『古事記傳』26


日代の宮一之巻【景行天皇一】

大帶日子淤斯呂和氣天皇。坐2纏向之日代宮1治2天下1也。此天皇。娶2吉備臣等之祖若建吉備津日子之女名針間之伊那毘能大郎女1生御子。櫛角別王。次大碓命。次小碓命。亦名倭男具那命。<具那二字以レ音。>次倭根子命。次神櫛王。<五柱。>又娶2八尺入日子命之女八坂之入日賣命1生御子。若帶日子命。次五百木之入日子命。次押別命。次五百木之入日賣命。又妾之子。豊戸別王。次沼代郎女。又妾之子。沼名木郎女。次香余理比賣命。次若木之入日子王。次吉備之兄日子王。次高木比賣命。次弟比賣命。又娶2日向之美波迦斯毘賣1生御子。豊國別王。又娶2伊那毘能大郎女之弟伊那毘能若郎女1<自レ伊下四字以レ音。>生御子。眞若王。次日子人之大兄王。又娶2倭建命之曾孫。名須賣伊呂大中日子王<レ自須至レ呂四字以レ音。>之女訶具漏比賣1生御子。大枝王。

訓読:オオタラシヒコオシロワケのスメラミコト、マキムクのヒシロのミヤにましまして、アメノシタしろしめしき。このスメラミコト、キビのオミらがおやワカタケキビツヒコのミむすめナはハリマのイナビのオオイラツメにみあいましてウミませるミコ、クシツヌワケのミコ。つぎにオオウスのミコト。つぎにオウスのミコト、またのなはヤマトオグナのミコト。つぎにヤマトネコのミコト。つぎにカムクシのミコ。<いつはしら。>またヤサカのイリビコのミコトのミむすめヤサカのイリビメのミコトにみあいましてウミませるミコ、ワカタラシヒコのミコト。つぎにイオキのイリビコのミコト。つぎにオシワケのミコト。つぎにイオキのイリビメのミコト。またのみめのミコ、トヨトワケのミコ。つぎにヌノシロのイラツメ。またのみめのミコ、ヌナキのイラツメ。つぎにカゴヨリヒメのミコト。つぎにワカキのイリビコのミコ。つぎにキビのエヒコのミコ。つぎにタカキヒメのミコト。つぎにオトヒメのミコト。またヒムカのミハカシビメをめしてウミませるミコ、トヨクニワケのミコ。またイナビのオオイラツメのオト、イナビのワキイラツメをめしてウミませるミコ、マワカのミコ。つぎにヒコヒトのオオエのミコ。またヤマトタケのミコトのミひひこ、ナはスメイロオオナカツヒコのミコのむすめカグロヒメをめしてウミませるミコ、オオエのミコ。

口語訳:大帶日子淤斯呂和氣天皇は、纏向の日代の宮に住んで天下を治めた。この天皇が吉備臣らの先祖、若建吉備津日子の娘、針間之伊那毘能大郎女を娶って生んだ子は、櫛角別王、大碓命、小碓命またの名は倭男具那命、倭根子命、神櫛王の五人である。また八尺入日子命の娘、八坂之入日賣命を娶って生んだ子は、若帶日子命、五百木之入日子命、押別命、五百木之入日賣命である。他の妃の子は、豊戸別王、沼代郎女。また他の妃の子は、沼名木郎女、香余理比賣命、若木之入日子王、吉備之兄日子王、高木比賣命、弟比賣命。また日向の美波迦斯毘賣を娶って生んだ子は豊國別王。また伊那毘能大郎女の妹、伊那毘能若郎女を娶って生んだ子は眞若王と日子人之大兄王。また倭建命の曾孫、須賣伊呂大中日子王の娘、訶具漏比賣を娶って生んだ子は大枝王である。

