『古事記傳』29−2


志賀の宮の巻【成務天皇】

若帶日子天皇。坐2近淡海之志賀高穴穗宮1。治2天下1也。此天皇。娶2穗積臣等之祖建忍山垂根之女名弟財郎女1。生御子和訶奴氣王。<一柱>

訓読:ワカタラシヒコのスメラミコト、ちかつおうみのシガタカアナホのミヤにましまして、アメノシタしろしめしき。このスメラミコト、ホヅミのオミらがおやタケオシヤマタリネのむすめナはオトタカラのイラツメをめして、みこワカヌケのミコをうみましき。<ひとはしら。>

口語訳:若帶日子天皇は近淡海の志賀高穴穗宮に住んで天下を治めた。この天皇が穗積臣らの祖、建忍山垂根の娘、弟財郎女を娶って生んだ子は、和訶奴氣王である。<一柱>

この天皇の漢風諡号は成務天皇という。○志賀(しが)は和名抄の「近江国滋賀【しが】郡」のことである。【今も志賀というところがある。郡は南は勢多の川から、北は比良山の北にまでわたっている。いにしえから広い範囲を指していたのだろう。】万葉巻一【十七丁】(30)に「樂浪之、思賀乃辛碕(ささなみの、しがのからさき)」、また(31)「左散難彌乃、志我能大和太(ささなみの、しがのおおわだ)」、巻二【十五丁】(115詞書)に「近江の志賀の山寺」、また【三十七丁】(206)「神樂浪之、志賀左射禮浪(ささなみの、しがのさざれなみ)」、巻三【二十二丁】(288)に「志賀乃大津(しがのおおつ)」、巻七【二十四丁】(1253)に「神樂浪之、思我津乃白水郎者(ささなみの、しがつのあまは)」などこの他にも多く、後世の歌にも詠まれている。【後世の歌に、「志賀の故郷」とあるのは天智天皇の大津の宮の跡のことである。万葉巻一の長歌、またその反歌で知ることができる。これを高穴穂の宮の跡と考えるのは誤りである。】○高穴穗宮(たかあなほのみや)。書紀の景行の巻に、五十八年春二月、天皇は近江国に行幸し、志賀に三年住んでいた。それを高穴穂の宮という。六十年冬十一月、天皇は高穴穂の宮で崩じた」と見える。【成務の巻には、都を遷したことは見えない。】とすると、景行天皇が行幸して、この宮で崩じてから、この天皇も父天皇に従っていたのが、そのままこの宮に住み続けたのだ。この宮の地は、神明鏡では今の志賀寺だと言っている。新撰姓氏録に志賀穴太(あなほ)の村主という姓もある。朝野群載十一に穴太(あなほ)の驛が見える。【その文にいわく、「右辨官が近江国に下り、穴太の驛家に到った。・・・延喜二十年三月廿二日」】今も穴太村というのがある。【京から山中越えといって、近江の坂本へ越える間にある。】「高」というのは高地だからか。あるいは宮の号として称えた名だろうか。【「石上の廣高宮」などと言う例もある。】○穗積臣(ほづみのおみ)は前に出た【伝廿二の二葉】○建忍山垂根(たけおしやまたりね)。「忍山」は地名か。延喜式神名帳に「伊勢国鈴鹿郡、忍山神社」がある。【同国朝明郡には穂積神社もある。】「垂根」については前に「大筒木垂根(おおつつきたりね)王」のところで言った。【伝廿二の五十二葉】倭建命の后、弟橘比賣命の父を、書紀で「穂積氏忍山宿禰」と書いてあるのはこの人か別人か、紛らわしい。娘の名の「弟財(おとたから)」もその弟橘に似ているのは、姉妹だったからか、そうではないのか。これもまた紛らわしい。さらに次に論じる。また書紀の継体の巻にも穂積臣押山(おしやま)という人が見える。【これを韓国の書物で「委意斯移麻岐彌(いおしやまぎみ)」と書いてあるということが見える。】○弟財郎女(おとたからのいらつめ)。「弟」はあの「弟橘比賣」の「弟」と同様である。【廿七の六十四葉】「財」は美称だ。万葉巻十六【八丁】(3791)に女性を称賛して「寳之子等(たからのこら)」と言ったのと同じだ。「イラツメ」のことは前【伝廿一の十葉、伝廿二の七十葉】で言った。仁賢天皇の子にも「財郎女、反正天皇や敏達天皇の子にも「財王」【「寶王」とも書く。】という人がある。皇極天皇の名も「寶皇女(たからのみこ)」と言った。○和訶奴氣王(わかぬけのみこ)。「奴(ぬ)」は「主」か。あるいは出雲国造の神賀詞に「若水沼能彌若叡爾御若叡坐(わかみぬまのいやさかえにみわかえにます)」という言葉もあるから、そういう意味か。「氣(け)」は食のことか。應神天皇の子にも「若沼氣二俣(わかぬけふたまた)王」という名がある。【神武天皇の名、若御毛沼(わかみけぬ)命というのもやや似ている。】書紀にはこの御子はない。それについて考えると、これは外祖父の名、また母の名も似ているので、倭建命の子の若建王と紛れて、この記と書紀の伝えが違ってしまったのではないだろうか。【その紛れというのは、かの若建王の外祖父が、書紀には穂積氏忍山宿禰と書かれ、この記の外祖父と姓も名も同じで、母の名も似ているうえ、王の名も和訶多氣と和訶奴氣で「多」と「奴」の違いだけである。書紀の説を採ってみると、この和訶奴氣王は、すなわち上記の若建王であって、倭建命の子だったのを、この記では誤って別人として、この天皇の御子としたのである。だがこの記の説を採るなら、あの倭建命の后、弟橘比賣の父は忍山宿禰ではないのに、この天皇が忍山宿禰の娘、弟財比賣を娶って和訶奴氣王を生み、その母子の名が弟橘比賣と似ているために混同し、書紀では誤って、忍山宿禰を弟橘比賣の父とし、この和訶奴氣王を若建王のことだと考えて、この天皇には子がなかったとしたのである。どちらが正しいか、決めることはできない。書紀の見方で言えば、この天皇に子があったら、その子が皇位を継ぐはずだが、倭建命の御子が継いだことを考えると、やはりこの天皇に子がなかったという伝えこそ正しいだろう。だが倭建命は景行天皇の特別愛した子であり、実に普通でなく、世に傑出した威徳があり、父天皇の詔でも「この天下はおまえの天下だ。この位はお前の位だ」と言った(書紀の記事)ほどだから、成務天皇に御子があったとしても、いずれは倭建命の御子が皇位を継ぐ立場にあった。あるいはこの和訶奴氣王が皇位を継ぐようになるまでに世を去ったのかも知れない。とすれば、倭建命の子が天皇になったからと言って、この天皇には子がなかったとは言えないことになる。】

