『古事記傳』25


玉垣の宮下巻【垂仁天皇下】

故率=遊2其御子1之状者。在レ於2尾張之相津1二俣榲作2二俣小舟1而持上來以。浮2倭之市師池輕池1。率=遊2其御子1。然是御子。八擧鬚至レ于2心前1眞事登波受。<此三字以レ音。>故今聞2高往鵠之音1。始爲2阿藝登比1。<自レ阿下四字以レ音。>爾遣2山邊之大タカ(帝+鳥)1<此者人名。>令レ取2其鳥1。故是人追=尋2其鵠1。自2木國1到2針間國1。亦追越2稻羽國1。即到2旦波國多遲麻國1。追=迴2東方1。到2近淡海國1。乃越2三野國1。自2尾張國1傳以追2科野國1。遂追=到2高志國1而。於2和那美之水門1張レ網。取2鳥1而。持上獻。故號2其水門1謂2和那美之水門1也。亦見2其鳥1者。於レ思2物言1而。如レ思爾勿2言事1。

訓読:かれそのミコをいてあそべるさまは、オワリのアイヅなるフタマタスギをフタマタオブネにつくりてもちのぼりきて、ヤマトのイチシのいけ・カルのいけにうかべて、そのミコをいてあそびき。しかるにこのミコイ、ヤツカヒゲむなさきにいたるまでマゴトとわず。かれここにたかゆくタヅがネをきかして、はじめてあぎといしたまいき。かれヤマノベのオオタカをつかわしてそのトリをとらしめき。かれこのひとそのタヅをおいたずねて、キのクニよりハリマのクニにいたり、またおいてイナバのクニにこえ、すなわちタニハのクニ・タジマのクニにいたり、ひむかしのかたにおいめぐりて、オウミのクニにいたり、すなわちミヌのクニをこえ、オワリのクニよりつたいてシナヌのクニにおい、ついにコシのクニにおいいたりて、ワナミのミナトにあみをはり、そのトリをとりて、もちのぼりてたてまつりき。かれそのミナトをワナミのミナトとはいうなり。またそのトリをみたまえば、ものいわんとおもおして、おもおすがごということなかりき。

口語訳:(天皇はその皇子を非常に可愛がって)、御子を連れて遊ぶ様子は、たとえば尾張の相津にあった二俣杉で二俣小舟を造らせて都に持って来させ、大和の市師池や輕池に浮かべたときも、その御子を伴っていた。だがこの御子は、大人になっても物を言わなかった。ところがあるとき、空を飛ぶ鵠の鳴き声を聞いて、初めて何か言いたそうに口を動かした。そこで山邊の大タカという者に命じて、その鳥を捕まえさせた。大タカは鳥を追って紀伊の国から播磨の国に行き、さらには山を越えて因幡の国に追い、丹波の国・但馬の国に到ったが、捕らえられない。東の方に回り、近江の国へと追い、また山を越えて美濃の国に行き、尾張の国から信濃の国に到った。ついに越の国に到ったとき、和那美の水門に網を張って、ようやくその鳥を捕らえることができた。そこでその土地を和那美の水門と呼ぶのである。その鳥を見ると、御子が物を言うようになるかと思ったのだが、やはり物を言うようにはならなかった。

其御子とは本牟遲和氣命のことである。○尾張之相津(おわりのあいづ)。この地名は、物の本に見えない。今もそういう土地があるとは聞かない。【尾張の国の地図を見ると、春日部郡に文津という村がある。これは「あやづ」というのか。そうならば「あいづ」を訛ったのではないか。もっと調べる必要がある。】この国は、後に引用する尾張国風土記に、この皇子に関する記事が載っているから、縁はある。○二俣榲(ふたまたすぎ)。「榲」は杉である。【諸本に「椙」と書いてある。ここは延佳本に依った。この字のことは、伝九の二十四葉で論じた。】「二」の上に「以」の字が脱けているかも知れない。なくても悪くはない。【尾張国春日部郡に「杉」という村がある。中嶋郡には「二俣」という村もある。このどちらかは、いにしえの「相津」の地で、この杉に関連した場所ではないだろうか。地元にそういう言い伝えはないか、その里人に尋ねるべきだろう。】○二俣小舟(ふたまたおぶね)は、二俣杉で作ったのだから、一本でありながら二俣になったその木の形に合わせて作ったものだろう。【その造りや形など、細かなことは分からない。】書紀の履中の巻に「天皇は兩枝船(ふたまたぶね)を磐余(いわれ)の市磯(いちし)の池に浮かべて、妃たちと分かれて乗り、遊宴(あそび)をした」とある。【このことは新撰姓氏録の若櫻部の條にも見える。】○倭之(やまとの)と言ったのは、前の文で「尾張の」と言ったから、ここで改めて言ったのだろう。○市師池(いちしのいけ)は上記の履中の巻に出てくる磐余の市磯の池と同じ場所だろう。磐余は十市郡である。【この地のことは、若櫻の宮の段で言う。池は今も十市郡の池内村にあるという。】履中の巻には、「二年十一月、磐余の池を作った」とあり、その続きに上記の「三年十一月に市磯の池で・・・遊んだ」という記事があるから、磐余の池がすなわち市師の池だろう。万葉巻三【四十五丁】(416)に「百傳磐余池爾(ももづたういわれのいけに)云々」、夫木抄(10738)に「櫻ちる室の山風吹(ふき)ぬらし、市師池にあまる白波」とある。○輕池(かるのいけ)。「輕」のことは境岡の宮の段【伝廿一の十六葉】に出た。書紀の應神の巻に「十一年冬十月、輕池を作った」とあるのは、それ以前からあったのを補修したのではないだろうか。【この池は今も輕村にあるという。】万葉巻三【四十丁】(390)に「輕池のウラ(さんずい+内)廻(うらま)徃轉(ゆきめぐ)る鴨すらに、玉藻の於(うえ)に獨宿(ひとりね)なくに」とある。○是御子(このみこ)の下に「い」という助辞を補って読む。それは書紀や万葉の歌、続日本紀の宣命などに多数の例があり、文脈によっては言うべき辞だ。○八擧鬚(やつかひげ)。この語は上巻の須佐之男命のところ【伝七の十九葉】に見える。出雲国風土記の仁多郡三津郷のところに、「大~大穴持の御子、阿遲須伎高日子命は、須髪(ひげ)が八握(やつか)于生(生いるまで)昼夜泣き通し、言葉が話せなかった。このとき祖神は御子を船に乗せて、八十嶋(やそしま)を巡り、慰めようとしたが、なお泣き止まなかった。云々」【「髪」の字は「髯」などの誤りと思われ、「于」の字も「至」の誤りか、上に「至」の字が脱けているのかだろう。】とあるのとよく似たことだ。【上記で続いて述べられたこと(舟のこと)もやや似ている。】○眞事登波受(まごととわず)。書紀に「譽津別命が生まれた後、天皇はこの子をたいへん可愛がって、常に身近に置いていたが、壮年になっても不言(まごととわず:ものを言えなかった)」、また「二十三年、群卿(まえつぎみたち)に『譽津別王は、今年三十歳にもなるが、髯鬚八掬(ヤツカヒゲが生えても)、まだ幼い子のように泣くだけで、不言(まごととわず:普通に喋ることをしない)』云々」と見える。また天智の巻に「建皇子(たけるのみこ)は、唖であって、喋ることができない」ともある。「事問(こととう)」は「物言(ものいう)」と同じだ。万葉巻二【二十八丁】(167)に「御言不御問(みこととわさず)」、巻四【二十一丁】(534)に「明日去而於妹言問(あすゆきてイモにこととい)」、また【二十三丁】(546)「外耳見管言將問縁乃無者(よそのみみつつこととわんヨシのなければ)」、また【五十七丁】(773)「事不問木尚(こととわぬキすら)云々」、巻五【十一丁】(811)に「許等々波奴樹爾波安里等母(こととわぬキにはありとも)」、また【二十六丁】(884)「己等騰比母奈久(ことどいもなく)」、巻七【十九丁】(1211)に「目耳谷吾耳見乞、事不問侶(メのみだにわれにみえこそ、こととわずとも)」、巻十八【三十四丁】(4125)に「許等騰比能等毛之伎古良(ことどいのトモシキこら)」、巻廿【三十二丁】(4392)「有都久之波々爾麻多己等刀波牟(うつくしハハにまたこととわん)」、また【三十七丁】(4408)「今日太爾母許等騰比勢武等(きょうだにもことどいせんと)」【「ことどい」と言えば体言(名詞)になる。それでみな「ど」と濁るのである。】など、このほかにもたくさんある。「言う」を「問う」と言った例は、この他にもある。「問放(といさく)る(問いかける)」などと言うのはこの例だ。尾張国風土記に「丹羽郡吾縵(あづら)郷は、巻向の珠城の宮で天下を治めた天皇(垂仁)のとき、品津別(ほむつわけ)皇子は七歳になっても物を言わなかったので、傍同群下(広く群臣たちの意見を求めたが)、やはりだめだった。後の皇后の夢に神が現れ、『私は多具(たぐ)の国の神で、名は阿麻乃彌加都比女(アマノミカツヒメ:天甕津媛)という。私はまだ祝(はふり)を受けていない。私のために祝人を定めてくれたら、御子は物が言えるようになり、長生きもするだろう』と告げた。(誰もその神を知らなかったので)帝が卜人ベキ(不の下に見)神(神を尋ねる者を卜った)ところ、日置部らの祖、建岡君(たけおかのきみ)が占いに当たった。そこで遣わしたが、建岡君は美濃の国の花庶山(はながやま)に到って賢樹(さかき)の枝を縵(かづら)にして、『私の縵の落ちるところに、必ずこの神がいるだろう』と誓(うけ)い、(放り投げたところ、)その縵はここに落ちた。そこで社を建て、それに因んで地名とした。後人は訛って『あづらの里』と言う」【「傍同群下」は読めない。誤字があるのだろう。また「後の皇后」とは比婆須日女(ひばすひめ)命のことだろう。この皇子の母は既に死んでいるからだ。だが単に皇后と言ったら、母のように聞こえるから、「後の」と言ったと思われる。「多具の国」というのはどこか分からない。「卜人」とある「人」の字は「合」の誤りか。「花庶」は「花鹿」だろう。延喜式神名帳に「美濃国大野郡、花長(はなが)神社」、「花長下神社」がある。「あづら」は延喜式神名帳に「尾張国丹羽郡、阿豆良(あづら)神社」、和名抄に同郡吾縵郷が載っている。今の本は「吾」を「五」に誤っている。今もこの村はある。「吾髪」と書いて「あづら」と言う。「髪」は「鬘」を誤ったのである。】○故今(かれここに)。「今」の字は「ニ(入の下に小)」の間違いだろう。【これは市師の池や軽の池に連れて行って遊んだときのことを言うようにも取れるけれども、そうではないだろう。そうだとしてもやはり「今」と言うのは唐突に聞こえる。この舟を池に浮かべて遊んだことを、物を言わないからそうしたと考えると、「今」というのはその時のことと思われるが、それなら初めに「この御子は物を言わなかった」と言って、次に「尾張国にある云々、その御子を連れて遊ぶときに、高く飛ぶ鵠の音を聞いて」という順序で書くべきなのに、そうなっていないから、池で遊んだときのことは、物を言わなかったこととは無関係と思われる。】○高往は「たかゆく」と読む。「空飛ぶ」というような意味だ。「高」とは虚空を言う。このことは伝三【五葉】で言った。高津の宮の段の女鳥(めとり)の王の歌に「多迦由久夜、波夜夫佐和氣能(たかゆくや、はやぶさわけの)」とあり、万葉巻四【二十一丁】(534)に「水空徃雲爾毛欲成、高飛鳥爾毛欲成(みすらゆくクモにもがも、たかとぶトリにもがも)」とある。【この「高飛」も、「たかくとぶ」と読むのは良くない。】○鵠之音は「タヅがね」と読む。遠つ飛鳥の宮の段で、輕太子(かるのみこ)の歌に「多豆賀泥能(たづがねの)」とある。万葉などにも多い。上代には鶴も鵠(くぐい)も鸛(おおとり:こうのとり)もみんな「たづ」と言った。くぐい、おおとり、などと分かれたのは、やや後のことだろう。万葉巻三【十九丁】(273)に「近江海八十之湊爾鵠佐波二鳴(おうみのうみヤソのみなとにタヅさわになく)」とあり、これも「たづ」に「鵠」と書いている。【「鵠」と「鶴」は別物だが、漢国でも「鶴」を「鵠」と書いた例が多く、字の音も鳥自体も似ているので、取り違えることもある。五雑俎という書物には、「鵠とはつまりIのことだ」ともある。鶴は秋野末から春までしかこの国にはいないのに、万葉の夏や初秋の歌に「たづ」が鳴くことを詠んでいる。これもまた鵠や鸛などを「たづ」と言ったのだ。】だがここは鶴を通わせて鵠と言ったのか、もしくは「くぐい」なのを「たづ」と言ったのか、はっきりと違いを見定めることはできない。いずれにせよ、読みは「たづ」だろう。和名抄に、「四聲字苑にいわく、鶴は鵠に似てくちばしが長く、脚が高い。和名『つる』、唐韻にいわく、レイ(零+鳥)は鶴の別名である。楊氏抄にいわく、『たづ』」とあり、また「野王が考えるに、鵠は大鳥である。漢語抄にいわく、『古布(こう:旧仮名コフ)』、日本紀私記にいわく『くぐい』」、また「本草にいわく、鸛は水鳥である。鵠に似て樹上に巣を作る。和名『おおとり』」などとある。【天武紀ではIを「おおとり」と読んでいる。】新撰字鏡に「鵠は『くぐい』、また『古比(こい:旧仮名コヒ)とも言う』とある。【漢語抄の「コフ」と新撰字鏡の「コヒ」とは通音だから、同じ名だろう。上記の三つを字から言うと、Iは「つる」、鵠は「白鳥」というもの、鸛は「こう(旧仮名コフ:こうのとり)」というものである。それを上記の書物に鶴を「こう」とか「こい」とか言うのは、違っているように思われる。今「こう」と呼ぶのは鸛に相当する。また「くぐい」と言うのは鵠のことだとも言い、鸛のことだとも言う。鸛のこととするのは間違いだろう。神楽歌の湊田に「美奈止多仁、久々比也也川乎利也(ミナトダに、クグイやヤツおりや)」、東遊の彼乃行(かのゆく)に、「加乃由久波、加利加久々比加(かのゆくは、カリかクグイか)云々」とある。師の説で、「『くぐい』は、今白鳥というもので、『こう』ではない。『こう』は雄雌一つがいだけでいるもので、群れているものではないから、『ヤツおり(八つ居り)』というのに合わない。白鳥はたくさん群れているものだ」と言った通りだ。また「雁(かり)」と見まがうというのも白鳥だからだろう。】○「爲2阿藝登比1」は「阿藝登比(あぎとい)」を体言(名詞)に読んで、「爲」を「したまいき」と読む。【この言葉遣いは白檮原の宮の段に「爲遠延(おえまし)」、日代の宮の段に「爲泥疑(ねぎつ)」などとあるのに似ている。ここで「体言に読む」というのは、同じ言葉ではあるが、「あぎといたまう」と読めば用言(動詞)だが、「あぎといしたまいき」と読めば体言になることを言う。】「あぎとい」とは、幼児が初めて物を言うことを言うのだろう。「あぎ」は「吾君」で、【こう言った例は多い。】幼児に対面している人を言う。「とい」は「言問い」の「問い」で、「言う」と同じ意味である。それは小児が初めて物を言うときに、対面している人に「吾君(あぎ)」と言うことを言うのだろう。今の世の物言いの習慣に「じじ(老翁)」、「ばば(嫗)」、「とと(父)」、「かか(母)」などというのと同じ感じだ。【書紀に「得言(あぎとう)」とある訓は、この記に依ったのである。だが「得言」という字は、正確には当たっていない。○蜻蛉日記に「そこらの人のあぎとふやうにすれば云々」とあるのはどんな状態を言うのか定かでない。書紀の~武の巻に「魚皆浮出、随レ水ゲン(口+僉)ギョウ(口+禺)(いおみなうきでて、みずのままにあぎとう)」とあり、この字は「魚の口が上を向いていること」と注されている。】<訳者註:「あぎとう」とは、現在一般には「口をぱくぱくさせること」と解される>○山邊(やまのべ)。これは姓ではない。【そのため下に「之」の字が入っている。】地名であって、大和国山邊郡のことである。この地は前【伝廿三の九十六葉】に出た。○大タカ(帝+鳥)。タカは「たか」と読んでいるのに従う。鷹のことだ。【師は「わし」と読んだが、やはり「たか」だろう。この字は「テイ(是+鳥)」と同じで、玉篇に「テイ-ケン(肩+鳥)は鷹である。仲春に鳩になる」と注され、「ケン」の字の注には「タカ-ケンは鷂(はしたか)の属である」と言っている。禮記の月令に「題肩<訳者註:この語意味不明。肩に乗るといった意味か>」とあるのがこれだ。新撰字鏡には「音は『にほ』」とあるが、ここには該当しない。】この人物は、このとき鳥を追ったことによって、この名が付いたのだろう。【彼の名は、書紀には天湯河板擧(あめゆかわたな)とある。】鳥を尋ねたという話は、書紀の景行の巻で、倭建命が死んで白鳥に姿を変え、それを使者に追い尋ねさせたということがある。○注に「此者人名(こはひとのな)」とあるのは、師は後人が書き加えたものだと言った。しかし、これを八咫烏などのように、鷹のことと思う人もあるかと考えて、最初からこう書いてあった可能性もある。○「自2木國1到2針間國1(キのクニよりハリマのクニにいたり)」。これは海路で直接行ったのか、それとも和泉国を通って行ったのか。どちらもあり得るだろう。倭から紀伊に到ったことは言っていないが、自然にそういう意味を含んでいるように聞こえるのは、古言では普通だ。【今の世俗の言葉でもそういう言い方だ。たとえば京都から伊勢を経て尾張に行ったことを、京都にいて言うなら、「伊勢から尾張に行った」と言って、京都から伊勢に行ったことは省いても、当然そう聞こえる。】○「越2稻羽國1(イナバのクニにこえ)」。山を越えるから「越え」と言ったのだ。因幡は播磨の西北にあって接している。和名抄に「因幡国邑美(おうみ)郡、鳥取郷」がある。○旦波國多遲麻國(タニハのクニ・タジマのクニ)。因幡から近江に行く道の順序からすると、但馬が先になるはずだが、丹波を先に言ったのは、一般的に言うときの国の序列によるのだろう。延喜式神名帳には「但馬国城崎郡、久々比(くぐい)神社」、また「養夫(やぶ)郡、和奈美(わなみ)神社」がある。【後の文に随って考えると、この但馬国でも、網を張って捕らえようとしたが、ここでは捕らえることができなかったのだろう。たぶんこれらの神社は、そのさい首尾良く捕らえることを祈るために祭ったのではないだろうか。】他に、丹後国竹野郡にも網野神社があり、和名抄には同郡網野郷、【今の本では「網」の字を「納」に誤っている。東大寺の古文書には「網野郷」と書いてある。】また鳥取郷がある。○「追=迴2東方1(ひむかしのかたにオイめぐりて)」。この文は因幡から但馬に行くところにあるはずの文だが、【因幡から但馬に行くときは、もう東に向いている。】そこで言わないでここで言うのは、上記の国々は大倭から見ると、みな西の方にある国で、近江はやや東の方にある国だからだ。【ということは、「東方」というのは、大倭から見て東方だということだ。】○「自2尾張國1(オワリのクニより)」。ここは三野、科野と東に続く道順だが、尾張は三野の南にあって、信濃に続く道筋ではないのにこう言ったのは、鳥の行方を追って行ったのだから、まっすぐの道ではなかったのだろう。○傳は「つたいて」と読む。【延佳が「傳の字は轉の字の誤りだろう」と言ったのは、漢籍の文字遣いばかり考えて、古言を知らなかったのだ。「傳」の字は、漢籍でこそ「つたい」と読むところには使わないが、皇国では普通のことだ。】高津の宮の段でも「自2其嶋1傳而、幸=行2吉備國1(そのシマよりつたいて、キビのクニにいでます)」と見え、舒明紀(十二年)に「大唐學生高向漢人玄理、傳2新羅1而至之(モロコシのふむやわらはタカムクのアヤヒトゲンリ、シラギよりつたいてもうけり)」とある。【天武紀にもこういう文がある。】万葉巻廿に「太上天皇皇太后、幸=行2河内離宮1、傳=幸2於難波宮1也(太上天皇と皇后は、河内離宮に行き、難波宮に伝って行った)」などと見え、歌にも「嶋傳ひ」、「浦傳ひ」などと言うのは普通のことだ。日代の宮の段の歌に「伊蘇豆多布(いそづたう)」ともある。「伝う」とは行ったところから、すぐに他の所に行くのを言う。上記の国々を巡って追ったのはみな伝って行ったわけだが、ここでだけこう言ったのは、単に言葉を変えた文の綾である。○高志(こし)。旧印本ほか一本に「但馬」と書いてあるのは誤りである。ここでは真福寺本、延佳本によった。【信濃から但馬に行くのは、道筋が大きく違ううえ、前にすでに多遲麻國を経ている。それに「但馬」という表記は、この記の例と異なっている。伊邪河の宮の段、明の宮の段でも「多遲麻」としか書いていない。この誤りは、書紀に「一説では但馬國で捕らえたという」と見え、延喜式神名帳で、そこに和奈美神社があることなどから来ており、後で多遲麻とあるのに、それとも気付かぬ者が、なまさかしらに改めたものだ。水垣の宮の段にも同じような間違いがある。ここもそれから転じたさかしらと思われる。】この国は上巻に出た。【傳十一の三葉。】延喜式神名帳に「越中国婦負(ねい)郡、白鳥神社」があり、和名抄に「同国新川郡、鳥取郷」がある。○和那美之水門(わなみのみなと)【「門」の字を諸本で「河」と書いてあるのは誤りである。ここでは一本によった。】は、高志のどの国の、どの郡にあるのか、他に物の本に見えない。今はこの地名がなくなったのか、その国人に尋ねたいところだ。【越中国射水郡に「くぐの湊」というのがあり、その付近には鳥取村というのもあるそうだ。】○網(あみ)は和名抄に「纂要にいわく、獣網を罘(ふ)といい、麋網を罠といい、兎網をシャ(四の下に且)という。これらはすべて『あみ』と読む」、また「廣雅にいわく、罟は魚網である。『あみ』」とある。和那美は羂網(わなあみ)である。【羂のことは伝十九の十四葉で言った。】これは網の一種だろう。【師はこの「網」も「わなみ」と読んだが、「網」と書いてあるのは単に「あみ」と読むべきだ。】○「取2鳥1而持上獻(そのトリをとりて、もちのぼりてたてまつりき)」。空を飛ぶ鳥を追って、このように遠くの国々まで尋ねて行くのは疑わしい話のようだが、鳥のことをよく知っている人に聞くと、意外なほど遠い国まで尋ねて行って捕らえることがよくあるそうだ。書紀には「廿三年、・・・冬十月、天皇が大殿の前に立ち、譽津別皇子もその側にいたとき、空高く鵠が飛びながら鳴いた。皇子はそれを仰ぎ見て、『あれは何?』と言った。天皇はその皇子が鵠を見て初めて物を言ったことをたいへん喜び、左右の者に『誰かあの鳥を捕らえてくる者はいないか』と言った。そのとき鳥取造の遠祖、天湯河板擧(あめゆかわたな)は『私なら必ず捕らえてご覧に入れます』と言った。天皇は湯河板擧に命じて、『この鳥を捕らえて来たなら、厚く報賞する』と約束した。湯河板擧は鳥の飛んで行く方向を遠望して、追い尋ねて出雲の国で捕らえた。一説では但馬国で捕らえたとも言う。十一月に湯河板擧が鵠を献じ、譽津別命はこの鵠を弄んで、とうとう物が言えるようになった。そのため湯河板擧を賞めて鳥取造の姓を与え、また鳥取部、鳥養部、譽津部を置いた」とある。【延喜式神名帳に「河内国大縣郡、天湯川田神社」があり、和名抄には同郡鳥坂郷、鳥取郷が載っている。出雲国風土記には「神門郡、來食池」というのがある。内山眞龍によると、「これは『くぐいの池』で、この故事による名ではないだろうか」という。】新撰姓氏録に「鳥取部連は角凝魂命の三世の孫、天湯河桁(あめゆかわたな)命の子孫である。垂仁天皇の皇子、譽津別命は三十歳になっても口がきけなかった。ところがあるとき鵠が飛ぶのを見て、突然『あれは何?』と周りに尋ねた。天皇は喜んで、天湯河桁を遣わして鳥を捕らえさせた。そこで尋ね求めて、出雲国宇夜(うや)の江まで行ってやっと捕らえ、献上した。天皇は非常に喜び、鳥取連の姓を与えた」とある。【「三世の孫」というのは疑わしい。「三」の上に「十」などの字が脱けているのか。】○亦見とは皇子がかつての鳥をもう一度見ることである。この「亦(また)」を「思2物言1(ものいわんとおもおす)」に係る語と見てもいい。○於思物言而如思爾勿言事。この部分は、諸本が少しずつ違っていて、全く同じものはない。【初めの「於思」の2時は、旧印本と延佳本にはない。たぶん「思」の字が重なっているので、さかしらに削ったのだろう。ここでは真福寺本他一本、および他一本にあるのによる。「而」の字は、諸本みな「爾」の字の下にあるが、真福寺本だけは「物言」の次にあって、「爾」の下にはない。「如」の字は諸本みな「加」と書いてあるが、延佳本のみ「如」とある。】ここではこれらを考え合わせて、良いと思われるのを書いてある。【ただ「於」の字は納得できない。あるいは「所」の誤りで、「所思(おもおし)」か。「爾」の字もしっくりしない。あるいは「念」、または「者」などの誤りで、「如2思念1(おもおすがごと)」、または「如レ思者(おもおすがごとは)」なのか。】訓は「ものいわんとおもおして、おもおすがごといいたまうことなかりき」とする。「於」、「爾」の字は読めない。【「於思」の字がなくて「而」の字が「爾」の下にある本に依るなら、「ものいわんとおもおすがごとくにて」と読むことになる。後は同じ。師は「こことわすことおもおすままなりしかれどもコトゴトにことといますことなし」と読んだが、良くない。延佳も「爾而」を「しかれども」、「事」を「ことごとに」と読んでいるが、文脈はそういう感じではない。「事」は軽く付けて言う辞の「こと」なのを、語のままに書いただけである。「勿」の字は記中の用例では「不」の字の格(「〜せず」の意)に使うのだが、ここでは「事」という字があって「不」のように読めないから、「なかりき」と読んだ。】全体の意味は、「物を言うようになるだろうと思ったが、思い通りに物を言うようにはならなかった」ということだ。【「於思」の二字がない本によるなら、「物を言うような様子はあったが、はっきりしゃべれなかった」ということになる。】「ものいう」というのも古言である。穴穂の宮の段にも「うたて物言う王子」とあり、万葉巻十四【二十三丁】(3481)に「毛乃伊波受伎爾弖(ものいわずきにて)」、【巻四(503)には「物不語來而(ものいわずきにて)」とある。】巻十六【九丁】(3795)に「物不言先爾(ものいわずさきに)」などとある。【師が「物言」を「こととわず」と読んだのはどうだろう。「物」の字があれば、そうは読めない。ひたすら「こととう」を古言と考えたのは偏った解釈である。】

