れば、獲物は幾らでも獲れるだろう』云々」、類聚国史に「天長四年四月、詔して『天皇詔旨止(すめらがおおみことらまと)、稻荷神前爾申給閇止申佐久(いなりのカミのみまえにもうしたまえともうさく)、頃間御躰不愈大坐須爾依弖(このごろおおみミヤクサミおおましますによりて)、占求留爾(うらえもとむるに)、稻荷神社乃樹伐禮留罪祟爾出止申須(いなりのかみのやしろのキきれるつみタタリにいずともうす)・・・實爾神乃御心爾志坐波(まことにカミのみこころにしませば)<口語訳:天皇の詔に、稲荷の神前で申し給えと言われた。この頃体の具合が悪いので、占って理由を尋ねたところ、稲荷神社の木を切ったことが祟りとなって出たという。・・・これは実に神の御心であるから>云々』【土佐日記に「ちはやぶる神の心の荒るゝ海に・・・目もうつらうつら、鏡に神の心をこそは見つれ梶取りの心は、神の御心なりけり」。】など見える。後に引いている龍田の風神祭の祝詞も考え合わせよ。○我御前(あがみまえ)。「御前」は上巻【伝十二の十九葉】で出た。○神氣は「かみのけ」と読む。【一般に「気」を「け」と言うのは、世の人は字音だとばかり思っているだろうが、そうではない。わが国古来の言葉だが、たまたま字音と同じなのだ。万葉巻に「潮氣(しおけ)」などと言うこともあり、「烟(けぶり)」の「け」もこれである。数万もある言葉の中には、稀には漢字音と似ているものも、全く同じものも、どうして無いことがあろうか。それを似ていたり同じだったりすると、すべて字音から出たと思うのは、どういうことなのか。】栄花物語の玉の群菊の巻【頼道大将が病んだことを語る段】に「光(みつ)よし、吉平など召して、物問せ賜ふ。御物氣(おおんもののけ)や、かしこき神氣(かみのけ)や、人の呪詛(すそ)など、さまざまに申せば、神氣とあらば、御修法などあるべきに非ず、また御物氣とあるも、任せたらむもおそろしなど、かたがた所思(おぼし)亂るゝ、たゞ御祭祓しきりなり」、【この時代の「祭り祓え」というのは、陰陽師が行うことだった。ここで神氣、物氣と言っている神の気とは、神の祟りである。物の気とは、死人あるいは生きている人でも、人に祟ることを言い、中昔の書物にはよく出てくる。これは二つとも古言で、いにしえは物の気というのも、神の気と同じことだっただろう。神を物と言ったのは、前述した通りだ。それを後には分けて、神の祟りを神の気と言い、物の気とは人の祟りを言うようになったのだろう。しかし人であっても、祟りをなすのは神だから、煎じ詰めれば同じことである。伊勢神宮の文保記に「祖父長官【常尚】の服暇令にいわく、『神の気によって病んだ人の禁忌は、七十五日を過ぎて明ける』」とある。かなりひどいことのようだが、こう言ったのは、その頃まで疫病を神の気と言ったのだろうか。あるいは昔から書き伝えたことを、そのままに記したのだろうか。いずれにせよ、疫病を神の気と言った例である。ここの神氣を師は「かみのいぶき」と読んだけれども、書紀の景行の巻の「信濃の坂を越える者は、多く神氣に遇って病み伏した」などの「神氣」ならそう読んでもいいが、疫病を指して「かみのいぶき」とは言えないだろう。】○安平は「たいらぎなん」と読む。書紀の天武の巻でもそう読んでいる。明の宮の段の終わりに、「その身は元のように安平(たいらぎ)」。書紀にいわく、「五年・・・、【その文は上に引いた。】六年、百姓は流離し、謀反する者も現れた。天皇の徳を以ては治めがたかった。そこで非常に畏まって、神祇に謝罪し祈りを捧げた。これ以前、天照大神と倭大國魂の二柱の神を天皇の大殿の内に並べて祭っていたが、その神威を畏れて、共に住むことが不安になった。そこで天照大神を豊鍬入姫命に託して倭の笠縫の邑に祭り、そこに神籬を立てた。また倭大國魂の神を淳名城入姫命に託して祭った。ところが淳名城入姫命は、髪が抜け落ち痩せ衰えて、祭り続けることができなかった」【天照大御神の御霊の鏡は、「同床共殿に齋鏡(いわいかがみ)として祀れ」と言って賜ったものだから、永久に天皇と同じ御殿で齋(いつき)祭るものなのに、なぜこのように他の場所に遷したのかというと、五年の疫病、六年の百姓流離などで、ひどく神の御心を畏れ危ぶみ、この二柱の神の祟りかも知れないと考え、共に住むのを不安に思ったからである。というのは、いつも同じ殿中にいたら、自然に慣れて、つい軽々しく扱ったり、その気がなくとも、不浄のこともないではなかっただろう。おのずから敬いの礼を怠ってしまう可能性もあることを畏れたのだ。といっても、まだ大倭国内で祭っていたのだが、垂仁天皇の御世になると、さらに鎮座の地を求めて、ここかしことさまよい歩いたのはなぜかというと、その巻に「・・・その後神の教えのままに、伊勢国渡遇宮(わたらいのみや)に遷った」とあるのを見ると、初め「嚴橿之本(いつかしがもと)」にいたときにでも、「他のところに遷せ」という神の教えがあったのだろう。神代に同床共殿の勅命はあったけれども、この代に至って、ついに天皇の大殿を離れ、永く伊勢国に鎮まった深い契りは、初めからあったことだろう。それは幽(かく)れていて、どうにも普通の人には測り知れないものだ。ところでここでは倭大國魂の神を祭った地も書くべきなのに、ただ「祭った」とのみ書いて、その地を書いてないのは、脱けたのである。】「七年春二月、天皇は神浅茅原に行き、八十万の神を集えて、卜い訊ねた。このとき神が倭迹迹日百襲姫命に憑いて、『天皇よ、国が治まらないからといって、何を憂えることがあるのか。私を敬い祭れば、国は必ず平安になるだろうに』と告げた。天皇が『そうおっしゃるあなたはどの神ですか』と訊ねると、『私は倭の国内にいる神、名は大物主神という』と答えた。そこで神の言葉に従って祭ったが、効果はなかった。天皇は沐浴斎戒して、殿内を清め、『私の神の祭りは、まだ足りないのでしょうか。どうして受けてくださらないのですか。どうか夢に現れて、お教えください』と祈った。その夜の夢に貴い人が現れて殿戸に向かい立ち、自分は大物主神だと名乗り、『天皇よ、憂えるな。国が治まらないのは私の意志だ。もし我が子、大田田根子に私を祭らせたなら、国は平らかになるだろう。そのうえ、外国の人々も自ら帰順してくるだろう』と言った。秋八月癸卯朔己酉、倭迹速神浅茅原目妙姫命、穂積臣の遠祖、大水口宿禰、伊勢麻績君の三人が、同じ夢を見たので言上して、『昨夜の夢に一人の貴人が現れ、大田田根子を大物主神を祭る神主とし、市磯長尾市(いちしのながおち)を倭大國魂の神を祭る神主とせよ。天下は必ず平らかになるだろう、と告げました』と言った」【「八十万神を集えて」とは、その御霊を請い寄せたのである。神代巻でその現身を集えたのとは異なる。】○驛使は「はゆまづかい」と読む。「はゆま」は「早馬」である。【「やう」は「ゆ」に縮まる。書紀などに「はいま」とあるのは、後に崩れた音便である。伊勢国飯野郡に早馬瀬(はゆまぜ)という村がある。それも今は「はいまぜ」と言っている。】万葉巻十四【十七丁】(3439)に「須受我禰乃、波由馬宇馬夜能(すずがねの、はゆまうまやの)」【「鈴が音の、早馬駅の」である。】巻十八【二十七丁】に「須受可氣奴、波由麻久太禮利(すずかけぬ、はゆまくだれり)」【「鈴掛けぬ早馬下れり」である。】などがある。だが「驛」の字は後代の制度によって書いただけである。【驛馬の定めは厩牧令などに見える。】ここはこの字に関係なく、ただ早馬の使いということで、後世のいわゆる早打ちの類だ。この言葉は記中にも書紀にもところどころ見える。<訳者註:書紀では、馬が伝わったのは應神天皇の代としており、人代ではそれ以前に馬が登場しない。ただし~代巻には馬が出ている>○四方は「よも」と読む。「四面」の意味だ。【「かげとも」、「そとも」なども「影つ面」、「背つ面」の意味だ。「つお」は「と」に縮まる。】○班は「あかちて」と読む。「わかつ」と同じだ。【「か」は清音に読む。濁るのは間違いである。】○美努村(みぬのむら)。延喜式神名帳に「河内国若江郡、御野縣主(みぬのあがたぬし)神社」がある。書紀の清寧の巻に河内三野縣主(みぬのあがたぬし)小根、【この氏は、天武紀に連の姓を与えた記事がある。】新撰姓氏録の河内国神別に美努連がある。【美努連の人は、続日本紀三七にも見え、続日本後紀十五に「難波部の主足の本姓を改めて美努宿禰とし、本貫を河内国若江郡とした」。また三代実録卅六に「河内国若江郡の人、美努連清名云々」とある。】とすると、若江郡にこの地名があることは明らかだ。【それを延佳本で「美の字は茅に作るべきだ」と言っているのは、書紀に茅淳(ちぬ)縣とあるのばかり考えて、美努というところもあることを考えなかったための誤りである。諸本みな「美」とある。記中の地名の字の用例からすると、もし「ちぬ」なら「知努」などと書くはずだ。音と訓を混用した例は滅多にない。それに茅淳のことを、白檮原の段では「血沼」と書いている。同じ地名なら、様々な書き方はしないのが普通だ。上記のように河内には美努という地名が古い書物にたくさん出ているから、何の疑いもない。書紀は異なる伝えだ。「み」と「ち」とは横に通う音だから、誤って二通りに伝えたのだ。】○貢進は「たてまつりて」と読む。書紀には「天皇は夢に教えを受けてたいへん喜び、天下に布告して大田田根子を尋ねさせたところ、茅淳縣の陶邑に大田田根子を見出し、貢(たてまつ)った」という。○陶津耳(すえつみみ)。「陶」は地名で、延喜式神名帳に「和泉国大鳥郡、陶荒田(すえのあらのた)神社」がある。ここである。今は陶器荘(とうきのしょう)と言う。【「陶」を「すえ」と言うのは、和名抄の古い本に「陶は和訓『すえもの』」とある。据える物ということだ。今の本には「陶は、音は桃(とう)、瓦器、『すえうつわもの』」とある。据器物の意味である。】耳は尊称で、これまでも例が多く出た。この名は旧事紀には大陶祇(おおすえつみ)とある。○活玉依毘賣(いくたまよりびめ)。名の意味は前に同じ名が出ており、そこで言った通りだ。○櫛御方命(くしみかたのみこと)。「櫛」は「奇し」である。「御方」は地名だろう。和名抄に「播磨国宍粟郡、三方郷」、延喜式神名帳に「同郡、御形(みかた)神社」がある。【また同郡に「伊和坐大名持御魂(いわにますおおなもちのみたま)神社」、「大倭物代主(おおやまとものしろぬし)神社」があるのも関係がありそうだ。】ここではないだろうか。新撰姓氏録【石邊君のところ】に「大物主命の子、久斯比賀多(くしひがた)命」、また【石邊公のところ】「大物主命の子、久斯比賀多命」、また【狛人野のところ】「大物主命の子、櫛日方命」などとある。「み」と「ひ」は普通よく通う音で同じ。出雲国造の神賀詞に「倭大物主櫛ミカ(瓦+長)玉命登名乎稱天(やまとのおおものぬしくしみかたまのみこととなをたたえて)」とあるのは、大物主神の名であるが、ここと名がたいへんよく似ている。また上巻の吉備の兒嶋のまたの名を建日方別(たけひがたわけ)といった。そこ【伝五の廿三葉】で言ったことも参照せよ。○飯肩巣見命(いいがたすみのみこと:旧仮名イヒガタスミノミコト)。「飯(いい:イヒ)」の「い」を除けば、父の名の「ひがた」と同じだ。「い」の意味は考えつかない。旧事紀には「健飯賀田須命(たけひがたすのみこと)」とある。【これは「健」から続いているので、「飯」を「ひ」と読んで、「い」の字がない。この記もあるいは上に「建」の字が脱けたのではないか。】「巣見」のことは、上巻の「熊野久須毘(くまぬくすび)命」のところ【伝七の五十七葉】で言った。○建甕槌命(たけみかづちのみこと)。名の意味は、上巻に同名の神があり、そこ【伝五の七十三葉】で言った通りだ。○僕。ここは「おのれ」と読む。○意富多多泥古(おおたたねこ)。【この名は、「おお・たた・ねこ」と読む。「おおた・たねこ」と読むのは良くない。】旧事紀に「大直禰古(おおただねこ)」とも書いてある。「多々」は地名だろう。延喜式神名帳に「摂津国河邊郡、多太(ただ)神社」がある。この社は多田荘の内【平野村】にある。【この多田という地は、中昔以来世人のよく知るところだ。】ここだろうか。大和国葛上郡にも多太神社がある。「泥古」は尊称で、難波根子、山背根子などの類だ。三代実録【巻四、六】には「大三輪の大田田根子命」とある。○上記の大物主大神から意富多々泥古命までの系譜を言った言い方は、【普通はアの子イ、イの子ウ、ウの子エと言うのを、ここでは「アの子、イの子、ウの子エ」と言っている。】書紀の神代巻で「磐裂・根裂の神の子、磐筒男・磐筒女の生んだ子、經津主神」というのに似ている。新撰姓氏録にも【眞野臣のところ】「大口納命の子、難波宿禰の子、大矢田宿禰云々」とあるのと同じだ。古文の言い回しと思われる。ところで、ここに言った通りなら、意富多々泥古命は大物主神の四世の孫なのに、新撰姓氏録に「五世の孫」とあるのは、伝えが異なるのか。それとも大物主神から数えて言ったのか。いにしえには「何世」という時に、始祖から数えた例もある。そのことは下巻玉穂の宮(継体天皇)の段で言う。この世継ぎのことは、書紀に「天皇は神浅茅原に出て来て、王や卿たちと八十諸部を集合させた。そして大田田根子に『お前は誰の子か』と尋ねた。『父は大物主大神、母は活玉依媛、陶津耳の娘です』と答えた。【または奇日方天日方武茅淳祇(くしひがたあまつひがたたけちぬつみ)の娘だとも言う。】天皇は『朕當2榮樂1(私はこれで栄えるだろう)』と言った」とある。【「朕當榮樂」とあるところは、言葉が足りない感じである。】また新撰姓氏録や旧事紀に紛らわしい記事がある。【書紀で大田田根子を大物主神の直接の子とし、活玉依媛を母としたのは、上代には子孫に至るまで広く「子」と言ったから、紛れて伝わったのだろう。しかし「また奇日方天日方武茅淳祇の娘ともいう」の部分は、別に一つの伝えを挙げたのだから、細字になっているのが当然なのに、今の本では続けて大書されているのはなぜか。大書では、大田田根子が言った言葉になる。自分の母のことを言うのに、異説があるはずはない。これは活玉依媛の父についての異伝だから、一人の名なのに、二つに分けて、「奇日方天日方」を活玉依媛のまたの名と解するのも誤りである。奇日方天日方はこの記の櫛御方命に当たるように思われるのを、活玉依媛の父とするのは、これも紛れたのである。だからこれは武茅淳祇とは別人なのを混同して一人の名前としたのだ。武茅淳祇は陶津耳に相当する。次に新撰姓氏録の大神(おおみわ)朝臣のところに書かれている説は、白檮原の朝の大后、伊須氣余理比賣命の父母と紛れたもので、間違いである。その文は後に出る神君(みわのきみ)のところで引く。次に旧事紀は、総体に信用できない書物であるが、四の巻の大神朝臣の系譜を記した段で、この意富多々泥古の祖先を書いたのは、拠り所があるように見える。ただ中に自分勝手な思いつきを加えたところもあるようだ。たとえば「事代主神は八尋の鰐になって三嶋の溝杭の娘、活玉依姫に通い、一男一女を生んだ。天日方奇日方命と、妹姫蹈鞴五十鈴姫命である」と言ったのは、白檮原の朝の大后の父母と、この大神朝臣の祖を取り違え、最後には三嶋溝杭の娘を活玉依姫とし、天日方奇日方命と五十鈴姫命を同母の兄妹としている。みな誤りである。これは書紀の神代巻で「大三輪の神、この神の子は、甘茂(かも)君ら、大三輪君ら、また姫蹈鞴五十鈴媛命である」とあるのを読み誤ったことから出たのだ。「この神の子」というのは子孫のことである。「甘茂君、大三輪君」というのがいずれも姓であることで分かるだろう。三嶋の溝杭の娘を妻としたのも、陶津耳の娘、活玉依媛を妻としたのも、ともに大物主神ではあるが、事は二つで別なのを、話が似ているので、新撰姓氏録では混同して伝えている。書紀では、五十鈴媛姫の父を大物主神とするのと、事代主神とするのと二つの説があるが、甘茂君、大三輪君は大物主神の子孫でこそあれ、事代主神の子孫という伝えは、古い書物に見えたことがない。ところが、そうした混同の結果、旧事紀ではこれも混同して書いている。旧事紀にはこういう人を惑わす記事が多い。よく考えなければ誤る。以前、上巻の伝七で、胸形君について、胸形大神を胸形君が以拝(もちいつ)くのは、事代主神の由縁であると言ったのは、よく考えると良くなかった。それも大物主神の所縁であろう。ところで旧事紀では、上記の次に「三世の孫天日方奇日方命、またの名、阿田都久志尼(あたつくしね)命は、日向賀牟度美良(ひむかのかむどみらひめ)姫を娶って一男一女を生んだ。健飯勝(たけいいかつ)命と、妹淳名底姫(ぬなそこひめ)命である」とある。三世の孫とは、この系譜を素戔嗚命から数えて書いているからだ。しかし櫛日方命は、この記でも新撰姓氏録でも大物主神の子であるのを、事代主神の子としたのが間違っていることは、上記で弁じた通りである。次に「四世の孫健飯勝命は、出雲臣の女子、沙麻奈(さまな)姫を娶って一男を生んだ」と言うのは、この記の飯肩巣見命に当たるが、名前が子の建甕槌(たけみかづち)とよく似ている。「ち」があるかないかの違いだけだ。次に「五代の孫、健甕尻(たけみかしり)命、またの名は健甕槌命、またいわく健甕之尾(たけみかのお)命は、伊勢の幡主の娘、賀具呂(かぐろ)姫を娶って、一男を生んだ」とあるが、「五代の孫」とは上記四世の孫の健飯勝の子ということだ。続く部分もこれに準じて読む。次に「六世の孫、豊御氣主(とよみけぬし)命、またの名健甕依(たけみかより)命は、紀伊の名草姫を妻として一男を生んだ。七世の孫、大御氣主命は、大倭国の民礒(たみいそ)姫を妻として、二男を生んだ。八世の孫、阿田賀田須(あたかたす)命は、和邇古(わにこ)らの祖である。次に健飯賀田須命は、鴨部の美良姫を妻として、一男を生んだ。九世の孫、大田田禰古命、またの名は大直禰古命」という。大田田禰古の父の名は、この記の飯肩巣見によく似ている。しかし「田田(たた)」と「直(ただ)」は字が違うだけで全く同じなのに、「またの名」としているのはどうだろう。ここで九世の孫と言っているのは大物主神の八世の孫になるから、この記とは四世の違いがある。これは名前をところどころ混同したため、一世を三世とも四世ともしたからだろう。「豊御氣主、またの名健甕依」というのは、豊御氣主も健甕槌のまたの名で、大御氣主も同人のまたの名か。「健飯賀田須命」は「健飯勝」と同人だろう。「たす」は「つ」に縮まるから、全く同名だ。とするとこの系譜は、書紀も新撰姓氏録も旧事紀も、みな誤っている。】この記こそ正しいのである。○「即以2意富多多泥古命1(すなわちこのおおたたねこのみことを)」。ここは名前の上に「この」を添えて読む。語の様子からそうでなければならない。ところで、ここで初めて「命」と言っているのは、そこまではあるいは祖神が言い、あるいは自分で言っているから尊称の「命」を付けなかったのだが、ここは地の文だからだ。○神主(かんぬし)は神に仕える主人となる人を言う。【齋主(いわいぬし)、祭主(まつりぬし)などと言うのも意味は同じだ。】書紀には「すなわち大田田根子を大物主神を祭る主として」とある。また神功の巻に「皇后は日を選んで齋宮に入り、みずから神主になって云々」とあるので、【いにしえには神事を重く見たことを知るべきである。】神主の職の重いことを知るべきである。万葉巻十三(3229)に「五十串立、神酒座奉神主部之、雲聚玉蔭見者乏文(いぐしたて、みきすえまつるかんぬしべの、うずのやまかげみればともしも)」、続日本紀十七に「大神(おおみわ)の神主、従六位上大神朝臣伊可保(いかほ)に従五位下を授けた」とある。○御諸山(みもろやま)。上巻【伝十二の二十五葉】に出た。○意富美和之大神前(おおみわのおおかみのみまえ)。これがすなわち大和国城上郡の大神神社である。すでに伝十二に出た。この御社は、この御世に初めて建てたように聞こえるかも知れないが、そうではない。既に白檮原の宮の段でも「美和の大物主神の神」と見え、その後の文に「美和山に到って、神社に留まった」とあるのも、昔のことである。【ところでこの神社には、今は御殿がなく、ただ山に向かって拝むのはどういう理由があるのだろうか。昔は神殿があったらしく、書紀の崇神の巻の八年の歌にも「瀰和能等能々、阿佐妬珥毛、於辞寐羅箇禰、瀰和能等能渡烏(みわのとのの、あさとにも、おしびらかね、みわのとのどを)」と詠み、「神宮の門を開いて云々」とある。日本紀略に「保長二年七月十三日、廿一社に幣帛を奉った。大神の社の宝殿が鳴り響いたからである。そのときの辞は別にある」と見え、童蒙抄(和歌童蒙抄?)に「三輪の明神に参って、この女に会いたいと祈っていたら、社の扉を押し開いて出て来た」なども見える。】○拜祭は「いつきまつりたまいき」と読む。書紀に「八年夏四月庚子朔乙卯、高橋邑の人、活目を大神(おおかみ)の掌酒(さかびと)とした。冬十二月丙申朔乙卯、天皇は大田田根子に大神を祭らせた」とある。【大神は大美和の大神である。日本紀竟宴和歌集に「多々禰古乎、無止女佐理世波、由女爾見志、於保毛乃奴之乃、可美安禮奈末之(たたねこを、むとめざりせば、ゆめにみし、おおものぬしの、かみあれなまし)」とある。新撰姓氏録に「神宮部造(かむみやのべのみやつこ)は、葛城の猪石(いのいし)岡に天降った神、天破命(あまひらくのみこと)の子孫である。