 

故建内宿禰爲2大臣1。定=賜2大國小國之國造1。亦定=賜2國國之堺。及大縣小縣之縣主1也。

訓読;かれタケウチのスクネをおおおみとしたまい、おおくに・おくにのミヤツコをさだめたまい、またくにぐにのさかい、またおおあがた・おあがたのアガタヌシをさだめたまいき。

口語訳:(天皇は)建内宿禰を大臣として、大国・小国の国造を定めた。また諸国の境界を定め、大縣・小縣の縣主を定めた。

建内宿禰(たけうちのすくね)は前に出た。【伝廿二の十五葉】○大臣は「おおおみ」と読む。【いにしえの「大臣」はみなそう読むべきである。和名抄に「大臣は『おおいまうちぎみ』」、「太政大臣は『おおまつりごとのおおまつぎみ』」とあるのは、後世の定めである。「まうちぎみ」というのは「まえつぎみ」が音便で崩れた言い方である。「まつぎみ」は「侍従」の読みにも「おもとびとまちぎみ」とあるから、「まえつぎみ」の「え」を省いた言い方である、この「まうちぎみ」を北山抄や江家次第などで「末不千君(まふちぎみ)」と書いているのは、「う」の音を誤って「ふ」と書いたのだ。これはもともと音便だったので、「う」と書くのが正しい。ところで「まえつぎみ」ということは書紀の景行の巻に見え、「前つ君」という意味であり、天皇の御前に候(さぶら)う公ということ、つまり臣たちを言う。万葉巻一(76)に「物部乃大臣」とあるのは「おおまえつぎみ」と読むべきだ。これは和銅元年の天皇(元明)の御製である。そのころすでにこう言っていたのだ。後世には大臣を「おとど」といったが、それは殿舎をそう言うのと同じで、大殿(おおとの)をなまったのである。また物語書などで「おほいどの」と言ったのも大殿のことである。】書紀に「三年春正月、武内宿禰を大臣とした。天皇は武内宿禰と同日に誕生した。そのため、特に親愛が深かった」とある。ここで大臣と言うのは、師(賀茂真淵)も言ったように、後世のような官職の名ではない。単に「臣」と言うところに「大」という美称を加えて尊んだので、【「漢籍に大臣という言葉があるのを取った」などと言うのは、いにしえを知らない者の間違った主張だ。】連姓の人には「大連」という号を与えたのと同じである。【大連も官職の名ではない。だからこの号は、連姓の人に限られていた。なお大連の号のことは、下巻玉穂の宮(継体天皇)の段、荒甲(あらかい)大連のところ、伝四十四の十六葉で詳しく言う。こうしたかばねに「大」という言を加えた例は、伊邪河の宮の段、また朝倉の宮の段に「大縣主」というのが見え、続日本紀には大国造、大忌寸、大宿禰などというのも見える。】だからこの号は、どの御代でも臣姓の人に限られていた。【建内宿禰は、姓氏を言ったことは見えないが、その子孫はみな臣姓であるから、この人も臣姓だっただろう。それが必ずしも姓に付いた「かばね」でなくとも、そう呼んだのは、初めからのことだったに違いない。】この号は、これを初めとして、この後書紀に見えるのは雄略の巻の初めに「平群臣眞鳥(まとり)を大臣とし、大伴連室屋(むろや)と物部連目(め)を大連とした」、【これは、大臣と大連を並べ置いたことが、書物に出た初めである。これ以後、】大臣と大連は、相並んで政務を行った。【大臣と大連の序列は、どちらが上と言うことはなかったらしく、大連を先に言っているところもある。その時その人によって決まったのだろう。】清寧の巻に「元年、・・・平群眞鳥大臣を大臣としたこと、みな前代のままである」、継体の巻に「元年、・・・巨勢男人大臣を大臣としたこと、みな前代のままである」、宣化の巻に「元年・・・また蘇我稻目宿禰を大臣とした」、欽明の巻の初めに「・・・および蘇我稻目宿禰大臣を大臣としたこと、みな前代のままである」、敏達の巻に「元年、・・・蘇我馬子宿禰を大臣とした」、用明の巻の初めに云々、崇峻の巻の初めに云々、【これ以降は大連は見えない。】舒明の巻の初めに「・・・この時には蘇我蝦夷臣が大臣だった」、皇極の巻に「元年、蘇我蝦夷を大臣としたこと、前代のままである」、孝徳の巻の初めに「阿倍内麻呂を左大臣とし、蘇我倉山田石川麻呂を右大臣とした」、【阿倍内麻呂は倉橋麻呂ともいう人である。】これは左右の大臣を置いた初めである。【大臣の号は、いつからともなく、次第に官職のようになって来たのだが、】この時以後は全くの官名になった。だがこの人たちもやはり臣姓だったのが、【これまで、他のかばねの人が大臣になったことはなかった。ところが旧事紀に尾張連の祖、建諸隅命が孝昭天皇の御世に大臣となり、同氏の欝色雄命も孝元天皇の御代に大臣となったと書いてあるのは、いにしえを知らない者が適当に書いた偽りごとだ。またこの記の遠津飛鳥の宮(允恭天皇)の段に「大前小前宿禰の大臣」というのがある。物部氏(連姓)の人である。これは「大使主(おおみ)」と取り違えたのであって、大臣でなかったことはそこで言う。ところで、皇極天皇の御代までの大臣を見ると、みな建内宿禰の子孫で、他の氏の人は一人も見えないことを思うと、この人の子孫に限るようにも見えるが、大連は一つの氏に限らなかったことからすると、大臣もその氏に限らなかっただろう。代々他の氏の人が大臣になったことがなかったのは、単なる偶然だったのだろう。それは、建内宿禰が世に稀な長寿で、多くの御代の朝廷に仕えて政治を見てきたため、その子孫が特別な威勢を持ち、大臣になる人はこの氏からばかり出るようになったのだ。そのうちでも蘇我氏が特に代を重ねて大臣になったのも、その時の自然な流れだったのである。だから孝徳の御代に阿倍氏が大臣になったのは、やはりいにしえの例と違ったことだった。】同じ御世、「大化五年夏四月、巨勢徳陀古(こせのとこだこ)臣を左大臣とし、大伴長徳(おおとものながとこ)連を右大臣とした」、この長徳連は臣姓ではないのを【連姓である。】