『古事記傳』28


日代の宮三之巻【景行天皇三】

自2其國1越2科野國1。乃言=向2科野之坂神1而。還=來2尾張國1。入=坐1先日所レ期美夜受比賣之許1。於レ是獻2大御食1之時。其美夜受比賣捧2大御酒盞1以獻。爾美夜受比賣其於2意須比之襴1<意須比三字以レ音>著2月經1。故見2其月經1。御歌曰。比佐迦多能。阿米能迦具夜麻。斗迦麻邇。佐和多流久毘。比波煩曾。多和夜賀比那袁。麻迦牟登波。阿禮波須禮杼。佐泥牟登波。阿禮波意母閇杼。那賀祁勢流。意須比能須蘇爾。都紀多知邇祁理。爾美夜受比賣答2御歌1曰。多迦比迦流。比能美古。夜須美斯志。和賀意富岐美。阿良多麻能。登斯賀岐布禮婆。阿良多麻能。都紀波岐閇由久。宇倍那宇倍那。岐美麻知賀多爾。和賀祁勢流。意須比能須蘇爾。都紀多多那牟余。故爾御合而。以2其御刀之草那藝劔1置2其美夜受比賣之許1而。取2伊服岐能山之神1幸行。

訓読:そのクニよりシナヌのクニにこえまして、シナヌのサカのカミをことむけて、オワリのクニにかえりきまして、さきにチギリおかししミヤズヒメのもとにいりましつ。ここにおおみけたてまつるときに、そのミヤズヒメおおみさかづきをささげてたてまつる。ここにミヤズヒメそれオスイのスソにさわりのものつきたり。かれソをみそなわして、みうたよみしたまわく、「ひさかたの、あめのかぐやま、とかまに、さわたるくい、ひわぼそ、たわやがいなを、まかんとは、あれはすれど、さねんとは、あれはおもえど、ながけせる、おすいのすそに、つきたちにけり」。かれミヤズヒメみうたにこたえてうたいけらく、「たかひかる、ひのみこ、やすみしし、わがおおきみ、あらたまの、としがきふれば、あらたまの、つきはきへゆく、うべなうべな、きみまちがたに、わがけせる、おすいのすそに、つきたたなんよ」。かれここにミアイまして、そのミハカシのクサナギのタチをそのミヤズヒメのもとにおきて、イブキのヤマのカミをとりにいでましき。

歌部分の漢字表記(旧仮名):ひさかたの、天の香具山、利鎌に、さ渡る杙、弱細、手弱腕を、枕かむとは、我はすれど、さ寝むとは、我は思へど、汝が著せる、襲の裾に、月立ちにけり
高光る、日の御子、やすみしし、我が大君、あらたまの、年が來經れば、あらたまの、月は來經往く、諾な諾な、君待ち難に、我が著せる、襲の裾に、月立たなむよ

口語訳:その国から科野の国に越え、科野の坂の神を退治し、尾張へと帰り着いた。そこで以前約束を交わしていた美夜受比賣の家に入った。美夜受比賣は、大御饌を奉るため、大きな盃を献げて奉った。ところが、その時美夜受比賣の着物の裾に、月経の血が着いていた。倭建命はそれを見て、歌って「天香具山の、鋭い鎌に触れようとする細い切り株のように、細くたおやかなあなたの腕を、枕にしようと思ったが、共に寝ようと思ったが、あなたの着ている着物の裾に、月が立ったよ」。そこで美夜受比賣が答えて「高光る日の御子、私の大君、次々に新しい年が来て過ぎて行くと、そのたびにもっとたくさんの新しい月が来ては過ぎて行くのです。そうです、そうです。あなたを待ちかねて(じっとしていられず)、私の着ている着物の裾にも、月が立ったのですよ」。そこで婚姻した。彼はその身に着けていた草那藝の剣を美夜受比賣のところに置いて、伊服岐山の神を退治しに出かけた。