 

於レ是天皇患賜而御寢之時。覺レ于2御夢1曰。修=理3我宮如2天皇之御舍1者。御子必眞事登波牟。<自レ登下三字以レ音。>如レ此覺時。布斗摩邇邇占相而。求2何~之心1。爾祟。出雲大~之御心。故其御子令レ拜2其大神宮1將レ遣之時。令レ副2誰人1者吉。爾曙立王食レト。故科2曙立王1令2宇氣比白1、<宇氣比三字以レ音。>因レ拜2此大~1誠有レ驗者。住2是鷺巣池之樹1鷺乎。宇氣比落。如レ此詔之時。宇氣比其鷺墮レ地死。又詔=之2宇氣比活爾1者。更活。又在2甜白檮之前1葉廣熊白檮令2宇氣比枯1。亦令2宇氣比生1。爾名賜2其曙立王1謂2倭者師木登美豊朝倉曙立王1。<登美二字以レ音。>即曙立王菟上王二王副2其御子1遣時。自2那良戸1遇2跛盲1。自2大坂戸1亦遇2跛盲1。唯木戸是掖月之吉戸ト而。出行之時。毎2到坐地1定2品遲部1也。

訓読:ここにスメラミコトうれいたまいて、ミネませるときに、イメにさとしたまわく、「アがミヤをおおきみのミアラカのごとつくりたまわば、ミコかならずマゴトとわん」。かくさとしたまうときに、フトマニにうらえて、「いずれのカミのみこころぞ」ともとむるに、そのタタリは、イズモのオオカミのみこころなりき。かれそのミコをしてそのオオカミのミヤをおろがましめにヤリたまわんとするときに、「タレをそわしめばえけん」とうらなう。ここにアケタツのミコみうらにあえり。かれアケタツのミコにおおせてウケイもうさしむらく、「このオオカミをおろがむによりてマコトしるしあらば、このサギスのイケにすめるサギや、ウケイおちよ」かくノリたまうときに、そのサギちにおちてしにき。また「ウケイいきよ」とノリたまえば、さらにいきぬ。またアマカシのさきなるハビロクマカシをウケイからし、またウケイいかしき。かれそのアケタツのミコにヤマトオユしきとよあさくらアケタツのミコというナをたまいき。すなわちアケタツのミコ・ウナカミのミコふたばしらをそのミコにそえてツカワスときに、ナラドよりはアシナエ・メシイあわん。オオサカドよりもアシナエ・メシイあわん。ただキドぞワキドのよきトとうらえて、いでゆかすときに、いたりますところゴトにホムヂベをさだめき。

口語訳:天皇が憂慮を抱いて寝ていたとき、夢に神が顕れて「私の宮を天皇の御殿のように造れば、御子は必ず物を言うようになるだろう」と教えた。そこで太占で「祟っているのはどの神か」と卜ったところ、その祟りは出雲の神によるものだった。そのため皇子を遣って出雲の神を拝ませようとしたが、「誰をお伴に付ければよいか」と卜ったところ、曙立王が卜に逢った。そこで曙立王に誓(うけ)い言わせて、「この大神を拝むことによって、本当に効果があるなら、この鷺巣の池の鷺は、誓いによって落ちよ」と言うと、その鷺は誓いによって地に落ちて死んだ。もう一度「誓いによって生きよ」と言うと、生き返った。また甜白檮(あまかし)の前にあった葉廣熊白檮(はびろくまかし)を誓いによって枯らし、また生き返らせた。そこで曙立王に「倭者師木登美豊朝倉曙立王」という名を与えた。曙立王と菟上王の二人にお伴をさせて出発しようとするときも、那良戸から出ると跛者や盲者に出会うだろう。大坂戸から出ても、やはり跛者や盲者に出会うだろう。ただ木戸こそ腋月の吉き戸と卜って、そこから出た。また途中、通過した地ごとに品遲部を置いた。

