『古事記傳』30


訶志比の宮上巻【仲哀天皇】

 

帶中日子天皇。坐2穴門之豊浦宮及筑紫訶志比宮1治2天下1也。此天皇。娶2大江王之女大中津比賣命1生御子。香坂王忍熊王。<二柱>又娶2息長帶比賣命1。是大后生御子品夜和氣命。次大鞆和氣命。亦名品陀和氣命。<二柱>此太子之御名。所=以3負2大鞆和氣命1者。初所レ生時。如レ鞆宍生2御腕1故。著2其御名1。是以知B坐2腹中1。定Aレ國也。

訓読:タラシナカツヒコのスメラミコト、アナドのトヨラノみやまたツクシのカシイのみやにましまして、アメノシタしろしめしき。このスメラミコト、オオエのミコのみむすめオオナカツヒメのミコトにみあいましてウミませるミコ、カゴサカのミコ・オシクマのミコ。<ふたはしら>またオキナガタラシヒメのミコトにみあいましき。このおおぎさきのウミませるミコ、ホムヤワケのミコト。つぎにオオトモワケのミコト。またのミナはホムダワケのミコト。<ふたはしら>このひつぎのみこのミナ、オオトモワケのミコトとおわせるゆえは、はじめアレませるときに、ミただむきにトモなせるししありしゆえに、そのミナにつけまつりき。ここをもてミハラヌチにましまして、クニさだめたまえりしことしらえたり。

口語訳:帶中日子天皇(仲哀)は、穴門の豊浦宮と筑紫の訶志比宮に住んで、天下を治めた。この天皇が大江王の娘、大中津比賣命を妻として生んだ子は、香坂王と忍熊王の二人だった。また皇后となった息長帶比賣命(神功皇后)を娶って生んだ子は、品夜和氣命と大鞆和氣命、またの名は品陀和氣命の二人だった。大鞆和氣命の名は、生まれたとき、腕に鞆の形をした肉が付いていたので、その名にしたのである。このことで、胎内にいたときから国を定める人だったことが分かる。

この天皇の後の漢風諡号は仲哀天皇という。○穴門(あなど)については、日代の宮の段【伝廿七の二十六葉】で言った。ここで言っているのはその国の名で、今の長門の国だ。この国の名は、書紀の崇神の巻や欽明の巻でも、いずれも「穴門」と書いてあり、孝徳の巻にさえそう書いてあるから、その頃までは長門とは言わなかったのだろう。【「長門」と呼ぶのは、いつから始まったのか、分からない。穴戸(洞門)の距離が長いので、長門と言われるようになったのだろう。】その巻の詔に「今、私の親神祖(むつかむろぎ)が天下を治めた穴戸の国内で云々」とあるのは、この仲哀天皇がここに住んだことを言っている。○豊浦宮(とよらのみや)は、和名抄に「長門国豊浦【とよら】郡」とあるのがそうだ。【「豊受神」を「とゆけ」と言うから、これもいにしえには「とゆら」と言ったかも知れない。しかし確かにそう言ったという証拠もないので、ここでは和名抄にある通りに読んでおく。「浦」は「う」を省いて言うこともあるからだ。】その宮の地は、帝王編年記に「長門の豊浦郡北樹林である」と書いてある。【「北」の上か下に脱字があるのだろう。】源貞世の「道行ぶり」に「長門国府(こふ)になった。北濱といって、東南に向かって家がある。この里を一村過ぎると、神功皇后の御社の前に出た。御社は南向きである。・・・ここは穴門の豊浦宮の跡だとか言う」とある。【国府は、和名抄に「豊浦郡にある」と出ている。今は長府と言い、ここは豊浦宮の跡だと、今でも言われている。】書紀には「二年二月、角鹿(つぬが)に行幸した。行宮を建ててしばらく住んだ。これを笥飯(けひ)宮と言う。三月、天皇は南国に移り、紀伊国に到って徳勒津(ところつ)の宮に住んだ。この時、熊襲が朝廷に反抗した。そこで熊襲を討とうと、海路で穴門に行き、六月、豊浦の津に泊まった。皇后も角鹿から行って、秋七月に豊浦津に到着した。九月、穴門に宮室を作って住んだ。これを穴門豊浦宮と呼ぶ」とあり、八年正月まで、この宮にいたようだ。その明くる年には天皇は筑紫の宮で崩じ、「ひそかに天皇の屍を収めて武内宿禰に預け、海路で穴門に移し、豊浦宮で殯葬を行った」と見え、神功の巻に「新羅を征伐した翌年の春二月、皇后は群卿と百寮を引き連れて穴門豊浦宮に移り、天皇の葬儀を済ませた後、海路を京に向かった」とある。【推古の巻に見える豊浦宮は倭にあって、別である。】○訶志比宮(かしいのみや)は和名抄に「筑前国糟屋郡、香椎【かすい】郷」とあるところだ。【「し」を「す」と言ったのは、後の訛りだろう。一般に「椎(しい)」と書いており、書紀にも「橿日(かしい)」と書かれている。「かしい」であることに疑問の余地はない。】書紀の神功の巻には「橿日の浦」ともあり、万葉巻六【二十二丁】(957−959)に香椎滷(かしいがた)の歌【三首】がある。香椎廟は今も香椎村にある。【続日本紀廿二に「天平宝字三年、太宰の帥、船親王(ふねのみこ)を香椎の廟に遣わして、新羅を討つべき事情を告げた」、同廿四に「同六年十一月、参議藤原朝臣巨勢麻呂、散位土師宿禰犬養を使わして、香椎廟に幣を奉った。新羅を討つ軍旅を調習するためである」、続日本後紀一に、「天長十年夏四月、和氣朝臣眞綱を遣わして、劔と幣帛を八幡大菩薩の宮と香椎廟に奉り、新しい天皇の即位を報告した」とある。この宮は仲哀天皇であるとも神功皇后であるとも言って、確かなところは決まらないそうだ。続日本紀の記事を見ると、神功皇后のようである。兵範記にも「香椎大多羅志姫(おおたらしひめ)の宮」と書いてある。これは「神社」とは言わず、古い書物ではいずれも「廟」とあり、他には例のないことだ。延喜式神名帳にも載っていない。何か理由があるのだろう。そこで考えるに、漢国の考え方で言うと、諸々の神社はすべて「廟」と言えるわけだが、皇国ではそう呼ぶことはないのに、これだけを特に「廟」としたのは、神功皇后の征伐の後に、三韓からの使者が頻繁にやって来ていた頃、彼らがこの皇后の御霊を齋(いつ)き奉った社だからではなかろうか。とすると皇国の一般的な神社とは異なり、異国人が祭った宮であり、その違いをはっきりさせるため、「廟」と名付けたのではなかろうか。これは試みに推量を述べただけである。後世の歌に「香椎の宮」と詠まれているのは、この廟のことである。また宇佐八幡宮縁起に「嵯峨天皇の御世に、神功皇后の託宣があって、弘仁十四年に、勅して新たに大帯姫の宮を造らせた」とあるのは、延喜式神名帳に「豊前国宇佐郡、大帯姫廟(おおたらしひめのびょう)神社」とある社だろう。宇佐宮三座の一つである。これを廟と言っているのは、香椎廟から取ったのだろう。】書紀には「八年春正月、筑紫に行幸した。・・・岡の浦に入り、儺縣(なのあがた)に到った。因(そこで)橿日宮に滞在した」とある。【「岡の浦」は筑前国の遠賀(おか)郡の浦である。儺縣は、神功の巻に儺河、宣化の巻に那津(なのつ)などとあるのと同じ所だ。斉明の巻には「那の大津」とあり、「この名を改めて長津とした」と見える。那珂郡はこれだろうか。しかし「長」の「が」は濁音、「那珂」の「か」は清音だから違うかも知れない。】その後神功の巻の初めに「九年春二月、足仲彦天皇は筑紫の橿日の宮で崩じた」とある。この天皇は書紀によれば、二年二月に越の国と紀の国に行幸して以後、倭国には帰還せず、ついには西国で崩じた。そのため「豊浦の宮と訶志比の宮で天下を治めた」と言う。○大江王(おおえのみこ)、大中津比賣命(おおなかつひめのみこと)は、ともに日代の宮の段に出ていた。【伝廿六の十四葉、伝廿九の四十四葉】○香坂王(かごさかのみこ)。香坂は地名だろう。【「香」の字は書紀に「カゴ(鹿の下に弭)」と書いてあるから「かご」と読む。「カゴ(鹿の下に弭)」は説文に「鹿の子」と書いてある。】○忍熊王(おしくまのみこ)。他の例から見ると、この上に「次」という字があったのが脱落したのだろうか。忍熊は地名か。大和国添下郡に押熊(おしくま)村というのがある。ここではないだろうか。【その村にある神社(奈良市押熊町の押熊八幡神社のことか)は、一座は押熊の神、一座はカゴ坂の神と言うそうだ。】この王は、新撰姓氏録には忍熊別(おしくまわけ)皇子とある。書紀の孝徳の巻に中臣連押熊という人名もある。書紀によると「・・・先に叔父彦人大兄の娘、大中姫を娶って、カゴ坂皇子と忍熊皇子を生んだ」とある。○息長帶比賣命(おきながたらしひめのみこと)は伊邪河の宮の段に出た。【伝廿二の七十四葉】この名を書紀では「皇太后を尊んで、名を氣長足姫(おきながたらしひめ)尊と言う」と、死後の諡のように書いてあるのは不審である。続日本紀十八には「氣長足媛皇太后」と見え、摂津国風土記では「息長足比賣天皇」とある。ここは他の例に従うなら、「娶2息長帯比賣命1生御子」とあるところだが、「娶(みあいましき)」と言って文を切っているのは、この大后が特別な人だったからではないだろうか。○大后(おおぎさき)は皇后を言う。【そのことは白檮原の宮の段で言った。】○品夜和氣命(ほむやわけのみこと)。【「品」は「ほ」と「む」の二音を合わせた仮名である。次の「品陀」の「品」も同じ。いずれも「ほむ」と「む」を確実に発音せよ。「ほん」と言うのは、後に音便で崩れたのであって、正しくない。書紀にも「譽」の字を書いてあるので分かるだろう。今の世でも、「誉む(ほめる)」を「ほん」などとは言わない。】「品夜」は地名か。ただ弟の品陀とたいへん近い名なので、いずれも称えて言った名であり、「や」と「だ」で分けたのかも知れない。しかしその「品」の意味も「や」、「だ」の意味もまだ考えつかない。「ワケ」については前【伝廿六の十九葉】に言った。書紀には「次に來熊田造(くくまだのみやつこ)の祖、大酒主の娘、弟媛を妻として、譽屋別(ほむやわけ)皇子を生んだ」とあって、伝えが異なる。新撰姓氏録に「間人(はしびと)宿禰は、仲哀天皇の皇子、譽屋別命の子孫である」、「間人造は、間人宿禰と同祖、譽屋別命の子孫である」、また「蘇宜部(そがべ)首は、仲哀天皇の皇子、譽屋別命の子孫である」などがある。書紀の継体の巻の初めに、(武烈天皇に子がなく、後継者に困った群臣が相談して)「今足仲彦天皇の五世の孫、倭彦王が丹波国桑田郡にいる云々」とあるのは、どの皇子の子孫なのだろう。これもこの品夜和氣命の子孫ではないだろうか。【和名抄に、丹波国天田郡に土師郷、丹後国竹野郡に間人郷もあるから、上記の間人宿禰の先祖ではないか。香坂王や忍熊王の子孫だったら、その時に候補に挙がってくるはずはなかっただろう。】○大鞆和氣命(おおともわけのみこと)。名の由来は次にある。○品陀和氣命(ほむだわけのみこと)。書紀には譽田別尊と書いてある。「品陀」は地名で、今の河内国古市郡に譽田村(大阪府羽曳野市誉田)がある。これである。【この村に御陵がある。この地名は古い書物には見当たらないが、古い名と思われる。今の世には「こんだ」と言っているが、それは訛ったのである。「譽」の字が書いてあるのだから、「ほむだ」であることは間違いない。いにしえには志紀郡に属していた。】幼少の頃、この村に住んでいたのだろう。この品陀天皇が品陀眞若王の娘を娶ったことが、その巻【伝卅二の五葉】に見えているのも、この地にいたことによる。【品陀眞若王の名も、河内の譽田に住んでいたことに因むのだ。品陀和氣命もその近くに居住して、その娘を娶ったのだろう。】崩じた後、この地に葬ったのも、初めに住んでいた所だからではないだろうか。だがこの名は、兄の名とよく似ているから、地名ではないのではないかという疑いもある。上述のとおりだ。【河内の譽田は、この天皇の御陵があるので、後にこの名になったのであって、初めからの地名ではないのではないかという疑いもなくはない。書紀の雄略の巻に「譽田の陵」とあるのは譽田天皇の陵ということで、地名を言ったのではないだろう。地名自体は蓬ルイ(くさかんむり+累)(いちびこ)の丘とあるからだ。その他に譽田という地名は、古い書物に見えたことはない。だが品陀眞若王の名は間違いなく地名のように聞こえるから、どちらとも決めかねる。】吉野の國樔(くず)らの歌に大雀(おおさざき)命(仁徳天皇)を「本牟多能比能美古(ほむだのひのみこ)」と歌っているのは、「品陀天皇の日の御子」ということである。○太子(ひつぎのみこ)。前に出た。○「初所レ生時(はじめあれませるときに)」とは、誕生したときということである。【「はじめ」と読む。「はじめて」と読んだのではおかしな意味になる。】○「如レ鞆宍生2御腕1故」は「みただむきにトモなせるししありしゆえに」と読む。腕(ただむき)は和名抄に「玉篇にいわく、腕は和名『ただむき』、あるいは『うで』とも言う」とあり、上巻の沼河比賣の歌に「斯路岐多陀牟岐(しろきただむき)」と見える。「鞆」は上巻に出た。【伝七の卅九葉】「宍」は和名抄に「玉篇にいわく、肉は肌膚の肉である。和名『しし』」とある。「宍」は「肉」の古い字で、同じことだ。これはまだ胎内にいたとき、既にこの肉が生じていたのである。「是以知B坐2腹中1。定Aレ國也」とあるので分かるだろう。【生まれるときにできたというのではない。】だから「生」の字は「ありし(あった)」と読む。白檮原の宮の段の「生レ尾人」というのも尾がある人だった。【そこでも、もとからあるのを「生」と書いてあった。その時生えたということではない。】書紀の應神の巻に「初め天皇が腹中に宿ったとき、天神地祇が三韓を与えた。誕生したとき、その腕に鞆の形をした肉があった。皇太后が男の服装をして、鞆を負っていたので、その形が現れたのだろう。そこでそれを称えて譽田天皇と言うのである」とあるが、これは「大鞆別尊と言う」とあるべきところを、その名と取り違えて、「譽田天皇と言う」と誤って伝えたのだ。【上記の文の後に、細書きで「上古の時、俗に鞆のことを『ほむだ』と言った」とあるのは、「譽田天皇と言った」というのこそ取り違えた伝えであって、実は「大鞆別尊」なのを知らずに、推量で書いた誤りだ。上代から鞆は「とも」とは言ったが、「ほむだ」と言った例は全くない。】○「著2其御名1(そのみなにつけまつりき)」とは「鞆」を名に付けたことを言う。【普通「名」という字を「なづく」と読むのも「名を付ける」と言うことだ。物語書などでは「名」とは言わず「〜とつけて」とも言う。今の世でもそういった言い方をする。それを「なづく」という訓にこだわって、「命レ名」というのも「なをなづく」などと読む人があるが、間違いである。「名」と言った以上は、「命」は「つく」と読むべきで、「名を名付く」などと言うのはおかしい。漢文を読むには、こういうたぐいの文はどうにでも読むが、世人が「なづく」というのを雅言のように思い込み、名を付く、名に付くなどと言うと俗言だと思っている人が多い。そのためここに書いておくのである。】○是以(ここをもて)は、生まれたときに鞆の形の肉があったことによって、ということだ。○「知B坐2腹中1。定Aレ國也」は、「みはらぬちにましまして、くにさだめたまえりしことしらえたり」と読む。「國」のうえにある「定」の字は、諸本にないが、私が補った。というのは、ここに字が脱けているのは間違いないからだ。【もとのままでは意味が通らず、どうにも読めない。】それはどんな字か知りがたいが、旧印本で「くにさだめ玉はむこと」と読んでおり、どこかに「定」の字がなければ「さだめ玉はむ」など、思い付くような訓ではないから、古い本にはこの字があってそう読んでいたのが、それがいつか脱け落ちて、読みだけが残ったのだ。「定」とあれば、意味もよく通る。そこでここでは補って示したのである。【延佳本では「知(しらす)」を加えて「後の文によってこの字を加えた」と言っている。師(賀茂真淵)もそれに依拠していた。後の文というのは、神が教えて「凡此國者、坐2汝命御腹1之御子所レ知國者也(およそこのくには、なんじみことのみはらにますみこのしらさんくになり)」とあるのを言う。とすると「知」の字で特におかしいところはなく、誰でも納得するだろうが、さらによく考えるとそうではない。そのことは次に言う。】さて「腹中」を「みはらぬち」と読んだのは、書紀の仁徳の巻(正しくは神功摂政元年)の歌に「于池能阿層餓波邏濃知波(うちのあそがはらぬちは)<内の朝臣が腹中は>云々」、【「濃」は「ぬ」の仮名である。】とあるのによる。【万葉巻十五(797)、また巻十七(4000)にも「國中」を「くぬち」とある。それは「にうち」をちぢめて「ぬち」と言ったのだ。】「國」とは、どこの国ともなく、広く言っているのであって、ここでは三韓のことを指している。【皇国の内を言ったのではない。よく考えなければ取り違える。外国を直ちに「國」と言うのはどうかと疑うひともある(単に「国」と言えば、天皇の治める天下、すなわち日本国内を分けて「〜の国」と言う場合を指すから)だろうが、ここでは三韓を指してはいても、「どの国を」とも言っていないから差し支えない。たとえばそこに「国がある」とか「国はない」と言う一般名称としての国だから、外国だからと言って、国と言わない理由もない。】というのは、書紀の應神の巻の初めに「初め天皇が腹中に宿ったとき、天神地祇が三韓を与えた。誕生したとき云々」、【ここに前記の「鞆の形をした肉があった」ことを言うために「三韓を与えた」と言っているのを考えよ。】神功の巻の神託の言葉に「お前がその国を取らなければ、たった今大后が孕んだ御子がそれを取るだろう」、また継体の巻で「住吉の大神は、初めて海外の金銀の国、高麗・百濟・新羅・任那などを胎中の譽田天皇に与えた」、また「胎中の帝が官家(みやけ)の国を置いて以来」、【「官家の国」とは三韓を言う。】また「海外の諸蕃は、胎中天皇が内官家(うちつみやけ)を置いて以来云々」、宣化の巻の詔に「海外の国は、・・・胎中の帝から私に到るまで云々」とあるなど、どれも三韓のことを【神功皇后に関わりなく】この胎中の天皇のこととして言っている。またその「胎中の天皇」という名は、常に三韓を征したことに関して呼ぶ名である。【韓国のこと以外で、単に天下を治めたという意味では使っていないのでも、ここで国というのは皇国のことではないと分かる。】また「鞆の形をした肉」というのも、征伐に関わる徴(しるし)である。【鞆というものは、普段用もないのに身に着けるものではない。軍事に際しては、身分の低い者も負うものだから、やはり天下を治めることには関係がない。】大体、これらのことから、ここで「国」と言っているのは三韓だと知るべきである。「定」とは後の文に「そこで新羅國を御馬甘(みうまかい)の国と定め、百濟國を渡屯家(わたりのみやけ)と定めた」とある「定め」で、征伐し服従させて、蕃国(みやつこぐに)としたのを言う。書紀にも「新羅王は、・・・高麗、百濟二国の王は・・・とこしえに西蕃(にしのみやつこ)と称して、朝貢が絶えることはなかった。そこで内官家(うちつみやけ)定めた」とある。「知(しらえたり)」は、この皇子に上記の肉があったことで、胎内にいながら韓国を征服したことが、生まれたときに分かったからである。

 

此之御世。定2淡道之屯家1也。

訓読:このみよに、あわじのみやけをさだめたまいき。

口語訳:この御世に、淡道の屯家を置いた。

書紀に「二年二月・・・その月に淡路屯倉を定めた」とある。淡路は淡道の国である。屯家のことは前【伝廿六の三十七葉】に言った。

 

其大后息長帶日賣命者。當時歸レ神。故天皇坐2筑紫之訶志比宮1。將レ撃2熊曾國1之時。天皇控2御琴1而。建内宿禰大臣居レ於2沙庭1。請2神之命1。於レ是大后歸レ神。言教覺詔者。西方有レ國。金銀爲レ本。目之炎耀種種珍寶多在2其國1。吾今歸=賜2其國1。爾天皇答白。登2高地1見2西方1者。不レ見2國土1。唯有2大海1。謂2爲レ詐神1而。押=退2御琴1。不レ控。默坐。爾其神大忿詔。凡茲天下者。汝非2應レ知國1。汝者向2一道1。於レ是建内宿禰大臣白。恐我天皇。猶阿=蘇=婆=勢2其大御琴1。<自レ阿至レ勢以レ音>爾稍取=依2其御琴1而。那摩那摩邇<此五字以レ音>控坐故。未2幾久1而。不レ聞2御琴之音1。即擧レ火見者。既崩訖。

訓読:そのおおぎさきオキナガタラシヒメのミコトは、そのかみカミよりたまえりき。かれスメラミコト、ツクシのカシイのミヤにましまして、クマソのクニことむけたまわんとせしときに、スメラミコトみことをひかして、タケウチのスクネのオオオミさにわにいて、カミのミコトをこいまつりき。ここにオオギサキかむがかりして、ことおしえさとしたまいつらくは、「にしのかたにクニあり。こがね・しろかねをはじめて、メのかがやくくさぐさのタカラそのクニにさわなるを、あれいまそのクニをよせたまわん」とノリたまいき。ここにスメラミコトこたえもうしたまわく、「たかきところにのぼりてにしのかたをみれば、クニはみえず。ただオオウミのみこそあれ」ともうして、「いつわりせすカミ」とおもおして、みことをおしそけて、ひきたまわず、もだいましぬ、かれそのカミいたくいからして、「おおかたこのアメノシタは、ミマシのしらすべきクニにあらず。ミマシはヒトミチにむかいませ」とノリたまいき。ここにタケウチのスクネのオオオミもうしけらく、「かしこしわがオオキミ。なおそのおおみことあそばせ」ともうしき。かれややそのみことをとりよせて、なまなまにひきいましけるに、いくだもあらずて、みことのネきこえずなりぬ。かれヒをあげてみまつれば、はやくかむあがりましにき。

口語訳:大后の息長帶日賣命は、そのころ神の依り代になっていた。天皇が筑紫の訶志比宮に滞在して、熊曾の国を討とうと思ったとき、天皇は琴を弾き、建内宿禰の大臣は沙庭にいて、神の言葉(神託)を聞こうとしていた。やがて大后に神が寄りついて言葉を告げた。「この西の方に国がある。金銀はもとより、目の眩むような種々の宝物のある国だ。今私はその国をこの国に帰(よ)せようと思う」。天皇は答えて、「高い山に登って西の方を見ても国はなく、ただ大海があるばかりだ」と言い、「偽りを言う神だ」と思って、琴を押しのけ、弾こうとしないで黙ってしまった。そこで建内宿禰大臣は「恐れ入ります、大君。もう少し琴をお弾きください」と勧めた。琴をしぶしぶ引き寄せて、だらだらと弾き始めたが、幾らも経たないうちに音が聞こえなくなった。火を掲げて見ると、もう息を引き取っていた。