この天皇の後の漢風諡号は景行天皇である。○この記では、段の初めにその名を挙げるには「〜命」とあるのだが、この段では「〜天皇」とあって、これより前には例がなかった。後では成務、仲哀、欽明、崇峻などはそうなっている。【その他はみな「命(みこと)」である。だがこの違いには、さほど特別な意味はないだろう。】○纏向(まきむく)」は延喜式神名帳に「大和国城上郡、巻向坐(まきむくにます)若御魂神社」があり、その地である。朝倉の宮の段の三重の采女(女+采)の歌に「麻岐牟久能、比志呂能美夜波(まきむくの、ひしろのみやは)云々」、万葉巻七(913)に「動~(なるかみ)の、音のみ聞(きき)し、巻向之、檜原山(ひはらのやま)を、今日見つるかも」、また(1093)「三毛侶(みもろ)の、其の山なみに、兒等が手を、巻向山は、繼之宜霜(つぎのよろしも)」、また(1987)「巻目之、由槻我高仁(まきむくの、ゆつきがたけに)」、【「向」を「目」とも書いているが、それを「もく」と読むのは誤りである。】また(1100)「巻向之、病足之川由(まきむくの、あなじのかわゆ)」、また(1101)「巻向之、川音高之母(まきむくの、かわとたかしも)」、巻十【五丁】(1819)に「巻向之、檜原丹立流、春霞(まきむくの、ひばらにたてる、はるがすみ)」、巻十二【三十二丁】(3126)に「纒向之、病足乃山爾(まきむくの、あなじのやまに)」など、この他にも歌は多い。書紀では、垂仁天皇の都も「纏向」とある。【伝廿四の四葉を参照。】巻向山は、三輪山の東北に並んでいる山である。○日代宮(ひしろのみや)。これも地名によるか、単に宮の名か、定かでない。【この宮のあった辺りも檜原のうちなので、「檜代」の意味で付けた名かも知れない。「代」とは何であれ、境界を定めて区切ったところを言う。城を「しろ」と言ったことは、古い書物には見えないが、山背の国を「山城」に字を改めた時の詔に「この国は山河を襟帯し(山が襟、河が帯のように取り巻いて)、自然に城の形を造っている云々」とあるのを見ると、当時から「しろ」とも言ったので城の字を使ったのだろう。これも古言だとすると、直接に「檜城」と言ったことになり、その「城」を「しろ」と言うのも、もとは上記の「代」の意味だから、やはり同じことである。】書紀には「四年春二月、天皇は美濃に行幸した。冬十一月、美濃から帰って、纏向に都した。これを日代宮という」とある。○吉備臣(きびのおみ)のことは、黒田の宮の段に出た。【伝廿一の五十二葉から五十七葉までを参照せよ。】○若建吉備津日子(わかたけきびつひこ)。【「命」の字が脱けているのか。】黒田の宮の段に出た。【伝廿一の四十六、七葉、五十二葉。】この命は孝霊天皇の御子で、景行天皇は孝霊の五世の孫に当たるから、この命の娘を娶るというのは、年代が大きくずれるようだが、上代の人は寿命の長い人が多かったから、深く疑うべきではない。【ただ書紀によると崇神<十代>十年に「吉備津彦を西道に遣わした」とあるのは、孝霊<七代>の代の末から、百三十年ほど経った時である。また孝霊の末から景行<十三代>の初め頃まで、二百九十年に及ぶ。吉備の臣の祖、御友別は、この若建日子の孫で、應神<十六代>の廿二年に名が見える。孝霊の末から五百年余りなのに、その曽孫が生きているというのはどんなものだろう。このように、書紀の年紀はとにかく疑わしい。】倭建命の東征に付き従っていた吉備建日子も、新撰姓氏録によると、この人物の子だそうだ。また若建吉備津日子、吉備津日子と父子の名が似ていることから考えると、この間にも似たような名があって、二世、三世が混同され、一世のように伝えられたのかも知れない。○伊那毘能大郎女(いなびのおおのいらつめ)。「伊那毘」は和名抄に「播磨国、印南【いなみ】郡」とあるのがそうだ。万葉巻一【十二丁】(14)に「伊奈美國波良(いなみくにはら)」、巻三【十五丁】(253)に「稻日野(いなびぬ)」、また【二十四丁】(303)「稻見乃海(いなみのうみ)」、巻四【十六丁】(509)に「稻日都麻、浦箕乎過而(いなびつま、うらみをすぎて)」、巻六【十六丁】(938)に「神亀三年、播磨国の印南野に行幸したとき、・・・八隅知之、吾大王乃、神随、高所知流、稻見野能、大海乃原笶(やすみしし、わごおおきみの、かむながら、たかしらせる、いなみぬの、おおうみのはらの)」などがあり、他にも歌が多い。【古くから「いなみ」とも「いなび」とも言ったものと見える。】続日本紀廿六に「播磨国賀古(かこ)の人、馬養造、人上(ひとかみ)が言上して、『人上の先祖は吉備都彦の子孫、上道臣の息長借鎌(かりかま)で、難波高津の宮のとき、播磨国賀古郡の印南野に住んでおりましたが、その六世の孫が・・・どうか住んでいる土地の名に因んで印南野の臣の姓を賜りたく、お願いいたします』云々」【「賀古郡印南野」とあるのは、古くはこの野は印南郡から賀古郡にかけて広がっていたのだろう。この「人上」は、御友別命の十一世の孫だと、三代実録三十六に見える。】とあるのを見ると、この印南のあたりに、若建吉備津日子命の子孫が後まで住んでいたのだ。「いらつめ」という名は前【伝廿一の十葉、廿二の七十葉】に言った。「大」というのはその妹も妃だったから、姉妹を分けて「大」、「若」と言ったのである。【妹に対する呼称だけでなく、允恭天皇の御子などに「大郎女」という名が多い。】○櫛角別王(くしつぬわけのみこ)。この名の意味は、櫛は「奇」である。角は「葛(つな)」か「綱」か、【「つぬ」と「つな」と通う例が多い。】または地名だろうか、定かでない。書紀にはこの御子の名はない。○大碓命(おおうすのみこと)、小碓命(おうすのみこと)。書紀には「その大碓皇子と小碓尊は、同じ日に双子として生まれた。天皇は奇異に思って、誥2於碓1(碓に向かって言挙げした)。そのためこの二王の名を大碓・小碓という」とある。【和名抄に「臼は、四聲字苑にいわく、臼は穀物を搗く器である。和名『うす』」、また「碓は、祝尚丘の切韻にいわく、碓は足踏みして(穀物を)搗く道具である。和名『からうす』」とある。万葉巻十六(3886)に「佐比豆留夜、辛碓爾舂、庭立、碓子爾舂(さいずるや、からうすにつき、にわにたつ、からうすにつき)」とある。「碓子」は「磑子(すりうす)」の誤りか。「からうす」というのは、杵に柄があるので「柄臼(からうす)」のことである。韓臼(からうす)ではなく、上代からあった物らしい。】そもそも双子が生まれたことを奇異に思ったからと言って、事もあろうに、碓に向かって言挙げしたとはどういうことなのか。これはどう考えても、初めから碓に関係のある話だったのだろう。【御子の名の碓は「うす」と読み、「誥2於碓1」の碓は「からうす」と読む。というのは、御子の名をこの記でも書紀でも「臼」と書かず、「碓」としたのは、碓に関係した話だからこそ、古くからこう書いたのだろう。ところがまだ文字のなかった時代には、単に「うす」と言ったのでは、碓だとは分からないから、天皇の言挙げしたことを「からうす」と語り伝えてはっきりさせようとしたのだろう。○参河国の猿投(さなげ)村(底本では、猿はけものへん+爰)では、昔から碓を忌むそうだ。そこの「さなき山」というところに、延喜式神名帳の「狹投(さなぎ)神社」があり、今も大きな社で、景行天皇を祀るとも、大碓命を祀るともいう。また尾張の熱田神宮でも碓を忌む。用いれば祟りがあるという。】○倭男具那命(やまとおぐなのみこと)。後の文で、熊曾建(くまそたける)に名乗ったのもこの名である。「男具那(おぐな)」は書紀に童男と書いて、「これを『おぐな』と読む」と訓注がある。雄略の巻に「童女君」という名がある。【この名の訓ははっきりしない。今の本に「おなきみ」とあるが、納得できない。】それと比較すると、児童の場合、男を「おぐな」、女を「めぐな」と言ったのではあるまいか。【とすると、上記の「童女君」は「めぐなぎみ」とでも読むべきか。】「ぐな」は髪型による名で、「宇那韋(うない)」の「うな」に通うように聞こえる。【和名抄に「髫髪は和名『うない』、俗に垂髪の二字を用いる。童子の垂れた髪を言う」と見え、新撰字鏡に「コン(髟の下に几)は、髪が肩まで垂れているのを言う。『うない』」とある。この他にも髪について言う言葉が多い。総角(あげまき)、髫(めざし)など、また童(わらべ)も髪をざんばらにしていることから言う。今の俗言にも「前髪」などと言うたぐいだ。】これが名に付いたのは、書紀に「この小碓尊は、またの名日本童男、または日本武尊とも言う。幼くして雄略の気があり、成長するに及んで容貌魁偉、身長一丈で、力が大変強かった」とあり、幼い頃から世に秀でたところがあったので、倭国における優れた童男という意味である。【「倭何々」というのは、みな世に優れたという意味である。】書紀には「二年春三月、播磨の稻日大郎女姫【あるいは稻日稚郎女(わきいらつめ)とも言う。】を皇后に立てた。后は二人の男を生んだ。はじめを大碓皇子と言い、第二を小碓尊という。【一書には、皇后は第三子を生んだ、その第三は稚倭根子(わかやまとねこ)皇子だという。】」とあり、この記と違う。【書紀では、代々の天皇の御子を、垂仁までは「〜命」とあるが、この御世以降は「〜皇子」、「〜皇女」と書いてある。この記でも、垂仁の子までは「〜命」というのが多く、この御世以降は「〜王」とされていることが多い。偶然ではなく、いにしえから何か違いがあったのだろう。ただしこの記では「〜皇女」というのはない。女王も名は男王と同じく「〜王」とある。これこそ古伝そのままの伝えだろう。】○倭根子命(やまとねこのみこと)。書紀には八坂入媛の生んだ子に稚倭根子皇子があって、一書に稻日大郎女の子としているのは、上述の通りである。だが孝霊天皇、孝元天皇がともに大倭根子云々と称し、開化天皇も若倭根子云々という名を持つのに、この皇子にもこの名があるのはなぜか、いぶかしく思える。【倭根子という名のことは、伝廿一の三十五葉に言った。】○神櫛王(かむくしのみこ)。「櫛」は「奇」の意味である。新撰姓氏録には「神櫛別命」とある。書紀には、「次の妃、五十河(いかわ)媛は神櫛皇子と稻背入彦皇子を生んだ」とある。【稻背入彦皇子はこの記にはない。ただし玉垣の宮の段に、この名が見える。】○八尺入日子命(やさかいりびこのみこと)は、水垣の宮の朝の御子である。【伝廿三の六葉に出た。】○八坂之入毘賣命(やさかのいりびめのみこと)。名の意味は、父の名と同じである。書紀の四年のところに、この比賣が参内した事情が見える。「五十二年【夏五月、播磨の大郎姫が薨じた。】秋七月、八坂入媛命を立てて皇后とした」という。○若帶日子命(わかたらしひこのみこと)。名の意味には、特別なことはない。○五百木之入日子命(いおきのいりびこのみこと)。「五百木」は百磯城(ももしき)などと同様の称え名か。【書紀雄略の巻に、伊勢の廬城河(いおきがわ)が出てくる。廬城部(いおきべ)という姓もある。】新撰姓氏録に「高篠連は、景行天皇の皇子、五百木之入彦命の子孫である」と見える。【この姓のことは、続日本紀三十八に見える。】○押別命。書紀に忍之別とあるが、「之」の字は誤りである。【その理由は次に述べる。】「おしわけ」と読む。【この記には「之」の字がなく、一般に「〜別」という名では、「之」を言った例はない。旧事紀では「忍足別」とある。】「押」は「大(おおし)」の意味だろう。○五百木之入日賣命(いおきのいりびめのみこと)。名の意味は兄の名と同じである。【ある書で引用されている尾張国風土記に、「葉栗郡若栗郷に、宇夫須那(うぶすな)神社がある。廬入姫(いおいりひめ)が誕生した産屋の地であるため、この名がある」という。この母は美濃国で生まれ、天皇はその国で娶ったので、この日女も尾張国で生まれたのだ。兄の五百木之入日子命も尾張連の娘を娶ったことが明の宮の段に見え、これも縁があるようだ。】書紀には「四年春二月、天皇は美濃に行幸して・・・八坂入媛を召して妃とした。七男六女を生んだ。第一を稚足彦天皇(成務)と言い、第二を五百城入彦(いおきいりひこ)皇子、第三を忍之別(おしのわけ)皇子、第四を稚倭根子皇子、第五を大酢別(おおすわけ)皇子、第六を淳熨斗(ぬのし)皇女、第七を淳名城(ぬなき)皇女、第八を五百城入姫皇女、第九をカゴ(鹿の下に弭)依姫(かごよりひめ)皇女、第十を五十狹城入彦(いさきいりひこ)皇子、第十一を吉備兄彦(きびのえひこ)皇子、第十二を高城入姫皇女、第十三を弟姫皇女という」とある。【この十三人中、四人はこの記とも合っている。八人は母が違う。大酢別はこの記にない。たぶんこれは、「忍之別」と同一人物なのを、別人のように伝えたのだ。上記のように「忍之別」の「之」の字は誤りで、本来「忍別(おしわけ)」なのだが、その「忍」は「大」の意味だから「おおし」と「おおす」とわずかな伝えの違いから紛れて、二人として伝えたのである。億計(仁賢)天皇の名も、「大脚(おおし)」とも「大爲(おおす)」とも伝える。