本居宣長『古事記伝』(現代語訳)35

 

大雀命。坐2難波之高津宮1。治2天下1也。此天皇。娶2葛城之曾都毘古之女石之日賣命1。<大后。>生御子大江之伊邪本和氣命。次墨江之中津王。次蝮之水齒別命。次男淺津間若子宿禰命。<四柱>又娶2上云日向之諸縣君牛諸之女。髮長比賣1。生御子波多毘能大郎子。<自レ波下四字以レ音。下效レ此。>亦名大日下王。次波多毘能若郎女。亦名長日比賣命。亦名若日下部命。<二柱>又娶2庶妹八田若郎女1。又娶2庶妹宇遲能若郎女1。此之二柱。無2御子1也。凡此大雀天皇之御子等并六柱。<男王五柱。女王一柱。>故伊邪和氣命者。治2天下1。次蝮之水齒別命亦治2天下1。次男淺津間若子宿禰命亦治2天下1也。

 

訓読:オオサザキのミコト、ナニワのタカツのみやにいまして、アメノシタしろしめしき。このスメラミコト。かつらぎのソツビコのむすめなはイワノヒメノミコトにみあいまして、<おおぎさき。>ウミませるミコ、オオエのイザホワケノミコト。つぎにスミノエのナカツミコ。つぎにタジヒのミズハワケノミコト。つぎにオアサヅマのワクゴノスクネノミコト。<よばしら>またかみにいえるヒムカのムラガタのきみウシモロのむすめ、カミナガヒメをめして、ウミませるミコ、ハタビのオオイラツコ。またのみなはオオクサカのミコ。つぎにハタビのワカイラツメ、またのみなはナガヒヒメのミコト。またのみなはワカクサカベのミコト。<ふたばしら>またままいもヤタのワキイラツメにみあいまし、またままいもウジのワキイラツメにみあいましき。このふたばしらは、ミコまさざりき。すべてこのスメラミコトのミコたちあわせてムハシラましましき。<ひこみこイツハシラ、ひめみこヒトハシラ。>かれイザホワケノミコトはアメノシタしろしめし、つぎにタジヒのミズハワケノミコトもアメノシタしろしめし、つぎにオアサヅマのワクゴノスクネもアメノシタしろしめしき。

 

口語訳:大雀命は、難波の高津の宮に住んで、天下を治めた。この天皇が葛城の曾都毘古の娘、石之日賣命<大后>を娶って生んだ子は、大江の伊邪本和氣命。次に墨江の中津王。次に蝮の水齒別命。次に男淺津間若子宿禰命。<四柱である。>また前記の日向の諸縣君牛諸のむすめ、髮長比賣を娶って生んだ子は、波多毘能大郎子、またの名は大日下王。次に波多毘能若郎女、またの名は長日比賣命、またの名は若日下部命。<二柱である。>また庶妹の八田若郎女を娶り、庶妹の宇遲能若郎女を娶ったが、この二人は子がなかった。すべてこの大雀天皇の子は、合わせて六柱である。<男五人、女一人である。>伊邪和氣命は天下を治めることとなった。次に蝮之水齒別命も天下を治めた。次に男淺津間若子宿禰命もまた天下を治めた。

 

旧印本、真福寺本、他一本などに、初めに「大雀皇に起こり、豊御食炊屋比賣(とよみけかしきやひめ)命(推古天皇)まですべて十八天皇」という十八字の細書がある。【旧印本には雀の字を鷦鷯と書き、真福寺本には「八」の字を「九」と書いている。それは飯豊命(いいとよのみこと)を一代としたのか、または「八」の字を誤ったのか。】後人の書き加えたものだろう。中卷にもそういったことはなかった。そこでここでは、延佳本また他一本にないのによった。○この天皇の漢風諡号は、仁徳天皇という。○大雀命(おおさざきのみこと)、雀の字を旧印本に「鷦鷯」と書いてあるのは、後人が書紀によって改めたさかしらである。諸本みな「雀」とある。【中巻にも後の文にもみな「雀」とある。】○難波(なにわ)は前に出た。【中巻の白檮原の宮の段、浪速のところ。伝十八の廿七葉、また明の宮の段、伝三十四。】○高津宮(たかつのみや)は、書紀に「元年、・・・難波に都した。これを高津宮という」、【元年に初めて難波に移ったのではない。この人はもとからこのところにいたのである。書紀に「・・・難波に奉らせた」、また「難波から菟道宮に馳せて」などと見え、この記でも明の宮の段に、「大雀命はその乙女が難波に泊まったのを見て云々」とあるのでも分かる。】万葉巻三(292)に「久方乃天之探女之石船乃泊師高津者淺爾家留香裳(ひさかたのあまのさぐめがいわふねのはてしたかつはあせにけるかも)」とある。難波の地形は、今も大坂から南へ、住吉の辺りまで長く続いた岸があり、【岸より東は高く、西は低い。】いにしえはこの岸まで潮が来て、【いにしえに「嶋」と言ったところは、今は陸続きなのが多い。万葉に「淺にけるかも」と詠んだのは、当時既にこの岸までは潮が来なかったのだろうか。】船が着いて難波津は岸の上だったのだろう。そこで「高津」と言ったのだ。宮はある人の言うところでは、今の大坂の内にあった【上本町通り安曇寺町(あんどうじちょう)筋の民家の後ろに小さい祠があって、今も「古宮跡」と伝える。これは高津の宮の跡である。天満の社司、渡邊氏の家蔵の難波のいにしえ図から考えると、このところに当たるだろう。】という。【そうでもあるだろう。ただし古宮跡と言い伝えただけのものは、いずれにしても昔の神社の跡であっても、そう言い伝えるだろうから、確かにこの大宮の跡とも決められない。しかしそのあたりからそう遠く離れてはいまい。今の世に「こうづ」を「高津」と書いて、この大宮をそこだと言い、その神社をこの天皇だと言うけれども、「こうづ」は書紀の孝徳の巻に「蝦蟇(かわず)の宮」とあるところで、この地名は宇津保物語の歌にも見えると谷川氏が言っている。その通りだろう。「こうづ」がいにしえの高津だったら、今も「たかつ」と呼ぶはずだ。どうして「こうづ」と言うだろうか。また今の高津神社は、中巻の明の宮の段に見える難波の比賣碁曾の社だと言う。そのことは伝三十四の十一葉で言った。また摂津志に「高津宮、一名大郡の宮」と言ったのはみだりごとである。大郡は書紀にも欽明の巻をはじめ、巻々に見えているが、高津宮と同一場所であるとは見えない。孝徳紀に小郡宮も見える。】○葛城之曾都毘古(かつらぎのそつびこ)は、建内宿禰大臣の子で、前に出た。【伝廿二の三十五葉】○石之日賣命(いわのひめのみこと)。書紀の歌に「兎怒瑳破赴以破能臂謎餓(つぬさわういわのひめが)云々」とある。名の意味は磐石のように、堅く永久にいるようにと称えたのではないだろうか。書紀に「三十五年夏六月、皇后磐之媛が筒城宮で死んだ。三十七年冬十一月甲戌朔乙酉、皇后を那羅山に葬った」、諸陵式に「平城坂の上の墓は、磐足媛(いわたりひめ?)命である。大和国添上郡にある。兆域は東西一町、南北一町、守戸はなく、楯列の池上の陵戸に兼ねて守らせている」とある。【一説に枕草子に鶯の陵とあるのは、この御墓である。鶯山の山頂にあると言っている。延喜式神名帳に「伊豆国賀茂郡、伊波乃比刀iいわのひめ)神社」、また「伊波乃比当ス神社」があるが、これはこの日女ではないだろう。】○大后(おおぎさき)。続日本紀十に、「正三位藤原夫人を立てて皇后(おおぎさき)とした。詔に・・・『この皇后に位を授けた。しかし私の治世だけではない。高宮(たかつのみや)で天下を治めた大鷦鷯天皇が葛城の曾豆比古(そつびこ)の娘、伊波乃比賣命を皇后として天下の政を行った例もある。今珍しく新しい政治を行うというのではない。もとから行ってきたことなのである。云々』」とある。【高宮とは「津」の字が落ちたのか。】これは王でなく、臣である人の娘を皇后とした、いにしえの例を引いたのである。【そもそも大后は、神武天皇の代には、大美和の神の娘だったから、話は違う。その後開化天皇までの御代々々は、臣の娘を皇后に立てたことは見えているが、この記にはその間大后ということは見えない。崇神天皇以降では、この記にも書紀にも、臣の娘を皇后に立てたことは、この石之比賣以外には見えない。それで例として挙げたのだ。曾都毘古(そつびこ)は、孝元天皇の曽孫だけれども、その父の大臣からしても臣の内であった。神功皇后の父などは、開化天皇の玄孫ではあるが、やはり王であったから、この例には入らない。すべていにしえは、王でなければ大后になれなかったのだ。それを書紀に、開化天皇までの代々に臣の娘を皇后としたように書かれたのは、実はみな妃・夫人だっただろう。大后とは言わなかったのを、皇后と書いたのは、例の潤色と見える。「某年月日、立てて皇后とした」というのも、潤色の文であることは前にも言った通りだ。とにかく書紀の文は漢文めかして書いてあるために、このように古義の隠れてしまっているのは、たいへんに嘆かわしいことである。大宝の定めには、妃にも内親王を入れているが、それは後宮職員令に「妃二人、これは四品位上、夫人三人、これは三位以上、嬪四人、これは五位以上」とあるので分かる。四品以上というのは親王の位だからである。夫人・嬪には品と言わないで位とあるのは、臣だからだ。妃すらこうであったら、皇后は言うまでもない。こういう定めについても、上代のことは推し測られる。この石之比賣のことは、特別な事情があったのだろう。】○大江之伊邪本和氣命(おおえのいざほわけのみこと)の名の意味は、大江は【「江」は借字。】書紀に「大兄」とある字の意味だ。この名のことは日代の宮の段【伝廿三の七葉】で言った。「本」は「大」だ。「和氣」のことは前に出た。○墨江之中津王(すみのえのなかつみこ)は、津の国の墨の江に住んでいたための名だろう。「中津」は書紀に「仲」とある意味だ。【「津」は「の」に通う例の助辞だから、下に「の」を添えないで、「なかつみこ」と読む。】舒明紀には「初P仲王(はつせのなかつみこ)という人も見える。この王のことは、若櫻の宮の段に見える。○蝮之水齒別命(たじひのみずはわけのみこと)。「蝮」は「たじひ」と読む。その理由は、書紀に「称え名を多遲比の瑞齒別の天皇という」と見え、民部式に「およそ籍を合わせるところの徒、あるいは蝮(たじひ)部の姓を『丹比部』と称し、あるいは『永吉』の名を改めて『長善』とする。こうしたたぐいのものは、合わせないということはないようにせよ」【これは蝮部は丹比部と同じことであるということだ。また後の文に「蝮部を定めた」とあるところに、新撰姓氏録を引いてあるのも考え合わせよ。】とあるからである。【旧印本に「みはら」と読んでいたのを、延佳もそれに従って、「淡路国三原郡である。日本紀にいわく、瑞齒別尊は淡路宮で生まれた」とあるのは、違っている。蝮を「みはら」と読む根拠はない。】ところで、「たじひ」に蝮の字を書いた理由は定かでない。【「蝮」は俗に言う「まむし」である。ある人が言うには、「俗に『たちばみ』とも言う」と言っている。だからいにしえにはこの虫を「たじひ」と言ったのだろう。ところで「たちばみ」は「たじひばみ」ではないだろうか。また「はみ」を縮めれば「ひ」だ。和名抄には、「和名『はみ』」、新撰字鏡には「のづち」とある。】「たじひ」は、河内国の地名である。その地のことは水齒別命のところで言う。【それを書紀の瑞齒別尊のところに、「初め天皇は淡路の宮で生まれた。そこに瑞井という井戸があった。その水を汲んで太子を表せた。時に多遲(たじ)の花が井戸の仲に落ちたので、太子の名とした。多遲の花は、今は虎杖(いたどり)の花と言う。そこで称えて多遲比の瑞齒別の天皇という」とあるのは、伝えが紛れたのである。これは三代実録十二に「丹チ(土+犀)(たじひ)眞人、貞峯らが表を上げて、・・・『古記を調べますと檜隈廬入野宮(ひのくまのいおいりののみや)で天下を治めた宣和天皇の皇子、加美惠波(かみえは)皇子が十市王を生み、十市王は多治比古(たじひこ)王を生みました。この王が生まれた夕べ、多治比(たじひ)の花が飛んで沐浴の釜に入って浮かびました。その偶然に感じて、名を多治比王と名付けました云々』」とあるのによると、多遲の花の故事は、この多治比王のことなのを、水齒別命の名も「多治比云々」と言うので、そのことに誤り伝えたのだろう。新撰姓氏録の丹治宿禰の條にも書紀のように言っているけれども、それは書紀によって言ったのだろう。しかし書紀・姓氏録を誤りとしても、後に成立した三代実録によっているのはなぜかと言うと、この命は河内の多治比に都したので、もとからそこに住んでいて、その地名だと言うことは明らかだからである。あるいはその地名の方が、この命の名から出たとも言えるが、履中天皇の歌にすでに「多遲比野」と詠まれているではないか。】水齒のことは、この命の段に出る。そこで言う。書紀の景行の巻に「水齒郎女」という名も見える。○男淺津間若子宿禰命(おあさづまわくごのすくねのみこと)。名の意味は、「淺津間」は地名で、大和国葛上郡である。【葛城は母后の本郷で、由縁がある。】書紀のこの巻【仁徳】の歌に「阿佐豆麻能(あさづまの)」、天武の巻に「朝嬬(あさづま)に出て、よって大山位以下の馬を長柄の杜に見た」、【長柄も葛城にある。】新撰姓氏録に「大和淺津間の腋上の地」、万葉巻十【五丁】(1817)に「旦妻山(あさづまやま)」、また(1818)「朝妻之片山木之爾(あさづまのかたやまきしに)」などがある。【今も朝妻村がある。和名抄には「近江国坂田郡、朝妻郷」があって、中昔の物語本などに見えるが、それではない。また弘仁私記に「難波である」と言ったのは、理由がない。】「男」は【借字】「小」で、小長谷、小筑波、小佐保などの「小」である。【古今集の歌の「こよろぎの礒」も、相模国の餘綾(よろぎ)で、「およろぎ」なのを「小」と書いたのを後に「こ」と読み誤ったのだ。そういう例は他にもある。小野、小川、また小篠、小車、小櫛などの「小」もみな同じだ。】これは小さい意味ではない。「眞」、「御」などのたぐいで、賞めて言う美称である。「小」は「大」と反対語で、かえって共に美称としたのだ。「若子」は「わくご」と詠む。書紀の武烈の巻に「思寐能和倶吾(しびのわくご)」、継体の巻の歌に「ケ(りっしんべん+豈)那能倭倶吾(けなのわくご)」、舒明の巻の歌に「氣菟能和區呉(けつのわくご)」、万葉巻十四(3459)に「等能乃和久胡(とののわくご)」などとある。「宿禰」のことは前に述べた。【伝廿二の十二葉】兄命の名の「大兄(おおえ)」に対し、「少兄(すくなえ)」の意味だ。書紀にいわく、「二年春三月辛未朔戊寅、磐之媛命を立てて皇后とした。皇后は大兄去來穂別(おおえのいざほわけ)天皇、住吉仲(すみのえのなかつ)皇子、瑞齒別天皇、雄朝津間稚子宿禰(おあさづまわくごのすくね)天皇を生んだ」とある。○上云(かみにいえる)とは、明の宮の段である。【伝卅二の五十五葉】○諸縣君牛諸(むらがたのきみうしもろ)。【最後の「諸」は「もろ」と読む。「諸縣」の「諸」にならって、「むろ」と読むのは良くないだろう。】名の意味は思い付かない。この人は前に出た。○髮長比賣(かみながひめ)も前に出た。○波多毘能大郎子(はたびのおおいらつこ)。この名は地名だろうか。詳細は分からない。「大郎子」のことは前に言った。「大郎子」という名も明の宮の段の終わりに出た。○大日下王(おおくさかのみこ)。日下は地名で、河内国河内郡にある。この地のことは朝倉の宮の段【伝四十一の九葉】で言う。この王のことは、穴穂の宮の段に見える。【伝四十の三葉】○波多毘能若郎女、亦名長日比賣命(はたびのわきいらつめ、またのなはながひひめのみこと)。この名の意味も思い付かない。應神天皇の皇女に同名の人があるのは、この皇女が紛れたのである。そのことはそこで言った。○若日下部王(わかくさかべのみこ)。【延佳本に「部」の字がないのは、さかしらに除いたのだろう。諸本にこの字がある。河内の日下を日下部とも言ったのだろう。朝倉の宮の段の歌に、「久佐加辨能許知能夜麻(くさかべのこちのやま)」とある。とするとこの名も、「部」を加えても言ったのだ。】穴穂の宮の段には、「部」の字なしでも見える。この皇女は雄略天皇の大后となった。その段に見える。書紀の雄略の巻に、「草香幡梭姫皇女(くさかのはたびひめのみこ)」とあり、細書に「またの名は橘姫(たちばなひめ)」とある。【この名は大和国の橘によるのだろう。后になって後に、その地に住んでいたことがあるのだろう。また書紀に、この皇女が履中天皇の皇后になったとあるのは、伝えが紛れたのだろう。そのことはその段で言う。】同紀にいわく、【仁徳紀である。】「また日向の髪長媛という妃は、大草香皇子と幡梭皇女を生んだ」とある。○庶妹を「ままいも」と読むことは、前に言った通りだ。【伝二十九の四十三葉】○八田若郎女(やたのわきいらつめ)は、前に出た。【伝卅二の十一葉】この皇女のことは、終わりの方に見える。○宇遲能若郎女(うじのわきいらつめ)も前に出た。【伝卅二の十一葉】書紀には、この皇女を娶ったことは見えない。○無御子也は、「みこまさざりき」と読む。○凡此大雀天皇(およそこのおおさざきのすめらみこと)云々。記中でこのように書いている場合、みな天皇の名を挙げない。単に「この天皇」とある中で、日代の宮の段にのみ、ここのように「凡此大帯日子天皇云々」とある。