當時は「そのかみ」と読む。そのときというような意味である。【後世の人は「そのかみ」を、単に昔のことと考えているが、間違いである。昔のことを語る際に「そのころは」と言う言葉だ。「昔は」と言うのとは意味が違う。書紀に「今時」と言うところに「當時」と書いて、「ただいま」と読むところがある。訓はそれで合っているが、「當」の字の使い方が当たっていない。皇国で「當(当)」を「今」、「この」という意味に使って、今時を「当時」、今日を「当日」、ここを「当所」、この国を「当国」と言うのは、みな誤っている。「当」は「大体そのあたり」という意味なので、「当時」は「その頃」、「当日」は「その日」、「当所」は「その所」、「当国」は「その国」という意味だ。】「その時」とは、西国に滞在していた頃のことを漠然と指している。そのことは次に言う。○歸神は「カミよりたまえりき」と読む。【「歸」の字は、記中では「より」と言うのに使うことが多い。また万葉(1773)に「神依板(かみよりいた)」という言葉があるから、「よる」と言うのは古言である。】また「よる」は「かかり」とも読める。大后に神が依り付き、懸かるのだ。その様子は、上巻の石屋戸の段に「神懸かりして」とあるところ【伝八の五十七葉】で言った。【そこの「神懸かり」は、「して」とあるから、体言(名詞形)だった。それで「がかり」と「か」を濁音に読んだ。しかしここは「より」でも「かかり」でも用言(動詞)として遣っているから、濁音には読まない。ただしこの次にある「歸神」は「かむがかり」と読む。そのことはそこで言う。】さて後にも「大后歸神」とあるので、ここに同じように書いてあるのは無駄なようだが、そうではない。この大后に神が依るのは、後の文に出る時だけではなく、その頃全般にそうだったから、あらかじめこう言っておいたのだ。「當時」と言ったのもその意味だ。【そうでなければ「當時」と言うのこそ無駄だ。またここでこう言っておかなければ、この後に起こった一時の現象のように聞こえるだろう。書紀に見える「海中から如意珠を得た」という記事なども、単に起こったことを述べたのではない。その頃から神が依り付いていたことを言うのだろう。】天皇崩御後の神懸かりも、大后とは言っていないが、この言葉がそこまで及んで、この大后のことのように聞こえる。そもそもこの大后に神が依ることは、単なる事件ではない、この後永く財宝の国を言向けた基本のことだから、たいへん重大なことだったのだ。【それを書紀では、この皇后の巻の初めに「幼い頃から聡明で叡智があり、顔貌は端麗であった」とだけ書いて、最も重要な神懸かりのことを書いていないのは、どういうことか。漢風のことではないからだろう。漢国で、この大后のことを人伝に聞いて、「鬼神の道を行い、よく衆を惑わせた(ごまかした)」と言うのは、畏れ多いことに、漢国では神道が妙なる正しい道だと知りもせずに言っている狂語(たわれごと)である。<訳者註:もちろんここで宣長は、書紀編纂者が神功皇后を卑弥呼に擬したことを、事実と信じて言っているのである。>】ここで依り付いた神は、次の段に「今こうお教えくださった大神はどちらでしょうか、お教えください」とあるから、初めのうちはどの神かは分からなかった。その後こう聞きただしたので答えがあり、そこに見える。○熊曾國(くまそのくに)。上巻に出た。【伝五の十五葉】○「天皇控2御琴1(すめらみことみことをひかして)」。前にすでに「天皇」とあって、ここでも言うのは煩わしいようだが、ここでは「天皇は・・・建内宿禰は・・・」と銘々の受け持ちを言うところだから、こんな風に言っている。「琴」については上巻の「天詔琴(あめののりこと)」のところで言った。【伝十の四十九葉】まつろわぬ国を言向けようとして、このように琴を弾いて、神の言葉を待つというのは、上代には何事をするにも神の心を問い、その命を受けたのであって、ここもその征伐のことを吉か凶かと伺ったのだ。【この部分は、書紀では少し違っていて、こちらから尋ねたのでないのに、皇后が神懸かりして教えたのである。だがこの記では琴を弾いたことなど、こちらから尋ねた様子である。熊曾を征伐しようとして尋ねたのでないとすれば、こうして神の教えを請うことには、何の意味もないだろう。】書紀では神功の巻に「皇后がみずから神主となって、武内宿禰に琴を弾かせ、中臣烏賊津使主を審神者(さにわ)とした。そこで千ハタ(糸+曾)高ハタ(ちはたたかはた)を琴の頭と琴の尾に置いて、神の言葉を請い、云々」とある。このように神の言葉を請うには、必ず琴を弾くので、その琴の上に神が降り、人に依り付いて言葉を告げるのである。このことは上記の「天詔琴」のところでも言った。参照せよ。なお万葉巻九【二十六丁】(1773)に「~南備、~依板爾、爲杉乃(かんなびの、かみよりいたに、せんすぎの)」とある「~依板」もこれで、神が依り付くための板である。皇太神宮儀式帳【六月例】に「十五日の夜の亥の時、第二の御門に御巫内人を待機させ、琴を与えて大御事を請い、十六日に宮西の河原に退出し云々」、また【九月神嘗祭の條にも、】「十五日の夜の亥の時、御巫内人を第二御門に侍らせ、琴を与えて、天照座大神(あまてらしますおおみかみ)の教えを請い、教えられた種々の罪を、禰宜の館から初めて、内人、物忌の四人の館ごとに解除(はらい)清め畢(おわ)り云々」、【また「御巫内人の職掌」の條にも「三節の祭に、十五日の夜の亥の時、第二御門に侍らせ、木綿蘰(ゆうかつら)を付けて琴を与え、大神の命を請い、云々」、同宮年中行事の六月御祭の十五日の條に、「御巫内人は外幣殿から鵄(とび)の尾の琴を請い受け、その門の外で東方に進み、御殿に向かって、まず詔刀(のりと)をあげる。その詞に『・・・等の不浄の事の疑いを、御前で占い、清浄に占い定め給えとかしこみかしこみ申す』と唱え、次に笏で琴を三度かき鳴らす。そのたびに警ヒツ(口+畢)(先払いのことか)の声を挙げる。次に神を下すが、その歌は『阿波利矢、遊波須度萬宇佐奴、阿佐久良仁、天津~國津~、於利萬志萬世(あはりや、あそびはすともうさぬ、あさくらに、あまつかみくにつかみ、おりましませ)、阿波利矢、遊波須度萬宇佐奴、阿佐久良仁、奈留伊賀津千毛、於利萬志萬世((あはりや、あそびはすともうさぬ、あさくらに、なるいかずちも、おりましませ)、阿波利矢、遊波須度萬宇佐奴、阿佐久良仁、上津大江下津大江毛、摩伊利太萬江、(あはりや、あそびはすともうさぬ、あさくらに、かみつおおえしもつおおえも、まいりたまえ)、云々』、御巫内人もこれと同じ詞を唱え、琴をかき鳴らし、内嘯(うちうそぶ)く(笛を吹くことか、または口笛か)。この嘯きの音が鳴れば清められたことを知り、鳴らなければ不浄だと知る。その後また御巫内人は三度琴をかき鳴らし、警ヒツの声を挙げ、~を挙げる。その歌は前と同じ。ただし前に『おりましませ』と歌ったところを、今度は『帰りましませ』と歌う。云々」とあるのも、儀式帳に載っているのと同じ祭でのことである。<これについては「日本巫女史」(第一編第七章第三節)http://docs.miko.org/index.php?title=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B7%AB%E5%A5%B3%E5%8F%B2/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E7%AF%87/%E7%AC%AC%E4%B8%83%E7%AB%A0/%E7%AC%AC%E4%B8%89%E7%AF%80&oldid=1129&printable=yesを参照。>とあるのは、上代の儀礼が今も遺っているのだ。【何でも漢風を真似る世の中になると、上代の礼儀はほとんど消え失せたが、ただ後世にも、神事にはどうにかこうにかそれらしい儀礼も残っていることはある。今の世でも古い神社などは「琴の板」といって、板を叩いて~を降ろす行事をしているところがある。上記の万葉の「~依板」を考えよ。この神の御命(みこと)を請うと、上代には人の心も素直だったから、必ず正しい教えが下ったのだが、後代にはなまさかしい漢意で解釈するようになり、神の御命も疑って信じない人が多く、正しい教えもまるでないかのようになったのだ。】○建内宿禰大臣(たけうちのすくねのおおおみ)は前に出た。【伝二十二の十五葉】大臣のことも前に言った。【伝二十九の五十葉】天皇や大臣がみずから神事を行ったことを見ても、上代には神事を重んじたことを知るべきだ。○沙庭(さにわ)は、神を降ろして、その教えを請う場所であって、齋(い)み清めたという意味で、「清場(さやにわ)」が縮まった語である。【「さや」は「さ」に縮まる。】書紀【神功の巻】に「審~者(さにわ)とした」とあるのは、「清場」に侍って仕える人を言う。【だからこの「審~者」は「さにわびと」と読むべきだが、そこにいる人を単に「さにわ」と呼んでも意味は変わらない。釈日本紀に「公望私記(延喜の書紀講筵の私記)にいわく、『今の世では、琴を弾く人を沙庭と呼ぶ』」とあるのは、そのころまではこの名が残っていたのだ。】○「居レ於2沙庭1(さにわにいて)」の「居」は、単にそこにいたのでなく、神の命を請い承り、またこちらから問わねばならないことがあれば、問い返すなど、神に向かって事を行うのを言う。後の文にも同様に書いてあるが、そこの様子で分かるだろう。【ただそこにいたということなら、天皇が琴を弾くのも清庭(さにわ)にいてすることなのだが、それとは別に特定の人物の名を挙げているのは、神に向かって上記のような事を行うのも、やはり沙庭にいて行ったと言うためだ。】○「請2神之命1(カミのみことをこい)とは、あることの吉凶はどうかを問い、教えを請うのである。ここでは熊曾を征伐する計画について訊いている。【上記で言った。】続日本紀十四に「天平十四年十一月、大隅国が言上して『・・・空中に太鼓の鳴るような音があり、野の雉は驚いて飛び立ち、地が震動した』ということだ。大隅国に使いを遣わして検問し、同時に神の命を請い聞かせた」とある。○歸神は、ここでは「かむがかりして」と読む。前に出たのは、その頃いつもということだったが、ここではこの時に起こったことを言い、いわゆる「託宣が下った」と言うことだからだ。【だから上にあるのと言葉は同じだが、意味は少し違っている。字が同じだからといって、あれもこれも同じように読むと、同言ばかり重なって煩瑣なだけでなく、意味の違いも分かりにくいから、必ず言い方を変えて読むべきだ。】○言教覺詔者は「ことおしえさとしたまいつらくは」と読む。「言」は「言依(ことよさし)」、「言向(ことむけ)」などの「言」と同じで、「事」である。【「言」は、みな借字である。いにしえは文字の意味にこだわらずに文字を使ったが、その中でも「言」と「事」は、特によく通用することが多かった。】後の文にも「言教之大神者(ことおしえたまうおおかみは)云々」、龍田の風神祭の祝詞に「皇~乃辭教悟給奉處仁(すめかみのことおしえさとしまつれるところに)云々」、鎮火祭の祝詞に「〜止事教悟給支(〜とことおしえさとしたまいき)」、唐(もろこし)に使を遣わすときの奉幣の祝詞に「皇~命以弖、船居波吾作牟止教悟給比支、教悟給比那我良、船居作給部禮波(スメカミのみこともちて、ふなすえはアレつくらんとおしえさとしたまいき。おしえさとしたまいながら、ふなすえつくりたまえれば)云々」などがある。○「西方有レ國」とは、書紀には神託にそのまま「新羅國」とあり、この記でも後に「船の波が新羅の国まで押し上げて云々」とあるから、中心は新羅として、三韓すべてを言ったのだろう。○金銀(こがね・しろかね)の「金」は、万葉巻十八【四丁】(4094)に「久我禰(くがね)」とあるが、和名抄に「こがね」とあるのによって読む。諸書では、いつもそうなっている。名の意味は黄金であり、「黄」を「こ」と言うのは「木」も「木陰(こかげ)」、「木末(こぬれ)」などで「こ」と言う格である。【荷(に)を荷前(のさき)、火(ひ)を火影(ほかげ)というたぐいは、第二(い列)の音を第五(お列)の音に転じて言うもので、同じ変形である。】銀は和名抄に「和名『しろかね』」とある。万葉巻五(803)に「銀も金(こがね)も玉も何せむに、勝れる多可良(たから)子に及(しか)めやも」とある。いにしえには、皇国では金銀は出なかったから、【書紀の神代巻に「香山(かぐやま)の金を採って」とあるのは高天の原でのことだから、云々することはないが、これも黄金を言っているわけではない。単に「かね」であって、実は鉄(くろがね)のことだ。】ここではそれがたくさんある国を授けようと言ったのだ。三韓のことは書紀には、神功の巻、継体の巻に「金銀之國」、顕宗の巻に「金銀蕃國」、武烈の巻に「銀郷」【これは「金」の字が落ちたかと思ったが、上下を見ると四字ずつに整っていて、漢文だから、初めから「金」はなかったらしい。いかがわしい文である。】などがある。そのため、その国が帰服して以後、代々の貢ぎ物の中には、必ず金銀があった。推古紀に「高麗国の大興王は、日本国の天皇が仏像を造ると聞いて、黄金三百両を贈ってきた」、皇極紀に「高麗国から貢いできた金銀など云々」、天武紀に「新羅の調(みつぎ)物、金銀云々」、「新羅の貢調の金銀・・・別に天皇と皇后、太子に金銀を献(たてまつ)り云々」、「新羅が調を貢いだ・・・金銀云々」、持統紀にも「新羅の調賦(みつぎ)の金銀云々」などと見える。大体必要な限りの金銀は、みな韓国から輸入していたのだ。ところが続日本紀二に「文武天皇の五年三月、凡海宿禰(おおしあまのすくね)麁鎌(あらかま)を陸奥に派遣して金を冶(作らせた)、同月、對馬嶋が金を貢(たてまつ)った。元号を改めて大宝元年とした。八月、大倭国忍海郡の人、三田首五瀬が對馬嶋で金を冶成(精製した)云々」とあるのが皇国で金が出た初めだ。その後続日本紀十七に「天平二十一年二月、陸奥国が初めて黄金を貢上してきた。奉幣して畿内七道の社に報告した」【有名な大宝元年の金は、まだ黄金ではなかったのだろうか。貢ったことは書かれておらず、ここで初めて貢ったとある。またその年には既に對馬が金を貢ったとあるのに、ここで初めて貢ったとあるのは、陸奥が貢った初めと言うことか、それとも以前の對馬から貢ったのは、単に「金」とあり、八月云々のところで「金を冶成(精製した)」とあるから、まだ完全には黄金になりきっていなかったので、陸奥の方を最初としたのか。この時の詔に「此大倭国者、天地開闢以来爾、黄金波人国用理献言波有登毛、斯地者無物止念部流仁、聞看食国中能東方、陸奥国守従五位上百済王敬福伊、部内少田郡仁黄金出在奏弖献(このおおやまとのくには、あめつちのはじめよりこなたに、こがねはひとのくによりたてまつることはあれども、このくににはなきものとおもえるに、きこしめすくぬちのひむかしのかた、みちのくのくにのかみじゅうごいじょうクダラのコキシけいふくイ、くにのうちのおたのこおりにこがねありともうしてたてまつれり)云々」と見え、万葉巻十八(4094の題書)に「陸奥國より金を出せる詔書を賀(ほ)く歌」という長歌がある。上記の詔書のことである。称徳紀にも「天平年中・・・陸奥国が駅馬を馳せて、小田郡が産出した黄金九百両を貢った。わが国の黄金は、このとき初めて出た」とある。】と見え、銀は天武紀に「三年三月、對馬國の司守、忍海造大國が、『銀が初めて当国から出ました』と言って貢上した。そこで大國に小錦下の位を授けた、およそ倭国に銀が出るようになったのは、この時が初めてである。そこでことごとく諸神祇に奉り、また小錦以上の大夫に賜った」、【持統紀に「五年秋七月、伊豫の国司、田中朝臣法麻呂らが、宇和郡御馬(みま)山の白銀三斤八両、アラカネ(金+丱)一籠を貢上した」、続日本紀三に「紀伊国・・・ただし阿提(あて)・飯高(ひだか)・牟漏(むろ)三郡は、銀を貢上した」などある。次々に各地から出たのだ。】と見える。【顕宗紀に銀銭のことが見えるが疑わしい。当時銀線を用いたことがあったとしても、それは韓国から輸入した銀だろう。】ところでこのようにわが国にも金銀はあるのに、いにしえには出たことがなく、異国のものを求めて使い、はるか後世に出始めて、次々と各地から産出し、近世に至っては外国にも例がないほど多量に出る。初めからあったというのも、こんな風に後になって出て来たのも、みな神の御心だから、何か理由があるのだろう。【人間の常識だけで測り知ることはできない。】○爲本は師が「はじめて」と呼んだのがよい。遠つ飛鳥の宮の段に「大后始而諸卿等(おおぎさきをはじめてまえつぎみたち)云々」、朝倉の宮の段に「大御刀及弓矢始而(おおみたちまたゆみやをはじめて)云々」、続日本紀四の詔に「「親王始而、王臣百官等(みこをはじめて、みこ・おみ・もものつかさたち)」などとある「始而」と同じだ。○目之炎耀は「めのかがやく」と読む。【「目之」を「まの」と読むのはよくない。また「目」を諸本で「日」と書いているのは誤りだ。ここでは真福寺本、延佳本によった。】書紀には「眼炎」とある。俗言で「まばゆき」、「かかはゆき」などと言う意味で、物語書に「目もあやなり」というのがそうだ。新撰字鏡に「眩はケン(目+旬)と同じ。『めめぐる』、また『めかがやく』」とある。【これは言葉の意味は同じだが、使い方が異なる。】○珍寶は、この二字で「たから」と読む。書紀の神功の巻、皇極の巻などに「珍寶(たからもの)」とある。○「多在2其國1(そのくににさわなる)」。【「多在」を「さわなる」と読む。「なる」は「にある」の縮まった語だから、つまりは「多(さわ)にある」ということだ。】書紀には「寶國(たからのくに)」と書き、神功の巻にも「財寶國(たからのくに)」、「財國(たからのくに)」、「財土(たからのくに)」などと見え、また「百済の近肖古王は寶藏を開いて、数々の珍奇な物を見せ、『わが国にはこうした珍寶がたくさんある。貴国に貢ごうと思っていたが、道を知らない』」、【これは皇国の「爾波移(にはや)」という人物に見せて言ったのである。】また「新羅の貢ぎ物は、珍異(めずらしいもの)がたいへん多かった」などと見え、欽明の巻に、「大將軍、大伴連狹手彦(さでひこ)は高麗を討ち、ことごとく珍寶カ(貝+化)賂(たからもの)・七織帳(ななえのおりもののとばり)・鐵屋(くろがねのいえ)を得て帰った」とも見える。○歸賜は、師が「よせたまわん」と呼んだのに従う。「よせ」は「憑(よ)らせ」で、付き従わせることを言っている。祈年祭の祝詞に「遠國者、八十綱打掛弖、引寄如レ事、皇大御神能寄奉波(とおきくには、やそつなうちかけて、ひきよすることのごとく、すめおおみかみのよせまつれば)」とある。万葉巻十四【十三丁】(3411)に「與西都奈波倍弖與須禮騰毛(よせつなはえてよすれども)云々」と詠んでいるのも、女をこちらへ引き寄せようとしたけれども、という意味だ。また巻十九【二十九丁】(4217)に「縁木積成將因兒毛我母(よるこづみなすよらんこもがも)」など、従い来ることを「よる」と言った例は、さらに多い。「賜わん」と言うのは、その国を与えて蕃國(みやつこぐに)としようということだ。【単に尊敬の言葉として言う「賜う」ではない。】そもそもこの三国をわが国に授けたというのは、書紀の神代巻で「素戔嗚尊は『韓郷(からくに)の嶋に金銀があるから、私の子が治めるこの国に、もし浮寶(うくたから:船)がなかったら不便だろう』云々」とあって、神代からの幽契(秘められた約束)があったのだ。書紀には「八年・・・橿日の宮にいて、秋九月、群臣に熊曾を討伐することを相談した。このとき皇后は神懸かりになって、『天皇は、どうして熊襲がまつろわぬことを悩むのか。これ(熊襲の国)はソジシ(旅の下に月)の空国(むなくに)だ。兵を挙げて討つほどのものではない。それよりも、宝の国がある。美女のマヨビキ(目+碌のつくり)のように見えている向津國(むかつくに)だ。目にも眩い金銀、彩色(彩り鮮やかなもの)がたくさんある国だ。その国の名は栲衾(たくぶすま)新羅の國という。私を祭れば、その国はおのずと従って来るだろう。また熊襲の国も従うだろう。その祭には、天皇の船と、穴門の直、踐立(ほみたち)が奉った水田、名は大田、これらを奉幣として献げよ』」、【「美女のマヨビキのように」というのは、万葉巻六(998)に「如眉雲居爾所見阿波乃山(まゆのごとくもいにみゆるあわのやま)」と詠んでいるように、その国の山が遙かに乙女の眉のように見えているのを言う。「向津國」とは、海を隔てて、遙か遠くに見える国を言う。継体紀の歌に「武カ(加の下に可)左履樓以祇能和駄リ(口+利)(むかさくるいきのわたり)」ともある。前に「有2寶國1(宝の国がある)」と言っているから、「有2向津國1」の「有」は「なり」と読む。「彩式(色?)」とは錦繍・綾羅のたぐいを含め、色鮮やかな種々のものを言うのだろう。天武紀(朱鳥元年四月)に新羅からの献げ物を「金・銀・霞錦・綾羅・金器・屏風」と書いてある。孝徳紀(大化二年三月甲申)には「金・銀・錦・綾・五綵」ともある。推古紀(十八年三月)に「高麗の僧、曇徴(どんちょう)は彩色・紙墨が上手だった」とある「彩色」は何を言ったのだろう。<訳者註:彩色画や書道が巧みだったことを言うと思われる。>】○「唯有2大海1(ただおおうみのみこそあれ)」。天皇が答えた言葉はここまでだ。○爲詐は「いつわりせす」と読む。「せす」は「す」を延ばして言う古言で、【「見る」を「みす」、「聞く」を「きこす」、「立つ」を「たたす」などと言うのと同様。】「し賜う」というような意味だ。万葉巻十九【三十九丁】(4254)に「國看之勢志弖(くにみしせして)」、【「せして」は「して」である。】また【四十二丁】(4266)「豊宴見爲今日者(とよのあかりみしせすきょうは)」などがある。今の世では「偽りを言う」、「空言を言う」などと言うが、いにしえは偽りや空言を「言う」と言うことはなく、「する」と言ったのだ。【中昔までそうだった。】○謂は「おもおして」と読む。○押退(おしそけて)。「退」は「そけて」と読む。【「しりぞく」は後方(しりえ)に「そく」ことで、ここはそういう意味ではない。】後世の「押しやって」と言うのと同じ。○默坐は「もだいましぬ」と読む。万葉巻三【三十二丁】(350)に「黙然居而(もだおりて)」、巻四【二十三丁】(543)に「黙然得不在者(もだえあらねば)」、また【三十三丁】(612)「黙毛有u乎(もだもあらましを)」、【巻十二、巻十三にも同様にある。】巻七【二十四丁】(1258)に「黙然不有跡(もだあらじと)」、巻十一(巻十?)【二十一丁】(1964)に「黙然毛將有(もだもあらん)」、巻十七【三十一丁】(3976)に「母太毛安良牟(もだもあらん)」などがある。【この語は、普通「もだす」と言うから、ここも「もだしましぬ」とも読めるが、古言には「もだす」、「もだし」などと言った例が見当たらないので、万葉の言い方を取って読んだ。「いましぬ」は万葉の「居(おり)」、「有(あり)」に当たる。】「もだ」は「むだ」に通い、徒(いたずら)という意味である。【徒なこと、また空しくということを。俗言で「むだ(無駄)」と言う。】ここでは、さらに琴を弾き続けて、神の言葉を待つべきなのに、そうはせず、弾くのをやめて無駄に坐っていたのである。○大忿(いたくいからして)。あなかしこ、あなかしこ。○凡は、ここでは「おおかた」と読む。○「茲天下者(このあめのしたは)云々」とは、上記の宝の国を手に入れることができないというだけでなく、この御国も治めることはできないと言うのである。というのは、上記のように教えた神は、【この時にはまだどの神とも分からなかったが、後に名を告げたのによると、】天照大御神だったのを、畏れ多くも、その大命を信ぜず、「偽りごとを言う神」とさえ言ったのだから、大いに怒ったのも無理はない。天下を治められなかったのももっともだ。あなかしこ、あなかしこ。【世の人よ。世の人よ、これをよく考えよ。よく考えよ。天皇だけではない。世の人は、誰もこの大御神の心に背いては、片時も生きていられないのだ。あなかしこ、あなかしこ。】○「向2一道1(ひとみちにむかいませ)」とは、黄泉の国に行けという意味だ。「天下には多くの道があるが、黄泉の国はただ一道しかない」と師が言った通り、この食国(おすくに)、つまり天下が、四方八方をあまねく統べるのに比較すると、どこであろうと一つの国はどこかに片寄っているわけだからこう言った。書紀の崇神の巻に、豊城命と活目尊(後の垂仁天皇)の夢を判断して、「兄は東の方向だけを向いていたから、東国を治めよ。弟は四方すべてに臨んでいたから、私の位を継げ」とあるのと、意味合いが似ている。相照らして理解せよ。「道」とは「向かえ」とあるので言ったのだ。黄泉の国は「根之堅洲國(ねのかたすくに)」とも言い、片隅の国だから、特に微々たる領域に片寄っていることは一層である。【「堅洲」が「片隅」であることは伝七の廿五葉で言った通りだ。参照せよ。源氏物語の若菜下巻に、「道(みち)異(こと)になりぬれば」とあるのは、亡き人のことを言っていて、この世とは異なる道へ行ってしまったという意味だ。また万葉巻十一(2648)に「斐太人乃、打墨縄之、直一道二(ひだびとの、うつすみなわの、ただひとみちに)」、続日本紀廿七の詔に「一道に志して」などとあるのは、一筋にという意味である。】書紀には「天皇は神の言を聞いて疑いを起こし、試しに高い岳に登って遥かに遠くを眺めたが、大海は広く遠くて、国は見えなかった。そこで天皇は神に向かって『私は遠く周囲を見渡してみたが、海ばかりがあって国は見えなかった。大空にでも国があると言うのか。どの神が私をいたずらに誘っているのか。また私の皇祖、諸天皇たちはすべての神祇を奉斎してきたはずだが、それに漏れた神なのか?』と言った。このとき神はまた皇后に託して、『天津水影(水鏡)のように押し伏して(俯瞰して)私の目に見えている国を、どうして国がないなどと言って、私の言葉を誹謗するのだ。そんなことを言って信じないなら、お前はその国を手に入れることはできない。たった今、皇后の胎内に宿った子が、それを獲得するのだ』と言った。だが天皇はなおも信ぜず、強いて熊襲を討ち、勝つことができないで帰ってきた」とある。また神功の巻には「一説によると足仲彦天皇は筑紫の橿日宮にいたとき、沙麼(さば)の縣主の祖、内避高國避高松屋種(うつひこくにたかひこまつやたね)に神が憑いて、天皇に『御孫尊(みまのみこと)、宝の国を手に入れようと思うなら、現実に授けてやろう』、また皇后に『琴を持って来て弾け』と言った。神の言葉のままに皇后が琴をかき鳴らすと、この神は皇后に乗りうつり、『今、天皇が望んでいる国(熊襲国)は鹿の角のように中身が空っぽの国だ。だから今、天皇の乗っている船と、穴戸直(あなとのあたい)踐立(ほむたち)が献げた水田(名を大田という)を幣(みてぐら)として、私の祭を行えば、美女のマヨビキのような国、金銀に満ちた、眩いばかりの国を天皇に授ける』と告げた。この時天皇は『いくら神だと言っても、何という偽りを言うのか。どこに国があるのか。それに私の船を奉ったら、私はどの船に乗ったらよいのか。どの神とも分からないから、その名を教えていただきたい』と尋ねた。・・・すると神は天皇に『お前が私の言葉を信じないなら、その国を手に入れることはできない。たった今、皇后が懷姙した子が、それを獲得することになるだろう』と言った。この夜、天皇は突然発病して崩じた」ともある。○白(もうす)は天皇に言ったのである。○恐(かしこし)とは神の言葉を信ぜず、かえって誹謗するようなことを言ったのを畏れ多いことだと言ったのである。○我天皇は「わがおおきみ」と読む。こう言うのは、日代の宮の段、朝倉の宮の段などの歌、また万葉にも多い。天皇と書いても「おおきみ」と読むのが、万葉などにも多い。「天皇」と書けばいつも「すめらみこと」、「すめらぎ」とばかり読んで、「おおきみ」とは読まないと思い込むのは間違いだ。続日本紀四に天皇を「我が大王(おおきみ)」、【これは元明天皇の詔で、聖武天皇のことを呼んだ言葉である。また同十の聖武天皇の詔でも、元正天皇をそう呼んでいる。】同九に「我皇天皇(わがおおきみすめらみこと)」、十に「我皇(わがおおきみ)太上天皇」などともある。○大御琴(おおみこと)。前にも後にも単に「琴」とだけ書いてあるのに、ここでのみ「大御」が付いているのは、大臣が言った言葉だからである。【これらを見ても、この記が古語を伝えていることが分かって、たいへん貴いことである。また地の文と人が言った言葉の区別をしっかりと弁えるべきである。】○阿蘇婆勢(あそばせ)は、「弾き賜え」というような意味だ。宇津保物語の俊蔭の巻に「仲忠(なかただ)例の曲(ごく)の手をばひかで、思ひの外の物をひく、時にかくては御祿(ろく)もいかゞはせむ、なほ少しこまやかにあそばせと切(せち)にのたまへば、調(しらべ)かへてひく」、源氏物語の處女の巻(少女の巻?)に「大臣(おとど)和琴引依(ひきよ)せ賜ひて、・・・猶あそばさむやとて、秋風樂に掻合(かきあは)せて唱歌(そうが)し給へる」、【また明石の巻に「あそばすよりなつかしきさまなるはいづこのか侍らむ」、紅梅の巻に「うちとけてもあそばさねど時々うけ給はる御琵琶の音なむ昔おぼえ侍る、・・・いであそばさむや、御琴まゐれとのたまふ」】などとある。「あそばせ」は「あそべ」を延ばして言った、例の古言で、尊敬の意味で言っている。一般に歌舞・管弦はみな「あそぶ」と言う。これを体言にして「あそび」とも言う。上巻の天若日子の段に「日八日、夜八夜以遊也(ひやか、よやよをあそびたりき)」。【伝十三の五十二葉を参照せよ。】と見え、石屋戸の段に「爲樂」とあったのも「あそびし」と読み、【そのことは伝八の六十三葉で言った。参照せよ。】~樂(かみあそび)、東遊(あずまあそび)などと言うのもこれである。【神遊びはつまり神楽である。これを「かぐら」と言うことは古い書物には見えない。神楽歌のことを、古今集では「~あそびの歌」とある。】中昔の物語書などでも管弦をもっぱら「御遊(みあそび)」と言っている。続日本紀十五に、皇太子が五節(ごせち)の舞を舞うのを見て、太上天皇の詔に「今日行賜布態乎見行波、直遊止乃味爾波不在之弖、天下人爾、君臣、祖子乃理乎、教賜比趣賜布止爾有良志止奈母所思須(きょうおこないたまうをみそなわすれば、ただにあそびとのみにはあらずして、あめのしたのひとに、きみやつこ、おやこのことわりを、おしえたまいおもぶけたまうとにあらしとナモおもおしめす)」、【この「遊」の字を印本では「迹」に誤っている。今は古い本に基づいて引用した。だが「君臣祖子」とは、ことうるさい漢意である。楽は、単に遊びであるのが正しい本意だ。】ところで歌舞・管弦でない他のことにも、「あそばす」と言うことがある。そのことは朝倉の宮の段に出ており、そこ【伝四十二の三葉】で言う。そもそも「あそぶ」という言葉のもとは、今の世でも云うのと同じ意味だから、何についても言うのだが、中でも歌舞・管弦はその極致だから、特にその言葉で言うのである。○稍取依(ややとりよせ)。「稍」は速やかでないのである。「取依」は、押し退けたのを、また引き寄せたのである。○那摩那摩邇(なまなまに)は「生々に」で、すべて「なま」とは物が成熟しきらない状態を言う。物語書にも「なまなまのかむたちめ」、「なまなまの博士」などがある。【「なま強(じ)い」の「なま」もこれである。「なまなま」、「なま強い」など、みな「中々」という意味がある。俗言で「なまなかに」とも言う。「中」は「途中」のことで、行くべき所まで行き着いていないので、「なま」と意味が通う。】ここは気分が乗らないので上手にも弾けず、しぶしぶと、少しずつ弾いたのだ。【この前に「稍」とあるのと意味が共通する。】というのは、神の言葉を信ぜず、琴も弾くまいと思っているのに、人に強いられて、心ならずも弾いているためだ。○控坐(ひきいまし)。「坐」は「いまし」と読む。【「弾き賜う」という意味で添えたのではない。】「弾いていた」ということだ。○未幾久而は、「いくだもあらずて」と読む。万葉巻五【九丁】(804)に「伊久陀母阿羅禰婆(いくだもあらねば)」、巻十【二十七丁】(2023)に「左泥始而何太毛不在者(さねそめていくだもあらねば)」、【「あらねば」は「あらぬに(ないのに)」という意味だ。】などあるのによる。「いくほどもなく」、【俗言に「間もなく」、】という意味である。【万葉巻四(666)に「不相見者、幾久毛不有國(あいみぬは、幾久毛あらなくに)」、巻十一(2583?)に「不相見而幾久毛不有爾(あいみずて幾久毛あらなくに)」などとある「幾久毛」は、今の本の訓は古言に合わない。「いくひささにも」とか「いくばくひさも」などと読むべきだろうが、ここ(古事記)では「久(ひさ)」の字を読んではいけない。】○不聞は「きこえずなりぬ」と読む。【「なりぬ」は段々音が絶えたのである。】○擧火は、字の通りに読む。【「擧」を師は「ともして」と読んだ。上巻に「燭2一火1」などもあるから、それもありそうだが、ここは初めから灯りがあったのを、近くに取り寄せて、挙げて見たように聞こえる。それとも沙庭には火を灯さない決まりだっただろうか。それなら「ともして」と読むだろうが、それは今では分からない。あるいは最初から灯火はなく、たき火だったので、それを取り上げて新たに灯したのか。どちらにしても、「あげて」と読んでおけば、大きな間違いはないだろう。】天武紀に「擧レ燭(ひをともいて)」とあるのも、近くに取り寄せて挙げる意味だから、「あげて」と読む方が正しいだろう。○既は、師が「はやく」とよんだのに依る。【俗言に「はや(もう)」という意味だ。】この段は、書紀には「九年春二月、癸卯朔丁未、天皇は突然身に痛みを感じて、翌日に崩じた」とあって、細書きで「つまりは神の言葉を信じなかったために、早く崩じたこと分かった。一説には、天皇はみずから熊襲を征伐に行き、賊の矢に当たって崩じたとも言う」とある。どれも伝えが異なっている。【「痛身(身に痛みを感じ)」というのを本では「なやみたまうことあり」と読んでいるが、単なる病気だったら「痛身」とは書かないのではないだろうか。あるいは体が痛んだのかも知れない。】