御寝は「みねませる」と読む。白檮原の宮の段に「一宿御寝坐也(ひとよみねましき)」とあった。○覺(さとし)は出雲の大神が教えたのである。○御舍は「みあらか」と読む。上巻【伝十四の四十八葉】で述べた。○修理は「つくる」と読む。ここは「アガミヤをオオキミのみあらかのごとつくりたまわば」と読むのである。出雲大~の宮については、上巻で大国主神が帰順したとき、「ただ私の住処を天神の御子の住む登陀流(とだる)、天の御巣・・・造っていただければ、私は百たらず八十クマ(土+冂に口)手(やそくまで)に隠れましょう」と言ったので、出雲国の多藝志の小浜に御舎を造ったとあるから、【このことは伝十四で述べた。】もともと天皇の御殿のようだったはずだが、また改めてこう言ったのは、書紀の崇神の巻に、六十年の事件(神宝のことから出雲振根を強殺したこと)の後、「出雲の臣たちは恐れて大神を祭らなかった。すると丹波の氷上の人、氷香戸邊(ひかがとべ)という者が皇太子の活目尊(いくめのみこと:後の垂仁天皇)に申し出て、『私の幼い子が突然玉モ(くさかんむりに妾)鎭石(たまもしずし)云々と言い出しました。とても小児の言葉と思えません。神のお告げでしょうか』と言った。そこで皇太子は天皇にこのことを話し、すぐに命じてまた大~を祭らせた」とあり、この時あたりから、神殿が壊れても補修もせず、傷んだままにしていたのかもしれない。【上記のことは崇神の御世というのも、一つの伝えに過ぎず、実際はこの垂仁の御世だったかも知れない。活目尊に申し出たというのも、そう思える理由である。】そこで、元通りに造り直せということだったのだろう。○布斗摩邇邇占相而(ふとまににうらえて)は上巻に見える。【伝四の三十九から四十一葉】○何~之心(いずれのかみのみこころぞ)。神の心というのは、水垣の宮の段、大物主神の教えで「我之御心」とあるところ【伝二十三の二十五葉】で説明した。ここでは、夢に現れて教えたのがどの神か分からないので占ったのである。○爾祟は「そのたたりは」と読む。【これはその意味にしては変わった書き方だが、そう読む他はない。】「祟り」とは御子が物を言えないことを言う。古今集の俳諧(1022)に「石上ふりにし戀の~さびて祟るに我は祈(ねぎ)ぞかねつる」、古今和歌六帖(1064)に「木綿(ゆふ)掛けて祈(いの)る御室(みむろ)の~さびて祟るにしあれば祷(ねぎ)ぞかねつる」、(3534)「但馬糸のよれどもあはぬ思ひをば、何のたゝりにつけて祓へむ」などがある。○出雲大~は杵築にいる大国主神のことである。書紀の崇神の巻にも「出雲の大~の宮」とある。○令拝はここでは「おろがましめに」と読む。【「に」は助辞である。】書紀の推古の巻の歌に「訶之胡彌弖、兎伽陪摩都羅武、烏呂餓彌弖、兎伽陪摩都羅武(かしこみて、つかえまつらん、おろがみて、つかえまつらん)」とある。普通「おがむ」と言っているのは、この「ろ」を省いたのだ。【弘仁私記に「拝むことを『おがむ』と言うのは『おれかがむ』ということである」とある。】このとき、その宮を修理するより先に皇子を拝ませようとしたのは、「験(しるし)を早く」と心がはやったのだろうか。○誰人は、二字合わせて「たれ」と読む。「いずれのひと」と読んでも良い。【書紀の歌に「たれやしひと」、万葉の歌に「たれしのひと」などの語句もあるが。これらは歌の句でこそあれ、普通の地の文ではそういう言い方はしない。師は「たれそのひと」と読んだが、これもどうだろうか。】○令副は「そわしめば」と読む。【「そえしめ」と読んでは言葉の遣い方が誤っている。「そえ」は「そわせ」の縮まった形で、その上更に「しめ」と言ったのでは、同言が重なってしまう。「そわしめ」といえば、つまり「そえて」という意味になる。】○吉は「えけん」と読む。「よからん」という意味だ。天智紀の童謡に「多ダ(てへん+施のつくり)尼之曳鶏武(ただにしえけん)」とある。また同じ時の童謡に「よき」を「曳岐(えき)」とも言っている。この言葉の例は、上巻に「使2何~1者吉(いずれのかみをつかわしてばえけん)」とある。この文は、下に「とうらなうに」という言葉があると見て解するべきである。そうでなければ言葉が足りない。あるいはこの前の「副」の上の「令」、または「吉」の下にある「爾」の字が「占」の誤りかも知れない。【師は「令副」の上に「亦占相者(またうらなえば)」の四字が脱けたのだと言った。だが上にこうあるのもどうだろう。この四字が脱けているとすると、「占相者(うらなえば)」の三字は「吉」の下にあるはずだ。】○曙立王(あけたつのみこ)は開化天皇の曽孫で、大俣王の子である。前に出た。【伝廿二の六十七葉】○食トは「みうらにあえり」と読む。書紀のこの(垂仁の)巻に、「中臣連の祖、探湯主(くがぬし)に命じて誰に大倭大~を祭らせたらよいかを占わせたところ、淳名城稚姫(ぬなきのわかひめ)が占(うら)に食(あ)った」とあり、天武紀に「新嘗の国郡を占わせたところ、齋忌(ゆき)は尾張国山田郡、次(すき)は丹波国訶沙(かさ)郡が占に食った」、「齋宮に行こうとして、日を占ったところ、癸巳の日が占に食った」、続日本紀廿六に「美濃と越前とが占に合って、大嘗の政事を取り持てと云々」、また皇太神宮儀式帳に「卜合地(うらあえるところ)」などとある。【「あえり」という言葉に「食」と書くのは漢文の表現である。これをその字の通り「はむ」と読むのは漢籍の読み方で、わが国の本来の言葉ではない。】「卜に合う」というのは、何かを行うべき候補者をたくさん選んでおいて、その誰がよいかと占って、当たったことを言う。人だけでなく、行う日とか行う場所なども同じように選ぶ。上代には、こういう卜いは鹿の肩の骨を灼いて行った。そのことは上巻【伝八】に見える。【亀を使うのは戎(から)のやり方で、それが後代に伝わってきたものだ。】○「令2宇氣比白1(うけいもうさしむ)。「比白」は、諸本みな誤って(上下をくっつけて)「皆」の一字にしているが、延佳が訂正したのによる。「宇氣比」は上巻【伝七】に出た。○註の「宇氣此三字以レ音」も諸本で「宇氣二字」としているのを【これは「比白」を「皆」と誤ったことから、後人がさかしらに改めたものと思われる。】延佳が改めたのに従う。○「因レ拜2此大神1(このオオカミをおろがむによりて)。「此の」は「彼の」と言うのと同じである。【中昔まで、「彼の」を「此の」と言った例が多い。】出雲の大神を言う。ここから「落ちよ」と言うところまでは「うけい申した」言葉である。○「有レ驗者(シルシあらば)」は、夢の教えのような効果があるならば、ということだ。これについては後に論じる。○是鷺巣池(このさぎすのいけ)。「是の」というのは、現に鷺巣の池を目の当たりにして言っているのである。この池は延喜式神名帳に大和国高市郡、鷺栖(さぎす)神社があるから、その地だろう。【神社は大和志に「四分村(しぶむら)にあり、今は鷺栖八幡と呼んでいる」という。池は今はないのかどうか、現地の人に聞いてみなければ分からない。釈日本紀の書紀の持統の巻の説に「氏族略記にいわく、藤原の宮は高市郡鷺栖坂の北の地にあるという」とある。】○鷺乎(さぎや)。この「乎」の字の使い方は、上巻に「愛我那邇妹命乎(うつくしきアがなにものみことや)」とあるところ【伝五の六十四葉】で言った。記中には他にも穴穂の宮の段に「己妹乎(おのがいもや)云々」、朝倉の宮の段に「奴乎(やつこや)云々」などがある。呼びかけの言葉で、「〜よ」と言うようなことだ。○宇氣比落(うけいおちよ)。「落」は【諸本に誤って「給」と書いてある。ここでは真福寺本および延佳本によった。】「おちよ」と読む。本来「うけい〜」というのは、うけいをする人の動作について言うことで、このようにうけいを受けるもののことを言うのは、今考えるとどうかと思われるが、【そのため師は上記の「乎」の字を「令」の誤りと見て「おとせ」と読んだ。だがそれは良くない。】いにしえにはこうも言ったのだろう。次の「宇氣比活」も同じだ。【上代の言葉なので、後世の言葉とは違った使い方をすることもあっておかしくないから、今の考え方でいぶかってはいけない。今でも似たような言い方をすることはある。「風が吹く」というとき、「吹く」というのは風の動作で、その風に吹かれるものについては言わないはずだが、吹かれるものも「吹き散る」、「吹き上がる」などと言うたぐいだ。これに準じて意味を考えるべきである。】そうやって落ち、また生き返ることが、すなわち「うけい」である。○如此詔(かくのりたまう)というのは曙立王が詔(みことのり)したのだ。これは天皇の命を受けて行ったうけいだから、こう言った。次の「又詔(またのりたまう)」も同じ。【後世に勅命を人に言い聞かせることを「宣(の)る」と言うのと同じである。この詔を天皇が直接言ったと考えて、「因レ拜2此大神1」から「落ちよ」と言うところまでを曙立王に仰せつけた詔命と思うのは誤りである。師が「落」を「おとせ」と読んだのも、これを天皇の詔と思ったからだ。しかしそれなら「誠有レ驗者」と言い、「鷺乎」と言った「乎」の表現などがしっくりしない。これらは即ち「うけい」の言葉そのものである。「詔」の字にこだわらず、「宣」の意味と考えれば、何の支障もない。】○宇氣比其鷺云々。この「宇氣比」三字は除いて読む。これを読むと言葉が整わない。後人がさかしらに書き加えたものだろう。【というのは、「その鷺をうけい」と読むと、これは曙立王の動作になるが、「地に落ちて死んだ」のは鷺のことで、一連の言葉なのに主語が途中で入れ替わって、雑然とした言い方になるからである。】○宇氣比活(うけいいきよ)。「活」は「いきよ」と読む。【師はここもやはり「いかせ」と読んだ。詔を天皇が直接言ったと解したからである。】○爾者。「爾」の字は読めない。これも後人が加えたのだろう。そこでこれも今は除いて読んでおく。【師は「しかすれば」と読んだが、それなら「爲レ然者」などとあるのが普通で、「爾者」とは書くはずもない。また「故(かれ)」などの語がなくては足りない気がする。真福寺本にはこの「爾者」の次に「宇氣比者」の四字がある。どうにも読めない。これまた後人が書き加えたのだろう。このことから見ても、「其鷺」の上にある「宇氣比」やこの「爾」の字なども、後人の賢しらによる付加であることは明白だ。この段の文は、後人には「うけい落ちよ」、「うけい生きよ」などの言い方が疑わしく思われ、「詔」の字のため主語が紛らわしく、みだりに字を加えて書き変えたのだ。しかしこれらの字を加えたことでかえって語調が乱れ、意味が通らなくなった。「詔」を曙立王が言ったことと考え、上記のさかしらな付加を除けば、分かりやすい文である。】○更活(さらにいきぬ)は、一度死んだ鷺が生き返ったことを言う。○甜白檮之前は「あまかしのさき」と読む。延喜式神名帳に「大和国高市郡、甘樫坐(あまかしにます)神社」がある。そのところだ。遠つ飛鳥の宮の段に「味白檮(あまかし)の言八十禍津日前(ことやそまがつひのさき)」、書紀の允恭の巻に「味橿丘(あまかしのおか)の辭禍戸サキ(石+甲)(ことまがつべのさき)」、皇極の巻に「甘檮岡」、斉明の巻に「甘檮丘の東の川上(かわら)」などとあるのも同じである。【大和志には、丘も神社も豊浦村にあると書いてある。実際そのあたりだろう。「東の川上」とあるのは飛鳥川のことである。「甜白檮」というのは白檮(かし)の一種で、それを地名にしたのだろう。】「前(さき)」というのは、この地が丘なので、その丘の岬ということだ。【万葉巻廿(4408)に「乎可乃佐伎(おかのさき)」と詠んだ例もある。】海辺や山、岡などの岬をいずれも「前」と書くのがこの記の通例だ。延喜式神名帳には、近江国伊香郡にも「甘櫟前(あまかしのさき)神社」がある。○葉廣熊白檮(はびろくまかし)は倭建命の歌に「久麻加志(くまかし)」、朝倉の宮の段の歌に「波毘呂久麻加斯(はびろくまかし)」などがある。【「葉廣」というのは枝葉が繁って広がった木の、全体の様子を言うのだろう。白檮の葉自体は、言うほど広いものではないからだ。高津の宮の段の歌に「波毘呂由都麻都婆岐(はびろゆつまつばき)」ともある。】ところで「かし」のことを、この記ではみな「白檮」と書いてある、書紀では多くは「橿」と書き、また「檮」とも書いて「これを『かし』と読む」と訓注がある。【上記の斉明紀の甘檮の丘のところ。】和名抄に「橿、和名『かし』」と見える。【新撰字鏡には「ライ?(木+頼)は『かしのき』」、また「ヤク?(木+藥)は『かしのき』」、「?(木+白の下に母)、ギ?(木+車+氏)の二字は上に同じ」、また「白樹は『かしのき』」などと書いてあるが、どれも根拠不明な字だ。】また古い書物では「樫」とも書いてある。【「かし」をこの記で「白檮」と書いているので、「白」の字から「しらかし」と考えるのは誤りである。単に「かし」である。書紀の用明の巻に「赤檮、これを『いちい』と読む」とあるので、いにしえに赤檮を「いちい」に当て、白檮を「かし」に当てたのだ。ところが「かし」にも「白樫」と「赤樫」があるので、白檮、赤檮の字をそれと間違えやすい。また「櫟」の字は「いちい」に当てることが多いが、これを「かし」と読んだこともあったのだろう。上記の近江国の神社の名は、「甘櫟(あまかし)」に違いないからだ。<訳者註:現在は「いちいざきじんじゃ」と呼んでいる。>「かし」と「いちい」はよく似た木である。一般に草木鳥獣の名の漢字は、いにしえには書物を根拠に適当に当てたのだから、違っていることも多い。漢国ですら互いに紛れて定かでないことが多いから、皇国ではよけいにそうあっておかしくない。後世には「本草」という書物などを主な手がかりとして論ずる連中もいて、精確なことを言っているようにも見えるが、やはり定めがたいことが多い。いずれにせよ漢字は仮に当てたのだから、深く詮索するものではないだろう。】「熊」とは【字は借字で、】「くみ」、「こもり」などと通い、葉が茂ってこんもりした様子を言う。【とすると「熊白檮」もそういう一種があるのではない。新撰字鏡には「くまつづら」、「くまはじかみ」などという名の木もある。「くまざさ」などの「くま」も同意だ。】新撰字鏡に「ショウ(木+聶)は『くまかし』」とあるのは、一つの種類を言っているように聞こえるが、それは後代のことだろう。○「令2宇氣比枯1(うけいからし)云々」。これは鷺をうけいしたこととほとんど同じことで、上記のことで分かるため、そのうけいの言葉を省略して書いている。【鷺に「落ちよ」、「生きよ」と言ったのは、うけいの言葉そのものだったが、ここで「令レ枯(からし)」、「令レ生(いかし)」と書いているのは口から出た言葉でなく、地の文である。この違いを理解すべきである。】○亦令の「亦(また)」の字は、旧印本と延佳本では「忽(たちまち)」と書いてある。だがその他の本ではみな「亦」となっている、「忽」でも意味は通じるが、「亦」という方がいいだろう。【というのは、前の鷺のことは詳しく話しているのに「忽ち」という語がない。ましてこの白檮のことは簡略に書いているのだから、そういう接続詞があるはずもないからだ。】○倭者師木登美豊朝倉(やまとおゆしきとみとよあさくら)。「者」の字は疑いなく誤写だ。人の名に入っているはずのない助辞(「は」)である。【書紀の顕宗の巻の誥(ことあげ)に「倭者彼々茅原浅茅原(やまとはソソちはら、あさじはら)」とあるのも納得しがたいが、これは名ではない。また同じ時(顕宗即位前記:清寧二年)の室壽(むろほぎ)の言葉に「出雲者新墾(いずもはにいはり)」ともある。】あるいは「老」の誤りかと思われ、一応「おゆ」と読んでおいた。【師は「彦」の誤りだろうと言ったが、それなら「比古」、「日子」などと書くはずで、記中に「彦」を書いた例はない。老の字とすれば「おい」とも読めるが、孝徳紀で人名の「老」に「これを『おゆ』と読む」と註があるので、それに従った。】こういう称え名に「倭」の字を負わせた例は、書紀のこの巻に倭日向武日向彦八綱田などの名がある。【大倭は皇京の国名で、代々の天皇の名にも、~倭云々の名をはじめたくさん例があり、美称だから、凡人でも手厚く称賛するときは、この名を与えたのだろう。】「老(おゆ)」というのも【称え名には見当たらないが、】人名にはよくある。「師木」も「登美」も倭国の地名である。【いずれも前に出た。】朝倉もそうだ。【この地名のことは、朝倉の宮の段で言う。】そもそもこのように、その人に何らの縁もないような土地の名を付けて、称え名としたことがあるのかというと、あの~倭伊波禮毘古(かむやまといわれびこ)天皇(神武天皇)の「いわれ」と同様で、理由ははっきりしない。【その地を与えたようにも思えるがそうではない。「いわれ」などは天皇の名にあるからだ。<訳者註:宣長の歴史解釈では、神武天皇は大和侵入の時点で、すでに日本全体を支配したはずだから、倭の磐余という限局された地名を冠するはずはなかったということ。>あるいはその土地にあまり縁はなくとも、単に美名を冠しただけなのかも知れない。「師木」は「石城」で、堅固であるという意味、「登美」は「富」の意味で、「倉」も物を積んでおく場所だから、いずれもめでたい名なのだ。前記の「いわれ」も物が集まって充満する意味があり、やはり美名だ。】○菟上王(うなかみのみこ)は曙立王の弟である。前【伝廿二の六十七葉】に出た。○二王は「ふたはしら」と読む。○其御子(そのみこ)は本牟知和氣の王を言う。○那良戸(ならど)。「那良」は大和国添上郡である。書紀の崇神の巻に「武埴安彦とその妻吾田媛が謀反を謀って、突然軍を興し、それぞれの道に分かれて進んできた。夫は山背から、妻は大坂から、帝京に侵入しようとした。・・・また大彦と和珥臣の遠祖、彦國葺を山背に向かわせ、埴安彦を撃たせた。そこで和珥の武スキ(金+躁のつくり)坂上(たけすきさかうえ)に忌瓮(いわいべ)を据えて、精兵を率い、那羅山に登って陣を張った。そのとき官軍の兵士が数多く集まって、草木をテキ<足+滴のつくり>ソ<足+且>した(踏み鳴らした)。それでそこを那羅山と言う。【テキソ、これを『ふみならす』と読む】」とあり、これが名の由来だ。その後元明天皇の御世【和銅三年】から桓武天皇【延暦三年】まで、七、八代【七十余年】に渡って都の地であったことは、言うまでもない。高津の宮の段の歌に「阿遠邇余志、那良袁須疑(あおによし、ならをすぎ)」、書紀の武烈の巻の影媛の歌に「婀嗚爾與志、乃樂能波娑摩爾(あおによし、ならのはさまに)(爾の正字はいずれもイ+爾)」などがある。万葉の歌には【「なら山」、「ならの京」、「ならの里」など。】巻々にたいへん多く出るが、巻三(328)に「青丹(あをに)よし寧楽乃京師(ならのみやこ)は、咲花(さくはな)のにほふが如く今盛(さかり)なりけり」などがある。「戸」とは家だけでなく、海や川、国についても、出入りする口のことを言う。【海や川では「水戸(みなと)」、「嶋戸(しまと)」、「迫戸(せと)」、「川戸(かわと)」などと言うのがそうだ。仲哀紀に「穴門から向津野(むかつの)の大濟(おおわたり)に到るまでを東門とし、名籠屋の大濟を西門とした」などもある。「戸」と「門」は同じことだ。】「那良戸」は那良山を越えて倭国に入る口である。【今の京(平安京)で粟田口、丹波口などと言うのと同様だ。師は「倭国は、四方みな山門(やまと)だからそう名付けられた」と言ったが、山と限ったことではない。国境に山がないところでも、(国境を越えて)出入りする口を「戸」と言う。】高津の宮の段に「山代から回って那良山の口に到った」と見え、万葉巻三【二十四丁】(300)に「佐保過而寧樂乃手祭爾置幣者(さほすぎてならのたむけにおくぬさは)」、【「たむけ」とは越えて行こうとする山の、最高所である。そこでは神に手向けをすることから言うのだ。今は俗にこれを「峠」と言うが、「たむけ」を訛った言葉である。那良の手向けは、「手向山」と言うのがそうだ。】巻十三【五丁】(3236)に「空見津倭國青丹吉寧樂山越而、山代之管木之原(そらみつやまとのくにアオニヨシならやまこえて、ヤマシロのつつきのはら)云々」などの歌があり、上代から【今に至るまで】北の方【山城】から倭国に出入りする大道である。この戸から出て出雲国に行くには、山代、丹波などを通過する。○自は「よりは」と読む。「そこから行けば」という意味だ。【「よりは」とだけ言ったのでは言葉が足りないようだが、古言ではこういう言い方もしたのだろう。「よりせば」と読むのは漢文読みである。また「よらば」と読めなくもないが、やはり良くないだろう。】○遇跛盲は「あしなえメシイあわん」と読む。【「メシイに」と「に」を添えて読むのは雅言の言い方ではない。このことは上巻、伝十六の二十一葉で例を挙げて説明した。】和名抄に「説文に曰く、蹇は正しく歩けないことを言う。訓は『あしなえ』、こちらでは『なえく』とも言う」とあり、「跛」も説文で同じく「正しく歩けない」と注し、一書に「足が片方動かない」とも注している。また考えるに、ここで言っているのは、俗に言う「腰抜け、いざり」かも知れない。字書に「躄」を「跛の甚だしいもの」とも注し、「両足が歩けないもの」とも注しているから、全く歩行ができない者も「あしなえ」と言ったのだろう。【万葉巻二(128)に「葦若生乃足痛吾勢(あしかびのあなえくわがせ)」とあり、「足痛」も師は「あしなえ」と読んだ。】「盲」は和名抄に「盲は和名『めしい』」とある。【新撰字鏡では「瞶」、「オウ?(目+央の下に貝)」、「ソウ(目+叟)」、「ハク?(目+伯の下に又)」、「ヨウ?(目+あなかんむりに乂、その下に又)」などをすべて「めしい」としているが、どれも納得できない字だ。<訳者註:宣長がこう言っているときは、漢和辞典に載っていない字のことを言っていることが多いが、「瞶」と「ソウ」はコンピュータ文字にもある。>また「ボウ(目+毛)」を「めくら」と書いている。今の世でも「めくら」と言う。】旅立ちに際して跛盲に遭遇することを不吉とするのは、跛は前へ進めない、また盲は前途が見えないということで、いずれも旅行に嫌われたのだろう。【師はこの「跛盲」の二字を二つとも誤写で「路セイ(生の下に目)」の誤りだろう。「みちまけ」と読むべきだ。新撰字鏡に「セイは先定の反去、目に翳を生ずる。『まけ』」とある。ここは道の惑わしにあうことを言ったのだと主張したが、納得できない解釈だ。「まけ」というのは目翳とあるが、道の惑わしをどうしてそう言うだろう。また「道の惑わしにあう」というのも何を言っているのか、確かでない。また諸本にみな「跛盲」とあって、「路セイ」と書いた本は一つもない。ただ旧印本に、二度目に出る「跛」を「路」と書いているが、それも一度目は「跛」になっているから、「路」の方が誤りに相違ない。】○大坂戸(おおさかど)。和名抄に「大和国葛上郡、大坂郷」、延喜式神名帳に「葛下郡、大坂山口神社」がある。【葛上郡、葛下郡と異なるのは、両郡の境に近いからで、別の場所ではない。】水垣の宮(崇神天皇)の段に「大坂の道中に云々」、若櫻の宮の段で、(履中)天皇が難波の宮から倭に行く時、「大坂の山口に到ったとき、一人の女人に逢った。その女人が言うには、『武装した人が大勢いて、この山を塞いでいます。當岐麻道(たぎまじ)から迂回して越えなさい』という。そこで天皇は歌って、『於富佐迦迩(おおさかに)阿布夜袁登賣袁(あうやオトメを)美知斗閇婆(ミチとえば)多陀邇波能良受(ただにはのらず)當藝麻知袁能流(タギマジをのる)』」とあり、水齒別命(反正天皇)が難波から倭に登ったときも「大坂の山口に到ったとき云々」、書紀の崇神の巻で武埴安彦」がその妻と共に反逆し、軍を率いて都を襲ったとき、「夫は山背から、妻は大坂から進入した」、倭迹迹日百襲姫命を葬る墓を築いたところに「大坂山の石を運んで造った。・・・当時の人々は歌って『飫朋佐介珥(おおさかに)菟藝逎煩例屡(つぎのぼれる)伊辭務邏塢(いしむらを)云々』」、天武の巻に「将軍の吹負(ふけい)は『近江軍が大坂道の方からやって来たそうです』と言った」、また「将軍吹負は、倭の地を平定し終わると、大坂を越えて難波に向かった」、「八年十一月、初めて龍田山と大坂山に関を設けた」【「坂」の字を「江」と書いた本は良くない。】などの例が見える。万葉巻十【四十四丁】(2185)に「大坂を吾越來者(わがこえくれば)、二上に黄葉(もみじば)流る、志具禮(しぐれ)零(ふり)つゝ」と詠まれている。この戸は河内国から大坂山を越えて入る戸であることは、これらの用例で分かるだろう。【この山は大和と河内の境にあり、二上山の北の方を越える。上記の万葉の歌もそう聞こえる。また若櫻の宮の段に「大坂の山口」とあるのは、河内の方から上る道である。孝徳天皇の大坂の磯長陵も河内の石川郡で、この山の西面である。ところでこの道は、いにしえには中心的に往来した大道だったが、今はそれほど大きな道ではない。穴蒸(あなむし)越えと言って、葛下郡の穴蒸村というところから、河内国古市郡の飛鳥村に到り、古市を経て難波に通じる道である。その穴蒸村に並んで逢坂(おうさか:旧仮名アフサカ)村とあるのは、本来大坂(おおさか:旧仮名オホサカ)なのを後世には「オホ」と「アフ」を混同して言うようになり、誤って「逢」の字を書いたのだろう。】この戸から出て出雲国へ行くには、河内【和泉】、摂津の国などを通って行く。○唯(ただ)とは那良戸、大坂戸だけでなく、どの「戸」も【西の方の国へ下る道はこの二つだけでなく、龍田山の道など、他にも道があった。】良くなく、ただ木戸だけが吉であるという意味だ。○木戸(きど)は紀伊国から倭に入る戸で、眞土山(まつちやま)を越えて行く道である。【和名抄に「大和国廣瀬郡、城戸(きのべ)郷」があり、万葉にも(196?)「木ベ(瓦+缶)宮(きのべのみや)」が出てくるが、これはそこではない。】万葉で紀伊国に往来する人が、その山を越えた歌が多いのは、この道である。【今も眞土峠と言って、大和国宇智郡から木の国伊都郡に越える大道だ。】○是は「の」と読む。○掖月(わきど)の「月」の字は「戸」の誤りだろうと師は言ったが、その通りだ。掖戸とは、この木戸は出雲へ行くには正面でなく、他の方向に出る道だから言っている。【つまり木戸のことをこう言うのは、いつも言うことでなく、出雲へ下る道について言っている。師の説に「木戸は掖戸とあるから、奈良坂の東に山背の木津の里に越える山路がある。それを言う。というのは崇神紀の神乙女の歌に『於朋耆妬庸于介伽卑弖(おおきどようかがいて:大木戸から伺って)云々』と歌ったのは、奈良坂の道を言う。奈良という名はその頃からあったもので、古名は『木』と言ったことが、この歌で分かる。その大木戸の道のある地名はその後変わったが、脇道のあたりは古い名のまま、今も木戸と言う」と言ったが、この説はどうだろうか。神乙女の歌の「於朋耆妬」は地名ではない。皇宮の門を言っているので、大城門のことだ。この歌は、この記に「前戸(まえつど)」、「後戸(しりつど)よ」とあるのと合わせて考えても分かる。「うかがいて」と言うのも、門戸でなければ不自然だろう。】○卜而(うらえて)とは、どの戸から出たらよいだろうかと占ったから、それにこういう結果が出たことを、簡約に一言で言ったのであり、いにしえの文の美しさである。「自2那良戸1」というところから「吉戸」というところまでが、その卜(うら)に出た候補ということだ。○出行は【「いでます」とも読めるが、「幸」と書かないで「行」と書いているから、やはりここは】「いでゆかす」と読む。「自2木戸1」と書かないでも、そう聞こえるのは、また古文の美しさである。○「毎2到坐地1(いたりますところごとに)」とは、宿を取ったところ、または暫く留まったところを言うのだろう。そうでなければ「毎に」という言葉がしっくりしない。【単に通過しただけの村里毎に、みんな品遲部を置くことはありそうにもないからだ。】ただし「毎に」という言葉を軽い意味にとって、単に到ったところどころでという意味にも解釈できる。○品遲部(ほむじべ)は本牟智別王の名を冠した「部」である。こうして御名を部に負わせた意味は、前【伝廿四の十五葉、廿五葉】で言った。和名抄には「大和国葛下郡、品治(ほむじ:現代表記では、ほんじ)郷」、【保無智(ほむじ)】「因幡国邑美(おうみ)郡、品治郷」、「安藝国山縣郡、品治郷」、「備後国品治郡【保牟智(ほむじ)】、品治郷」などがある。これらは倭から出雲に往来する道にある国々だから、この時に定められた品遲部に由縁のある名だろう。【出雲国風土記に「神門郡、比布知(ひぶち)神社」がある。また日淵(ひぶち)川がある。これも「本牟智」が訛ったのではないか。今は八代も川も「保知石(ほちいし)」と言う。】また姓に負った例としては、伊邪河の宮の段に「曙立王は伊勢の品遲部の君の祖」、「息長日子王は吉備の品遲部の君の祖」などとあった。【伝廿二の七十五葉】この氏人は続日本紀廿八に「品治部公、嶋麻呂」、類聚国史八十七に「出雲国楯縫郡の人、品治部首、眞金」などが見える。