 

此天皇之御世。爲2大后石之日賣命之御名代1。定2葛城部1。亦爲2太子伊邪和氣命之御名代1。定2壬生部1。亦爲2水齒別命之御名代1。定2蝮部1。亦爲2大日下王之御名代1。定2大日下部1。爲2若日下部王之御名代1。定2若日下部1。

 

訓読:このスメラミコトのみよに、おおぎさきイワノヒメノミコトのミナシロとして、カヅラキベをさだめたまい、またヒツギのみこイザホワケノミコトのミナシロとして、ミブベをさだめたまい、またミズハワケノミコトのミナシロとして、タジヒベをさだめたまい、またオオクサカノミコのミナシロとしてオオクサカベをさだめたまい、ワカクサカベノミコのミナシロとあいて、ワカクサカベをさだめたまいき。

 

口語訳:この天皇の御世に、皇后石之日賣命の御名代として、葛城部を定め、また太子の伊邪和氣命の御名代として、壬生部を定めた。また水齒別命の御名代として、蝮部を定め、大日下王之御名代として、大日下部を定め、若日下部王の御名代として、若日下部を定めた。

 

御名代(みなしろ)は、その名を永久に留めようとして、その民部を定めたのである。書紀の清寧の巻に、「二年春二月、天皇は子がないことを恨みに思い、大伴の室屋の大連を諸国に使わして、白髪部、白髪部の膳夫、白髪部の靫負(ゆげい)を置き、みな後の世に残そうとした」、武烈の巻に「六年秋九月、・・・『私には子がない。どのようにして名を後代に伝えようか。しばらく御代御代の天皇の例に従って、小泊瀬舎人を置き、代々の名として忘れられないようにしよう』」とある。【継体の巻に「大伴の大連が申し上げて・・・『白髪の天皇には子がないので、臣の祖父大連室屋を遣わして、州ごとに三種の白髪部を置き、それで後代に名を残せばいいでしょう』」、また「太子の妃、春日皇女・・・妃いわく『・・・子がないことの恨みが、太子に当たっている。私の名も絶えてしまうでしょう』・・・詔して、『私の子、麻呂古、お前の妃の嘆きは理にかなっている。・・・匝布屯倉(さほのみやけ)の名を与えて、妃の名を万代に伝えよ』」とある。】安閑の巻に「元年【秋七月詔して、「皇后は、体は天子と同じといっても、内外の名は殊に隔たっている。(訳者註:婦人の名はみだりに外部のものには知らせなかったので、宮中で知られていても外部では知られていない)云々」】冬十月、天皇は大伴の大連金村に詔勅して、『私は四人の妻を受け入れたが、今も子がない。万代の後には名が絶えてしまうだろう。・・・』、大伴大連金村は答えて、『私もそのことを憂えておりました。わが国家の天下の王は、子供があるとないとに関わらず、物の名にとどめて伝えたのです。皇后、次に妃たちのために屯倉の地を立てて、その名を後代に伝えましょう』と言った。『よろしい。速やかに置け』」などとあるのも、みな御名代である。この名はここに初めて見えるが、この御世に始まったことではない。すでに玉垣の宮の段に「御子伊登志和氣(いとしわけ)王は、子がなかったので子代として伊登志部を定めた」、【このことは伝廿四の廿五葉で説明した。考え合わせよ。】書紀の景行の巻に「日本武尊は・・・名を伝えるために武部を定めた」などとあるのも御名代で、既にその頃からあった制度である。またこの後には、遠つ飛鳥の段、朝倉の宮の段、甕栗の宮の段などにもこの名が見える。【ところが孝徳天皇の御世になって、天下の制度を大きく変えることになり、この御名代のたぐいもみな廃せられた。書紀のその巻に「大化二年春正月甲子朔、改新の詔にいわく、『その一に昔の天皇の立てた子代の民、ところどころの屯倉、および特には臣・連・伴造・国造・村首の持っている部曲の民・ところどころの田荘をやめよ』云々」、また「皇太子は使いを遣わして申し上げて、『・・・天皇は私に諸々の臣・連・伴造・国造の持っている、昔の天皇の頃に置かれた子代入部、皇子たちの私有する御名入部、皇祖大兄の御名入部およびその屯倉などを、なお昔のように置いておくべきだろうかとお尋ねになりました。私は答えて・・・そのため入部五百二十四口、屯倉百八十一箇所を奉ります』」、また「詔していわく『・・・王の名をはじめ・・・王名を軽々しく川野に掛け、百姓に名付けて呼ぶのは畏れ多いことである。・・・』」、また「三年・・・『神名をはじめとして天皇の名を、あるいは臣・連の氏とし、あるいは造たちの色(しな)とするのは・・・神名・王名を自分の恣にみだりに人々・ところどころに付けている。そのため神名・王名を人の賂物とする(部曲などを取引して他人の所有物にする)ことによって、他人の奴婢に入れて貴い名を汚す』」などとあるのがこれだ。文の意味は細かには分からないが、おおむねはそういった制度をみなやめたことである。入部の「入」は御子たちの名によくある入毘古、入毘賣などという「入」と同じく、親しみうつくしむ意味で、伊呂母(いろは)などの「伊呂」、郎子の「いら」などと同言だと言うことは、前に言った通りである。だから后や御子たちをうつくしんで、定めた「部」という意味で「入部」と言うのだ。とするとこのたぐいも御名代である。ところですべて名というものは、貴い人でも賤しい人でも、みなその人を賞めて言うもので、その人を賞め称えて言う。それを後世、人の名を呼ぶのを無礼だとして、忌み憚ることになったのは、漢国の風俗に倣ったのである。いにしえの御世御世に、御名代を定め置いたのは、上記の書紀の巻々に見えるように、その名を物に寄せて、後世に広く残そうとしてのしわざだったのを、この孝徳天皇の御世に、その名を軽々しく呼ぶのを畏れ入ることとして、やめたのは漢意によるもので、いにしえの心とは反対である。これをもってしても皇国と漢国の心映えが如何に違うかを悟るべきである。】○葛城部(かづらきべ)。葛城はこの大后の郷里だ、【歌にも「葛城高宮吾家のあたり」とある。】書紀に「七年秋八月、大兄去來穂別の皇子のために壬生部を定め、また皇后のために葛城部を定めた」とある。○壬生部(みぶべ)。「壬生」は、書紀の皇極の巻に「乳部、これを『みぶ』と読む」とあるのによって、「みぶ」と読む。【「ぶ」は濁って読む。壬生は昔から「みぶ」と「にぶ」の二通りの読み方があって、どちらが正しいか決められないようだが、上記の書紀の訓注によって決めるべきだろう。「乳部」がすなわち「壬生」という理由は、次に述べるので知るべきだ。ある人のいわく、拾介抄に「美福門は壬生氏の作るところとする。『壬生』は『みぶ』と読む」と言っているのも一つの証拠である。和名抄の国々の地名に壬生というのがあちこちにあるが、參河国八名郡には「美夫」と書いたのもある。また「にぶ」と読むのは、遠江国磐田郡、安房国長狹郡、筑前国上座郡にある壬生郷である。また躬恒家集に「壬生忠岑」を仮名で「にぶのたゞみね」と書いている。これらによると「にぶ」かとも思うが、やはり「にぶ」と言うのは、後に音便で転じた読みだろう。今の京の壬生も「みぶ」とも「にぶ」とも言う。ある人のいわく、「『にぶ』は『乳部』の字の音である。あの訓注の『美』の字は写し誤りだ」というのは間違いだ。この名は「乳部」の字音に関係しない。思い誤ってはいけない。また師(賀茂真淵)は「壬生は元々地名で、丹生だろう」と言ったが良くない。もしそうだったら、いにしえから直接に「丹生」とこそ書くべきだろう。丹生という地名が別にあるのとは分けて、壬生と書いてきたのは、異なる地名だからである。】「みぶべ」は「御産部」で、【字を省いたのである。】生まれた時の産屋に仕えた諸々の伴の部を言う。【だからもとは「みぶべ」だったのを省いて「みぶ」と言い習わして来たのだ。】書紀の神代巻で、ウ(廬+鳥、茲+鳥)艸葺不合(うがやふきあえず)尊の生まれたところに、「また彦火々出見尊は婦人を採用して、乳母、湯母(ゆおも)、また飯嚼(いいかみ)、湯坐(ゆえ)とし、すべて諸々の備えを行って養った」、この記の玉垣の宮の段に、本牟智和氣命が生まれた時、「・・・御母を取って、大湯坐(おおゆえ)、若湯坐を定めて養うように」、【旧事紀五に「品陀の天皇が尼綱連に勅して、『お前の腹から生まれた十三の皇子たちをお前が率いて育てるか』と言ったとき、連は大歓喜して、自分の子稚彦連他、妹の毛良姫の二人に壬生部を定めた」とある。】などあるのがそうだ。書紀の天武天皇が崩じたとき、誄(しのびごと)を述べる場面で、「第一に大海(おおしあま)宿禰蒭蒲(あらかま)が、壬生のことを誄した」とあるのも、大海宿禰は乳母の氏族だったので、壬生のことを言ったのである。【この天皇の幼名を「大海人の皇子」と言ったことで、乳母の氏族であることが分かる。その頃、皇子皇女の名は、乳母の姓を取っていたのが通例だからである。釈日本紀に「兼方が案ずるに、壬生のこととは御封戸のことだ」とあるのは、幼稚な説である。】皇極紀に「上宮の乳部の民」とあるが、ここに「乳部」とあるのは、児童を養う上では、乳を与えることが主体だからだ。この字によっても、その意味が知れる。ここに「壬生部を定め」とあるのは、単に生まれたときの御産部を指して言うのでなく、後にこの御子の御産部と名付けて、その民の戸(へ)を定め置いたのである。【上記の書紀の「上宮の乳部の民」なども、上宮太子の御産部として定め置いた民である。またその同じ巻に「東国に行って、乳部をもとに兵を起こし云々」とあるのも、上宮太子の乳部の民が東国にもいたことを言っている。国々に「壬生」という地名が多くあるのは、いにしえの御世御世に定め置かれた壬生部が住んだところだ。それがやがて姓にもなった。】書紀の推古の巻で十五年に「壬生部を定めた」とあるのは、どの皇子のだろうか。【あるいは当時の天皇の壬生だったから、名を挙げなかったのだろうか。】ところで「壬生」と書く「壬」の意味は定かでない。【あるいは史記の律書に「黄鐘は、・・・壬癸とする。壬の意味するところは任である。陽気が万物を地下に養成することである」と言った任養の意義を取ったのだろうか。ある人は「壬は妊と同じ。壬生は胎壬産生をいう」と言った。産生はそうだろうが、胎妊は「みぶ」に関係がない。また「壬は『みずのえ』だから水の意味だ」と言い、あるいは「『にん』の音を取ったので、『に』の仮名だ」と言う説は、みな誤りだ。「み」にも「に」にも「壬」の字を仮名にした例はない。】生の字は、産生の意味を取ったのである。【蓬生、浅茅生などの「生」の意味ではない。混同してはならない。同じたぐいと思って、清んで読むのは間違いだ。】○蝮部(たじひべ)は、この御子が住んでいた河内の地名による名である。新撰姓氏録の丹比宿禰の條に、「・・・御殿(みとの)宿禰の息子色鳴(いろなき?)。大鷦鷯天皇の御世に、皇子瑞齒別尊が淡路の宮で生まれた。・・・そこで多治比部を国々に定めて、皇子の湯沐邑とした、すなわち色鳴を宰として、丹比部の戸を掌らせた。丹比連という。遂に姓になった。・・・」と見え、また【和泉国皇別に】丹比部という姓もある。【蝮部という姓も見えるが、それは別の由縁によるものと見える。ただし字は丹比部と蝮部と通わせて書くのは、前に述べた通りだ。】○大日下部(おおくさかべ)、若日下部(わかくさかべ)。共に蝮部と同様である。書紀の雄略の巻に「根使主は・・・遂に官軍によって殺された。天皇は有司に命じて、その子孫を二分し、半分を大草香部の民として皇后に与え、残りを云々」とある。【皇后に与えたなら若草香部の民となるはずだが、大草香部とあるのは、「大」の字が誤ったのではあるまいか。ただしこのとき、大日下王はいなかったので、大草香部もともに皇后が持ったのだろうか。】