 

爾驚懼而。坐2殯宮1。更取2國之大奴佐1而。<奴佐二字以レ音>種=種=求2生剥逆剥阿離溝埋屎戸。上通下通婚。馬婚牛婚。鷄婚犬婚之罪類1。爲2國之大祓1而。亦建内宿禰居レ於2沙庭1。請2神之命1。於レ是教覺之状。具如2先日1。凡此國者。坐2汝命御腹1之御子所レ知國者也。

訓読:かれおどろきかしこみて、あらきのみやにませまつりて、さらにくにのオオヌサをとりて、いきはぎ・さかはぎ・あはなち・みぞうめ・くそへ、おやこたわけ、うまたわけ・うしたわけ、とりたわけ・いぬたわけのツミのたぐいをくさぐさまぎて、くにのおおばらいして、またタケウチのスクネさにわにいて、カミのみことをこいまつりき。ここにおしえさとしたまうさま、つぶさにさきのごとくにて、「おおかたこのクニは、ナがみことのみはらにますミコのしらさんクニなり」とおしえさとしたまいき。

口語訳:驚き恐れて、(ともかく遺体を)殯宮に安置した後、国の大幣(おおぬさ)を取り、生剥・逆剥阿離・溝埋・屎戸、上通下通婚、馬婚・牛婚、鷄婚・犬婚の罪など、種々の罪を求めて、国の大祓えを行った。また建内宿禰を沙庭に座らせて、神の言葉を請い願った。すると神が教え諭したのは、前と全く同じだった。「およそこの国は、お前の腹中の子が治める国だ」と神は教えた。

