『古事記傳』34

 

三十四之巻(明の宮の段−下)

又昔有2新羅國主之子1。名謂2天之日矛1。是人參渡來也。所=以2參渡來1者。新羅國有2一沼1。名謂2阿具奴摩1<自レ阿下四字以レ音>此沼之邊。一賤女晝寢。於レ是日耀レ如レ虹指2其陰上1。亦有2一賤夫1。思レ異2其状1。恒伺2其女人之行1。故是女人。自2其晝寢時1姙身。生2赤玉1。爾其所レ伺賤夫。乞=取2其玉1。恒裹着レ腰。此人營3田於2山谷之間1故。耕人等之飮食負2一牛1而。入2山谷之中1。遇=逢2其國主之子天之日矛1。爾問2其人1曰。何汝飮食負レ牛。入2山谷1。汝必殺=食2是牛1。即捕2其人1。將レ入2獄囚1。其人答曰。吾非レ殺レ牛。唯送2田人之食1耳。然猶不レ赦爾。解2其腰之玉1。幣2其國主之子1。故赦2其賤夫1。將=來2其玉1。置レ於2床邊1。即化2美麗孃子1。仍婚爲2嫡妻1。爾其孃子。常設2種種之珍味1。恒食2其夫1故其國主之子心奢。詈レ妻其女人。言凡吾者。非B應レ爲2汝妻1之女A。將レ行2吾祖之國1。即竊乘2小船1。逃遁渡來。留レ于2難波1。<此者坐2難波之比賣碁曾社1。謂2阿加流比賣神1者也。>

 

訓読:またむかしシラギのコニキシのこ、なはアメノヒボコというあり、このひとまいわたりけり。まいわたりけるゆえは、シラギのクニにひとつのヌマあり。なをアグヌマという。このヌマのほとりに、あるしずのめひるねしたりき。ここにヒのヒカリぬじのごとそのホトをさしたるを、またあるしずのお、そのさまをあやしとおもいて、つねにそのおみなのおこないをうかがいけり。かれこのおみな、そのひるねしたりしときよりはらみて、アカダマをなもうみける。ここにそのうかがえるしずのお、そのタマをこいとりて、つねはつつみてこしにつけたり。このひとタニエにたをつくれりければ、タビトどものくらいものをウシにおおせて、タニのなかにいりけるに、そのコニキシのこアメノヒボコあえり。かれそのひとにといけらく、「なぞイマシくらいものをウシにおおせて、タニへはいるぞ。イマシかならずこのウシをころしてくらうならん」といいて、すなわちそのひとをとらえて、ヒトヤにいれんとすれば、そのひとこたえけらく、「あれウシをころさんとにはあらず。タビトのくらいものをおくるにこそあれ」という。しかれどもなおゆるさざりければ、そのこしなるタマをときて、そのコニキシのこにマイしつ。かれそのしずのおをゆるして、そのタマをもちきて、とこのべにおけりしかば、すなわちかおよきオトメになりぬ。かれマグワイしてむかいめとしたりき。ここにそのオトメ、つねにくさぐさのタメツモノをまけて、いつもいつもそのヒコジにすすめき。かれそのコニキシのこココロおごりて、めをのれば、そのおみな、「おおかたわれは、イマシのめになるべきおみなにあらず。わがおやのクニにいなんとす」といいて、しぬびてオブネにのりて、にげわたりきて、ナニワになもとどまりける。<こはナニワのヒメゴソのヤシロにます、アカルヒメともうすカミなり。>

 

口語訳:また昔、新羅の国王の子、名は天之日矛という者があって、この人が渡って来た。その渡って来た理由は、新羅国に一つの沼があった。その名を阿具奴摩という。この沼の畔に、ある下賤の女が昼寝をしていた。ここに日の光が、虹のようにその陰部を差した。他の下賤の男がこれを怪しいことだと思って、いつもその女の行いを観察していた。女はその昼寝の時から孕んで、しまいに赤い玉を生んだ。男はその玉を貰い受けて、平素は包んで腰に着けていた。この男は、山谷の間に田を作っていた。そこで耕作をする人たちのために、食べ物を牛に追わせて、山谷の中に入って行った。そのとき国主の子、天之日矛に逢った。そこでその人に「お前はなぜ飲食物を牛に追わせて、山谷の中に入るのか。きっと牛を殺して食べてしまうつもりだろう」と言い、その人を捕らえた。牢に入れようとしたとき、その人は答えて「私は牛を殺すのではありません。ただ田を作る人たちの飲食物を運んでいただけです」と言った、しかしなお許さなかった。そこでその腰の玉を解いて、その国主の子に賄賂として渡した。そこでその賎の男を許して、玉を持ち帰り、床の周辺に置いておいたところ、美しい女性になった。それで女と交わって、正式の嫁とした。その乙女は常に種々の食べ物を用意して、いつもその夫に勧めた。その国王の子は、心がだんだんおごって、女をののしるようになった。その女は「本当は私はあなたの妻になる女ではなかったの。私の親の国に行ってしまいますわ」と言い、密かに小舟に乗って、逃げてきて、難波にとどまった。<これは難波の比賣碁曾社にいる、阿加流比賣という神である。>

 

又昔(またむかし)。「又」は前にこの御世にあったことを言う一件ごとの初めにある「また」と同じで、これは別に昔のことを言うくだりである。昔とはその御世よりも前の時代のことを記したのだ。それはいつの時とは伝えが定かでない故に、広く昔と言う。【書紀には、このことを垂仁天皇の三年に記してあるが、それは疑わしい。なぜかと言うと、同九十年に常世の国に遣わした田道間守は、天日矛の玄孫である。その間八十余年にして、成人した玄孫があると言うことはないわけではないだろうが、他の例を考え合わせると、やはり疑わしい。そこで考えるに、このことは同八十八年、天日矛の曽孫清彦云々の事の末に、昔云々として、天日矛の渡来したことを書いたのだ。昔とはかの三年のことを言っているようだが、さらに昔のことのようである。だから日矛の渡来した時期は、その御世よりは前のことだったのを、清彦のことがあるから、一つに紛れて、同じ御世のこととも語り伝えたのだろう。摂津国風土記に比賣碁曾社の神の渡来時期を、應神天皇の御世のこととして書いてあるのも違う。】それをここに書いているのは、異国の人々が誰彼となく渡来した時期なので、その因みによるのだろう。「昔」の次の「有」は、一本には「者」と書いている。それでも通じる。【「昔者」の二字で「むかし」である。「有」という言葉はなくても良い。】○新羅國主(しらぎのこにきし)は前【伝卅の五十八葉、六十葉】に出た。この王の始祖は新撰姓氏録【右京皇別】に「新良貴は、彦波瀲武ウ(廬+鳥、茲+鳥)草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)の息子、稻飯命の子孫である。新良國において国主となる、稻飯命出於新羅國王者祖令である」【「出於」の二字は納得できない。「者」の誤りか。「出」と草書が相似ている。また「祖」の上の「者」の字は「之」の誤り、「令」の字は「也」の誤りか。「稻飯命者新羅國王之祖也(いないのみことはしらぎこくおうのおやなり」とあれば、前の文と意味が良く通じる。】上巻に「御毛沼命は波の穂を踏んで常世の国に渡って行った」とあり、これと合わせて考えると、御毛沼命は、新羅の国に渡って行って、はじめてその国王となった。新撰姓氏録に稻飯命とあるのは、兄弟の間の伝えが異なっているのである。【このことは、伝十七の八十二葉と考え合わせるべきである。朝鮮国の三国史記、東国通鑑などに書いてある新羅国王の始祖と言うのは、これより後の国王だろう。ところが第三世脱解王というのは、「もと多婆那國のうまれで、その国は倭国の東北一千里にある。初めその国王が女國王の娘を娶って、はらめること七年にして大きな卵を生んだ。云々」とあり、またその始祖の三十八年のところに、「瓠公を遣わして・・・瓠公はもと倭人である。初め瓠に乗って海を渡ってきた、故に名付く」などと言うことがあるのは、いささか故のあることのようだが、これらはいずれも垂仁天皇の治世だから、はるかに後のことである。新羅王の姓のことは、さらに遠つ飛鳥の宮の段、伝卅九の???に述べた。】○天日矛(あめのひぼこ)。この名は、渡来後に皇国で名付けたものだろう。古語拾遺には「新羅の王子、海檜槍(あまのひぼこ)」と書いてある。【この字からすると、檜の木の矛のことで名付けたのか。「海」の意味はあるはずがない。ここは「天」の意味だろう。】また書紀の神代巻に「天香山の金を探って、日矛を作った」とある。○參渡來は、「まいわたりけり」と読む。「けり」は【辞の「けり」ではない。】「来てあり」【縮めて「来たり」という。】という意味の古言である。万葉巻十七【廿丁】(3957)に「多麻豆左能使乃家禮婆(たまづさのつかいのければ)」とあるのは、「来たれば」という意味である。これで納得せよ。【また巻十五(3667)に「許能安我家流伊毛我許呂母能(このあがけるいもがころもの)云々」、これも衣を「着せる」と言っているので、同格である。】書紀に「來朝」、「來帰」、「參來」、「參赴」、「詣至」、「投化」などを「もうけり(マウケリ)」と読んでいる。【ただし「マヰ」を「まう」と読むのは、後の音便である。】万葉に「けり」を「來」と書いているのも、これを借りたものである。○「所=以2參渡來1者(まいわたりけるゆえは)」。これは後の文の「即竊乘2小船1云々」のところに係る。○一沼(ひとつのぬま)。こういうところの「一」は読まないのが普通だが、ここは続けて良かろう。和名抄に「唐韻にいわく、沼は池である。和名『ぬま』」、【古い本には「ま」の字がない。】新撰字鏡には「洪は水の名である。『ぬま』」とあり、また「ぬ」とだけも言う。万葉などにも「ぬま」と多く詠んでいる。○阿具奴摩(あぐぬま)。「ぬま」とはこちらの言葉で言ったので、「阿利那禮河(ありなれがわ)」というたぐいだ。【次に「この沼」とある「沼」の辞を旧印本に「泥」と書いているのは誤りなのに、師(賀茂真淵)はそちらを取って、ここも「泥」としたが、諸本共に二つとも「沼」とある。】○一賤女は「あるしずのめ」と読む。「ある」は「或る」の意味だ。【「一」を「ひとりの」と読んでは、皇国の言の風ではない。】賎しいものを「しず」と言うのは、万葉巻十八【十二丁】(4061)に「美布禰左須之津乎能登母(みふねさすしずおのとも)」とある。【契沖いわく、「倭文という布は荒々しく織って、賎しいものの衣にしたので、それを着るような身分の者も衣のことによって、『しず』と言ったか」と言ったのは誤りだ。】○晝寢は「ひるねしたりき」と読む。○虹は、和名抄に「虹は和名『にじ』」とあり、今の世にもそういうが、天武紀に「殿内に大虹(ぬじ)があった」と見え、万葉巻十四【十三丁】(3414)にも「伊香保呂能夜左可能爲提爾多都努自能(いかほろのやさかのいでにたつぬじの)」とあるから、「ぬじ」と読むべきである。これが古言だろう。【万葉巻にあるのは東語かとも言えるが、書紀の読みにもそうあるからだ。】○陰上は、上巻に「陰上を読んで『ほと』と言う」とある。○有一賤夫は、「あるしずのお」と読む。「有」の字は読まない。○其状(そのさま)は、日光がその女の陰上を差した様である。この下へ「見て」という言葉を加えて見るべきだ。○恒(つねに)は、その後つねにということだ。○行は、「おこない」と読む。「しわざ」、「ふるまい」というのと同じ。書紀の允恭の巻の歌に「佐瑳餓泥能區茂能於虚奈比(ささがにのくものおこない)」、これを古今集(1110)には「くものふるまひ」とある。【また万葉巻四の行事十一に「行(わざ)」とある。】○伺(うかがい)は、その怪しい状況を見て、ただ事でないとおもったから、また他にも怪しいことがあるかと伺い試みたのである。○「生2赤玉1(あかだまをうめる)」。上巻の豊玉毘賣命の歌に「阿加陀麻(あかだま)」とある。この女のことは、前に百済の国主のところに引いた続日本紀の「百濟の遠祖、都慕王は、河伯の娘が日の精に感じて生んだ子である」、また「百濟の太祖、都慕大王は、日の神が霊を下して云々」【からぶみ後漢書に云々】のこととよく似ている。○乞取(こいとり)は、請い求めて自分のものにしたのである。【「取」は奪い取るのではない。】さらに怪しいことがあるかと伺っていると、やはり怪しいものを生んだので、これこそただものでないと貴く思って、請い受けたのだ。○山谷之間は「たにえ」と読む。【字の通りに「やまたにのあいだ」などとは読むべきでない。ここはそう読んだとしても、次にも同じように「山谷」とあるからには、「山」の字は決して読まない。字は単に漢文の書き方で「山谷」と書いたのだ。万葉巻十七(3915)に「山谷古延弖(やまたにこえて)」とあるが、これは山と谷の二つである。】万葉巻十一【六十丁】(2775)に「山高谷邊蔓在玉葛(やまたかたにえにはえるたまかずら)」、巻十九【十九丁】(4185)に「繁山之谿敝爾生流山振乎(しげやまのたにえにはえるやまぶきを)」などがある。○營田は「たつくれり」と読む。上巻にも「高田(あげた)を作り、下田(くぼた)を營(つく)る」などがあった。また「天照大御神の營田(みつくだ)」などもあった。○耕人は「たびと」と読む。次には「田人」ともある。【この記で同じことが複数書いてあるところでは、一つは意味をもって書き、一つは言葉のままに書いて、相互に参照して意味を知る例が多い。初めの巻に言った通りだ。ここも「耕人」とは意味をもって書き、「田人」とは言葉のままに書いたのである。】栄花物語【御裳着の巻】に「この田人どものうたふ歌をきこしめせば云々」、【日本霊異記に「農夫は、たつくるお」とあるが、そう読むのはよくない。】田子(たご)と言うのも同じだ。○飲食は「くらいもの」と読む。【「飲」の字にこだわるべきでない。また飲み物を兼ねて「食らいもの」と言う。土佐日記に「おのれし酒をくらひつれば」などもある。】次に「食」とあるのも同じだ。書紀の~武の巻に「盛レ食(くらいものをさかりて)」、宣化の巻に「食(くらいもの)は天下のもとなり」、天武の巻に「俗(ただびと)の供養(くらいもの)を以てこれを養う」など、みなそう読む。【神代の巻、持統の巻などでは「飲食」を「おしもの」と読んでいたが、それは食べる本人に関してのことと聞こえる。】○一牛は、単に「うし」と読む。【「一」の字は漢文の表現である。】和名抄に「牛は和名『うし』」とある。○負(おおせ)は、万葉巻廿【五十丁】(4465)に「由伎登利於保世(ゆぎとりおおせ)」とある。【和名抄に「特牛は、俗語にいわく、『ことい』」、万葉巻九(1780)に「牡牛(こというし)」、巻十六(3838)に「事負乃牛(こといのうし)」などがある。「ことい」は「殊負」で、物を殊にたくさん負うことを言う。】○國主。旧印本に「國」の字を落としている。【諸本みなこの字がある。】○遇逢は「あえり」と読む。この語の格からすると、「天之日矛に」と「に」という字を添えて読むのは俗っぽい。単に「天之日矛あえり」と言うのが雅語である。【このことは前に述べた。】○「問2其人1」は、賎夫に天之日矛が問うたのである。○殺食は「ころしてくらうならん」と読む。○「將レ入2獄囚1」は、【「囚」の字を一本や釈日本紀に引いてあるのは、「因」と書いてある。その時は下に付いた言葉である。しかしこの記には「因(より)て云々」と書いた例はないから、「因」はよくない。】「獄囚」は「ひとや」と読む。「人屋」の意味だ。【すべて「屋」はみな人の屋なのに、特別にこう書くのは、物を入れるように人を籠めておく場所だからである。「棺(ひとき)」と言うのと同じ例だ。】書紀の神功の巻に「臣らを捕らえて囹圄(ひとや)に閉じ込めた」、仁賢の巻に「みな獄(ひとや)に下して死んだ」、敏達の巻に「獄(ひとや)」、孝徳の巻に「獄中囚(ひとやのなかのとらえもの)」、天武の巻に「天下に大赦して囚獄(ひとや)はすっかり空になった」、日本霊異記に「囚圄は二合『ひとや』」【「二合」とは二字合わせてということだ。】などが見える。この賎夫を捕らえて獄に入れようとしたのは、他人の牛を盗んで殺そうとしていると思ったからだろう。「盗んだ」とは見えないけれども、山谷に入ったことは、盗んできたものと思ったからと聞こえる。それを盗んだことを言わなかったのは、盗むよりも殺すことの方が罪が大きかったからだろう。賊盗律に「およそ官や私の馬牛を殺すものは、二年半【馬牛は軍国の所用なので、他の畜類と同じではない】」とある。漢国の律も同じだ。これも盗むのと殺すのを合わせているが、殺す方の罪を重いとしている。どこの国でも、理由なく牛を殺すのを上代から罪としたのだろう。【だから律にもそう定められているのである。】○腰之玉は、前に「恒裹着レ腰」とあり、いつも身から離さなかったのだ。○解(とく)は腰に結わえ付けたのを解いたのである。○幣は、【この字は、釈日本紀に引いたのは「與(あたう)」とある。】「まいしつ」と読む。書紀の垂仁の巻に「兵器を神への幣(まい)としようと占った」、仁徳の巻に「河の神が祟って、自分を幣(まい)としようとした」、孝徳の巻に「神に供する幣(まい)を課した」、天武の巻に「あるいは幣(まい)を捧げてその家に媚びた」、推古の巻に「多く新羅の幣物(まないもの)を得た」、また孝徳の巻に「貨賂(まいない)・賂物(まいない)」【「まい」を「まいない」、「まいなう」とも言うのは、「卜」を「うらない」、「商」を「あきない」とも言うたぐいである。】万葉巻五【四十丁】(905)に「末比波世武(まいはせん)」、巻六【二十八丁】(985)に「天爾座月讀壯子幣者將爲、今夜乃長者五百夜繼許掾iてんにますつくよみおとこはまいせん、こよいのながさいおよつぎこそ)」、巻九【二十二丁】(1755)に「幣者將爲遐莫去(まいはせんとおくなゆきそ)」、巻十七【四十四丁】(4009)に「多麻保許乃美知能可未多知麻比波勢牟(たまほこのみちのかみたちまいはせん)」、巻廿【四十五丁】(4446)に「和我夜度爾佐家流奈弖之故、麻比波勢牟由米波奈知流奈(わがやどにさけるなでしこ、まいはせんゆめはなちるな)」また(4447)「麻比之都々伎美我於保世流奈弖之故我(まいしつつきみがおおせるなでしこが)」、古今集【旋頭歌】(1008)に「まひなしにたゞ名のるべき花の名なれや」などがある。この賎夫がそれほど大切に思っていた玉をこうして贈り物にしたのは、このときは命にも関わる大事だったからだろう。○「將=來2其玉1」は、天之日矛が自分の家に持ち帰ってということだ。○「置2於床邊1(とこのべにおく)」。倭建命の歌に「登許能辨爾和賀淤岐斯(とこのべにわがおきし)」とある。○仍は「かれ」と読む。「故」の字と同じ使い方である。【この字は。書紀にはよく使われているが、この記では、ただ二箇所に遣われているだけである。ここともう一つは下巻の遠つ飛鳥の宮の段にある。そこは「かくて」などと読む。そのことはそこで言う。この字は「因である」とも注して、ここでは自然と「故」の意味に通う。普通は「よりて」と読むけれども、言の部首によって、また「よって」などと読むのは漢文の読みでこそあれ、皇国の言い方ではない。】○婚は「まぐわいして」と読む。「まぐわい」のことは、前に出た。【伝十の卅五葉】○嫡女(むかいめ)も前に出た。【伝十の五十八葉】こうして嫡女にしたことで、この乙女を非常に愛でたことが分かる。○珍味は「ためつもの」と読む。そのことは上巻に「種々の味物」とあるところで言った。【伝九の九葉】類聚国史に「大同四年正月、諸国に令して正月七日十六日の南節会の珍味を奉るのをやめさせた。民を煩わせるからである」とある。○恒は、ここは「いつもいつも」と読む。【「つねに」と読んでは、上の「常に」と重なって、煩わしいからだ。】万葉巻四【十三丁】(491)に「伊都藻之花乃何時々々來u(いつものはなのいつもいつもきませ)云々」とある。【この歌は十の巻、十七葉(1931)にも見える。】○夫は「ひこじ」と読む。この名は上巻に出た。【伝十一の三十二葉】○食は、ここは「すすめき」と読む。食わせることを「すすむ」と言った。朝夕の食事ごとに、いつも珍味を勧めたのである。○心奢(こころおごり)。「奢」の仮名は古い書物に見えたことがないから、決めがたいが、「大ごる」の意味のようだから、【広くなるのを「広ごる」と言うのと同じだ。「ほこる」とも言うのは「オホ(おお)」の「オ」を省いたもので、「おごる」と言うのと同じだ。「大」という語は、「オ」を省いて「ホ」とも言い、「ホ」を省いて「オ」とも言う例が多い。「おごる」を「大ぼこり」の意味だと言うのは違う。】「お」と定めるべきだ。「心おごりす」という言葉は、物語書などに多い。【それは体言(名詞)なのを、ここでは用言(動詞)に読む。】この女はもと美しい玉が化した乙女で、凡人ではなかったので、天之日矛も初めは重く斎きかしづいていたのを、いつも珍味を勧めるなどして、懇ろに自分を敬い、尽くすのを見て、「ひたすら己に従うのだ」と思い、奢る心が出て来たのである。○詈(ののしる)は、卑しめて無礼に言うことである。前に出た。【伝十九の八葉】○凡は、「おおかた」と読む。訶志比の宮の段の神の言葉に、「凡(おおかた)この天下は、汝の治めるところではない」とある「凡」と全く同じである。○吾祖之國(わがおやのくに)は父の国で、皇国を言う。その理由は、この乙女は、日光が賎の女の陰上を差して生まれた子であるから、父は天日で、初め伊邪那岐大神が禊ぎをしたことにより、筑紫の阿波岐原で生まれたものだからである。そうすると天照大御神が天日であることは、いにしえの伝えの趣きはいよいよ明らかである。【近世のさかしら人の説のように、天照大御神がこの国土に生まれた神人であって、天日でないとすれば、この乙女はどうして皇国を祖国と言うだろうか。】○小船は和名抄に「唐韻にいわく、艇は小船である。釋名にいわく、一人二人乗る船である。漢語抄にいわく、艇は『おぶね』」とある。高津の宮の段の歌に「袁夫泥都良々玖(おぶねつららく)」。○比賣碁曾社(ひめごそのやしろ)は、延喜式神名帳に「摂津国東生郡、比賣許曾神社【名神大、月次・相嘗・新嘗】」とあり、四時祭式に「下照比賣社一座、あるいは比賣許曾社と称する」、臨時祭式に「比賣許曾神社一座、また下照比賣と称する」と見え、【下照比賣とはこの神社の神号で、すなわち新羅から渡来したこの乙女を祀るのである。しかしこれを神代巻にある下照比賣と同じに考えるのは、非常に誤っている。この社は、今に言う高津(こうづ)の宮であるという。それを今は仁徳天皇だと言うのは納得できない。それはかの御世の高津(たかつ)の宮を考えての推測だろう。今の高津(こうづ)の宮は、いにしえの高津(たかつ)の宮とは違う。今の高津は、孝徳紀に「蝦蟇(かわず)の行宮」とあるところだろう。宇津保物語の歌にも「かはづ」とあると、ある人が言っている。そうであろう。】三代実録二に「貞観元年正月、摂津国、下照比女神に従四位下を授けた」とあるのもこの神社だ。摂津国風土記に「比賣嶋の松原は、昔軽嶋の豊阿岐羅の宮で天下を治めた天皇の御世に、新羅国に女神がいて、夫から逃げてしばらく筑紫国の伊波比の比賣嶋に住んでいたが、『この嶋はまだ十分に遠くない。もしここにいたら男神が尋ねて来るだろう』と、更に移って、ついにこの嶋にとどまった。それで最初にとどまったところの名をこの嶋の名とした」とある。【上巻の女嶋(ひめじま)のところを考え合わせよ。伝五の二十五葉】和名抄に、「肥前国基肄郡、姫社(ひめごそ)郷」もある。【また延喜式神名帳に「豊前国田川郡の辛国、息長大姫大目命神社」、これを続日本後紀六には「香春岑神、辛国云々」とある。この神社も「比東齣\(ひめごそ)神社」と言うそうだ。釈日本紀に「豊前国風土記にいわく、田河郡の鹿春郷は、昔新羅の神が渡って来て、この川原に住んだので、鹿春神と言った。案ずるに、豊州の比賣語曾社は神名帳にも風土記にも見えない。任那、新羅は同種である。辛の比賣語曾神の降臨した跡か」とある。】○阿加流比賣神(あかるひめのかみ)は、比賣碁曾社の神の名である。【「比賣碁曾」は社の名である。】名の意味は、その玉によるのだろうか。書紀の神代巻に「羽明玉」、「天明玉」、「櫛明玉」などの神の名がある。みな玉による名である。下照比賣という名も同じ意味で、玉が光り照る意味か。または二つともに玉によるのでなく、乙女の容貌を賞めて言ったのか。どちらでもあるだろう。延喜式神名帳に「摂津国住吉郡、赤留比賣命(あかるひめのみこと)神社」がある。これは比賣碁曾社の神を、また別にここにも祀ったのだろう。そういう例もある。【出雲国に、櫛御氣野命というのは意宇郡の熊野の神なのに、同郡にまた別に久志美氣濃神社があるのと同じだ。】書紀の垂仁の巻にいわく、「一に言う、御間城天皇の世に、額に角のある人が乗った船が、越の国の笥飯の浦に来て泊まった。『どこの国の人か』と聞くと、『意富加羅(おおから)の国王の子、名は都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)』・・・一にいわく、都怒我阿羅斯等は国にいたとき、黄牛(あめうし)に田を作る道具を負わせて、田舎に行こうとしたとき、その黄牛が忽然と見えなくなった。その跡を追って行くと、ある郡の家中に住んでいた老夫が『お前の探し求める牛は、ここに入った。しかし郡の司たちは、牛に負わせたものからすると、必ず殺して食おうと思って準備したものだろう。もしその主が現れたら、代償のものを支払えば宜しいと言ったので、殺して食った。代償には何が良いかと聞かれたら、郡の内にある神を言え』と言った。ほどなく郡の司たちが来て、『代償には何が良いか』と聞いたので、老夫に言われたように、その祀ってある神を言った。それは白い石であった。この石を授かって、寝屋の内に飾っておいたら、それは美麗な少女になった。阿羅斯等は大いに喜んで、まぐわいしようと思った。ところが阿羅斯等がよそへ出かけている間に、少女はいなくなった。阿羅斯等はたいへん驚いて、『少女はどこへ行ったか』と尋ねると、『東方へ行った』と答えた。そこで追い求めて、ついに日本国に至った、少女は難波に渡って、比賣語曾社の神になっていた。また豊国の國前郡にも比賣語曾社の神として祭られている」とあるのは、伝えが異なる。【「國前郡」は豊後である。これはかの豊前の田川郡の香春の神をこう伝え誤ったのではないだろうか。豊後にはこの神があることは書物に見えない。】