 

又役2秦人1。作2茨田堤及茨田三宅1。又作2丸邇池依網池1。又堀2難波之堀江1而通レ海。又堀2小椅江1。又定2墨江之津1。

 

訓読:またハダビトをえだてて、マンタのつつみ、およびマンタのみやけをつくりたまい、またワニのいけ、ヨサミのいけをつくりたまい、またナニワのホリエをほりてうみのとおし、またオバシのエをほり、またスミノエのツをさだめたまいき。

 

口語訳:また秦人を使って、茨田の堤と茨田の三宅を作った。また丸邇池と依網池を作り、難波の堀江を掘って海に通した。また小椅の江を掘り、墨江の津を定めた。

 

秦人は、應神天皇の御世に、秦造の祖、弓月の君が率いてやって来た百姓たちである。そのことはその段で言った。【伝卅三の卅四葉から卅九葉まで。】○役は「えだちて」と読む。【書紀ではこの字を「つかいて」とも読んでいる。】明の宮の段に、「また新羅の人が参渡って来た、・・・彼らを役(えだたせ)て百済池を作った」とある。【「えだたせ」と「えだて」とは同じことである。「たて」は「たたせ」の縮まった形だからである。】「えだち」のことはそこで言った。【伝卅三の十六葉】○茨田(まんた)は、和名抄に「河内国茨田郡は『まんた』茨田郷」がある。これである。【「茨」は、「常陸国茨城郡は『むばらき』」とあるように、「うばら」、「むばら」とこそ言え、「まん」といったのはやや後の訛りだろう。はじめから「まんた」だったら、この字を書くことはない。もとは「うばらた」だったのを「う」を省いて、「ば」を「ま」に移し、「ら」を音便で「ん」と言ったのだろう。日本後紀に、「延暦廿三年、茨田親王の名を改めて萬多(まんた)とした」。これは文字を改めたのだ。当時すでに「まんた」と言ったことがこれで分かる。武蔵国荏原郡に滿田郷というのも見える。これも「まんた」か。】皇極紀に茨田の池も見える。【この池は今も平池村にあるという。】堤は、書紀に「十一年群臣に詔して、・・・北の河のコミ(さんずいへん+勞)(ごみのこと)を防ぐため、茨田の堤を築いた。このとき二所の築が破れて、防ぎがたかった時、天皇の夢に神の教えがあった。『武蔵の人強頸(こわくび)、河内の人衫子(ころもこ)の二人を・・・』。その堤はまた完成した。時に世の人はその二箇所を強頸の断間(たえま)、衫子の断間と呼んだ。このとき、新羅人がやって来たので、この役に使った」とある。【「北の河」とは淀川を言う。「新羅人を使った」とあるのは、この記に「秦人」とあるのと違う。】新撰姓氏録【河内国皇別】に、「茨田の宿禰は、彦八井耳命の末裔、苣呂母能古(ころものこ)が仁徳天皇の御代に、茨田堤を作った」【「苣呂母能古」の五字は、印本に男野現宿禰と書いてある。今は一本によって引いた。ただし書紀の訓注と仮名が全く同じなのは疑わしい。】茨田郡は西北の辺りが淀川に沿っているので、その水が溢れるのを防ぐための堤である。【今も伊加賀村から太間(たいま)村、池田村のあたりまで、この堤の形がいささか残っているという。】延喜式神名帳に「茨田郡、堤根神社」がある。【この社は、今、野口村にあるという。】書紀のこの巻に「五十年、河内の人が言上して『茨田の堤で雁が子を生みました』云々」、続日本紀卅に「宝亀元年七月、志紀渋川、茨田の堤等の堤を修復した。述べ三百余人を要した」【「百」の字は「万」の誤りか。】卅二に「同三年八月朔日に、雨に加えて大風があり、河内国茨田堤の六箇所が決壊した」、卅八に「延暦三年閏九月、河内国の茨田郡の堤が十五箇所で決壊した。のべ六万四千余人に食料を与えて修復させた」、続日本後紀十八に、「嘉祥元年八月、洪水があって・・・茨田堤のところどころが破れた。九月・・・人を遣わして茨田堤を修復させた」とある。○茨田三宅(まんたのみやけ)。書紀に「十三年秋九月、はじめて茨田屯倉を立て、舂米(よねつき)部を定めた」、宣化の巻に「元年夏五月、詔して・・・河内国茨田郡の屯倉の穀物を加えて運んだ云々」【「運ぶ」というのは、筑紫へ運んだのである。】三宅の概要は前に述べた。【伝廿六の三十七葉】○丸邇池(わにのいけ)。書紀に「十三年冬十月、和珥池を作った」、推古の巻に「廿一年冬十一月、掖上池、畝傍池、和珥池を作った」とある。「丸邇」は前に出た。【伝廿三の七十五葉、ただしある説に、「この和邇池は大和のではなく、河内国石川郡喜志村にあって、今も仁徳天皇の御世に造ったと言い伝える。推古紀にあるのとは違う」と言う。どうだろうか。その説の通りなら、この「丸邇」というのは、ただ池の名だけだろうか。河内には「丸邇」という地名は物の本に見えない。推古紀にある「和珥池」は大和国添上郡の池田村にあって、光臺寺池とも言うと言っている。】○依網池(よさみのいけ)は、水垣の宮の段に見え、そこ【伝廿三の九十三葉】で言った通り、その御代に作られたのを、浅くなり崩れたりしたのを、この御代にまた修復したのだろう。○堀江(ほりえ)は、書紀に「十一年夏四月、群臣に詔して『今私がこの国を見ると、郊澤(ぬさわ)が広く、田圃が少ない。その上河水が横に流れて、河尻が清々しくない。霖雨が振れば、海潮が遡って、村里は船に乗るが、行き来する道も泥だらけだ。そこで群臣は共に見廻って、横に流れている河を削溝し、流れを海に返して、田宅を十全に保てるようにせよ』。冬十月、宮の北の野原を掘って南の水を引き、西の海に通した。そこでその川の名を堀江と言う」【「この国」とは、難波の辺りを指して言う。「南の水を引いて」というのは、この水が横向きに南の方へ流れていたのを、西の海に導いたのを言う。】とあるように、上代には淀川や」大和川の流れの末【大和川は、今は住吉の南方へ流れているけれども、これは近世のことで、昔は大坂の京橋の川へ流れていて、淀川と一つになっていた。今も古大和川という川筋がある。】広くみだりに流れて、田地が少なく、水害が多かったのを、この時にこの江を掘って、その水を集約して直接海へ通したのであって、これが即ち今の大坂の大川である。帝王編年記に、「今の山崎河を海に通したのが堀江である」と言っている。【山崎河とは、淀川を言う。渡邊(わたのべ)と言ったのは、この江に添って、南渡邊、北渡邊という里である。そこの渡りを堀江の渡りという。この渡りの辺りなので渡邊と言ったのである。この渡りに橋があったときもあり、渡辺橋と言った。その橋は今の天神橋の辺りだという。今の大坂に南堀江、北堀江という堀があるのは、いにしえの堀江ではない。混同してはならない。今言う堀江は、近く元禄の頃に掘ったものである。また難波の古図に、堀江というのも堀江川というのもある。そのことは次の小椅江のところで言う。】書紀の欽明の巻に「十三年・・・仏像を難波の堀江に流し捨てた」、敏達の巻に「十四年・・・既に焼け残った仏像を取って、難波の堀江に捨てさせた」、推古の巻に「廿七年、摂津の国にいた漁師が、堀江に網を沈めた」、万葉巻七【十二丁】(1143)に「佐夜深而穿江水手鳴松浦船梶音高之水尾速見鴨(さよふけてほりえこぐなるまつらぶねかじのとたかしみおはやみかも)」、巻十【三十八丁】(2135)に「押照難波穿江之葦邊者鴈宿有疑霜乃零爾(おしてるなにわのほりえのあしべにはかりやどれるはしものふらなくに)」、巻十二【三十七丁】(3173)に「松浦舟亂穿江之水尾早(まつらぶねまがうほりえのみおはやみ)」、巻十八【十丁】(4056)に「太上皇が難波の宮にいたとき、左大臣橘宿禰が詠んだ歌、保里江爾波多麻之可麻之乎大皇乎美敷禰許我牟登可年弖之里勢婆(ほりえにはたましかましをおおきみをみふねこがんとかねてしりせば)」、大御歌(4057)「多萬之賀受伎美我久伊弖伊布保理江爾波多麻之伎美弖々都藝弖可欲波牟(たましかずきみがくいていうほりえにはたましきみててつぎてかよわん)、この歌は船に乗って江で遊宴した日の歌云々」、巻廿【十九丁】(4336)に「佐吉母利能保理江己藝豆流伊豆手夫禰(さきもりのほりえにこぎずるいずてぶね)」、また【二十五丁】(4360)「・・・難波宮者伎己之米須四方乃久爾欲里多弖麻都流美都奇能船者、(なにわのみやはきこしめすよものくによりたてまつるみつぎのふねは)保理江欲里美乎妣伎之都々安佐奈藝爾可治比伎能保理由布之保爾佐乎佐之久太理(ほりえよりみおびきしつつあさなぎにかじひきのぼりゆうしおにさおさしくだり)云々」、また【四十丁】(4462)「布奈藝保布保利江乃可波乃美奈伎波爾伎爲都々奈久波美夜故杼里香裳(ふなぎおうほりえのかわのみなきわにきいつつなくはみやこどりかも)」、古今集【戀四】(732)に「堀江こぐ棚無小船(たななしをぶね)ゆきかへり云々」、後撰集【冬】(483)に「眞菰刈(まこもかる)堀江に浮て宿(ぬ)る鴨の云々」、また【戀一】(554)「君を思ふ深さくらべに津の國の堀江見にゆく我にやはあらぬ」などとある。他にも多い。○通レ海(うみにとおす)。「通」は【多くの本に「廻」とあるのは誤りだ。今は真福寺本、延佳本に依った。】師が「とおし」と読んだのが良い。○小椅江(おばしのえ)。【「椅」の字を延佳本で土偏に書いているのは、誤りであることは前に言った通り。】書紀には「十四年冬十一月、猪甘津(いかいのつ)に橋を渡した。そこを小橋という」とある。今も東生(ひがしなり)郡に猪飼野村、小橋村が近くにある。【猪飼野村は大坂城の東南に当たる。その西に小橋村がある。天王寺から十町ほど東の方である。猪飼野には今も鶴橋と言って、平野川に渡した橋がある。難波の古図にもそこに「つるが橋」というのがある。】この江を掘るというのは、どこの川を言ったのか、定かでない。あるいは上代には、大和川の水がこの小橋のあたりまでやって来ていて、広くみだりな流れだったのを、この時に堀江のように、その川筋を北へ掘り通して、堀江へ導いたのではないだろうか。【一般に河内国からこの辺りへ流れている川々は、いずれもいにしえには今とその筋がしばしば変わったので、上代には大和川がこの辺りへ流れていたのを、これより後に古大和川の筋に移ったかも知れない。今の世に猪飼を経て流れる川は平野川で、大坂の京橋のあたりで古大和川と合流している。平野川は、源が昔は河内の丹比郡の狹山池から出ていたという。今は大和川の支流で、同国の渋川郡から、住吉郡の平野を経て来る川である。この他、猫間川、今川などというのもこの辺りだ。とすると小椅江というのは、平野川などのことのようにも思われるが、それはそんなに大きな川ではない。難波の古図によって考えると、猪飼の辺りを流れて今の平野川に当たる川を百済川と記し、猪飼から南の田嶋というところのあたりに、その川に池のような広いところがあって堀江と記し、そこから西へ分かれて木津の方へ流れる支流を堀江と記し、また猪飼から別れて西へ流れる支流も堀江川と記したのである。大和川は既に今の古大和川のところにあった。この図はいつの頃のものとも分からないが、おおかた四、五百年より古いもののようではない。ところがその池のように広いところを堀江と記し、そこから分かれた川を堀江川と記したことを思うと、上代に大和川はこのあたりを流れて、小椅江を掘ってそれをも堀江と言ったのだろう。その大和川の筋は後に他のところに移ったのを、その池のところはその江の名残が残っていて、名もそこに残ったのではないだろうか。】さらに考察の必要がある。この記には「江を掘る」とのみあって、橋のことは見えない。書紀には橋のことだけがあって、江を掘ったことは見えないが、互いに漏れただけで、伝えが異なるわけではないだろう。この時にこの江を掘って【猪飼を書紀に「津」とあるのを見ても、船着き場だったことが分かる。】橋を渡したのだろうから、小椅という名は、書紀にあるようにその橋に因んで付けられたものだろう。【その図によって考えると、この江も共に堀江と言い、上記の堀江と紛らわしいときは、橋があるので小椅江と言ったのだろう。】○墨江之津(すみのえのつ)。息長帯比賣命の御世に住吉大神を祀ったところはその段【伝三十の七十七葉】に言った通り、菟原郡の住吉で、今のところにはなかった。それを今のところに移したという記事はないので、どの御世のことかは分からないが、いまここにこの津を定めたとあるのについてつくづく考えれば、その大神を今の地に遷したのもこの同じ時ではないだろうか。【神功皇后の御霊を合わせて祭ったのも、この時ではないだろうか。】書紀の雄略の巻に見える趣は、既に今の地と思われるので、その時より先に遷したことが分かる。【住吉という地名も、菟原郡の地名から移ったのである。今の住吉神社のことは、伝六の七十一葉で言った。】こうして遷したのは、大神の教えに依ることは論ずるまでもない。それはこの難波の宮の時に、大神が身近にいて守りたいと思ったからだろう。津のことは、書紀の神功の巻にこの大神の教えに「大津淳名倉(ぬなくら)の長狹にいて、行き交う船を見守りろう」とあるように、菟原郡にいたころからその地は大津だったのを、【和名抄に同郡に津守郷もあるのは、その津を守っていた人の住んでいた場所だろう。】このときに大神を遷したので、その津も一緒に移したのだろう。これは今の住吉郡の住吉津である。【郡名も移してからのことである。また住吉に近く、西生(にしなり)郡に津守郷があるのも、菟原郡から移したのだ。】書紀の雄略の巻に「十四年春正月、身狹村主(むさのすぐり)碧(あお)らが呉の国使とともに、呉の国から奉った手末の才伎(たなすえのてびと)、漢織(あやはとり)、呉織(くれはとり)、また衣縫(きぬぬい)、兄媛・弟媛(えひめ・おとひめ)らを住吉津に泊めた。この月呉の客の道として磯齒津路(しはつじ)を通し、名を呉坂と言った」とある。【これを菟原郡にある住吉ではなく、今の住吉の地だというのは、倭の京へ入るために磯齒津路を開いたからである。磯齒津は、万葉巻六の歌(999)に和泉国の千沼(ちぬ)と詠み合わせている。千沼は住吉の隣で、ほど近いところである。ある人のいわく、「住吉の東一里ほどのところに喜連(きれ)村というところがある。河内の境だ。昔は河内に属して万葉に『河内国伎人(くれびと)郷』とあったのを、『くれ』を訛って『喜連』という。孝徳紀、三代実録などに『伎人の堤(こざとへん+是)』とあるのもここのことだ。住吉から喜連に行く間に低い岡山が横たわっている。これが万葉巻三の歌(272)に『四極山打越見者(しはつやまうちこえみれば)』とある山で、呉坂はここだろう。いまも住吉から河内へ通ったこの道を、いにしえに呉の国人が通った道だと言い伝える。喜連村に『呉羽明神』という社などもある。また万葉の『四極山』の歌に詠み合わせている『笠縫の嶋』は、内匠式に『・・・菅の蓋一具、菅ならびに骨の材料を摂津の国から取り寄せ、笠縫氏がやって来て作る』とある笠縫氏の居住するところで、今の東生郡の深江村がこれである。そのあたりは今も菅を多く作り、朝廷にも奉るのが例である。この地などは今は島ではないが、いにしえはこの郡の内に川々が多く流れて、広い沼で海のようだった。船が往来して、実際に島のようだった」と言う。その説はもっと詳しいのだが、今は省いて挙げた。】この呉の使いは、異国の客が多い中でも特に珍しかったので、【難波の地に泊まらず】ことさらに住吉津に泊まり、準備しておいて与えたのだろう。すべて異国のことはこの大神が治めたからである。万葉巻十九に「入唐使に贈る長歌」(4245)に「忍照難波爾久太里住吉乃三津爾船能利直渡(おしてるなにわにくだりすみのえのみつにふねのりただわたり)云々」、【「三津」は住吉の津を賞めて御津といったのだ。難波の三津、大伴の三津などと言うところではない。】これもまた遣唐使であることから、特にこの津から出発したのであろう。