驚懼(おどろきかしこみ)は、天皇が突然崩じたことを驚き、神の祟りを懼(かしこ)んだのである。○殯宮は「あらきのみや」と読む。その根拠は、万葉巻三の、左大臣長屋王に死を賜う事件後の倉橋部の女王の歌(441)に、「大皇之命恐大荒城乃、時爾波不有跡雲隱座(おおきみのみことかしこみおおあらきの、ときにはあらねどくもがくります)」とある「大荒城」は喪中を言い、同じ集の中で「誰それの殯宮の時」とある【後に引用する】のと同じだからだ。【この「大荒城」を地名とした説は、たいへんな強説である。「時にはあらねど」とは、まだ(その遺骸を)大荒城に収めるような時ではないことを言う。というのは、長屋王は謀反の疑いを掛けられ、「その罪を糾問し、王に自尽させた」と続日本紀に見え、今の世で武家に切腹を仰せ付けたのと同様の最期だったからだ。寿命が尽きて死んだのでないことを「時にはあらねど」と言ったのだ。】この「荒城」という意味は、「荒(あら)」はアラカネ(金+僕のつくり)、璞(あらたま)などの「あら」である。それは新たに死んだままで、まだいつどこへ葬るかも決まっていないといった意味で、今の世でもそういうのを「あら〜」と言うことが多い。【あら亡者(ぼとけ)、あら齋(どき)、あら火などだ。】「城(き)」は墓(おくつき)の「き」と同じ。新たに死んだ遺体を、一旦収めて置くところを「あらき」と言って、天皇などの場合は、その宮を「あらきの宮」と言う。【今、伊勢の私の郷里松坂の習慣では、人が新たに死んだ家では、細い竹あるいは葦などの長さ二、三尺ほどのものを適当に束ね、縦にして杭に結わえ付け、二、三日ほど門口に立てておき、新喪の徴とする。その名を「あらかき」と言う。これは「荒城」と同じ意味だろう。こういったことは、もっとよく諸国の風俗を尋ねれば、古い習慣や言葉が遺っていることが多いだろう。】書紀の允恭の巻に「殯宮の大夫(かみ)玉田宿禰云々」、【「かみ」は、殯を司る職である。】また「殯宮に参集し」、敏達の巻に「天皇が崩じた。殯宮を廣瀬に建てた」、推古の巻に「天皇が崩じた。南庭で殯を行った。・・・殯宮で誄(しのびごと:追悼の辞を述べること)を行った」、舒明の巻に「天皇は百濟の宮で崩じた。宮の北で殯した。これを百濟の大殯と言う」、天智の巻に「天皇が崩じた。新宮で殯した」、天武の巻に「天皇が崩じた。殯宮を南庭に建てた」などがある。【これらを見ると、殯宮は宮の中にも造られ、他のところに造られることもあったらしい。大荒木の森などというのも、いにしえの天皇の大殯宮の跡なのかも知れない。<訳者註:大荒木の森は、現在の京都市伏見区淀にある與杼神社付近の森とされるが、その與杼神社の伝承では、旧社地の宮前橋右岸にあった森だと言う。>ところで殯は、書紀などではみな「もがり」と読んでいる。ある人の説で、「これは『喪あがり』のことだ。仲哀紀に『无火殯斂、これをホナシアガリと読む』とある」という。その説が正しいだろう。師はこの仲哀紀の注によって、殯をすべて「あがり」と読んだ。万葉考で「『あらき』は、『あら』は仮の意味、『き』は『かり』が縮まった語で、もとは『あがり』と同じ言葉である」と言ったが、疑問だ。「あらき」と「あがり」とは別の言葉だろう。ただし「殯」と書いてあるのをどちらに読んでも、間違いではない。殯宮を「あがりのみや」と読むのも間違ってはいない。だが、これはそう読むより、「あらきのみや」と読む方が、正当だろう。用言(動詞)として「殯す」などとあるときは、「あがりす」と読んでよろしい。「あがり」の意味は、天皇の崩を「神上(かむあがり)」と言い、これは底津根の国、黄泉の国に行ってしまったことを直接に言うことを忌み憚って、その反対に天上に上がったと表現したのだ。例の僧を髪長と言い(伊勢神宮の忌み言葉)、葦を「よし」と反対に言う(「あし」は「悪し」に通じるので、「良し」と言った)のと同様だ。天皇だけでなく皇子たちにも「天所知(あめしらす)」などと言い、普通の庶民でもそういった言い方をすることがあるのは、みな同じだ。とすると、人の死んだときに行うことも、天に上がるときの事として、「あがり」と言うのだ。師は「遠江の人は、今も人が死んで三日目にすることを『三日のあがりをする』と言う」と言ったが。京などではこれを『しあげ』と言う。これも天に送り上げるということで、やはり同じである。こういう風に人が死ぬことを「上がる」と言うのから転じて、何かが成り終わるのを「出来上がる」、何かを成し終わるのを「仕上げる」などと言うことが多い。また病気が治ったことを「やみあがり」、雨が止んだのを「あまあがり」などと言うたぐいも多い。「下ろす」ということを「上がる」と言うことも多い。「膳を上がる」、また神への供え物を下ろすことを「上がる」と言うたぐいだ。これは天皇の位について「下ろす」、「下りる」と言うのを忌んで、その反対を言うのだろう。また仕事を終わって退出することを「上がる」とも言うが、それは「散(あが)る」の意味かも知れない。】万葉巻二(151、152)に「天皇の大殯の時」と見え、「日並皇子(ひなしのみこ)の尊の殯宮の時云々(167)」、「高市皇子の尊の城上(きのえ)の殯宮の時云々(199)」、明日香皇女の木ヘ(瓦+缶)(きのへ)の殯宮の時云々(196)」などもある。【師の考には、「天皇以外は、特別に殯宮を建てることはなかった。これらは一周忌まで宮仕えする間を殯としたのだ」とある。思うに、天皇以外は殯宮を建てられなかったという証拠はないけれども、「殯宮」と書いてある以上、新たな宮を建てることはなかったとしても、それを殯宮と呼んだことは明らかだ。孝徳紀の定めに「およそ王以下、庶民に至るまで、殯を営んではならない」とあるのに依れば、皇子は殯を行ったわけである。またこの定めができる前には、王以下も殯を行ったのだろう。上記のように「殯宮の時」と言ったのは「喪の時」と言うのと同じで、必ずしも遺体が殯宮にあった時点を言うのではない。だから端書きに上記のように書かれた歌は、もう葬った跡のことまで詠んでいる。とすると師が「一周忌まで」と言ったのは当たっている。】斉明紀に「皇孫建王(たけるのみこ)は、八歳で薨じた。今城の谷の上に殯宮を建てて収めた。・・・詔して『万歳千秋の後は、私の陵に合葬してもらいたい』と言った」とある殯は、詔によると、この天皇が崩じて合葬するまで収めておく場所のようだから、(仮の墓所であって)、普通の殯とはたいへん違ったものだっただろう。○坐は「ませまつりて」と読む。そのことは玉垣の宮の段に「御子を檳榔(あじまさ)の長穂の宮に坐(ま)せて」とあったところ【伝廿五の三十四葉】で言った。書紀には「(九年二月)皇后と大臣武内宿禰は、天皇の喪を隠して天下に知らせず、皇后は大臣及中臣烏賊津連(なかとみのいかつのむらじ)、大三輪大友主君(おおみわのおおともぬしのきみ)、物部膽咋連(もののべのいくいのむらじ)、大伴武以連(おおとものたけもつのむらじ)に詔して『今、天下は天皇が崩じたことをまだ知らない。もし百姓がこのことを知れば、仕事を怠るかも知れない』と言い、この四大夫に命じて、百寮を監督させ宮中を守らせた。ひそかに天皇の遺体を収めて、武内宿禰に託し、海路を穴門に運ばせた。豊浦宮で殯を行い、无火殯斂(ほなしあがり)をした。甲子、大臣武内宿禰は穴門から帰り、皇后に復奏した。この年は新羅の役があったため、天皇を葬ることができなかった」とある。○更(さらに)は、また改めてということで、「請2神之命1」に係る。○國之大奴佐(くにのおおぬさ)。国は後の「國之大祓」の国と同じで、諸国のということだ。ただし「ここは筑紫の国々を言ったか」と師が言ったのももっともだ。【こう言う時、そのままなら天下の諸国だが、ここは筑紫(九州)の国々でもあり得るし、筑紫一国でもあり得る、どれと決めることはできない。】国中のということだ。「大」とは大祓えの「大」と同じく、広く国中から取ったから言う。「ぬさ」は、神に手向けるものを言う。【万葉の歌に詠まれているのは、みな神に手向ける「ぬさ」である。だから幣とも幣帛とも書いてある。】また祓えに出すものを言う。この名は「祷(ねぎ)ふさ」で、【「ねぎふ」を縮めると「ぬ」になる。】何かを請い祷(ね)ぐために出す意味だ。祓えの「ぬさ」も、その罪の穢れ除き清めてくださいと祷(ね)ぐ意味で出すから、神に献って祷ぐのと、意味は同じである。「ふさ」は「麻」である。古語拾遺に「良い麻の取れるところだったので、總國(ふさのくに)と言う。古語に麻を『ふさ』と言う。今は上總國、下總國の二国になっている」とある。【麻を「ふさ」と言ったことは、この他には見えないが、「總國」という名から考えると、実際そうだっただろう。】神に手向けるのも祓えに出すのも、物は種々あるうち、特に麻を名に付けて言ったのは、その中でも主要な物だからだ。この語を即ち「麻(ぬさ)」と書くのもこのためだろう。【後に引用する神祇令で、各戸別に出す物は麻一種であることでも、これが主要なものだったと分かる。皇太神宮儀式帳に、三祭の十六日、西の川原の祓えの儀を書いたところで、「各々ぬさ麻を持たせて、まず宮の東を向いて全員を立たせ、その人ごとに神の館および自分の住む家の穢れの様々なことを申し立て、明らかにして、御巫内人に各人が持つぬさ麻を一條分与える。御巫内人はそれを取り集めて、その人ごとに申し立てた穢れのことを詳しく伝えさせ云々」とあるのも麻である。「ぬさ麻」というのはぬさとして出す麻のことである。【ぬさと麻の二つということではない。】ここの「ぬさ」は、大祓えに出す祓物(はらえつもの)である。祓物については上巻の千位置戸(ちくらおきど)のところ【伝九の一から九葉】で言った。参照して、いにしえの大ぬさの意味を知ると良い。【ところが今の京になった頃には、大祓えに大ぬさというのは名前だけで、いにしえのとは大きく変わり、もとの意味はなくなってしまった。貞観儀式の大祓えの條に「神祇官は切麻(きりぬさ)を分けて・・・祓い終わって大麻(おおぬさ)を行う。次に?五位以上の切麻をすっかり散らし去って」とある。「次に」の後の字は、私が見た本はどれも不確かである。「テン(てへん+展)(拭う)」あるいは「テン掇(てへん+綴のつくり)(拾い取る、または両手で運ぶの意味か)」などではあるまいか。<訳者註:神道大系の朝儀祭祀編1「儀式・内裏式」では「禳」を書き、傍注に「撒イ」とある。北山抄と江次第の同じ箇所ではいずれも「撒」とあるから、それを正しいとしたようだ。その場合は「五位以上の切麻をまき散らし、すっかり散らし去って」ということになるだろう。>「大麻を行う」というのも、どういうことなのか、よく分からない。江次第の同じ條に「次に大麻を行う」とあり、細書きに「神祇官の人以下はこれを執り、上卿以下の座の前にこれを引く。上卿、辨大夫、諸司の料はそれぞれ異なる。西宮抄にいわく、上卿の料は祐が引く」とある。また古今集の歌(706)に「大麻の引手あまたになりぬれば云々」、顯昭いわく、「大麻は、祓えをするのに、陰陽師の持つ串に刺した『しで(紙で作った御幣)』である。祓えが終われば、各々これを引き寄せて撫でるものだから云々」と言う。この説を採ると、「引手あまた」と言うのは、江次第に「座の前にこれを引く」とあるのとは別のことである。混同してはいけない。また公(朝廷)の大祓えの大麻という名を借りて、一般人が個人で行う祓えにも大麻と言うかも知れないが、「大」と言うのは適切でない。ただし師が冠辞考で「『引手あまた』と詠んでいる大麻は、大きなぬさである」と言ったのを採るなら、儀式などに大麻とあるのも、切麻などに対して大きいという意味の名で、いにしえの大ぬさとはもともと違ったものなのか、定かではない。とにかく、いにしえに大ぬさと言ったものは、中昔以降のものとはずいぶん違ったものである。また神事で、榊の枝に麻と紙を垂れたのも「ぬさ」と言う。この紙は木綿(ゆう)の代用である。神社から授かる御祓の大麻というものは、木綿と麻を串に挟んだ形で、これにも紙を代用にする。】<訳者註:現在行われている切麻は紙を細かく切り、米と混ぜて撒き散らす。この紙は麻の代用で、もとは麻を細かく切った物を用いた。大麻は大きな串に多数の紙垂を取り付けたもので、台が付いて自立していたようだ。これを各人が自分の方に引き寄せて、体を撫でたのだろう。>○取(とりて)とは、神祇令に「およそ諸国で大祓えを行う場合は、郡ごとに刀一口、皮一張、鍬一口、および雑物など、戸別に麻一條を出す。その国造は馬一匹を出す」とあるように、各郷、各戸から祓物を出させて取ることを言う。【そうやってその国の人民の、それぞれの穢れを祓うのである。】天武紀に「五年八月、詔して『四方の国々は大解除(祓え)を行え。用いる物は、国毎に国造は祓えの馬一匹、布一常(きだ)を出し、その他の郡司はそれぞれ刀(たち)一口、鹿の皮一張り、钁(くわ)一口、刀子(かたな)一口、鎌一口、矢一具、稲一束、また戸別に麻一條を出せ』」、「十年七月、天下に命令してことごとく大解除を行わせた。この時国造たちはそれぞれ祓えの物として奴婢一人を出して祓えを行った」などと見える。ところが今の京になった頃からは、戸別、人別に祓えの物を出すことはなくなったと見えて、貞観儀式や延喜式にもそういうことは見えない。貞観儀式に「神祇官は祓物を朱雀門の前の道の南に、六ヵ所に分けて置く。ただし馬はその南方に、北向きに立たせる」とあるが、これらのものは神祇官から出して置くのである。四時祭式【六月、十二月の晦日の大祓えの條】に挙げられた種々の物は、上記の六ヵ所に分けて置く祓えの物だろう。また別に大麻、切麻というのがあるが、いにしえのものとは様子が違う。【上記の通りである。】ただし、神官や神事に違犯のあった人は、その時すぐに祓を科して、物を出させたことは、中昔までその法があった。【延暦廿年五月の太政官符に、「犯科に応じて祓のことを定める。一。大祓えの料の物二十八種。馬一匹、大刀二口、弓二張り、矢二具、刀子六枚、木綿六斤、麻六斤、庸布六段、鍬六口、鹿皮六張り、猪皮六張り、酒六斗、米六斗、稲六束、鰒六斤、堅魚六斤、雑セキ(月+昔)六斤、鹽六升、海藻六斤、滑海藻六斤、食薦六枚、薦六領、坏六口、盤六口、柏十五把、匏四柄、楉四枚、席一領、上記は大嘗祭のことを怠り、または同じ齋月(いみづき)に喪を弔い、病を見舞ったり、死刑文書に署名したり、罰を決め、肉を食うなど、穢れのあることに関わった者は、大祓えを科す。種々の輸物(任意で出す祓えの物を言うか)は、すべて前の件に準ずる。官人に違犯があれば、これに加えて現在の任を解く。一。上祓えの料の物二十六種。大刀一口、弓一張り、矢一具、刀子二枚、木綿三斤、麻三斤、庸布三段、鍬三口、鹿皮三張り、酒三斗、米三斗、稲三束、鰒三斤、堅魚三斤、雑セキ(月+昔)三斤、鹽三升、海藻三斤、滑海藻三斤、食薦三枚、薦三領、坏四口、盤四口、柏十把、匏二柄、楉三枚、席一領。上記は新嘗祭、鎭魂祭、神嘗祭、祈年祭、月次祭、神衣祭などのことを怠り、伊勢大神宮の禰宜・内人に乱暴を働き、御膳のものを穢し、また新嘗祭などの諸々の齋日に喪を弔い、病を見舞ったなど六種の禁忌を犯した者は、上祓えを科す。輸物は上記と同じ。一。中祓えの料の物二十二種。刀子一枚、木綿一斤、麻一斤、庸布一段、鍬一口、鹿皮一張り、酒一斗、米一斗、稲一束、鰒一斤、堅魚一斤、雑セキ(月+昔)一斤、鹽一升、海藻一斤、滑海藻一斤、食薦二枚、薦二領、坏四口、盤四口、匏一柄、柏五把、楉二枚。上記は大忌祭、風神祭、鎭花祭、三枝祭、鎭火祭、相嘗祭、道饗祭、平野祭、園韓神、春日の祭りの事を怠り、物忌の戸・座・火を犯し、物忌みの女を犯し、その他穢れあるものに触れて御膳所に預かり、または忌火などの祭の齋日に祝・禰宜や祭のことに預かる神戸の人に乱暴を働き、喪を弔い、病を見舞ったなど六種の禁忌を犯した者は、中祓えを科す。輸する物は上記と同じ。一。下祓えの料の物二十二種。刀子一枚、木綿六両、麻六両、庸布一段、鍬一口、鹿皮一張り、酒四升、米四升、稲四把、鰒六両、堅魚六両、雑セキ(月+昔)六両、鹽四合、海藻六両、滑海藻六両、食薦一枚、薦一領、坏二口、盤二口、匏一柄、柏五把、楉二枚。上記は諸々の祭祀を怠り、齋日に祝・禰宜や祭にあずかる神戸の人に乱暴を働き、諸々の禁忌を犯した者は、下祓えを科す。輸物は上記と同じ。以前右大臣が述べられたように、これらの神事に禁じられたことを犯した者は、祓えを科して罪をあがなうのに、善悪の二つの祓えを一人に負わせる。條例はすでに煩瑣であり、輸物も多い。事をあまり細かく定めても、人々を損なうだけである。さて今罪に対し寛大に扱うか厳格に扱うかは、例を立てること件の如くである。人を傷つけることが甚だしければ、祓い清める他に、法によって罪を科す。齋外で闘打した者は律によって科を決する。祓えの範囲ではない。また禰宜などが人と闘争し、またはその他の罪を犯して科を決すべき場合は、まずその任を解き、すぐに処罰を決める。神戸の百姓で罪を犯した者は、齋を行っている時以外であれば、罪は法によって決する。今奏状をそなえて奏聞するのは、勅を奉るようにとの要請による(天皇に代わって大臣などが勅命として出したということか)」と類聚三代格に見える。ここに「大祓」とあるのは、大中小と分類された内の「大」であって、「国の大祓え」といった意味ではない。混同しないように。齋宮式にも「およそ雑色人以上で、人と闘争する者は、上祓を科す。およそ寮官諸司および宮中の男女で、仏事を修めたり、和姦・密婚した者は、中祓を科す」などと見え、三代実録十一に「内膳の典膳、雀部朝臣祖道(おやみち?)は司(役所)中で人が死んだ穢れを隠した。そこで上祓を科した」とある。これは神事ではなかったが、穢れの事による罪だったから祓えを負わせたのである。日本紀略に「寛弘七年九月廿五日庚子、大原野の社の近くを葬送の輩が通った。そこで(神社の)預かりたちに大祓えを負わせた」ということなどが見える。】○生剥逆剥(いきはぎ・さかはぎ)。【「生」は「いき」と読む。「いけ」と読むのは間違いである。】師の祝詞考にいわく、「古事記に『その服屋(はたや)の天上に穴を明けて、天斑馬(あめのふちこま)を逆剥ぎに剥いで落とし入れた』とあるのがそうだ。生剥は生きながらにして皮を剥ぐのだ。逆剥も同じことではあるが、こう重ねて言うのは古文のあやである。こういう風に言った例はたいへん多い。生剥の逆剥だと思って良い。【ある人が逆剥を『死んだ馬の皮を剥いだのだ』と言ったが、間違いである。いにしえも今も、死んだ獣の皮を剥ぐのは普通のことで、罪とはしないのだから、どうしてこの罪の條に入るだろうか。】」とある通りである。【ただし死んだ獣の皮を剥ぐのは普通のこと、とあるのは注意が必要である。この罪は生きていようと死んでいようと、皮を剥いだことを罪としたのではない。生きながら皮を剥いだ馬を落とし入れて、忌服屋を穢したので罪としたのである。】古語拾遺にも生剥逆剥とあり、細注で「生きながらに馬を逆剥ぎにする」とある。【とすれは「生剥の」と「の」を添えて読む忌みではあるが、この天津罪・国津罪の條は、みな罪の名目を言っているので、みな言葉を短く言っている、ここだけ「生剥の逆剥」と言ったのでは、他の例と違ってしまうので、おのずと二つのことのように言い習わしているのである。】「逆剥」とは、尾の方から首の方へ、逆さに剥ぐのである。【獣の皮を剥ぐにはみなそうするので、普通のことだから、単に「剥ぐ」と言っても同じことなのだが、特にこう言ったのは、例の文の綾である。】書紀の神代巻に「天斑駒を剥いで云々」、一書に「斑駒を逆剥ぎにして云々」とある。○阿離溝埋(あはなちみぞうめ)は、書紀の神代巻には「春は重播種子(しきまき:種を蒔いた上に更に蒔いて成長を妨害する)し、またその畔を毀し(あはなち)、秋は天斑駒を放って田の中に伏さしめ(て成った稲を踏みにじらせる)、云々」、一書に「春は溝を埋め、畔を毀し、また秋に穀物が成れば畔縄を(勝手に)引き渡し、云々」、また一書に「春は廢渠槽(ひはがち:用水の樋を壊す)、また溝を埋め、畔を毀し、また重播種子し、秋は挿籤(くしざし:田に杭を打って勝手に自分の土地だと主張する)し、馬を田に伏さしめ、云々」などとある。このように種々の悪行があるが、ここではその一部を挙げて、その他のことも兼ねている。○屎戸は「くそへ」と読む。【「屎」を「くし」と読むのは「くそ」と言うことを忌み避けたのだが、後世のことである。いにしえには、そんなことはなかった。書紀にも「送糞、これを『くそまる』と読む」とある。「戸」を「と」と読むのもよくない。<訳者註:書紀が完成した直後にはすべてが声に出して読まれただろうが、次第に宮中では汚穢に属する言葉は読まれないようになったようである。釈日本紀には、「ここは口では読まず、目で見るだけにする」という部分が各所にある。>】これは上巻に「またその大嘗をきこしめす殿に屎まり散らした」とあるのがそうだ。「戸(へ)」は【字は借字】「へり」の「り」を省いたので、【このように活用する「り」を省く例は多い。「知(しり)」を「し」、「渡(わたり)」を「わた」と言うたぐいだ。】つまり「まり散らす」ということである。和名抄に「痢(下痢)は『くそひりのやまい』」、【また「放屁は和名『へひる』」と見え、嚔(はなひる)の「ひる」も同言だ。俗言で、屎の水分の多いのを「びりくそ」とも言う。】この「ひり」と通って同言である。今の世の俗言で、小さい虫などが物に卵を産み付けるのを「へりつける」などと言うのと同じだ。【昔から、この「戸」を「へ」と読むことを知らず、古語拾遺の細注に「屎を戸に塗りつける」などと言っているのは誤っている。その他にも「戸」を文字の意味に取った説は、みな当たっていない。師は「處」の意味に取って、「屎をするところ(くそど)にした」と言ったが、屎處とだけ言ったのでは言葉が足りない。しかもここに挙げられた罪状は、みなその行為を言っている。「剥ぎ」、「埋め」、「離ち」、「婚(たわ)け」などだ。とするとここもそれと同様に、その行為を言ったのは間違いない。これだけが違う(場所を言う)ということはない。】ところで、生剥からここまでは、みな須佐之男命が犯した罪で、上巻に見える。考え合わせよ。【伝八の初め】大祓の祝詞に「國中爾成出武天之u人等我、過犯家牟雜々罪事波、天津罪止、畔放、溝埋、樋放、頻蒔、串刺、生剥、逆剥、屎戸、許々太久乃罪乎、天津罪止法和氣弖、(くぬちになりいでんあめのますひとらが、あやまちおかしけんくさぐさのつみことは、あまつつみと、あはなち、みぞうめ、ひはなち、しきまき、くしさし、いきはぎ、さかはぎ、くそへ、ここだくのつみを、あまつつみとのりわけて)」、【これらはみな天上で犯された罪だから天津罪と言う。儀式にもこの種々を挙げて「以上は天津罪」とある。師の考察では、「この七つの罪は須佐之男命が犯した罪なので、後に国人が犯したのも、同じ種類であれば天津罪と言う」ということだ。】皇太神宮儀式帳には「天津罪止所始志罪波、敷蒔、畔放、溝埋、樋放、串刺、生剥逆剥、屎戸、許々太久乃罪乎、天津罪止告分天、(あまつつみとはじまりしつみは、しきまき、あはなち、みぞうめ、ひはなち、くしさし、いきはぎさかはぎ、くそへ、ここだくのつみを、あまつつみとのりわけて)」とあり、古語拾遺には「いわゆる毀畔【古語アハナチ】、埋溝【古語ミゾウメ】、放樋【古語ヒハナチ】、重播【古語シキマキ】、刺串【古語クシサシ】、生剥逆剥、屎戸」【生剥以降には「古語云々」の注がないのはどういうことだろうか。】とある。○上通下通婚は、【旧印本また一本では「下通」の二字が落ちている。ここでは真福寺本、延佳本によった。それを採ると、「上通」の下にも「婚」の字があったのが落ちたかとも思えるだろうが、「婚」の字は、最初から一つだけだったのだろう。】「おやこたわけ」と読む。【この記の書き方からすると、「おやこたわけ」なら「祖子婚」と書くのが当然で、「上通下通」などとは書くはずもない。とすると他の読み方がありそうに思われるが、さらによく考えると、ここに挙げられた種々の罪は、みな名目だから、これもまた名目に違いない。それを文字のとおりに読むと、他の例と違っておかしくなる。しかし親と子のことを「上下」などと言うのは古言でない。とすると、この字は意味を取って書いただけで、言葉は文字に無関係なのだろう。「婚」の字が「上通」の次にはなく、最後に一つあるだけなのも、「上通下通」の「婚」という形で、この後の四つの「婚(たわけ)」と同じような読み方をするからだ。】「たわけ」は、性交してはならない相手と性交することだ。新撰字鏡に「カン(へんは女を縦に二つ、つくりは干)はヨウ(女+謡のつくり)を犯すことである。『たわく』」、【また「ヨウは『たわる』」とも見え、万葉巻廿(4487)に「多波和射(たわわざ)」とあるのも、もとは同言である。】と見え、書紀ではヨウの字、カンの字(いずれも上記と同じ字)、また「娶」、「婚」も、交わってはならないのに性交した場合には、みな「たわく」と読んでいる。この罪は儀式や大祓の祝詞に「己母犯罪、己子犯罪、母與子犯罪、子與母犯罪(おのがははおかせるつみ、おのがこおかせるつみ、ははとことおかせるつみ、ことははとおかせるつみ)」とある四種を合わせて言っている。【ただし種々の罪状は、省略して言っていることが多いから、この四種のうちでは上の二種だけを言って、下の二種は言っていないとも考えられる。皇太神宮儀式帳などでは、上の二種だけを挙げ、下の二種を省いている。とすると、これを四種と考えても二種と考えても、違っているわけではない。「上通」とは「己母犯罪」、「下通」は「己子犯罪」に相当し、また「子與母犯罪」は「上通」で、「母與子犯罪」は「下通」に含まれるのだろう。この四種のうち、「母與子犯罪」は、通じた女の娘をも犯すことを言う。「母」は、その娘の母を言うのである。これを師は「他人の母を犯し、またその娘を犯すのだ」と言ったが、「他人の母」と言うと、他人の母である女性を犯す罪のように聞こえて疑問だ。その意味なら「人の母」とあるはずで、単に「母」と言っただけでは分からない。次に「子與母犯罪」というのは、性交した女の母をも犯すことを言う。「子」は、その母に対して言うのである。仁賢紀(六年秋)に「住道(すむち)の人、山杵(やまき)は、玉作部のフナ(魚+即)魚女(ふなめ)に奸(たわ)けた<訳者註:山杵はフナメの娘の哭女(なくめ)を娶って飽田女(あくため)という娘を生んだ。ところがそれ以前にフナメに通じて、麁寸(あらき)という子を生んでいた。更にこの飽田女が麁寸に嫁いだため、親子・兄弟関係が複雑になった、という奇談。>」とあるのはこの罪である。上二種で「己母」、「己子」と「己(おのが)」を添えて言っているのは、下二種の母子と区別するためである。この四種をこう言い分ける仕方は、古語でも特に優れている。後世の人は、このように簡潔明瞭に言い分けることはできない。】これを「親子婚(おやこたわけ)」と言えば、四種全部を含んでいるように聞こえる。○馬婚は「うまたわけ」、○牛婚は「うしたわけ」、○鷄婚は「とりたわけ」と読む。【上巻の八千矛神のうたに「かけ」とあるが、ここをそう読むのは似つかわしくない。鶏を単に「鳥」と呼ぶのは普通のことだ。「東(あずま)」の枕詞の「とりがなく」というのを、万葉では「鶏之鳴(とりがなく)」と書いている。】○犬婚は「いぬたわけ」と読む。すべて生剥からここまでの種々の罪の挙げ方は、みなその罪の名目だから、どれもその意味で体言(名詞)に読む。【剥(はぎ)、離(はなち)、埋(うめ)、戸(へ)、婚(たわけ)などはどれも用言(動詞)だが、名目になればどれも体言になるので、その読み方も変わる、そもそも罪状を名目に呼ぶ場合は、今の世でも「人殺し」、「火付け」、「贋銀爲(にせがねし)」、「関所破り」などと言うのと同様だ。この罪状もみなその意味合いに読む。ところで「阿離(あはなち)」は「畔(あ)を離ち」という意味で、「馬婚(うまたわけ)」も「馬にたわけ」ということだが、名目に呼ぶ場合は「を」、「に」などは省くのが、いにしえも今も同じ定めである。たとえば舟に乗ることを「舟乗り」、山に伏すことを「山伏」というたぐいだ。そのためここには「離レ阿(あをはなち)」とは書かずに「阿離」、「於レ馬婚(うまにたわけ)」あるいは「婚レ馬(うまにたわけ)」などと書かずに「馬婚」と書く。名目であることは、これでも分かるだろう。】この四種の畜類は、人家で飼い、親近感があるものだから、【天武紀の制令に「牛・馬・犬・猿・鶏の肉を食べてはいけない」とある。<訳者註:現代人は、ここに犬・猿が含まれているのを奇妙に思うだろうが、これらも江戸時代初期までは普通に食べられており、庶民にとってはごちそうだった。犬を食べなくなったのは、「生類憐れみの令」以降だという。>】奸(たわ)ける者もいたのだろう。【日本紀略に「応和二年四月十九日丙午、齋院で禊ぎを行った。この日出雲守、橘泰胤(やすたね?)の宅の下男が犬と交わった」とある。】大祓の祝詞に「國津罪止波、生膚斷、死膚斷、白人、胡久美、己母犯罪、己子犯罪、母與子犯罪、子與母犯罪、畜犯罪、昆虫乃災、高津~乃災、高津鳥乃災、畜仆志、蠱物爲罪、許々太久乃罪出武(くにつつみとは、いきはだたち、しにはだたち、しろびと、こくみ、おのがははおかせるつみ、おのがこおかせるつみ、ははとことおかせるつみ、ことははとおかせるつみ、けものおかせるつみ、はうむしのわざわい、たかつかみのわざわい、たかつとりのわざわい、けものたおし、まじものせるつみ、ここだくのつみいでん)」、【この国津罪の各條は、昔からいろいろに解説されているが、当たっていないことが多い。それは誰もいにしえの意を知らず、「つみ」という言葉の意味も深く分かっておらず、単に「罪」という字の意味で解釈するからだ。「つみ」という言葉の意味は、次に詳しく言う。考え合わせよ。ここに挙げられた国津罪には、穢れ、悪行、災いの三種類がある。生膚斷から胡久美までは穢れだ。生膚云々も、膚を傷つけた穢れを言っており、殺したという罪を言うのではない。白人は「白はたけ(皮膚病の一種で、部分的に皮膚が脱色して斑紋状になる)」のたぐい、胡久美は肉種や瘤(古代には、特に顔面にできるのを言ったと思われる)のたぐいで、いずれも和名抄に見える。これらも穢れだから入っている。儀式の大嘗祭の條で、忌むべき所六條の中に「穢惡に預かること」とあり、細注に「祓えの祝詞に言う天津・国津の罪のたぐいは、みな~の所穢(きたなみたまうところ)、所惡(にくみたまうところ)である」とあるから、この罪の條では「穢れ」を取っていることが分かる。次に己母犯罪から畜犯罪までは悪行で、昆虫、高津~、高津鳥は災である。高津~の災いというのは、落雷に打たれて死ぬたぐいを言うのだろう。高津鳥は空を飛ぶ鳥で、昆虫と似たたぐいの災いである。大殿祭の祝詞に「天乃血垂飛鳥禍無久(あまのちだるとぶとりのわざわいなく)」とあるので理解せよ。「高」は空を言う。上代には、民の家などはごくお粗末な造りで、野山に住んでいたから、昆虫の災いも多かったことは、神代紀に「大己貴命は少彦名命と協力して、鳥獣、昆虫の災いを除くため、禁厭(まじない)の方法を定めた」とあるので分かる。災いも罪であることは、この後に言うことで理解せよ。畜仆云々は、また悪行を言っている。しかし前の悪行に続けて言わず、災いを挙げた後に、また別に挙げたのは、前のとは種類が違うからだろう。前のは人を傷つける行為ではなかったが、ここにあるのは人を傷つける行為だからだ。この三つの違いは、言葉を変えているのでも分かる。穢れは何々と名目を挙げているだけだが、悪行は何々の罪と言い、災いは何々の災いと言って三種に分けている。文脈を考えて理解せよ。師の考察に、白人・胡久美を「新羅人高句麗のこと」として、「美」の字を「麗」の誤りだとし、己母犯以下の四種の罪を、それらの国人が皇朝に入朝したのを「犯した」と言ったのだとして、「皇朝の人には母子相姦などといったことは仮にも聞いたことはないから、白人・胡久麗は、母子相姦のことに掛けて言ったのである」と言ったが、納得できない、「美」の字を「麗」の誤りとは言えない、儀式にも「故求彌(こくみ)」、皇太神宮儀式帳にも「古久彌(こくみ)」とあるからだ。また「皇朝の人に、母子相姦といったことは聞かない」といっても、それがないとは断定できないだろう。下賎の人々の間でそういうことがあったとしても、何の書くべき事情もないのに、そうした内々の些事を古記に書くはずもない。「聞いたことがない」というだけで、そんなことはなかったという証拠にすることはできない。】貞観儀式には、上記のうち高津~乃災と高津鳥乃災の二つがなく、他は同じ。皇太神宮儀式帳では「國都罪止所始志罪波、生秦斷、死秦斷、己母犯罪、己子犯罪、畜犯罪、白人、古久彌、川入、火燒罪乎、國都罪止定給弖、犯過人爾、種々乃令2祓物出1天、祓清止定給支(くにつつみとはじまりしつみは、いきはだたち、しにはだたち、おのがははおかせるつみ、おのがこおかせるつみ、けものおかせるつみ、しろびと、こくみ、かわいり、ほやけのつみを、くにつつみとさだめたまいて、おかしあやまつひとに、くざぐさのはらえつものいださしめて、はらいきよめとさだめたまいき)」、【これに白人、古久彌が己母犯罪云々より後に述べられているので、新羅・高麗人のことでないのは明らかだ。川入は川で溺死すること、火燒は焼死することで、これらも穢れである。ある説でこれを「かわいれ・ほやき」と読んで、「人を川に沈め、あるいは火で焼き殺すことだ」と言ったのは、穢れを罪としたことを知らないで、例の強説を述べたのだ。「國都罪止所始志罪波」とあるのは、これらの罪状は御孫命が天降って後、こうした罪が発生したので、永く国津罪の條目になったからではないだろうか。】○罪類(つみのたぐい)。「つみ」は「つつみ」が縮まった語であり、古語に「つつみなく(万葉894など)」、「つつまわず(万葉4331など)」などと言う「つつみ」と同じく、諸々の凶事を言う。【「つつむ」は「つつしむ」と同じだが、「つつしむ」は凶事がないように、凶事を起こさないようにとする方に言い、「つつむ」は凶事を表沙汰にしないように隠す方に言う。また「つつみなく」などは凶事がないことを言う。これらは、それぞれ異なるようだが、元は同じである。】それは悪行だけを言うのではない。穢れや禍など、故意に行うことでなく、厭い悪むことはみな罪と言う。【それを世の人は、「罪」という字の意味にこだわり、ただ故意に行う悪行だけを罪と思って、「つみ」とう言葉の本義を知らないので、祓えに挙げられた罪状には納得できないことが多く、誤った解釈をしてしまう。「罪」という文字は、悪行について当てたもので、「つみ」というものすべてには当てはまらないことが多い。この字の意味だけで解釈してはならない。物語書などで、人の容貌に欠点がないのを「罪なし」と言うことが多い。これは中昔まで古意が残ったのだ。それを「前世に悪業の罪がなかったから、容貌美しく生まれた意味だ」などと説くのは、非常な強説だ。また禍に遭うのを罪としているのを「おのれの行った罪に報いがあったのだ」などと言うのも同様のこじつけである。これも「罪」という字の意味に取るからだ。】「類」というのは、これらに挙げた種々の罪だけでなく、他にも多いのを包含して言ったのであって、前記の大祓の祝詞に「許々太久乃罪出武(ここだくのつみいでん:多くの罪が現れ出るだろう)」とあるのと同様だ。【その文も、そこまでに挙げた罪状の他に、具体的に挙げなかった罪はもっと多いので、そう言ったのだ。】ここに国津罪として奸(たわけ)のたぐいを馬牛鶏犬まで具体的に列挙し、「たわけ」以外の他の罪も多いだろうに、それらは省いて挙げなかったのは、【疑問に思う人もあるだろうが、】古文の技巧の美しさである。それは他の罪をわざと省いて、「たわけ」だけを具体的に挙げることで、他の罪も、それぞれ具体的に挙げるともっと多くあることを思わせたのである。【他の罪が一條もないことに注意せよ。】とすると、ここの「類」というのは、ここに述べられた罪状の類を言うのではない。普通これらの「たわけ」などと並べていうような種々の罪、ということである。○種々求(くさぐさまぎて)とは、国中の人々で天津罪、国津罪種々のうち、どれであれ犯したことがあれば【穢れ、災いも、そういうことがあれば犯したことになる。】探り求めて、ということだ。大祓の祝詞にある「許々太久乃罪出武」も、そうやって探り求めれば、犯された種々の罪が数多顕れ出ることを言う。【いにしえの人は心がまっすぐだったから、何か覚えがあれば、大祓の時などには、隠すことなく申し出た。顕わし告白すればその罪は祓えによって除かれ清められるが、顕わさなかったら清められないからだ。】○國之大祓(くにのおおばらい)。「国の」と言い「大」というのは、「國之大奴佐」のところで言ったように、国中悉くについての祓だからだ。【毎年の朱雀門前の大祓も、百官(もものつかさ)全員について行うので、大祓と言う。】書紀の天武の巻に、「五年八月、詔して、『四方(よものくに)で大解除(はらえ)を行え。用いる物は即ち云々』」、【上記で引用した。】また「七年、この春天神地祇のために祭祀を行い、天下ことごとく祓えをした。云々」、また「十年七月、天下に令を発して、悉く大解除を行わせた。云々」、【これも上記にある。】また「朱鳥元年七月、諸国に詔して大解除を行わせた」、続日本紀に「文武天皇の二年十一月、使いを諸国に遣わして、大祓を行わせた」、また「大宝二年十二月壬戌、大祓を中止した。ただし東西の文部(ふひと)の解除(はらえ)はいつも通りに行った」、「慶雲四年正月、諸国で疫病が流行ったので、使いを遣わして大祓を行った」、文徳実録に「嘉祥三年四月辛亥、凶服を除く(喪が明ける)ため、まず大中臣の氏人を五畿内七道の諸国に派遣して、大祓を行わせた」、【大嘗祭式に「およそ大祓の使者は、八月上旬に卜い定めて差し遣わす。左右の京に一人、五畿内に一人、七道に各一人、下旬、さらに祓の使いを卜い定めて、差し遣わす。左右の京に一人、五畿内に一人、近江伊勢の二国に一人、在京の諸司は、晦日に集まって祓を行う。それは二季の儀と同様に行う」とある。】「癸丑、帝は吉服を着け、朱雀門前で大祓を行った」、三代実録には「貞観七年七月廿九日戊申の晦(みそか)、先に武徳殿の前で人死にがあった。そこで建禮門の前で邪気を払った」、【小右記に「天元五年四月廿一日、作物所(つくもどころ:宮中で使用する食器、その他の調度品を作るところ)の板敷の下に犬の死骸があった。・・・廿三日、大祓えを行った。賀茂祭の間に内裏に穢れがあれば、先例では大祓えを行うことになっている。云々」とある。】などと見える。【師の祝詞考によると、「大祓のことは神代から伝わって、橿原の宮(神武天皇)の御世にも、絶えることなく行ってきたのだが、上代の記録では、古事記以外には書かれておらず、後には天武天皇の紀に見えている。持統天皇紀に全く見えないのは漏れたのだろう。天武天皇の御代の初めには臨時の大祓が見える。大宝元年に至って六月と十二月の晦日のことが令の條に挙げられている。このように定例となったからには、それ以前からもこの二度の大祓は行われていたのだろうか。しかし天武天皇の御世に二度、七月に行われたし、文武天皇の御代の初めにこの六月と十二月の晦日のことが出ていないのを考えると、これは大宝元年の制定と考えるべきだ。その後の記録になると、定例化していたから省いて載せなかったのである。大宝二年十二月晦日に中止されたのは、この月に太上天皇が崩じられたからだ。だが文部が定例の通り解除を行ったのは漢(から)国の流儀であって、皇朝の神事ではないので、諒闇のうちでも実施されたのだろう」という。<訳者註:東西の文部とは東漢直(やまとのあやのあたえ)、西漢直(かわちのあやのあたえ)などと称される氏のことだろう。彼らは渡来人で、多少習俗に違いがあったと思われる。>】そもそも諸国の大祓えについては記録されたものはないのだが、朝廷で行われた儀礼から類推はできる。神祇令に「およそ六月と十二月の晦日には,大祓を行う。東西の文部は祓の大刀を献上し、祓の詞を読み終わって、百官の男女を祓えの所に集める。中臣は祓の詞を読み上げ、卜部は解除を行う」、【文部が読む祓の詞は、義解に「文部が漢音に読むものである」とあり、この詞も大祓の詞の後に書いてある。師の考にいわく、「これは文部が遠祖から伝えてきたもののように思えない。はるかに後にできたもののような文句だから、漢国や百済の巫祝の唱える詞を材料に作ったものではあるまいか。もともと皇朝には何の役にも立たないものだ。それに卜部が解除を行うというのも、上代のことではなく、令ができた頃の定めだろう。このことは、大祓の詞の終わりの文のところで論じてある」という。】続日本紀に「養老五年七月、初めて文武百官が妻女姉妹を引き連れて、六月と十二月の晦日に、大祓の所に集合するよう令を出した」、【令に「百官男女」とある「女」は、女性の官人を言う。ここにある妻女などではない。ところが式に妻女姉妹のことを書いてないのは、百官男女に含めているのか、あるいは令の「百官男女」は養老五年の時に改められたもので、これも妻女姉妹を含めて言ったのかも知れない。】四時祭式に「六月晦日の大祓は、【十二月はこれにならえ】・・・この晦日の申の時以前に、親王以下百官は、朱雀門に集合し、卜部が祝詞を読みあげる」、【「卜部が祝詞を読む」とあるのは、後人が書き変えた誤りに違いない。祓の詞は中臣が読むものと決まっている。式の文にこうした誤りがあるはずはない。】太政官式に「およそ六月十二月の晦日には、宮城の南の路で大祓を行う。大臣以下、五位以上は朱雀門に集合し、辨史各一人が中務、式部、兵部などの省を率いて、見参した者の人数を読み上げ、百官男女、みな合わせて祓を行う。臨時の大祓も同様に行う」などが見える。なお朱雀門前の大祓の儀式は、貞観儀式に書いてあるが、そこでも儀式の様子はただ「・・・立って定まる(決まった位置についてじっとしていろということか)。神祇官が切麻(きりぬさ)を配り終えると、中臣がその場に行って座に着き、祝詞を読む。『聞こしめせ』と唱えると、刀禰が『おお』と言う。祓い終わって、大麻(おおぬさ)を行う。次に五位以上の切麻をすぐに散らし去る」とあるだけだ。【「刀禰」というのは百官のことである。このうち「切麻を配る」とか「大麻を行う」などというのは、いにしえのやり方のようではない。後世のことだろう。令の時に、既に文部が漢文の祝詞を読むとか、卜部が解除を行うなど書かれ、いにしえには決してなかったようなことが混じっているので、その後も世々に移り変わってきたことを思うがよい。中昔以降は、祓えはおおかた陰陽師の職のようになって、江次第にも六月十二月の晦日に、禁中(朝廷)の儀がさまざまある。まして個人の祓えは、すべて陰陽師にさせることになってしまった。伊勢物語に「陰陽師かむなぎ召(よび)て、戀せじと云(いふ)祓の具してなむゆきける、祓へけるまゝに・・・戀せじとみたらし川にせしみそぎ云々」などあるのでも分かる。また大祓の儀が段々衰えたことは、小右記に「天元五年六月廿九日、今日は大祓を行うところに、公卿が一人も集まってこなかった。右少辨の惟成を上代として、これに行かせ(たぶん個別訪問させたのだろう)たが、内侍らはあれこれと都合が悪いと申し立てて、祓えの所に行こうとしない。女史(女性の文官)を内侍の代理にした」とあるので分かる。天元は円融天皇の御代である。このころは、世人はみな仏法に心を寄せ、神事をなおざりに思っていたので、祓えは各個人の祓えであることを忘れてしまったのだ。あなかしこ、あなかしこ。そのとき、参加しないことを咎めたとも書いてないのは、これまた神事をなおざりに考えたからなのだろう。】○亦(また)は、「また再び」である。「請2神之命1」までに係っている。○具(つぶさに)。上巻の八千矛神の歌に「麻都夫佐爾(まつぶさに)」とあった。○「如2先日1」は「さきのごとくにて」と読む。【「日」の字は読まない。どうしても「日」をよむなら、「先日」を「ひとひ」と読む。】上巻に「爾反降、更往=廻2其天之御柱如1レ先(すなわちカエリくだりまして、サラニかのアメのミハシラをサキのゴトゆきメグリたまいき)」とあった。ここは前に「西方有レ國、金銀爲レ本(にしのかたにクニあり、こがね・しろがかねをはじめて)」とあることも、また先の通りに教えたのだろうか。それともそれはもう一度繰り返す必要がないことだから、凡茲天下(おおかたこのあめのした)は、この天皇の治めるべき国ではない。この天皇は前記の一道に向かうべきで、崩じるべきだったということを、以前のように教えたのか。それはさておき、「ごとくにて」と読む理由は、次の「凡此國者(おおかたこのくには)云々」とある言葉を、先日のように教えた語の次に続けて言っているからである。○此國(このくに)は、前の文に「凡茲天下」とあったのと同じ意味で、皇国のことを言う。【書紀に「汝不レ得2其國1、唯今・・・其子有獲(イマシそのくにをえたまわじ、ただしいま・・・そのみこえたまわんことあらん)」とあるのによると、三韓を言っているように聞こえるが、そうではない。書紀の「汝不レ得2其國1」も、この記では「茲天下者云々」と書いている。】○汝命(ながみこと)。そもそもこの神の命は大后に憑いて下した託宣だから、その大后を「汝命」とあるのは、少し疑問もあるだろうが、天皇が崩じて後は、もう大后が主君になっており、神の命も大后の請いによって下したのであり、その詔は専ら大后への教えであった。だからこう言うのが自然である。○所知國者也(しらさんくになり)。上巻に「天照大御神は『豊葦原の瑞穂の国は、私の子、正勝吾勝勝速日天忍穗耳命の所知(しらさん)国だ』と言因(ことよさし)賜いて、天降(あまくだしたまいき)」とあったのと同じだ。書紀には、胎内の御子のことは前の神託【仲哀の巻】にあって、【前に引いた通りだ。】ここにはない。ここ【神功の巻】では「時に皇后は、天皇が神の教えに従わなかったため身を傷め、早く崩じたので、神の祟りがあることを考え、財宝の国を求めた。そこで群臣および百寮に命じて、(祓によって)罪を解き、過ちを改めさせた。また小山田邑に齋宮を建てた。三月壬申朔、皇后は吉日を選んで齋宮に入り、みずから神主として、武内宿禰に琴を引かせ、中臣烏賊津使主(なかとみのいかつおみ)を呼び寄せて審神者(さにわ)とし、千ハタ(糸+曾)高ハタ(糸+曾)(ちはたたかはた)を琴の頭と尾に置いて、請い願って『先に日に天皇に教えてくださった神はどの神でしょうか』と祈った云々」とある。【「みずから神主として」とあるのを考えると、いにしえには「神主」とは、もともとはこの段のように、神の言葉を請うときに、神懸かりして託宣する人を言う名だったのだろう。それが後に神を奉斎する人を言うようになったのも、もとはその神託を受ける役目の人を言うことから転じたのだ。「千ハタ高ハタ云々」、こんな風に琴の頭と尾にハタを置いたのは、神の命を請うときには、いつもそうしたのだろう。「はた」とは、布であれ絹であれ、織ったものを言う。「しずはた」というのも倭文布のことなので理解せよ。とするとハタ(糸+曾)をそう読むのも当たっている。機織りの具を「はた」と言うのは、「はた」を織る具だからそう言うのであって、本義から派生した語である。】

 

爾建内宿禰白B。恐我大神。坐2其神腹1之御子。何子歟A。答詔。男子也。爾具請之。今如レ此言教之大神者欲レ知2其御名1。即答詔。是天照大神之御心者。亦底筒男中筒男上筒男三柱大神者也。<此時其三柱大神之御名者顯也。>今寔思レ求2其國1者。於2天神地祇亦山神及河海之諸神1。悉奉2幣帛1。我之御魂坐レ于2船上1而。眞木灰納レ瓠。亦箸及比羅傳<此三字以レ音>多作。皆皆散=浮2大海1以可レ度。