六世の孫、吉足日(えたらしひ)命は、磯城の水垣の宮で天下を治めた崇神天皇の御世に、天下に災厄があった。そこで吉足日命を使わして大物主神を祭らせたところ、災異はすぐに止んだ。天皇は『天下の災いを消して、百姓が幸福になった。これからは宮能賣神(みやのめのかみ)となれ』と言って、すなわち宮能賣公の姓を与えた。だがその後、庚午年籍では『神宮部造』と書いてある」とあるのは、意富多々泥古命の副として祭りを行った人ではないだろうか。】○伊迦賀色許男命(いかがしこおのみこと)。名の意味は、前に出た伊賀迦色許男(いがかしこお)命のところ【伝廿二の四葉】で言った通りである。この人は物部連の祖で、新撰姓氏録の穂積朝臣の條に「石上と同祖、神饒速日命の五世の孫、伊香色雄命の子孫である」と見え、また佐爲連、眞神田曾禰連、巫部宿禰、水取連、宇治宿禰、宇治山守連、長谷山直、若湯坐宿禰、矢田部首、物部飛鳥津首、采女臣、物部等の氏々の條にはみな饒速日命の六世の孫、伊香色雄命とある。【尋來津首(ひろきづのおびと)の條には三世の孫とあるが、これも一本に六世の孫とあるのが正しい。】旧事紀にある物部連の系譜を見ると、「饒速日命の子、宇摩志麻治命、その子彦湯支命、その子出石心大臣命、その子大矢口宿禰命、この子大綜杵命、その子伊香我色謎命、伊香色雄命」となる。とするとこの人は、天皇の舅に当たるわけだ。○仰(おおせて)。これは後に「無2遺忘1、以奉2幣帛1也」とあるところまでに係る。【八十毘羅訶を作ることだけを仰せ付けたのではない。】この間の様々のことは、みな伊迦賀色許男命が承って、幣帛・供物などを掌り、すべてを取り仕切ったのだ。書紀にいわく、「そこで物部連の祖、伊香色雄を卜ったところ、神班物者(みてぐらをあかつ人)とするのは吉と出た。また卜ったところ、すぐに他の神を祭るのは不吉と出た。十一月丁卯朔己卯、伊香色雄に命じて、物部の八十手が作った祭神の物(を幣帛として)、大田田根子を大物主神を祭る神主とし、長尾市を倭大国魂神を祭る神主とした。その後に他の神を祭ることを卜ったところ、吉と出た」【この文は趣が紛らわしく、不分明な書き方だ。読む人は良く考えなければ意味を取り違えるだろう。そこで詳しく説明しておく。まず「他の神」と言っているのは、大物主神と倭大国御魂神の二柱に対し、それ以外の諸々の神を言う。だから伊香色雄命に仰せて神への供物を掌り、神々を祭るに当たって、まず上記二柱の神を第一に祭るべきなのに、そうしないうちに他の神を祭ることを卜わせたところ、不吉と出たのだ。そこでまずその二柱を祭った。その後に他の神を祭ることを卜わせたところ、今度は吉と出たのである。「卜3便祭2他神1不吉」、「然後卜レ祭2他神1吉」という「便(やがて:すぐに)」と「然後(しかるのち)」の字に注意して読むべきだ。そもそも大物主大神は、八百万の神を率いて皇朝を守護する大神だから、当然であった。また倭大国御魂の神も、天皇の大宮が置かれている大倭国の国御魂神であるから、これもまた当然だ。】○八十毘羅訶(やそびらか)。上巻【伝十四の五十八葉】に出た。ここでこれを作ったのは、書紀によると、物部の八十手(やそて)である。【伊香色雄が自分で作ったのではない。】この物を用いて大美和の大神を祭り、他の天神地祇を祭ったのだ。【この上に「また仰せて」とあるので、字の意味の通りに取ると、ここは大物主神を祭ることに関係なく、別のことのように聞こえ、八十毘羅訶も他の天神地祇の祭にのみ用いて、大美和の大神の祭には用いられなかったようだが、そうではない。伊香色雄が掌った種々の幣物を用いて大美和の大神を祭ったことは、上記の書紀の文から明らかだ。それをこの記に「また仰せて」とあるのは、大美和の大神を祭るのとは別に、という意味ではない。この「また」は、「大多々泥古を神主とし、また伊香色雄に命じて云々」ということで、すべて大美和の大神を祭ることのうちなのである。「・・・爲2神主1而・・・又仰2伊迦賀色許男命1作・・・於2御諸山1拜祭・・・」の順序に考えるべきである。】このところは、よく考えなければ混乱するだろう。○天神地祇之社(あまつかみくにつかみのやしろ)。書紀に「天社地社(あまつやしろくにつやしろ)」とも、「天社國社」ともある。【これらもこの文によって、「あまつかみくにつかみの社」と読むべきだ。】和名抄に「天神は和名『あまつやしろ』、地祇は和名『くにつかみ』、あるいは『やしろ』」とある。【これは天神の方も「『あまつかみ』、あるいは『やしろ』」とすべきだった。正しくない書き方である。】万葉巻廿【二十八丁】(4374)に「阿米都知乃可美(あめつちのかみ)」とある。神祇令に「およそ天神地祇は、神祇官が常典によって祭る」とあり、また「天皇が即位すれば、すべての天神地祇を祭る」【義解に「即位の後の仲冬の祭、後の條に言うところの大嘗を言う」とある。】義解に「天神とは、伊勢、山城、鴨、住吉、出雲国造らが齋(いつ)くところの神を言う。地祇は、大神(おおみわ)、大倭、葛木の鴨、出雲の大汝(おおなむち)の神などを言う」【出雲国造が齋(いつく)神とは、出雲の熊野を言っており、須佐之男命のことである。大汝の神は杵築大社のことを言う。】とあり、天神(あまつかみ)とは天にいる神、また天から降った神を言う。地祇とは、この地上で生まれた神である。【令集解に「疏にいわく、『天から降ったのを神という。地に就いて顕われたのを祇という』」とある。「就いて」とか「顕われる」と言うのはしっくりしない。】○定奉(さだめまつり)。奉は祭りの意味である。これは、もともとその社はあったのだが、仮の社だったり荒れたりしていたのを、改めて修理し、定めを立てて祭ったのだろう。定めるというのは、祭式を定めたと言うだけでなく祭るべき社を定めたと思われる。【後世に神祇官の帳(神名帳)に載せて祭る社を定めたことは、この時から始まったのだろう。】書紀にいわく、「すなわち別に八十万の群神たちを祭り、天社・国社、またその神地(かむどころ)、神戸も定めた」とある。【「別に」というのは、大物主大神と倭の大国魂神の祀りを定め、その後別に、ということだ。】○宇陀墨坂神(うだのすみさかのかみ)。宇陀は前【伝十八の七十二葉】に見える。「墨坂」は書紀の~武の巻に「また女坂(めさか)に女軍を置き、男坂(おさか)に男軍を置き、墨坂に真っ赤に焼けている炭を置いた。この女坂、男坂、墨坂という名は、このことから起こった」とあって、この名は火を起こした炭を置いたことから出たという。このことは白檮原の宮の段【伝十九の五十二、三葉】で書紀を引用して述べてある。天武紀に「将軍の吹負(ふけい)は近江軍に敗れ、ただ一、二騎を率いて逃走し、墨坂に到って菟(うさぎ)の軍に出会った」とある。新撰姓氏録【難波忌寸の條】に「大彦命が・・・蝦夷を平定しに派遣されるとき、兎田の墨坂に通りかかると、どこからか赤ん坊の泣き声が聞こえてきた」、【この「墨」の字を、印本では「黒」に誤っている。】万葉巻四(504)に「君家爾、吾住坂乃家道乎毛、吾者不忘命不死者(きみがいえに、わがすみさかのいえじをも、われはわすれじいのちしなずは)」などと見える。この坂は、宇陀郡のどこかというと、ある説に萩原(はいばら)駅の西にあるという。上記の古い書物に現れる様子からは、常に人の行き交う大道のようなので、そうだろうと思う。【萩原は今も長谷から伊賀・伊勢に通じる大道で、その西の方は長谷まで山中で坂になっている。】だがここに祀る神が、後世のどの社かということはよく分からない。思うに、延喜式神名帳の「大和国宇陀郡、宇太水分(うだのみくまり)神社【名神大、月次・新嘗】」とあるのがそうだろう。【三代実録に、「貞観元年正月、正五位下を授けた」とある。】というのは、上代から重要視された神社が、中古には絶えてなくなってしまったということは考えにくく、【上代から名高かった神社が絶えてなくなり、あるいは所在が定かでなくなるなどは、乱世を経て後の近世のことであって、延喜の頃までは、そうしたことはまずなかった。】神名帳に載っている宇陀郡の十七座に入っているはずだが、その中で【他は小社で、】大社はこの水分社だけだからだ。それにこの社は、今は下井足村(しもいたりむら)というところにあり、萩原の近隣だから、地理的にも合っている。後に引用する龍田の風神祭の祝詞を見ると、この水垣の御世にこのように特別に祀った神たちは、祈年のために祀ったのだが、【この紀には疫病の流行だけを書いているが、祝詞の内容などを見ると、凶作も続いたのである。】祈年の時には、ところどころの水分の神、山口の神を祭るのが普通で、祈年祭、月次祭の祝詞でも、「山口坐皇神等能前爾白久(やまぐちにますスメカミたちのまえにもうさく)・・・水分坐皇神等能前爾白久(みくまりにますスメカミたちのまえにもうさく)、吉野宇陀都祁葛木登御名者白弖(えしぬ・うだ・つげ・かつらぎとミナはもうして)云々」と並べて言っているのと、ここに大坂の神【大坂の山口神社である】と並べて祭ったのを考えると良い。三代実録に「貞観言年九月、風雨の祈りに使いを派遣して幣を奉った」とある四十五社のうちの多くは、山口の神と水分の神であり、そこにも大阪の山口の神、宇陀の水分の神は入っていた。これらをよく考えると、墨坂の神というのは宇陀の水分神社であることは疑いない。【釈日本紀に「墨坂の神は、兼方が考えるところでは、大和国宇陀郡の八咫烏神社ではないかと思う云々」とあるが、何の由縁もないことだ。】書紀の雄略の巻に「天皇は小子部スガル(螺、ナメクジ:羸の下の羊を虫に置き換えた字)を召して、『私は三諸岳の神の姿を見たい。・・・』あるいは菟田の墨坂の神という」とある。○大坂神(おおさかのかみ)。大坂については、玉垣の宮の段【廿五の二十四葉】で言う。この神は延喜式神名帳の「大和国葛下郡、大坂山口神社【名神大、月次・新嘗。三代実録に「貞観元年正月、正五位下を授けた」】とあるのがそうだ。今は穴蒸(あなむし)村というところにある。【俗に牛頭天王という。ここは穴蒸越と言って、河内国の石川郡に越える山道である。】○赤色黒色(あかいろくろいろ)の楯矛。【黒の字を諸本で「墨」と書いているのは誤りである。ここは釈日本紀に引用された文と、延佳本に依っている。】赤黒の色はどういう訳で決めたのか分からない。書紀によればこれも神の教えだったから、深い理由があることだろう。【「墨坂は東の方にあるから陽の色で赤、大坂は西にあるから陰の色で黒」などというのは例の漢意の説で、決していにしえの意ではない。こういうことは、そういう理屈にたまたま合っていることがあるものだ。】兵器を神社に奉ることは、書紀の垂仁の巻に「二十八年秋八月癸酉朔己卯、祠官(かむつかさ)に兵器を奉ることを卜わせたら吉と出たので、弓矢と横刀を諸神の社に納め、さらに神地、神戸を定め、時日を選んで奉った。多分兵器を神祇に奉るのは、この時に始まったのだろう」とある。【「兵器を神祇に奉るのは、この時に始まったのだろう」とは何という言い方か。すでに水垣の朝の御世に、この楯矛のことがあったのに。】神功の巻に「・・・皇后は『これはきっと神の御心だわ』と言って、大三輪社を建て、刀矛を奉った」と見えて、後々まで普通のことだった。三代実録十に、石清水八幡宮に楯・矛および御鞍を奉ったときの告文に「新宮構造天支、楯矛及種々神財、可2奉出1而、神財波且奉出己止畢太利、楯矛并御鞍等乎奈毛、怠利介留、此乎今造飾天(にいみやつくりてき、タテホコまたくさぐさのかむたから、たてまだすべくして、かむたからはカツたてまだすことおえたり、タテホコまたみくらなどをなも、おこたりける、こをイマつくりかざりて)・・・奉出給(たてまだしたまう)云々」などとあるのを考えると、奉幣の中でも楯矛を特に重視して奉ったことは、この水垣の宮の御代の、この例が代々伝わったものだろう。○祭(まつる)は「奉る」である。これらはもと同言だから、楯矛を奉って祭るという意味で、「祭」の字を書いたのだろう。書紀にいわく、「九年春三月甲子朔戊寅、天皇の夢に神人が現れ、『赤い盾八枚、赤い矛八竿を墨坂の神に祀り、黒い盾八枚、黒い矛八竿を大坂の神に祀れ』と教えた。四月甲午朔己酉、夢の教えに従って、墨坂の神、大坂の神を祭った」とある。龍田の風神祭の祝詞に、「龍田爾稱辭竟奉皇神乃前爾白久、志貴嶋爾大八嶋國知志皇御孫命乃、遠御膳乃長御膳止、赤丹乃穂爾聞食須、五穀物乎始弖、天下乃公民乃作物乎、草乃片葉爾至万弖不成、一年二年爾不在、歳眞尼久傷故爾、百能物知人等乃、卜事爾出牟神乃御心者、此神止白止、負賜支、此物知人等乃卜事乎以弖、卜止母、出留神乃御心母無止白止聞看弖、皇御孫命詔久、神等乎波、天社國社止、忘事無久、遺事無久、稱辭竟奉止思志行波須乎、誰神曾、天下乃公民乃作々物乎、不成傷神等波、我御心曾止、悟奉禮止、宇氣比賜支、是以皇御孫命大御夢爾悟奉久、天下乃公民乃作々物乎、悪風荒水爾相都々、不成傷神等波、我御名者、天乃御柱乃命、國乃御柱乃命止、御名者悟奉弖、吾前爾奉牟幣帛者、(たつたにたたえごとおえまつるスメカミのまえにもうさく、しきしまにオオヤシマグニしろしめししスメミマノミコトの、とおみけのながみけと、あかにのホにきこしめす、イツツノタナツモノをはじめて、あめのしたのオオミタカラのつくるものを、くさのカタハにいたるまでなさず、ひととせふたとせにもあらず、としまねくそこなえるゆえに、もものモノシリビトどもの、ウラゴトにいでんカミのみこころは、このカミともうせと、おおせたまいき。こをモノシリビトどものうらごとをもちて、うらえども、いずるカミのみこころもなしともうすときこしめして、スメミマノミコトののりたまわく、カミたちをば、あまつやしろ・くにつやしろと、おつることなく、のこることなく、たたえごとおえまつるとオモオシおこなわすを、いずれのカミぞ、あめのしたのオオミタカラのつくりつくるものを、なさずそこなうカミたちは、わがミココロぞと、さとしまつれと、うけいたまいき。ここをもてスメミマのミコトのおおミいめにさとしまつらく、あめのしたのオオミタカラのつくりつくるものを、あしきカゼあらきミズにあわせつつ、なさずそこなうは、わがミナは、アメノミハシラノミコト、クニノミハシラノミコトと、みなはさとしまつりて、わがまえにたてまつらんミテグラは、)・・・吾宮者、朝日乃日向處、夕日乃日隠處乃、龍田能立野爾小野爾、吾宮波定奉弖、吾前乎稱辭竟奉者、天下乃公民乃作々物者、五穀乎始弖、草乃片葉爾至万弖、成幸奉牟止、悟奉支、是以皇神乃辭教悟奉處仁、宮柱定奉弖、此乃皇神能前爾、稱辭竟奉爾、皇御孫命乃宇豆乃幣帛令捧持弖、王臣乎爲使弖、稱辭竟奉久止、皇神乃前爾白賜事乎、神主祝部等、諸聞食止宣(わがみやは、アサヒのひむかうところ、ユウヒのひがくるところの、たつたのたちぬにおぬに、あがみやはさだめまつりて、わがまえをたたえごとおえまつらば、あめのしたのオオミタカラのつくりつくるものは、イツツノタナモノをはじめて、くさのはのかたはにいたるまで、なしさきわえまつらんと、さとしまつりき。ここをもてスメカミのことおしえさとしまつるところに、ミヤバシラさだめまつりて、これのスメカミのまえに、たたえごとおえまつりに、スメミマノミコトのうずのみてぐらささげもたしめて、おおきみたち・おみたちをつかいとして、たたえごとおえまつらくと、スメカミのまえにもうしたまうことを、かんぬし・ほふりども、もろもろきこしめせとのる。)・・・此宇豆乃幣帛乎、安幣帛能足幣帛止、皇神能御心爾、平久聞食弖、天下能公民能作々物乎、悪風荒水爾不相賜、皇神乃成幸閇賜者、(このうずのミテグラを、やすミテグラのたるミテグラと、スメカミのみこころに、たいらけくきこしめして、あめのしたのオオミタカラのつくりつくるものを、あしきカゼあらきミズにあわせたまわず、スメカミのなしさきわえたまはば、)・・・秋祭爾奉牟止、(あきのまつりにたてまつらんと)云々」【ここに「志貴嶋爾」と言うところから「宮柱定奉弖」と言うまでは、みなこの水垣の宮の御世のことである。「志貴嶋」というと欽明天皇の御世のようにも思われるだろうがそうではない。】ともあるのをここで考え合わせると、墨坂・大坂の神を特別に祀ったのも、この龍田と同様、年穀のためだっただろう。<訳者註:この祝詞の引用は非常に長く、特に前半は珍しく切迫した内容なので、現代語で大意を述べておく。それは龍田の神に「天下を治めている皇孫に、永遠に五穀の惠をもたらしてくれるはずの天地が、百姓たちが作る五穀だけでなく、草の葉までも成らせない。それも一年や二年でなく、何年も実りがないので、天皇は世の物知り人たちに、『この事態に至った神の心を占って、この神が祟っていると明らかにせよ』と言ったが、『特にどの神とも占いに出ません』と言うので、天皇は『天神地祇すべてを余すところなく祭り、一体どの神が百姓たちの作るものをことごとく成らせないのか、示してくださいと祈れ』と言った。すると天皇の夢に神が顕れ、『百姓たちが作るものを暴風や大水に会わせて、ことごとく成らせないのは、私の心だ。私の名は天の御柱の命・国の御柱の命。』と告げた。そして『私への御幣はしかじか』と品目を言った。次に『自分の宮を龍田の立野の小野に建てて、丁重に祭れば、五穀をはじめ、あらゆる作物がよく実るだろう』と言った。そこでお祭りに来ました」と神に告げ、後半は普通の祝詞のように御幣を捧げ(品目を読み上げる)、誉め讃えて祈っている>○又於から河瀬神というところまでの十一字は、真福寺本に依った。他の諸本には、「及河瀬又於坂之御尾神」とある。これでも意味は通じるが、【これも意味は「又於2河瀬及坂之御尾神1」ということになる。】やはり真福寺本が正しいからだ。【「又」と「及」の字も正しく置かれ、「又於」というのもこれまでに出た文の例に合っており、「坂之御尾」を先に、「河瀬」を後にしたのも、上巻の例に合う。ただしその本では、「又」の字の上に「之御」の二字がある。これは「坂之御尾」の「之御」が竄入したのだ。そこで、ここではこの二字を削った。他の諸本は「及河瀬」の三字が乱れて、下の部分が上に移ったものだ。】○坂之御尾・河瀬については、上巻の大穴牟遲神の段で、「坂の御尾に追い伏せ、河の瀬に追い払い」、また「坂の御尾ごとに追い伏せ、河の瀬ごとに追い払い」とあるところ【伝十の五十七葉】で言った。山と言わずに坂と言い、河も瀬と言ったのは、みな進む道のことを言っている。その神たちは、倭建命の段で「足柄の坂の神」、「科野の坂の神」、また「河の神」などがあるのと同様だろう。ここで坂と河の二つを挙げて、その他同じようなたぐいの諸神をこれに含めたのだろう。【その意味を含めて、「及河瀬神」を「河の瀬の神まで」と読んだ。この坂之御尾神、河瀬神というのに、もう一つの考えがある。坂之御尾神は各地の山口の神、河瀬の神は水分神ではないかということだ。それは宇陀の水分神と大坂の山口の神を特別に祭って、またその他のところどころの水分の神、山口の神も残さず祭ったということだろう。そうだったら「又於」の下に其餘(その他の)などという語があってもいいところだが、下で「悉く」と言っているから、その意味は足りている。しかし水分神を河の瀬の神と言うのが適切かどうか疑わしいので、やはりこの解釈は成り立たないだろうか。】○無遺忘は「おつることなく」と読む。【「忘」の字も、「遺(取り残すこと)である」と注されている。】祝詞に「嶋能八十嶋墜事無(しまのやそしまおつることなく)」、万葉巻一(79)に「川隈之八十阿不落(かわくまのやそくまおちず)」などとある意味で、すべて遺漏なくということだ。上記の龍田の祭の詞にも「天社國社止、忘事無久遺事無久、稱辭竟奉」とあった。続日本紀の詔にも、「漏落事母在牟加止、辱美(もれおつることもあらんかと、かたじけなみ)云々」とある。○幣帛は「みてぐら」と読む。上巻【伝八の四十三葉】に出た。○役氣【「役」の字が一本に沒、他の一本に「俣」とあるのは、みな「役」を誤ったのだ。延佳本には「疫」と書いてあるが、ここは一本に「役」とあるのに依った。その理由は、前に「役病」とあるところで言った。これも「かみのけ」と読む。○國家は「あめのした」と読む。書紀でもそう読んでいるところが多い。○安平也は「たいらぎき」と読む。【「き」は過去の助詞である。】後の文にも「天下太平、人民富榮(あめのしたたいらぎ、おおみたからトミさかえき)」と見え、書紀の仁徳の巻にも「是以政令流行、天下太平(ここをもてマツリゴトしきながれて、あめのしたたいらぎ)、二十餘年無事(はたとせあまりありてことなし)」などとある。みな同じありさまである。書紀にいわく、「ここに疫病は止み、国内は静まって、五穀が実り、百姓は富み栄えた」とある。○ある人は質問して、「大物主神は八百万の神々を率いて皇孫を守護するはずの神であって、この御世に天皇の政治が悪かったという話もないのに、この段のように祟って天下を騒がし、人民を悩ませたのは納得できないが、この意義はどうなのか」と言った。答え。「すべて神の心や仕業は、外国の仏とか聖人のように、人間の理屈をもって、こちらからああだこうだと論ずべきものではない。善も悪も、測り知れるものではないのだ」。