 

於レ是天皇登2高山1。見2四方之國1詔之。於2國中1烟不レ發。國皆貧窮。故自レ今至2三年1。悉除2人民之課役1。是以大殿破壞。悉雖2雨漏1。都勿2修理1。以レカイ(木+威)受2其漏雨1。遷=避3于2不レ漏處1。後見2國中1。於レ國滿レ烟。故爲2人民富1。今科2課役1。是以百姓之榮。不レ苦2役使1。故稱2其御世1謂2聖帝世1也。

 

訓読:ここにスメラミコトたかやまにのぼりまして、よものクニをみしたまいてノリたまいつらく、「クヌチにけぶりたたず。クニみなまずし。かれいまよりミトセというまでは、ことごとにオミタカラのミツギ・エダチをゆるせ」とノリたまいき。ここをもてオオトノやれこぼれて、ことごとにアメもれども、かつてつくらいたまわず。ヒをもちてそのアメをうけて、もらざるところにうつりてさけましき。のちにクヌチをみしたまえば、クニにけぶりみちたりき。かれ「オオミタカラとめり」とおもおして、いまはとミツギ・エダチおおせたまいき。ここをもてオオミタカラさかえて、エダチにくるしまざりき。かれそのミヨをたたえてヒジリのミヨともうす。

 

口語訳:天皇があるとき、高い山から四方の国を見渡して言った。「国の中に煙が立っていない。国はみな貧しい。そこで今から三年間、百姓の調・役をゆるせ」。そこで大殿が破れ壊れて、そこら中から雨が漏れたけれども、修理しなかった。雨を容器で受けて、漏れないところに移って暮らした。その後、国中を見渡せば、国に煙が満ちていた。そこで「百姓たちはみな豊かになった」と思い、課役を課すことにした。このため百姓たちは栄えて、役のために苦しむことがなかった。そこでその御世を聖帝の世というのである。

 