科野(しなぬ)。前【伝十四の三十葉】に出た。○科野之坂神(しなぬのさかのかみ)。書紀では「日本武尊は信濃に進入した。この国は山高く谷深く、青い嶺が幾つも重なっている。人は杖に寄り掛かっても登ることが難しい。巌は峻険で石の道が続き、長い峯は数千も続いている。馬さえ停滞して進まない。しかし日本武尊は烟を分け、霧をしのいで遥に大山を渡った。峯に登った時、飢えを感じて山中で食事を取った。山の神は王を苦しめようと、白鹿に姿を変えて王の前に立った。云々」【これに続く文はまえに引用した。伝廿七の八十葉】とある、この坂のことである。万葉巻廿の信濃国の防人の歌(4402)に「知波夜布留、賀美乃美佐賀爾、奴佐麻都理、伊波負伊能知波、感毛知々我多米(ちはやぶる、かみのみさかに、ぬさまつり、いわういのちは、おもちちがため)」と詠んでいるのも、この坂である。これはいにしえの官道で、美濃国恵那郡から信濃国伊那郡に越える国境の坂である。【書紀の推古の巻に「三十五年五月、蠅が多数いて虚空に集まり、信濃坂を越えて、その羽音は雷のように鳴り轟いた。だが上野国に到って、おのずから散り散りになった」、斉明の巻に「六年、科野国から『蠅が群れて西に巨坂(おおさか)を飛び越えました。群の大きさは十囲もありましたでしょうか。高さは高空にまで及んでいました』と報告した」、日本紀略に「天延三年七月廿九日、東国の民家が多数、風のために損なわれた、信濃の御坂(みさか)の道が壊れた」などの記事がある。この山は、今は恵奈が嶽と言い、大きな山である。延喜式神名帳に「美濃国恵奈郡、恵奈神社、坂本神社」がある。坂本はいにしえの駅で、この駅から御坂を越えて、信濃国伊那郡の阿智駅に通じていた。いわゆる曾(そ)の原、伏屋(ふせや)等は、御坂を下って阿智の駅に行く途中の国にあるという。延喜式神名帳には「阿智神社」も見えている。】後に吉蘇路(きそじ:木曽路)が開けても、中昔まではまだこの御坂の道を通う人が多かったが、いつの頃からかこの道は絶えて、みな吉蘇路を往来するようになった。【いにしえの御坂の道は、吉蘇路よりも南にあった。続日本紀に「大宝二年十二月、はじめて美濃国に吉蘇の山道を開いた」、「和銅六年七月、美濃・信濃両国の境の道は険阻で、往来が困難なので、吉蘇路を通った」とある。「険阻」とあるのは、この御坂の道のことだ。新古今集(913?)に「信濃の御坂のかたかきたる繪に、その原(薗原)と云所に、旅人やどりて立あかしたるところを、藤原輔尹(すけただ)朝臣云々」、今昔物語(巻28第三十八)に「信濃守藤原陳忠(のぶただ)、任畢て上(のぼ)るとて、御坂を越ける時に、馬に乗ながら、梯(かけはし)より深き谷に落入たる事」を記している。これらを見ると、中昔頃までこの御坂の道を越えていたことが分かる。後拾遺集に(514)「爲善朝臣、三河守にて下り侍けるに、すのまたと云わたりにおりゐて、信濃御坂を見やりてよめる、能因法師、『白雲の、上より見ゆる、あし引の、山の高根や、御坂なるらむ』」、これもこの御坂である。ところが後世には木曽の御坂を詠むことが多くなったので混同され、これらも木曽の御坂のことと思うのは間違いである。単に「御坂」と言ったり、「信濃の御坂」と言うのは、木曽ではない。】坂の神は、書紀に書かれているのは上記に引いた通りである。この記では、前述の、待ち受けて蒜で打って殺したのは足柄の神だから異なる。しかしこの坂にいたのも同様の種類の神だっただろう。○先日は「さきに」と読む。「日」の字は読まない。何ヶ月も後に、以前のことを「さきつひ」などと読むのは、古言ではない。○所期は「ちぎりおかしし」と読む。【「おかしし」は「おき賜ひし(おいた)」ということである。】前に「また『還り上る時に婚姻しよう』と思い直して、約束だけを交わして東国に旅立った」とあったことだ。○「捧2大御酒盞1(おおミサカズキをささげて)」。上巻の八千矛神の段で、「その后は大御酒坏を持って歩み寄り、ささげて云々」とあった。酒盞のことはそこ【伝十一の四葉】で言った。朝倉の宮(雄略天皇)の段にも「三重の采女が大御盞をささげて奉った」とある。○其は「それ」と読む。名を言った直後に「其」と言う例が記中には多い。これは「その人」という意味である。○意須比(おすい)は前に出た。【伝十一の八葉】○襴(すそ)も前に出た。【伝廿三の五十葉】○月經(さわりのもの)は、【婦人の月水を月経とも経水とも言う。】どう読むべきか。和名抄に「月水は、俗に『さわり』と言う」、宇津保物語【俊蔭の巻】に「いつよりか御けがれはやみ賜ひし。云々」、【妊娠の月数を問うのに、月水はいつごろから止まったのか、と訊いたのだ。】風雅集【神祇】に、「もとよりも、塵に交はる、神なれば、月の障(さはり)も、何か苦しき<口語訳:元来塵(人)と交わっている神だから、月経くらいは何でもない>」、これは和泉式部が熊野へ詣でた時、月経中だったので奉幣が行えず、「晴やらぬ、身の浮雲の、棚引て、月のさはりと、なるぞ悲しき<口語訳:もともと晴れやらぬ憂き身が、雲がたなびくように月経になって、悲しいことだわ>」と詠んで寝た夜の夢に、神があらわれて告げたということだ。これらの例があるが、障(さわり)でも穢(けがれ)でも、月水が「体から出る」ということを言っており、出た月水を指して言うのではない。とすると「さわり着きたり」などと言うのはおかしく聞こえるだろう。そこでここでは「さわりのもの」と読んでおく。【または「さわりのち」と読んでも良い、「ち」は「血」のことだ。延佳も師(賀茂真淵)も、歌の内容から「つき」と読んだが、それはありそうにない。その理由は歌のところで言う。】○見其月經は「そをみそなわして」と読む。【文字のままに読むと、煩わしく拙い読み方になる。ただし前の言葉を「さわりの血」と読むなら、ここでも「その血を」と読んでも良い。「其月經」と書いたのは、漢文流の書き方である。】○「比佐迦多能(ひさかたの)」は「天」の枕詞である。「か」を濁って読むのは間違いだ。古い書物は、どれも清音の仮名を用いている。その意味は、冠辞考に出ている。○阿米能迦具夜麻(あめのかぐやま)は「天之香山」である。大和国にあるのを言う。この山のことは、前【伝五の六十六葉】に出た。○斗迦麻邇(とかまに)は、「利鎌に」である。和名抄に「鎌、和名『かま』」とある。○佐和多流久毘(さわたるくい)は、「真渡杙」である。渡るとは、ここでは触れることを言う。杙とは、ここでは細く小さく、柴というほどの木を言う。この後に「小竹之苅杙(おざさのかりくい)」【苅った後に残った株である。伐杙(きりくい)と言うのも同じ】とも見え、和名抄に「株は、草木の本である。訓は『くいせ』」とある。【「くいせ」は杙の根本に近い部分で、「せ」は「すえ」が縮まったのだろう。礎(いしずえ)の「すえ」のようなものである。】この二句は、鎌に触れて今にも駆られようとする細木の木立と言っているので、ここまでは次の句の序である。大祓の祝詞に「彼方之繁木本乎、燒鎌乃敏鎌以弖、打拂事之如久(おちかたのしみきのもとを、やきがまのとかまもちて、うちはらうことのごとく)云々」とある。だが「杙(旧仮名クヒ)」の「ヒ」は清音なのに、濁音の「毘」を書いてあるのはどうだろうか。【この記は仮名の清濁の書き分けが厳密で、記中で比・毘の混同と思われるのは、ここと高津の宮の段の歌に「終(旧仮名ツヒニ)」を「都毘爾」と書いているのと、二箇所しか見えない。音便で「い」のようになるところでは濁音の仮名も使うというのは間違っている。そういう例証はない。】また「佐和多流」とは万葉巻十【廿丁】(1960)に「霍公鳥、鳴而左度(ほととぎす、なきてさわたる)」、また【二十二丁】(1976)「霍公鳥、鳴而沙度(ほととぎす、なきてさわたる)」、巻十一【四十三丁】(2804)に「高山爾、高部左渡(たかやまに、たかべさわたり)」、また【九丁】(2450)「雲間従、狹徑月乃(くもまより、さわたるつきの)」、祝詞に「谷蟆乃狹度極(たにぐくのさわたるきわみ)」など、どれも渡り行くことをいうのに、鎌に触れようとすることとしたのは他の例と違い、あまりしっくりしない感じがある。そこで後に引く熱田の縁起の歌と合わせて考えると、「斗迦麻邇、佐和多流久毘」の二句は「許知碁知能、夜麻能迦比邇、佐和多流、久具比賀久毘(こちごちの、やまのかいに、さわたる、くぐいがくび)」【四句】だったのを、字をたくさん落とし、また誤写もしたのかも知れない。【「許知」を「斗迦」に誤り、「碁知能夜」を脱かし、「能迦比」も脱かして、上下の「久」がまぎれて、間にある「具比賀」も落としたのだろう。この二首の歌は、縁起にあるのと比較すると、少しずつ字が違うだけで、述べられていることはすべて同じだから、ここも同じことのように思う。】「彼此(おちこち)の、山の峡(かい)に、さ渡る、鵠(くぐい)が首」ということで、次の句の序であるのは同じだ。朝倉の宮(雄略天皇)の段の歌に「多々美許母、幣具理能夜麻能、許知碁知能、夜麻能賀比爾(たたみこも、へぐりのやまの、こちごちの、やまのかいに)」とあり、鵠(くぐい)は前【伝二十五】に出た。<訳者註:岩波古典文学大系本は「鵠」説を採用している>○比波煩曾(ひわぼそ)は、「弱細」である。「ひわ(旧仮名ヒハ)」は源氏物語【眞木柱】に「いとさゝやかなる人の、常の御なやみに、痩(やせ)衰へ、ひはづにて云々」、また【柏木】「宮はさばかりひはづなる御さまにて云々」、また【竹川】「源侍従とて、いと若(わこ)うひはづなりと見しは云々」、【これらに「ひはづ(繊弱)」と言っているのは、俗言に「ひなづなる」と言うのと同じ。】栄花物語【音樂の巻】に「宮いみしうひはやかに、めでたうて入せ給ふ」【「ひはやか」も「ひはづ」と同じ。】などの「ひはづ」、「ひはやか」などと同じ言葉で、細くたおやかであることだ。今の世の言に、物が細くてよく撓むことを「ひわひわ」とも「ひわつく」とも言うが、それと同じことである。とすると、この前の詞は、どれも細くひわやかであることを言うための序であって、【鎌に触れる木でも、鵠の首でも同じ意味だ】この句は美夜受比賣の腕が細くたおやかであることを言っているのである。【契沖は「比波」の二字を上の句に付けて、「『久比(くい)』を『久毘比(くびひ)』とあるのは、この巻の末に椎(しい)を『志比々(しひひ)』と書いたのになぞらえて考えるべきである。古語にはこうも言ったのだろうか」と言ったのは間違いである。椎を「志比々(しひひ)」と書いてあるのは明の宮(應神天皇)の段の歌のことだ。それも椎を「志比々(しひひ)」と書いたわけではない。そのことはそこで言う。師も同じように「比波」を上に付けて考え、「新撰字鏡の草の部に『シ(くさかんむり+此)(紫?)は久比井(くひい?:この語不詳)』というものがあるが、仮名が異なる。ここは若木を言うと思われる。また考えるに仁徳紀にある『いくみ竹』というのは、籠にする竹である。『久毘』も『久美』に通い、『比』は『木』に通うから、こんもり繁った若木を言うのか」と言った。「久毘」を「若木」と見るのはもっともだが、その下の「比」を続けて言ったというのはおかしい。「久美」と「久毘」と通うのももっともだが、ここでこんもり繁ったことを言っても始まらない。また「木」を「比」ということはない。万葉考では「久毘は若木で、串とも言う。・・・下の比は生(おい:旧仮名オヒ)の略だ」と言ったのもどうだろう。「久毘」と「串」は同じではなく、「生」と言うのもここには無縁である。こうした契沖や師の説の通りなら、「波」を「は」の意味に取っているのだろう。そうでなければこの字は余ってしまう。だがここは序の句の終わりだから、「は」という助辞を置くべきでない。そんな例はない。また「細」の仮名に濁音の「煩」を書いたのも「ひわぼそ」と続いたからこそであって、「比波」を上に付けて、単に「細」と言うなら、語頭に濁音を使うはずはない。昔から、この「比波」という語を解いた人がいないので、この部分の意味が分からなかったのである。】○多和夜賀比那袁(たわやがいなを)は、「手弱腕を」である。「たわや」は手弱女などの「手弱」で、その手弱女を「たおやめ」とも言うように、これも「たおやかな腕」ということだ。新撰字鏡に「肱は臂である。『かいな』」とあり、万葉巻三【四十六丁】(420)に「木綿手次、可比奈爾懸而(ゆうだすき、かいなにかけて)」などがある。【このほかにも「かいな」ということは物語文などにも例が多く、今の世でも普通に言う。ところが和名抄には「腕は手腕である。和名『ただむき』、あるいは『うで』とも言う」、また「臂は肱と言う」、また「肘は臂の節である。和名『ひじ』」などとあって、「かいな」という語は見えない。新撰字鏡に「肱は臂である。『かいな』」とあり、また「臂は『ただむき』」とあるから、「かいな」と「ただむき」は同じなのだろう。書紀では、腕、臂などをみな「ただむき」と読んでいる。契沖がこの上の句の「煩曾(ぼそ)」の二字をこの句に付けて、この句を九音としたのは間違いである。】○麻迦牟登波(まかんとは)は「枕かんとは」である。「まく」とは「枕にする」ことを言う。上巻の沼河比賣の歌に「多久豆怒能、斯路岐多陀牟岐・・・麻多麻傳、多麻傳佐斯麻岐(たくづぬの、しろきただむき・・・またまで、たまでさしまき)」とあった。その歌のところ【伝十一の二十四葉】で言った。○阿禮波須禮杼(あれはすれど)は「我はすれど」である。【自分は枕かんとしたが、と言ったのだ。】○佐泥牟登波(さねんとは)は、「さ寝んとは」である。寝ることを「さ寝」というのは「眞寐」であって、多くの場合は男女が共寝することを言う。【「率寝(いね)」と言い、継体紀の歌に「于魔伊禰(うまいね)」とあるようなことだ。】遠つ飛鳥の宮(允恭天皇)の段で、輕太子の歌に「宇流波斯登、佐泥斯佐泥弖婆(うるわしと、さねしさねてば)」、万葉巻二【十一丁】(94)に「佐不寐者遂爾、有勝麻之目(さねずはついに、ありがてましも)」、また【十九丁】(135)「佐宿夜者、幾毛不有、延都多乃、別之來者(さぬるよは、いくらもあらず、はうつたの、わかれしくれば)」、巻三【六十丁】(481)に「吾妹子跡、左宿之妻屋爾(わぎもこと、さねしつまやに)」、巻十四【四丁】(3358)に「佐奴良久波、多麻乃緒婆可里(さぬらくは、たまのおばかり)」など、これ以外にもたくさんある。○阿禮波意母閇杼(あれはおもえど)は「我は思えど」である。○那賀祁勢流(ながけせる)は「汝が著(け)せる」である。【延佳本で、「勢」を「藝」に書いてあるのは、古言をよく知らないので、みだりに文字を改めたさかしらの誤りである。「藝」は記中では「ぎ」の仮名としてのみ用いているから、これを「藝」にしたら読みは「けぎる」となるが、そんな言葉があるだろうか。諸本はみな「勢」となっているのだ。また「祁」を「き」と読むのも間違いである。】「けせる」とは「着てある」という古言で、「着たる」ということだ。【「着たる」は「着てある」の縮まった形である。】「着たる」を古言で「ける」と言い、万葉巻十五(3667)に「和我多妣波、比左思久安良思、許能安我家流、伊毛我許呂母能、阿可都久見禮婆(わがたびは、ひさしくあらし、このあがける、いもがころもの、あかづくみれば)」、またここでの答えの歌も、熱田縁起には「和何祁流(わがける)」とある。【「来てあり」も古言では「ける」と言った。書紀で「來歸」、「參赴」を「けり」と読み、万葉で「けり」の仮名に「來」を書いている。これも「ける」と同じ格である。】その「ける」を、「立てる」を「立たせる」、「行ける」を「行かせる」【このたぐいはたいへん多い。】などの形に活用して「けせる」と言う。万葉巻四【十七丁】(514)に「吾背子之、盖世流衣之(あがせこが、けせるころもの)云々」【「盖」を今の本で「き」と読んでいるのは誤っている。「かい」の音の字は「け」と読むのが通例だ。】とある。御衣(みそ)を「みけし」と言うのも、同じ活用である。【伝十一の卅四葉を参照。】○意須比能須蘇爾(おすいのすそに)は「襲の裾に」である。○都紀多知邇祁理(つきたちにけり)は「月立ちにけり」である。月は空の月のことで、立つとは空に上って見えることを言う。【天智紀に「朔」を「月立ち」と書いてある。】万葉巻七【二十八丁】(1294)に「向山、月立所見(むかいのやまに、つきたてるみゆ)」、巻十一【十四丁】(2512)に「三毛侶乃山爾、立月之(みもろのやまに、たつつきの)」、巻十四【十丁】(3395)に「乎豆久波乃、禰呂爾都久多思(おづくはの、ねろにつくたし)」【「小筑波の、峯ろに月立し」である。】などがある。女性の月水は、月々にめぐって出るものなので、それが着いているのが見えたことを、天に月が出たのに喩えて、こう歌ったのだ。【契沖が「月」はつまり月経だと注したのは間違いである。実際には月経の血が着いていたのだが、この歌で「つき」と言ったのは、月経を言ったのではない。単に空の月を言ったのだ。花が散るのを見て、「雪ふりにけり」と詠んだようなものである。だからここに「つき」とあるからと言って、前の「月経」を「つき」と読むのは正しくない。月経のことをどうして「つき」と言うだろうか。「月の障り」と言い、漢国でも、「月水」、「月経」、「月事」などと言うのは、月ごとに出るものだからである。】○熱田大神縁起によると、【世に寛平縁起と言う。この書のことは、前に伝廿七葉の五十葉で言った。】「日本武尊は尾張に還り向かい・・・駕を使って宮酢媛(みやずひめ)の家に着いた。大御饌を奉る時、宮酢媛は玉盞を手で捧げて奉ったが、その媛の着ていた衣裾に【衣裾は『おすい』と読む】、月水が付いていた。日本武尊はこれを見て歌って、『麻蘇義、乎波理乃夜麻等、許知其知能夜麻乃加比由、等美和多流、毘何波乃、波富曾、多和夜何比那乎、麻岐禰牟等、和例波母幣流乎(まそげ、おわりのやまと、こちごちのやまのかいゆ、とみわたる、ひがはの、はぼそ、たわやがいなを、まきねんと、われはもえるを)、與利禰牟止、和例波母幣流乎、和伎毛古、那何祁西流、意須比乃宇閇爾、阿佐都紀乃其止久、都紀多知爾祁理(よりねんと、われはもえるを、わぎもこ、ながけせる、おすいのうえに、あさつきのごとく、つきたちにけり)<訳者註:引用が長いので訓を途中で切って付けたが、歌は切れていない>』」【「おすい」に「衣裾」の字を当てたのは不適当である。「麻蘇義」の「義」は「げ」の仮名で、「眞菅」である。「菅」は「そが」とも言うので分かる。「眞菅よし、蘇我の川原」などと続けて詠む。大神宮儀式帳の「百張蘇我乃國(ももはりそがのくに)」ともあるのを考え合わせると、「麻蘇義」は「張」に係る尾張の枕詞である。この記では「天の香山」とあるのを「尾張の山」としているのは、尾張でこのように歌い替えて伝えたのか、またはもともと尾張の山だったのを、倭国で天の香山に歌い替えたのか。「等美和多流」は「飛び渡る」である。「毘何波乃」は字が脱けている。「久具毘何波志乃(くぐいがはしの)」などという句だったのを、「久具」の二字、「志」の字を落としたのだろう。「波富曾」は、上に「比」が脱けたのである。それを今のさかしら人は、「何波乃」の三字を削っているのはどういうことか。生半可な物知りが、かえって古言を損なうのは悲しいことだ。「宇閇」は「表(うえ)」である。「阿佐都紀」は「朝月」のことだろう。】○多迦比迦流、比能美古、夜須美斯志、和賀意富岐美(たかひかる、ひのみこ、やすみしし、わがおおきみ)は「高光る、日の御子、安見しし、吾大君」ということだ。この四句の言葉は、冠辞考に出ている。付け加えれば「高」は天、【このことは伝三の五葉で言った。】光るは「照る」と同じだから、高光は「天照」とういのと同様である。【万葉に「高照(たかひかる)」と書いていることが多い。】「日の御子」とは、日神の末裔という事である。【契沖が「日とは当時の景行天皇のことで、その御子ということだ」と言ったのは誤りである。】「夜須美斯志」も冠辞考の説の通り、「安けく見し賜う」のである。【「八隅知」だというのは漢意であって、古意とは大きく離れている。ところが万葉にもしばしばそう書いてあるのは、奈良時代にはもう漢意の解釈が伝わっていて、その字の意味に取ったのだろう。そういう例は他にもある。続日本紀十五の歌に「夜須美斯留、和己於保支美(やすみしる、わごおおきみ)」とあるのは、「留」の字を後人のさかしらに改めたのだろう。古い本では「志」となっている。年中行事秘抄で引用したものも「志」とある。】天武紀や続日本紀に「安殿」とあるのも【「大安殿」、「内の安殿」、「外の安殿」、「中の安殿」、「小安殿」などがある。】「やすみどの」であって、天皇が「安見爲賜殿(やすみししたまうとの)」という意味の名である。大安殿(おおやすみどの)というのは大極殿のことである。【これを「おおやすみどの」と読むことを知らず、皇極紀や天武紀で、今の本に大極殿を「おおあんどの」と読んでいるのは、たぶん古い本で大極殿のそばに大安殿と仮名を付けたように書いてあるのを見て取り違えたのだろう。撰集抄に、西行法師が崇徳天皇の御陵に詣り、帝のかつての宮中での暮らしを言ったところに「清涼紫宸の間にやすみしたまひて、百官にいつかれさせたまひ、云々」とあるのは、たまたま古言が残ったのか、そのころの言葉としては珍しい。また欽明紀(十六年二月)に「玄室(くらきや)に安みせん」とあるのは、漢文であるから「安」の字は「安置する」という意味で、「やすみ」と読むべきではないのだが、言葉自体は古言である。】この「みしし」を師は「『立たせ賜う』を『立たしし』、『御坐(おわ)します』を『おわし』というのと同じで、尊敬表現である」と言ったのは、もっともだが、まだ精確でない。というのは「立たしし」、「御坐(おわし)し」などの最後の「し」は過去形の助辞だが【世に過去の「し」と言う。】、この「みしし」の最後の「し」はそうでない。その時の現在の大君が主語だからだ。とするとこの「し」は「為」の意味で、【「安見(やすみし)」を「為(し)たまう」ということだ。上の「し」は「見」を古言で「みし」と言ったのである。この「見(み)」を物見、花見などと言う時は体言(名詞)であるように、この安見(やすみし)も体言だ。だから「やすみし」を続け、その下の「し」をやや離す感じで読む。「やすみ・しし」と読むのは、言葉の意味を精細に知らないための誤りである。】万葉巻十九(4266)に「豊宴、見爲今日(とよのあかり、みしせすきょうは)云々」、また(4254)「國看之勢志弖(くにみしせして)」【これも国を看(みし)為(し)て、ということである。国看(くにみ)を為(し)て、と言うのとは少し違う。また「為(し)」を「せし」というのも古言で、「せして」は「して」という意味だ。だから「夜須美斯志」もこの言い方だと「夜須美斯勢志(やすみしせし)」になる。】などあるのと同様だ。それなら「やすみしす」と言うべきなのに「やすみしし」と言うのは、歌の語の言い方で、「異舎儺等利、海(いさなとり、うみ)」と続くのと、【これも「いさなとる、海」というのが正しいように思われる句である。】