 

此謂2意富多多泥古1人。所=以3知2神子1者。上所レ云活玉依毘賣。其容姿端正。於レ是有2神壯夫1。其形姿威儀於レ時無レ比。夜半之時シュク(攸の下に火)忽到來。故相感。共婚供住之間。未レ經2幾時1。其美人妊身。爾父母恠2其妊身之事1。問2其女1曰。汝者自妊。無レ夫何由妊身乎。答曰。有2麗美壯夫1。不レ知2其姓名1。毎レ夕到來。供住之間。自然懷妊。是以其父母。欲レ知2其人1。誨2其女1曰。以2赤土1散2床前1。以2閇蘇<此二字以音>紡麻1貫レ針刺2其衣襴1。故如レ教而。旦時見者。所レ著レ針麻者。自2戸之鉤穴1控通而出。唯遺麻者三勾耳。爾即知B自2鉤穴1出之状A而。從レ糸尋行者。至2美和山1而。留2神社1。故知2其神子1。故因2其麻之三勾遺1而。名2其地1謂2美和1也。<此意富多多泥古命者。神君。鴨君之祖。>

訓読:このオオタタネコというひとを、カミのみことしれるゆえは、かみにいえるイクタマヨリヒメ、それかおよかりき。ここにカミオトコありて、そのカオスガタよにたぐいなきが、さよなかにたちまちきつ。かれあいめでて、すめるほどに、いくだもあらねば、そのおとめハラミヌ。ここにチチハハそのハラメルことをあやしみて、そのむすめに、「いましはおのずからハラメリ。オなきにいかにしてかもハラメル」ととえば、「うるわしきオトコの、そのなもしらぬが、よごとにきつつ、すめるほどに、おのずからハラミヌ」という。そのチチハハそのひとをしらまくほりて、むすめにおしえつらくは、「ハニをとこべにちらし、ヘソオオはりにぬきて、そのきぬのすそにさせ」とおしう。かれおしえしごとして、あしたにみれば、はりをつけたりしオは、とのカギアナよりひきとおりでて、ただのこれるオは、ミワのみなりき。ここにカギアナよりいでしさまをしりて、いとのまにまにたずねゆきしかば、ミワヤマにいたりて、かみのやしろにとどまりき。かれそのカミのみこなりとはしりぬ、かれそのオのミワのこれるによりてなも、そこをミワとはいいける。<このおおたたねこのみことは、みわのキミ、かものキミのおやなり。>

口語訳:この意富多多泥古という人が神の子だと分かったのは、つぎのような事情である。上記の活玉依毘賣は、容姿が大変美しかった。ところがたいへん気高い様子の男がいて、その容姿、振る舞いは類い稀な立派さの人が、夜中に突然やって来て、一目でお互いが気に入った。そこで幾晩か共に過ごしたが、まだそれほど時日も経っていないのに、活玉依毘賣は妊娠した。父母は娘が妊娠していることを知ると、彼女に「お前は明らかに妊娠している。夫がないのに、どうして妊娠したのか」と尋ねた。すると「とても麗しい男の人がいて、名前も知らないのですけど、毎晩やって来るのです。それで一緒にいましたら、いつの間にか身ごもっていました」と答えた。父母はその人が誰か知りたいと思って、娘に「麻糸を針に通しておいて、その人がやってきたら、着物の裾に刺しなさい」と教えた。彼女は教えられた通りにしておいた。朝になって見ると、糸は鍵穴を通って外へ出ており、麻はただ三輪を残すだけだった。その鍵穴を通った様子を不思議に思って、糸の跡をたどって行ってみると、美和山まで続いており、神社で終わっていた。それでそれは神の子であったと分かった。その糸が最後に三輪残っていたので、その地を美和という。<この意富多多泥古は神君、鴨君の先祖である。>

「知2神子1(かみのみことしれる)」とは、大物主神の子だと知ったことを言う。白檮原の宮の段に「神の御子」とあるから、ここもそれに倣って、「子」を「みこ」と読む。○其は「それ」と読む。「その人」と指して言う古言で、例が多い。前にも出た。○容姿端正は「かおよかりき」と読む。理由は、白檮原の宮の段で「勢夜陀多良比賣、其容姿麗美(せやだたらひめ、それかおよし)」とあるところ【伝廿の14葉】で言った通りだ。土佐日記にも「されど死にし子かほよかりき」、源氏物語【處女の巻】にも「かほのいとよかりしかば」などがある。「端正」を書紀では「きらきらし」と読んでおり、端麗、閑麗、佳麗、シュ(女+朱)妙、端厳などの語もそう読んでいる。【万葉巻九の長歌(1738)に、「其姿之端正爾(そのかおのきらきらしきに)」とある「端正」を「うつくしけさに」と読んでいるが、やはり「きらきらしきに」と読むべきだ。】日本霊異記にも「端正は『きらきらし』」とある。とするとここもそう読んでもいいが、【「きらきらし」というのは、あるいは仏像から出た言葉ではあるまいか。書紀の欽明の巻に、「佛相貌端厳(ほとけのかおきらきらし)」とある。】やはり初めの案が優っているだろう。軽嶋の宮の段にも「感2其姿容之端正1(そのかおのよきにめでて)」、高津の宮の段にも「名黒姫、其容姿端正(なはクロヒメ、それかおよし)」などとある。○神壯夫。諸本に「神」の字はない。今は延佳本および釈日本紀に引用された文によった。「かみおとこ」と読む。【延佳は「あやしきおとこ」と読み、師は「くしきおとこ」と読んだ。いずれも意味は違っていないのだが、この記の例では「神」と書けば「かみ」と読むべきだ。】凡人ならぬ男という意味だ。「壯夫」は上巻に「おとこと読む」と訓注がある。○形姿威儀は「かおすがた」と読む。朝倉の宮の段に「形姿美麗(かおよし)」とある。「すがた」はただ形だけを言うのではない。立ち居振る舞いなどの様子も含めて言い、「威」の字の意味も備わっている。【「威」は俗に言う「勿体のある」、気高いことである。ここに「威儀」と書いたのは、その意味を含めたのである。】雄略紀に「容儀(すがた)」、「形容(すがた)」なども見え、皇極紀に中臣鎌子連を「意氣高逸容止難レ犯(いきすぐれスガタおかしがたし)」などとある。万葉には「光儀」と書いていることが多く、「儀」、「容儀」などとも書く。【師はこの「形容威儀」を「かたちよそい」と読んだが、「よそい」は装束や飾りの方を言う言葉に聞こえるから、どうかと思う。】○於時は、師が「よに」と読んだのに依るべきだ。【「ときに」と言うのは「当時」ということで、「よに」と言うのは「この世に」と言うことだから、縦横(時間と空間)の違いはあるが、煎じ詰めれば同意に当たる。そのうちでも「よに」という方が優っているように聞こえるからである。】○無比は「たぐいなきが」と読む。○夜半之時は、師が「さよなかに」と読んだのが良い。【「さ」は「真」の意味で、「真夜中」ということだ。】○シュク(攸の下に火)忽到來は「たちまちきつ」と詠む。「シュク忽」は白檮原の段、【伝十八】また穴穂の宮の段にも見える。【師はこれを「ゆくりなく」と読んだ。それも悪くない。景行紀に「不意之間(ゆくりもなく)」とある訓はよく当たっているが、「シュク忽」には少しどうかと思う。また「到來」は、延佳本などでは「もうけり(旧仮名マウケリ)」と呼んでいる。これは書紀などで「来」を「けり」と読んでおり、「来有(きたり)」ということで、「マウケリ」は「参来有」だから、言葉は古言であり、書紀にもそう読んでいる字は多い。しかし特に身分が高いわけでもない人の所に来たことを「参(マウ)」ということは、中古の頃の言い方であって、上代には言わないことだ。ここも「参(マウ)」とは言うべきでない。単に「きつ」と言うのこそ正しいだろう。】○故(かれ)。【一本に「欲」の字を書き、釈日本紀に引用したのは「故欲」と書いているが、ともに誤りである。】○相感は「あいめでて」と読む。あるいは「かたみにめでて」とも読める。【「かたみに」は「たがいに」ということだ。】○共婚供住之間はこの六字合わせて「すめるほどに」と読む。いにしえは男が女のもとに通ってきて、夫婦の契りをすることを「住む」と言った。【ここに「共婚供住」と書いたのは、漢文で単に「住む」と書いたのでは古言の意味が含まれていないので、その意味をはっきりさせようとして書いたのだ。次の文では、同じことをただ「共住」と書いて、「共婚」の字を省いているので分かる。それを漢字の意味に従って解釈しようとすると、古言は失われてしまう。】万葉巻四(504)に「君家爾吾住坂乃家道乎毛(きみがいえにわがすみさかのいえじをも)」と詠んでいるのも、通い住むことを墨坂にかけて言ったのだ。古今集の【戀四】典侍藤原因香(よるか)朝臣【女性名である】の歌(745)の詞書きに「右大臣住(すま)ずなりにければ云々」、また【戀五】(784詞書き)「業平朝臣、紀有常が娘に住みけるを、恨むることありて、しばしのあひだ、晝は來て、ゆふさりは還りのみしければ云々」、拾遺集の物の名の歌(421)に「年を経て君をのみこそ寝住(ねすみ)つれ、異腹(ことはら)にやは子をば生(うむ)べき」、【これは婚(まぐわい)することを「寝住」と詠んだのだが、そこに「鼠」の語を隠している。】この他、歌や物語集などに普通に見られる言葉である。○未經幾時は「いくだもあらねば」と読む。万葉巻五【九丁】(804)に「摩多麻提乃、多麻提佐斯迦閇、佐禰斯欲能、伊久陀母阿羅禰婆(またまでの、たまでさしかえ、さねしよの、いくだもあらねば)云々」、巻十【三十七丁】(2023)に「左泥始而、何太毛不在者、白栲、帶可乞哉、戀毛不遏者(さねそめて、いくだもあらねば、しろたえの、おびコウべしや、こいもやまねば)」などがあるのに依った。まだそれほど時日を経ていないのに、という意味の古言である。【普通「ぬに」というところを「ねば」と言った例は、古言にはたいへん多い。上記万葉の「不遏者(やまねば)」なども「やまないのに」という意味だ。】○妊身は「はらみぬ」と読む。下の「懐妊」も同じ。○自妊(おのずからはらめり)。この「おのずから」は、上巻に「自吾子也(おのずから我が子なり)」とか「自我勝(おのずから我勝ちぬ)」、「天原自闇(天の原おのずから暗く)」、また「自得照明(おのずから照り明りき)」などの「おのずから」と同じで、「もとより」、「言うまでもなく」などといった意味である。上記のような箇所の用例を見て悟るべきである。このことはすでに伝八【三葉】でも言った。だからこれは、身ごもったことが疑いもなく明らかだということを言っている。【「無レ夫」という言葉に係っているように聞こえるだろうが、そうではない。】○夫は「お(旧仮名ヲ)」と読む。上巻の須勢理毘賣命の歌に「那遠岐弖、遠波那志(なをきて、お(ヲ)はなし)」とある。【「汝をおきて、夫(ヲ)はなし」である。】○有麗美壯夫、不知其姓名。これは「うるわしきおとこの、そのなもしらぬが」と読む。【「有」の字は読まない。また「姓名」は単に「な」と読む。ここは水垣の宮の御世よりはるか昔のことなので、まだ姓などというものはなかった時代だからだ。それを「姓名」と書いたのは、漢文を真似たのだ。師がこれを「うじな」と読んだのは良くない。】名も知らぬと言うだけで、どこの誰とも知らないという意味が含まれている。○毎夕到來は「よごとにきて」と読む。○赤土は「はに」と読む。その理由は上巻に出て、そこ【伝十の四十九葉】で言った。【師は「そおに(旧仮名ソホニ)」と読んだ。それももっともだが、やはり「はに」と読むのがいい。】○床前は師が「とこのべ」と読んだのに従うべきだ。赤土を床の辺に散らしたのは、何をするためか、後の文にもその理由は見えないが、推測で言うと、これは足跡を追って、その人のやって来た方を知ろうとしたからではないだろうか。【だがそれなら戸の外に仕掛けるべきなのに、床の辺りではどうだろう。】または衣の裾に赤土を着けて、その人を判別しようとしたのか。【どちらにせよ、次の閇蘇麻(麻糸)で事は十分だったから、赤土は不要だったように見えるが、仕掛けが一つしかなくて、失敗したときのことを考えて、二段構えにしたのだろう。】また考えるに、「床前」の後に「また」という言葉がないのは、この赤土も麻糸の仕掛けを完成させるための準備だったのか、しかしそれならどういう仕掛けだったのか分からない。もっと考えてみる必要がありそうだ。○閇蘇(へそ)は、和名抄に「楊氏の漢語抄にいわく、巻子は閇蘇、調べたが本文は未詳。ただ閭巷(世間)の伝えるところでは、績麻(うみ)を丸く巻く(糸巻きにぐるぐると巻き付ける)ことである」とある。名の意味は綜麻(へそ)だろうか。【和名抄に「綜は和名『へ』」とあり、この字は説文に「織縷(糸を織る?)である」と注されている。万葉巻一の歌(19)に「綜麻形乃」とあるのを、ある人が「へそがたの」と読んだのも、捨てがたい訓である。】○紡麻は、単に「お(旧仮名ヲ)」と読む。【「績麻(うみお)」と言うのも万葉によく出て来て古言だから、ここもそう読んでよさそうだが、すでに「閇蘇」と言ったからには、紡いだ麻なのは当然で、ここでまた煩わしく「うみお」と読むのはどうかと思う。それなのに「紡」の字を書いたのは、漢文の真似である。】また閇蘇の下に「之」の字がないことから、ここは「の」と言わず、直接続けて「へそお」と読む。いにしえは、巻子にした麻をそう言ったのだろう。○針は和名抄に和名「はり」とある。○其衣(そのきぬ)は、通って来る男の衣のことだ。○襴は、日本霊異記に「すそ」とある。和名抄には「裾は、陸詞にいわく、裾は衣の下である。和名『ころものすそ』、一にいわく『きぬのしり』」とあって、襴については「音は蘭、俗の言い方は字の通り」とあって、和名を挙げていない。【天武紀で襴を「すそつき」と読んでいるのは、「つき」は「続(つ)ぎ」、あるいは「着き」でもありそうだ。これはやや後の装束で、衣の下に、横幅の布を接いだのを言う。和名抄の衣服部に、「襴衫は『すそつづけのころも』」とあるのがそうだ。上記の音蘭というのもこれである。襴衫は襴の着いた衫ということだ。襴や裾は、やや後には区別するようになったが、もともと同じものだった。上代に「すそ」と言ったものは、これらの字にこだわると、どんなものだったか分からなくなる。】倭建命の段に、「美夜受比賣の着物は、意須比(おすい)の襴(すそ)に月経の血が着いていた」とあり、その歌に「意須比能須蘇爾(おすいのすそに)云々」とある。万葉には「裳の須蘇」というのもたくさんある。【下(すそ)とも書いている。】今の世でも「すそ」というところを言う。○如教而は「おしえしごとして」と読む。【「して」は「爲而」の意味だ。】○旦時は「あしたに」と読む。または「つとめて」とも読める。その理由は伝十八【五十八葉】で言った。これは男がいつものようにやって来て、一夜過ごして還って行ったその朝である。○鉤は「かぎ」と読む。和名抄の門戸具に「楊氏の漢語抄にいわく、鉤匙は『とのかぎ』、一にいわく『からかぎ』」、また「四聲字苑にいわく、鑰は關の具である。楊氏の漢語抄にいわく、鑰匙は『門(かど)のかぎ』」などとある。「かぎ」とは、もともと物の形が曲がっているのを言い、【今の世でもそう言う。「鉤の手」などと言うこともある。】明の宮の段に「鉤でそれが沈んだところを探った」などもあり、曲がった形なら何物についても言ったのが、門戸の鑰の名にもなったのである。【漢国でも曲がっていて、物をかき寄せる道具などを鉤と言うことが多い。】○控通而出は師が「ひきとおりでて」と読んだのが良い。【「通」を「とおし」と読むのは良くない。ここは通っているのを言うのだから、「通し」では合わないだろう。】たいへん小さい鉤穴から出入りしたのは、神壯夫だったからで、だからこそ父母も気付かなかったのだろう。○三勾は「みわ」と読む。後で引く土佐国風土記では、これを三輪と書いている。すべて長いものを曲げて円形にしたのを「わ」と言う。輪もそうだ。そうすることを「わがぬ」とも「わく」とも言うが、【「わぐ」は「わがぬ」が縮まった言だろう。】ここは「わがなった」物を指して言っているから、「わ」と言うのがもとの言葉だ。【「わがね」、「わげ」を体言化して、三勾を「みわがね」、「みわげ」と読むのもありそうだが、それは派生的な言葉である。】この上にある「唯」は、この三勾に掛けて理解すべきである(わずか三勾が残っただけだった、と解する)。○耳。ここは「のみ」と読む。【記中、耳と書いたところの多くは、「のみ」とは読まない。初めの巻で論じた通りだ。】「のみ」は物でも事態でも、限局して、それより他はないことを言う言葉である。残った麻糸のことは、ここには必要のないことだが、次に「美和」という地名の由来として言うために、このことに言及したのである。【文の様子からして、こうあるべき所だ。今も文章を書くような人なら、こうしたことをよく心得ておくべきだ。】○爾即は「かれここに」と読む。【「故爾」、「故於是」とあるところの書き方だからだ。】○糸。【延佳本には「絲」と書いてある。同じことだが、諸本みな「糸」と書いている。】和名抄に「絲は和名『いと』、線の訓は『いとすじ』」とある。この前後には「麻(お)」としか言っていないのに、ここで「糸」と言っていることに注意せよ。前後にあるのはそのものの実体を指しているが、ここではそれが長く伸びた道筋を辿って行くことを言うので、麻に限らず、長く伸びている縷(いとすじ)を言うのが正しいのである。○尋行(たずねゆけば)。この尋ね行く人は、活玉依毘賣だろう。【新撰姓氏録で言っている趣きもそうだ。】○美和山は、万葉を初め、古来多くの歌に詠まれ、たいへん名高いところである。出雲国造の神賀詞には、「大御和の神奈備」とある。【古今集(982)に、「我が廬は美和の山本、戀しくはとぶらい來坐せ杉立る門」とある歌は、古今和歌六帖(4276)に「美和の歌」と書いてある。思うに、これはこの記の故事について、この時に美和の神が詠んだという想定で詠んだ歌だろう。だからこの神の歌と語り伝えたのだ。美和川が朝倉の宮の段に見え、万葉巻十に歌(1606)がある。】○「留2神社1(カミのヤシロにとどまりにき)」とは、上記の引き伸ばされた糸が、この社の内に入って、そこで終わっていたことを言う。○「因其麻之」云々。活玉依毘賣の家に残った麻の長さ(三輪)がこの地の名の由来というのは、客観的に見るとはなはだ縁遠いことのようだが、おそらくその女の家から言い出した名なのだろう。それは、上記の翌朝閇蘇に巻いた麻が、わずかに三輪だけ残っていたのを見出し、その跡をたどって行ったところという意味で、美和と言い出したのだろう。○書紀に「十年・・・この後、倭迹迹日百襲姫命は大物主神の妻となった。だがその神は昼は見えず、ただ夜毎にやってきた。云々」【前文は黒田の宮の段で、その比賣のところ、伝廿一の四十四葉で引き、言うべきこともそこで言った。】というのはここの故事によく似ている。土佐国風土記に「倭迹々媛皇女は、大三輪の大神の妻となり、男は毎夜忍んできて、暁(夜明け前)には帰って行った。皇女は怪しく思い、綜麻を針に通して、男が暁に帰るとき、その衣の襴に針を刺しておいた。朝になって見ると、ただ三輪だけが器(糸巻きのことか)に残っていた。それで当時の人たちは三輪村と呼んだ。社の名もそう言う」とあるのは、二つを突き混ぜた形で伝えたのだろう。後世の書物などにも似たような話が幾つかある。○神君(みわのきみ)。【一本には「大神君」とあるが、諸本に「大」の字はない。】「神」の字は「みわ」と読む。「みわ」を「神」と書くのは、昔大倭の国に天皇の宮ができたときから、この美和の大神を特に崇敬して、単に「大神」と言えば、そのままこの大神のことだったらしく、【崇神紀の八年のところに、「大神之掌酒(おおかみのさかびと)」とか「令レ祭2大神1(おおかみをまつらしむ)」ともあるのは美和の大神である。これらを「おおみわ」と読むのは誤りだ。「大美和を祭らせる」と言うのでは言葉が足りないからだ。】ついにはその文字を「大美和」と言うのに用いるようになったのだろう。【「飛鳥(とぶとり)」をそのまま「明日香」に用いるのと同じ意識である。】そういうことから、「大」を省いて「みわ」言うときも、また「神」の字を用いたのだ。和名抄に「大和国城上郡の郷名、大神は『於保無和(おおむわ)』」とある。【「み」を「む」としているのは中古からの音便で、正しくない。また「和」の字を今の本に「知」と書いているのは写し誤りだ。それを大己貴命の「貴(むち)」と思い合わせて、「おおむち」だと考えるのは、全く根拠のない間違いだ。中昔の書物などでは「おおうち」と言っていることも多いが、これも音便である。「み」を「む」、「う」などというたぐいの音便は多い。どれも正しい古言ではない。また後世に「おおわ」とか「おおが」とか言うのは、いよいよ訛っている。その中でも「おおが」は、世に「おおわ」と言っているのを聞いて、それは「かみ」を省いて「か」と言うのを、訛って「わ」と言うのだろうと推量し、さかしらに改めて言い始めたのでもあろうか。】延喜式神名帳にも「大神(おおみわ)」と書かれている。この氏は、書紀の神代巻にも「・・・これは大三輪の神である。この神の子孫が即ち甘茂(かも)の君ら、大三輪の君らである。云々」とあり、この(崇神の)巻にも「大田田根子は、今の三輪の君らの始祖である」と見える。また垂仁の巻に「三輪君の祖、大友主」という名がある。旧事紀四には、「大田田禰古命の子、大御氣持命、その子大鴨積命、次に大友主命、この命は、磯城の瑞籬の朝の御世に、大神君という姓を賜った」と言う。天武紀に「五年八月、大三輪の眞上田(まかんだ)の子人(こびと)が死んだ。天皇はこれを聞いて悲しみ、彼の壬申の年の功績によって内小紫の位を贈り、諡を贈って『大三輪の眞上田迎(むかえ)君』と名付けた」、「十三年十一月、大三輪君に朝臣の姓を与えた」とある。続日本紀十七に、「八幡の大神の禰宜、大神杜女(おおみわのもりめ)、主神司大神田麻呂(たまろ)の二人に、大神(おおみわ)朝臣の姓を与えた」、巻廿九に「大和国の人、大神引田公(おおみわのひけたのきみ)足人、私部公(きさいちべのきみ)猪養、大神波多公石持ら廿人に、大神朝臣の姓を与えた」とある。新撰姓氏録【大和国神別】に「大神朝臣は、素佐能雄命の六世の孫、大國主の子孫である。初め大國主は三嶋の溝杭耳の娘、玉櫛姫を娶って、夜もまだ明けないうちに帰って行き、昼はやって来なかった。そこで玉櫛姫は紡いだ麻糸を衣に掛け、朝になって麻糸の跡をたどって、茅淳縣の陶邑を過ぎ、大和国の御諸山に到った。帰って麻糸の残りを見ると、ただ三輪だけが残っていた。そこで姓を大三輪という」(「輪」の底本正字は「榮」の木を糸に置き換えた字)とある。【一本には、御諸山の上に「眞徳」の二字がある。元々集に引用された文には「眞穂」とある。「徳」は「穂」を誤ったのだろう。ここにはこの三輪の故事を「三嶋の溝杭耳の娘」としているが、他の話と混同したのは、上述した通りである。それに全体の文も省略が多いため、筋が通っていない。三嶋から美和山に行くまでに茅淳の縣を通ったというのも、地理に合わない。それに麻糸が三輪残っていたから姓を大三輪というとは、納得できない。その神の子を生んだということを言わないで、「姓は」というのは、誰の姓にしたというのだろうか。】類聚国史十九に、「弘仁十二年八月、大神・宇佐の二氏を八幡大菩薩の宮司とした」とあり、【臨時祭式に「八幡神宮司は、大神・宇佐の二氏をこれに任命する。他の氏を交えてはならない」という。】三代実録四に「大神朝臣庸主が死んだ。庸主は右京の人である。みずから大三輪の大田田根子の子孫だと言った。庸主の本姓は神直(みわのあたえ)である。成名の後裔である。大神朝臣の姓を与えた」、巻六に「眞神田朝臣全雄に大神朝臣の姓を与えた。大三輪の大田田根子の子孫である」,巻五十に「大神朝臣良臣が官に向かって訴えていわく、云々」などが見える。ところでこの姓は、単に「神」とも「大神」とも言って、「大」という言葉は初めからあるともないとも定まらなかったのか、書紀に出ているのも、箇所によって違う。【天武紀に、同じ人のことさえ「三輪君子首(こびと)とも「大三輪君眞神田君子人(こびと)」とも書いている。続日本紀二には、これを「神(みわの)麻加牟陀(まかんだ)の君兒首(こびと)」と書いている。その後、奈良の御世の末辺りから、姓にはかならず「大」を付けることになったのだろう。】○鴨君(かものきみ)。鴨は地名で、大和国葛城上郡の鴨に因んでいる。この氏は、上に引用した旧事紀四に「大田田禰古命の孫、大鴨積命、この命は磯城瑞籬の朝の御世に、賀茂君の姓を賜った」という。【書紀の神代巻に、「甘茂君ら、大三輪君ら」と、甘茂君を先にして挙げたのは、兄の子孫だからだろう。】天武紀に「鴨君蝦夷」という人名が見える。「十三年十一月、鴨君に朝臣の姓を与えた」、続日本紀廿五に「天平宝字八年十一月、高鴨神を大和国葛上郡に還した。高鴨神は、法臣の圓興、その弟中衛の将監従五位下賀茂朝臣田守らが言上して、『昔大泊瀬天皇(雄略)が葛城山で狩をしたとき、一人の老人がいて、常に天皇と獲物を争いました。天皇はそれを怒り、その人を土佐国に流しました。私たちの先祖が奉斎していた神が、老人の姿で現れ、このとき放逐されたのです』と言う。天皇はこれを聞いて田守を遣わし、もとのところで祭らせた」とある。【高鴨神は、延喜式神名帳に「大和国葛上郡、高鴨阿治須岐託彦根命(たかかもあじすきたかひこねのみこと)神社四座」とあるのがそうだ。】新撰姓氏録【大和国神別】に「賀茂朝臣は、大神朝臣と同祖、大國主神の子孫である。大田田禰古命の孫、大賀茂都美(おおかもつみ)命が【一名大賀茂足尼(おおかものすくね)】賀茂神社を奉斎した」とある。【この賀茂神社は、上記の高鴨神社だけを言うのか。延喜式神名帳には同郡の鴨都波八重事代主命神社もある。これも合わせて言ったのかも知れない。この二社の神もみな大國主命の子だから、同様に大田田根子命の子孫が奉斎しただろう。ところでこの姓の他にも、新撰姓氏録には鴨君、賀茂縣主、鴨縣主などがあるが、混同してはならない。】