 

於レ是天之日矛聞2其妻遁1。乃追渡來。將レ到2難波1之間。其渡之神塞以不レ入。故更還。泊2多遲摩國1。即留2其國1而。娶2多遲摩之俣尾之女名前津見1生子多遲摩母呂須玖。此之子多遲摩斐泥。此之子多遲摩比那良岐。此之子多遲麻毛理。次多遲摩比多訶。次清日子。<三柱>此清日子娶2當摩之灯繧P生子酢鹿之諸男。次妹菅竃《上》由良度美。<此四字以レ音>故上云多遲摩比多訶娶2其姪由良度美1生子葛城之高額比賣命。<此者息長帶比賣命之御祖>

 

訓読:ここにアメノヒボコそのめののがれしことをききて、すなわちおいわたりきて、ナニワにいたらんとするほどに、そのワタリのカミさえていれざりき。かれさらにかえりて、タジマのクニにはてつ。すなわちそのクニにとどまりて、タジマのマタオがむすめナはマエツミにあいてうめるこタジマモロスク。これがこタジマヒネ。これがこタジマヒナラキ。これがこタジマモリ。つぎにタジマヒタカ。つぎにキヨヒコ。<みはしら>このキヨヒコ、タギマノメヒにあいてうめるこスガノモロオ。つぎにいもスガカマユラドミ。かれかみにいえるタジマヒタカそのめいユラドミにあいてうめるこカヅラキのタカヌカヒメのミコト。<こはオキナガタラシヒメのミコトのみおや。>

 

口語訳:天之日矛は、妻が逃げたことを知って、追い渡り来て、難波に入ろうとしたが、その渡りの神が道を塞いで、通そうとしなかった。そこでもう一度帰って、多遲摩の国に行き、そこにとどまった。多遲摩の俣尾の娘、前津見を娶って生んだ子が多遲摩母呂須玖である。その子は多遲摩斐泥。その子は多遲摩比那良岐。その子は多遲麻毛理。次に多遲摩比多訶。次に清日子。<三柱である。>この清日子が當摩之灯繧娶って生んだ子は酢鹿之諸男。次に妹菅竃由良度美。そこで上に言った多遲摩比多訶がその姪の由良度美を娶って生んだ子が葛城之高額比賣命。<これは息長帶比賣命の祖である。>

 

