本居宣長『古事記伝』(現代語訳)36

 

自レ此後時。大后。爲レ將2豊樂1而。於レ採2御綱柏1。幸=行2木國1之間。天皇。婚2八田若郎女1。於レ是大后。御綱柏積=盈2御船1還幸之時。所レ駈=使3於2水取司1。吉備國兒嶋之仕丁。是退2己國1。於2難波之大渡1。遇2所レ後倉人女之船1。乃語云。天皇者。皆婚2八田若郎女1而。晝夜戲遊。若大后不レ聞=看2此事1乎。靜遊幸行。爾其倉人女。聞2此語言1。即追=近2御船1。白=之3状具如2仕丁之言1。於レ是大后大恨怒。載2其御船1之御綱柏者。悉投=棄2於1レ海。故號2其地1謂2御津前1也。

 

訓読:これよりのち、おおぎさき、とよのあかりしたまわんとして、みつながしわをとりに、キのくににいでませるあいだに、スメラミコト、ヤタのワキイラツメにみあいましつ。ここにおおぎさきは、みつながしわをミフネにみててかえりますときに、モイトリのツカサにつかわゆる、キビのクニのコジマのヨボロ、これおのがクニにまかるに、ナニワのオオワタリに、おくれたるクラビトメのフネあえり。すなわちカタリけらくは、「スメラミコトは、このごろヤタのワキイラツメのみあいまして、ヨルヒルたわれますを、もしおおぎさきはこのこときこしめさねかも。しずかにアソビいでます」とぞカタリける。かれそのクラビトメ、このかたれることをききて、すなわちミフネにおいしきて、ヨボロがいいつるごとありさまツブサにもうしき。ここにおおぎさきいたくうらみいかりまして、そのミフネにのせたるみつながしわをば、ことごとになげうちたまいき。かれそこをミツのサキとはいうなり。

 

口語訳:これより後、大后は豊の明かりをしようとして、御綱柏を採りに木の国に行幸した。その間に、天皇は八田若郎女を妻に迎えた。大后は御綱柏を船に一杯に積んで帰ろうとしたとき、水取司に使っていた吉備国の兒嶋の仕丁が、自分の国に帰ろうとした。彼は難波の大渡で、遅れてやって来た倉人女の船に出会った。そこで「天皇はこの頃、八田若郎女を娶って、昼夜遊び戯れている。大后はこのことを聞いていないのではないか。静かに遊んでいらっしゃる」。倉人女はこれを聞いて、大后の船に追いつき、詳しく仕丁の話したことを聞かせた。そこで大后はたいへん恨み怒って、その船の御綱柏を残らず捨ててしまった。そこでその地を御津前と言う。

 

「自レ此後時(これよりのち)」は、【「後時」の二字を「のち」と読む。】吉備の黒日賣のことの後に、またこういうこともあったと、次のことを語ろうとして言いだした言葉である。○豊樂(とよのあかり)は豊明と同じ。【「明」は言葉のままに書き、「樂」は意味に基づいて書いた字である。】中巻の明の宮の段に出た。【伝卅二の五十七葉】○爲將は、「したまはんとして」と読む。【「將爲」と書く意味だ。下文には「將レ爲2豊樂1之時」とある。「爲」を「ために」と読むのは良くない。】○御綱柏(みつながしわ)。造酒司式の大嘗祭供奉の料に、「三津野柏二十把【一日に八把】、長女柏四十八把【一日に十六把】」とある。【二十把は、二十四把だろう。四の字が脱落したのだ。】同東宮の料にも同じようにある。大嘗祭式に、酒柏のことがところどころにある。皇太神宮儀式帳の六月祭の條に、「・・・すなわち大神宮司、諸氏、官人等は更に立って、五の重に参入して座に着く。すなわち倭舞(イ+舞)を仕奉する。まず大神宮司、次に禰宜、次に大内人、次に齋宮の主、神司、諸司、官人等【その舞い終わって、人別に直會の酒を、采女二人が侍って、御角柏に盛って人別に給う。】云々」、また九月祭の條にも「・・・その直會の酒は、采女二人が第四の御門の東に侍って、御角柏に盛って、各人にさずけて給う」【このことは大神宮式にも見えて、それには単に「柏」とある。】止由氣大神宮儀式帳にも同じようにある。御綱、三津野、御角はみな同じことである。いにしえは「つぬ」、「つの」、「つな」は通わして言った。この柏は葉が三つ叉で、先が尖っているから、「三角」の意味だろう。【荒木田經雅いわく、「今大神宮の祭に用いる三角柏は、俗に三つ柏というものだ、葉が厚く光沢がある。常葉である。俗に大名柏という葉に似て、三つ叉で先が尖っている。外宮では今赤芽柏を三角柏として用いるが、十二月の祭にも、六月、九月と同じように用いるのに、赤芽柏は冬は葉がないので、使えない。いにしえの三角柏ではないと言う。また伊勢のある書物に、『考えるに、三節祭御遊びの柏酒を、年中行事には、女官に柏を持たせ、もう一人の女官は榊の葉で柏の上に注ぐ』と見える。今は柄杓で榊の葉の上に注いで、柏を用いることは絶えた。有名な柏だから、再興してほしいものだ。志摩国の土貢(とうぐ)から今でも忌物を献じる。その中に三角柏がある。葉の形は穀(かじ)の葉に似ている」と言う。これを見ると、柏を用いることは、中頃には絶えていたのが、今はまた用いているのは、その後再興したのだろう。とすると今用いているのがいにしえのものに合致しているかどうか、確かではない。「土貢」というところから、絶えず献じていたのは、どんな柏だろうか。さらによく尋ねて見なければならない。谷川氏は、「伊勢神宮で三角柏というのは、犬朴(いぬほお)の木である。大和国では兒手柏(このてがしわ)と言う」と言っている。これは赤芽柏のことだろうか。赤芽柏は俗に「あかべ」とも言う木である。】新千載集の戀二(1228)に「御裳濯川(みもすそがは)と云處に齋宮とゞまり賜ひて御祓し賜ふに、女房を立隱れつゝ見るに、三角柏と云柏をおこせて、此は何とか云と云りければ申し遣しける、祭主輔親、『吾妹子が御裳濯川の岸に生る君をみつのゝ柏とをしれ』」、【四の句は、他の書に引いたのはみな「君をみつゝの」とある。新千載集には直して入れたのだろう。】続古今集の戀四(1290)に、小侍従、「思ひあまり三角柏に問事の沈むに浮は涙なりけり」【鴨長明の伊勢記にいわく、「この国に三角柏というものがある。小侍従の歌に、『神風や三角柏にとふことの沈むにうくは涙なりけり』と詠んでいる。これで占うことがあるのだろうか。日頃おぼつかなく思うことを人に尋ねれば、『聞いてませんね』とばかり言う。どういうことだろう。この柏を、輔親卿の集に、『みもすそ川の岸に生る』と詠んでいるのは、その辺りにあるかと尋ねれば、『昔はあったのだろう。今の世には、志摩国のとくの嶋というところにある。木の上にかずらのように生えているのを、上って切り下ろすとき、ぺたんと伏せて落ちたのを取らず、立てて落ちたのばかり取る。その落ちるさまに問うことがある』とか言い伝えている。これは神宮の四度の祭の時、必ず要るものだ。御前の遊びが終わって、四の御門の腋に『とくらのこ』という『おほみわ』を設ける。社のつかさがこの三角柏をそれぞれ一葉ずつ持ってよれば、その上にこの『みわ』を注ぐ。これを腰に挿して出る。長柏とも言うらしい。寂阿法師の百首の歌に、『思ふ事とくの御嶋の長柏長くぞ頼む廣きめぐみを』と言っている。このように聞いているが、まだその姿を見たことはない。この日ある人のもとから送ってきた。柏のようで幅が三、四寸、長さ三尺ほど、実に普通の葉のようではない」とある。三尺とは枝を言ったのか。葉の長さなら三寸を写し誤ったのか。袖中抄に「わぎもこが御裳すそ川の岸におふる人をみつゝの柏とをしれ」、顯昭いわく、「輔親集にいわく、齋宮が九月祭に詣った夜、みもすそ川に齋宮がとどまった時、女房が留まって、三角柏という柏をよこして、これは何とか言うと言ったので詠んだ歌である。中納言俊忠卿の家集で、戀十首の中に、逢うことを占うという題を俊頼が歌っていわく、『神風や三角柏に事問て立つを真袖に包みてぞくる』」。私(宣長)のいわく、「ある人いわく、『伊勢大神宮で、みつの柏を取って占うことがある。柏を投げると、立ったのは叶い、立たないのは叶わない。この故に、逢うことを占うと立つのは逢えるということだから、取って袖に包んで喜ぶのだ。・・・三角と言うのは、三葉柏か』」とある。拾玉集に「神宮の中禮典の時、永く長柏があるのを例とする。これを三角柏という。この柏は志摩国の吉備津嶋の境、土貢嶋の山中の木の上に生えるとあり、大神宮の年中行事によれば「七月四日、風日祈宮の神事で柏流しの神事、その様子は四月十四日の御笠の神事と同様」とある。神名秘書には「風神祭には柏流しの名がある。豊年であれば浮き流れ通り、凶年であれば沈み覆り損する。四月七月にこれを祭る」。豊樂に柏を用いることは、中巻の明の宮の段に、「大御酒の柏」とあるところ【伝卅二の五十九葉】で言った。またこの段の末に「大御酒柏を取って」とあるところ【伝卅七の二十二葉】でも言う。考え合わせよ。○「幸=行2木國1(きのくににいでまし)」。「木の國」は上巻に見える。この国は名に負う「木の国」だから、柏もことにたくさんあったのだろう。自ら行ったのは、遊びがてらだろう。【次の文に「静かに遊んでいらっしゃる」とあるのでも分かる。】○「婚2八田若郎女1(やたのわきいらつめにみあいましつ)」。この皇女は、明の宮の段に出た。【伝三十二】大后の嫉妬を憚って、彼女がいない間に婚したのである。書紀に「・・・太子は兄王に・・・すなわち同母妹の八田皇女を奉って、『正式に結婚するには足りないかも知れないが、わずかに掖庭(後宮)の数に加えたまえ』と言った」とある。【太子は宇治若郎子、兄王は大雀命である。】そうするとこの皇女は、すでに宇治若郎子がこの天皇に奉っていたのだ。【いにしえに親のない子は、同母兄が親のようにして、人に嫁がせるのも同母兄の心にあった。そのことは穴穂の宮の段に見える。】それを大后に憚って、この時まで婚姻しなかったのである。書紀には「二十二年春正月、天皇は皇后に語って、『八田皇女を召し入れて、妃にしようと思う』と言った。皇后は許さなかった。・・・皇后は歌で答えて・・・天皇はまた歌って・・・皇后は歌で答えて・・・天皇はまた歌って・・・皇后は遂に許さないと思って、答える言葉がなかった」とある。○積盈(つみみてて)。「盈(みてて)」と言うのが面白い。思うだけどっさり取り、不足なく、ことに心が喜ばしく思って還り来るさまが見える。○水取司(もいとりのつかさ)のことは、中巻の白檮原の宮の段、宇陀の水取のところ【伝十九の二十六葉】でも言った。なお職員令に「主水司(もいとりのつかさ)。正一人は炊事に使う水、堅い粥、柔らかい粥、および氷室のことを掌る。佑一人、令使一人、水部(もいとり)四十人、使部十人、直丁一人、駆使丁二十人、氷戸」【延喜の主水式に、この司の務めが見える。考え合わせよ。】いにしえは、飲む水を「もい」と言った。【川や池にある水を「みず」と言い、「もい」とは言わなかった。単なる魚を「うお」と言って、食う魚を「な」と言うたぐいだ。】催馬楽の飛鳥井に、「安須加爲爾也止利波春戸之可介毛與之美毛比毛佐牟之見萬久佐毛與之(あすかいにやどりはすべしかげもよしみもひもさむしみまくさもよし)」、【「美毛比毛佐牟之」は「御水も寒し」である。】万葉巻十六【二十七丁】(3975)に「・・・出流水奴流久波不出寒水之心毛計夜爾(いずるみずのぬるくはいでずさむきみもいのこころもけやに)」【この「寒水」を「ひやみず」と読むのは賎しい言い方だ。】和名抄に「漿は俗に言う『におもい』」とあるのも、「煮御水」の意味だろう。【また今俗に「おもゆ」というものも、「御もい」である。「ゆ」ではない。】赤染衛門の集に「おもひ汲(くみ)にまかる」とある。○所駈使は「つかわゆる」と読む。【「ゆる」は「るる」である。】使われていたのである。書紀の敏達の巻に「駈=使2於官1不レ放還2國1(つかさにつかわしめて、くににゆるしかえさず)」、孝徳の巻に「各置2己民1恣情駈使(おのおのおのがたみをおきてほしきままにつかう)」。また「駈役」も「つかう」と読む。【また「駈使」を「つかひと」とも読むのは、「つかい人」の意味だ。】続日本紀七に、「詔して、『率土の尺抄は四方に浮浪して、課役を逃れようとし、ついに王臣に仕え、あるいは資人を望み、あるいは得度を望む。王臣は本来の職分を離れて、自分勝手に駈使う』」。【「駈」の字は「驅」と同じ。玉篇にいわく、「追い遣うことである」とある。】○吉備國は前に出た。○兒嶋(こじま)は上巻に出た。【伝五】嶋の下の「之」の字は、真福寺本、他一本などには「郡」と書いている。しかし記中に「郡」と言った例はなく、そう言うはずもないから、ここでは旧印本、延佳本、他一本によった。○仕丁は「よほろ」と読む。【仮名は、和名抄に「近江国淺井郡、の郷の名、丁は『よほの』」、また同書に「膕は脚の曲がる中央の所である。和名『よほろ』」、新撰字鏡に「ソウ?(肉+爭)は『よほろのすじ』、脚の後ろの大きな筋」とあるのに依るべきである。書紀に「膕踵(よほろくぼ)」、宇津保物語に「御くしはよほろ過給へり」、宇治拾遺物語に「よほろすぢをたゝれたれば、にぐべきやうなし」などもある。「よほろ」は俗に言う足のひかがみである。その筋を「よほろすじ」と言う。これも丁(よほろ)から出た言葉と聞こえる。「仕丁」は、書紀で「つかえのよほろ」、「つかいのよほろ」などと読み、丁の中のある階級で、すべての丁を言うのではないが、ここでは前に「所駈使」とあるので、単に「よほろ」と読むべきである。「つかえ」は「つかわえ」を縮めたことばだから、「使わゆるよほろ」、すなわち「つかえよほろ」である。】まずすべて丁というのは、民の使われるものを言う。【中昔の書物に、「夫(ぶ)」と言い、今の世に「人足」というものだ。戸令に「すべて男女三歳をもって黄とし、十六以下を小とし、廿以下を中、その男は廿一を丁とする。六十一を老とし、六十六を耆とする」、また「老残はみな次丁とする」と見え、賦役令に「正丁は年ごとに役すること十日・・・次丁は二人で一正丁に該当する。中男は・・・」とあって、男は年齢廿一から六十までを「正丁」と言い、六十一から六十五までを「次丁」と言い、十七から二十までなのを中男と言う。「残」とは残疾があるものを言い、これは壮年であっても次丁とする。年ごとの役というのは、年ごとに決まった役である。】この丁に使われる役によって。「〜丁」という名があり、【役丁(えよほろ)、荷丁(もちよほろ)、軍丁(いくさよほろ)、匠丁(たくみよほろ)、運丁(はこびよほろ)などのようなものである。金葉集(324)に「御調物(みつぎもの)運ぶ丁を計(かぞ)ふれば二万(にま)の里人數そひにけり」とある。】仕丁というのは、孝徳紀に「仕丁は、古い規定の三十戸に一人なのを改めて【一人を厮に当てる。】五十戸に一人とする。【一人を厮に当てる。】それぞれ諸司に当てよ」、賦役令に「およそ仕丁は、五十戸ごとに二人、一人を厨に当てる。三年にして交替する。もし本司がその才能に頼っており、みずからも替わることを願わないならば許せ」、【孝徳紀には、このことが二箇所に見える。ともに「五十戸に一人」とある。令に「二人」とあるのは、一人を写し誤ったのではないだろうか。ある人の考えに、「以2一人1」とある上に「十人」に字が脱けたのかと言っている。そういうこともあるだろう。仕丁十人のうちで、その一人を厮に当てたのである。厮は義解に「使いのような者である。汲み炊きに使う。火頭と同じ」とあって、その十人の汲み炊きなど、諸々のことを営む者である。】持統紀に「諸司の仕丁は、一月に四日の暇を給う」、類聚国史に「延暦廿四年十二月、公卿が奏していわく『・・・加えた仕丁千二百八十一人の数が多いので、任を停止したいと思います』・・・これを許した」など見えて、諸国の民五十戸のうちから、一人ずつ京に上って、諸官司に使われていた者である。【三年ごとに替わる。】職員令の諸の官司に「直丁〜人、駈使丁〜人」とあるのがこれである。【書紀の雄略の巻に、「信濃国の直丁と武蔵国の直丁が、宿直のとき語らっていわく云々」、持統の巻に、「直丁八人に官位を与えた云々」などとある直丁も「つかえのよほろ」と読んでいる。直丁はその官司に侍って使われ、駈使丁は外へ使いに行くことに使われて、この二色が仕丁である。】これらは後代の定めだが、上代の様子も大きく変わることはなかったと見える。ここにあるのは、吉備の児島の民が、仕丁として難波の京で主水司に使われていた者である。○是は、字のままに「これ」と読む。前にも同様の例があった。【漢文にあるのとは、使い方が違う。】○「退2己國1(おのがくににまかる)」は、上記の職員令に「三年で一交替」とあるように、替わって吉備の国に帰るのである。持統紀に「新羅の仕丁八人が本土に帰るとき、恩を垂れ、禄を与えた」、【新羅国の民も仕丁に使っていたことがあるのだろう。しかしこれは全部そうだったわけではない。】続日本紀十三に「仕丁が役を終えて郷里に帰るとき、初めて程粮を与えた」、【「程粮」は、旅の途中の食料である。】などが見える。「退」は「まかる」と読む。万葉などにも「まかる」にこの字を書くことが多い。【京から他の場所に行くのを「まかる」と言い、他から京に行くのを「まいる」と言う。】○大渡(おおわたり)。書紀の仲哀の巻に、「向津野大濟(むかつのおおわたり)」【豊前国にある。】ともある。後に「大淀の大渡り」などとも言う。難波は特殊な地だから、その津を「大津」、浦を「大浦」と言うように、その渡りを「大渡」と言う。○所後(おくれたる)は、大后のお伴をしていたのが、遅れて来たのである。○倉人女(くらびとめ)。この名は、ここ以外には古書に見当たらない。後に「女蔵人」と言う者か。【女で蔵人の職を掌る者だ。古今集の雑上(874詞書)に、「寛平の御時に、上のさぶらひに侍けるをのこども・・・蔵人ども笑ひて云々」とあるのも、后の宮の女蔵人である。】ただしそれは後世のことだから、藏司のうちの女である者か。後宮の職員令に「藏司一人、神璽、關契(軍の通行証)、供御の衣服、巾櫛、服翫(囲碁・双六)、および珍寶、綵帛、賞賜のことを掌る。典蔵二人は尚藏と同じ。掌藏四人は、出納、綵帛、賞賜のことを掌る。女嬬十人」とある。この司は上代からあったのだろう。【万葉巻十五の目録に、(3723)「中臣朝臣宅守が蔵人部の女を娶って云々」とある。】なお若櫻の宮の段に見える藏司のところ【伝卅八の三十一葉】で言うことも考え合わせよ。○「遇・・・船」は「ふねあえり」と読む。【「ふねにあえり」と「に」を添えて読むのは、後世の言い方だ。この言葉遣いのことは前に述べた。】上述の仕丁が船で国に帰るとき、難波の大渡りでこの倉人女の乗っている船に逢ったのである。○語云(かたらいけらく)は、仕丁が倉人女に語ったのである。【この仕丁は主水司として使えていたときに、倉人女の知人だったのだろうか。またはそうでなくても構わない。】○天皇皆【延佳本に「皆」の字がないのは、さかしらに除いたのだろう。諸本にみなある。】「皆」の字は、「比日」の二字を誤ったのだ。「このごろ」と読むべきだと師が言ったのはその通りだ。万葉などに「比日(このごろ)」とある。○戲遊は、「たわれますを」と読む。【「ます」は「坐」、「を」は助辞である。】書紀の景行の巻に「その宴の日には、群卿・百寮はかならず『戲遊』の心があって、国家にない」、万葉巻九【十七丁】(1738)に「容艶縁而曾妹者多波禮弖有家留(うちしないよりてぞいみはたわれてありける)」、古今集秋上(246)に、「百種の花の紐とく秋の野に思ひたはれむ人な咎めそ」、後撰集雑一(1120)に、「まめなれどあだ名はたちぬたはれ嶋よる白波を濡衣に著て」、また別れ(1351)に、「名にし負ばあだにぞ思ふたはれ嶋浪のぬれ衣いくよ着つらむ」、新撰字鏡に「婬は遊びに耽ることである。戯れである。『ふける』、または『たわる』」、また「チツ(女+失)は楽しみ戯れることである。婬であり、タン(身+枕のつくり)である。『たわし』」、また「イ?(女+易)は戯れである。遊ぶである。『ふける』、または『たわし』」などとある。【斉明紀に「妖女(たわめのこ)」ともある。万葉で「風流士」、「遊士」などを「たわれお」と読んでいるのは誤りだ。】○不聞看此事乎は、【旧印本では「看」の字を落としている。】「このこときこしめさねかも」と読む。【「ね」の下に「ば」がある意味の古言だ。】中昔の雅言で「きこしめさねばや」と言う意味で、その「ば」を省いた例は万葉などに多い。巻八【五十六丁】(1648)に、「十二月爾者沫雪零跡不知可毛梅花開含不有而(しわすにはあわゆきふるとしらねかもあめはなひらくふふめらずして)」【ここの三句と同じだ、これを「しらぬかも」と読むのは古言を知らない訓である。「しらないのだろうか」という意味だ。】○御船(みふね)は、先に立った大后の船である。○追近は、「おいしきて」と読む。【「近」を字のままに「ちかづきて」と読んでは、次に「白(もうす)」とあるのに遠い。師は「おいつきて」と読んだ。その意味だ。】「しき」は「及ぶ」という意味で、次の歌に「阿賀波斯豆摩邇伊斯岐阿波牟迦母(あがはしづまにいしきあわんかも)」とある「斯岐」の意味だ。○白之状具如仕丁之言は、「よほろがいいつるごとありさまつぶさにもうしき」と読む。【文の順序の通りに読むと、漢文のようになる。】上巻に「更往廻其天之御柱如先」とあるのを「更にかの天之御柱を先のごと廻りたまいき」と読んだのと同格である。【伝五の三葉を考え合わせよ。】○投棄は、「なげうてたまいき」と読む。【「棄」を「うて」と言うことは、上巻の八千矛神の歌に見え、前に所々で述べた。】このことは、前に「事立てば、足もあがかに嫉妬した」とあるのと同じ心から出ている。【夫木抄(10681)の権の僧正公朝、「難波江に御綱柏を散しても恨みに堪(たへ)ぬ色を見せばや」は、ここのことを詠んだ歌である。】○御津前(みつのさき)は、書紀の仁賢の巻【六年】に「難波の御津」、斉明の巻【五年の細書】に「難波の三津の浦」、万葉巻一【廿六丁】(63)に「大伴乃御津乃濱松(おおとものみつのはままつ)」、また【廿七丁】(68)「大伴乃美津能濱(おおとものみつのはま)」、巻三【十五丁】(249)に「三津埼(みつのさき)」、巻十五【卅丁】(3722)に「大伴乃美津能等麻里(おおとものみつのとまり)」などがあり、他にもさらに多い。いにしえには難波から船出するのに主にこの津から立って、またこの津に泊まったことは、万葉の歌などに数多詠んでいるとおりだ、その結果難波の内の一つの地名となった。難波の古図に、高津の西の方、海辺に三津の浜、御津の浜がある。そこだろう。【そのあたりは、今も大坂に「三津寺町」というのがあって、三津社、三津寺もある。三津寺は、古今集の雑下(973)詞書、江次第などにも見える。ところで「大伴乃御津」というのは、「稜威(いつ)」の意味で続くのである。「い」と「み」が通う例は、上巻の建御雷神のところ、伝五の七十三葉で言った通りだ。また「いつ」の「つ」はかならず清音であることも前に言った。この「大伴の御津」の続きのことは、昔から詳しい説がなく、冠辞考の説もよろしくない。また冠辞考に、この御津を住吉の津と同じように言っているのも違う。住吉の津は前に言った通りで、別の地である。】書紀には「二十二年春正月、天皇は皇后に語って、『八田の皇女を召し入れよう』と言ったが、皇后は許さなかった、そこで天皇は歌って・・・皇后は返して・・・天皇はまた歌って・・・皇后は答えて・・・天皇はまた歌って・・・皇后は遂に許さず、もう黙って返すこともなかった。・・・三十九年秋九月、皇后は紀の国に出かけた。熊野の岬に至って、そこの御綱葉を取り、【葉、これを読んで『かしわ』と言う。】帰った。天皇は皇后がいないので八田皇女を宮中に召し入れていた。皇后は難波の濟りでこのことを聞いて、大いに恨み、その採った御綱葉をみな海に投げ棄て、着岸しなかった。葉を投げ棄てたところを『葉(かしわ)の濟り』と言う」とある。「御津の前と言う」とは伝えが異なる。これは書紀の方が正しいだろう。【「難波の柏の濟り」は景行紀にも見える。それは後の名で語り伝えたのである。】「御津」という名は「大津」と言うのとも同じで、この津を賞めた名のように聞こえる。【それをこの記の伝えは、「御綱」という名が似ているので混同したものである。「御津」を「三津」とも言うのは借字なのを、「難波津」、「高津」、「敷津」の三つを言うなどと言うのは、大きな間違いだ。】ただし、柏の濟りも場所は御津のあたりだろう。【摂津志に長柄川にあると言っているのは、場所が違う。】