大臣としたのは、いにしえの意ではない。【この御世には、これ以前にも中臣鎌子連(鎌足)を内臣としたことがあり、これは大臣ではないが、やはり連姓の人にこの号を与えたのだ。この人はついには天智天皇八年に、内大臣になっている。】「同(天智)十年春正月、大友皇子を太政大臣とし、蘇我赤兄(そがのあかえ)臣を左大臣、中臣金(なかとみのかね)連を右大臣とした」。これは太政大臣の初めである。そもそもこの皇子を大臣としたことは、王と臣との差別がなくなり、いよいよいにしえの意は絶え果てたことを意味する。【しかし後々には、また親王が大臣になることはなくなった。いにしえの王と臣の区別のことは、伝十八の卅六、卅七葉で言った。○官職(つかさ)のことは神代からあり、宮之首(みやのおびと)、膳夫(かしわで)、齋主(いわいぬし)などあるたぐいは、みな官(つかさ)である。また五部(いつのとものお)の祖神はいわゆる文官であり、大伴連、久米直の二氏の祖神などはいわゆる武官だった。中臣・忌部などという名も官職である。大倭の京となれば、ますます多くの官職が見える。某々部というものの中に、官職であったのが多い。後世の官の中にも辨(おおともい)、掃部(かにもり)、大炊(おおい)、主殿(とのもり)、主水(もいとり)、靫負(ゆげい)などという名は、新しく作ったものでなく、いにしえの官名が残ったものだ。八十伴緒(やそとものお)といったのは、漢籍で百官というのに似ている。しかし戎国(からくに)で、その時々にあらぬ人(血筋の正しくない人)を選んで官に任じたのとは大きく違い、皇朝の上代には、それぞれその職を世襲して仕えたから、その家の職をそのまま姓氏にしたことが多かった。そういうわけで官職は神代からあったのを、後世とは任用の仕方が違うので、人々はそれが官職であると知らず、上代には官職などなかったように思うのだろう。ところで上代には、末端の種々の官職はあったが、天下の大政を執り仕切る官はなかった。それはなぜかと言うと、末端の種々の官職こそしかじかと名を付けることもできるが、大政を執る人は、天下のすべてを治めるのだから、どれかに限局した職でなく、他と分けて某々と名付けることはなかったのだ。だから御世御世にそういうことを行った人はあっても、その官名はなかった。書紀で、景行天皇の御代に建内宿禰を「棟梁の臣」としたということがあるが、やはり官名ではない。そのことは伝廿二の十七葉で詳しく言った。また大臣や大連なども上代には官名でなかったのは、上述の通りだ。旧事紀に書いてあることは、論ずるに足りない。】ここで「大臣とした」ということは、別の一條であって、続く文とは関係がない。○大國小國(おおくに・おくに)とは、単に「諸国」ということを文のあやとして言ったに過ぎない。【後世の大國、上國、中國、下國などと品(格付け)を言ったのとは違う。だからどれが大國、どれは小國と定まったものではなかった。万葉(3311、3312)に「初P小國(はつせおくに)」とあるのは小さいことを言ったのではない。別の意味である。】祝詞に「奥山乃大峽小峽(おくやまのおおかいおかい)」、「遠山近山爾生立流大木小木乎(とおやまちかやまにおいたてるおおきおきを)」などとある大小のようなものだ。つぎにある大縣小縣(おおあがたおあがた)も同様である。【国も縣も、大きいのも小さいのもさまざまあるのを、総括して言ったのだ。】○國造(くにのみやつこ)。上巻に出た。【伝七の八十葉】○定賜(さだめたまう)。書紀には「四年春二月、詔して『・・・これ以後は国郡に長(おさ)を立て、縣邑には首(おびと)を置く。それぞれの国で長にふさわしい者を取り、その国郡の首長とせよ。これが中區の蕃屏(うちつくにのかくし:王城の守り)になるだろう』と言った」、「五年秋九月、諸国に命じて国郡に造長を立て、縣邑に稲置を置いた。みな楯・矛を与えて徴とした」とあるのは、ひたすら漢籍めかした書き方なので、国造・縣主という名称は見えないが、実はこの記にあるように、国造や縣主などを定めたのである。【この文で「造長」とある「造」と「稲置」だけはいにしえの号であって、他はみな同意の語を使って漢文風に書いたのだ。国郡、縣邑などというのも漢文である。いにしえに実際に話されていた言葉ではない。ただその意だけを取り、文字にこだわらないようにせよ。だが「楯・矛を与えて徴とした」というのは、いにしえの伝えだろう。】旧事紀にある「国造本紀」に、国々の国造を挙げた中にも、多くはこの御世に定められたと書いてある。【この国造本紀は、すべては信じられない部分もあるが、全く無意味とも思えない。何か根拠があって書いたのだろう。書紀の推古の巻に「二十八年、皇太子(聖徳太子)と嶋大臣(蘇我馬子)が相談して、天皇紀、國記、臣・連・伴造・國造・百八十部、さらに公民等の本紀を編纂した」とある中に国造本紀もあるから、この名を取って書いたものだろう。続日本紀二に「詔して諸国の国造の氏を定め、その名を国造記に載せた」とある。この書には諸国の国造の姓名など、正しく記されていただろう。】ところで国造というものは、この時初めて定めたのではない。これ以前からもあったのだが、この時更に広く多く定めたと思われる。また国造だけを言って、それと同類の君・直・別・稲置などはこれに含めたのである。伴造、国造などというのも、「国造」の中に包含したのだ。どれも国々にある造だからだ。その国造など【国造・君・直・稲置など】のいにしえのあり方は、伝七の巻末で言ったような形である。【とすると、総称すると国造で、それを細分すると国造・君・直・稲置などになるのである。これは漢国の古制で諸侯を「公侯伯子男(爵位の等級)」の五等に定めたのとよく似ている。