 

故到レ於2出雲1。拜=訖2大~1。還上之時。肥河之中。作2黒樔橋1。仕=奉2假宮1而坐。爾出雲國造之祖。名岐比佐都美。餝2青葉山1而。立2其河下1。將レ獻2大御食1之時。其御子詔言。是於2河下1如2青葉山1者。見レ山非レ山。若坐2出雲之石クマ<石+囘>之曾宮1葦原色許男大~以伊都玖之祝大廷乎。問賜也。爾所レ遣2御伴1王等聞歡見喜而。御子者坐2檳榔之長穗宮1而。貢=上2驛使1。爾其御子一宿婚2肥長比賣1。故竊伺2其美人1者。蛇也。即見畏遁逃。爾其肥長比賣患。光2海原1自レ船追來。故u見畏以。自2山多和1、<此二字以レ音。>引=越2御船1。逃上行也。於レ是覆奏言。因レ拜2太神1。大御子物詔故參上來。故天皇歡喜。即返2菟上王1。令レ造2神宮1。於レ是天皇因2其御子1定2鳥取部鳥甘部品遲部大湯坐若湯坐1。

訓読:かれイズモにいたりまして、オオカミをおろがみおえて、かえりのぼりますときに、ヒノカワのなかに、クロギのスバシをつくり、かりみやをつかえまつりてまさしめき。ここにイズモのクニノミヤツコのおや、なはキイサツミ、あおばのヤマをかざりて、そのカワシモにたてて、オオミケたてまつらんとするときに、そのミコのりたまいつらく、「このカワシモにあおばのヤマなせるは、ヤマとみえてヤマにあらず。もしイズモのイワクマのソのミヤにアシハラシコオをいつくハフリがおおにわか」とといたまいき。かれミトモにつかわさえたるミコたちキキよろこびミよろこびて、ミコをばアジマサのナガホのミヤにませまつりて、ハユマヅカイをたてまつりき。ここにそのミコひとよヒナガヒメにみあいましき。かれそのオトメをかきまみたまえば、オロチなりき。すなわちミかしこみてニゲたまいき。そのヒナガヒメうれたみて、ウナハラをてらしてフネよりおいくれば、ますますミかしこみて、ヤマのタワよりミフネをひきこして、ニゲのぼりいでましつ。ここにカエリコトもうさく、「オオカミをおろがみたまえるによりて、オオミコもののりたまえるゆえにマイのぼりきつ」ともうす。かれスメラミコトよろこばして、すなわちウナカミのミコをかえして、カミのミヤをつくらしめたまいき。ここにスメラミコトそのミコによりて、ととりべ・とりかいべ・ほむじべ・おおゆえ・わかゆえをさだめたまいき。

口語訳:出雲に到着し、大神を拝み終わって、帰るとき、肥河の中に黒樔橋を作り、仮宮とした。そのとき出雲国造の祖で岐比佐都美という者が、青葉を山のように盛り上げて飾り、その川下に立てて、食事を奉ろうとした。すると皇子が「あの川下にある青葉の山は、山のように見えるが山ではない。あるいは出雲の石クマ<石+囘>の曾宮で葦原色許男の大~を奉斎する祝の大庭だろうか」と尋ねた。連れの王たちはこれを聞いて喜び、見て喜んで、皇子を檳榔の長穗の宮に泊まらせておいて、驛使を都に送って知らせた。この時御子は一夜肥長比賣を召した。ところがその比賣の様子をひそかに見ると、正体は蛇だった。御子はそれを見て恐れて逃げ去った。肥長比賣は恨みを抱き、海を照らして船で追って来た。御子はそれを見るとますます恐れ、山の低くなったところで御船を引き上げて越え、やっと逃げることができた。連れの王たちは復命して、「皇子は大~を拝むことで、ものを言うことができるようになりましたので、報告に参上しました」と告げた。天皇はたいへん喜んで、菟上王をもう一度出雲に戻らせ、神宮を建設させた。またこの御子に因んで鳥取部・鳥甘部・品遲部・大湯坐・若湯坐を定めた。

肥河(ひのかわ)は前【伝九の十五、十六葉】に出た。○黒樔橋は「くろぎのすばし」と読む。「樔」は「巣」と同じで、「簀(す)」の意味の借字である。また「簿(不明:竹網のようなものか)で魚を取るのを樔という」と字書にあるから、直接に「簀」の意味で使ったかも知れない。【「簀」とは普通は竹などを編んだのを言うが、ここでは】細い木を簀のように編み並べてかけたのを「簀橋」と呼んだのだろう。明の宮の段に「船中のセイ(竹かんむりに青)椅(すばし)」とあるのもこれだろう。【セイはレイ(竹かんむりに令)−セイと言って、小さい籠のことだから無関係である。「簀」を誤ったのだろう。甕栗の宮の段に「魚簀」とある「簀」も、一本ではセイの字に誤っている。】「黒」とは黒い木のことだろう。それでここに「木」の字は出ていないが、「くろぎ」と読んだ。【ここは黒い木を言うはずのところだが、単に「くろ」とだけ読むと、「くろきすばし」、「くろすばし」、「くろすのはし」など、どう読んでもしっくりしないからだ。それに「黒木」以外には「黒」と書いた理由も思い付かない。谷川氏は「黒樔橋とは黒い木の丸太をかけ渡して、間に柴などを挟んで造ったのを言い、今も山川などでそう造った橋が多い」と言う。】これは仮宮に通うために渡した橋である。皇太神宮諸雑事記に「天平宝字六年九月十五日、洪水があり、五十鈴川は岸を洗って激しく流れた。そこで度會の郡司が大神宮のすぐ前の川に、黒木の橋を一つ造った」【皇太神宮儀式帳にも「正南の門に伊鈴河がある。・・・橋は、度會の郡司が黒い木で造った」とある。】○假宮(かりみや)は訶志比の宮(仲哀天皇)の段にも「高志の道の口の角鹿(つぬが)に假宮を造って滞在した」と見え、若櫻の宮(履中天皇)の段、穴穂の宮(安康天皇)の段、甕栗の宮(清寧天皇)の段にも見える、書紀では「行宮」と書かれていることが多い。【文選の李善の注に「天子が行く時、留まるところを『行宮』と呼ぶ」とある。】皇極紀には「東宮の南の庭の権宮(かりみや)」ともある。和名抄の古い本に「日本紀私記にいわく、行宮は『かりみや』、今按ずるに俗に言う頓宮である」とある。【出雲風土記の抄(風土記の註釈書)に、出雲国杵築郡に假宮村というのがあるという。譽津別皇子の仮宮を造ったことからこの名があるそうだ。】○仕奉(つかえまつり)。何事でも、上のためにすることを「仕奉」と言うのは古言である。【今俗言に「つかまつる」と言うのも、「つかえまつる」が訛ったのだ。】ここでは造ったことを言う。万葉巻十三【二十九丁】(3326)に「大殿乎都可倍奉而(おおとのをつかえまつりて)」、祈年祭の祝詞に「皇御孫命能瑞能御舎仕奉弖(スメミマのミコトのみずのミアラカつかえまつりて)」、大殿祭の祝詞に「皇御孫之命乃天之御翳日之御翳止、造奉仕禮流瑞之御殿(スメミマのミコトのあめのミカゲひのミカゲとつくりつかえまつれるミズのミアラカ)」などとあり、みな同じである。○出雲國造(いずものくにのみやつこ)、前【伝七の六十七葉】に出た。○岐比佐都美(きいさつみ)は人名である。「岐比佐(きいさ)」は地名か。「都美(つみ)」は山津見などの「津見」である。出雲国風土記に「出雲郡の~名火山(かみなびやま)は・・・曾支能夜(そきのや)の社に坐(い)ます伎比佐加美高日子命(きいさかみたかひこのみこと)の社がこの山嶺にある。そのため~名火山と言う」とある。また同郡の式外社に支比佐(きいさ)の社というのもある。この人を祀っているのかも知れない。【「加美(かみ)」とあるのは「都美(つみ)」を誤ったのだろう。延喜式神名帳によれば伊勢国安濃郡にも奄藝郡にも、比佐豆知(ひさづち)神社がある。よく似た名である。「都美(つみ)」と「豆知(づち)」は意味が通う。】○青葉山(あおばのやま)とは、青葉の木の繁る山を言う。万葉巻八(1543)に「秋の露は移しにありけり、水鳥の青羽乃山の色付(いろづく)見れば」とあり、【「羽」の字は「葉」を連想させる語である。】源氏物語などにもこの語が見える。【これらを名所とするのは誤りだ。】ここでは、食事を奉る際の、眺めを楽しませようとして、仮に山の形に作ったのである。○大御食(おおみけ)。日代の宮の段にも「大御食を献る時云々」、「朝夕の大御食」と見え、書紀の景行の巻に「諸縣(むらがた)の君、泉媛(いずみひめ)が大御食を献るというので、その一族が集まった」、万葉巻一【十九丁】(38)に「遊副川之神母、大御食爾仕奉等(ゆうがわのかみも、おおみけにつかえまつると)云々」、巻廿【二十五丁】(4360)に「於保美氣爾都加倍麻都流等(おおみけにつかえまつると)云々」などが見える。○見山非山は「やまとみえてやまにはあらず」と読む。○石クマ<石+囘>之曾宮(いわくまのそのみや)。クマの字はケイ(土+冂の中に口)と書いたのと同じ意味のようだ。「隅(くま)」のことである。【この字のことは伝十四の四十葉にある。参照せよ。】この宮は、どこのことを言うのか、定かでない。【杵築大社ではなく、別の社のようだ。出雲の国人の説で「杵築大社のことで、『曾』は熊曾などの曾であり、勇猛であることを言う」などと言うのは信用できない。出雲国風土記に「神門郡滑狹(なめさ)郷は郡家の南西八里、須佐能袁命の御子、和加須世理比賣(わかすせりひめ)命がいる。かつて天下を造った大神が、彼女の元に通ったとき、その社の前に磐石(いわ)があった。その上は大変滑らかだった。大~は『滑し磐石(なめしわ)だなあ』と言った。そこで『南佐(なめさ)』と言う」と見え、同風土記抄(風土記の注釈書)に「奈賣佐(なめさ)社は、滑狹郷の神西村にある。大穴持命と須世理比賣命を合わせて祭っている。俗に岩坪という」とある。内山眞龍は「これが石クマの曾の宮ではないか」と言った。思うに、風土記に「磐石があった」と言い、「俗に岩坪と呼ぶ」と言っているなど、特に関連がありそうな気がする。地理的にも「肥の河の河下」というのに合っている。滑狹郷は神門の湖の近くで、肥の河が海に落ちるところだからだ。延喜式神名帳に「同郡、那賣佐(なめさ)神社」がある。今の本は「佐」を「伎」に誤っている。風土記に「那賣佐社」とあるのが良い。斉明紀には「出雲国造に命じて嚴~の宮を造らせた」とあるのは杵築の社のように聞こえるけれども、「嚴~」という表現は珍しい。あるいは「嚴」は「巖(いわお)」の誤りで、この石クマの宮ではないか。「神」の字は「クマ」とは読めないが、石見や淡路の郷名に「神」と書いて「くま」と読む例がある。それとも「巖」の上に「隅」などの字が脱けているのかもしれない。この「嚴~の宮」のことは、試みに指摘しておくだけである。】○葦原色許男大~(あしはらしこおのおおかみ)、この名は伝九【六十一葉】に出た。同じ神を祀っていても、その社によって名が異なる場合が多いから、【大国主命を美和では「大物主神」と呼び、建御雷命を香取では「齋主(いわいぬし)の神」というたぐいだ。】この石クマの曾の宮では、もっぱらこの名で祀っていたということだろう。【延喜式神名帳に上記の「那賣佐社」の次に並べて「同社に坐(ます)和加須西利比賣(わかすせりひめ)神社」がある。大国主命の名は五つあるうち、須世理毘賣との婚姻の時は、須佐之男大神の言葉にも「葦原色許男」と呼んでいるから、この宮が那賣佐社に当たるのなら、この名で祀っていることも由縁がありそうだ。】ここで皇子がこう言ったことからすると、この宮は、上代には世に聞こえた大社だったのだろう。○以伊都玖(もちいつく)は前に出た。【伝六の六十六葉】○祝(はふり)。伊邪河の宮の段にも「御上(みかみ)の祝(はふり)がもちいつく天之御影神」とあり、そこで言った。【伝廿十二の五十八葉。○師はここの「之祝」を「祝之」の誤りかと言ったが、このままでもおかしくはない。】○大廷は【真福寺本では「廷」を「庭」と書いている。どちらでも良い。古い書物では、朝廷も朝庭と通わせて書いている。】「おおにわ(旧仮名オホニハ)」と読む。【和名抄に美作国の郡名「大庭」を「おおんば」とある。相模国高座郡の郷名、但馬国二方郡の郷名もそうだ。それは「ニハ」の「ニ」を音便で「ン」と言ったもので、崩れた言い方である。書紀の訓などで「おおば」と言い、後世にもそう言うのは、またその「おおんば」の「ん」も省いたのだ。音便の「ン」の次の字は清音でもみな濁るのが通例なので「ハ」を濁ったのだが、後に「ん」を省いて言うようになっても、濁りだけが残った。だから正しい古言では「おおにわ」と読むべきである。すべて「〜場」と言う「ば」は、みなもとは「ニハ」だったのが、音便で「ンバ」と言い、後には「ン」を省いたものだ。「ば」という言葉は古い時代にはなかった。万葉巻十(歌番不明)に「渡伐(わたりば)」という語があるが、「伐」は誤字と思われる。巻十二(3048)に「雁羽之小野(かりばのおぬ)」とあるのは地名だ。また(512)「穂田乃刈婆加(ほだのかりばか)」などと言う句もあるが、これは「場」の意味ではない。】書紀の清寧の巻に「臣・連を大廷に(招いて)宴を催した」、推古の巻に「大唐国の信物(土産)を庭中(おおにわ)に置いた」、「南の門から入り、庭中(おおば)に立った」、「南庭(おおば)で殯(もがり)をした」などとあり、舒明の巻に「庭中に迎え、大殿に引き入れた」、孝徳の巻に「庭(おおば)で再拝した」、「中庭」、「庭内」などともある。齋宮式にも「大垣のまわりおよび大庭を掃除し云々」とある。とすると「大庭」とは宮廷でも役所でも、また個人の家でも、門の内で建物の正面付近の、前の庭を言うのだろう。紫宸殿の大庭というのも見える。【今の世の玄関前、白州などという場所のようなものだ。西宮記に「大庭は建禮門の巽(東南)の方、七、八丈ほど離れたところにある」というのは、他に「大庭」と呼ぶところがあったらしい。】いにしえには、祝の大庭には、神を祭るため榊などを立て並べて飾るところがあったのだろう。ここの青葉山もそれかと尋ねたのだろう。○「所レ遣2御伴1王等(みともにつかわさえたるミコたち)」は、上記の曙立王と菟上王のことである。○聞歡見喜(ききよろこびみよろこび)は、皇子が物を言ったのを聞き、またその様子を見て喜んだのだ。○檳榔之長穗宮(あじまさのながほのみや)。「檳榔」は「あじまさ」と読む。地名のようだが、他には物の本に見えない。出雲の国内だろうが、どのあたりだろうか、定かでない。【同国の人の説で、「垂仁天皇の皇子が大社に詣でたとき、天穂日命の十五世、來日田維(きひたすみ?)命が迎えて、肥の河に黒樔橋を渡し、檳榔の木で仮宮を造って大御食を奉った。その宮を長穗の新宮と言った。昔その地は長穂邑と言ったが、その後は「にいみや村」と呼ぶようになり、今は音読みして新宮村(しんぐうむら)と言い、神門郡にある」というのは本当かどうか、さらに調べるべきだろう。】あるいは楯縫郡にあるだろうか。後に考察する。また檳榔(びんろう)の葉は六、七尺ほどもあるものがあってたいへん長く、上方に立つように延びる物だから、「檳榔」は「長穂」の枕詞になったかも知れない。【高津の宮の段の歌に「阿遲麻佐能志麻母美由(あじまさのしまもみゆ)」とあるのは淡路での歌だから別だ。しかし同じ地名の例ではある。和名抄には、越前国今立郡の郷に「味眞は『あじま』」というのも見える。また天智紀に「狹井の連檳榔」、続日本紀三に「若犬養の宿禰檳榔」という人名もある。檳榔というものは、和名抄には「兼名苑にいわく、檳榔は、葉が樹のてっぺんに集まって(実が)十余房ある。一房に(種子が)数百ある。本草にいわく、檳榔子は一名ノウ(くさかんむり+納)子という」とあり、和名は書いていない。続日本紀卅四に「檳榔扇」、齋宮式の年料供物に「檳榔の葉二枚、戸座所の料」など見える。また「檳榔毛(びろうげ)の車」というのがある。小右記に「長和三年十二月廿五日、左大臣の命にいわく、『檳榔は大変手に入れにくいものだ。諸卿は唐車を用いているとしても、それについては聞いたことがないだろう。どうだ』、答えて『上古に檳榔毛の車というのがありましたが、毎年は張り替えたりしませんでした。損壊の度に替えていたのでは仕方がないでしょう。毎年張り替えるから手に入らないものになったのです。唐車に至っては、とても感心できません』」とある。ある人いわく、「びりょう毛の車などの『びりょう』は蒲葵というものだ。それを『びりょう』と言うのは『比閭』の音である。だが比閭は今言う『しゅろ』の木で檳榔ではないのに、いにしえにも誤ってシュロを蒲葵としたことがあり、わが国でも蒲葵を比閭として『びりょう』と呼び、檳榔の字を使ってきた」と言った。思うに、この説はなるほどもっともだ。しかし「びりょう」を比閭の音とするのは誤っている。「びりょう」は「びろう」とも言うから、つまりは「檳榔」の音読みである。和名抄にも「檳榔は、わが国の音は旻朗(びんろう)」と言っている。いにしえに「あじまさ」と言ったのは檳榔の字が当てられたけれども、実は檳榔か蒲葵か決定できない。しかし中昔に檳榔扇、檳榔毛などと言ったのも、実は蒲葵だったようだから、「あじまさ」も蒲葵だろうか。今の薩摩に檳榔嶋というのがあり、そこに生えているのも蒲葵だそうだ。檳榔とシュロと蒲葵は、似たり寄ったりのもので、漢国でも混同されていることがあるから、わが国でいにしえにその漢名を当てたときから、混同していても不思議はない。ところで土佐国の海にも「びろう嶋」というのがあり、人は住んでおらず、山はすべてびろうの木に覆われているという。】○坐は「ませまつりて」と読む。【「まつり」は「奉り」だ。】書紀の清寧の巻に「柴の宮を建てて、仮にそこに安置(ませまつり)、驛(はゆま)を飛ばして知らせた」とあり、欽明の巻に「小墾田の家に安置(ませまつる)」、敏達の巻に「その仏像二躯を請(ませて)」、【「請」を「ませ」と読んだ例はこの他にもある。】孝徳の巻に「仏像四躯を塔の内に使レ坐(ませ)」などと見え、万葉巻十五【三十四丁】(3749)に「比等久爾々伎美乎伊麻勢弖(ひとくににきみをいませて)」ともある。「ませ」は「使レ坐(まさせ)」の縮まった古言である。○驛使(はゆまづかい)は前【伝廿三の二十八葉】に出た。皇子が物を言ったことを、早く都に知らせようとしたのだ。○一宿は「ひとよ」と読む。【記中には、「一夜」をこう言った例がところどころある。】○肥長比賣(ひながひめ)の「肥」の字は音を用いたのか、「こえ」と読むべきか、決められない。そこで一応古い読みに従っておく。【「長」は訓なので、上も「ひ」なら「日」、「氷」などの字を書くのが普通だが、「肥」の字を書いて音読みするのは疑わしい。それなら「以レ音」といった訓注をするのがほとんどだ。しかし、一続きの名に音と訓が混在している例もなきにしもあらずで、肥河などにも「以レ音」の注はない。それに「こえなが」という名は聞き慣れぬ気もするから、「ひなが」と読んできたのだろう。】名の意味は思い付かない。【「こえなが」なら、正体は蛇だと言うから、体が肥えて長かったという意味かも知れない。「ひなが」だったら地名ではないだろうか。延喜式神名帳に、「出雲国神門郡、比那神社」というのはある。神名は志那都比古と、また級長津彦とも同じである。】○竊伺は「かきまみたまえば」と読む。この言葉は前【伝十七の六十一葉】に出た。○蛇は、ここでは「おろち」と読む。この動物のことは前【伝九の廿二葉、伝十の三十六葉】で言った。そもそもこの蛇が美人の姿で皇子と交合したのは、大~の心なのだろう。【さらに後で言う。】○遁逃(にげたまう)は、後の文から考えて、海路で逃げたのだ。○患は、ここは「うれたみて」と読む。八千矛神の歌に「宇禮多久母(うれたくも)」とある。そこ【伝十一の十四葉】で言った。○「光2海原1(うなばらをてらし)」、上巻にも「有2光レ海依來~1(うみをてらしてよりくるかみあり)」とあった。【伝十二】○自レ船(ふねより)。書紀の應神の巻に「浮船(ふねよりして)」、仁徳の巻に「浮江幸2山背1(かわふねよりやましろにいでまし)」、推古の巻に「泛海往(ふねからにゆく)」などがある。倭建命の段の歌に「阿斯用由久(あしよゆく)」【「自レ足行(あしよりゆく:徒歩で行く)」である。】万葉巻十三【二十五丁】(3314)に「人都末乃馬従行爾、己夫之歩従行者(ひとつまのうまよりゆくに、おのつまのかちよりゆけば)」などとある「より」も同じだ。今の世では「船にて」、「馬にて」、「徒(かち)にて」などと言うが、雅言ではみな「より」と言った。○u(ますます)。万葉巻五【四丁】(793)に「伊與余麻須万須(いよよますます)」、巻十【三十八丁】(2132)に「彌u々爾(いやますますに)」とある。○山多和(やまのたわ)。契沖の「河社」に「今も山里の人は、山が低くたわんだようになったところを『たわ』と言う」とある。万葉巻十八【三十三丁】(4122)に「夜麻能多乎理爾(やまのたおりに)」、巻十九【十六丁】(4169)に「山乃多乎里爾立雲乎(やまのたおりにたつくもを)」、巻十三【十六丁】(3276)に「高山峯之手折丹射目立(たかやまのみねのたおりにいめたてて)」などとある「たおり(旧仮名タヲリ)」と同じだ。巻八【二十三丁】(1470)、巻十【四十丁】(2165)に「山之常陰(やまのとかげ)」とあるのも【「常」は借字で、】「とおかげ(旧仮名トヲカゲ)」であって、たわんだ陰だ。【「たわわ」と「とおお(旧仮名トヲヲ)」とが通うことは、伝十四の六十五葉で言った。】○「引=越2御船1(ミフネをひきこし)」とは、船を陸に揚げて引き、山を【「たわ」のところから】向こうへ越させることを言う。書紀の欽明の巻に「三十一年秋七月、高麗の使いが近江に来た。許勢の臣猿と吉士赤鳩を遣わして、難波津から出発させ、狹々波山(ささなみやま)から船を引き越させて、その船を装飾し、近江の北山に迎えさせた」とある。【これも船を難波で用意し、陸地を曳いて狹々波山を引き越し、近江の湖に行かせたことを言う。】万葉巻一【二十二丁】の藤原級の役民の歌(50)に「真木佐苦檜乃嬬手乎、物乃布能八十氏河爾、玉藻成浮倍流禮、・・・泉乃河爾持越流真木乃都麻手乎(まきさくひのつまでを、もののふのやそうじがわに、たまもなすうかべながせれ・・・いずみのかわにもちこせるまきのつまでを)云々」というのも、「持ち越せる」とは宇治川から泉川(木津川)までを陸路で運んだことを言う。「越す」というのは、これらの例で分かる。ここで皇子が逃げたのは、出雲の国中の入り海だろうか、それとも北の大海だろうか。長穂の宮の地が分からないので、決められないが、事の様子から推測すると、その宮は出雲郡か楯縫郡の北面のところにあり、逃げるにはその北の大海を東の方へ進んだのだろう。ところが蛇も船で追ってきたので、船共々陸に上がり、出雲・楯縫・秋鹿郡の辺りの山を南へ引き越し、その南面の入り海にまた船を浮かべて、さらに東へ進んだのだろう。【はじめに逃げたのが入り海だったら、船を引き越すのは納得できない。入り海から陸に上がると、その先には海がないので、船を棄てて陸路を逃げるのが当然だ。船を引き越すというのは、越した先でまた船を浮かべるためだろう。この段は、出雲国の地理を知らなければ、詳しく理解することはできない。出雲国は、北面は大海で、出雲郡はその海が西面に巡っている。だがまた国中に入り海があり、それは東から西へ細長く入った海で、その北面に島根・秋鹿・楯縫の三郡が東から西へ続いており、その西が出雲郡、北は大海である。入り海の南面は意宇郡で、西は出雲郡に続き、入り海はそこで終わっている。内山眞龍が言うところでは、この海は上代には出雲郡の南を通って西の大海に続いており、嶋根郡から出雲郡まで四郡が離れた島だったらしいという。そうでもあっただろう。ただこの段のことは西の海へ通り抜けたかどうかはともかく、後のような地形だったとしても同じことである。】○行也の「也」の字は諸本にない。ここは真福寺本によった。○覆奏(かえりこともうす)は皇子を連れて行ったのである。○大御子(おおみこ)。ここだけ「大」の字をつけたのは、天皇に言った言葉だからだろう。【一般に天皇について「大御〜」と言うことは普通だが、「大御子」と言うのは珍しい。】○「物詔(もののりたまう)」とは「物言う」を尊んで言う古言である。【「のりたまう」と言うのが正しいが、ここでは「り」を省いて「もののたまう」と読んでも間違いではないだろう。】○「返2菟上王1(ウナカミのミコをかえして)」は、再度出雲国に遣わしたのである。ここは出雲国から上ってきたから「返し」と言ったのだ。【この時は、曙立王は遣わさなかった。】○「令レ造2神宮1(かみのみやをつくらしめたまいき)」の神宮は杵築の宮を言う。「令」の字は、諸本に「命」とあるが、ここでは延佳本によった。さきにこの大~が夢で教えた言では、「我が宮を修理(つくれ)」と言うのだから、その時すぐに造るのが本当だろうが、それより前にまず皇子を拝ませに遣ったのは、宮を造ることも当然だが、「本当に徴があるのか」とうけい試み、こうやって霊験があったことを聞いた後にこの宮を造ったことから、はじめには夢の諭しをまだ疑わしく思っていたのだろう。すると肥長比賣が蛇の姿となってこの御子を追ったのは、あるいはこの疑いの心を大神が怒ったためではないだろうか。畏れ多いことだ。【もっとも、これらのことの真相がどうだったかは、分からない。ここまで測り知ることもできないが、上記の疑いと肥長比賣の奇怪な出来事を考え合わせて、思い付いたことを述べただけだ。】○鳥取部(ととりべ)。以前、鵠を捕らえた人に鳥取造の姓を与えたが、【書紀、新撰姓氏録にも見えて、前に引いた。】それだけでなくこの部を定めたのだ。【だからかの鳥取造は、この部の長にしたわけだ。】和名抄に「備前国赤坂郡、鳥取郷」、延喜式神名帳に「伊勢国員辨郡、鳥取山田神社、鳥取神社」がある。これらもこの部に因む地名か。この他、上記の鳥を追い巡った各地にもこの地名があり、前に出しておいた。姓に負ったのは、新撰姓氏録に「鳥取部連」【前に引いた。】鳥取連、鳥取などがある。みな天湯川板擧(あめゆかわたな)の末裔である。【崇峻紀に「捕鳥(ととり)部の萬(よろず)」という人がある。これはこの氏の人か、またはこの部の人かも知れない。続日本紀廿六に「鳥取部の與曾布(よそう)、鳥取連大分(おおきだ)」などの名が見える。これらは姓である。】○鳥甘部(とりかいべ)。「部」の字は諸本にない。ここは延佳本によった。「甘」は「かい」と読む。書紀には「鳥養部」と書いてある。いにしえは「〜養」の「養(かい)」に、「甘」の字を使うことが多かった。記中では「御馬甘(みまかい)」、「猪甘(いかい)」があり、書紀にも「鷹甘(たかかい)」、「猪甘」があって、他の書物にもたくさん見える。【そもそも「かい」にこの字を使うのはどういう理由なのか定かでないが、あるいは詩経の小雅に「以て甘雨を祈る」とあり、「正義」に「物を長ずるのを甘とし、物を害するのを苦とする」と言っている意味だろうか。また「カン(食+甘)」を字書で見ると「音は甘、餌である」とあるから、この字の偏を省いた字か。しかし古い書物では「前(くま)」、「椅(はし)」など、字の意味に関係なく使った例もあるから、これもそのたぐいだろうか。】この部は、最初はかの捕らえた鵠を飼う人を言い、また別のことにもこの名を負わせて定めた場合もあるだろうか。いずれにせよ、その鵠に因む名ではある。書紀の雄略の巻に「養鳥人(とりかいびと)」があり、「鳥官(とりのつかさ)の鳥が菟田の人の犬に噛まれて死んだ。天皇は怒って、その人の顔に入れ墨して鳥養部とした」、【「鳥官」とは御饌のための鳥を養う部署かとも思ったが、天皇の怒りようから見ると、愛玩用の鳥なのだろう。】それに続く記事に「直丁等・・・鳥養部とした」とあるのは、鳥を飼う人を言う。和名抄に「大和国添下郡、鳥貝【とりかい】郷」がある。【「貝」は借字である。万葉巻十二(3019)に「取替川(とりかいがわ)」とあるのもここである。】この他にも、「鳥養」という地は各所にある。○品遲部(ほむじべ:現代表記では、ほんじべ)。この部を定めたことは既に出たが、また改めて言ったのは、それとは別にも定めたのか、それともこの御子に因んで定めた部を総括して言ったのか。○大湯坐若湯坐(おおゆえ・わかゆえ)。これも既に出た。【伝廿四の五十六葉】ただし前に出たのはこの御子を育てる役目の人を言い、ここは別にその名を付けて定めたように思われる。書紀の雄略の巻に「湯人廬城部(いおきべ)の連武人(たけひと)【湯人、これを『ゆえ』と読む。】」、当時この役を担当した人のことらしい。また孝徳の巻に「湯部」とある【十五丁】のも「ゆえ」と読むべきで、これもこの部を言うようだ。また姓にもなっている。天武紀に「十三年十二月、大湯人連、若湯人連に姓を与えて宿禰とした」【続日本紀八に「若湯坐連、屋主らに宿禰の姓を与えた」とある。】新撰姓氏録に「若湯坐宿禰は石上と同祖、若湯坐連は膽杵礒丹杵穂(いきしにぎほ)命の子孫である」【膽杵礒丹杵穂命は、旧事紀によれば饒速日命のまたの名である。】とあって、大湯坐宿禰はない。【続日本紀卅一に「遠江国の人、若湯坐の龍麻呂」という人が見える。】和名抄に「上総国周淮郡、湯坐郷」がある。