同じ言い方である。この「やすみしし、云々」の句は、朝倉の宮(雄略天皇)の段の歌に二箇所、書紀の仁徳の巻や推古の巻の歌にも見え、万葉にも多い。万葉では「高照、日之皇子(たかひかる、ひのみこ)」とだけ言って、「やすみしし云々」を省く例もある。「高光、我日皇子(たかひかる、わがひのみこ)」とも詠んでいる。【また「高光、日朝廷(ひのみかど)」とも詠んでいる。】この四句を続けて詠む時は、万葉ではどれも「やすみしし」を先に、「たかひかる」を後に詠んでいる。【「和賀(わが)」を万葉では仮名に「和期(わご)」、「吾期(わご)」などと書いている。これは下の「おおきみ」の「お」に続くので「が」と「お」が縮まって「ご」になったのだが、長く伸ばして歌うと「ごお」になるのだ。だからこれは「吾大君」と続く場合に限るのを、「吾(わが)」ならすべて「わご」とも言うと思い込むのは誤りである。】この四句は、天皇のことを言うのはもちろんだが、皇太子のことも言い、万葉ではそれ以外の皇子についても言った歌がしばしば見える。【「日の御子」というのも「大君」というのも、皇子や諸王にまで言う名だからである。】ここは倭建命を指して言っている。○阿良多麻能(あらたまの)は年・月などの枕詞で、「阿多良阿多良麻(あたらあたらま)」が縮まった言葉である。と言うのは、万葉巻廿【十一丁】(4299)に「年月波、安多良安多良爾、安比美禮騰(としつきは、あたらあたらに、あいみれど)」【ある本には「安良多安良多(あらたあらた)」とある。】という歌がある。年月は移り行き、また巡ってくるものだから、巡ってくる度にまた逢い見るものという歌である。巻三【五十九丁】(481)に「吾黒髪乃、眞白髪爾、成極、新世爾、共將有跡(わがくろかみの、ましらがに、なりきわまるまで、あたらよに、ともにあらんと)」、【「新」は借字で、「あたらあたら」と同様。】巻六【四十三丁】(1047)に「新世乃、事爾之有者(あたらよの、ことにしあれば)」、巻十三【三丁】(3227)に「石根、蘿生左右二、新夜乃、好去通牟、事計(いわがねの、こけむすまでに、あたらよの、さきくかよわん、ことばかり)」【「夜」は借字で、「世」のことである。】などとあるのと、思い合わせて知るべきだ。「あたらよ」と言うのも、ただ「よ(世)」と言うのと同じことになる。「世」とは年月日の移り行く時の間を言うからだ。「阿良多麻」は、上記の「阿多良阿多良」の上の「阿多良」を省略して「阿良」と言い、下も省略して「多」と言ったので、【「あた」は縮めると「あ」になり、「たら」は縮めると「た」になる。また下の「あ」は、上の「ら」の音に含まれるから省かれる。】「麻」は「間」であって、「程」と言うのと同じだ。【荒木田の久老は、万葉巻廿の「安多良安多良」を、一本の「安良多安良多」に取って、「『新世』も『あらたよ』と読み、『新』を『あたらし』と読むのは、今の京になってから訛ったもので、正しくは『あらたし』である。だから万葉では、みな『あらた』と読むべきだ」と言った。この説に依れば、「阿良多麻」は、つまり「阿良多」の間であり、意味は上述したのと同じである。】万葉巻五【二十六丁】(881)に「阿良多麻能、吉倍由久等志乃(あらたまの、きへゆくとしの)」と詠み、巻十一【十六丁】(2530)に「璞之、寸戸我竹垣(あらたまの、きへがたけがき)」、巻十四【四丁】(3353)に「阿良多麻能、伎倍乃波也之(あらたまの、きへのはやし)」などと詠んでいるのも、「伎倍」は地名だが、枕詞の由縁は年月が来経往(きへゆ)くことによっていることは、巻五にあるのと同じである。【冠辞考で、これを「遠江国麁玉(あらたま)郡の伎倍郷を言っているのであって、璞は枕詞ではない」と言っているのは誤りである。麁玉郡に伎倍という郷があったことはない。同国の山香郡に岐階という郷が見えるが、階の字は「陛(へ)」を誤ったもので、伎倍はこれだろうから、麁玉郡ではない。】また「多麻伎波流(たまきわる)」という枕詞も、この「阿良多麻」と同類だ。そのことは、高津の宮の段にその枕詞が出たところ【伝卅七の??葉】で言う。【この二つの枕詞については、これまで言われてきた説はどれも不適当である。】○登斯賀岐布禮婆(としがきふれば)は、「年が来経れば」である。【この「が」の使い方は、俗言のように聞こえるだろう。中昔には、こういうところは「の」と言って、「が」とは言わなかった。しかし上巻の歌に「比賀迦久良婆(ひがかくらば)」とあり、万葉の東歌でも「日之照者」を「日が照れば」と詠んでいる。上代には、こうも言ったのだ。中昔に「の」と言ったところを、いにしえに「が」と言った例は多い。】万葉巻五【十六丁】(830)に「萬世爾、得之波岐布登母(よろずよに、としはきふとも)」、巻十二【二十五丁】(3074)に「年乎曾寸經(としをぞきふる)」などがある。巻十三【十一丁】(3258)に「荒玉之、年者來去而(あらたまの、としはきゆきて)」ともある。○都紀波岐閇由久(つきはきへゆく)は、【波の字を婆と書いた本もある。ここでは一本、他一本による。】「月は来経行く」である。万葉巻五【二十四丁】(3691)に「安良多麻能、月日毛伎倍奴(あらたまの、つきひもきへぬ)」とある。「あらたまの月」と続けた歌は他にも多い。また「年月」に続けることもあり、巻十三(3324)、巻十五(3683)では「荒玉之立月毎(あらたまのたつつきごとに)」などもある。「氣長(けなが)く」などの「氣」はこの「来経(きへ)」が縮まった語で、「來經(きへ)長く」の意である。ここで【月が来経(きふ)れば、年は来経(きへ)行くというのを逆に言って、】「年が来経れば月は来経行くと言っているが、それは年が経てば、その間に月はもっと多く経つという意味で、意須比の裾に月水が着いていた理由に、月が変わって行ったことを主意とした言い回しである。【注意して味わうべきである。】○宇倍那宇倍那(うべなうべな)は、【旧印本、真福寺本などでは、もう一度「宇倍那」を繰り返し、この語が三つ重なっている。ここでは延佳本他一本に、それがないのによった。】「諾な諾な」であって、「な」は助辞である。書紀の仁徳の巻(五十年)に「宇陪儺宇陪儺、和例烏斗波輸儺(うべなうべな、われをとわすな)」、万葉巻十三【廿丁】(3295)に「諾々名、母者不知諾々名、父者不知(うべなうべな、はははしらずうべなうべな、ちちはしらず)云々」などの例がある。「そうですよ」、と肯定する言葉である。【俗言に「そのはずだ」とか「もっともなことだ」と言うような意味である。】高津の宮の段の歌に「宇倍志許曾(うべしこそ)」、【万葉巻十(2316?)にも同様の句がある。】書紀の推古の巻(二十年)の歌に「宇倍之訶茂(うべしかも)」などもある。万葉では「諾(うべ)も」とも、「諾(うべ)」とだけ言った例もある。書紀の~武の巻に「諾、これを『うべなり』と読む」ともある。万葉巻十六【九丁(3796)、十丁(3798)】に「否藻諾藻(イナもウも)」【源信明集の歌に「いなともうとも」、拾玉集の歌に「なやうや」ともある。「なや」は「否や」である。】とあるから、「うべ」も「う」という意味の言である。【今の世でも、肯定する時に「おお(旧仮名ヲヲ)」とも「うう」とも言う。「ヲヲ」も「うう」に通う。】○岐美麻知賀多爾(きみまちがたに)は、「君待ち難に」である。普通は「まちがて」と言うのを、【万葉の仮名書きも、みなそう書いている。「が」は濁音にも清音にも書く。】いにしえにはこうも言ったのだろう。【確かな例証は見えない。】万葉巻十四【十六丁】(3431)に「許己波故賀多爾(ここはこがたに)」とあるのも、「ここへは来難(こがた)に」と言ったのではないだろうか。ここでは、美夜受比賣自身が待ちかねたのでなく、月水が待ちかねて、と言ったのである。○和賀祁勢流(わがけせる)は「吾着せる」である。【「勢」を延佳本で「藝」と書いているのが、さかしらであることは、前述の通りである。】○意須比能須蘇爾(おすいのすそに)。旧印本、他一本には、「能」の次に「須比能」の三字が重なってある。歌の言葉ではそういう例もあるから、【書紀の雄略の巻(十二年)の歌に「柯武柯噬能、伊制能、伊制能奴能(かむかぜの、いせの、いせのぬの)」などとあるのは、特によく似ている。ここも前の「能」に「お」の音があるから、「おすいの」と重なった言葉である。】誤りとも言えない。しかしその繰り返しはない本が多いから、ここでもない方に従った。○都紀多多那牟余(つきたたなんよ)は「月立たなんよ」である。契沖は「後世の歌であれば『たちなんよ』と言うべきところだ」と言った。実際、後には「たたなん」と言えば「立ってください」と願う意味になるが、いにしえには「たちなん」の意味にこういう言い方もしたのだろう。「立ってもおかしくないですわ」ということである。○この歌全体の意味は、以前契りを交わした時から年が経ったので、そのうちには多くの月が経ったから、君を待ちかねて、月が立って見えるのも当然ですわ、というのである。月が変われば(新月)、空の月も立って、見え始めるものだからだ。【王の歌に「月立ちにけり」とあるのは、直に空の月を言ったのだが、この歌ではそれを月が変わって、初めて月が見えたことに解したのであって、つまり朔(ついたち)という名の意味で言っている。】この歌によって考えると、この月経は初めて(初潮)の時のことではないだろうか。初めてのことで、なれていないから気付かず、意須比にも着いて、人の目に留まったのではないだろうか。【しかしそこまで推測するのは、あまり詮索のしすぎでどうかとも思う。】熱田縁起によれば「宮酢媛は答えて、『夜須美志々、和期意富岐美、多伽比加流、比乃美古、阿良多麻乃、岐閇由久止志乎、止志比佐爾、美古麻知何多爾、都紀加佐禰、岐美麻知何多爾、宇倍那々々々、志母夜、和何祁流、意須比乃宇閇爾、阿佐都紀乃其止久、都紀多知爾祁流。(やすみしし、わごおおきみ、たかひかる、ひのみこ。あらたまの、きへゆくとしを、としひさに、みこまちがたに、つきかさね、きみまちがたに、うべなうべな、しもや、わがける、おすいのうえに、あさつきのごとく、つきたちにける)』と歌った」とある。【「志母夜」の三字はとても解釈できない。間違いなく脱字があるのだ。「伊知志路久母夜(いちしろくもや)(著しくもや)」とでもあったのを、「伊知」と「路久」の四字を落としたのか、いずれにせよ「夜」は疑問の辞である。「祁流(ける)」は、今の本ではこの記の延佳本によって、「祁藝流」と「藝」の字を加えている。かえってさかしらの誤りになっている。「着ている」を「ける」とも言うことは、上述の通りだ。ことにここは自分のことだから、「けせる」と言うよりも「ける」と言う方が適当である。最後は「けり」と言う方がいいようだが、上にある疑問の「や」に対する結びなので「ける」と言ったのだ、この記に「たたなんよ」とあるのと合わせ考えて、その意味を知るべきだろう。】「日本武尊はまた歌って、『奈留美良乎、美也禮波止保志、比多加知爾、己乃由不志保爾、和多良部牟加毛(なるみらを、みやればとおし、ひたかじに、このゆうしおに、わたらえんかも)』」、【注に「奈留美は、宮酢媛の住んでいた郷の名である。今は成海邑という」とある。奈留美は、愛智郡、成海郷があり、そこの海辺を指して言う。「良(ら)」は附属の辞であって、「浦」と言ったのではない。注で奈留美を宮酢媛の住んでいた郷と言っているのは間違いである。「比多加知」は「火高路」である。熱田社のある書に、「氷上邑は、後に火高の里と言った。神社・民家に何度も火災があったため、火高の名を改めて大高と呼ぶ」と言っている。ここに「後に火高の里と言った」とあるのは誤りで、もともと氷上とも火高とも言ったのだろう。これこそ宮酢媛の郷である。成海は、この火高の里へ行く途中の道である。歌の内容で分かる。「比多加知」は「直徒(ひたかち)」かとも思ったが、そうではない。それなら「由」とあるべきところを「爾」とあるからだ。「和多良部牟加毛」は「渡りあえんかも」である。】また「これ以前、日本武尊が甲斐の坂折宮にいた時、宮酢媛を恋い偲んで、『阿由知何多、比加彌阿禰古波、和例許牟止、止許佐留良牟也、阿波禮阿禰古乎(あゆちがた、ひかみあねこは、われこんと、とこさるらんや、あわれあねこを)』と歌った」【「阿由知何多」は年魚知縣である。「潟」ではない。「比加彌阿禰古」は宮酢媛のことである。氷上の姉子ということだ。曾丹集の歌(好忠集405)に「あねこが閨(ねや)」とある。今の世でも、若い女を「姉」とか「姉御」とか言う。延喜式神名帳に「愛智郡、火上姉子(ほのかみあねこ)神社」がある。この媛を祭るという。この神社は、今も知多郡大高村にある。この村は鳴海の駅から十町ほど西南の方にあり、昔は愛智郡だった。今も郡の境界に近い。上記の火高の里と言ったところだ。「止許佐留良牟也」は床を避けて寝ているだろうか、という意味である。昔は、夫を持つ女性は、夜一人で寝る時には、床の半分を明けて、片寄って寝た。夫の寝るべき場所を明けておいたのである。万葉巻十八(4101)に「夜床加多左里(よどこかたさり)」とあるのがそうだ。今の本は「左」を「古」に誤っている。また巻四(633)に「枕片去、夢所見來之(まくらかたさる、いめにみえこし)」ともある。「片去夢」とは片去って寝る夜の夢ということである。これも床去(とこさる)のと同じで、枕を片寄せて寝ることを言う。最後の「乎」は、「よ」と言うのと同じ。】「この数首の歌はこの国の風俗歌(くにぶり)となった」とある。【尾張国の風俗歌として歌い伝えたのだ。】上記の歌は、みなたいへん古いもので、確かにその当時から尾張国に伝わった、一つの伝えだろう。【そもそもこの縁起という書物は、すべて古い伝えだったのを、かの寛平年間の修文作業の時、言葉をみな書紀から取って改めたらしく、文も内容もほぼ書紀の通りになっているが、この歌は古伝のまま書いたと思われ、みなめでたい歌である。】○御合而(みあいまして)は、美夜受比賣の答えの歌に感心し、月経中だったのに、すぐに性交をしたということか、または月経期間が過ぎてからということもあり得る。○「其御刀之(そのみはかしの)云々」。書紀には「日本武尊は尾張まで還って、すぐに尾張氏の娘、宮簀媛を娶り、月を越えて逗留したが、近江の膽吹山(いぶきやま)に荒ぶる神があると聞くと、剣を解いて宮簀媛の家に置き、徒歩で出かけた」とあり、尾張国風土記には「熱田の社は、昔日本武命が東国を巡検して還る時、尾張連らの遠祖、宮酢媛命を娶ってその家に宿り、夜厠に行こうとするとき、身に着けた剣を桑の木に掛けて置いた。ところがそのまま忘れて部屋に戻り、はっと気付いて取りに戻ってみると、剣は不思議な光を放っていて、神のようだったので取ることができなかった。そこで宮酢姫に『この剣には神の気がある。私の形影(みかげ)として奉斎しなさい』と言った。そのため社を立て、田レ郷爲レ名也(郷の名とした)」という。【「田郷」の「田」は、「由」の誤りだろう。】熱田縁起には「宮酢媛の家に還って、・・・長い間とどまっていた。ある夜中に厠へ行く時、厠の傍に桑の木があったが、佩いていた剣をその枝に掛けて用を足し、出る時にそのまま忘れて寝室に戻った。だがふと目を覚まして気づき、取りに行こうとしたところ、その桑の樹は照り輝いていた。だがその神の光を恐れずに持ち帰って、媛に桑の木が光っていたことを話した。媛は『あの桑の木には怪しいことなんてありませんわ。剣が光っていたのでしょう』と答えた。そのまま黙って寝た。その後宮酢媛に『私はいったん都へ帰るが、必ずあなたを正式の妻に迎えましょう』と言い、剣を授けて、『この剣を宝物として、私の床の守りにしなさい』と言った。その時傍に仕えていた大伴建日臣が忠告して、『この剣はここに留めるべきではありません。というのは、聞いたところによると氣吹山(いぶきやま)に暴悪な神がいるそうです。この剣の気なくしては、その毒害を防ぐことはできないでしょう』と言った。日本武尊は言挙げして、『なあに、どんな悪神でも、この足で蹴殺してくれるわ』と言った。ついに剣をそこに留めて道を上り、氣吹山に到った」とある。また「日本武尊が突然死んだ後、宮酢媛はかつての約束通り独り寝の床を守り、神剣を安置していた。その光は日のようで、雲酢着聞(この言不明)、もし人が剣に祈りたいと言えば、直ちに感応して影響を及ぼした。その宮に宮酢媛は親族や旧知の人たちを集めて相談し、『私はもう年老いた。最近は黄昏も明け方も区別ができない。目が見えなくなる前に、社を造る場所を占い定めて、この神剣をお遷ししようと思う』と言った。衆人は感じ入り、その社の地を定めた。そこには楓の木が一本あった。自然に燃え上がり、水田の中に倒れた。火は消えたのに、水田にはなお余熱が残っていた。そこで熱田社と名付けた」、書紀の神代巻に「・・・これを草薙劔という。今は尾張國吾湯市(あゆち)村にある。熱田の祝部らが奉斎する神がこれである」、またこの巻(景行天皇)にも「初め日本武尊の身に着けていた草薙横刀は、今は尾張國年魚市(あゆち)郡の熱田の社にある」という。【吾湯市、年魚市は愛智郡にある。和名抄に「あいち」とあるのは訛ったのだ。万葉などにも「年魚市」とある。熱田は、あるいは「年魚市田(あゆちだ)」が縮まった名ではあるまいか。書紀の天智の巻に「七年、沙門の道行が草薙剣を盗み、逃げて新羅へ向かったが、道の途中で風雨に逢って迷い、仕方なく引き返してきた」、天武の巻に「朱鳥元年、天皇の病について卜ったところ、草薙剣の祟りだった。そこですぐに尾張国の熱田の社に送って安置した」とある。熱田縁起には、上記の沙門道行は「ついに斬刑に処せられた」とある。ある書物には、この剣は沙門道行が盗み出したものの、ついに持ち逃げすることができず、もとに帰ってからは帝の宮に納めて置いたとある。とすると、その時から朱鳥元年までは、帝京で祭られていたのだろう。】延喜式神名帳に「尾張国愛智郡、熱田神社【名神大】」、古語拾遺に「その草薙劔は、今尾張国の熱田の社にある。まだ禮典に与っていない」【また「・・・ましてや草薙神劔は、これも天璽であり、日本武尊の凱旋の年から、尾張国熱田の社に留め置かれ、外賊が盗んで逃げたが、国境を出ることができなかった。神のもので霊験あることは、これを見ても分かる。とすれば奉幣の日には、同じように敬って行うべきであるのに、長い間それが欠けたままになっている。その礼を修めずにいることは、漏れたことの一つである」とある。ここで言っているのは、上記の「まだ禮典に与っていない」ということである。これは月次・新嘗などの奉幣に与っていないことを言う。その後「弘仁十三年六月、尾張国熱田の神に従四位下を授けた」、「天長十年六月、尾張の国にいる従三位熱田の大神に、正三位を授けた」、「嘉祥三年十月、尾張国熱田の神に正三位を授けた」、「貞観元年正月、尾張国正三位熱田の神に従二位を授けた」などの記事がある。このうち天長十年の進階は、誤りがあるだろう。ところでこの社は、代々尾張の連氏が奉斎することになっているのだが、書紀に「熱田の祝部らが奉斎する」とあるのは疑問である。熱田の祝部は、どんな姓なのか。尾張連氏の中で、この社を掌っていた人をそう呼んだのではないか。熱田縁起には「尾張の氏人を神主・祝などの職に任ずる」とある。尾張氏が大宮司となって代々伝わってきたのだったが、その大宮司だった尾張員職(かずもと)の娘が藤原季兼(すえかね)に嫁いで、季範(すえのり)を生んだ。この季範は藤原氏でありながら、初めて熱田の大宮司になり、これ以後代々藤原氏が継いだ。玉葉集(2743)に「櫻花ちりなむ後のかたみには、松にかゝれる藤を頼まむ」とあるが、これは熱田大明神の歌だという。「昔熱田の社の大宮司は、代々尾張氏がなってきたが、尾張員職の娘、松という女性が藤原季兼の妻になって季範を生み、後に明神が上記のように託宣したので、初めて藤原氏である季範が大宮司に就任し、その末は今も絶えないという」とある。鎌倉将軍頼朝の母は、この季範の娘である。ところが季範の末に、子孫が絶えたことがあり、また卜部氏の子を養子にして嗣いだそうだ。それでも今も藤原氏を名乗っている。大宮司の次には権宮司(ごんのぐうじ)という者がある。その一家は總檢校(そうけんぎょう)という役になる。家は馬場という。また別の一家は祭主というものになる。祝師ともいう。家を田嶋という。この二家は今に至るまで尾張宿禰の姓で、いにしえから絶えることなく続いているそうだ。その次には大内人という者がある。姓は守部宿禰で、家を大喜という。また八劔(やつるぎ)神社の祠官も尾張宿禰で、家を大喜という。熱田の社は東西に二殿が並んで建ち、東の方を土用御殿という。草薙剣を納めてある。ある説に、「土用御殿という名は、社伝には出て来ない。渡用御殿という名があり、それを土用と訛って言い、近世に土金の説(五行説)を付会して、神剣の納まった御殿の名としたのだ」と言う。これもありそうなことだ。理由はともあれ、「土用」などという名があるはずはない。西の方は正御殿といい、五座の神を祭ってある。西から第一天照大神、第二須佐之男尊、第三倭建尊、第四宮簀媛命、第五建稻種命となっていて、第三、中央の倭建尊を主祭神としている。熱田縁起にも「熱田明神を尾張氏の氏神とする。宮簀媛命と建稻種命は、大宮の相殿神である」とある。一説に「大宮は日本武尊、東は素戔嗚尊、南は宮簀姫命、西は伊弉並(いざなみ)尊、北は倉稻魂命、中央は天照大神」と言うが、これはどうか。社伝とも違っている。八劔の宮というのは、熱田の中に別にある。延喜式神名帳に八劔神社とあるのがそうだ。これは和銅元年に勅によって新たに神剣を作らせ、本社とは別に奉斎させたという。氷上の宮というのは、前記の氷上姉子神社であって、熱田縁起に「宮酢媛が世に下って後、祠を建てて祭った。名を氷上姉子天神という。その祠は、愛智郡氷上邑にある。海部氏を神主とする。海部は、尾張氏の別姓である」とある。この氷上の社の末社に常世の社というのがある。宮酢媛の墓であると伝える。また延喜式神名帳に「愛智郡上(かみつ)知我麻(ちがま)神社、下(しもつ)知我麻神社が載っている。和名抄には千竈(ちがま)郷がある。この地である。今の本は、竈を電に誤っている。上知我麻の社は乎止與(おとよ)命を祭ると言い、俗に源大夫の宮と言っている。下知我麻の社は、乎止與命の妻、眞敷刀婢(ましきとべ)を祭ると言い、俗に紀大夫の宮という。源平盛衰記には、沙門道行が神剣を盗んで逃げた話を述べるところで、「末代にはそういうこともあるだろうと思って、見た目には少しも変わりのない剣を四つ造り備えて、社頭に立ててあった。一つの社の官が、後代の者に教える時、五本の指を挙げて、このことを伝えることになっていた。他の人は、どれが本物か、新たに作った物か分からないという」とある。○伊服岐能山之神(いぶきのやまのかみ)。諸本に「山」の字はない。ここでは延佳本によった。【延佳本にこの字があるのは、自分勝手な判断で付け加えたのだろう。しかしこの字は、間違いなく脱けたのである。】

