『古事記傳』33

 

三十三之巻(明の宮の段−中)

又吉野之國主等。瞻2大雀命之所レ佩御刀1歌曰。本牟多能。比能美古。意富佐邪岐。意富佐邪岐。波加勢流多知。母登都流藝。須惠布由。布由紀能須。加良賀志多紀能。佐夜佐夜。

 

訓読:またエシヌのくずども、オオサザキのミコトのはかせるミタチをみてうたいけらく、ほむだの、ひのみこ、おおさざき。おおさざき、はかせるたち、もとつるぎ、すえふゆ。ふゆきのす、からがしたきの、さやさや。

 

歌部分の漢字表記:品陀の、日の御子、大雀。大雀、佩かせる太刀、本劔、末振ゆ、冬木のす、枯が下樹の、さやさや。

 

口語訳:また吉野の国主たちは、大雀命が佩用していた太刀を見て、「品陀(天皇)の日の御子、大雀が佩いている太刀は、本物の太刀だよ。刃先は冬の木のように鋭く冷たくて、さやさや。」

 

「また」とは、前に歌を並べておいて、ここでまた歌を挙げようとするからである。○吉野(えしぬ)。前に出た。【伝十八の六十三葉】○國主(くず)は、白檮原の宮の段では「國巣」と書いてあった。書紀では「國樔」と書かれ、後世の書物では、みな「國栖」と書いてある。ところがここで「國主」とあるのは珍しい書き方だ。これは、白檮原の宮の段でも述べたように、「くず」と言うのは後の音便であって、本来は「くにす」だったろうが、「にす」と「ぬし」が通い、よく似て聞こえるので、こうも書いたのだろう。【「國主」は「くにぬし」だが、「にぬ」は自然に縮まって「ぬ」となり、「くぬし」になる。その「ぬし」と「にす」が近いからだ。師(賀茂真淵)は「『くにぬし』のことで、『ぬ』を省き、『し』を『す』に転じたのだろう。『宮主(みやじ)』も『ぬ』を省いている」と言った。「くにぬし」のことだと言うのは、この名を国主の意味に取ったのだろうか。いずれにせよ「主」は単なる借字で、この文字の意味ではない。】音を取ったのではない。國巣については、白檮原の宮の段【伝十八の七十一葉】で述べた。さらに後にも言う。○「瞻2大雀命之所レ佩御刀1(おおさざきのみことのはかせるみたちをみて)」というのは、次に「大御酒を醸成して奉った」という一件があり、それと同じ時のことか。またはいつのことでもあり得ただろう。○本牟多能(ほむだの)は、【この名の「多」の字は、みな「陀」とあるから、濁って読む。】は、「品陀天皇(應神)の」である。○比能美古(ひのみこ)は「日の御子」である。このなについては、倭建命の段の歌に出たところで言った。【伝廿八の十一葉】○意富佐邪岐(おおさざき)は、大雀命のことである。同じ言葉を重ねて言うのは、古歌では普通だ。○波加勢流多知(はかせるたち)は「佩いている太刀」である。○母登都流藝(もとつるぎ)は「本劔」である。「本(もと)」と言った理由は、次に述べるので待っていただきたい。「つるぎ」は、上巻「都牟刈之大刀(つむがりのたち)」のところ【伝九の卅五葉】で言った通り、「つむがり」が縮まった語で、もともとは刀がものを切り裂く様子を言ったのである。それで刀の鋭さを称賛して、「つるぎのたち」とも「つるぎだち」とも言い、また「つるぎ」とだけ言って、「鋭い刀」を意味するようにもなった。ここでは本来の意味で、その刀を称賛したのだ。【刀の名を言ったわけではない。師のいわく、「この刀は上代の御物だから、『昔の太刀』という意味で『本劔』と言ったのだ。万葉に『もと郭公』と言っているのと同様だ」と言ったが、疑問である。郭公は去年もやって来たという意味があって「もと」と言ったので、上古の剣を「もと剣」とは言わないだろう。ここで「本」と言ったのは、次に「末」を言ったのに対応する言葉だからだ。】○須惠布由(すえふゆ)は「末振る」である。「末」とは、この前の「本」に対して言った。その理由は、後に述べるのを待って知るべきである。「ふゆ」は「振る」だと言うのは、まず「振る」を「ふく」と言ったことが上巻に見える。伊邪那岐大神が十擧劔(とつかつるぎ)を「後手(しりえで)にふきつつ云々」とあるのを、書紀では「背揮(しりえでにふき)」と書いてある。書紀に見える須佐之男命の五世の孫、天之葺根神(あめのふきねのかみ)と、この記の大國主神の父、天之冬衣神(あめのふゆきぬのかみ)とは、同神のように聞こえ、太刀に由縁のある神と思われるから、【このことは伝九の五十八葉で言った。】「ふく」を「ふゆ」とも言い、ともに「ふる」と同じ言である。それとも、「ふゆ」は次の「布由紀」の頭の部分を先立って言い、言葉を畳みかけたのかも知れない。【上代の歌は、歌うものであったから、こうしたこともよくある。水垣の宮の段で、「みまきいりびこはや」とある前に、「こはや」とあるのと同様だ。】○布由紀能須(ふゆきのす)は、「冬木なす」である。【師は「古木なす」だと言ったが、これはどうだろう。】「なす」を「のす」と言った例は、万葉巻十四【十三丁】(3413)に「奈美爾安布能須(なみにあうのす)、【「浪間に逢うように」ということだ。】安敝流伎美可母(あえるきみかも)」、また【十四丁】(3424)「許奈良能須、麻具波思兒呂波(こならのす、まぐわしころは)」、また【二十七丁】(3514)「多可伎禰爾、久毛乃都久能須(たかきねに、くものつくのす)」、巻廿【三十九丁】(4415)に「白玉乎(しらたまを)、手爾登里持(てにとりもち)て、見る乃須母(のすも)、家なる妹(いも)を、また見てももや」などがある。【「なす」は稻掛の大平が言うように、「似す」という言だから、「のす」とも言う。「似る」は「のる」とも言うからだ。万葉で「春」の枕詞に「冬木成」と言った例がところどころある。「これは『冬木盛(ふゆこもり)』を写し誤ったのだ」という師の説は動かしがたいようだが、ここに「ふゆきのす」とあるから、やはり疑いが残る。これはもっと考察の必要がある。】この「冬木のす」という語は、単に次の「枯(から)」に掛かる枕詞だ。【「加良賀志多紀(からがしたき)」という句全体に掛かるのではない。】○加良賀志多紀能(からがしたきの)は、「枯(から)の下樹の」である。「枯(かれ)」を「から」とも言うのは、高津の宮の段に「枯野(からぬ)」【歌には「加良怒(からぬ)」とある。】などとあるのと同様だ。この「枯」は、前に「枯らし」とあるのと同意で、葉が落ち失せることを言う。「下」は、出雲国造の神賀詞に「彌高爾天下乎所知食牟事志太米(いやたかにあめのしたしろしめさんことのしため)」【「しため」は「下見え」で、その下のことが見えているということだ。】とある「志太」と同じく、「下方」という意味で、俗言で言うと、樹下の葉が落ちている地面である。【延佳も契沖も、前の句の最後の一字を、この句の頭に付けて読んでいるのは間違いだ。だからここで伊勢の神宝の須我流横刀(すがるのたち)を引き合いに出して解しているのも、誤りである。】この二句は、次の「佐夜々々」の語を導くためのもので、木の葉が落ち、【俗言で言うと「散下地(葉の散り敷いた地面)」】木枯らしの風に吹かれて、さやさやと鳴る意味で続けたのである。高津の宮の段の歌に「那豆能紀能佐夜佐夜(なづきのきのさやさや)」、万葉巻二【十九丁】(133)に「小竹之葉者、三山毛清爾、亂友(ささのはは、みやまもさやに、さわげども)」、白檮原の宮の段の歌に「許能波佐夜藝奴(このはさやぎぬ)」、万葉巻十【三十八丁】(2134)に「荻之葉左夜藝、秋風之、吹來苗丹(おぎのはさやぎ、あきかぜの、ふきくるなえに)」などがある。○佐夜佐夜(さやさや)は、「清々」である。【上の句からの続きとすると、木の葉が風に騒ぐ音だが、歌としての意味は「清々」で意味が違う。】太子の刀の鋭く優れているのを見て、称賛していったのであり、後世の言葉で言う「抜けば玉散る氷の刃」といった感じだ。【師は「万葉(2245)に『劔後、玉纒田井(たちのしり、たままくたい)』とあるように、いにしえの太刀は鞘の先端に美玉をたくさん結び垂れたものだから、それを『末振』と言い、『振』を『古』に掛けて重ね、古木の枯れ枝に風の吹き渡る音のように、さやさやとその玉が触れあって鳴ることを言ったのだ。上代の歌としては技巧的に歌ったものだ」と言ったが、疑問である。太刀を賞めるのに、玉の音を言うのもおかしいし、どこにも「玉」と言っていないのに、敢えて玉と推論したのも疑問だ。玉の音だったら、どこかで玉ということを言うはずだ。それに太刀の尻に飾る玉は、鞘にしっかり付いているものだから、そんなに動くものではない。どうして触れあって鳴ることがあろうか。またさやさやと鳴るのも、枯れ枝ではどうだろう。葉があってこそそういう音が鳴るのだろう。「志多」という言葉の意味も説明できない。】前に「本(手元に近い部分)」と言い、ここで「末(切っ先の部分)」と言っているのは、「本から末まで」ということで、本から末までが「つるぎ」【鋭く優れたという意味】と思われ、振ればたいへん清(さや)けく見える、という意味だが、それを本と末に分けて言ったのだ。【だから「本はつるぎ」、「末はさやさや」ということでなく、本末ともに、「つるぎ」でもあり「さや」でもあるのだ。】こういうのは古歌では普通の言い方で、万葉巻一(36)に「船並弖旦川渡、船競夕河渡(ふねなべてあさかわわたり、ふねきおいゆうかわわたる)」とある「並べ」も「競い」も、旦川(あさかわ)、夕河(ゆうかわ)の両方に言っている。【「朝は並べ、夕は競い」と言うのではない。】また巻三(478)に「朝獵爾、鹿猪踐起、暮獵爾、鶉雉履立(あさがりに、ししふみおこし、ゆうがりに、とりふみたて)」とあるのも、朝猟には鹿猪、夕猟には鶉雉、という意味ではない。【朝猟にも夕猟にも、鹿猪、鶉雉を追ったのである。】これらになずらえて理解すべきである。

 

又於2吉野之白檮上1作2横臼1而。於2其横臼1釀2大御酒1。獻2其大御酒1之時。撃2口鼓1爲レ伎而。歌曰。加志能布邇。余久須袁都久理。余久須邇。迦美斯意富美岐。宇麻良爾。岐許志母知袁勢。麻呂賀知。此歌者。國主等獻2大贄1之時時恒。至レ于レ今詠之歌者也。

 

訓読:またエシヌのカシフによこうすをつくりて、そのよこうすにオオミキをかみて、そのオオミキをたてまつるときに、クチツヅミをうちわざをなして、うたいけらく、かしのふに、よくすをつくり、よくすに、かみしおおみき、うまらに、きこしもちおせ、まろがち。このうたはくずどもオオニエたてまつるときどきつねに、いまにいたるまでうたううたなり。

 

歌部分の漢字表記:白檮の上に、横臼を作り、横臼に、醸みし大御酒、甘らに、聞こしもち食せ、まろが君。

 

口語訳:また吉野の白檮の上に横臼を作り、その横臼に酒を醸して、その酒を献げるとき、口皷を打って献げ、歌を歌って、「白檮の上に横臼を作り、その横臼に醸した酒、おいしく飲んでください。我が君」。この歌は、国主どもが大贄(おおにえ)を献げるときには、常に歌う歌であり、今も歌い継がれている。

 

ここで冒頭に「国主等」と言わなかったのは、前の部分からの続きなので、「また」という語にその意味は含まれているからだ。○白檮上(かしのふ)の「上」の字は、歌からすると「生」の字を誤ったのだろう。【あるいは「白檮」の下に「生」が落ちただけで、「上」は「宇遲野の上」などという「上」と同じかとも思ったが、そうではないだろう。または「白檮(かし)」という地名で、歌に「ふ」とあるのは、「ふ」と「へ」は通うから、「上(へ)」の意味かとも考えたが、「白檮」とだけ言った地名も見当たらず、「上」を「ふ」と言った例もない。】従って「かしふ」と読むべきである。後で歌のところで言うことを考え合わせよ。○横臼は、歌には「よくす」とあるが、やはり「よこうす」と読むべきだ。【歌は調子によって、延ばしても縮めても言うから、すべての言葉を歌に合わせて読む必要はない。】しかし歌の通りに読むのも、悪くはないだろう。この「横」というのは、形状に基づいて言ったのだろう。今の世に「竪臼(たてうす)」というのから考えて、縦に高い形のを「竪臼」と言い、【立ててある臼という意味ではない。横臼に対して言う名だからだ。】低いのを横臼と言ったのだろう。【契沖は、「横臼とは、一般に臼は縦に彫り窪めるものを、これは横に広く彫ったものだろう」と言ったが、そうではないだろう。】○「釀2大御酒1(おおみきをかみて)」は、訶志比の宮の段の歌に「許能美岐袁、迦美祁牟比登波、曾能都豆美、宇須邇多弖弖、宇多比都都、迦美祁禮迦母、麻比都都、迦美祁禮加母(このみきを、かみけんひとは、そのつづみ、うすにたてて、うたいつつ、かみけれかも、まいつつ、かみけれかも)云々」などとあったように、酒というものは、上代には飯を水に浸し、臼に入れて、搗き潰して(粥状にして)、醸したのだ。【ある人は、「上古の酒は、一夜酒と言って、米を水に一昼夜浸し、臼で挽いたのだ」と言ったが、「米を」と言うのは違う。米でなく、飯を浸したのだ。また臼で挽いたというのも、上代のやり方ではない。】万葉巻十六【十三丁】(3810)に「味飯乎、水爾醸成(うまいいを、みずにかみなし)」とある。前に引いた歌に「歌いつつ、舞いつつ」とあるのは、臼の中で搗く時にすることだ。皇太神宮儀式帳の「清酒作物忌」の職掌に「陶内人の作り奉った甕(みか:正字は瓦+長)三口に、白御酒を(臼に)搗いて、備え設ける」とあるのでも、搗いたことを理解すべきだ。【貞観儀式の大嘗の條に「陶臼」とあるのはこれに使うものか。大嘗會式にも「陶臼三十口」と見える。また「臼四腰、杵八枝」とあるのも、酒の料に搗く道具と思われる。一方で、ここで献げた酒は、書紀に醴酒(こざけ:甘酒)とあって、一夜酒だから、臼で搗いたのか。皇太神宮儀式帳にも「白御酒」とある。とすると、上代には甘酒を臼に搗いたのであって、みなそうだったのではないか。訶志比の宮の段にあるのも、甘酒だったかも知れない。ただし上代には、酒はみなそうして醸成したのを、書紀では歌に横臼となっているので、推測で「醴酒」と書いただけかも知れない。】酒を造ることを「醸(か)む」と言うのは、前に言った。【伝九の卅一葉】○「撃2口鼓1(くちつづみをうちて)」は、書紀では「打レ口(くちをうちて)」となっている。今の世に「舌鼓を打つ」という動作なのか、または上下の唇を弾いて(「ぷっぷっ」と言うように)出した音か。【「打つ」と言うから、口を開けて喉で声を出し、掌で打つのを言ったかとも思ったが、そうではないだろう。「打つ」と言ったのは、「皷」という言葉からの連想だろう。】いずれにせよ、こういうことをしたのは、酒を飲んで「ああうまい」と言っているのだろう。【書紀に「仰ぎ笑った」とあるのも、酒を飲んで心楽しく、笑い騒いだのだ。】○爲伎は「わざをなして」と読む。【師は「まいをなして」と読んだ。私も以前は下巻朝倉の宮の段の歌に、「麻比須流袁美那(まいするおみな)」とあるので、「まいしつ」と読んでいた。しかし、よく考えると、書紀にも舞のことはなく、後になっても、國栖には歌・笛だけがあって、舞についてはどんな本にも書かれていない。この記でも「舞」とは書かず、「伎」とある。あれこれ考え合わせると、「舞をした」とは言えない状態だっただろう。】書紀に「打レ口以仰咲(くちをうちてあおぎわらう)」とあるのがこれだ。【「仰ぎて笑う」と言うのは、本当におかしくて笑うのでなく、儀礼としてその真似をするから、「爲伎(わざをなして)」と言ったのである。】○加志能布邇(かしのふに)は「白檮の生に」である。延喜式神名帳に、大和国吉野郡、川上鹿鹽(かしお)神社があり、【今は大蔵明神と言う。】今も樫尾村というのがある。国栖に近い。この地である。元来この地名は、白檮の樹が生えていたことから出たのだろう。それを「鹿鹽」と言っていることから考えて、もとは「かしふ」と言っていたのを、【「ふ」と「ほ」は通音。】ここでは歌なので、調子を良くするために「の」を添えて言ったのか。それとも元々「かしのふ」だったのを、少し後には「の」を省いて「かしほ」と言うようになったか、【いにしえには「の」と言ったのを、後に省いた例が多い。】そのどちらかをすぐに決めることはできない。【契沖が、前の文に「白檮上」とあるのによって、「國栖の言葉も訛っていると思えるので、『上(へ)』を『ふ』に通わせて言ったか。『白檮』は地名か、それとも白檮の木を敷いて、その上に載せたということか。また思うに、古事記の今の本では、『生』の字を『上』に誤って書いたのか」と言ったのは、地名かと言ったのと、「生」を「上」に誤ったかと言ったのは良い。その他はみな良くない。】○余久須袁都久理(よくすをつくり)は「横臼を作り」だ。【「こう」を縮めて「く」と言ったのだ。】○余久須邇(よくすに)は「横臼に」である。○迦美斯意富美岐(かみしおおみき)は「醸みし大御酒」である。書紀には「みし」を「める」とある。【「かみし」と「かめる」では、意味が少し異なるが、ここはどちらでも良い。「かめる」の方が少し良いようだ。こうした言葉では、この二つの言い方に意味の違いがあるのだが、今の人はその違いをわきまえず、同じように使う。】○宇麻良爾(うまらに)は、「美味に(おいしく)」と言うのと同じである。書紀の顕宗の巻で、室壽(むろほぎ)の詞に「新墾之十握稻之穗、於淺甕釀酒、美飮喫哉(にいはりのとつかいねのほ、あさみかにかめるおおみき、うまらにをやらうるかね)。美飲喫哉、これを于魔羅爾烏野羅甫屡柯侫(うまらにをやらうるかね)と読む」とある。【「をやらうる」とはどういうことなのか。得心できない言葉である。】○岐許志母知袁勢(きこしもちおせ)は「聞こしもち食せ」である。「もち」は添えた語だ。【契沖は「も」と「め」が通い、「ち」と「し」も同韻で通うから、「聞こしめし食せ」だと言ったが、こじつけである。】「食(お)す」は「めす」と同じように言い、「きこしめす」ということだ。また「飲む」ということも「食す」と言うことは、訶志比の宮の段で神功皇后の歌にある。【この二句で、自分が献げる酒を、このように賞めて言うのこそ、人の真心というものだろう。いにしえには、神にものを献げる際にも、その奉るものを賞め称え、人にものを贈るにも、それを入手した自分の労苦を述べて、志の深さを言った。中昔の頃まで、歌はそういう趣旨に詠んでいる。それが後世には反対になって、人にものを贈るにも、ごちそうするにも、ただへりくだって言うようになったのは、漢国の風俗がうつったのであって、真心ではなく、うわべの虚言である。人がくれたものは、少なくてあまり良くないものでも、大げさにいいもののように感謝し、自分が贈る物は、立派で分量が多くても、つまらなく少ないように言う。人がくれようと、自分が贈ろうと、物自体は同じなのに、それを表す言葉が裏腹なのが、嘘であることは一目瞭然だが、世の習慣となって、それを良いことのように思っているのだろう。この国栖たちの歌も、後世の人なら、こんな風に詠んだだろうか。山奥の賤しい者達が皇族に献げるのは、どれほどにもへりくだって言うだろうに、「美味(うま)らにきこしめせ」と言ったのは、いにしえ人の心の素直さである。後世の人たちは、すばらしい贈り物だと心に誇りながら、言葉ではたいへんへりくだって言う。これらを見ても、漢国風の言葉の、真実から離れたことの多いことを悟るべきだ。】○麻呂賀知(まろがち)の「まろ」は我、己などの意味である。【この言葉は非常に古いものだが、奈良以前の書物では、これ以外には見当たらない。今の京(平安京)以降になると、多くの書物に見える、古くも人名には多いが、これから出たのだろう。契沖は、ここで継体紀に「懿哉、麻呂古(よきかな、まろこ)云々」とあるのを引用して、「我が子」の意味だろうと言った。ただし継体紀には「朕子麻呂古(わがみこまろこ)」という語句もあり、これは勾の大兄の皇子のまたの名というように聞こえる。この他にも「麻呂子」という語句があちこちにある。その名も、みな「我が子」の意味でつけたものだろうか。師の説に、「自分で『麻呂』というのは、貴い身分を『かどあり』と言うのに対し、かどがなく、丸いことを言い、拙く愚かであると言ったのだ」と言ったが、いにしえの物の言い方のようでなく、漢意めいている。】「ち」は人を尊んで言う名で、上巻、阿斯訶備比古遲(あしかびひこじ)神のところで言った通りである。【伝三の廿八葉】ここは「吾が君」という意味で、【「父」という意味ではない。父と言うのも尊んで言うから、その中の一つではあるが、直接に父と解釈すると意味が違ってしまう。父には限らない名である。契沖が直接に父の意味に解したのは、まだ精確ではない。「天子は民の父母であるから、こう言ったのだろう」とは、それ以上に漢意の解釈だ。そんな意味は全くない。また師が「この時国栖人たちは、君という言葉を知らず、父を天下の尊称としていたのだろう」と言ったのも疑問である。】天皇を言ったのだ。書紀には「十九年冬十月、吉野の宮に行幸した。この時国樔たちがやって来て、醴酒を天皇に献げ、歌っていわく・・・歌い終わって、口を打ち、空を仰いで笑った。今国樔たちが土毛(くにつもの:土地の産物)を献げるとき、歌い終わって口を打ち、仰いで笑うのは、いにしえの習慣が遺っているのである。この国樔たちは性質が淳朴で、山の木の実を取って食い、また蛙を煮てたいへん旨い物という。彼らが住んでいるところは京から東南の方、吉野の川上で、山深いところである。京からさほど遠くはないと言っても、もともと都へやって来ることは少なかった。しかしこの頃から後、しばしばやって来て土毛を献げるようになった。その土毛というのは、栗・きのこ・鮎などである」とある。○「獻2大贄1之時時恒云々(おおにえたてまつるときどきつねに)」。大贄(おおにえ)は、朝廷に貢進する御饌の物である。この段に「海人が大贄を貢る」ともある。書紀の仁徳の巻に「海人が鮮魚の苞苴(おおにえ)を持って、菟道の宮に献げた」とあり、また「猪名の縣の佐伯部が、苞苴を奉った。天皇が膳夫に『その苞苴はどんなものか』と尋ねたところ、『牡鹿です』と答えた」、和名抄に「唐韻にいわく、苞苴は魚肉を包む物である。日本紀私記にいわく、『おおにえ』、俗に言う『あらまき』」とある。【「大嘗(おおにえ)」と、言葉のもとは同じだが、意味は異なる。】国栖の貢進した物は、書紀にある通り、栗・きのこ・鮎などであろう。【その品目は、後の書物には見えたことがない。】「時々」はその時にはいつもということだ。○詠之歌者也(うたううたなり)。新撰姓氏録【大和国神別】に「國栖は、石穂押別神から出た。神武天皇が吉野に行幸した際、・・・その時『國栖』という名を賜った。その後、孝徳天皇の御世に、初めて名を賜った人、國栖意世古(おせこ)、次に号世古の二人であった。允恭天皇の御世、乙未年中、七節に御贅を貢進し、神態(かむわざ)を奉り、今に至るまで絶えない」【この文中、神武天皇の御世のことは、その段で引いたから、ここでは省いた。孝徳の「徳」の字は誤りではないだろうか。允恭天皇より先に書いてあるからだ。また号世古の「号」の字は、「乎」の誤りだろう。神態とは、この口皷を打ち、伎(わざ)をなし、歌うのを言う。古風なので神態と言うのだ。國栖人のことが他の書物に出ているのは、続日本紀卅一に「正六位上、國栖小國(おぐに)に、外従五位下を授けた」とある。】弘仁の内裏式、元正の儀に「・・・觴(さかずき)が一周して、吉野の国栖は儀鸞門の外で、歌笛を奏し、御贅を献げる。【もし蕃客(異国の客)があれば奏しない。他もみなこれに倣う。】」また七日の會式に、「觴が一巡りして後、吉野の国栖は御贅を献げ、歌笛を奏する」、また十六日の蹈歌の式、十一月の新嘗會式などにも同様の記事がある。貞観儀式の大嘗祭の儀に、「宮内の官人は吉野の國栖十二人、楢(なら)の笛工(ふえふき)十二人を率いて【いずれも青摺布の衫を着る。】朝堂院の南の左の掖の門から入り、位置について古風を奏でる。・・・その群官が初めて入るとき、隼人が声を発し、立ち位置が定まってやめる。終わって國栖が古風を奏でること五回、次に云々」、同辰の日の儀に「觴が一周して後、吉野の國栖が儀鸞門の外で歌笛を奏し、また御贅を献げる」、また新嘗の儀、元日の儀、同七日の儀、同十六日の蹈歌の儀などにも同様に書かれており、九月九日の儀に「觴が二度回って後、吉野の國栖は承明門の外で風俗を奏する」とある。【儀鸞門は豊樂院の正門、承明門は、内裡の正門である。】大嘗祭式の卯の日の儀に、「宮内の官人は吉野の國栖十二人、楢の笛工(ふえふき)十二人を率いて【いずれも青摺布の衫を着る。】朝堂院の東の掖の門から入り、位置について、古風を奏する」【太政官の式にも、大嘗の條に「吉野の國栖が古風を奏する」とある。楢の笛というのはどういう物を言うのか。あるいは楢の木の葉を巻いて、笛にしたのを言うのではなかろうか。楢の字は、一本には「榴」、他の一本には「猶」と書いてある。】宮内省式に、「およそ諸々の節會では、吉野の國栖が御贅を奉り、歌笛を奏する。節ごとに十七人を定員とする。【國栖十二人、笛工五人。ただし笛工二人は、山城国綴喜郡にいる。】その十一月新嘗會にはおのおの祿を賜う。【有位は調布二端、無位は庸の布二段。】」、また「およそ諸々の節に群官に饗(あえ)を賜うには、正月一日、十六日、九月九日の三節には、親王以下・・・國栖、笛工、正月七日、十七日、五月五日、七月二十五日、十一月新嘗會等の五節には、親王以下・・・國栖、笛工」とあり、民部省式に「およそ吉野の國栖は、永く課役しない」、政事要略二十七に、「十一月三、清涼記の中辰日の節會のこと・・・吉野の國栖は承明門の外で歌笛を奏し、【その詞にいわく、賀芝乃云々】御贅を献上する」などが見える。この政事要略に「その詞にいわく」として載せてあるのは、ここの歌が訛ったもので、「賀芝乃不爾、與古羽須遠惠利天賀女多於保美岐、味良居於世古世丸賀朕(かしのふに、よこうすをえりてかめたおおみき、うまらけおせこせまろがち)」とある。【國栖が世々歌い伝えて、このように訛ったのだろう。しかし中昔まで歌い伝えて、絶えなかったのは、たいへんめでたいことだったのに、その後國栖たちが朝廷に参上しないようになり、この歌を歌うことも絶え果てたのは、口惜しいことだ。「賀女多(かめた)」は「醸みたる」ということだろう。「居」の字は写し誤ったのか、それとも「け」と歌ったままだろうか。「於世(おせ)」は仮名が乱れている。<「食せ」であれば旧仮名「をせ」だが、「於世」では旧仮名も「おせ」となる。>「古世」は万葉によく出る「許曾(こそ)」だろうか。それを今の京になってからの歌で「許世(こせ)」と詠んでいる歌があるからだ。「朕」は「ち」を訛って「ちん」と歌ったので、この字を使ったのだろうか。そうでなくては、この字は書かないだろう。】これらの書物に「歌笛を奏する」とあって、笛のことも見えているのに、この記でも書紀でも笛を吹いたとは書かれていないのは、「伎をなして」とあるのに含まれているのだろう。【笛はやや後になって始まったことかとも言えるが、そうではなく、元来のことだろう。その笛は楢の笛工と言うから、前述のような(草笛のような)ものかと思えるが、北山抄の大嘗會の條に「國栖が古風を奏すること五回、承平記にいわく、その笛は指で孔を摩するのに似ている」とある。それはその音がそういう風に聞こえただけなのか、実際にそういうことをしたのか。この笛のことは、さらに考える必要がある。】小右記に「寛弘八年正月一日乙亥・・・國栖の演奏がなかった、参上しなかったためである。近年はずっとこういう状態だ。このことは大和守のョ親の時に調べられたが、既に参上していなかったと言う。云々」と見えるから、この頃から國栖人が参上して朝廷に仕えることも絶えたのだ。【この後、江次第、その他の書物にも、節會に「國栖が承明門の外で歌笛を奏する」とあるのは、本当の國栖ではなかった。単にその真似をしていただけである。公事根源の元日の節會の條に、「今の國栖の奏」として、歌を歌い笛を吹き鳴らすというのは、吉野から年始に参上したという意味である。近代年中行事細記の元日の節會の條に、「次に國栖が奏して・・・私の考えでは、國栖と言うのは、楽人が一人、南の階段の砌にいて、歌笛を奏することである。笛は雙調に音取(ねとり)」、また白馬の節會の條に、「次に國栖が奏する。音取は平調である」、また蹈歌の節會の條に、「國栖が奏する。音取は壹越調である」と言っている。楽人は笛の音取(調律)を吹き、そのまねをするのである。】