それを後世の人は国造だけが漢国の諸侯に似たものと思い、その他は単に氏のかばねと考えるのは、まだいにしえのことに通じていないのである。国造・君・直・稲置などには尊卑の差があったように見えるが、その序列は現在でははっきりしない。ただ国造がこのうち最上だったらしいとは分かる。またこの五品に限ったわけでもなく、その他にも国々に何やかやと長の号はあった。】ところが孝徳の御代に至って、いにしえの制度をみな改め、国造らを選んでその国々の大領・少領などに任じたことがその巻に見え、それ以後、多くはそうなった。【三代実録五に「孝徳天皇の世に、国造の号は永く停止され」とあるのは違っている。その御世に制度を改めたのであって、国造という号はまだ国々に残っていた。また世間で国造と国司を同じものと考えるのも誤りである。国造は代々その職を伝えて、その国に住んでいる者で、国司は任命を受けて京から下って赴任し、年限があって交替するのだから、その趣きには違いがある。また孝徳の御世に、国造を改めて国司にしたというのも間違いである。それは「国造が治めていたのを改めて、国司が治めることにした」というのが正しい<訳者註:地方を治めるのがそれぞれの土地の者であったのを、中央政府から派遣される官の役割にしたという意味である>。後世に国造という号が稀にだが神社に残っているのは、いにしえは神事と国政が一致していたのを、孝徳の御世以来、国政は国司が管掌することになったが、国の神事はなおもとのままに、国造が取り仕切る定めだった。続日本紀二に「大幣を分配するため、駅馬を送って諸国の国造を京にやって来させた」と見え、その他にも国造が神事にあずかったことは、諸々の書物に書いてある。その制度だけが残って、ついには全く神職のようになってしまった。だから既に類聚国史でも、これを神祇の部に入れている。】天武紀で、天皇が崩じた時、「国々の国造たちが都へ上ってきて、それぞれ誄(しぬびごと)を申し上げ、さまざまな歌舞を奏した」とあるのは、いにしえの儀式が残っていて、そういう時には参上し、礼典に参加したのである。続日本紀廿八に「陸奥国大国造」と国造を任じた記事もある。【同じく廿九には常陸国、上野国の采女をそれぞれの国の国造にしたと見える。(女性を国造にするのは)たいへん変わったやり方だ。高野天皇(孝謙)の御世である。】○國國之堺(くにぐにのさかい)。書紀には「五年秋九月・・・山河を境界として国縣を分け、阡(たたさのみち:南北)陌(よこさのみち:東西)に従って邑里を定めた。よって東西を『日縦(ひのたたし)』、南北を『日横(ひのよこし)』とし、山陽を『影面(かげとも)』と言い、山陰を『背面(そとも)』と言う云々」、【「かげとも」は「影つ面(おも)」、「そとも」は「背(そ)つ面(おも)」である。いずれも「つお」を縮めて「と」と言った。】とある。上代の国境の定めは、詳細は分からないが、古い書物に折に触れて見えることから考えると、後世のようにはっきりしたものはなかったとしても、大体のところは初めから国の境界があったのを、この御世に明確に定めたのだ。【これより前には境界もなかったのを、初めて作ったというわけではない。】この後にも、「坂合部は大彦命の子孫である。允恭天皇の御世に、国境の標(しるし)を作った。そのため坂合部連の姓を賜った」、孝徳紀に「大化二年、詔して『国々の境界を見て、文書あるいは図に描いて持って来い。国縣の名は、持って来た時に決めよう云々』と言った」とあり、天武紀に「十二年(十二月)、伊勢王、羽田公八國、多臣品治、中臣連大嶋、さらに判官、録史、工匠らに天下を廻らせ、諸国の国境を定めさせた。しかしこの年には定められなかった。<訳者註:もう年末だったからだろう。>十三年(十月)、伊勢王たちを遣わして、国境を定めさせた」、また続日本紀十三に「天平十年、天下の諸国に令を発して、国郡の図を作らせた」というのも見える。次第に詳しくなったのだろう。天下の国々の分け方は、古い書物では水垣の宮の段に「高志道【後の北陸道である。】、東方十二道、【日代の宮の段にも見える。東海道である。十二は国の数を言う。】書紀の同じ巻(崇神)に北陸、東海、【崇峻の巻に北陸道、東海道と見える。】西道、【山陽道である。】また四道、【いにしえの北陸、東海、西道、丹波である。】景行の巻に東山道、十五國などが見え、孝徳の巻に「畿内」を定めたことが見える。【これは後の定めとはその境界が少し違う。またこれ以前にも崇神の巻、仁徳の巻、欽明の巻にも「畿内」という言葉は見えるが、それは単に文の上だけのことだ。】持統の巻に「四畿内」という言葉がところどころに見え、【これは後の五畿内と同じだ。当時河内と和泉は一国だったからである。】天武の巻に山陽道、山陰道、【成務の巻にある山陽、山陰というのは、この道を言うのではない。】また東海、東山、山陽、山陰、南海、筑紫の六道が並べてあり、【ここに北陸が入っていないのはどういう訳か。】文武紀に七道と見える。諸国の総数が幾つだったかは、物の本に見えない。【旧事紀の国造本紀に挙げられた国々なども、漏れたのも多いだろうから、根拠にならない。】これも孝徳の御世には確かに定まったのだろう。【およそ諸国のいにしえの分け方は、後の世に国を分けて郡とし、郡を分けて郷とするといった明確なものでなく、国内の小さな領域も国と言っていた。この記に「陸奥の石城國造、常道の仲國造」などとあるようなもので、陸奥も国なのに、その国内の石城もまた国と言い、常道の国内の仲をまた国と言い、書紀継体の巻の歌に春日國、万葉で吉野國、初P國などと言っている。これらは後には郡と定められた小さな領域だが、通わせて国と言ったのだ。とすると、天下の国の総数なども、はっきりと決められるものではなかった。しかし大方のところを言えば、縣などと言ったのは国より小さく、里・村などは縣よりも小さかった。