 

又此之御世。大毘古命者。遣2高志道1。其子建沼河別命者。遣2東方十二道1而。令レ和=平2其麻都漏波奴<自レ麻下五字以レ音。>人等1。又日子坐王者。遣2旦波國1令レ殺2玖賀耳之御笠1。<此人名者也。玖賀二字以レ音。>

訓読:またこのみよに、オオビコのミコトをば、こしのみちにつかわし、そのみこタケヌナカワワケのミコトをば、ヒムカシのカタとおまりふたみちにつかわして、そのマツロワヌひとどもをコトムケやわさしめ、またヒコイマスのミコをば、タニハのくににつかわして、クガミミのミカサをとらしめたまいき。<こはひとのナなり。>

口語訳:この御世に、大毘古命を高志の道に遣わし、その子建沼河別命を東方十二道に遣わして、その地にいたまつろわぬ人たちを平定させた。また日子坐王を丹波国に遣わして、玖賀耳之御笠という人物を殺させた。<これは人名である。>

大毘古命(おおびこのみこと)は境原の朝(孝元天皇)の皇子で、その段に出た。○高志道(こしのみち)。「高志」は越の国で、上巻に出た。【伝十一の??】「道」については次に述べる。【延喜式神名帳に「越中国射水郡、道神社」、「加賀国石川郡、味知神社」などがある。新撰姓氏録(右京)に「道公は大彦命の孫、彦屋主田心命の子孫である」とある。これらは越の道とは無関係だが、参考までに挙げた。】○建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと)。この人も境原の宮の段に出た。【伝廿二の巻】○東方十二道(ヒムカシのカタとおまりふたみち)。「東方」は「ひむかしのかた」と読む。【「方」を師は「べ」と読んだが、こういうところでは「べ」は良くない。】いにしえは東西南北、みな「かた」という語を添えて言うことが多かった。「十二道」は十二の国を言う。国造本紀【上毛野国造の條】に「東方十二国」とある。上記の「高志の道」も、後の文には「高志国」とある。また孝徳紀に「以前、良家の大夫に東方八道を治めさせた。すでに国司が赴任しており、六人は法を守ってしっかりと治めたが、二人は法に違反している」とある。ここに国司八人のことを言ったので、「八道」は「八国」であることは明らかだ。【この八国は、ここの十二国のうちの八国だろう。】十二国は、どれとどれを言うのか、定かには知りがたい。しかし試みに言ってみると、伊勢【伊賀、志摩はこの国に属していただろう。】尾張、參河、遠江、駿河、甲斐、伊豆、相模、武蔵、總【上總、下總である。安房は後に上總から分かれた。】常陸、陸奥【この国は、後には東海道に入れないが、後の文に「相津(あいづ)で行き会った」とあるから、この十二国のうちだ。また倭建命の段でも東方十二道とあって、蝦夷を平定したことが書かれているのも考えよ。】だろうか。倭建命の段にも東方十二道とある。これは上代の定めだったのだろう。ところで「国」を「道」と言うのは、朝廷からその国を治めるために、人を遣わすことから言う。神代に天尾羽張神の言葉で、「畏れ多いことです。お仕えいたしましょう。しかしこの道は、私の子、建御雷神を遣わした方が宜しいでしょう」とあるのは、天神の使者に答えた言葉で「この道」というのは葦原の中つ国を平定するために行くことを言っている。黒田の宮の段で「針間を道の口として、吉備の国を平定した」とあったのも、針間を平定する国の初めの部分としたことを、「道の口として」と言ったのだ。「丹波の道主」という王の名も、丹波国を治めるために遣わされたことに因んで「道主」と言う。これらはそれぞれその段【伝廿一の五十一葉、伝廿二の六十二葉】を見て考え合わせよ。上記の「高志の道」というのもこれである。【これを書紀で「北陸」と書いているので、単に後の北陸道のことと考えると、「道」という意味には足りない。】後には東海道。東山道などと言って、天下を総称して、畿外の国々を七道に分けて定めたのも、まず漢国の制度【唐の太宗の時、その国を分けて、初めて十道に定めた。】を模倣し、同時に上代から伝えてきた名称にそって決めたのだろう。【畿外を総合して七道に分け、その名を定めたのは、いつの御世か分からない。たぶん孝徳・天智の頃ではないだろうか。孝徳紀二年に、畿内の境界を定めたことは見えるが、そこにも七道のことは出ておらず、同年の文に「東方八道」とあるのは、まだ上代の言い方である。この時、まだすべてを分けて七道と称する定めはなかったと分かる。だがその書紀の崇神の巻にも東海・北陸などとあるのは、後にできた名で昔のことを書いたのであって、当時の呼び名ではない。この記に「東方十二道」、「高志道」とあるのこそいにしえの名だろう。景行紀に「東山道」とあるのも同様だ。孝徳紀より前にこういう名称が見えるのは、みな後の名で書かれたものだ。成務紀に「山陽」、「山陰」とあるのは、どこであれ、「山の南」、「山の北」ということであって、山陽道、山陰道を言っているのではない。「十道」という言葉は、文武紀に初めて見える。○遣(つかわし)の字は、一本には「東」の下にある。一本には「方」の下にある。みな誤りだ。ここでは延佳本その他一本によった。】○麻都漏波奴(まつろわぬ)は白檮原の宮の段に「不伏人(まつろわぬひと)」とあるところ【伝十九の六十七葉】で言った。○和平は「ことむけやわす」と読む。【この言葉も白檮原の宮の段の例で知るべきだ。】これは上記の高志道も合わせて言う。○日子坐王(ひこいますのみこ)。伊邪河の宮の段【伝廿二の四十九葉】に出た。○旦波(たには)」。これも同じ段【伝二十二】で出た。○玖賀耳之御笠(くがみみのみかさ)は、まつろわぬ民の長だったのだろう。そう考えると「玖賀耳」は姓のようにも聞こえて、地名かと思ったが、丹波にはそういう地名は見当たらない。【周防の国なら「玖珂郷」がある。】どうにも考え付かない。あるいはこれは御笠とは別人で、二人の名だろうか。それなら「之」の字は「及」、「又」などを誤ったのだろう。「耳之」というのは、どちらにしても疑わしいからである。【これが姓であれば、「部」を「耳」に誤ったものか。地名にしても「耳」というのはおかしい。全部が名だとしても、名の中間に「耳之」と言うのは、他に例がない。】御笠は、和名抄に「丹後国加佐郡」があるから、【天武紀にも「丹波国訶沙郡」がある。】この地名に因む名ではないだろうか。○令殺は「とらしめたまいき」と読む。「殺」を「とる」と言うのは、日代の宮の段に「倭建命に命じて、『西方に熊曾建が二人いる。朝廷にまつろわず、礼を失した輩だ。だから彼らを取れ』と言って遣わした」、また「伊服岐(いぶき)の山の神を取って進んだ」【倭建命のことだ。】穴穂の宮の段に「人が天皇を取った」【これは目弱王(まよわのみこ)が天皇を弑したことを言う。】などがあるのによる。これらはみな「殺す」を「取る」と言った例だ。倭建命の段に「意禮熊曾建二人、不レ伏無レ禮聞看而、取=殺2意禮1、詔而遣(おれクマソタケルふたり、まつろわずイヤなしときこしめして、おれをとれと、ノリたまいて、つかわしたり)」とあるのは「取殺」とあるが、二字合わせて「とれ」と読む。【この詔は、前に引いた部分には「取」の一字しかないので分かる。】玉垣の宮の段に「撃2沙本毘古1之時(サホビコを討ったとき)」とある「撃」の字もそう読む。万葉巻六(972)に「千萬乃、軍奈利友、言擧不爲、取而可來、男常曾念(ちよろずの、いくさなりとも、ことあげせず、とりてきつべき、たけおとぞおもう)」【これは藤原宇合卿が、西海道の節度使に向かうのを送った歌である。「取而來」とは、討ち平げて帰って来ることを言う。敵を捕らえて引き連れてくるのではない。】延喜十四年の度会の神主の本系帳に、「巻向の玉紀の宮で天下を治めた天皇の御世、越の国に荒振る凶賊、阿彦(あびこ)がいて、まつろわなかった。取平(とりむけ)に行けと言って、標(しるし)の太刀を与えて遣わした。すぐに幡を上げて出向いていき、取平(とりむけ)て復命したとき、天皇は喜んで、大幡主の姓を与えた」【延喜式神名帳の「加賀国能美郡、幡生神社」がある。「生」の字は「主」を誤ったのだろう。これはことのついでに触れておくだけである。】などもある。普通に「鷹が鳥を取る」、「猫が鼠を取る」、「鵜が魚を取る」などというのも、もとは同じ意味だ。【○注の「者」の字は、延佳本にはないが、諸本みなある。他の例も、こういうところはみな「者也」とある。】書紀にいわく、「十年九月、大彦命を北陸に遣わし、武淳川別を東海に遣わし、吉備津彦を西道に遣わし、丹波道主命を丹波に遣わすときに、『もしまつろわぬ者があれば、兵を挙げてこれを討て』と詔した。そしてそれぞれ印綬を与え、将軍とした」とある。【これに「西道」とあるのは吉備の国である。吉備津彦命が吉備を平定しに行ったことは、この記では黒田の宮の段に見える。それは違った時代のこととして伝えたのでなく、そこでこの命の名が出たついでに、後の時代のことも書いたのだ。また丹波国に遣わしたのは、この記では日子坐王だが、書紀に丹波道主命とあるのは、道主命は日子坐王の子だから、父子の間で伝えが異なるのである。これは書紀の方が正しいだろう。】