 

又隨2其后之白1。喚=上2美知能宇斯王之女等1。比婆須比賣命。次弟比賣命。次歌凝比賣命。次圓野比賣命。并四柱。然留2比婆須比賣命。弟比賣命。二柱1而。其弟王二柱者。因2甚凶醜1。返=送2本土1。於レ是圓野比賣。慚言同兄弟之中。以2姿醜1。被レ還之事。聞レ於2隣里1。是甚慚而。到2山代國之相樂1時。取=懸2樹枝1而。欲レ死。故號2其地1。謂2懸木1。今云2相樂1。又到2弟國1之時。遂墮2峻淵1而死。故號2其地1謂2墮國1。今云2弟國1也。

訓読:またそのキサキのもうしたまいのまにまに、ミチノウシのミコのミむすめたち、ヒバスヒメのミコト、つぎにオトヒメのミコト、つぎにウタコリヒメのミコト、つぎにマトヌヒメのミコト、あわせてヨハシラをめさげたまいき。しかるにヒバスヒメのミコト、オトヒメのミコト、ふたばしらをとどめて、そのオトミコのふたばしらは、いとみにくかりしによりて、モトツクニにかえしおくりたまいき。ここにマトヌヒメ、「おなじきハラカラのなかに、かおみにくきによりて、かえさえること、ちかきサトにきこえんは、いとはずかし」といいて、ヤマシロのクニのサガラカにいたりませるときに、キノエダにとりさがりて、しなんとぞしたまいける。かれそこのナを、サガリキといいき。いまはサガラカという。またオトクニにいたりませるときに、ついにフカキフチにおちいりてぞうせたまいぬる。かれそこのナを、オチクニといいしを、いまはオトクニというなり。

口語訳:また皇后(沙本毘賣命)が言い残した言葉に従って、美知能宇斯王の娘たち、比婆須比賣命、弟比賣命、歌凝比賣命、圓野比賣命の四人を召し上げた。しかし比婆須比賣命と弟比賣命の二人だけを手元に留め、その妹たち二人は容貌が醜かったため、本国へ送り返した。すると圓野比賣は「同じ姉妹の仲で、顔が醜いからと言って返されることが、近隣の里に聞こえるのは、とても恥ずかしい」と恥じ怨んで、山代の相楽に至ったとき、木の枝で首を吊って死のうとした。それでそこを「懸木」と言った。いまは相楽と言う。また乙訓に至ったとき、深い淵に落ちて死んだ。そこでそこを「堕国」と呼んだ。今は乙訓という。