高山は、「たかやま」と読む。【中古以降は、「高き山」とのみ言うが、いにしえは「たかやま」と言うのが普通だった。それは俗に言う高山ではなくとも、適当な高さの山を言った。ところが難波の近くには、そういうほどの高い山はない。これは大和などに行くときに、道の途中にある山を言ったのか、それとも国見しようとして、ことさらに登ったのか、そうした細かなことは知りがたい。】○四方國(よものくに)。「よも」は「四面」である。これは天下をすべて含めて言うのではない。単に山の上から四方を見渡せる近い国々だ。万葉巻一【七丁】(2)に「天乃香具山騰立國見乎爲者國原波烟立籠海原波加萬目立多都(あめのかぐやまのぼりたち国見をすれば国原はけぶりたちたつうなはらはかまめたちたつ)云々」、また【十九丁】(38)「芳野川多藝津河内爾高殿乎高知座而上立國見乎爲波(よしぬがわたぎつかわちにたかどのをたかしりましてのぼりたちくにみをすれば)」、巻三【三十八丁】(382)に「國見爲筑波乃山矣(くにみするつくはのやまを)」、巻九【二十二丁】(1753)に「二並筑波乃山乎・・・嘯鳴登・・・言借石國之眞保良乎委曲爾示賜者(ふたならびつくはのやまを・・・うすふきのぼり・・・いふかしきくにのまほらをつばらかにしめしたまえば)」、巻十三【二十八丁】(3324)に「春避者殖槻於之遠人待之下道湯登之而國見所遊(はるさればうえつきがうえのとおつひとまつのしたじゆのぼらしてくにみあそばし)」などとある。○國中は「くぬち」と読む。万葉巻五【六丁】(797)に「阿乎爾與久奴知許等其等美世麻斯母乃乎(あおによしくぬちことごとみせましものを)」、巻十七【三十九丁】(4000)に「古思能奈可久奴知許登其等(こしのなかくぬちことごと)」などがある。○「烟不レ發(けぶりたたず)」。万葉巻五の貧窮問答歌(892)に「可麻度柔播火氣布伎多弖受許之伎爾波久毛能須可伎弖飯炊事毛和須礼提(かまどにはけぶりふきたてずこしきにはくものすかきていいかしくこともわすれて)」とある。○貧窮は「まずし」と読む。○至三年は「みとせというまで」と読む。三年の間である。○課役は、「みつぎ・えだち」と読む。【書紀で「おおせつかう」とも「えつぎ」とも読んでいる。】課と役の二つである。賦役令に「課役を合わせて集める」、また「課を免じ、役を集める」、また「課役ともに免ずる」などとある。義解に「課は調および副物、田租のたぐいを言う」とある。【民におおせて奉らせる物をすべて課と言う。また田租以外の他の物を課と言うこともあるが、通常は田租を含めて言う。】上代の課はどんな物であったか、分からない。賦役令には「すべてその調には絹、アシギヌ(糸+施のつくり)、絲、綿布など、みな土地の産物に従って出す。正丁(課税対象となる人)一人に絹、アシギヌは八尺五寸、絲は八両、綿は一斤、布は二丈六尺、その他の雑物を出す者は、・・・次丁二人について、男四人は正丁に準ずる。その調の副物は、云々」とある。【これは一人ごとに上の物を添えて出すのではない。そのところから出る物を、上記のうちのどれであれ、一品出すのである。副物はその他である。】田租は、田令に「およそ田は長さ三十歩、幅十二歩をもって段とする。十段で町とする。段の租は稲二束二把、町の租は稲二十二束」【義解に「段の地は稲五十束ができる。その稲を舂(つ)いて五升の米ができる。すなわち町に於いては、五百束を得ることができる」とある。およそ調、田租などの定めは書紀の孝徳の巻、大化二年に見える。考え合わせよ。また白雉三年の細書に、「段の租は稲一束、半町の租は稲十五束」とあるのは上記の例と違っており、どうだろうか。】とある。【上記の調と副物、田租などを合わせて課と言う。】役は、賦役令に「正丁は年に役十日、次丁二人は正丁一人と同じ」とある。更に詳しいことは例を見て知ると良い。万葉巻十六【二十二丁】(3847)に「テ(氏の下に一)戸等我・・・課役徴者(てこらが・・・はたらば)」とある。【この「課役」を「えだす」と読むのはどうか。これも課と役の二つならば、書紀の読みのように「えつぎ」と読むべきか。また役だけを言うのなら、「えだち」と読むべきだ。「テ戸」は誤字のように思える。】○除は、「ゆるせ」と読む。【「せ」と口で言った言葉のように読むのは、官司人に対する言葉だからだ。】ここまで大御詔である。許されたことは、この詔に含めて細かいことは省いたいにしえの文だ。○破壊は、「やれこぼれて」と読む。「破」を「やれ」と読むことは、書紀の武烈の巻に「耶黎夢之魔柯枳(やれむしばかき)」とある。【この大宮の本来の姿のことを書紀に「元年・・・すなわち宮室を堊色(しっくい)で塗った」とあるが、それは例の潤色の漢文のようである。】○「雖2雨漏1(アメもれども)」。日本紀竟宴の和歌に「於保散々岐多加都乃美也乃安女毛留遠布可世奴古度乎多美波與呂古布(おおさざきたかつのみやのあめもるをふかせぬことをたみはよろこぶ)」とある。○都は「かつて」と読む。そのことは上巻で言った。【伝十七の六葉】○修理は、「つくらい」と読む。書紀の皇極の巻に「擧始豆矩羅符母(よしつくらうも)」とあるのによる。【「つくろう」とも言うが、これによって「らい」と読む。】そもそもこの字は、通常は「つくる」と読むが、「つくらう」と言うのは、「つくる」を延ばして言った言葉で、同じことなのを【新たに作ることも、損なわれたのを直すことも、ともに「つくる」と言い、この「修理」の字も二方に用いて同じことである。】後世には違いがあって、「つくる」と言ったのでは新たに造作することのように聞こえるので、取りあえず別のように読んでおく。○勿の字は、記中では「不」の意味に使っていることは、初めの巻で言った通りである。○カイ?(木+威)の字は、諸本に「カン?(禾+咸)」または「カン(木+咸)」を書いてあるのを、いまは一本に依った。【「カン?(禾+咸)」の字は誤りである。】「カン(木+咸)」【字書には篋であるとも凾のたぐいだとも木篋であるともあって、「はこ」のことだ。】は分からなくはないが、漏れた雨を受けるには、「はこ」のたぐいは、少し縁遠いような感じがある。カイ(木+威)の字は、玉篇に「塘(つつみ)を決める木である」とあって、書紀の武烈の巻にも「塘カイ(おけのひ)」とある。それは細長い樋ではなくとも、水を受けるものを言うだろうから、「カン(はこ)」よりは似つかわしく思われる。【この字はまた「虎子である」とも注される。虎子は大小便を受けるもので、今言う「おまる」のことだ。ここは大小便ではないけれども、水のたぐいを受けるのだから、縁がないことはない。】「ひ」と読む。和名抄には、「カイは和名『いい』」とある。○後とは三年経った時を言うのだろう。○滿烟(けぶりみち)。日本紀竟宴和歌に、大鷦鷯天皇を「多賀度能兒乃保利天美禮波安女能之多與母爾計布理弖伊萬蘇度美奴留(たかどのにのぼりてみればあめのしたよもにけぶりのぼりていまぞとみぬる)」【新古今集の賀に、みつぎものを許して、国が富んだことを見て、仁徳天皇の歌に「高き屋にのぼりて見れば烟たつ民のかまどは饒(にぎは)ひにけり」、これは上記の日本紀竟宴の歌だったのだが、後世の歌風に作ったものを、このようにこの天皇の歌だと言っているのである。】万葉巻一【七丁】(2)に「天乃香具山騰立國見乎爲者國原波烟立籠(あめのかぐやまのぼりたちくにみをすればくにはらはけぶりたちたつ)」とある。○爲は「おもおして」と読む。【その理由は初めの巻で言った。例は水垣の宮の段にもあって、そこで言った。】○「今」は、【延佳本に「令」とあるのは、さかしらに改めたのだろうか。良くない。】「いまはと」と読む。今では課役を課しても大丈夫だと思ったのである。○「之榮」。「之」の字は誤っているだろう。【「榮之」の上下を誤ったかと思ったが、書紀でこそそういう字の使い方をしているけれども、この記には滅多にないことである。】水垣の宮の段にも「人民榮(おおみたからさかえなん)」とある。この句は課を免ぜられたことに係って、次の句の役を免ぜられた効果を言うのと二つである。○聖帝の二字を「ひじり」と読むべきである。「日知り」の意味だ。ただしこれは、皇国の古くからある名ではないだろう。【上巻に聖の神というのがあるが、それは借字だ。】「聖」の字に基づいて付けた訓だろう。【あるいは、かの百済から渡ってきた和邇などが付けた訓ではないか。「すめらみこと」に「天皇」の字を当て、この大御名を立てたのもこの人かと思われる。そのことは上巻で言った。】それは漢籍に聖人という者の徳を賞めて、日月に喩えたことがあるのを取って、日のように天下を知ろしめすという意味だ。【「日のように知ろしめす」というのを、「のように」を省いて言うのは普通だ。ところがこれを皇国の古い言葉として、「日嗣ぎ知ろしめす」意味だと思うのは間違いだ。「日嗣ぎ知り」を「日知り」と言うのは古言ではない。その意なら代々の天皇はみな「日知り」なのを、この仁徳天皇を特にそう呼んだのは、どういう意味とするのか。】天皇を賞めて「日知り」と言うのは、この天皇から始まったことで、漢国の例に倣ったものだ。万葉巻一【十六丁】(29)に「橿原乃日知之御世從(かしばらのひじりのみよに)」、続日本紀十に「許能天高御座坐而天地八方調賜事者聖君止坐而賢臣供奉天下平久(このあまつたかみくらにましてあめつちやもをととのえたまうことはひじりのきみとまさしてさかしきおみつかえまつりあめのしたたいらけく)」、十五に「飛鳥浄御原宮爾大八洲所知志聖乃天皇命(あすかのきよみばらのみやにおおやしましろしめししひじりのすめらみこと)」などとある。【また万葉巻三(339)に「酒名乎聖跡負師古昔大聖之(さけのなをひじりとおおせしいにしえのおおきひじりの)」など、天皇でなくても言う。これらは漢国で、王でなくとも徳が高いのを聖と呼んだ例によっていて、単に「聖」の訓である。また後世に僧侶を「ひじり」と言ったが、それも「聖」の字によって転じた呼び名である。】この記の序に「烟を望んで黎元(百姓)を慰めた。これを聖帝と伝える」とあった。【これはこの天皇のことを言う。】○世(みよ)。諸本にこの字がない。ここでは真福寺本によった。【「稱2其御世1」とあるから、この字がなくては足りない。旧印本その他一本に「謂聖帝止申也」とあるが、「止申」の二字は「謂」の訓点として付けたのを、後に誤って本文のように書いたものである。中巻の白檮原の宮の段にも「指レ聲」を誤って本文に書いた例がある。似たようなことである。また真福寺本には、「帝」の字の下に「世上申也」とある。これは「止」の字をまた「上」に誤ったものだ。諸本に「世」の字がないのは、上に「御世」とあるので、後人がさかしらに除いたのだろう。ところで師の説で、「『於是天皇』と言ったところからここまでは日本紀によって後人が書き加えたのだろう。文の様子が多くは四六に書いていて、いにしえの様ではない」と言ったのは、かえって誤りだ。後人の仕業ではない。文の様子もこの記の例に合っている。四六に整えたのは、皇国のいにしえの漢文では普通のことで、すべて漢文は必ず四六に書くものと思っていたからである。とするとこの記もこの段だけでなく、特別な事を書いたところは、どこでも四六であって、この段に限ったものではない。それに序にもこの段のことを挙げているので、後人の書き加えたものでないことを知るべきである。およそ序に代々のことを挙げたのは、みな記中にあることだ。】書紀にいわく、「四年春二月、群臣に詔して、『私が高殿に登ってみたところ、域中(くぬち)に烟が立っていなかった。百姓の家々が貧しく、飯を炊くものがいないと見える。私は聞いているが』・・・三月、天皇は、『今から三載というまで、百姓の苦しみを和らげるため、ことごとく課役を許せ』と詔した。この日から、御衣・鞋履(草履)が破れ尽きなければ造り直さなかったし、食べ物も腐らなければ換えようとしなかった。・・・このため垣が崩れても造らず、茅茨(かや)が壊れても葺かず、風雨が漏れて御衣が濡れ、天の星が壊れた隙間から見えて、床は露わになった。後、風雨が時に従い、五穀豊饒、三稔(みとせ)の間に百姓は富んで、既に烟が繁くなった。七年夏四月、天皇は高臺にいて、遠く望めば烟が多く立ち上っていた。・・・九月、諸国から請いて・・・それでもなお忍びがたいと聴かなかった。十年冬十月、初めて課役を仰せ付けて宮を修理した。・・・そこで今に聖帝と称える」とある。【このところ書紀には、例の漢ざまの潤色の文が殊に多く見られる。そこで今は多く省いて引用した。】

 

其大后石之日賣命。甚多嫉妬。故天皇所レ使之妾者。不レ得=臨2宮中1。言立者。足母阿賀迦邇嫉妬。<自レ母下五字以レ音。>爾天皇。聞=看2吉備海部直之女名黒日賣。其容姿端正1。喚上而使也。然畏2其大后之嫉1。逃=下2本國1。天皇坐2高臺1。望=瞻2其黒日賣之船出浮1レ海。以歌曰。淤岐幣邇波。袁夫泥都羅羅玖。久漏邪夜能。摩佐豆古和藝毛。玖邇幣玖陀良須。故大后聞2是之御歌1。大忿。遣3人於2大浦1。追下而。自レ歩追去。

 

訓読:そのおおぎさきイワノヒメノミコトは、はなはだウワナリネタミしたまいき。かれスメラミコトのつかわすミメたちは、ミヤのうちをもエのぞかず、ことだてば、あしもアガカにネタミたまいき。ここにスメラミコト、キビのアマのアタエがむすめ、なはクロヒメ、それかおよしときこしめして、めさげてつかいたまいき。しかれどもそのおおぎさきのネタマスをかしこみて、もとつくにににげくだりにき。スメラミコトたかどのにまして、そのクロヒメのふなでするをみさけまして、うたいたまわく、「おきへには、おぶねをつららく、くろざきの、まさずこわぎも、くにへくだらす」。おおぎさきこのうたをきかして、いたくいかりまして、オオウラにひとをつかわして、おいおろして、カチよりやらいたまいき。

 

歌部分の漢字表記(旧仮名):沖方には、小船連らく、くろざきの、まさづ子吾妹、國へ下らす

 

口語訳:その大后の石之日賣命は、たいへん嫉妬深かった。それで天皇の使う妃たちは、宮の内をも覗かず、何か変わったことがあったと聞くと、足をばたばたさせて嫉んだ。ところで天皇は、海部の直の娘、黒日賣がたいへん容姿が優れていると聞いて、召し上げて使った。ところが大后の嫉妬が甚だしいのを畏れて、本国に逃げ帰ってしまった。天皇は高臺に登って、その黒日賣が船出するのを眺めて、歌った。「沖の方には、小船を連ねて、くろざきの、本当に美しい私の妻よ、国へ下って行く」。大后はこの歌を聞いて、たいへん怒り、大浦に人をやって、船から追い下ろし、徒歩で行かせた。

 