 

故大毘古命。罷=往3於2高志國1之時。服2腰裳1少女。立2山代之幣羅坂1而。歌曰。古波夜。美麻紀。伊理毘古波夜。美麻紀。伊理毘古波夜。意能賀袁袁。奴須美斯勢牟登。斯理都斗用。伊由岐多賀比。麻幣都斗用。伊由岐多賀比。宇迦迦波久。斯良爾登。美麻紀。伊理毘古波夜。於レ是大毘古命思レ怪。返レ馬問2少女1曰。汝所レ謂之言。何言。爾少女。答曰吾勿レ言。唯爲レ詠レ歌耳。即不レ見2其所如1而。忽失。

訓読:かれオオビコのミコト、コシのクニにまかりいますときに、コシモけせるオトメ、ヤマシロのヘラザカにたてりて、うたいけらく「こはや、みまき、いりびこはや、みまき、いりびこはや、おのがおを、ぬすみしせんと、しりつとよ、いゆきたがい、まえつとよ、いゆきたがい、うかがわく、しらにと、みまき、いりびこはや」。ここにオオビコあやしとおもいて、うまをかえして、そのオトメに「イマシがいえること、いかにうことぞ」とといたまえば、オトメ「アレものいわず。ただウタをこそうたいつれ」とこたえて、ゆくえもみえず。たちまちうせにき。

歌部分の漢字表記(旧仮名):子はや、御眞木、入日子はや。御眞木、入日子はや。己が命(を)を、盗み死せむと、後(しり)つ戸よ、い行き違ひ、前つ戸よ、い行き違ひ、窺はく、知らにと、御眞木、入日子はや。

口語訳:大毘古命が、高志国に向かっていると、腰裳を着けた少女が山代の幣羅坂に立って歌っていた。「子よ、御眞木、入日子よ、御眞木、入日子よ、ああ。自分の命をひそかに狙っている奴が、後ろの戸から、こっそり回りこんで、前の戸から、様子をうかがっているのを、知らないで。御眞木、入日子よ、ああ」。大毘古は怪しい歌だと思い、馬を返して、その少女に「お前が言ったのは、どういう意味だ」と尋ねた。すると少女は「あたしは何にも言ってないわ。歌を歌っただけよ」と答えたかと思うと、もう姿が見えなくなった。忽然と消え失せたのである。

高志(こし)は、一本および他の一本に「但馬」と書いてあるが、字形も似ておらず、何の由縁もない地のことなのに、なぜ誤ったのだろうか。ここでは真福寺本および延佳本によった。○罷往は「まかりいます」と読む。「往(ゆく)」を「います」と言うのは、万葉巻五【三十一丁】(894)に「唐能、遠境爾、都加播佐禮、麻加利伊麻勢(もろこしの、とおきさかいに、つかわされ、まかりいませ)」、巻十二【三十八丁】(3186)に「山越而、徃座君乎者(やまこえて、いますきみをば)」、巻十五【四丁】(3582)に「大船乎、安流美爾伊多之、伊麻須君(おおぶねを、あるみにいだし、いますきみ)」、また【五丁】(3587)に「多久夫須麻、新羅邊伊麻須(たくぶすま、しらぎへいます)」、巻廿【四十四丁】(4440)に「安之我良乃、夜敝也麻故要弖、伊麻之奈婆(あしがらの、やえやまこえて、いましなば)」など、これ以外にもたくさんある。後の世に「そこへおわします」というのも同じことだ。○腰裳は、字の通り「こしも」と読む。【延佳も師も二字を合わせて「も」と読んだが、そうだったら「裳」の字一つで足りるだろうに、「腰」の字を添えたのは、そうではないからだろう。】新撰姓氏録に「葛木襲津彦の子、腰裙(こしも)宿禰」という人名もあるから、【「裙」は雄略紀、欽明紀などでも「も」と読み、万葉にも「裳」にこの字を書いたところがある。】いにしえに、そういう着物があったのだ。それが普通の裳とは別のものか、または普通の裳をそうも言ったのか、定かでない。【台記の別記に、「久安六年正月十日、女御(にょうご)が入内(じゅだい)した。同廿二日、女房の衣の目録、白衣五領、濃い打衣、梅の織物の表着(うわぎ)、蒲萄染の織物の唐衣、白い腰裳」、また「三月五日、臨時祭の打ち出し、・・・蒲萄染の唐衣、カン(疑のへん+欠)冬の腰裳」とあり、これもまた普通の裳を言うのか、別物なのか、よく分からない。他の記録文にも、この名が出ていたような気がするが、今これと言って思い出せるものはない。いずれにせよこれは、後世のことだから、上代のと同じ物とは思えない。すべてこういった物の名も、後世の物から上代のことを云々することはできないが、名が同じなので例示したまでである。】上代には褌も「も」と言ったらしく思われる点があるので、【そのことは伝六の四十八葉で言った。】それと区別するために、上に着る裳を腰裳と言ったのではないだろうか。ただ万葉の歌などから考えると、いにしえには裳は女なら誰でも着ていたものなのに、ここで特にこれを着ていたことを言ったのは、普通の裳でなかったためか。また思うに、ここはこの記にも書紀にも「少女」とあり、書紀では「童女」とも書かれているから、まだ幼い女だっただろう。後世には、裳着(もぎ)といって、女に初めてこれを着けさせる儀式があることを考えると、上代にも、童女のうちは裳は着ないのが普通なのに、この少女が着ていたということは、それだけで尋常ではなかったから、特に言ったのかも知れない。この裳のことは、さらに考えてみる必要がある。<訳者註:裳は腰に巻いて後ろに長く垂らすものなので、「腰裳」と普通の裳との違いについて考えあぐねているのである>○服は「けせる」と読む。【「きたる」と読むのも間違いではない。】倭建命の歌に「那賀祁勢流、意須比能須蘇爾(ながけせる、おすいのすそに)」とあって、「着たる」という意味の古言である。その歌のところ【伝廿八の九葉】で言う。○山代之幣羅坂(やましろのへらざか)。いにしえに、倭から越の国に行くには、山城・近江を経て下った。「幣羅坂」というのは、書紀の一つの伝えに「平坂」とあり、「へ」と「ひ」とは特に近く通う音だから、どちらにでも言ったのだろう。「日置(ひき)」を「へき」とも言うたぐいだ。【ある人が久世郡に那羅郷があるのを根拠として、この平坂を「ならさか」と読んだが、それはよくない。】その道中のことのようではあるが、ここ以外に物の本に見えないので、どこにある場所かはっきりしない。この時の状況を考えると、相楽郡のうちで、倭国の境に近いところだろう。【さらにそのあたりの地理をよく調べれば、新たに分かることもあるだろう。あるいは今「一之坂」と呼ぶところかも知れない。これは木津川より南で、倭国の境である。】○歌曰は「うたいけらく」と読む。○古波夜(こはや)。【この三字が延佳本にないのは、書紀を参照して、さかしらに削ったものだろう。諸本みなこれがある。】三音の句である。これは「美麻紀伊理毘古波夜(みまきいりびこはや)」という句の調子を整えるため、その句の末尾を取って、歌い出しに使ったのだ。歌うものには、今もこういう例が多い。○美麻紀(みまき)で一句である。○伊理毘古波夜(いりびこはや)。上と合わせて二句は天皇の名であり、「波夜(はや)」は歎きの辞である。このことは倭建命の段の「阿豆麻波夜(あずまはや)」とあるところ【伝廿七の八十一葉】で言う。この二句を繰り返し歌っているのは、歌では普通にあることだが、歎きの情の切実なことを表しているのである。○意能賀袁袁(おのがおを)。二つの「袁」の字のうち、上の辞を諸本に「素」と書いているのは誤写である。ここは書紀でこの句を「飫廼鵝烏塢(おのがおを)」とあるのによって改めた。【師は「素」とあるのを採用して、「『巣』である、上巻に『御巣』とあるのと同じだ」と言ったがよくない。記中「素」を仮名に使った例はない。「袁」の字は赤、裳、表などと取り違えた箇所が多く、ここも袁の誤りであることに疑問の余地はない。それに「す」とすると、その意味が分からない。師の説のように「栖」の意味なら、後戸・前戸には関係もあるが、「殺(し)せん」というのに合わない。栖なら、「奴須美斯勢牟登」という第二句は、「伊由岐多賀比」の下になければ意味が整わない。よく味わうべきである。】「意能賀」は御眞木入日子の「己が」である。【歌い手のことではない。】「袁」は命(いのち)といった意味である。ものを続け保って、絶えないようにするものを「袁」と言う。「緒」もこの意味だ。命も、生が続いて絶えないうちを言うから、これを「袁」とも言うのだろう。また「たまのお(玉の緒)」というのも魂をつなぎ止めておくという意味だろう。「年緒(としのお)長く」と言うのも、年が長く続くことだ。万葉の歌に「氣緒(いきのお)に思う」という句がよく出るが、【「氣」は借字で、】「生の緒」の意味で、「命をかけて思う」ということでもあるだろう。【巻十一の四十一丁(2788)に「生緒(いきのお)」と書いたのが正字と思われる。巻十四(3539)に「いきに吾(あが)爲(す)る」とあるのも「生」で、命にするということか。巻十二(3115)に「氣緒爾言氣築之(いきのオにわがいきづきし)」ともあるから、「氣緒」は息のことではないと思う。】命は、生の緒だからだ。上記の例を考え合わせて、「意能賀袁」は「己が命」ということを悟るべきである。【契沖が「己とは吾田媛のことだ。「袁」は夫で、彼女の夫、武埴安彦を言う」と言ったのは、全くの間違いである。その理由は次に言う。】万葉巻十四(3535)に「於能我乎遠、於保爾奈於毛比曾、爾波爾多知、惠麻須我可良爾、古麻爾安布毛能乎(おのがオを、おおにナなおもいソ、にわにたち、えますがからに、こまにあうものを)」、この初めの句は違った意味のように思われるが、語が同じだから引いた。【この歌について、私が初め思っていたのは、初めの句はここと同じで、最後の「古麻」は師が「古庇(恋)」の誤りだろうと言ったのに従って、一首の意味は「君が庭に立って、笑顔を見せてから恋に落ち、思い悩んでいましたが、こうなれば生きていることも耐え難いくらいです。どうか私の命を軽く見ないでください」といった意味だと思っていた。しかし「庇」の字は、仮名に用いた例もほとんどない上に、この歌の前後はいずれも駒(馬)を詠んだ歌だから、これも「駒」に違いない。すると初めの句も、この記の意味とは違うのだろう。稻掛大平の考察に、「初めの句の『乎』は『緒』であって、馬を引く縄であり、男を恋して自分の方に引き寄せようとする意味に取ったのだ。二の句は、その私の思いを軽く見ないでくださいという意味だ。最後の『駒に逢う』というのも馬を引くことで、君を引き寄せようとする思いに逢うということを言う。初めには緒だけを言い、最後には駒だけを言っているのを、上下相照らせばそう聞こえる。次の歌(3536)にある『佐乎妣吉(さおびき)』の『乎』も同じ『緒』の意味だ」と言った。この考えが正しい。】下の「袁」はは「てにをは」だ。ところが諸本に、この下に「式」の字がある。【一本には「シキ?(式にタスキ)」、一本には「或」とある。ともに「式」の誤りだろう。延佳本には「式」と書いてある。】それは助辞の「し」とすれば、句の語調は整うが、この字は納得できないうえ、【この字を仮名に用いた例はない。また入声の字ではどうだろう。「し」の音もあるが、それは例外的な音である。】ここでは、書紀にもこれに相当する字がないので削った。語調も五音でそれなりに整っているだろう。○奴須美斯勢牟登(ぬすみしせんと)は「ひそかに殺そうと」ということだ。「ぬすむ」とは、何事であれ、人が許さないことを知られないようにひそかに行うことを言う。【人の物を取ることだけではない。これを書紀で「農殊末句(ぬすまく)」とあるのを契沖は「農」を「の」と読んで、詔を述べることだと言ったのは大きな間違いだ。いにしえは「農」を「の」の仮名に用いたことはなかった。また詔(のたまわく)を「のすまく」などとどうして言うだろうか。】「殺す」を「しせ」と言うのは、上巻の沼河日賣の歌に「伊能知波、那志勢多麻比曾(いのちは、ナしせたまいソ)」とある。そこで言った。【伝十一の二十葉】○斯理都斗用(しりつとよ)は【「斗」は清音である。濁ってはいけない。】は「後の戸より」である。○麻幣都斗用(まえつとよ)は「前の戸より」である。○伊由岐多賀比(いゆきたがい)は、「伊」は発語で、「行き違い」である。これは皇宮の殿の戸口に近付き、出入りする人の目を窺って、見つけられないようにあちらこちらへ避け違えて、ひそかに侵入する隙を窺っているのである。高津の宮の段で、口子(くちこ)臣のことを言った段に「參=伏2前殿戸1者、違=出2後戸1、參=伏2後殿戸1者、違=出2前戸1(まえつトノドにまいふせば、しりつトにたがいいで、しりつトノドにまいふせば、まえつトにたがいいで)」とあるのによく似ている。【書紀によると、建波邇安(たけはにやす)王地震は山代から、その妻は大坂から別れて攻めようとしたということを「前つ戸」、「後つ戸」と言ったのだろうかとも思ったが、そこまでのことではないだろう。】○宇迦迦波久(うかがわく)は「窺わく」である。○斯良爾登(しらにと)は「知らずに」ということだ、「知らない」を「しらに」と言うのは古言で、万葉などにも普通に多く言う。「に」は「ぬ」の活用形だろう。「と」は万葉巻二(223)に「鴨山之磐根之巻有吾乎鴨、不知等妹之待乍將有(かもやまのイワネしまけるわれをかも、しらにとイモがまちつつあるらん)」とある「と」と同じで、「知らぬこととて」という意味だ。書紀にはこの「と」という助辞がない。【なくても意味はほぼ同じである。】書紀ではこの次に「比賣那素寐殊望(ひめなそびすも)」という句がある。ここにはそういう言葉もなく結んでいるのは、何か言葉が足りないように聞こえるだろうが、そうではない。それは次に言う。○美麻紀(みまき)。伊理毘古波夜(いりびこはや)。こう結んだところに、命を付け狙う者があるのに知らず、何の警戒もしないでいることよ、と深く危ぶみ嘆く心がこもっている。【何の警戒心も抱かないでいることよ、という意味を言外に込めたのが、上記の「比賣那素寐殊望」という句に相当するが、ここではそれを直接指して言わなかったところに、深い意味がこもっているのだ。こういう歌は、何度も詠み上げれば、裏にこもった意味も自然に心に浮かぶものである。】○一首の全体の意味は、「天皇の命をひそかに殺そうと、大殿にどうにか侵入する隙を窺っている者があるのを、知らぬこととて、御眞木入日子命よ、何の警戒もせずにいることよ、と危ぶみ嘆いて、傍目ながらも気付かせようとしているのである。「御眞木入日子」の名を何度も繰り返して結んでいるところに、限りなく深い歎きが聞こえる。書紀にいわく、「大彦命が和珥坂のあたりにやって来たとき、一人の少女がいて歌った。【一にいわく、大彦命が山背の平坂に到ったとき、道端にいた童女が歌った。】『瀰麿紀、異利寐胡播椰、飫廼鵝烏塢、志齋務苔、農殊末句志羅珥、比賣那素寐殊望(みまき、いりびこはや、おのがおを、しせんと、ぬすまくしらに、ひめなそびすも)』【「農殊末句」は「盗まく」である。「比賣那素寐」は契沖が「姫の遊び」と言った。たぶんそうだろう。しかしこれを阿田媛が香山に来たこととして、歌全体の意味を吾田媛を諫める歌と考えたのは、大きな間違いである。吾田姫を諫める歌を大彦命に聞かせて、何の益があろうか。この記の歌で「美麻紀伊理毘古波夜」と結んでいるのでも明らかだ。媛の遊びとは、天皇が美女たちを侍らせて、酒食の宴などすることを言うのだろう。】「一にいわく、於朋耆妬庸利、于介伽卑弖、許呂佐務苔、須羅句塢志羅珥、比賣那素寐須望(おおきどより、うかがいて、ころさんと、すらくをしらに、ひめなそびすも)」【これは上記の歌の「志齋務苔」以下の三句の異文か、それとも「飫廼鵝烏塢」以下四句か、とにかく全く違った歌である。いずれも歌全体の意味はこの記の歌と同じだ。契沖の説のような意味合いなら、この初めの二句などは、穏やかでないことになる。】○「思レ怪(あやしとおもいて)」。一本には「思」の字を「異」と書いている。それも分からなくはない。○「返レ馬」は「駐(とどめ)」とあるところだが、この少女は歌を歌い捨てて、大毘古命がやって来た方向へ歩き去ろうとしたため、それを追うのに、もと来た方へ引き返したのだろう。○何言(いかにうことぞ)は、継体紀の歌に「柯羅ク(しかばねに彳+婁)ニ(イ+爾)嗚、以柯爾輔居等所、梅豆羅古枳駄樓(からくにを、いかにうことそ、めずらこきたる)」【「韓国を、如何に言うことぞ、目頬子来る」である。】とあるのに依って読む。【この歌にあるのは、いかなることぞ、という意味なので少し違うが、言葉は「如何に言うことぞ」だから、ここも同じだ。】○爲詠歌耳は「うたをこそうたいつれ」と読む。【「こそ」という辞に「のみ」といういみがふくまれていることは、初めの巻で言った通りだ。】ただ「何も言っていないわ」だけで終えず、このように言ったのは、一般に歌は普通の物言いとは異なり、深い意味を込めて、何かを人に教え示すものだから、ありきたりの言葉と同じように考えるな、心に留めておきなさいという意味だろう。○即不見其所如而。【「如」は「往(ゆく)」だ。】は、「ゆくえもみえず」と読む。【ゆくえ(旧仮名ユクヘ)」は「行方」ということだ。それを「行末(ゆくすえ:旧仮名ユクスヱ)」の省略形と見て「ゆくゑ」と書くのは間違いである。】○忽失(たちまちうせにき)。この少女は神だったのだろう。書紀にいわく、「大彦命は怪しいと思い、その童女に『お前が今言ったことはどういうことだ』と尋ねたが、『あたしは何も言わないわ。歌を歌っただけよ』と答え、もう一度先の歌を歌って、忽然と消え失せた。」

 

故大毘古命。更還參上。請レ於2天皇1時。天皇答詔之。此者爲。在2山代國1我之庶兄。建波邇安王。起2邪心1之表耳。<波邇二字以レ音>伯父興レ軍。宜レ行。即副2丸邇臣之祖。日子國夫玖命1而。遣時。即於2丸邇坂1居2忌瓮1而。罷往。於レ是到2山代之和訶羅河1時。其建波邇安王。興レ軍。待遮。各中=挾2河1而。對立相挑。故號2其地1謂2伊杼美1。今謂2伊豆美1也。爾日子國夫玖命。乞云其廂人先忌矢可レ彈。爾其建波爾安王雖レ射。不2得中1。於レ是國夫玖命彈矢者。即射2建波邇安王1而。死。故其軍悉破而。逃散。爾追=迫2其逃軍1。到2久須婆之度1時。皆被2迫窘1而。屎出。懸レ於レ褌。故號2其地1。謂2屎褌1。今者謂2久須婆1。又遮2其逃軍1以斬者。如レ鵜浮2於河1。故號2其河1。謂2鵜河1也。亦斬=波=布=理2其軍士1故。號2其地1。謂2波布理曾能1。<自レ波下五字以レ音>如レ此平訖。參上。覆奏。