普通「某国の某縣」と言い、神功皇后の段に「末羅(まつら)縣の玉嶋の里」、書紀の崇神の巻に「茅渟(ちぬ)縣の陶(すえ)邑」、景行の巻に「八代縣の豊村」などあるので、その大小を考えよ。後世の分け方と大体は違わない。縣と郡のことは、後に詳しく言う。郷と里はいずれも「さと」だから、いにしえは同じだった。字に基づいて後世の分割の仕方を言うと、孝徳紀や令に「里」とあるのは、すなわち郷のことだったが、出雲国風土記などでは郷の内に里がある。その他にも「某郷の某里」などと言うことがある。また郷をそのまま里と言うこともある。いにしえに国とか縣と言ったのはその地域の総称で、「むら」とか「さと」と言うのは人が住んでいる場所を言ったから、もともとその意味合いが異なる。地域全体を呼ぶなら、その地は広く、人が住むところはその中の狭い範囲だから、おのずから国・縣より小さい範囲を指すのである。また「むら」と「さと」の違いは、「むら」はほぼ後世にもそう呼ぶ程度の規模であり、「さと」はそれより大きな範囲にも小さな範囲にも用いた。京を「みさと」と言い、奈良の京も「奈良の里」と呼び、旧都を「ふるさと」などと言うので知るべきである。「むら」は、こういう風に京などを呼ぶ名になることはない。名の意味も、「むら」は人が群がって住んでいることを言い、「さと」は「居住所(いどころ)」の意味である。】後にも一国を二国に分けたり、また二国を一国に合わせたりしたので、御世御世に国の数は変動したのだが、嵯峨天皇の御世、弘仁十四年に越前国を分けて加賀国を立て、六十八国【このうち、壹岐と對嶋は嶋と言って国とは呼ばない。】に定まって以降は、今のようになって、永く変わっていない。【世に国々の名を、一字を取って「某州」と言うことがあるのは、中頃になまさかしいものが、漢国の制度を取って言い始めた自分勝手な呼び方であって、公の定めではない。皇国には「州」という制はない。だからいにしえの文献には、仮にも「某州」などという言葉はない。すべてこういう名称なども、公の定めから外れ、とにかく思いつきで自分勝手に呼ぶのなどは、畏れ多いことである、近世の儒者が、「孝徳天皇の御世以来、天下は郡・縣の政となっているのに、某国と呼ぶのは不当だ」などと言うのはかえって誤っている。孝徳の御世にはすべてを漢風に改めながら、国はやはり国と定めて、もとのままだった。それは古意であって、たいへん良いことだったのは言うまでもないが、たとえ漢意で言うにしても、こうしたことはともかくそれを定めた王の心から出たのだから、全く一つに決めて言うものではない。だから漢国でも、国郡の分け方は、前代に例のないことも世々多い(国を移したとか、国を滅ぼして別名の郡を置いたなど)が、それを当たらないなどとは言わないではないか。ましてや皇朝の定めは、戎国の例で決まるものではない。】○大縣(おおあがた)小縣(おあがた)【一般に「某縣」と言う時は「あ」を省くことが多いから、これは「おおがた」、「おがた」とも読める。】大小は「大國・小國」と同じで、【後世の制度で大郡、上郡、中郡、下郡、小郡などと言うのとは違う。】単に縣々と言うようなことだ。「あがた」は、「上がり田」で、もとは畠のことである。【書紀の仁賢の巻に「ハタケ(田+漢のつくり)、これを『はたけ』と読む」とあり、和名抄に「ハタケ(同前)は麥を作る地である」、また「畠は、あるいは陸田とも言う。和名『はたけ』」とある。】「田」と言うのは田も畠も総称して言い、その中で水を張らないのを畠とも上田(あがた)とも言う。水田よりは高いところに作るからである。【書紀の神代巻で陸田種子(はたつもの)、水田種子(たなつもの)とあるのは、田に成るものと畠に成るものを分けて行っているが、総称して言う時は両方を合わせて「たなつもの」と言うので、田は畠を兼ねて言うことを知るべきである。今の世でも「田地」と言う時は、畠も含まれている。】神代巻に高田(あげた)、万葉巻十二(2999)に「上爾種蒔(あげにたねまき)」等があるのは高いところにある水田を言うが、これは高いところを「あげ」と言った例証である。「あがた」はもとは畠のことだったというのは、上巻八千矛神の歌に「夜麻賀多爾、麻岐斯阿多尼都岐(やまがたに、まきしあたねつき)云々」、下巻高津の宮の段の歌に「夜麻賀多邇、麻祁流阿袁那母(やまがたに、まけるあおなも)云々」などとある「やまがた」は、「山あがた」のことだが、【郡の名の山縣(やまがた)で知るべきである。】「求(まぎ)し茜」、「蒔ける青菜」などとあるので、山の畠であることを知るべきだ。【だから諸国の地名の下に付加して言う縣ではなく、単に縣とも、また「某がた」という地名、河内の大縣(おおがた)、美濃の「方縣(かたがた)」、「山縣(やまがた)」、信濃の「小縣(ちいさがた)」、田嶋の「二方(ふたかた)」、安藝の「山縣(やまかた)」、日向の「諸縣(むらがた)」などという郡名、その他郷や里の名にも多いのは、どれももとは畠に因んでいる。地名の下に付けるのもその他も、上に語を続けて言う時には、上代には「あがた」の「あ」を省いて「がた」と言うことが多かった。上記の郡名も、年魚市縣(あゆちがた)、松浦縣(まつらがた)などと言うのがそうだ。それがやや後には、海辺の「潟」と混同され、年魚市縣、松浦縣などの縣も潟と解釈され、後世では地名にしか言わないようになったが、いにしえには海のない国々にも某縣という地名が多い。】祈年祭の祝詞に「御縣爾坐皇神等前爾白、高市葛木十市志貴山邊曾布登、御名者白弖、此六御縣爾生出、甘菜辛菜持參來弖、皇御孫命能長御膳能遠御膳登聞食故、皇御孫命能宇豆乃幣帛乎、稱辭竟奉久登宣(みあがたにますすめかみたちのまえにもうさく、たけち・かづらき・とおち・しき・やまのべ・そう(添)と、みなはもうして、このむつのみあがたにおいいずる、あまな・からなをもちまいきて、すめみまのみことのながみけのとおみけときこしめすがゆえに、すめみまのみことのうずのみてぐらを、たたえことおえまつらくとのる)」、【月次祭の祝詞にも同様にある。