甚多は、【「甚」を「其」と書いた本は誤りだ。】「はなはだ」と読む。万葉巻七【三十六丁】(1370)に「甚多毛不零雨故(はなはだもふらぬあめゆえ)」、巻十【六十丁】(2322)に「甚多毛不零雪故(はなはだもふらぬゆきゆえ)」、また【六十二丁】(2336)「甚毛夜深勿行(はなはだもよふかくなゆき)」、巻十三【九丁】(3250)に「天地之神毛甚吾念心不知哉(あめつちのかみはなはだわがおもうこころしらねや)」などがある。【「はなはだ」という言葉は、中昔の物語文などでは滅多に使わない言葉で、源氏物語などではことさらに不出来な儒者の意味に使うことがある。当時は雅でない言としたのだろう。しかし漢籍では「甚」の字をこう読むのは、古言が残ったのである。書紀に「甚」の字は「にえさに」と呼んでいることが多いが、それは当たらない。「にえさ」は物が多いことを言うことばで、そのことは肥後国風土記に見え、釈日本紀に引いてある。】また二字を「いたく」とも読むべきだろう。○嫉妬(うわなりねたみ)は上巻に見える。【伝十一の三十一葉】○所使は、「つかわす」と読む。【「お使いになる」という意味だ。】この言については、上巻【伝十六の二十八葉】、中巻【伝二十四の六十葉】で言った。○妾は「みめたち」と読む。【「妻等」である。中古の物語書などでも、女御・更衣のたぐいを「みかどのみめ」と言うことがある。】この字のことは、日代の宮の段に「又妾(またのみめ)」とあるところで言った。【伝廿六の九葉】○不得臨宮中は「みやのうちをもえのぞかず」と読む。上巻の石屋戸の段に「稍自レ戸出而臨坐」とあるのも「のぞきす」である。さらにそこで言った。【伝八の六十五葉】○言立者は「ことだてば」と読む。続日本紀四に「天皇御々世々天豆日嗣止高御座爾坐而此食國天下乎撫賜比慈賜事者辭立不在人祖乃意能賀弱兒乎養治事乃如久治賜比慈賜來業止奈母随神所念行須(すめらがみよみよあまつひつぎとタカミクラにましてこのおすくにアメノシタをなでたまいめぐみたまうことはコトダツにあらずひとのおやのおのがワクゴをひたしおさむることのごとくおさめたまいめぐみたまいくるわざとなもカムナガラおもおしめす)」、十に「又於2天下政1置而獨知倍伎物不有、必母斯理幣能政有倍之、此者事立爾不有、天爾月日在如土爾山川有如並坐而(またアメノシタのまつりごとにおきてひとりしるべきものにあらず、かならずもシリエのまつりごとあるべし、こはコトダツにあらず、アメにつきひあるごとツチにやまかわあるごとならびまして)云々」、十七に「・・・事立不有(ことだつにあらず)云々」、万葉巻二十【五十一丁】(4465)に「都加倍久流於夜能都可佐等許等太弖々佐豆氣多麻敝流(つかえくるおやのつかさとことだててさずけたまえる)」、伊勢物語に「正月(むつき)なれば事立(ことだつ)とて大御酒賜ひけり」などあるのを考え合わせると、普通でない、異なることをするのを事立つと言うのである。【「言」と書いているのは借字である。書紀の孝徳の巻(即位前記)に「計從事立(はかりごとしたがわれことたつ)」とあるのは、漢ぶみの語だから違っている。】だからここも御妻(みめ)たちのうちに、平常でない異なることの兆候があれば、ということである。【それは天皇の御寵があるかと疑い思うからである。】○足母阿賀迦邇(あしもあがかに)は、あがく状態で、足ずり(足をじたばた)などするのを言う。万葉巻五【四十丁】(904)に「立乎杼利足須里佐家婢伏仰武禰宇知奈氣吉(たちおどりあしすりさけびひしあおぎむねうちなげき)」、巻九【十九丁】(1740)に「反側足受利四管(こいまろびあしずりしつつ)」、また【二十八丁】(1780)「足垂之泣耳八將哭(あしずりしねのみなかん)」【「垂」の字は「摩」を誤ったものか。】などある通りで、嫉妬の仕方が甚だしいことを言う。「足掻く」は、万葉巻七【十二丁】(1141)に「赤駒足何久激(あかごまのあがくそそぎに)」、新撰字鏡に「エン(足+宛)は、チョウ(足+喋のつくり)である。踊りである。馬が奔走する様、『あがく』」また「チョウ(足+喋のつくり)は『あがく』」などとある。宇津保物語【國ゆづりの巻】に「おぼす事平(たひら)かにと手をあがき祈り願立(がんだて)させ給ふ」ともある。○吉備海部直(きびのあまべのあたえ)は、誰の子孫か分からない。氏人は、書紀の雄略の巻に「吉備海部直赤尾」、敏達の巻に「吉備海部直難波」、「吉備海部直羽島」などが見える。ここに姓だけを挙げたのは、名が伝わらなかったのだろう。○黒日賣(くろひめ)は、履中天皇の妃、玉穂の宮の段などに同じ名がある。日代の宮の段には、迦具漏比賣、眞黒比賣などがある。名の意味は、迦具漏比賣のところで言った。【また次の歌のところで言うことがある。】黒日子という名もある。○其容姿端正は、「それかおよし」と読む。例は白檮原の宮の段に見え、そこで言った。【伝廿の十五葉】「其」とは黒日賣を指して言う。○喚上は「めさげ」と読む。前に出た。【伝廿五の四十六葉】○本國(もとつくに)は、吉備国のことである。○高臺は「たかどの」と読む。書紀の應神の巻、仁徳の巻でもそう読んでいる。また仁徳の巻に「臺上」、継体の巻に「高堂」とあるのも、同じ読みをしている。和名抄には、「樓は辨色立成にいわく、『たかどの』」。【とあって、「臺は『うてな』」とある。しかし「臺」と書いたのも高殿の意味である。】続日本紀二に「西の高殿で宴した」、万葉巻一(38)に「芳野川多藝津河内爾高殿乎高知座而上立國見乎爲波(よしぬがわたぎつかわちにたかどのをたかしりましてのぼりたちくにみをすれば)」とある。○船出浮海の四字を「ふなでするを」と師が読んだのに従う。【「浮海」は漢文流の字である。読んではならない。「船出す」というところにその意味は備わっている。】○望瞻は、師が「みさけまして」と読んだのに従う。この言のことは、中巻の明の宮の段に「望2葛野1」とあるところで言った。【伝卅二の二十九葉】○淤岐幣邇波(おきへには)は、「澳(沖)方には」である。【「幣」は「邊(へた)」ではない。】○袁夫泥都羅羅玖(おぶねつららく)は、【下の「羅」の字を旧印本や一本に「之」と書いているのは、「羅々」の「々」を見誤ったのである。記中に「之」を仮名に用いた例はない。また延佳本に「羅羅之」と書いたのは、「羅々」とある本と「羅之」と書いた本を合わせてさかしらに改めたものである。今は真福寺本、他一本に依った。】「小舟連らく」である。【「小」は小さくなくても言う。】「つらら」は、数多連ねたさまである。海に浮かんだ状態である。「く」は【「かきくけ」と】活用する辞である。【「枕にする」を「まくらかん」、「まくらく」、「蔓(かづら)にする」を「かづらき」、「かづらく」と言うたぐいだ。「浮く」の「う」を省いたかとも思ったが、そうではないだろう。契沖は「羅」の字を「之」に誤った本によって、「列敷(つらしく)」と注したが、誤りである。】万葉巻十五【十三丁】(3627)に「伊射理須流安麻能乎等女波小船乘都良々爾宇家里(いざりするあまのおとめはおぶねのりつららにうけり)」、巻十九【廿丁】(4187)に「布勢乃海爾小船都良奈米眞可伊可氣伊許藝米具禮婆(ふせのうみにおぶねつらなめまかいかけいこぎめぐれば)」などがある。この句は、黒日賣の船だけでなく、他の船などがあまた浮かんでいたのを見て詠んだのである。【というのは、黒日賣は、付き人などは数多いただろうが、逃げ下るのに、多数の船に乗るほどの人数はなかっただろうからである。】○久漏邪夜能(くろざきの)は、諸本みな「久」の字を「文」に誤っている。ここでは改めておいた。【記中、「文」を仮名に用いた例はないからである。また記中、「白」、「黒」の仮名に「漏」を用いるのが通例だから、これは間違いなく「久」の字である。また延佳本に「夜」の字がないのは、さかしらに除いたのである。】「久漏」は「黒」で、この日賣の名に故があることと聞こえる。「邪夜」は定かでない。今の備中国小田郡に「黒崎」というところがあるから、【古い書物には見えない。】あるいは「夜」の字は「岐」を誤ったもので、「黒崎之」か。それならば、この地が本郷で、黒日という名もこの地名から出たのだろう。本郷から名を言うことは、同じ天皇の明の宮の段の歌に、「美知能斯理古波陀袁登賣(みちのしりこはだおとめ)」と詠んだのと同じだ。【または「邪」の字は「都」を誤り、「夜能」は「能夜」を上下誤ったもので、「黒津のや」かとも思い、それとも「邪夜」は「都良」の誤りで、「良」は例の助辞で「黒津ら之」かとも思ったが、今も昔も吉備に黒津という地名がないから、今ある黒崎の方が勝っているだろう。また「黒酒(くろき)」、「白酒(しろき)」と言うことがあるのからすると、「夜」の字は「祁」または「氣」の誤りで、「黒酒の」であって、その酒がうまいようにという意味で賞めた詞か、黒酒、白酒のうちで黒を取ったのは、日賣の名に寄せてのことかとも思ったが、やはりどうだろう。契沖は「久」を「文」と書いたものに基づいて、万葉巻四(685)に「二鞘之家乎隔而戀乍將座(ふたさやのいえをへだててこいつつおらん)」とあるのを引いて、「諸鞘の」だと言ったが、「文」の字が誤りだと言うことは論がない。それにかの「二鞘」は、古今和歌六帖(3439)には「もろさやの」として入れてあるが、万葉では今の本のように「ふたさや」と読むのが当然だろう。たとえ「もろさや」と言うことはあっても、その万葉の歌のような「隔てて」などという言もなく、単に諸鞘と言っただけで、分かれる意味にはどうしてなるだろうか。師は「對屋」で、「眞」の冠辞としたのだと言ったが、「對屋」という言葉は納得できない。】○摩佐豆古和藝毛(まさずこわぎも)。「摩」は「眞」で、賞めた言葉である。「佐豆」は万葉巻七【三十一丁】(1326)に「照左豆我手爾纒古須玉毛欲得(てるさずがてにまきふるすたまもがも)云々」とある。「照左豆」は、人の容貌を賞めた言葉か。それならここも同じだろう。「佐豆古」は「さにづらう兒」を縮めて言ったのではないか。顔色を賞めて「さにづらう」と言うのは、万葉では普通のことである。しかし歌全体を考えると、賞めて言った言葉のようではない。女のことを言ったようでもなく、定かではない。【師は、「『照』は借字で、てらう意味だ。佐豆は商人で、玉をてらう男を『照左豆』と言った」と言ったが、それも歌にぴったりしない。商人を「左豆」と言ったというのも根拠がない。「さつ男(猟師)」と同じだという説もあるが、それも縁がない。】そこでまた思うに、「佐」は例の「眞」に通う言で、【ここではそれを重ねて「まさ」と言っているのである。「正(まさ)し」と言うのも、これを二つ重ねた言葉である。また青色を「さお」と言うのは「真青」の意味を重ねて「まさお」とも言う。「さ」が「ま」に通う言であることは、すでに前に述べた。】「豆」は「弖(て)」を誤ったのであって、【古い書物では、この二字を互いに誤った例がある。】「弖古(てこ)」ではないだろうか。「てこ」は、万葉巻三(431)、巻九(1807)に「眞間之手兒名(ままのてこな)」、巻十四(3398)に「伊思井乃手兒(いしいのてこ)」、また(3540)「左和多里能手兒(さわたりのてこ)」などがあって、【「手」はみな借字で、】「照子(てりこ)」と賞めた名である。【また親の手元にいるときの幼い子を「手兒」と言うことがある。それは別であって、「たご」と読むべきである。「照子」と思い違えてはならない。】容貌を賞めて「照る」と言うのは、下光比賣という名、また万葉巻十一(2352)に「玉如所照公(たまのごとてらせるきみ)」などとあるたぐいだ。そうすると「麻佐豆古」は「眞佐照子」かも知れない。これはさらに考察する必要がある。【契沖がこの上の句を「諸鞘」と実無し、この句を「『眞鋤(まさび)津子』である。推古記の歌のように『大刀ならば、眞鋤(まさび)のように思う』という意味だ」としたのは、甚だ縁遠い解釈だ。また師は「『正つ子』である。『まなご』などと言うたぐいだ」と言ったが、女を賞めて「正(まさ)」というのもどうかと思われる上に、「豆」という辞も穏当でない。濁音であるのは、間違いなく助辞ではない。】「和藝毛」は「吾妹(わがいも)」を縮めたもので、【万葉巻廿(4405)に「和我伊毛古」ともある。】「吾妹兒(わぎもこ)」とも言う。書紀の継体の巻にも「倭蟻慕(わぎも)」と見え、さらに万葉に多い。○玖邇幣玖陀良須(くにへくだらす)は、「国へ下らす」である。【「る」を伸ばして「らす」と言う。】○大浦とは、難波の海上を言うのだろう。【すでに船出した後だから、海辺ではない。】書紀の應神の巻、またこの巻に「大津」とあるのも、難波の津のようであり、この段にも「難波の大渡」などもあるから、その海上を「大浦」と言ったのだろう。【吉備までの海辺の地名かとも思ったが、そうではないだろう。】○「遣レ人(ひとをつかわし)」は、黒日賣の跡を追って、舟で海路を遣わしたのだ。○追下(おいおろし)は、黒日賣が船にいたのを追って、陸に下したのである。○「自レ歩(かちより)」。万葉巻十三【二十五丁】(3314)に「次嶺經山背道乎人都末乃馬從行爾己夫之歩從行者毎見哭耳之所泣(つぎねふやましろじをひとつまのうまよりゆくにおのつまのかちよりゆけばみるごとにねのみしなかゆ)云々」、(3316)「君之歩行名積去見者(きみがかちよりなづみゆくみれば)」、また(3317)「馬替者妹歩行將有縱惠八子石者雖履吾二行(うまかえばいもかちならんよしえやしいしはふむともわふたりゆかん)」などがある。こうした理由は、船で行けば簡単に行けるのを、徒歩で行かせて苦しめたのだ。○追去は、「やらいたまいき」と師の読んだのが良い。上巻に「神夜良比爾夜良比賜也(かむやらいにやらいたまいき)」、書紀神代巻に「逐之(やらう)」などとあるのと同じ。この段のことなど、実に「足もあがかに嫉みたまう」と言っておかしくない仕業だ。

 