 

即不レ入=坐2宮1而。引=避2其御船1。泝レ於2堀江1。隨レ河而。上=幸2山代1。此時歌曰。都藝泥布夜。夜麻志呂賀波袁。迦波能煩理。和賀能煩禮婆。迦波能倍邇。淤斐陀弖流。佐斯夫袁。佐斯夫能紀。斯賀斯多邇。淤斐陀弖流。波毘呂。由都麻都婆岐。斯賀波那能。弖理伊麻斯。芝賀波能。比呂理伊麻須波。淤富岐美呂迦母。

 

訓読:すなわちミヤにいりまさず、そのミフネをひきよきて、ホリエにさかのぼらして、かわのまにまに、ヤマシロにのぼりいでましき、このときにうたいたまわく、「つぎねふや、やましろがわを、かわのぼり、わがのぼれば、かわのえに、さしぶを、さしぶのき、しがしたに、おいだてる、はびろ、ゆつまつばき、しがはなの、てりいまし、しがはの、ひろりいますは、おおきみろかも。

 

歌部分の漢字表記:

つぎねふや、山代河の、河上り、わが上れば、河の邊に、生ひ立てる、鳥草樹の、鳥草樹の木。其が下に、生ひ立てる、葉廣、五百箇眞椿、其が花の、照り坐し、其が葉の、廣り坐すは、大君ろかも

 

口語訳:すなわち宮に入ろうとせず、その船を引き回して、堀江に遡らせて、川につれて山代に上った。この時に歌った歌。「つぎねふや、山代河を遡って見れば、川のほとりに生えている鳥草樹の、その下に生えている葉の広いゆつま椿、その花の照っている、その葉の広がっている様子は、大君のようだ」。

 