訓読:かれタケウチのスクネ、「かしこしアがおおかみ、そのカミのみはらにいますミコイ、なにのミコぞも」ともうせば、「ヒコミコぞ」とノリたまいき。かれつぶさにこいまつりけらく、「いまかくコトオシエたまうオオカミは、そのミナをしらまくほし」ともうせば、こたえたまいつらく、「こはアマテラスオオミカミのみこころなり。またソコツツノオ・ナカツツノオ・ウワツツノオみはしらのオオカミなり。<このときにぞそのみはしらのオオカミのみなはあらわれたまえる。>いままことにそのクニをもとめんとおもおさば、アマツカミ・クニツカミ、またやまのカミ・うみかわのカミたちに、ことごとにミテグラをたてまつり、アがみたまをミフネのうえにませて、まきのはいをヒサゴにいれ、またハシとヒラデをさわにつくりて、みなみなオオウミにちらしうけてわたりますべし」とノリたまいき。

口語訳:そこで建内宿禰は「畏れ多いことです、我が大神。その胎中の御子は、男女いずれの御子ですか」と問うと、「男子である」と告げた。もっと詳しく聞きたいと思い、「いまこのようにお教えくださった大神は、その名を教えていただきたいと思います」と言ったところ、「これは天照大神の心だ。また底筒男、中筒男、上筒男の三柱の大神だ。<このとき初めてこの三柱の大神が名を表したのである。>本当にその国を求める気があるなら、天神地祇また山の神・河海の神、諸神にことごとく幣帛を奉り、我が御魂を舟の上に居らせ、眞木の灰を瓠に入れ、また箸と比羅傳をたくさん作って、これらを皆大海に散り浮かべれば、舟が行き着くだろう」と言った。

我大神(わがおおかみ)とはその神を呼ぶときに言う詞で、「我大君」などと言うのと同じである。下巻の朝倉の宮(雄略天皇)の段で、天皇が葛城の神を呼ぶにも「恐我大神」と言っている。万葉【巻十九】(4245)に「墨吉乃吾大御神(すみのえのあがおおみかみ)」、【巻廿に】(4408)「須美乃延能、安我須賣可未(すみのえの、あがすめかみ)」なども見える。○其神腹(そのかみのはら)。「其」の字は、「坐」の字の上にある意味に取るべきである。【「坐2神腹1其御子」という意味だ。「その神」というのではない。】「神の御腹」と言ったのは、大后はこのとき神懸かりになっていたから、その身はつまり神の身だったからだ。○何子歟は「なにのみこぞも」と読む。皇子か皇女かと尋ねたのだ。このことを真っ先に尋ねたのは、天皇が崩じたばかりで、注意せねば国難も起こりそうな状況だから、何としてもこの御子が皇子であって欲しいと、切に願っていたからだ。【そうでなくても、腹に宿った子は、生まれる前から男か女かを知りたいのが、世の習いというものだ。】○男子也は「ひこみこぞ」と読むのがよい。○欲知は「しらまくほし」と読む。【一般に今の人は「欲」を「ほりす」と読むが、そう読んではまずいことも多い。単に「む」(知らむ:知らん)と読む方がいい場合も多い。このことは前に言った。また「ほし」と「ほりす」とは、意味は同じだが、言葉の使い方は違う。たとえば「哀し」と「哀しむ」の違いのようなもので、「ほし」は「哀し」、「ほりす」は「哀しむ」と同様である。この違いを弁えるべきである。】催馬楽の「我門(わがかど)」に「和可奈乎之良末久、保之加良波(わがなをしらまく、ほしからば)」とある。○天照大神。【師は「大」の次に「御」が脱けているのかと言ったが、白檮原の宮の段でも、これと同じように「御」の字がない。しかしどれも同じように「おおみかみ」と読むべきである。○御心(みこころ)。「何々の神の御心」ということについては、水垣の宮(崇神天皇)の段で例を挙げて述べた。【伝廿三の二十五葉】○底筒男(そこつつのお)、中筒男(なかつつのお)、上筒男(うわつつのお)、三柱大神(みはしらのおおかみ)は、上巻の御禊ぎの段で出た。【伝六の七十葉、七十一葉】ここで天照大神にはその「御心」とあって、この三柱大神にはそういう言葉がないのは、何か相違があるのだろうか。【相違があると見て論じるなら、後の文に「我之御魂云々」とある言葉はこの三柱大神の御魂であり、このときの神託の言葉は専ら三柱大神によるもので、「天照大神の御心」というのも、三柱大神が言ったということになる。とするとこの時のことは、三柱大神が中心になっていて、彼らが天照大神の御心に基づき、その大命を三柱大神が告げ行ったとすべきだろう。】あるいは全く同じことなのだが、上に言った「御心」という意味合いが、ここにも込められていて、省いて言っただけなのか。【「亦」という辞にも、そういう意味があるようだ。書紀でも、そういう違いは見えない。】書紀には「・・・詔を請い『先日天皇にお教えくださったのは、どちらの神でしょうか。お名前をお教えください』と言った。七日七夜に至って神の答えがあり、『神風の伊勢の、百傳(ももづたう)度逢縣(わたらいがた)の、拆鈴五十鈴宮(さくすずいすずのみや)にいる神、名は撞賢木嚴御魂(つきさかきいづのみたま)、天疎向津媛命(あまざかるむかつひめのみこと)』と名乗った。そこでさらに『この他にも神がおられますか』と尋ねた。すると『幡荻(はたすすき)穂に出でし吾は、尾田吾田節(おだのあがたふし)の淡郡(あわのこおり)に所居之有(いる神がある)』と答えた。『その他にもおられますか』と問うと、『天事代(あめことしろ)、虚事代(そらことしろ)、玉籤入彦嚴之事代(たまくしいりびこいづのことしろ)の神がある。』と答えた。もう一度『この他に神がおられますか』と尋ねると、『他にいるかどうかは知らない』と答えた。そこで審神者(さにわ)を務める者が『今おっしゃらなくて、後に付け加えておっしゃるようなことがありますか』と尋ねた。すると『日向國の橘の小門(おど)の水底にいて、水葉の稚(わか)やに出でし神、名は表筒男、中筒男、底筒男の神がある』と告げた。『他にもいらっしゃいますか』と尋ねると、『あるかないかは知らない』と答えた。この後は、とうとう他の神があるとは言わなかった。そこでこれらの神の語を受けて、教えのままに祭った」とある。【「撞賢木(つきさかき)」は「齋賢木(いつきさかき)で、「いづ」の枕詞である。神を祭る賢木は、忌み清めるものであるからそう続けるのである。「いづ」は上巻の御禊ぎの段で言ったように、清浄であるということだ。天照大御神は伊邪那岐大神が禊ぎをおこなって、清められた段階で生まれた神だから、「いづの御霊」である。「天疎向津媛(あまざかるむかつひめ)とは、この(地上の)国から天の日を仰ぎ見ることから言う名である。「幡荻(はたすすき)穂に出でし吾」はよく分からない。「吾」の字は誤写ではないだろうか。「尾田吾田節の淡郡」というのも、どの国の地名なのか、考えつかない。ここで「所居之有」とあるのは、「有」の字の上に神名が脱けている。前後の例を見れば分かる。この脱落している神名は、後の文に「天照大神の荒魂は廣田の國に、事代主尊は長田の國に、表筒男ら三~の和魂は大津の淳名倉の長峽に祭れ」とあるところに照らして考えると、そちらでは天照大神と事代主神の間に「稚日女(わかひるめ)尊は、『私は活田(いくた)長峽國に居りたい』と言った」とあり、ここではその神名がないから、稚日女尊である。橘小門は伊邪那岐大神が御禊ぎして、上記の三柱の神を生んだところである。」この記は、「尾田吾田云々」とある神【稚日女尊だろう。】と事代主神がないのは、省略して伝えたのだ。書紀の細書きにも「『お言葉はどちらの神でしょうか。願わくばお名前をおっしゃってください』と請うと、『表筒男、中筒男、底筒男の神』と名を明かし、重ねて『私の名は向匱男聞襲大歴五御魂速狹騰尊(むかひつおもおそおふいつのみたまはやさあがりのみこと)である』と答えた。そこで仲哀天皇は皇后に『聞惡事(ききあしきこと:気分の悪いこと)を言う女だなあ。どうして速狹騰などと言うのだ』と言った。」とあり、【「速狹騰(はやさあがり)」とは天照大御神のことで、伊邪那岐大神が天の御柱で天上に送り上げて、天上に上がったことを言う名である。万葉(167)にも「指上日女之命(さしのぼるひるめのみこと)」とある通りだ。これを「聞惡事」と言うのは、「早くあがる」というのを嫌ってである。貴人が死ぬことを「あがる」と言うからである。】そこでは上記二柱の神の名は見えない。天照大御神は特別だから言うまでもないが、それ以外では、ここでは住吉の大神こそ中心になって行ったのだから、この記では後の文でも、その荒御魂を祭ったことだけが出ている。書紀の継体の巻に「住吉の大神は、初め海外の金銀の国を、胎中の譽田天皇に授けた」とあるのも、ここのことを専ら住吉三~のこととしている。延喜式で、遣唐使の時の奉幣の祝詞に「皇御孫尊乃御命以弖、住吉爾辭竟奉留、皇神等乃前爾申賜久、大唐爾使遣佐牟止爲爾、依2船居無1弖、播磨國與理船乗止爲弖、使者遣佐牟止所念行間爾、皇神命以弖、船居波吾作牟止教悟給比支、教悟給比那我良、船居作給部禮波、悦己備嘉志美、禮代乃幣帛乎、官位姓名爾令棒セイ(喪の下の衣をワかんむりに貝に置き換えた字)弖、進奉久止申(すめみまのみことのみこともちて、すみのえにことおえまつる、すめかみたちのまえにもうしたまわく、もろこしにつかいつかわさんとするに、ふなすえなきによりて、はりまのくによりふねのるとして、つかいつかわさんとおもおしめすあいだに、すめかみのみこともちて、『ふなすえはわれつくらん』とおしえさとしたまいき。おしえさとしたまいながら、ふなすえつくりたまえれば、よろこびうれしみ、『いやしろのみてぐらを、<官位姓名>にささげもたしめて、たてまつらく』ともうす)」、臨時祭式に「遣唐の舶居(ふなすえ)を開く祭【住吉社】・・・上記の神祇官は使を社に向かわせてこれを祭る」、万葉巻十九【三十六丁】、入唐使に贈る歌(4245)に「墨吉乃吾大御神、舶乃倍爾宇之波伎座、舶騰毛爾御立座而、佐之與良牟礒乃崎々、許藝波底牟泊々爾、荒風浪爾安波世受、平久率而可敝理麻世、毛等能國家爾(すみのえのあがおおみかみ、ふなのへにうしはきいまし、ふなどもにたたしまして、さしよらんいそのさきざき、こぎはてんとまりとまりに、あらきかぜなみにあわせず、たいらけくいてかえりませ、もとのくにえに)」などある。すべて異国に関わることは、主にこの大神が掌る。【それほどでなくても、すべて海路の平安は、この大神に祈る。万葉巻廿(4403)に「須美乃延能安我須賣可未爾、奴佐麻都利伊能里麻乎之弖、奈爾波都爾船乎宇氣須惠(すみのえのあがすめかみに、ぬさまつりいのりもうして、なにわづにふねうけすえ)云々」などと見える。今の世でも、海路の守り神としているのは同じだ。】○註に「此時云々」とある十三字は、師は「後人が加えたものだ」と言ったが、必ずしもそうとは言えない。「御名が顕れた」というのは、前にはまだどの神とも分からなかったのが、今度は名を名乗ったことを言うのだろう。水垣の宮の段で「大物主神は夢に現れて、『これは私の心だ』」と告げたのと同じである。そこ【伝廿三の二十五葉】を参照せよ。【あるいは、「顯」とは、この大神は万葉にも「住吉乃荒人神(すみのえのあらびとかみ)」とあり、この「荒」は「現」で、その形が人の姿になって現れたのである。朝倉の宮の段で、葛木の一言主の神を「彼時所顯也(そのときにぞあらわれませるなり)」と見え、書紀の景行の巻、雄略の巻などに「現人神(あらびとかみ)」とあるのも、人の姿で現れた神のことで、ここと同じだ。摂津国風土記にも「昔息長足比賣の天皇の御世、住吉大明神が現出して、天下を巡行し、云々」とある。宇佐八幡宮縁起にも「皇后が異国を征伐しようとしたとき、白髪の老人がやって来て彼女を導いた。・・・この老人は住吉大明神である」と書いてある。この縁起はどうかと思う記事もあるが、「現人神」ということを考えると、このとき、人の姿形で現出したという古伝があるように思われる。だからここに「顯」とあるのは、そのことを言ったのかとも考えたが、やはり「御名者」とあるから、そのことではないだろう。】ここで天照大御神の名が顕れたことを言わないで、住吉三~のみを書いてあるのは、このときのことは、住吉の神が中心だったからだろう。【書紀には「和魂は玉身(皇后の体)に着け、荒魂は先鋒にして」とあるのも、どの神とも言っていないが、この神のことであるのは、同じことである。】○其國(そのくに)は三韓である。○天神地祇(あまつかみくにつかみ)。臨時祭式に「蕃国に使いを遣わすときの祭、・・・上記の使いを発するときには、天神地祇を郊野に祭る。云々」、書紀の推古の巻に「來目(くめ)皇子を新羅を討つ将軍とし、諸々の神部を授けた」とあるのも、諸神を祭るためではないだろうか。○河海は「うみかわ」と読む。そもそも天神地祇と言えば、その中に山河海の諸神も含まれているはずなのに、特に分けて言ったのは、天神地祇というのは、後に神祇官の帳に載っている諸神社のように、定例の幣帛を奉る神社のことを言い、山の神、河海の神というのは、それ以外の神で、この時韓国を征伐しようと向かう道々にいる山河海の神である。水垣の宮の段に「天神地祇の社を定め・・・また坂の御尾の神、河の瀬の神、悉く残すところなく幣帛を奉った」とあるたぐいである。○幣帛(みてぐら)は上巻に出た。【伝八の四十三葉】○我之御魂(あがみたま)は三柱大神の御魂である。書紀では和魂と荒魂を分けて書いてあるが、ここでは一緒に書いてある。○船上(みふねのうえ)とは、韓国に渡る船を言う。○坐は「ませて」と読む。そのことは前にも言った。万葉巻十九(4245)に「墨吉乃吾大御神、舶乃倍爾宇之波伎座、舶騰毛爾御立座而(すみのえのあがおおみかみ、ふなのへにうしはきいまし、ふなどもにたたしまして)」。【前にも引いた。】書紀によると「そして神は『和魂は命を守るために玉身に着けよ。荒魂は先鋒として船を導こう』と教えた。そこで教えを受けて拝禮するとめ、依網の吾彦、男垂水(おたれみ)を神主とした」、【「玉」の字は「王」の誤りではないだろうか。】また「荒魂を軍の先鋒とし、和魂を王船の鎮めとした」とある。○眞木灰(まきのはい)。この「眞木」は、書紀の神代巻、~武の巻に「ヒ(木+皮)、これを『まき』と言う」、和名抄に、「玉篇にいわく、ヒは木の名。柱にする。埋めても腐りにくいものである。弘仁私記にいわく、『まき』」とある。【今でも「まき」と呼ぶものである。】木のことか、檜か、単に良い木ということかは分からない。「灰」は和名抄に「灰は『はい』」とある。○瓠(ひさこ)は和名抄に「瓢は瓠であり匏である。飲む器にする。和名『なりひさこ』」、また「杓は水を汲む器である。和名『ひさこ』」とある。【「ひさこ」は本来瓠の名だったのが、水を汲む器にするので、その器の名になり、木で作ったものも「ひさこ」と言うことから、瓠を「なりひさこ」というのか、それとももとは水を汲む器の名から出て瓠もそう呼ぶようになったのか、どちらが元でどちらが派生した語なのか分からない。いずれにせよ「なりひさこ」とは、蔓に成るという意味の名である。今の世に「ひしゃく」というのは、「ひさこ」を訛ったのだ。「しゃく」とだけ言うのも「ひしゃく」を略して言うのである。「杓」の字の音ではない。○「異稱日本傳」という書物(松下見林の著)に、「瓠公・・・瓠公はもとは倭人である。初め瓠に乗って海を渡ってきた。そのためこの名が付いた」とあるのを引用して、「考えるに、瓠公云々は間違いであろう。神功皇后の征伐の故事を付会したのだろう」といって、この記のこの段を引用したのは、こじつけである。】○比羅傳(ひらで)は、書紀の~武の巻に「葉盤八枚を作り、食べ物を持って饗応した。葉盤、これを『ひらで』と読む」とある。大嘗祭式に「およそ神に供御する雑物は、大膳職が準備する。多加須伎(たかすき)八十枚、【高さ五寸五分、口径七寸、蓋なし、折り足四ヵ所云々】並びに葉椀【くぼて】を据える。これを覆うのに笠形の葉盤を使う。【「ひらて」、笠の形に似ている。】木綿(ゆう)で結垂(ひれ)を飾り付ける。比良須伎(ひらすき)八十枚、【高さ、口径、装飾は多加須伎と同じ。但し足不レ折(足は折らない)云々」とある。これは物を盛る葉椀を多加須伎の上に据えるのである。その逆ではない。比良須伎というのは足がないのでそう言う。「足不レ折」というのは、折り足がないことだ。そして比良須伎に載せる物も、同じように葉椀に盛り、葉盤で覆うのだ。そのことを言っていないのは、「装飾は多加須伎と同じ」というのに含まれるのだろう。】延暦廿年の制の祓物の中【前に引いた。】にも「柏十五把、【枚手(ひらで)六十枚の料】柏十把、【枚手四十枚の料】柏五把、【枚手二十枚の料】」とある。皇太神宮儀式帳に「大御饌に供する御枚手五十六枚」、また「湯貴(ゆき)を奉る御枚手、合計千二百六十枚」などと見える。【新撰字鏡に「?(くさかんむりの下に衣+衣)、?(くさかんむりの下にイ+衣)、?くさかんむりの下に石+衣、?(くさかんむりの下に石+并+并)」などの字を「くぼて、またはひらで」と書いてあるのは納得できない。<いずれも音が不明>】比羅傳というのは」「くぼて」の対語で、浅く平たい形から来た名である。それは上記の式の文に笠形とあるのでも、大体の形を想像できるだろう。書紀に葉盤と書かれているように、葉(柏の葉)を刺し合わせて作ったものだ。【釈日本紀に「葉盤は、柏の葉に物を盛るのである」と書かれているのは、少し違う。ここにも「作る」とあるから、一枚の柏の葉の上に盛るのではない(数枚の柏の葉を組み合わせて作る)。】神楽歌の「韓神」に「也比良天乎、天耳止利毛知天(やひらでを、とりもちて)」、【愚按抄に「やひらでは、八枚の平盤(ひらで)である。柏の葉で刺して、神への供物を盛るものである。」】惠慶(えぎょう)僧の歌【新勅撰集(572)に出ている。】に「霜枯(しもがれ)や楢の廣葉を八葉盤に、刺(さす)とぞいそぐ、神のみやつこ」、【「刺す」は刺して作ることだ。今の世で、大嘗祭に用いられる葉盤も、柏の葉を竹野張りで盃の形に刺して作ったものという。○葉椀(くぼて)は、葉盤とほぼ同じものだが、形が窪んで深いところが違う。宇津保物語の俊蔭の巻に「さまざまの物の葉をくぼてに刺(さし)て、椎・栗・柿・梨・芋・野老(ところ)などを入(いれ)て云々」、また嵯峨院の巻に「神樂のいそぎの所に政所(まどころ)にくぼてなどさす、山より榊もてまゐれり」、相模家集(443?)に「神山の柏のくぼてさしながら、おひなほる身の榮ゆべきかな」とある。】○多作(さわにつくり)とは、箸と比羅傳を言っているようだが、眞木の灰を入れた瓠にも掛けて言っている。○皆々(みなみな)。単に「皆」と言うよりも、こう重ねて言う方が、勢いがあって程度が甚だしい意味になる。「又々(またまた)」、「猶々(なおなお)」などと同様だ。○散浮(ちらしうけて)。これらのものを海に散らすことは、なぜ、何のためということは分からない。当時はよく知られていたのか、または神のはからいだから、もともと理由は知られていないのか、それも分からない。【眞木灰云々は、師は「船中での占いか」と言ったが、これは神の教えだから、さらに占う理由はない。あるいは灰も瓠も軽くて水に浮かぶ物だから、船が沈まず、軽く速く進めというまじないごとだろうか。比羅傳は、師は魚を盛ったのかと言ったが、どうだろうか。箸と比羅傳は、海神に御食を手向けたのではなかろうか。比羅傳と言ったからには、物を盛ったことは言わなくても明らかだ。】播磨国風土記に「息長帯日女命が新羅国を討とうとして下ったとき、諸神に祈った。すると国を堅めた大神(伊邪那岐・伊邪那美を言うか)の子、爾保都比賣命は国造の石坂比賣命に『(前出)』と教えた。そこで赤土を出した。その土を天之逆鉾に塗り、神舟の艫と舳に立てて、舟裳(ふなも)と軍士たちの衣を染め、また海水を掻き濁して渡ったとき、海底の魚も空行く鳥も往来せず、舟の行く手を遮ることもなかった。こうして新羅を平定して云々(播磨国風土記逸文の「爾保都比賣命」の條)」、【「神舟」の「神」は「御」の誤りか。「舟裳」は後世の幕のようなものだろう。人が衣裳を着たのに似ているから、そう言ったのだろう。】書紀には「皇后は帰って橿日浦に至ると、髪を解いて海に入り、『私は神祇の教えを受け、皇祖の霊を頼り、滄海を浮き渡ってみずから西征しようと思う。ここで今海水に頭を漬けよう。もし験(げん)があるなら、髪はおのずから分かれて左右になれ』と言って、頭を水に浸けた。すると髪はおのずから左右に分かれた。皇后は分かれた髪をそのままで結って髻(みづら)とし、・・・群臣に『私は手弱女だけれども、暫く男の姿になって云々』」という話もある。○「可レ度(わたりますべし)」は、韓国に渡るのである。

 

故備レ如2教覺1。整レ軍。雙レ船。度幸之時。海原之魚。不レ問2大小1悉負2御船1而渡。爾順風大起。御船從レ浪。故其御船之波瀾。押=騰2新羅之國1既到2半國1。於是其國主畏惶奏言。自レ今以後。隨2天皇命1而。爲2御馬甘1。毎レ年雙レ船。不レ乾2船腹1。不レ乾2サオ(木+施のつくり)カジ(楫+戈)1。共=與2天地1無レ退仕奉。故是以新羅國者。定2御馬甘1。百濟國者。定2渡屯家1。爾以2其御杖1衝=立2新羅國主之門1。即以2墨江大神之荒御魂1。爲2國守神1而祭鎭。還渡也。

訓読:かれツブサにおしえさとしたまえるごとくして、みいくさをととのえ、みふねをつらなめて、わたりいでますときに、ウナハラのウオども、おおきなるちいさき、ことごとにみふねをおいてわたりき。ここにおいかぜさかりにふきて、みふねナミのまにまにゆきつ。かれそのみふねのなみ、シラギのクニにおしあがりて、すでにクニなからまでいたりき。ここにそのコニキシおじかしこみてもうしけらく、「いまよりゆくさき、オオキミのみことのまにまに、ママカイとして、としのはにふねなめて、ふなはらほさず、さおかじほさず、アメツチのむたとこはにつかえまつらん」ともうしき。かれここをもてシラギのクニをば、ミマカイとさだめたまい、クダラのクニをば、わたのみやけとさだめたまいき。ここにそのミツエをシラギのコニキシのかなとにつきたてたまいき。すなわちスミノエのオオカミのあらみたまを、クニまもりますカミとしずめまつりて、かえりわたりましき。

口語訳:そこで神の教えの通りに一つ一つ実行して、軍を整え、船を並べて、海を渡ったとき、海原の魚が大小となく集まって、船を背負って渡した。また追い風が大いに起こり、船は波に従っていればよかった。その波はたちまち新羅の国まで船を押し上げ、あっという間に国の半分まで水に浸した。これをみたその国主は驚き恐れて、「これからは、天皇の仰せに従い、馬甘(うまかい)として、毎年(朝貢の)船を並べ、船腹が乾く間もなく、船カジが乾く間もなく(頻繁に)、天地の限り、永久にお仕えしましょう」と言った。そこで新羅を馬甘と定め、百済を渡りの屯家と定めて、その突いていた杖を新羅の国主の門に突き立てた。そして墨江大神の荒御魂を国を守る神として祭り、また海を渡って帰ってきた。