とすると、上記の「之」の字が余計な字であることは明らかで、この記に大酢別の名がないことも納得できる。】○又妾は「またのみめ」と読む。倭建命の段に「又一妻(またあるみめ)」、高津の宮の段にも「天皇の用いる妾(みめ)」とあるのと同じだ。【書紀なら妃と書くところを、そうは書かず、「妾」、「又妻」などと書くのは、字面に関係なく、古文の書き方である。訓も「妾」の字にこだわってはいけない。妾は和名抄に「おんなめ<旧仮名オムナメ>」とあるが、これは平民の場合の呼び名で、天皇の御妻を呼ぶ名ではない。師(賀茂真淵)は「『おんなめ』というのは俗称だろう。庶妹を『あらめいもうと』と呼ぶから、妾は『あらめ』と読むべきだ。正に対して麁(あら)の意味だ」と言ったが、これはよくない。】書紀では、妃だけでなく、夫人、庶妃、嬪、女御なども「みめ」と読んでいる。このように妾とだけ言ったのは、【賤しい出自だから名を隠したわけではない。】師のいわく、母の名が伝わらなかったから、こう書いたのだ。【伝わらなかった理由は、書紀によると、この天皇は十二年から十九年まで、長い間西国にいて、その間にその地で一時的に妻とした女性があり、御子は生んだけれども、京から遠く離れていたため、名は伝わらなかったことがあると思われる。そのため、御子の名にも伝わっていないのが多いのだろう。】○豊戸別王(とよとわけのみこ)。「戸」は「速(と)」の意味などではないだろうか。【旧事紀では豊門入彦(とよといりびこ)命という名を挙げたうえ、(別人として)豊門別命という名も挙げているが、疑問だ。】書紀には「次の妃、襲武媛は國乳別(くにちわけ)皇子と國背別(くにせわけ)皇子【一説に宮道別(みやじわけ)皇子】と、豊戸別皇子とを生んだ。その兄、國乳別皇子は水沼別(みぬまのわけ)の始祖である。弟の豊戸別皇子は、火國別(ひのくにのわけ)の始祖である」とある。【襲武媛は熊曾国の女性で、「武媛」が名だろうから、「そのたけひめ」と読むべきである。父の名は伝わっていない。この記では、この女性の名も出て来ない。國乳別と國背別の二王の名もこの記にはない。】○沼代郎女は書紀にはなく、他の母【稻日大郎女】の子に淳熨斗(ぬのし)皇女がいる。これと同一人物だろう。「ぬのしろのいらつめ」と読む。【師は「ぬなしろ」とも「ぬのし」とも読んだ。「ぬなしろ」はそうも読めるだろう。「沼河(ぬなかわ)」などとも書き、沼名木(ぬなき)郎女などもあるからだ。しかし「ぬのし」とは読めない。「し」の仮名に「代」とは書くはずがない。】名の「ぬ」は他にも例が多い。【前に出た。】「しろ」は天皇の名の「しろ」と同じか。あるいは名は書紀によって考え、母がこの記の豊戸別と同じと考えると、西国の地名などかも知れない。【越中国、土佐国などに「布師(ぬのし)」という地名がある。だがあるいは「ぬて」と読むべきかも知れない。「て」に「代」の字を書いた例は、他田の宮(敏達天皇)の段に「糠代(ぬかで)比賣命」、書紀の仁徳の巻に「玉代(たまで)」などが見え、万葉巻五(888)に「加利弖(かりて)」とあるのも「餉代(かれいて)」の意味だ。そうすると、「ぬて」は「鐸」である。書紀に、この天皇の弟で「鐸石別(ぬてしわけ)」という名の例もある。また後に出る「銀王」の名についても考えがある。しかし取りあえず書紀の淳熨斗に依拠して「ぬのしろ」と読んでおく。】○沼名木郎女(ぬなきのいらつめ)。名の意味は、崇神の皇女、沼名木之入日賣命について言ったのと同じだ。○香余理比賣命(かごよりひめのみこと)。「香」は書紀にカゴ(鹿の下に弭)とあるのによって、「かご」と読む。この名は前に例がある。○若木之入日子王(わかきのいりびこのみこ)は、叔父に同名がある。書紀にはこの王はなく、五十狹城入彦(いさきのいりひこ)皇子がある。同一人物だろう。【書紀の方が正しいだろう。】○吉備之兄日子王(きびのえひこのみこ)。吉備国に関係のある名ではないだろうか。○高木比賣命(たかきひめのみこと)。名については、特別な意味はない。【伊邪河の宮の段に「高材比賣(たかきひめ)」という名があったが、「材」の字は(他に例がなく)疑わしい。】書紀には高城入姫皇女とある。【それは應神天皇の妃の高城入姫命の名と混同されたのだろう。】○弟比賣命(おとひめのみこと)。以上の六柱も、書紀では八坂入媛命の生んだ子である。○日向之美波迦斯毘賣(ひむかのみはかしびめ)。書紀に「十三年夏五月、襲(そ)の国をすっかり平定して、高屋の宮に六年間住んだ。その国に美人がいて、御刀媛(みはかしびめ)といった。天皇は彼女を召して、生んだ子は豊國別皇子という。これは日向国造の始祖である。御刀、これを『みはかし』と読む」とある。だが御刀という名の由来はどうなのか分からない。【あるいは万葉(3485)に「劔刀(つるぎたち)、身に副(そう)妹(いも)」などとしばしば詠まれているように、深く愛して、片時も身から離さないようにしていたということかも知れない。】○豊國別王(とよくにわけのみこ)。名の意味には、特別なことはない。○伊那毘能若郎女(いなびのわきのいらつめ)。「若」は宇遲能和紀郎子(うじのわきのいらつこ)の例によって、師が「わき」と読んだのがいい。【「若」は「わか」、「わき」、「わく」などと読む。別雷(わきいかづち)なども「わき」で、若という意味だ。】書紀には「稻日大郎(いなびのおおいらつめ)姫、一説に稻日稚郎女(いなびのわきいらつめ)ともいう」とあって、他に若郎女はない。○註に「自レ伊下四字以レ音」とあるのは、前にあるべきなのにここにあるのは疑問だ。○眞若王(まわかのみこ)。名には特別な意味はない。【旧事紀に「眞稚彦命」とある。】明の宮の段に品陀眞若王【五百木之入日子命の子である。】という名が見える。○日子人之大兄王(ひこひとのおおえのみこ)。「人」は「大人(おひと)」の意味だ。【上の「日子」の「子」に「お」の音が含まれているので、(省略されて)単に「ひと」となったのだ。】「首(おびと)」を「人」と言った例もある。「大兄」は字の通りだ。舒明天皇の父の名も押坂彦人大兄(おさかのひこひとのおおえ)皇子という。その他にも「大兄」という名は多い。【履中天皇は「大兄云々」、安閑天皇は「勾大兄(まがりのおおえ)云々」、用明天皇の初めの名は「大兄皇子」、また山背大兄など、他にもある。】弘仁私記に、「昔は皇子の一般的な呼び名が『大兄』だった。また近臣のことを『少兄(すくなえ)』と呼んだ。『宿禰』というのは、『すくなえ』という意味を取ったのである」と言う。【大兄を書紀で「おいね」と読んでいるのは正しくない。】ところで書紀には、眞若王もこの王も記載がない。だが仲哀の巻には「叔父彦人大兄の娘、大中姫(おおなかつひめ)を妃とし」とあるから、この(景行の)巻にないのは、漏れたのだ。【たぶん五百木入日子命と紛れて脱けたのだろう。というのは、書紀では母の名も稻日大郎女と若郎女を混同し、應神天皇の妃の五百木入日子命の孫、中日賣(なかつひめ)命と仲哀の妃の大中姫も同名だからだ。】新撰姓氏録に「茨田勝(まんだのすぐり)は景行天皇の皇子、息長彦人大兄、瑞城(みつき)命の子孫である。」【「瑞」の字は、一本に「磯」と書いてある(磯城=シキになる)。旧事紀には息前彦人大兄水城(みずき)命とある。】○曾孫は和名抄に「爾雅にいわく、孫の子を曾孫という。和名『ひひこ』」、新撰字鏡にも「曾孫は『ひひこ』」とある。【契沖いわく、「すべて物を隔てるのを『ひ』と言う。孫(ひこ)は一代隔てたのである。曽孫はさらに一代隔てた子である。『目翳』を『ひ』というのもこの意味だ。水が凍って『氷(ひ)』というのも同じだ。」】○須賣伊呂大中日子王(すめいろおおなかつひこのみこ)。「須賣」は尊称で、皇神(すめかみ)などの「すめ」と同じである。【「皇」の字を書くのは、天皇について言うのだ。しかし「すめ」という言葉は、もともと「皇」の字の意味ではなかった。この王の名に入っているのでも分かる。単に尊んで言う名である。天皇を「すめらみこと」と言うのも、もとは尊んで言う名だっただろう。】「伊呂」については前【伝廿一の十葉】に出た。欽明天皇の子に「須賣伊呂杼(すめいろど)」という名がある。○訶具漏比賣(かぐろひめ)。名の意味は、髪が黒いことを称えたのか。万葉巻五【九丁】(804)に「美奈乃和多、迦具漏伎可美爾(みなのわた、かぐろきかみに)」、巻十三【廿丁】(3295)に「蜷腸、香黒髪丹(みなのわた、かぐろきかみに)」【この他にもある。】などがあるからだ。【旧事紀に「伊勢の幡主の娘、賀具呂姫」という同じ名がある。】ところでこの比賣の名は、後に倭建命の子を列挙した中にも、「御子の若建王(わかたけのみこ)が飯野の眞黒比賣を娶って生んだ子が須賣伊呂大中日子王、この王が柴野(しばぬ)比賣を娶って生んだ子が迦具漏比賣(かぐろひめ)命である。大帯日子天皇(景行)がこの迦具漏比賣命を娶って生んだ子が大江王」とあって、これによると曽孫というのは、迦具漏比賣のことである。【大中日子王ではない。ところが「曾孫、名は」とあって、大中日子王を曽孫とした文である。これは中頃からそう思い込んで、誤って伝えたのか。それともそこに一世脱けているのか。どちらにせよ一方は誤っているだろう。また大中日子王は母の眞黒比賣が倭建命の曽孫だから、母方から言うと倭建命の玄孫に当たるだろう。】景行天皇がこの訶具漏比賣を娶ったというのは、誰もが疑うことだろうが、よく考えてみると、これは伝えが紛れたものだ。【ただしそれでも記述が正しいとするなら、書紀の年紀によると天皇の廿七年に倭建命十六歳とあり、六十年に天皇が崩じた時は、倭建命が生まれてから四十九年であり、まだ曽孫はないはずで、たとえ生まれていたとしてもまだ結婚年齢までは成長していないはずだから、やはり年代が異なっている。しかし一般に書紀の年紀は、大きく違っていることもしばしばで、倭建命の年齢も前後違っているから、あながちにこだわって考えるほどでもない。この天皇が百三十七歳とあるのを、倭建命はもっと若い頃の子だったとすると、百余歳の時には、もうその曽孫を娶る可能性もあっただろう。百歳を過ぎて子を作った例も、上代には時々あるからだ。しかし、やはりそうではないと考える。曽孫は二世を隔てると行っても、御末(みこ)のうちだから、それを娶るなどというのはおかしい。同母の兄妹のまぐわいを忌んだことからすると、これも忌むべきことではないか。いずれにせよ、この結婚は伝えが紛れたのであって、実際にはなかったことと思われる。】すると延佳が「景行が迦具漏比賣を妃にしたというのは、疑いなきを得ない。たぶん孝霊の皇子の稚武彦命を誤って倭建命としたのだろう」と言ったのがよく当たっている。ただし「倭建命としたのだろう」と言ったのはそうでない。これは倭建命の子の若建王と、孝霊の子の若建彦王とを取り違えたのだ。【名が同じなのを考えよ。】間違った理由は、まずこの迦具漏比賣を生んだという大枝王の娘の大中日賣【仲哀の妃】を書紀【仲哀の巻】で彦人大兄の娘と書いているから、大枝王というのはすなわち日子人之大兄と同一人物に違いない。するとその大枝王の母の祖父である若建王は、その日子人之大兄の母の父である若建彦命と取り違えたのではないだろうか。また迦具漏比賣は應神天皇の妃とあるのを【その段に見える。】祖父の名を取り違えたことから、稻日の若郎女【若建彦命の娘で、日子人之大兄の母である。】と、また取り違えて、誤って景行の御世の妃と語り伝えたのだ。【ところが、應神の妃とあるのもまた取り違えがある。そのことはその段、伝卅二の十四葉で言う。】○大枝王(おおえのみこ)。「枝」の字は、後では「江」と書いてある。この王はすなわち日子人之大兄なのだが、母を取り違えたことから別人になったのは、上記で論じた通りだ。書紀にはこの御子はない。○記中、御世御世の段で御子を挙げた場合、その母ごとに「幾柱」と総数を註するのが通例だが、この段のみ、伊那毘能大郎女の子に「五柱」と書いてあるだけで、その他にはこの註がない。それには理由があるだろう。というのは、この天皇の御子は「記さなかったのが五十九王」とあり、伝わらなかった名が多いから、ここに挙げられた母たちの子の中にも、まだ漏れた名があった可能性があるからだろう。【「幾柱」と書けば、それに限られて他にはないことになる。とすると、初めの后の子が五柱とあるからには、他に子がなかったことが明らかだ。】○書紀には、上記の御子の他に「またの妃、三尾氏磐城別(いわきわけ)の娘、水齒郎女(みずはのいらつめ)は五百野(いおぬ)皇女を生んだ。【二十年春二月に、遣わして天照大神を拝祭させた(伊勢の齋宮となった)。】また次の妃、阿部氏木事の娘、高田媛は武國凝別(たけくにこりわけ)皇子を生んだ。これは伊豫国の御村別(みむらわけ)の始祖である、次の妃、日向(ひむか)の髪長大田根は、日向襲津彦皇子を生んだ。これは阿牟君(あむのきみ)の始祖である」という。【これを合わせて、書紀に書かれた御子の数は、全部で二十四人である。】