「不レ入=坐2宮1(みやにいりまさず)」は天皇を恨んで、背いたのである。宮は難波の大宮である。○引避は「ひきよきて」と読む。万葉巻七【二十一丁】(1226)に「神前荒石毛不所見浪立奴從何處將行與奇道者無荷(みそのさきありそもみえずなみたちぬいずくにゆかんよきじはなしに)」、巻十一【三丁】(2363)に「崗前多未足道乎人莫通在乍毛公之來曲道爲(おかのさきたみたるみちをひとなかよいそあるつつもきみがきまさんよきみちにせん)」、古今集春(99)に「吹風(ふくかぜ)に誂(あつら)へ囑(つく)る物ならば此一本(このひともと)はよきよと云(いは)まし」とある。泊まるはずの難波を避けてということである。○「泝レ於2堀江1(ほりえにさかのぼらして)」。堀江は前に出た。【「泝」とあるから、「堀江を」と読むようだが、「於」とあるのは、「に」と読むためである。それは海から堀江に入ったのを言う。堀江に入った後、遡ったのではない。】「泝」は「さかのぼらして」と読む。万葉巻二十【四十九丁】(4461)に「保里江欲利美乎左可能保流梶乃音乃(ほりえよりみをさかのぼるかじのおとの)」とある。【「さかのぼる」とは水の流れに逆らって上るのである。】○「隨レ河(かわのまにまに)」。河は淀川である。【堀江というのは、この川尻であることは前に言った通りだ。】「随」とは、このときどこを指して行くという当てがあったのではない。ただ難波の宮を避けるのが目的で、どこへともなく河のままに進んで、自然に山代に到ったのだ。○山代(やましろ)は前に出た。○此時(このとき)とは、河を上る間を言う。○都藝泥布夜(つぎねふや)は、【この言は書紀に四首ある。みな「夜」の字がない。万葉巻十三にあるのも「夜」の字はない。この記には四首あるうちの二首には「夜」の字があり、二首にはない。あるのを師は衍字としたが、ここも次の歌も、諸本共に「夜」の字があるから、とりあえずそうなっていたのだろう。】「継苗生や」だ。【「や」は「よ」と言うようなものだ。歌い出した辞である。】「なえ」を縮めて「ね」と言った。「継苗」とは、山の木を切り取った後に、また継いで樹を生い立たしめる材料として植えた苗を言う。「生(ふ)」は、その苗をあらかじめ蒔いて生えさせ、準備しておく土地である。【粟生(あわふ)、豆田(まめふ)、浅茅生(あさじふ)、蓬生(よもぎふ)などのたぐいで、そのものが生えている土地を「〜生」と言っている。】稲の苗を蒔いておく田を「苗代」と言うように、山の用途は樹を出すことが主体なので、樹を切り取ることを「山」と言って、【木樵が木を切り取る最初の所を「山口」と言う。また木を切る斧を「山多豆(やまたず)」と言う。これらみな「山」とは木について言う。】その切るべき木の継苗を生ずる地なのを「山代」と言う。万葉に「開木代(やましろ)」とも書いているのは、この意味である。【「開木」は、「代」と離して意味を取ると、木を切り出す意味で、「山」である。また「代」にくっつけて意味を取るなら木を生え立たせる「継苗」の意味である。どちらにしてもここに合っている。とすると、この「継苗生」の考えで、かの「開木代」の意味も相明かされるだろう。】だからこの枕詞は、「継苗生の山代」という意味に続けたのである。【それを昔から万葉に「次嶺經(つぎねふ)」と書いているので、「続いた山を経て行く」という意味に解してきたのは当たらない。「次嶺」という言もどうかと思われる上、山城の国は、大和からほど近い山をこそ越えて行くが、そういうほど続いた山を経て行く国ではないのを、どうしてそう言うだろうか。】山代は、一国の大きな名でもあるだろうが、また思うに初めは継苗を言う「山代」から来た一郷の名でもあるだろう。【本来一国の大きな名であっても、この枕詞の続けの意味は同じである。】○夜麻志呂賀波袁(やましろがわを)は「山代河を」である。この河は、山城国風土記に、「賀茂建角身(かもたけつぬみ)命は・・・山城国の岡田の賀茂に到って、山代河に従って下り、葛野河と賀茂河の合流するところに到った」とあるのに依れば、淀より上流で、木津川を言う。【この川は、淀で宇治川と合流してから淀川と言う。それは山城国から流れてくるので、淀より下でも山代川というわけではなく、やはり風土記によって、木津川と呼ぶべきである。それを契沖が「書紀では木津川だろう」と言いながら、「古事記では『堀江から泝って、河のまにまに山代に出た』と言って歌があるから、淀川を山代川と言ったのである」と言ったのは、「山代に出た」というのを、山代に着かない間のことと見ての説だが、良くない。「山代に出た」というのは、既に山代に到着した上でのこととしても差し支えない。やはり上記の風土記を考え合わせなかったための論であろう。木津川のいにしえの名は泉川だが、それはもっと上流の相楽郡の辺りでの名で、山代川というのは、その下流、綴喜郡、久世郡を流れている間の名であるだろう。また国名だから、泉川という辺りまでを含めたすべてを山代川というのでもあるだろう。】○迦波能煩理(かわのぼり)は、「川上り」である。河を船で上ったことを言う。この「かわ」は、直接山代川を指して言うのではない。淀川の下流の方を言う。「淀川を上って、山代川を私が上ったら」という意味だ。次の歌の「美夜能煩理(みやのぼり)」のところと考え合わせて知るべきである。○和賀能煩禮婆(わがのぼれば)は「私が上ったら」である。【「上って見れば」という意味に考えよ。】○迦波能倍邇(かわのべに)は、「河の邊に」である。これより以下は書紀と異なっている。次に言う。○淤斐陀弖流(おいだてる)は「生い立てる」である。【この言は、後世には清んで言うけれども、古言では濁っていた。】○佐斯夫袁(さしぶを)は、【「夫」の字を延佳本に「天」と書いているのは、次の句にある「夫」を旧印本などに「天」と誤っているのを良しと見て、ここもさかしらに改めたのである。良くない。】「鳥草樹(さしぶ)を」である。「を」は「よ」と言うようなものだ。和名抄に「楊氏の漢語抄にいわく、鳥草樹は『さしぶのき』、辨色立成の説も同じ」とあり、新撰字鏡にも「鳥草樹は『さしぶ』(しゃしゃんぼ)」【また「ショウ?(木+山の縦棒を延ばし、下にくにがまえ+縦棒、両側に人)は『させぶ』」ともある。】この木は、契沖いわく、「今の山里の人は『させぼの木』という。ヒサカキ(木+令)に似て小さい実が成る。熟すれば黒ずんだ紫で、童などは取って食うと聞く。ヒサカキは、和名抄に見えて、今俗に『ひさかき』と言う木だ。出雲国風土記に『佐世乃木葉(させのきのは)』とあるのは、この鳥草樹ではないだろうか」と言う。あるひとは、「鳥草樹は今俗に『ささぶの木』とも『しゃくぶの木』とも言う」と言う。【出雲風土記の大原郡佐世郷(させのごう)のところに「須佐能袁命が、佐世乃木(させのき)の葉を頭にかざして踊り云々」、また倭姫命世記に「佐々牟乃木枝」とあるのもこれか。同書に「佐々牟江に船が泊まった。そこに佐々牟江の宮を造って居らしめた」と言うのは、延喜式神名帳に「伊勢国多氣郡、竹佐々夫江(たけささぶえ)神社」とあるところである。これもこの木による名ではないだろうか。】○佐斯夫能紀(さしぶのき)は、【「夫」の字を旧印本や他一本、延佳本などに「天」と書いてあるのは誤りである。記中に「天」を仮名に用いたことはない。今は真福寺本によった。】前と同じである。契沖も師も上の「袁」の字をこの句の頭に付けて、「小」の意味としたが、それでは二句の続きが良くない。○斯賀斯多邇(しがしたに)は、「其の下に」である。「しが」は、その上にあるものを指して、「それが」ということだ。この段の後にある歌にも、「鹽にやき斯賀阿麻理(しがあまり)」、甕栗の宮の段の歌に「斯賀阿禮婆(しがあれば)」、書紀の雄略の巻の歌に「志我都矩瘘麻泥爾(しがつくるまじに)」、「旨我那稽摩(しがなけば)」、万葉巻五【三十九丁】(904)に「愛久志我可多良倍婆(うつくしくしがかたらえば)」、巻十八【二十一丁】(4094)に「之我願心太良比爾(しがねがうこころだらいに)」、巻十九【二十一丁】(4191)に「ウ(廬+鳥)河立取左牟安由能之我波多波(うかわたちとらさんあゆのしがはたは)」、また【二十七丁】(4211)「黄楊小櫛之賀左志家良之(つげおぐししがさしけらし)」、また【三十九丁】(4254)「秋花之我色々爾(あきのはなしがいろいろに)」などとあり、みな同じだ。朝倉の宮の段の大后の歌は、ここと全く同じ言葉の続き具合だが、「曾賀波能(そがはの)云々」、【「そが葉の」である。】また「曾能波那能(そのはなの)云々」とあるので、「しが」は「そが」と同じであると分かる。【それを契沖が「『しが』は『己が』だ、万葉に『さが』というのに『己之』と書いている。『さ』と『し』は通じるので、『しが』とも『さが』とも言う」と言ったのは、万葉巻十三(3239)に「己之母乎取久乎不知、己之父乎取久乎思良爾(わがははをとらくをしらに、わがちちをとらくをしらに)」、巻十二(2983)に「高麗劔己之景迹故(こまつるぎわがかげゆえに)」、巻十三(3272)に「己之家尚乎(わがいえすらを)」、巻十六(3808)に「己妻尚乎(わがつますらを)」などとある「己之」を「さが」と読んだのに依るのだろうが、「さが」と言うことは古言にはあったことはない。上記の「己之」は、みな師も言ったように「わが」と読んでいいのを、どういう理由で「さが」と読んだのだろうか。たいへん納得できないことである。それに上記の「己之」は、みな字の通り「自分の」という意味で、「我が」と言っているので、「しが」と言うのとはいささか意味が違うだろう。】○淤斐陀弖流(おいだてる)は、前の句と同じだ。○波毘呂(はびろ)は、【三言の句だ。】「葉広」である。中巻の玉垣の宮の段に「葉廣熊白檮(はびろくまかし)」ともあった。そこでも言ったように、これは一つの葉について言ったのではなく、葉が栄え広がった一樹のすべてについて言ったのではないだろうか。【白檮(かし)も椿も、それほど葉の広い物ではないからである。】○由都麻都婆岐(ゆつまつばき)は、【旧印本や延佳本には「麻」の字を「婆」と書いている。そうだったら、「葉」の意味だ。しかしここでは、真福寺本、また他一本、および他一本に、「麻」とあるのに依った。次に引く朝倉の朝の大后の歌にあるのも、「麻」だからだ。】「五百箇眞椿」である。「ゆつ」の意味は、上巻の「湯津石村」、「湯津楓」などのところで言った。【伝五の七十一葉、伝十三の二十七葉】椿の枝葉の繁って多いことを言う。「つばき」という名は、もともと「五百箇葉木」だろうか。【ある説に艶葉木(つやばき)だと言っているが、「艶」という語はいにしえの言葉のようではない。】和名抄に「唐韻にいわく、椿は木の名である。和名『つばき』、楊氏の漢語抄にいわく、海石榴、和名は上と同じ、本朝の式では等しく用いる」とあり、書紀にも「海石榴(つばき)」と書いている。万葉には「椿」と書いていることが多い。【これは今も紛れることのない木だから、字はどのようにでも書くだろう。】鳥草樹は、それほど高くない木だから、椿がその下に生えているというのは、【「下陰(したかげ)」の意味ではない。】鳥草樹は、河岸のやや高いところにあって、その下の方の低いところにある椿だろう。○斯賀波那能(しがはなの)は、「その花の」である。「しが」は椿を言う。○弖理伊麻斯(てりいまし)は、「照りいまし」である。万葉巻十八【十二丁】(4063)に「等許余物能己能多知婆奈能伊夜弖里爾和期大皇波伊麻毛見流其登(とこよものこのたちばなのいやてりにわごおおきみはいまもみるごと)」とある。○芝賀波能(しがはの)は、「その葉の」である。○比呂理伊麻須波(ひろりいますは)は、「広りいますは」である。「ひろり」とは広がっている様子を言い、豊かである意味だ。朝倉の段の大后の歌に、「淤斐陀弖流、波毘呂由都麻都婆岐、曾賀波能、比呂理伊麻志、曾能波那能、弖理伊麻須、多加比加流、比能美古爾(おいだてる、はびろゆつまつばき、そがはの、ひろりいまし、そのはなの、てりいます、たかひかる、ひのみこに)云々」とある。○淤富岐美呂迦母(おおきみろかも)は、「大君かも」で、「ろ」は助辞である。「ろかも」という辞は、中巻明の宮の段の歌に、「袁陀弖呂迦母(おだてろかも)」とあるところで言った。【伝三十二の四十一葉】この歌は、「迦波能倍邇」という句から、書紀では【違いがあって、】「箇波區莽(正字はくさかんむりに本、莽の下の部分)珥、多知瑳箇踰屡毛々多羅儒、椰素麼能紀破、於朋耆瀰呂箇茂(かわのべに、たちさかゆる、ももたらず、やそばのきは、おおきみろかも)」とある。【「椰素麼能紀」は「八十葉の木」で、どんな木にせよ、葉がたいへんよく繁っている木である。契沖が和名抄に「柧リョウ(木+陵のつくり)は、和名『そばのき』」とある木だとして、「『八』とは、そのそばの木が多いのを言う。『百足らず』は、『椰』一字に係っている。万葉巻十三(3276)にいわく、『百不足山田道乎(ももたらずやまだじを)』、これも山の『や』を『八』に取って続けている」と言ったのは間違いだ。「百不足」は「八十」、「五十」と続くのが普通で、「八」に続けた例もなく、理由もない。万葉の歌は、師が「『八十』の『十』を省いて『八十』の意味に続けた」と言ったが、これも納得できない。かの歌は、私の友人、齋田清縄の考察に、「足日木」というのを「日」を百に、「木」を不に誤ったのを「百不足」を誤ったものと考え、ついには「足」の字を下に移したのだ、と言ったのが良い。「山」の枕詞は「あしひき」というより他にはないからである。】○歌全体の意味は、「川の辺に生え立った椿の照り栄えたのを見て、天皇の面影を恋しく思って、今も吾が大君は、あの椿の花のように照っている、あの葉のように広りいますか」と言ったのだ。「伊麻須波(いますは)」の「は」を「淤富岐美(おおきみ)」の下に、結びの「迦母(かも)」を「います」の下に、互いに入れ替えて解すべきである。【この「は」と「かも」を入れ替えないで解するなら、この時眼前に天皇の姿を見て、「あれは天皇だろうか」と言った意味になるから、ここには合わない。このように辞を入れ替えて解するのは、強説だと思う人があるかも知れないが、いにしえにはこのように詞を置き違えて、その意味が分かるようになっていた。書紀のこの歌の趣きも同じ言い方で、「大君はあの八十葉のように栄えいますか」という意味で、「紀破(きは)」の「は」と「箇茂(かも)」を入れ替えなければ、意味が分からない。よく味わうべきである。】そもそも嫉妬して、忍びがたくて、背いて来たけれども、そのままに、たいへん恋しく思っている情も、耐え難く残っているのである。

 

即自2山代1迴。到=坐2那良山口1。歌曰。都藝泥布夜。夜麻志呂賀波袁。美夜能煩理。和賀能煩禮婆。阿袁邇余志。那良袁須疑。袁陀弖。夜麻登袁須疑。和賀美賀本斯。久邇波。迦豆良紀。多迦美夜。和藝幣能阿多理。如レ此歌而還。暫入=坐2筒木韓人名奴理能美之家1也。

 

訓読:すなわちヤマシロよりめぐりて、ナラヤマノクチにいたりまして、うたいたまわく、「つぎねふや、やましろがわも、みやのぼり、わがのぼれば、あおによし、ならをすぎ、おだて、やまとをすぎ、わがみがほし、くにはかづらき、たかみや、わぎえのあたり」かくうたいてかえらして、しましツツキのカラヒトなはヌリノミがいえにいりましき。

 