 

此之御世。定=賜2海部山部山守部伊勢部1也。亦作2劍池1。亦新羅人參渡來。是以建内宿禰命引率爲レ役=之2堤池1而。作2百濟池1。

 

訓読:このみよに、アマ・ヤマベ・ヤマモリベ・イセベをさだめたまう。またツルギのイケをつくる。またシラギビトまいわたりきつ。ここをもてタケウチのスクネのミコトひきいてツツミのイケにえだたせて、クダラのイケをつくる。

 

口語訳:この御世に海部・山部・山守部・伊勢部を定めた。また劔池を作った。また新羅人が渡来した。そこで建内宿禰に引率させて、堤池に役(えだち)をさせ、百濟池を作らせた。

 

此之御世(このみよに)は、下の「またの名は須須許理たちが渡来した」とあるところまでに係る語である。○海部は「あま」と読む。【「部」の字を「べ」と読むのは誤りである。】和名抄に終わり、紀伊などの郡の名の海部も「あま」とある。この海部は、下巻の甕栗の宮の段の歌に「斯毘都久阿麻(しびつくあま)」とある。上巻やこの記の後の記事、また書紀や万葉に「海人」とある。また書紀・万葉に「白水郎」、万葉巻には「泉郎」、「礒人」、「海夫」、「海子」などとも書いている。和名抄に「辨色立成にいわく、白水郎、考えるに、日本紀にいわく、漁人の二字を用い、あるいは海人の二字を用いて書いてある。和名『あま』」とある。【「白水」とは「泉」を分けて書くのだろう。すなわち「泉郎」ともある。】また「漁子【和名『いおとり』】」、「漁父【むらきみ】」、「潜女【かづきめ】」などというのも、みな海部のたぐいである。○山部(やまべ)、書紀顕宗の巻に、「・・・上道臣らを責めて、その領有している山部を奪い去った」と見え、【安閑の巻に「筑紫國膽狹山部(いさやまべ)」とあるのは、豊前国に諫山の郷があるから、そこの部を言う。膽狹(いさ)の山部ではないだろう。】山部の連という姓もある。さらに後に言う。○山守部(やまもりべ)は、山を守るのを職とする一種の部民である。【大山守命はこれらの部を統率していた。前に「山海の政をもうせ」とあったのがこれである。後の山部の連という姓も、この部を掌っていたから言う。】書紀に「五年秋八月、諸国に令して海人、山守部を置いた」とあり、顕宗の巻に「・・・小楯は謝して『山の官は、以前から望んでいたところです』と言い、山部連と姓を変えた。吉備臣を副とし、山守部を民とした。」【「山守部を民とした」というのは、小楯と吉備臣との両方に係っている。】また、「狹々城(ささき)の山の君、韓フクロ(代の下に巾)(からふくろ)宿禰を・・・陵戸に当て、山を守らせ、籍帳(へふむた)から除いて、山部連に隷属させた」などとある。これらを考えると、山部と山守部は、別のものでなく、全く同じと考えられるのを、ここで別に挙げたのはどういうことだろうか。書紀に山部が挙げられていないのこそ正しいだろう。万葉巻二(154)に「神樂浪乃、大山守者、爲誰可、山爾標結、君毛不有國(ささなみの、おおやまもりは、たがためか、やまにしめゆう、きみもあらなくに)」、巻三(401)に「山守之、有家留不知爾、其山爾、標結立而(やまもりの、ありけるしらに、そのやまに、しめゆいたてて)」、また(402)「山主者、盖雖有(やまもりは、けだしありとも)」、巻六(950)に「大王之、界賜跡、山守居、守云山爾(おおきみの、さかいたまうと、やまもりい、もるというやまに)」、巻七(1261)に「山守之、里邊通、山道曾(やまもりの、さとへかよいし、やまみちぞ)」、【巻二に「大山守」と詠んでいる「大」は、ささなみの山は大津の宮の辺りにある山で、特別な意味があるので、この山守を称えて言う。「大御座」などの「大」のようなものである。】続日本紀五に「初めて山守の戸(へ)を当て、諸々の山の木を切ることを禁じた」【「初めて」とは、その当時この部が絶えてなかったのを、更に初めて当てたのだろう。】とある。○伊勢部(いせべ)は、玉垣の宮の段に「河上部を定めた」、【伝廿四の五葉】下巻の高津の宮の段に「葛城部を定めた」、若櫻の宮の段に「伊波禮部を定めた」など、その地に住んでいる部と名を負わせて、そのところどころに置かれていたものが多い。それはみな由縁があってなのだが、この伊勢部は何の故に定められたのか、分からない。書紀にはこのことは見えない。【他の書にも「伊勢部」という名は見えない。三代実録十四に「大和国、馬立伊勢部田中の神」というのが見える。これは三社の神だろう。】<訳者註:馬立伊勢部田中神社は一社の神社で、三社ではない。>○劔池は、すでに前に出た。【伝廿二の四十葉】ここは本からあったのが、損なわれて、修理したのを「作る」と言ったのだろう。【そういう例は他にも見える。】書紀にも「十一年冬十月、劔池、輕池、鹿垣池、厩坂池を作った」とある。○堤池(つつみいけ)は、堤と池である。堤は川や池などの堤を言い、池は池を掘ることである。「つつみ」というのは、水を包んで、そとへ漏らさないという意味の名である。万葉巻三【二十七丁】(319)に「彼山之堤有海曾(かのやまのつつめるうみぞ)」などがある。和名抄に「テイ(こざとへん+是)はまた堤とも書く。和名『つつみ』」とある。○爲役之。役の字は、諸本にみな「渡」とあるのは、誤りだろう。ここでは延佳本によった。高津の宮の段にも、「役2秦人1、作2茨田堤、及茨田三宅1(はたびとをえだちて、まんだのつつみ、またまんだのみやけをつくる)」とあるからだ。この【爲役之】三字を、「えだたせて」と読む。【「爲」の字は「たたせ」の「せ」に当てて書いている。記中この例が多い。「之」の字は新羅人を指していったので、「これを」という意味で書いているが、ここは読まない。】「えだち」は「役立」である。【「え」は、「役」の音ではない。本からの古言である。水垣の宮の段の「役病(えやみ)」のところ、伝廿三の廿二葉を考え合わせよ。】「え」は「あて」の音の縮まったものかどうか、定かでない。「たち」は、民がそのことに赴くのを言う。万葉巻十四(3480)に「於保伎美乃、美己等可思古美、可奈之伊毛我、多麻久良波奈禮、欲太知伎努可母(おおきみの、みことかしこみ、かなしいもが、たまくらはなれ、よだちきぬかも)」、これは「えだち」を東言葉で「よだち」と言っている。巻十六【二十二丁】(3847)に「課役徴者(えだちはたらば)」【今の本に「えだす」と読んでいるのは、よくないだろう。】とある。さてこれは、建内宿禰が、新羅人が渡来したのを率いて、彼らを使ってところどころの堤を築き、池を掘らせるなどしたことを言う。○百濟池は、ここの他に古書に見えたことがない。百済は、単に池の名か。【このことは、下に論がある。】またその地名か。百済という地は、和名抄に「摂津国、百濟【くだら】郡」がある。また「河内国、錦部郡百濟郷」がある。書紀の敏達の巻に、「百濟の大井に宮を作った」とあり、皇極の巻に「百濟の大井の家」とあるのは、この地である。【同巻に「石川の百濟村」とあるのは、同じ所か、別であるのか。錦部郡と石川郡は並んでいる。】また舒明の巻に「百濟川のほとりを宮地とした。・・・百濟の宮に遷った」とあるのは、三代実録卅八に「大和国十市郡、百濟川云々」とあるところで、川は廣瀬郡との境である。【今も廣瀬郡に百濟村がある。この川に近い。いにしえに百濟大寺というのがあったのもここである。舒明記、三代実録を考え合わせよ。天武紀に「繕2兵於百濟家1(つわものをくだらのいえにつくろいて)」とあるのも、ここだろう。】万葉巻二【三十五丁】(199)に「百濟之原(くだらのはら)」と詠んでいるのもここだし、また巻八【十六丁】(1431)に「百濟野(くだらぬ)」とあるのもここだろう。【大和志に廣瀬郡に百濟池を挙げて、「百濟村の西、広さ四百畝」と書いてある。この池かも知れない。】ここは新羅の人たちを使って、ところどころの堤や池を作り、また百濟池を作った、ということだ。「而」とあるので少し紛らわしく聞こえるが、【堤は百濟池の堤のように聞こえるが、そうではない。それでは上にある「池」の字が余分である。もし「而」の字を省いて、「又」の字に換えれば、この意味が明らかなようだが、それでは百濟池を作ったことが、新羅人の役に関わらず、別の一件となるので、「又」とは言わなかったのだ。】「而」は、新羅人を使ったことを、この池を作ったことまでに係るので言ったのである。このことは、書紀では「七年秋九月、高麗人、百濟人、任那人、新羅人らがみなやって来た。そこで武内宿禰に諸韓人を率いて、池を作らせた。そのため、その池を韓人の池という」とある。【これについては、また論がある。この記に「百濟池」とあるのは、単に池の名であったら、新羅人に作らせたのだから、新羅池と名付けるはずなのに、「百濟池」と名付けたのは、書紀に「韓人の池」とあるのを考え合わせると、百済は特に親しく仕えた国だったからではないだろうか。諸々の国の中でも、この国を韓人と言ったことがある。書紀の欽明の巻に、十七年のところで、「韓人の大身狹(おおむさ)の屯倉、高麗人の小身狹(こむさ)の屯倉」とあり、「ここで韓人と言うのは、百濟のことである」と注してある。また「一本にいわく、韓人・高麗人云々」、これらは高麗に対し、百済を韓人と言っている。とすると、韓人と言うのと、百済と言うのとは、同じ意味だったために、もとは「韓人の池」だったのを「百濟の池」とも言ったのか。もしそうなら、初めに名付けた意味は、書紀のように諸々の官人だったにしても、この記のように新羅人だったにしても、「韓人」と言うべきだから、その名を後に百済のことにとって、「百濟池」とも言ったのだろうか。または韓人が作ったので、元の名は韓人の池だったのを、百済の地にあるという意味で、「百濟の池」とも言ったのだろうか。いずれにしても、この記と書紀との違いは、ただ新羅人とあるのと、諸々の韓人とあるのみで、池は同じ池である。又はこの記と書紀とは、もとから伝えが違っていて、池も別だろうか。】大和志に韓人の池を「城下郡の唐古村にあって、今は柳田池という」とある由が書いてあるが、唐古という村の名についての、推し当てではないか。例のおぼつかないことである。

 

亦百濟國主照古王。以2牡馬壹疋牝馬壹疋1。付2阿知吉師1以貢上。<此阿知吉師者。阿直史等之祖。>亦貢=上2横刀及大鏡1。又科=賜B百濟國。若有2賢人1者貢上A。故受レ命以貢上人名和邇吉師。即論語十卷千字文一卷并十一卷。付2是人1即貢進。<此和爾吉師者。文首等祖。>又貢=上2手人韓鍛名卓素。亦呉服西素二人1也。

 

訓読:またクダラのこにきしショウコオウ、オマひとつメマひとつをアチキシにつけてたてまつりき。<このアチキシは、アチキのフミビトらがおや。>またタチとオオカガミとをたてまつりき。また「クダラのくにに、もしサカシビトあらばたてまつれ」とおおせたまう。かれみことをうけてたてまつれるひとナはワニキシ。すなわちロンゴとまきセンジモンひとまきあわせてとおまりひとまきを、このひとにつけてたてまつりき。<このワニキシは、フミのオビトらがおや。>またてびとカラカヌチなはタクソ、またクレハトリ・サイソふたりをたてまつりき。

 

口語訳:また百濟の国王、照古王は、牡の馬と牝の馬を、阿知吉師につけてよこした。<この阿知吉師は、阿直史たちの祖である。>また横刀と大鏡を貢った。また百濟國に仰せて、もし賢人があれば奉れと言った。すると和邇吉師という人を奉ってきた。そのとき、論語十卷、千字文一卷、合わせて十一卷をこの人につけて貢進してきた。<この和邇吉師は、文首らの祖である。>また手人、韓鍛の卓素と呉服の西素の二人を貢進してきた。

 