於レ是天皇。戀2其黒日賣1。欺2大后1。曰欲レ見2淡道嶋1而。幸行之時。坐2淡道嶋1。遙望歌曰。淤志弖流夜。那爾波能佐岐用。伊傳多知弖。和賀久邇美禮婆。阿波志摩。淤能碁呂志摩。阿遲摩佐能。志麻母美由。佐氣都志摩美由。乃自2其嶋1傳而。幸=行2吉備國1。爾黒日賣。令レ大=坐2其國之山方地1而。獻2大御飯1。於レ是爲レ煮2大御羹1。採2其地之菘菜1時。天皇到=坐2其孃子之採レ菘處1。歌曰。夜麻賀多邇。麻祁流阿袁那母。岐備比登登。等母迩斯都米婆。多怒斯久母阿流迦。天皇上幸之時。黒日賣獻2御歌1曰。夜麻登幣邇。爾斯布岐阿宜弖。玖毛婆那禮。曾岐袁理登母。和禮和須禮米夜。又歌曰。夜麻登幣邇。由玖波多賀都麻。許母理豆能。志多用波閇都都。由久波多賀都麻。

 

訓読:ここにスメラミコト、そのクロヒメをこいたまいて、オオギサキあざむかして、アワジシマみたまわんとノリたまいて、いでませるときに、アワジシマにまして、はろばろにみさけましてうたいたまわく、「おしてるや、なにわのさきよ、いでたちて、わがくにみれば、あわしま、おのごろしま、あじまさの、しまもみゆ。さけつしまみゆ」。すなわちそのシマよりつたいて、キビノクニにいでましき。かれクロヒメ、そのクニのヤマガタのところにおおましまさしめて、オオミケたてまつりき。ここにオオミアツモノをにんとして、そこのアオナをつめるときに、スメラミコトそのオトメのナつむところにいたりまして、うたいたまわく、「やまがたに、まけるあおなに、きびひとと、ともにしつめば、たぬしくもあるか」。スメラミコトのぼりいでますときに、ヒメのたてまつれるうた、「やまとへに、にしふきあげて、くもばなれ、そきおりとも、われわすれめや」。また、「やまとへに、ゆくはたがつま、こもりづの、したよはえつつ、ゆくはたがつま」。

 

歌部分の漢字表記:おしてるや、難波の先よ、出で立ちて、我が國見れば、淡嶋、おのころ嶋、檳榔の、嶋も見ゆ、放つ嶋見ゆ

山縣に、まける青菜に、吉備人と、共にし採めば、樂しくもあるか

倭方に、西風吹き上げて、雲離れ、退き居りとも、我わすれめや

倭方に、往くは誰が夫、籠水の、下よ延へつつ、往くは誰が夫

 

口語訳:天皇は黒日賣に恋い焦がれ、大后を欺いて、淡路島を見ようと言って、出かけたとき、淡路島にいて、遙かに遠望して歌った。「おしてるや、難波の崎から出て、わが国を見ると、淡嶋、自凝嶋、檳榔の嶋も見える。離れた嶋も見える」。その嶋から伝って、吉備の国へ行った。そこで黒日賣は、その国の山縣のところに言って、大御饌を奉った。そのとき羹を煮ようとして、青菜を摘んでいたとき、天皇はその乙女が菜を摘むところに至って、歌った。「山縣に蒔いた青菜に、吉備人と共に摘めば、楽しいなあ」。天皇の帰り道の時、日賣が奉った歌。「大和の方に西風が吹き上げて、雲が離れ、退いていても、私は忘れない」。また「大和の方へ往くのは誰の夫でしょう。籠水の下に延(は)えながら、往くのは誰の夫でしょう」。

 