追渡來(おいわたりき)は、後を慕って追ってきたのである。天之日矛がやって来たことは、書紀には単に「來歸」と書いてあり、その理由は見えない。一つの伝えには「日本に聖王があると聞いて帰化した」とあって、比賣碁曾神を追ってきたようには書いていない。その神のことは別に意富加羅国の都怒我阿羅斯等に関することばかりで、【その言葉は上に引いた。】この天之日矛には関係しない。【それは都怒我阿羅斯等と天之日矛の渡来した状況が似ているので、比賣神のことはあれとこれとが混同されたのである。実際はどちらであったか決められないが、強いて言うなら、書紀の方が良いだろう。その理由は次に言う。からぶみ東国通鑑にある、「漢の永寿三年、新羅の阿達羅王の四年、新羅は迎日県を置いた。初め東海の浜に人がいて、夫を迎烏といい、妻を細烏といった。ある日迎烏は、藻を海浜に取っていて、たちまち日本国の小島に到り、王となった。細烏はその夫を訪ねて行き、また漂ってその国に到った。妃として立て、そのとき迎烏・細烏を日月之精として、ここに至って縣を置いた」と言うことがあるのは、やや似ているところがある。】○「將レ到2難波1(なにわにいたらんとするほどに)」は、かの乙女が難波に来たことを道などで聞いてきたのだろう。○其渡之神(そのわたりのかみ)は、難波の渡りの神である。書紀の景行の巻に「難波の柏の濟(わた)りの悪神」と見え、この記の同段に、倭建命が東国の走水の渡りを渡ったとき、「その渡りの神は船を廻らせて進ませなかった」とある。○塞は「さえて」と読む。上巻に「千引石を黄泉比良坂の引き塞えて」とある。【伝六の廿九葉、三十四葉を考えるべきである。】ここで天之日矛を塞えて難波に入れなかったのは、悪神で何となく妨げたのか、あるいはこれは悪神でなく、この渡りにいる神で、かの乙女を守って逢わせないようにするために、塞えたのかは定かでない。○還を師が「めぐりて」と読んだのは、「泊2多遲摩國1」というところに係ると見るとその通りだ。しかしこれは難波の辺りまで東の方を指してきたのが、単に西へ帰るのを言うのだから、やはり字のままに「かえりて」と読むべきだ。【北の海へ回るまでを言うのではない。書紀の垂仁の巻に都怒我阿羅斯等のことを「一にいわく、御間城天皇の世に、額に角のある人が船に乗って越の国の笥飯の浦に泊まった。・・・『日本国に聖王があると伝え聞く。それで帰化しに来た。・・・穴戸に至ったとき、帰る道を知らなかった。島伝いに北海を廻り、出雲の国を経てここに至った』」とあるのは、この天之日矛の来た様子とよく似て、「日本国に聖王があると聞いて」などは、かの紀に天之日矛のことを書いたところと文まで同じだ。そうしたことから、かの乙女のことも、これとあれとが入り混じったのだ。】○多遲摩(たじま)は但馬である。名の意味は思い付かない。【天之日矛の子孫たちの名に多遲摩何々とあるのを考えれば、そうした人々の名によるかと思うが、そうではないだろう。】そもそもこの国に泊まった理由は、直接に難波に入ろうとしたけれども、遮られて入れなかったので、北の海から回って泊まり、陸から難波に至ろうとしたのだろう。○「留2其國1(そのくににとどまりて)」。これは少しいぶかしい。その理由は、まだかの乙女には会わないのに、無駄に但馬にとどまって、尋ねてきた乙女のことをきれいさっぱり忘れたかのように、これ以降は初めの天之日矛とは別人のようになっているのはどういうことか。【ついにかの乙女に会えなかったのなら、そのことを書いて後に「但馬の国にとどまって」と書くべきなのに、そのことを言い終わらないうちにすぐにこのことに移っているのは、首尾が確かでないように聞こえる。これによって考えると、書紀のように、乙女のことは都怒我阿羅斯等に関係していて、天之日矛とは関係がないのではないだろうか。そこでこれは書紀の伝承の方がよいのではないかと言った。】書紀には「一にいわく、初め天日槍(あめのひぼこ)は播磨国宍粟邑にいた。天皇は三輪の君の祖、大友主と倭の直の祖、長尾市を播磨に遣わして、天日槍に『あなたは誰か。またどの国の人か』と尋ねさせた。天日槍は『新羅の国王の子である。しかし日本国に聖王があると聞いて、わが国を弟知古(おとちこ)に授けて帰化するものだ』と答えた。そこで奉ったものは葉細珠、高足珠、鵜鹿々赤石珠、出石刀子、出石槍、日鏡、熊神籬、膽狹淺大刀、合わせて八種である。そこで天日槍に詔して、『播磨国宍粟の邑と淡路島の出淺の邑には自由に住んで宜しい』と言った。ところが天日槍は『私が住むところは、請願のままに許し給え。私自ら諸国を見て、住むところを決めたいのです』と言った。そこで許した。天日槍は菟道河から溯って、近江の国の吾名邑(あなむら)にしばらくとどまった。更に近江の国を経て若狭国に到り、そこから西の方に到って、但馬国に定住地を定めた。このため近江国の鏡谷の陶人は、天日槍の従人である」と見える。また播磨国風土記に「天日槍命は韓国から渡ってきて、宇頭河(うずがわ)のほとりに宿を取りたいと葦原志擧乎命(あしはらのしこおのみこと)に乞うた。『あなたが国主ならば、私の宿りするところは得られるでしょう』と。志擧乎は海中に住むことを許した。そのとき客神は剣で海水をかき回し、そこに住んだ。また天日槍命の黒葛はみな但馬の国に落ちた。そこで但馬の伊都志(いずし)に住んだとも言う」、【宇頭河は、播磨国だろう。同国宍粟郡、伊和坐大名持御魂(いわにますおおなもちのみたま)神社が延喜式神名帳に見える。】筑前国風土記に、「怡土縣主(いとのあがたぬし)らの祖、五十跡手(いとて)は・・・五十跡手は『高麗国の意呂山(おろやま)に天から降った日桙(ひぼこ)の苗裔五十跡手がこれです』と言った」【高麗国云々とあるのは伝えが異なるのか、または新羅国の天日矛とは別人なのか、定かでない。五十跡手のことは、仲哀紀に見える。】なども見える。○俣尾(またお)は、書紀には麻タ(てへん+施のつくり)能烏(またのお)とあり、一つの伝えに麻多烏(またお)とある。名の意味は全男(またお)などではないだろうか。○前津見(さきつみ)の「前」は「さき」と読むべきだ。【書紀では「まえ」と読んでいる。「まえ」か「さき」か定かではないが、「さき」と読むのは少しよりどころがある。次に言う。】名の意味は「幸」か。「津」は辞、「見」は「耳」と同じで、書紀には「耳」とある。称え名である。【前に詳しく言った。】ただし女の名には珍しい。【上巻に布帝耳(ふてみみ)神というのがある。女神である。】ところでこの父子の名は、書紀には父が前津耳、娘が麻多烏で、逆である。【延喜式神名帳に「但馬国養父郡、佐伎都比古阿流知命(さきつひこあるちのみこと)神社二座」とある佐伎都比古は、この前津耳と同じように聞こえるから、書紀に父の名と記したのが正しいだろうか。また「前」を「さき」と読むべきよりどころもこれである。その神社は、この人を祭っているのではないだろうか。しかし俣尾(またお:旧仮名マタヲ)を娘とするなら、女の名に「を」というのは、また珍しい。】○多遲摩母呂須玖(たじまもろすく)。書紀には「但馬諸助(たじまもろすく)」とある。【「助」は「すく」と読むのだろう。】名の意味は思い付かない。延喜式神名帳に「但馬国出石郡、諸杉(もろすぎ)神社」がある。【この人を祭ったのだろうか。】○多遲摩斐泥(たじまひね)。名の意味は、「ひ」は「霊」か。「ね」は例の称え名である。書紀にはこの人はない。延喜式神名帳には、「但馬国出石郡、日出(ひで)神社」、【「ね」と「で」は通う音である。】また「比遲(ひじ)神社」などがある。○多遲摩比那良岐(たじまひならき)。名の意味は思い付かない。「ひ」は「霊」、「き」は「君」か。神代に「比那良志毘賣(ひならしびめ)」というのがあった。書紀【一にいわく】には、この人を諸助の子としている。○多遲麻毛理(たじまもり)。名の意味は、「もり」は「守」か「森」か定かでない。【延喜式神名帳に、「但馬国養父郡、杜内(もりうち)神社」がある。】この氏の人は、名がみな多遲麻某というのは、国の名を挙げて呼んでいるのである。【それは書紀を考えると、清日子など、倭にも登って住んだと聞こえるから、その族人を但馬某と倭で呼び慣れたままに、伝わったものだろう。その多遲毛理の名を橘守の意味だとするのは、本末が違っている。逆に「橘」というのは、この人の名によっているのは、玉垣の宮の段に言った通りである。】この人は書紀【一にいわく】では、清彦の子としている。【本文には誰の子とも見えない。かの伝えには、「比泥」の一世がないから、清彦の子としても天日矛の玄孫であることは、この記と同じだ。】三宅の連の祖であることは、玉垣の宮の段に出た通りである。○多遲摩比多訶(たじまひたか)。名の意味は日高か霊高か。この人は書紀にはない。○清日子(きよひこ)。名の意味は字の通りだ。書紀には「天之日槍(あめのひぼこ)の曽孫、清彦」と見え、また「昔一人の人があって、船に乗って但馬の国に泊まった。『どこの国の人か』と尋ねたら、『新羅の王子、名は天日槍』と答えた。そのまま但馬の国にとどまり、前津耳【一にいわく前津見、一にいわく太耳】の娘、麻タ(てへん+施のつくり)能烏(またのお)を娶って、但馬諸助を生んだ。これは清彦の祖である」、また「一にいわく、・・・天日槍は但馬の出嶋(いずしま)の人、太耳の娘、麻多烏を娶って、但馬諸助を生んだ。諸助は但馬日楢杵(ひならき)を生んだ。日楢杵は、清彦を生んだ。清彦は田道間守(たじまもり)を生んだ」などと見える。【清日子は、この記では天日矛の玄孫なのに、書紀では曽孫になっているのは、書紀には「比泥」の一世がないからである。】この人のことは、さらに後で書紀を引いて言う。○註に「三柱」とあるのは、比那良岐(ひならき)の子を言う。○當摩之灯縺iたぎまのめひ)。當摩は地名により、倭の地だろうか。清日子は、書紀によると京に呼ばれて、倭に住んだこともあるようだからである。【清彦の言に「臣の家」と言うこともあるのは、倭での家である。この女性に会ったのは、倭にあったときのことだろう。】倭の當摩は、下巻若櫻の宮の段に出る。【伝卅?の???葉】「灯縺vの意味は、思い付かない。【和名抄に「越中国婦負郡」がある。「ねひ」と読んでいるが、万葉巻十七(4023)に「賣比河(めひがわ)」とも(4016)「賣比能野(めひぬの)」ともあるから、「ねひ」は後代の訛りで、「めひ」が正しいのだろう。】○酢鹿之諸男(すがのもろお)。酢鹿は地名で、延喜式神名帳に「但馬国二方郡、須加神社」がある。この地である。次の「すが」もこれだ。三代実録十五に「菅神」とあるのも」これである。「諸」は母呂須久の「もろ」と同じだろう。「男」は字の通りだ。○菅竃《上》由良度美(すがかまゆらどみ)は、【「由」の辞を諸本に「申」と書いているのは誤りだ。ここは真福寺本、延佳本によった。】「竃」も地名だろう。【和名抄に、但馬国二方郡に「久斗郷」はある。】この字の下に「上声」を付けてあるのは、この名は「菅の」とは読まず、「すがかま」と読む名だから、「竃」を去声に読む可能性もあることを考えて、【「すがかま」と続けて読むときは去声になる。】去声ではなく。単に「竃」と言う時のように上声に読めということだ。【これで「菅の」とは読まないことも分かる。「の」と読むときは、「竃」はもとから上声だから、特に注する必要はない。】これは「菅」と「竈」とはべつなので、【「すがかま」と続けては読まない。】「菅」と読んで、「竈由良」と読むべき意味だ。【とすると意味は「菅の竃」ということだ。】「由良」ももとは地名による名か。【この地名、但馬国にもあったのか、尋ねてみるべきだ。和名抄に伯耆国八橋郡、また隠岐国知夫郡に由良の郷がある。知夫郡には延喜式神名帳に由良比女(ゆらひめ)神社もあって、名高い。】「度美」は女の名に多い。「度賣」、「斗辨」などと通って同じか。また「南方刀美(みなかたとみ)」、「美布忍富(みぬのしとみ)」、「大科度美(おおしなどみ)」などはみな男神の名で、「富」の意なのだろうから、これもそれか。母の「灯縺iめひ)」がもし當摩の人であったら、その兄妹も倭に生い立つだろうに、【このことは次に言う。】但馬の地名の「すが」で呼んでいるのは、やはり但馬で育ったのか、または父の本国だから、そう呼ぶ理由があるのか。○上云(かみにいえる)は、【「云」を諸本に「之」と書いてあるのを、ここでは真福寺本、延佳本によっている。】伊邪河の宮の段に「上所謂(かみにいえる)云々」、日代の宮の段に「故上云(かれかみにいえる)云々」などある例によっている。○姪(めい)は、和名抄に「釋名にいわく、兄弟の娘を姪という。爾雅にいわく、いわゆる昆弟(兄と弟)の子を姪というのがこれである。一にいわく、弟の娘を姪という。和名『めい』」とある。○葛城之高額比賣命(かつらぎのたかぬかひめのみこと)は伊邪河の宮の段に出て、その天皇の玄孫である、息長宿禰の妻である。【この比賣が父の国、但馬で生まれたものなら、葛城・高額と倭の地名を名に負ったのは、後に倭に移り住んだからだろう。そのことはかの段で云った。また比多訶も清日子と共に倭に行き通い、この比賣は倭で生まれたのでもあるだろう。母の由良度美も倭にあったかと思われる理由は、前に述べた。息長宿禰王の子、大多牟坂(おおたむさか)の王は多遲摩の国造の祖と、伊邪河の宮の段に見えており、これも但馬国に由縁があることで、そこで言った通りだ。伝廿二の七十四葉、七十六葉を考え合わせよ。】○息長帶比賣命之御祖(おきながたらしひめのみことのみおや)。このことも伊邪河の宮の段に見える。「御祖」とは母親のことである。その例については、上巻で言った。【伝十の八葉】

 

故其天之日矛持渡來物者。玉津寶云而。珠二貫。又振レ浪比禮。<比禮二字以レ音。下效レ此>切レ浪比禮。振レ風比禮。切レ風比禮。又奧津鏡。邊津鏡。并八種也。<此者伊豆志之八前大神也。>

 

訓読:かれそのアメノヒボコのもちわたりきつるものは、タマツタカラといいて、タマふたつら、またナミフルひれ、ナミキルひれ、カゼフルひれ、またオキツカガミ、へつかがみ。あわせてヤクサなり。<こはイズシにヤマエのオオカミなり。>

 

口語訳:その天之日矛が持ち来たったものは、玉津寶といって、珠二貫。また浪振る比禮。浪切る比禮。風振る比禮。風切る比禮。また奧津鏡。邊津鏡。合わせて八種であった。<これは伊豆志の八前の大神である。>

 