 

凡此大帶日子天皇之御子等。所レ録廿一王。不2入記1五十九王。并八十王之中。若帶日子命與2倭建命亦五百木之入日子命1此三王負2太子之名1。自レ其餘七十七王者。悉別=賜2國國之國造亦和氣及稻置縣主2也。

訓読:すべてこのオオタラシヒコのスメラミコトのミコたち、ふみにしるせるハタチマリヒトハシラ、しるさざるイソジマリココノハシラ。あわせてヤソハシラませるなかに、ワカタラシヒコのミコトとヤマトタケのミコトまたイオキノイリビコのミコトとこのミハシラぞヒツギのミコともうすミナをおわして、それよりほかナナソマリナナハシラのミコたちは、ことごとにくにぐにのクニのミヤツコまたワケ・イナキ・アガタヌシにわけたまいき。

口語訳:この大帶日子天皇の皇子は、記録した二十一人と、記録に残さなかった五十九人で、総計八十人だったが、そのうち若帶日子命、倭建命、五百木之入日子命の三人を太子とした。その他の七十七人は、それぞれ諸国の国造、和氣(別)、稲置、縣主に任じた。

所録は師が「ふみにしるせる」と読んだのに従う。【字のままに「しるせる」と読んだのでは言葉が足りない。「録」の字はそれを書いた書物についても、記すことについても用い、両方を兼ねて言うから、「ふみ(書)に記せる」というのに当たっている。】そもそも上代のことは書物などというものはなかったから、ただ口で語り伝えたのを、文字で書き記すということが始まって後は、その伝える言葉もみな書に記して伝わるようになった。ここに記録(ふみ)と言っているのは、浄御原(天武天皇)の御世に、稗田阿禮に申しつけて暗誦させたときに依拠した本を指しており、阿禮が言った言葉かも知れないし、初めからその書についてもそう言っていたのかも知れない。どちらもあり得るだろう。○廿一王(はたちまりひとはしら)。上記の数に合っている。【書紀には廿四王が挙げられている。】○不入記はこれも師が「しるさざる」と読んだのが良い。【また字のままに「ふみに云々」と読むと「ふみ」と言う語が重なって煩わしい。「ふみ」という言葉は、前に言って、ここにはない方がよい。】○八十王(やそはしら)は、本来の伝えはおよその数を言っているので、【俗に「七、八十人」と言うようなものだ。】必ずしも正確な数ではなかっただろう。【ところが「不入記五十九王」、また「自其餘七十七王」とあるのは、この「八十王」を正確な数と考えて計算上の数を言っているから、やや後の言だろう。】書紀にも「并八十王」とある。【旧事紀には「その天皇が生んだ子は、全部で八十一人で、男五十五人、女二十六人だった。宮中には六皇子、男五人、女一人を留め、それ以外はみな各地の州や縣に封じた。男五十人、女二十五人の合計七十五人をそれぞれ州縣に封じて、国史に記さなかった」と言い、五十五皇子と一皇女の名を挙げている。これは信じがたいことで、上記の文もこの記と書紀を突き混ぜて書いてあり、たいへん拙い文だ。】○「三王負2太子之名1(みはしらヒツギのミコともうすみなを)」というのは、上代では普通のことだった。上代に「日嗣ぎの御子」というのは、皇子のうちで特に秀でたところがあり、人に尊ばれた人のことで、それを特定して定めたのである。それは一人に限らず、二人、三人いたこともある。【その基準はまず皇后の生んだ子で、その他の場合も特に由縁のある皇子ということである。】そして皇位は、その日嗣ぎの御子の中から選ばれて嗣いだ。【ところが漢国では位を嗣ぐ子を一人だけ選んで「皇太子」と言ったので、その字を取って日嗣ぎの御子を呼ぶのに使ったのだ。それは後には、位を継ぐ人がこの中から出るようにあらかじめ定めておくのだから、「皇太子」の語もよく当たっているが、漢国では一人と定めているのに、わが国では一人に限らなかったから、同じでなく、相違もある。だから「太子」の字にのみこだわってはいけない。上代の習慣をよく考えるべきである。】その証拠を詳しく言うと、まず葺不合(ふきあえず)命の御子たち四人の中で五瀬命、若御毛沼(わかみけぬ)命【神武天皇】の二人が太子だった。また神武天皇の太子は神八井耳命と神沼河耳命【綏靖天皇】の二人だった。これはその段【伝十八の四―六葉、伝廿の四十八葉】で詳しく言った。次に書紀の崇神の巻に、「四十八年、豊城命と活目命【垂仁天皇】の二人のうちから、彼らの夢に基づいて皇位継承者に指名した」というのも、もともとこの二人はともに太子だったからだ。垂仁の巻で「天皇は五十瓊敷命と大足彦尊に『お前たちは』云々」とあり、これも二人ともに太子だったからである。【そうでなければどうしてこの二人に限ってこの詔を降しただろう。五十瓊敷命の墓は諸陵式に載っており、後代まで祭っていた(天皇に準ずる扱いだった)ことも考えよ。】次に應神の巻に「四十年、天皇は大山守命と大鷦鷯(おおさざき)尊を呼び寄せて、質問して云々」とあるのも、やはりこの二人と宇遲稚郎子(うじのわきのいらつこ)と三人が太子だったからである。だからそれ以前の二十八年のところにも「太子菟道稚郎子(うじのわきのいらつこ)」と書かれ、仁徳の巻には「初め天皇が生まれた日、木菟(つく:みみずく)が産殿に入ってきた。・・・そこで鷦鷯の名を太子に付けて、大鷦鷯皇子と呼んだ」と見え、この記の明の宮(應神)の段にも「太子大雀(おおさざき)命」、新撰姓氏録【雀部の朝臣の條】にも「應神の御世、皇太子大鷦鷯尊」とある。これらはみな上代からの伝えのまま書いた文である。宇遲若郎子が皇位を堅く辞退して大雀命に譲ろうとしたのも、大雀命は兄であり、ともに太子だったためだ。【書紀では何でもかんでも漢国のふりを真似て書いた。皇太子を立てたなどという記事も、上代から全く漢国と同様だったかのように、文を作って書いたのであって、いにしえの本当の伝えは隠れて見えなくなってしまった。前述したように天皇の母も「皇太后」などと書いたので、その時の皇后を「大后」と呼んでいたいにしえの習慣は隠れて、読む人に分からない。たまたま古い書物にそう書いてあれば、かえってその方を疑う始末だ。だがまた漢風に書いたあらゆる例から漏れて、古伝のままに書いたところも時々ある。たとえば大雀命を太子と書いたのもその例だ。それは何気なく、ふとした不注意で書いたものだ。とすると書紀も、漢籍を装った飾りのない部分に注意して、この記とも比べて、事の様子をよく考えれば、隠された上代の真の姿も見えてくるだろう。それを延佳が「思うに、三王が太子の名を負ったというのは、皇太子としたわけでなく、ただ諸国に封じたのと同列でなかったというだけのことだ。日本紀を合わせて考えよ。一般にこの記は文字に拘泥しない傾向があり、妃を后と書き、薨を崩と書いた類が多い」と言ったのは、もっぱら漢国に倣った後の制度と、書紀の文になずんで、上代の趣を深く考えなかったための妄説である。この記は文字に拘泥しないといっても、日嗣ぎの御子でないものを太子と書くはずはない。妃を后と書いたのも同じだ。後の制度や書紀の文などをとらえて上代のことを論ずるのは、延佳だけではない。ほとんどの世の物知り人たちも同じことで、この病気が治った人は見たことがない。だからここで延佳の言ったことを引いて弁じておいたのである。】ここで、若帶日子命と五百木之入日子命は大后の生んだ子のうち御兄(みせのみこ:年長)で、倭建命は最初の后の子だったから、この三人を特に太子としたのだろう。【倭建命には兄の櫛角別王がいるが、それより倭建命を特に愛したのだろう。書紀廿八年のところでも、「天皇は日本武の功を賞めて、特別に愛した」とある。大碓命は心に適わなかったことが、四十年のところにある。この記にもそれらしい記事がある。】○自其餘は「それよりほか」と読む。【「餘」、「他」などを「ほか」と読むのは雅言でないように思う人があるかも知れないが、そうではない。万葉巻十一(2434)に「荒礒越、外徃波乃、外心(ありそゆく、ほかゆくなみの、ほかごころ)」、古今集春の伊勢の歌(68)に「ほかのちりなむ、後ぞ咲(さか)まし」などがある。】○國々之(くにぐにの)。これは後の縣主までに係る。【國造だけでない。】○國造(くにのみやつこ)のことは上巻【伝七の六十六葉、六十七葉】で言った。○和氣(わけ)は国造、稲置などと同類で、諸国のところどころにあり、【これ以前には境岡の宮(懿徳天皇)の段に血沼別(ちぬのわけ)、多遲麻竹別(たじまのたけのわけ)、伊邪河の宮(開化天皇)の段に葛野別(かづぬのわけ)、近淡海蚊野別(ちかつおうみのかぬのわけ)、若狹耳別(わかさのみみのわけ)、三河穂別(みかわのほのわけ)、その後にもあり、ここの後にも、「〜別」とあるのはみなこれである。この段の中には三野之宇泥須和氣(みぬのうねすわけ)と仮名で書いたところもある。】その地の上(かみ)として治める人を言う。名の意味は【別と書いたのは借字で、】吾君兄(わぎえ)のことだろう。【この類には「君」というかばねもあり、「直(あたえ)」というのもある。それも「阿多比兄(あたいえ)」であることは、伝七で言った。同じ類だと理解せよ。「宿禰」も「少兄(すくなえ)」である。】様々な「かばね」は、すべて尊称だ。ちなみに言っておくべきことがある。代々の皇子、またそれほどの身分でない人でも、「〜別」というのが多いが、【諸国のカバネの別は「〜の別」と言うが、人の名では「〜別」と言って、「の」を挟まない。】それも意味は「吾君兄(わぎえ)」である。【天皇が自分の子に「君」と名づけるのはどうかと思う人もあるだろうが、それは誤っている。應神天皇の言葉に、大雀命のことを「佐邪岐阿藝(さざきあぎ)」と言っている例などがある。】しかしここに挙げた国々のかばねの「別」と人名の「別」とは、本来違った意味である。混同してはならない。【言葉の意味は同じだが、同一の言ではない。万葉にはまた違った「和氣」がある。それは目下の者を指して言う語で、「汝」などと言うのと同じである。これももとは「吾君兄」の意味で尊称だったのが、長い間に言い慣れて、後にはかえって賤しめる言い方になった。「汝」も「名持(なもち)」の意味で本来尊称だったが、後には賤しめる言い方になったのと同じだ。漢国でも人を「卿」と言うのは尊称だったが、次第に賤しめる言い方になった。この万葉の「和氣」は紛らわしくて、誰もが疑うことだ。私は詳しく考察したことがあるが、長いのでここでは省く。】○稻置(いなき)は「伊良君(いらき)」ではないだろうか。「ら」と「な」とは通用した例がある。【この記で「比良鳥(ひらとり)」と言うのを他の書物で「夷鳥(ひなとり)」と言うのなどがそうだ。】「伊良(いら)」は郎女(いらつめ)などの「いら」である。【その言葉の意味は前述した。】○縣主(あがたぬし)のことは志賀の宮(成務天皇)の段に出る。そこ【伝廿九の六十四葉】で言う。稻置もこれも、別(わけ)と同じたぐいで、これらについては上巻【伝七の八十三葉】でも言った。この皇子たちの子孫には「君」などのかばねもあり、後にも見えているが、ここで挙げなかったのは、和氣・稻置・縣主の中にそれを含めて、省いたのだ。○別賜(わけたまう)とは、国造、別、稲置、縣主などに分け任じて、国々諸々のところに配置することを言う。【だからこの「別賜」の「別」と、国々のかばねの「別(わけ)」とは意味が違い、関係がないのだが、人はこれを混同して、国々の「別(わけ)」というかばねも皇子の「〜別」という名も、みなこの「別賜」の意味から出たと思っているのは間違いである。国々の「別」というかばねは、分けたという意味ではない。だからここで「別」と書かないで「和氣」としたのも、そういう混同を避けるためだっただろう。ところが新撰姓氏録の佐伯直の條にいわく、「成務の御世、針間國の半分を分けて与え、これを針間別と名づけた」とあるのなどは、いかにも「分けたから別(わけ)」と言ったように聞こえる。そういう誤解に基づく伝えだろう。名前の「別」も分けた意味ではない。この天皇は淤斯呂別天皇、應神天皇は大鞆別(おおともわけ)天皇、また品陀別(ほむだわけ)天皇、履中天皇は伊邪本別(いざほわけ)天皇など、天皇の名にもあるのだから、分けたという意味でないことを知るべきだ。新撰姓氏録には神別・皇別という名称があるが、これは神から分かれた氏、天皇から分かれた氏ということで、これも混同してはならない。】この七十七王の中には、女王も多数あるはずで、悉く国々を分け与えたというのはどうか、疑わしく思えるけれども、ここはそれぞれの女王のことまで分けて細かく言ったのではない。漠然と全体の様子を言ったのであって、いにしえの語り方なのである。【書紀にも同じように書いてあるから、これは古伝のままなのだろう。】書紀には「その天皇の息子・娘は、前後合わせて八十人いたが、日本武尊と稚足彦天皇、五百城入彦皇子を除いて、七十余りの子は、みな国郡に封じて、それぞれその地に行かせた。だから今に至るも、諸国の別(わけ)とはその別王(わかれのみこ)の子孫である」とある。この文には納得できないところがあり、【というのは、「諸国の別というのは」と言ってしまうと、七十余りの皇子の子孫で、この世に残っている者は、みな「〜の別」というかばねばかりということになり、国造、稲置、縣主というのはないように聞こえる。書紀に「神櫛の皇子は讃岐国造の始祖、日向襲津彦の皇子は阿牟君の始祖」などと言いながら、ここではただ別(わけ)のみのように書くのはどうなのか。一つを挙げて、その他を省く事は多いが、ここはそういう場合のようでもない。はっきり「別」に限定しているようだ。また「別王の子孫である」というのも紛らわしい。別王という名は、古い呼び方にも聞こえず、「わかれのみこ」と呼んでも「わけみこ」と呼んでも、古言とは思えない。漢文として読んでもどうかと思われる名である。思うに、諸国に分け置いた王という意味で書かれたのかも知れないが、上に「諸国の別というのは」とあって「その別王の」と続いているから、「諸国の王」も分け置かれた意味から出たように、混同されて聞こえるのである。あるいは撰者もそう誤解して書いたのかも知れない。だが別王の子孫だから「別」と言うのだとしたら、別王でない倭建命の子孫にも「別」のかばねがあるのをどう説明するのか、諸国のかばねの「別」は、分かれて住んだための名でないことは、前述の通りである。よく考えなければ誤るだろう。この書紀の文によって、思い違えてはならない。さらに言うと、この文の通りなら、諸国の「別」はみな景行の子孫で、他の天皇の子孫はいないことになる。これもまた疑問だ。】