歌部分の漢字表記:つぎねふや、山代川も、宮上り、吾が上れば、あをによし、奈良を過ぎ、小楯、倭を過ぎ、吾が見が欲し、國は、葛城、高宮、吾家のあたり

 

口語訳:山代を回って、奈良山口に出た。そこで歌って、「つぎねふや、山代川を宮に向かって上り、私が上れば、あおによし、奈良を過ぎ、おだて、大和を過ぎ、私の見たい国は、葛城高宮の、私の家の辺りだ」。こう歌って、しばらく筒木の韓人、奴理能美の家にとどまった。

 

廻(めぐりて)とは、難波辺りから倭国に行くには、河内国を経て行くのが真っ直ぐなのを、山城国から行くのは、回り道になるからである。○那良山口(ならのやまのくち)。「那良」は前に出た。【伝廿五の二十二葉】山口は「やまのくち」と【「の」を添えて】読む。月次祭の祝詞に「山能口坐皇神等乃(やまのくちにますすめかみたちの)云々」とあるからである。この山は山城国相楽郡から、大和国添上郡の奈良へ越える道で、いわゆる奈良坂である。万葉巻一【十三丁】(17)に「青丹吉奈良能山乃(あおによしならのやまの)」、また【十八丁】(29)「青丹吉平山乎越(あおによしならやまをこえ)」、巻三【二十四丁】(300)に「佐保過而寧樂乃手祭爾置幣者(さほすぎてならのたむけにおくぬさは)」、【「手祭(たむけ)」は、俗に言う「峠(タウゲ)」である。】巻十三【六丁】(3237)に「緑青吉平山過而(あおによしならやますぎて)」、また【七丁】(3240)「見不飽楢山越而(みれどあかぬならやまこえて)」、巻十六【十九丁】(3836)に「奈良山乃兒手柏之(ならやまのこのてがしわの)云々」、巻十七【廿丁】(3957)に「青丹余之奈良夜麻須疑底泉河(あおによしならやますぎていずみがわ)」などがある。書紀には「皇后は大津に泊まらず、更に引いて江を遡り、山背から廻って倭に向かおうとした。・・・すなわち那羅山を越えて、葛城を望んで歌っていわく」とあり、歌はこの記と全く同じだ。ここに「那羅山を越えて」とあるから、この記に「山口」とあるのは、那良から上る山口である。【この記には「山を越えた」という記載がなく、単に「山口」とあるから、山城から上る口のように聞こえるが、書紀と合わせて考えると、そうではない。】倭の京の頃は、そちらを那良山口と言い慣れたままに語り伝えたもので、ここは山城から来る道筋を言っているわけではないが、その山を越えたことは言わなくても、こう言っただけで倭の方の口に聞こえたのだろう。【「わが見がほし國は云々」と詠んだのも、山代の山の口とするよりは、書紀のように那良山を越えて、葛城を見やって詠んだとする方が、優って聞こえる。】○都藝泥布夜夜麻志呂賀波袁(つぎねふややましろがわを)は【「波」の字を旧印本、他一本などに「婆」と書いているのは誤りである。ここでは真福寺本、延佳本、他一本などに依った。】上にあるのと同じだ。○美夜能煩理(みやのぼり)は、「宮上り」である。難波の宮を避け通って、遡ったのを言う。【「避(よ)き過ぎて」の意味は、言ったことの外に自然と含まれて聞こえる。契沖が「筒城宮を造って、そこに住もうとしたので、こう言ったのだ」と言ったのは合わない。そう思ったからと言って、その宮をまだ造っていないのに、どうして「宮上り」と言うだろうか。それにこの言は、「宮を上り」という意味であって、「宮へ上り」という意味には取れない。また師は「『美夜』は『水脈』である。遠江の人は『川のみよ』と言う」と言ったが、それもどうか。】だからここは「宮上り、山代川をわが上れば」と句を次いで考えるべきだ。【前の句の「迦波能煩理(かわのぼり)」のところで言ったことと考え合わせよ。】○和賀能煩禮婆(わがのぼれば)は、前にあったのと同じ。○阿袁邇余志(あおによし)は、那良の枕詞で、「青土よし」である。「青土」は色が青い土である。明の宮の段の歌に、「和邇佐能邇乎(わにさのにを)云々」とあるのも、眉描きの料だから、青土であるのを思うべきだ。「よし」は冠辞考に「『よ』と呼び出す辞であって、『し』は助辞である。この『よし』という辞を使った例は、『眞菅(ますげ)よし』、『玉藻よし』、『大魚(おおお)よし』、『阿佐母(あさも)よし』など、他にもたくさんある」と言った通りだ。【契沖は万葉巻十三に「緑青吉(あおによし)」と書いているので、「いにしえには奈良からよい緑青を出したのだろう」と言ったけれども、緑青と見るのは良くない。単に青い土だ。いにしえには緑青も「あおに」と言うので、万葉にはその字を書いたのだろうが、実は緑青ではない。緑青では「那良」に続く理由がない。明の宮の歌の「邇」は、眉描きの料だから、緑青ではない。単に青い土だ。とすると、この歌から見て、緑青でなくても、「あおに」と言っただろうことは知るべきだ。また「よし」を「吉し」の意味に解するのがよくないことは、冠辞考ではっきりさせられた通りだ。冠辞考で、朝倉の宮の段の歌に、「夜本爾余志伊岐豆岐能美夜(やおによしいきづきのみや)」、出雲国造の神賀詞に「八百丹杵築宮(やおにきづきのみや)」などあるから、「アヲニ(あおに)」を「八百土(ヤホニ:やおに)」だとして、「『あ』を延ばして言うと『いや』になる。また『八百』の『百』を『ほ』と言うのは、もとは濁音で、『ほ』の濁った音と『を』の清んだ音は通うから、『八百』を『あを』とに違いはない」と言ったのは強説である。「あ」と「や」とは通うだろうが、「を」と「ほ」が通った例はない。清濁で言うのも納得できない。「八百」の「百」を濁音だというのは証拠がない。思うに、これは「八百」を「やを」と言うから、「ほ」と「を」が通うと言おうとしての説だろうが、「はひふへほ」を「わゐうゑを」のように言うのは、後世の音便だから、通う例には入らない。】これが那良に続く理由は、これも冠辞考にあるように、土をならし固める意味である。それならただの「土」でもよさそうなものだが、青色だというのはなぜかというと、應神天皇の眉描きの料の土も青土と詠んでおり、和邇坂も、那良山と近いことを思うと、いにしえには那良山も青土が多くて、そこの名産だったのはないか。【だから顯昭の袖中抄に、「奈良坂に、昔は青い土があったのである」とあるのは、拠り所があってそう言うのか、または推し当てに言ったのが当たっていたのか。】そのため崇神天皇の御世に、「軍士がその青土を踏み鳴らしたところ」という意味に続くのだろう。那良という地名は、その故事によって付いたのだから、そうも言えるだろう。「淤志弖流(おしてる)浪速」の例なども考えよ。【その故事には関係がなく、ただ青土をならす意味とも言えるだろうが、それでは単に「土」であるのを、「青」と言っていることになる。やはりその故事により、それに青土はこの山の名産だからだろう。そうでなくては、「青」と言うことが無駄である。ある人の珍しい考えがある。いわく、「『阿乎爾余志(あをによし)』は、伊邪那岐・伊邪那美両大神が、『阿那爾夜志(あなにやし)』と言ったのと同一である。『阿那』と『阿夜』とは通って、その『阿夜』を『阿乎』とも通わせて言う例は、『阿夜惶根(あやかしこね)神』を日本紀に『青橿城根(あをかしきね)尊』ともあるのがそうだ。また『夜志』と『余志』が通った例は、『はしきやし』を『はしきよし』とも言うのと同じだ。だからここは『那良』の枕詞ではなく、『吾欲見國云々』というところへ係けて言った言葉だ。それを後に那良の枕詞にしたのは、この歌の続き具合から転じたものだ」と言ったのは、実に本当らしく、もっともな考えである。しかしもう少しよく考えると、この歌は那良と倭と、地名を二つ言ったうち、倭には枕詞があって、初めの那良の方にはないのはどうか。こう並べて言うには、枕詞は初めの方にあって、二つ目にないことはあることもあるが、次の句にあって初めの方にないことはありそうにない。また後に那良の枕詞になったのは、この歌から転用したというのももっともだが、書紀の武烈の巻の歌にも、那良の枕詞として使っている例がある。そのころなどはまだ、そういう風に転用したはずはない。だからやはり元から那良の枕詞だったことは、動かないだろうと思う。】○那良袁須疑(ならをすぎ)は、「那良を過ぎ」である。○袁陀弖(おだて)は、【諸本に、この下に「夜麻」の二字がある。ここでは真福寺本にないのによった。というのは、書紀にもこの二字はない。歌の意味も、ない方が優っているからだ。そもそも真福寺本は、誤字や脱字がたいへん多く、この二字も脱けたのかとも思ったが、そうではないだろう。他の諸本にある「夜麻」の二字は、次の句から紛れて、重なったものだろう。】倭の枕詞で、「小楯」である。倭国は、楯を並べたように山に取り巻かれた国なのを言う。さらに詳しいことは、國號考に言った通りだ。「楯」を「おだて」とは、明の宮の段の歌にも詠まれている。○夜麻登袁須疑(やまとをすぎ)は、「倭を過ぎ」である。これは城下郡にある倭郷を言っている。この郷のことも國號考で詳しく言った。「袁陀弖」という枕詞は、国としての倭に対する続けだが、名が同じなので、郷としての倭にも言う。【この郷名も国の大きな名から出たのだから、同じことである。】「須疑(すぎ)」と言うのは、那良もここも、いまそこを過ぎて行っていると言うのではない。【この歌は那良の山口で詠んだのであって、そこから山代へ帰るのだから、那良までは到っていない。】「吾欲見國(わがみがほしくに)は」、ここから「那良を過ぎ、倭を過ぎて行く葛城」という意味だ。だから「阿袁邇余志」からここまでの四句は、「久邇波」という句の下に移して考えるべきである。○和賀美賀本斯(わがみがほし)は、「私の見たい」ということだ。契沖のいわく、「『見が欲し』は『見まくほしき』だ。顕宗紀の歌に、『野麻登陛爾(イ+爾)瀰我保指母能波於尸農瀰能苣能タ(てへん+施のつくり)カ(加の下に可)紀儺屡都怒裟之能瀰野(やまとへにみがほしものはおしぬみのこのたかきなるつぬさしのみや)』とある。万葉に多い」と言う。万葉巻三【二十九丁】(324)に「春日者山四見容之(はるひはやましみがほし)」、また【三十八丁】(382)「儕立乃見杲石山跡(なみたちのみがほしやまと)」、巻六【四十三丁】(1047)に「山見者山裳見貌石(やまみればやまもみがほし)」、巻十一【十六丁】(2512)に「見我欲君我(みがほしきみが)」、巻十七【三十四丁】(3985)に「夜麻可良夜見我保之加良武(やまからやみがほしからん)」、巻十八【二十八丁】(4112)に「移夜時自久爾奈保之見我保之(いやときじくになおしみがほし)」、また(4111)「伊夜見我保之久(いやみがほしく)」、巻十九【十六丁】(4169)に「眞珠乃見我保之御面(しらたまのみがほしみおもて)」などがある。【「万葉に『見容之(みがほし)』と書いているのは、昔から『ほ』を『を』のように言ったのではないか」と契沖が言ったのは違う。「容(カホ)」の「ほ」のたぐいを「を」と言うのは、後世音便で崩れた形であって、いにしえは「はひふへほ」いずれも元のまま正しく言っていて、音便で「わゐうゑを」のように言う言はなかった。今の心で疑うべきではない。】○久邇波(くには)は、【三音の句】「国は」である。○迦豆良紀(かづらき)は、【四音の句】「葛城」である。この地のことは前に出た。○多迦美夜(たかみや)は、【四音の句】「高宮」である。和名抄に「大和国葛上郡、高宮は『たかみや』」とあるのがそうだ。書紀の垂仁の巻に、「天皇は來目に行き、高宮にとどまった」、皇極の巻に「蘇我大臣蝦夷は、自分の祖の廟を高宮に立てた」、持統の巻に「天皇は高宮に行った」などとある。釈日本紀に引いてある土佐国風土記に、「葛城山の東の麓に高宮岡」とある。○和藝幣能阿多理(わぎえのあたり)は、「吾家のあたり」である。「わがいえ」を縮めて「わぎえ」と言う。万葉にたいへん多い。【五の巻(837)では「和何弊(わがえ)」とも詠んでいる。また催馬樂に「和伊幣牟(わいえん)」と言うのは、「和藝幣」の「藝」を「い」と言い、「ん」を添えたもので、音便によって崩れたものである。】「阿多里」というのは、その近くを含めて、大雑把に言ったもので、今俗に言うのと全く同じことである。【中昔の物語書などでは「わたり」と言うことが多い。】万葉では「當」と書いている。この字の意味から出たのだろう。【今の俗言で「その辺」と言うのに相当する。ただし俗言に「辺」というのには当たっているけれども、「邊(ほとり)」と言うのとは、少し違う。】こう詠んだ理由は、この大后の父は葛城の曾都毘古(そつびこ)と言うから、葛城はもと本国で、その家が高宮にあったのだろう。女は、嫁いでは夫の家を家とするのを、その夫に背くときは、また親の家を恋しく思うのが習いであるが、この大后も天皇に背いて、難波の宮を避け過ぎて、【宮上りとあるのがそれである。】山代川を何となく上ってきたところ、身の置き所がなく思っていたところ、【上の「吾が上れば」とある「れば」を「吾が見が欲し云々」に係けて味わうべきである。】本国が恋しくなって、葛城に帰りたくなり、那良山を越えたのだが、そうであってもいまさら故郷に帰るのもどうかとためらって、帰ることはできなかった。思い返して、また山代の方へ帰ろうとするときに、その思いを述べたのである。【書紀の趣は、初めから倭に行こうと思って川を遡ったようである。しかしながらそうだったら葛城に到らないではいられなかったのを、那羅山を越えて、この歌を詠んで、すぐに山代に帰ったことが、何の意味があるのか。とすると倭に行こうとしたのは、単に山代川を上っているときに思い付いたことだろう。書紀に「向レ倭」と初めにあるのは、例の撰者の加えた文でもあるだろう。】○還(かえらして)は、今来た山代の方へ帰ったのである。【この「還」を師は「辞である。行くところの高宮には到らず、かえって筒木に入ったことを言う」と言ったが、そうではない。】○暫は、「しまし」と読む。また「しまらく」とも読める。万葉巻十五【七丁】(3601)に「之麻思久母(しましくも)」、【十四丁(3634)、三十一丁(3731)にも同じように書いている。】巻十八【六丁】(4032)に「布禰之麻志可勢(ふねしましかせ)」、巻十四【二十一丁】(3471)に「思麻良久波(しまらくは)」などある。【また万葉の巻々に「須臾」と書いているのを同じように読むべきである。今の本には「しばし」、「しばらく」などと読んでいるが、仮名ではみな「ま」と書いて、「ば」と書いているのはない。】ここにこう言っているのは、かりそめに入ったのである。○筒木は、和名抄に「山城国綴喜郡【つつき】、綴喜郷【筒木】」とあるのがそうだ。【今の世に普賢寺の庄といって十村がある。これはいにしえの綴喜郷であると言っている。この地名は、「綴」の字を書いているので、「つづき」と下の「つ」を濁って読むのは正しくない。「綴」の字は「てつ」の音を取ったのであり、「つづり」という訓を取ったのではない。】書紀の継体の巻に、「五年冬十月、都を山背の筒城に遷した」とあって、同廿年までここに都があった。【この宮のことは、この記には見えない。】万葉巻十三【五丁】(3236)に「空見津倭國青丹吉寧樂山越而山代之管木之原(そらみつやまとのくにあおによしならやまこえてやましろのつつきのはら)云々」とある。○韓人(からひと)とは、韓国人が帰化したのを言う。これは筒木に住んでいたのである。○奴理能美(ぬりのみ)は、【「美」は使主(おみ)である。上の「能」に「お」の音があるので「み」と言うのである。「使主」のことは、穴穂の宮の段で言う。】新撰姓氏録に、【左京】「調連(みつぎのむらじ)は、水海連と同祖、百済国の努理使主(ぬりのみ)の子孫である。譽田天皇、諡は應神の世に帰化した人の孫、阿久太の息子彌和、次に賀夜、次に麻利があり、彌和は弘計天皇、諡は顕宗の御世に、蚕を織ってアシギヌ(糸+施のつくり)・絹のように造って奉った。そこで調首という姓を与えた」、また【右京】「民首は、水海連と同祖、百済国の人、努利使主の子孫である」、また【山城国】「民首は水海連と同祖、百済国の人、努理使主の子孫である」、また【河内国】「水海連は百済国の人、努理使主の子孫である」、また【同】「調曰佐(みつぎのおさ)は、水海連と同祖」などとある。また【山城国】「伊部造は、百済の人、乃理使主の子孫である」とあるのも、この人であろう。【上記の氏々は、いずれも諸蕃、百済の部に入っている。】ここで大后がその家に入ったことを考えると、この人はもと百済国の貴人で、皇国に於いても、生活程度が高かったのだろう。【だから子孫の氏々も数多あるのだろう。】しかし大后がこの家に入ったことは、最初からそこを目指していたのではないだろう。故郷を偲んで那良山口まで行ったのは行ったが、また思い返して、【山代へ】帰ったけれども、難波の宮にはやはり帰らないと考えて、泊まる家がないままに、仮にこの家に入ったのであろう。「暫」とあるのに注意せよ。【そうしたのは、そのあたりにそうすべき家が他にはなかったのか、またはこの人が日頃親しく仕えていた由縁などがあったのか、それは分からない。】書紀には、「更に山背に還り、筒城の岡の南に宮を建てて、とどまった」とあって、奴理能美の家に入ったことは見えない。