持渡來(もちわたりきつる)は、新羅の国からである。○玉津寶(たまつたから)とは、貴く美しい宝ということで、八種を総称して言う。「たま」とは、もとは何物であれ、貴く美しいものを賞めて言う名で、色々なものに「たま某」ということの多いのも、そのものを賞めた名である。【だから「玉」と書くのは借り文字であって、ここもそうだ。初めの珠二貫について言うのでもなく、珠二貫だけを言うのでもない。】珠玉を言うのも、世に貴く、美しいものだから言う。【それを珠玉の名をもととして、それを何もかもに付けて言うものと考えるのは、本末が違っている。またそのものの形が丸いので玉に似たためだということも言えない。丸くないものにもよく言うことである。】○珠二貫(たまふたつら)は、珠の数は多いのを、紐に貫いた形で、二つあるのである。二連というようなものだ。○又というのは、八種のうちで類を別けたのである。次にあるのもそうである。○振浪比禮(なみふるひれ)。「振浪」は「なみふる」と読む。「浪を振る」という意味だ。【だから「振」の字を上に置いている。「〜を〜す」と言うときは、「を」を省いて言うことが多い。「花を見る」、「月を待つ」を「花見る」、「月待つ」というのと同じだ。殊にこれは物の名だから、さらにそう言う。】次にある「切」、「振」もこれに倣う。浪を振るとは、浪を起こすのを言う。それは万葉巻二【十八丁】(131)に「夕羽振流浪社來縁(ゆうはふるなみこそきよれ)」、巻六【四十六丁】(1062)に「朝羽振浪之聲躁(あさはふるなみのとさわぎ)」、巻十一【三十六丁】(2736)に「風緒痛甚振浪能(かぜをいたみいたぶるなみの)」、巻十四【三十二丁】(3550)に「奈美乃保能伊多夫良思毛與(なみのほのいたぶらしもよ)」、巻十七【三十六丁】(3991)に「宇知久知夫利乃之良奈美能安里蘇爾與須流(うちくちぶりのしらなみのありそによする)」、相模国風土記に「鎌倉の見越しの崎ごとに、速浪があって、石を崩す。国人はそれを『いそふり』と言う。石に振るからである」、【万葉巻十四(3364)に「かまくらのみこしのさきのいはくえの」】土佐日記に「いそふりのよする磯には年月をいつともわかぬ雪のみぞふる」などとあるのは、みな波が立つのを「振る」と言っている。これらはみな波がみずから立つのを「振る」と言っているが、波を振ると言えば「立たせる」ということだから、自分で立つことと、他から立たせることの違いもあるけれども、この言は通わせて「ふる」と言っている。【他にも「〜を振る」と言うことは多い。「〜を振らす」とは言わない。】「ひれ」のことは上巻に「蛇の比禮」とあるところ【伝十の卅七葉】で言った。考え合わせよ。ここは浪を起こす比禮で、これを振れば忽ち浪が起こり立つのである。○切浪比禮(なみきるひれ)の「切」は断つことで、浪を断ち静める比禮である。【ただし「切る」というのは、浪の中を切り分ける意味でもあろうか。それなら「静める」というのとは異なる。鳥の羽の「カザキリ(甲+羽)」なども切り分ける意味だ。】○振風比禮(かぜふるひれ)は、風を起こす比禮である。風の吹くのを「振る」ともいう。万葉巻二【十八丁】(131)に「朝羽振風社依米(あさはふるかぜこそよせめ)」とある。いにしえには「ふく」と「ふる」を通わせて言うことが多かった。【前に述べた。】だから普通「風が吹く」と言うのも、「振る」と言うのと同じだ。「振らせる」をも同じく「振る」と言うのも、振浪と同様である。○切風比禮(かぜきるひれ)は、風を止める比禮である。【ただしこれも風を切り分ける意味かも知れない。】和名抄に「カザキリ(甲+羽)は『かざきり』」とある。この四種の比禮の用い方は、それぞれこれを出して振れば、たちまち浪または風が起こりもし、静まりもするのである。海神が火遠理の命に授けた鹽満珠、鹽乾珠と同じような感じである。○奧津鏡・邊津鏡(おきつかがみ・へつかがみ)はどういうわけでその名になったのか、思い付かない。師は「海の中から出た宝の鏡だ」と言った。【四種の比禮に倣って言えば、天日矛は遠い海上を経てやって来たのだから、この八種はみなそのための備えで、海上で役立つ物だったから、この二つの鏡もそういう理由があって、奥・邊の名があるのかも知れない。かの二貫の珠もそういうものかも知れない。書紀に出ている「鵜鹿々赤石玉(うかかあかしたま)」と言う名も、「窺い明し玉」であって、暗い中でもひそかに物を照らす意味ではないかと思うのになずらえてそう考えるのである。】○并八種(あわせてやくさ)。書紀には【垂仁の巻】「三年春3月、新羅の王子、天日槍が来朝した。持ってきた物は、羽太玉(はふとたま)一箇、鵜鹿々赤石玉一箇、出石小刀(いずしがたな)一口、出石桙(いずしほこ)一枝、日鏡(ひかがみ)一面、熊神籬(くまひもろぎ)一具、合わせて七種、すなわち但馬国に置き、常に神宝とした」、また「八十八年秋七月、群卿に詔して、『私は新羅の王子、天日槍が初めてやって来たときに持ってきた物は、今但馬にあると聞いている。初め国人が見て貴んで、神宝とするためであった。私はその宝物を見たいと思う』と言った。そこでその日に使者を遣わして、天日槍の曽孫、清彦に詔を伝えて、献げさせた。ここに清彦は自ら神宝を献げた。羽太玉一箇、足高玉(あしたかたま)一箇、鵜鹿々赤石玉一箇、日鏡一面、熊神籬一具がこれである。小刀一つ、名は『出石』というものは、清彦が奉ることを嫌い、『この刀ならば自分の服の中に隠せる』と思って、自ら服の中に隠し持っていた。天皇はそれを隠し持っていると知らず、清彦に返礼をしようと思い、呼び寄せて酒を与えようとした。その時、刀は着物の内から出て、天皇に見えた。そこで『お前の服の内にある刀は、どんな刀か』と尋ねた。清彦は隠し通せないと思い、『献げた神宝と同類の物でございます』と言った。天皇は清彦に『その神宝が同類ならば、どうして一つだけ離しておけるものか』と言った。そこで取り出して、みな神府(みくら)に収めた。後日宝府(みくら)を開いてみると、小刀は自然に消えていた。使いを清彦の所へやり、『お前の刀は忽然と消えた。お前のもとにありはしないか』と尋ねさせると、清彦は『昨夕、その刀が自然に私の家にやって来ましたが、朝にはまた消えていました』と言った。天皇はかしこんで、もうそれ以上求めようとはしなかった。後にこの出石の刀は淡路島に現れた。その島の人々は『神だ』と言い、祠を建てて祀った。これは今も祀ってある」とある。【「羽太」、「足高」などは形状によった名だろう。「熊神籬」は考えがあって、別に記している。「出石」は地名によって呼んだ名だ。】しかしながら、この神宝とこの記の八種とは、数も合わず名もみな違っていて、物も多くは同じでない、三年のところの一つの伝えであるのは、【その文は前に引いた。】数は八種だが、それもみな違っている。そこでつらつら考えるに、ここに挙げた八種と、書紀にあるものとはみな別物だろう。それは初め新羅から持ち来たった物は、種々多くあっただろうに、ここの八種は特別重要な宝物だったために、出石の大神として祭祀したので、その社の御霊代であったから、倭へ召して見るべきものではない。だから清彦が献げたのは、この八種以外のものだったのだろう。【なおそう思われる理由は、京へ召した宝物は「みな神府に収めた」とあるから、倭にとどまって、但馬には還らなかった。これは出石の大神ではなかった証拠である。その物は、石上の神庫にでも納まったのだろう。また例の小刀は、淡路島で神として祀ったとあるから、これもまた出石の大神のたぐいでないことは明らかだ。淡路にこの神は、書物などに出ていない。ただ和名抄に「津名郡、都志(つし)」という郷の名があり、これは「出石」の意味ではないだろうか。ところでもう一つの伝えの方には、これらの神宝を「貢献した」とあり、これまた出石の大神でないことの証拠である。また書紀には出石の大神のことは一切見えない。出石の小刀を淡路島に祀ったことが記されたほどだから、これらの宝物が出石の大神だったら、そのことも記されないはずはない。記されないのは、これらが出石の社の御霊代ではなかったからだろう。だから一つの伝えの方の数がこの記と同じく八種になっているのは、いささかまぎらわしいが、それは出石の大神として祀られている宝の数が八種なのにまぎれて、かの貢献した宝の数も八種と言い伝え、その数を取り繕って語り伝えたのでもあろう。】○伊豆志之八前大神(いずしのやまえのおおかみ)。「出石」は和名抄に「但馬国、出石【いずし】郡、出石郷」とあるところだ。名の意味は、このあたりの山から不思議な石が出るというから、それに因むのだろう。【その山は「石山」といって高い山であるが、そのほとりに大きな洞窟があって、石はその洞窟の奥から出る。その石の不思議なことは、形が自然と方形を成していて、石作りの作ったようである。大小・長短・厚薄、変わりはあるけれどもことごとく方形で、丸いものは一つも混じらず、色は薄ねずみ色で、きめ細かい。その数は限りないという。だから「出石」というのはその石から起こった名と思われる。それを書紀に見える「出石刀」、「出石槍」の名から起こったというのは、本末が違っている。刀の名などはこの地名によった名である。和名抄に「備前国御野郡、出石郷」という地名があるのは、ここに由縁があってその名になったのだろう。】書紀の一つの伝えに「出嶋」とあるのもこの地だろう。大神は延喜式神名帳に「但馬国出石郡、伊豆志坐(いずしにます)神社八座【ならびに名神大】がそれである。続日本後紀十五に「承和二年七月、但馬国出石郡の无位、出石神に従五位下を授けた。国司らの解状によってである」、三代実録十五に、「貞観十年十二月、但馬国従五位上、出石神に正五位下を授けた」、廿五に「同十六年三月、但馬国正五位下、出石神に正五位上を授けた」、【日本紀略に「貞観元年二月廿五日、諸卿が定めて言うには、『但馬国が出石大社に烏、鵲が集まっています。古老のいわく、国内第一の霊社であって、烏、雀、蚊、虻などは入ったことがないということです』。そこで占卜が行われた」】とあり、古語拾遺に「巻向の玉城の朝に・・・この御世に新羅の王子海檜槍(あまのひぼこ)が来朝した。いま但馬国出石郡にあって大社となっている」とあるのはどうだろう。【この大社は延喜式神名帳にも八座とあって、この八種の神宝を祀っていることは確かなのに、海檜槍を祀っているように言ったのは誤りだろう。それは延喜式神名帳に同郡に「御出石神社、名神大」とあり、これは天日矛を祀った社であろう。これを大社と取り違えたのではないだろうか。またある説に、この大社を彦火々出見尊を祀ると言うのも納得できない。またある人は、出石の大社に今は八種の神宝は一つも伝わっていないと言う。実にそうでもあろうか。多くの年月を経た間に、火災などで焼け失せたのだろうか。また戦乱にあって失せたのだろうか。また思うに、これはその社の御霊代で、人の見るようなものではないので、それを知らず、八種の宝は別にあるように思って、別にはないのをそう言っているかも知れない。なお調べる必要がある。】源重之集に、「ちはやぶる出石の宮の神の駒ゆめな乗りそや祟りもぞする」。「八前」は上巻に「墨の江の三前の大神」とあるたぐいだ。【伝六の七十一葉】

 

故茲神之女名伊豆志袁登賣神坐也。故八十神雖レ欲レ得2是伊豆志袁登賣1。皆不2得婚1。於レ是有2二神1。兄號2秋山之下氷壯夫1。弟名2春山之霞壯夫1。故其兄謂2其弟1。吾雖レ乞2伊豆志袁登賣1。不2得婚1。汝得2此孃子1乎。答=曰2易得1也。爾其兄曰。若汝有レ得2此孃子1者。避2上下衣服1。量2身高1而釀2甕酒1。亦山河之物悉備設。爲2宇禮豆玖1云爾。<自レ宇至レ玖以レ音。下效レ此。>爾其弟。如2兄言1具白2其母1。即其母。取2布遲葛1而。<布遲二字以レ音>一宿之間。織=縫2衣褌及襪沓1。亦作2弓矢1。令レ服2其衣褌等1。令レ取2其弓矢1。遣2其孃子之家1者。其衣服及弓矢。悉成2藤花1。於レ是其春山之霞壯夫。以2其弓矢1繋2孃子之厠1。爾伊豆志袁登賣思レ異2其花1。將來之時。立2其孃子之後1入2其屋1。即婚。故生2一子1也。爾白2其兄1曰。吾者得2伊豆志袁登賣1。於レ是其兄。慷=愾2弟之婚1以。不レ償2其宇禮豆玖之物1。爾愁白2其母1之時。御祖答曰。我御世之事。能許曾<此二字以レ音>神習。又宇都志岐青人草習乎。不レ償2其物1。恨2其兄子1。乃取2其伊豆志河之河嶋之節竹1而。作2八目之荒籠1。取2其河石1。合レ鹽而。裹2其竹葉1。令レ詛言。如2此竹葉青1。如2此竹葉萎1而。青萎。又如2此鹽之盈乾1而。盈乾。又如2此石之沈1而。沈臥。如レ此令レ詛置レ於2烟上1。是以其兄八年之間于萎病枯。故其兄患泣。請2其御祖1者。即令レ返2其詛戸1。於レ是其身如レ本以安平也。<此者神宇禮豆玖之言本者也。>

 

訓読:かれこのカミのみむすめナはイズシオトメのカミませり。かれヤソカミこのイズシオトメをえんとすれども、みなエえず。ここにふたりのカミあり。アニをアキヤマのシタビオトコといい、オトをハルヤマのカスミオトコとぞいいける。かれそのアニそのオトにいいけらくは、「われイズシオトメをこえども、エえず。イマシこのオトメをえてんや」といえば、「やすくえん」という。ここにそのアニのいわく、「もしイマシこのオトメをえてあらば、かみしものキモノをさり、タケをはかりてミカにさけをかみ、またヤマカワのものをことごとくそなえまけて、ウレヅクをこそせめ」という。ここにそのオト、アニのいえるごとツブサにそのハハにもうせば、すなわちそのハハ、フジヅラをとりて、ひとよのあいだに、キヌ・ハカマ・クツ・シタグツまでおりぬい、またユミヤをつくりて、そのキヌ・ハカマをきせ、そのユミヤをとらせて、そのオトメのいえにやりしかば、そのキモノもユミヤもことごとにフジのハナとぞなれりける。ここにそのハルヤマのカスミオトコ、そのユミヤをオトメのかわやにかけたるを、イズシオトメそのハナをあやしとおもいて、もちくるときに、そのオトメのしりにたちてそのヤにいりて、すなわちマグワイしつ。かれコひとりうみたりき。ここにそのアニに「アはイズシオトメをえたり」という。ここにそのアニい、オトのえつることをうれたみて、かのウレヅクのものをつぐのわず。かれそのハハにうれいもうすときに、みおやのいえらく、「わがみよのこと、よくこそカミならわめ。またうつしきアオヒトクサならえや。そのものつぐのわぬ」といいて、そのアニなるこをうらみて、すなわちそのイズシガワのカワシマのよだけをとりて、ヤツメのアラコをつくり、そのかわのイシをとり、シオにあえて、そのたけのはにつつみ、トコイいわしめけらく、「このタカバのあおむがごと、このタカバのしぼむがごと、あおみしぼめ。またこのシオのミチヒルがごと、みちひよ。またこのイシのしずむがごと、しずみこやせ」。かくとこいてカマドのうえにおかしめき。ここをもてそのアニやとせのあいだカワキしぼみヤミこやしき。そのアニうれいなきて、そのミオヤにこえば、すなわちそのトコイドをかえさしめき。ここのそのミもとのごとくにたいらぎき。<こはかみウレヅクということのもとなり。>

 

口語訳:この神の娘に伊豆志袁登賣という神がいた。八十神がこの乙女を得ようとしたが、みな得ることができなかった。ここに二人の神がいて、兄を秋山之下氷壯夫、弟を春山之霞壯夫といった。兄は弟に、「私は伊豆志袁登賣を得ようとしたが、得ることができなかった。お前はこの乙女を得られるか」と言ったところ、「たやすく得られるでしょう」と言う。そこで兄の神は「お前がこの乙女を得たなら、上下の着物を脱ぎ、丈を計って甕に酒を醸し、また山川のものをことごとく準備し備えて、宇禮豆玖をしよう」と言った。そこでその弟は、兄の言ったことを詳しく母に語った。母は布遲葛を取って、一晩の間に衣・褌・襪・沓までも織り縫い、また弓矢を造った。その衣や褌を着せ、弓矢を持たせて、その乙女の家に遣ったところ、着物も弓矢もことごとく藤の花になった。そこで春山之霞壯夫は、弓矢を乙女の厠に掛けておいた。伊豆志袁登賣はその花を奇妙だと思って、持って来たとき、その乙女の尻にくっついて、その家に入り、性交した。そこで子を一人生んだ。その兄に「私は伊豆志袁登賣を手に入れたよ」と言った。兄は弟が乙女を得たことをやっかんで、宇禮豆玖のものを償わなかった。そこでその母に憂いて言ったら、「わが御世のことに、神習えば、よかったのに。宇都志岐青人草に習ったのだろうか。そのもの償わぬ」と言って、兄の子を恨んで、その伊豆志河の河嶋の節竹をとり、八目の荒籠を作り、その河の石を取り、塩にあえて、竹の葉に包み、呪詛して「この竹葉の青むように、この竹葉の萎むように、青み萎め。またこの塩の満ち干るように、満ち干よ。この石の沈むように、沈み臥せよ」。こう呪詛して、竈の上に置かせた。このため、兄は八年の間に干き、萎み、病み、枯れた。その兄憂い泣いて、母に頼んだので、その詛戸を返させた。ここでその身はすっかりもとのようになった。<これは神宇禮豆玖ということの本である。>

 