訓読:かれオオビコのミコト、さらにかえりまいのぼりて、スメラミコトにもうすときに、スメラミコトのりたまわく、「こはおもうに、ヤマシロのクニなるナがママセ、タケハニヤスのミコの、きたなきこころをおこせるシルシにこそあらめ。おじイクサをおこして、ゆかせ」とノリたまいて、すなわちワニのオミのおや、ヒコクニブクのミコトをそえて、つかわすときに、ワニサカにいわいべをすえて、まかりましき。ここにヤマシロのワカラガワにいたれるときに、そのタケハニヤスのミコ、イクサをおこして、まちさえぎり、おのもおのもカワをナカにおきて、むきたちてあいいどみき。かれそこのナをイドミといいしを、いまはイズミとぞいう。ここにヒコクニブクのミコト、「そなたのヒトまずイワイヤをはなて」とうコトのままに、タケハニヤスのミコいつれども、あたらざりき。ここにクニブクのミコトのはなてるヤは、タケハビヤスにミコにいあてて、しにき。かれそのイクサことごとにやぶれて、にげあらけ、そのにぐるイクサをおいせめて、クスバのワタリにいたるときに、みなせめらえたしなみて、クソいでてハカマにかかりき。かれそこのナをクソバカマといいしを、いまはクスバという。またそのにぐるイクサをさえぎりてきれば、ウのごとカワにうきたりき。かれそのカワをウカワという。またそのイクサビトをきりはふりしゆえに、そこのナを、ハフリソノとなもいう。かくことむけおえて、カエリコトもうしき。

口語訳:そこで大毘古命はいったん都に帰り、天皇に報告した。天皇は「これは、山代国にいる私の庶兄、建波邇安王が邪心を抱いているということだろう。伯父、軍を興して、行ってくれ」と言って、丸邇臣の先祖、日子國夫玖命を副将に付けて派遣した。出陣の時、彼らは丸邇坂に忌瓮をすえて出発した。山代の和訶羅河に到ると、建波邇安王も軍を興して待ち受けていた。そこで両軍は川を間に挟んで挑み合った。それでその地を「いどみ」と呼んだが、今は訛って「いずみ」と言う。日子國夫玖命は「開戦の矢を、まずそちらから放て」と言ったので、建波爾安王の軍が矢を射たが、誰にも当たらなかった。次に國夫玖命の軍が矢を射ると、建波邇安王に当たって死んだ。軍は指導者がいなくなって、散り散りに逃げ去った。その逃げる兵士たちを追って、久須婆の渡りまで追い詰めた時、その兵士たちは追い詰められ、苦しみの余り糞をもらして、袴にかかった。それでその地を「くそばかま」と呼んだ。今は訛って「くすば」と呼ぶ。またその逃げる軍をさんざんに斬り散らしたので、死体は鵜のように川に浮いた。それでそこを鵜河と言う。その軍を斬り屠ったので、そこを「ほふりその」と言う。このように敵を平らげて、復命した。

更(さらに)という語は、「請」までに係る。【「還」だけに係るのではない。】いったん命を受けて出陣したのだが、一度引き返して天皇に報告したのである。○請は「もうす」と読む。上記の幣羅坂で少女が歌った歌はただごとでなく、たいへんな重大事だったから、引き返してそのありさまを報告したのである。○答詔(のりたまわく)。普通「答」とは、人が何かを尋ねたときに言うことだが、これはそういうことでなく、大毘古命が報告したことに対して考えを述べたのである。○爲の字【「此者」の下にある。】は「おもうに」と読む。その例は上巻に「爲レ生=成2國土1奈何(クニをうみなさんとおもうはいかに)」、「爲2穢汚而奉進1(きたなきものをたてまつるとおもおして)」、高津の宮の段に「爲2人民富1(おおみたからとめりとおもおして)」などがある。【ここを漢文に読むとき、「起2邪心1之表」というところから返って、「〜の表(しるし)爲耳(たらんのみ)」とも読めるが、そういう意味で「爲」を置いたのではない。延佳は「起2邪心1」から返って「ため」と読んだが、それは特にまずい。】○在は「なる」と読む。【「なる」は「にある」の縮まった言い方である。】○我之庶兄(ながまませ)。「我之」は「汝之」を誤ったものと思われるから、「なが」と読む。というのは、建波邇安王は孝元天皇の皇子で、大毘古命の兄弟ではあっても、崇神天皇の兄弟ではない。崇神天皇から見ると異母大叔父に当たるからだ。【そのため、師もこれを疑い、「異母大伯父を庶兄と呼んだのは、理由があることかどうか分からないので、取りあえず『あらめおじ』と読んでおくとよい」と言った。しかし伯父を兄と呼ぶいわれはなく、庶伯父をあったのを庶兄に写し誤るはずもない。それに伯父・甥の関係より兄弟の方が近く親しいものだから、その兄弟である大毘古命に対しては、「汝之庶兄」と言うのが普通で、親しい兄弟を差し置いて、少し縁遠い甥が「我之伯父」と言うことはまずないだろう。だが諸本ともに「我」とあるのは、「汝」を写し誤ったか、または「な」と「あ(吾)」はよく似た音で、通わせて言うこともあるから、阿禮が口に唱えた時から聞き誤って、安麻呂が「あ」と聞いたまま、特に注意せずに「我」と書いたのかも知れない。すべてこの記は阿禮が口に誦んだままを書いたのだから、そういうこともないとは言えない。それはともかく、ここは「汝」でなければならないところだ。】「庶兄」を「まませ」と読むことは、白檮原の宮の段【伝廿の卅九葉】で述べた。ところで、境原の宮の段に挙げられた皇子たちの序列は、大毘古命が最初で、建波邇安王は最後になっているが、これはその母の序列によっているのであって、実際はここで言っているように、建波邇安王の方が兄だったのだろう。○建波邇安王(たけはにやすのみこ)。境原の宮の段では建波邇夜須毘古命とあった。○邪心は「きたなきこころ」と読む。既に上巻【伝七の四十三葉】で出た。若櫻の宮(履中天皇)の段に「僕者無2穢邪心1(アはきたなきこころなし)」ともあり、続日本紀廿六に「此奴等毛、如是庇逆穢心乎發天在計利止方、既明仁知奴(このヤツコらも、かくキタナキココロをおこしてありけりとは、すでにアキラカにしりぬ)」、また「逆心乎以天、朝廷乎動傾止之天(キタナキココロをもちて、ミカドをうごかしかたぶけんとして)」、同廿九に「岐多奈久悪奴止母(キタナクあしきヤツコども)」、卅に「悪久穢心乎以天(あしくキタナキココロをもちて)」などと見える。朝廷に忠誠であるのを清き心、明(あか)き心とも言い、忠誠でないのを穢(きたな)き心、その人を穢き奴(やつこ)と言うのだ。○表は「しるし」と読む。書紀でもそう読んでいる。徴表(しるし)などもある。万葉巻十九(4212)に「乎等女等之後乃表跡(おとめらがのちのしるしと)」とある。天皇がこう言ったのは、大毘古命の報告したことに、思い当たる節があったのだろう。それは建波邇安王の性格を以前から知っており、この頃既に怪しい所行などもあって、疑わしく思っていた矢先のことだったのではないだろうか。書紀ではこの歌の意味を解釈したのが百襲姫命だったことになっているが、それはどちらでもあり得ただろう。○伯父は「おじ」と読む。「小父」の意味だ。和名抄に「伯父は和名『おじ』」とある。【父の兄を伯父、父の弟を叔父、父の姉を伯母、父の妹を叔母などと詳細に分けて言うのは、漢国のことだ。皇国では、父の兄弟をいずれも「おじ」、父の姉妹をいずれも「おば」と言った。新撰字鏡に「阿伯は父の兄である。『えおじ』、阿叔は父の弟である。『おとおじ』」とあるが、これは少し後の呼称だろう。】ここは大毘古命を指して言っている。書紀の安閑の巻で、その天皇が大伴金村の大連を指して「大伴の伯父」と言い、【この伯父を「おきなども」と読むのは良くない。】舒明の巻で、山背大兄王が蘇我蝦夷の大臣を「叔父」と呼んだことが見える。これらは本当の伯父や叔父ではない。ただ父とほぼ同年配の人を、敬意と親しみを込めて呼んだに過ぎなかった。今の俗言(赤の他人を「おじさん」と呼ぶ)でも普通に言うことだ。ここは実際に伯父だからなおさらである。○宜行は「ゆかせ」と読む。「ゆけ」を延ばして言った古語である。建波邇安王を討てということだ。この部分は、書紀では「大彦命は朝廷に還って、そのありさまを詳しく報告した。ところで、天皇の叔母、倭迹迹日百襲姫命は聡明で智慧が深く、よく予言などを行っていたが、この歌の内容を聞くと、『これは武埴安彦が朝廷を傾けようと謀っているのではないでしょうか。私は武埴安彦の妻の吾田媛が、ひそかにやって来て、倭の香山の土を取り、領巾(ひれ)の端に包んで、<これは倭の国の物実(ものざね:実体)>と祈り(呪い)、すぐに帰ったと聞いています。だから何か企みがあるのでしょう。早く対応しなければ手遅れになります』と言った。そこで将軍たちの派遣をいったん留めて、作戦を相談した」とある。【将軍たちとは、その前に出た四道将軍を言う。】○丸邇臣(わにのおみ)は伊邪河の宮の段に出た。【伝廿二の四十六葉】○日子國夫玖命(ひこくにぶくのみこと)。名の意味は「国平(くにむく)」ではないだろうか。【「む」と「ぶ」は通わせて言う例が多い。この氏には「彦國姥津命(ひこくにおけつのみこと)」など、「彦國」という名がよく見えるのは、始祖の天帯彦國押人命の名に因むのではないだろうか。】この人は、新撰姓氏録に、【吉田連の條】「天帯彦國押人命の四世の孫、彦國葺(ひこくにぶく)命」とも、また【眞野臣、和邇部、粟田朝臣などの條】「天足彦國押人命の三世の孫、彦國葺命」とも見える。【四世か三世か、どちらが正しいだろう。】伊邪河の宮の段に出た日子國意祁都(ひこくにおけつ)命【伝廿二の四十八葉を参照】の子か孫だろう。書紀の垂仁の巻で、五人の大夫の中にも「和珥臣の遠祖、彦國葺」とあり、国造本紀にも「和邇臣の祖、彦訓服(ひこくにぶく)命」と書いてある。○副(そえて)は、大毘古命にそえて、ということだ。○丸邇坂(わにさか)。延喜式神名帳に「大和国添上郡、和邇坐赤坂比古(わににますあかさかひこ)神社」、また「和邇下(わにした)神社」もある。【和爾村が今もある。奈良の南の方である(現在の天理市和爾町のことか)。雄略紀に「春日の和珥臣」とあるのは、上代には、このあたりまで春日だったからだ。】「坂」は書紀の~武巻にも見え、【丸邇池が高津の宮の段にある。】明の宮の段の歌に「和邇佐(わにさ)」とあるのはこの坂である。【「さ」は「坂」のことだ。「さか」は「坂所」の意味である。上記の赤坂比古というのも、あるいはこの坂に因む名かも知れない。】ここは師木の京【この御世の都である。】から山城へ行く道の途中である。○「居2忌瓮1(いわいべをすえ)」。このことは黒田の宮の段に見え、そこ【伝廿一の四十八葉】で述べた。この部分は、書紀では「ほどなく武埴安彦とその妻、吾田媛が反逆の軍を挙げ、それぞれ道を分けて、夫は山背から、妻は大坂から進軍してきた。都を攻めようとしたとき、天皇は五十狹芹彦(いさせりひこ)命を派遣して吾田媛の軍を大坂で遮り、大いに破った。吾田媛とその軍卒をことごとく斬った」とあって、次に「また大彦と和珥臣の遠祖、彦國葺を山背に遣わして、埴安彦を討たせた。そこで忌瓮を和珥の武スキ(操のてへんを金に置き換えた字)坂に据えて進軍し、那羅山に登って軍陣を張った。そのとき官軍が大勢集まって草木を踏み鳴らした。そこでそこを『那羅山』と呼ぶのである。」とある。○和訶羅河(わからがわ)は泉川の旧名である。そのことは次にある。○待遮(まちさえぎり)。「待〜」という言い方は、古語に多い。【前に述べた。】「遮」は「さえぎる」と読む。「さえ」は「障」である。「きる」は「限る」で、塞ぎ隔てることを言う。【「霧」などもこの意味だ。】○「各中挾河而對立相挑(おのもおのもカワをナカにおきて、むきたちてあいいどみき)」は「中挾」を「なかにおきて」と読み、「對立」を「むきたちて」と読む。上巻の黄泉の段で、「千引(ちびき)の石を黄泉比良坂に引き塞ぎ、その石を間に挟んで各々對立(むきたたして)」とあり、誓(うけ)いの段でも「各々天安河を中に置いて誓(うけ)う時に」などの例による。【「置」と書くのが古言、「挟」を書くのは漢文である。】これについてはその所々【伝六の廿九葉、伝七に四十八葉、四十九葉】で言ったことを参照のこと。ここで「各々」という語は「相挑」に係る。「互いに」ということだ。「挑む」は相手を誘い動かす意味で、それから争う意味にもなった。ここは互いに誘い動かして、闘おうと勇み立ったのである。○「今謂2伊豆美1也(いまはイズミというなり)。この六字は、諸本みな細字で書いてあるが、ここでは本文とした。というのは、こういう例を見ると、白檮原の宮の段の「そこでそこを楯津と言った。今は日下の蓼津と言う」、玉垣の宮の段の「そこでそこを懸木(さがりき)と呼んだ。今は相楽(さがらか)と言う」、また「そこでその地を堕國(おちくに)と呼んだ。いまは弟國(おとくに)と言う」、訶志比の宮の段の「そこでその浦を血浦(ちうら)と呼んだが、今は都奴賀(つぬが)と呼ぶ」など、みな大字の本文であって、註として書いたところはないからだ。「伊豆美」は、和名抄に「山城国相楽郡、水泉【いずみ】郷」とあるのがそうだ。続日本紀卅一には「出水郷」とある。万葉巻四【四十五丁】(696)に「川津鳴泉之里爾(かわずなくいずみのさとに)」、巻十一【二十七丁】(2645)に「宮木引泉之追馬喚犬二(みやきひくいずみのそまに)」などがある。河は【即ち今の木津川である。】延喜式の雑式に「およそ山城国泉川の樺井(かにばい)の渡り瀬は、官が東大寺の大工たちを率いて、毎年九月上旬に仮の橋を架ける」とあり、万葉巻一【二十二丁】(50)に「泉乃河爾持越流、眞木乃都麻手乎(いずみのかわにもちこせる、まきのつまでを)」、巻九【十一丁】(1695)に「妹門入出見川乃(いもがかどいりいずみがわの)」、巻十三【七丁】(3240)に「眞木積泉河乃速瀬(まきつまるいずみのかわのはやきせを)」、巻十七【十丁】(3908)に「楯並而伊豆美乃河波乃(たたなめていずみのかわの)」、また【廿丁】(3957)「青丹余之奈良夜麻須疑底、泉河伎欲吉可波良爾馬駐(あおによしならやますぎて、いずみがわきよきかわらにうまとどめ)」、古今集の「旅」(408)に「京出(みやこいで)て今日みかの原泉川」、新古今集の「戀」(996)に「甕(みか)の原涌きて流るる泉河」、この他にも歌がたいへん多い。書紀では「那羅山を過ぎ去って輪韓河(わからがわ)に到り、埴安彦と川を挟んで向き合い、双方が相挑んだ。そこでその川を「挑河(いどみがわ)」と呼んだ。今泉河と言うのは、訛ったのである」とある。<訳者註:泉川は現在の木津川のことである。>○其廂人は「そなたのひと」と読む。明の宮の段にも「河邊に隠して置いた兵士たちが彼廂此廂(かなたこなた)一時に立ち上がり」とある。【これも「かなたこなた」と読んでいい。】「廂」は軍防令に「左右廂」とあって、義解に「左右廂は、左右の方といった意味である」とある。【この箇所の義解の説明は間違っていそうに見えるが、「左右の方と言うようなもの」というのは、その通りなのだろう。唐六典に「およそ牧場にいる馬には、みな印を付ける。左の膊(前足か)には『小官』の文字を入れ、右の脾(脇腹か)には年辰(干支か)を入れ、尾の側には監の名を入れる。みな左右の廂による」とあるが、その前の文に「およそ馬には左右の監がある。馬の麁良(荒馬と従順な馬か)で分ける。・・・細馬の監を左と称し、麁馬の監を右と称する。・・・その土地の名をその監の名とする」とあることからすると、左右の廂というのは左右の監を言うのである。「監の名を入れる」というのは、「左某の監」、「右某の監」という印を付けることで、「みな左右の廂による」というのは、いずれもその左右を印せということだ、するとここも「廂」は単に監の左右を言っただけで、左方、右方ということである。とすると何であれあちらとこちらと、両方にあることについて言う言葉で、軽い意味の字である。【特定の「廂」というものがあるのではない。そもそもこの字は玉篇に「東西の序(ついで)である」と注し、史記の索隠(史記の注釈書)に「正寝の東西の室はみな廂と称する」ともあるから、この意味を取って、左右に並んでいるものなら、何でも左廂・右廂と言ったのだ。それをこの記ではまた転じて、単にあちらとこちらと対峙しているのに使ったのである。】○忌矢は「いわいや」と読む。これは向こうとこちらの軍が、間近に対峙して、これから闘おうとするとき、まず互いに矢を射交わす儀式である。それは事の初めだから特に重視して、齋(いわ)い慎しみ、神にも祈って放つので、忌矢と言う。【後世にも「矢合わせ」という儀式があるのは、この古式が残っているのだ。】○可彈は「はなて」と読む。朝倉の宮の段にも「各々名乗って彈矢(はなたんや)」とある。○乞云は【下から返って】「こうままに」と読む。【「ままに」と言うのに当たる字はないが、こう読むと語の勢いがよろしい。】○彈矢者は「はなてるやは」と読む。【「やはなてば」と読むのも悪くない。】○射は、師が「いあてて」と読んだのが良い。書紀では「埴安彦は相向かって、彦國葺に『どうして軍を興してやって来たんだ』と尋ねると、『お前が大逆無道の心を起こし、王室を傾けようとしたから、義兵を挙げてやって来たんだ。お前を討つのは天皇の命令だ』と答えた。そこでめいめい矢を放った。武埴安彦がまず彦國葺を射たが、当たらなかった。次に彦國葺が埴安彦を射ち、胸に当てて殺した」とある。○其軍は建波邇安王の軍である。○散は師が「あらけぬ」と読んだのが良い。書紀の神代巻でも、「散去」をそう読んだ。○久須婆之渡(くすばのわたり)【「婆」の字は諸本に「波」とある。ここは真福寺本によった。次にも下巻にも「婆」とあるからだ。】は、和名抄に「河内国交野(かたの)郡、葛葉【くすば】郷」がある。これである。【今も楠葉村があって、「す」を濁り、「は」を清んで呼ぶ(くずはと呼ぶ)。和名抄でも「葛」と書いているから、中古からそう呼んだのかも知れない。】書紀の継の巻で「樟葉の宮」とあり、続日本紀五」「交野郡楠葉駅」が見える。渡りは穴穂の宮の段にも「玖須婆の河を逃げ渡り」とある。淀川で、今も楠葉の渡しと言う。<訳者註:京阪電車の樟葉駅近くのゴルフ場付近には、昭和六十年頃まで渡し舟があった。古代と同じ場所かどうかは分からない>【河の向かいは摂津国(三嶋の大山崎)である。】このところは山城国綴喜郡との境近く、淀川は泉川の末流に当たるから、川に沿って綴喜郡を経て逃げようとするのを、この渡りに到って追い詰めたのだろう。○被迫窘而は「せめたしなめらえて」と読む。「らえ」は「られ」の古言である。【前に言った。】「たしなむ」は書紀の神代巻に「辛苦」、「困厄」、~武の巻などに「厄」、欽明の巻に「劬労」、斉明の巻に「困苦」などとあるのをそう読む。【「窘」は字書に「窮迫」とも「困」とも「急」とも注されている。】どうにも逃れることができず苦しんだのである。○屎(くそ)は上巻【伝五】に出た。非常に苦しみ困窮すると、自然に屎が出ることもあるものだ。○褌(はかま)も上巻【伝六の四十九葉】で出た。○「今者謂2久須婆1(いまはクスバという)」。この字は、諸本みな小さい字で書いてあるが、ここでは大きな字の本文に改めた。理由は前の「いずみ」の部分と同じだ。○遮(さえぎり)。これを後ろから追う官軍の中に、別道をたどって先に待ち受けた軍もあったのだろう。○「如レ鵜浮2於河1」は「ウのごと」と読み、「かわにうきたりき」と読む。前途を遮られて、仕方なく川に入った兵士たちが水に浮かんでいる様子を、鵜にたとえたのだ。「鵜」は上巻【伝十四】に出た。「斬れば」は「斬りかかれば」という意味合いで、みんな斬ってしまった後のことではない。【真福寺本で「斬」の上に「前」の字があるのは、あるいは「爲」などの誤字で、「爲レ斬者(きらんとすれば)」だろうか。これを旧印本でも延佳本でも「鵜が河に浮かぶように」と解しているのは違う。「浮2於河1」というのは喩えではないから、「浮かぶように」という意味ではない。喩えたのは「鵜」だけであって、「鵜のように河に浮かんだ」のである。もし「河に浮かんで」も鵜に言及したための喩えだとするなら、この後に「浮き流れ」とか「浮き漂い」といった語があるはずだ。よくよく味わうべきである。】○鵜河(うかわ)。こういう地名は物の本に見当たらない。今もそういうところがあるとは聞いていない。さらに考察の必要がある。【「その河を名付けて」とあるから、泉河のまたの名かと思うのは間違いだ。同じ川の流れだろうが、ここはそのうちの一箇所について言ったのである。木津の渡しから楠葉の渡しの間にあるのだろう。】書紀にはこのことは見えない。○斬波布理(きりはふり)。「はふる」は「屠(ほふ)る」と同じだ。上巻の八俣遠呂智(やまたおろち)の段に「切=散2其蛇1者(そのおろちをきちはふりたまいしかば)」とある「散」の「はふる」と読む。この「切散」を書紀では「寸斬(ずたずたにきる)」とあるので、「はふる」という言葉の意味が分かる。また白檮原の宮の段に兄宇迦其(えうかし)の死骸を「引き出して斬り散らした(はふりき)。そこでそこを宇陀の血原という」とあるのは、後の文も似ているから、「散」を「はふり」と読むのも、「はふる」は散らす意味だということも明らかだ。【万葉巻十三(3326)に「劔刀磨之心乎、天雲爾念散之(つるぎたちとぎしこころを、あまぐもにおもいはふらし)」、この「散」も「はふらし」と読む。今の本の訓は誤っている。また「流離(さすら)う」ことを「はふる」と言うのも、普段は静まっている者が散乱(ちりみだ)れることで、もとは同意である。水が溢れるというのも同じことで、「あふる」と「はふる」とは通用することが多い。また俗言で物を捨てるのを「ほうる」というのも「はふる」を音便でそう言うのであって、もとは同言・同意である。】ところでここは「はふる」とあるべきだが、「り」とあるのは、言葉が落ち着かない。だから下に「てにをは」を添えないでは読み難い。仮名に辞を添えて読むのは気持ちが悪いけれども、日代の宮の段に「如何泥疑之(いかにねきつるぞ)」【「ねぎし」と読んでも「し」を添えなければならない。ここの「之」は、この記では仮名に用いた例がないので、単に付けただけの字であって、「し」という辞に当たらない。】白檮原の宮の段に「遠延(おえまし)」などとあるのも、辞を添えなければ読めない。そこでここも「し」を読み添えて、下の「故」に続けた。このことは、上の「その逃げる軍を追って」というのと一連のことのように聞こえるかも知れないがそうではない。それとは別の場所のことだから、別の件である。○波布理曾能(はふりその)は和名抄の「山城国相楽郡、祝園【ほうぞの】郷」がそうだ。【「り」を省いて言うのは、中昔頃からだろう。「祝い」の字を書くので、もとが「はふりその」だったことは明らかだ。この祝園村には、現在東西南北中の五村がある。】延喜式神名帳にも祝園神社がある。【中古以来の歌に詠まれている柞(ははそ)山、柞社は祝園と同じか別か、よく考察すべきである。】ところで上記の鵜河、この祝園は、泉河の渡りから久須婆までの間にあったはずなので、久須婆の前に書いてあるのが当然だが、その追い詰めた最終の地をまず書いて、その間のことを次に言っているのは、物事を記録する一つの書き方である。○覆奏(かえりこともうす)。「復」を「覆」とも書いたことは、前【伝十七の四十五葉】で言った。ここは大毘古命と日子國夫玖命がそうしたのだ。書紀では「その軍は逃げ散った。それを河の北側に追い詰めて、その兵士たちの大半を斬り、死骸を切り散らした。そこでそこを『羽振苑(はふりその)』と言う。また兵士たちは怯えて屎を褌に漏らし、甲を棄てて逃げた。もう逃れられないと知ると、彼らは叩頭して『我君(わぎみ)』と言って謝罪した。そこでその甲(かわら)を脱ぎ捨てたところを『かわら』と呼び、屎が落ちて褌に掛かったところを『屎褌(くそばかま)』と言った。今『樟葉』と言うのは、訛ったのである。またその叩頭(のみ)したところを『わぎ』と言う。」とある。【「かわら」という地名は、この記では軽嶋の宮の段に見えて、その由縁は異なっている。「褌屎」とあるところは、文字が脱けているのだろう。「和君(わぎ)」は延喜式神名帳に「山城国相楽郡、和伎坐天乃夫支賣(わきにますあめのふきめ)神社」とある地である。この社は、今大平尾・小平尾両村の間に「涌杜(わくのもり)」というのがあり、その杜の中に「涌出宮(ゆうしゅつぐう)」という社があるのがそうだ。書紀の「我君」は「あぎみ」と訓が付けられているので、この「和伎」であることをいにしえから知る人がいない。古語に疎いからである。】