其后(そのきさき)は、以前兄の沙本毘古王とともに、その稲城で亡くなった沙本毘賣命を言う。○隨―白は「もうしたまいのまにまに」と読む。そのことは前【伝廿四の五十七葉】で言った。またこの丹波の女王たちのことを言い残したことも、その段【同五十九葉】に見える。○比婆須比賣命(ひばすひめのみこと)。前に出た。【伝廿二の七十葉】○弟比賣命(おとひめのみこと)も前に出た。【伝廿二の七十葉、伝二十四の五十九葉】○歌凝比賣命(うたこりひめのみこと)はここにだけ出ていて、前にも後にも出ず、書紀にも見えない。そこで思うに、これは圓野比賣の一名だったのを、誤って別の一人と伝えたのだろう。その理由は次に述べる。名の意味は「奇偉(うたて)心」ということだろう。【穴穂の宮の段に「宇多弖物云王子(うたてものいうみこ)」とあり、書紀の武烈の巻に「奇偉」を「うたて」と読んでいる。】その理由も次に言う。「心」を「こり」と言う例は、書紀の神代巻に「田心姫命」を「たこりひめのみこと」と読んでいる。また万葉巻廿の東人の歌(4390)に「妹がここり」ともある。【田心姫についてこの宗像三女神を書紀で「今海北の道中にいる。『道主貴(みちぬしのむじ)』と呼ぶ」とあるのと、この女王たちの父、「丹波の道主命」と名が共通しており、また丹波は、いにしえには丹後を含む地名だったから、「海北の道中」というのも共通点だ。圓野比賣が返されたことも、かの三女神を「筑紫の洲に降らせ、教えて『お前たち三神は、道中に降って、そこに居よ』云々」とあるのと少し似ているから、あれこれが田心姫と紛れて、歌凝比賣という名を伝えたのではあるまいか。】○圓野比賣命(まとぬひめのみこと)は前【伝廿二の七十葉】に「眞砥野比賣命」と出ていた。○并四柱(あわせてよはしら)。かの皇后が言ったのは、単に「兄比賣、弟比賣」とあって、上記の名は見えない。全体にこの女王たちの名はたいへん紛らわしい。伊邪河の宮の段で初めて出たときは「美知能宇志王が丹波の河上の摩須郎女を娶って生んだ子は比婆須比賣命、次に眞砥野比賣命、次に弟比賣命、次に朝廷別王【四柱】」とあった。【ここでは女王は三柱である。】この段のはじめには「丹波の比古多々須美知能宇斯王の娘、氷羽洲比賣(ひばすひめ)命を娶って、・・・またその氷羽洲比賣命の妹、沼羽田之入毘賣(ぬばたのいりびめ)命を娶って、・・・またその沼羽田之入毘賣命の妹、阿邪美能伊理毘賣(あざみのいりびめ)命を娶って云々」とある。【三柱である。】だがかの皇后が言い残した言葉には、「旦波の比古多々須美知能宇斯王の娘、名は兄比賣、弟比賣二女王」とある。書紀には「十五年春二月、丹波の五人の娘を召して使った。第一を日葉酢媛(ひばすひめ)といい、次に淳葉田瓊入(ぬばたにいり)媛といい、第三に眞砥野(まとぬ)媛、次を薊瓊入(あざみにいり)媛、次に竹野(たかぬ)媛と言った。秋八月、日葉酢媛を皇后に立て、皇后の妹たち三人も妃とした。ただ竹野姫だけは姿形が醜かったので、もとの国に返した」とある。これらの名前も数も姉妹の順序もすべて違っており、ここに挙げたのも互いに違っている。どれをどれと決めるべきか、唯一の結論は出そうにないが、つくづく考えて思い付いた考えがある。それは、比婆須比賣命はどの伝えも同じで紛れもなく、兄比賣というのもこの人だろう。だが弟比賣というのは一人の名前でなく、沼羽田之入毘賣と阿邪美能入毘賣を合わせて言った名だ。というのは、この段の初めと書紀には、この二人の名があって、弟比賣というのはなく、弟比賣の名があるところには、この二王の名がない。つまり姉を兄比賣と呼んだのに対して、妹は何人でもまとめて弟比賣と言った一例で、【皇極紀に「長女(えひめ)少女(おとひめ)」とあるのと同じだ。】それら二人もいずれも「弟比賣」と呼んだのだ。【この二王はいずれも妃になって、同列の存在になったから、それまでどちらも弟比賣と呼んでいた習慣のまま語り伝えたのだろう。】すると、兄比賣・弟比賣と言ったのは、圓野比賣を含めた三人を弟比賣と呼んだのだ。【それなのにそこに「二女王」とあった理由は、そこで言った。】それを伊邪河の宮(開化天皇)の段とここで、圓野比賣を別に挙げたのは、この人だけが本国に帰されて、姉妹から離れた人だったので、別に伝えたのだ。特にここでは、次にこの人のことを詳しく言うから、その名を挙げないで話が進まない。またこの段の初めにだけ沼羽田比賣と阿邪美比賣の名を出したのは、それぞれが生んだ子の名を挙げるところだから、弟比賣と一まとめに呼ぶと、それぞれの母が分からず、同じ腹のように思えるからだろう。だがこの三人の順序は、伊邪河の宮の段では「眞砥野比賣、次に弟比賣【これが沼羽田比賣と阿邪美比賣の二人だ。】」と言ったのに、ここでは反対に弟比賣を先に挙げている。この違いは、そもそもこの女王たちの順序は書紀の通りで、第一が比婆須比賣、次に沼羽田比賣、第三に圓野比賣、第四が阿邪美能入毘賣なのだろう。それをここで弟比賣といっているのは、第二の沼羽田比賣と第四の阿邪美比賣を合わせて言っているから、第三の圓野比賣より前に言っても後に言っても、筋は通る。だから伊邪河の宮の段では眞砥野比賣を先に挙げ、弟比賣を次に書いた。それは弟比賣というのは、姉に対して妹は誰でもそう呼んだからだ。【これも詳細に言うなら沼羽田、眞砥野、阿邪美と言うべきなのだろうが、上記のように沼羽田、阿邪美は妃になって、宮中でもいずれも弟比賣と呼んでいた習慣を伝えたのであり、その弟比賣という名の内に、第二の人も、第四のところに含まれたのだ。】ここでは、その弟比賣である二人は京に留まって妃になったから、皇后の比婆須比賣と並んで先に書き、圓野比賣は一人だけ国に返されたので、一番後に書いたのである。【伊邪河の宮の段には単に美知能宇斯王の御子を挙げたのだから、弟比賣はその名から次に挙げていたのだが、ここでは京に留まった人と返された人を別々に言うところであって、上記の段とは記述の趣旨が違う。だから違っているように見えるのだ。】こういうところを見ても、古伝のみだりでないこと、この記がさかしらな書き換えをしていないことが分かり、たいへん貴いことである。「并四柱」というのは、本来は比婆須比賣、沼羽田比賣、阿邪美比賣、圓野比賣で四柱という伝えだったのだろうが、ここでは弟比賣を一人とし、歌凝比賣を別の一人として、四柱と言ったのは、伝え誤ったのだろう。歌凝比賣というのは圓野比賣の一名だろうと言うことは既に言った。そのことは、後でも言う。【書紀にはこの四柱の他に竹野媛という名があって「五柱」としている。これも竹野媛というのは、この記の歌凝比賣と同様、圓野比賣の一名だったのが紛れて別の一人となったので、実際は四人だったのだろう。その原因は、書紀に「丹波道主命は、一説では彦湯隅王の子であるとも言う」とあるのと、伊邪河の宮の段に「丹波の大縣主の娘、竹野比賣」という名があって、その生んだ子が「比古由牟須美命」というのを考え合わせると、竹野比賣というのは道主命の祖母の名で、国も同じく丹波であること、かの歌凝(うたこり)の「たこ」と竹野の「たか」とは音が通うため、あれこれのことが混雑して、歌凝比賣の名が紛れて竹野比賣になったのだろう。だから書紀の竹野媛も実は圓野比賣である。なぜかと言うと、本国に送り返されたのは、この記では圓野比賣だけである。三女を妃としたとあっても、眞砥野媛には生んだ子がない。本国に返された竹野媛に違いない。旧事紀には「眞砥野媛は磐撞別(いわつくわけ)命と稻別(いなわけ)命を生んだ」とあるけれども、取るに足りない。この人たちの母はこの記でも書紀でも他の妃であり、眞砥野媛でないのに、みだりな私説としてこう書いたものだ。】上記のように定めてみると、それぞれの段で違ったことを言っているようでも、おのおの理由のあることで、実はみな同一のことである。詳細に考えてみるべきである。○喚上は、師が「めさげ」と読んだのに従う。この言葉は明の宮の段、高津の宮の段にも見える。万葉巻五【二十六丁】(882)に「波流佐良婆奈良能美夜故爾桃イ宜多麻波禰(はるさらばならのみやこにめさげたまわね)」とある。【「めさげ」は「めしあげ」の縮まった形で、「差し上げ」を「ささげ」、「かき上げ」を「かかげ」と言うのと同格である。】○「留2比婆須比賣命弟比賣命二柱1(ひばすひめのみこと・おとひめのみことふたばしらをとどめて)」は、弟比賣を一人に数えた誤りである。前に三人がともに子を生んだとあるのに、どうして二人と言うだろう。【伊邪河の宮の段に男王の朝廷別王も入れて「四柱」と注したのも、弟比賣を一人としたための誤りで、実は子の数は五人だっただろう。これはみな名を数えて後世の人が誤って書いたのだろう。初めからの伝えではないと思われる。】ここにこう書いてあるので、弟比賣が一人の名でないことは、いよいよ明らかである。○弟王二柱(おとみこふたはしら)とは歌凝比賣と圓野比賣のことを言っているようだが、歌凝比賣は実は圓野比賣のことで、これは一人だから、やはり誤りである。この次に本国に帰ることを言っているのに、圓野比賣のことだけが語られていて、歌凝比賣のことは一言も出て来ない。本当に二人が別人だったら、そのうちの一人のことを言う時に、「そのとき歌凝比賣は云々」と、その結末まで言わなければならないだろう。それを一言も言わないのは、実際は圓野比賣の他には、歌凝比賣がいなかったからである。【歌凝比賣について言うことがなくても、単に「(圓野比賣が死んだ後)歌凝比賣は丹波に帰った」とでも言うのが普通だ。】書紀でも、丹波に返されたのは一人だけだった。○凶醜は「みにくき」と読む。【師は「しこなる」と読んだが良くない。】上巻に石長(いわなが)比賣を「その姉は醜かったので見て恐れ、(大山津見のもとに)返した」とある。【伝十六の二十七葉】○本土は「もとつくに」と読む。上巻や高津の宮の段、近つ飛鳥の宮(顕宗天皇)の段に「本國」とあるのと同じである。○慚言。この「慚」の字は読まない。この時の比賣の言葉に「慚(はずかし)」と言っているからだ。【語る言葉に「はずかし」と言えば、その前に「はじて」と言わなくても、その意味はあるものだ。それを更に言ったら語が重なって煩わしいのに、この字を書いたのは、漢文を書く上でのことである。】○同兄弟は「おなじきはらから」と読む。【「同」の字も合わせて「はらから」と読むこともできるが、それは兄弟が同じ待遇を受けたときのことで、ここは一人だけが違った処遇をされているので、「同」の字も読まない方がいいだろう。】○姿は「かお」と読むのが一般的だ。○以は「よりて」と読む。【前に「因(よりて)」とある。】○隣里は「ちかきさと」と読む。「となりのさと」と読んでも悪くはない。書紀【第二】では、この二字を「さとどなり」、あるいは「となりざと」と読んでいる。【ただし、「となり」は「戸並び」が縮まって「り」と言ったのであって、もともと家が並んでいる状態について言う。国や里などに言うのは、それから転じたのである。】○甚慚は「いとはずかし」と読む。上巻にも「甚サク(りっしんべん+乍)(いとはずかし)」とあった。○取懸は延佳が「とりさがる」と読んだのが良い。万葉巻十六【無心所著の歌】(3839)に「吉野乃山爾、氷魚曾懸有、懸有反、云2佐我禮流1(よしぬのやまに、ヒオぞさがれる。『懸有』は反(かえ)して『さがれる』と読む。(これは漢字の発音表記とやや違い、『懸有』の二字に、その後にある仮名表記『佐我禮流』をそのまま適用する意味である)」と見え、和名抄に「懸疣は『さがりふすべ(大きな瘤のようなものか)』」ともある。○欲死は「しなんとぞしたまいける」と読む。このように首を吊ったのに死ななかったのは、従者などが止めたからだろう万葉巻十六(3786などの詞書き)に「櫻兒(さくらこ)は・・・林の中に尋ね入り、樹に懸って經(わな)き死んだ(縊死した)」とある。○懸木。これも「さがりき」と読むのがよい。【「かかりき」などと読むと、「さがらか」に訛ったというのとは縁遠い。】この事件は、おそらく比賣を送る従者が大勢いたはずなのに、木の枝にぶら下がるまで何もせずにいたとは思えないから、「欲」の字は「取懸」の前にあるような意味に取るべきである。つまり首を吊ろうとして木に近づいたのを、貴人には珍しい振る舞いだったので、(危ないと気付いて)未然に防いだのだろう。その木にぶら下がるには至らなかったけれども、その木を「さがりき」と名づけたというのは、ありそうなことだ。それがそのまま地名になったということだ。○「今云2相樂1(いまはサガラカという)」。「り」は「ら」、「き」は「か」と通音だから、こう訛ったのだ。和名抄に「山城国相樂郡【さがらか】、相樂郷(さがらか)」とあり、延喜式神名帳に「同郡相樂神社」【書紀の訓に「さがら」とか「さはら」とかあるのは、また訛ったのだ。今も「さがら」と言う。また相樂村というのもあるが、そこは今でも「さがらか」と言うとかいう話だ。】書紀の欽明の巻に「高麗の使い・・・山背国の相樂郡に館を建てて云々」、万葉巻三【五十九丁】(481)に「山代乃、相樂山乃(やましろの、さがらかやまの)云々」とある。○峻淵。「峻」は「浚」を誤ったものか。【「浚」は「深」だからだ。「峻」は山の形容に使うが、淵などには使わない。「峻瀾」などとは言うが、それは高いことを言うから別である。それとも「おそろしい」という意味で言ったのか。それなら「かしこき」と読む。しかしやはり本来の意味には遠い。師は「ふかき」と読んだが、「峻」の字ならそうは読めない。和名抄には「山城国久世郡、竹淵郷は『たかふち』」とある。山城志に「綴喜郡禅定寺村に、建藤神社があり、あるいは竹淵とも書く。これはいにしえの綴喜郡竹淵郷である」とある。これを取ると「たかふち」という淵の名によるかとも思ったが、弟國というのと地理が合わない。あれこれ考えたが、「峻」では読みようがない。それに「深い」という意味なら、そのまま「深」と書くべきで、「浚」もこの記の書き方に合わないが、】「ふかき」と読むのが妥当だろう。○堕は「おちいりて」と読む。【誤って落ちたのでなく、死のうとしてわざとである。】上記の歌凝という名は、手弱女がこうもおぞましいことを考えて、自ら死を選んだことを「奇偉(うたて)心」と言ったのだろう。するとこの名は、死後に世人が呼んだ名だろう。このことは書紀には「竹野媛だけは、顔形が醜かったので、本国に返された。そのことを恥ずかしく思い、葛野に至ったとき、自分で輿から落ちて死んだ。それでそこを堕國と言った。今は訛って弟國と言う」とだけあって、相樂のこともなく、淵に落ちたことも見えない。しかし単に輿から落ちただけでは死ぬはずもないから、やはり輿から淵に落ちたのだろう。【この記には「輿から落ちた」とは書いてないが、本当に輿から落ちたのだろう。というのは、従者は前に媛が相樂で自殺を図ったことを知っているから、気をゆるめることもなく、目を離すこともなかったはずだ。だが突然輿の上から淵に飛び込んだとすれば、彼らも気付く暇がなかっただろうからである。】○弟國は和名抄に「山城国乙訓郡【おとくに】」とあり、延喜式神名帳に「同郡、乙訓坐大雷(おとくににますおおいかづち)神社」、書紀の継体の巻に「十二年、弟國に都を遷した」などが見える。【いにしえに弟國と言ったのは、今の井の内村、今里村のあたりだった。井の内村に乙訓明神の社がある。また今里村の法皇寺という寺は、昔は乙訓寺といったとある書物にある。宇治拾遺物語に「長岡の邊をすぎて、乙訓川のつらをすぐと思へば、又寺戸の岸をのぼる云々」と言っている、寺戸村というのも、今もある。】

 

又天皇。以2三宅連等之祖名多遲麻毛理1。遣2常世國1。令レ求2登岐士玖能迦玖能木實1。<自レ登下八字以レ音。>故多遲摩毛理遂到2其國1。採2其木實1。以2縵八縵矛八矛1將來之間。天皇既崩。爾多遲摩毛理。分2縵四縵矛四矛1。獻レ于2大后1。以2縵四縵矛四矛1。獻=置2天皇之御陵戸1而。ケイ(敬の下に手)2其木實1叫哭以白。常世國之登岐士玖能迦玖能木實持參上侍。遂叫哭死也。其登岐士玖能迦玖能木實者。是今橘者也。

訓読:またこのスメラミコト、ミヤケのノムラジらがおやなはタジマモリを、トコヨのクニにつかわして、トキジクのカグのコノミをもとめしめたまいき。かれタジマモリついにそのクニにいたりて、そのコノミをとりて、カゲやかげ・ホコやほこをもちてきつるあいだに、スメラミコトはやくかみあがりましぬ。ここにタジマモリ、カゲよかげ・ホコよほこをわけて、オオギサキにたてまつり、カゲよかげ・ホコよほこを、スメラミコトのミハカのとにたてまつりおきて、そのコノミをささげてサケビおらびて、「トコヨのクニのトキジクのカグのコノミをもちてマイのぼりてさもらう」ともうして、ついにオラビしにき。そのトキジクのカグのコノミというは、いまのタチバナなり。

口語訳:また天皇は、三宅連らの祖、多遲麻毛理という者を常世の国に遣わして、登岐士玖の迦玖の木の実を求めさせた。多遲麻毛理は遂にその国に到り、その木の実を採って、縵八縵矛八矛を持って帰るうちに、天皇は崩じてしまった。そこで多遲麻毛理は縵四縵矛四矛を分けて大后に捧げ、後の縵四縵矛四矛は天皇の陵の戸の前に置いた。その木の実を手で高く差し上げて、泣き叫んで「常世の国の登岐士玖の迦玖の木の実を持って参りました」と言ったが、とうとう泣き叫びながら死んでしまった。この登岐士玖の迦玖の木の実というのは、今の橘のことである。