 

故若帶日子命者。治2天下1也。小碓命者。平2東西之荒神及不伏人等1也。次櫛角別王者。<茨田下連等之祖。>次大碓命。<守君大田君嶋田君之祖。>次神櫛王者。<木國之酒部阿比古宇陀酒部之祖。>次豊國別王者。<日向國造之祖。>

訓読:かれワカタラシヒコのミコトは、アメノシタしろしめしき。オウスのミコトは、にしひむかしのアラブルカミ・マツロワヌヒトどもをことむけたまいき。つぎにクシツヌワケのミコは、<マンタのムラジらのおや>。つぎにオオウスのミコトは、<モリのキミ・オオタのキミ・シマダのキミらのおや>。つぎにカムクシのミコは、<キノクニのサカベのアビコ・ウダのサカベのおや>。つぎにトヨクニワケのミコは、<ヒムカのクニのミヤツコのおやなり>。

口語訳:若帶日子命は、後に天下を治めた。小碓命は東西の荒ぶる神や服従しない人々を平定した。櫛角別王は<茨田下連らの祖である。>大碓命は<守君・大田君・嶋田君の祖である。>神櫛王は<木國の酒部阿比古・宇陀酒部の祖である。>豊國別王は<日向國造の祖である>。

小碓命を兄の櫛角別王や大碓命より先に挙げているのは、この皇子は早く薨じたから皇子に留まったが、そうでなければ天下を治めるはずの人だったからだ。ここでのみ「次に」と言っていないのも、そのためである。○東西は「にしひむかし」と言うのが皇国の言葉である。【特にこれは、西の方を平らげたのが先だったから、こう読むのこそ適当だろう。】○荒神(あらぶるかみ)、不伏人(まつろわぬひと)という言葉は前【伝十九の六十八葉】に出た。○平は、ここでは「ことむけ」と読む。○茨田下連は疑わしい。「下連(しものむらじ)」と言ったのは、他の書物には見えない。【ただし新撰姓氏録の諸蕃に高安下村主(たかやすのしものすぐり)という姓がある。】他の姓、他のかばねにも例がない。茨田連(まんたのむらじ)は、白檮原の朝(神武天皇)の皇子、神八井耳命の子孫で、その段に見える。【伝二十の五十一葉】その他の皇子の子孫にこの姓があることは、どの書物にも見えない。【旧事紀に「櫛角別命は茨田連の祖」とあるが、それはこの記によって書いたのだろう。】伝えが紛れたのだろう。【これは新撰姓氏録に「茨田勝(まんたのすぐり)は景行天皇の皇子、息長彦人大兄瑞城命(おきながのひこひとのおおえみずきのみこと)の子孫である」とあり、これが紛れたのか。同書には「下家連(しもやけのむらじ)は彦八井耳命の子孫である」ともあるから、茨田は上記の茨田勝と白檮原の宮の段の茨田連を混同し、下連とあるのはこの下家連の「家」を落として、茨田連とくっついたものではないだろうか。彦八井耳命は、茨田連の祖である。また同書に「江首(えのおびと)は彦八井耳命の七世の孫、來目津彦大雨宿禰大碓命の子孫である」とあり、これもいろいろ混乱があるように聞こえ、「大碓命」とあるのは、ここの紛れと関連がありそうだ。】○大碓命(おおうすのみこと)。前後の例からすると、ここにも「者」の字があるはずだが、諸本いずれもないのは、脱けたのか。【延佳本にはあるが、彼が書き加えたのだろう。】○守君(もりのきみ)。「守」は書紀によると【その文は後に引く。】美濃の地名だと言うが、物の本に見えない。【今はこの地名はないのかどうか、尋ねてみなければならない。】和名抄には、信濃国佐久郡に茂理郷がある。【これは美濃国の隣国である。】この氏のことは書紀にも見えて、後に引く。氏人は斉明の巻、天智の巻に「守君大石(おおいわ)」、持統の巻に「守君苅田(かりた)」などが見える。新撰姓氏録【左京皇別】に「守公は、牟義(むげ)公と同氏、大碓命の子孫である」、また【摂津国皇別】「守公は、牟義公(むげのきみ)と同氏、大碓命の子孫である」とある。○大田君(おおたのきみ)。どこにでもある地名だが、和名抄の「美濃国大野郡大田郷、安八郡大田郷」とあるうちのどちらかだろう。この姓は書紀では應神天皇の御子、「根鳥(ねとり)の皇子は大田君の始祖である」とあり、伝えが異なる。新撰姓氏録には見えない。【続日本紀四十に「大田首豊繼」という名が見えるが、異姓である。】○嶋田君(しまだのきみ)。和名抄に「尾張国海部郡、嶋田郷」がある。これだろうか。【美濃に近いからだ。また駿河国富士郡、常陸国茨城郡などにもこの名の郷がある。常陸には久慈郡に大田郷もあるから、それもこれも常陸国だろうか。】この姓は、他の書物には見当たらない。【「嶋田臣」があるが、異姓である。】大碓命の子孫はこれらの他にもあり、後に見える。新撰姓氏録には「池田首は景行天皇の皇子、大碓命の子孫である」ともある。【和名抄に「美濃国池田郡、池田郷」が載っている。】○木國之酒部阿比古(きのくにのさかべのあびこ)。【「阿」の字を諸本で「訶」と書いているのは誤りだ。ここは真福寺本と延佳本に依った。また「比」の字は「毘」のはずだが、諸本いずれも「比」と書いている。】酒部のことは次に言う。「阿比古」はかばねである。前【伝廿二の八十葉】に出た。木国(きのくに)に酒部氏が住んでいたことは、続日本紀廿六に「紀伊国・・・また国司、国造、郡領および供奉の人らに爵位と物を賜い、・・・女嬬(下級女官)の酒部公家刀自(いえとじ)ら、それぞれ(賜うものに)差があった」とある。【これは天平神護元年十月のことで、その国に行幸したときの褒賞である。天武紀に「二十二年冬十月、紀酒人直(きのさかひとのあたえ)に姓を与えて連とした」とあるのは、紀氏の支流で、異姓だろう。】○宇陀酒部(うだのさかべ)。職員令の造酒司のところに「酒部六十人が行觴に供することを掌る(酒宴の給仕か)」とある。地名にも、和名抄に「下野国河内郡、酒部郷」がある。新撰姓氏録【右京皇別】に「酒部公は、同皇子の三世の孫、足彦大兄王の子孫である。大鷦鷯(仁徳)天皇の御代、韓国からやって来た人、兄曾々保利(えそそほり)、弟曾々保利(おとそそほり)の二人がいた。天皇は『お前たちはどんなことができるか』と尋ねると、皆『酒造りができます』と答えたので、酒を造らせた。そこで麿に『酒看都子(さかみつこ)』という名を与え、山鹿比刀iやまかひめ)に『酒看都女(さかみつめ)』という名を与えた。そのため『酒看都(さかみつ)』を氏の名とした」とある。【「同皇子」というのは、この直前にある讃岐公の「五十香足彦(いかたらしひこ)命の子孫」とあるのを言っている。しかしこれは誤りで、讃岐公の神櫛命の子孫だ。次に引く和泉国皇別の酒部公の條の通りである。さらに次にも言う。前記の文は、印本では「人兄」を「兄人」と誤り、「曾々」の「曾」を一字落とし、「都」の字を全部「即」に誤っている。ここに引いたのは古い本によった。「皆」の字は「白(もうす)」の誤りだろう。「麿に」とあるところから後は、紛らわしい書き方である。たぶん麿や山鹿比唐ニいうのは足彦大兄王の子孫で、この氏の人だったのを、酒看都古、酒看都女という名を与えて、曾々保利の造った酒を所聞看(きこしめ)す(飲む)ことに給仕として供奉させたのだろう。「看」の字は「めし」とも読める。酒を「きこしめす」ことに供奉したための名である。「み」と読んでも意味は同じだ。万葉巻十六(3880)に「・・・高坏爾盛机爾立而、母爾奉都也、目豆兒乃負父爾獻都也、身女兒乃負(たかつきにもりつくえにたてて、ははにまつりつや、めずこのまけちちにまつりつや、みめこのまけ)」とある「負(まけ)」は「設(ま)け」の意味である。この「目豆兒(めずこ)」、「身女兒(みめこ)」は「看都子(みつこ)」、「看都女(みつめ)」と同様の意味に聞こえる。なお大嘗祭式に「造酒兒、神語で『さかつこ』、また『さかなみ』」という人があるが、これらの名の意味は別である。】また【和泉国皇別】「酒部公は、讃岐公と同祖、神櫛別命の子孫である」と見える。続日本紀五に「酒部君、大田糠麻呂、石隅の三人に、庚寅の年籍によって、鴨部君の姓を与えた」、同八に「酒部連の相武(さがむ)」、同卅六に「酒部造家刀自」、文徳実録八に「酒部君眞貞」などという人の名が見える。すると新撰姓氏録の「酒部公」もこれらも、木国の酒部と同族か、別の氏か、その弁別は難しい。神櫛王の子孫は、上記の他にも、書紀に「神櫛皇子は、讃岐国造の始祖である」とあり、新撰姓氏録に「讃岐公は、大足彦忍代別天皇(景行)の皇子、五十日足彦命の子孫である」とあるのは取り違えで、神櫛命の子孫である。上記の酒部のところを考え合わせよ。また続日本後紀五に「讃岐公、永直、同姓水成ら、合わせて廿八烟に、公を改めて朝臣とした。永直は讃岐国寒川郡の人で、遠祖は景行天皇第十の皇子、神櫛命である」、三代実録九に「右京の人、讃岐朝臣高作、同姓時雄、同姓時人らに、和氣朝臣の姓を与えた。出自は景行天皇の皇子、神櫛命である」とある。○日向國造(ひむかのくにのみやつこ)。書紀にも「豊國別皇子は、日向国造の始祖である」とある。国造本紀に「日向国造は、軽嶋の豊明の朝の御世に、豊國別の皇子の三世の孫、老男を国造に定めた」とある。【旧事紀で「豊國別命は吉備別の祖」と言って、また「豊國別命は日向の諸縣の君の祖」と言っているのは疑問だ。】

 

於レ是天皇。聞=看=定2三野國造之祖神大根王之女名兄比賣弟比賣二孃子其容姿麗美1而。遣2其御子大碓命1以喚上。故其所レ遣大碓命。勿2召上1而。即己自婚2其二孃子1。更求2他女人1。詐名2其孃女1而貢上。於レ是天皇知2其他女1。恒令レ經2長眼1。亦勿レ婚而。愡也。故其大碓命娶2兄比賣1生子。押黒之兄日子王。<此者三野之宇泥須和氣之祖。>亦娶2弟比賣1生子。押黒弟日子王。<此者牟宜都君等之祖。>

訓読:ここにスメラミコト、ミヌのクニのミヤツコのおやカムオオネのミコのミむすめナはエヒメ・オトヒメのフタオトメ、それかおよきをきこしめしさだめに、そのみこオオウスのミコトをつかわしてめさげたまう。かれそのつかわさえたるオオウスのミコト、めさげずて、おのれとみずからフタオトメにたわけて、さらにアダシおみなをまぎて、そのおとめともうしてたてまつりき。ここにスメラミコトそのアダシおみななることをしろしめして、つねにナガメをへしめ、まためしもせずて、ものおもわしめたまいき。かれそのオオウスのミコト、エヒメにみあいてウミませるミコ、オシクロのエヒコのミコ。<こはミヌのウネスのワケのおや。>またオトヒメにみあいてウミませるミコ、オシクロのオトヒコのミコ。<こはムゲツのキミらがおや。>