百濟國主(くだらのこにきし)。國主は「こにきし」とも「こきし」とも読むべき理由は、神功皇后の段【伝卅の六十葉】に言った通りである。百済の国も、そこに出た。【伝卅の六十五葉】この国王の先祖は、続日本紀四十に「百濟の遠祖、都慕王(つぼおう)は、河伯の女が日精に感じて生んだ」とあり、また「百濟の太祖、都慕大王は日神が降霊して、扶餘を奄じて(覆っての意か)、開国した」とある。都慕王は、新撰姓氏録にも、ところどころ見える。【その和の朝臣、百濟の朝臣、百濟の公などの條に、印本で「孝慕王」とあるのも、古い書物では「都慕王」である。からぶみ後漢書に「扶餘國は・・・初め索離國(たくりこく)の王が出かけると、その侍兒が後に妊娠して、王は帰ってその侍兒を殺そうとした。すると『私は天上に気があるのを見ました。大きさは鶏の卵のようで、それが降ってきて、それによって身ごもったのです』と言った。王はこれを捕らえておいたところ、遂に子を生んだ。王はこれを豚小屋に置いた。豚は口で吹いたので(暖めたので)、死ななかった。また馬小舎に移した。馬もまた同じようにした。王は神だと思って、その母に許して養わせた。名を東明と言う。東明は長じて、射をよくした。王はその猛々しいのを忌み嫌って、また殺そうとした。東明は逃れて掩滞水に到り、弓で水を撃つと、魚鼈がみな集まって、水上に浮き上がった。東明はこれに乗って渡ることができた。扶餘に到って王になった」とある。北史の「百濟傳」に、上記の後漢書に載せたことを記して、「・・・東明は後に仇台にあって、仁信が厚かった。初めて帯方の故地に国を立て、漢の遼東の太守、公孫度が女を娶せると、遂に東夷の強国となった。はじめ百家をもって濟(な)し、このゆえに百濟と名付けた」と言う。また後漢書には、高句麗も扶餘の別種とあり、魏書には「高句麗は扶餘から出た。自ら先祖は朱蒙という。朱蒙の母は河伯の娘で、扶餘王によって、室中に捕らえられていた。日光が指してきて、彼女を犯そうとした。身を避けたが、日影はまた追った。ついに捕らえられ、孕んで一つの卵を産んだ、大きさは五升もあった。扶餘王はこれを捨てて犬に与えたが、犬は食わない。これを捨てて豚に与えたが、豚も食わない。・・・ついにその母に返した。母はもので卵を包んで、暖かいところに置いた。一男が殻を破って生まれ、長ずるに及んで朱蒙と号した。俗に朱蒙はよく射ると言う。・・・扶餘の臣たちは、またこれを殺そうと謀った。朱蒙の母は、ひそかにこれを知り、朱蒙に告げて・・・朱蒙は烏引、烏違ら二人を伴い、扶餘を捨てて東南に走った。中道にたまたま一大水があり、渡りもなく、橋もなかった。扶餘の人々が追ってきた。朱蒙は水に告げていわく、『わたしは日の子、河伯の外孫だ。今日逃げてきた。追っ手がもう追いつこうとしている。どうして渡れようか』と言った、すると魚鼈が浮き上がり、橋を造った。朱蒙は渡ることができ、・・・ついに普述水に到り・・・コツ(糸+乞)升骨城に到り、遂にそこに住んだ。名を高句麗と名付けた。云々」とある。北史にもこう記してある。この朱蒙の故事は、後漢書の東明のこととよく似ているが、別であるのは、伝えが異なるだけで、実は同じことに聞こえる。続日本紀に河伯の娘とあるのも、朱蒙の話によくあっている。思うに都慕、東明、朱蒙は、音がやや近く、韓国の音では、ことによく似ていて、実は同人だろう。梁書には「高句麗は東明から出た」とあり、その東明のことを記したのは、朱蒙のことを東明と混同したのか、または朱蒙がすなわち東明と考えて書いたのか。いずれにしても当たっているだろう。朝鮮の東国通鑑には「百濟の始祖は温祚王」と言い、それから世々を記し、「扶餘を氏とした」とある。始祖の元年を漢の成帝の鴻嘉三年に当たるとしている。垂仁天皇の十二年である。】そうして息長帯比賣命の時から、皇朝にまつろい、世々ことに親密に奉仕していたのを、【そのためその国人が渡来して住み着いたものが多く、世々の王の子孫も多くて、新撰姓氏録の諸々の巻にも、その氏々が多い。】斉明天皇の六年に、新羅と唐に国を滅ぼされた。義慈王という王の世であった。【そのとき、義慈王の子、豊璋と禪廣の二人が皇国に来ていたのだが、豊璋を国に返して云々され、禪廣は皇国に留まったのを、持統天皇の御世に、百濟王という号を与えてから、子孫はこれを相継いで氏姓となった。百濟は姓で、王はかばねである。「こにきし」と読む。「おおきみ」と読むのは、たいへん大きな誤りだ。さてこの二人を書紀には余豊璋、余禪廣ともある。「余」はかの国王の姓である。また善光ともあるのは、禪廣と同じかどうか分からない。禪廣の子が昌成、その子良虞、南典、良虞の子敬福、この他にも、百濟王(こにきし)某という人が、世々の史に多く出ているのは、みなこの氏の人で、いずれも官位を賜って、専ら皇朝の諸臣の列に属していた。この氏は、今の京になっても続き、新撰姓氏録の右京諸蕃にある。河内国交野郡にこの氏の居趾といって、今もあるという。そこに百濟寺というのもある。西宮記に、百濟王を交野の検校にしたことも見える。】○照古王(しょうこおう)は、【師は芭蕉(はせおば)などの例から、「せおこわ」と読んだ。それももっともなのだが、この記、書紀に数多出ている韓人の名は、そんなに読むことも難しく、いまはただ字音のままに「しょうこおう」と読む、それも後世のように「しょーこおー」とは読まない。仮名のままに「せ」も「わ」も、「う」も正しく読む。また「照」の仮名を「しょう」とするのも誤りである。】書紀の神功の巻、四十六年のところに、百濟王背古王と見え、四十九年のところに、その王肖古と見え、五十五年のところに、百濟の背古王が薨じたと見える。「背」の字は、みな「肖」を写し誤ったので、この王である。【「肖」と「照」と、音が同じなので、通わせて書いたのだ。肖古王は、東国通鑑によると、百済の第六世の王で、その元年は後漢の桓帝の永康元年であり、成務天皇の卅七年に当たる。神功皇后が新羅をこと向けたときは、この王の卅四年に当たる。】また欽明の巻に「百済の聖明王がいわく、『昔、私の先祖、速古王・貴首王の世、安羅、加羅、卓淳(とくじゅん)の旱岐(かんき)らが云々』」とあるのも、その大后の御世のことで、「速古王」は、即ち「肖古王」である。これは「肖」と「速」とが、韓国の音が通うので書いたものと見える。【また「速」の字は「逍」の誤りかと見えるが、そうではないだろう。新撰姓氏録の百濟の氏々の中にも、「速古王の子孫である」と言っている例が多い。それを一本にはみな「肖古王」とあるけれども、それは後人が改めたもので、もともと「速古王」だったのだろう。また「連古王」とあるのも、「速」の誤りだろう。「近速王」というのもあり、これは「古」の字が脱けたもので、「近肖古王」と同じ人物だろう。近肖古王のことは次に言う。】さて続日本紀四十に「津連の眞道らが言上していわく、『眞道らの本系は、百済国の貴須王から出ました。貴須王は、百済が初めて起こってから、十六代の王です。百済の太祖都慕大王は、・・・近背古王に至って、遙かに聖化を慕って、貴国に聘しました。これは神功皇后摂政の年です。そのご軽嶋の豊明の朝で天下を治めた應神天皇の・・・国王貴須王は・・・』」と見える。【これも「肖」の字を「背」に誤っている。これは肖古王であるのを、近肖古王にしているのも、混同した誤りである。近肖古王は、肖古王とは別で、その元年は東国通鑑によれば、仁徳天皇の三十四年に当たって、遙かに後年のことである。貴須王は、書紀によれば肖古王の子で、大后の六十四年に薨じたとある。貴首とも書く。東国通鑑には、仇首王とある。また新撰姓氏録には「近貴首王」というのも見える。】これらによると、この王は大后摂政の御世で、この御世【應神】ではないかのようだが、大后の御世というのも、この記ではすなわちこの天皇【應神】の御世であるから、違いはない。【とすると、馬を奉り、阿知吉師をたてまつったのは、大后の御世といえる間のことで、その五十五年に「肖古王が薨じた」とあるよりも前のことではないだろうか。】それを書紀では十五年【應神】のところに、「百済王が阿直岐を遣わして、良馬二匹を奉った。云々」とあるのは、「そのとき彼の国は阿花王であった」と言っているから、伝えが異なっている。【書紀にいわく、「三年、百済国は辰斯王を殺して、謝意を表明した。紀角宿禰らは、すなわち阿花王を立てて、王にして帰った。十六年、阿花王が薨じた」とあるから、十五年は阿花王の時である。この記に照古王とあるのに合わない。阿花王は、肖古王の曽孫である。東国通鑑には、阿花を「阿シン(くさかんむり+辛)」と書き、その元年は晋の大元十七年とあるから、仁徳天皇の八十年に相当する。薨じたのはその十四年とあるから、履中天皇の六年に当たるので、書紀と百二十年ほど違う。そもそも東国通鑑は、信じがたい記事が多いと言っても、この年代は、その書物の方が良かろう。書紀は伝えが紛れたので、年代が違っているようだ。この天皇の御世は、かの国は肖古王・貴須王の時代だろう。ところで阿花王の「花」の字は「華」の字が正しいと思われ、「シン(くさかんむり+辛)」は「華」を誤ったのだろう。】○牡馬は「おま」、牝馬は「めま」と読む。万葉巻五(877)に「美麻(みま)」【御馬】とあり、書紀に「土馬(はにま)」、「驢(うさぎま)」などがある。【上に連ねて言う言葉があると、「う」を省いて「ま」という例である。】○壹疋は「ひとつ」と読む。書紀に「馬幾匹」とある、みなその例に倣って読む。雄略の巻に「馬八疋(うまやつ)」とあり、その歌に「宇麼能耶都擬(うまのやつぎ)」とあるのは、即ち「八疋」と言うことではないだろうか。定かでない。【今の世に、布帛の類、また獣などの数の疋を「ひき」というのは、馬から出たことで、一牽(ひとひき)、二牽(ふたひき)ということではないだろうか。または「疋」の字の音を訛ったのではないか。】さて馬は、御国に神代からあるもので、書紀の欽明の巻に、百済を使い人が国に帰るとき、良馬七十疋を彼の国に贈ったことさえ見えるから、いまここでことさら向こうから贈ってきたというのは、特別に良い馬だったのだろう。<訳者註:馬は、書紀では神代巻に出てはいるが、後年には、應神天皇の代まで出ていない。>○阿知吉師(あちきし)。この名は、書紀に「阿直岐」とある。また子孫の姓を阿直の史と呼んだ例からすると、正しくは阿知伎吉師だったのを、文字が一音重なっているので、一つを省いて言い慣わしたのだろう。【書紀に阿直岐と書いて「あとき」と読むから、「とき」を縮めて「ち」と言ったかとも思えたが、そうではないだろう。】吉師は「きし」と読むべきだ。次の和邇吉師も同じだ。【それを延佳本で、「吉」を上に付けて、「師」を「ふみよみ」としたのは、間違いだ。すべて「某師(ナニノふみよみ)」といった名は、例がない。】書紀に「吉士某」、「某吉士某」といった名が多い。【それをたまに「吉師」とも書いている。】これである。これはもと新羅国の官で、十七等中の第十四等を「吉士」と言ったことが、漢籍【北史】に見えるので、皇国でも、それを取って、藩人(からびと)の官位に用いたと見えて、継体の巻に吉士金子(かねこ)、吉士木蓮子(いたい)、吉士譯語彦(おさひこ)、また安康の巻に難波吉士日香蚊(ひかか)、日鷹吉士堅磐子安銭(かたしわこやすせん)、難波吉士赤目子(あかめこ)など、他にも多い。【その住んでいた地をとって「何々の吉士」と言った。後にはそのまま姓になった、と見えるのもある。】この吉士というもののことを記している文をみると、あるいは韓国に遣わす使い、あるいは韓国からやって来たものの接待など、すべて藩国(からくに)に関わっている。このことからすると、もと韓国からやって来たものをこの品になし、子孫もその職を継いだものであろう。この阿知吉師、和邇吉師のその類だ。【ただしこの人々は、書紀にはまだ吉士とは見えないことを思うと、この御世にはまだ吉師という名はなかったのを、後にかの吉士と言うものに倣って、この人々をも推測で吉師と語り伝えたのかも知れない。この時は、いまだ新羅の官名を取ることはなかっただろうからである。しかしこれはどうか、すぐには決められない。】書紀にいわく、「十五年秋八月、百濟王が阿直岐を遣わし、馬二匹を奉った。輕坂の上の厩で飼った。その阿直岐に飼うものを掌らせた。その馬を飼ったところを『厩坂』という。阿直岐は、また経典を読むことが巧みだったので、太子の菟道稚郎子をつけて学ばせた」とある。【この阿直岐を「直支王」と混同する人がある。誤りだ。直支王は、八年の細書に「百済記にいわく、阿花王・・・王子直支を天朝に遣わして、先王のよしみを通じた。十六年、百済の阿花王が薨じた。天皇は直支王を呼んで、『お前はすぐ国に帰って位を継げ』と言った。すなわち・・・二十五年、百済の直支王が薨じた」とあり、八年から十六年まで、皇朝にいたと見える趣である。東国通鑑に、「阿シン王が薨じた。太子の腆支は倭国に人質としていたが、・・・倭主は兵士百人を添えて、腆支を国に送り届けた。・・・国人は迎えて、王として立てた」とある、この腆支を「直支」とも言っていることが、彼の国の三国史記にも見える。倭主云々のことも、書記に合う。直支を書紀で「とし」と仮名を付けている。腆支(てんし)と直支(とし)と、音が近い。また「支」は「し」の音である。集韻に「祇」の音も註しているが、それは単に地名の場合であり、通常の音ではない。またわが国で「き」の仮名に用いるのは、「伎」の偏を省いたもので別である。直支王は、大体こういったものだから、阿直岐をこれと同じものと考えてはいけない。また、腆は「あつき」と読む字なので、「こちらでは『阿直支(あつき)』と書いた」という説なども間違いである。東国通鑑には、彼の腆支王の元年は、晋の義熈元年とあるから、履中天皇の六年に当たり、書紀と年代が大きく異なる。とすると、上に述べたように、書紀は伝えが乱れたので、阿花王、直支王は、この年代ではない。後の御世のことと思しいので、阿直岐と直支王は、別人であることは言うまでもない。】○阿直史は「あちきのふみびと」と読む。【「直」の字を書いているから、濁音かも知れない。ここでは単に阿知吉師の名によって、「知」を清音に読んでいる。また史は、淡海公の名を「不比等」と書いているから、「み」を省いて「ふひと」とも読めるだろう。】「阿直」は姓である。祖の名によっているだろう。書紀にも「阿直岐は阿直岐史の始祖である」と見え、天武の巻に「十二年冬十二月、阿直史に姓を与えて連とした」、新撰姓氏録に「安勅(あじき)連は、百済国の魯王の子孫である」、続日本後紀三に、「阿直史福吉、同姓の核公ら三人に姓を与えて、清根(きよね)宿禰とした。核公らの祖先は、百済人である」とある。○「亦貢=上2横刀及大鏡1(またタチとオオカガミをたてまつる)」。これは阿知吉師につけてではなく。異なるときのことである。「亦」とあるのは、その意である。横刀も鏡も、皇国にあるものなのに奉ったのは、尋常のものでなく、珍しいさまをしたものだったのだろう。【鏡は大鏡とあるから、ことに大きく、珍しかったのだろう。】このことは、書紀には神功の巻に、「五十二年秋九月、久底らが千熊長彦に従ってやって来て、七枝刀を一口、七子鏡一面、また種々の重宝を奉った。云々」とある。【七子鏡は、漢籍にも見える。これは周囲に七つの子鏡があって、俗に九曜の紋という形をしたものだったのではないだろうか。】かの大后の御世というのは、即ちこの天皇の代だから、ここに記したのと、代が違うということはない。○百濟國は科賜(おおせたまう)に係っている。【「若有2賢人1者」というのに係っているのではない。】科は、「仰せ」である。○賢人は「さかしびと」と読む。書紀に「賢」、「賢人」、「賢哲」、「賢良」、「明哲」、「君子」など、みなそう読んでいる。上巻の八千矛神の歌に「佐加志賣(さかしめ)」、書紀の仁徳の巻に「賢遺、これを『さかしのこり』と言う」など見える。【また「さかしきひと」とも「かしこきひと」とも読める。】万葉巻三(340)に「古之、七賢、人等毛(いにしえの、ななのかしこき、ひとどもも)」とある。○和邇吉師(わにきし)は、【真福寺本、延佳本には「吉」の字がない。ただし真福寺本には、次の細書のところにはこの字があるので、ここにないのは、誤って落としたのである。ところが延佳本では、前の阿知吉師を書紀に阿直岐とあるので、吉を上に付けて、師を一字離し、「みふみよみ」と読んだのになずらえて、ここも同じく読むために、さかしらに吉の字を除いたのだろう。今は多くの本、並びに釈日本紀に引いたのも、みな吉師とあるのに依った。】書紀に「十五年・・・天皇は阿直岐に尋ねて、『お前より物を良く知っているものがいるだろうか』と言ったところ、『王仁というものがいます』と答えた。そこで上毛野の君の祖、荒田別と巫別を遣わして、王仁を召した。十六年、王仁がやって来た。それを菟道稚郎子の師匠として、諸々の書籍をこの王仁に習わせた。一つとして通じないことはなかった。」、【王仁は、書紀にその父を王狗とあり、王は姓だろう。しかしこの記に「和邇」とあるから、「わに」と読むべきである。字音のままに「おうにん」と読むのは、どうであろう。】続日本紀四十に「文忌寸の一番下の弟、武生連眞象が言うには、・・・勅があって、その本系を質した。一番下の弟が申すには、『漢の高帝の子孫を鸞と言い、鸞の子孫を王狗と言いました。百済に行って、久素王のとき、聖朝が使いをして文人を求めました。久素王は、狗の孫、王仁を奉りました。云々』」とあり、【久素王は、すなわち貴須王であろう。】古語拾遺に「軽嶋の豊明の朝に至って、百済の王が博士の王仁を貢った。・・・後の磐余稚櫻の朝(履中天皇)に至ったが、三韓の貢献は、世々絶えたことがなかった。齊蔵の傍らにさらに内蔵を建てて、官物を収めた。すなわち阿知使主、百済の博士王仁とで、その出納を記し、はじめて藏部を定めた」とある。【應神天皇の十六年から、稚櫻の朝の元年まで、百十余年を経ており、王仁がその頃までいたというのは、命が永くないだろうか。疑わしい。あるいは王仁の子孫というところを、伝え誤っているのか。ところで河内志に、「王仁の墓は、河内国交野郡、藤阪村の東北、御墓谷というところにある。今に『おにの墓』という」とある。】○論語千字文。論語はあり得るだろうが、千字文がここに出るのは納得できない。この御世に、まだこの書が伝わるわけがない。【というのは、集註の千字文の序にいわく、「晋の武帝が魏の後を受け、初め路州城にいたとき、大夫の鐘ヨウ(瑤のつくり+系)がこの文を作り、帝は愛して手から離さなかった。晋が宋の文帝に追われて、難を避けて丹陽に至るとき、その千字文は車の中にあった。雨が降り、車が雨漏りして、千字文を濡らした。丹陽にいたって、書箱の中に入れておいた。晋が天下を治めて、十五帝を得、ともに百五十年を経た。宋の文皇帝劉祐が天下を引き継ぎ、晋帝の書庫を開くと、この千字文を見出した。雨に乱れて、その順序がめちゃめちゃになっていた。右将軍の王羲に韻を継がせたが、継げなかった。宋帝は、天下を治めることおよそ六十年、齊が位を受けて丹陽を治めたが、また誰も次第を継ぐことはできない。齊の七帝は、治めること三十年、梁の武帝にいたって、周與嗣に継がせ、ついに千字文の韻を得た」とある。この集註は、梁の李邏という人の作った文である。そもそもかの晋の武帝という人は、應神天皇と同時代に当たるから、このとき既に千字文という書はできていた。しかし未だ世に広まらず、その後順序が乱れて、読み難かったのが、遙か後の梁の武帝という人の時に至って、韻を継いで完全な姿になったので、それが世に広まって、百済当たりまでも広まったのは、またその後のことだろう。梁の武帝は、武烈天皇から欽明天皇までの御世に当たる。ある説に、「秦の商鞅の千字文というのがある。この御世に渡って来たのは、そちらである」とも言うが、それは違う。かりにそういうものはあったとしても、それではない。ただかの鐘ヨウがつくったもので、今の千字文を言うのに違いない。】とすると、これは実際には遙か後に渡って来たのだが、その書が重く用いられ、世間であまねく読み習う書であるから、世には應神天皇の頃に、和邇吉師が持って来たように語り伝えたのだろう。いにしえから世に重く用いられたことは、三代実録廿七に「貞観十七年夏四月廿三日、皇太子は初めて千字文を読んだ。従五位上守右少辨、兼行、東宮の学士橘朝臣廣相が侍読し、親王公卿らが悉く会し、宴飲し歓を極めて罷る。五位以上、並びに陣頭に侍した。六位に禄を賜う。おのおの違いがあった」とある。【後には、皇太子の読書の初めは、必ず孝経という書物に決まっているのを、いにしえはそうでもなかったようだ。】宇津保物語の樓の上の巻に「大臣(おとど)此君ひとり千字文ならはしたてまつり給ひしかば、やがて一日にきゝうかべ賜ふ」、栄華物語の玉の臺の巻に、「又或僧坊を見れば、うつくしげなるをのこごども、千字文を誦しならひ、孝經をよむ」などあるので知るべきである。皇朝に漢籍が渡って来て、文字があるのは、この時が初めなのだろう。【その由は、伝の初めの巻でも言った通りだ。日本紀竟宴和歌に、王仁を橘直幹が「和多津見野、千倍野四羅奈身、古江天沽曾、八嶋乃國爾、布箕波都太不禮(わたつみの、ちえのしらなみ、こえてこそ、やしまのくにに、ふみはつたうれ)」と歌っている。そもそもこの時、書紀には「太子は諸典籍を王仁にならった」とだけあって、書籍を奉ったことは載っていない。あの紀は、すべて甚だしく漢文を飾って作っているために、文字書籍は、神武天皇の御世にももうあったように書いてあり、上代に文籍がなかったことを、ものたりぬように思って、この御世に初めて渡って来たことを、忌み隠したものと思われる。またある人は、東国通鑑によって、「百済国には、仁徳天皇の六十二年に当たる年から、初めて文字書記があったので、それより先にその国から書物を奉ったというのはどうか」と疑ったが、かえって誤っている、皇朝へこの時に書籍を奉ったことは確かなことで、論ずるまでもない。百済には既にあったことは明らかだ。それを誤りの多いかの東国通鑑を疑わず、かえってこのことを疑うのは、例の漢へのこだわりというものだ。○続日本紀四十に、津連眞道らの上表に、「『眞道らの本系は、百済の貴須王から出ました。・・・軽嶋の豊明の朝に天下を治めた應神天皇が、上毛野氏の遠祖、荒田別に命じて、百済に有識の者を探させました。国主貴須王は、恭しく使いの旨を承り、宗族を選び、その孫、辰孫王、一名智宗王を遣わしました、使いに従って入朝し、天皇は非常に喜び、特に寵命を加え、皇太子の師としました。ここに初めて書籍が伝わり、大いに儒風を開き、文教の起こることは、実にこの時に始まったのであります。・・・これより分かれて初めて三姓となり、おのおの職によって、氏となりました。葛井、船津連らがこれです。・・・どうか連姓を改めて、朝臣姓を賜りたく、お願いいたします』。勅により、住むところによって菅野朝臣と姓を与えた」とある。これは和邇吉師のことと同じことだが、別なのは、辰孫王も、和邇と同時に、同じ身分で入朝したのだが、この記や書紀では、その伝えは漏れたのだ。新撰姓氏録に「菅野朝臣は、百済国の都慕王の十世の孫、貴須王から出た」、「葛井宿禰は、菅野朝臣と同祖、云々」、「津朝臣は、菅野朝臣と同祖、云々」、「船連は、菅野朝臣と同祖、云々」とある。】○即貢進の「即」の字は、「以」の誤りか。○此和爾吉師。【「爾」の字は、一本に「邇」と書いてある。前にも「邇」とあったから、ここもそうあるのが当然だが、今は諸本によっている。「爾」と「邇」とは、同じように用いるのが通例だからだ。また延佳本で「吉」の字がないのは、さかしらに除いたのだろう。その理由は、前に述べた通りだ。諸本にみな「吉」の字がある。】○文首【「ふみのおびと」と読む。】は、書紀に「いわゆる王仁は、書首らの祖である」、古語拾遺に「博士王仁は、河内の文首の始祖である」などと見え、書紀の雄略の巻に「河内国古市郡の人、書首の加龍(かりゅう)」、斉明の巻に「河内の書首【名を欠いている】」、天武の巻に「書首、根麻呂」などが見える。同巻、「十二年九月、文首に姓を与えて連とした」、「十四年六月、書連に姓を与えて、忌寸とした」、続日本紀四十の文忌寸の最弟らの上表に、「『文忌寸らには、もともと二つの家がありました。東の文は『直』と称し、西の文は『首』と称しました。相並んで行事を行い、その来ることは遠かったのです。今東の文は、挙げて宿禰に登ったのですが、西の文は恩に漏れ、なお忌寸に沈んでいます』・・・ここに最弟および眞象ら八人に姓を与えて宿禰とした」、新撰姓氏録【左京諸蕃漢】に「文宿禰は、漢の高皇帝の子孫、鸞王から出た」、また「文忌寸は、文宿禰の同祖、宇爾古首の子孫である」とある。【これに紛らわしいことがある。まずこの氏の他に、文直という氏がある。それは和邇の子孫ではない。漢直から分かれた氏で、かばねも直であり、新撰姓氏録に「文忌寸は、坂上の大宿禰と同祖、都賀直の子孫である」とある。書紀に、その氏人もちらほら見える。「首」と「直」のかばねの違いで弁えるべきだ。その氏人は、代々倭国にあったので、倭の文直と言い、この和邇の子孫であるのを河内の文首といった。上に引いた続日本紀などに、東の文とあるのは、倭の文直である。西の文とあるのは、河内の文首で、東西をすなわちやまと・かわちと読む。學令に「東西の史部」とある。義解に「皇城の左右にある。故に東西とする」ともある。但しこの注は紛らわしい。皇城の左右に関わらず、河内は西、倭は東にあるので、東西というのである。たとえ皇城の左にあっても、倭国にあるのを東と言うだろう。ところが天武天皇の御代になって、文首も文直もともに連になり、あるいは忌寸になって、両氏がいよいよ紛らわしくなったので、単に東西といって区別したのだ。続日本後紀三に、「左京の人文忌寸歳主、同姓三雄らに姓を賜い、淨野宿禰という。河内国の人文忌寸繼立の忌寸を改めて宿禰とした。歳主、三雄、繼立らの先祖は、みな百済の人である」とある。繼立は河内の人とあるから、西の文だと思われるが、歳主も一つに挙げてあるから、西の文であろう。文氏の先祖は漢国人だが、百済を経てきているので、その国の人というのも間違いではない。】神祇令に、「六月十二月の晦日の大祓に、東西の文部が祓の刀を上げて、祓の詞を読む」、義解に「東は漢文直、西は漢文首」、祝詞式、大祓の詞の終わりに「東の文忌寸部が横刀を奉り、祈る。西の文部はこれにならう」とある。【この文部が刀を奉り、祓の詞をよむのは、四時祭式に見える、その祓の詞というのは、式の大祓の詞の末に載せてある、「謹請皇天云々」の文で、義解に「文部が漢音に読むべきものと言う」とある。この氏がこのように太刀を奉り、詞を読むことは、その本国の伝え事だったのを、いつの御世からか、混じえて行うようになったのだろう。この文部を「ふひとべ」と読むのは誤りである。「ふひとべ」と読むのは史部で、別である。それは學令に東西史部とあり、義解に「前代以来、変わらず業を継ぎ、あるいは史官となり、あるいは博士となり、それによって姓を賜う。すべて史と言う」とあって、これは某史というかばねの氏々の倭・河内にある者を言う。文首・文直のことではない。混同してはならない。また上の神祇令の義解に、「東は漢の文直、西は漢の文首」とある「漢」は、ともに漢国人の末であることを言っている。漢国から来たのをすべて漢(あや)某と言う。ところが別に漢直という氏もあって、混同されやすい。注意すべきである。ただし皇極紀に「倭の漢の書直縣」、孝徳紀に「倭国の漢の書直麻呂」などという人が見え、倭の文直は、漢の直から分かれたのを「漢」と言っている。義解に言っている意味と異なる。また文という字は「あや」とも読むので、漢直と紛れて、文首、文直の「文」を「あや」と読むこともあるが、間違っている。この文首のことは、上述のように種々混乱しやすいことも多い。よく考えなければ、取り違えるだろう。】ところで和邇吉師の子孫は、新撰姓氏録に、文宿禰などの他にも、武生宿禰、櫻野首、栗栖首、古志連などがある、みな文首から分かれたのだろう。○手人(てびと)は、諸本みな「人手」と書いてあるけれども、それは上下を誤っていることに疑問の余地はないから、今改めておいた。【師は「人手」とあるままに「てびと」と読んだが、「てびと」を「人手」と書く理由もなく、またそうした書き方は、この記の通例ではない。】書紀の雄略の巻に、「百済から帰って、漢の手人部、衣縫部、宍人部を奉った」、また「百済から奉った手末才伎(たなすえのてびと)」、また「西の漢の才伎(てびと)」、また「百済から奉った今來才伎(いまきのてびと)」、仁賢の巻に「日鷹の吉士を遣わして、高麗から巧手者(てびと)を召した」、また「日鷹の吉士は高麗から帰って、工匠(てびと)須流枳(するき)、奴流枳(ぬるき)を奉った。今の倭国の山邊郡、額田村の熟皮(かわおし)、高麗、これらはその後である」などが見える。職員令の内藏の寮のところに、「典覆二人は、靴、履、鞍の具を縫い作る百済の手部を検校することを掌る。百済の手部十人は、種々のものを縫い作る事を掌る」とあり、大蔵省のところにもそう見えている。【ともに「事」の字は「革」の誤りか、または「事」の上に「革」が脱けたのか。】手部も「てびと」と読む。手人は、諸々のものを作る人を言う名である。【今の俗に職人というものである。】内藏寮式に、「諸々の作り手、御櫛作り手二人、夾纈(板を挟んだ間に染料を入れて染める)手二人、臈纈(ろうけつ染め)手二人、暈繝(ぼかし染め)手二人、油シ(糸+施のつくり)造り手二人、織席手一人」、また「染手五人」などあるのも、みな手人の意味である。ここは、韓鍛冶と呉服を指して言う。○韓鍛(からかぬち)。「鍛」は「かぬち」と読む。上巻【伝八の廿四葉】に見える。今「かじ」というのは、「かぬち」を訛ったのである。韓国の鍛冶が来てから、皇国に本からあった鍛冶を「倭鍛(やまとかぬち)」と言って分けた。【倭鍛部(やまとかぬち)が書紀の綏靖の巻に見えるのは、あとから言う名である。皇国のと韓国のとは、鍛冶の仕方の異なる点があるのだろうか。それとも彼の国では、諸々の器物などを特に巧みに作っていたから、召したのだろうか。いかにも後まで倭と韓と分かれていたのは、何か違った点があるのだろう。今の世の鍛冶は、いずれの流れだろうか。刀鍛冶などの法は、もとから倭鍛の流れだろう。】続日本紀九に、「・・・、近江国の韓鍛冶百嶋、・・・丹波国の韓鍛冶の首、法麻呂、・・・播磨国の韓鍛冶百依、・・・紀伊国の韓鍛冶杭田、・・・等、合わせて七十一戸、雑工に携わるとは言え、本源を追及し、雑戸の身分ではない。よってその号を除き、公戸とする」、廿九に「讃岐国寒川郡の人、韓鐵師の毘登毛、韓鐵師部の牛養ら、百廿七人に、坂本臣の姓を与えた」、四十に「播磨国美嚢郡の大領、韓鍛首、廣富・・・」などがある。○呉服は、「くれはとり」と読む。【「はとり」は「はたおり」を縮めた言い方である。「と」を濁るのは誤りだ。】呉の国の服織り人である。【だから「はとり」を「服」とだけ書くのは、服部の「部」を省いたのだ。】このことは書紀では、「三十七年春二月、阿知使主(あちのおみ)を呉に遣わして、縫工女(きぬぬいめ)を求めさせた。阿知使主は、高麗に至って、呉に行こうとしたが、道が分からない。道を尋ねると、高麗王は久禮波(くれは)・久禮志(くれし)という二人を添えてくれたので、呉に行くことができた。呉の王は、兄媛(えひめ)、弟媛(おとひめ)、呉織(くれはとり)、穴織(あなはとり)の四人の乙女を与えた。四十一年春二月、阿知使主は、呉から筑紫に帰ってきた。この時、胸形(むなかた)の大神が工女らを乞うた、そこで兄媛を胸形の大神に献げた。これは今筑紫の国にいる御使君(みつかいのきみ)の祖である。やっと三人の乙女を連れて津の国に到り、武庫で天皇が崩じ、及ばなかったことを聞いた。そこで大鷦鷯命(おおさざきのみこと:後の仁徳天皇)に献げた。この女人らの末は、今の呉衣縫(くれのきぬぬい)、蚊屋衣縫(かやのきぬぬい)らがそうである」とあるが、これは雄略天皇の御世のことが混同されたもので、【同雄略の巻に、「十二年夏四月、身狹村主(むさのすぐり)青と、檜隈の民使、博徳(はかとこ)を呉に使いに出した。十四年春正月、身狹村主青ら、共に呉の国の使いとして、手末才伎(たなすえのてびと)漢織、呉織、また衣縫の兄媛、弟媛を連れて帰り、住吉の津に泊まった。衣縫の兄媛を三輪の神に奉り、弟媛を漢の衣縫部とした。漢織、呉織の衣縫は、飛鳥の衣縫部、伊勢の衣縫の祖である」とあるのと、様子が似ているので分かるだろう。やって来た四人の名が全く同じで、兄媛を神に奉ったことも同じである。とすると、呉国に行ってこの手人たちを連れてきたのは、上記雄略天皇のことだったのを、この應神天皇の御世に、百済から奉った服部のことに伝え誤ったのだ。だからかの久禮波、久禮志が道しるべとなってとあるのも、雄略の御世のことだろう。呉の国と通い始めたのは、雄略の頃とこそ思える。仁徳天皇の五十八年に、呉の国が朝貢したとあるのも、おぼつかないことである。そもそも雄略天皇の頃は、呉は既に滅んでいたのだが、三韓などでは言い習わしたままに、その地を呉と言っていた。書紀に呉織、漢織といって、これを二人にしたのも、誤りである。実は一人で、漢織というのも、即ち呉織のことだ。というのは、漢と呉を区別して言うとこは、漢とは三国時代の魏のあった地を言い、呉とは江南の地を言う。しかし皇国に於いては、呉も合わせて漢(あや)ということが多かった。書紀では呉の国の人の子孫も漢の某といい、新撰姓氏録の諸蕃にも、漢のうちに呉を含めている。だから呉織を漢織とも言ったのを、二つあったように考えて、別に挙げたのだ。かの雄略の巻に、「弟媛を漢の衣縫部とした」とあるのでも納得すべきである。弟媛は呉から来たのを、「漢の」と言っている。とすると、これもこの記に漢服(あやはとり)と言うのがないのが正しいだろう。】ここは、この記に百済から奉ったとあるのが、正しい伝えだろう。それを「呉服(くれはとり)」と言ったのは、後に雄略の御世に初めて呉の国から伝わった服織が、めずらしくてもてはやされる中で、その名が高くなって、ついには異国の服織をすべて呉服織と言い習わしたので、この御世に百済から伝わったのも、後の名で【呉服と】語り伝えたのだ。【今の世まで呉服(ごふく)という名があるのも、この名が残ったのだ。また呉藍(くれない)と言えば、必ずしも呉国のものではなく、紅色の名となったのも同じことで、「からくれない」と言うからといって、漢から来た呉の国の藍ではないのもなずらえて考えるべきだ、書紀にこの呉服を、呉から来たように書いてあるのも、呉という名によって、雄略の御世のものと混同したのだろう。また書紀に四人の乙女とあるが、呉服はこの記に名は西素とあるのは、男の名のように思われる。その上、穴織は、即ち漢織で、それは呉服のことであるから、四人としたのも違っている。呉を「くれ」ということは、かの久禮波、久禮志が道案内したせいか、あるいは呉の国の道案内をしたので、この二人の名が残ったのか、本末は分からない。ある人は「『くれ』は呉の字音が写ったのだ」といったが、それは例の強説だ。】○二人は、卓素と西素である。百済から奉ったのは、ここまでである。