如は「ごとくして」と読む。「して」は「為而」の意味で、前の文の「天神地祇亦・・・散浮大海」の内容をすべて行って、ということだ。【「して」と言わなければ、「如く」というのが「整レ軍云々」に係ることになって、意味が違ってくる。】○「整レ軍(みいくさをととのえ)」。「ととのう」は呼び立てる意味である。万葉巻二【三十四丁】(199)に「御軍士乎、安騰毛比賜齊流、皷之音者(みいくさを、あともいたまいととのうる、つづみのおとは)」、巻三【十二丁】(238)に「網引爲跡、網子調流、海人之呼聲(あびきすと、あごととのうる、あまのよびこえ)」、巻十【三十九丁】(2142)に「左男壮鹿之、妻整登、鳴音之(さおじかの、つまととのうと、なくこえの)」、巻十九【三十九丁】(4254)に「物乃布能、八十友之雄乎、撫賜、等登能倍賜(もののふの、やそとものおを、なでたまい、ととのえたまい)」、巻廿【十八丁】(4331)に「安之我知流、難波能美津爾、大船爾、末加伊之自奴伎、安佐奈藝爾、可故等登能倍、由布思保爾、可遲比伎乎里、安騰母比弖、許藝由久伎美波(あしがちる、なにわのみつに、おおふねに、まかいしじぬき、あさなぎに、かこととのえ、ゆうしおに、かじひきおり、あともいて、こぎゆくきみは)」、また【三十八丁】(4408)「奈爾波都爾、船乎宇氣須惠、夜蘇加奴伎、可古等登能倍弖、安佐婢良伎、和波己藝デ(泥の下に土)奴等(なにわづに、ふねをうけすえ、やそかぬき、かこととのえて、あさびらき、わはこぎでぬと)」などとあるので納得すべきである。【からぶみの詩経、大雅に「爰2整其旅1(ここにそのいくさをととのう)」とあるのに依って書いた字かと思う人もあるだろうが、そうではない。もとから「ととのえ」という古くから伝えられた言葉である。】○「雙レ船」。「雙」は「つらなめて」と読む。連ね並べて、ということだ。万葉巻十九【廿丁】(4187)に「布勢乃海爾、小船都良奈米、眞可伊可氣、伊許藝米具禮婆(ふせのうみに、おぶねつらなめ、まかいかけ、いきぎめぐれば)」とあるのに依った。【単に「ならべて」と読むのも問題はないが、ここは言葉の調子のいい読みを取る。師は「あともいて」と読んだ。それも万葉にはよく出て古言ではあるが、「雙」の字には当てはまらないだろう。】また巻十五【十三丁】(3627)に「安麻能乎等女波、小船乘、都良々爾宇家里(あまのおとめは、おぶねのり、つららにうけり)」などもある。摂津国風土記に「美奴賣松原(みぬめのまつばら)。今「美奴賣(みぬめ)」と言うのは神の名である。この神は、もと能勢郡の美奴賣山にいた。昔息長足比賣天皇が筑紫国に行幸したとき、諸々の神祇を川邊郡の神前(かんざき)の松原に集めて、幸運を願った。そのとき、この神も集いに加わっていて、『私も守ってやろう』と言って、『私の住む山に須義(すぎ)の木がある。どれも良い木だ。それを木って、私のために船を作れ。その船に乗って行くと、幸運があるだろう』と教えた。そこで教えに従って船を作らせた。この神船は、ついに新羅を討った。【あるいは「そのとき、この船は牛のように大きな音を立てて鳴り響き、自分で對馬の海からここに帰り着いた。その後乗ることができなくなった。占ってみると、『神霊が欲しがっているためだ』と言うので、ここに留め置いた」ともいう。】帰ってきたとき、この神をこの浦で祭り、また船を留めて献げた。またこのところを美奴賣と名付けた」とある。○魚不問大小は「うおどもおおきなるちいさき」と読む。【上巻、海神の宮の段にも同様の句があるのを、「はたのひろもの・はたのさもの」と読んだが、ここはそう読むところではない。だが「不問」の文字にこだわるなら、「おおきなるちいさきをいわず」とも読める。書紀の仁徳の巻に「不レ問2日夜1(ひるよるといわず)」、続日本紀の卅一に「夜日不云(よるひるといわず)」と見え、万葉の歌にも同様にある。しかしここは、後に「悉く」とあり、「不問」を読むと、言葉が重くなってよくない。この二字を読まなくても、おのずからその意味になる。書紀の推古の巻には「無2大小1(いささけとなく)」ともある(聖徳太子十七条の憲法の第七条)。ここを「とおしろき」、「とおひろき」などと読むのは、書紀の神代巻、海神の宮の段で「大小之魚」とあるのを「とおひろくいきいおども」と読んでいるのに依るのだが、その読みは納得できない上、ここは特にそういう風に読むところではない。<訳者註:海神の宮の例は、魚たちを悉く集めてということだが、じつはその個々の魚について語る場面だった。この場面は単に魚たちが皆、ということで、個々の魚については問題にしていない。“Every”と“All”の違いである。宣長はそう言いたかったと思われる。なお書紀の読みの「とおひろくいきいおども」という引用は宣長の間違いで、「とおしろくちいさきいおども」が正しい。>】書紀の~武の巻に「魚たちは大小(おおきなるちいさき)となく、悉く酔って流れるだろう」、雄略の巻に「・・・事の巨細(おおきなるちいさきと)なく、みな皇太子に委ねた」とある。【栄花物語の疑の巻に「そのわたりの人の家々、大きなるちひさきわかず云々」とある。ところでここのところは、書紀には「海中の大魚」とあるのは、「小」の字が脱けたのか、それとも初めから大魚だけだったのだろうか。】○「負2御船1(みふねをおいて)」とは、船底に集まって、背に担ぐようにして進んだことを言う。○順風は「おいかぜ」と読む。書紀に「大風が順(おいかぜ)に吹き」とあるのによる。「おいかぜ」は「負い風」の意味だろう。【「追い風」かとも思ったが、やはりそうではない。いずれにせよ仮名は「おい(旧仮名オヒ)」である。】この語は万葉などには見えないが、【たまたま漏れた(用例がない)のだろう。】後代の言葉のようでもない。万葉巻廿【六十三丁】(4514?)に「青海原風浪奈妣伎由久左久佐都々牟許等奈久、布禰波早氣牟(あおうなばらかぜなみなびきゆくさくさつつむことなく、ふねははやけん)」とある。○大起は、「さかりにふきて」と読む。【師は「みさかりにふきて」と読んだ。また「順風」を「まかぜ」と読んだのは疑問だ。】○從浪は、師が「なみのまにまにゆきつ」と読んだのに従う。【文字のままに、「なみにしたがいつ」と読むこともできる。】書紀に「波のままに、艪舵を労せず」とある意味で、波が寄せて行くのに任せて進んだのである。○御船之波瀾(みふねのなみ)とは、この船を半島へ寄せて行った波である。○新羅は「しらぎ」と読んでいる。名前の意味は、その字の音を用いたのだろう。新撰姓氏録に「新良貴(しらぎ)」という姓がある。出雲国風土記に「栲衾(たくぶすま)志羅紀(しらき)の三埼(みさき)」、遠つ飛鳥の宮の段に「新良」、書紀に「新羅」などとも書いている。【ある人は、「新羅は『しら』と読むべきだ。『ぎ』は『ぐに』の縮まった語で、『しらぎ』は『新羅国』ということだから、『しらぎの国』とは言えないだろう」と言った。これも一応は筋が通っている。斯羅、新良などとも書き、漢籍に「斯廬國(しろこく)」とも書いてあるから。「しら」と言うこともあるだろう。だが皇国の言葉で、確かに「しら」と言った例を見ない。また百済、高麗を「くだらぎ」とか「こまぎ」といった例もないから、「しら」のみが国を「ぎ」と言ったというのもどうかと思う。とすると、「ぎ」はなるほど元は「ぐに」かも知れないが、「くだら」、「こま」と合わせて「しらぎ」と言ってきたのだから、「しらぎの国」と言ったところで、何の不都合があろうか。国名の淡海は「アハウミ」だけれども、その海を「アフミの海」と言っているではないか。後に引く万葉巻三の歌にあるのも、「しらぎのくにゆ」とこそ読むべきで、「しらのくにより」と読むのはおかしいだろう。ところで、この部分は一本に「新羅木國」とあるが、「木」は「之」の字を誤ったのである。「新羅木」などと書いた例はない。】「鶏林」というのもこの国である。新羅の初見は、書紀の神代巻に「素戔嗚尊はその子、五十猛(いだける)命を連れて新羅國に天降った云々」【また「韓郷之嶋(からくにのしま)」とあるのもこれだ。】とある。【その後に少名毘古那命が天降って、三韓、漢國、その他の国々も、みな造り固めたのだろう。だから漢籍などで言っている三韓のこと、周の武王が箕子を朝鮮に封じたことなども、みなそれより遙か後のことだろう。】万葉巻三【五十四丁】(460)に「栲角乃、新羅國従(たくづぬの、しらぎのくにゆ)云々」、続日本紀十二に「新羅使、金相貞が京に入った。・・・新羅国は、突然国名を変えて『王城國』とした。このため使者を帰国させた」とある。○押騰(おしあがりて)。波が押すというのは、難波の枕詞に「おしてる」というのを、師の説で「襲い立てる浪」と続けたのだという。【「おす」を「襲」として、「おそい」が縮まった語だとしたのはよくない。直接に「押し」である。】○半國は「くにのなからまで」と読む。【師は「くにのみなかに」と読んだが、「半」の字を書いたのは、その意味とは少し異なる。】国の半分まで波に沈んだのだ。【釈日本紀に「潮滿瓊、潮涸瓊。大問(『「大」が問うて』か、『「大問」が』か不明)いわく、『この二種の瓊は、現在どこにあるのか』。先師が言ったところでは、元暦の頃、宇佐宮の監行のとき、本宮の注文(ちゅうぶん)に『滿瓊、涸瓊の二種は当宮にあります』と注進したという。だから宇佐宮に留まっているのだろうか。重ねて仰にいわく、『神功皇后の三韓征伐の時、新羅の海潮は、その宮の庭に満ちた。あるいはこの瓊を持っていたのか、どうか』。先師が言ったところでは、宇佐宮には應神天皇と、姫神と、大帯姫の三所が鎮座している。二種の瓊が以前から当宮にあり、皇后の三韓征伐の時、新羅の海潮がその宮の庭に満ちたことを考えると、必ずこの瓊を持っていたのだろう。しかし確かなことは書物に見えない。神功皇后が如意宝珠を海中から得たことが、神功皇后紀に出ているだけである」と言った。だが紛らわしい点がある。この大后が持って韓国を討ったのは、あの神代の二つの珠なのだろうか、それとも海中から得た如意珠なのだろうか、定かでない。神代の瓊だったなら、その珠が後代まで宇佐宮にあるのは、この大后が持っていたことに因むのだろう。けれども、かの如意珠も三韓征伐に役立ったからこそ、それを海中から得たことを語り伝えているに違いない。もし何の効験もなく、無駄に持っていたのだったら、どうして如意珠などと名付けて、それを得たことを語り伝えるだろう。とすると、そのとき大后が持っていたのは、この如意珠であって、後代に宇佐宮に残っているのもその珠であるのを、誤って神代の珠のように言い伝えたのではないだろうか。ただし宇佐宮縁起に「干珠・滿珠を竜王に借り、・・・この珠を海に投げて、三韓が降伏したと言う。二つの珠は、肥前國佐嘉郡の河上宮に奉納された」とある。これは宇佐宮にあるのを無理に神代の珠にこじつけるためにこう言ったのか。だが神代の珠が宇佐に留まっているのこそ根拠が乏しい。ここで述べたのは、神代の珠と如意珠との紛らわしさを言っただけで、どちらがどうであっても、ここで船が国の半ばで押し上げられたのは、その珠の効験だろう。奇(あや)しく霊異な神の仕業は、言うまでもないことだ。】書紀によれば「冬十月、和珥津から出発した。時に飛廉起レ風(風の神は風を起こし)、陽侯擧レ浪(波の神は波を起こした)。海中の大魚は悉く浮いて船を助けた。大風順吹(大きな風が追い風に吹いて)、帆船は波のままに、艪楫の苦労もなく進んだ。たちまちに新羅に到り、時に船の波は国の半ば美及んだ。即ち天神地祇が悉く助けたことを知った。」【「飛廉云々」の二句は例の漢文の潤色で、とてもうるさい。】「あるいは曰く、皇后は男の束裝を着け、新羅を征した。時に神がこれを導いたので、船は波のままに遠く新羅の国中に達した」とある。○國主。「主」の字は諸本みな「王」と書いているのを、師が「主」と改めたのに依った。記中の例は、みな「國主」とあるからである。【明の宮の段の末、また遠つ飛鳥の宮の段などに見える。明の宮の段に「百済の國主」ともある、「国王」と言った例はない。書紀には「国王」とも「国主」ともある。】「こにきし」とも「こきし」とも読む。【からぶみ北史、杜佑の通典に、「百済の王は於羅瑕(おらか)と称する。百姓はコン(けものへん+建)吉支(こんきし)と呼ぶ。中華の言葉で王のことである」とある。書紀を考えると「こにきし」、「こきし」という訓を付けたのは、百済の王だけであって、新羅の代々の王を書いてあるのを見ると、初めのうちはみな「〜尼師今(にしこん)」とあるのを、東国通鑑というものには、みな改めて「〜王」としてある。とすると、新羅王の号は「尼師今」と言ったのだろう。しかしこの号は弘仁私記、釈日本紀、また今の本の訓にも見えないから、たやすく受け入れることはできない。そこで取りあえず百済王の号を取って読んでおく。垂仁の巻に「任那の王(こしき)」、「新羅の王子(こきしのこ)」、など読んだ例もなくはないからだ。また釈日本紀に「王后(こにおる)」、「太子(こにせしむ)」、弘仁私記にいわく、「『古爾於留(こにおる)』、『古爾世之(こにせし)』はいずれも百済語である」という。この弘仁私記の文は「世之」の後に「牟(む)」が脱けたのだろう。書紀の今の本の訓は大后に「斤於流」、「こむおる」、「こにおる」、王后にも「こにおる」、太子は「こにせしむ」、「こむせしむ」などと付けている。「こに」とも「こむ」とも言うのは「王」の号と思われる。王子には「せしむ」と付けている。また大夫人には「はしかし」、夫人には「はしかし」とも「おりけ」、「おりく」とも付けている。その中では高麗人のこともそう呼んでいる。北史の百済伝に「王の妻を於陸(おりく)と号する。中華で言う妃のことである」とあり、これによると「おりけ」とあるのは「く」を「け」に誤ったのだろうか。また百済の王を「にりむ」と読むところがある、その他にも異なる訓が見えるが、写し誤りなども見えて、定かでない。雄略の巻に「軍君」とあるのを「こにきし」、または「こんきし」などと読み、細注に「崑支君也(昆支也?)」と記し、百済新撰という書を引いたところにも「コン(王+昆)支君」とあって、王の号と同じなのは紛らわしい。同じ巻に「昆支王」という名も見える。三国のうちで百済だけが、その国の王号などがあれこれ伝わっているのは、百済とは特に親しく交流していたからではないだろうか。】新羅の王の先祖などの話については、軽嶋の宮の段で言う。【伝卅四の四葉】○畏惶。諸本に「惶」の字がないが、個々では真福寺本、延佳本に依った。「おじかしこみて」と読む。○以後は、「ゆくさき」と読む。○隨天皇命は「おおきみのみことのまにまに」と読む。【「まにまに」という字の下に「而」の字を添えて書いた理由は、初めの巻で述べた。】○御馬甘(みまかい)は、【「かい」の字に「甘」を書くことは、伝廿五の卅九葉で言った。】穴穂の宮の段にも「馬甘(うまかい)」と見え、書紀の雄略の巻に「典馬、これを『うまかい』と読む」と見え、飼部(みうまかい)、馬飼(うまかい)などもある。【止由氣宮儀式帳に「御馬甘、内人」などもある。】○毎年は、師が「としのはごとに」と読んだのに従う。万葉巻五【十七丁】(833)に「得志能波爾、波流能伎多良婆(としのはに、はるのきたらば)」、巻十六【六丁】(3787)に「彌年之羽爾(いやとしのはに)」、巻十七【三十六丁】(3991)に「伊夜登之能波爾、於母布度知、可久思安蘇婆牟(いやとしのはに、おもうどち、かくしあそばん)」、また【四十丁】(3992)「伊夜登偲能波爾(いやとしのはに)」、巻十九【四十三丁】(4267)に「如是許曾、見爲安伎良目米、立年之葉爾(かくしこそ、みしあきらめめ、たつとしのはに)」、巻六【十丁】(908)に「毎年、如是裳見壯鹿(としのはに、かくもみてしか)」、巻十九【十六丁】(4158)に「毎年爾(としのはに)云々」、【毎年を『としのは』と言う。】などがある。また巻十八【三十四丁】(4125)に「年能波其登爾(としのはごとに)」などもある。○雙船は、ここでは「ふねなめて」と読む。万葉巻一【十八丁】(36)に「船並弖、旦川渡(ふねなめて、あさかわわたり)」とある。○船腹は、「ふなはら」と読む。【「ふねのはら」とも読めるが、後の「さおかじ」と対にして、語の調べがいいように読むべきである。】「腹」とは両側面より下側、水に浸かるところを言う。魚の腹のようなものである。○不乾は書紀で「ほさず」と読んでいるのが良い。「乾く間もなく次々と貢ぎ物を奉りましょう」という意味だ。○サオ(木+施のつくり)カジ(楫+戈)は、【サオの字は、延佳本ではタ?(舟+施のつくり)と書いている。同じことだ。ここでは真福寺本、その他一本によった。】「さおかじ」と師が読んだのが良い。万葉巻三【十七丁】(260)に「竿梶母、無而佐夫之毛、榜與雖思(さおかじも、なくてさぶしも、こがんとおもえど)」、巻十【三十二丁】(2088)に「カジ(楫+戈)棹無而(かじさおなくて)」、祈年祭の祝詞に「青海原者、棹枚不干、舟艫能至留極(あおうなはらは、さおかじほさず、ふなのへのいたるきわみ)」、書紀の敏達の巻に、「カジ(同上)櫂(かじさお)」などがあるからだ。和名抄には「カジ(同上)は船を早く進める具である。和名『かじ』」、また「旁らにあって水を跳ねるのを櫂という。字は棹とも書く。漢語抄にいわく、『かい』」、また「コウ(木へん、竹の下に高)、棹、竿である。舟を刺す竹である。和名『さお』」、また「タ?(舟+施のつくり)は船を正しく進める木である。楊氏の漢語抄にいわく、柁は船尾である。あるいはダ(木+施のつくり)とも書く。和語で『たいし』と言う」とある。【とするとダ(同上)は「たいし」で、今の世に言う梶のことである。カジ(同上)は今言う艪、櫂のたぐいだ。】しかし師の祝詞考にも、「いにしえには歌に『たいし』を詠まなかった。【万葉に(3211)「八十梶懸(やそかかけ)」、(368)「真梶繁貫(まかじしじぬき)」などとあるので、今の梶とは違うことを知るべきだ。】『さおかじ』と詠んだのは、『たいし』では句の調べも整わないからだろう。祝詞も調べを整える者だから、歌と同様だ」と言った通りで、調べを作る語としては「さおかじ」、「かじさお」と言うのこそ古言である。【字は、船を進める道具をあれこれ通わせて、様々に書くものだから、拘泥してはいけない。字にこだわって「たいしかじ」などと読むのは間違いである。】書紀の推古の巻に、新羅、任那二国の王の表に「天上に神があり、地に天皇がある。この二神を除いて、畏むべきものはない。今より後は、相攻めることなく、また不レ乾2般柁1(ふなかじほさず)、毎歳(としのは)に必ず来朝しお仕えしましょう」とある。持統の巻に「新羅が昔から言っていたのは、『わが国は日本の遠い皇祖の御代から、舳を並べ、棹カジ(同上)干さず仕え奉る国です』」、続日本紀十八に「新羅の王子、金泰廉等が拝朝し、貢調を贈った。その言うところでは、『新羅国王は日本に照臨する天皇の朝庭に対して、新羅国は遠祖の朝廷より、世々絶えることなく、舟楫を並べ連ねてやって来て、国家に奉って参りました』」、同卅六に「新羅使は方物を献げ、奏して『新羅国王が申し上げます。新羅は開国以降、仰いで聖朝の世々の天皇の恩化に頼り、舟楫乾さず、御調を奉って年紀は久しく』云々」。【書紀の天智の巻に「新羅王に御調を奉る船一隻を与えた」ということも見える。】○共與天地は「あめつちのむた」と読む。【「天地と共に」と読むのも悪いわけではない。】万葉巻二【十八丁】(131)に「浪之共、彼縁此依(なみのむた、かよりかくよる)」、また【三十四丁】(199)「風之共、靡如(かぜのむた、なびくがごとく)」、巻四【三十四丁】(619)に「浪之共、靡珠藻乃(なみのむた、なびくたまもの)」、巻九【三十三丁】(1804)に「神之共、荒競不勝而(かみのむた、あらそいかねて)」、巻十【七丁】(1838)に「峯上爾、零置雪師、風之共、此間散良思(おのうえに、ふりおけるゆきし、かぜのむた、ここにちるらし)」、巻十二【三十七丁】(3178)に「風之共、雲之行如(かぜのむた、くものゆくなす)」、巻十五【十九丁】(3661)に「可是能牟多、與世久流奈美爾(かぜのむた、よせくるなみに)」、また【三十七丁】(3773)「君我牟多、由可麻之毛能乎(きみがむた、ゆかましものを)」など、みな「〜と共に」ということを「〜のむた」と言っている。古言である。書紀の神代巻(第九段一書第一)に「寶祚之隆、當與天壌無窮者矣(あまつひつぎは、あめつちのむたトキハカキハにさかえまさん)」、万葉巻二【二十九丁】(176)に「天地與、共將終登、念乍、奉仕之、情違奴(あめつちと、ともにおえんと、おもいつつ、つかえまつりし、こころたがいぬ)」、出雲国造神賀詞に「明御~能大八嶋乎、天地月日等共爾、安久平久知行牟(あらみかみのおおやしまを、あめつちつきひとともに、やすけくたいらけくしろしめさん)云々」とある。○無退は「とことわに」と読むべきである。【この「無退」や上記に引用した書紀の「無窮」など、単に意味の共通する漢字で漢文風に書いてあるだけなので、文字の意味にはあまり関係がない。「退」の字は、仏教書に「退轉」などとある普通の「退」の字の意味に書いたのか。あるいは「遏」の写し誤りかも知れない。もしそうなら「やむことなく」と読むべきである。】この新羅王の言葉を見ると、美しく華やかに調べを整えた文になっているから、その意を取って、祝詞などのように読むべきである。【書紀にある誓いの詞もそうである。ある人は、「これはもともとの新羅の言葉ではなく、こちらの言葉に訳したものだから、さほど文を飾る必要はなかっただろう」と言った。答え。「その国の言葉を訳したのはもちろんだが、こうした言葉は祝詞などのように、美しく言ったのが通例と思われる。だから実際にその国王が言った言葉はどうだったにせよ、皇国の古言を使って、当時の言葉で麗しく訳して語り伝えた雅言であるのを、なおざりに読み過ごすべきではない。」】○「定2御馬甘1(みまかいとさだめたまい)」。こう定めたことは、その王自身が言った言葉にあるから、もとは彼の方から言い出したことなのか。ただし「隨2天皇命1」ともあるから、こちらから言ったことを承知しましたという意味で言ったとも聞こえるが、「隨2天皇命1」というのは、すべてのことで服従したことを言うはずなので、そのうち特に「御馬甘」と言っているのは、やはり彼の方から言ったのだろう。いろいろある中でも、特に賤しい職でもって「仕えましょう」と言うのは、ひたすらに、深く厚く服従したことを言う。【続日本紀十五に「天下の馬飼、雑戸らの身分を免じて、『汝らが今負っている姓は、人が恥とするところである』云々」とある。】書紀によると、「新羅王は怖じ恐れ、どうして良いか分からなかった。諸人を集めて、『新羅は建国以來、まだこのように海水が国を侵したことを聞かない。天運が尽きて、国土はすべて海になるのだろうか』と言う言葉がまだ終わらないうちに船師が海に満ちた。耀く日の旗がひるがえり、鼓吹の声が起こって、山も川も震えた。新羅王は遥かにこれを望んで、『たいへんな軍勢だ。国を攻め滅ぼそうとしている』と怖じ恐れて、どうしたら良いか、考えが浮かばなかった。そこで『私は東方に神国があると聞いている。日本という国で、聖王がいる。その名を天皇という。その国の神兵に違いない。これを私の兵士が追い払えるだろうか』。即白旗を掲げて自ら服し、白い布をかぶって面縛し、図籍を封じて王船の前に行き、叩頭していわく、『今から後は、乾坤(あめつち)と共に永く飼部になって服し、不乾船柁(ふなかじほさず)、春秋に馬梳(馬の毛を梳くはけ)と馬の鞭を献げ、海の遠いのも厭わず、毎年男と女を調ぎものとして献げましょう。』即ち重ねて誓って曰く、『東から出た日は更に西から出るようなことがなく、且阿利那禮河(ありなれがわ)が逆に流れ、河石が天に昇って星辰になることがない限り、春秋の朝貢、梳(くし)・鞭(むち)の貢ぎを欠くことがあれば、天神地祇は共に私を討ちたまえ』と言った。あるいは新羅王の宇流助富利智干(うるそほりちか)は参り迎えて跪き、王の船を案内して叩頭して曰く、『私は今より後は、日本の国にいる神の御子の、内官家(うちつみやけ)として、絶えることなく朝貢いたしましょう』と言った、ともいう」とある。○百濟は「くだら」と読んでいる。【この名が古い書物に見えたのは、和名抄に摂津国の郡の名として「百濟は『くだら』」とある。続日本紀卅二に「縣造久太良」という人名があり、これも百濟の読みだろう。】名の意味は分からない。【これは「くだら」という読みのことを言う。百濟(ひゃくさい)という名のことは、からぶみの北史に「百軒の家で濟(な)した。ゆえに百濟という」とある。】書紀の継体の巻に扶余(くだら)【扶余はほかにそういう国があったのだが、「百濟は扶余の別種」ともあるから、後代には百濟の名にもなったのだろう。また百済の王の名は、餘ということが多く、唐書では扶餘というから、これも国名を取ったのだろう。】とも見え、雄略の巻に「尉禮國」とあるのもこれである。【「ねぎらうくに」と読むのは甚だしいみだりごとである。これも「くだらのくに」と読むのが正しい。東國通鑑に「慰禮は百濟の旧名」とある。】この国王の先祖、その他のことは、明の宮の段で言う。【伝卅三の十九葉】○渡屯家は、師が「わたのみやけ」と読んだのが良い。海を渡った彼方にあるので「わた」と言う。【海を一般に「わた」と言うのも渡る意味である。】書紀の欽明の巻に「海表の彌移居(みやけ)」、「海北の彌移居」ともある。【この「海表」、「海北」も「わた」と読むべきである。表や北の字は、意味を表すために添えたのである。】屯家のことは、日代の宮の段【伝廿六の三十七葉】で言った。海外の百済をこう定めたのは、皇国の内の屯家になぞらえたのだ。書紀の雄略の巻に、高麗の王の言で「私は、百濟は日本国の官家になって久しいと聞いている」とあり、欽明の巻に「百濟は丈六の仏像を造り、願文に『・・・天皇のしろしめす彌移居のくに、共に福祐を賜らんことを』とあった。云々」、また「百濟の官家を滅ぼすことを謀れば、必ず後の患いを招くだろう」、孝徳の巻に「百濟の使を呼んで、『初め、わが遠い皇祖のときに、百濟國を内官家と定めたが、云々』」などもある。書紀によると、「高麗と百濟二国の王は、新羅が日本国に図籍を押収されて降伏したと聞き、その軍勢を窺ってみると、とても勝てそうにないと思い、みずから陣営を出て叩頭していわく、『今後は永く西蕃として、朝貢を絶やしません』と言った。そこで内官家と定めた。これを三韓という」とある。【西蕃を「にしのとなり」と読み、他の巻に蕃屏を「かくれまがき」と読むなどは、みな読みようが分からないための読みである。隣は初めから隣なので、改めて隣と称する意味はない。「かくれまがき」も文字の解釈からこじつけたもので、全く当たらない。いにしえに蕃をどう読んでいたのかは、伝わっていないから分からない。事の意から考えて、「みやつこぐに」と読むのが良いだろう。「御臣國」ということだ。三韓については、漢の代々の史書を合わせ考えると、まず後漢書に「韓に三つある。一に馬韓、二に辰韓、三に弁韓」とある。弁辰を弁辰韓とか弁韓とも言う。卞韓と言うのもこれだ。馬韓は半島の西の方にあって大きく、五十余国ある。辰韓はその東の方にあって、十二国ある。弁韓は辰韓の南にあり、これも十二国ある。魏志には「弁辰韓合わせて二十四国」と言い、挙げている国は二十六国になる。これは辰韓と弁韓を合わせて言ったのかどうか、紛らわしい。およそあの書物に三韓の事を記したものは、筋が通らず、くだくだしいことが多い。

 三韓

このうちでも新羅の国は東と南が海に面していて、皇国からは最も近い国である。魏志に弁辰韓廿六国を挙げたうちに、斯廬(しろ)國というのがあるが、これがそうである。唐書にも「新羅は弁韓の苗裔である」と書いてある。ところが北史には「新羅はもと辰韓の種である」とあるのは、誤っているだろう。「辰」の字から弁韓と辰韓を取り違えた例は、他の書物にも時々見える。ただし地は弁韓だが、血筋は辰韓ということか。ともあれ、弁韓の国である。辰韓とすると、その南に弁韓があるのだから、「南に海がある」というのに合わない。魏志には、馬韓の五十余国のなかにも駟廬(しろ)國というのがあるが、それではない。百済の國は後漢書に「伯濟」とある国だろう。魏志には、馬韓五十余国の中に伯濟國がある。これである。北史にも「百濟は馬韓に属している」とある。新羅の西北の方にあり、西と南は海に面し、北の方にも小さい海がある。皇国へは新羅から来るより遠い。書紀に見えたのもそう聞こえる。高麗の国は高句麗とも言い、いにしえの朝鮮の北の方にあった。三韓はいずれもそれより南の方だから、高麗はもとは三韓に含まれていなかった。そのため後漢書や魏志でも三韓とは別に挙げている。だが高麗・百濟・新羅の三国が周辺の国を併合するなどして、次第に強勢になり、後にはこの三国を三韓と言うようになった。