 

天皇。聞=看B其大后自2山代1上幸A而。使B舍人名謂2鳥山1人A送2御歌1曰。夜麻斯呂邇。伊斯祁登理夜麻。伊斯祁伊斯祁。阿賀波斯豆摩邇。伊斯岐阿波牟加母。

 

訓読:スメラミコト、おおぎさきヤマシロよりのぼりいでましぬときこしめして、トネリなはトリヤマというひとをつかわしけるときにオクリたまえるミウタ、「やましろに、いしけとりやま、いしけいしけ、あがはしづまに、いしきあわんかも」

 

歌部分の漢字表記:山代に、い及け鳥山、い及けい及け、吾が愛妻に、い及き遇はむかも

 

口語訳:天皇は大后が山代から上ったと聞いて、舎人の鳥山という者を使わすときに送って、歌を歌った。「山代で追いつけ、追いつけ、鳥山。私の愛妻に、追いついて遇え」

 

上幸とは、倭国に行ったことを言う。いにしえの御世御世に倭の京の間は、倭国に行くのを「上る」と言い習わしていたままに、語り伝えたものである。【この頃は難波の京だったが、御世御世に多くは倭の京だったから、その時の詞で言ったのだ。難波の京の時も、御世御世に言い習わしたままに、やはり倭に行くのを「上る」と言ったのでもあるだろう。】○聞看(きこしめし)。「看」の字は、旧印本、他一本に「其」に誤っている。また他の一本、また一本には、「者其」とある。【「者」の字は「看」を誤ったもので、「其」の字はあっても悪くない。「其」とだけある本も、「看」を誤ったのでなく、「看」の字が脱けたのかも知れないが、しかし】ここでは真福寺本、延佳本に依った。○舍人(とねり)は前に出た。【伝卅三の五十三葉】○鳥山(とりやま)。歌に基づいて考えると、「速く行け」と言うことを考えて「鳥」という名の人を遣わしたのではないだろうか。【しかしそこまで言うのはあまりのことではないだろうか。】○使(つかわし)は、大后をとどめて、難波の宮に連れ帰るように使わしたのである。○送御歌(おくりたまうみうた)は、鳥山の出発に当たって送った歌である。この歌を贈ったのではない。【この歌を贈ったなら、「賜う」とあるべきで、舎人に賜うことを「贈る」とは言うはずがない。】大后のもとに贈ったようにも聞こえるが、歌の様子はそうでない。【以前思ったのは、この歌を大后に贈ったように聞こえるのに、歌の様子はそうでない。ただ鳥山に詠んで与えたように聞こえるから、「賜う」とあるべきで、「送る」と言うべきではない。書紀には単に「乃歌之曰」とある。】また次の二首は、正しく大后に贈った歌であるのに、そこではかえって単に「歌曰」とだけある。これはどうかと思えるところである。とするとここには単に「歌曰」とあって、そちらで「送御歌曰」とあるべきだろう。そう文を入れ替えると、ここもかしこも良くなる。もともとそうだったのを、語り伝える間に語を取り違えて、今のようになったのだと思ったが、そうではないのだろう。○夜麻斯呂邇(やましろに)は、「山代に」である。○伊斯祁登理夜麻(いしけとりやま)は、「伊」は発語で、「及け鳥山」である。「及(しく)」は追い及べであると契沖は言った。「及」は俗に言う「追いつく」という意味だ。書紀の雄略の巻に「農播タ(てへん+施のつくり)麿能柯彼能矩廬古麿矩羅枳制播伊志柯孺阿羅麿志柯彼能倶廬古麿(ぬばたまのかいのくろこまきせばいしかずあらましかいのくろこま)」、【第四句は「及(しか)ずあらまし」である。】万葉巻二【十五丁】(115)に「遺居而戀管不有者追及武道之隈廻爾標結吾勢(おくれいてこいつつあらずはおいしかんみちのくまみにしめゆえわがせ)」【この「追及」を今の本に「おいゆかん」と読んでいるのは誤りである。】などがある。「山代に」とあるのは、大后が山代から出たことだけを言ったのかも知れないし、まだ倭国に到らないうちに、山代国の内で追いつけという意味かも知れない。○伊斯祁伊斯祁(「いしけいしけ」は、「及け及け」である。この句は、どうにも思う心が切実に聞こえる。万葉巻十【三十九丁】(2145)に「左小牡鹿之聲伊續伊継(さおしかのこえいつぎいつぎ)」などもある。書紀には下の「伊」がなく、「伊之鶏之鶏(いしけしけ)」とある。○阿賀波斯豆摩邇(あがはしづまに)は、【「摩」の字を真福寺本では「麻」と書いている。】「吾が愛妻に」である。大后を指して言っている。書紀には「阿餓茂赴菟摩珥(あがもうつまに)」とある。【「茂赴」は「思う」である。】「愛(はし)」は、万葉巻二【四十二丁】(220)に「愛伎妻等者(はしきつまらは)」、巻四【四十一丁】(663)に「愛妻之兒(はしきつまのこ)」、巻廿【十九丁】(4331)に「波之伎都麻良波(はしきつまらは)」、また【三十三丁】(4397)「波之伎多我都麻(はしきたがつま)」などがある。また巻四(543)に「愛夫(うつくしつま)」、巻十三(3276)に「愛妻(うつくしつま)」とあるのも意味は同じだ。なお「愛(は)し」という言は、巻二【十四丁】(113)に「山松之枝者波思吉香聞(やままつがえははしきかも)」、巻三【五十七丁】(474)に「波之吉佐寳山(はしきさほやま)」、また【五十九丁】(479)「波之吉可聞皇子之命乃(はしきかもみこのみことの)」、巻十九【二十一丁】(4189)に「波之伎和我勢故(はしきわがせこ)」などがある。「波斯伎夜志(はしきやし)」と言うのも、「愛(はし)きよ」と言うことだ。【「し」は助辞である。】○伊斯岐阿波牟加母(いしきあわんかも)は、【「迦」の字は、真福寺本には「加」とある。】「及き遇わんかも」である。こう言ったところに、あるいは追いつけないのではないかと危ぶんでいる気持ちがこもっている。この段は、書紀では「皇后は・・・山背から廻って倭に向かった。翌日天皇は舎人の鳥山を遣わして、皇后を帰らせようとした。そこで歌って・・・皇后は帰らず、なお行って、山背川に到って云々」と、山代川の前に書いてある。【だから鳥山を遣わしたときの前後が、この記と少し違う。この記では、すでに山代川を上って、倭へ向かったことを聞いて、遣わしたように聞こえる。】

 

又續遣2丸邇臣口子1而。歌曰。美母呂能。曾能多迦紀那流。意富韋古賀波良。意富韋古賀。波良邇阿流。岐毛牟加布。許許呂袁陀邇迦。阿比淤母波受阿良牟。又歌曰。都藝泥布。夜麻志呂賣能。許久波母知。宇知斯淤富泥。泥士漏能。斯漏多陀牟岐。麻迦受祁婆許曾。斯良受登母伊波米。故是口子臣。白2此御歌1之時。大雨。爾不レ避2其雨1。參=伏2前殿戸1者。違出2後戸1。參=伏2後殿戸1者。違出2前戸1。爾匍匐進赴。跪レ于2庭中1時。水潦至レ腰。其臣。服B著2紅紐1青摺衣A故。水潦拂2紅紐1。青皆變2紅色1。爾口子臣之妹口日賣。仕=奉2大后1。故是口日賣歌曰。夜麻志呂能。都都紀能美夜邇。母能麻袁須。阿賀勢能岐美波。那美多具麻志母。爾大后問2其所由1之時。答=白2僕之兄口子臣1也。

 

訓読:またつぎてワニのオミクチコをつかわして、うたいたまわく、「みもろの、そのたかきなる、おおいこがはら、おおいこが、はらにある、きもむかう、こころをだにか、あいおもわずあらん」。また「つぎねふ、やましろめの、こくわもち、うちしおおね、ねじろの、しろただむき、まかずけなこそ、しらずともいわめ」。かれこのクチコのオミ、このミウタをもうすおりしも、アメいたくふりき。ここにそのアメをもさけず、マエツドノにまいふせば、たがいてシリツドにいでたまい、シリツドノにまいふせば、たがいてマエツドノにいでたまう。かれはいしじまいて、にわなかにひざまずきおるときに、にわたずみコシにつけり。そのオミ、アカヒモつけたるアオスリのキヌをきたりければ、にわたずみアカヒモにふれて、アオみなアケになりぬ。ここにクチコのオミのいもクチヒメ、おおぎさきにつかえまつれり。かれこのクチヒメうたいけらく、「やましろの、つつきのみやに、ものもうす、あがせのきみは、なみたぐましも」。ここにオオギサキ、そのゆえをといたまうときに、「あがせクチコのオミなり」ともうしき。

 

歌部分の漢字表記:

三諸の、その高城なる、大猪子が原、大猪子が、腹にある、肝向ふ、心をだにか、相思はずあらむ

つぎねふ、山代女の、小鍬持ち、打ちし大根、根白の、白腕、枕かずけばこそ、知らずとも言はめ

山代の、筒木の宮に、物申す、吾が兄の君は、涙ぐましも

 

口語訳:また次いで丸邇の臣口子を遣わして、歌って「三諸の、その高城にある大猪子が原の、大猪の腹にある、肝に向かう心だけでも、相思わないだろうか」。また「つぎねふ、山代の女の、小鍬を持って、打った大根の、根白の白い腕を、枕しなかったら、知らないとも言うだろう」。そこで口子の臣は、この歌を伝える際に、雨がひどく降った。その雨をも避けず、殿の前に行って伏せておれば、後ろの戸から出る。後ろの戸に行って伏せておれば、前の戸から出る。それで這い臥せって、庭中にひざまずいているとき、水が溢れて腰に着いた。赤紐を付けた青の着物を着ていたので、庭が水浸しになって、赤紐に触れて、青がみな赤になった。口子の臣の妹、口媛は大后に仕えていたが、歌って「山代の、筒木の宮に物申す、私の兄は涙ぐましい」。大后がその由縁を尋ねると、「私の兄は口子の臣です」と言った。

 