 

又秦造之祖。漢直之祖及知釀酒人名仁番亦名須須許理等。參渡來也。

 

訓読:またハダのミヤツコのおや、アヤのアタエのおやまたミキをかむことをしれるひとナはニホまたのなはススコリら、まいわたりきつ。

 

口語訳:また秦造の祖、漢直の祖、また酒を造ることを知る人、名は仁番、またの名は須須許理らが渡来した。

 

秦造之祖。秦は「はだ」と読む。この祖は、弓月(ゆづき)の君である。書紀に「十四年、この年弓月の君が百済から渡来した。そこで言うには、『私は己の国の民百二十縣を率いて、やって来ようとしました。ところが新羅の国の人に妨げられて、みな加羅の国にとどまっています』。そこで葛城の襲津彦(そつひこ)を遣わして、弓月の君の人夫たちを加羅から迎えさせた。ところが三年経っても襲津彦は帰ってこなかった。十六年八月、平群の木菟(つく)宿禰、的(いくは)の戸田宿禰を加羅に遣わし、精兵を授けて、『襲津彦が久しく帰らない。新羅の人に遮られて滞っているのではないか。お前たちは至急新羅を討ち、道を開かせよ』と詔した。木菟宿禰らは、精兵を進めて、新羅の地に望んだ。新羅王はこれを見ておそれ、罪を認めた。そこで弓月の君の人夫らを連れて、襲津彦と共に帰ってきた」、【ここに「弓月の君、これは秦造の始祖である」と言うことがあるべきなのに、ないのは漏れたのである。】古語拾遺のこの御世の段に、「秦公の祖、弓月が百廿縣の民を率いて帰化した」、新撰姓氏録【左京諸蕃】に、「太秦公宿禰は、秦の始皇帝の三世の孫、孝武王の子孫である。息子功満王が仲哀八年に来朝し、息子融通王が、【一に弓月王と言う】應神天皇十四年に来朝した。二十七縣の百姓を引き連れて聞かし、金銀玉帛を奉る。仁徳天皇の御世云々」、【この後の文は、後に引く。ここに「秦の始皇帝の三世の孫、孝武王」と言い、弓月をその孫とする、その時は、弓月は始皇帝の五世の孫である。この他にも、同氏の條に五世の孫という記事がある。ところが、秦の始皇帝の終わりの年は、孝元天皇の五年に当たり、應神天皇の元年まで四百八十年だから、時代が合わない。あるいは孝武王は十三世の孫なのを、「十」の字が落ちたのであって、弓月は十五世の孫か。一つの秦の忌寸條に、「始皇帝の十四世の孫、尊義王の子孫である」とある。尊義王は功満王の兄弟か。この世数こそ年数に合う。「功満王が仲哀天皇の御世に来朝し」とあるのも、伝えの誤りだろう。ところで弓月王とは、一つの秦の忌寸條にも王とある。すべて漢韓の人は、王でないものも、王族であれば王と言っている例が多い。弓月と融通は、一つの言が転じたのである。二十七縣は、二の上に百が落ちたのだろう。弓月の君が帰化したことは、新井氏のいわく、「三韓の中の辰韓は、もと秦の亡人が苦役を厭って、やって来て韓に留まったのを、馬韓がその東の地を割いて与えたのである。ゆえに秦韓とも言う。その地はワイ(さんずいへん+歳)で、北方はハク(けものへん+百)と接している。秦の始皇帝の三十二年、蒙恬に兵士三十万人を付けて、長城を築かせ、卅五年、太子扶蘇を蒙恬の軍の監督とした。卅七年に始皇帝が死ぬと、趙高が乱を起こし、胡亥を立てて扶蘇に死を賜ったという。しかしわが国の秦氏は、始皇の三世の孫、孝武王の子孫だと言うから、扶蘇はそのまま死なず、ひそかに逃れて、遼を渡って来たのかも知れない。または子があって、その子が乱を避けて、遂にワイハクの地に君となって住んだのを、孝武王と言ったのかも知れない。かの長城の兵士たちも、扶蘇親子に従ってきた者達が、馬韓の東の地を得て、旧君に服属していたのが、功満・融通の時に隣国の敵のために国を失い、百済に付き、遂に国人を率いて、わが国に来たのである。晋の大康の後、辰韓の朝貢が絶えたというのも、秦氏がわが国に来た時期に合う」。】また【山城国諸蕃漢】、「秦忌寸は、太秦公宿禰と同祖、秦の始皇帝の子孫である。物智王と弓月王が、譽田天皇、諡應神の十四年に来朝し、表を上げて、更に国に帰って百二十七縣のハク姓を率いて帰化した。合わせて金銀玉帛および種々の宝物を奉った。天皇は喜んで、大和の朝津間腋上の地を与えて住まわせた。男眞徳王、次に晋洞王、【古記にいわく、浦東君】云々」とある。【この次の文は後に引く。物智王は、功萬王を写し誤ったのではないか。ハクの字は、百の誤りだろう。新井氏いわく、「百二十七縣の百の字は、ハクの誤りである。また功満王は、ハク(こま)おうということである。功満・融通は、もとワイハクの王であっただろう」と言った。これらの説はどうだろう。】書紀の雄略の巻に、「十二年秦酒君が・・・十五年秦の民は別れて、臣連らが欲しいままに使っていて、秦造に任せなかった。秦造酒はたいへん苦に病んで、天皇に仕えた。天皇はこれを寵愛して、秦の民を集め、秦造酒に与えた。そこで百八十種の勝部(まさべ)を率いて、奉った庸調の絹ケン(糸+兼)は、朝廷の庭を埋め尽くした。それで名を『うずまさ』と言った」、【「一にいわく、『うずもりまさ』、いずれも満ち溢れる様を言う」とある。秦の民とは、弓月君が率いてきた百二十七縣の民だ。「仕」の字は「白」の誤りか。もしくはこの字の上に文が脱けているのか。秦酒公は、新撰姓氏録に、他にもところどころに見える。「姓を与えた」とあるのは、「名を与えた」とあるべきところだ。「うずまさ」は姓ではない。この後もなお、姓は秦である。この名の意味は、「うず」は物を多く積み上げたのを「うず高し」などと言うのに合う。万葉巻十五(3638)に「名爾於布奈流門能宇頭之保爾(なにおうなるとのうずしおに)」と言っているのも、高い潮のようである。「もり」と言っているのも、盛り、または森などと通うように聞こえる。「まさ」は「百八十種の勝部」とある「勝」であろう。新撰姓氏録に「勝」という姓もある。また「上勝」、「不破勝」、「茨田勝」など、かばねにもあり、そのまま「秦勝」というのもある。これらみな「かち」と読むのは誤りで、「まさ」と読むべきである。それは韓国で、一種の号だったのだろう。それをここで「勝」の字を用いたのは、「まさる」という訓を取った借字だろう。ところで「うずまさ」に「太秦」の字を書くのは、いつの頃からだろう。】上記の新撰姓氏録の太秦公宿禰の條に、「・・・仁徳天皇の御世に、百二十七縣の秦氏を、諸郡に分け置き、蚕を飼い、絹を織らせて奉らせた。天皇はその奉った綿や絹を着てみて、秦王に『私がこれを着てみるに、柔らかにして暖かく、肌によく合う』と言い、『はだの公』と名を与えた。秦公酒は、雄略天皇の御世に、糸・綿・絹・帛を山のように積み上げた。天皇はたいへん喜び、名を『うずまさ』と言った」、【「秦氏」とある「氏」の字は、「民」の誤りだろう。「秦王」は、融通王を言っている。「肌膚賜姓波太(肌に・・・姓をはだと賜った)」とあるのは、印本に「加次登召志」とあるが、誤字と見えて、解くことができない。いまは古い写本によって引いておいた。但しこの写本も、ここは私的に改めたものかという疑いはあるが、ともかくこういった形になっているはずのところだ。ところが「肌に温かい」というのは、古語拾遺にも「奉った絹や綿は、肌に柔らかだった。それで秦の字を『はだ』と言った」とあるけれども、そういう意味なら「あたたか」、「やわらか」と言うべきで、「はだ」の意味を取る必要はないだろう。新井氏もこの説を信ぜず、「はだ」は韓国の言葉だと言った。古語拾遺では、上に引いた続きに、「すなわち秦氏の奉る絹を、神を祭る剣の首に巻く。今の俗でもそうしている。いわゆる秦機職のことのもとである」ということも見える。】また秦の忌寸の條に、「男眞徳王、次に晋洞王が、【古記に浦東君という】大鷦鷯天皇、諡は仁徳の御世に、『はだ』と姓を賜った。今の秦の字の読みである。次に雲師王、次に武良王、晋洞王の息子、秦公酒が、大泊瀬稚武天皇、諡は雄略の御世に、『晋洞王のとき、秦氏を大略受け入れてくださったが今は十のうち一つも見えない。勅使を使わして、検括召集すべきです』と言った、そこで天皇は小子部雷に大隅阿田の隼人らを率いて探させた。秦氏九十二部、一万八千六百七十人を集めて、酒に与えた。ここに秦氏を率いて、蚕を飼い、絹を織って、箱に盛り、山のように朝廷に積み上げた。天皇は喜んで、特に寵命を賜り、名を『うずまさ』とした。これは積み上げて利益がある意味である。諸々の秦氏を役立てて、八丈の大蔵を宮のそばに造らせ、そこに貢進した品を治めさせた。それでその地を長谷の朝倉の宮と言う。このときに初めて大蔵の官員を置き、酒をその長官とした。秦氏らの一祖の子孫は、あるいは居地により、あるいは行事によって、分かれて多くの腹になった。天平二十年、京畿にあるものは、みな改めて忌寸となった」、【仁徳の御世云々のことは、書紀に見えない。四十一年、四十三年のところに、「百済王の孫、酒の君」とあるのは、秦酒君が紛れたものではないか。ここに「秦氏」とあるのも、みな「秦民」の誤りだろう。また「うずまさ」の意味を言うところで、「利益がある意味だ」といったのは、「まさ」を「まさる」の意味と見た間違いである。古語拾遺で「積むに従って埋まり益す」と言っているのは、俗説だ。大蔵のことは、古語拾遺にも見える。この記事と少し異なっている。また欽明紀に秦大津父という人を「大蔵省に召す」と見え、「秦人・漢人ら諸番の帰化した者らを国郡に置き、戸籍に編入した。秦人の戸数は、合わせて七千五十三戸、大蔵の橡により、秦の伴の造とした」とある。この「大蔵の橡」は秦大津父であろう。伴の造は、その部の長である。】他にも秦氏はあれこれ見える。書紀の推古の巻に「秦造河勝・・・蜂岡寺を造ったので」、【この寺は同巻に「葛野の秦寺」ともある。山城国葛野郡太秦村にある。太秦、また河勝のこと、種々の説があるけれども、みな仏の徒が言いふらした例の妄説である。】皇極の巻に「葛野の秦造河勝」などがあり、山城国葛野郡が本居である。同巻の歌に、河勝のことを「兎都麻佐波(うずまさは)云々」と詠んでいる。続日本後紀五に「山城国の人、秦宿禰氏繼の本居を改めて四條三坊に住まわせた」、天武の巻に、「十二年九月、秦造を連とした」、「十四年六月、秦連に姓を与えて忌寸とした」、持統の巻に「十年五月、秦造綱手に姓を与えて忌寸とした」、続日本紀の八に「秦朝元に忌寸の姓を与えた」、【印本に朝の字の後に「臣」があるのは誤りである。秦の朝元は、十一の巻や懐風藻にも見える。】十四に「造営の録、正八位下秦下(いみき)嶋麻呂に従四位下を授け、太秦公という名を与えた。合わせて・・・大宮の垣を作ったためである」。【「うずまさ」をここでも名と言い、新撰姓氏録にも「号」とあるので、姓ではないことを知るべきである。それを新撰姓氏録で太秦公宿禰と書かれたのは、いつの頃から姓になったのだろうか。また「秦下」とある「下」は、忌寸の誤りか。】三代実録七に「山城国葛野郡の人、秦忌寸春風、秦忌寸諸長ら三人に時原宿禰の姓を与えた。その先祖は秦の始皇帝である」、四十四に「左京の人、秦宿禰永厚、秦公直宗、山城国葛野郡の人、秦忌寸永宗、右京の人、秦忌寸越雄、左京の人、秦公直本ら、男女十九人の姓を与えて惟宗朝臣とした。永厚らが自ら言うには、秦の始皇帝の十二世の孫、功満王の子、融通王の末裔である。・・・百二十七縣の人民を率いて、譽田天皇の十四年、歳次癸卯、ここに内属した」という。【この氏が宿禰になったことは見えない。続日本後紀の承和三年のところに宿禰とあるから、それ以前になったと見える。】○漢直之祖(あやのあたえのおや)。「漢」は「あや」と読む。【「漢」を「あや」と読むのは、どんな理由によるのか分からない。「漢織(あやはとり)」を書紀に「穴織(あなはとり)」ともあるのを考えると、これも詠嘆の辞から出たのか。新井氏は漢の字の音から出たように言うけれども、信じられない。】この祖は阿智使主、またその子、都加使主である。書紀に「二十年秋九月、倭の漢直の祖、阿知使主、その子、都加使主が、党類十七縣を率いて帰化した」とあるのがそうだ。【倭のとあるのは、河内の漢直もあるからだ。河内の漢直については、後に述べる。】ところが若櫻の宮の段に、「倭の漢直の祖、阿知直」、書紀にもそこ(履中天皇)に「漢直の祖、阿知使主、云々」、と見え、また雄略の巻、清寧の巻に「東の漢直、掬(きく)」とあるのは疑わしい。【應神天皇の初めから、履中天皇の初めまでは、百十余年を経ているから、阿知使主が非常に寵命だったのか。またこの二十年から、清寧天皇の御世までは、百九十余年だから、都加使主は世にあったはずはない。「掬(つか)」は都加のことである。】そこで考えるに、この父子がやって来たのは、仁徳天皇の御世の末だったのが、【そのとき都加使主は、さぞかし幼かったことだろう。】紛れて、これらも應神の御世と誤って伝えたのではないだろうか。【この御世には、異国からやって来て聞かした人が多かったから、仁徳の御世に来たのも混同して、この御世と伝えたのだ。雄略の御世に来た呉の国の機織りのことも、この御世に混同したたぐいだ。思い合わせよ。】この氏のことは、雄略の巻に「十六年冬十月、漢部(綾部)を集めて、伴造たる者を定め、かばねを与えて『直』とした。一本にいわく、漢使主を賜い、姓を賜いて『直』という」、【「賜」の字が二つあるのは誤りではない、上の「賜い」は、漢部を賜うたのである。】氏にとは、欽明の巻に「東漢氏直糠見」、【氏の字は誤りか。】崇峻の巻に「東漢直駒」、「東漢直福因」、「東漢直縣」、孝徳の巻に「倭漢直比羅夫」、天武の巻に【六年六月、東漢直に詔して云々、】「十一年五月、倭漢直らに姓を与えて連とした」、「十四年六月、倭漢直連、河内漢連らに姓を与えて忌寸とした」、【河内漢連は、「十二年九月、川内漢直に姓を与えて連とした」とある。これである。主意この巻に「河内漢直贅(にえ)」という人も見える。そもそもこの氏の先祖は誰だろう。思い付かない。これも共に阿知使主の子孫だったら、この記にも書紀にも、阿知使主を「倭の漢直の祖」とあるのは紛らわしい。「倭の」とあっては、河内のはその末ではないように聞こえるからだ。あるいは河内のは、他の人物の末ではないだろうか。さらに考察の必要がある。新撰姓氏録の河内諸蕃に、「火撫直は、後漢の霊帝の四世の孫、阿知使主の子孫である」というのがある。】続日本紀卅八に、「坂上の大忌寸苅田麻呂らが表を上げて言った。『私たちは後漢の霊帝の曽孫、阿智王の子孫であります。漢の日嗣ぎが魏に写って以後、阿智王は神の牛の教えに従って、帯方に出て、たちまち宝帯の瑞を得ました。その形は宮城に似ていました。それを受けて国邑を建て、人々を育てました。その後父兄を召して、『私は当方に聖王があると聞く。どうしてそれに帰せないでいられようか。もし長い間ここにいれば、おそらく滅ぼされるだろう』と語りました。そこで女弟、迂興徳および七姓の氏を従えて、帰化来朝しました。これは譽田天皇が天下をしろしめした御世のことです。このとき阿智王が奏して『私の旧居、帯方に人民男女がいます。みな才芸があります、この頃百済と高麗の間にいて、心になお期するところがあり、去就を定められません。願わくは、天恩を施して、追って召さんことを』と言いました。そこで八腹の氏を次々に使わして、その人々をみなこちらに招き寄せ、永く公民となりました。積年累代を経て、今に至ります。諸国の漢人は、みなその後であります。わたくし苅田麻呂ら、先祖の王族を失い、下人の卑姓を受けております。どうか忌寸の姓を改めて、宿禰の姓を賜りますようお願い申し上げます』・・・これを聴許して、坂上、内蔵、平田、大蔵、文(ふみ)、調(つき)、文部、谷、民、佐太、山口らの忌寸十姓、十六人に宿禰を与えた」【十姓とあるのは、十一姓の一の字が落ちたのだろう。この姓どもはみな阿知使主の子孫で、坂上氏は、書紀の欽明の巻に東の漢の坂上直子麻呂、推古の巻に倭の漢の坂上直、天武の巻に坂上直國麻呂、坂上直熊毛、坂上直老などが見え、これも漢直のうちなので、天武天皇の十四年に忌寸になった。その結果、続日本紀の廿五に「坂上忌寸苅田麻呂に姓を与えて大忌寸とした」とある。ここで宿禰になったから、苅田麻呂の流れを大宿禰と言う。大忌寸の「大」をそのまま宿禰に移して言ったのだろう。文氏は、前に述べた文首のところで言った倭の漢の文直という氏で、皇極紀や孝徳紀にその人が見える。天武の御世に、倭の漢の直が連になり、忌寸になったとき、この文直もそのうちに入っていて、連になり忌寸になった。なおこの氏のことは、前の文首のところに見える。考え合わせよ。内蔵宿禰、平田宿禰、文忌寸、谷宿禰、佐太宿禰、山口宿禰など、みな新撰姓氏録に見え、坂上大宿禰と同祖とある。調連、民首は、ともに百済国の努理使主の子孫と見え、大蔵氏は見えない。】新撰姓氏録【右京諸蕃漢】に、「坂上大宿禰は、後漢霊帝の子、延王の子孫である」、【続日本後紀七に、「坂上忌寸豊雄に、忌寸を改めて宿禰とした」。】続日本紀卅二に、「坂上大忌寸苅田麻呂らが言うには、『檜前忌寸を大和国高市郡の郡司に任じたのは、先祖阿智使主が、軽嶋の豊明の宮で天下を治めた天皇(應神)の御世に、十七縣の人夫を率いて帰化したからで、詔して高市郡檜前村に住まわせたからです。高市郡の内には、檜前忌寸および十七縣の人夫が地を満たして住んでおり、他姓のものは、十のうち一、二しかいません』云々」、【新撰姓氏録に、「檜前忌寸は、坂上大宿禰と同祖、阿智王の子孫である」とある。】卅七に「倭の漢忌寸、木津吉人ら八人が言うには、『吉人らは阿智使主の子孫であります。・・・倭漢の二字を除いて、木津忌寸と変えて頂きたく存じます』と言う、これを許した」、【新撰姓氏録に、「木津忌寸は、後漢霊帝の三世の孫、阿智使主の子孫である」とある。】続日本後紀一に、「山田造古嗣、大蔵忌寸横佩、内蔵忌寸秀嗣らに、いずれも宿禰の姓を与えた。中でも横佩、秀嗣は、後漢霊帝から出て、曽孫阿智王が譽田天皇の天下を治めた時にやって来て帰化した者である」、三代実録六に「大蔵伊美吉(いみき)廣勝に宿禰の姓を与えた。後漢霊帝の四代の孫、阿智使主の子孫で、坂上大宿禰と同祖である」、また「坂上伊美吉(いみき)斯文ら九人に、坂上宿禰の姓を与えた、後漢霊帝の四代の孫、阿智使主の末で、坂上大宿禰と同祖である」などと見える。他にも新撰姓氏録に、この同祖の氏々が幾つか見える。【醫の名が高い丹波氏も、坂上氏から出た。】○「知レ釀レ酒(みきをかむをしれる)」とは、世に優れてよく醸すことをいい、「知れる」は巧みであることを言う。【下巻にも上手なことを「知れる」と言った例がある。】○仁番は「にほ」と詠む。【前にある照古、卓素、西素などの例からすると、これも字音のままに「にんほん」とも読めるが、すべて「ん」の韻は正しくないので、いにしえから省いた例が多い。ここは特に二つ重なって聞き苦しいので、韻を省いて読むべきである。師は「番」を「は」と読んだが、この字も「蕃」の字も、記中で「ほ」の仮名に使い、附袁の反(子音が「ふ」で母音が「をん」)だから、呉音は「ほん」である。】○須々許理(すすこり)。この人のことは、書紀にも、その他の古い書物にも見えない。新撰姓氏録の酒部公の條に「・・・大鷦鷯天皇の御世に韓国から渡ってきた兄曾々保利(えそそほり)、弟曾々保利(おとそそほり)、二人に『何の才があるか』と聞けば、『酒を造る才があります』と言ったので、酒を造らせた。云々」【この文のことは伝廿六の廿四葉で言った。考え合わせよ。】とある曾々保利と同じ人のように思われるのを、【須々と曾々と通い、許と保とは、横に通う。】仁徳天皇の御世とあるのは、伝えが異なるのだろう。【また新撰字鏡に「セイ?(酉+井)は『すすほり』」とあるが、その意味は不詳である。また同書に「ク(酉+凶)はエイ(榮の木の字を酉に置き換えた字)である。『ささかり』」ともあり、「すすこり」と音は通うが、「クは酒に酔って怒ることを言う」とあり、「エイは、酒で失敗するのを言う」とあるから、ここに合わない。また新撰姓氏録に「工造は呉国の人、太利須々(たりすす)の子孫」、また「上勝は百済国の人、多利須々(たりすす)の子孫である」、また「高安の漢人は、コマ(けものへん+百)国の人、小須々(おすす)の子孫である」とあるのも、似たような名である。釈日本紀に顕宗の巻、旨酒餌香市(うまさけえがのいち)のところで、「私記にいわく、師の説に『高麗人が来て餌香の市に住み、旨い酒を醸した。世人は争って高価に買い求めて飲んだ。故に言う』」と言ったのは、須々許理のことなどを伝えて言ったのではあるまいか。】○等(ら)とは、秦造の祖、漢直の祖、仁番などを言っている。○參渡來(まいわたりきつ)。これも秦造の祖以下、三人のことである。【この人々は、百済国が奉ったのではない。単にこの御世にやってきたのだ。】