口語訳:天皇は三野国造の祖、神大根王の娘、兄比賣と弟比賣の二人がとても美しいと聞いて、大碓命を遣わし、この二人を召し上げようとした。ところが遣わされた大碓命は、そのまま天皇のもとに送らず、自分でこの二人の姫と交わり、他の女を姫に仕立てて、「これがその兄比賣と弟比賣です」と言って天皇に奉った。だが天皇は差し出された女が他の女だと気づき、何度も見直し、女を召しもせず、思いに沈んだ。この大碓命が兄比賣に生ませた子は押黒之兄日子王、<これは三野の宇泥須和氣の祖である。>また弟比賣に生ませた子は押黒弟日子王である。<これは牟宜都君らの祖である。>

三野國造(みぬのくにのみやつこ)は前【伝廿二の七十二葉】に出た。○神大根王(かむおおねのみこ:旧仮名カムオホネのみこ)は、諸本で「神」の字を落としているが、ここでは延佳が補ったのによる。書紀にも「神骨(かむほね)」とあるから、この字が脱落したことは間違いない。この王は彦坐王(ひこいますのみこ)の子で、前【伝廿二の七十二葉】に出た。○兄比賣(えひめ)、弟比賣(おとひめ)。姉妹の名をこう言うことは、前【伝廿四の五十九葉】にも例があった。書紀には兄遠子(えとおこ)、弟遠子(おととおこ)とある。○二孃子。諸本で「二」の字が脱けている。ここでは真福寺本と延佳本に依った。「ふたおとめ」と読む。書紀の應神の巻にも「孃子(おとめ)」とある。記中にはよくある語だ。白檮原の宮の段に「七媛女(ななおとめ)」ともある。○其容姿麗美(それかおよし)というのは、白檮原の宮の段に見えた。【伝廿の十五葉】○聞看定(きこしめしさだめに)。【「看」の字は、諸本「者」に誤っている。ここでは延佳本によった。】「定」は「さだめに」と読む。【師(賀茂真淵)は「さだしまして」と読んだが、良くない。】これは書紀に「大碓命を遣わして、その女性たちの容姿を確かめさせた」とあるのによると、ただ風の噂に聞いたのでは確かでないから、聞いた通り、本当に美人なのかどうか、確認するために遣わしたわけだ。【その意味に取るには少々言葉が足りないようだが、こういう風に簡約に言うのが古文だ。この「遣」の上に「而」の字があるのは、後に「故取2其人等1而遣」とあるのと同じ書き方だ。また「遣2其御子大碓命1以喚上」と直接に続いているのも言葉が足りないようだが、これもまたこう縮めて言ったのが古文である。「喚上」は「召し上げようとした」という意味だろう。】続日本紀卅の詔に「・・・問求仁、朕所念天在何如久、大神乃御命爾波不在止、聞行定都(といもとむるに、あがおもおしてあるがごとく、おおかみのみことにはあらずと、きこしめしさだめつ)<口語訳:・・・問いただしてみて、私が思っていたような大神の言葉ではなかったと確認できた>」とある。○喚上(めさげ)。前【伝廿五の四十六葉】に出た。ここは召し上げようとして遣わしたのである。【この時直ちに召し上げたのではない。】軽嶋の宮の段にも「天皇は日向の国の諸縣の君の娘、髪長比賣がとても美しいと聞いて、彼女を用いようと喚上(めさげたまう)時に」とある。○所遣は「つかわさえたる」と読む。万葉巻五【三十一丁】(894)に「唐能、遠境爾、都加播佐禮、麻加利伊麻勢(もろこしの、とおきさかいに、つかわされ、まかりいませ)」【「され」をここで「さえ」と読むのは、古言の言い方だからだ。このことは前に述べた。「つかわす」は遣いを出す人が主語であり、「つかわさる」は遣いに行く人が主語である。主語が違うということだ。これも前に述べた。】○勿は、記中で「不」の意味に使っていることは、初めの巻で述べた。二孃子を天皇に奉らなかったのである。○己は「おのれと」と読む。○婚は「たわけて」と読む。前に例があった。【伝廿の卅九葉】○他女人は「あだしおみな」と読む。○詐名は「ともうして」と読む。こう読めば、偽って名づけて、という意味も含まれる。○令經長眼【「眼」の字は、諸本で「肥」の字に誤っており、真福寺本も「服」に誤っている。ここでは延佳本によった。】は、字のままに「ながめをへしめ」と読む。【「へしめ」を「へせしめ」、「へさしめ」などと読むのは正しくない。これは万葉巻十七(4008)に「見之米(みしめ)」、巻廿(4293)に「依志米(えしめ)」などとあるのと同じ言い方だ。「令レ見(みしめ)」、「令レ得(えしめ)」なども「みせしめ」、「みさしめ」、「えせしめ」、「えさしめ」などと言うのは後代のことだ。】「長眼(ながめ)」とは、注意して長時間見つめることを言う。【そもそも「長目」という言葉のもとは、「目(め)」は「みえ」の縮まった言葉で、万葉などに「妹(いも)が目見ず」、「君が目を欲(ほり)」などとあるのと同じ言い方である。「妹が見えるのを見ない(姿を見ない)」、「君が見えてほしい」という意味だ。「夢(いめ)」も「寝(い)」の間に見えることを言う。このように「所見(みえ)」は、こちらが相手を見ることを言うが、またそれを見る主体についても言う。顔に付いている目も、他から見える意味の名だが、見る者の器官の名ともしているのである。だから「長目」は長く見ることであって、もとは「長所見」で、向こうから見えていることになるのだが、それをこちらから見ていることについて言うのだ。「ながむ」と活用するのも、「む」は「みえ」の縮まった形で、向こうから見えることなのだが、それをこちらから見ることに言っている。「ながめ」には「眺」の字を書き、この字の注に「眺望である」、「遠視である」ともあるのによると、「長」とは遠くを見ることに言うようだが、いにしえからこの言葉を使った例を考えるとそうではなく、やはり長時間見ることである。心に思うことがある時はつくづくと対象を眺めるものだから、中昔からは物思うということを即「ながめ」と言う。声を長く引いて歌うのも「ながめ」と言うが、それは別のことである。】ここはその女性を目の前にして、婚姻しようという意図を持って、つくづくと眺めた様子を言うので、天皇が長時間見つめたのである。【師は「ながめわたれども」と読んで、女性の方が長く見つめたと考えたが、どうだろうか。そう読むと「令」の字を書いた意味には不適当だろう。】「恒令レ經(つねにへしめ)」とは、幾たびも同じように見たことを言う。○亦勿婚而は「まためしもせずて」と読む。○愡は【諸本にソウ(木+怱)と書いてあるのは良くない。】ここでは「ものおもわしめたまいき」と読む。上巻に「苦瀬(うきせ)に落ちて患愡(くるしまん)時」、また「令愡苦(たしなめたまえ)」などもあった。この字のことは、そこで言った。【伝六の四十三葉、伝十七の四十四葉で言っている。愡恫は「志を得ないのである」とも注されるから、「ものおもう」と言うのも当たっている。】天皇が娶ろうとしているかのようにじっと見つめるので、召すのかと思って待っていても、ついに娶ることもなかったので、つくづく考え込むのである。【古今集(1037)に「殊(こと)ならば、思はずとやは、いひはてぬ、何(な)ぞ世の中の、玉たすきなる」という歌のような意味合いだ。】そもそもこういう扱いをしたのは、この女性が本物でないことは察知しながら、気付かぬ振りをして、大碓命の偽りに報いたのだ。書紀には「四年春二月、天皇は美濃に・・・この月に美濃国造、神骨の娘、姉は兄遠子(えとおこ)、妹は弟遠子(おととおこ)が、二人ともたいへん美人だと聞いた。そこで大碓命を遣わして、その乙女たちの容姿を確認させたが、大碓命は彼女たちと密通して、天皇に復命しなかった。そのため大碓命に恨みを抱いた」、「冬十月、天皇は美濃国から都に帰った」とある。これによると、このことは美濃国に行幸した間に起こったことである。【だがこの記事は少し疑わしい。というのは、天皇の廿七年に日本武尊は年十六とあるから、十二年に生まれている。それなのに、その同日に双子に生まれたはずの大碓命が、四年に登場しているのはどういうことか。とすると、天皇が美濃国に行幸したのを、四年としたのが誤りか。それとも大碓命のこのことを、天皇が美濃国にいた時のこととしたのが誤りか。いずれにせよ間違いがあるだろう。】○押黒之兄日子王(おしくろのえひこのみこ)。「押」は「大し」の意味である。「黒」はどういう由来があるのかはっきりしない。上巻にある「隠伎の島のまたの名、忍許呂(おしころ)」【伝五の八葉】と同じ言葉ではないだろうか。【允恭天皇の子に黒日子王、白日子王という名がある。それは「白」に対応するから、黒色の意味に聞こえるが、ここは兄弟共に「黒」と言っているから、黒色の意味ではないだろうと思う。】○三野之宇泥須和氣(みぬのうねすわけ)。記中、諸々の「別」のかばねはみな「別」と書いてあるのに、ここでだけ「和氣」と書いたのは、前の文で「国造、又和氣、及云々」といった文に続くから、その「和氣」がつまり「別」のかばねであることを知らせたのだ。【その箇所で「別」と書かず「和氣」とあったのは、「分けた」という意味の「別」と混同することを避けるためだということは前に述べた。この記は一般に文字にはこだわらないと言っても、こうしたことには注意深い書き方がしてある。よく気を付けて読むべきである。】「宇泥須(うねす)」というのは、地名にも姓にも見当たらない。【旧事紀には天皇の御子たちに「兄彦命」という名が出ており、「大分穴穂御埼(おおきだのあなほのみさき)別、海部直、三野の宇泥須別らの祖である」と書いてあるが不確かだ。旧事紀で天皇の皇子の名を挙げたところには、妄説が多いからである。】○押黒弟日子王(おしくろのおとひこのきみ)。【「黒」の下に「之」の字があるはずだが、諸本共にない。】旧事紀には天皇の御子たちの中に「弟引(おとひき)命」という名を挙げ、「牟宜都君の祖」と書いてある。【「引」の字を延佳本で「別」と書いてあるのは誤りだろう。「日子」を「ひき」と言った例は、書紀の神功の巻で襲津彦(そつひこ)を韓の書で「沙至比跪(さちひき)」と言っている。】書紀には「二十七年冬十月、日本武尊を遣わして熊襲を撃たせた。その時日本武尊は年十六だった。彼は『弓矢の上手な者を連れて行こう』と言った。ある人が『美濃国に弓の上手がおり、名は弟彦公と言います』と知らせた。そこで日本武尊は葛城の宮戸彦を遣わして弟彦公を呼び寄せた。弟彦公は石占(いしうら)の横立(よこたち)、尾張の田子の稲置、乳近(ちぢか)の稲置らを引き連れてやって来た。すぐに日本武尊に従って出発した」とあるのはこの王だろう。【しかしこれは倭建命の甥に当たるのに、書き方がよそよそしく、「公」とあるのも伝えが異なるのだろう。また倭建命が十六の時とすれば、大碓命の子というのとは年齢差がおかしい。】○牟宜都君(むげつのきみ)。和名抄の「美濃国武藝【むげ】郡」とあるのがこれである。書紀には「天皇は群卿に相談して、『最近東国が騒がしい。・・・誰を静めに遣わしたらいいだろう』・・・日本武尊は『私は以前西の方を征して来ました。今度は大碓皇子が行くべきでしょう』と言った。大碓皇子は驚いて草の中に隠れた。そこで使いをやって連れてこさせ、天皇は『お前がどうしても拒むなら、無理に行かせるものか。まだ賊の姿も見ないうちから、何を怖じ気づいているのか』と言った。ついに美濃国に封じて追いやった。これは身毛津(むげつ)君、守君の二つの氏の始祖である」とある。氏人は雄略の巻に「身毛津君大夫(ますらお)」、天武の巻に「身毛君廣(ひろ)」【続日本紀に「牟宜都君比呂」とあるのと同一人物だ。郡の名や新撰姓氏録にもよれば、「つ」を省いて「むげ」とも言ったのだろう。】続日本紀卅六に「牟義都(むげつ)君眞依(まより)」、また釈日本紀で引かれている上宮記に「牟義都国造、名は伊自牟良(いじむら)」などの名が見える。新撰姓氏録に【左京皇別】「牟義公は、景行天皇の皇子、大碓命の子孫」とある。【主水司式の御生氣(みいけ?)の御井の祭の條に、「この御生氣に従って、宮中あるいは京のうちの使用に耐える井戸一箇所を選び、前冬の土王に、牟義都の首に底を浚えさせてこれを祭る。春日の昧旦(いわゆるお水取りのことか)になると、牟義都首は水を汲み、司に従って供奉に就く」とある。これはこの氏か、他の姓かは分からない。またこうなったのもどういう由縁からか、分からない。】