又續(またつぎて)は、鳥山の返り事も聞かないで、続いて送ったようにも聞こえるが、歌の趣を見ると、鳥山の返り事を聞いて後のことである。【書紀に、鳥山を遣わしたけれども、大后は帰ろうとせず、「猶行之(なおいでます)」とあるから、次の使いはやや後のことである。】○丸邇臣(わにのおみ)は前に出た。【伝廿二の四十六葉】○口子(くちこ)【「口」の字は、旧印本、他一本に「日」と書いているのは誤りである。ここは真福寺本、延佳本による。次にあるのも同じだ。】書紀には、「的(いくは)臣の祖、口持臣、一に曰く、和珥臣の祖、口子臣」とある。○美母呂能(みもろの)は、「三諸の」で三輪山のことである。そのことは上巻に御諸山とあるところで言った通りだ。【伝十二の二十七葉】山と言わず、ただ「みもろ」とだけ言うのも、そこで引いた歌のようなことだ。○曾能多迦紀那流(そのたかきなる)は、「その高城にある」だ。「たかき」は山を言う。そのことは遠つ飛鳥の宮の段の太子の歌に「阿志比紀能(あしひきの)」とあるところで言うのを考え合わせて知るべきである。【伝三十九の二十三葉】○意富韋古賀波良(おおいこがはら)は、「大猪子の腹」である。【旧印本、また一本にはこの句がない。ここは真福寺本、延佳本によった。なくても差し支えはないが、ある方が調子がよい。】猪子は、ただ猪である。猪の子を言うわけではない。馬を駒、鹿を鹿児とも言うのと同例だ。【このことは上巻の「天の眞鹿兒弓」のところ、伝十三の二十葉で言った。】豕はそのまま猪なのを「いのこ」と読むのもこのためだ。【「豕」は猪の子ではない。猪の子は豚である。】○意富韋古賀(おおいこが)は、上記と同じ。こう同じ言葉を重ねて詠むのは、いにしえの常である。○波良邇阿流(はらにある)は、「腹にある」だ。初めからここまでの五句は、次の「肝」を言うためである。【肝は人にも動物にもあるものなのに、猪を特に言うのは、猪は屠られて、腹の内を見ることがあるからである。人の腹の中などは見ることはない。これらを以てしても、いにしえの歌は、実際の体験によっていることを知るべきである。契沖が「みもろ」を葛上郡の「室」とし、「こころ」を孝昭天皇の都、掖上の池心の宮のこととして、「意富韋古賀波良」を室にある原の名だろうと言ったのは、間違っている。その意味だとすると、「おおいこが原」にある高城と言うのが正しく、高城にある原とはどうして言うだろうか。また「心」を地名の意味に続けたとすれば、高城にあるということは不適当である。大和志に「葛上郡池心の宮、一名大韋古(おおいこ)が原、今は蓬原という」とあるのは大きな間違いだ。これらはみな「おおいこがはら」と言うのが、何となく地名のように聞こえることから起こった間違いである。】○岐毛牟加布(きもむかう)は、「肝向かう」で、「心」の枕詞である。万葉巻二【十九丁】(135)に「肝向心乎痛(きもむかうこころをいたみ)」、巻九【三十一丁】(1792)に「肝向心摧而(きもむかうこころくだけて)」などがある。こう続ける理由は、腹の中にあるいわゆる五臓六腑のたぐいを、上代にはすべて「きも」と言ったのである。【それぞれ別に名があるのは、後にからぶみの五臓六腑の名によって付けたものである。今も鳥獣などの腹の内にあるのを、すべて「きも」と言う。また肝も胆も同じように「きも」と読むのも、いにしえの名が残ったのだ。】そして腹の中に多くの「きも」が相向かって集まって凝り凝りしい、という意味に「こころ」と続くのである。「凝り」を「ころ」とも言うから、【「淤能碁呂嶋」は「自凝(おのこり)」の意味のようなものである。】「こころ」は「ころころ」で、「凝々」である。海菜の「心太(こころふと)」も、【「凝海藻(こるも)」は和名抄に見える。】「凝る」意味の名、書紀の神代巻に「田心姫(たこりひめ)」、万葉巻廿【三十一丁】(4390)に「妹之心」を「以母加去々里(いもがここり)」とあるなどで悟るべきである。また万葉に「岩根こごしき」という例が数多くあるのも、「凝々しき」である。【(1130)「己凝敷(こごしき)」、(不明)「凝木敷(こごしき)」などと書いているので分かる。岩の群れ集まっているのを言う。】また同集に「むら肝の心」と続いた歌が多いが、これも同意で、「群がったきもの凝り凝りしい」と言うのである。【冠辞考の説は良くない。「群がり物」という言は、古言にはあるはずがない。また契沖が「きもむかう」を「心肝」というのは、心に対して肝というのではないか」と言ったのも良くない。「こころ」が上から続いている意味は、単に凝る意味であって、心臓の意味ではなく、物を知り思う心でもない。】○許許呂袁陀邇迦(こころをだにか)は、【諸本みな「呂」の字が落ちている。契沖がこの字を加えたのはよい。ここもそれによった。延佳本では、「許」の字も一つ削って、「許袁」としたのは、「子」の意味と考えてさかしらに削った、自分の考えだ。また真福寺本に「迦」を「賀」と書いたのも誤りだ。】「心をだにか」である。「だに」は助辞だ。【「肝向かう」から続いた意味は、「凝々(ころころ)」で、歌の意味は、物を知り思う心である。】○阿比淤母波受阿良牟(あいおもわずあらん)は、【この句は九音だが、中に「淤」と「阿」があるため、七音の調べに外れない。省いて「あいもわざらん」とも言うので知るべきである。】「相思わざらん」である。こう詠んだのは、大后自身は帰ってこないとしても、せめて心だけでも相思うべきなのに、心にも相思わないのだろうかと、先の使いの鳥山の、返り言のつれないことを恨んでいるのだろう。【それは、先に鳥山を遣わしたが、帰ってこないだけでなく、その答えがたいへんすげなく、つれない様子だったのだろう。】あるいは「私はこのように深く思っているのに、その心を相思わないのだろうか」という意味でもあるだろう。○都藝泥布(つぎねふ)は前に出た。○夜麻志呂賣能(やましろめの)は、「山代女の」である。万葉に「倭女(やまとめ)」【巻十四】(3457)、「河内女(かわちめ)」【巻七】(1316)などあるたぐいだ。「初P女(はつせめ)」(912)などもある。○許久波母知(こくわもち)は、「木钁持ち」である。【師は「『木钁』というのはあるはずはないから、『許』は『小』だろう」と言ったが、そうではない。記中、「小」または「子」の仮名には、必ず「古」を用いて、「許」を用いた例はない。弘仁私記にも「木鍬を持ってである」と注してある。】和名抄に、「兼名苑にいわく、ショウ(秋の下に金)は和名『くわ』、説文にいわく、钁は大きな鋤である。和名は上に同じ」とある。鉄を付けず、全体が木でできた钁は今もある。【契沖は和名抄に「ケン(木+欠)は、漢語抄にいわく、『古(こ)すき』、鍬のたぐいか」とあるのを引いて、これだろうかと言った。ケンの字は木の属であるから、「古すき」は木鍬であろう。それは鋤にも全体が木ばかりでできているものがあるから、钁にもそういうものがあるだろう。ただし「すき」と「くわ」は別物だから、ここの「こくわ」を「ケンか」と言ったのは当たらない。】○宇知斯淤富泥(うちしおおね)は、「打ちし大根」である。「打ち」とは木钁で土を打ち起こして掘るのを言う。和名抄に「爾雅集注にいわく、フク(くさかんむりに福のつくり)は根がたいへん白く、これを食べる。和名『おおね』、俗に『大根』の二字を用いる、兼名苑にいわく、ライ(くさかんむりに來)フク(くさかんむりに服)は、本草にいわく、『蘆フク(くさかんむりに服)』。孟洗の食經にいわく、『蘿フク(くさかんむりに服)』と。今考えるとみなフク(くさかんむりに福のつくり)の通称である」とある。○泥士漏能(ねじろの)は、「根白の」である。大根の根が白いことを言う。【この下に「・・・のような」という言を加えて考えるべきである。】万葉巻十四【二十五丁】(3497)に「可波加美能禰自路多可我夜(かわかみのねじろたかがや)」とある。○斯漏多陀牟岐(しろただむき)は「白腕」である。上巻の沼河比賣の歌にも、「多久豆奴能斯路伎多陀牟伎(たくづぬのしろきただむき)」とあった。大根の白いように白い腕と言ったのだ。【契沖が「そのまま白い手に似ている」といったのは、形まで似ているという意味だが、そこまでの意味はない。単に色が白いことを喩えたのだ。】○麻迦受祁婆許曾(まかずけばこそ)は、「纏かずけらばこそ」である。「けらば」の「ら」を省いて「けば」と言うのは、古言では普通だ。【「よからば」を「よかば」と言うような例は、常に多い。】万葉巻三【三十二丁】(350)に「尚不如來(なおしかずけり)」、巻十八【九丁】(4049)に「見禮度安可須介利(みれどあかずけり)」など、「けり」と言うことはもっと多い。また「けり」を「けら」と活用した例は、巻五【十五丁】(817)に「奈利爾家良受夜(なりにけらずや)」、巻六【十一丁】(912)に「開來受屋(さきにけらずや)」など、これも例が多い。だから「纏かずけり」を活用して「纏かずけらば」と言ったのだ。【契沖は「けば」が分からず、「『け』の字は語義未詳。いにしえの助詞などではないだろうか。それなら『纏かずばこそ』である。これを『せ』と通用すれば『纏かずせばこそ』で、『妃の手枕をまかぬことをすればこそ』である。これは八田の皇女を召し入れたのを、そのままに任せて試みたときに、妃の手枕を離れたときにこそという歌の意味だろう」と言ったが、みな誤りである。古言の活用を知っていさえすれば、よく意味が通じることだ。】一句の意味は、今までに大后の手を枕して寝たことがなかったなら」の意味だ。○斯良受登母伊波米(しらずともいわめ)。は、「知らないとも言うだろう」の意味だ。契沖いわく、「知らずとは、俗に人の言うことを聞き入れたくないと思うとき、『そんなことは私は知らない』と言う。その意味だろう」と言った。その通りだ。大后が鳥山につれない答えをしたことを言う。【人が物を言いかけたとき、「知らない」というのは、つれない答えである。】○歌全体の意味は、今まであなたの手を枕して、寝たことがなかったなら、そうつれなく「知らない」とも言うだろうが、すでに年来夫婦の睦みをした仲だったら、たとえ少々恨めしく思う節があっても、いまさらそうは言うまでもないものをと、大后を恨んでいるのだ。この歌は、書紀にはここになく、他の所にある。それについて論ずることがある。後に言う。○「白2此御歌1(このみうたをもうす)」は、大后のもとに入って申したのである。それは、この二首の歌を必ずしも大后に贈ったわけではないが、こう詠まれましたよと告げ知らせたのであろう。○時は「おりしも」と読む。○大雨は、「あめいたくふりき」と読む。【書紀では「大雨」、「甚雨」などを「ひさめ」と読んでいるが、「ひさめ」は「氷雨」で、雹のことである。それはこの記には「氷雨」と書いている。なお氷雨のことは、倭建命命の段、伝廿八の廿五葉で言った。】万葉巻八【五十四丁】(1636)に「零雪者甚莫零(ふるゆきはいたくなふりそ)」、巻十【十丁】(1870)に「春雨者甚勿零(はるさめはいたくなふりそ)」などがある。○不避は、「さけず」と読む。○前殿戸、後殿戸は、「まえつとのど」、「しりつとのど」と読む。「前後(まえしり)」は、一つの殿の前の方、後ろの方である。【前殿、後殿を言うのではない。】後の文にも、「大后所坐殿戸(おおぎさきのいますとのど)」とも、「其殿戸之閾上(そのとのどのしきみのうえ)」ともあり、書紀の崇神の巻の歌に、「瀰和能等能渡烏(みわのとのどを)」、万葉巻十八【三十六丁】(4132)に「奴之能等乃度爾(ぬしのとのどに)」とある。○後戸、前戸は、「しりつと」、「まえつと」と読む。水垣の宮の段の歌に、「斯理都斗用伊由岐多賀比、麻幣都斗用伊由岐多賀比(しりつとよいゆきたがい、まえつとよいゆきたがい)」とある。「たがい」と言うこともここと同じだ。同じ戸を上では「殿戸」と言い、下ではただ「戸」と言っているのは文の綾である。○違(たがいて)は、大后があちこちと行き違って、口子の臣に逢うまいとしたのである。【前の歌の「しらずともいわめ」の「知らず」という言は、ここの様子で分かるだろう。】○匍匐は、「はい」と読む。前に出た。【伝十七の六十七葉】○進赴の「赴」の字は、「退」の誤りだろう。【「赴」ではここの意味に合わない。師は「すすみむかいて」と読んだが、そう言うところではない。】書紀の垂仁の巻に、「俯仰喉咽進退而血泣(ふしてあおぎむせびしじまいていさつ)」、景行の巻に「朝夕進退佇=待2還日1(あさよいにさまよいてかえらんひをつまだちてまつ)」、また~武の巻、景行の巻などに「棲遑」を「しじまいて」と読んでいる。【続日本紀九の詔に、「進母不知退母不知(すすむもしらにしりぞくもしらに)」、同十七の詔にも、「進母不知、退母不知夜日畏恐麻利所念波(すすももしらに、しりぞくもしらによるひるかしこまりおもおさくは)」とある。】これらによって、「進退」と考えて「しじまいて」と読んでおく。【下の「し」の清濁ははっきりしないが、取りあえず濁音に読んでおく。】たいへん畏れ惑っている様子である。万葉巻三【十五丁】(239)に「鶉成伊波比毛等保理恐等仕奉而(うずらなすいはいもとおりかしこみとつかえまつりて)」、中巻の倭建命の段に、「匍匐廻(いはいもとおり)て、その那豆岐田(なずきだ)でなき悲しんだ」、これらの状況に近い。○庭中(にわなか)、万葉巻廿【二十二丁】(4350)に「爾波奈加能(にわなかの)」とある。○「跪−時」は、【「時」の字は、旧印本、他一本に「將」と書いているのは誤りである。ここは真福寺本、延佳本によった。】「ひざまづきおるときに」と読む。【「ひざまづく」は、地に膝をついて屈まっている状態で、敬っている様子である。そのため雄略紀で「跪禮」を「いやいて」と読んでいる。師はここの「跪」を「うずすまれば」と読んだ。「うずすまる」は、朝倉の宮の段の歌にある言葉だが、ここには合わない。意味が違う。】「おる」という語を添えて読まなければ、言葉が足りない感じである。書紀の允恭の巻に「中臣の烏賊津使主(いかつおみ)は・・・弟姫が庭中に伏して天皇の命を言った。そこでこれを召して・・・七日になっても庭中に伏せっていた。云々」とあるのは、ここと似ている。○水潦は、和名抄に「唐韻にいわく、潦は雨水である。和名『にわたずみ』」とある。雨が降って地上に溜まって流れる水である。【師が「俄泉(にわかいずみ)」のことだと言ったのは、当たっているのか、当たっていないのか、どうだろう。】万葉巻二【二十九丁】(178)に「庭多泉流涙(にわたずみながるるなみだ)」、巻十九【十三丁、十九丁】(4160、4214?)にも「爾波多豆美流涙(にわたずみながるるなみだ)」、巻七【三十六丁】(1370)に「甚多毛不零雨故庭立水大莫逝人之應知(はなはだもふらぬあめゆえにわたずみいたくなゆきそひとのしるべく)」とある。○「至レ腰(こしにつけり)」。「至」は「つけり」と読む。書紀の神代巻に「潮漬レ足時(うしおあしにつくときは)・・・至レ腰時(こしにいたるときは)云々」とある。○「著2紅紐1青摺衣(あかひもつけたるあおすりのきぬ)」。【「摺」の字は、他の古い書物に「揩」とも書いてある。今思うに、「揩は摩拭(刷る)である」と注してあるので、「する」に叶う。「摺」の字は、「する」の意味はない。これは元々「搨」の字を誤ったのか。「搨はボ(墓の下の土を手に置き換えた字:写すこと)である」と注してある。または「揩」を写し誤ったのか。またはこちらで別にこの字を使い慣れたのか。そういう例もあるから、ここは元のままに書いておく。】「紅紐」は、師が「あかひも」と読んだのに従う。いにしえは摺衣をめでたく飾り立てて、男女ともにその時と決めずに着たものであることは、万葉の歌に数知らず詠まれた趣で知るべきである。朝倉の宮の段に「ある時天皇は葛城山に登ったが、その時百官にことごとく紅紐を付けた青摺の衣を与えて着させた」、同段に「丹摺りの袖」、書紀の天武の巻に「高市の皇子に・・・蓁摺(はりすり)の衣三具を与えた」、続日本紀十五に「・・・琴を弾き、その弾歌に任(た)えた(よく弾いた)五位以上の者に摺衣を与えた」、二十九に「・・・道鏡は五位以上の者に摺衣一領を与えた」、卅に「葛井、船、津、文、武生、藏、六氏の男女二百三十人が歌垣を供奉した。その服はみな青摺の細布の衣を着け、紅の長紐を垂らしていた。云々」、類聚国史に「延暦十二年十一月、交野で遊狩をした。右大臣の従二位、藤原の朝臣繼縄は、五位以上ならびに命婦、采女たちに揩衣を献上して与えた」、また「同十八年正月辛酉、大極殿に、群臣および渤海の客を宴して、楽を奏し、蕃客以上に蓁摺の衣を与えた。云々」、万葉巻七(1255)に「月草爾衣曾染流君之爲綵色衣將摺跡念而(つきくさにころもぞそむるきみがためいろどりごろもすらんとおもいて)」、また(1260)「不時斑衣服欲香嶋針原時二不有鞆(ときじくにまだらのころもきほしきかころもはりはらときにあらねども)」、巻十(1965)に「思子之衣將摺爾々保比與嶋之榛原秋不立友(おもうこがころもすらんににおいこそしまのはりはらあきたたずとも)」、この他にも摺衣の歌は数知れない。【「榛摺」は、榛の木で摺る。「蓁」と書くのも同じだ。今俗に「はんの木」とも言う。万葉に「榛」もしくは「蓁」とあるのもこれだ。それを「萩」として、「はぎ」と読むのは間違いだ。「萩」は万葉では「芽子」と書いている。なおこのことは、別に詳しく言う。「摺衣」は、榛に限らず、何にも言い、色々に摺ったものである。】後に至っても、摺狩衣【「忍摺」など、】などが見える。神事にはいにしえのままを伝えて、後まで大嘗祭、新嘗祭、また賀茂の臨時祭などには、決まって摺衣を用いている。青摺とは山の藍で摺られた衣を言う。【これも上代には、山藍で摺ったものに限らず、何であれ青色に摺ったものを言ったのかどうか、定かではない。】万葉にも巻九【十九丁】(1742)に「紅赤裳數十引山藍用揩衣服而(くれないのあかもすそびきやまあおもてすれるきぬきて)」とある。弘仁の内裡式に、十一月の新嘗會の式に、「今日、小齋(おみ)は高下に関わりなく、みな青摺の袍を着る」、貞観儀式の大嘗會の儀に「・・・青摺の袍、各一領【その表は山藍で摺り、裏は浅緑】」、また「前祭一日・・・同日薄暮に、参議以上は宮内省に就いて齋服を賜わる。神祇官伯以下、弾琴以上十三人は・・・それぞれ榛藍摺の袍を一領、白袴一腰、史生以下は神服、以上百卅七人は・・・それぞれ青摺の布衫一領、次に小齋の親王以下、群官ならびに内侍以下、女孺以上に青摺の衫一領を与える。【五位以上は男女を問わず、浅緑に紅染の垂れ紐、それ以外は結紐を祭および宴会に日蔭の縵を添えて着ける】」とあり、延喜の大嘗祭式にも「・・・小齋親王以下はみな青摺の袍を着る。五位以上は紅垂の紐、【浅い深いは身分による】、他はみな結紐である。内親王および命婦以下、女孺以上は青摺の袍、紅垂の紐、【浅い深いは身分による】、他は結紐。【親王以下女孺以上はみな日蔭の縵】」とある。【「内親王」は「内侍」のあやまりではないだろうか。】縫殿式に、「新嘗祭には小齋の諸司の青摺の布衫三百十二領、【細布百卅領、佐渡布百八十二領、ならびに別二丈一尺】、緋紐の料は四丈の貲布六端一丈二尺、【それぞれ長さ二尺二寸、巾六寸】、山藍五十四圍半、模(かたぎ)の飯の料、米二斗四升八勺、生糸四ク(糸+句)、紅花大十五斤五両・・・中宮の小齋の人の青摺の細布・衫は四十九領・・・緋紐の料・・・【これに「別」とあるのは、「衫一領ごとに」、「緋紐一條ごとに」ということである。「模」は摺る文様のことである。「青摺の模」というのは、小右記に見える。「飯」は糊の材料だろう。糊を混ぜて摺るのだと思われる。】造酒式に、「踐祚の大嘗祭に供奉する料は・・・青摺の調布の衫四十領、【四領は赤紐を付けて、小齋の人四人の料、三十六領は大忌人三十六人の料】、・・・その小齋、大齋の人に青摺の調布の衫を当てる。【これは造酒司の小齋、大齋の人である。】」とある。四時祭式の鎮魂祭に「官人以下の装束の料は、伯以下史生以上七人、宮主一人、以上は蓁摺の袍、・・・それぞれ青摺の袍一領、袴一腰、を賜う」、西宮記の新嘗會の條に、「小忌(おおみ)の王卿以下は、青摺の布袍ならびに日影の縵、浅い履等を着ける。・・・大忌の王卿以下は普段通りである。・・・豊の明かりの日、小忌の王卿は、青摺の布の袍、赤紐、日影の縵等を着ける」、また「五節の舞姫節會の夜、羅の青摺の長袂・・・左右に赤紐、日蔭の縵を着ける」、また臨時祭の條に「舞人の装束は、青摺の布の袍、赤紐を左の方に付ける。ただし小忌のときは左右に付けるという云々」、また「陪従の装束は、青摺りの布の袍、赤紐云々」、神今食の條に、「小忌の王卿以下は青摺を着けること、新嘗會の通りである。ただし纏はない」、【雅亮装束抄にいわく、「小忌のこと。小忌を着ることは、束帯の上に青摺を着るのである。その摺りは青くて梅雉を摺り、上達部、殿上人、五節の節会の日、大嘗会などに、藏人までが着る。・・・後ろもまた一幅であるから、舞人のように下襲の後ろに綴じ付ける。これも赤紐がある。これは右の肩の上に中を綴じ付けて、後ろ前に下げて、後ろは腋に綴じたのがよい云々」。また「舞人の装束のこと。舞人の装束をすることは・・・その上に青摺を着る。前は闕腋(わきあけ)のように、下張りに着せる。狩衣の後ろが長いのに、山藍と言って、竹桐に鳳凰をすったものだ。青摺の尻は、一幅であるが、下襲の尻の上に、中の縫い目に中を当てて、闕腋のように綴じて、尻を隠すのがまた闕腋のようである。左の袖の縫い目の上の肩に赤紐を綴じ付ける。後ろの下がりに受けて、中から通して下げよ。前は青摺りの一張りしたところから下げよ。赤紐は巾五分ほどで、中間から総角を結んで、裏表になった下がりに、蜷を結んで、平手貝を押す。濃い打ち一筋、蘇芳一筋がある」、餝抄にいわく、「諸司の小忌は、身二幅、袖は左右一幅、あわせて四幅である。紙を捩ってこれを閉じる。・・・大嘗會もしくは豊の明かりの節會の小忌の袍を着る次第は、闕腋のように袍をもって小忌に替えるだけである。衛府でないといっても、小忌に至っては闕腋である」、さらに摺りの方法なども見える。同抄にいわく、「赤紐は濃く打ち、あわせて蘇芳を打つ。細かく畳む。小忌は右肩に付ける。舞人は左に付ける。肌脱ぎになるからである。」と見える。ある書物には、「赤紐長さ八尺、幅三分あまり、赤二筋、黒二筋で下絵は蝶、鳥。あるいは貝を押す。地は平絹、または綾である。一筋ごとに十二結び」と言っている。こうした書物には小忌と言い、青摺と言うのは、共に同じ青摺なのを、新嘗などに小忌の人の着るのを小忌と言い、臨時祭の舞人の着るのを青摺と言う。裁縫に少し違いがあるのだろう。赤紐は、その小忌には、右の肩に付け、青摺には左の肩に付けるのは、舞人は右を肌脱ぎするからであることは、上に見た通りだ。この紐は、今は緋色の羅(うすもの)で造るとある人が言った。こうした衣服、餝りなども、世々を経る間に、だんだんとその様子が変わってきたことは、上の書物などに見えるこの赤紐で分かるだろう。】○拂(ふれて)。上巻に「天詔琴が樹に拂れて地がどよめいた」とある。水潦(にわたずみ)に紅紐が濡れたのだ。○青皆(あおみな)云々の「青」の字は諸本にない。ここは真福寺本によった。青摺りの色を言う。【ここはこの言葉がないと足りない感じである。】○變紅色は、師が「あけになりぬ」と読んだのが良い。【すべて赤はみな「あけ」である。それを「あか」と言うのは、酒を「さか」、竹を「たか」というのと同じだ。「變」は「かえりぬ」とも読める。すべて色が変わるのを「かえる」とも言う。】上巻に「肥河變レ血而流(肥河は血になって流れた)」とある。○口比賣(くちひめ)。書紀には國依媛(くによりひめ)とある。○仕奉(つかえまつれり)は、もともと宮仕えしていたのである。それでこの時も、御前に侍っていたのだ。○夜麻志呂能(やましろの)は、「山代の」である。○都都紀能美夜邇(つつきのみやに)は、「筒木の宮に」である。ここは奴理能美の家であるが、【上に出た。】大后がいるので「宮」と言ったのだ。【上に「殿戸」と言ったのもそうである。】○母能麻袁須(ものもうす)は、「もの申す」だ。万葉巻十六【二十三丁】(3853)に「石麻呂爾吾物申(いしまろにわれものもうす)云々」、古今集【旋頭歌】(1007)に、「打渡す彼方人(をちかたびと)に物申す吾(われ)云々」、【契沖がこれらの歌を引いて、「次にものを言い出す初めの詞だ」と言ったのは、この万葉、古今の歌には叶うだろうが、ここの歌には叶わない。ここは口子の臣がものを言ったことを言うからだ。】ここの歌は、次の句へ続けて考えるべきだ。○阿賀勢能岐美波(あがせのきみは)は、「吾が兄の君は」だ。この句は、書紀には「和餓齊烏瀰例麼(わがせをみれば)」とある。この記の通りならどういう意味だろう。あるいは誤り伝えたのだろうか。書紀の方はいい。そこで書紀によって解く。自分の兄が降る雨に濡れ、水潦に浸って、庭中に畏れ入っている厳しいさまを見ればということだ。○那美多具麻志母(なみたぐましも)は、「涙ぐましも」である。【「涙」の「た」は普通「だ」と濁って言うが、ここにも書紀にも、万葉巻五にも「多」の字を書いてある。もとは清音だったのだろうか。ただし万葉巻廿には、二箇所で「太」の字を用いている。「太」は濁音である。】契沖いわく、「涙ぐむ、葦の角ぐむなどというたぐいは、萌(きざ)すという意味だ」と言った。【芽ぐむなども同じ。】「ぐむ」を「ぐまし」というのは、直接に指して言うのでなく、その状態を穏やかに言う辞である。「私の兄の状態を見れば、悲しくて涙ぐましく思われる」と言うのである。【前の句は、この記のようであったら、この句は口子の臣が涙ぐんでいるのを見たと言うことになる。それでは歌全体の意味もどうかと思われる上に、「大后がその理由を聞いた」とあるのにも叶わない。】万葉巻三(449)に「與妹來之敏馬能埼乎還左爾獨之見者涕具末之毛(いもとこしみぬめのさきをかえるさにひとりしみればなみだぐましも)、後撰集(813)に「古(いにしえ)の野中の清水見るからにさしぐむものは涙なりけり」とある。○「問2其所由1(そのゆえをとう)」とは、「見れば涙ぐましというのは、どうしてそんなに悲しいのか」と問うたのである。○僕之兄(あがせ)云々。この上に「彼は」という言を添えて考えるべきである。書紀にいわく、「冬十月甲申朔、的(いくは)の臣の祖、口持の臣を遣わして、皇后を呼び寄せようとした。【一に曰く、和珥臣の祖、口子臣。】口持の臣は筒城の宮に行って、皇后にものを言ったが、答えなかった。そこで口持の臣は、雪雨(ふるあめ)にも関わらず、夜昼皇后の殿の前に伏して、罷り去らなかった。口持の臣の妹、國依媛は、皇后に仕えていたが、皇后の御前でその兄の濡れた姿に涙を落として・・・その時皇后は國依媛に、『どうして泣くのか』と聞いた。そこで答えて、『私の兄が雨に濡れても去りもせず、なお伏せってものを言おうとしているので泣くのです』と答えた。そこで皇后は『お前の兄を帰らせなさい。私は絶対に帰らないからね』と言った。口持の臣は、帰って天皇にそのことを復命した」とある。【「雪」の字は、「零」を誤ったのだろう。】