三国 

漢国の南北朝の頃以降の史書などでは、もっぱらこの三国の史伝だけがある。しかし神功皇后の御世には、まだこの三国を合わせて三韓と言うことはなかったのに、三韓と書いたのは、後世の名を前のことに及ぼして書いたのである。今の朝鮮の東國通鑑という本に、百濟を馬韓、新羅を辰韓、高麗を弁韓と書いてあるのは、百濟だけが当たっていて、他は違っている。新羅が辰韓でなく、弁韓であることは、上で言った通りだ。また高麗ははるかに北方にあるのを、南の端の弁韓に当てたのは、どうした妄説か。高麗は、やや後には南の国々を併呑して兄弟になったが、その領域はまだ弁韓の地に到達していなかった。弁韓は新羅の有するところだったのである。あの東國通鑑という書物は、取るに足りない間違いばかりが多い。ところで高麗は皇国では「こま」と呼ぶ。名の意味は分からない。字もコマ(けものへん+百)と書くことがあり、その隣国に穢貊という国があり、後漢書に「『句驪(くり)』、一名『貊耳』」とあり、その別種に「小水貊」というのもあった。とすると「貊」というのは、古くはその辺りの総称だったのではないだろうか。書紀について考えると、三韓の領域内には、上記の三国を除いても他に多数の国があり、崇神・垂仁の巻以降に任那国が見える。これは皇朝から与えた名で、彌摩那というのと同じ仮名である。應神以降の巻にも見えるが、欽明天皇の時代に、新羅によって滅ぼされた。そこには「一本にいわく、二十一年、任那が滅んだ。総称すれば任那、細かく言うと加羅(から)國、安羅(あら)國、斯二岐(しにき)國、多羅(たら)國、卒麻(そちま)國、古嵯(こさ)國、子他(した)國、散半下(さんはんげ)國、乞喰(さんずい+食)(こちさん)國、稔禮(にむれ)國、合わせて十国があった」とあり、その後また建てられたようだが、最終的には滅んだ。加羅國というのは任那の旧名で、崇神天皇の御代に、外国人が初めてやって来たのは、この国だった。そのため西方の諸々の国を総称する名ともなって、三韓も漢国もみな「から」と呼ぶ。これをただ三韓のみに限る名と思って、漢国などをそう言うのを誤りだと言い立てるのは、逆に間違っている。万葉巻十九(4153?)に「漢人(からひと)」ともあり、また同巻(4240)に遣唐使のことを「韓國邊遣(からくにへやる)」とも、(4262)「韓國爾由伎多良波之弖(からくににゆきたらわして)」ともあるのを知らないのか。上記の十国のうちの加羅國は任那のうちの旧名を残した一国で、神功の巻以降に見える。安羅國、多羅國も同巻に見える。その他には卓淳國、南加羅(ありひしのから)國、トク(口+碌のつくり)國などというのもある。継体の巻に初めて耽羅(とんら)國が見え、斉明の巻以降にも見える。後世の書に度羅(どら)嶋とあるのはこの嶋である。粛慎(あしはせ<みしはせ>)國は欽明の巻以降に見える。これは把婁(ゆうろう?)とも靺鞨(まっかつ)とも言い、高麗の東北の方にあって、その東は蝦夷に近い。また聖武天皇の御世に、渤海(ぼっかい)國というところから使者を遣わして来た。これは高麗の別種で、姓は「大」と言い、高麗が滅んだ後、その付近の国をしばらく保っていて、大きな勢力を持つ国だった。からぶみの唐書、五代志などに伝がある。皇国に初めてやって来たのは、大武藝(だいぶげい)という王の時である。その後相続いてやって来て、今の京になって延喜の頃までもやって来た。当時コマ(けものへん+百)人と言ったのは、この渤海國のことである。それはともかく、いにしえの高麗朝鮮、三韓などのあたりは、今は一つに合わせて、みな朝鮮の領域である。また漢国は、推古天皇の頃から遣使を遣わし、向こうからも使いを奉ってきて、通好するようになった。これは皇国に参る諸々の戎国のうちでは、特に大きな戎国である。】とするとこの記でも高麗・百濟の二国王云々のことを記すべきだが、高麗のことは全く見えない。百濟もその王のことはなくて、いきなり「定2渡屯家1」とだけあるのは、いかにも唐突で筋が通らないように聞こえ、屯家と定めたというのも、書紀の書き方では三国全部をそう定めたように聞こえるのに、【継体の巻に「住吉大神は、初め海表の金銀の国、高麗、百濟、新羅、任那を胎中天皇に授けた。そこで大后の息長足姫尊は、大臣の武内宿禰と共に、国毎に官家を置き、海表の蕃屏(みやつこくに)として、既に久しい」、また「海表の諸蕃は、胎中天皇のときから内官家を置いた。云々」、欽明の巻に「海表の諸々の彌移居(みやけ)の事」、敏達の巻に「新羅が内官家の国を滅ぼした」。これは任那のことである。推古の巻に「任那はもとわが内官家」などあり、みな百濟とは限らず、官家と言っている。万葉巻十五に新羅國にゆくことを「須賣呂伎能、等保能朝庭等、可良國爾、和多流和我世波(すめろぎの、とおのみかどと、からくにに、わたるわがせは)云々」ともある。】ただ百濟に限って言うと思われており、なるほど一見そう見えるが、これは書紀をよく考えると、この巻(神功皇后)の四十六年のところに、「斯摩(しま)宿禰を卓淳(とくじゅん)國に遣わした。卓淳の王は斯摩宿禰に告げて、『甲子の年に、百濟の人、久テ(氏の下に一)(くて)、彌州流(みつる)、莫古(まこ)の三人がわが国に来て、百濟王は東方に日本という貴い国があると聞いて、臣たちを遣わし、その国に朝遣しようとしています。その道を求めて、この国までやって来ました。もし道を臣たちに教え、通行させていただけるなら、わが国の王は、必ずその深い恩に報いましょう、と言った。そこで久テたちに、私も以前から東に貴い国があると聞いている。しかしまだ通好していないので、道が分からないのだ。海が遠いため、大船に乗って、わずかに行くことができるらしい、と答えた。すると久テらは、それなら今は行くことができませんね。帰国して、船を準備した後に行こうと思います、と言った。また、もしその貴い国の使いがこちらにやってきたときは、必ずお知らせください、と言って帰って行った』と言う。そこで斯摩宿禰は従者の爾波移(にはや)と卓淳の人、過古(わこ)の二人を百濟國に遣わして、その王の労をねぎらわせた。そのとき、百濟の近肖古王は非常に喜び、宝の藏を開いて、種々の珍奇なものを見せ、『わが国には、こういう珍しい宝物がたくさんあります。貴国に奉りたいと思いますが、道を知りません。けれども今すぐ、使者に持たせて奉りましょう』と言った。爾波移は帰って志摩宿禰に知らせた。そこで卓淳から帰ってきた。四十七年、百濟の王は、久テ、彌州流、莫古らを遣わして朝貢してきた。彼らは、新羅国の調(みつぎ)の使いと一緒にやってきた。云々」とある。とすると、百濟國が朝貢してきた初めは、同じ御世であっても、遙かに後であって、新羅を征したのと同じ時のことではない。だからこの記に「定2渡屯家1」とあるのも後のことなのを、新羅を馬甘と定めたことを述べるついでに、この段で一連のこととして書いたのだろう。「その王は云々」という文がないのも、そのためだ。また高麗國が朝貢してきたのは、百濟のことから類推して、書紀の應神の巻に「七年秋九月、高麗人、百濟人と、任那人、新羅人が来朝した」とあるのが最初だろう。これが初めてではないとしても、應神天皇の御世のことだ。とすると、この大后の時代のことではないので、この記では、高麗のことは言わなかったのだろう。だいたい百濟、高麗などが朝貢してきた初めは、上述したのが正しい伝えのはずだが、書紀のこの段に「二國王云々」とあるのは、例によって撰者が自分勝手に加えた作為のように聞こえる。【そうでないならば、上記の四十六年の記事と、同じ御世の間で、前後矛盾しているのはなぜか。四十六年の文はたいへん詳細で、これこそ古記の趣がある。まして高麗は百濟より千余里も北の方と見えて、皇国の今の距離では百余里離れており、新羅へは一層遠いから、この大后が新羅を討ったことを人伝えに聞いて、誰かを遣わして様子を伺わせ、それから王が新羅の本拠までやって来るには、早くとも六、七十日を要するだろう。ところが大后は十月十三日に津嶋から船で出発し、十二月十四日には筑紫に帰って、出産しているから、新羅の国に留まっていた期間は、それほどの日数ではない。その間に、高麗の王がどうしてやって来られただろう。これらを見ても、その段の「高麗・百濟二國王云々」は撰者の作為であることをさとるべきだ。】また屯家と定めたことを、百濟に限って言ったのは、三韓の諸国の中でも、百濟は後々までも特に忠実で、親しく交わった国だからだろう。○御杖(みつえ)は、書紀には「所杖矛(つきたまえるほこ)」とある。前述したように、いにしえの矛には種々のものがあり、全体が木で身(金属製の刃先)がないのも普通だったから、それを杖のようにつくのを「杖」というのも違っていない。【杖が即ち矛なのである。】○門は「かなと」と読む。遠つ飛鳥の宮の段で、穴穂の太子の歌に「加那斗加宜(かなとかげ)」、【門蔭である。】万葉に「金門」と書いてあるような意味である。このことは、その歌のところ【伝卅九の三六葉】でさらに言う。○衝立(つきたてたまいき)。こう言っただけでは言葉が足りない感じである。その意味は、書紀に書かれたようなことではないだろうか。【次に引用する。】書紀には「ついにその国中に入り、重宝の府庫を封じ、図籍および文書を奪った。そこで皇后は持っていた矛を、新羅王の門の前に立てた。後世の印にするためである。だからその矛は今も新羅王の門のところに立っている。そこで新羅王の波沙寐錦(はさみきん)は、即ち微叱己知波珍干岐(みしこちはちんかんき)を人質として、金・銀・彩色および綾(あやぎぬ)・羅(うすぎぬ)・ケン(糸+兼)絹(たかとりのきぬ)を持たせ、八十艘の船に載せて、官軍に従わせた。これは、新羅王が常に八十船の調を日本国に奉ることの起こりである」、【「封重寶云々」の二句は、例の漢文の潤色のように聞こえる。】○墨江大神(すみのえのおおかみ)は上記の底筒男、中筒男、上筒男の三柱の神のことだ。この大神を墨江に祭ったのは後のことだが、後の名で前の事を語るのはよくあることだ。○荒御魂(あらみたま)、和御魂(にぎみたま)。書紀のこの巻(神功の巻)に「和御魂は玉身に着けて命を守りなさい。荒御魂は先鋒となって船を導こう」とあり、「和魂、これを『にぎみたま』と読み、荒魂これを『あらみたま』と読む」と注がある。出雲国風土記<意宇郡安来郷の毘賣埼(ひめさき)の條>に「天~千五百萬、地祇千五百萬、并當國靜坐三百九十九社、及海若等、大~之和魂者靜而、荒魂者皆悉依給(あまつかみちいほよろず、くにつかみちいほよろず、またこのくににしずまりますみももちまりここのそここのやしろ、またわたつみのかみたち、おおかみのにぎみたまはしずまりて、あらみたまはみなことごとによりたまえ)云々」などとあるので、二つの御魂のありさまを知るべきである。<訳者註:この引用は主題が分かりにくいが、猪麻呂(いまろ)という人物が娘を鰐に食われて、報復のために荒魂を身に依らせようとして祈った言葉である。>【書紀の神代巻に、幸魂・奇魂とあるのは、いずれも和御魂の働きを言う。そのことは上巻の大国主神の段、伝十二の廿五葉で言った通りである。それを幸魂を和魂、奇魂を荒魂に当てはめるのは誤りである。】出雲国造の神賀詞に、【大穴持命乃申給久、皇御孫命乃靜坐牟大倭國申天、己命和魂を八咫鏡爾取託天、倭大物主神櫛ミカ(瓦+髟)玉命登名乎稱天、大御和乃~奈備爾坐、】おおなもちのみことのもうしたまわく、すめみまのみことのしずまりまさんおおやまとのくにともうして、おのれみことのにぎみたまをやたかがみにとりつけて、やまとのおおものぬしくしみかたまのみこととなをたたえて、おおみわのかみなびにませ)云々」、皇太神宮儀式帳に「荒祭宮(あらまつりのみや)は大神宮の荒魂宮と称する」、延喜式神名帳に「大和國城上郡狹井坐大~荒魂(さいにますおおみわのあらみたま)~社」、【神祇令の鎭華祭の集解に、「狹井は大~の麁御霊(あらみたま)である」とある。】この名の古い書物に見えるのは、およそ上記の通りである。一般に「にぎ」と「あら」とは対照的な語として言うことが多い。和(にぎ)たえ・荒(あら)たえ、和稲(にぎしね)・荒稲(あらしね)、和海布(にぎめ)・荒海布(あらめ)、毛柔物(けのにごもの)・毛麁物(けのあらもの)、【「にご」は「にぎ」と同言である。】などの例の通りだ。この和・荒に種々の意味があり、荒金(あらかね)、荒玉(あらたま)などと言うのは、物ができたばかりで、まだ加工を施さないのを言い、それに対し加工して使える形にしたものを「和何々」と言う。【上記の荒稲・和稲もこれである。これは生・熟の字の意味である。「にぎたづ」という地名を「熟田津」と書く。】また物の麁い(粗大である)ことと精細であることも言い、強(こわ)いことと柔らかいことも言い、人の家などが荒れているのと饒(にぎ)わっているのも、【この饒(にぎ)も同言である。】また波が騒ぐのを荒れると言い、静まるのを凪ぐと言う。神の心も荒れる、和むという。【「なぐ」、「なぎ」、「なごむ」なども「にぎ」、「にご」、「にごむ」などと同言である。】一方、物の間が遠ざかるのを麁いと言い、【「大間麁籠(おおまあらこ)」、「あらら松原(まばらな松原)」などのたぐいだ。】遠ざかることを「荒ぶ」と言い、【万葉に(556など)「あらぶる君」、また(172など)「あらびなゆきそ」などとあるのは、このたぐいである。】分散することを「あらく(あらける)」と言う。【これらの対語に「にぎ何々」というのは考えつかない。おおかた「にぎ」「あら」の上記の例を漢字に書くと、生熟、精麁(精粗)、踈密(疎密)に当たるだろう。ところが「踈」を「あら」と言うことはよくあるが、「密」を「にぎ」と言う例は思い付かない。「にぎわう」などはこれに近い。また剛柔の「柔」を「にぎ」と言うけれども、その対語の「剛」を「あら」と言うことはない。「柔(にぎ)」の対語の「あら」は強暴の意味に当たる。】これらの種々の例から、和御魂、荒御魂の意味を測り知るべきである。ところで~の御霊をこの二つに分けて言うのは、単にその働きを言うのであって、御霊本体は一つの御霊である。この二つ以外にないわけではない。以前ある人がこの二御魂のことを質問したとき、私は火に喩えて答えたことがある。一つの火があるとき、そこから蝋燭の火と薪の火に分け取ったとして、どちらにも燃え移るけれども、もとの火も消えるわけでなく、減ることもなく、もとあったそのままである。御霊本体はこの「もとの火」であり、和御魂・荒御魂は、蝋燭の火と薪の火に相当する。」、【だが世人はこの意を知らず、御魂本体がこの二つに分かれると思うから、一つが荒魂なら、残る一つは必ず和魂に違いないと思うのは間違いである。たとえば伊勢の荒祭宮は大御神の荒魂だといっても、本宮は和魂というものではない、全体の御魂である。摂津の廣田神社も天照大御神の荒魂である。このように同じ神の荒魂も一つと限らないのは、上記の火を幾つもの薪に取り分けたようなものだ。また大和の大三輪は大国主神の和魂なのだが、狹井神社はその大三輪の神の荒魂だというように、和魂の中にも荒魂があるのだ。これは蝋燭の火をまた薪に移したようなものである。このように大国主神は大和国に和魂も荒魂もいるのだが、出雲国の杵築大社も、また同じ神の御魂であるというのは、もとの火はもとのままであるようなものだ。これまた大和の大三輪の和魂であるのに対して、強いて杵築を荒魂とするのは誤りである。杵築は御魂の本体であることは、上記の神賀詞の言葉でも分かる。ある人は質問して「住吉の大神の荒魂は長門の国に、和魂は摂津の国に祭っているという。すると御霊本体はどの社にあるのか?」。答え。「社を建てるかどうかは人の側の都合で、神の御霊には関係がない。だから神代の尊い神の中にも、その鎮座する主要な社はないことも多い。だからといって、その神はいないと言うことではない。それにここで住吉の大神を祀ったのは、その和魂・荒魂の御幸(みちはい)によって事が成功したのだから、それを祭ったのである。つまり和魂、荒魂といっても、別物ではない。いずれもその神の御魂だから、その他に本体の社などというものがなくても、何の差し障りもない。またどの神でも、社を建てて、和魂とも荒魂とも言わず、ここにもかしこにも祭ることがあるが、それも同じ御魂である。必ずしも和魂・荒魂のどちらかに限るのではない。ところで神に御霊があるように、普通の人にもそれなりに霊があり、死ねば夜見の国に行くけれども、なおこの世に霊が留まって、福や禍を為すことがあるのも、神と同じである。ただその人の身分の尊卑、心の智愚、強弱などによって、この世に魂が残るにも差があり、初めから全く無いような者もある。また数百千年を経ても、たいへん盛んに働いて、本当に神のような者もある。こうして夜見の国へ去って行った魂がこの世にも残るというのはどういうことかと言うと、上記のもとの火をどこかへ持ち去っても、その光はまだ元の場所にも及んでいて、しばらくは明るいようなものである。だが持ち去る火が遠ざかるに従って、及ぶ光も次第に弱くなって消えて行くように、数多の年を経た後では、残った霊も消えて行くのだが、尊い神などは黄泉の国に去った後でも、この世に残った御魂はとこしえに衰えることなく盛んなのは、もとの火が大きく強いため、持ち去って他の所にたどり着いた後でも、元の場所に及ぶ光がなお強く、変わることがないようなものだ。」】○國守神は「くにまもりますかみ」と読む。【字のままに「くにもりのかみ」とも読めるが、神が守っているのを山守、野守、道守、渡守などと同じように言うのも疑問だからだ。しかしいにしえには同じように言ったかも知れない。そうであれば字の通りに読むべきである。】韓國を鎮めて、背くことがないように、永遠に皇朝に帰服するように守る神である。○祭鎭は「しずめまつりて」と読む。【「鎭」は万葉巻七(1403?)に「鎭齋(いわう)」と見え、他にも「いわう」と読まなければならないところがあるから、ここもそう読むべきかとも思ったが、やはりここは】「鎭」は、今まで船上に祭っていたのを、社を建てて、そこに鎮めたのだ。【「鎮まる」は「とどまる」の意味だということは、前述した。】書紀には「ここで、軍に従ってきた神、表筒男、中筒男、底筒男の三神は、皇后に告げて『私の荒魂を穴門の山田邑に祭れ』と言った。この時穴門直の祖、踐立(ほみたて)、津守連の祖、田裳見(たもみ)宿禰は皇后に啓して『神の居りたいと言う地に必ず奉り定めなさい』と言った。そこですぐに踐立を荒魂を祭る神主に任命し、祠を穴門の山田邑に建てた」とあり、延喜式神名帳に「長門国豊浦郡、住吉坐荒御魂(すみのえにますあらみたま)神社三座」、【並びに名神大】とあるのがこれである。【三代実録に「貞観元年正月、長門国従五位下、住吉の荒魂の神に従五位上を授けた」、「同十七年十月、長門国従五位上住吉の荒魂の神に、正五位下を授けた」、「同十二月、長門国従四位下住吉の荒魂の神に、従四位上を授けた」、「仁和二年十一月、長門国従四位上住吉の荒魂の神に、正四位下を授けた」とある。編年集成に「豊浦の住吉」とあり、この神社は今も山田村というところにある。】だがそれをこの記には、「還渡也(かえりわたりましき)」という文の上にあって、新羅国に鎮め祭ったように聞こえるのはどうしたことだ。【「國守神」と言うのも、韓国を単に「国」とだけ言っているのは、その国での言い方だ。皇国に帰ってから長門で言ったのなら、「韓国を守る神」とこそ言うべきだろう。これを長門の住吉とすれば、「國守」とは異国からの侵入を防いで、皇国を守るという意味になる。あるいは長門に祭ったのと別に、新羅でも祭ったのかと思ったが、やはりそうではないだろう。】書紀には「皇后の船は、まっすぐに難波を指して進んだ。ところが皇后の船は海中をぐるぐる回って進まない。もう一度務古(むこ)の水門(みなと)に帰って、卜ったところ、天照大神が告げて『私の荒魂を皇居に近づけてはならない。御心は廣田の国にいるべきだ』と言った。すぐに山背根子の娘、葉山媛に祭らせた。また稚日女尊が告げて、『私は活田いくたの長峽(ながさ)の国におりたい』と言ったので、海上(うなかみ)の五十狹茅(いさちほこ)に祭らせた。また事代主尊が告げて、『私の御心は、長田の国に祀れ』と言った。そこで葉山媛の妹、長媛に祭らせた。また表筒男、中筒男、底筒男の三神が告げて、『私の和魂は往来の船を見守るために、大津の渟中倉(ぬなくら)の長峽(ながお)に祀れ』と言ったので、神の教えのままに鎭坐させた。すると何の障害もなく海を渡ることができた」ということも見える。【ここに出るのは。みな先にお告げのあった神たちである。「皇居」の「居」の字を、本で「后」としているのは誤りである。帝王編年記に「居」とあるのが良い。「廣田」は延喜式神名帳に「摂津国兵庫郡、廣田神社、名神大、月次・相嘗・新嘗」とあり、一般に西宮神社という社である。「活田」は「同国八部郡、生田神社、名神大、月次・相嘗・新嘗」とあり、生田の社というのがこれである。「長田」は「同郡、長田神社、名神大、月次・相嘗・新嘗」とある。「大津の渟中倉の長峽」は和名抄に「同国兎原郡、住吉郷」とあるところで、今も住吉村という。本住吉(もとすみよし)といって神社もある。住吉村はいにしえに「ぬなくらの里」と言ったという。この地は武庫(六甲)の山の分かれで、南の方へ長く引き延びた尾の崎で、なるほど「長峽」というべきところだ。今は海辺まで七、八町ある。今の住吉郡というところは後に移された場所で、この「渟中倉の長峽」という場所ではない。今の地では、上記の文の「皇后の船は、直接の難波を指して進んだ。ところが皇后の船は海中をぐるぐる回って進まない。もう一度務古(むこ)の水門(みなと)に帰って、卜ったところ、・・・すると何の障害もなく海を渡ることができた」というのに合わない。兎原郡の住吉ならよく一致する。伝六にこれを今の住吉の地として書いたが、それは精確でなかった。】今の地に移ったことについては、高津の宮の段で考えを述べる。【伝卅五の二十葉】○還渡也(かえりわたりましき)とは、新羅から海を渡って還ってきたことを言う。【上述のように、この文が墨江大神の荒御魂を鎮め祀ったという記事の後にあるのは疑問だ。あえてそれを正しいと弁ずるなら、その荒御魂を祀ったのは長門国のことであっても、それからまた難波までは海路を帰る道だから、大倭国に到着するまでを含めて言ったのであり、この語は文末でなければならないとも言えそうだ。しかしやはりそうは思われず、新羅から皇国の地に帰ってきたように聞こえる。とすると、もともと還渡という語は「門」の字の次にあったもので、その次に「即以云々」とあったのを、阿禮が暗誦した折にでも順序を誤ったのではないだろうか。】○この大后が韓国を征伐したことについて、儒者どもが論じて、「新羅はその当時、皇国を攻めたことも聞こえず、どれといって罪を犯したわけでもないのに、理由もなく討ったのは、ただ宝物を貪ったのであって、不義の暴挙、無名(言い訳の立たない)の軍事行動だった」と言うのは、単に己の個人的な考え、浅はかな智慧でことの義理を決めようとする、例の漢国の意であって、真の道を知らないのである。そもそもこの征伐は、神の心から起こり、すべては神の仕業だから、そこには必ずそうしなければならない義理があったのだ。その義理はたいへん微妙なものだから、人が測り知れるものではない。それをああだ、こうだと論じ建てるのは、畏れ多くも身の程知らずなことである。【神の仕業ということを虚誕、妖妄だというのは、これまた漢国の己の智慧だけを頼む習慣であって、まことの道を知るあたわざる者のいつもの言である。また垂仁紀の記事によって、任那のために討ったというのも、漢意にへつらって、上記の無名・不義というそしりを強いて逃れようとする自分勝手な思いつきであって、神の教えによって征伐したのだということを忘れている。また朝鮮の三国史記、東国通鑑などの書物に百濟、高麗、新羅の年代記を記した中には、皇国のことを他の国々と同等のように卑しめて書き、この大后の征伐のことを全く書いていない。かの三国ともに服従し朝貢した様子を描かないのは、そういう過去を嫌って隠したのである。三国史記に「新羅の阿達羅尼師今の二十年夏五月、倭の女王卑弥呼が使いを寄こして来聘した」、また「助賁尼師今三年夏四月、倭人が突然来襲して金城を取り囲んだ。王みずから出て戦った。賊は潰走した」などとあるのは、ぼんやりと似たことのように聞こえるが、「賊は潰走した」などというのは、あまりにも偽りごとだ。東国通鑑には、これらのことさえ除いて書いていない。一般にこれらの書物は誤りや偽りばかりが多く、論ずるに足りないが、世の人は戎書(からぶみ)とさえ言うとありがたがって信用する習慣があるから、これらの書物を見ると、この三国が服従したことを疑う人もありはしまいかと思い、少々注意を喚起しておくのである。】<訳者註:戦後史学では、三韓征伐は創作に過ぎず、実際にはなかったという見方が優勢である。ただし一部の歴史家は、書紀より後にも「棹舵干さず」など特定の言い回しが繰り返されるので、何か根拠になる事件があったのではないかと言う。記紀成立当時は、多くの人が「わが国はかつて新羅を服従させた」と思っていたのだ。なお宣長は書紀の年紀に疑問を抱きながらも、この三韓征伐を卑弥呼と同時代のことと解釈したらしい。参考のためWikipediaから借用した「三韓」時代の地図と、三国史記時代の地図を載せておいた。>

 

故其政未レ竟之間。其懷妊臨レ産。即爲レ鎭2御腹1。取レ石以。纏2御裳之腰1而。渡2筑紫國1。其御子者阿禮坐。<阿禮二字以レ音>故號2其御子生地1謂2宇美1也。亦所レ纏2其御裳1之石者。在2筑紫國之伊斗村1也。

訓読:かれそのマツリゴトいまだおえたまわざるほどに、はらませるミコあれまさんとしつ。かれミハラをいわいたまわんために、いしをとらして、ミモのこしにまかして、ツクシのクニにわたりきましてぞ、そのミコはあれましける。かれそのミコうみたまえるところを。ウミとぞなづけける。またそのミモにまかせりしいしは、ツクシのクニのイトのむらになもある。

口語訳:その征伐のことを終える前に、孕んでいた御子がもう臨月になっていた。そこで腹を鎮める(生まれないようにする)ために、石を取って衣裳の腰のところに巻き付け、筑紫の国に到ったところで子を生んだ。そこで子を生んだところを「うみ」と呼ぶ。その腹に巻いた石というのは、筑紫の伊斗村にあるという。