茲神(このかみ)とは前の伊豆志大神を指して言う。【伊豆志大神と言うことは、細注で、本文には見えないが、こういう細注は註でなく、本文である。その理由は前に言った。】その娘というのは、伊豆志大社の御霊が、仮に生身の人間の男になって、婦人に出会って生んだ子である。【こういうことを生賢しい儒者などは疑うのであるが、】上代にはそういう例が往々あったことで、白檮原の宮の段で、美和の大物主神が、現身の男になって勢夜陀多良比賣(せやだたらひめ)と交わり、伊須氣余理比賣(いすけよりひめ)を生んだのと同類だ。さらにそこで言ったことを考え合わせよ。【伝二十の八葉】○伊豆志袁登賣神(いずしおとめのかみ)。名は地名による。この名に「神」とあり、【師は「神」の上に字が落ちたのだろうと言ったが、そうではないだろう。】この段の故事が神代めいて聞こえるのは、非常に上代のことと思われる。【これを以ても、天日矛の来朝は非常に上代のことと分かる。】○八十神(やそかみ)とは、八十もの多くの、という意味である。上巻に「大國主神の兄弟八十神」とあるのと同じだ。【伝十の一葉】ここは当時の人々を「神」と言ったのは、【神の御霊を言うのではない。】上記の伊豆志袁登賣を「神」と言ったのと同じで、上代に於いてはいろいろなことが神代のようだったので、神と語り伝えたのである。○雖欲得(えんとすれども)。この乙女は神の御子だったから、世にすぐれて美麗だったのだろう。それで八十神が競って得ようとしたのである。万葉巻二(95)に、「吾者毛也安見兒得有皆人乃得難爾爲云安見兒衣多利(われはもややすみこえたりみなひとのえがてにすとうやすみこえたり)」とある。○不得婚は「ええず」と読む。【「ええず」という言葉の由縁は前に述べた。】次にあるのも同じ。これは前に「雖欲得」と言い、次にも「易得(やすくえてん)」とあることから、必ずそう読むところである。【「婚」の字は、意味から書いただけである。】○二神は「ふたりのかみ」と読む。【神に「ふたり」というのはどうかと思われるだろうが、「ふたはしらの」とは言うべきでないからだ。】これは八十神という内なのか、またはその他を言うのか、どちらでもあるだろう。【八十神は「みなえ得ず」とあるからには、そのうちには含まれないとも言えるが、八十と言うほどの数多の神の中に、ただ一人が得たからと言って、「みなえ得ず」と言えないわけでもないだろうから、八十神のうちに含まれると考えても問題はない。また八十神と言ったのは、得られなかった人々と見て、その他としても良い。】ここで兄弟と言わなかったのは、次に「御兄・・・弟・・・」とあり、自然に兄弟と聞こえるから省いたのである。○秋山之下氷壯夫(あきやまのしたびおとこ)は、「下氷」は【字は借字で、】木々の紅葉した秋山の色を言う。それは万葉巻二【四十丁】(217)に「秋山下部留妹(あきやまのしたぶるいも)」、【「ぶる」を「べる」と読むのは間違いである。】巻十【五十丁】(2239)に「金山舌日下(あきやまのしたびがした)」などあるのを、「秋山の紅葉の色だ」と師が言ったのがそうである。この言のもとの意味は「朝備(あしたび)」ということで、【「ぶ」は「ぶる」と活用する言葉である。だから「したぶる」とも言う。】秋山の色の紅葉に丹穂(にお)うように赤根さす朝の天のようなという意味だ。【万葉巻十一に「朱引朝(あからひくあさ)」ともあって、朝の天は赤いものだ。】ところで境原乃宮の段に、山下影比賣という人名、【書紀の孝霊の巻に、眞舌媛(ましたひめ)とあるのも、山下の「や」を省いたのだろうか。】また万葉巻十五【二十七丁】(3700)に「安之比奇能山下比可流毛美知葉能(あしひきのやましたひかるもみじばの)」、巻六【四十四丁】(1053)に「鶯(正字は貝二つの下に鳥)乃來鳴春部者巖者山下輝錦成花咲乎呼里(うぐいすのきなくはるべはいわおにはやましたひかりにしきなすはなさきをおり)」。巻三【十九丁】(270)に「客爲而物戀敷爾山下赤乃曾保船奥榜(てへん+傍のへん)行見(たびにしてものこいしきにやましたのあけのそほぶねおきへこぐゆみ)」、これらの山下もみな秋山之下氷と同言で、山朝備(やまあしたび)なのを「び」を省いて言ったのだ。【上記のうち、「影」に続いているのは、輝く意味だ。「かげ」、「かがやく」、「かがよう」、「かげろう」などはみな同言の活用である。「光る」に続くのも同じだ。みな秋山の紅葉の照り輝くのを言う。「鶯乃云々」の歌は春に詠んでいるが、それは単に「錦なす」の序であって、歌の意味には関係ない。秋山の紅葉の錦のようなという意味の続けである。これは春の花を詠んだ歌だから、紅葉の序はどうかと思う人もあるだろうが、序の言葉は歌の意味には関わらないもので、「女郎花(おみなへし)咲野(さきぬ)に生(おふ)る白つゝじ」などもあるようなものだ。これらの歌などを見ると、山下を字の通りに考えては、「下」というのが無用である。よく味わって、借字だと言うことを悟るべきだ。「赤の曾保船」と続いているのも「赤」の枕詞で同じだ。それは「やまのした」とも読める。それを「やまのもと」と読んで、その地の様子と考えてきたのは誤りだ。それでは「奥へ榜ぐ」とあるのに合わないだろう。】上記の「下部留妹」、「山下影比賣」など、みな美しい顔色を賞めて言うのだから、これ【下氷壯夫】も秋山の色の美しいので称えた名である。【それを師の冠辞考で、弟の詛言(とこいごと)によって、「『干萎病枯(ひしたなびやみしおれつ)』とあるのは、『秋山の萎び男』と言うのだ。『したび』は『しなび』である。万葉に『下部留妹』とあるのも『しなぶる』という意味だ。秋の木の葉は、萎び落ちようとするときになって赤みが出てくるものだから、転じて色付くこととした。下氷壯夫はただ枯れる方に言ったのを、万葉では色づく方に取っている。このように転用して言うことは普通のことである」と言ったのは違っている。意を転用するのもことによる。女の紅顔を賞めるのに、萎めるとはどうして言うだろうか。この下氷壯夫と言うのも、かの「干萎云々」のことを言うのではない。夢にもかの詛言と混同してはならない。「下部留」、「舌日」を契沖が「しなえる」だと言ったのも良くない。それは師が区別した通りだ。またある人が「下乾」の意味だと言ったのも合わない。】○春山之霞壯夫(はるやまのかすみおとこ)は、春の山ののどかに霞んだ景色の美しさを言って称えた名である。この兄弟の名は、万葉巻十三【五丁】(3234)に「春山之四名比盛而秋山之色名付思吉百磯城之大宮人者(はるやまのしないさかえてあきやまのいろなつかしきももしきのおおみやびとは)」などあるように、春と秋の山の景色をもって称えたのである。和名抄に「唐韻にいわく、霞は赤気の雲である。和名『かすみ』」とあり、赤みがかった色の意味だ。霞んだ空は、朝日夕日の輝いて赤いものだから言うのだろう。【すべてが赤いわけではないけれども、朝夕の日に輝いて見えるから言う名だろう。「霞」の時を当てたのもその意味だ。字書に「東方赤也」とも注している。】但馬国美含郡に「香住【かすみ】郷」がある。この人に由縁があるのだろうか。○「雖レ乞(こえども)」は「恋したけれども」である。【この言は、後には「こい」、「こう」、「こうる」、「こうれ」と活用して、「こえども」などと活用することはないけれども、もとは「乞う」と同言で、「こわん」、「こい」、「こう」、「こえ」と活用したのではないだろうか。後にも「こい」とは言う。】または母に乞うたのではなかろうか。下巻高津の宮の段に「天皇はその弟、速総別王を媒として、庶妹の女鳥王を乞うた」とあるのも、二通りに聞こえる。○上下衣服は「かみしものきもの」と読む。鎭御魂齋戸祭の祝詞に「奉御衣波上下備奉弖(たてまつるみそはかみしもそなえまつりて)」とあるのと同じ。上とは衣を言い、下とは袴を言う。【師の祝詞考には、「古事記に伊邪那岐の命の禊ぎに御衣・御裳の神がある。だから下というのは御裳を言うのだろう」とあったが、そうではない。男の裳は、上に着るものではない。かの禊ぎの段に言うように、下裳のことだから、衣に対して言い立てるほどのものではない。あの禊ぎのところでは、身に着ける限りのものを挙げたのだから、御裳もあったけれども、単に上下と言っただけの下をどうして裳としようか。袴こそ上に着るものの下の服である。ただし上下の衣服という中には、帯や下裳などもその内に入っているとはすべきだろう。】後にも吉部秘訓に「白の両面の上下を着す」、「赤の両面の上下を着す」などが見え、その他の書物にも「浅黄の上下」、「赤色の上下」などと言うことが多い。みな上とは狩衣、直垂、素襖(すあお)など、何にせよ上に着るものを言い、下とは袴を言う。【上も下も同一色で一具であるのを何色の上下と言う。今の世に上下という服があるのも、下とは袴のことである。】○避(さる)は「避レ國」などという「避」で、自分の着ている服を脱いで弟に渡そうというのである。【脱ぎ去って裸体になるのを言うのではない。】○身高(みたけ)。「高」は師が「たけ」と読んだのが良い。「高さ」ということだ。万葉に山の嵩を「高」と書いてある。【「嵩」というのも高いという意味の名だ。また「竹」も長高く、立ち延びている故の名である。】○釀甕酒は「みかにさけをかみ」と読む。【そうならばこの記の文の例では「於レ甕醸レ酒」と書くべきところであり、漢文の書き方で言えば「醸2酒甕1」と書いて、「さけをみかにかみ」と読むべきだ。ところが「みかにさけを」と言うのに、「甕酒」と書くのはどうかとも言えるが、すべて記中この字を於いた例は、漢文に関わらず、また必ず一つの例に決まったこともないので、字の置き方にこだわるべきではない。ともかく語の意味をよく考えて読むべきだ。師は「みかのきを」と読んだが、甕にある酒を指して言うならそれも良いが、酒を醸すことをどうしてそう言うだろうか。】また「酒」は「き」とも読める。酒を甕に醸すのは普通のことなのに、ことさらに「甕に」と言ったのは、「身の丈を計って」ということを確かにするためである。それは「身の丈を計り」というのは、その酒を甕に湛える深さを言うからである。だから単に「醸レ酒」とだけ言ったのでは、確かでないから「甕に」と言ったのだ。甕は「酒を醸すかめ」であって、和名抄には「本朝式にいわく、チョウ(瓦+長)は『みか』、辨色立成にいわく、大甕は和名同上」、また「甕は和名『もたい』」とあるが、【「もたい」という名は古くはどんな書物にも見えない。】新撰字鏡に「甕は『みか』」とあって、古い書物には、この字はみな「みか」に用いている。ここは人の身長まで酒を醸すのだから、高く大きな甕である。諸々の祝詞に「甕上高知(みかのえたかしり)」とあるのも、高い形を言う。これはこうして弟に与えようというのである。○山河之物(やまかわのもの)は、山野・河海から出る種々の物を言う。野と海を言わないのは、野を山に含め、海を河に含めて言わなかっただけだ。諸々の祝詞に「大野原爾生物者甘菜辛菜、青海原住物者鰭能廣物鰭能狹物奥津藻菜邊津藻菜爾至弖爾(おおぬばらにおいるものはあまな・からな、あおうなばらにすむものははたのひろもの・はたのさものおきつもはへつもはにいたるまでに)」とも、「山野物者甘菜辛菜爾至麻弖(やまぬものはあまな・からなにいたるまで)」とも、「山爾住物者毛能和物毛能麁物大野原生物者(やまにすむものはけのにこもの・けのあらものおおぬはらにおうるものは)」とも互いに省いて言うようなものだ。【祝詞には、互いに省いて、山野海を言って河のものを言ったのは見えないが、それも省いたのである。】○宇禮豆玖(うれづく)。「宇禮」は上巻の八千矛神の歌に「宇禮多久(うれたく)」とある言葉で、そこ【伝十一の十四葉】に言ったように、書紀に「慨哉(うれたきかな)」と見え、万葉にもこの言がある。書紀の欽明の巻に「慨然」を「うれたく」と読んでいる。【また「慷憤」を「ねたむ」、「慷慨」を「ねたむ」とも「はげむ」とも読んでいるのも意味は同じだ。】すなわち下文に「其兄慷愾」とあるのがそうだ。「豆玖」は今の世に言う「賭けづく」である。【これを今の京の人は「かけろく」と言う。「ろく」は「禄」の意味か。それも分からなくはないが、「かけづく」というのこそ古言に合っている。】宇津保物語の初秋の巻に【仲忠が帝と碁を打って負けるところに】「上興(うけ)ありとおぼしめして早う賭物豆玖(のりものづく)のことはと仰せらる。・・・仲忠身に堪(たへ)ぬべき事ならば仕奉り、堪ぬ事ならば其由(そのよし)をこそ奏し侍らめ」、【碁に破れた償いの事をせよと仰せられたのである。】遊仙窟に「賭酒(さかづくをうたん)」、また「賭宿(ねづくをうたん)」とある。契沖は「豆玖」は「つぐのい」の略語だと言った。そうもあるだろうか。下文に「その宇禮豆玖のものを償わなかった」とある。【「償う」は普通「つ」を清んで読み、「ぐ」を濁って言うのを、「何づく」と言うのは、上に続く言葉があるので、「つ」を濁って言い、返って「ぐ」は清んで読むいにしえの音便で、そういう例は他にもある。今の世の俗言に「銭金づく」などという言葉もあり、これらもみな「づく」の意味から転じたのである。】するとここの「うれづく」は、この乙女を弟が「易く得られる」と言ったのを慷慨してする「づく」で、「もしお前がこの乙女を得たならば、かくかくの賭け物をお前に与えよう。もし得られなかったら、その賭け物を私に与えよ」ということだろう。○云爾は「いう」と読む。【爾の字は読まない。記中に例のない書き方である。】○其母は弟の母で、兄は異腹のように聞こえる。○布遲葛(ふじづら)は、下文に「藤の花になった」とあるから、藤の葛である。葛は蔓で、今言う「つる」だ。「づら」と読む。このことは前に言った。【伝六の十九葉】○褌は袴だ。【記中、袴を褌と書いている。】○襪沓は「くつしたぐつ」と読む。【字のままに「襪」を先に読むのは不当である。】和名抄に「履唐韻(履氏の唐韻か)にいわく、草で作るのをヒ(尸に非)と言い、麻で作るのをク(尸にぎょうにんべん+婁)と言い、革で作るのを履と言う。和名すべて『くつ』、鞜の字を用いるのは、音は沓」とある。【「沓」の字には「くつ」の意味はないが、この字を用いるのは、例の偏を省いたので、鞜の字であろう。】この他「くつ」のたぐいはたくさんある。同書に「説文にいわく、襪は足の衣である。字はまた韈とも書く。和名『したぐつ』」と見え、新撰字鏡に「韈は襪である。『したぐつ』」とある。沓の下に履く沓という意味の名である。【「したうづ」と言うのは後の音便である。】こうして沓襪までと言ったので、身に着る服もすべてを含めたのだろう。着物のことを「及襪沓」とつぶさに言ったのは、あるいは弟がこの「宇禮豆玖」に負けた場合、兄に償うつもりだったのではあるまいか。【そうでなければ、襪沓まで作ったことは、言わなくても良いだろう。】しかしこれは、必ずそうだとも決められない。○衣褌等(きぬはかまら)。「等」と言って襪沓のことも含めている。「等」は後に「など」というようなもので、【「など」は「何となる」を音便で「なん」と言い、またその「ん」を省いて「など」と言うのである。】正しくその指示したものを言うのでなく、他もあることを言う言葉だ。万葉巻五【三十八丁】(900)に「シ(糸+施のつくり)綿良波母(きぬわたらはも)」。○令取(とらせ)は執らせたのである。○遣(やる)は霞壯夫を遣ったのである。○衣服(きもの)は衣・褌・襪・沓などを総称して言う。○藤花(ふじのはな)は、和名抄に「藤は和名『ふじ』」とある。○成(なる)は化したのである。衣服は藤葛で織ったものだから、藤に縁があるが、弓矢は藤とは縁がない。しかしその形は藤の花のしない(しなだれた形)に似たものだから、こうなったのだろう。○春山之霞壯夫。上にはみな弟とのみ言って、名を挙げなかったのを、ここで名を挙げているのは、上では兄に対して言っていたのが、ここではそうでないからである。○其弓矢(そのゆみや)は、藤の花に化した弓矢である。【すでに藤の花になったなら、弓矢とは言わないだろう。直接藤の花と言うべきだが、そう言っては衣服も藤の花になったから、区別が付かないから、弓矢の化した方を指し示すためにこう言った。】○厠(かわや)は前に出た。厠とだけ言って、そこに【乙女が】入ったことを省き、自然とそう聞こえるのも、文の美しさである。○繋は「掛け」である。○其花(そのはな)は弓矢がなった藤の花である。前には「弓矢」と言い、ここでは「花」と言って、互いに相照らしてそのことを知る、いにしえの文が如何にめでたいことか。○「思レ異(あやしとおもいて)」は、藤の花の咲く季節でなかったのか。またそういう季節だったとしても、厠の中にあるのは怪しいだろう。○將來(もちくる)は屋の内へと持ち帰ったのだ。○「立2其孃子之後1(そのおとめのしりにたちて)云々」。こうしたのでは弓矢が藤の花になったことは、無用のことだったように聞こえるだろうが、【乙女の厠から帰るときに、後ろに立って入るには、藤の花はなくても良いからである。】そうではない。前に衣服もことごとく藤の花になったとあるのは、ここの用である。というのは、衣・袴・沓などがみな藤の花になったから、身はそれに隠れて見えない。単に藤の花のみのように見えるので、乙女には人があって後ろに立ってくることが分からず、厠にあった同じ種類の花と思って、再びは怪しまなかったのだ。とすると弓矢が花になったのも、ここに至って用があったことになるだろう。こうして乙女の屋の内に入ることができたのは、母の初めからの計略だったのだろう。【白檮原の段に「大物主神が丹塗りの矢になって、勢夜陀多良比賣の厠に入ったとき云々」の故事とやや似ている。伝廿の巻にある。考え合わせよ。】白檮原の宮の段に「その八咫烏の後ろについて行けば」とある。○一子は「こひとり」と読む。【師は二字を「こ」と読んだが、それでも良い。】○慷愾は「うれたみて」と読む。この言は前【宇禮豆玖とあるところ】に言った。【字書に「慷」は「意気は感激して不平である」、「愾」は「恨み怒る」とも「大息である」ともある。】下巻の穴穂の宮の段にも「慷愾忿怒」とある。○宇禮豆玖之物(うれづくのもの)は、上に上げた上下の衣服、山河のものまでの種々のものを言う。○償は「つぐのう」と読む。新撰字鏡には「タイ?(にんべんに貳)は『つぐのう』」とある。この解はどうか。「つぐ」は「給(つ)ぐ」であろう。「のう」は付けて言う辞で、「ととのう」などの「のう」である。【「うらなう」、「あきなう」などと「なう」を付けて言う言葉は多いが、「のう」と言うのは少ない。「償」の字は、「値をかえす」とも「報酬である」とも注されている。】○愁(うれい)は、霞壯夫の愁いである。○御祖(みおや)は母である。母を御祖というのは、上代の例で、記中に多い。【ただしこの母は、前には母とだけあったのを、ここに至って御祖と言ったのは、子について言うのと、その人について言うのとの違いかとも思ったが、下文には子についても御祖とある。どういう理由によるのだろうか。】○我御世之事(わがみよのこと)とは、自分が世にある間を言う、すべて人がこの世にある間を「世」と言っている。あるいはこれは世嗣ぎの「世」で、自分の子のことをいったのだろうか。いずれにせよ、自分で「御」といったのは、凡人には似つかわしくないが、この段はすべて神代の様子に語り伝えたのだ。【母を御祖と言ったのもこのたぐいだろう。】○能許曾(よくこそ)【「曾」の字は、諸本に「男」と書いているのは誤りだ。ここは真福寺本、延佳本によった。】「能」は「よく何々せよ」と普通に言う【漢文にも「能何々す」と言う。】意味である。「許曾」は辞である。○神習は「かみならわめ」と師の読んだのが良い。「よく神のしわざをこそ習え」という意味である。○宇都志岐青人草(うつしきあおひとくさ)は、上巻に出た。【伝六の廿四葉】○習乎は「ならえや」と読む。【「ならうや」とよんでは、古言にならない。】「習うのだろうか」の意味だ。○「不レ償」はの「不」は「ぬ」と読む。前の「ヘヤ」の結尾だからだ。【「ず」と読むと、「ヘヤ」の結びにならない。】この辞の例は、万葉巻四(591)に「吾念乎人爾令知哉玉匣開阿氣津跡夢西所見(わがもうひとにしらせやたまくしげひらきあけつといめにみゆ)」。【「しらすや」と読むのは間違いである。「しらせるのだろうか」の意味だ。】また(490)「心由毛思哉妹之伊目爾之所見(こころゆもおもえやいもがいめにしみゆる)」、【「思うのだろうか」の意味だ。】巻六(961)に「妹爾戀哉時不定鳴(いもにこうれやときわかずなく)」、【「恋しく思うのだろうか」の意味だ。】巻九(1682)に「常之倍爾夏冬徃哉裘扇不放山住人(とこしえになつふゆゆけやかわごろもおうぎはなたぬやまにすむひと)」、【「行くのだろうか」の意味だ。「不」は「ぬ」と読む。】巻十二(2925)に「乳飲哉君之於毛求覧(ちのめやきみがおももとむらん)」。【「乳飲むのだろうか」の意味だ。】これらの辞で知るべきだ。【万葉集にはさらに多い。それを今の本では訓を誤っていることが多い。】この語の全体の意味は、我が世のことは何事も神の仕業をならうべきことである。ところがその兄の子は、神にならわず、青人草の仕業をならったのだろうか。償うべきものを償わなかったということである。それは師の言ったように「神はまっすぐな心を持っているので、契約を違えることはないのを、それには習わず、青人草のまっすぐでない心を習って、契約を違えたのを恨んだのである」ということだ。【そもそも上代には、青人もみなまっすぐな心を持っていたのに、それをまっすぐでないとはどうして言うだろうかという疑問もあるが、そうではない。上代には青人草といえども、後代に比べればたいへんに素直だったのである。しかし神は特別にまっすぐな心を持っていたので、それに比べると凡人はまっすぐでなかったのだ。】○兄子は「あになるこ」と読む。【このことは前に伝卅二の十八葉で言った。】下氷壯夫のことだ。これは異腹だが、「ままこ」だから子と言ったのだろう。○其伊豆志河(そのいずしがわ)。「其」とは「そのところ」という意味だ。この川は、今の世にも伊豆志川という川である。○河嶋(かわしま)は、河中にある嶋である。○之節竹(のよだけ)は、諸本に「之」の字を「一」と書いている。ここは真福寺本によった。これはどちらがいいか、決められないが、書紀の継体の巻の歌に「以矩美娜開余嚢開(いくみだけよだけ)」という語があるので、取りあえず「よだけ」とある方を取った。しかし「一節竹(ひとよだけ)」というのも悪くはない。節竹とは、竹は節があるもので、単に竹を言っているのか、竹を使うときの名で、節の間を切って用いるのを言うのか。【書紀の歌も琴に作り、笛に作りとあるから、使うときの名である。ここも籠に作るのを言うところである。河嶋の節竹を取り、とあるのは、初めから一種の竹を言うように聞こえるけれども、取って使うのであるから差し支えはない。】また一節竹とある方を採用するなら、一節の間を切るのだろう。【契沖が書紀の歌の注に、「『よだけ』は『いくみ竹』の四長か。一節を『一たけ』とも言って、四節を言ったのか」と言ったのは疑問である。「いくみ竹のよだけ」と言ったのではない。「よだけ」と言ったのがつまりは「いくみ竹」のことで、一つのものをこのように二つに言ったのは、古歌では普通のことだ。また師は「なよ竹」の略かと言ったが、あまり良いとは思えない。】和名抄に「野王が考えるに、節は竹の中の隔てであって、通っていない。和名『ふし』」、また「両節の間を俗に『よ』と言う」とある。とすると、「よ」は節と節の間であるが、いにしえから通わせて、それも「節」と書くのが普通である。○八目之荒籠(やつめのあらこ)。「籠」は「こ」と読む。【こうあるといつも「かたま」と読むと思うのは、片手落ちの見解である。】和名抄に「籠は和名『こ』」とある。万葉巻十四【十八丁】(3444)に「伎波都久乃乎加能久君美良和禮都賣杼故爾毛乃多奈布西奈等都麻佐禰(キワツクのおかのくくみらわれつめどこにもみたなうせなとつまさね)」【師のいわく、第四句は「籠にも満た無う」である。「乃」の字は誤りだろう。】巻四(487)、巻十一(2710)に「鳥籠之山(とこのやま)」、【いにしえに「籠」を「こ」と読んだからこそこう書く。】これらでいにしえの名は「こ」であると分かる。なお上巻の「无間勝間(まなしかつま)」のところで言ったことも考え合わせよ。【伝十七の十一葉】「荒」とは目が荒いのを言う。書紀の神代巻に「大目の麁籠」というのも見える。「八目」は少し疑わしい。それは、「八」とはおおよそ十に足りない程度の数を言い、籠の目は「八十目」などと言うのがふさわしく、「八」はその数に合わない。あるいは「八」の字は「大」を誤ったのではないか。書紀にもそういう名があるからである。【「八目鳴鏑」などは、「八目」と言うのがよく当たっている。】○鹽(しお)は、和名抄に「陶隠居のいわく、鹽に九種ある。白鹽は普通人が食べるものである。崔禹錫の食経にいわく、石鹽、一名白鹽、また黒鹽がある。『しお』、日本紀私記にいわく、堅鹽」【古い本にこうある。印本はこれと違う。】○合は、「あえて」と読む。「あえ」は「あわせ」の縮まった形である。【朝倉の宮の段の歌に、「尾行令合」を「おゆきあえ」と読むようなことである。】「鹽に合え」というのは、和名抄に「四聲字苑にいわく、韲は薑蒜を取って醋(酢)をこれに合わせる。読みは『あう』、一にいわく、『あえもの』」、【「あう」は「あわす」の縮まった形である。】また「唐韻にいわく、シュク?(月+肅)は肉を切って合わせ揉むという。今考えると、シュクは俗に言う『あえつくり』である」などある「あえ」と同じだ。また「かてて」とも読める。万葉巻十六【十八丁】(3829)に「醤酢爾蒜都伎合而(ひしおすにひるつきかてて)」、これも古言で、「あえ」と同意である。字との名で「和」の字を「かつ」と読むのもこれである。【それをこの義を知らず、「つ」を濁って言い、ついには仮名も「かず」と書くのは誤りである。】○其竹葉(そのたけのは)は、籠に作った竹の葉である。「たけのは」と読む。【師は「たかば」と読んだ。それも古言だが、ここはそう読んでは良くない。】これに包んで荒籠に入れたのだろう。「籠に入れた」とは言わないが、「籠を作る」とあるので、おのずからそう聞こえる。こうしたのは、詛物の準備である。○此竹葉。これは「たかば」と読む、ここから「沈臥(しずみこやせ)」というまで詛言である。○青は「あおむ」と読む。【「青む」とは青くなることを言う。ところが竹の葉はもともと青いものだから、「青む」と言うのは不適当なようだが、これは単に萎むと言うのに対して言ったのである。また「青い」ことについて言うなら、「青める」とも読めるが、やはり萎むにたいして青むと言うのがよいだろう。次の「鹽の盈乾」と同格である。】ここの語は、「この竹葉の青むように」というような意味だ。次にあるのもこれに倣え。○萎は「しぼむ」と読む。万葉巻十八【三十二丁】(4122)に「宇惠之田毛麻吉之波多氣毛安佐其登爾之保美可禮由苦(うえのたもまきしはたけもあさごとにしおみかれゆく)」、古今集の序に「しぼめる花の色なくて云々」、これを眞名字序に「萎花」と書いている。【師は「しなぶ」と読んだが、「しなぶる」、「しなび」という語は、今の世にこそ言うが、古くは見当たらない。「下氷」を「しなび」と読んだのが当たらないことは、前に述べた通りだ。】○而の字は読まない。後に出るのも同じ。上巻の大山津見神の「宇氣比言」に「木の花の栄えるように栄えよ」とあるのに倣うべきだ。○青萎は、「あおみしぼめ」と読む。○「如2此鹽之盈乾1(このしおのみちひるがごと)」は、前の竹葉の言い方に準ずれば、「如2此鹽之盈1如2此鹽乾1而(このしおのみちるがごと、このしおのひるがごと)」とあるべきなのを、前に譲って縮めた文である。ところで「盈」、「乾」は潮であるが、鹽も潮からなったもので、呼び名も同じだから、通わせて潮に取ったのである。○盈乾は、ただ乾くことにのみ用があって、盈ることには用はない。盈は単に乾くことを言うために添えたのに過ぎない。前の「青萎」も「青」には用がなかった。ともに下文に「干萎」とあるので分かる。それはいにしえの歌に花が散るのを「咲散(さきちる)」と詠んだ例が多いのも、咲いたのが散るので、咲くことには用がないのと同じだ。【だからここも青いのが萎み、満ちているのが乾く意味だ。】○「如2此石之沈1而沈臥(このいしのしずむがごとしずみこやせ)」は、【諸本に「而沈」の二字がない。それは「沈」の字が二つあるので、誤って落としたのだ。ここは延佳本他一本によった。師は「沈」を「しずく」と読んだが、万葉に「しずく」とあるのは、ものが水の中に見えるのを言って、「沈む」とは違う。「沈む」の古言と考えるのは誤りだ。「沈」はいにしえから「しずむ」と言った。】「臥」は「こやせ」と読む。この言は上巻に「病臥在」とあるところ【伝五の五十六葉】で言った。人の身では「立つ」は浮くようで、「臥」は沈むようなので、石の沈むのに寄せてこう言った。【心の浮く、沈むと言うのと同じことだ、竹葉や鹽には「萎め」、「干よ」と言ったのに、これのみ「沈む」とだけ言わず、「臥」という語を加えたのは、「沈む」とだけ言ったのでは、人の身にとってはなお確かでないからである。】また竹葉に青み萎むと言い、鹽に満ち干と言った例によると、ここでも「浮き沈む」と言うべきだが、石は重くて浮くことがないから、「浮く」を言わなかったのだ。【これに「浮く」を言わなかったのでも、上記の竹葉、鹽も「青み」、「盈」ということは用がなかったことを知るべきだ。】ここまで詛言である。○「令レ詛(とこわしめ)」は、母が霞壯夫に教えて、兄を詛わせたのである。このことの例は書紀の神代巻に「・・・磐長姫はいたく恥じ、詛い言をして、『もし天孫が私を排斥せず用いたら、私は磐のように命の長い子を生んだでしょう。今そうでなく、妹だけを用いました。そこでその生む子は、木の花の咲く間のみ生きているでしょう』」、また「海神は・・・すなわち彦火々出見尊に授けて教えた。『この釣り鉤をあなたの兄に与えるときに、こう詛いなさい。貧窮の本・飢えの始め・困苦の根と言ってから与えるのです』」、神功の巻に「天に向かって咒い詛う」、雄略の巻に「井戸を指して詛い言を言った。『この水は、百姓だけが飲むことができ、王は飲むことができない』」、武烈の巻に「眞鳥の大臣は身の罪が免れないことを知り、広く塩を指して詛ったが、ついに殺される時になって、詛った塩の中に、角鹿の海塩だけを詛わなかった。このため、天皇は角鹿の塩だけを食用にし、他の海の塩を嫌う」などと見える。【このたぐいは他にもある。】いにしえにその術があったのだろう。【言葉の意味は「説請(ときこう)」か。ただし良いことを願う意味は見えない。ただ人を悪くしようという時にのみ言う。「のろう」と同じ様子で、伊勢物語に「あまの逆手を拍(うち)てなむのろひをるなる」などあるのも詛(とこい)である。また「まじなう」は良いこと、悪いことに通わせて言う。しかし「まじ」は悪いことにだけ言うから、「まじなう」を良いことにも言うのは、後の転化ではないだろうか。詛の字は、「神に請うて殃(わざわい)を加えるのを詛と言う」、また「これを祝って沮敗させることを言う」とも注される。】○烟上の「烟」は、師が「かまど」と読んだのにしたがう。民の家を竈で言う。【今の世の俗言でも、民の戸を「かまど」と言うことがある。】「上」は直接にその上ということではない。竈の上の方の烟の立ち上る高いところを言うだろう。【とすると、「烟」は単に「けぶり」と読むのも悪くはない。】これは霞壯夫の家の烟の上の方だろう。○置(おく)は上の詛物を置くのである。○八年之間(やとせのあいだ)とは、「于萎病枯(かわきしぼみやみこや)」した間が八年であったのを言う。上巻で「三年の間必ずその兄貧窮(まずしく)なるだろう」と海神が言ったのと同じだ。【そのところもここも、「間」の下に「に」という辞を添えて読んではならないことは、そこで言った通りだ。伝十七の四十二葉】○于萎病枯(かわきしぼみやみこやしき)は、「干」は「かわき(旧仮名もカワキ)」と読む。【この仮名は新撰字鏡に見える。「カハキ」と書くのは誤りだ。】「ひる」と「かわく」とは同じことだが、人の身について「ひる」と言うことはないからだ。【前の鹽には「乾」と書きながら、ここでは字を変えて「干」と書いたのも、読みの異なることを示したのかも知れない。】これは身の潤いがなくなることで、「鹽の干るように」と詛った験(しるし)である。そうやって潤いがなくなれば、身の萎むのは草木の花や葉も同じだ。これはかの「竹葉の萎むように」と詛ったのと同じである。「枯」の字は、あるいは「臥」を誤ったものではないか。これはかの「石の沈むように沈み臥せ」と言ったことの験だから、「臥」とあるべきところだ。それで「こやしき」と読んだ。上巻にも「病み臥した」とある。【それとも、「病み」といったのが「臥せ」と言った験で、「枯」は「干萎病」を総称して言ったかとも思ったが、それでは「干萎」と同じ状態の言が重なって、「沈み臥せ」と言った験には足りない感じである。「病み臥せり」と言ってこそ、その験は確かになるだろう。】「枯」の方を採用するなら、「干萎」の意味に合わせて言ったとでもするべきだろうか。○患泣(うれいなきて)は、倭建命の段にも同様にあった。上巻に「泣患(なきうれいて)」ともある。○「請2其御祖1者(そのみおやにこえば)」。ここの様子では実の母のようにも聞こえるが、やはり継母だろう。○詛戸(とこいど)は、「戸」とはそのものを指して言ったと聞こえる。【師は「戸は處だ」として、「その戸を詛處とするから「と」と読む。このことはもう少し考えなければならない」と言ったが、「處」の意味ではないだろう。】烟の上に置いたものである。上巻に須佐之男命に「千位の置戸(ちくらのおきど)を負わせて」とある「戸」と同じだ。そのところを考え合わせよ。【伝九の五葉】○「令レ返(かえさしめ)」は、母が霞壯夫に返させたので、「返す」とは烟の上に置いた詛物を取り返し除くのを言う。【また詛った趣を請い返して、もとのように直す意味ともできるが、詛戸をとあるのはその意味ではない。しかし詛物を取り去るのは、すなわち請い返すことになるから、末には同意になるだろう。】○其身は、兄の身である。○安平は「たいらぎき」と読む。水垣の宮の段にも「國安平(くにたいらぎなん)」とある。○神宇禮豆玖(かみうれづく)。この件の故事は、非常に上代のことで、すべて神代めいたことなので、「神」と言ったのだ。○言本(ことのもと)は、字の通りでもあり、また「事の本」でもあるだろう。書紀の神代の巻に「今の世に一つ火を灯すことを忌み、また夜に櫛を投げることを忌む、これがその縁(ことのもと)である」、また「これは桃を用いて鬼を避ける縁である」、また「世の人々が慎んで己の爪を隠す、これがその縁である」、これらの「縁」を「ことのもと」と読むのは、事の本である。また仁徳の巻に「だから諺に言う、海人なれや己がものから泣くということの縁である」と言うのは、言について言うから、ここと同じだ。【ここは「神宇禮豆玖」と言い習わした言について言ったのである。そもそも言について言うのは、言の本とするのは論ずるまでもないが、それを事の本と見るのも当然だ。言に言い習わすのも、本になる事があって、その事によるからである。】上巻の天若日子の段に「だから今諺に雉の頓使いということの本はこれである」という本も同じ。これは世の中に神宇禮豆玖といってすることのあるのは、上記の故事から出たと言っている。【師はここの注を後人の仕業だと言ったが、そうではない。】