また廣瀬の大忌祭の祝詞にも、「倭國能六御縣乃山口爾坐、皇神等前爾母、皇御孫命能宇豆乃幣帛乎(やまとのくにのむつのみあがたのやまのくちにます、すめかみたちのまえにも、すめみまのみことのうずのみてぐらを)云々」とあるのは、秋の稲のための祭だから、六つの御縣には田もあったのだろう。六つの御縣については書紀の孝徳の巻に「その倭国の六つの縣に遣わされる使いは、戸籍を作り、田畝(た・はたけ)を調べよ」と見える。この六つの縣は、延喜式神名帳におのおの御縣の神社がある。みな大社で、月次・新嘗にも与っていた。この六縣の他に、高市郡の中に「久米御縣神社」もあるが、それは別だろう。小社である。】これに「甘菜辛菜」とあることを考えよ。【その他にも種々の陸田物(はたつもの)があるだろうが、甘菜辛菜というのは、その中から選んで、ごく一部を言っただけである。】この六つの御縣は、ことに京に近く、朝廷の召し上がる陸田物を作って貢進する地だったから、その神を重く見て祭り、このように祈年祭の祝詞もあるのだ。とすると、縣というのは、もと御上田(みあがた)から起こった名で、それに準じて諸国にある朝廷の御料の地も言ったのだ。ここに大縣小縣とあるのはこれである。【上巻に佐那(さな)縣、神功皇后の段に末羅(まつら)縣、書紀の~武の巻に菟田(うだ)縣、崇神の巻に茅渟(ちぬ)縣、景行の巻に長峽(ながさ)縣、直入(なおり)縣、子湯(こゆ)縣、八代(やつしろ)縣、高來(たかく)縣、八女(やめ)縣、仲哀の巻に儺縣(なのあがた)、神功の巻に度逢(わたらい)縣、山門縣、應神の巻に川嶋(かわしま)縣、上道(かみつみち)縣、三野(みぬ)縣、波區藝(はくぎ)縣、苑(その)縣、織部(はとり)縣などと見え、對嶋の上縣(かみつあがた)、下縣(しもつあがた)など、どれも国々にあった縣である。ただし上記のうち、書紀に見えるのには論ずべきことがある。次に言う。国々で同じ用途であっても、御田は別にあって、屯田(みた)というのがそれである。その屯田のことは、伝廿六の終わりに言った通りだ。縣は陸田物をはじめ、種々の物を貢進した地と思われる。書紀の推古の巻に「蘇我大臣が天皇に申し上げて、『葛城縣はもともとわたしの本居地でした。ですから願わくば、正式にこの地を私の領地としていただきたく、お願い申し上げます』と言った。天皇は詔して、『・・・しかし今私の御世になって、突然この縣を失ったら、後の君主は、バカな女が天下を治めようとして、何の見返りもないのにその縣を失ったと言うだろう』云々」とあるので、縣は朝廷の御料地だったことを知るべきである。もっと後世にも、諸国の司がその任地の国を指して「縣」と言っているのは、いにしえに官人が京から国々の御料地に往来していた頃の名目が残ったのだ。万葉巻七(1287)に「青みづら、依網原(よさみのはら)に人もあはぬかも、石(いは)ばしの、淡海縣(あふみあがた)の、物語せむ」。この歌は遠江の国司が任地に下る道の、參河国の依網原で詠んだ歌で、淡海縣というのは任地の遠江を指している。また古今集の端書きに(938)「文屋康秀參河椽(みかはのじゃう)になりて、縣見(あがたみ)には得出たゝじやと云ひやれりける」<訳者註:これは文屋康秀が三河の掾に任命されて行く前に、小野小町を「私がこれから行く任国を見物に行きませんか」と誘ったエピソードである。>、土左日記に「或人縣の四とせ五とせはてゝ、云々(任期が終わって)」などとあるのも、縣とはその任国を指している。これらの縣を即ち田舎のことを言っていると考えられてきたのは間違いだ。田舎のことを直ちに縣と言ったことはなかった。「縣召(あがためし)」という言葉も、御料地の官人を任ずる(召す)ということで、単に田舎の官を任ずるというのではない。】だが漢字を使う世になって、この「あがた」に「縣」の字を当てて書き慣れ、後には朝廷の御料地でなくても、漢国で縣(けん)というのに当たる程度の地は、すべて「あがた」と呼ぶようになった。【やや後に縣と呼ぶような地も、もとは国といっていた。「あがた」とは本来朝廷の御料地である。だから上記の書紀の景行の巻、神功の巻、應神の巻などで「某の縣」という名が多く見えていても、その当時は縣とは言わなかった地もある。ただ撰者の意図で、後世の呼称に従って縣と記されたと思われる例も混じっている。書紀にはそういう例が多い。気を付けて見なければならない。「あがた」に「縣」の字を当てたのは、漢国に封建の制、郡縣制というのがある。封建というのは、皇国で上代に、国々に国造を置いて国を治めたように、漢国でもいにしえは諸侯というものがいて、それぞれの国を治めたのだ。ところが秦の始皇帝が、その諸侯をみな滅ぼして、漢国中をすべて自分のものにした。これを「天下を郡縣にした」と言う。それ以前にも、諸侯同士が争って他人の土地を奪って自分の料地にすることを、「縣にする」ということがあった。ということは、漢代になっても、その郡・縣の制度を引き継いでいたのである。皇国でも、初めはそういう意味で、朝廷の御料地に「縣」の字を当てたのだ。ところが漢国では始皇帝以降、封建制度は終わってしまい、代々郡縣制度が継続されたことから、郡と言い縣と言うのも、単に国内の分割の仕方だけの名称になり、「某郡某縣」と言っており、またそれを真似てわが国でも単に国の分け方だけの名称となった。】それで孝徳天皇の御世に到ると、それまでは縣と言っていた地をみな「郡」と名付け、【これは、漢国で「州」を分けて「郡」とした時代もあり、その制によって縣を郡に改めたのだ。