 

於レ是口子臣亦其妹口比賣及奴理能美。三人議而。令レ奏2天皇1云。大后幸行所以者。奴理能美之所レ養虫。一度爲2匐虫1。一度爲レ殻。一度爲2飛鳥1。有B變2三色1之奇虫A。看=行2此虫1而入坐耳。更無2異心1。如レ此奏時。天皇詔。然者吾思2。奇異1故。欲2見行1。自2大宮1上幸行。入=坐2奴理能美之家1時。其奴理能美。己所レ養之三種虫。獻レ於2大后1。爾天皇。御=立2其大后所レ坐殿戸1。歌曰。都藝泥布。夜麻斯呂賣能。許久波母知。宇知斯意富泥。佐和佐和爾。那賀伊幣勢許曾。宇知和多須。夜賀波延那須。岐伊理麻韋久禮。此天皇與2大后1所歌之六歌者。志都歌之返歌也。

 

 

訓読:ここにクチコノオミまたそのいもクチヒメまたヌリノミ、みたりしてハカリテ、スメラミコトにもうさしめけらくは、「おおぎさきのいでませるゆえは、ヌリノミがかうムシ、ひとたびはハウムシ、ひとたびはカイコになり、ひとたびはトブトリになりて、みくさにかわるアヤシキムシあり。このムシをみそなわしにいりませるにこそあれ、さらにケシキこころはまさず」。かくもうすときに、スメラミコト、「しからばあれも、あやしとおもえば、みにゆかな」とノリたまいて、オオミヤよりのぼりいでまして、ヌリノミがいえにいりませるときに、そのヌリノミ、おのがかえるみくさのムシを、おおぎさきにたてまつりき。かれスメラミコト、そのおおぎさきのませるトノドにみたたして、うたわしけらく、「つぎねふ、やましろめの、こくわもち、おちしおおね。さわさわに、ながいえせこそ、うちわたす、やがはえなす、きいりまいくれ」、このスメラミコトとオオギサキとミうたわしたるムウタは、しつうたのかえしうたなり。