 

此之御世。定2田部1。又定2東之淡水門1。又定2膳之大伴部1。又定2倭屯家1。又作2坂手池1。即竹=植2其堤1也。

訓読:このみよに、タベをさだめたまい、またアズマのアワのミナトをさだめたまい、またカシワデのオオトモベをさだめたまい、またヤマトのミヤケをさだめたまい、またサカテのイケをつくりて、そのツツミにたけをうえしめたまいき。

口語訳:この代に田部を定め、東の淡(安房)の水門を定めた。また膳部の大伴部を定め、倭の屯倉を定めた。また坂手池を作って、その堤に竹を植えさせた。

田部は「たべ」と読む。【「たのべ」と「の」を付け加えて読むのは間違いだ。「〜部」と言う名に「の」を挟む例は滅多にない。】和名抄では長門国、筑前国などの田部郷でも「たべ」とある。田部というのは、用役に駆り出して屯家(みやけ)の田を【屯家やその御田のことは、次の倭の屯家のところで言う。】作らせるために定め置く人々の部である。【それは普通に田を自分の田として作って、租税を納めるのではない。公(朝廷)の田を役として作るのである。漢国で古代にいわゆる井田の法といって、公の田を作っていたのに似ている。だからその田にできたものは、すべてが屯家に納められる。すると田部が働いた報酬には、そのうちから分け与えられるのか、または役を免ぜられることなどがあったか、そういう細かいことまでは分からない。】書紀に「五十七年冬十月、諸国に命じて、田部屯倉を設置した」とある。【これは田部と屯倉を置いたのである。だから「たべのみやけ」と読むのは間違いである。】安閑の巻に「元年秋七月、詔して『皇后は天皇と同じと言っても、内と外とで名に違いがあるので、屯倉のある地、后の宮にも、後代に痕跡を残すべきである』と言い、勅使を遣わして良い田を選ばせた。勅使は勅を崩じて、大河内直(おおしこうちのあたえ)、味張(あじはり)に『今お前は良田を奉れ』と言った。味張は急に惜しくなり、勅使を騙して『この田は日照りには灌漑することが難しく、長雨が降ると浸水しやすくて、労多くして功少ない田です』と言った。勅使はその言うままに復命した」、【これは良い田を后にあてる屯家の地にしようとして、味張の領地のうちから選んで奉れと言ったのだ。】「冬十月、天皇は大伴大連金村に『私には四人の妻がいるが、今まで子供ができない。このままでは長い間に私の名は忘れ去られてしまうだろう。大伴の伯父、今どうすればいいだろう。このことを考える度に憂鬱だ』と言った。大伴大連金村は『私もそのことを憂えていました。わが国で天下を治める人は、子がいようといまいと、必ず何か物に名づけました。皇后や次の妃のためには屯倉の地を立て、後代に名をとどめ、昔を明らかにしたものです』と答えた。天皇は『それが良かろう。早く(屯倉を)定めよ』と言った。大伴大連金村は『小墾田の屯倉と国々の田部を沙手媛(さてひめ)に賜い、櫻井の屯倉と国々の田部を香々有媛(かかりひめ)に賜い、難波の屯倉と国々の钁丁(くわよぼろ)を宅媛(やかひめ)に賜い、これをもって後代に昔の跡を示せばいいでしょう』と答えた。詔して、金村の言った通りに実行させた」、【国々の田部を賜うというのは、国々にある田部のうちから取って、屯倉に付けて与えたのだ。その屯倉の田を作らせるためである。】「閏十二月、三嶋に行幸した。大伴大連金村が同行した。天皇は大伴大連に、良田を縣主の飯粒(いいぼ)に尋ねさせた。縣主飯粒はたいへん喜び畏まって、上御野(かみつみの)、下御野(しもつみの)、上桑原、下桑原、また竹村の地、合わせて四十町を奉った。大伴大連は天皇の言葉として、『陸地の続く限り、王の封ずるところでない地はない。天の覆うところすべて、王の領域でない場所はない。・・・(飯粒を賞めて)・・・汝、味張は国の内の微細な地にいる百姓でありながら、王の地を惜しんで、勅使の伝える王命に軽んじ背いた。だからお前は今後郡司になってはならない』と言った。縣主飯粒は驚きと喜びで胸が一杯になった。そこで子の鳥樹(とりき)を大連の従者の童として奉った。大河内の直、味張はおそれいり悔やんで、地に伏して汗を流し、大連に『私、愚かにして、実に万死に値するものです。ですが、何とぞお願いがございます。郡ごとに钁丁を用いる春の時期に五百丁(いおよぼろ)、秋の時期に五百丁を天皇に奉って、子孫が絶たれないようにしたいのでございます。これによって生命を請い、後々のいましめとしたいと存じます』と謝罪した。またこれとは別に狹井田(さいのた)六町を大伴大連に贈って罪の償い(賄賂)とした。たぶん三嶋の竹村の屯倉に、河内の部曲を当てて田部とすることは、これが始まりとなったのだろう」とある。【钁丁(くわよぼろ)は公の田を作るのに使役される丁を言う。農事が忙しい時には、田部の他に加えて使われるものと見える。五百丁とは五百人である。「蓋し三嶋(たぶん三嶋の)云々」というのは、いにしえから三嶋の竹村の田を作るのに河内の縣の百姓を田部として使っていて、これは上記の味張が钁丁を奉ったことから起こったというのである。河内の縣は、味張が領有していたところである。】欽明の巻に「十七年冬十月、蘇我大臣、稻目宿禰らを倭の高市郡に遣わして、韓人の大身狹(おおむさ)の屯倉、【韓人とは百済人のことである。】高麗の人の小身狹(おむさ)の屯倉を設置し、紀国に海部の屯倉を置かせた。ある本によると、方々にいる韓人を大身狹の屯倉の田部とし、高麗人を小身狹の屯倉の田部とした。つまり韓人、高麗人を田部としたことに因んで屯倉の名としたのである」、【屯倉の名としたというのは、「韓人(からひと)の大身狹の屯倉」、「高麗人(こまひと)の小身狹の屯倉」という名のことである。】「三十年春正月、詔して、『田部の人数をきちんと数えて配置したが、彼らの渡来した時からずいぶん時が経ち、十余歳に達する者もいる。それでも戸籍から外れ、課税を免れている者が多い。膽津(いつ)を派遣して白猪田部(しらいのたべ)の丁(課税対象となる男の数)を調べさせよう』と言った。夏四月、膽津は白猪田部の丁を詔に従って調べ上げ、戸籍を定めた。そして田戸(たべ)を完成させた(詳細な戸籍を作成した)。天皇は膽津の作った戸籍を賞めて、白猪史(しらいのふびと)という姓を与えた。また田令(たつかい:葛城の山田の直、瑞子)を尊重して瑞子之副(みずこがすけ)とした。【瑞子は前に出た。】」、【前に出たというのは、十七年のところに見えたのを言う。その文は次の倭の屯倉のところで引く。白猪田部とは白猪の屯倉の田部のことである。】敏達の巻に「三年冬十月、蘇我馬子大臣を吉備国に送って、白猪の屯倉と田部を増強した。そのとき田部の名籍を膽津に授けた」などととある。次の倭の屯倉のところも参照せよ。国々に「田部」の地名があるのも、【和名抄には下総国匝瑳(そうさ)郡、下野国足利郡、長門国豊浦郡、筑前国早良郡などに田部郷がある。延喜式神名帳には近江国高嶋郡に田部神社もある。】いにしえに、この部民が住んだところだろう。続日本紀【廿六】に田部宿禰という姓の人も見え、記中に櫻井の田部連という名もある。○定(さだむ)とは、この時が初めてというわけでなく、それ以前にあったものを全面的に増補訂正したのだ。【書紀で五十七年に見えるのも、その意味である。】○「定2東之淡水門1(あずまのあわのみなと)」。「東」は「あずま」と読む。【「あずま」という名は倭建命の事績から始まったが、これはもっと後の伝えだからだ。】「淡」は安房の国である。【「東之」と言ったのは四国の阿波と区別するためだ。】古語拾遺【神武天皇の御世のことを書いたところ】に「また天富命【天太玉命の子孫】に、齋部(いんべ)の諸氏を率いて・・・木綿(ゆう)、麻などを作らせ・・・すなわち天富命に命じて日鷲命の孫を率いて良い地を求めて阿波国に遣わし、穀麻(ゆうあさ)の種を植えさせ、・・・天富命はさらに良い地を求めて阿波齋部を分けて東方に連れて行き、麻穀を植え、良い麻ができるところというので、これを『總(ふさ)』の国と呼んだ。【古語で麻を『ふさ』と言った。今上総、下総の二国となっているのがこれである。】そして阿波の忌部の住んだところだから、安房郡と名づけた。【今の安房国がこれである。】天富命はそこに天太玉命の社を建てた。今は安房社と言う」とある。【延喜式神名帳に「安房国安房郡、安房坐(あわにます)神社、名神大、月次・新嘗」、今は洲崎大明神と呼ぶのがこれである。】続日本紀八に「養老二年五月甲午朔乙未、上総国の平群・安房・朝夷(あさひな)・長狹の四郡を分けて、安房国を置いた」、十四に「天平十三年十二月丙戌、安房国を上総国に合わせた」、廿に「天平宝字元年五月乙卯、安房国をまた前のように分けて立てよ」とある。書紀に「五十三年秋八月、天皇は群卿に『私は可愛い子(日本武尊)が未だに忘れられない。だから小碓命の平定した国々を見て回りたい』と言った。この月に伊勢に行幸し、国伝いに東海に入り、冬十月に上総国に至って海路で淡水門を渡り云々」とある。だがこの時淡(あわ)はまだ国の名になっていない。上総国のなかの一地域で、その水門というのは安房と相模国御浦郡の御崎(みさき)【今も御崎と言う。】との間を、大海から入海に入る海門(うなど)である。【この入海は東は上総、西は武蔵、北は下総に囲まれている。淡水門は、その南の口だ。ここで天皇がこの水門を渡ったというのは帰り道で、上総から相模に向かったのである。】ここに「定めた」というのは天皇が渡ったことによって、初めてこう名づけたということだろうか。あるいは初めてこの海路を開いたのかも知れない。○「定2膳之大伴部1」。「膳」は「かしわで」と読む。膳夫を言う。この者のことは前【伝十四の五十五葉】に出た。書紀に「五十三年・・・【この部分は前に引いた。】淡水門を渡った。このとき、覺賀鳥(かくがどり)の鳴く声を聞いて、その鳥の姿が見たくなり、海中に尋ね出たところ、白い蛤(うむぎ)を得た。そこで膳臣の祖、磐鹿六雁(いわかむつかり)が蒲を襷にして、白蛤を膾(なます)に造り、天皇に奉った。その腕を賞めて膳大伴部を与えた」とある。大伴部というのは、膳夫たちの伴部が多く広いための名である。「賜う(与えた)」というのは、その数多い膳夫部(かしわでのとも)をことごとく彼に掌らせ、その部の長としたのだ。【膳大伴部という姓を与えたのではない。よく考えないと紛れるだろう。