そもそも漢国では郡と縣は同じでなく、大部分は郡を分けて縣としたので、郡は大きく縣は小さい。しかしわが国ではこの御世に郡と定めたのは、ほとんどが元は縣と言った程度の地だから、大小の違いがあったわけではない。名を変えただけで、同じことだった。だから書紀で、彼(孝徳)の御世に郡に定められた後の巻でも、「國縣」という言葉がところどころに出ている。それはいにしえから言い伝えたまま書いたのであって、意味は「國郡」と同じことである。】天下全部を分けて「郡」とし、【孝徳紀に「およそ郡は、四十里を大郡とする。三十里以下四里以上を中郡とする。三里を小郡とする云々」という「里」は村里の数を言う。距離を言っているわけではない。類聚国史にも、延暦十七年の詔に「昔、難波の朝廷(孝徳)の時に、初めて諸々の郡を置いた」とある。この御世には、万事制度を改めて、漢風になったことが多い。諸国の定めもこのように國を分けて郡とし、いにしえから国造や別、直、君、稲寸(いなき)、縣主たちが治めてきた地も、ことごとく公(朝廷)のものとして、国ごとに国司を任じ、郡ごとに郡司を置いた。類聚三代格の弘仁二年の詔に「郡領は難波朝廷の時、その職を定めた」とあるのがそうだ。ところが書紀で雄略の巻、安閑の巻、欽明の巻などに「郡司」という名が見えるのは、例の撰者の作った文で、当時の呼び名ではない。】「某國(くに)の某郡(こおり)」と言うようになったのだ。【「こおり」というのは、いにしえからあった言葉ではない。新井氏は、「『こおり(旧仮名コホリ)』は韓語から出た言葉である。今の朝鮮語で、郡縣を『コホル』と言う」と言った。この説はもっともだ。書紀の継体の巻で、韓国の地名に「熊備己保里(ユビコホリ)」、「背評(ヘコホリ)」というのがある。「評」は韓の方言で郡のことを言う。それで「コホリ」と読む。漢籍の梁史にも「新羅の風習では、その邑が(城壁の)内にあるのを『啄評』と言う」とある。ところで、皇国でも韓国の言葉に倣って、郡に「評」の字を用いていたことがあった。続日本紀一に「衣評(えのこおり)の督(じょう)、衣君(えのきみ)縣、助督衣君弖自美(てじみ)」とある。衣評は薩摩の穎娃(えい)郡である。また廿五に氷高(ひだか)評とあるのは紀伊国の日高郡のことだ。廿八にも「評の督」とある。皇太神宮儀式帳に「難波の朝廷で天下の評を立てたとき、・・・新家(にいのみ)連阿久良(あくら)を督領とし、礒連牟良(むら)を助督として仕え奉り云々」、また「評の督領を仕え奉り云々」などとも見える。督、督領というのはいわゆる大領で、助督というのは少領と聞こえる。ところで郡というものを定めたのは、上述のように孝徳天皇の御世に始まったから、書紀でそれ以前の巻に郡と書いてあるのは、当時の名称ではない。単に撰者が作った文だから、字に基づいて考えてはいけない。読みも「こおり」でなく、「あがた」と読むべきだ。もっとも、孝徳天皇以前からもう「縣」と通わせて郡の字を用いたこともないではなかっただろう。また韓国と交通が盛んだったときには、その国の言葉を聞き慣れて、こちらでも「こおり」という言葉を使ったこともありはしただろう。だがそれは確かなことでないから、断定することはできない。一般に書紀は、ひたすら漢文の字面をつくろって書かれているので、いにしえの世々の文字使いなどは定かに知りがたく、文字のために紛らわしいことが多い。そこに注意して読むべきである。また縣の字も「こおり」と読んでいるところが多い。これもまた、孝徳以前の巻にあるのは、そう読んではならない。それ以後はそう読んでよろしい。】○縣主(あがたぬし)は倭の国内をはじめ、諸国にあって縣を管掌する者を言う。【ここで言う縣は、上述のような朝廷の御料地のことである。この御世には、ただ何となくすべての地を縣と呼んだことはなかった。だから縣主というのも、すべての場所にいたわけではない。】それが記中に見える例は、高市縣主、師木縣主、十市縣主などがある。書紀の~武の巻に「弟猾(おとうかし)に猛田邑(たけだのむら)を与えて、猛田の縣主とした」とある。【これは倭国の十市郡にある猛田で、その邑を与えて、その縣の司にしたのである。同じ猛田の中に、御料の地と、この人に与えた地とがあるのだ。この文を読んで、縣主とは単にその地を領有すると考えてはいけない。】「弟磯城(おとしき)、名は黒速(くろはや)を磯城縣主とした」など見える。神武天皇の頃からあったものだ。これも国造、君、直、別などのたぐいで、日代の宮の段に「その他の七十七王はそれぞれ諸国の国造、和氣、稲置、縣主を分け与えた」とあった。【書紀の安閑の巻に、津の国の三嶋縣主、飯粒(いいぼ)が良田四十町を天皇に献上したと出ている。天武の巻に「高市郡の大領、高市縣主許梅(こめ)」という名もある。孝徳の御世の制度から、縣主などを郡司に任命したことがあると思われる。】これもその職を子々孫々に伝えたから、「某の縣主」というのは、そのまま姓(かばね)だった。【縣主という姓は。この紀でも書紀でも、実際に見えるのはたいへん少ない。新撰姓氏録でも少ない。御縣(御料地)だけにあるものだからだろう。新撰姓氏録に単に「縣主」とだけ言う姓もあるが、それには何か事情があるのだろう。】伊邪河の宮の段に「旦波(たには)大縣主」、朝倉の宮の段に「志幾之大縣主」というのもある。これは臣に大臣、連に大連とあるように、「大」を加えて称えた名か、それとも考えるに、ここに「大縣・小縣」とあるから、その縣が大きいと言うことか。【もしそうだったら、「大」は「縣」を修飾するので、「縣主」全体を修飾するのではない。】ということだから、ここで「縣主を定めた」と言うのも、初めてこの職を置いたというわけでなく、上記の国造を定めたと言ったのと同様である。