 

於レ是詔。茲山神者徒手直取而。騰2其山1之時。白猪逢レ于2山邊1。其大如レ牛。爾爲2言擧1而詔。是化2白猪1者。其神之使者。雖2今不1レ殺。還時將レ殺而騰坐。於レ是零2大冰雨1。打=惑2倭建命1。<此化2白猪1者。非2其神之使者1。當2其神之正身1。因2言擧1見レ惑也。>故還下坐之。到2玉倉部之清泉1以息坐之時。御心稍寤。故號2其清泉1謂2居寤清泉1也。

訓読:ここにノリたまわく、「このヤマのカミは、むなでにただにとりてん」とノリたまいて、そのヤマにのぼりますときに、ヤマのべにシロイあえり。そのおおきさウシのごとくなりき。かれコトアゲしてノリたまわく、「このシロイになれるものは、そのカミのつかいものにこそあらめ。いまとらずとも、かえらんときにとりてん」とノリたまいてのぼりましき。ここにおおヒサメふらして、ヤマトタケのミコトをうちまどわしまつりき。<このシロイになれるものは、そのカミのつかいものにはあらて、そのカミのムザネにぞありけん。コトアゲしたまえるによりて、まどわさえたまえるなり。>かれかえりくだりまして、タマクラベのシミズにいたりてイコイませるときに、ミココロややさめましき。かれそのシミズをイサメのシミズとぞいう。

口語訳:倭建命は「この山の神は、素手で退治してやろう」と言い、山に登って行くと、白い猪がいた。大きさは牛ほどもある。そこで言挙げして「この白い猪の姿をしているのは、きっと山の神の使いだろう。今殺さなくても、帰り道で殺してやろう」と言ってさらに登って行った。ところが急に激しい氷雨が降ってきて、倭建命は惑わされ、進めなくなってしまった。<実はこの白猪の姿をしたものは、山の神の使者でなく、その神自身だった。それを言挙げしたため、惑わされることになったのだ。>仕方なく引き返したが、玉倉部の清水があって、そこで一休みしたところ、やや元気を取り戻した。それでその和泉を居寤の清泉と言う。

茲山(このやま)とは伊服伎山を言う。この山は近江の国と美濃の国の境にあり、【西は近江の坂田郡、東は美濃の不破郡、池田郡である。】延喜式神名帳に「近江国坂田郡、伊夫伎(いぶき)神社」、「美濃国不破郡、伊富岐(いぶき)神社」がある。【今、坂田郡にも不破郡にも伊吹(いぶき)村がある。】三代実録卅三に「詔して、近江国坂田郡、伊吹山護国寺を定額に列する。沙門三修の言うところでは、『・・・この山は七高山の一つです。云々』」、【藤原武智麻呂公の伝というものがあり、「異動によって近江守になった。・・・そこで土地を調べて坂田郡に入った。目を山川に止めて、『私は伊福(いぶき)山の頂に立って全体を眺めたい』と言った。ところが国人は、『この山に入ると疾風・雷雨が起こり、霧に閉ざされ、沢山の蜂に襲われます。昔、倭武の皇子も東方の荒ぶる神たちをことごとく退治した後、ここに到って何の用意もなく登ったところ、途中で山の神に害せられ、その身は白鳥になって空に飛び去ったといいます』と止めた。公は・・・五、六人を引き連れて、籠に乗って登ったところ、頂上に近づいた頃、突然あらゆるところから蜂が湧き出て刺そうとした。公は袂を挙げてこれを払いのけ、伴の者達の言うままに引き返した。従者たちは『きっと公の徳に神が感じて、大きな被害もなく済んだのでしょう』と言った。それから終日何事もなかったかのように遊び、周辺を歩き回って眺めたが、風雨もなく、天気は晴れ渡っていた。これは公の勢威によるのである」と言っている。これは僧侶が書いた書物だから、信用できないことが多い。源平盛衰記で、宝剣の由来を書いたところに、「素戔嗚尊は、すぐに天照大神に奉った。大神はたいへん喜んで、『私が天の岩戸に閉じこもった時、近江国の膽吹(いぶき)の嶽(たけ)に落ちた剣だろう』と言った。その大蛇というのは、膽吹大明神の法躰(ほったい)である。云々」と言う。ところで「伊服伎(いぶき)」という名の由来は、山の神が毒気を吹くからだと、谷川氏が言った。そういうことなのだろう。万葉には、この山の歌がない。「六帖などで『さしも草』を詠んでいる伊吹山は下野の国の山である」と顯昭の袖中抄に述べられ、契沖も清少納言の枕草子に「まことや下野へ下ると云ける人に、『思ひだにかゝらぬ山のさせも草、たれかいふきのさとは告しぞ』」ともあるから、下野の国だということは決定的だと言っている。】曾禰好忠の歌に「冬深く野はなりにけり近江なる、伊吹のとやま雪ふりぬらし」とある。【続古今集(647)に入っている。】○徒手は「むなでに」と読む。【旧印本に「徒」の字を「従」と書いているのは誤りだ。諸本みな「徒」とある。ところが師が「日本紀に徒手と言った例はあるが、ここは『従レ手(てゆ)』だ。万葉にもこの言がある。後には『足ゆゆく』ともある。手のまま(素手で)、足のまま(徒歩で)ということだ」と言ったのはよくない。「手ゆ」、「足ゆ」などの例とは、意味が少し違う。】天武紀に「何無2一人兵1、徒手入レ東(いかでかひとりのイクサなくして、タムナデにしてあずまにいりたまわん:どうして一人の兵士もなく、徒手空拳で東に向かわれるのでしょう)」とある「徒手」を「たむなで」と読んでいる。【「手空手」の意味か。または上の「た」は誤りかも知れない。】刀・矛などを持たず、空手で、ということだ。【俗言に言う「素手で」ということである。持統紀で「徒跣」を「すあし」と読んでいるから、「すで」と読むのも、卑俗な言い方ではないだろう。】書紀の神代巻に「空手(むなしで)」とあるのは、得られるはずだったものを得られないで、空しい手で、ということである。ここでこう言ったのは、御刀を美夜受比賣のところへ置いてきたからである。○白猪逢于山邊は「やまのべにしろいあえり」と読む。【「しろいに」と「に」を添えて読むのは、雅言ではないことは、前に言った通りだ。】四時祭式、祈年祭の幣物のところに、「御歳社には白馬・白猪・白雉を加える」とある。【その由縁は古語拾遺の終わりの方に見える。さてこの祭の白猪は、近江国から貢ると、貞観儀式に書いてある。ただそこには「豚一頭」とあるのは、白いのはあまり取れなかったため、もう当時は普通の色の猪を使ったのだろう。延喜式には上代からの決まりのままに「白」と書いたのか。なお「豚」は「猪」と同じだ。今、伊勢国飯高郡に「白猪(しろい)が嶽」という名の山もある。】上巻では赤猪(あかい)もあった。○言擧(ことあげ)。万葉巻六【二十五丁】(972)に「千萬乃、軍奈利友、言擧不爲、取而可來、男常曾念(ちよろずの、いくさなりとも、ことあげせず、とりてきつべき、たけおとぞおもう)」、巻七【八丁】(1113)に「八信井上爾、事上不爲友(ハシリイのうえに、ことあげせねども)」、巻十三【九丁】(3250)に「蜻嶋、倭之國者、神柄跡、言擧不爲國、雖然、吾者事上爲(あきづしま、やまとのくには、かむからと、ことあげせぬくに、しかれども、あはことあげす)云々」、また【十丁】(3253)「葦原、水穂國者、神在随、事擧不爲國、雖然、辞擧叙吾爲(あしはらの、みずほのくには、かむながら、ことあげせぬくに、しかれども、ことあげぞあがする)」、巻十八【三十三丁】(4124)に「可久之安良波、許登安氣世受杼母、登思波佐可延牟(かくしあらば、ことあげせずとも、としはさかえん)」などと見え、書紀には「興言」、【弘仁私記に「ことあげ」とある。】「揚言」など書かれ、「稱之」なども「ことあげ」と読んでいる。この「こと」は「言」か、または「事」の意味だろう。「あげ」は「論(あげつらう)」などの「あげ」で、事の様子やそのあるべき様子を「これこれ」と言葉に挙げて言い立てることを「言挙げ」と言うのである。○使者は「つかいもの」と読む。【「者」の字を添えて書いているのは、その意味である。どこかへ使いに遣るのを普通「使者」と呼ぶのとは違っている。今の世俗でも「〜の神の使者」と言うことがある。春日の鹿、熊野の鳥、石清水の鳩、山王の猿などがそうだ。こういった意識は起源の古いことである。】ここで白猪をこう言ったのは、普通の猪でなく、他の者が姿を変えたのが明らかだったからだろう。【もしそうでなかったら、単に白猪と見て通り過ぎただろう。色の白いのが珍しかったとも言えるが、毎年の祭にも用いられていたから、いにしえには神異というほどのことではなかった。】○「雖2今不1レ殺(いまとらずとも)云々」。【漢文の書き方なら「今」の字は「不」の下に書く文である。】これは軽侮して言ったのである。○大冰雨(おおひさめ)。遠つ飛鳥の宮(允恭天皇)の段にも「大氷雨が降った」とある。和名抄に「文字集略にいわく、霈は大雨である。弘仁私記に曰く、火雨と言う。和名『ひさめ』、雨氷も同じ。考えるに、俗に『ひふる』と言うものだろう」と見え、書紀では「大雨」、「甚雨」、「淫雨」など、みな「ひさめ」と読んでいる。【推古紀、天智紀などに「火雨」とあるのは、もともと「大雨」と書いてあったのを、後の人が「ひさめ」という訓が付いているのを誤解して、「大」の字をさかしらに「火」に改めたのだろう。和名抄に引かれた弘仁私記の文というのも同じである。また今の世で俗に「火の雨」というのも、実は氷雨のことである。】そもそも「ひさめ」と言うのは、もとは氷が降ることを言い天武紀に「氷零大如2桃子1(あられが降って、大きさは桃の実ほどもあった)」とあるのがこれである。【今の世に「ひょう」と言うもので、雹(はく)の字がそうだ。「ひょう」と言うのは、この字の音を「はく」と読んでいたのが訛ったのではなかろうか。和名抄でも書紀の訓でも、「雹は『あられ』」とある。「あられ」は霰だが、いにしえには雹も含めて「あられ」と言ったのだろう。雹の字、また上記の「氷零」などは、「ひさめ」とも「ひふる」とも読める。】ところがそれから転じて、普通に雨が降るのも言ったと見えて、前記の遠つ飛鳥の宮の氷雨は、歌では「あめ」と詠んでいる。【これが雹だったら、「あめ」とは言わないだろう。ただ「あめ」という語は、このたぐいすべての総称で、実際には雹が降ったのを歌では「あめ」と詠んだことも考えられる。】和名抄で「霈」も「ひさめ」と注し、書紀で「大雨」、「甚雨」を「ひさめ」と読んでいるのもこれである。だがここにあるのは、「打惑(うちまどわす)」とあるから、雹である。書紀でも「零レ氷」とある。【今の本で「氷」を「水」と書いているのは筋が通らない。「氷」の誤りであることは疑いない。】「大」というのは、降った氷が大きかったのだろう。○零は「ふらして」と読む。この山の神が降らせたのだ。○倭建命。ここでこう呼ぶのは、文がまずく感じて、単に「命」、または「王」と書いた方がいいように思えるだろうが、【そう思うのは、なまじっか漢文の書き方に慣れた、後世の見方である。】こう言うのこそ古文の言い方だった。【記中の文の例を、注意して見て理解せよ。】○打惑(うちまどわし)。【「惑」の字は、諸本に「或」と誤っている。ここは延佳本によった。】白檮原の宮の段に「御軍皆遠延而伏(ミイクサみなおえてこやせり)」とあり、それを後の文に「其惑伏御軍(そのおえこやせるミイクサ)」とある。ここも「惑」はその「おえ」と全く同じだ。すると「うちおやしまつりき」とも読める。「おえ」についてはその段で言った。【伝十八の四十七葉】参照せよ。「まどわし」と読んでも。単に道に迷わせたといった意味ではない。心を失わせたのだ。○註の「正身」は「むざね」と読む。「身実」の意味である。書紀のこの(景行の)巻に「形則我子、實則神人(かたちはアがこなれども、ムザネはかみなり)<見た目は確かに私の子だが、その実は神だ>」、孝徳の巻(大化元年八月)に「験2僧尼奴婢田畝之實1(ほうし・あま、おのこやつこ・めのこやつこ、たはたけのムザネをかんがえて)」とある訓による。これらの「實」の字は、正身という意味ではないが、訓の意味は「身實」だから、正身にも合う。【ただしこの二つの「實」の字は、花實(はなみ)、虚實(からみ)などの「実」の意味である。「虚しい」とは「実無し」のことだ。とすると、人の身体(み)とは一応別の意味になるが、煎じ詰めれば同意なので、本来「む」という言葉は同じ意味である。】「身(み)」を「む」とも通わせて言うのは、いにしえには普通のことだった。【ここの「正身」を書紀では「主神」と書いて「かむざね」と読んでいる。だが主神というのは、使者に対して、その主君たる神という意味に聞こえるから、「かむざね」という読みは不適当だろう。というのは、中昔の物語本などで、「客(まろうど)ざね」、「使(つかい)ざね」などという言葉を見ると、「客の中の主たる人」、「使いの中の主たる人」という意味に使っている。だから「神ざね」というなら、それは諸神の中の主たる神、ということだからだ。ただし客の中の主たる人を「客ざね」というのは、後に意味が転じただけで、もともとは「某ざね」というのは、その身実(客を派遣した主人)を言ったのかも知れない。そうであれば、「かむざね」と言うのも、主神の意味ではなくとも、その神の正身という意味には当たるだろう。】さて、正身というのは、それ自身、本人という意味である。若櫻の宮(履中天皇)の段にも「その功に報いても、その正身は滅ぼそう」、穴穂の宮(安康天皇)の段にも「それでもその正身が参向しないわけは云々」などがあり、官衛令に「およそ兵衛、衛士の上番は、みな正身(本人かどうか)を点検し、その後に奏聞する」、続日本紀五に「詔して、郡司主政・主帳は国司・・・その正身を見て、式にならって試練(試験)し、その後に補任せよ、云々」、卅に「逆賊の橘奈良麻呂ら、および連座した者、二百六十二人の罪を軽減し、情状によって罪を許した。・・・ただし名簿は本貫(本籍地)に載せるが、正身は京に入ってはならない」、三代実録十三の詔に、「応天門および左右の楼門等、失火によってあっという間に焼け失せた。・・・ある人が告げて言うには、大納言判宿禰善男のしわざだという。驚き怪しんで、所司に調べさせたところ、正身は強く否定して承服しなかったが、その子や従者たちを厳しく問い詰めたところ、事は既に明らかで疑いない」、万葉巻十六(3810後書き)に「正身不レ來、徒贈2セキ(果の下に衣)物1(正身は来らずして、徒につとのみを贈れり:自分自身はやって来ず、ただ贈り物だけを贈ってきた)」などと見えるので知るべきである。今の世俗に言う「その本人」ということだ。中昔の物語書などでは、これを「そうじみ」と言う。【「そうじみ:旧仮名サウジミ」と言うのは、燈心(とうしみ)などのたぐいで、正身の音読みだろう。あるいは「まさみ」の「ま」を省いて「さ」を音便で「サウ」と言ったのかとも思ったが、そうではないだろう。】○當は「にぞありけんを」と読む。【こう読むのが、この字を書いた意味に相当する。】○見惑は「まどわさえ」と読む。【「惑」の字は、諸本で「成」、「或」などに誤っている。ここでは真福寺本、延佳本によった。】○ここにある廿三字の細注(原文は細字)を、師は「後人が付け加えたものだ。記中に例のない書き方である」と言ったがそうではない。このたぐいは、この記を撰定した時、太安萬侶が加えたか、それとも古い伝えのままということもあり得る。それを別に註した形にしたのは、語り伝えた人の判断で言い添えた言葉だからだろう。またこういう類の註は、記中に時々見える。○玉倉部(たまくらべ)は、【「倉」の字を「食」と書いた本は誤りである。ここでは真福寺本、延佳本によった。】天武紀に「近江勢は精兵を放って、突然玉倉部の邑を襲った」とある地が、よく適合する。しかし今はどの地か不詳である。美濃国不破郡にあるだろう。【書紀に「山下」とあるから、伊吹山から遠くないところだろう。その近くに「玉村」というところはある。次にさらに言う。師は「天武紀に『倉歴(くらぶ)』というのが二箇所あり、一つはこの『玉倉部』で、近江国甲賀郡の藏部とは別である」と言い、「くらぶ」と読んだ。しかし天武紀に出ている倉歴は別ではなく、同じ場所を言っており、和名抄に載っている甲賀郡の藏部郷である。そこの文を見れば分かる。その倉歴は、今は伊賀国の阿拝郡に属し、上柘植の中に倉部村とあるところだ。近江国との境に近い。中昔から、歌に「くらぶ山」と詠まれているのはそこである。ここの玉倉部は、そことは大きく地理が違っている。混同してはならない。】○清水(泉?)は「しみず」と読む。書紀では「好井」、「寒泉」などもそう読んでいる。和名抄には、「日本紀にいわく、妙美井、『しみず』」とある。「し」は「すみ」が縮まったのである。○息は「いこい」と読む。新撰字鏡に「ソク?(息+舌)、ケイ(りっしんべん+曷)、ゲン?(食+元)の三字は同じ形で、息である。『いこう』」とある。【ソク?(息+舌)は、正しくは「憩」の字だろう。】ここには単に息坐(いこいます)とのみあるが、「その清水を」とあるから、水を飲んだのだろう。書紀にもそう書いてある。○居寤清水(泉?)(いさめのしみず)【旧印本、延佳本には「寤居(さめい)」とあるが、他の諸本にはどれも「居寤」とある。書紀もそうである。】は、ありかが玉倉部のところで言った通りである。書紀に「山下の泉」とあるから、伊吹山の麓なのだろう。後の文に「尾張に還り」とあるから、山下は【近江の方ではない。】美濃国の方の麓である。この記に「還下坐」とあるのも、元来た道を引き返したように聞こえる。この後、當藝野、尾津の前と続く道筋も、この清水のところが美濃でなければ合わない。【延喜式神名帳に「美濃国多藝郡、御井神社」があるが、伊吹山からは遠い。やはり不破郡で、その山に近いところを探すべきだろう。今も残っている可能性がある。後世、近江国坂田郡に醒井(さめがい)という名高い清水があって、その里は今も醒ヶ井という名の駅になっている。源親行の東關紀行に「音に聞く『さめが井』を見れば、陰の暗い樹下の、岩根から流れ出る清水は、あまりにも冷たく澄み渡って、実に身にしみるほどである」、撰集抄にこの清水のことを、「延喜の末に日照りした時、仲算という僧が、水を出そうとして、剣で山の崖を掘ってみたところ、突然湧き出した」と書いている。ただ「醒ヶ井」という名は、いかにもここの倭建命の故事による名のように聞こえるが、この清水は伊吹山からは遠く、道の行く先も違うから、これではなさそうだ。それを旧印本などで「居寤」を上下逆にして「寤居」と書いたのは、この近江の醒ヶ井をその清水だとして、後人がさかしらに改めたのだろう。もし醒ヶ井なら、「井」の字を書くべきであり、どうして「居」と書くだろう。】「居寤」というのは、休息しようとして、しばらくそこに居て覚めたことを言うのだろう。それは道を行く途中のことなので、「行」に対して「居」と言ったのだ。古今六帖に(131)「東路(あづまぢ)の、ゐさめの里は初秋(はつあき)の、長夜を獨(ひとり)明す我名ぞ」、(26890)「吾のみと思ふは山のゐさめ里、ゐさめに君を戀(こひ)明しつる」、【「ゐさめ」を、夜通し目が覚めていたという意味に取った歌である。】この「ゐさめの里」が、この清水のあるところだろう。と言うのは「吾のみと云々」の歌の初めの句の、「と」は「そ」を誤ったもので、「吾のみぞと思ふは」というのを不破(ふわ:旧仮名フハ)山に掛けて言ったのである。【そうでなければ、二の句は納得できない。】不破山は万葉【巻二、人麻呂の歌(199)】にも見えて、【美濃の不破郡であることは言うまでもない。】天武紀の趣では、玉倉部邑は不破の行宮から遠くない地のようだからだ。【天武天皇の頃には、その里を玉倉部と言っていたのが、その後、清水の名に因んで「居寤の里」と言うようになったのだろう。】書紀では、「膽吹山に着くと、山の神は大蛇になって道を遮っていた。日本武尊は、神自身が蛇になっていることを知らず、『この大蛇は、きっと山の神の使いに違いない。山の神自体を殺してしまえば、その使いなどは取るに足りない』と言い、その蛇を踏み越えて行くと、山の神は氷を降らして、峯は霧に閉ざされ谷は暗く、行くべき道が分からなくなった。踏み迷って、自分がどこを歩いているのかさえ分からない。それでも強いて進んで行くと、わずかに霧から出ることができた。だが意気阻喪して、酔ったような状態だった。山下の泉に到って、その水を飲んでやや醒めた。そこでその泉を『居醒の泉』と呼ぶ」とある。