 

又此品陀天皇之御子。若野毛二俣王。娶2其母弟百師木伊呂辨亦名弟日賣眞若比賣命1生子大郎子。亦名意富富杼王。次忍坂之大中津比賣命。次田井之中比賣。次田宮之中比賣。次藤原之琴節郎女。次取《上》賣王。次沙禰王。<七王>故意富富杼王者。<三國君。波多君。息長君。坂酒人君。山道君。筑紫之米多君。布勢君等之祖也。>又根鳥王娶2庶妹三腹郎女1生子中日子王。 次伊和嶋王。<二王>又堅石王之子者。久奴王也。

 

訓読:またこのホムダのスメラミコトのミコ、ワカヌケフタマタのミコ、そのミハハのおとモモシキイロベまたのなはオトヒメマワカヒメのミコトにみあいてウミませるミコ、オオイラツコ。またのなはオオオドのミコ。つぎにオサカのオオナカツヒメのミコト。つぎにタイのナカツヒメ。つぎにタミヤのナカツヒメ。つぎにフジワラのコトフシのイラツメ。つぎにトリメのミコ。つぎにサネのミコ。<ななはしら。>かれオオオドのミコは、<ミクニのキミ、ハタのキミ、オキナガのキミ、サカのサカビトのキミ、ヤマジのキミ、ツクシのメタのキミ、フセのキミらのおやなり。>またネトリのミコままいもミハラのイラツメにみあいてウミませるミコ、ナカツヒコのミコ、つぎにイワシマのミコ。<ふたばしら。>またカタシワのミコのミコは、クヌのミコなり。