 

故大毘古命者。隨2先命1而。罷=行2高志國1。爾自2東方1所レ遣。建沼河別。與2其父大毘古1共。往=遇3于2相津1。故其地謂2相津1也。是以各和=平2所レ遣之國政1而。覆奏。

訓読:かれオオビコのミコトは、さきのみことのままに、コシのクニにまかりいましき。ここにヒムカシのカタよりまけし、タケヌナカワのミコト、そのちちオオビコとともに、アイヅにゆきあいたまいき。かれそこをアイヅという。ここをもておのもおのもまけつるくにのマツリゴトことむけて、かえりこともうしき。

口語訳:その後、大毘古命は、先に命じられた通り、高志の国に趣いた。そこへ東方に派遣されていた建沼河別が戻って来て、父の大毘古命と相津(会津)で再会した。それでその地を相津と呼ぶ。こうしてそれぞれ派遣された国を無事に治めて、復命した。

「隨2先命1(さきのみことのまにまに)は、大毘古命は高志の国、その子建沼河別命は東方十二道に遣わされていたので、その命令の通りにしたのである。この文は、「大毘古命者」とあって、大毘古だけのように聞こえるが、当然建沼河別命にも係っている。【要するに「大毘古命は先の命令に従って高志の国に趣き、建沼河別命は東方の国に向かった」ということだ。】○「自2東方1(ひむかしのかたより)」。「於(に)」と言うべきところを「自(より)」と言った理由は次に言う。○所遣は「まけし」と読む。「まけ」は「まからせ」の縮まった語で、【「からせ」を縮めれば「け」になるのは、「令レ垂(しだらせ)」を縮めて「しで」と言うのと同じだ。】「遣わし」と同意である。【「任」の字の訓で、伝九の四十八葉で言ったことも参照せよ。】万葉巻十七【廿丁】(3957)に「安麻射加流、比奈乎佐米爾等、大王能、麻氣乃末爾末爾、出而許之(あまざかる、ひなオサメにと、おおきみの、マケのまにまに、いでてこし)」、また【二十二丁】(3962)「大王能、麻氣能麻々爾々、大夫之、情布里於許之、安思比奇能、山坂古延底、安麻射加流、比奈爾久太理弖(おおきみの、まけのまにまに、ますらおの、こころふりおこし、あしびきの、やまさかこえて、あまざかる、ひなにくだりて)」、また【二十六丁】(3969)「於保吉民能、麻氣乃麻々爾々、之奈射加流、故之乎袁佐米爾、伊泥底許之(おおきみの、まけのまにまに、しなざかる、コシをおさめに、いでてこし)」などとあるので理解せよ。○「與2其父大毘古1(そのちちオオビコと)」。これは既に「大毘古命は」とあるので、ここは「東方に遣わされた建沼河別と」とあるのが普通だが、またこう言ったのは、建沼河別命を主語にした文だからだ。○相津は和名抄の「陸奥国會津【あいづ】郡」がそうだ。【會津、耶麻、大沼、河沼の四郡を会わせて會津四郡と言い習わしている。ところが和名抄では大沼・河沼は見えない。桃生郡の次にある大沼は別か。白河郡のところに、「国を分けて高野郡とした。今は分けて大沼・河沼の二郡としている」とある。「今は分けて」とあるところは、本来會津郡のところにあるものが紛れたのだろうか。「国を分けて」と「今は分けて」と重ねて言っているのもどうなのか。】万葉巻十四【十五丁】(3426)に「阿比豆禰能(あいづねの)」【「禰」は「峯」である。】古今六帖(1566)に「心にもあらでわたりの會津川、憂名(うきな)を水に流しつるかな」、後撰集の「別(わかれ)」(1331)に「君をのみ信夫(しのぶ)の里へ往(ゆく)ものを、會津の山野遙けきやなぞ」【この相津を延佳が近江の大津としたのは、「アフ」と「オホ」を取り違えた大きな誤りである。また師は近江の「粟津(旧仮名アハヅ)」を「は」と「ひ」は通音なので、「あいづ(旧仮名アヒヅ)」と言ったのではないかと言ったがこれも良くない。玉垣の宮の段に「尾張の相津」とあるのも別の地だ。】新撰姓氏録【難波の忌寸の條】に「大彦命は磯城の瑞籬の宮で天下を治めた天皇の御世に、蝦夷を平らげるために遣わされた」とあり、この命が陸奥まで行った証拠である。○往遇(ゆきあいたまいき)とは、建沼河別命が東方の十二国を言向けながら行き、大毘古命は越の国を言向けながら進んで、陸奥で落ち合ったのである。会津は今も東海道から下る道と、北陸道から下る道が行き会うところだ。【現在東海道から下る道は常陸の国から陸奥に入り。赤館・白河を経て会津に到る。北陸道から下る道は越後から二つの道があり、その一つは新発田から下る。これは大道である。もう一つは長岡から行く。いにしえと今とでは、道も色々変化しているだろうが、大きな道筋はそれほど変わっていないだろう。また会津には、上野の国からも下野の国からも行く道があるが、建沼河別命のたどった道はそれではないだろう。】前文に「自2東方1」とある「より」はその道の終わりでこのように出会ったので、その後の視点で書いたのだ。【北から下った人と、東から下った人が行き会ったのだ。會津を他の国とすれば、こういう「より」の言葉に合わないだろう。よく味わうべきである。】こうしたはるか彼方の国で行き会ったのは、ただの知人であっても懐かしいだろうに、まして父子が行き会うのは、さぞかし感慨が深かっただろう。そこでその深い情を表すために、ことさらに「父」と書いたのである。【そうでなければ、ここで「父」と言う必要はなかった。ところでこの相津が陸奥の會津だということに、世々の物知り人が今まで気付かなかったのはどういうことだろう。この記にその名の由縁まで書いてあるのに、会津の人々も、未だに知らないでいるのだろう。】○「和=平所レ遣之國政1而」は「まけつるクニのマツリゴトことむけて」と読む。「政」とはまつろう者をてなづけ、まつろわぬ者を討って、その国を平らげ治めることである。それも皇朝に仕える一つのあり方だからだ。【「まつりごと」とは、臣下が天皇の詔命を承って仕え奉ることを言う。このことは伝十八の七葉で言った。参照せよ。】倭建命の段に「所遣之政(まけのまつりごと)」とあるのもこれだ。しかし「政」を「ことむけ」というのは何か適当でないように聞こえるだろうが、若櫻の宮の段でも「令レ奏2天皇政既平訖參上侍之1(スメラミコトにマツリゴトすでにおえてまいのぼりてはべるともうさしむ)」【これは天皇の命を受けて、墨の江の中王を殺したことを「政」と言ったのである。】と見え、書紀の舒明の巻(九年三月)にも「平2水表政1(オチカタのマツリゴトをことむけ)(蝦夷討伐を言う)」とある。古語ではこういう風にも言ったのだろう。これらはその政を行うことを「和平(ことむけ)」と言ったのだ。【師は「政」の字を「訖」の誤りとして、「所遣之國」を「ことむけおえて」と読んだ。そう読むと何事もなく穏やかに聞こえる。前の文にも「如レ此平訖參上(かくことむけおえてまいのぼり)」とあり、後の文にも「平=訖2葦原中國1之白(あしはらのなかつくにをことむけおえぬともうす)」とあるからだ。だが上記の若櫻の宮の段に「政既平」とあるから、やはり「政」の字は誤りではないだろう。】書紀によると「群臣に詔して『今まつろわぬ人どもをことごとく殺したので、畿内は無事である。しかし海外の荒々しい人々はまだ騒々しい。四道将軍たちよ、早く出発して』・・・将軍たちはみな出発した。十一年夏四月、壬子朔己卯、四道将軍は戎夷どもを平らげて帰還し、復命した」という。【ここに「海外」とあるのはどうだろう。四道とも海外ではない。また四道将軍がみな夏四月の同日に復命したのもおかしい。漢文の潤色で、こういう不自然なこともあるのだろう。】

 

爾天下太平。人民富榮。於レ是初令レ貢2男弓端之調。女手末之調1。故稱2其御世1。謂B所レ知2初國1之御眞木天皇A也。

訓読:かれアメノシタたいらぎ、オオミタカラとみさかえき。ここにはじめてオトコのユハズのみつぎ、オミナのタナスエのみつぎをたてまつらしめたまいき。かれそのミヨをたたえまつりて、ハツクニシラシシミマキのスメラミコトともうす。

口語訳:こうして天下は太平となった。このとき、男には弓端(狩りの獲物など)の調(税)、女には手末(織物など)の調を課した。その御世を称えて、所知初國之御眞木天皇と呼んだ。