 

自2其處1發。到2當藝野上1之時。詔者。吾心恒念2自レ虚翔行1。然今吾足不2得歩1。成2當藝斯形1。<自レ當下三字以レ音。>故號2其地1謂2當藝1也。自2其地1差少幸行因2甚疲1。衝2御杖1稍歩。故號2其地1謂2杖衝坂1也。到=坐2尾津前一松之許1。先御食之時。所レ忘2其地1御刀。不レ失猶有。爾御歌曰。袁波理邇。多陀迩牟迦幣流。袁都能佐岐那流。比登都麻都。阿勢袁。比登都麻都。比登邇阿理勢婆。多知波氣麻斯袁。岐奴岐勢麻斯袁。比登都麻都。阿勢袁。自2其地1幸到2三重村1之時。亦詔之吾足如2三重勾1而甚疲。故號2其地1謂2三重1。

訓読:そこよりたたして、タギヌのうえにいたりまししときにノリたまえるは、「アがココロつねはそらよりもかけりゆかんとオモイツルを、いまアがあしエあゆまず。タギシのかたちになれり」とぞノリたまいける。かれそこをタギという。そこよりややすこしいでますにいたくつかれませるによりて、ミツエをつかしてややややにあゆみましき。かれそこをツエツキザカという。オツのサキのヒトツマツのもとにいたりませるに、さきにミオシせししとき、そこにわすらしたりしミハカシ、うせずてなおありき。かれみうたよみしたまわく、「おわりに、ただにむかえる、おつのさきなる、ひとつまつあせを、ひとつまつ、ひとにありせば、たちはけましを、きぬきせましを、ひとつまつあせを」。そこよりいでましてミエのムラにういたりませるときに、また「アがアシ、ミエのまがりなしていたくつかれたり」とノリたまいき。かれそこをミエという。

口語訳:そこから出発して、當藝野のあたりに到った時、「私の心は、これまでは大空を翔り行くように思っていた。だが今、私の足は前へ進まない。當藝斯(たぎし)のような形になってしまった」と言った。それでそこを當藝と言う。そこからやや進んだが、たいへん疲れを覚えたので、杖を突いて少しずつ歩いた。それでそこを杖衝坂と言う。尾津の前の一つ松のところに到った。以前ここで食事したことがあり、そこに刀を忘れたことがある。それが失くならずに、まだ残っていた。そこで歌って、「尾張に、直に向き合っている尾津の前の一つ松よ。あせを。一つ松が人ならば、刀を佩かせてやるのに、着物を着せてやるのに。一つ松、あせを」そこからさらに進んで三重村に到った時、また「私の足は三重に曲がって、ひどく疲れた」と言った。それでそこを三重と言う。