「欺(あざむかして)」とは、本心は吉備の国に行って、黒日賣に逢おうとしているのを、単に淡路島を見に行くと欺いて行ったのを言う。○「欲レ見2淡道嶋1(あわじしまみたまわんと)」。この嶋は、書紀の應神の巻に、「二十二年・・・天皇は淡路島で狩りをした。この嶋は難波の西に横たわって、峯は紛錯、陵谷相続き、芳草が生い茂り、巨大な波がながれていて、鹿や鳧(鴨)の類が多い。そこでしばしば出かけた」【履中天皇、允恭天皇などもこの嶋で狩をしたことが見える。】とあるところである。○「坐2淡道嶋1(あわじしまにまして)」。書紀にはこの天皇がこの嶋に出かけたことは全く見えない。ただし「反正天皇は初め淡路の宮で生まれた」とその巻にあるから、大后と共に出かけたことはあったのだろう。しかしここは大后を欺いて、黒日賣に逢おうとしていたのだから、【大后と】共に出かけたわけでなく、その時とは異なるだろう。【なおこの行幸のことは紛らわしい事情がある。次に言う。】○遙望は、「はろばろにみさけまして」と読む。書紀の皇極の巻の謠歌(わざうた)に「波々魯々爾渠騰曾枳擧喩屡(はろばろにことぞきこゆる)」、万葉巻五【二十三丁】(866)に「波漏波漏爾於忘方由流可母志良久毛能智弊仁邊多天流都久紫能君仁波(はろばろにおもへゆるかもしらくものちえにへだてるつくしのくには)」、巻十九【二十二丁】(4207)に「遙々爾鳴霍公鳥(はろばろになくほととぎす)」、巻廿【三十七丁】(4408)に「波呂波呂爾和可禮之久禮婆(はろばろにわかれしくれば)」などとある。○淤志弖流夜(おしてるや)。【「淤」の字は、諸本に「於」を書いてあるのは誤りだ。記中、「於」の字を仮名に用いたことはない。ここでは真福寺本によった。】「難波」の枕詞で、冠辞考に見える通りである。○那爾波能佐岐用(なにわのさきよ)は、【「用」の字を延佳本で「由」と書いたのは、さかしらに改めたものである。その理由は前に述べた。諸本みな「用」である。】「難波の崎より」である。書紀のこの天皇の他の歌にも、「於辭手屡那珥破能瑳耆能(おしてるなにわのさきの)」とある。○伊傳多知弖(いでたちて)は、出発してということだ。○和賀久邇美禮婆(わがくにみれば)は、「わが国見れば」である。【「私が今国見をすれば」ということだ。「わが国」と続けたのではない。「わが」で切って考えるべきである。】これは海上を見渡したので、国ではなくとも遠く望めることを、【国や郷でなくとも、】全体として「国見」と言ったのだろう。ところがそこに疑問がある。難波の崎から出たと言ったら、この句は難波の崎から見た様子であって、【「出で立って難波の崎から見れば」の意味で、「よ」はこの句に係るからである。「出立」は、そこに出で立つのである。万葉に例が多い。そこに出で立つのでなく、船出して海路に出るのを「出立」というのも似つかわしくない。】「淡路島にいて」とあるのに合わない。難波の崎を出発してと見ても、海路の間だから、やはり合わない。【「淡路島にいて」とあるのが誤りとも考えたが、次に出る島々は淡路から見えるところで、難波からは見えないだろう。】思うに、「出立而」の上に、二句脱けたのだろう。【その句に淡路に至ったことがあるべきだ。試みに言うと、「那爾波能佐岐用伊和多理弖阿波遲能志麻用伊傳多知弖(なにわのさきよいわたりてあわじのしまよいでたちて)」などとあるべきところだ。だから「用伊」と続いた字が二箇所にあるので、紛れて落としたのではないか。そういった例はよくあることだ。】○阿波志摩(あわしま)は。上巻に見えた淡嶋である。【伝四の卅六葉】○淤能碁呂志摩(おのごろしま)も上巻に出た。【伝四の十二葉】この二つの島は、いずれも淡路島に近いところにあることは、上巻の伝に言った通りだ。○阿遲摩佐能(あじまさの)は、「檳榔の」である。檳榔というもののことは、中巻玉垣の宮の段で言った。【伝廿五の三十四葉】○志麻母美由(しまもみゆ)は、「嶋も見ゆ」だ。この島は檳榔が多いことから、この名になったのだろう。【今の世にも、薩摩や土佐の海などに、檳榔嶋(びろうじま)というのがあって、この木が多いと言う。】○佐氣都志摩美由(さけつしまみゆ)。この嶋の名の意味ははっきりしない。この二つの島も、淡路島から遠くないところには違いないが、どこにあるのだろうか。ありかも定かでなく、物の本にも見えたことがない。【そのあたりの国人、また舟人などによく尋ね聞いて考えるべきである。】○この歌は、単に見渡した風景を詠んだだけで、黒日賣への思いがないようなのはどういうことか。このことは更に次に言う。○其嶋(そのしま)は淡路嶋だ。○傳而(つたいて)とは、初めに行ったところから、また他の所に行くのを言って、玉垣の宮の段に見えたところ【伝廿五の九葉】で言った。万葉巻廿【三十五丁】(4408)に「海原乃可之古伎美知乎之麻豆多比伊己藝和多利弖(うなはらのかしこきみちをしまづたいいこぎわたりて)」、また【三十九丁】(4414)「之末豆多比由久(しまづたいゆく)」とある。○「幸=行2吉備國1(きびのくににいでましき)」。この黒日賣のことは、書紀の應神の巻にたいへんよく似たことがある。「廿二年に吉備臣の祖、御友別の妹、兄媛が夏四月に大津から船出して吉備の国に帰るのを、天皇が高臺に上ってその船を望んで歌った。『阿波ジ(方+ノ一の下に尼)辭摩(あわじしま)』・・・、秋九月、天皇は淡路島で狩りをした。・・・そこから吉備の国に移って行幸した。大いに御饗を奉った」とあるところである。書紀のこの巻【仁徳】には、「十六年、宮人桑田の玖賀媛(くがひめ)を天皇が召そうとしたけれども、皇后の嫉妬に苦しんで召さず。・・・玖賀媛を桑田【丹波にある。】に返し送った」ということが見えて、黒日賣のことは全く見えない。そこで思うに、この記の伝えはこの玖賀媛のことと、應神の巻の兄媛のことを混同したものではないか。【「玖賀」と「黒」と名もやや近く、皇后の嫉妬によって本国に帰ったことも似ている。また兄媛のことは終始似ている。】そうだとすると、淡路から伝って吉備に行幸したのも、應神天皇のことが紛れたのか。【それなら上の「淤岐幣邇波云々」の歌も、次にある「夜麻賀多邇云々」の歌も、應神天皇であろう。「久漏邪夜能」とあるのも兄媛の郷で、黒日賣というのも兄媛のまたの名ではないだろうか。】そうすると、上記の「淤志弖流夜」の歌は、この天皇【仁徳】が淡路島へ行幸したときの歌ではあるまいか。そのためその歌には、黒日賣を思う意味がないのだろう。○其國(そのくに)は吉備国である。○山方(やまがた)は地名だろう。古い書物に「〜の地」というところは、地名なのが普通だ。上巻の「鳥髪の地」、「須賀の地」とあるたぐいだ。吉備には山方というところは、古い書物には見えないが、あったのだろう。【安藝国に山縣郡があり、安藝までをかけて吉備国ともできるが、やはりそうではないだろう。備中などに今この地名はないのだろうか。その国人に尋ねて見るべきだ。】この地名のことは、次の歌のところで言う。○「令2大坐1」は「おおましまさしめて」と読む。続日本紀四に「大坐々而(おおましまして)」、廿七に「別好久大末之末世波(ことによくおおましませば)」、卅に「御身都可良之久於保麻之麻須爾依天(みみつからしくおおましますによりて)」、卅一に「悔彌惜彌痛彌酸彌大御坐(くやみおしみいたみ酸みおおまします)」<訳者註:宣長はこの「酸」の字を読みかねているようである>、また「憂賜比大坐止(うれいたまいおおましますと)・・・大坐々間爾(おおましますあいだに)」、三代実録廿一に「此遍思女須大心大坐麻須爾依天奈毛(このたびおもおしめすおおみこころおおましますによりてなも)」、平野祭の祝詞に、「萬世爾御坐令レ在米給登(よろずよにおおましまさしめたまえと)」、齋内親王奉入時の祝詞に、「堅磐爾平氣久安久大座坐志米武止(ときはかたはにたいらけくやすくおおましまさしめんと)」【古今集の序に「おましまし」とあるのは、「大」を省いて「お」と入ったのである。また普通「オハシマス」と言うのも、「オホマシマス」の「ホマ」を縮めて「ハ」となったのである。】などがある。ここは天皇を迎え入れることを言う。「令」の字の上に、諸本に「命」の字があるのは誤りだ。ここでは削っておいた。【「令」と形が似ていることから、紛れて重なった誤りだ。真福寺本には「令」の字がなくて「命」の字があるのは、「令」を誤ったもので、「命」の字が誤っている証拠だ。】黒日賣の名は、前後に「命(みこと)」と言っていることがないからである。【またこの人は「命」というほどの人ではない。】○大御飯(おおみけ)は、前のところどころで「獻2大御食1」とも「獻2大御饗1」ともあるのと同じ。○大御羹(おおみあつもの)は、和名抄に「羹は和名『あつもの』」とある。名の意味は、ぬるくない熱いのを良しとして、「熱物」と言うのだろう。【「物」は和名抄に蒸(むしもの)、茹(ゆでもの)、炙(あぶりもの)、韲(あえもの)など、今の世にも吸い物、香の物などと言うのと同じだ。】書紀の允恭の巻に「御膳の羹の汁が凍って氷になった」、万葉巻十六(3829)に「水葱乃シャ(者の下に火)物(なごのあつもの)」とある。○「爲レ煮(にんとして)」万葉巻十【十一丁】(1879)に「春野之菟芽子採而煮良思文(はるぬのうはぎ(嫁菜)つみてにらしも)」とある。○菘菜は「あおな」と読む。歌に見える。和名抄に「蘇敬の本草の注にいわく、蕪菁は北の人々は蔓菁と言う。和名『あおな』【温菘の和名は『こおね』】」と見え、書紀の持統の巻に「蕪菁(あおな)」、万葉巻十六(3825)に「蔓菁(あおな)」、新撰字鏡に「蔓は『あおな』」、「ホウ(くさかんむりに封)?(くさかんむりに土八干+寸)は『あおな』」、「聡明子は『あおな』」などとあるのがこれである。【字にこだわってはいけない。古人は字を心のままに当てたからである。字が違うからといって、疑ってはならない。今詳しく分かるのは、通常言う「な」は「菘」である。「蔓菁」とも「蕪菁」とも言うのは「かぶらな」だと言う。】今の世に言う「菜」である。【今も「青菜」と言う。】「な」と言うのは、すべて魚菜の総名だから、「菘」をいにしえには別けて「あおな」と言ったのだ。【今は「菘」に限って「な」と言う。】○採(つむ)は黒日賣が採るのである。○「採レ菘處(なをつむところ)」。この「菘」を単に「な」と師が読んだのが良い。【前に「あおな」と言ったのだから、ここは単に「な」と言うのが古文である。】万葉巻一(1)に「籠毛與美籠母乳布久思毛與美夫君志持此岳爾菜採須兒(かたまもよみかたまもちふくしもよみふくしもちこのおかになつますこ)」とある。○夜麻賀多邇(やまがたに)は「山縣に」で、山にある畠を言う。上巻の八千矛神の歌にも見える。【ともに山の方を言ったのではない。】すべて「縣」という名は「上田(あがりた)」で、もとは畠のことだと言うのは、中巻の志賀の宮の段に詳しく言った通りだ。【伝廿九の五十八葉】考え合わせよ。この地の名を「山方」としたのも【「方」は借字】この畠があったからだろう。【それをこの歌によって、上記の山方の地とあるのを地名ではないと考えるのは間違いだ。「令2大坐1」とあり、「獻2大御飯1」とあるのに依れば、地名であることは疑いない。】○麻祁流阿袁那母(まけるあおなも)は、「蒔ける菘も」である。○岐備比登登は、【記中、吉備にはみな「吉」の字を書いているのに、ここに「岐」の字を書いたのは、歌だからだ。これを以てしても、仮名遣いの厳密さが分かる。】「吉備人と」であって、黒日賣を指して言う。○等母邇斯都米婆(ともにしつめば)は、「共に摘めば」だ。「し」は助辞である。○多怒斯久母阿流迦(たぬしくもあるか)は、「楽しくもあるかな」である。【「たぬしく」は俗に言う、うれしく面白いことである。】歌の意味は明らかだ。【「麻祁流阿袁那母」とある語勢について、細かに解くなら、この山縣は御縣で、朝廷の御料に蒔いておいた菜であるから、御料に摘むのは当然のことだが、今自分がやって来て、黒日賣と共に摘めば特に楽しい、との意味ではないだろうか。そう見ると「山縣」を地名と見るのも、御料の御縣だから、殊に理由がある。国々に御縣があったことも、志賀の宮の段で言った。考え合わせよ。しかしこのような解釈では、かえってくだくだしいかも知れない。「蒔ける」というのを軽く見て、単に山の畠の菜を摘むことは、さして楽しいことではないのだが、それも黒日賣と共に摘めば楽しいという意味にとっても構わない。】○上幸(のぼりいでます)は、京へ帰ったのである。○「獻2御歌1」の「御」の字は衍字か。それともその下に字が脱落したのか。○夜麻登幣邇(やまとへに)は、「倭の方に」である。遠い国から畿内を見ると、そういう言い方になる。【この御代の都は難波だが、倭を本としたのである。】○爾斯布岐阿宜弖(にしふきあげて)は、「西風吹き散らして」である。西風を「にし」とだけ言うのは、【「風」ということを省いたのではない。この御代のころは、そこまで省いた言い方はない。】この歌から考えると、「ひむかし」、「にし」と言うのは、もともとその方から吹く風の名で、ヒムカシは東風、ニシは西風だったのが、その吹いてくる方の名になったのだ。【だからいにしえはその方を「東」、「西」とだけは言わず、「東の方(かた)」、「西の方」と言った。これは西風の吹いてくる方、東風の吹いてくる方という意味で、言い慣れたことだったのだろう。それを後には、方向を本義として考えたので、西風を「にし」とだけ言うのは、「風」を省いて言ったように思えるが、そうではない。】「し」は風で、風の神を「志那都比古(しなつひこ)」という「志」、また嵐、つむじ(風+火三つ)などの「し」も同じだ。【風は神の息で、息を「し」ということは、師の冠辞考、志長鳥の條にある通りだ。】また暴風(はやち)、東風(こち)などの「ち」も通音で同じだろう。東風(ひがし)、西風(にし)という名の意味は、「ヒムカシ」は「日向風」である。【東の方を日向(ひむかい)と言うことが多い。】「ニシ」は定かでないが、試みに言うなら「和風(なぎし)」ではないか。【「なぎ」は「に」に縮まる。また「なぎ」を「にぎ」とも言う。】「和(なぎ)」は、天がよく晴れたことを言う。【普通は風がないのを「和(なぎ)」と考えるが、それだけではない。雨、雲、霧などもないのを言う。古今集の戀の歌(753)に「雲もなく和(なぎ)たる朝の我なれやいとはれてのみ云々」と詠んでいるのは、「いと晴れ」と言うために「和たる朝」と言っている、これは「晴」を「和」というからである。風がないことは、この歌には用がない。すべて「なぐ」とは、何であれ静まり収まることを言うから、雨、雲、霧などの晴れるのも言う。】西風は特によく雲や霧を晴らすから和風と言ったのか。それなら次の句の「雲ばなれ」にも由縁がある。【ところで「ひむかし」、「にし」をもとは風の名とするのについて、「みなみ」、「きた」も共にもとは風の名だろうか、それともこれは初めから方位の名か、まだ考えが及ばない。】万葉巻十八【二十六丁】(4106)に「南吹雪消u而射水河(みなみふきゆきけまさりていずみがわ)」、これも「南風」を「みなみ」とだけ言っている。【これはここの歌に西風を「にし」とだけ言っているのを、「風」を省いたものと考えて、それに倣って「みなみ」と詠んだのか、それとも当時はいつもそういう言い方をしたのか、定められない。いつもそういう言い方をしたのなら、「みなみ」ももとは風の名だったかも知れない。「きた」もこれに準じて定めるべきだ。】「阿宜(あげ)」は「上げ」のようでもあるが、【西風は倭の方へ吹くから「上げ」とも言える。「のぼる」と言うのと等しいからである。】やはり「散らす」の意味だろう。集まったのが分散するのを「あがる」と言うのだが、これは自分からあがるのでなく、風が吹いて散らすのを言う。それで「あげ」と言うのである。【「散(あが)らせ」を縮めて「あげ」と言うのは、「分からせ」を「わけ」と言い、「埋もらせ」を「埋め」というのと同じ活用である。】○玖毛婆那禮(くもばなれ)は「雲離れ」である。西風が吹き散らして、雲が散り散りに分かれ離れるのを言い、次の句の序である。とすると、上の句の「西風吹き散(あ)げて」も、この句を導く材料である。【契沖が「天皇が西風を受けて上るのを雲に喩えて、雲の離れるように分かれる意味を添えている」というのも、理由がないわけではないが、天皇が追い風で上ることまでを言っているわけではない。】ただし「倭方に」と言ったのは、天皇が京へ帰る意味もこもっているだろう。○曾岐袁理登母(そきへおりとも)は、【延佳本に「曾々岐」ともう一つ「曾」の字があるのは、頭書きに大殿祭の祝詞に「蘇々岐」と言うことのあるのを引いていることを思うと、それと同一の言葉と考えて、さかしらに加えたのだろう。諸本みな「曾」の字は一つである。】「離れていても」ということだ。「そき」は「放(さか)り」のようで、遠く離れることである。「退く」というのも、後(しり)の方に離れることである。「とおぞく」も遠く離れることである。これらで得心すべきである。【契沖が引いた万葉の歌の(971)「山乃曾伎野之衣寸(やまのそきぬのそき)」、また(3954)「曾伎幣(そきへ)」などは、遠ざかったところを言うから体言(名詞)である。ここは用言だから、体言と用言の違いがある。】万葉巻十五【二十五丁】(3691)に「久毛婆奈禮等保伎久爾敝能(くもばなれとおきくにへの)」とあるのも遠く離れた地のことで、同じ意味で枕詞と続いている。「おりとも」は、【後世の気持ちとすれば「おるとも」と言うべき場面だが、そうではない。】白檮原の宮の段の歌にも「比登佐波爾伊理袁理登母(ひとさわにいりおりとも)」とある。そこで言った。【伝十九の三十五葉】なお「居(おり)」という言葉の使い方は、上巻に「退居(しりぞきおり)」とあるところで言った。【伝十四の二十八葉】この句の意味は、天皇が帰り上って、今からは京と吉備の国に遠く離れていても、ということである。【上の序からの続けの意味は、風に吹かれて雲が遠く離れるように、という意味である。】○和禮和須禮米夜(われわすれめや)は、「私は忘れない」ということで、【天皇を】決して忘れないという意味である。丹後国風土記に、水江(みずのえ)の浦嶼子(うらしまこ)が逢った神女の歌として、「夜麻等幣爾加是布企阿義天久母婆奈禮所企遠理等母與和遠和須良須奈(やまとへにかぜふきあげてくもばなれそきおりともよわをわすらすな)」とあるのは、ここの歌を【「にし」を「かぜ」に変え、四の句に「よ」を添えて七言とし、結句を変えて】それに移して語り伝えたものである。○夜麻登幣邇(やまとへに)は上記と同じ。○由玖波多賀都麻(ゆくはたがつま)は、【「波」を「婆」と書いた本は誤りである。ここは真福寺本他一本に依った。】「往くは誰が夫」である。○許母理豆能(こもりずの)は、「隠もり水の」である。次の句の枕詞で、冠辞考に見える通りだ。【そこに引かれた万葉巻十一の歌の「隱處(こもりづ)」の「處」の字は、あるいは「泉」の字を誤ったものではないだろうか。というのは、「處」は「ど」と読むのが普通で、「づ」とは読めない。「ど」にこの字を書くことはない。また「みず」を省くなら「み」と言うべきで、「づ」とした例を知らない。だから「泉」の字で、「づ」と読んで「イヅミ」の省略ではないか。そうだとすると、ここの「ヅ」も泉だろう。さらに考察の必要がある。】○志多用波閇都々(したよはえつつ)は、「下から延えつつ」だ。「よ」と「ゆ」は通うと契沖が言った通りだ。「したよ」は物事をしのび隠して行うのを言う。万葉巻四【三十一丁】(598)に「戀爾毛曾人者死爲水無瀬河下従吾痩月日異(こいにもぞひとはしにするみなせがわしたゆわれやすつきにひにげに)」、巻十【十四丁】(1901)に「藤浪咲春野爾蔓葛下夜之戀者乏雲在(ふじなみのさけるはるぬにはうくずのしたよしこいばともしくもあらん)」、【「夜」は借字で、「従」である。】巻十一【三十五丁】(2723)に「埋木之下從其戀(うもれぎのしたよぞこうる)」などがある。また同巻【八丁】(2441)に「隱沼從裏戀者(こもりぬのしたゆこうれば)」、また【三十四丁】(2719)「隱沼乃下爾戀者(こもりぬのしたにこうれば)」、巻十二【廿丁】(3021)に「隱沼之下從將戀(こもりぬのしたゆはこいん)」、また(3023)「隱沼乃下從戀餘(こもりぬのしたゆこいあまり)」、巻十七【十六丁】(3935)に「許母里奴能之多由孤悲安麻里(こもりぬのしたゆこいあまり)」、これらは枕詞からの続けの意味までここと同じだ。「はえ」は心を込めて妻問いするのを言う。明の宮の段の歌に「波閇祁久斯良邇(はえけくしらに)」とあるところ【伝卅二の六十九葉】で言ったことを考え合わせよ。万葉の歌などを引いてある。遠津飛鳥の宮の段、輕太子の歌に「斯多備袁和志勢志多杼比爾和賀登布伊毛袁(したびをわしせシタドイにわがとういもを)」とあるのも、下延えと同意だ。この句は、天皇が大后の嫉妬を憚って、はっきりと示さず欺き隠して【この吉備に】やって来て、密かに妻問いしたことを言う。【契沖が「ああしよう、こうしよう」などと兼ねてから考えておくのを、「下延え」と言った、というのは大きな誤りである。また師の冠辞考に、「波」を濁って「下婚(したよばい)」の意味に注したのも合わない。「よ」は「より」だということは、上記の万葉の歌などでも明らかであり、「婚」は「よばい」とは言っても「よばえ」と言った例はない。「婚(よばい)」と「延(はえ)」とは、事は同じでも詞は別である。】○由久波多賀都麻(ゆくはたがつま)は前に出たのと同じ。「ゆく」は、天皇が京へ帰るのを言う。「誰が夫」とぼんやりした言い方をしたところに、大后を憚って、思うままに行動できず、急ぎ帰るのを哀れに思った意味を含んでいて、別れの情がたいへん深く哀れに聞こえる。



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