 

天皇御年玖拾伍歳。御陵在2沙紀之多他那美1也。

訓読:このスメラミコトみとしココノソジマリイツツ。みはかはサキのタタナミにあり。

口語訳:この天皇は九十五歳で崩じた。<乙卯の年、三月十五日に崩じた。>御陵は沙紀之多他那美(佐紀楯列)にある。

御年玖拾伍歳(ここのそじまりいつつ)。書紀には「六十年夏六月、己巳朔己卯、天皇が崩じた。その時百七歳だった」とある。【父の天皇の四十六年に立太子して年二十四とあるから、六十年には九十八歳である。これも疑わしい。また景行の巻には「五十一年秋八月に皇太子を立てた」とあり、これまた前後が違っている。また「武内宿禰と同日に誕生した」とあるのにも合わない。というのは、六十年に崩じて百七歳だったら、景行天皇の十四年に生まれたことになる。ところが廿五年に、「武内宿禰を派遣して北陸および東方諸国の国情を検察させた」とあり、この時この人はわずか十二歳だった。】ある書物には百九歳、また九十八歳ともある。【九十八歳というのは、上記の立太子の時から数えたのだろう。】○旧印本、真福寺本、他一本には、この間に「乙卯年三月十五日崩也」と細書きで注が入っている。こういった細注については、水垣の宮の段の終わり【伝廿三の九十五葉】で言った。乙卯の年は、書紀によると四十五年だから、十五年の差がある。また月も日も合わない。これもいにしえの一つの伝えだったのかも知れない。○沙紀之多他那美(さきのたたなみ)。「沙紀」は、玉垣の宮の段に「狹木」とあるところだ。【伝廿五の七十一葉】書紀の仲哀の巻に「稚足彦天皇は六十年に崩じた、明年秋九月壬辰朔丁酉、倭国の狹城盾列陵に葬った。楯列、これを『たたなみ』と読む」とある。【「盾(たて)」を「たた」と言うのは「稲」を「いな」、「船」を「ふな」というたぐいで、第四の音が第一の音に移る活用である。神武天皇の歌の「楯並而」を「たたなめて」と読んでいる。】諸陵式に「狹城盾列の池後(いけじり)陵は、志賀高穴穂の宮で天下を治めた成務天皇である。大和国添下郡にある。兆域は東西一町、南北三注雄、守戸五烟」と見える。池後というのは続日本紀十に「楯波の池から飃風(つむじ風)が突然起こり、南苑の樹木二本が吹き折られた。それが雉になった」とある池の後ろということで、後ろとは北の端を言うのだろう。それとも京から遠い側を言うのか。もしそれなら【これは平城京の頃のことと思われるので、】平城の西になるから、西の端である。【この池は書紀の垂仁の巻に「三十五年、狹城の池を作った」とあるのと同じ池かどうか分からない。現在常福寺村(現在の奈良市佐紀町、西蓮寺付近か)のあたりに大きな池がある。これなどではないか。○前皇廟陵記に「扶桑略記に、『康平六年、興福寺の僧靜範がこの池後の山陵を盗掘したので、その仲間たち十六人とともに流罪に処せられた』とある」と書き、百練抄にもこのことを記して、「十二月十五日、盾列の山陵を修復し、同時に盗賊が所持していた宝物を返納した。廃朝(政務の一時停止)すると宣命があった」と見える。】また諸陵式には、神功皇后の墓を狹城盾列池上陵とある。この二つの盾列【池後と池上と】御陵と称するのが超昇寺村の西北の方にあり、西側が成務天皇、東側が神功皇后だといって、両者は近い所にある。【その成務天皇陵というのを里人は「石塚」と言い、その西に山陵(みさざき)村がある。神功皇后の御陵というのは、御陵(ごりょう)山と言う。】ところが、続日本後紀十三に、「四十年・・・図録を調べてみると、北側が神功皇后陵、南は成務天皇陵だった。世人は南の陵を神功皇后と相伝えていたが、その口伝によって、神功皇后の祟りがあるごとに、無駄に成務天皇陵に謝罪していたことになる。今日これを改めて云々」【ここは文を変えて引いてある。完全な引用は神功皇后の御陵のところにある。】とあり、今の世に言うのとは方位が合わず疑問だ。【ここでは南北とあり、今言われているのは東西だからだ。】そもそも佐紀郷には、陵墓が四つある。垂仁天皇の皇后、比婆須比賣命の寺間陵【伝廿五の七十一葉に出た。大和志に「常福寺村にある」という。】と、この盾列の二つの陵と、称徳天皇の高野陵【今は盾列の二つの陵の西北の方にある陵がこれだという。】とである。盾列の二つの陵は、続日本後紀に「南北」とあるのを採れば、あるいは今言う神功皇后陵が取り違えられていて、今の寺間の陵か高野陵の二つのうちのどちらかなのかも知れない。また成務天皇陵も、今それだとしている方か、神功皇后としている方か、判定しがたい。池後という名も、池の北という意味なら、上記の世人の口伝【北は成務、南は神功】の方こそ、かえって正しいのではないか。【延喜式は承和より後の書だが、かの世人の口伝を信じていた頃の名をそのまま書いて「池後」としたのかも知れない。それともこの池後という名がもっと古いことなら、いよいよ世人の口伝の方が正しいことになるのではないか。】ただそれは京から見て遠い方を【後と】いうこともあるだろうから、これもまた決められない。とにかく上記の佐紀の四つの陵は、相互に紛らわしく思われる。【私はまだその辺りの地形を詳しく知らないので、「これがこう」と断定的に論じることができない。】さらによく調べて明らかにすべきことである。

<訳者註:現在の宮内庁の治定では、日葉酢媛命陵と成務天皇陵がほぼ東西に並び、そのすぐ南に高野陵と、三陵が密集している。その北北西方向、やや離れたところに神功皇后陵がある。上記の文にある東の陵は、現在日葉酢媛命とされている陵と思われる。また文中の日葉酢媛命陵は、現在の神功皇后陵を言っているようだ。なお現成務天皇陵のそばには、大きな池は見当たらない。古代にはあったのかも知れない。>

 



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