發(たたして)とは、前の文に「息坐」とあるのを受けている。【他のところには、こういう言葉はない。】○當藝野上(たぎぬのうえ)は、和名抄に「美濃国多藝【たぎ】郡」、延喜式神名帳に「同郡多伎神社」、万葉巻六(1034)に美濃国多藝の行宮にて「從古、人之言來流、老人之、變若云水曾、名爾負瀧之瀬(いにしえゆ、ひとのいいくる、おいびとに、わかゆとうみずぞ、なにおうたぎのせ)」、【「瀧之瀬」はいわゆる養老の滝を言い、ここの地名を詠んだわけではない。混同しないように。このことは後で更に述べる。ただし「名に負う」というのは、地名に負うということである。】(1035)「田跡河之、瀧乎清美香、從古、宮仕兼、多藝乃野之上爾(たどがわの、たぎをきよみか、いにしえゆ、みやつかえけん、たぎのぬのうえに)」などがある。このうたによると、この野はいわゆる養老の滝の近くかと思われる。【今もこの野はあり、たいへん広い野だという。】不破郡から、伊勢の尾津の前までの途中にある。【不破郡からこの多藝郡、石津郡を経て、伊勢の桑名郡に続く道である。師はこの當藝を美濃の當藝でなく、近江国に別にあると言ったが、それは前記の居寤を近江の醒ヶ井と勘違いしたことから来る間違いである。】「野上」は「ぬのうえ」と読む。万葉巻廿【十五丁】(4506)に「多加麻刀能、努乃宇倍能美也波(たかまとの、ぬのうえのみやは)」と見え、また【同丁】(4507)「乎能宇倍(おのうえ)」ともある。「上」はあたりということで、「野上」は「野辺」ということだ。【「うえ:旧仮名ウヘ」の「う」を省いて、「野の閇(ぬのへ)」、「山の閇(やまのへ)」、「河の閇(かわのへ)」などとも言い、「の」も省いて「野辨(ぬべ)」、「山辨(やまべ)」、「河辨(かわべ)」とも言う。どれも同じだ。それを後には「うえ」と言うのは「上下」の「上」だけだと思い、「へ」と言えば「辺(ほとり)」の意味だと思って、別の語のように、「へ」と言う時は必ず濁って言うようになった。古くは「ウヘ」とも「ヘ」とも言い、前後の続きによって「ベ」と濁っても言った。どれも同じである。】○恒は「つねは」と読む。これは上巻の海神の段に「三年住んでいて、恒は嘆くこともなかったのに」とある「恒は」と同じで、「これまでは」ということである。○「自レ虚(そらよりも)」は、「空をも」ということだ。○翔(かけり)は、書紀の仁徳の巻の歌に「等弭箇慨梨(とびかけり)」、万葉巻十七【四十五丁】(4011)に「久母我久理、可氣理伊爾伎等(くもがくり、かけりいにきと)」などがある。○念は「おもいつるを」と読んで、その下の「然」は読まない。「を」は「ものを」という意味で、そこに「然るに」という意味が入っているからだ。ところで「今まではこう思っていた」というのは、たいへん武(たけ)く雄々しく、勇敢な心だったからだろう。大丈夫(ますらお)の心は、誰もがこうありたいものだ。○歩(あゆむ)は「足読(あよ)む」の意味の言だろうか。一歩ずつ歩むのは、物の数を数えるのに似ているからだ。【私の郷里、伊勢の山里人などは「あよぶ」と言う。】ここでは馬や輿にも乗るのが当然なのに、こんなに疲れ悩みながらも、なお徒歩で進んだのはなぜなのかというと、それほどまでに雄々しい気性のためである。歩けなくなっているのに、なお歩かずにいられるものかと、心を励まして進んだのは、「恒念2自レ虚翔行1」とあるので分かる。<訳者註:書紀によると、應神天皇の時まで馬がなかった。神代巻には馬も出ているが、人代巻では、應神代まで騎乗用の馬は登場しない。農耕馬は伝わっていたかも知れない。前掲信濃坂の険しさの形容に「馬も進まず」という句があったが、馬で登ったというのでなく、漢籍の表現をまねてそう書いたのだろう。倭建命の東国征伐は、すべて徒歩だったと考えるべきである。>○當藝斯(たぎし)は、和名抄の舟の具に、「唐韻にいわく、カジ(舟+施のつくり)は、【字はまた『舵』とも書く】船の進路を正す木である。楊氏の漢語抄にいわく、柁は船の尾である。あるいはダ(木+施のつくり)とも書く。和語で『たいし』と言う。考えるに、舟人は挾杪を『舵師』と呼ぶ。これだろう」とある。延佳はこれを引いて、「おそらくこれだろう」と言っている。確かにそうだ。【玉篇に「柁は船を正す木である。船尾に設置し、舵と同じである」と言い、釋名に「舟の尾をダ(木+施のつくり)と言う。船の進路を正して、流れに従って他に戻らないようにするのに使う」とある。】師の言うところでは、「カジ(舟+施のつくり)は、今の世に『かじ』と言うものである。万葉などで『かじ』と言っているのは、今の艪(ろ)と言うもので、カジではない。ところが歌や祝詞では『かじ』または『かい』とばかり言って、『たぎし』と言った例がない。それは歌に詠むことに慣れず、また調子も整わないから、おのずと使わなかったのではないか。祝詞でも調子を撰ぶからだ」と言った。この「たぎし」を「たいし」と言うのは、中昔から音便で崩れたのである。倭の地名の當藝麻(たぎま)も、後には「たいま」と言っているのと同じだ。【その他にも「き」を音便で「い」と言っている例はたいへん多い。】多藝志耳(たぎしみみ)命などという名も、これに因むのだろうか。名の意味は万葉巻七【二五丁】(1266)に「大舟乎、荒海爾榜(底本はてへん+旁)出、八船多氣(おおぶねを、あるみにこぎいで、やふねたけ)とあるのは「船をいやたけ」ということで、力を尽くし、艪を左右に漕いで船を進ませる様子を言うから、船を思うように操縦する意味だろう。【「し」の意味は定かでない。「たけ」と「たぎ」は通用する例が多い。】というわけで、「たぎし」が今の「かじ」であることは明らかだが、その形はどうだっただろうか。今の世と同じだったか、違っていたかは分からない。○「成2・・・形1」は「・・・のかたちになれり」と読む。「・・・のかたちなせり」とも読める。【「なせり」は「・・・のごとし(・・・の形をしている)」という意味だ。だがここは「になれり(形になった)」という方がまさっている。】「たぎし(舟+施のつくり)の形になった」というのは、どういう形を言うのか、そのものの形が分からないので、どんな足の形を言うのかも分からないが。和名抄に「毛詩註にいわく、足が腫れたのをショウ?(允に重)と言う。またいわく、低湿地に住む人はショウ?(允に重)を患う人が多い。辨色立成にいわく、『おめあし』、世に『こい』と言う」とあり、【今も脛の腫れたのを「こいずね」と言う。説文に「ショウ(まげあしに重)は脛の腫れる病気である」とある。今の世に、膏を作る道具で「こい」という棒(すりこぎのことか)がある。これは中央が太く、両端がややすぼまった形だ。これは「こいあし」の形に似ているから、そう呼ぶのではないだろうか。】この王も、山の神の毒気に当たって、その病を得たのではないだろうか。いにしえの「たぎし(舟+施のつくり)」の形は、そういう「こい」の形に似ていたのではないだろうか。さらに考察すべきだろう。【師は「足がたぎし(舟+施のつくり)の柄が曲がっていたのに似ていたのだ。後に『私の足は三重の勾(まがり)のようになってしまった』とあるので知るべきである」と言ったが、「たぎし」が今の「かじ」のようだったら、その柄はそれほど曲がっていない。いにしえのは形が違っていて、それは曲がっていたのか。どういう形か分からないから、「曲がっていたところが似ていた」と断定することも難しい。後の「三重の勾」のところでさらに議論する。】○「故號2其地1謂2當藝1也(かれそこをタギというなり)」とは、この地名の由縁となったことを言う。【続日本紀七に「霊亀三年九月、天皇は美濃国に行幸して・・・當耆(たぎ)郡に行き、多度山の美泉をご覧になった。十一月、詔して『・・・霊亀三年を改めて養老元年とする』」とあり、この「美泉」はいわゆる養老の滝で、上記の万葉巻六の歌もこの泉を詠んだものだった。だがその歌は二首ともに「瀧」と詠んでいるから、多藝郡、多藝野などという地名は、この養老の滝に由来するように聞こえて、紛らわしいだろうが、そうではない。「たぎ」という地名は、ここに出ている通り、倭建命の言葉から起こったのだ。】○「自2其地1差少幸行・・・杖衝坂也」とある文は、延佳本の頭書きに「思うに、伊勢国に桑名郡から入る時は、尾津を経て三重、杖衝、能褒野と行くのが今の道である。これによると、『自2其地1(そこから)』というところから『杖衝坂也』と言うまでの二十四字は、後の文の『三重』というところの次にあるべきだろうか」と言った考えが正しい。というのは、杖衝坂は今も伊勢の三重郡にあって、名高いところだからだ。【この地のことは、三重の次に言う。】それはまた別のところだろうとも言えば言えるが、多藝野から尾津までの間に、坂道はないそうだ。とするとこの杖衝坂は、もとの伝えでは、後の文の三重の次にあったのを、「成2當藝斯形1(たぎしのかたちになれり)」と「如2三重勾1(みえのまがりのごとくなり)」と、事の様子が似ているので、中ごろにまぎれて順序を誤り、當藝の次に語り伝えたのを、そのまま書いたのだろう。「差少幸行(ややすこしいでます)」というのも、三重から今の杖衝坂まで、ほど近い距離にあるのに合っている。【書紀には當藝、三重、杖衝坂のことは一切ない。】○「因2甚疲1(いたくつかれませるによりて)」。「因」の字は諸本に誤って「固」とある。ここは師が改めたのによる。○稍は「ややややに」と読む。万葉巻五【四十丁】(904)に「須臾毛、余家久波奈之爾、漸々、可多知都久保里(しまらくも、よけくはなしに、ややややに、かたちつくほり)」、巻七【十八丁】(1205)に「奥津梶、漸々爾水手(おきつかじ、ややややにこげ)」【この「爾水手」を本では「志夫乎」と誤っている。「漸々」の読みも誤っている。】とある。「漸」は普通「ようやく(旧仮名ヤウヤク)」と読むけれども、【上記の万葉巻五の歌も、本ではそう読んでいる。】この言葉は、古い書物に確かにそう読んだという例がなく、定かには分からない。しかしよく考えれば、「ヤウヤク」も「やややや」が音便で転訛したのだ。【上記の万葉の二つの歌が、ともに「漸々」と重ねて書いてあるのも、「やややや」と重ねて言う言葉だからだ。この「やややや」を音便で「ヤウヤウ(ようよう)」と言う。中古の物語書などにも、また今の世でも「ヤウヤウ」と言う。ところが漢籍などを読むには「ヤウヤウ」では何だか頼りなく聞こえるので、最後を「ク」と読み習わして「ヤウヤク(ようやく)」になったのである。それは、「よく」を「よう」、「如此(かく)」を「カウ(こう)」、「疾(とく)く」を「とう」などと言うのと同様と見て、「く」と言うのこそ正しいと考えて、そう読んだのだろう。<この部分、旧仮名はカタカナ表記>】言葉の意味は、急速でなくゆるゆると徐々に行うことで、今の世では俗に「そろそろと」と言うのと同じである。【字書にも「稍は漸である」と注し、「漸は徐(しず)かで、速くないこと」とある。その意味で、この言葉を用いる場合に二通りある。一つは上記万葉巻七の歌のように「静かにそろそろ」という意味で、もう一つは俗言で「次第次第に」、「段々に」、「漸々(ぜんぜん)に」という意味だ。上記万葉巻五の歌では、この意味に用いている。】○尾津前(おつのさき)。ここの歌によると、「津」は清音に読む。和名抄に「伊勢国桑名郡、尾津【おつ】郷」、延喜式神名帳に「同郡、尾津神社」もある。この地である。今は地名も社名も残っておらず、ただ「戸津(とづ)村」というのがあるのを、その地と語り伝える。【今の桑名から二里ほど西北の方、多度神社の廿町ほど東南に、溝野村(今の御衣野か)、戸津村というのがあり、東西に並んでいる。その間に八劔宮という社があるのを尾津神社だと言い、戸津を尾津だと言い、またこの記の倭建命の故事を伝えている(現在の草薙神社)。その地は美濃から伊勢に通じる古道で、今もそうである。美濃の多藝郡から、石津郡を通って到着するところで、美濃との国境から一里あまり南である。この付近は、今は海から遠いが、いにしえは海辺であって、尾張の津嶋から渡る船の停泊地だったと言い伝える。実際そうだっただろう。今の桑名郡の長嶋あたりから、尾張の海西郡、海東郡などは、いにしえは大部分海だったのが、次第に干上がって南の方が陸地になったのだから、尾津の崎はこの戸津村の辺りであって、上代には尾張の年魚市縣と、海を隔てて真向かいにあっただろう。内山眞龍によれば「このあたりは多度山の尾崎が長く延びた先の地で、その山の崎を里人は「鼻長(はななが)」と言う。典型的な崎の地形である。今は海から遠いが、いかにも入り海のような地形で、いにしえに海辺だったことは、見た目にも明らかだ」という。これから考えると、多度山の尾の崎の津だったから尾津と言ったのではないだろうか。今の世の桑名郡に尾津という地名は残っていないので、以前考えたのは今の尾張の海東郡に小津村というところがある。このあたりは延喜式・和名抄の頃までは伊勢の桑名郡に属していて、上代には海辺だったのかも知れない。そこの崎だろうかと思ったが、よくない。】書紀によると「日本武尊は、この時初めて身が痛むのを感じた。だがやや立ち上がって、どうにか尾張に還った。しかし宮簀媛の家には入らず、そのまま伊勢に向かい、尾津に到った」とある。伊吹山を降り、當藝野のあたりに付いた頃は、なお尾張の美夜受比賣のところに帰ろうとしていたのだろうが、体の疲労がますます耐え難く、国元へ帰りたくなって、【思國(くにしぬび)歌があるのでも分かる。】尾張には還らず、倭に還ろうと思い、伊勢に向かったのだろう。【伊勢から伊賀を経て、倭に到る。】この記にも書紀にも、尾張に還らず伊勢に行った理由は書いていないが、きっとそういうことだったに違いない。【書紀に「尾張に還った」とあるのは、その帰り道に向かったことを言う。尾張国に到着したというのではない。後に「宮簀媛の家には戻らなかった」とあるのは、尾張国に到着しなかったのである。】○一松之許(ひとつまつのもと)。「許」は「もと」である。万葉巻六【四十一丁】(1042)の「活道(いくじ)の岡に登り、一株松(ひとつまつ)の下に集まって、酒宴をしたときの歌」に「一松、幾代可歴流(ひとつまつ、いくよかへぬる)云々」など、後代の歌にも詠まれる。【今の俗言で「一本松」と言うものだ。この尾津の前の松は、今も前記の八劔宮に「劔掛けの松」といって跡が残っている。】○先御食之時【「之」の字は諸本にない。ここでは真福寺本、延佳本によった。こういうところには「之」があるのが通例だからだ。】は「さきにみおしせししとき」と読む。「さきに」とは、倭比賣命のもとを辞して、東国に赴く時、この地に立ち寄ったのである。いにしえの伊勢から東国に向かう大道は、【今のように桑名から直接熱田に海を渡るのでなく、】この尾津のあたりまで来て、吉蘇川(きそがわ)の川尻を渡り、【古くは、尾津はこの川が海に入る辺りだっただろう。】尾張の津嶋のあたりを通って年魚市縣(あゆちがた)に到ったのだ。その道程の間中、南は海辺だっただろう。【今の津嶋から甚目寺(じもくじ)などというところを通って、名兒屋(なごや)に到る道の辺りこそ、いにしえの大道だっただろう。いにしえはその甚目寺の門前まで波が打ち寄せていたという里人の語り伝えもある。今そのあたりから海辺には二里ほどの距離がある。古くはその間の地は、ほぼ海だっただろう。】「御食」は、書紀で「食」、「飲食」、「進食」などをみな「みおしす」と読んでいる。上巻に「食は『おす』と読む」とあり、息長帯比賣命の歌に「おせ」などとある。「せしし」は「せし」を延ばして言った古言で、「為(し)賜いし」と言うのと同じだ。【古言で「爲(す)」を延ばして「せす」と言い、それの活用で「爲(せ)し」を「せしし」と言う。最後の「し」は過去の助辞である。これは「立つ」を「たたし」、「たたしし」、「行く」を「ゆかし」、「ゆかしし」、「取る」を「とらし」、「とらしし」などと言うのと同様だ。】○所忘は「わすらしたりし」と読む。万葉巻五【二十五丁】(877)に「多都多夜麻、美麻知可豆加婆、和周良志奈牟迦(たつたやま、みまちかづかば、わすらしなんか)」これも「わする」を延ばして「わすらす」と言う。古言で自然に言う敬語表現である。○御刀(みはかし)。これは草薙の剣とは別である。混同しないように。書紀には「日本武尊は東国に向かう時、尾津の濱で一休みして食事を取った。その時、一つの剣を外して松の根元に置き、そのまま忘れて行った。今ここまで戻ってみると、剣はなくならないでそのままあった。そこで歌って云々」とある。○袁波理邇(おわりに)は「尾張に」である。○多陀迩牟迦幣流(ただにむかえる)は「直に向かえる」である。【「直に」は、俗に言う「まっすぐに」ということだ。】この地の様子は、上に述べた。万葉巻四【十六丁】(509)に「夷乃國邊爾、直向(ひなのくにべに、ただむかい)」、巻六【十八丁】(946)に「淡路乃嶋二、直向、三犬女乃浦能(あわじのしまに、ただむかい、みぬめのうらの)」とある。○袁都能佐岐那流(おつのさきなる)は「尾津の崎なる」である。書紀にあるのは、この句がない。ないのも悪くないが、上の二句からの続き具合は、ある方がよい。○比登都麻都、阿勢袁は「一つ松、吾兄(あせ)を」である。【延佳本で「勢」を「藝」と書いている。後の句も同じだ。それは「吾君(あぎ)」の意味と見てさかしらに改めたのだろうか。諸本みな「勢」である。】朝倉の宮(雄略天皇)の段の歌にも「阿世袁(あせを)」とある。また同じ段の歌で、この記には「波理能紀能延陀(はりのきのえだ)」とあるのを、書紀では「波利我曳陀阿西嗚(はりがえだあせを)」とある。「吾兄」とは、松の木に親しみを感じて言ったのである。この「阿勢袁」を書紀では「阿波例(あわれ)」と書いている。○比登邇阿理勢婆(ひとなりせば)は「人なりせば」である。○多知波氣麻斯袁(たちはけましを)は「太刀佩かせましを」である。「はけ」は「はかせ」を縮めたので、「浮かせ」を「うけ」、「聞かせ」を「きけ」、「向かせ」を「むけ」というのと同じだ。【このような活用形は他にも多い。】○岐奴岐勢麻斯袁(きぬきせましを)は「衣着せましを」である。この二句はいずれも「まし」は「む」の意味で、「を」は「ものを」ということだ。「太刀を佩かせてやろうものを」、「衣を着せてやろうものを」の意)。書紀では、この二句は前後が入れ替わって、衣の方が先にあり、太刀の方は後にある。【強いて比較すれば、衣が先にある方が、ややまさっているだろうか。】○比登都麻都阿勢袁(ひとつまつあせを)。この句は書紀にはない。○歌全体はそのままの意味で、刀をなくさず、今まで守っていたことを賞めて詠んだのだ。【ふと思ったのだが、この刀は枝に掛けて置いたのではないかと思われるのに、この記に「その地に忘れた」とあり、書紀でも「松の下に置いた」とあるから、そうではなく、松の根元の所に置いたようだ。それでもこう詠んだのは、その木の所にあったから、松が守ったように見えたからだ。】○三重村(みえむら)。和名抄に「伊勢国三重【みえ】郡」、天武紀に「三重の郡家に到った」、万葉巻九【十六丁】(1735)に「吾疊、三重乃河原之(わがたたみ、みえのかわらの)」とある三重で、朝倉の宮の段に「三重の采女(女+采)」とも見える。三重村というのは、和名抄には、この郡に「采女(うねべ)郷」があって、【今も采女村がある。】三重川もそこに近いから、【この川は今の四日市の北にある三瀧川という川だろうと言うが、そうではなく、采女村の北にある今は「うつべ川」と呼んでいるのがそうだと思われる。】そのあたりだろう。○亦詔之(またのりたまい)とは、前に「吾足不2得歩1云々」と言ったことがあるので、「亦」と言ったのだ。○如三重勾は「みえのまがりなして」と読む。「勾」は和名抄の飯餅類に「楊氏の漢語抄にいわく、モチ(米+環のつくり)餅は、形が藤葛のようなものである。和名『まがり』」とあり、【説文に「キョ(米+巨)ジョ(米+女)は膏モチ(米+環のつくり)である」、齋民要術に「キョ(米+巨)ジョ(米+女)は環餅と呼ぶ。環釧にかたどる」とある。】新撰字鏡に「餌は『まがりもち』」、また「饌飴も同じ、『まがり』」と見え、大嘗祭式の供神の雑物にも「勾餅筥五合」、土左日記に「都へのぼるついでに見れば、山崎の小櫃(こびつ)の繪も、まがりのほらの形もかはらざりけり、賣(うる)人の心をぞしらぬ」【ある註に「まがりは餅である。関東で餅をまがりと言う。山崎から、ほら貝の形の餅を油揚げにして、京都に出荷する。東寺で稲荷祭の時、これを提供する」と言っている。庭訓往來にも「伏兎曲(ふとまがり)煎餅」とある。「伏兎」も同じような類で、和名抄に見える。拾遺集の物の名にもある。】などとあるものだ。その形は曲がり廻っていて、土左日記にあるように寶螺(ほら)貝【「寶螺」は和名抄にある。】の形状に似ているのだろう。それで「まがり」という名になったのだ。【漢語抄に「形は藤葛のようだ」とあるのも、藤葛のぐるぐる巻いたような形を言ったのである。漢国のモチ(米+環のつくり)餅は、「環釧にかたどる」とあるから、中が中空で輪の形をしていると思える。皇国の勾は単にぐるぐる巻いているだけで、輪の形ではないようだ。】「三重」とは、その形が三重に巻いていることを言う。このものは大嘗祭の供神物にあるので、上代からあったことを知るべきである。【大嘗祭では、行うことも種々の物も、上代からの例によっているからだ。】足がそんな風になったというのは、前にたぎし(舟+施のつくり)のようになったと言ったときよりも、ますますひどく腫れ上がり、いまはその形が紐で物を何重にもきつく巻いたようになって、俗言に「しぎりの入った」という状態で、長いものがぐるぐる巻いて重なったような形なのを言ったのだろう。【ひどく腫れていると、ところどころ絞ったようになることがある。その状態を上記のほら貝と思い合わせて見よ。】全体の形が曲がっていたのではない。【いくら歩き疲れたからと言って、足はぐんにゃり曲がるものではないからだ。師はこの「三重の勾」を「阿理岐奴能三重(ありぎぬのみえ)」とあるのと合わせて、「阿理岐奴は珠衣である。三重は三重の勾玉である」と言って、「三重に曲がった玉」としたが、どうだろう。勾玉が三重に曲がっているというのは、聞いたことがない。勾玉というのは少し彎曲しているだけで、何重にもぐるぐる曲がっているものではないから、「三重」というのはおかしいだろう。それに勾玉を「勾(まがり)」とだけ言うのも、他に例がない。また勾玉というものは、書紀にもその曲がった形を妙なることと賞めて言っており、たいへんめでたいものなのに、足が曲がって見苦しくなったのを、それに喩えるはずはないだろう。比喩というのは、良いものを悪いものに喩えたり、悪いものを良いものに喩えたりはしないものだ。「阿理岐奴」の三重は別のことである。それは朝倉の宮の段の、その歌のところ、伝卅二の三十四葉で言う。たまたま「三重」と言っているのが同じだからといって、混同してはならない。】延喜式神名帳に、「三重郡、足見田(あしみた)神社」がある。【倭建命を祭ると伝える。】和名抄に「葦田【あしみた】」という郷も見える。これもこの足のことに因むのではないだろうか。○甚疲(いたくつかれ)は、単に歩き疲れた【俗に言う「くたびれた」】と言うのでなく、足を患って、ひどく苦しんだのである。○杖衝坂(つえつきざか)は、この後にあるはずだと言うことは、上述した通りである。この坂は今も三重郡の采女村の西にあり、今でも杖衝坂と呼んでいる。三重と能煩野との間である。【今の四日市の駅と石薬師の駅の間で、采女村の西の外れからすぐに登る坂である。坂の上は平地になっている。】ただしいにしえの大道は、今の大道より三町ほど北だったのを、近世になって今の場所に移したという。その時、坂の名も今の場所に移した。【いにしえの大道というのは、采女村の神社の北に今も道があるのがそうだ。ところが弘治元年に、關氏が亀山城を築いて、亀山・石薬師を駅として、大道を南の方に移したという。ただこの杖衝坂は、今の道も昔の道も、細い谷一つを隔てただけで、同じ山の中だから、それほど遠いわけではない。】この倭建命の歩いてきた道は、尾津の前から、桑名郡、朝明郡を通って、この杖衝坂まで七里ほどである。