其政(そのまつりごと)とは、韓国を征伐することを言う。一般に「まつりごと」とは臣・連・八十伴緒が朝廷に仕奉るという意味だということは、白檮原の宮の段【伝十八の七葉】で言った通りだ。だからこれは、いにしえはみな仕える人がすることで、君主がすることとして言ったことはない。ここにこう書いてあるのは、この戦役は天照大御神の大命を受けて行ったから、【そのことは前述した。】大御神に仕えるということである。○未竟之間(いまだおえたまわざるほどに)は、まだ果たしていないうちに、ということだ。「竟(おえ)」は、倭建命の段に「所遣之政遂(まけのまつりごととげて)」とある「遂(とげ)」と同じことだ。【「未竟」といえば、もうそのことを七、八割は終わっていて、もう少し残っている、といった状況のように思うだろうが、「取レ石云々」のことは、まだ新羅に渡る前の事だから、そうではない。】○懷妊臨産は、「はらませるみこあれまさんとしつ」と読む。【師は「みこあれましなんとす」と読んだが、これだけでは言葉が足りない感じがある。「はらませる」という語もあるべきだ。書紀の推古の巻に「皇后懐妊開胎之日(みこあれまさんとするひ)云々」とあるのは、その御子のことを言うのだから、それだけでもいい。】これはまだ新羅に渡る前、筑紫でのことである。○爲鎭は「いわいたまわんために」と読む。「いわい」は「しずめ」とも読めるし、「ために」は「として」とも読める。【「として」と読むときは「たまわん」も「たまう」と読む。<「しずめたまうとして」と読む>】この政が終わるまで、生まれないようにと祝ったのである。書紀の崇神の巻に「忌瓮(いわいべ)を和珥坂(わにさか)に鎭(いわい)坐(すう)」、【万葉巻三(379)、巻十三(3284)などに「忌戸乎齋穿居(いわべをいわいほりすえ)」とある。】万葉巻十九【四十二丁】の遣唐使に酒を賜う歌(4264)に「虚見都山跡乃國波、水上波地徃如久。船上波床坐如、大神乃鎭在國曾(そらみつやまとのくには、みずのうえはつちゆくごとく、ふねのうえはとこにおるごと、おおかみのいわえるくにぞ)云々」、【同じ巻(4240)に「大舶爾眞梶繁貫、此吾子乎、韓國邊遣、伊波敝神多智(おおぶねにまかじしじぬき、このあごを、からくにへまく、いわえかみたち)」とあることから「鎭在」の読みを考えて定めるべきである。】同反歌(4265)に「四舶早還來等、白香着朕裳裙爾、鎭而將待(よつのふねはやかえりこと、しらがつけわがものすそに、いわいてまたん)」、これらは「鎭」の字を「いわい」と読む例である。【ところがいずれも今の本は訓を誤って、この字を「いわい」と読むことを知らない。】「いわう」という言葉は、万葉巻十五(3583)に「眞幸(まさき)くと妹が伊波伴伐(いはゝば)、奥(おき)つ浪千重(ちへ)に立(たつ)とも、障(さはり)あらめやも」、また(3587)「栲衾(たくぶすま)、新羅へいます、君が目を、今日か明日かと、伊波比弖(いはひて)待(また)む」、また(3636)「家人(いへひと)は、還早來(かへりはやこ)と、いはひ嶋、伊波比(いはひ)待(まつ)らむ、旅行(たびゆく)我を」、また(3778)「白妙の、我衣手を、取持(とりもち)て、伊波敝(いはへ)吾兄子(わがせこ)、たゞに逢(あふ)までに」、巻十九(4280)に「立別れ、君がいまさば、敷島の、人は我じし、伊波比弖(いはひて)待また」む」などあり、他にももっと多い。○「取レ石(いしをとらして)」、後に引く万葉巻五の歌(813)の端書きによれば、肥前國彼杵郡の平敷(ひらしき)というところの石を、卜に逢ったので、取って用いたのである。【ある人いわく、「平敷というのは今の長崎に近い浦、上村平野宿というところで、今もきれいな赤石白石がたくさん出るのを、火打ち石や、摺って緒結(おじめ)というものにする」ということだ。】○「纏2御裳之腰1(みものこしにまかして)」、「纏」はまかして」と読む。【まいたのである。】その石を包んで、帯などで裳の腰に結わえ付けたのだ。【書紀には「腰に挿し」、筑前国風土記には「御腰に挿し」、万葉(813詞書)には「袖の中に挿しはさんで、(実は御裳の中である。)」とある。その文は、みな後に引用する。】この「御裳」は、下裳を言うのだろう。下裳については、上巻【伝六の四十六葉】で言った。○「渡2筑紫國1(つくしのくににわたりましき)」は、韓国を言向け終わって、帰り渡ってくるのを言う。そこで「渡」を「わたりましき」と読む。【ただ「わたりまし」とだけ言っては、何となく言葉が足りない感じだからである。】○阿禮坐(あれまし)は、生まれたということだ。このことは白檮原の宮の段【伝廿の卅五葉】で言った。○「謂2宇美1(うみとぞなづけける)」。書紀にも「皇后は新羅から帰り、十二月戊朔辛亥、譽田天皇を筑紫で生んだ。そのため、当時の人はその生んだところを『宇瀰(うみ)』と呼んだ」とある。應神の巻に「筑紫の蚊田で生まれた」とあるから、そこの旧名は蚊田(かだ)と言ったのだろう。今も筑前国糟屋郡に宇瀰村があり、宇瀰神社もある。【八幡大神を祭るという。愚管抄に「筑紫に還って、うみの宮の槐(えんじゅ)に取りすがって應神天皇を生んだ」とある。この木は今も植え継いで、社には大きな槐の樹があるそうだ。帝王編年記には「筑紫に還って、譽田天皇を生んだ。その生まれたところは筑前国那珂郡、筥崎(はこざき)の浜である」と記し、一説に、「筥崎は、應神天皇の胎衣を箱に入れてこの地に埋めたので、この名が付いた。そのしるしの松が筥崎宮のあたりにある」とも言う。筥崎の松を詠んだ歌が拾遺集にある。「しるしの松」と詠んだのも、新拾遺集にある。筥崎については様々な説があって詳しいことは分からない。しかしこの御子に縁のあるところではあるだろう。延喜式神名帳には「筑前国那珂郡、八幡大菩薩、筥崎宮、名神大」とある。また後に引く筑前国風土記の文は、「宇美」も「子饗(こふ)の原」と同じ所で、怡土郡にある地と聞こえる。さらにその国人によく尋ねて定めるべきである。】○伊斗村(いとのむら)は、【「斗」の字を諸本で「計」と書いているのは誤りである。ここでは延佳本によった。】和名抄にある「筑前国怡土【いと】郡」がそうだ。【続日本紀十九に「はじめて怡土城を築いた。大宰の大貳、吉備朝臣眞備(まきび)をそのことに専門で当たらせた」とある。宗像郡にも怡土郷があるが、それではないだろう。】書紀の仲哀の巻に「筑紫の伊覩(いと)の縣主の祖、五十迹手(いとて)は、天皇がやって来たと聞いて、・・・天皇は五十迹手を賞めて、『伊蘇志(いそし)』と言った。それで世の人は五十迹手の本土を『伊蘇國(いそのくに)』と呼んだ。今『伊覩』と言うのは訛ったのである」、筑前国風土記(逸文)に「怡土郡。昔穴戸の豊浦宮で天下を治めた足仲彦天皇が球磨噌(くまそ)を討とうとして、筑紫にやって来たとき、怡土の縣主の祖、五十迹手は天皇がやって来たと聞いて、五百枝の賢木を船の舳艫に立て、上枝に八尺瓊を掛け、中枝に白銅鏡を掛け、下枝に十握釼を掛けて、穴門の引嶋に参り迎えて奉った。天皇は『これは誰か』と尋ねた。五十迹手は『高麗の意呂の山に天降った日桙の子孫、五十迹手です』と答えた。天皇は五十迹手を賞めて『恪、【いそし】五十迹手の本土は恪勤(いそ)の国と呼べ』と言った。今『怡土』と言うのは訛ったのである」とある。【この二書ともにこの地名は「いその国」だったのを、「いと」と言うのは訛ったのだと言うが、考えてみると「五十迹手(いとて)」の地名に依っているように聞こえ、からぶみの魏志の皇国の伝に「伊都国」とあるのも、この地のことのように聞こえるから、魏志はこの大后の御世のころの様子を、伝え聞いて書いたようであり、そこに既に「伊都」とあるからには、訛りではないのだろうか。】この石のことは書紀にも「秋九月・・・吉日を卜って、いざ出発しようとしたとき、・・・ちょうどそのとき、皇后は開胎(生まれ出ようとして)、そこで石を取って、腰に挿し、『事が終わった後、還った時にはここで生まれよ』と祈った。その石は今は伊覩の縣の道辺にある」と見え、【「開胎」を本では「うむがつき」と読んでいるが、上記の推古の巻に「懐妊開胎之日」とあるのも、御子を生もうとする間際を言い、ここもそういう意味だ。】筑前国風土記逸文「芋ミ(さんずいへん+眉)野(うみぬ)」に、「逸都(いと)郡、子饗(こふ)の原に、石が二つある。一つは長さ一尺二寸、周りは一尺八寸、一つは長さ一尺一寸、周り一尺八寸、色は白く、丸くてまるで磨いて作ったようである。世に伝えていわく、息長足比賣命は新羅国を討とうとして軍事の際、懐胎していた子が今にも生まれようとした。そこで二つの石を取って、裙の腰に挿し挟み、ついに新羅を討って凱旋した日、芋ミ(さんずいへん+眉)野で太子を出産した。この由縁で芋ミ野と言う。【産を「芋ミ(うみ)」と言うのは、単なる方言である。】俗間、妊娠している女が、突然子が生まれそうになったとき、裾の腰に石を挿して、まじないをして時間を延ばすのは、これがもとだろうか」とある。【「子饗原」は、万葉に「子負原」と書いて、歌に「故布乃波良(こふのはら)」とある。ところで「俗間、妊娠している女が云々」というのは、ある人が言うには、「今も筑紫の風習で、女が子を生む時、傍らから力を付けようとして、『まだ異国は治まらんぞ』と言うことがある」ということだ。】筑前国風土記逸文「兒饗石」に「怡土郡兒饗野(こふぬ)。【郡の西にある。】この野の西に石が二つある。【一つは長さ一尺二寸、太さ一尺、重さ卅一斤、一つは長さ一尺一寸、太さ一尺、重さ卅九斤】昔、氣長足姫尊は新羅国を討とうとしてこの村まで来たとき、懐胎していた子が今にも生まれようとした。そこでこの二つの石を取って、腰に挿し挟み、『朕欲西堺(私は西の堺<くに>を討とうとして)ここにやって来ました。孕んでいる皇子がもし神ならば、凱旋して後に生まれてください』と祈った。ついに西堺を定めて還って来てから出産した。譽田天皇というのがこれである。世人はその石を名付けて皇子産石(みこうぶいし)と呼んだ。今は訛って兒饗石(こふいし)と言う」、【「朕欲」の下に字が脱けている。】万葉巻五(813)に「筑前国怡土郡深江村、子負(こふ)原の海に臨む丘に、二つの石がある。大きいのは長さ一尺六寸、周りは一尺八寸六分、重さ十八斤五両、小さい方は長さ一尺一寸、周り一尺八寸、重さ十六斤十両、いずれも楕円形をしており、形は卵のようである。その美しさは論ずるまでもなく、いわゆる「径尺の璧」というものである。【一説では、この二つの石は肥前國彼杵郡の平敷の石を、占に当たったので取ったという。】深江の驛家から二十里ほどの道端にある。公私の往来する際、馬を下りて跪拝しない者はない。古老が相伝して言うには、『昔、息長足日女命は新羅国を討とうとして軍事の際、この二つの石を取って、袖の中に挿し挟んで鎮懐とした。【実は裳の中である。】このため、行く人はこれを敬って拝むのだ』という。すなわち歌って『可既麻久波阿夜爾可斯故斯多良志比悼ツ尾能彌許等、可良久爾遠武氣多比良宜弖、彌許々呂遠斯豆迷多麻布等、伊刀良斯弖伊波比多麻比斯(かけまくはあやにかしこしたらしひめかみのみこと、からくにをむけたいらげて、みこころをしずめたまうと、いとらしていわいたまいし)麻多麻奈須布多都能伊斯乎、世人爾斯梼z多麻比弖、余呂豆余爾伊比都具可禰等、和多能曾許意枳都布可延乃、宇奈可美乃故布乃波良爾、美弖豆可良意可志多麻比弖、可武奈何良可武佐備伊麻須、久志美多麻伊麻能遠都豆爾、多布刀伎呂可ム(イ+舞)(またまなすふたつのいしを、よのひとにしめしたまいて、よろずよにいいつぐがねと、わたのそこおきつふかえの、うなかみのこふのはらに、みてずからおかしたまいて、かむながらかむさびいます、くしみたまいまのおつつに、とうとききろかむ)』」、【反歌(814)】「阿米都知能、等母爾比佐斯久、伊比都夏等、許能久斯美多麻、志可志家良斯母(あめつちの、ともにひさしく、いいつげと、このくしみたま、しかしけらしも)」。【怡土郡に今も深江村というのがあり、肥前の唐津に通じる道の駅である。子負の原は深江の西の方にある。「古夫(おぶ)」と「ぶ」を濁って言う。石は二つとも盗人が持ち去って、今はないと国人は言う。「久志美多麻(くしみたま)」とは石を称賛して「奇し御玉」と言ったので、御魂ではない。ところでこの石は、長さ一尺余もあるのに、腰にどうやって着けたのかと疑う人もあるだろうが、奈良朝の頃まで五百年も経ているのだから、初めは小さかったのが、そんなにも大きくなったことを、どうして疑うことがあろうか。石も長い年月を経れば大きくなることは、今も普通に言うことだ。

 

亦到=坐2筑紫末羅縣之玉嶋里1而。御=食2其河邊1之時。當2四月之上旬1。爾坐2其河中之礒1。拔=取2御裳之糸1。以2飯粒1爲レ餌。釣2其河之年魚1。<其河名謂2小河1。亦其礒名謂2勝門比賣1也。>故四月上旬之時。女人拔2裳糸1以レ粒爲レ餌釣2年魚1。至レ于レ今不レ絶也。

訓読:またツクシのマツラガタのタマシマのさとにいたりまして、そのかわのべにミオシせすおりしも、ウヅキのはじめのころなりしかば、かわなかのいそにまして、ミモのイトをぬきとり、イイボをえにして、そのかわのアユをなもつらしける。<そのかわのなをオガワという。またそのいそのなをカチドヒメという。>かれウヅキのつきたちのころ、おみなどもモのイトをぬきイイボをえにしてアユつること、いまにたえず。

口語訳:また筑紫の末羅縣の玉嶋の里に到ったとき、そこの川のほとりで食事を取った。四月の初め頃であったが、川の中の礒に行って、裳の糸を抜き取り、飯粒を餌にして年魚(あゆ)を釣った。<この川を小河と言い、礒の名を勝門比賣(かちどひめ)と言う。>そこで四月の初めの頃、土地の女たちが裳の糸を抜いて、飯粒を餌にして年魚を釣ることは、今に至るまで絶えない。

筑紫末羅縣(つくしのまつらがた)。「末羅(まつら)」は、【名の由来は書紀に見える。後で引く。】肥前の国なのに、肥の国と言わず、筑紫と言っていて、この筑紫は九州全体を指す名と考えれば、どうということもないが、やはりそうではないだろう。肥前の範囲は、もとは筑紫の国であって、肥の国に属するようになったのは、やや後のことかと思われる点がある。【そのことは上巻、伝五の十三葉で言った。参照せよ。】和名抄に「肥前国松浦【まつら】郡」とある。「縣」は「がた」と読む。【「こおり」と読むのはよくない。また「まつらのあがた」と読むのも良くない。万葉の詞(853詞書)に「松浦之縣」とあるのは、漢文だから問題にならない。】万葉巻五【二十三丁】(868)に「麻都良我多(まつらがた)」とあるのがそうだ。【この「がた」を「潟」と思うのは間違っている。この歌が「松浦がた、さよひめの子が、比禮(ひれ)ふりし、山の名のみや、聞(きき)つゝ居らむ」とあるのを考えよ。佐用比賣の郷里を言ったとしても、山のことを言ったとしても、潟には何の関係もない。縣であることは明白だ。】なお縣のことは志賀の宮の段【伝廿九の五十八葉以降】に述べた。末羅もいにしえには御縣だったのだろう。【一般にこの記で「縣」とあるのはいにしえの名称であって、本当に「あがた」と言うべき所である。書紀などで「郡」と通わせて撰者の意図で書かれたのとは違う。】万葉巻十六(3869後書)にも「松浦縣」とある。この地を詠んだ歌は、同巻五【二十三丁】(865)に「伎彌乎麻都、麻都良乃于良能(きみをまつ、まつらのうらの)」、また【二十四丁】(870)「毛々可斯母由加奴麻都良遲(ももかしもゆかぬまつらじ)」、また【二十六丁】(883)「吉民萬通良楊満(きみまつらやま)」、その他にももっと多く、後にも引く。同巻十五【二十三丁】(3685)に「多良思比賣、御舶波弖家牟、松浦乃宇美(たらしひめ、みふねはてけん、まつらのうみ)」とあるのによると、新羅より還ってきたとき、船はこの浦に着いたということになる。その後筑前に到って、御子を生んだのだろう。これから考えると、新羅へ行くときも、この浦から出たのではないだろうか。【というのは、船が出たところも着いたところも、どこということはこの記にも書紀にも見えないが、万葉にはこのように多く、この浦に船が泊まったと詠んでいるのは、そういう伝えがあったのだろう。いにしえに韓国へ渡るには、この浦から出ることが多かったのだろう。万葉巻五(871詞書)に見える佐用比賣の故事を考えよ。】○玉嶋里(たましまのさと)。名の由縁は分からない。【土佐国風土記に「吾川郡玉嶋。一説では、神功皇后が国を巡って、ここに停泊した。皇后は嶋に下りて礒辺で休息し、一つの白い石を拾った。形は丸くて鶏卵のようである。皇后が掌に載せると、光明を発した、皇后はたいへん喜び、『きっと海神がくださった白真珠だわ』と言った。そこで島の名とした」とあるのから考えて、この松浦の玉嶋にも、似たような由緒があるのだろう。】万葉巻五(862)に「比等未奈能、美良武麻都良能、多麻志末乎、美受弖夜和禮波、故飛都々遠良武(ひとみなの、みらんまつらの、たましまを、みずてやわれは、こいつつおらん)」とある。○到坐(いたりまして)は、書紀によれば船が出る時のことではなく、還って停泊したのでもない。これは新羅へ行く船が出る前の事で、それとは別に筑前から筑後を経てこの地に到ったときのことである。【このことは、書紀にまず「三月・・・そこを御笠(みかさ)という」、これは筑前の御笠郡である。次に「そこを安(やす)という」、これも筑前国夜須郡である。次に「山門(やまと)縣に到る」とあるのは筑後の山門郡である。その次に夏四月に、この松浦縣に到着している。だから築後を経てここに来たと言うのである。その後にまた「橿日浦に詣でて云々」という記事があるので、いったん筑前に戻っていると聞こえるから、この浦に到って年魚を釣ったのは、新羅へ出ようとするときのことではないと言うのだ。次に冬十月、津嶋の和珥の津から新羅に向かって船出した。書紀に書かれた順序はこのようなものである。だがこの順序は、さほどこだわる意味もないから、「橿日浦に詣でて云々」は前のことで、この松浦に来たのは船立ちの時だったかもしれない。四月、十月と言うのも、もとよりこだわるべきでない。また和珥の津から発ったというのは、松浦から発って、伊伎(いき)を経て、津嶋に到り、津嶋から発ったのである。今も津嶋の上縣郡に鰐津、鰐浦というのがあり、秋・冬のころ朝鮮に渡るには、そこから船出して、春・夏に渡るには、佐須那(さすな)浦というところから出るとその嶋人が言っているそうだ。】それをこの記でここに書いたのは、前のことを追って別に記したのである。【だからこれは、筑前で子を生んだ後に続くのではない。「亦」とあるので、別の段になっていることは明らかだ。】○其河邊(そのかわのべ)は、万葉に「松浦川」、「玉嶋川」とあるところだ。(854)「多麻之末能許能可波加美爾(たましまのこのかわかみに)」、また(860)「麻都良我波奈々勢能與騰波(まつらがわななせのよどは)云々」など、他にも多い。後に引く。○御食は「みおしせす」と読む。倭建命の段で「尾津の前(さき)の一つ松のもとで、先に御食之時(みおしせしときに)云々」とあるところ【伝廿八の三十八葉】で言った。「せす」は「す」を延ばして言った言葉で、「したまう(なさいました)」といった意味だ。○「之時當」の三字は「おりしも」と読む。【ちょうど年魚を釣る時期に当たったのである。】○四月は「うづき」と読む。名の意味は分からない。【すべて月々の名は、昔からあれこれ言われているが、そのうちでも三月を「彌生(やよい)」と言うのだけが納得できる。師の考察に「七月(ふづき)は穂含(ほふふみ)月、八月(はづき)は穂發(ほはり)月、九月(ながつき)は稻刈(いなかり)月だ」と言ったのなどは、当たっているかも知れない。その他はどうにも疑わしい。また九月は「稻熟(いなあかり)月」でもあろうか。ただ「が」を濁るのは、「刈り」でも「熟り」でもどうだろうか。音便で濁ったのか、別の意味か、決められない。この他にも、私も考え出して、こうではないかと思うことはあるが、十二の月名全部はまだ考えつかないので、ここでは言わないでおく。さらに考察してから述べよう。】○上旬は「はじめのころ」と読む。また「つきたちのころ」とも読める。【「かみのとをか」ということが信明集の歌にあるが、やはり上代の言葉ではないようなので、そう読むのは良くなかろう。】「つきたち」は「月立ち」である。【後に「朔」の字を当てて「ついたち」と言う。「つき」を「つい」と言うのは音便である。】そもそも上代には、一年を単に春夏秋冬の四つに刻み、その初め・なか・末と三つに刻んで言っていただけで、後のように十二ヶ月と定めて、「何々月」などと言うことはなかったから、【一年を十二ヶ月に決めて、それぞれ月の名も付けたのは、仁徳天皇の頃からではないだろうか。】この御世の頃もやはりそうだっただろう。そのことは、私が以前「眞暦考」と著して、詳しく言った。参照されたい。とするとここに「四月上旬」とあるのは、当時そう言っていたわけではなく、後の呼び方で伝えたのである。○礒(いそ)は書紀には「石上」と書いてあり、【これを「いそのうえ」と読んでいるのは、この記によるのだろう。】万葉巻五の歌にも「伊志(いし)」とあるから、もともとは「いし」だったのを、古くは石を「いそ」とも言ったらしく、「いそのかみ」を「石上」と書き、万葉などにも「礒」を通わせて「石」と書いてある事が多い。とすると、ここの「礒」は借字で、「石」のことだろう。万葉巻五(869)に「多良志比賣、可尾能美許等能、奈都良須等、美多々志世利斯、伊志遠多禮美吉(たらしひめ、かみのみことの、なつらすと、みたたしせりし、いしをたれみき)」、【三句四句は「魚釣らすと、御立(みたた)しせりし」である。最後の「吉」は、「志」の誤りではないだろうか。ある人が言うには、「今の玉嶋川の岸に、大きな石がある。方七尺ほどある。俗に紫石という。これはこの大后が釣りをしたところと語り伝えている」という。またある人は、この紫石のありかを「浮嶋というところと玉嶋川の間の松原にある」と言い、方五尺ほどだという。また今も、この上で女が釣りをすると魚がたくさん取れるが、男が釣るとさっぱりだという。】○「拔=取2御裳之糸1(みものいとをぬきとり)」。着ていた裳の織った糸をはつって(ほどいて)抜き取り、釣り糸にしたわけである。【古今集(841)に「藤衣はつるゝ糸はわび人の涙の玉の緒とぞなりける」とある。】○飯粒は「伊比煩(いいぼ)」と読んでいる。【「煩」の清濁は確かでないが、とりあえず普段いっているのに従っておいた。】書紀の安閑の巻に、人名にも飯粒というのがあり、そう読んでいる。播磨国の郡名の「揖保」は「伊比保」と【和名抄に】あるのも、飯粒の意味の名だろう。【延喜式神名帳にある「揖保坐天照(いいほにますあまてる)神社」を、臨時祭式では「粒坐」と書いてある。】俗に言う「めしつぶ」である。【日本霊異記に「粒はツヒ」とあるのは、「つぶ」と相通うのだろうか。】御食した、その御飯の粒を取って餌にしたのだ。○餌(え)は、和名抄に「四聲字苑にいわく、餌は食で魚鳥を誘うのである。和名『え』」とある。○年魚(あゆ)は、和名抄に「鮎は、本草にいわく、イ(魚+夷)魚は、蘇敬の注にいわく、一名鮎とある。和名『あゆ』、楊氏の漢語抄にいわく、銀口魚、また細鱗魚とも言う。崔禹錫の食經にいわく、顔は鱒に似て小さい。白い皮があって鱗はない。春に生まれて夏に成長し、秋に衰えて冬には死ぬ。ゆえに年魚と名付く」とある。天智紀の童謠に「美曳之弩能曳之弩能阿喩、阿喩擧曾播(みえしぬのえしぬのあゆ、あゆこそは)云々」とある。○(註)小河(おがわ)。書紀には「玉嶋の里の小河」とある。「小」は「小長谷」、「小筑波」などの「小」で、称えて言う辞である。【必ずしも小さいという意味ではない。】「小河」と言った例も多い。小田、小野、小濱などのたぐいだ。【万葉に「小國」、「小里」、「小林」、「小峯」などもある。】○勝門比賣(かちどひめ)。【旧印本や延佳本では、「勝」の字の下に「騰」の字がある。それは「勝」の字を誤って、別の一字として加わったのだろう。一本には「騰」の字があって「勝」の字がない。ここでは真福寺本他一本、またその他一本などによった。】名の意味は、書紀によると、このとき皇后は「うけい」したということになっているので、その意味で、新羅征伐に勝ったことから、後に名付けたのではないだろうか。「門」は「處(と)」の意味か。「比賣」は尊称として付けたのだろう。【ある人は「勝門は『よど』と読むべきだ。万葉(860?)に『松浦川七瀬の淀は云々』、延喜式神名帳に『肥前国佐嘉郡、與止比女(よどひめ)神社』がある。今、浮嶋と玉嶋の間、一里ほど川上に、淀姫大明神という社がある。これである。浮嶋は源氏物語玉葛の巻に見える」と言った。考えるに、勝門を「よど」と読む理由はない。もし「よどひめ」なら、「勝」の字は誤字ということになる。しかしやはりそうではないだろう。筑前国宗像郡に、「勝浦」というところがある。神功皇后が新羅に勝って帰り、この浦に上陸したので、「かつら」と呼ぶようになったと里人は言い伝えている。かつら潟は名所で、歌にある。勝浦村の西の方は、昔は遠くまで干潟だったが、寛文十一年にその潟を新田に開いたので、今は潟はないという。ここの勝門比賣は、肥前の玉嶋だけれども、あるいは筑前の勝浦と伝承が混同されたのではないだろうか。】○故四月上旬之時(かれうづきのつきたちのころ)、云々。これはもう暦日を用いるようになってからの【暦日を用いた初めは、推古天皇の御世と思われる。】語のようだから、月の名はもとより、その上旬を「月立ち」と言うのも、その頃の言い方だろう。【これのことは、眞暦考を見て考えよ。】○女人(おんなども)云々。これはこの大后の故事に因んで、ことさらにそういうことをする習慣があるのだろう。【何となくその頃に年魚を釣るというのではない。四月上旬の頃に年魚を釣ることは珍しくない。どこでも普通のことだからだ。玉嶋川に今もこういう風習があるかどうか、その国人によく尋ねてみるべきだ。】万葉巻五(855〜868)に「松浦川川の瀬光り鮎釣ると、立せる妹が裳の裙ぬれぬ」、「松浦なる玉嶋川に年魚つると、立せる子等が家路知らずも」、「遠つ人まつらの川に若年魚(わかゆ)釣る、妹が袂を吾こそ纏(まか)め」、「若鮎つる松浦の河の川浪の、並(なみ)にし思はゞ、吾戀(こひ)めやも」とある。【こうした歌を詠んだのも、この後にある詞書を見ると、四月上旬のことである。】書紀には「夏四月壬寅朔甲辰、北に進み火前國松浦縣に到って、玉嶋里の小河のほとりで食事を取った。皇后は針を曲げて鈎(つりばり)を作り、飯粒を取って餌とし、裳の縷(いと)を抜いて緡(つりいと)にして、河中の石の上に登った。鈎を投げて祈(うけい)して、『私は西の方、財(たから)の国を求めようとしています。もし事が成し遂げられるなら、河の魚は鈎を飲め』こう言って竿を挙げてみると、細鱗魚(あゆ)がかかっていた。その時皇后は『希見物(めずらしきものぞ)』と言った。【希見。これを『めずらし』と言う。】それで時の人は、そこを梅豆羅國(めずらのくに)と言った。今松浦と言うのは、訛ったのである。このためその国の女人は、毎年四月上旬に、鈎を河中に投げ入れて年魚を捕ることが、今に至るも絶えない。ただ男は釣っても魚が獲れない」とある。

 



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