だが新撰姓氏録に、これとは別に膳大伴部という姓があり、この故事を書いてあるのはなぜかというと、この姓は膳臣氏からの分かれで、後のことなのに、遠祖六雁が膳大伴部を率いた縁で、その名を姓としたのだ。この氏のところにその故事を書いてあることからも、膳大伴部という名の由縁が明らかだ。】このことは、境原の宮の段の膳臣のところ【伝廿二の八葉】で言ったことも参照せよ。【貞観儀式の神今食の儀に、「膳伴造(かしわでのとものみやつこ)は火を鑚(き)って御飯を炊く」とあるのは、上記の膳大伴部氏だろう。】「定めた」とはその多くの膳夫たちを、この時初めて膳之大伴部と名づけて、磐鹿六雁命に統率させたことを言うのだろう。○倭屯家。「屯家」は「みやけ」と読む。書紀の垂仁の巻に「二十七年、來目邑に屯倉を建てた。屯倉、これを『みやけ』と読む」とある。【これは「屯倉」の初出である。ただし屯倉はこれから始まったわけではない。これ以前にも、存在はしていただろう。】名の意味は「御家」である。「家」は「やけ」とも「やか」とも言い、朝廷も「大家(おおやけ)」である。書紀で「舎家」、「宅屋」などを「やかす」と読むのも「家栖(やかす)」である。【源氏物語にも「家」を「やか」と言っているところがある、】「家持」という人名もある。【「やけ」と「やか」とを通わせて言うのは、食物を「うけ」とも「うか」とも言うのと同じだ。】とすると「みやけ」というのは「おおやけ」と言うのと同じような意味であって、もとは官庁のことである。それを各地に分立させて、諸国の屯家を置いたので、【穴穂の宮の段に屯宅(みやけ)とも書き、書紀には屯倉と書き、また官倉とも書いてある。地名や姓などでは三宅と書いていることが多い。どれも同じだ。ただし「官家」と書くのは、百済国などを「官家国(みやけのくに)」ということがあり、おおくはそれに適用される。皇国の内にある「みやけ」に「官家」と書くのは非常に稀だ。韓国を言うのに、欽明の巻には「彌移居(みやけ)」とも書いてある。それは韓人の書いた字だ。なお韓国を「みやけ」と呼ぶ事は、訶志比の宮の段に詳しく言う。】いにしえは国々ところどころに朝廷の田があって、【書紀の仁徳の巻、孝徳の巻、天武の巻に「屯田」とあるのがそうだ。それはただ朝廷の田という意味であって、「屯」という字の意味に関係しない。】上記の田部という者を使って作らせ、田に成った稲籾を収める倉、それを管理する官舎もあわせて「みやけ」と呼び、【だから屯倉と書くのはその倉について書いた字であり、屯家、官家などと書いたのは本義により、または官舎などについて書いた字だ。しかし「みやけ」というのは倉、官所すべてに通用する名で、字も通わせて使う。ところで「屯」の字を書くのは、漢国で辺境の地を守る兵士に、駐留する間に付近で田を作らせたのを屯田と言い、それは郷里で田を作るのと違って、一時的に異境の地に兵役に服し、他の土地で作るので、皇国の御家(みやけ)の田を田部に作らせたのに少し似ているところから、その字を借りて御田を屯田と書き、さらに屯田の倉や屯田の家という意味で屯倉、屯家などとも書いたのだろう。それとも屯倉はその田の収穫を集めるところだから、聚(あつ)める意味で屯と書いたのでもあろうか。もしそうなら、御田にこの字を書くのは、「屯倉の田」という意味かも知れない。いずれにせよ漢字は借り物だから、どのようにも書いただろう。】またその御田も兼ねて「みやけ」と言った。【「どこそこの屯倉を置いた」と言うのは、そこに御田も置いたのだ。細かく言うと、倉と田と官所である。】その田を管理する人を田令(たづかい)と言い、【欽明紀に見える。】また屯田司(みたのつかさ)とも言う。【仁徳紀、天武紀】またその倉や官所を掌る人を屯倉首(みやけのおびと)と言ったようだ。【清寧紀に播磨国赤石郡、縮見(しじみ)の屯倉首、忍海部(おしぬみべ)細見(ほそみ)という人が見える。】さらに書紀の各巻にこのことに関係したことが見えていて、後にも引く。広く考え合わせて、事の様子を悟るようにせよ。【いにしえの大体の様子を、分かりやすく今の世になぞらえて言うと、国々の国造、別、君、直、稲置、縣主などは、今の諸大名のようなもので、屯田は諸国にある公儀の御料地のようなものであり、屯家は御代官所に似ている。ただし屯田はところどころに散在し、その数はたいへん多く、今の公儀の御料地のように、場所を一箇所に広く大きく取っていたわけではない。屯家もその屯田があるところごとにそれぞれあった。】安閑の巻に「二年五月、某々の屯倉を置いた」、【この時置かれた国々の屯倉は二十六箇所ある。引用文ではそれを省いて、「某々」と書いた。】「九月、櫻井の田部連、縣犬養連、難波吉士らに詔して、屯倉の税を掌らせた」、宣化の巻に「元年夏五月、詔して、『食は天下の根本である。・・・筑紫国は遠近の国々が貢ぎを届けるところ・・・それによって籾や稲を収蔵し、余分の糧食を蓄えて凶作の年に備え、異国の貴い客を厚くもてなしてきた。・・・そこで私は阿蘇仍君(あそのきみ)を遣わして、河内国の茨田の郡の屯倉の籾を運ばせる。蘇我大臣稻目宿禰は尾張連を遣わして、尾張屯倉の籾を運ばせよ。物部大連麁鹿火は新家(にいのみ)連を遣わして、新家屯倉の籾を運ばせよ。また阿倍臣は伊賀の臣を遣わして、伊賀国の屯倉の籾を運ばせよ。官家(みやけ)を那津(なのつ)のほとりに造れ。またその筑紫、肥の国、豊の国の三国の屯倉は散在して互いに遠く隔たっている。・・・また諸国にそれぞれ課して移し、那津の口に集積して・・・』」、欽明の巻に「十七年秋七月、蘇我大臣稻目宿禰らを備前の兒嶋郡に遣わして、屯倉を置かせた。葛城の山田直瑞子を田令とした。田令、これを『たづかい』と読む」、推古の巻に「十四年、国ごとに屯倉を置いた」などとある。前記の田部のところで引いた文も考え合わせよ。その後孝徳の巻に「二年春正月、改新の詔にいわく、『その一に、昔の天皇らの立てた子代(みこしろ)の民、ところどころの屯倉、・・・をやめよ』」、同年「詔して・・・『官司、ところどころの屯田、および吉備の嶋の皇祖母(すめみおや)の各所の貸稲(いらしのいね)をやめる。その屯田を群臣および伴造に分け与える』」、また「皇太子は奏上して・・・現爲明神(あらみかみ)と八嶋國しろしめす天皇は私に問いかけて『・・・およびその屯倉は、まだ昔のままにしておくべきかどうか』。私は答えて、『天に二つの太陽はなく、地に二王はありません。このゆえに天下を兼ね合わせ、万民を使役するのは天皇だけであります。ことに、入部(いりべ)およびそれぞれの地に封じた民を仕丁(つかえのよぼろ)に選び当てることは、前例の通りにすべきです。これ以外に、個人の目的に使用することは恐れ入ることです。ですから入部五百二十四口と屯倉百八十一箇所を奉ります』と言った」とある。【この文の主意を考えると、当時郡の臣で、賜って個人の所有としていた屯倉も多かったのだろう。それはみな公(朝廷)に奉らせ、本来まさしく天皇の使用する糧食等であったものを、元に戻させたかのように聞こえるけれども、この孝徳天皇の御世にはいにしえの制度の多くを廃し、あらゆることが変わったから、屯倉というものは、この頃から絶えたのだろう。】そして後には、あちこちの地名にだけ残ったのだ。倭の屯家というのは【日本全体を指す倭ではない。】大和国城下郡の倭郷を言う。【仁徳紀にこの屯家のことを倭直の人に質問したという記事があるので理解せよ。】和名抄に「同郡三宅【みやけ】郷」がある。これはその跡だろう。書紀の仁徳の巻に「額田の大仲彦皇子が倭の屯田と屯倉を自分のものにしようとして、その屯田司だった出雲の臣の祖、淤宇宿禰(おうのすくね)に『この屯田は本来山守の地だった。これは私が治めよう。お前がここを掌ってはならない』・・・大鷦鷯尊は倭直(やまとのあたえ)の祖麻呂(おやまろ)に『倭の屯田はもと山守の地だという。これは正しいか』と尋ねた。すると『私は存じません。ただ私の弟、吾子籠(あごこ)だけが知っております』と答えた。・・・吾子籠は、『私はこう伝え聞いております。纏向の玉城の宮で天下を治めた天皇(垂仁)の御世に、太子大足彦尊(後の景行天皇)に命じて倭の屯田を定めました。この時に、天皇は、およそ倭の屯田は、天下を治める代々の天皇の土地である。それは天皇の子といえども、皇位に就くまでは、掌ってはならないと言いました。山守の地などと言うのは、あらぬことです』・・・大仲彦皇子は、これを聞いてどうにも抵抗できなかった」とある。【ここに「垂仁天皇の御世に、太子大足彦尊に命じて定めさせた」とあるのと、この記に「この御世に定めた」とあるのとは、少し伝えが違っている。この額田の大仲彦皇子を大山守皇子の誤りだろうと思うのは、余計に誤っている。】○坂手池(さかてのいけ)。【「手」を「た」と読み、あるいは「ど」と読むなどはみな間違いだ。一般に「手」は言葉の上にあって、次に何か連なる言葉がある時にこそ「た」と言うのだが、言葉の下に続いているのをどうしてそう読むだろう。「ど」と読むのは、続日本紀卅六に「河内国の尺度(さかど)池」とあるのを考えたのだろうが、「手」を「ど」と読む理由はない。】万葉巻十三【四丁】(3230)に「・・・鳥網張、坂手乎過(となみはる、さかてをすぎ)」とある地だろう。大和国にある。【この歌の「坂手」も今の本で「さかと」と読んでいるのは、どういうわけだろう。延喜式神名帳に、十市郡、坂門(さかど)神社があるから、それを考えてのことだろうか。または古い本に坂戸とあったのを「手」に誤り、読みだけがもとのまま伝わったのかも知れない。それならその坂門神社と同じ地だから、ここに引くのは不適当だ。しかし、】今も城下郡に坂手村というのがあるから、そこだろう。上記の歌の道筋とも合っている。【延喜式神名帳に尾張国中嶋郡、坂手神社がある。これは単に同じ国名の例を言っただけである。】○「竹=植2其堤1(そのつつみにたけをうう)」。「堤」は「包む」の意味である。新撰字鏡に「坡陂は土で水を壅(ふさ)ぐのである。『つつむ』」とある。和名抄に「陂堤は和名『つつみ』、テイ(こざとへん+是)は堤とも書く」と見える。書紀には「五十七年秋九月、坂手池を造り、堤の上に竹を植えた」とある。このように二つの書ともに竹を植えたと書いてあるのは、【他にはこういう例はない。】いにしえには珍しいことだったのだろう。



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