<訳者註:宣長は「たぎし」について考えあぐねているが、尾津神社の跡と言われる草薙神社では、板根を持つ樹木が見つかっているという。板根というものは、平たくてくねくねと曲がりくねった形をしている。古くはその板根を切って船の「かじ」に使ったそうだ。昔工具が限られていた頃は、幅広い板を手に入れるのに、板根は格好のものだっただろう。「たぎし」の形というのが板根形状を意味するのなら、「足が三重に曲がった」というのも分かる。板根の形ならまっすぐ立っているだけでも困難で、少し油断するとくたくたと折りたたまれたようになるだろう。宣長は古事記が史実を伝えていると信じたから、足がそんなに曲がるはずはないと力説するのだが、われわれはあくまで「お話」として読むので、足が曲がってもそれほど変には思わない。詳細は「神奈備にようこそ」の草薙神社のサイトを参照のこと。(http://kamnavi.jp/en/mie/kusanagi.htm)。

 

自レ其幸行而到2能煩野1之時。思國以歌曰。夜麻登波。久爾能麻本呂婆。多多那豆久。阿袁加岐夜麻。碁母禮流。夜麻登志。宇流波斯。又歌曰。伊能知能。麻多祁牟比登波。多多美許母。幣具理能夜麻能。久麻加志賀波袁。宇受爾佐勢。曾能古。此歌者思レ國歌也。又歌曰。波斯祁夜斯。和岐幣能迦多用。久毛韋多知久母。此者片歌也。此時御病甚急。爾御歌曰。袁登賣能。登許能辨爾。和賀淤岐斯。都流岐能多知。曾能多知波夜。歌竟即崩。爾貢=上2驛使1。

訓読:そこよりいでましてノボヌにいたりませるときに、クニしぬはしてうたいたまわく、「やまとは、くにのまほろば、たたなずく、あおかきやま、ごもれる、やまとし、うるわし」。また「いのちの、またけんひとは、たたみこも、へぐりのやまの、くまかしがはを、うずにさせ、そのこ」。このみうたはクニシヌヒウタなり。またうたいたまわく、「はしけやし、わぎえのかたよ、くもいたちくも」、こはカタウタなり。このときミヤマイにわかになりぬ。ここにみうたを「おとめの、とこのべに、わがおきし、つるぎのたち、そのたちはや」、とうたいおえてすなわちカムアガリましぬ。かれハユマヅカイをたてまつりき。

歌部分の漢字表記:倭は、國のまほろば、たたなづく、青垣山、隱れる、倭し、美し
命の、全けむ人は、疊薦、平群の山の、熊
白檮の葉を、髻に挿せ、その子
愛しけやし、吾家の
方よ、雲居立ち來も
嬢子の、床の邊に、我が置きし、劔の大刀、その大刀はや

口語訳:そこからさらに進んで、能煩野にたどりついた。そこで故国を偲んで、歌った。「大和は、国のまほろば。たたなづく、青垣山籠もれる、大和し麗し」。また歌って「命の、全(また)けん人は、たたみこも(重畳する)、平群の山の、熊白檮の葉を、うず(髻)に挿せ、その子」。この歌は国偲び歌である。また歌って、「はしけやし、我が家の方より、雲居立ち来も」、この歌は片歌である。この時、病が急に重くなり、歌って「乙女の、床の辺に、我が置きし、剣刀。その刀はや」。歌い終わると同時に崩じた。そこで京に駅馬を送った。