 

故是須須許理釀2大御酒1以獻。於レ是天皇宇=羅=宜2是所レ獻之大御酒1而。<宇羅宜三字以レ音。>御歌曰。須須許理賀。迦美斯美岐邇。和禮惠比邇祁理。許登那具志。惠具志爾。和禮惠比邇祁理。如レ此之歌幸行時。以2御杖1打2大坂道中之大石1者。其石走避。故諺曰3堅石避2醉人1也。

 

訓読:かれこのススコリおおみきをかみてたてまつりき。ここにスメラミコトこのたてまつれるオオミキにうらげて、みうたわしけらく、「すすこりが、かみしみきに、われえいにけり、ことなぐし、えぐしに、われえいにけり」、かくうたわしつついでませるときに、ミツエをもちてオオサカのミチなかのオオイシをうちたまいしかば、そのイシはしりさりぬ。かれコトワザに「カタシワもエイビトをさる」とぞいうなる。

 

歌部分の漢字表記:

須須許理が、醸し御酒に、吾酔ひにけり。ことなぐし、

 

口語訳:この須須許理が、大御酒を醸して奉った。天皇は非常に喜んでこれを飲んだ。「須須許理が醸した御酒を飲んで、私は酔った。ことなぐし、えぐしに、私は酔った」。こう歌いながら行くときに、大坂の道にあった大石を杖で打った。その石は走って逃げた。それで諺に、「堅い石も酔った人を避ける」と言う。

 

宇羅宜(うらげ)は、気もそぞろに、心面白く、浮き立つのを言うと思われる。若櫻の宮の段にも、「大御酒を宇良宜(うらげ)て、大御寝ませり」と見え、出雲国風土記【仁多郡三津郷の條】に、「大神大穴持命の御子、阿遲須伎高日子命は、須髪(ひげ)が八握(やつか)生えるまで、夜昼泣き通しで、言葉が通じなかった。そのとき親神は、御子を船に乗せて八十嶋を廻り、宇良加志(うらがし)たが、なお泣き止まなかった」とある。【「うらげ」は自ら楽しむのを言い、「うらがし」は「うらげしむる」のを言う。これは泣くのをやめて、「うらげ」るようにするのである。契沖は、「今の世に幼児を『てうらかす』と言うのも、この『宇良加志』に『手』を加えて、『手うらかす』ではないか」と言う。】○須々許理賀(すすこりが)。【契沖はこの名を、「もし和語ならば、煤凝(すすこり)だろう。その理由は、長い間ある家には、煤が凝るからである。古事記にいわく、櫛八玉命云々」と言ったのは理由がない。煤に凝ることは関係があるけれども、この人に煤の凝ることが何の関係があろうか。またこの人が仁徳天皇の段、新撰姓氏録にも見えると言ったのも違う。】○迦美斯美岐邇(かみしみきに)は、「醸し御酒に」である。○和禮惠比邇祁理(われえいにけり)は、「吾酔いにけり」である。万葉巻六【二十八丁】(989)に「大夫之、祷豊御酒爾、吾酔爾家里」ますらおの、ほぐとよみきに、われえいにけり)」とある。○許登那具志(ことなぐし)は、「事和酒」である。「和(なぐ)」は慰むことを言う。万葉巻八【五十二丁】(1629)に「情奈具夜登(こころなぐやと)」、巻十一【廿丁】(2579)に「念之情、今曾水葱少熱(おもおしこころ、いまぞなぎぬる)」、巻十五【十三丁】(3627)に「安我毛敝流許己呂奈具也等(あがもえるこころもなぐやと)」、巻十七【四十八丁】(4019)に「許己太久母、之氣伎孤悲可毛、奈具流日毛奈久(ここだくも、しげきこいかも、なぐるひもなく)」、巻十八【卅丁】(4116)に「左加美都伎、安蘇比奈具禮止(さかみづき、あそびなぐれど)」などとあるのは、みな慰める意味である。【風などの「和(な)ぐ」というのも、元は同言で、意味も同じだ。】丹後国風土記に「天女八人が降ってきて・・・天女はよく酒を醸した。飲めば万病が去り、・・・また竹野郡の奈具村に到って、村人らに『私の心は奈具しくなった』【いにしえに、穏やかになったことを奈具志(なぐし)と言った。】そこでこの村にとどまった。これがいわゆる竹野郡の奈具社にいます豊宇賀能賣命である」、【この話は、酒を醸すことと奈具しくなったこととは別で、関係がないようだが、ここの歌と合わせて思えば、実は酒を醸したことと関わっていたかも知れない。延喜式神名帳に、丹後国竹野郡の奈具神社がある。大神宮儀式帳に「味酒鈴鹿國(うまさけすずかのくに)」とあるのは、伊勢国鈴鹿郡である。枕詞に「味酒」とあるのは、ここの須々許理の名の須々と関係があるかも知れない。またその郡の内に名串村というのがある。延喜式神名帳に那久志里(なぐしり)神社がある。】この名は、諸々の憂きこと、悲しいことの慰められる酒(くし)ということだから、「ことなぐくし」なのを、「ぐく」と同音が重なっているので、一つは省いたのである。【一般に同音が重なっているときは、一つを省く例が多い。前に述べた。】「くし」を酒とすることは、大后の段の歌に「久志能加美(くしのかみ)」とあるところで挙げた、横井千秋の考察による。【伝卅一の四十二葉】考え合わせよ。【この句を契沖が「『こと』は言である。『な』は『の』である。『くし』は『苦し』である」として、「大酒を食らってものを言うことが苦しいと言ったのだ」と解釈したのは、非常に誤っている。】○惠具志爾(えぐしに)は、「咲酒に」である。飲めば心面白く、笑み栄えると言うことだ。「笑む」を「え」ということは普通である。【契沖が「笑み苦し」と言ったのは、非常に誤っている。】師のいわく、大酒によって、心の万事の思いも慰められ、笑み栄えることである。○如此之歌。【「之」の字は、他に例のない置き方である。師は「歌之」を上下逆に写し誤ったのだと言った。それも書紀にはよくあることだが、この記にはあまりないことだ。】「歌」は「うたわしつつ」と読むべきだ。「乍(つつ)」の字はないけれども、そうあるべき勢いのところである。【この前の「之」の字は、あるいは下にあって、「乍」の誤りか。】○幸行(いでませる)は、大酒に酔って、心浮き立ち、どこへともなく、気もそぞろに出かけたのである。だからここではその所をどことも言わない。○大坂は玉垣の宮の段に出て、大和国から河内国へ越える坂である。そのところに詳しく言った。【伝廿五の二十四葉】○大石を打ったのは、酔っていたからである。○走避(はしりさる)は、痛く打たれまいとして、心あるもののように、逃げ避けたのである。【避(さる)は、打ち付ける杖を避けたのである。】○諺(ことわざ)は上巻に出た。【伝十三の三十九葉】○堅石は、師が「かたしわ」と読んだのが良い。書紀の雄略の巻に、「堅石、これを『かたしわ』と読む」とある。これを単に石と言わず、「堅」と言ったのは、石はどんなに打たれても、傷むこともなく、損なうこともなく堅いものだが、その堅い石すらということだ。つまり諺に言っている意味は、すべて酒に酔い乱れた人は、心が正しくないので、どんな曲がったことをするかも知れないので、堅い石も逃げ出すものだから、必ず恐れてさけるべきものだとの喩えに引いて言ったのだ。【すべて諺として挙げたのは、単にその時のことを言ったのではない。ものの喩えに引いて言ったのである。そのことは上巻の「雉の頓(ひた)使い」、玉垣の宮の段にある「ところ得ぬ玉作」などの諺のところでも言った。考え合わせよ。】袋草紙の、夜行途中の誦文の歌に、「かたしはや、つかせくゝりに、くめる酒、手ゑひ足ゑひ、我酔にけり」とあるのも、ここの故事を詠んでいるように聞こえる。【二の句の「つか」は、「つえ」を誤ったか。杖で大石を打ったことを言うのだろう。手酔いは、そういう手すさみをしたこと、足酔いはどこへともなくさまよい出たことである。「くめる」は意味が分からない。「のめる」の誤りか、これを夜行の誦文とした意味は、堅石すら走り避けるように、いかなるおそろしいものも、私を恐れて近づくなという意味だろう。】

 

故天皇崩之後。大雀命者。從2天皇之命1。以2天下1讓2宇遲能和紀郎子1。於レ是大山守命者違2天皇之命1。猶欲レ獲2天下1。有B殺2弟皇子1之情A。竊設レ兵將レ攻。爾大雀命。聞2其兄備1レ兵。即遣2使者1。令レ告2宇遲能和紀郎子1。故聞驚。以レ兵伏2河邊1。亦其山之上。張2シ(糸+施のつくり)垣1立2帷幕1。詐以2舍人1爲レ王。露坐2呉床1。百官恭敬往來之状。既如2王子之坐所1而。更爲2其兄王渡レ河之時1。具=餝2船カジ(木+緝のつくり+戈)1。者舂2佐那。<此二字以レ音>葛之根1。取2其汁滑1而。塗2其船中之菁椅1。設2蹈應1レ仆而。其王子者。服2布衣褌1。既爲2賤人之形1。執レカジ立レ船。於レ是其兄王。隱=伏2兵士1。衣中服レ鎧。到レ於2河邊1。將レ乘レ船時。望2其嚴餝之處1。以=爲3弟王坐2其呉床1。都不レ知2執レカジ而立レ船。即問2其執カジ者1曰。傳=聞3茲山有2忿怒之大猪1。吾欲レ取2其猪1。若獲2其猪1乎。爾執レ楫者。答=曰2不1レ能也。亦問=曰2。何由1。答曰。時時也徃徃也雖レ爲レ取而不レ得。是以白レ不レ能也。渡=到2河中1之時。令レ傾2其船1。墮=入2水中1。爾乃浮出。隨レ水流下。即流歌曰。知波夜夫流。宇遲能和多理邇。佐袁斗理邇。波夜祁牟比登斯。和賀毛古邇許牟。於レ是伏=隱2河邊1之兵。彼廂此廂一時共興。矢刺而流。故到2訶和羅之前1而沈入。<訶和羅三字以レ音>故以レ鉤探2其沈處1者。繋2其衣中甲1而。訶和羅鳴。故號2其地1謂2訶和羅前1也。爾掛=出2其骨1之時。弟王歌曰。知波夜比登。宇遲能和多理邇。和多理是邇。多弖流。阿豆佐由美。麻由美。伊岐良牟登。許許呂波母閇杼。伊斗良牟登。許許呂波母閇杼。母登幣波。岐美袁淤母比傳。須惠幣波。伊毛袁淤母比傳。伊良那祁久。曾許邇淤母比傳。加那志祁久。許許邇淤母比傳。伊岐良受曾久流。阿豆佐由美。麻由美。故其大山守命之骨者。葬レ于2那良山1也。是大山守命者。<土形君。幣岐君。榛原君等之祖。>

 

訓読:かれスメラミコトかむあがりましてのちに、オオサザキのミコトは、さきのオオミコトのまにまに、アメノシタをウジノワキイラツコにゆずりたまいき。ここにオオヤマモリのミコトは、オオミコトにたがいて、なおアメノシタをえんとして、そのオトミコをころさんのこころありて、しぬびにイクサヒトをまけてせめんとしたまいき。ここにオオサザキのミコト、そのアニミコのイクサをそなえたまうことをきかして、すなわちつかいをやりて、ウジノワキイラツコにつげしめたまいき。かれききおどろかして、イクサビトをカワノベにかくし、またそのヤマのうえに、キヌカキをはりアゲハリをたてて、いつわりてトネリをミコになして、あらわにアグラにませて、ツカサヅカサいやびゆきかうさま、すでにミコのましところのごとして、そのアニミコのカワをわたりまさんときのために、フネカジをかざりそなえかざり、またサナカヅラにねをうすにつき、そのシルノナメをとりて、そのフネのなかのスバシにぬりて、ふみてたうるべくまけて、そのミコは、ぬののキヌハカマをきて、すでにヤツコのかたちになりて、カジをとりフネにたちませり。ここのそのアニミコ、イクサビトをかくし、ヨロイをころものうちにきせて、カワノベにいたりて、フネにのりまさんとするときに、かのいかめしくかざれるところをみやりて、オトミコをそのアグラにいますとおもおして、カジをとりフネにたちませることをばかつてしらずて、そのカジとれるものにといたまわく、「このヤマにいかれるオオイありとつてにきけり。われそのイをとらんとおもうを、もしそのイをえてんや」とといたまえば、カジとれるもの、「えたまわじ」といえば、また「いかなれば」とといたまえば、「よりより・ところどころにしてとらんとすれどもえず。ここをもてえたまわじともうすなり」といいき。わたりてカワナカにいたれるときに、そのフネをかたぶけしめて、みずのなかにおとしいれき。ここにすなわちうきいでて、みずのまにまにながれくだりたまいき。すばわちながれつつうたいたまわく、「ちはやぶる、うじのわたりに、さおとりに、はやけんひとし、わがもこにこん」、ここにカワノベにかくれたるイクサビト、かなたこなたもろともにおこりて、ヤさしてながしき。かれカワラのサキにいたりてしずみいりたまいぬ。かれカギをもちてそのしずみたまいしところをさぐりしかば、そのころものうちなるヨロイにかかりて、「カワラ」となりき。かれそこのナを「カワラのサキ」とはいうなり。ここにそのカバネをかきいだせるときに、オトミコのみうた、「ちはやびと、うじのわたりに、わたりぜに、たてる、あずさよみ、まゆみ。いきらんと、こころはもえど、いとらんと、こころはもえど、もとへは、きみをおもいで、すえへは、いもをおもいで、いらなけく、そこにおもいで、かなしけく、ここにおもいで、いきらずぞくる。あずさゆみ、まゆみ。」かれそのオオヤマモリのミコトのカバネをば、ナラヤマにかくしき。このオオヤマモリのミコトは、<ヒジカタのキミ、ヘキのキミ、ハリハラのキミらがおやなり。>