 

口語訳:品陀天皇の御子、若野毛二俣王がその母の妹、百師木伊呂辨、またの名は弟日賣眞若比賣命を娶って生んだ子は、大郎子、またの名は意富富杼王。次に忍坂之大中津比賣命。次に田井之中比賣。次に田宮之中比賣。次に藤原之琴節郎女。次に取賣王。次に沙禰王。<七人である。>意富富杼王は、<三國君、波多君、息長君、坂酒人君、山道君、筑紫の米多君、布勢君らの祖である。>また根鳥王が異腹の妹、三腹郎女を娶って生んだ子は、中日子王、次に伊和嶋王。<二人である。>また堅石王の子は、久奴王である。

 

若野毛二俣王(わかぬけふたまたのみこ)。野の字は、前に「沼」とあったのと同じだ。【いにしえは「野」もすべて「ぬ」と言ったからだ。】○母弟(みははのおと)は、御母、息長眞若中比賣の尾津戸である。伊邪河の宮の段にもこう言った例がある。【伝廿二の六十四葉。○漢文で同母の弟を母弟といって、書紀などにもそうあるのとは異なる。】御叔母に娶(みあい)した例は、神代の葺不合命の玉依毘賣命の件からある。○百師木伊呂辨亦名弟日賣眞若比賣命(ももしきいろべまたのなはおとひめまわかひめのみこと)は、日代の宮の段に出た。【倭建命の曽孫である。伝廿九の四十葉】ただしそこでは弟比賣とだけ出ていた。名の意味は、百師木【百石城の意味だ。】とはどういう由縁でそういう名になったのか、定かでない。伊呂辨という例は、書紀の崇神の巻に「八坂振天某邊(やさかふるあまいろべ)」、【「某(いろ)」と書いた字のことは前に言った。】継体の巻に単に「色部(いろべ)」などがある。【みな女の名である。】「伊呂」は伊呂泥(いろね)、伊呂杼(いろど)などの「伊呂」である。【前に言った。】「辨」は「〜刀辨」という女の名が多いが、その「辨」と同じだ。【「刀辨」のことは、伝廿三の三葉で言った。】「眞若」は、男女の名に例が多い。特に変わった意味はない。この品陀の天皇の妃(みめ)に迦具漏比賣(かぐろひめ)とあって、上記に出たのはこの弟比賣のまたの名で、若野毛二俣王の妃だったのが、紛れたのだろう。そのことはそこに言った通りである。【伝卅二の十五葉】また釈日本紀に引いてある上宮記には、二俣王の御母の名が弟比賣麻和加(おとひめまわか)とある。これらのことは、さらに次で言う。○大郎子(おおいらつこ)。名の意味には特に変わったことはない。「郎子」という名の意味は前に述べた。継体天皇の御子に同じ名がある。○意富富杼王(おおおどのみこ)。名の意味は継体天皇の名が袁本杼命(おおどのみこと)と言うのと相照らして考えれば、意富は大、袁は小で、富杼は同じだ。だから継体天皇の名を書紀では男大迹(おおど)と書いてある。【「男」は借字。】とすると、富杼は「意富杼」の「意」を省いたもので、【意富は「大」である。その「大」の「意」を省いて「富」という例が多い。これは「大」にも「小」にも「お」に音があるから、なおさらである。】継体の名は「小大杼」で、この王の名は「大大杼」である。ところが「大杼」の意味は考えつかない。【持統紀に土師連富杼という人の名も見える。】地名ではないだろうか。【和名抄に「近江国高嶋郡、大處郷」、延喜式神名帳に「同郡、大處神社」がある。この場所は大處を「おおど」と読んでこの名になっているのか。かの高嶋郡のあたりは由縁があることは、後に言う通りである。曾祖父の名が大大處だから継体天皇は小大處なのだろう。ただし記中の例では、「處」に当たる「と」の濁音には、「度」の字のみを用いているのに、「杼」の字を用いたのはやはり疑わしい。ところでこの「富杼」を陰部の意味に取るのは間違いである。陰(ほと)の「と」には「登」の字のみを用いて、濁音の「杼」を用いたことはない。】上宮記に、「一にいわく、凡牟都和希王(ほむつわけのみこ)が經俣那加都比古(くいまたなかつひこ)の娘、弟比賣麻和加(おとひめまわか)を娶って生んだ子、若野毛二俣王が母恩己麻和加中比賣(おきながまわかなかつひめ)を娶って生んだ子は大郎子、またの名は意富々等(おおおど)王、妹の踐坂大中比彌(ほむさかのおおなかつひみ)王、妹の田宮中比彌(たみやのなかつひみ)、妹の布遲波良己等布斯郎女(ふじわらのことふしのいらつめ)、四人である」とある。【凡牟都和希王は品陀別で、この天皇である。經俣は、この記によれば「咋俣」、書紀によれば「川俣」である。「經」の字は写し誤りだろう。母恩己は「母」の下に弟の字が脱けたのだろう。恩己は「息長」の誤りだろう。踐坂は「忍坂」である。「比彌」は「比賣」と同じだ。】○忍坂之大中津比賣命(おさかのおおなかつひめのみこと)。名の意味は、忍坂は倭国の地名である。前に出た。【伝十九の二十九葉】上記の上宮記に、踐坂大中比彌王とあるのがこれである。【忍坂を踐坂と言ったのはどういう理由によるのか。】この比賣命は允恭天皇の后で、かの段に見える。書紀の安康の巻に「母を偲ぶ坂大中姫といい、稚淳毛二岐(わかぬけふたまた)の皇子の娘である」とある。【允恭の巻に「始め皇后は母に従って家にあり、苑中で遊んでいた時云々」の記事がある。】品陀天皇の娘に同じ名があるのは、この比賣命が紛れたのだろう。【その理由はそこで言った。伝三十二】○田井之中比賣(たいのなかつひめ)。田井は地名だ。和名抄に「河内国志紀郡、田井郷」がある。これか。【河内国は次にも縁があるからだ。今も田井中という村がある。】また山城、大和などにもこの地名がある。【山城国久世郡、大和国葛下郡などに田井村がある。高市郡、山邊郡に田井荘がある。河内国茨田郡にも田井村がある。和名抄には伊勢国奄藝郡に田井郷があって、「たい」と註してある。延喜式神名帳に、同郡多爲(たい)神社もある。美濃国賀茂郡にも多爲神社がある。】上宮記には、この比賣はない。○田宮之中比賣(たみやのなかつひめ)。田宮は地名である。和名抄に「河内国交野郡、田宮郷」がある。これか。【上の田井も同国にあるからだ。東大寺の古い文書に「越前国坂井郡、田宮荘」というのが見え、これも縁があり、次に出る。伊勢国度會郡に田宮寺というのもある。】上宮記に田宮中比彌とある。○藤原之琴節郎女(ふじわらのことふしのいらつめ)。上宮記に布遲波良己等布斯郎女として出ている。藤原は地名だ。大和国高市郡の大原村がこれだという。その通りだろう。【大原村はいまもある。そのあたりに藤原鎌足の旧跡と言い伝えるところもある。】万葉巻二(103)に「天皇が藤原夫人に与えた歌。吾里爾大雪落有大原乃古爾之郷爾落巻者後(わがさとにおおゆきふれりおおはらのふりにしさとにふらまくはのち)」とある。【天皇は天武天皇だ。藤原夫人は鎌足大臣の娘で、万葉巻八に「字(あざな)を大原の大刀自という」とある。大原が本郷なのである。天皇は初めこの夫人の家に通い住んでいたので、「古(ふり)にし郷」と言った。巻十一の歌(2587)にも「大原の古(ふり)にし里」とある。鎌足大臣の本居が大原だったので、藤原という姓を与えたのだ。とすると大原はつまり藤原であることは、あれこれ考えると明らかだ。ただし持統天皇の京の藤原京は別のところである。混同してはならない。その宮は、万葉巻一の長歌(52?)によると「藤井が原」というところであり、それを省いて「藤原」とも言ったのだろう。その地は香具山の西の方、耳成山の南の方である。釈日本紀の書紀持統のところでは、「藤原宮に遷居した。私記にいわく、師の説ではこの地は未詳である。私の調べたところでは、氏族略記にいわく、藤原京は高市郡の鷺栖坂の北の地にあるという」と言っている。香具山は十市郡にあるのだが、この宮はその西にあって、高市郡にあったのだろう。鷺栖坂のことは、玉垣の宮の段の鷺巣池の伝を考え合わせて知るべきだ。それをかの大原とこの宮を同じところと考えるのは、地理を考えないみだりごとだ。大原は香具山よりはるか南の方にあって、飛鳥に近いところだから、かの万葉の長歌の趣きに合わない。書紀の推古の巻に「藤原の池」とあるのは、藤原宮の藤原のように聞こえる。また今添上郡にも藤原村があるが、それも別である。】「琴節」の意味は考えつかない。【さらに次で言う。「琴節」の字は借字である。書紀の顕宗の巻に「節歌曰(ことのおりにあわせて)」と言うことがあるが、ここには無縁である。】上に出た天皇【應神】の迦具漏比賣の子五柱中に、登富志(とおし)郎女とあるのは、この郎女の紛れだろう。【この紛れのことは、既に伝卅二で言った通りだ。「登富志」と「琴節」は言葉がはなはだ近い。】また歌に名高い「衣通姫(そとおしひめ)」もこの郎女のことである。理由は、その衣通姫は書紀の允恭の巻に、「皇后忍坂中姫の妹」とあり、「名は弟姫、容貌が優れて美しく、衣を通して光り輝いていた。そのため世の人は衣通姫と呼んだ」とあり、衣通と琴節と言葉がたいへん近いからだ。「衣通」は「そとおし」と読むべきである。【「そ」と「こ」は横に通い、「ほ」と「ふ」も特によく通う音である。また「登富志郎女」とあるのは、「通し」と全く同じだ。それを書紀で「そとおり」と読み、古今集の序にもそうあるのは、古くから読みを誤ったものである。書紀に、また左の傍注には「きぬとおし」とも読みを付けてある。思うに、かの登富志郎女の名は、「登」の上に「曾」の字が脱けたのか。また「琴節」は、あるいは「こ」は「ころも」の「こ」で、衣を「こ」とだけ言うのも理由があるのか。または「そ」を誤って「こ」と言い伝えたのか。それはいずれにせよ、「登富志」と「琴節」と「衣通」はみな同じことのように聞こえる。】また「別宅を藤原に作って住まわせた。・・・天皇が初めて藤原宮に行幸した時云々」とあるのも、【ここに「藤原之」とあるのと】合っている。【この藤原宮は、大原に作った別宅を言う。持統天皇の大宮と混同しないように。】なおこの郎女のことは、允恭の巻七年、八年、九年、十年、十一年にあれこれ見える。考え合わせよ。「十一年、諸国の国造たちに仰せて、衣通姫のために藤原部を定めた」ともある。【世に木の国の玉津嶋神を衣通姫と言うのは、根拠もない俗説に過ぎない。それは契沖が指摘した通りだ。】この記に、また允恭天皇の御子、輕大郎女を衣通郎女ともあるのは、たいへん紛らわしい。そのことはそこで言う。【伝卅九の三葉】○取賣王(とりめのみこ)は、【「取」の下に上聲を付けたのは、「鳥」のように読むべきだということだ。】名の意味は思い付かない。【「取」は地名か。和名抄に「大和国葛上郡、上鳥郷、下鳥郷」がある。続日本紀、懐風藻、万葉などに「刀利」という姓も見える、】「賣」と言ったのは、女王だからだろう。【「女」の仮名には必ず「賣」を用いた例である。】○沙禰王(さねのおう)。禰(ね)の字は彌(み)の字の誤りではないだろうか。【「禰」の字は記中ただ宿禰に用いただけで、他には例がない。彌の字は時々見える。初めの巻で言った通りだ。禰と彌は、古い本に誤っている例が多い。】名の意味は思い付かない。地名ではないだろうか。【禰の字がもし彌の誤りなら、延喜式神名帳に「近江国伊香郡、佐味神社」がある。また大和国十市郡に佐味村がある。書紀に佐味の君という姓も見える。万葉巻九に沙彌女王というのも見える。】上宮記には、この二人の名はない。○三國君(みくにのきみ)は地名による。続日本紀卅五に「越前国坂井郡三國湊」、【今の世に隠れもない地名だ。】延喜式神名帳に「同郡三國神社」もある。この地である。書紀の継体の巻に「天皇の父、彦主人王(ひこうしのみこ)は、振媛(ふりひめ)の容貌が極めて美麗だと聞いて、近江国高嶋郡三尾の別業から使いを遣わして、三國の坂中井(さかない)に呼び寄せ、妃として天皇を生んだ。天皇が幼くして父王は死んだ。振媛は嘆いて『私は遠く本国を離れて、どうしてこの子を安楽に育てられるだろう』と言い、高向(たかむこ)に帰って天皇を育てた。【高向は越前国の邑の名】・・・法駕を備えて三國から迎えた」【和名抄に「越前国坂井郡高向」】と見え、上宮記にも同様にある。三國は継体天皇の母の本国で、その天皇の成長した国である。とすると、この氏【三國君】は、彦主人王の子の継体天皇の兄弟が、共に三國にいたその末裔だろう。【彦主人王は、意富富杼王の孫である。】それを書紀には継体天皇の御子、椀子(まりこ)皇子を三國公の祖であると書いているのは、伝えが異なるのである。【継体天皇も意富々杼王の末裔ならば違いはないようだけれども、そうではない。もし継体の末裔ならば、この記にも、その段に挙げるべきで、ここに挙げるべきではない。だからこの記の伝えは、継体天皇の末裔ではない。こういうふうに伝えが異なった理由は、意富々杼王と、継体の名の袁富杼とがよく似ていたからに他ならない。どちらが正しいか、今はいずれとも決められない。】氏人は書紀の孝徳の巻に「三國公麻呂」というのが見える。天武の巻に「十三年冬十月、三國公ら十三氏に姓を与えて眞人とした」、【眞人の尸(かばね)は、この御世に与える八色の姓の第一で、朝臣がそれに次ぐ。この尸は「まひと」と読むのが正しいのだが、「まうと」、「まつと」などと読むのは、後世の音便に崩れた読み方である。】新撰姓氏録【左京皇別】に、「三國眞人は継体天皇の皇子、椀子王の子孫である」、また【右京皇別】「三國眞人は継体天皇の皇子、椀子(まりこ)王の子孫である」、また【山城国皇別】「三國眞人は継体天皇の皇子、椀子王の子孫である」とある。【新撰姓氏録は多くは書紀によって定めたものである。】○波多君(はたのきみ)は、地名によっている。この名のところは国々に多いので、どことも定めがたい。【なお境原の宮の段の、「波多矢代宿禰、波多臣」のところで言った。伝二十二の二十葉】氏人は、書紀の天武の巻に「羽田公矢國(やくに)、その子大人(うし)」が見える。同巻に「十三年冬十月、羽田公ら十三氏に姓を与えて眞人とした」。新撰姓氏録【左京皇別】に「八多(はた)眞人は、諡應神の皇子、稚野毛二俣王から出た」、続日本後紀六に「八多眞人清雄(きよお)が言上して『新撰姓氏録に載せられた始祖は誤っていて、実際とは違います。私の門の大いに患いとするところです』と言った。詔して改めて刊行した」とある。【新撰姓氏録の今の本は、既に改められた本だろう。だから思うに、旧本は誤って三國眞人と同じく、椀子王の子孫であるとでも書かれていたのだろう。とすると、この氏の記載を考えても、三國君の祖の紛れも思いやられる。または今の新撰姓氏録の記載を旧のまま誤った本かとも言えるだろうが、そうではないだろう。】○息長君(おきながのきみ)は、「君」の字が諸本に次の「坂」の下にあるのは、写し誤ったのである。今改めておいた。【このことは更に次で言う。】諸陵式に「息長の墓は、近江国坂田郡にある」と見える。この地による名だ。書紀の天武の巻に「息長横河【続日本紀十三に「坂田郡横河の頓宮」とある地である。】万葉巻十三【二十七丁】(3323)に「師名立都久麻左野方息長之遠智能小菅(しなたてるつくまさぬかたおきながのおちのこすげ)」、巻廿【四十九丁】(4458)に「爾保杼里乃於吉奈我河(におどりのおきなががわ)」【東大寺の古文書に「近江國坂田莊息長莊」、更科日記に「不破關あつみ山などこえて、近江國おきながと云(いふ)人の家にやどりて云々」】などがある。氏は書紀の天武の巻に「十三年冬十月、息長公ら十三氏に姓を与えて眞人とした」、新撰姓氏録【左京皇別】に「息長眞人は譽田天皇、諡應神の皇子、稚淳毛二俣王の子孫である」、また「息長丹生眞人は息長眞人と同祖」、また【山城国皇別】「息長竹原公は、應神天皇の三世の孫、阿居乃王(あけのみこ)の子孫である」、【阿居乃王は意富々杼王の子ではないだろうか。】続日本紀廿六に「息長連清繼に眞人の姓を与えた」、【連の尸になった氏もあったのだろう。】新撰姓氏録【右京皇別】に「息長連は、應神天皇の皇子、稚淳毛二俣王の子孫である」とある。○坂酒人君(さかたのさかびとのきみ)は【「酒人」は「さかびと」と読む。書紀の崇神の巻に「掌酒、これを『佐介弭苔(さかびと)』と読む」とある。「介」の字は、書紀では「か」の仮名である。これを「さかうど」、「さかんど」などと読むのは後に音便で崩れた読み方で、正しくない。】今諸本に字の脱落などあって決めがたい事情があるので、二つに解釈しておく。一つは諸本に坂の下に君の字があるのは、「君坂」であったのを上下を誤ったので、【この「君」の字は、上の息長の尸である。】坂の下に「田」の字を落としたのである。【または上に「君」の字を落とし、「田」の字を「君」の誤ったのか。いずれにしても同じことだ。】そこで今補っておいた。坂田は和名抄に「近江国坂田【さかた】郡」とあるのがそうだ。書紀の允恭の巻に衣通郎姫【これが前に出た琴節郎女であることは既に述べた。】が母に従って近江の坂田にいたことが出ている。その兄弟だから、意富々杼王もそこにいただろう。【継体天皇の父、彦主人王の別業、高嶋郡の三尾にあったことが、その巻に見え、上の息長も同国の同郡であった。とするとこの一族は、とにかく近江国に由縁があったのである。】「酒人」も地名である。和名抄に「摂津国東生郡酒人郷」がある。これか。【延喜式神名帳に、三河国碧海郡にも酒人神社がある。】氏は新撰姓氏録に【左京皇別】「坂田酒人眞人は、息長眞人と同祖」とある。【書紀にこの姓が見えない理由は次に言う。】もう一つは、諸本に「坂」の上下に「君」の字と「田」の字が脱落しており、「坂田君」と「酒人君」の二つの姓であるという考えだ。場所は二つとも上に言ったのと同じところだ。氏は、坂田君は書紀の天武の巻に「坂田公雷(いかづち)」という人が見え、同巻に「十三年冬十月、坂田公ら十三氏に姓を与えて眞人とした」、新撰姓氏録に【左京皇別】「坂田宿禰は息長眞人と同祖で、應神の皇子、稚淳毛二俣王の子孫である。天淳中原瀛眞人天皇【諡は天武】の御世に出家入道して法名を信正といった。近江の国人、槻本公、轉戸の娘を娶って生んだ子、石村(いわれ)は母の姓に従って槻本公といった。息子は外従五位下老(おゆ)、その息子従五位上奈弖麻呂(なてまろ)、次に従五位下豊成、次に豊人らに、皇統彌照天皇(あまつひつぎいやてらすすめらみこと)【諡は桓武】の延暦二十二年、宿禰の姓を賜う。このとき父の志を追い述べて、祖父の成長した場所の地名を取り、槻本を改めて坂田宿禰とした。今上の弘仁四季、同奈弖麻呂らに改めて朝臣の姓を与えた」【既に朝臣の姓を与えたとあるのに、宿禰と書いているのは納得できない。「今上」というところから後は、後に書き加えたのではないだろうか。類聚国史に「延暦二十二年正月、槻本公奈弖麻呂、弟豊人、豊成らにいずれも朝臣の姓を与えた。奈弖麻呂の父、老は・・・故にこの授位があった」、日本紀略に「弘仁十四年十二月、坂田朝臣弘貞の坂田姓を改めて南淵の朝臣とした」、文徳実録九に「南淵朝臣永河が死んだ。永河は、槻本公老の孫で、坂田朝臣奈弖麻呂の第二子である。・・・弘仁十四年十二月、兄弘貞と父の先志を述べて、南淵朝臣の姓を賜った」などとある。南淵朝臣という姓を賜ったのは、この坂田は大和国高市郡の坂田だろうかという疑いもあるが、やはり近江の坂田だろう。新撰姓氏録の趣では、この坂田という姓については、奈弖麻呂に初めて与えたようだが、その先祖が近江国の人であるから、旧姓で、坂田君の族だっただろう。なおこの姓のことは次にも言う。】それを書紀では継体天皇の子、中皇子を坂田公の先祖であるとしているのは、例の伝えの違いである。【その紛れの原因は、三國君と同じである。】新撰姓氏録にも【左京皇別】「坂田眞人は、諡継体の皇子、仲王から出た」【これは書紀によるものである。】と見える。酒人君は、書紀の天武の巻に「十三年冬十月、酒人君ら十三氏に姓を与えて眞人とした」とあるのがそうだ。書紀には継体天皇の子、菟(うさぎ)皇子を酒人公の先祖であると記しているのは、三國君、坂田君と同じ例で、伝えが異なるのである。【このことはさらに次に言う。】新撰姓氏録にも【大和国皇別】「酒人眞人は、継体天皇の皇子、兎王の子孫である」、また【未定雑姓】「酒人小川眞人は、継体天皇の皇子、菟王の子孫である」などと見える。この二つ【坂田酒人君とするのと、坂田君、酒人君とするのとを言う。】のうち、どちらだろうか。書紀天武の巻に眞人の姓を与えた中に、坂田公、酒人公はあって、坂田酒人公というのはないのを考えれば、後の方【二姓とするのを言う。】だろう。しかしながら、新撰姓氏録に坂田酒人眞人もあって、息長眞人と同祖とあるから、二姓の方とも決めがたい。もし坂田酒人君だとすると、【書紀・姓氏録に見える】坂田眞人・酒人眞人との違いは何かと言えば、坂田酒人君ももとは坂田君から別れた姓で、天武天皇の御世に一緒に眞人になったのを、【眞人になったことは新撰姓氏録で分かる。】別に挙げられなかったのは、もとの氏の坂田君に含まれていたのだ。そういう例はある。【物部朴井連というせいがあって、物部と共に朝臣になったのも、物部に含めて、別には挙げなかったたぐいだ。このことは伝十九の六十六葉で言った。】単に酒人君というのは、もとから異姓なのを【これは書紀に伝えるように、継体天皇の子孫であろう。ただしこの記のこの部分を坂田と酒人の二姓とする時は、継体天皇の子孫とするのは、異なる伝えである。】それと別けるためにこの氏を、もとの坂田を兼ねて、坂田酒人君と言ったのだろう。すべてこれらのことは、注意せねば紛れることである。またここで坂田をおいて、支族の姓を挙げたのはなぜかと言うと、その時代によって、本宗家は衰えて、支族が栄えていた場合は、その栄えた方を挙げたのでもあるだろう。【三代実録七に「近江国坂田郡穴太氏譜圖と息長坂田酒人の両人を席を同じくして官に進めた」とあるが、「両人」は納得できない。「両氏」の誤りだろう。それなら息長と坂田酒人の両氏である。】○山道君(やまじのきみ)はどの国の地名によっているのか、考えつかない。【今畿内・近江などに、この地名が残っていないか、尋ねてみるべきだ。和名抄に「肥後国合志郡、山道郷」がある。これは次の筑紫米多君と由縁があるが、眞人の尸を与えた姓に、こうした遠国にあるのは滅多に見えないことである。】書紀の天武の巻に「十三年冬十月、山道公ら十三氏に眞人の姓を与えた」、【今の本ではこの姓を落としている。十三氏とあるのに合わない。釈日本紀に挙げたのは、酒人公の次にこの氏がある。】新撰姓氏録【左京皇別】に「山道眞人は息長眞人と同祖、稚淳毛二俣王の子孫である」、また【右京皇別】「山道眞人は息長眞人と同祖、應神の皇子、稚淳毛二俣王の子孫である」とある。○筑紫之米多君(つくしのめたのきみ)は、「米」の字を諸本に「末」あるいは「未」と書いているのはみな誤りだ。【記中に「末」、「未」を仮名に用いたことはない。】今は真福寺本によった。和名抄に「肥前国三根郡米多【めた】郷」があるのがそうである。国造本紀に「竺志米多(つくしのめた)の国造は、志賀高穴穂の朝の御世に、息長公と同祖、稚沼毛二俣命の孫、都紀女(つきめ)を国造に定めた」【この「米」の字も延佳本では「末」に誤っている。旧印本に「米」とあるのがよい。志賀高穴穂の朝と言っているのは、二俣命と時代が違い、みだりごとである。】続日本紀三に「米多君北助」という人が見える。○布勢君(ふせのきみ)はどこの国だろうか。思い付かない。【越中国射水郡、因幡国高草郡、隠岐国海部郡、播磨国揖保郡、美作国大庭郡などに布勢郷がある。延喜式神名帳に布勢神社もあちこちにある。その中に近江国伊香郡に布勢立石神社がある。この地は縁がある。しかし上の「筑紫之」とあるのにも関わるかどうか定かでない。】氏も確かには物の本に見えない。【布勢臣、布勢朝臣などは異姓である。】新撰姓氏録に「布勢公は仲哀天皇の皇子、忍稚命の子孫である」とあるのは、この氏で伝えが異なるのだろうか。続日本紀十八に「布勢眞虫に君の姓を与えた」とあるのもこの氏か。○継体天皇はこの意富々杼王の曽孫であるのを、その段には単に品陀天皇の五世の孫とのみ記して、その世系を書かなかった。伊邪河の宮の段に息長帯比賣命【神功皇后】の世系を書いてあるように、ここに継体天皇の祖、世系を記すべきはずだが、単に末裔の氏々のみを挙げて、それを書かなかったのは欠落である。そこで今釈日本紀が引いている上宮記によって、試みに言っておくと、「意富々杼王が中斯和命(なかしわのみこと)を娶って生んだ子、宇比王(ういのみこ)、この王が牟宜都(むげつ)の国造、名は伊自牟良(いじむら)君の娘、久留比賣命(くるひめのみこと)を娶って生んだ子は、宇志王(うしのみこ)、この王が伊玖米(いくめ)天皇の七世の孫、振比賣命を娶って生んだ子が袁富々杼命である」と記すべき場合である。【なおこの世系のことは、その天皇の段で詳しく言う。】○根鳥王(ねとりのみこ)は、この天皇【應神】の子で、前に出た。○庶妹は、「ままいも」と読むことは、前に言った通りだ。○三腹郎女(みはらのいらつめ)も前に出た。○中日子王(なかつひこのみこ)。名の意味には特に変わったことはない。○伊和嶋王(いわしまのみこ)。名の意味は、地名だろう。【大神宮の例文に伍百野(いおの)皇女の次の齋王に伊和志眞(いわしま)王とあり、仲哀天皇の娘としてある。それは中日子王の妹というのを誤って、足中日子(たらしなかつひこ)命の娘としたもので、この王ではないだろうか。仲哀天皇には、この名の御子はないからである。】○註に二王とあるのは、真福寺本他一本には二柱とある。○堅石王は、「かたしわ」と読む。書紀の雄略の巻に「日鷹吉士堅磐固安錢(ひたかのきしかたしわこあんぜん)」という人名があり、「堅磐、これを『かたしわ』と読む」とある。和名抄に「筑前国穂波郡、堅磐【加多之萬】郷」がある。【「萬」の字は、「方(は)」を「万」と誤り、それをついには「萬」と誤ったのである。】この地名による名か。この王は上に見えない。どうだろうか。【書紀にもない。そもそも上に出なかった名を、何となく挙げるべき理由はない。伝えの乱れによるのか、後に文が落ちたのか。迦多遲(かたじ)王という名は上に見える。あるいはそれではないか。しかし同じこの記のうちで、前と後と違っているわけもないだろう。】○久奴王(くぬのみこ)。これも地名ではないだろうか。