三宅連は、新撰姓氏録の右京諸蕃、新羅の部に、「三宅連は、新羅国王の子、天日桙(あめのひぼこ)命の子孫である」、摂津国諸蕃・新羅に「三宅連は、新羅国王の子、天日桙命の子孫である。しかしある記に伊久米入彦を祖とするという」【古い本にはこう書いてある。印本では摂津の方を「滋野宿禰と同祖、田遲麻守の子孫である」となっている。滋野宿禰と同祖というのは納得できない。滋野宿禰は神別の姓で、諸蕃ではない。また古い本の方も「ある記に云々」という記事は納得しがたい。】この姓は、もとは地名からでたのか、それとも屯倉に因むのか、定かでない。天武紀に三宅連石床(いわとこ)という人が見え、「十三年十二月、三宅連に姓を与えて宿禰とした」とある。【この時に宿禰となっているのに、新撰姓氏録では連としか書いていないのは、宿禰になった一族は絶えて、もとのままの連だった一族が残っていたのだろう。また天武紀で「三宅吉士に姓を与えて連とした」とあるのは別姓だろう。新撰姓氏録に「三宅の人」とあるのも別姓である。】○多遲麻毛理は新羅からやって来た天之日矛(あめのひぼこ)の玄孫で、その系譜は明の宮の段の終わりの方に見える。この人のこともそこ【伝卅四の十九葉】で言う。○常世國(とこよのくに)は上巻で、少名毘古那神命の段に出ており、そこで言ったように、皇国から遙かに隔たって、たやすく行き来できない国を広く言う。詳しくはそこ【伝十二の九葉】で言った。ここでは新羅の国を指しているのだろう。というのは、多遲麻毛理は新羅人の末裔だから、そこに橘があって、たいへん美味で薬効もあると聞き知っていたのだろう。それを天皇に奏上したことから、この一件が始まったと思う。【そうでなくては、当時外国との行き来も盛んでなかったのに、橘があることを天皇が知っていたはずがないからだ。ここを新羅と考えるべきことは上記のとおりだが、もっと細かく言うと、橘は漢国でも、南の方にあって北の方にはないと言うから、三韓などではどうだったろう。韓にないものなら、この常世の国は漢国を言っていることになる。そうであれば、先祖から漢国にこういう木の実があることを聞いていたのだろう。今の朝鮮に橘があるかどうか、よく調べなければ決められない。漢国であっても、やはり新羅から伝って行ったのだろう。古くは普通そうだったからだ。】<訳者註:現在の橘は日本固有種と言われ、薩摩などにあるという。またコウライタチバナは済州島などに多いという。宣長の言う中国南部に産する果実はミカンのことと思われる。>○登岐士玖能迦玖能木實(ときじくのかくのこのみ)は、書紀に「九十年春二月、天皇は田道間守(たじまもり)に命じて常世の国に遣わし、非時香菓(ときじくのかくのみ)を求めさせた。今言う橘である。香菓、これを『迦倶能未(かくのみ)』と読む」【この訓注は、「能」の下に「許能(この)」が脱けているのではないだろうか。同じ字が重なっていると、よく脱けるものだ。】「登岐士玖(ときじく)」とは【「士」は濁音だ。】書紀の字のように、何についても、その時でないことを言う。万葉巻一【八丁】(6)に「山越乃風乎時自見(やまごしのかぜをときじみ)」、【風が時ならず寒いことを言う。】また【十六丁】(26)に「三芳野之、耳我山爾、時自久曾、雪者落等言(みよしぬの、みみがのやまに、ときじくぞ、ゆきはふるとう)」、巻三【二十七丁】(317)に「時自久曾、雪者落家留(ときじくぞ、ゆきはふりける)」、【富士山の歌である。】また【三十八丁】(382)に「冬木成、時敷時跡、不見徃者(ふゆきなす、ときじくときと、みずいなば)」、【筑波山の歌である。これは登って見る時ではないが、という意味である。】巻四【十三丁】(491)に「何時々々、來u我背子、時自異目八方(いつもいつも、きませわがせこ、ときじけめやも)」、【いつ来ても、その時でないということはないでしょうに、という意味だ。】巻八【五十一丁】(1627)に「非時藤之目頬布(ときじくふじのめずらしく)」、【六月の歌である。】巻十三【十一丁】(3260)に「小治田之、年魚道之水乎・・・時自久曾、人者飲云(おはりだの、あゆちのみずを・・・ときじくぞ、ひとはのむとう)」、【暑くて水を飲みたい時ではないが、という歌だ。】巻十八【三十八丁】(4137)に「等枳自家米也母(ときじけめやも)」、【巻四の例と同じ。】などある例で意味が分かるだろう。【これを時期によらず、いつも変わらないという意味に取るのは、少し違っている。それも「時ならず」というのが、ひいてはそういう意味にも解されるからだ。】橘のことをそう言うのは、その実は夏頃から成って、秋を過ぎ、冬の霜や雪にも耐え、また採った後にも長持ちして腐らず、時期でない頃でもいつもあるものだからだ。「迦玖」は書紀に書いてあるように「香り」の意味のように聞こえるが、「香」は普通「か」とだけ言って「かく」とは言わないから、「く」の意味は定かでない。【「かぐわしい」と言うのは「香(か)」が「くわしい(精美である)」という意味だ。だから清濁が違って、「迦具波志(かぐわし)」にはいつも濁音の「具」を書くが、「迦玖」の「玖」は書紀の訓注でも清音の「倶」を書いてあり、万葉巻十八の歌にも「香久」、「可久」などとあって、みな清音である。混同してはならない。】または「香」の字の音を、その国では「かく」と言ったのか、【今も朝鮮の国の音では、(わが国で)「う」と言うのを「く」と発音する例が多い。「香(旧仮名カウ)」を三韓で「かく」と言うなら、「かぐやま」を「香山」と書くのなども、その字音を借りて書いているのかも知れない。これも「かぐわし」の意味で書いているわけではない。~武紀に「香山、これを『介遇夜摩(かぐやま)』と読む」とあるのを見ると訓のようでもあるが、神代紀に「興台産霊、これを『こことむすび』と読む」とあるのなども、「興台」は字音である。そうとすると、香りを普通「か」と言っているのも本来は字音かという疑問があるだろうが、「か」はもともと皇国の言葉である。元々の皇国の言葉と字音とが自然と似ていることも、全く同じことも、稀にはある。これも思い違えてはならない。】○「遂到2其國1(ついにそのくににいたり)」。「遂に」は「到る」に係るか、「採2其木實1(そのこのみをとる)」に係るか、どちらにせよ、そこに到ること、求めることが困難であることは、この言葉に見える。○縵八縵矛八矛(カゲやかげホコやほこ)云々、縵四縵矛四矛(カゲよかげホコよほこ)云々(類似の句が三度出る)。この文は、諸本みな脱字や誤写があって、どれも同じものはない。個々に良し悪しはあるが、どの本も完全ではない。【旧印本では「縵八縵矛八矛」を「縵八矛」の三字に誤って、次を「縵矛四竿」と誤っている。また最後の「縵四縵矛四矛」は「縵四縵矛四竿」と書いてある。一本には初めを「縵八芋」とし、次を「縵四芋矛」と書き、最後は旧印本と同じである。また別の一本には初めを「縵八竿」、次を「縵竿四矛」と誤り、最後はやはり旧印本と同じだ。他の一本には初めを「縵八竿縵入矛」と誤り、次を「縵竿四矛」とし、最後はこれも旧印本と同じ。また一本には初めが「縵入弟縵八矛」とあり、次は「縵四縵矛四矛」、最後は「縵矛四矛」と誤っている。延佳本はほぼ完全だが、「八矛」、「四矛」の「矛」をいずれも「竿」としているのだけが違っている。私が調べた限りでは、諸本の違いはこのようだった。たぶんこれが見慣れない文で、同じ字が何度も現れるため、特に紛らわしく、あるいは不注意による脱字、あるいは書写に際し自分の判断で省いたりしたものと思われる。その中では「八矛」、「四矛」の「矛」は「竿」とするのが正しいようにも見えるが、やはりそうではない。それは書紀に「八竿」とあり、崇神の巻にも「矛八竿」という一連の語があるので、中昔頃にさかしらな人が改めたのだろう。崇神の巻の矛は実際の矛だから、こことは違う。】そのうち、延佳本だけはほぼ完全なので、ここもそれに従った。ただ句の最後の「矛」を「竿」としたのは良くないので、それは「矛」と書いた本を採った。【延佳本がこのように完全に近いのは、異本を互いに勘合して定めたものだからだろう。その中に「矛」を「竿」と書いたのは全体の半数近くあり、書紀の記述を考え合わせて決めたのだろう。】というのは、万葉巻十八の歌【後に引く】(4111)に「夜保許毛知(やほこもち)」【「もち」は「持ち」である。】とあるからだ。それだけでなく、書紀に「八竿」とあるのも「やほこ」と呼んでいる。これはもともとこの紀に「八矛」とあったことに依拠すると見え、今の本でも半数ほどは「矛」とあるから、これが正しいことは明らかだ。【こういう形状のものの数は、「幾竿」と言うことが多いから、この記も読みは「やほこ・よほこ」であっても、字は「竿」を書くのだろうと思う人もあるだろうがそうではない。書紀は古言にかかわらず、字面を(漢籍風に)整えた本だから「八竿」と書いたのだが、この記は一般に字に関係なく古言を表すことを趣旨としているから、ここも古言のままに「八矛」「四矛」と書いたのだ。】「縵」は「かげ」と読む。「かげ」にこの字を書くのは、「蘿縵(ひかげかづら)」の意味である。古代には主に蘿(ひかげ)を使って縵(かづら)にしたからだ。またその蘿を単に「かげ」とも言ったので、それにもこの字を使った。蘿を単に「かげ」と言った例は、万葉巻二【二十三丁】(149)に「山蘿影爾所見乍(やまかづらかげにみえつつ)」、【「影」は「面影」のことで、上の蘿(ひかげ)による続きである。「山」の字は、今の本は「玉」と誤っている。集中、山を玉に誤った例が多い。】巻十三【四丁】(3229)に「雲聚山蔭(うずのやまかげ)」、【「山蘿」である。これも今の本は「山」を「玉」に誤っている。】巻十四【三十五丁】(3573)に「夜麻可都良加氣(やまかづらかげ)」、【師の説で「山縵蘿(やまかづらひかげ)」のことだという。】巻十八【三十一丁】(4120)に「加都良賀氣、香具波之君乎(かづらかげ、かぐわしきみを)」、【いにしえは蘿をことにめでたいものとしたので、「かぐわし」の枕詞としたのだ。「香」はここでは借字で、発語である。】などとあるのがそうだ。するとここの「縵」は借字のようだけれども、全くの借字というわけでもない。蘿(ひかげ)も元は日の蔭という意味である。持統紀に「華縵(はなかづら)を殯宮に奉る。これを御蔭という」とも見え、【そのことは伝八の五十三葉、六十四葉で言った。】この「かげ」も「蔭」の意味だからである。【その理由は次に述べる。ところが「げ」を清音に読んで、「掛け」の意味と解するのは誤っている。それはもともと上記の万葉巻二の歌の「山蘿」を古くから「玉蘿」と書き誤ってきたので、中古の歌人がそれに続く「影」を「掛け」の意味で言いかけたと考え、ここの「縵」も「かけ」の意味に書いたと思ったのだろう。しかし縵八縵、縵四縵の下の「縵」を「掛」とすると「八掛」、「四掛」となってそれなりに筋は通るが、上の縵を「掛」としたのでは、何の意味とするのか。宇津保物語に「御衣櫃(みそびつ)一かけに、櫃一かけ」、源氏物語にも「みそびつあまたかけ、又きぬびつ二かけ」などとあるのは、「かけ」を河海抄で「荷」と注してある。これらは別のことである。混同してはならない。<訳者註:「荷を担(か)く」、「籠かき」などの「かき」を言う。>】ここで「縵(かげ)」と言ったのは、「蔭橘子(かげたちばな)」というもので、「矛」と言ったのは「矛橘子(ほこたちばな)」というものである。それは内膳式に「橘子(たちばな)四蔭」、「橘子廿四蔭、桙橘子(ほこたちばな)十枝」、「橘子四蔭、桙橘子十枝」、「橘子三十六蔭、桙橘子十五枝、ヒロ(てへん+綴のつくり)橘子(ひろたちばな)一斗」、「橘子四十五蔭、ヒロ橘子二斗二升五合」とあり、齋宮式にも「橘子十蔭」などとあるのがそうである。【これには「橘子〜蔭」と書いてあるだけなのを、ここで推測して蔭橘子(かげたちばな)と言ったのは、「桙橘子」と並べて言っているその桙橘子が、まさしくここの矛八矛というのに当たっており、それに対して「橘子〜蔭」と言っているから、それも元は「蔭橘子」と言ったのであろうことを、ここと相照らして知るべきだ。ところが延喜式の頃には、「〜蔭」とさえ言えば蔭橘子のことに決まっているから、「蔭」を省いて単に「橘子」と言ったのだ。桙橘子の方は、その頃は「〜矛」とは言わなかったので、もとのまま「桙橘子」と言ったのである。】それは種類が異なるものではなく、同じ橘だが、それを採るのに違いがあったのだろう。その状態がどうだったのかは定かでないが、その名から考えると、蔭橘子というのは枝ごと折り取って、葉も付いたままなのを言うのだろう。一般に葉のある枝を蔭というからだ。【大神宮式の「麻績等の機殿の祭の料の雑物」の中に、「麻三十鬘(圍二尺を鬘とする)」とあり、この「鬘」も「かげ」と読む。一般に麻の量は「〜斤」と言うのが通例だが、ここにだけ「鬘」と言っているのは、理由があるだろう。思うに、これも葉を付けたままで用いるのではないか。その使い方を知らないから、定めがたいが、これは麻績の祭だから、麻の使い方も他の祭とは違っていておかしくない。だから葉が付いたまま使うこともあるだろう。もしそうなら、ここの蔭橘子と同じような言い方である。考え合わせよ。】桙橘子は枝を長めに折り取って、葉を落とし、実だけが付いたのを言うだろう。それが上代の矛に似ていたというようなことではないか。【そんなに似ていなくても、そういう形のものは矛と呼んでもおかしくない。ここに「ヒロ橘子」というのもあるが、これは落ちた実を拾い集めるという意味の名で、枝も葉も付いていないのを言うのだろう。そのためこれは「〜斗〜升」とある。】ところで「蔭橘子、矛橘子」をここで単に「縵」、「矛」と言ったのは、既に「登岐士玖能迦玖能木實」と言っており、「採2其木實1」ともあるから、その上更にその名を言わないのが雅言の決まりだ。【こういうところで、更に名を言うのは俗文である。たとえば今の世でも「橘十籠のうち、葉付き五籠、葉なし五籠」と言えば、上で「橘」と言っているから、誰でもそうと分かる。それを更に「葉付き橘、葉なし橘」と呼ぶと、煩わしくまずい文だろう。】ところがその数を「〜縵、〜矛」と言うのは、木を一木(ひとき)・二木(ふたき)、里を「一里(ひとさと)・二里(ふたさと)」、歌を「一首(ひとうた)・二首(ふたうた)」【一首・二首は「ひとうた・ふたうた」というのが通例である。】などと言うたぐいで、数詞にもそのまま物の名を付けて言ったのだ。こういう例は多い。【延喜式に蔭橘子を「〜蔭」としているのは、上代から言い習わしたままなのに、矛橘子を「〜枝」とあるのは、上代とは言葉が変わったのである。もっとも、「枝」というのも物の形状を言っている。書紀に「八竿」とあるのも、一般にそういう細長い物を「〜竿」と言うのが通例だからだ。】○將來之間は「もちてまいきつつあるあいだに」と読む。書紀の年紀によると、行って帰るまでに十一年かかっている。○「既」は師が「はやく」と読んだのが良い。雅言では、過ぎた以前のことを「はやく」と言うことが多かった。ここは持ってくるより前に、ということだ。○大后(おおぎさき)【「大」の字を「太」と書いた本があるが、良くない。】は皇后である。【このことは白檮原の宮の段で述べた。】ここは比婆須比賣命を言う。書紀では、この大后は既に三十二年に薨じている。伝えが異なるのである。○御陵戸は「みはかのと」と読む。またこの御陵では「みささぎ」と読んでも良い。「戸」は「前」と同様の意味である。万葉に「やど」を「屋前」、「屋戸」とも通わせて書くように、戸の前のことも「戸」と言う。【「外山(とやま)」の「外」も同じで、「前」の意味である。「外」も意味は通う。】上巻に「天の石屋戸にオ(さんずい+于)氣(おけ)を伏せ云々」とある「戸」も戸の前の意味であるので知るべきだ。【師は、「『陵戸』は、ここでは陵を守る家ではない。御陵の門などを言う」と言ったが、直接に門を指して言うのではない。】○ケイ(敬の下に手)(ささげ)。前には「置く」と言って、また「ささぐ」と言えば違うようだが、そうではない。「置く」と言ったのは、四縵四矛全部を置いたのである。そのうちの幾つかを取って捧げ持ったのだ。【四縵四矛全部をささげることはできそうにないからである。】あるいは「置く」という言葉を、万葉に「幣置(ぬさおく)」とあるように、献るという意味に取っても良い。こうしてささげたので、悲しみの情の深さが分かり、目の当たりに見るようだ。○叫哭は「さけびおらびて」と読む。万葉巻九【三十六丁】(1809)に「菟原壯士伊、仰天叫於良妣(うないおとこイ、あめアウギさけびおらび)云々」とあるのによる。書紀でもここは「叫哭」と書いて、「おらびなきて」と読んでいる。また雄略の巻に「呼號(よばいおらび)」、孝徳の巻に「啼叫(おらびさけぶ)」などともある。「おらぶ」は大声で泣き叫ぶことだ。哀傷の甚だしいありさまを言う。○侍は「さもらう」と読む。この言葉は上巻に出て、そこ【伝十四の四十一葉】で言った。貴人の御前にうやうやしく伺いながらいることを言う。【単に尊敬の意味で付けて言う言葉ではない。】○叫哭死也は「おらびしにき」と読む。泣き叫びながら死んだのだ。【これを「ついに死んだ」とだけ言ったのでは、だいぶ時間が経って死んだようにも聞こえるので、(悲しみの余りに死んだという描写の)勢いがないから、もう一度「叫哭」と言ったのである。】書紀の顕宗の巻に「隼人(はやびと)たちは昼も夜も陵の辺りで哀號(おらび)、物を食べようともせず、七日で死んだ」とあるのも似たようなことだ。書紀では、「九十九年秋七月、天皇が崩じた。・・・明年春三月、田道間守(たじまもり)が常世の国から、非時香菓(ときじくのかくのこのみ)を八竿八縵(やほこやかげ)持ち帰った。田道間守は泣悲嘆(いさちなげき)て『天朝に命を受けて、絶遠の地に赴き、万里の波を越え、遙かに弱水(西域にあるという伝説上の川)を渡って常世の国に到った。これは神仙の秘區(秘境)、世俗の人の到る所ではない。このため往来の間に十年もかかってしまった。再び峻瀾(高い波)を越えて、本国に帰れようとは思えないほどだったが、聖帝の神霊によって、わずかに生きて帰ることができた。ところが天皇は既に崩じ、復命することができない。臣雖レ生之何u(私がこれ以上生きていたところで、何の意味があろうか)』と言い、そのまま御陵に行き、その前で叫哭(おらびないて)自ら死んだ。世の人はこれを聞いて、涙せぬ者がなかった。田道間守は三宅連の祖である」とある。【ここで田道間守が語ったという言葉は、例によって撰者が潤色した漢文である。当時の言葉ではない。特に「常世の国はすなわち~仙の秘區」などという言葉は、古言とはほど遠い。決してこういう嘘文(うそぶみ)に惑わされてはいけない。また「臣雖レ生之何u」と言ったら、自らわざと死んだことになり、かえって真情が深くない。実際はこの記のように、死のうとしたのではないが、あまりに悲しんで、哭き死にに死んだのだ。そう考えてこそ哀しみは深いだろう。また言った言葉も、この記ははなはだ簡略だが、かえって情が深く、大きな悲しさがおのずからこもっており、書紀のような口数の多い文より、非常にあわれに聞こえるだろう。釈日本紀に「天書第六にいわく、景行天皇二年春三月辛未朔壬午、丹馬物果(たじまもり)が帰国して、垂仁を恋い慕い、陵を拝んで泣き奏して、・・・腹這いになって啼泣し、陵を拝みながら死んだ。景行はその忠を哀れみ、勅して丹馬物果をその陵の近くに葬った」とある。「果」の字は「里」を誤っている。この「天書」という書物は、時々引用する。おおむね書紀によって書かれ、むしろ書紀以上に漢文めかして書いてあるのだが、あまり巧みな文とは言えない。書紀とは食い違うこともあって、覚束ない。代々の天皇の漢風諡号で言うと、桓武天皇以後に書かれた書物である。ここに引いたのは、書紀と少し違った点があることと、また「天書」という書物の取り扱いについて、少し論じておいたのである。】○橘は和名抄に「橘は和名『たちばな』」とある。この名は、これを持って帰った人の名に因んで「たじま(旧仮名タヂマ)花」と言うのだろう。【ただしこの植物は花よりも実を尊ぶから、「花」と呼ぶのはどうかとも思うが、この名について言うと、「ばな」は明らかに「花」の意味と考えられるだろう。「花橘」とも言うが、これも花を称賛して言う語である。実について詠んだ歌にも「花橘」と言っている。万葉巻六(1009のことか)には「橘花(たちばな)」とさえ書いている。】それはおそらくこの時持ち来たった実を種にして植えたのが育って、初めて花が咲いた時に「多遲麻花」と呼んだのが、ついには名になったのだろう。【師の説に「持ち帰った人の名を付けて『多遲麻名(たじまな)』と後世の人が付けたのだ。だから古くは『ち』を濁って言っただろう。今も上総の人や南部の人は『ち』を濁って言う。また『ば』と『ま』と清濁が通うのは普通のことだ」とある。この説は、持ち来たった人の名によるのはその通りだろうが、最後の「な」を「名」としたのは疑問だ。その語はこの名を解釈するときにこそそう言ってもおかしくないが、直接に「名」をそのものの名にすることはないだろう。「任那(みまな)の国」などの例とは同一視できない。それにいにしえには「ち」を濁って言ったというのも当たらない。この記や万葉で仮名に書いたのは、みな清音の知」を用いており、濁音の仮名を用いた例はない。上総の人などが濁って言うのは東国の方言にすぎない。本当に「多遲麻毛理」の名に因むなら「ち」は濁るはずだが、次の「ば」を濁るので、濁音が重なって聞き苦しいから、自然と「ち」を清音に発音してきたのだろう。】明の宮の段の歌に、「迦具波斯波那多知婆那(かぐわしはなたちばな)」とある。いにしえは花も実も特にめでたもので、万葉にも歌がたいへん多いが、中でも巻六【三十三丁】(1009)の「橘花者、實左倍花左倍、其葉左倍、枝爾霜雖降、u常葉之樹(たちばなは、みさえはなさえ、そのはさえ、えにしもふれど、いやとこはのき)」、巻十八【十二丁】(4063)に「等許余物能、己能多知婆奈能、伊夜弖里爾、和期大皇波、伊麻毛見流其登(弖の正字は氏の下に一)(とこよもの、このたちばなの、いやてりに、わごおおきみは、いまもみるごと)」、【「とこよもの」とは、常世の国から伝わったものという意味だ。】また【二十七丁】(4111)に「可氣麻久母、安夜爾加之古思、皇~祖能、可見能大御世爾、田道間守、常世爾和多利、夜保許毛知、麻爲泥許之、登吉時久能、香久乃菓子乎、可之古久母、能許之多麻敝禮(かけまくも、あやにかしこし、すめろぎの、かみのおおみよに、たじまもり、とこよにわたり、やほこもち、まいでこし、ときじくの、かくのこのみを、かしこくも、のこしたまえれ)、國毛勢爾、於非多知左加延、波流左禮婆、孫枝毛伊都追、保登等藝須、奈久五月爾波、波都波奈乎、延太爾多乎理弖、乎登女良爾、都刀爾母夜里美、之路多倍能、蘇泥爾毛古伎禮(くにもせに、おいたちさかえ、はるされば、ひこえもいつつ、ほととぎす、なくさつきには、はつはなを、えだにたおりて、おとめらに、つとにもやりみ、しろたえの、そねにもこきれ)、香具播之美、於枳弖可良之美、安由流實波、多麻爾奴伎都追、手爾麻吉弖、見禮騰毛安加受、秋豆氣婆、之具禮乃雨零、阿之比奇能、夜麻能許奴禮波、久禮奈爲爾、仁保比知禮止毛、多知波奈乃(かぐわしみ、おきてからしみ、あゆるみは、たまにぬきつつ、てにまきて、みれどもあかず、あきづけば、しぐれのあめふり、あしびきの、やまのこぬれは、くれないに、においちれども、たちばなの)、成流其實者、比太照爾、伊夜見我保之久、美由伎布流、冬爾伊多禮婆、霜於氣騰母、其葉毛可禮受、常盤奈須、伊夜佐加波延爾、之可禮許曾、~乃御代欲理、與呂之奈倍、此橘乎、等伎自久能、可久能木實等、名附家良之母(なれるそのみは、ひたでりに、いやみがほしく、みゆきふる、ふゆにいたれば、しもおけども、そはもかれず、ときわなす、いやさかはえに、しかれこそ、かみのみよより、よろしなえ、このたちばなを、ときじくの、かくのこのみと、なづけけらしも)<訳者註:非常に長い歌をそのまま引用しているので、適当に切って読みを入れたが、そこで意味が切れているわけではない>」。【橘のことは、この歌にほぼ語り尽くされている。】古今集(139)に「五月まつ、花橘の香をかげば、昔の人の、袖の香ぞする」、【この「昔の人」を多遲麻毛理のことだとする註は誤っている。】続日本紀十二に【和銅元年、縣犬養宿禰三千代に橘の姓を賜うという勅】「橘は菓子の長で、上人(貴人)の好むものである。その枝は霜雪を越えて繁茂し、葉は寒暑を経て枯れず、與2珠玉1共競レ光(珠玉とともに耀きを競い)、金銀に混じえてもいよいよ美しい云々」とある。【「與2珠玉1共競レ光」の前に「實」の字が脱けているか。<「その実は」と言わなければ唐突だから>】武蔵の国に橘樹(たちばな)郡があり、橘樹郷【たちばな】と三宅郷が並んでいる。理由があることだろう。また新撰姓氏録に「橘守(たちばなもり)」という姓があって、「三宅連と同祖」とあるのは、公の(朝廷が所有する)橘の木を守る氏だろう。これもそもそもの初めの由縁から、多遲麻毛理の子孫をそれに任じたのだ。【師の説で、「この氏も『たじまもり』と読むべきだ」と言うが、当たっていない。これはその人の名に関わっているのでなく、単に橘を守ることを言うのだろう。この氏の名と多遲麻毛理の名を同じと見るなら、その人の名も橘を守ったことから出たと言うべきだろうが、彼の名は但馬国に因むもので、橘によるのではない。】万葉巻十【五十一丁】(2251)に「橘乎、守部乃五十戸之(たちばなを、もりべのさとの)」とあるのも、いにしえにこの樹を特に守ったことがあったから「守部の里」の枕詞としたのだ。【また思うに、これは「守」に言いかけたばかりでなく、この里に昔橘を守る人がすんでいたので、「守部」という地名になった可能性もある。いずれにせよ、冠辞考の説は少し間違いがある。】ところである説に、「橘は今の蜜柑である。今の世で蜜柑と区別して橘という物があるが、それではない」と言う。また他の人は「昔の橘はいまの橘と同じだ。蜜柑は後に渡って来たのだが、味が優れていたので世に広まり、橘は劣っているから気圧されて、次第に稀になった」と言う。この両説はどちらが良いだろうか。定めがたい。【思うに、今の世には、橘という物は稀で、その実は柑子より小さく、味も蜜柑より遙かに劣っている。ところがいにしえに橘はあれほど称賛され、世に多いものだったから、これではなく蜜柑こそそれだったのだろう。薬の橘皮にも、昔から蜜柑の皮を使っている。今橘という物が別にあるのは、昔の橘をいつの頃からか蜜柑と呼ぶようになり、後に別の一種を橘と名づけたのだろう。今橘と言っているのは、延喜式や伊勢物語などで「小柑子」と呼んでいるものだと思われる。とすると上記のうち、前者の説がいいだろうか。しかしまた思うに、いにしえの橘が今の蜜柑だったら、昔のまま今も「たちばな」と呼んでいて良さそうなものなのに、「蜜柑」という名に変わる理由がないだろう。蜜柑は後に渡って来て、その最初に来た時に甘いので「蜜柑」と名づけたとも考えられ、後者の説も一理ある。また蜜柑は、和名抄に「ハイ?(木+廢)カ(木+暇のつくり)は柚の一種である。漢語抄にいわく、柚柑(ゆかん)」とあり、この柚柑を訛って言い、後に「蜜柑」の字を当てたようにも思われる。橘・柑・柚の三つは、漢国でも取り違え、種類がたいへん多いので、漢名に依っても決められず、古今の名称の違いも紛らわしい。ある説には、「昔の橘は今言う柑子である。今言う蜜柑は、昔は柑子と言った」という。しかし柑子は昔も今も柑子と呼んでいるように思われる。】

 