 

歌部分の漢字表記:千早振る、宇治の渡りに、棹取りに、早けむ人し、吾が許所に来む。

千早人、宇治の渡りに、渡り瀬に、建てる、梓弓、真弓。い伐らむと、心は思えど、い取らむと、心は思えど、元へは、君を思い出。末へは、妹を思い出、いらなけく、そこに思い出、哀しけく、ここに思い出、い伐らずぞ来る、梓弓、真弓

 

口語訳:天皇が亡くなって後、大雀命は、天皇の命に従って、宇遲能和紀郎子に天下を譲った。ところが大山守命は、天皇の命に違い、なお天下を得ようとした。そこで弟の皇子を殺してしまおうと思い、ひそかに兵を準備して、まさに攻めようとした。このとき、大雀命は、その兄が兵を傭っていると聞いて、使者を遣わして、宇遲能和紀郎子に知らせた。これを聞き驚いて、兵を河辺に伏せ、山の上にアシギヌの垣を張り、幕を立てた。舎人を王に詐って、胡座に坐らせ、百官が恭しく往来して、全く王子のいる場所のようだった。さらにその兄王が川を渡るとき、船カジを造り備え、佐那葛の根を搗いて、その汁を船の中の簀に塗って、踏めば忽ち倒れるように造っておいた。王子は襤褸を纏い、賤しい人の姿になって、船の楫を取って立っていた。その兄王がやって来るとき、兵士を伏せて置いて、衣の下に甲を着せておいた。河辺にいたり、船に乗るとき、その磐を望んで、弟王はその呉床にいるものと思い込み、楫を取って船の中にいることを知らなかった。「私はこの山に怒れる大猪がいると聞く。それを取ろうと思う。取れるか?」と聞いた。楫を取るものは「取れないでしょう」と答えた。そこで「なぜだ?」と尋ねた。「時により、往々にして、取ろうとするものはいたけれども、取ったものはいない。だから取れないだろうというのです」と答えた。川の中に至ったとき、その船を傾けて、水中に落とした。ここに浮かび出て、流れのままに下った。そこで歌って「千早振る、宇治の渡りに、棹取りに、早い人は、私の元に来い」。ここで河辺の兵があちらからもこちらからも一時に立ち上がり、矢を盛んに射た。訶和羅の崎に至って沈んだ。そこでその沈んだところを鉤で探ってみたところ、衣の中の甲に当たって、「かわら」と鳴った。それでその地を訶和羅前という。ここでその屍を引き上げた。弟王は歌って、「千早人、宇治の渡りに、渡り瀬に、立てた、梓弓、真弓。切らないで来たが、取らないで来たが、思えば、君を思い出、末へは、妹を思い出、いらなけく、そこに思い出、哀しくも、ここに思い出、切らないでやって来た、梓弓、真弓」。その大山守の命の屍は、那良山に葬った。この大山守の命は、<土方の君、弊岐の君、榛原の君らの祖である。>

 