 

凡此品陀天皇。御年壹佰參拾歳。御陵在2川内惠賀之裳伏岡1也

 

訓読:すべてこのホムダのスメラミコト、みとしモモチマリミソジ。ミハカはカワチのエガのモフシのおかにあり。<訳者註:河内は旧仮名カフチで、現代表記は「こうち」となると思われるが、高知などと紛らわしいので、「かわち」と表記した。>

 

口語訳:品陀天皇が死んだとき、年は百三十五才であった。御陵は河内の惠賀の裳伏岡にある。

 

凡此(すべてこの)云々。こう言った例は白檮原の宮の段にある。【伝廿】○壹佰參拾歳(ももちまりみとせ)。書紀に「四十一年春二月甲午朔戊申、天皇は明の宮で崩じた。時に年百十歳。【一にいわく、大隅宮で崩じたという。】」とある。【仲哀天皇の九年庚辰に生まれたとあるのによると、四十一年庚午は百十一歳に当たるから、一年違う。ある書に百十一歳と言ったのは、この年数に合わせて言ったのだろう。大隅宮は難波にある。廿二年のところに見える。】○旧印本、真福寺本、また一本には、この間に「甲午年九月九日崩」という八字の細注がある。この例の細注のことは、水垣の宮の段の末【伝廿三の九十五葉】で言った。甲午年は、書紀ではこの天皇の五年、【四十一年より三十六年前である。】また仁徳天皇の廿二年【この御世の四十一年より廿四年後である。】に当たり、月も日も書紀と異なるのは、これも一つの古い伝えなのだろう。○川内惠賀(かわちのえが)は、前に出た。【伝卅一の五十二葉】○裳伏岡(もふしのおか)は、【この名は「もふし」か「もふす」か定かでないが、取りあえず調和が取れているので、「もふし」と読んでおく。田中道麻呂の言うところでは、万葉巻四の歌(625)に「吾漁有藻臥束鮒(わがすなどれるもふしのつかぶな)」とあるのは、誰でも単に「藻のかくれた鮒」と思うけれども、あるいはこの裳伏の地から生まれたものではあるまいか。】諸陵式に「惠賀の藻伏の山岡の陵は、軽嶋の明の宮で天下を治めた應神天皇である。河内国志紀郡にある。兆域は東西五町、南北五町。陵戸二烟、守戸三烟」とある。【「山岡」と書かれているのは、「崗」を二字に誤ったものではないだろうか。「岡」を古い書物で「崗」と書いてある事が多い。】河内志に、「古市郡の譽田村にあり、式に志紀郡に属す。陵のほとりに塚が七つある。いわく、馬冢、鞍冢、圓冢、登久理(とくり)冢、久弖(くて)冢。陵の東に馬鬣封がある。俗に武内宿禰の墓という云々」、【前皇廟陵記に「譽田八幡宮縁起に、古市郡の長野山に葬った。藻伏山の岡の陵がこれである。欽明天皇の二十年二月十五日に勅して社を陵の前に立てた。譽田八幡宮がこれである。今案ずるに・・・古市郡と志紀郡は隣り合っており、陵は二郡の境に接している。そのため志紀郡にあるとか古市郡にあるとか言っているだけだ」、また扶桑略記に「治暦二年四月廿五日、石清水の宮司が言上して『去る三月廿八日、戌の刻、河内国の譽田天皇の山陵が震動して光を放つ異変があった』」と言う。譽田八幡宮縁起に、欽明天皇二十年云々とあるのは信じがたい。社を建てたのは、後のことだろう。この社は、今も陵の前にある。】書紀にはこの御陵を記していない。通例ではない。後に脱したのかも知れない。雄略の巻に「九年・・・蓬ビコ(くさかんむり+累)丘の譽田陵【蓬ビコは『いちびこ』と読む】」とある。裳伏の岡を蓬ビコの岡とも言ったのだろうか。いぶかしい。【新撰姓氏録の上毛野朝臣の條に同じ故事を挙げた中には、「應神天皇の陵のほとり」とあるだけで、地名は見えない。】○旧印本他一本に裳伏のところ、岡の上に「百舌鳥陵也」という五字の細注があるのは、間違いなく後人の書き加えたみだりごとである。【「百舌鳥(もず)」という地名は和泉国で、大きく違っている。ある説に「毛受(もず)から裳伏山に改葬したのだ」と言うが、そうならばそのことを注すべきで、これは裳伏を即ち百舌鳥とした注だから、言うまでもない誤りだ。「もふす」と「もず」の言が近いので、みだりに推測で言ったものだ。契沖の河社にいわく、「百舌鳥というところは、今の世には萬代(もず)と書いて、和泉国大鳥郡にある。萬代の八幡と言って、陵に似た山に社がある。その氏人の習慣として、毎年正月には元日から三日の間、肉を食うことをかたく禁じて、遠国に行って住み着いたとしても、さらにこれを許し怠ることがない。これは仁徳・履中・反正の三代の山陵の外にある」と言う。「百舌鳥」という地のことは、仁徳天皇の御陵のところで言う。】今は真福寺本、延佳本などにそういう注がないのによった。

 

古事記中巻終

 

終の字はない本もある。また「巻」の字もともにない本もある。



もくじ  前へ  次へ
inserted by FC2 system