此天皇。御年壹佰伍拾參歳。御陵在2菅原之御立野中1也。

訓読:このスメラミコト、ミとしモモチマリイソジミツ。ミハカはスガワラのミタチヌのなかにあり。

口語訳:この天皇は、百五十三歳で崩じた。陵は菅原の御立野の中にある。

御年壹佰伍拾參歳。書紀には「九十九年、秋七月戊午朔、天皇は纏向の宮で崩じた。この時百四十歳」とある。【この年数によると、崇神天皇の廿八年に生まれたことになるが、この巻の初めに「廿九年に生まれた」とあるのとは、一年違う。また「廿四歳の時皇太子となった」とあるのと、崇神の巻に「四十八年に皇太子となった」とあるのとは、大きく違う。廿八年に生まれたとすると、四十八年には廿一歳、廿九年に生まれた場合は廿歳である。またその巻に「元年二月御間城姫を皇后に立てた。これ以前に皇后は活目天皇を生んでいた」とあるのはたいへん違っている。元年より先に生まれていたら、四十八年には五十歳に及ぶ年齢で、崩じた時は百七十歳にもなっただろう。】ある書には百三十とも百四十一とも言う。○菅原之御立野(すがわらのみたちぬ)。書紀には「九十九年・・・冬十二月癸卯朔壬子、菅原の伏見の陵に葬った」とあり、諸陵式に「菅原の伏見の東の陵は垂仁天皇である。大和国添下郡にある。兆域東西二町、南北二町、陵戸二烟、守戸三烟」【菅原の伏見の西の陵は安康天皇である。大和国添下郡にある。】」とある。菅原は延喜式神名帳にも同郡に菅原神社がある。【今も菅原村がある。】万葉巻廿(4491)に「大き海の、水底深く、思ひつゝ、裳びきならしゝ、須我波良能佐刀(すがはらのさと)」、古今集雑の下(981)に「いざこゝに、我世(わがよ)は經なむ、菅原や、伏見の里の、荒(あれ)まくも惜し」、後撰集雑の三(1242)に「菅原や、伏見の晩(くれ)に、見渡せば、霞にまがふ、小長谷(をはつせ)の山」などがある。この御陵を書紀で「伏見」と言っているのは疑わしい。というのは、続日本紀六で「霊亀元年夏四月、櫛見(くしみ)の山陵に、【生目入日子伊佐知天皇(垂仁)の陵である。】守陵三戸を当てた。伏見の山陵には【穴穂天皇(安康)の陵である】四戸」とあるからだ。【ここに伏見の山陵と書かれたのは穴穂天皇であって、この記にもそれを伏見の丘と書いてあるが、この垂仁天皇の陵は、この記でも伏見とは言っていないことを考え合わせると、それはもともと櫛見で、書紀も櫛見と書いてあったのを、後の人が諸陵式などを見て、賢しらに改めたのではないだろうか。諸陵式は書紀によって伏見と書いたとも考えられるが、東陵。西陵とあるから、その頃はもう二つの陵ともに伏見と言ったのだろう。「くし」と「ふし」とが紛れて、同じ呼び名になったのだろう。また考えるに、垂仁の御陵も場所は伏見なので、もとから伏見の陵とも良い、また陵の名は櫛見とも言ったのかも知れない。あるいは続日本紀の「櫛」の字が「節(ふし)」の写し誤りかとも考えたが、伏見の陵と並べて書いてあるからそうではない。さらに検討の必要がある。】この記に「御立野」とあるのは、他には見えない地名である。【龍田の風神祭の祝詞に「龍田能立野爾、小野爾、吾宮波定奉弖(たつたのたちぬに、おぬに、わがみやはさだめまつりて)」とあり、今もその神社のあるところを立野という。しかしそれは平群郡で、場所が違う。また諸陵式に「三立の岡の墓」というのもあるが、それも廣瀬郡で、場所が違う。また上記の続日本紀の「櫛見」とあることからかんがえると、あるいは「立」の字が「奇」の誤りで、「御奇野(みくしの)」かとも思ったが、記中「くし」に「奇」の字を使った例はない。新撰姓氏録に「御立史(みたちのふひと)は、參河國青海郡、御立の地に住んでいるので、御立史の姓を与えた」とある。これも御立という地名の例として引いた。】この御陵は、大和志には「寶來村の東にある」と書いてある。【俗に蓬來山と言って、高く大きな御陵で、広く大きな池が周りにある。そういう大きな池がめぐっている中に立っているさまを蓬來山というのだろう。それは齊音寺村の地ではないだろうか。齊音寺村にあると書いた本もある。奈良から一里余り西の方だ。菅原村も近い。】

 

又其大后比婆須比賣命之時。定2石祝作1。又定2土師部1。此后者葬2狹木之寺間陵1也。

訓読:またそのおおきさきヒバスヒメのミコトのとき、イシキツクリをさだめたまい、またハニシベをさだめたまいき。このキサキはサキのテラマのみささぎにかくしまつりき。

口語訳:また皇后比婆須比賣命が薨じた時、石祝作と土師部を定めた。この后は、狹木の寺間の陵に葬った。

「〜の時」というのは、薨じた時ということだが、「薨じた」と書かないのが古文である。水垣の宮の段に倭日子命、この王の時、初めて陵に人垣を立てた」とあったのと同様で、そのことはそこ【伝廿三の十七葉】で言った。【師が「薨」の字が脱けたと考えて補ったのは、かえって誤りだ。】○石祝作。「祝」の字は「棺」の誤りだと師が言ったのはもっともだ。草書の字体から写し誤ったのだろう。【「棺」と「祝」の草書体はよく似ている。】「いしきつくり」と読む。和名抄に「四聲字苑にいわく、棺は屍を入れるものである。和名『ひとき』」、また「野王いわく、槨は棺の周りにめぐらすものである。和名『おおとこ』」とある。この棺も槨も、上代には「ひとき」と言った。【「おおとこ」と言うのはやや後の名と思われる。また「ひつき」と言うのは「ひとき」が訛ったのである。「柩」も「ひつき」と読む。「柩」は、死体が入った棺を言う。】よく「き」とだけ言うことがある。書紀の景行の巻に「棺シン(木+親)(みき)【「み」は「御」である。】孝徳の巻に「棺槨(二字で『き』)」、また「棺(き)」」などがある。【同巻に「轜車(きぐるま)」とあるのも「柩車(きぐるま)」の意味である。轜の字は「喪車である」と注されている。】「き」は奥津城などの「城(き)」で、屍を納める構築物のことだ。【奥津城は万葉に多く見え、人を葬るところを言う。天智紀に「丘墓(おくつき)」とある。「奥」とは地下を言う。】「ひとき」とは人の屍を納めることから言う。書紀の神代巻に「素戔嗚尊は・・・『マキ(木+皮)は人々の屍を奥津棄戸(おきつすたべ)に納めるための材料とせよ』」とあり、内棺は上代から木で作ったようだから、ここに「石棺」とあるのはその外を覆う槨だろう。【私は以前大和国を見て回った時、十市郡安部村近くに窟(いわや)があり、少し深く入ると、奥の石槨の上は屋根の形で、高さ、縦横とも六尺ほどのものが立っていたのを見た。確かに上代の貴人の墓と見えたから、石棺というのはそういうものだろう。】その他の石造りの構造物も含めて「いしき」と言ったらしい。新撰姓氏録【左京神別】に「石作連(いしつくりのむらじ)は火明命の六世の孫、建眞利根(たけまりね)命の子孫である。垂仁天皇の御世、皇后日葉酢媛命」のために石棺を作った。そこで石作大連の姓を与えた」とある。また【山城国神別】に「石作は、火明命の子孫である。」、【摂津国神別】に「石作連は云々」、【和泉国神別】に「石作連は云々」などが見える。和名抄に「山城国乙訓郡、石作郷【いしつくり】」、尾張国中嶋郡石作郷【いしづくり】」などもある。石棺を作る工(てびと)は元からいたのだろうが、この御世にさらにその部を定めたのである。【この時初めて石棺を作ったというわけではない。】天智紀には「六年春二月、天豊財重日姫(あめとよたからいかしひたらしひめ=皇極)天皇と間人皇女を小市岡(おちのおか)の上の陵に合葬した。この日皇孫の大田皇女も陵の前の墓に葬った。皇太子は群臣に向かって、『皇太后が(墓造りに駆り出される)人々の苦しみを思って言い残した言葉により、私は石槨を作らなかった。できればこれを末代まで手本とせよ』と言った」とある。【しかしその後も、このことは止まなかったらしい。】○土師部は「はにしべ」と読む。和名抄で、各国の郷名の土師が、多くは「はにし」と読まれているからだ。【後に引く通りである。】また「黄櫨(はぜのき)」は同書に「はにし」とあるが、その木の弓をこの記では「波士弓(はじゆみ)」と言い、書紀にも訓注に「はじ」とあるなどの例を見ると、いにしえから「はじ」とも言ったのだろう。「し」というのは土器を作る者を言い、「為(し)」ということだ。工人のたぐいはみな「〜師」と言い、同じことだ。【今の世でも「〜師」と言うことが多い。】ところが漢国でも「〜師」と言うから、そのまま「師」の字を用いたのである。【とすると「師」の字は漢と同じ意味で書いたものだが、「し」という言葉は「為」の意味だから、字音ではなく、仮名でもない。「師木」のように訓を用いた借字でもない。思い違えてはならない。】ところで土師のことは書紀に「三十二年秋七月、皇后日葉酢媛命が薨じた。葬るまでにまだ間があった。天皇は群卿に『死んだ人に従って殉死するということは、前によくないと分かった。今度の葬儀はどうすべきだろう』と尋ねた。そこで野見宿禰が『君王の墓に生きている人を埋め立てるということはよくありません。こんなやり方を後世に伝えていいでしょうか。お聞き頂けるなら、よい考えがあります』と言った。彼は使いを出して出雲の国の土部(はにし)たちを呼び寄せ、自ら采配を振るって、埴土で人馬を初め、種々の物を作り、天皇に奉って『これ以後は、この土物(はにもの)を生きた人に替えて、陵墓に埋めることにして、後代にも伝えてはいかがでしょうか』と言った。天皇は大変喜び、野見宿禰に『お前の意見は、実に気に入った』と言い、すぐにこの土物を皇后の墓に立てた。この『はにもの』を今は『埴輪』と言っている。また『立物(たてもの)』とも言う。詔して、『これからは陵の周りには必ずこの土物を立てよ。決して生きている人を損なってはならない』と言った。その後天皇は野見宿禰に厚く賞し、鍛(かたし)の地を与え、土部職(はにしのつかさ)に任じて、もとの名を改めて土部臣とした。これは土部連らが天皇の喪葬のことを掌る由縁である。その野見宿禰は、土部連らの先祖である」と見え、【水垣の宮の段の倭日子命の葬礼のことを思い合わせよ。伝廿三の十七葉、十八葉に述べた。ところで、この大后の薨死を三十二年のことと書いてあるのは、伝えが異なっている。この記では天皇より後で薨じたようだから、野見宿禰の土物の功績も景行天皇の御世になってからだ。しかし垂仁天皇の大后の御陵のことだから、その御世のことのように語るのももっともだ。埴輪というのは和名抄に「埴輪は『はにわ』、弘仁私記に『山陵の周りに、土人形を車輪のように取り巻いて並べ立てるのである』」とあるような意味である。半分位まで土に埋めて立てる。今もこれが残っている陵がある。陵に土の馬があることは、雄略紀九年の記事に見える。ところで野見の宿禰は出雲の人で、本姓は出雲臣だった。】これ以後、土物だけでなく、凶礼・陵墓のことは、この土師連が掌ることになった。【仁徳紀の六十年に「白鳥の陵守を・・・また土師連らに授けた(陵戸・守戸を土師連の管轄下に置いた)」、雄略紀に「・・・土師連小鳥(おとり)に、冢墓を出身輪邑(たむわのむら)に作らせ」、推古紀に「來目皇子が筑紫で薨じた。・・・周防の沙婆で殯(もがり)を行うため、土師連猪手(いのて)を遣わして殯の礼を掌らせた」、皇極紀に「吉備の嶋の皇祖母尊(すめみおやのみこと:皇極の母)が薨じたので、土師の沙婆の猪手に命じて皇祖母の喪を掌らせた」、孝徳紀に「天皇が崩じ、南庭で殯を行った。百舌鳥の土師連土徳に殯宮のことを掌らせた」とあり、続日本紀十一に「詔して、『今月七日、地震がひどかった、おそらく山陵が傷んでいるだろう』と言い、諸王眞人に土師宿禰1人を添えて遣わし、諱所八箇所、有功の王の墓を見回らせた」、同卅二に「三方の王と土師宿禰和麻呂、六位以下の者三人を遣わして、廃帝を淡路に改葬した」などとある通りだ。】職員令の諸陵司のところに、「土部十人は凶禮を共に掌る」、義解に「土師宿禰の年や位が高く進んだものを大連、その次の物を小連とした。いずれも紫衣を着け刀剣を帯びて、世々凶儀を掌る」【「大連」、「小連」ということは古礼ではないだろう。漢籍の禮記、雑記に「孔子いわく、『少連、大連は喪に善く(ぬかりなく、ということか)仕えている・・・東夷の子である』」とあり、註にいわく、「夷戎の生まれながら、礼を知っているということだ」と言っている。これを借りたのだろう。】とあり、凶禮、陵墓のことでなくても土物を作ったことは、書紀の雄略の巻に「土師連らに命じて、使B進レ應盛2朝夕御膳1清器者A(朝夕の御饌を盛る清らかな土器を奉らせた)。そこで土師連の祖、吾笥(あけ)は摂津国來狹々(くささ)村、山背国の内村、俯見(ふしみ)村、伊勢国の藤形(ふじかた)村、また丹波、田嶋、因幡の私民部を奉った。これを贄土師部(にえはじべ)と呼ぶ」【「盛」の上に「造」などの字が脱けているか。新撰姓氏録には「贅土師連」がある。】とある。土師連は、書紀の神代巻に「天穂日命、これは出雲臣、土師連らの先祖である」、天武の巻に「十三年十二月、土師連に姓与えて宿禰とした」とあり、新撰姓氏録【右京神別】に「土師宿禰は天穂日命の十二世の孫、可美乾飯根(うましからひね)命の子孫である。光仁天皇の天応元年、土師を改めて菅原氏の姓を与え、勅により改めて大枝朝臣の姓を与えた」、【光仁天皇というところから後は、ここにあるはずのない記事である。後人が書き加えたものだ。】また【山城神別】「土師宿禰は天穂日命の十四世の孫、野見宿禰の子孫である」、また【大和神別】「土師宿禰は、秋篠朝臣と同祖、天穂日命の十二世の孫、可美乾飯根命の子孫である」、【ある書に、「野見の宿禰は可美乾飯根命の子である。菅原の伏見邑に居住」と言っている。】また【摂津神別】「土師連は天穂日命の十二世の孫、飯入根(いいいりね)命の子孫である」、【飯入根命は崇神紀に見え、甘美韓日狹(うましからひさ)命の兄である。可美乾飯根と甘美韓日狹は同一人物か。あるいは「狹」の字が「根」の誤りではないだろうか。】また【和泉神別】「土師宿禰は秋篠朝臣と同祖、天穂日命の十四世の孫、野見宿禰の子孫である、土師連は同上」、【続日本紀卅六に「土師宿禰古人(古人)、同道長ら十五人が言上して、『土師は天穂日命から出て、その十四世の孫、名を野見宿禰という者が、昔纏向の珠城の宮で天下を治めた垂仁天皇の御世に、まだ古来の慣わしが残っていた頃、葬礼は節度がなく、凶事があるたびに、生きた人を大勢埋めて殉死させていましたが、皇后が薨じた時・・・野見宿禰が意見を申し上げて・・・土師三百余人を率いて自分の土地の埴を取り、いろいろな物の土像を造って、これを奉り・・・式で先祖の仕事を見ると吉凶相半ばしており、弔事では凶を掌り、祭日には吉事にあずかって、こうした供奉は実に道理にかなっていました。ところが現状はそうではなく、専ら凶事ばかりに携わっていて、祖業を考えればその意味はこんなことではありません。そこで願わくば、住んでいる土地に因んで、土師の姓を菅原と改めて頂けないでしょうか』。勅してこれを許した」、同卅七に「土師宿禰安人らが言上して、『・・・願わくば土師の字を改めて秋篠として頂けないでしょうか』。詔してこれを許した」、同四十に「詔して・・・『わたしの外祖母は土師宿禰であったが、その土師を改めて大枝朝臣とする。また菅原眞仲、土師菅麻呂らも、同じく大枝朝臣とする』」、また「勅して菅原宿禰道長、秋篠宿禰安人らに姓を与えて朝臣とした。また土師宿禰の諸士らの大枝朝臣の姓を与えた。その土師氏は全部で四腹あり、中宮の母の家は毛受(もず)の腹である。そこで百舌の腹は大枝朝臣とする。他の三腹はあるいは秋篠朝臣に従い、あるいは菅原朝臣に属する」とある。「腹」とは一族のことを言う。毛受腹は和泉国大鳥郡の毛受の土師氏の族である。新撰姓氏録に「菅原朝臣は土師朝臣と同祖・・・秋篠朝臣は同上、大枝朝臣は同上」、三代実録十三に「大枝朝臣音人、大枝朝臣氏雄らが表を上げていわく、・・・『大枝を姓としてきました・・・あえてその姓を改めることは望みませんが、ただ枝の字を江に改めて(大枝を大江にして)頂きたく存じます』と言った。詔してこれを許した」とある。】類聚三代格の延暦十六年の太政官符に「土師宿禰らが凶事に携わることをやめさせましょう。・・・野見宿禰の苗裔であり、長くその功績の恩恵に浴する身分でありながら、かえって常に凶儀に携わって、吉礼には与りません。喪礼のことは、人が忌み嫌うことであるのに、一つの氏に定めて、その職掌を掌らせるのは、論ずるまでもなく不適当であります。臣らはこれを停止することを伏してお願いいたします云々」、これ以降この氏が凶禮陵墓のことを掌ることはなくなった。ここに「土師部を定めた」とあるのは土師連のことだけでなく、土物を造る工人の部を定めたのだ。【土師連は、その部を率いる長である。】和名抄に「河内国志紀郡、土師郷」、「丹比郡、土師郷」、「和泉国大鳥郡、土師郷【はにの】」、「上野国緑野郡、土師郷【はにの】」、「下野国足利郡、土師郷」、「丹波国天田郡、土師郷」、因幡国八上郡、土師郷」、「知頭(ちず)郡、土師郷」、「備前国邑久郡、土師郷【はじ】」、阿波国名方西郡、土師郷【はじ】」、「筑前国穂波郡、土師郷【はじ】」、「筑後国山本郡、土師郷」などとあるのは、みないにしえに土師が住んでいた土地だろう。<訳者註:このように土師が盛んに改姓を願ったのは、凶礼のことは死の穢れに触れるため、律令制以降はもっぱら賎民の業とされたからであり、「土師(旧仮名ハヂ)」という名も「恥(ハヂ)」と同音なので、いかにも出自が賤しいように聞こえたからだろう>○狹木(さき)は、和名抄に「大和国添下郡、佐紀郷」とあるのがそうだ。延喜式神名帳に同郡「佐紀神社」もある。諸陵式に「狹城盾列(さきのたたなみ)池の後の陵、狹城盾列池の上の陵は、ともに大和国添下郡にある」とあるのも同じ地である。書紀のこの(垂仁の)巻に「三十五年、倭の狹城の池を作った」、続日本紀卅に「高野(孝謙)天皇を大和国添下郡佐貴郷の高野の山陵に葬った」、万葉巻一【卅丁】(84詞書)に「佐紀宮云々」【その歌に「高野原」と詠んでいるのは高野山陵の地である。】巻十【十二丁】(1887)に「春日なる、三笠の山に、月も出ぬかも、佐紀山に、咲る櫻の花の見ゆべく」、また【十四丁】(1905)「姫部思、咲野爾生、白管自(おみなべし、さきぬにおうる、しらつつじ)」、また【三十五丁】(2107)「佳人部爲、咲野之芽子爾(おみなべし、さきぬのはぎに)」【「おみなべし」は「さき」の枕詞である。】などが見える。【この地名は、今はない。今の超昇寺村、常福寺村、山陵(みささぎ)村などのあたりが佐紀郷の地だろう。】○寺間(てらま)。この地名は他の書物に見えない。【話にも聞かない。】ただし続日本紀廿七に「大和国の人、従七位下寺間臣大虫ら四人に朝臣の姓を与えた」とあり、この姓はこの地名に因むのではないだろうか。【そもそもこの地名の「寺」の字は借字のようではない。だが仏屋を「てら」と言うのは、もとは韓の言葉だという。さもあろう。するとこれは寺というものができて後の地名なのを、それより古い時代に及ぼして言っているのだろう。】この陵は、大和志では「添下郡の日葉酢姫命の墓は、常福寺村(奈良県奈良市佐紀町)にある」という。



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