天皇崩は、書紀に「四十一年春二月甲午朔戊申、天皇は明の宮で崩御した。【一説に、大隅の宮で崩御したという】」とある。【大隅の宮は難波にあり、二十二年のところに見える。】○天皇之命は、「さきのおおみこと」と読む。天皇を字のままに呼んでは、上のと重なって、煩わしいからである。これは、先に大山守命と、大雀命と、宇遲和紀郎子との三柱の御子に詔別したことを言う。○讓(ゆずりたまう)は、大雀命も共に太子だったからである。この言葉を以てしても、三柱がすべて太子だったことが分かる。【書紀のように、宇遲王のみが太子だったら、天下は最初からその王の治めるところであって、大雀命が譲ったという理由はない。共に太子だったから譲ったのである。】「ゆする」とは、そのところを去ることを言う。【三柱の御子がともに皇太子だったら、ともに天下を治めるべきである。しかし天皇の大命があったので、宇遲王に譲って、その所を去ったというように聞こえる。】仏足石歌に「由豆利麻都良牟(ゆずりまつらん)」、書紀仁徳の巻の初めに「時に太子菟道稚郎子は、位を大鷦鷯尊に譲って、いまだ帝位に就かなかった。また大鷦鷯尊に申して・・・大鷦鷯尊は答えて・・・固く断って、受けなかった。おのおの相譲った」【この相譲る言葉の文は長い。とても当時の言葉ではない。みな例の漢意の潤色で、たいへんうるさい。】○大山守命者(おおやまもりのみこと)云々。書紀にいわく、「この時額田の大仲津彦皇子は、倭の屯田・屯倉を取ろうとして、・・・その後、大山守皇子に『いつも先帝が廃して立てなかったのを恨んでいたが、いままたこの恨みを蒙った』。すなわち『私は太子を殺して、帝位に就こうと思う』と謀った」とある。【「この恨み」というのは、倭の屯田・屯倉のことである。額田の大仲津彦皇子は、同母兄だからである。】○弟皇子(おとみこ)は、宇遲王のことである。「御子」を「皇子」と書いたのは、記中ここをおいて他に例がない。【玉垣の宮の段、またこの後にも弟王、兄王等と垣、また王子と書いたところはところどころあり、この後にもそう書いているから、これも元は王子だったのを、書紀に目が慣れた人が、ふと写し誤ったのだろう。】○竊は、師が「しぬびに」と読んだのが良い。○兵は、師が「いくさびと」と読んだのが良い。下にあるのもみな同じだ。○爾大雀命(ここにおおさざきのみこと)云々。書紀に、「この時大鷦鷯尊はその謀を聞き、ひそかに太子に告げて、兵を備えて守らせた」とある。○「遣2使者1(つかいをやりて)」は、宇遲王のもとに、山城の宇治に遣わしたのだ。【この王は宇治に住んでいたことは、前に述べた通りだ。】○河邊(かわのべ)は、宇治川のほとりである。○伏は「かくして」と読む。後に「伏=隱2河邊1之兵」とあるのがそうだ。書紀の天武の巻にも「伏レ兵」とある。○其山は宇治山である。○キヌ(糸+施のつくり)垣は、キヌを長く引き伸ばして、垣のように立ち隔てるのを言う。大神宮儀式帳の「新宮に遷し奉る儀式行事」に、「人垣立てて、衣垣(きぬかき)引き、蓋(きぬがさ)・刺し羽など捧げて行かせる」とある。【今の世にも「絹垣(きんがき)」と言って、このものがある。】○帷幕は、「あげはり」と詠む。和名抄に「四聲字苑にいわく、幄は大帳である。和名『あげはり』」とあり、書紀斉明の巻に「紺幕(ふかきはなだのあげはり)をこの地に張る」とある。【継体の巻に帷幕を「きぬまく」と読み、和名抄にも「幕は和名『まく』」とあるが、これは字音と聞こえる。また「帷は、和名『かたびら』」とあるが、ここは「帷」と「幕」の二つではない。二字を連ねて一つに読むべきところだ。普通「帷幕」と続く字であるからこう書いただけだ。「帷」も字書には「幕のことである」とある。】また「とばり」とも読める。和名抄に「唐韻にいわく、幌は帷幔である、和名『とばり』」とある。【和名抄には、「帷は『かたびら』」、「幕は『まく』」、「エキ(亦の下に巾)は『ひらばり』」、「幄は『あげはり』」、「幔は『まだらまく』」、「幌は『とばり』」、「帳は俗音『長』」などと種々挙げているが、それはやや後のことで、いにしえはそうでもなかっただろう。字も、漢国でも通わせて用いることだから。ここの読みも上記の字にはなじまない。単に古い名で呼べばよい。「あげはり」は「幄」の字を用いて、屋のように上に張る物のようだが、横へ張るのも通わせて言うだろう。横から上に懸けて張る物でもあるだろう。だからここは上にあるキヌ垣こそ今の世の幕に相当するから、帷幕は、すなわち後世の「幄」に当たるだろう。】○舎人(とねり)は、君主の左右近くにいて、親しく仕える者である。書紀の仁徳の巻に、「近習の舎人」、武烈の巻に「近侍の舎人」、顕宗の巻に「左右の舎人」などもある。【これらも単に「とねり」である。別にそうした名があるわけではない。】この者は、書紀に見えた限りを見ると、天皇や王たちが使う者で、【万葉の歌に見えるのも、みな皇子に仕える者を言う。巻十三(3326)に「朝者召而使、夕者召而使、遣之舎人之子等者、行鳥之群而待、有雖待不召賜者(あしたにはめしてつかわし、ゆうべにはめしてつかわし、つかわししとねりのこらは、ゆくとりのむれてさもらい、ありまてどめしたまわねば)云々」、続日本紀八に、舎人の親王に「内舎人二人、大舎人四人、衛士三十人」、新田部の親王に、「内舎人二人、大舎人四人、衛士二十人」を与えたと見え、「その舎人は、左右の雑事に使い、衛士は行路の防禦に当てる」とある。臣の家にはこの名はない。続日本紀五に「左大臣の舎人」が見えるのは、後世のことだ。】ここは宇遲王の舎人である。名の意味は殿侍(とのはへり)か。【「のはへ」を縮めると「ね」となる。「はへり」の意味は、上巻伝十四の四十四葉に言った通りだ。万葉巻二の日並皇子(ひなしのみこ)の尊の宮の舎人らの歌(184)に、「東(ひむかし)の、たぎの御門に、伺侍(さもら)へど、昨日も今日も、召こともなし」とある。またもう一つの考えもある。それは後に言う。師は「殿守(とのもり)」という意味だと言ったが、殿守はもとから「とのもり」と言って別である。】書紀に帳内、官者、兵衛などもある。【漢国で官者というものは、皇朝にはない。しかし仕える様子は、「とねり」と似た点がある。また兵衛は「とねり」にぴったりしない。舎人の字を主に使う理由は、漢書の注に「舎人は左右に親近する者を言う。後に官となる」とある意味で言う。舎人という名称は周禮にも史記の秦の始皇紀にもあるが、ここに「とねり」に用いたのは、上記の漢書の注に言った意味である。「後に官となる」というのさえよく合っている。】またやや後に「大舎人」というのがある。【この名は書紀の雄略の巻に初めて見える。職員令に左右大舎人寮があり。大舎人八百人と見える。集解には、弘仁十年に減らして四百人に定められたことが出ている。】内舎人というのもある。【同令の中務省のところに「内舎人九十人が、刀を帯びて宿衛し、雑役を行う。駕行する場合は、前後に分かれて守る」とある。大宝元年に初めておかれたことが続日本紀に見える。久安四年、内舎人六十人に定められたことが、百錬抄に見える。漢国でも、隋の官に「太子の内舎人」というのがあり。太子の官である。】また東宮職員令にも舎人監があって、そのところに舎人六百人とある。また「刀禰(とね)」という名があるが、これは舎人とは元から違う。【廣瀬の大忌祭の祝詞に、「王等臣等百官人等、倭國乃六御縣能刀禰(やまとのくにのむつのみあがたのとね)、男女爾至萬弖(おとこおみなにいたるまで)云々」、龍田の祭の祝詞にも同じようにある。続日本後紀九に「公卿百官および刀禰等」、また「諸々の祝、刀禰等」。西宮記五月五日の條に「内辨いわく、『刀禰を召せ』、少納言ただ出て召す。王卿以下並んで入る」、また釋奠の條に、「上卿が述べて、『刀禰を入れよ』と言う。諸大夫以下、南門から入る」、また九日の宴の條に、「・・・大節には大夫は刀禰と称する。・・・『刀禰召せ』と言う。云々」、神楽の弓立歌に、「伊世之末乃安萬乃止禰良可太久保乃計(いせしまのあまのとねらかたくほのけ)」、大神宮儀式帳に「二箇郡司の子弟、および諸刀禰ら」、中右記に「嘉保二年・・・大原の刀禰らは、両院の下部として、行事書が墨を召すに従わない。また西七条の刀禰は、同じく下部として、行事書が針のことを召すに預からない」など見え、伊勢神宮の書などには、「宇治郷の刀禰」、「沼木郷の惣刀禰」、「諸郷の刀禰」、「小俣村の惣刀禰職」、「射和村の刀禰職」などがあり、後拾遺集の神祇の部の詞書きに、里の刀禰ともある。散位も刀禰豊海、命婦官人などを比賣刀禰と読む。すべて刀禰とは、もと上中下にさたって、公に仕える者の総称であって、たいへん低い身分の者もいった。だから後には、自然に賤しい身分の者を言う名になった。神楽歌に「海人の刀禰」と言っているのも、海人は朝廷に御贅を捕る仕事だから言う。里の刀禰は、村の長などを言うのだろう。吏部王の記に、「百官、主典以上は刀禰という」とあるのは、主典は最も低い地位だから言っているので、これは百官すべてについて言っている。主典より下を刀禰と言わないということではない。ところで主典以上と言うからには、上は大臣までも言うことは分かるだろう。それをあるいは六位を言うとか、六位以下を言うとする説はみな誤っている。西宮記に「刀禰召せ」とあって「王卿以下並んで入る」とあるのを見ても、王卿以下みな刀禰であることは明白だ。刀禰という名の元は、伴部(とものべ)であろう。「も」を省いて、「のべ」は「ね」に縮まった。舎人とこの刀禰とは、もとは同じだったのが、後に分かれたものかという疑いがある。師は刀禰は後の名称で、もとは刀禰から移ったのだ、と言ったが、そうではない。刀禰も非常に古い名のように聞こえる。それに舎人から刀禰に移ったのではないだろうと思われる。もし元が同じだったら、舎人というのが刀禰から移ったのだろうと思う。しかしさらによく考えると、これは元から別の言葉だったのだろう。ところで舎人を「り」を省いて「とね」と言ったこともあったかと思われる節がある。書紀の欽明の御子に、舎人の皇女というのがあるのを、この記では「泥杼王」とあるのは、「杼泥(どね)」を上下逆に書いたのか。「杼」の字は濁音だから、疑わしいが、やはり舎人を「とね」とも言ったように聞こえる。当時御子たちの名は、その乳母の姓を取ったのだから、これもそうだろう。新撰姓氏録に「等禰直(とねのあたえ)」、また「舎人」という姓がある、また後の書には、かの総称の「刀禰」のことを「舎人(とね)」と書いたことがある。これは何となく紛れて書いたものか、または舎人を刀禰とも言うから、借りて通わせて書いたものか。】○「爲レ王(みことなす)」は、宇遲の王に見えるように立てたのだ。○露(あらわに)は、よく見えるところにということだ。【敵の方から、これとよく見えるところに仕掛けたのだ。】○呉床は、師が「あぐら」と読んだのが良い。後の文にも見え、朝倉の宮の段にも、大御呉床とも御呉床ともある。上巻の天若日子の段に、胡床とあるのと同じものである。【「胡」と「呉」の字には関係がない。また和名抄には「牙床は『くれとこ』」とあるが、それでもない。】大神宮儀式帳の荒祭の宮の装束に、「呉床一具、【漆塗り、長さ二尺三寸】」とある。このもののことは、上記の胡床のところで言った通りだ。【伝十三の三十九葉】○坐は「ませて」と読む。【「まさせ」を縮めて「ませ」と言ったことは、前に述べた通り。】これは舎人だが、王に仕立てたものなので、このように尊んだ言い方をしたのだ。○百官は「つかさづかさ」と読む。続日本紀九の官命に、「官々(つかさづかさ)」、【また「百官官人(もものつかさづかさのひと)」ともある。】大祓の祝詞に「天皇我、朝廷爾、仕奉留、官官人等(すめらが、みかどに、つかえまつる、つかさづかさのひとども)」などがある。書紀で、「百官」、「百僚」、「有司」など、みなそう読んでいる。【また「もものつかさ」とも読んでいる。】天皇が既に崩じて、宇遲の王は、いまだ位に就かなかったけれども、天津日嗣を継ぐべき御子であったから、朝廷の百官が仕えるのも当然だったのだが、これは単に皇太子に付いた司々を言ったのでもあるだろう。【「百官」の字にこだわるべきではない。下巻の若櫻の宮の段に、弟の水齒別命が、曾婆加理を欺いたところで、「大臣の位を与え、百官に拝させた」とあるのとは意味が違うだろう。その理由はそのところで言う。】○恭敬は、「うやび」と読む。【また「いやまい」と読むのも悪くない。】「うやうやしく」という意味だ。【「うや」と「いや」は同言である。】書紀に「禮レ神(かみをいやぶ)」、「禮レ賢(けんをいやぶ)」などがある。○往来は、師が「ゆきかう」と読んだのが良い。○既(すでに)は「ことごとく」である。ここは「さながら」というのに通う。【「さながら」も「ことごとく」の意味である。】下にあるのも同じ。○如は「ごとして」と読む。「如くにして」の意味である。「して」とは「そうする」のを言う。○兄王は、大山守命である。○「渡レ河(かわをわたる)」は、攻め寄せようとするときのことである。○爲(ために)。諸本にこの字が落ちている。ここでは真福寺本、延佳本に依った。○船カジ(木+緝のつくり+戈)者は、「者」の字は、「亦」を誤ったものだろう。草書は相似ている。そういう理由は、ここは「船カジ」と言うところでこそあれ、楫者(かじとり)を言うべきところではないからだ。「餝」というのも楫者には合わない。ところがここに「亦」という言は、あるべきところだ。だから「ふねかじ」と読んで、「者」の字は下に付け、「また」と読むべきだ。書紀の~武の巻にも、「備2舟カジ1」とある。○佐那葛(さなかづら)は、和名抄に「蘇敬の本草注にいわく、五味は、皮肉は甘く酸っぱく、核中は辛く苦く、全体は塩辛い。故に五味と名付く。和名『さねかづら』」とある。新撰字鏡には「オン?(葯の勺を音に変えた字)は『さなかづら』」、また「木防己は『さなかづら』」などがある。万葉の歌にも「佐奈葛(さなかづら)」と詠んでいる。「山佐奈葛(やまさなかづら)」とも【十の巻に(2296)】詠んでいる。また二の巻(207)に「狹根葛(さねかづら)」、十一の巻(2479)に「核葛(さねかづら)」ともある。【巻十二(3071)に「眞玉葛(さねかづら)」とあるのは、「またまづら」と読むのが正しいと田中道麻呂は言った。ところがこのものは、後の歌には「さねかづら」とのみ読んでいる。】○舂は師が「うすにつき」と読んだのに従うべきだ。【「に」を省いて「うすづく」というのは、漢籍読みだろう。】万葉巻十六(3886)に「辛碓爾舂、磑子爾舂(からうすにつき、すりうすにつき)」とある。○滑は「なめ」と読む。【師は「なめり」と読んだ。それももっともだけれど、古い時代にそう言った例をまだ見ない。この言は、用言(形容詞)としては「なめらか」と言うのが普通で、体言(名詞)には万葉にも「常滑(とこなめ)」など言い、今の俗言にも「なめ」と言う。】五味は、すべてたいへんに滑(なめり)のあるもので、今の世でも、水に浸しておいて、髪を梳るのに用いるものだ。【それで「美男葛(びなんかづら)」とか、「美人草」と言っている。また「ふのり葛」と言う国もあるという。】そこで考えるに、「さな」という名も「眞滑(さなめ)」の省いた形で、「さね」と言うのも「なめ」を縮めて「ね」と言ったのだろう。【師の万葉考別記に言っている説も、煎じ詰めれば同意だろう。】○菁椅。「菁」の字は「簀」の誤りである。【「菁」と書く理由はない。しかしながら、諸本みなこの字を書くので、今はしばらくこの字を書いておく。延佳本に「簀」とあるのは、改めたのだろう。またその本に「椅」をみな土偏に書いているのは誤りであることは、前に述べた通りだ。】「すばし」と読む。竹などを簀に編んで渡しておき、船中をあちらこちらと歩き回る頼りにしたものだろう。玉垣の宮の段に、「黒樔橋」がある。考え合わせよ。【伝二十五の二十九葉】○蹈應仆は「ふみてたうるべく」と読む。【「蹈」は、「ふみて」、「ふまば」と読む方が理由が明らかになるようだが、ここはそのことをやってしまって、後の言を言うようである。それにここは大山守命が、必ず踏むように仕掛けたのだから、「ふみて」と読むのが良い。】○王子(みこ)は宇遲王である。○賤人は「やつこ」と読む。ただしここは、王に対して、凡人を「臣」と言う【白檮原の宮の段で、五瀬命が「賤奴の痛手を負って」というのは、王に対して臣を言う「やつこ」である。このことは伝十八の三十七葉で言った。】とはちがって、字の通り、下賎の者を言う言葉である。【「やつこ」とは、王に対して臣を言うから、自然と下賎の者を言うことにもなった。】○「執レカジ(楫を執り)」、ここは河の渡り船だから、楫は「さお」と読むべきようだが、【後の歌にも「佐乎斗理邇(さおとりに)」とある。】やはり「かじ」と読むのがよい。【舟を進める具を、何であっても、すべて「かじ」と言うから、「さお」のことにもなる。】○隱伏は、二字を「かくし」と読む。これは他のところに伏せて置くのではない。兵士の装いを隠すので、【「伏」の字にこだわるべきではない。】次に「衣の中に鎧を着せて」とあるのを言う。○鎧は、和名抄に「唐韻にいわく、鎧は甲である。和名『よろい』、釋名にいわく、甲は物の鱗甲があるのに似ている」とあり、「よろう」という動詞を名詞形にして、身をよろう意味の名である。【後の言葉にも、甲を着ることを「よろう」と言う。また「具足」という言葉も意味は同じだ。ついでに言っておくと、今の人が甲を「かぶと」と言い、冑を「よろい」と言うのは、逆である。】万葉巻一(2)に「取與呂布天乃香具山(とりよろうあめのかぐやま)」とある。○衣中服は「ころものうちにきせて」と読む。「着せて」は、兵士たちに着せたのだ。こう言って王みずからも同じようであったことは含まれる。また「服」を「着て」と読んで、王が着ていたことを言い、兵士をそれに含めたと見るのも違っていないだろう。下巻の穴穂の宮の段にも、「衣の中に甲を着て」とある。こうしたのは、攻めようとする状態を隠して、宇遲王を油断させるためである。○嚴は、師が「いかめしく」と読んだのに依る。その理由は、前に「その家を嚴しく餝りて」とあったところ【伝卅二の三十一葉】で言った。この「嚴餝之處」は、かの「その山の上にシ(糸+施のつくり)垣を張り云々」とあったところを言う。○望は、「みやりて」と読む。倭建命の歌に、「奈留美良乎、美也禮波止保志(なるみらを、みやればとおし)云々」、【熱田社の寛平の縁起に出ている。】万葉巻十【十三丁】(1897)に「吾者見將遣、君之當婆(われはみやらん、きみがあたりは)」とある。○「以=爲3弟王坐2其呉床1(おとみこそのあぐらにいますとおもおして)」は、かの舎人を宇遲王と思ったのである。○執カジ而の「而」の字は、多くの本にはない。今は真福寺本、他一本に依った。【なくても悪くはない。】○都は「かつて」と読む。万葉巻四(675)に「花勝見、都毛不知、戀裳摺可聞(はなかつみ、かつてもしらぬ、こいもするかも)」、【この「都」は、「花勝見」と序に言っているので、必ず「かつて」と読むべきである。】書紀でもそう読んでいる。また万葉巻十【十九丁】(1946)に「木高者、曾木不殖(こだかくは、かつてきうえじ)」とある。○執カジ者は、字のままに「かじとれるもの」と読む。【ここは「かじとり」と読むのは良くないだろう。】○忿怒之大猪(いかれるおおい)。大后の段にも「大怒猪」、書紀の雄略の巻にも「嗔猪」とあるなどは、その時に怒っている猪を言うのだが、ここは怒るべきその時を言うのでない。その猪のいつもの状態を言うところであるから、「忿怒(いかれる)」と言うのはどうかと思われるだろうが、「いかりい」という名があるのから考えると、単に猛っていることをこう言い習わしたのだろう。このように猪のことを問うたのは、この猪を捕りに来たと思わせるためである。○答曰(いえば)の「曰」の字は、諸本に「白」とあるが、ここでは真福寺本によった。次にも「答曰」とあるからである。【「是以白」の「白」は、楫者(かじとり)の言葉だから違う。】○不能也は、「ええたまわじ」と読む。上の「え」は語、【「得何々せじ」という「得」である。】下の「え」は、猪を獲るのを言う。伊勢物語に、「五條わたりなりけむ女を、えゝずなりにけることゝ、云々」、また「女のえ得まじかりけるを、云々」などとあるのと同じだ。○何由は「いかなれば」と読む。○時々也は、「よりより」と読む。【「也」の字は読むべきでない。この字はどんな意味で置いたのか。次の句も同じだ。】持統紀にもそう読んでいる。また崇峻の巻に「三度(みより)」、推古の巻に「兩度(ふたより)」、持統の巻に「六齋(むよりのいみ)」など読んでいる「より」と同じ。「おりおり」と通う音で、元は同言だ。【漢籍でも、「時」を「よりより」と読むのは、古言が残ったのだ。允恭紀の歌に「等枳等枳(ときとき)」ともあるが、ここはそうは読まない。】○往々也は「ところどころにして」と読む。続日本紀八に「往々(ところどころの)陂池(ためいけ)」、卅四に「京中往々屋上」などあるのと同じだ。【文選などでもそう読んでいるところがある。だたしこれは正しく「ところどころ」の意味のように聞こえるから、「往々」の字は少し外れているようでもあるが、いつもそう読む字を当てはめたのだ。師は「さきざき」と読んだが、「時々さきざき」とは言うはずもない。また「ゆくゆく」という言葉もあるが、ここには当てはまらない。続日本紀九の宣命に「時々状々爾從而(よりよりさまざまにしたがいて)」ともあるから、これも「状々」の誤りだろうかとも考えたが、やはりそうではないだろう。】○雖レ爲レ取(とらんとすれども)は、捕ろうとする者があっても、の意味だ。【自分が捕ろうとして、の意味ではない。】○不得は「ええず」と読む。こうした問答は、既にこぎ出して、舟の中でのことである。次の文に「渡って河中に至った」とあるので分かる。【そもそも大山守命と宇遲王は、同母でこそないが、兄弟であるからには、顔を知り合っていないはずはないのだが、このように押し返し物を言うまで、遂にそれとは知らなかったのはどういうことか。上代には、兄弟であっても、異母の間は、それほど遠かったのだろうか。書紀には「密かに渡子(わたりもり)に混じって」とあるから、同列の楫執(かじとり)に混じって、王は面を見せないようにして、かたわらにいたのかもしれない。またある人が疑って、「宇遲王は、他に隠れて伺っていたので、この楫執りには他人を仕立てても、どうと言うこともないのを、自ら敵の乗る船に立ったのは、たいへんに危ないことだ。これは何の謀りごとか」と言った。一応はそうも言えるのだが、いにしえには、すべて猛きことを良しとして、貴人と言えども、人にさせて良いことも、みずからしたのだから、後世の心をもって、強いて疑うべきではないだろう。】○「令レ傾2其船1(そのふねをかたぶけしめて)」は、「令」とあるから、王がみずからしたのではなく、同じ列の楫執りなどに、あらかじめ言っておいて、させたのである。【こうなると、かの五味(さなかづら)を簀椅に塗っておいたのは、何の意味があるのか。無駄なことのように聞こえる。あるいは簀椅を踏んで倒れるように用意はしたけれども、その謀は外れて、倒れなかったので、こうしたのだろうか。それならば、これも初めからの謀のうちに入っていたのだろう。しかしそれならば、初めの謀が外れたことを言わないでは、言葉が足りない感じである。またあるいは、かの五味は、舟を傾けるときに、簀椅が浮かぶのに乗って、逃れようとすることがある場合の仕掛けなどではないか、よく考えてみる必要がある。書紀などでは五味などのことはないが、納得できないので省いたのではないか。】○堕入(おとしいれ)は大山守命をである。【この舟を傾けたら、宇遲王も同じく水に落ちるだろうが、かねて謀ったことだから、溺れないように仕掛けがあったのだろう。】○爾の下に、諸本に「今」の字があるのは、誤りだろう。ここは延佳本にないのによった。【あるいは「いまは」と読んで、初めには沈んだが、今は浮き出てという意味かとも考えたが、良くない。やはり「爾(尓)」の字と形が似ているので誤ったのだろう。】○「浮出隨レ水流下(おきいでてみずのまにまにながれくだり)」は、この王は水の中ですべきことを知っていたと思われ、沈み溺れることなく、よく浮かんで、水に任せて流れつつ、川下の方へ逃げたのだ。【水に溺れて、自然に浮き流れたのではない。ここはよく読まねば紛れてしまうところだ。】書紀にいわく、「この時太子は兵士を設けて待っていた。大山守の皇子は、その兵士が数百に及ぶことを知らなかった。夜中に発って、曙に菟道に至り、川を渡ろうとするとき、太子は布の服を着て、楫を取り、度子(わたしもり)に密かに混じって、大山守の皇子を渡した。河中に至って、度子にあらかじめ相談したように、船の縁を踏んで船を傾かせた。大山守の皇子は河に落ち入って沈み、更に浮かび流れて歌っていわく、云々」とある。○知波夜夫流(ちはやぶる)は、書紀には「知破椰臂苔(ちはやびと)」とある。いずれも宇遲の枕詞で、冠辞考に見える。【ただしかの考に「知波夜」の「知」を稜威(いつ)と同じように説いているのは違う。稜威は別のことである。】○宇遲能和多理邇(うじのわたりに)は、「宇治の渡りに」である。【「渡り」とは、渡るところを言う。】○佐袁斗理邇(さおとりに)は、「棹取りに」である。【契沖は、「『棹取りに』か」と言い、また「万葉巻十九(4148)に『椙野爾左乎騰流雉(正字は矢+鳥)(すぎぬにさおどるきぎし)云々』、この『さをどる』は『狹踊』だから、軽捷な者を言ったのか」といったのはここに合わない。】この句は結びの「こん」にかかっている。○波夜祁牟比登斯(はやけんひとし)は、契沖が「速けん人」だと言った。「し」は助語だと言う。【「速けん」は「速いだろう」の意味だ。】○和賀毛古邇許牟(わがもこにこん)は、「わが許に来い」だ。書紀の垂仁の巻、清寧の巻、欽明の巻などに「左右」、皇極の巻に「床側」などを「もとこ」と読んでいる。「許所」の意味だ。【「ところ」を省いて「こ」というのは、宮處を「みやこ」と言うのに同じ。】また垂仁の巻に「左右」を「もとこびと」とも読むのは、「許所人」である。だからここは、その「と」を省いて、「もこ」と言っているのである。【それを「と」と「こ」とが横に通って、「許」だとばかり思うのは、まだ詳しくない。】この句は、契沖が、「味方に速い者があれば、私の許に助けに来いという意味か」といった、その意味だろう。棹取りにというのは、私を乗せる船を用意してと言った意味だ。【ある人はこれを疑い、「この王は水中のことをよく知って、溺れることがなかっただろうから、船を寄せないでもともあるだろうから、そうは言わなかっただろう」と言った。それも一応はもっともだが、このとき河岸には宇遲王の兵士が、矢刺して追っていたので、ついには逃れることなく、沈没したことを思うと、味方の助けを待っていたことも当然である。契沖はまた「水練などに長じて、太子の味方の人に向かって、自賛したのか」とも言った。そう言った理由は、「舟を傾けて私を堕し入れたけれども、私は溺れない。このように浮かんで逃れるのを、もしその方に速い人があれば、ここに来て私を捕らえよ。しかし捕らえることはできまい」と言ったのかというのである。これもなるほどと思わせる解釈だが、それでは「棹取りに」という言葉の意味がどうかと思う。あるいはそれは「さ踊り」かとも思うが、「斗」の字は清音であり、書紀でも同じく清音の「刀」を用いており、「踊り」ではあるまい。また師はこの歌のことを、「思いがけず河に堕ち入って、水中で歌を詠むなどと言うことはない。それにこの歌に呼応して、伏兵が起こり、矢刺して流すとあるのは、太子の味方の伏兵だから、これを大山守命の歌とすると、歌と文が続かない。ここは神武天皇が大室屋の建(たける)を撃ったときのように、太子の味方の約束があって、歌を聞いて起こったのだから、この歌は太子の味方の約束の歌だ。とすると、もとは『即見レ流歌曰』とあったのを、『見』の字が落ちたのだ。あるいは大山守命の歌と思い込んだ人が、さかしらに『見』の字を省いたのだ」といったが、この説はかえって誤っている。まずこの歌は、この記だけでなく、書紀にあるのも、確かに大山守命の歌であり、歌の趣きもその王の歌とこそ聞こえ、宇遲王の歌とは聞こえない。また上記のようにこの王は水中ですべきことをよく知っていたので、浮かび出て、ことさらに流れて逃げたのだから、歌を詠まなかったわけではない。上代の人の歌は、実際の情から出たのだから、後世のように、あれこれと思い巡らして、作り出した歌と同列には言い難い。それをとにかく溺れて流れたと思うから、疑いが出たのである。またもし「見」の字が落ちたので、宇遲の王の味方の合図の歌だったら、「於是弟王見レ流」などとなくては、言葉が足りず、そうは聞こえない。神武天皇のことを例に出したが、それとは前後の語の勢いがたいへん異なる。考え合わせて知るべきだ。また大山守命の歌としては、歌と文が続かないと言うが、伏兵の起こったのは、別にあらかじめ約束があってのことだから、大山守命の歌としても文への続きもこともなく、よく聞こえるだろう。】○伏隱(かくれたる)云々は、宇治の王の味方の兵士で、前に「以レ兵伏2河邊1」とあったその兵士たちである。○彼廂此廂は、「かなたこなた」と読む。そのことは水垣の宮の段に「其廂人(そなたのひと)」とあったところ【伝廿三の七十七葉】で言った。○一時共は、「もろともに」と読む。【記中では、「一時」とあるところもそう読む。ここは「ともに」という言に当てて、「共」の字を書いたのだ。】○興(おこり)、これはかねて約束があって起こったのだ。【その約束のことは、特別なこともないので、省いて記さなかっただけである。必ずしも上の歌を聞いて起こったのではない。この伏兵の起こったのは、「舟を傾けて水中に落とし入れ」とあったところに続いたことである。】○矢刺而(やさして)は、上巻にもあって、そこで言った。【伝十の三十葉】弓につがえることである。○流(ながしき)。これは少し言が足りない感じがするが、【矢を河中へ射るようにきこえるが、そうするのを「流す」とは言わないだろうし、矢を流す理由もない。】大山守命の流れて逃げるのを、矢をつがえて、射止めようとする状況を見せて、【わざと射ないで】追い流すということだろう。【この言葉は、前の「随レ水流下」というのに係けて見るべきである。】本来ならば速く射殺そうとするところだが、わざと外して流しやったのは、宇遲の王の心から出たことで、そのことは次の歌に見える。○訶和羅之前(かわらのさき)は、書紀の崇神の巻に「・・・そこで世人はその甲を脱いだところを迦和羅(かわら)と読んだ」とあるのは、山城国綴喜郡で、今河原村というところであると言われる。そのところと同じ場所で、名の由縁は、伝えが異なるのである。この地は、宇治川の末の、【この河は宇治郡と綴喜郡の境界を流れ、宇治郡と久世郡の境界を流れて紀伊郡に入り、そのあと泉川(木津川)に合流して淀川と言う。また綴喜郡と乙訓郡の境を流れて、河内の国に到る。】綴喜郡と乙訓郡の境を流れる当たりの【このあたりでは淀川だ。】川辺で、綴喜郡の方にあるだろう。【崇神の巻の記述も、そう見ると地理がよく合っている。】○沈入(しずみいり)は、大山守命が遂に逃げることができず、亡せたのだ。○鉤は「かぎ」と読む。【今の世に鳶口(とびぐち)などというたぐいである。】書紀の皇極の巻に「木鉤(きかぎ)」というものが見え、欽明の巻に「鉤戟(ほこ)」というのも見える。○甲(よろい)は鎧である。○訶和羅鳴(かわとなりき)は、甲に鉤が触れて鳴った音を言う。【新井氏は、「訶和羅は甲の古名だ」と言い、この段、またかの書紀の崇神の巻を引き、「亀甲を『かめのかわら』と言うのも同意だ」としている。思うに、延喜式神名帳のある筑後国三井郡の高良玉垂命神社は、建内宿禰を祭っていて、高良は「かわら」と読む。これはあるいは韓国を言向けたときに、かの大臣の着た甲のことかも知れない。伊勢国奄藝郡、丹波国氷上郡などにも加和良神社があり、延喜式神名帳に出ている。出雲国風土記にも、延喜式外に、意宇郡に加和羅神社がある。これらも甲による名ではないだろうか。屋根を葺く瓦は、韓語だというのももっともだが、これも亀の甲(かわら)と同意で、もとから和語であり、「わ」が「は」に転じたのではないだろうか。これらと合わせて考えると、甲の古名だという説は、いわれのあることだという気がする。実際、亀の甲と同じく、「かわら」と言うべき物の状態だ。とすると、この説に依るときは、ここの地名を「かわらと鳴ったが故に言う」というのは、一つの伝えであって、実は甲を鉤に引っかけて出した故に言うのだろう。書紀に「甲を脱いだために『かわら』と言う」とあるのも、古名とするとよく合う。ある説に「甲を脱いで『かわらか』になったのだ。源氏物語に『かはらかなり』とあるのと同じ」と言っているのはどんなものだろうか。また思うに、甲を「かわら」と言ったのも、もとの起こりはこの故事によるのであって、「かわらと鳴った」ことによるかとも言えるだろうが、そうではないだろう。】○骨は「かばね」と読む。大山守命の屍である。いにしえには、この骨の字を屍に通わせて用いた。【それはもともと屍が年月を経て骨になることから出たのだろう。今の世に「死骸」という「骸」の字も骨の意味である。】書紀の顕宗の巻に「御骨埋處(みかばねうめるところ)」、欽明の巻に「骨積2於巖岫1(かばねいわおのくきにつみたり)」などとあるのも屍である。【万葉巻十八【二十一丁】(4094)に「海行者美都久屍、山行者草牟須屍(うみゆかばみづくかばね、やまゆかばくさむすかばね)」とある。】○掛は「かき」と読む。「掻き」の意味である。【鉤に掛けて出したというのではない。】上巻に「胸乳を掛き出で」とあったところで言った意味だ。【伝八の五十八葉】書紀にいわく、「しかしながら、伏兵が多数起こって、岸に至り着くことができなかった。ついに沈んで死し、その死骸を探したところ、考羅濟(かわらのわたり)に浮かんだ。太子はその屍を見て歌って云々」とある。○知波夜比登(ちはやひと)。【「比」は清音である。濁ってはいけない。書紀にも清音の「臂」を書いている。】冠辞考に見える。○宇遲能和多理邇(うじのわたりに)。前にあったのと同じだ。○和多理是邇(わたりぜに)は「渡瀬に」である。川で向こう岸へ渡るところを言う。万葉巻十二【三十二丁】(3128)に「倭路度瀬別(やまとじのわたりぜごとに)」、巻十七【四十九丁】(4024)に「波比都奇能可波能和多理瀬(はいつきのかわのわたりぜ)」などがある。「渡る瀬」とも詠んでいる。【「わたる」というのは用言(動詞)だが、「わたり瀬」と言えば体言(名詞)である。】「是」は書紀には「デ(さんずいへん+日の下に工)」と書いてある。【「デ」は、万葉に「走出(はしりで)の堤」、「出立(いでたち)の清きなぎさ」などあるたぐいの「出」の意味だろう。契沖は、「渡り出」とは岸際を言っているのだろうと言った。】○多弖流(たてる)は、【三言一句】「立てる」で、渡り瀬のあたりに草などが生えているのを言う。書紀の神代巻に「門前所植湯津桂木(かどのまえにたてるゆつかつら)、所植、これを『たてる』と読む」とある。○阿豆佐由美(あづさゆみ)は、【五言の句である。契沖はこの前の「多弖流」をその前の句に付けて、八言の句とし、次の「麻由美」もこの句に付けて八言の句としたのは、すべて良くない。】「梓弓」であって、要するに弓である。【ここは、「梓」には特に意味はない。】和名抄に「孫メン(りっしんべん+面)の切韻にいわく、梓は木の名である。楸の類である。和名『あずさ』」とある。その木は桐に似て、葉も似ている。梓弓はこの木で造った弓である。いにしえはこの木で造った弓が多かったので、他の木で造った物であっても、梓弓と言い慣れていた。【そのものを別けて言う時は、梓の木で造ったことを言うが、普通はそうではなかった。】○麻由美(まゆみ)は、【三言一句】檀(まゆみ)の木である。和名抄に「唐韻にいわく、檀は木の名である。和名『まゆみ』」とあり、弓を造るのに良い材料なので、「眞弓の木」と言う。色が白いので、「白檀(しらまゆみ)」とも言う。ここは、この記が川辺に生えているのを見たままに、即それで大山守命を喩えて、こう詠んだのだ。その意味で、この二句について考えるべきことがある。【よく読まなければ紛れるだろう。】前の「梓弓」は、枕詞のようなもので、【だから「たてる梓の木」と続けたのではない。「たてる」は檀の木であって、梓弓はその木を言うのではない。単に「弓」の意味であって、枕詞のようなものだから、歌の意味には関係がないと考えるべきだ。】「梓弓の真弓」という言葉の続きである。だから「まゆみ」は梓弓からの言葉の続きの意味は、単に「弓」ということで、歌の意味は檀の木である。【ところがこの二句は、「立てる梓弓」と続いているので、梓の木が立っているようでもあり、また「梓弓眞弓」と並んでいるから、梓の木の弓と檀の木の弓と、二つの弓のようにも聞こえて、あれこれ紛らわしいのだが、よく味わって区別すべきである。契沖はこれを弁えず、梓弓・眞弓、ことに弓のことに注して、「これは伏兵の弓である」と言ったのは誤りだ。弓に「立つ」という言葉はあるが、それは事の状態によるので、伏兵が弓で射向かうことを、どうして「立てる梓弓」などと言うだろうか。またこの二句を梓の木と檀の木の二種が生えていたことを言うのだったら、梓だけを言うのが普通だろう。梓弓と言ったら弓のことである。それに大山守命だけを喩えるのに、二種を挙げるのはおかしい。白檮原の宮の段で「あめつゝ、ちどりましとゞ」と四種を言ったのとは違う。これは「梓弓」を枕詞のように見て、「まゆみ」を檀の木と見れば、妙なことを考えないでも納得できるだろう。】○伊岐良牟登(いきらんと)は、「伊」は発語で、「伐らんと」である。【契沖が「射斬らんと」だと言い、「斬る」は殺すことだと言ったのは、前の句を「弓」と見たことから誤ったのだ。「射切る」とは、あの「扇の的」などのたぐいを言うことだろうが、「射殺す」ことをどうして「射斬る」というだろうか。古言にそうした表現はありそうにもない。】○許許呂波母閇杼(こころはもえど)は、「心に思えど」である。万葉に多い。【「心には思えども」の意味である。】「思い」の「お」を省いて言うことがいにしえの歌には多かった。○伊斗良牟登(いとらんと)は、これも「伊」は発語で、「取らんと」である。かの生えている木を、切り取ろうと思ったが、ということを「切る」と「取る」を別けて、こう【「きらんと云々」、「とらんと云々」と、】二つに言うのは、いにしえの歌の文で、例が多い。【契沖が「射取らんと」だと言ったのは、また違う。「射取る」というのは、古言ではない。この「いきらん」、「いとらん」というのは、前に梓弓云々とあることから、誰でも惑ってそう思うだろうが、さらによく味わって、「い」はみな発語だと考えるべきである。またこの二つの「い」を「射」と見るので、いよいよ前の「まゆみ」をも弓のことだと思うのは、思い惑っているのである。】ここの四句は、大山守命を殺そうとは思ったが、の意味だろう。○母登幣波(もとへは)は、「本の方へは」の意味だ。【「幣」は清音である。書紀にも「弊」の字を書いている。濁ってはいけない。】○岐美袁淤母比傳(きみをおもいで)は、「君を思い出」である。【「傳」の字は濁音である。書紀にも「デ(さんずいへん+日の下に工)」とある。「而」の意味ではない。】万葉巻十七【十八丁】(3944)に「吉美乎念出、多母登保里伎奴(きみをおもいで、たもとおりきぬ)」、巻廿【三十四丁】(4398)に「伊弊乎於毛比デ(泥の下に土)(いえをおもいで)」などもある。「出(いで)」の「い」を省いて言うことは、古歌に多い。【これは「思い」の「比」に「い」の音が含まれているので、なおさらである。】契沖は「君」とは應神天皇を言ったと言う。その通りだろう。○須惠幣波(すえへは)は、【旧印本にはこの二句が落ちている。その他の本にはみなある。】「末へは」である。本方、末方は、あの檀の木の本と末に掛けて喩えた、木の本末に託して君と妹を言ったのだ。本の方を切ろうとすれば云々、末の方を切ろうとすれば云々、といった意味である。【契沖がこれを「一つには、二つには」といった意味だと言ったのは、意味合いはその通りだ。だが「本へ、末へ共に弓の縁だ」と言ったのは、前の句を弓と見たからの誤りだ。「本へは云々、末へは云々」というのは、その切り取ろうとするものについて言うことであって、本末は弓の縁だったとしても、人を射ようとして、その射る対象を思うのを、こちらが持っている弓の本末について言うのは、理由がなく、おかしいだろう。この歌は大山守命を檀の木にたとえて詠んだ歌で、その王の身の上をあわれに思う意味だから、その喩えた檀の木について言ったと考える方がよく合っている。このけじめをよく考えるべきだ。】書紀の継体の巻の歌に、「駄開能以矩美娜開、余嚢開、漠等陛嗚麿、キョ(くさかんむりに呂)等ニ(イ+爾)都倶リ(口+利)、須衛陛嗚麿府曳仁都倶リ(口+利)(たけのいくみだけ、よだけ、もとへをば、ことにつくり、すえへをばふえにつくり)」、万葉巻十三(3222)に「三諸者、人之守山、本邊者、馬酔木花開、末邊方、椿花開(みもろは、ひとのもるやま、もとへは、つつじはなさき、すえへは、つばきはなさく)」などがある。【これは山の本末で、麓と山の上とを言っている。】○伊毛袁淤母比傳(いもをおもいで)は、「妹を思い出」である。契沖いわく、「大山守命の同母妹に大原の皇女、コムク(さんずいへん+勞)田の皇女がある。これらの皇女たちのことを労ったのか、あるいはこれらの皇女の一人を太子の妃としたのか」と言ったが、本当にそのように聞こえる。または大山守命の妃を言ったのかも知れない。【いにしえには、妹という名は広く適用されているから、上記のうちのどれかは分からない。】○伊良那祁久(いらなけく)は、万葉巻十七【二十六丁】(3969)にも「可奈之家口、許己爾思出、伊良奈家久、曾許爾念出、奈氣久蘇良、夜須家久奈久爾(かなしけく、ここにおもいで、いらなけく、そこにおもいで、なげくそら、やすけくなくに)」とある。【これはここの故事によって詠んだ歌だろう。】この言は、これを除いて、古い書物には見えない。言の意も定かでない。中昔の書には時々見え、大和物語に「吾(わが)さまのいらなくなりたるを思ひはかるに、いとはしたなくて」とあるのは、容貌のたいへん衰えやつれたことをいうから、ここの意もややそれに似ているだろう。契沖もこれを引いて、しおれて角もなくなるのをいうか、和名抄に「苛は和名『いら』、小さい草にとげが生えているのを言う」とあるのによれば、「苛なく」という意味か【以上契沖の言】と言ったが、師も「苛なく」で、しっかりとした心もない、というのに同じだろう」と言った。【新撰字鏡に「?(十の下にわかんむり+木)は木芒である。『木のいらら』」、源氏物語、橋姫の巻に「寒げにいらゝぎたるかほして」、河海抄に「寒いとき鳥肌立つのを言う」、手習の巻に「こはごはしくいらゝぎたる物ども服(き)たまへる」、古今著聞集に「いらいらしき者にて云々」、これは今の世にも「心のいらつ」というのと同じだ。これらはいずれも「苛」の意味に合っている。これに対して考えると、「いらなき」は、「苛なき」でもあるだろう。】実に物の哀しくて、心の打ちしおれた様を言い、万葉に「思ひしなえ」、また「心もしぬに」などあるのと同様のことではないだろうか。【ところが宇治拾遺物語に「いらなき大刀をみがき、云々」、「むしり綿をきたるやうに、いらなく白きが云々」、大鏡に「此史ふむばさみに文(ふみ)はさみて、いらなくふるまひて、此のおとゞに奉る」、つれづれ草に「數珠おしすり、印ことごとしく結び出(いで)などして、いらなくふるまひて、云々」などある。これらは異様で甚だしい意と聞こえ、俗言に「けしからぬ」などと言うようなものだ。また今の賎しい言葉に「えらい」というのにも通って聞こえる。「えらい」は「いらない」の訛った言葉かも知れない。上記の引例と合わせて考えると、大和物語にあるのも俗に「けしからぬ」さまという意、ここにあるのも、兄王を眼前に於いて殺すのは、あまりけしからぬしわざと思う意味か、とも聞こえるが、それでは思い出の「出」に合わない。また前掲の万葉巻十七の歌にも合わない。思い出すことが甚だしいかとも思ったが、それでは次の「かなしけく」に合わない。新撰字鏡に「頽・ソウ?(やまいだれに畏)・タイ?(やまいだれに退)はいずれも同じように髪がないのを言う。『いらかなし』」ということもあるが、ここには関係がないようである。また稻掛大平は、「伊良は郎子・郎女などの『いら』で、人を親しく愛でる意味で、那祁久ははしたなくなどの『なく』のように、添えて言う辞ではないか」と言った。さらによく考えるべきである。】契沖いわく、「那祁久」は「なく」である。「祁」の字があるのは古語である、と言った。【「く」を「けく」と言うのは、善く、悪しくをよけく・あしけくなどと言うたぐいだ。ところが露けくという言葉だけは、「露く」などと言った例はない。これは事のついでに触れておくだけである。】○曾許邇淤母比傳(そこにおもいで)は、「そこに思い出」である。書紀には「傳」の字がない。○加那志祁久(かなしけく)は「悲しけく」である。○許許邇淤母比傳(ここにおもいで)は、「ここに思い出」である。書紀には、これも「傳」の字がない。いにしえには「それ」を「そこ」、「これ」を「ここ」と言った例が多い。【「それ故に」を「そこ故に」と言い。「これを思えば」を「ここ思へば」というたぐいだ。必ずしも「そのところ」、「このところ」と言う意味ではない。】これは、「そこ」も「ここ」も意味は同じなのを、【前の語を指して「それ」、または「その」と言っても、「これ」または「この」と言っても、同じことなのが多い。たとえば山城の宇治川云々という前の句について、下野句で「その川」と言っても「この川」と言っても同じことだ。】「いらなく」と「かなしく」を二つに分けて言うため、言を変えて、「そこ」・「ここ」と言っただけで、「そこ」も「ここ」も同じく、上の「本方」、「末方」を合わせて、一つのことを指して言ったのだ。【それを契沖が「そことは上の君を指して言い、こことは上の妹を指す」と二つに分けて言ったのは、いにしえの意味合いではない。万葉の長歌などに「そこ云々」、「ここ云々」とあるのなども、指していることは一つであり、二つはないのでも分かる。また本へ・末へをさすと言わないで、君と妹を指すと言ったのも詳しくない。それでは「爾」という辞に合わないだろう。】「爾」という辞は、本へ、末へについてという意味である。【君と妹を指して言うなら、「そこを」、「ここを」と言わなければならない。】また「いわなけく」も「かなしけく」も、上の君と妹を合わせて、一つにして言ったのだ。【これもまた別けて見るのは良くない。】とすると、「本へ」、「末へ」、「そこ」、「ここ」など二つに言ったのは、いずれも文の綾であって、君と妹に別けたのではないだろう。○伊岐良受曾久流(いきらずぞくる)は、「伊」は同じく発語で、「伐らずぞ来る」である。「来る」は宇治から訶和羅の前まで来たので、大山守命を宇治で即殺してしまうところを、君のことや妹のことを思い出し、いらなく悲しくて、殺すこともできず。ここまで追い流し来たということを、川辺に立つ檀の木を切り取ることもできずやって来たことに喩えて言ったのだ。○阿豆佐由美、麻由美(あづさゆみ、まゆみ)は上と同じである。こうして上にあることを再び言って結びとするのは、古歌では普通のことである。○那良山(ならやま)。この地は前に出た。【伝廿五の二十二葉】この山は、万葉巻一【十三丁】(17)に「青丹吉、奈良能山乃(あおによし、ならのやまの)」、また【十七丁】(29)「青丹吉平山越而(あおによしならやまこえて)」など、巻々に多く見える。○葬(かくしき)は、書紀に「すなわち那羅山に葬った」とある。これは那良山のうちのどこなのか、定かでない。【大和志に「添上郡の荒墓の一つは、南都猿沢之池の東、鬼園山にある。大山守皇子の墓と伝え、また鬼冢と名付く」と言っているが、そこだったら那良山とは言わない。やはり那良の北の方にあるだろうと思う。○思い付くままについでに言っておこう。記中に「葬」の字を「?(共の下に土)」と書いたところが多い。どの本にもある。それは写し誤ったのではなく、いにしえにはことさらに字画の少なく、便利なように書き習わしたのだろう。そういうたぐいのことは多い。】○土形君(ひじかたのきみ)は、書紀にも「大山守皇子は、土形の君、榛原の君、すべて二氏の始祖である」とある。和名抄に「遠江国城飼郡、土形【ひじかた】郷」がある。この地による名だろうか。【「土形」なる地名は他国にもあるが、榛原も遠江国にあるからだ。】この姓は、新撰姓氏録には見えない。○幣岐君(へきのきみ)。日置と書いて「へき」とも「ひき」とも「ひおき」とも言う地名は、国々に多い。【和名抄に「伊勢国一志郡、日置は『ひおき』」、「能登国珠洲郡、日置は『ひき』」、「越後国蒲原郡、日置は『ひおき』」、「但馬国氣多郡、日置は『ひおき』」、この他にも多い。このうち、能登国にあるのは「ひき」とあって、その他は「ひおき」とあるのが多い。「へき」とあるのはない。そもそもこの地名は諸国に数多いのを思うと、どのようにか故のあることとは聞こえるが、どういう由縁の名か、思い付かない。また日置と書くのを思うと、「へき」というのは訛りのようではあるが、この記にすでにそうあるから、かえってその方が正しい読みである。もと「へき」ならば、日置と書くのはどうしたわけであろうか。また「へき」を正しいとすると、「ひおき」というのは、後にさかしらに文字について読んだのだろう。上記の伊勢国の地名も「ひおき」とあるが、近世には戸木村(へきむら)と言い、その他にも「へき」と読む地名が今も多いのを思うと、国人などはいにしえからそう読んでいたのだろう。】これはどの国のか分からないが、蓁原(はりはら)、土形(ひじかた)という地名が遠江国にあるから、そこだろうか。今城東郡に比木村(ひきむら)というのがある。しかしまた和名抄に、丹波国多紀郡に榛原郷、日置郷があるから、ここだろうか。氏は新撰姓氏録に【右京皇別】「日置朝臣は應神天皇の皇子、大山守王の子孫である」とある。○榛原君(はりはらのきみ)は、【「榛」は「はり」と読む。万葉に「はりはら」、また借字で「針原」と書いている。】和名抄に、「遠江国蓁原(はいばら)郡、蓁原(はいばら)郷」がある。これから出たのだろうか。【その隣にある城飼郡に、土形郷がある。また比木村と言うところもあるのは、上記の通りだ。ところで「榛」と「蓁」とは同じで、「はり」なのを「はい」と言うのは、後の音便である。】また上に言った丹波国にあるのから出たのか、いずれとも定めがたい。【この地名は他の国にもあるが、上記の二国のどちらかだろう。】新撰姓氏録に【摂津国皇別】「榛原公は、息長眞人と同祖、大山守命の子孫である」【息長眞人は稚淳毛二俣王の子孫なのに、それと同祖とあるのは、まぎれの誤伝である。】また【河内国皇別】「蓁原は、譽田天皇の皇子、大山守命の子孫である」ともある。