能煩野(のぼぬ)は伊勢国の鈴鹿郡にあると諸陵式に見え、後に引く。「煩」は濁音である。【書紀では「褒」の字を書いてあるが、清音に読むのは良くない。】今の地形を見ると、鈴鹿郡の北の方はほとんど平らな野であり、そこに村里もたくさんある。田畑になった地も多いが、はるばると広がった野原も多く、全体が一つの大きな平野であり、【上代も同様だっただろう。】その郡の東西の端まで広がって、西の方は次第に高く、【ところどころ、急に高くなっているところもある。そういう所は、低い場所から見ると山のようだが、登ってみると上は平地だ。万葉(3234)に「山邊(やまのべ)の五十師(いし)の原」というのもこの野の東の方にある。東から登る時は山で、上は広い平地が西に広がっている。なおその地のことは、別に詳しい考察がある。】次第に上るところだから、名の意味は「登り野」ということだろう。その結果、西の端では高山が続き、【近江国との境である。】そのうちでも「野登山」というのが最も高い。これも野から登ることに因む名だろう。この野の名は、今はところどころで廣瀬野と言ったり、鞠(まり)が野と言ったりするが、これらはこの野の総称とは聞こえない。いにしえに能煩野と言ったのこそ総称なのだろう。【この名は、今の里人は言わない。】○思國以は「くにしぬはして」と読む。「しぬふ」に「思」を書くのは、万葉に例がある。また「偲」、「慕」とも書く。この言は、中昔からは「しのふ」と言うが、いにしえには「しぬふ」と言った。万葉に多い。みな「思奴布(しぬふ)」、「思努波武(しぬはん)」などと書いてある。この「ふ」も後世では濁って言うが、これも上古には清音に言ったのだろう。万葉にはどれも清音の「波(は)」、「比(ひ)」、「布(ふ)」だけを用いていて、濁音の字を書いたものはない。【巻二で「思奴幡武(しぬはん)」と書いてある「幡」も濁音ではない。言の清濁が、今といにしえとで違っている例が多いことは、初めの巻で言った通りである。】ここでは、病が次第に重くなるにつれて、倭国をいよいよ慕わしく、恋しく思ったのである。○夜麻登波(やまとは)は「倭は」である。○久爾能麻本呂婆(くにのまほろば)。【「婆」の字を旧印本や延佳本では「波」と書いてあるが、ここは真福寺本、他一本、また他の一本によった。】書紀には「摩保邏摩(まほらま)」とある。この言は、すでに國號考で考察した。この二句は、倭国は大八嶋国の中の「麻本羅(まほら)」な国だと称賛したのである。○多々那豆久(たたなづく)は「多々那波理那豆久(たたなわりなづく)」の意味で、【それなら「たたななづく」と言うだろうに、「たたなづく」と言ったのでは「な」が一つ足りないように感じるだろうが、同音が重なった時はその一つを省いて言うことが多い。だから「なな」を縮めて「な」と言うのだ。「旅人」を「たびと」と言うようなものである。このことは既に述べた。「づく」をそのまま「付く」と考えて、「たたなわり付く」だとする説は不十分である。「楯名著(たたなつく)」や「楯並附(たたなみつく)」だなどという説も良くない。】「たたなわり」は契沖が禮記に「主佩垂、則臣佩委(主の佩垂るれば、すなわち臣の佩たたなわる)」とある例を引いた。この「委(たたなわる)」の意味である。<訳者註:禮記の曲礼下の冒頭部分からの引用で、自分より身分の高い人に対しては、相手より低い姿勢を取るべきだと説いている。明治書院「新釈漢文大系」によると、「佩」は緒で腰に着けた佩玉のことであり、「委」は地に着くことであるという。身分の高い人に対して腰を折ると、佩玉は腰の前に垂れる。主が腰を折ると佩玉は垂れ下がり、その臣下は主より低く、平伏する姿勢を取るから、佩玉は地に着くことになる。その緒が地面に折り重なっていることを「たたなわる」と言った。俗に「とぐろ」を巻いている状態である。>枕草子(七月ばかりいみじう暑ければ)に「そばの方に、髪のうちたゝなはりて、ゆらゝかなる」とあるのも同じで、長いものなどが縮まり寄り合わさって、畳まれた状態なのを言う。青垣山に言うのも、その重畳する状態が同じだからだ。「那豆久」については、後の「那豆岐田(なづきだ)」のところ【伝廿九の四葉】で言う。考え合わせよ。○阿袁加岐夜麻(あおかきやま)は青垣山である。このことは上巻の「倭之青垣東山(やまとのあおかきひむかしのやま)」とあるところ【伝十二の二十五葉】で言った。万葉巻一【十九丁】(38)に「疊付、青垣山(たたなづく、あおかきやま)」【「付」の字を、本には「有」と書いて「たたなわる」と読んでいるが、「たたなわる」という言葉に「有」の字を添えるものではない。「有」の字があれば「たたなわれる」と読むのが普通だ。従ってここは、師が「付」の誤りだとしたのがよい。】巻十二【三十八丁】(3187)に「田立名付、青垣山(たたなづく、あおかきやま)」などがある。○碁母禮流(ごもれる)は「隠(こも)れる。」である。【「碁」の字は、書紀には「許」とあって、清音である。】万葉巻六【十三丁】(923)に「芳野離宮者、立名附、青垣隱(よしぬのみやは、たたなづく、あおかきごもり)」ともある。書紀の~武の巻に「鹽土の老翁に聞いたところでは、東に美しい土地がある。青山が周囲を取り巻いている」とあり、これは倭国のことで、その意味である。○夜麻登志(やまとし)は「倭」で、「し」は助辞である。○宇流波斯(うるわし)は「美しい」ということだ。この言葉は「うらくわし」の縮まった語である、と師は言った。【「らく」は「る」に縮まる。】書紀の雄略の巻の歌(六年二月)に「據暮利矩能、播都制能夜麻播、阿野爾于羅虞波斯(こもりくの、はつせのやまは、あやにうらぐわし)」、万葉巻十三【二丁】(3222)に「浦妙山曾、泣兒守山(うらぐわしやまぞ、なくこもるやま)」、巻十七【三十七丁】(3993)に「宇良具波之、布勢能美豆宇彌爾(うらぐわし、ふせのみずうみに)」などは、特にここに合っている。またここでは愛(うるわ)しむ意味でもあるだろう。軽嶋の宮の段、太子の歌に「古波陀袁登賣波(こはだおとめは)、・・・宇流波志美意母布(うるわしみおもう)」、万葉巻十五【三十一丁】(3729)に「宇流波之等、安我毛布伊毛乎(うるわしと、あがもういもを)」、この他にも愛(いつく)しむことを「うるわし」と言った例はたくさんある。【これは「美麗である」といった意味とは一見違うが、煎じ詰めれば同じことである。】○又歌曰は、単に「また」と読む。○伊能知能(いのちの)は「命の」である。○麻多祁牟比登波(またけんひとは)は、【「多」の字は、旧印本では「曾多」と細字で並べて書いてある。おそらく「曾」の字は、後人が書紀の記事によって書き添えたのだろう。一本、また他の一本では「曾」とある。ここでは真福寺本、延佳本によった。書紀には「曾」と書いてある。】「全(また)けん人は」である。万葉巻四【三十一丁】(595)に「吾命之、將全牟限(わがいのちの、またけんかぎり)」、巻十二【六丁】(2891)に「信吾命、全有目八面(さねわがいのち、またからめやも)」、巻十五【三十四丁】(3741)に「伊能知乎之、麻多久之安良婆(いのちをし、またくしあらば)」などある。○多多美許母(たたみこも)は「畳菰」で、次の「へ」に係る枕詞である。そう続ける理由は、「畳んだ菰重(こもへ)」ということだ。【「重(へ)」は二重、三重、八重などの「重」である。】「畳む」とは重ねることで、菰を畳んで幾重もある意味に取る。あるいは「畳」を既に畳という形に仕上げた後の、その菰という意味にも取れる。【菰などを畳んで作ったのを畳と言う。】それでも「へ」に続く意味は上記と同じである。【冠辞考に「畳にする材料の菰を編むことを『隔つ』と言う」とあるのは、少し違う。「へだつ」と言うのは間を遮ることで、「隔」の字はその意味で当てたのである。だがそれも元は「重(へ)を立てる」ということから出た。だから「菰を編み隔つ」とあるのも、「重をなす」意味に取ればあまり違わないが、「隔」の字の意味に取ったように聞こえるではないか。】万葉巻十六【二十一丁】(3843)に「薦疊、平群(こもだたみ、へぐり)」とあるのも同じ意味の続け方である。また【三十丁】(3885)「八重疊、平群乃山(やえだたみ、へぐりのやま)」ともある。巻十一【四十一丁】(2777)に「疊薦、隔編數(たたみこも、へだてあむかず)」、巻十二【十二丁】(2885)に「疊薦、重編數(たたみこも、かさねあむかず)」なども幾重も重ねて「重」を成す意味で同じだ。【ここに「隔(へだて)」とあるのも重を立てることで、「かさね」というのと同じである。同じことを「重ね編む」と言っているので理解せよ。ところで、「編数(あむかず)」と言ったのは、畳は細かく編むもので、その編み目の数がたいへん多いことを言う。「重」の数が多いというのではない。】○幣具理能夜麻能(へぐりのやまの)は「平群の山の」で、大和国平群郡の山である。【大和志に「平群山は平群谷の上方にあり、数ある峯が平齊(同じぐらいの高さで続いているということか?)で群を成している。そのためこの名がある」とある。今も平群谷というところがあるから、その付近の山ではあるのだろう。しかし「平齊云々」とあるのは、「群」が仮名であることを知らずに書いた、たいへんな誤解である。】この山のことは前【伝廿二の二十九葉】で言った。【ある人は「この平群は倭にあるのとは違う。延喜式神名帳に『伊勢国員辨郡、平群神社』がある。この地である。社は今は志知(しち)村というところにあり、山は平群山と書いて「へいづ山」と言う。この山には、今も樫の木がたいへん多い」と言った。しかしこれは国を思って詠んだ歌なのだから、大和国の平群山であることは疑いない。】○久麻加志賀波袁(くまかしがはを)は、「熊白檮の葉を」ということだ。この木のことは玉垣の宮(垂仁天皇)の段に「葉廣熊白檮(はびろくまかし)」とあったところ【伝廿五の廿葉】で言った。朝倉の宮の段の歌にも「久佐加辨能、許知能夜麻登、多多美許母、幣具理能夜麻能、許知碁知能、夜麻能賀比爾、多知邪加由流、波毘呂久麻加斯(くさかべの、こちのやまと、たたみこも、へぐりのやまの、こちごちの、やまのかいに、たちざかゆる、はびろくまかし)」とある。この句は、書紀には「志邏伽之餓延塢(しらかしがえを)」とある。○宇受爾佐勢(うずにさせ)は「髻華(うず:髪飾り)に挿せ」ということだ。髻華は、書紀の推古の巻に「十一年十二月、初めて冠位を行った。・・・合わせて十二階、みなそれぞれの色のあしぎぬ(糸+施のつくり)で縫った。頂は袋の形で、頭を覆って着ける。ただし元日には髻華を挿す。髻華、これを『うず』と読む」、また「十六年八月、唐の客を朝庭に招いて、・・・この時、皇子・諸王・諸臣は、みな金色の髻華を頭に挿していた」、「十九年五月五日、菟田野(うだの)で薬獵(くすりがり:薬草などを採取する)をした。この日、諸臣の服はみな冠の色に揃え、それぞれ髻華を挿していた。すなわち大徳・小徳は金、大仁・小仁は豹尾(なかつかみのお)を用い、大禮以下は鳥の尾を用いた」、孝徳の巻に「この年、七色十三階の冠を定めた。・・・小錦冠以上の鈿(うず)は金銀を混じえて作り、大小青冠の鈿は銀で作り、大小黒冠の鈿は銅で作り、建武の冠には鈿はなかった」、【釈日本紀に「うずは珠の玉冠だろうか。兼方が考えるに、髻華は鈿である。今の世に言う挿頭花(かんざし)はこれをかたどったものか」と言っている。ここで「珠の玉冠」というのは間違っている。「鈿」の字は、説文に「金華(金飾り)」と言っている。】万葉巻十三(3229)に「五十串立、神酒座奉、神主部之、雲聚山蔭、見者乏文(いぐしたて、みわすえまつる、かんぬしの、うずのやまかげ、みればともしも)」、【「山蔭(やまかげ)」は日影葛(ひかげかつら)で、それを鈿にしたのだ。今の本は「山」を「玉」に誤っている。】巻十九【四十三丁】(4266)に「豊宴、見爲今日者、毛能乃布能、八十伴雄能、嶋山爾、安可流橘、宇受爾指、紐解放而、千年保伎、保吉言等餘毛之、惠良々々爾、仕奉乎、見之貴左(とよのあかり、みしせすきょうは、もののふの、やしとものおの、しまやまに、あかるたちばな、うずにさし、ひもときさけて、ちとせほぎ、ほぎいいとよもし、えらえらに、つかえまつるを、みるがとうとさ)」、また【四十五丁】(4276)「嶋山爾、照在橘、宇受爾左之、仕奉者、卿大夫等(しまやまに、てれるたちばな、うずにさし、つかえまつるは、まえつぎみたち)」、【「者」は誤字ではないだろうか。】などが見えて、木草の枝を頭に挿すのを言う。【「うずに挿す」とは、「うず」というものがあって、それに挿すということでなく、髪に挿したのが「うず」になるということだ。<「うず」にして挿すということ>】後世のかんざしというのが、古代の髻華である。だが上記の推古紀や孝徳紀にある、冠位に準じて金銀や鳥の尾などで作ったものは、上代の習慣ではない。【それは推古の時代に始められたのだろう。】万葉の歌に詠まれたのこそ上代のありさまである。○曾能古(そのこ)は、【三言一句】「その子」で、前に「命の全けん人は」とあった、その人を言う。書紀には「許能固(このこ)」とある。いにしえには、男女を問わず、人を「子」と呼ぶことが多かった。「いざ子等(こども)」などと言う。○歌全体の意味は、病が次第に重くなるにつれて、いよいよ倭が恋しく思って詠んだので、命が全くて(健康で)いる人は、倭国に帰って、平群の山の白檮の葉を【この山は、特に樫が有名なのだろう。朝倉の宮の段の歌にも登場していることは、上述の通りである。】折って髻華に挿し、楽しく遊べ、【様々な書物でも、白檮はいにしえに特に称賛され、何につけても用いられたものだから、こう詠んだのだ。契沖は「白檮は常緑樹だから、命のまさきくあらむ(幸福な)人は、云々」と言ったが、こう詠んだのは常緑樹だからではない。ただこの木は、よく髻華に用いるものだからである。「楽しく遊べ」という意味であることは、万葉巻十九の歌(4266などのことか)で知るべきである。】私は倭にも帰ることができず、ここで死のうとしているのは悲しいことだと詠んでいるのだ。非常に、非常にあわれな歌である。○此歌者(このみうたは)、この記中で「〜歌也」と書いてある場合、一首だったら「此歌者」と言い、二首以上だったら「此二歌者(このふたうたは)」、「此三歌者(このみうたは)」などとその数を言うから、ここも「此二歌者」とあるはずだが、そうなっていないことから考えると、上記の二首は、もとは続いていて一首だったのだろうか。書紀では一つの歌だけで、ここに合っている。【ただし神功皇后の段の「酒樂(さかほがい)」の歌も二首を言うように聞こえるのに、二首とは言っていないから、ここもあるいは思國歌というのは「伊能知能云々」の歌だけだから、「二歌者」と書かなかったのかとも思うが、「夜麻登波云々」の歌の前に「思國以歌曰」とあるから、その歌も合わせて言っていることに疑問の余地はない。】○思國歌は「くにしぬびうた」と読む。書紀にも「これを思邦歌(くにしぬびうた)と言う」とある。○波斯祁夜斯(はしけやし)。書紀(景行十七年)には「波辭枳豫辭(はしきよし)」とある。同じことである。師の万葉考の別記に詳しく解説されている。【ただそのうち、「はし」を「くわし(旧仮名クハシ)」という言葉の縮まったものとしたのは疑問だ。それは逆に「はし」が元で、「クハシ」は「奇愛し」の意味と思われる。続日本紀の宣命に「久須波斯伎(くすはしき)」という語も見える。】「はしき」と言った例は、万葉巻二【十四丁】(113)に「三吉野乃、山松之枝者、波思吉香聞(もよしぬの、やままつがえは、はしきかも)」、巻三【五十七丁】(474)に「波之吉佐寳山(はしきさがやま)」、また【五十九丁】(479)「波之吉可聞(はしきかも)」、巻十八【三十七丁】(4134)に「波之伎故毛我母(はしきこもがも)」、【「故」は「子」で、女のことを言う。】巻廿【十九丁】(4331)に「波之伎都麻良波(はしきつまらは)」、また【三十三丁】(4397)「波之伎多我都麻(はしきたがつま)」などがある。また「愛伎」と書いたところもある。【これを「おしき」と読むのは誤りだということは、契沖も言っている。】というわけで「伎(き)」と「祁(け)」【これは「け」の仮名で、「き」と読むことはない。】とは通音で、万葉にも巻四【三十八丁】(640)に「波之家也思、不遠里乎(はしけやし、まぢかきさとを)」、【これと二句同じ歌を巻六で「愛也思(はしけやし)」と書いている。】巻十五【二十五丁】(3692)に「波之家也思、都麻毛古杼毛母(はしけやし、つまもこどもも)」など見え、また「加那志伎(かなしき)」を「加那志祁(かなしけ)」と書くなど、ところどころにある。「夜斯(やし)」、「余斯(よし)」の例は「余斯惠夜斯(よしえやし)」、【継体紀の歌に「誰も彼も」というのを「駄例夜矢比等母(たれやしひとも)」とあるが、この「夜矢」も同じだ。】「意布袁余志(おうをよし)」、「阿袁爾余志(あおによし)」、「麻須賀余志(ますがよし)」などがある。【これも通音で、「やし」と「よし」は同じである。】○和岐幣能迦多用(わぎえのかたよ)は「吾家の方より」である。「我が家」を縮めて「わぎえ」と言ったのは、高津の宮の段の皇后の歌に「和賀美賀本斯久邇波、迦豆良紀多迦美夜、和藝幣能阿多理(わがみがほしくには、かづらきたかみや、わぎえのあたり)」と見え、万葉にはたいへん多く、古代では普通だった。【巻五(837)では「和何幣(わがえ)」ともある。】いにしえには、旅の途上で本郷(もとつくに)のことを「家」、「吾家」と言うことが多かった。【「国」とも言った。】万葉の歌なども、みなそうである。【それを中昔頃からは「故郷(ふるさと)」と言うことが多くなった。いにしえには、他国にあって本国を故郷などと呼ぶことはなかった。古風の歌を詠む人などは、よく心得ておくべきである。】○久毛韋多知久母(くもいたちくも)は「雲居立ち来るも」である。「くもい」というのは、普通は雲が立っているところを言うが、いにしえはその雲そのものを指して言ったことも多い。万葉巻三【三十六丁】(372)に「雲居多奈引(くもいたなびき)」、巻七【五丁】(1087)に「巻目之、由槻我高仁、雲居立良志(まきむくの、ゆつきがたけに、くもいたつらし)」、巻十一【九丁】(2449)に「香山爾、雲位棚曳(かぐやまに、くもいたなびき)」、巻十七【四十一丁】(4003)に「由布佐禮婆、久毛爲多奈毘吉(ゆうされば、くもいたなびき)」などとあるのもそうだ。【契沖が「雲の居るのが立って来る」と言ったのはおかしいだろう。】最後の「も」は助辞で、「よ」と言うのと同じだ。【「よ」、「や」、「も」は意味がほぼ同様に聞こえる。「もよ」、「もや」と重ねて言うこともある。】いにしえの歌には、こういう結びが多い。高津の宮の段にある歌に、「和賀弖登良須母(わがてとらすも)」、書紀の崇神の巻に「比賣那素寐殊望(ひめなそびすも)」、神功の巻に「異枳廼倍呂之茂(いきどおろしも)」、允恭の巻に「虚豫比辭流辭毛(こよいしるしも)」、雄略の巻に「阿遙比那陀須暮(あよいなだすも)」など、他にもある。万葉にも多いが、巻七【二十四丁】(1256)に「他廻來毛(たもとおりくも)」ともある。【これは「くも」の例である。】○この歌は、国を偲んで、倭の方を眺めた時、そこに雲が立ち、こちらへ流れてくるのを見て、愛(は)しく思う吾家の方から、雲が立って来るよと歌ったのである。【悲哀の強い時は、何となく目に映るもの、聞こえる音にも心がとまり、あわれを感じるのが人情というものだ。】○上記の三首の歌は、書紀では「天皇は十七年春三月、子湯(こゆ)の縣に行き、丹裳小野(にものおの)で遊んだ。・・・野中の大きな岩に登り、京都を偲んで、『波辭枳豫辭(はしきよし)・・・夜摩苔波(やまとは)・・・異能知能(いのちの)・・・』と歌った。これを思邦歌(くにしぬひうた)と言う」とあって、日向国で景行天皇が歌った歌とし、全体が続いた一つの歌になっているのは、この記とたいへん違う伝えである。どちらが正しいか、すぐに断定することはできない。【しかし強いて言うなら、天皇と倭建命の違いを言うと、「伊能知能云々」は倭建命が詠んだ歌と考えると、よく当たっている。病が重いので詠んだ歌と聞こえるからだ。天皇の歌とすれば、何となく都を偲んだのにはふさわしくないだろう。「夜麻登波云々」の歌は、どちらにも当てはまる。「波斯祁夜斯云々」もどちらでもいいが、歌の順序としては、これを書紀で最初に挙げてあるのが優っているように聞こえる。というのは、都の方の空の雲を見て郷里を偲び、「夜麻登波云々」という歌に続くのがいいように思えるからだ。またこれを三首にしたのと、一連で一首の歌としたのでは、どちらがいいか、優劣はないように思う。○片歌(かたうた)。思國歌、片歌などという名は、その歌を古来そう呼んできたものだと師が言った通りである。樂府(うたまいのつかさ)では、諸々の歌にこういう呼び名があり、それによって分類していた。このことは上巻に夷振(ひなぶり)のところ【伝十三の七十二葉以降】で言った。参照せよ。その名が記中に見えるのは、酒樂(さかほがい)之歌、志津(しず)歌、本岐(ほぎ)歌、志良宜(しらげ)歌、讀(よみ)歌、天語(あまこと)歌、宇岐(うき)歌などがある。【これらは「〜歌」と名付けたものである。その他に「〜振」と名付けた歌は、上記の夷振のところで言った通りだ。】これを片歌と言ったのは、三句の歌で、一般的な五句、六句の歌の半分位の長さなので、片方しかないという意味である。【五句の歌も上三句が本で、下二句を末とすると、三句は全体の半分である。また六句の歌の場合、三句というのはもともと半分である。その中でも、後世の旋頭歌というものは、句が「五七七、五七七」だから、片歌は正にその半分だ。建武年中行事の加茂の臨時祭の條に、「もろ歌」という語がある。略解に「神楽歌に、本末があることを言う」と言っている。とすると「もろ歌」とは「片歌」の反対語で、本末を具備したのを言うのである。】こう名付けたのは、少し後のことには違いないが、上代からこの形【五七七の三句】を半分の長さだと考えたらしく、白檮原の朝の頃も、この形の歌は、いずれもものを問いかけ、答えるというもので、この記や書紀などに見る限り、最後まで皆そうである。【白檮原の宮の段に「加都賀都母、伊夜佐岐陀弖流、延袁斯麻加牟(かつがつも、いやさきだてる、えをしまかん)」とある歌が三句の歌の初めだが、これは大久米命が歌で質問したことへの答えだった。その次に二首あるのも、問いと答えだった。この段に出た「邇比婆理(にいばり)云々」−「迦賀那倍弖(かがなべて)云々」のやり取りも問い−答えであり、そこに「その歌に続けて」とあるのも、三句では半分しかないからである。高津の宮の段に「多迦由久夜、波夜夫佐和氣能、美淤須比賀泥(たかゆくや、はやぶさわけの、みおすいがね)」とあるのも天皇が歌で質問したのに対する答えである。その後の書紀にある歌も、あるいは問い、あるいは答えなどである。書紀の仁徳の巻に「瀰儺曾虚赴。於瀰能烏苔悼G。多例揶始儺播務(みなそこふ、おみのおとめを、たれやしなわん)」とあるのは問いの歌で、それに対する答えは五句の歌である。皇極記の謠歌(わざうた)三首の中に、一首は三句になっているが、これも独立した一首でなく、三首を連ねて一つの意味を成している。斉明紀に三首続きの歌があり、その第三の歌も三句だが、やはり前の歌で余った意を詠み足した形である。とすると三句の歌は、本来半分の歌だったのだ。だから万葉以降は三句の歌は見えない。いわゆる連歌も、続いて詠んだ歌を合わせて一首と見なすものである。】一首だけ独立した三句の歌は、非常に稀なものなので、特に「片歌」と名付けたのだろう。記中ではこの他に、高津の宮の段の、建内宿禰の歌に「那賀美古夜、都毘邇斯良牟登、加理波古牟良斯(ながみこや、ついにしらんと、かりはこむらし)」とあるのを「本岐歌の片歌」と書いている。【これらの他には、三句だけで独立した歌としては、この後に「波麻都知登理云々」の歌だけがある。これも四首並んだうちの一首なので、上記の斉明紀の歌のたぐいと見るべきだろう。これらも名を付けるなら片歌ということになる。このくだりの三首の歌を、書紀で連続した一首としているのを正しいとするなら、この三句を片歌と呼ぶのは、後になって一首を抜き出して名付けたのだろう。】○甚急は「にわかになりぬ」と読む。万葉巻十六【十三丁】(3811)に「將死命、爾波可爾成奴(しなんいのち、にわかになりぬ)」【これは車持氏の娘子が、夫を恋い慕って病になり、息を引き取る間際に詠んだ歌の言葉である。考え合わせよ。】とあるのによる。今まさに死のうとする時が迫ったことを言う。【「急」の字は、字書に「迫である」とも「窘である」とも注してある。普通に思いがけず、突然出来することを「にわかに」と言うのとは、少し違う。】古今集の「哀傷」の、在原滋春が死のうとする時の歌(862)の端書きに「病をして今々(いまいま)となりにければ」、【大和物語に、在原業平がついに行く時の歌を載せたところ(百六十五段)にも「死なむとすることいまいまとなりてよみたりける」とある。】とあるのに当たる。○御歌曰は、ここは「みうたを」と読む。○袁登賣能(おとめの)は「嬢女の」で、尾張の美夜受比賣のことを言う。○登許能辨爾(とこのべに)は「床の辺に」である。○和賀淤岐斯(わがおきし)は「吾置きし」だ。○都流岐能多知(つるぎのたち)は刀の鋭いことを賞めて言った名で、「つるぎだち」とも言う。「つるぎ」という名の由来は、上巻の「都牟刈之大刀(つむがりのたち)」のところ【伝九の三十五葉】で言った。ここは草那藝(くさなぎ)の大刀のことである。○曾能多知波夜(そのたちはや)は「その大刀はや」である。「はや」ということばについては前【伝廿七の八十一葉】に言った。○この歌は、前に「その身に着けていた草那藝の劔を美夜受比賣のもとに置いて、伊服岐(いぶき)の山の神を退治しに行った」とあった、その大刀のことを思い出して歌ったのである。これほど病が重くなってもなおその大刀のことを忘れず、こうも深く思い入れがあったのは、どこまでも勇気がたゆむことなく、またこの皇子の心が、末永くこの大刀にとどまったことが分かり、たいへんに哀れでありがたい歌である。【武人たる者は、いつもこの御心を思い、臨終の間際にも、必要も意味もない儒仏の道など考えず、深くこの歌を思って、死んだ後までも天翔って、子孫の勇武を保護しようと思うべきである。またこの皇子の御霊がとこしえにこの大刀に留まったことを考え、間違っても熱田の社をなおざりにしてはならない。】○崩(かむあがりましぬ)。天皇でないのに「崩じた」と書く例は、宇遲之和紀郎子(うじのわきいらつこ)のところで言う。倭建命のことは、すべて天皇に準じて書いてあるからなおさらだ。【書紀でも「尊」の字を書いてあり、阿波国風土記では倭健天皇命(やまとたけのすめらみこと)とさえ書いてある。<訳者註:常陸国風土記にも倭武天皇とある。>】○「貢=上2驛使1(はゆまづかいをたてまつりき)」とは、早馬を京に送って、皇子の死を知らせたのである。驛使については前【伝廿三の二十八葉】に出た。書紀には「能褒野(のぼぬ)に到って、痛みが激しくなり、捕虜にした蝦夷たちを神宮に奉った後、吉備武彦を京に遣わして天皇に知らせた。・・・かくて能褒野で崩じた。この時年齢は三十だった」とある。【二十七年のところに年十六とあり、崩じたのが四十三年だから、年は三十二のはずだが、三十とあるのは二年違っている。この皇子の年紀のことは、後にも言う。】

 



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