太平は「たいらぎ」と読む。書紀の景行の巻、仁徳の巻でもそう読んでいる。垂仁の巻で「人民冨足、天下太平也(オオミタカラにぎわい、アメノシタたいらぎき)」とある。とある。○男は「おとこ」と読む。記中、「おとこ」には「壯夫」の字を当てて、若く盛んな男を言い、「男」の字は単に「お」と言うのに当たるが、老若に関係なく、総称として「おとこ」、「おみな」と言うことがある。万葉巻廿(4317)に「秋野には今こそ行かめ、ものゝふの乎等古(おとこ)乎美奈(おみな)の、花にほひ見に」【この歌は一三四二五と句を順序立てて見よ。「おとこおみなの花」というのではない。】などもある。○弓端は「ゆはず」と読む。和名抄に「弓の末(上端)を弭(はず:底本正字は弓+粛)と言う。和名『ゆみはず』」とある。【「弓某」と言う時、多くは「み」を省いて「ゆ某」と言うのが普通だ。それで古くから「ゆはず」と言っている。】書紀の神代巻に「弓ハズ(弓+粛)」、~武の巻には「弓弭」とある。【「弭」も弓の末の名称だ。】「はず」は弓の末の端で、角や骨で造った物である。万葉巻十六【卅丁】の歌(3885)に【鹿が言ったこととして】「吾爪者御弓之弓波受(あがつめはミユミのゆはず)」と詠んでいるから、鹿の爪などでも造ったのだろう。巻一【八丁】(3)に「梓弓之奈利弭乃音爲奈利(あずさのゆみのなりはずのおとすなり)」、【今の本には、「弭」の前の「利」の字を「加」に誤っている。】巻二【三十四丁】(199)に「取持流弓波受乃驟(とりもたるユハズのさわぎ)・・・聞之恐久(ききのかしこく)」とあるのは、矢を射たときに音が高く鳴ることがあったと思われる。【これは、いにしえの弭ならすべてがそうだったのか、それほど鳴らないのもあったのか、それははっきりしない。今の弓も鳴ることは鳴るが、そう音が大きくはない。】矢にも「筈」という部分がある。なおここで、単に弓と言えば足るところを「弓端」と言ったのは言葉の綾だ。【「弓端」と言ったのは単に言葉の綾で、実際は弓を言っているから、あるいは「ゆずえ」とも読むべきだろうか。というのは、「弭」とは弓の上端にあって、ごく一部の名称だから、弓を言うのには狭すぎる。だが末だったら弓の上端の方を広く指して言うから、単に弓を言うにも似つかわしいだろう。弓に末と言うのは普通のことで、末の枕詞にも「梓弓」と言っているからだ。こうも思ったが、更によく考えれば、「はず」は一部分の名ではあるが「ゆはず」と言って、当然弓末を意味しており、末と言うのと同じことである。また「端」というのも末よりは弭の方に関連している。末ならそのまま末と書けばいいのに、そうでなかったのはやはり「はず」だからか。弭の字は少し縁遠い字で、当時はまだ「はず」の語に広く用いられていなかったから「端」と書いたのだろう。それに「手末」にたいしては、「ゆずえ」と言うより、言葉を変えて「ゆはず」という方が、言葉の綾という点でやや優れているだろう。】○女は「おみな」と読む、○手末(たなすえ)は上巻【伝十四の二十二葉】に出た。「手先」といった意味である。○調は「みつぎ」と読む。遠つ飛鳥の宮の段では「御調」と書かれている。書紀では「調」、「賦」などを「みつぎ」、「みつぎもの」と読む。【「苞苴」もそう読む。敏達紀には「調物」ともある。】朝貢、脩貢職などをいずれも「みつぎたてまつる」と読んでいる。「みつぎ」という名の意味は、「み」は「御」、「つぎ」は「つぐ」を名詞にした形で、「御供給」ということだ。【「給」は「相足(あいたす)」とも「供える」とも「備える」とも注される。普通は「たまう」と読み、上から下へ賜うこととばかり思われているだろうが、それだけではない。】だから俗言に人にものを貢ぐという「つぐ」と同じ言葉で、「つぐ」は「続ける」という意味であり、調は公に用いる品物を下から供給することである。【「み」を省いて「つぎ」とだけいうこともあり、次に引用する万葉巻十八の歌にも「萬調(よろずつぎ)」と言い、書紀の訓でも同様に見え、拾遺集(422)に「調絹(つぎのきぬ)」を「月の衣」にかけて詠んだ歌がある。】朝廷に奉るものはすべて「みつぎ」であり、田租も「みつぎ」に含まれるが、【次に引用する万葉巻十八の歌で分かる。】普通は田租の他に奉る種々の物を「みつぎ」と言っている。ここもそうだ。【その文字には調、庸、賦、貢などがあって紛らわしい。その概略を言うと、調は後に詳しく言う通りだ。庸は役に向かうはずの者が出発しようとしないとき、その日数によって、代わりに物を奉るのを言う。令の定めで、一日当たり布二尺六寸となっている。庸布と言うのがこれだ。賦はこういう類のことを総称して言う。「賦」という別の物があるわけではない。貢は賦と同様だが、何かを奉るという動詞に使うことが多い。】万葉巻一【十九丁】(38)に「山神乃奉御調等、春部者花挿頭持(やまかみのまつるみつぎと、はるべははなかざしもち)云々」、【これは山の花や紅葉を山の神が天皇に奉る御調だと表現したのである。確かに煎じ詰めれば、天下のあらゆる物は、神が奉る調であろう。】巻十八【廿丁】(4094)に「天乃日嗣等之良志久流、伎美能御代御代、之伎麻世流四方國爾波、山河乎比呂美安都美等、多弖麻都流御調寳波、可蘇倍衣受都久之毛可禰都(あまのひつぎとしらしくる、きみのみよみよ、しきませるよものくにには、やまかわをひろみあつみと、たてまつるみつぎたからは、かぞええずつくしもかねつ)」、また【三十二丁】(4122)「須賣呂伎能之伎麻須久爾能、安米能之多四方能美知爾波、宇麻乃都米伊都久須伎波美、布奈乃倍能伊波都流麻泥爾、伊爾之敝欲伊麻乃乎都頭爾、萬調麻都流都可佐等、都久里多流曾能奈里波比乎(すめろぎのしきますくにの、あめのしたよものみちには、うまのつめいつくすきわみ、ふなのへのいはつるまでに、いにしえよいまのおつつに、よろずつぎまつるつかさと、つくりたるそのなりわいを)」、【これは稲穀をあらゆる調の司だと言っている。司とは最上の物ということだ。これからすると、田租もみつぎものの一つである。】巻六【十五丁】(933)に「御食都國日之御調等、淡路乃野嶋之海子乃、海底奥津伊久利二、鰒珠左盤爾潜出、船並而仕奉之、貴見禮者(みけつくにひのみつぎと、あわじのぬしまのあまの、わたのそこおきついくりに、あわびたまさわにかづきで、ふねなべてつかえまつるが、とうときみれば)」、巻廿【二十五丁】(4360)に「伎己之米須四方乃久爾欲里、多弖麻都流美都奇能船者(きこしめすよものくにより、たてまつるみつぎのふねは)云々」、金葉集の「賀」(324)に「調物(みつぎもの)運ぶ丁(よぼろ)を計(かぞ)ふれば、二万(にま)の郷人(さとびと)數そひにけり」などがある。上代の調の制度はどうだったのか、詳細は分からない。孝徳紀に「大化二年春正月甲子朔、改新の詔を述べて、・・・その四に『これまでの賦役をやめて、田の調を行え。およそ絹・アシギヌ(糸+施のつくり)、絲、緜はみなその土地で採れるに従って出す。田一町に絹は一丈、アシギヌは二丈、布は四丈、【絲、緜、ク(糸+句)、屯は数量の記述がない。】別に戸ごとに調を取れ。一戸に貲布(さよみ)一丈二尺、貢ぎの副物(そわりもの)として、塩、贄も土地で産するところによって出せ。云々』」、【上記は文を省略して引いている。考察するには書紀本文を参照せよ。】「秋八月庚申朔癸酉、詔して『調賦(みつぎ)は男の身の調を納めよ』」、【これは正月に定めた田の調(田地に課税)、戸の調(家に課税)を改めて男の身の調(男の頭数に課税)と定めたのだろう。】賦役令に「調は、絹・アシギヌ、絲、綿は、その土地で採れるに従って出す。正丁一人につき、絹・アシギヌは八尺五寸。六丁で疋とする。絲は八両、綿は一斤、布は二丈六尺、みな二丁でク(糸+句)屯端とする。その他の雑物を出した場合は云々」、【雑物の品目は省いた。書紀本文を見よ。】「次丁二人、中男四人で正丁に準ずる。その調の副え物は正丁一人に云々」、【副物の品目もここでは省いた。】「京および畿内は、みな正丁一人に調布一丈三尺、次丁二人、中男四人はそれぞれ正丁一人と同じ。」【正丁とは男の年廿一から六十までの者を言う。次丁とは六十一から六十五までの者と、残疾の者を言う。中男は十七から二十までを言う。上記の種々の品目を、一人一人にすべて課すわけでなく、あるいは絹、あるいは布、何にせよその土地から出るものを一品目出すのである。雑物、副物もそうだ。諸国の調の品目は、主計式に出ている。また諸国の貢献物は、上記の調の他にある。諸国では、それぞれその国内の調を取り集めて、国司や郡司が部領(ことり)して京に上り、大蔵省に納める。その使いを貢調使という。調のことは、賦役令、民部式、主計式などに詳細が出ている。参照せよ。】ここで「弓弭の調」というのは、弓で射た獲物の肉、その皮などのことを言う。上代には普通に獣肉を食べ、毛皮なども利用したから、それを主旨としてこう言ったのだ。【仁徳紀で佐伯部が兎餓野(とがぬ)の鹿を苞苴(にえ)に奉った記事などを思い合わせよ。古語拾遺にこの「男の弭の調、女の手末の調」について「今神祇の祭りに熊の皮、鹿の皮、角、布などを用いるのはこれがもとである」と言っている。ところが令・式の頃になると、獣を用いることはやや稀になったらしく、調の雑物の中にもそういう物は書かれていない。副物の中に「猪の脂三合、脳一合五勺、鹿の角一頭、鳥の羽一隻」、また諸国の貢献物に皮革、羽毛などが見えるだけだ。主計式には「大鹿の皮一張、小鹿の皮二張、鹿猪の肺、雉の干し肉、鹿猪の鮨、猪の膏、鹿の角、緋の革」などが見える。】ただし男の調は、弓で捕った獲物とは限らないが、女の「手末」の対語としてこう言ったのは文の綾である。「手末の調」は女の手で作る物で、絹や布のことを言う。【新撰姓氏録に「調首(つぎのおびと)は百済国の努理使主(ぬりのおみ)の子孫である。弘計(顕宗)天皇の御世に、蠶(かいこ)を絹・アシギヌに織って奉った。そのため調首の姓を賜った」とある。】手先ですることはすべて手末と言い、雄略紀に「手末才伎(たなすえのてびと)」とあるのも、手先で物を作る工人を言う。ところで上記の孝徳紀や令によると、調を奉るのは男だけであって女は貢ぐことはないけれども、女の手で作った物を女の調と名付けたのだろうか。神功紀に新羅王が「毎年男女の調を奉りましょう」と言ったのもそう聞こえるからだ。【これは新羅王が貢ぐ調で、その国の女というわけではない。】しかしまた男だけが調を奉るのは後の制度で、【孝徳の御世に制定された定めや令の制度は、漢国の模倣で始められたことが多い。】上代には女も貢いだことがあったのか、分からない。上代の文は、こういうことにも綾を成して、「弓端の」、「手末の」と語り伝えたのは、たいへんめでたく雅である。ところで「初めて調を貢がせた」というのは、この時に初めてその制度を立てたことを言うのだろう。はっきりと決まった制度ではないとしても、それぞれ身の程に合った調を奉ったことは、もっと以前の御世にもあって当然だった。書紀には「十三年春三月、詔して・・・『この時に当たって、改めて人民のことを調べ、長幼の序や課役の先後を知らしめよ』、秋九月、初めて人民を調べて、改めて調役を課した。これを男の弭の調、女の手末の調という」とある。【この詔の言葉は例によって撰者が文の飾りに付け加えたもので、決して上代の言葉遣いではない。しかし「改めて調べ」とか「改めて課した」と言っているのは、実際そうだったと思われる。このとき初めて課役したわけではなかっただろう。】とある文の、「初めて」という語を「人民のことを調べて」というところに係ると解釈するのが精確な解釈だろう。○稱は「たたえ」と読む。【書紀では「ほめもうす」と読んでいる。~武の巻にあるのも同じ。】書紀の神代巻に「稱辭(たたえこと)」と見え、延喜式の祝詞には「稱辭竟奉(たたえことおえまつる)」という句がたいへん多い。みな「たたえこと」と読む。皇太神宮儀式帳に「天津告刀乃太告刀乃、厚廣事遠多々倍申(あまつのりとのふとのりとの、あつきひろきことをたたえもうす)」とある。その意味は、水が満ちているのを「たたえている」と言うのと同じで、言葉を尽くし満ち足りるだけ述べて賞める意味だろう。「稱辭竟奉」という「竟(おえ)」もその意味だからだ。祈年祭の祝詞に「四方國者、天能壁立極、國能退立限、青雲能靄極、白雲能墜坐向伏限、青海原者、棹杪不干、舟艫能至留極(よものくには、あめのかきたつきわみ、くにのそぎたつかぎり、あおくものたなびくきわみ。しらくものおりいむかふすかぎり、あおうなばらは、さおかじほさず、ふなのへのいたりとどまるきわみ)」などとある句は、みな言葉の限りを尽くして、少しも言い残しがないように表現したのだ。【推古紀に「稱2其名1謂2上宮厩戸豊聰耳太子1(そのなをたとえてカミツミヤウマヤドノトヨサトミミのヒツギのミコという)」とか、天武紀に「諡曰2大三輪眞上田迎君1(たとえなあげてオオミワのマカンダのキミという)」などという読みは、称賛することを「たとえ」と言っている。そう言うのは、何かを賞めるには祝詞などでも、物に喩えて「横山のように積み上げて」などと言い、出雲国造の神賀詞などでも種々の物に喩えて天皇を賞め、決まり文句で「常磐爾堅磐爾(ときわにかきわに)」というのも「磐のように」と喩えて言っている。だから称えることを即ち「たとえる」とも言うのだろう。とすると、上記の「稱辭」を「たたえこと」と言うのは、「たとえこと」を訛ったのではないだろうか。この「稱辭」の他には称賛することを「たたえ」と言った例がないからである。ただ「稱」を「たとえ」と言った例も、上記の書紀の読みの他には見えないから、ここは従来と同じく「たたえ」と読んでおく。】○所知初國は「はつくにしらしし」と読む。この「たたえこと」は後にそう呼んだのだろう。「その御世」と言い、天皇の名を言ったことなど、その当時の呼び名とは思えないからだ。だから「所知」を【「しらす」と現在形では読まず、】「しらしし」と読む。【下の「し」は過去形の助辞である。「しらす」と言えば現在形だ。】書紀の~武の巻に「そこで古語で称賛して、『畝傍の橿原に宮柱太立(みやばしらふとしき)、底磐(そこついわ)の根に高天の原に搏風(ひぎ)峻峙(たかしり)て、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)という』」と見え、孝徳の巻にも「始治國皇祖(はつくにしらししすめろぎ)の時から云々」とある。ここは師が「神武天皇をこのように称えて言い、また崇神も同じように言った理由は、これ以前にはまだまつろわなかった遠国まで、皇化して、天下がことごとく太平になったからである」と言った通りである。しかし「初」という言葉は「所知(しらしし)」に係るはずなのに、「国」に係けて言ったのはなぜかというと、「国」とはしろしめす限りの地を言う名であって、【このことは既に上巻に出た。】「食國(おすくに)」とも言う。だが国土全体が天皇の治める国となったのは、この御世が初めてだったから、その国を指して「初国」と言ったのだ。書紀では「これによって天神地祇が共和し、風雨は時に従うようになったので、百穀はよく実り、人民の家は富み栄え、天下は太平となった。そこで誉め讃えて『御肇國天皇(はつくにしらししすめらみこと)』と言うのである」とある。

 

又是之御世。作2依網池1。亦作2輕之酒折池1也。

訓読:またこのミヨに、ヨサミのイケをつくり、またカルのサカオリのイケをつくらしき。

口語訳:またこの御世に依網池を作り、輕の酒折池を作った。

依網池(よさみのいけ)。この地のことは伊邪河の宮の段の、依網の阿毘古のところ【伝廿二の七十九葉】で言った。この池は書紀にも「六十二年冬十月、依網の池を作った」とある。推古の巻に「十五年冬、河内の国に依網池を作った」とあるから、河内国丹比郡の依網郷にあるわけだ。この記の高津の宮の段に「依網池を作った」とあるのも同じである。【今、丹北郡の池内村というところにある池である。それをある説で「この御世に作ったのは、推古紀の池とは別で、摂津国住吉郡の庭井村にある池がそうだ」と言う。その池のことは伝廿二の上記の依網のところで、日本紀竟宴和歌を引用して述べたので、参照せよ。だがその池がいにしえの依網の池だということは、古い書物に証拠もなく、一方河内国にあったことは幾つか証拠もあるから、間違いはないだろう。この御世に作ったとあり、高津の宮の段にも推古紀にも「作った」とあるのは、初めからあったものが浅くなったり崩れたりして、後に補修したことを「作る」と言ったのだろうから、差し支えはない。】明の宮の段の歌に「美豆多麻流、余佐美能伊氣能、韋具比宇知(みずたまる、よさみのいけの、いぐいうち)」とあるのもこの池だ。【これは書紀では大雀命の歌として「河俣江」を詠み合わせている。それは河内国の若江郡だから、この池も同国で縁がある。】ところでこの上にある「作」の文字がない本もある。それでもおかしくはない。【後にも「作」とあるので、読むには「また依網池、また輕の酒折池を作った」と読めるからだ。】○輕之酒折池(かるのさかおりのいけ)。「輕」は境岡の宮の段に出た。【伝廿一の十六葉】「酒折の池」は、これ以外に物の本に見えない。名の例は倭建命の段に酒折の宮というのがある。ところが書紀には、【依網の池を作ったのと同年の】「十一月、苅坂の池、反坂の池を作った」とあり、「苅坂」は「軽坂(かるざか)」で、「反坂」は「さかおり」と読むべきだろうか。するとこの記も「輕之池、酒折池」とあったのが、上の「池」の字が脱落したのか。それとも書紀の「反」の字が「坂」の誤りなのか。あるいは一本に「及」とあるのを採用すると「折の池」ということになるから、この記の「酒」の字が「池」を誤ったのか。または書紀が「酒」の字を抜かしているのか。ともかく紛らわしくどれと決定することができないから、とりあえず旧い読みのままにしておく。玉垣の宮の段や應神紀【十一年】、また万葉巻三の歌(390)に「輕の池」が見え、同巻(239)や巻十二(3089)に「獵路(かりじ)の池」などと詠んでいるのも「輕の路の池」だと師は言った。この「輕の池」を「酒折の池」と呼んだのではないだろうか。それとも別なのか、定かでない。【摂津国住吉郡の遠里小野村というところがあり、そこを「おりおの」というから、万葉巻七(1156)や巻十六(3791)で「住吉之遠里小野之」とあるのは、今の本では読み誤っているが、「おりのおぬの」と六音に読むべきである。ここにあるのが「折の池」という名だったら、これこそこの記の池か。これはせめてもの参考に言っておく。】

 

天皇。御歳壹佰陸拾捌歳。御陵在2山邊道勾之岡上1也。

訓読:このスメラミコト、みとしモモチマリムツヂヤツ。みはかはヤマノベのミチのマガリのオカのえにあり。

口語訳:この天皇は百六十八歳で崩じた。御陵は山辺の道の勾の岡の付近にある。

御歳壹佰陸拾捌歳(みとしももちまりむつじやつ)。書紀には「六十八年冬十二月戊申朔壬子に崩じた。年は百二十歳」とある。【これによると、父の天皇の九年に生まれたことになる。しかし「その二十八年に皇太子に立てた。このとき年十九」とあるから、一年違っている。その年は二十歳のはずだ。もしその時十九歳とすると、崩じた年は百十九歳になる。】ある本では百二十七という。○旧印本、真福寺本、またその他一本には、この次に「戊寅年十二月崩」という細注がある。ここでは延佳本他一本にその注がないのを採用した。こういう細注は、これより後代のところには時々ある。下巻の御世御世では、ない方が少ない。だがこれは、後代に書き加えたものだろうと誰もが思うことだ。しかしよく考えると、これも大変古くから伝えたことだと思われる。というのは、どれもその干支や年月が、書紀の記載とは大きく違っており、下巻の最後の方だけが書紀と合っている。もし非常に後に書き加えたものだったら、(正規の国史と認定されている)書紀の年紀に合わせて書いただろうに、違うところが多いのは、他によりどころとなる書物があったと思われるからだ。【干支・年月などは、上代のは書紀の通りでなく、当時の書物にもそれぞれ違ったことが書いてあっただろうから、この記と書紀とは合っていなくて当然だ。またこの注が後世の人の付けたものなら、たとえそういう書物が伝わっていても、書紀をさしおいて、それに依拠して書くことはなかっただろう。】ところが最後にいたって書紀と合っているのは、もう近い世のことだったから、どの書物でも違いはなかったのだ。【またこの御世以前の段でそういう注がなかったのは、たぶん開化天皇までは崩じた年月を書いてなかったからだろう。これも後世の人が付けたのなら、書紀を根拠として、神武天皇以来、漏れなく書き加えておいただろう。】そこで考えると、これは太安麻呂が、何かの文献に基づいて、後で書き加えたのではないだろうか。【本文に続けず、細注として書いたのは、後から自分の考えで付け加えたものだからだ。】安麻呂でなくとも、古い時代のものだろう。【多くの人は、書紀に合わないからというので、こういう記述を捨てて顧みないが、私は書紀に合わないからこそ、かえって捨てがたく思うのである。】それでもすぐにこれを採用しないのは、稗田の老翁が口述した古伝そのままとは思えないからだ。戊寅の年は、書紀によると崇神五十五年のことだから、十三年の違いがある。これも何らかの一書による年紀だったのだろう。【いつも書紀の記述が正しいと思ってはいけない。】月はあっている。○山邊道勾之岡上(やまのべのみちのまがりのおかのえ)。書紀に「明年秋八月甲辰朔甲寅、山邊道の上の陵に葬った」と見え、垂仁の巻には「元年冬十月癸卯朔癸丑に葬った」とある。【近接した章なのに、これほど月日が違っているのはどういうことだろう。】諸陵式には「山邊道上の陵は、磯城瑞籬の宮で天下を治めた崇神天皇である。大和国城上郡にある。兆域は東西二町、南北二町。守戸五烟」とある。【また「衾田(ふすまだ)の墓は手白香(たしらか)皇女である。大和国山邊郡にある。・・・守戸はない。山邊の道の勾の岡上の陵戸に守りを兼務させている」と書いてある。「道上の陵」というのは書紀に基づいているが、これにこの記と同じ「勾の岡上の陵」とあるのは、延喜の頃にもこう言ったのである。「道上」と言っただけでは、景行天皇の陵と混同してしまう。】また景行天皇の陵も「山邊の道上」とあり、【これはこの記も書紀も、諸陵式も同じだ。】近いところなのだろう。「山邊」は和名抄に「大和国山邊【やまのべ】郡」とあって、延喜式神名帳に「山邊御縣坐(やまのべのみあがたにます)神社」もある。この郡は城上郡の北に隣接している。後撰集に初Pに詣でるとき、山邊というあたりで伊勢が(692)「草枕旅となりなば山の邊に白雲ならぬ我や宿らむ」と詠み、更科日記に【初Pに詣でる道のところで「東大寺云々」、「石上云々」に続いて】に「其夜山邊と云處の寺に宿りて」などという文が見える。中昔までは山邊という地があり、その地名から郡の名になったのだ。その山邊という地は、山邊郡の南から城上郡にわたる広い地名で、この二つの御陵【崇神、景行】のあるあたりは、今は城上郡に属している。【上記の山邊郡にある衾田の墓の守りをこの陵戸に兼務させているということから、この御陵は山邊郡との境に近いところと分かる。】とするとこの陵の山邊も、隣の郡の山邊ともとは同じだったのだ。「道勾之岡」という「道」は、長谷から山城国に通じる大道で、【この道は今も大道である。】「勾之岡」と言ったのは、その大道が大きく曲がっていたから言うのだろう。【単に「山邊の勾之岡」と言わないで「道の」と言うから、この陵は道に近いところにあっただろう。書紀で「道上」とあるのもそういう意味だ。「勾(まがり)」という名のところは大和国の中に幾つかあるが、これは少し違って、この岡の名である。】この御陵は大和志には「渋谷村の南にある。陵の近くには古墳が四つある」と書いてある。【前皇廟陵記に「一説では今の東山かという。俗に言う宇和奈利(うわなり)山、また玉身墓とも言う」とあるのはどこのことか、よく分からない。また大和国の人によると、「三輪から丹波の市に行く途中、柳本村というところの七、八町東の山際に岩屋が二つあって、それぞれ深さは五、六丈あるが、その奥に石槨がある。毎年十二月の晦日の夜は、自然にその上に燈火が灯り、その他にもいろいろ怪異があって、おそろしいところだ」と言う。これはあるいは崇神・景行の二つの陵ではないだろうか。また荒木田久老が「柳本村の東の山際に塚山が二つある。その一つは少し坂を上がったところで、周りは池で囲まれている。傍には小さい塚も一つ二つある。今この山を『ニサンザ山』と言っているそうだが、『御陵山(ミササギヤマ)』を訛ったのではないだろうか。もう一つはその山の東の上の方で、これもよく似た形で周りに池もある。山の上には碁石を敷き詰めてある。この二つは、間違いなく御陵と見える。崇神・景行ともに『山邊の道上』とあるのは、一つは『道の下』を誤ったもので、この上下の二つの塚山がこれらの陵だろう」と言った。ここで「一つは道下の誤りで、この上下にあるもの」と言ったのはどうだろう。「道上」の「上」は上下の上ではない。道の辺ということだ。だからこの二代の陵をどちらも道上と言っている。ただこの記で崇神の陵は「勾の岡の上」、景行の陵は単に「道上」とあるから、崇神の陵は高いところにあるのだろう。すると大和志にあるのと、その国人が言ったのと、この久老が言ったのとは、みな同じ場所のことか、それとも別の所か、私には分からない。国人が言ったのと久老の言うのとは、同じ場所のように聞こえるが、その様子が違っているのは疑わしい。だが渋谷村と柳本村は近隣であり、いずれも山邊郡の境に近いところだから、この二つの御陵は実際にこのあたりにあると思われる。いにしえの大道は、このあたりで、今の道より少し東に寄ったところにあったのだろう。歴代の御陵の図に描いたものを見ると、誰の陵ともはっきりしないのがたくさんある中で、渋谷村に隣接したところに「上山塚」というところがある。これもまた大和志で言っているところか、別の所か。このあたりには塚山がたくさんあると聞いており、確かにその一つと定めることは難しい。私もまだこのあたりを詳しく調べていないから、何とも言えない。さらによく考察して決定すべきだ。】



もくじ  前へ  次へ
inserted by FC2 system