 

於レ是大雀命與2宇遲能和紀郎子1二柱。各讓2天下1之間。海人貢2大贄1。爾兄辭令レ貢レ於レ弟。弟辭令レ貢レ於レ兄。相讓之間。既經2多日1。如レ此相讓非2一二時1故。海人既疲2往還1而泣也。故諺曰B。海人乎因2己物1而泣A也。然宇遲能和紀郎子者。早崩。故大雀命治2天下1也。

 

訓読:ここにオオサザキのミコトとウジノワキイラツコとふたばしら、アメノシタをあいゆずりたまうほどに、アマいオオニエをたてまつりき。アニミコはいなみてオトミコにたてまつらしめたまい、オトミコはまたアニミコにたてまつらしめて、あいゆずりたまうあいだに、すでにあまたヒへぬ。かくあいゆずりたまうことひとたびふたたびにあらざりければ、アマはすでにゆきつかれてなきけり。かれことわざに、「アマなれやオノがものからねなく」とぞいう。しかるにウジノワキイラツコははやくかむさりましぬ。かれオオサザキのミコトぞアメノシタしろしめしける。

 

口語訳:このとき、大雀命と宇遲能和紀郎子の二柱は、互いに天下を譲り合った。その間、海人が大贅を奉ろうとしたが、兄は弟に譲り、弟は兄に譲って、相譲る間に数多の日を経た。こうして相譲ることが一度や二度ではなく、海人は行き疲れて泣いた。それで諺に「海人は自分のものから泣く」という。ところが宇遲能和紀郎子は早く崩じたので、大雀命が天下を治めた。

 

各譲は、「あいゆずりたまう」と読む。次に「相譲」とあるのと同じで、互いに譲り合ったのである。書紀にいわく、「その後、菟道に宮を造って住んだ。それでも大鷦鷯尊に位を譲って、久しく皇位に就かなかった。そのため皇位は空しくして、すでに三年になった」【そもそも宇遲王が宇治に住んでいたのは、初めからのことなのに、ここで初めてのように「その後」と書いたのは納得できない。もし初めから宇治に住んでいたのでなかったら、大山守命が宇治に攻めてきたのは、何の由縁があったというのだろうか。またここに住んでいたのは初めからのことだったけれども、ここでその宮室を改めたのだとも言えるだろうか。しかし位を大雀命に譲って、みずから即位しようと思わなかったのに、ここで宮室を改めて作ろうとは思わなかっただろう。】○海人(あま)の下に「伊」という字を補って読むべきである。語の調べのためである。【この助辞のことは、すでに言った。】○大贄(おおにえ)は前に出た。【伝この巻の十一葉】○兄(あにみこ)は大雀命、弟(おとみこ)は宇遲能和紀郎子である。○弟辭の「辭」は読まないで、ここに「又」という言葉を読み添えるべきである。【その理由は、ここの語は「兄は云々、弟は云々」と「は」という言葉があるべきところだ。それを「兄は辞(いなみ)て云々、弟は辞て云々」と読んでは、下の「辞」と言うことが「は」という言葉に合わず、語が整わない。二方共に「辞」というのなら、「弟も」と言わなければならないが、「弟も」と言っては語の整いが良くない。必ず「兄は・・・弟は・・・」とあるべきところだ。そこでこの字は読まないと言う。「辭」と言う語は、上の一方について言えば、下の一方についても続いて言うものである。文字は単に意をもって、二方共に「辭」と書いてはいても、読みはわが国の言い方によるべきである。】○經多日は、「あまたひへぬ」と読む。【師は「ひさわにへぬ」と読んだが良くない。古言に物の多いことを「さわ」と言うのは確かだが、事によるだろう。日数のたくさん経つことを「さわに」と言ったことはない。】万葉巻九【三十一丁】(1793)に「不遭日數多、月乃經良武(あわぬひあまた、つきのへぬらん)」などがある。また「ひまねくなりぬ」とも読める。万葉巻十七【三十八丁】(3995)に、「和可禮奈波、見奴日佐麻禰美、孤悲思家武可母(わかれなば、みぬひさまねみ、こいしけんかも)」、また【四十六丁】(4012)「美之麻野爾、可良奴日麻禰久、都奇曾倍爾家流(みしまぬに、からぬひまねく、つきぞへにける)」、巻十八【卅丁】(4116)に「月可佐禰、美奴日佐麻禰美、故敷流曾良(つきかさね、みぬひさまねみ、こうるそら)云々」、巻十九【十六丁】(4169)に「於夜能御言、朝暮爾、不聞日麻禰久、安麻射可流、夷爾之居者(おやのみこと、あさよいに、きかぬひまねく、あまざかる、ひなにしあれば)」、また【二十三丁】(4198)「不相日麻禰美、念曾吾爲流(あわぬひまねみ、おもいぞあがする)」、これらは日数が多く重なることを「まねく」と言っている。【「さ」とあるのは、例の「眞」の意味である。こうした歌の用例からすると、巻九の歌に数多あるのも「まねく」と読むべきだ。】○一二時は、「ひとたびふたたび」と読む。一度、二度にあらずとは、数度だったということだ。○「疲2往還1」とは、あちらへ、こちらへと幾度となく往復したのだ。【宇遲王は宇治にいて、大雀命は難波におり、その間は遠い道のりだった。】○海人乎は、「あまなれや」と読む。書紀でもそう読んでいる。また「あまもや」とも読める。それは近つ飛鳥の宮の段の歌に、「意岐米母夜(おきめもや)」、万葉巻二【十一丁】(95)に「吾者毛也(われはもや)」などあって、「も」は助辞、「や」は上巻に「我那邇妹命乎(わがなにものいもや)」とあって、そこ【伝五の六十四葉】に言ったように、呼び出す辞で、「よ」と言うのと同じだ。【だから「もよ」とも言って、意味は同じだ。】「なれや」と言うのと、「もや」と言うのとは、その意味は異なる。そのことは次に言う。○因己物而は「おのがものから」と読む。書紀の読みもそうである。この「ものから」は、普通に言う「ものから」【「思うものから」、「言わぬものから」のたぐい】とは別で、「もの」は己のものにして、【辞ではない。】「から」は字の通り「よって」である。古今集【戀の四】(737)に、「己が物から形見とや見む」とあるのと同じで、「から」の意味はとりあえず異なっている。【ここにあるのは「己が物によって」の意。古今集にあるのは「己の物ながら」の意味だ。】この言は、己の持たない物が欲しくて、得難いことにこそ泣くのが普通なのに、この海人は人に奉ることの得難いのを、「憂い泣く」というのは、普通の様子とは逆である。その意を以て、世の中に、己の物を人に与えようとするのに、与えがたいので憂い泣くものの喩えに言う。その意味に取ると、「海人乎」ということが、二つの読みで意味が違うというのは、「なれや」の時は、いにしえの海人だったらと、その憂うる者のことを言っている。しかし「もや」というときは、単に「海人よ」とこの時の海人に対するよびかけである。しかし諺の全体の意味は同じだから、どちらでもあり得るが、書紀に「有海人耶」と「有」に字を添えて書かれているので、「なれや」の方によるべきである。【「なれや」は「にあれや」の縮まった形なので、「有」の字を添えたのである。】書紀にいわく、「このとき海人が鮮魚の苞苴(おおにえ)を以て菟道の宮に奉った。太子は『私は天皇ではない』と言って返し、難波に奉らせた。大鷦鷯尊もまた返して、菟道に捧げさせた。このとき、苞苴が往復の道の途中で腐ったので、また新しく鮮魚を取って奉った。また先のように譲り合ったので、鮮魚がまた腐った。海人は往復に苦しんで、ついに鮮魚をうち捨てて泣いた。そこで諺に『海人なれや、己が物から泣く』という。これがそのもとである」とある。○然(しかるに)とは、上の「相譲って云々」を受けて言った。○早崩(はやくかむさりましぬ)。宇遲王について「崩じた」と書いているのは、「かむさりましぬ」という言葉は必ずしも天皇に限らず、「薨」の字もそう読むから、この記は単にその言によって、字にはこだわらなくてもいいのだろう。しかし記中、この字を書いたのは、五瀬命、倭建命【この二柱は、特別な意味がある。そのところで言った通りである。】また應神天皇が太子であった頃、敵を欺いて「御子はすでに崩じた」【これは後から考えればこう書くべきところであった。】とあるのみだから、字に意味があるのだろうか。もしそうなら、この王は太子でありながら、ことに天津日嗣を受けるよう定まっていたからかも知れない。ところでこの王の早く崩じたことは、この記の趣では、何となく崩じたように聞こえるが、書紀では「太子は『私は兄王の志を奪うことはできない。どうして久しく生きて天下を治めることができようか』と言って、みずから命を断った。大鷦鷯尊はこれを聞いて驚き、難波から急いで菟道の宮に馳せ参じた。このとき太子は薨じてもう三日経っていた。大鷦鷯尊は胸を打って泣き叫んで、何をしたらよいか分からなかった。そこで髪を解いて屍にまたがり、『私の弟皇子』と三度呼んだところ、一時的に生き返って、自分で起きて坐った。そこで大鷦鷯尊は太子に語って・・・太子も兄王に語って・・・すなわち同母妹の八田皇女を奉って、・・・すなわちその棺に伏して薨じた。ここに大鷦鷯尊は、素服をもって発哀とし、泣いて甚だしく悲しんだ。菟道の山上に葬った」とある。【「髪を解いて屍にまたがり云々」は、上代に死人を蘇らせる方法だったのだろう。谷川氏が「これ我が邦招魂の法なり」と言った。「我が邦」とは漢意の言い方である。】諸陵式に、「宇治の墓は菟道稚郎皇子である。山城国宇治郡にある。兆域は東西十二町、南北十二町、守戸三烟」【町域がたいへん広いのは、山だからであろう。この御墓は山城志に「朝日山にある。・・・墓畔に寺があり、興聖寺という。近年、永井心齋という者が、墓域を削って建てたところで、旧名を神明山と言った」とある。ある説に「宇治の離宮はこの王を祭る」という。また「離宮は延喜式神名帳の宇治神社だ」とも言う。続日本後紀九に「・・・中納言藤原の朝臣吉野が言うところによれば、宇治の稚彦の皇子は、非常に賢明な人であった。この皇子の残した教えに、自分の骨を散骨させた。後世はこれに倣っている。云々」これは拠り所があって言っているのだろうか、たいへん納得できないことである。骨を散らすなど、当時あったはずもない。思うに後世に火葬というものが始まって、世にあまねく広まった頃に、この王のこともそういう説ができたのだろう。形もない虚説と聞こえる。】万葉巻九【三十一丁】には宇治若郎子の宮所の歌(1795)として、「妹等許、今木乃嶺、茂立、嬬待木者、古人見祁牟(いもらがり、いまきのみねに、しみたてる、つままつのきは、ふるひとみけん)」とある。「今木乃嶺」は疑わしい。【あるいは宇治の宮の他に、今木にも宮があったのかも知れない。「今木」というところは、欽明紀に「倭国の今來郡」と見え、皇極紀、斉明紀、孝徳紀などに見えるのも倭である。万葉巻十(1844)に「今城岳(いまきのおか)」とあるのも倭のことのように聞こえる。続日本紀卅七に「田村の後宮、今木の大神」とある田村は奈良にある。それを山城志に「今來嶺は、宇治の彼方(おちかた)町の東南にある。今は離宮山という」とあるのは、この万葉巻の歌による推測の説だろう。新撰姓氏録に山城国に今木連、また今木という姓はあるけれども、宇治の辺りに、この地名が古書に見えたことはない。上記の「今木の大神」というのは、後に平野に遷した。ある人いわく、「平野の今木の神を世に仁徳天皇だと言って、家隆卿の歌などに『難波津に冬隱りせし花なれや、平野の松にかゝる白木綿』ともあるが、誤りだろう。万葉巻九の歌によれば、宇治若郎子だろう」といったのは、そうであろう。ついでに言っておく。平野を平氏の氏神とする理由は、桓武天皇の産土神だからだろう。それは続日本紀に「宝亀六年三月、田村の旧宮に酒を置き、群臣が盃を回し飲みして上を賞め奉り、一日歓楽を極めた」とあるのを思うと、田村の旧名は光仁天皇のいまだ白壁王と言ったときの邸宅で、今木の大神はそこに鎮座していた神である。桓武天皇もそこで生まれたのだから、産土神であったろう。だからこそ延暦元年に、特別に位階を授け、ついには平安京に移して祭ったのだ。この大神を平安京の平野に移したのも、延暦年中のことである。そのことは類聚三代格に見える。また万葉巻一の歌(7)に「兎道乃宮子(うじのみやこ)」とあるのは、この若郎子の宮によって言ったのか、または天皇の行幸の仮宮についていったのでもあるだろう。】○「故、大雀命云々」、書紀の仁徳の巻に「元年春正月丁丑朔己卯、大鷦鷯尊が天皇の位に就いた」とある。



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