 

歌部分の漢字表記:つぎねふ、山代女の、木鍬持ち、打し大根、さわさわに、汝が言へせこそ、打渡す、やがはえなす、來入り參くれ

 

口語訳:そこで口子の臣、その妹口比賣、また奴理能美の三人が相談して、(人を)天皇に遣わして言わせたのは、「大后が奴理能美の家に入ったのは、奴理能美が飼っている虫が、一度は這う虫、一度は蚕になり、一度は飛ぶ鳥になって、三色に変じて怪しいので、この虫を見たいと思ったからです。別に天皇に背く心があるわけではありません」と言わせた。すると天皇は「それなら私も怪しいと思うから、見に行こう」と言って、大宮から上って奴理能美の家に入った。このとき、奴理能美は、自分の飼っている三種の虫を大后に献げた。このとき天皇は「つぎねふ、山代女が木鍬で打った大根が、さわさわに、あなたがうるさく言うから、見渡したところ、大勢が賑やかに、やって来たのだ」。この天皇と大后の六首の歌は、しず歌の返し歌である。

 

三人は、「みたりして」と読む。万葉に「一人爲而(ひとりして)」、「二人爲而(ふたりして)」などと言うことが多い。○令奏(もうさしめ)は、人を難波の宮に遣わして言わせたのである。○大后幸行(おおぎさきのいでませる)は、山代に行ったことを広く言う。【奴理能美の家に行ったことを言うわけではない。】○匐虫(はうむし)は、単にすべての虫を言う。【ただの鳥を飛ぶ鳥というのと同じだ。】虫は這うものだからだ。書紀の雄略の巻の歌に「波賦武志(はうむし)」、大殿祭の祝詞に「波府虫(はうむし)」、神代紀や大祓の祝詞に「昆虫(はうむし)」、継体紀に「伏地之虫(はうむし)」などがある。和名抄に、「唐韻にいわく、キ(虫+支)は虫が進むのである。和名『はう』」とある。○殻は、旧印本他一本には「皷」と書き、真福寺本には「?(穀のへんに皮)」とあり、延佳本には「穀」と書いてある。みな間違いだ。そこでここでは改めておいた。「殻」は卵である。「かいこ」と読む。和名抄に「卵は和名『かいこ』」とある。なお「殻」については、この字を「皷」に誤った事例など、中巻の日代の宮の段で、建貝兒(たけかいこ)王のところ【伝廿九の三十二葉】で言った。考え合わせよ。○飛鳥(とぶとり)は、旧印本、他一本には「非虫」と書き、延佳本他一本には「蜚」と書いてある。ここでは真福寺本によった。【「蜚」とあるのは、後人がさかしらに改めたのではないだろうか。それは上に「所養虫」とあり、下にも「三種虫」とあるから、変わっても虫であって、鳥ではないだろうと思ってのことだろう。そう考えると、「蜚」は「飛」と通うから、「蜚虫」と書くべきだから、また下に「虫」の字を落としたのか。ただし「蜚」の字は虫に取っているから、この一字を「飛虫」の意味で書いたのでもあるだろう。また「非虫」とあるのは、「蜚」を誤って二字としたのか。または「蜚虫」の上の虫を落としたのか。】飛鳥とは、単に鳥を言うものだからである。「蜚」とあるのが正しいとすれば、師が「とぶむし」と読んだのに従うべきである。羽があって飛ぶ虫である。【延佳が和名抄に「蜚レン(虫+廉)は和名『つのむし』」とあるのを引いて、そう読んだのは間違いだ。】そのときは、上の「匐虫」は、飛ぶ虫に対して、飛ばない虫である。殻も虫の卵である。しかしやはり飛鳥の方が優って聞こえる。【「所養虫」と言い、「三種虫」と言っているのによれば、「飛ぶ虫」とする方が適当なようだけれども、飛ばない虫が飛ぶ虫に変わるのは、それほど怪しいことではない。蟻なども、突然羽が生えて飛ぶことがある。その他にもそうした例は普通にあることだ。】○三色は、師が「みくさ」と読んだのに従う。書紀などでもそう読んでいる。次に「三種虫」とあるのと同じだ。【祈年祭の祝詞などに、「種々色物(くさぐさのいろもの)」とあるのなどは、「いろ」と読むべきだが、「三種」、「四種」などを「みいろ」、「よいろ」、「種々」を「いろいろ」などと言うのは、「色」の字の読みに従ってできたものと思われ、古言とは思えない。いにしえは、白・黒などの色でなくては、「いろ」とは言わなかっただろう。】○奇虫(あやしきむし)とは、一度は飛ぶ鳥にもなるから、そのどれか一つについて「虫」とは言えないが、上にも「所養虫」、後でも「三種虫」というのは、このものは初めは全くの虫であるのが、後に卵にも鳥にも変わる物になるのだろう。それで初めの姿に基づいて虫と言うのだろう。【初めに全くの虫であったなら、「一度は虫になり」とは言い難いだろうと疑う人もありそうだが、「一度は虫になる」とは、変わり初めて後の状態から言うのである。卵になり鳥になり、また元に戻って虫にもなって、常に三種に変わるのだ。そこで「一度は」と言っている。「一度は」とは、虫になるときもあり、卵になるときもあり、鳥になるときもあり、という意味だ。しかしその初めは全く虫であることは、「所養虫」とも「奇虫」ともあることで分かる。あるいは三種に変わるものを「虫」と言ったのは、卵にも鳥にも変わるうちに、虫である間が長い期間であるためとも思ったが、そうではあるまい、また漢国では、鳥獣虫魚のたぐいの総名を「虫」と言うことがあるから、その意味かとも思ったが、皇国ではそういうことはないようである。】○看行は「みそなわしに」と読む。「看」の字が諸本に「者」とあるのは誤りだ。【延佳本に、「行」の下に「見」の字を添えたのも良くない。】ここは例によって改めた。【「者」は本のままで、その下に「看」の字が脱けたのでもあるだろう。】その例は中巻の倭建命の段に「看=行2其神1入=坐2其野1(そのカミをみそなわさんとしてそのヌにはいり)云々」、朝倉の宮の段に「天皇看=行2其浮レ盞之葉1(スメラミコトそのサカズキにうくハをみそなわして)云々」、【この「看」の字も、諸本に「者」とあるのを、真福寺本、延佳本では「看」とある。】などがある。「看行(みそなわし)」のことは、その倭建命の段【伝廿七の五十三葉】で詳しく言った。虫の字の下にある「而」の字は読まない。【「みそなわさんとして」とも読めるが、やはり良くない。「随2云々1而(〜のまにまに)」とあるところにも「而」の字があるが、読まないのと同じだ。】○耳の字は、「こそあれ」と読む。初めの巻で言った通りだ。○無異心は、「けしきミこころはまさず」と読む。【これは大后の心を言うので、「心」を「御心」、「無し」を「いまさず」と読むべきである。これを措いて別の心はないということだ。上巻に「云々參上耳無2異心1(しかじかあればこそまいのぼりつれ、けしきこころなし)」とあるところも同じ。○然者吾(しからばあれも)は、「欲見行」に係っている。【「思奇異(あやしとおもえば)」に続けて見てはいけない。】○欲見行は、【「見行」は、旧印本、延佳本などには、「行見」とある。ここは真福寺本、また一本、他一本などによった。】「みにゆかな」と読む。「な」は「む」と言うのと同じ古言である。○大宮は難波の京の宮である。○上幸行(のぼりいでまして)は、山代川を船で上ったのである。書紀に「十一月甲寅朔庚申、天皇が山背を遡る時、桑の枝が水のままに流れた。天皇はその桑の枝を眺めて歌った。『兎怒瑳破赴、以破能臂謎餓、飫朋呂伽珥、枳許瑳怒于羅愚破能、紀豫屡麻志枳筒破能區マ(くさかんむりに奔)愚マ、豫呂朋臂喩玖伽茂、于羅愚破能紀(つぬさわう、いわのひめが、おおろかに、きこさぬうらぐわの、きゆるまじきかわのくまぐま、よろおいゆくかも、うらぐわのき)』」【「おおろか」は「おろそか」である。「きこさぬ」は、「何も言わない」である。古歌に、「のたまう」を「きこす」と言った例が多い。「うらぐわ」は、「うらぐわし」という言葉を桑に言いかけて、「うらぐわしい桑」である。「うらぐわし」は「うるわしい」である。桑は蚕を飼うのに使うから、婦人が大事にして、おろそかにしないものだから、大后が常におろそかにしないうるわしい桑と言ったのである。「よろおい」は「寄る」で、「おい」はその様である。桑は大后のそれほど愛しんでいるもので、川に散って流れなどはするべきでないのに、隅々に寄って流れゆくことよと、このものを見るに付けても、大后のことを思う歌である。契沖の解説などは大きな誤りである。】○所養之、「之」の字は諸本にない。ここは真福寺本によった。【記中、こういうところには「之」の字があるのが通例だからである。】○三種虫(みくさのむし)は、この上に「變」の字が落ちたかと師は言った。そうだと思える。しかし諸本に「變」の字がないのを考えると、この虫はもとからただ一つでなく、色々あったのだろう。だからその時々に、虫であるのも、卵であるのも、鳥であるのも混じっていたのだろう。その状態を見て「三種」と言ったのだ。【それなら現に鳥であるのを虫とは言えないようだが、上でも虫と言ったのだから、どうということはない。】○「獻レ於2大后1(おおぎさきにたてまつりき)」は、天皇を大后のいるところに入らせて、仲直りさせようとして、計ったのである。○御立(ミたたし)は、万葉巻二【二十九丁】(178)に「御立爲之嶋乎見時(ミたたしししまをみるとき)」、巻五【二十三丁】(869)に「美多々志世利斯伊志乎多禮美吉(ミたたしせりしいしをたれみき)」、巻十九【三十六丁】(4245)に「船騰毛爾御立座而(ふなどもにミたたしまして)」などとある。○都藝泥布(つぎねふ)云々。この四句は前に出た。ここは「佐和佐和」の序である。それは山代に行幸した道の間に、見たことを詠んだのである。だから上に出た「泥士漏能志漏多陀牟岐(ねじろのしろただむき)」という歌も、書紀ではこの歌の次に続けて挙げてあり、同じ時の歌なのを、この記では、別に前に挙げているのは、伝えが紛れたのだろう。【こうしたことは、いにしえには、見るもの聞くものにつけて詠まれたのであって、理由もなくよそのことを引き寄せて詠むことは滅多になかった。あの「根白」の歌も、この時に詠んだものと思われ、書紀の方が正しいだろう。】○佐和佐和爾(さわさわに)。【「爾」の字は、真福寺本には「邇」とある。】は、上からの続きの意味は、「清々(さやさや)」で、清潔なのを言う。大根は色も味も清潔なものだからだ。弘仁私記にも、「蘿フク(くさかんむりに服)の根を噛むと佐和也加(さわやか)である」と言っている。【契沖はこの弘仁私記の説を「おぼつかない」として、「木鍬で畠を打つ音に寄せたもの」と言ったのは、大きな誤りである。もしそれなら、「大根を打ちさわさわに」などと言うだろう。「打ちし大根」などとどうして言うだろうか。また鍬で土を打つ音はどうだろうか。さわさわと言うほどの音がするだろうか。】「わ」と「や」と通って、「さわさわ」は、「さやさや」と言うのと同じだ。それを「喧擾(さわさわ)」の意味に取って、詠んだのである。「さわがしい」と言うのを「さわさわ」と言ったのは、上巻に「口大之尾翼鱸佐和佐和邇控依騰而(おおくちのおはたすずきさわさわにひきよせあげて)」とある。そこの伝を考え合わせよ。【伝十四の六十九葉】大后が嫉妬してやかましく言ったのを言う。「清々(さやさや)」と「喧擾(さわさわ)を通わせて言った例は、明の宮の段で國栖人の歌に、「加良賀志多紀能佐夜々々(からがしたきのさやさや)」【この上からの続きはさわぐ意味で、歌の意味は「清々」である。伝卅三の四葉を参照せよ。】などとある。また万葉巻四【十五丁】(503)に「珠衣乃狹藍左謂沈(たまぎぬのさいさいしずみ)」、巻十四【二十三丁】(3481)に「安利伎奴乃佐惠々々之豆美(ありきぬのさえさえしずみ)」【「ありきぬ」は鮮衣である。考察がある。】この「狹藍左謂」、「佐惠々々」なども「佐夜々々」と同じで、「や」行の音と「わ」行の音が通い、また上からの続きは「清潔」の意味で、【「鮮衣の清潔」と続いている。または「さやめく(ざわざわと音を立てる)」意味に続けたのかも知れない。源氏物語の初音の巻に、「黒きかいねりの、さゐさゐしく張りたる一かさね云々」、注に「さゐさゐしく」とは「さやさや」と鳴る意味であると見え、司馬相如の子虚の賦に「萃蔡(さやめく)」、漢書の音義に「萃蔡は衣擦れの音である」とある。「すい」、「さい」、「さゐさゐ」は皆通じる。】それを「喧擾」の意味に取るのも同じであることを考えるべきである。【師のいわく、「『さわさわ』は『清々』である。先の歌にも、この同じ喩えがあって、『白腕』とあるから、ここは省いて清らかな大后だから、その白い腕を忘れられないので遠くやって来たという意味だ」と言ったのは、ここには合わない。その意味なら、「清々しければ」、とか「清々しいから」とか言わなければ分からない。】○那賀伊幣勢許曾(ながいえこそ)は、「汝が言えこそ」である。「汝」は大后を指す。「こそ」は辞である。【だから「久禮(くれ)」と言っている。】「汝が言えればこそ」」の意味なのを、「ば」を省くのは古歌では普通だ。【「イハセコソ(いわせこそ)」とあるべきところに、「イヘコソ(いえこそ)」とあるのは、単に通音だからか。しかしこういう活用形は至って厳密なもので、みだりに通用させては言わない。そこで考えるに、「はせ」を縮めれば「へ」である。次に「せ」はあるけれども、なおその勢いに引かれる音便で「へ」と言ったのだろうか。そういう例もあることだ。「吾大王(わがおおきみ)」を万葉に「和期大王(わごおおきみ)」と言うのも、次の「お」に引かれて、「が」を「ご」と言っている。この句を契沖が「『いえれこそ』である。「せ」と「れ」は同韻で通う」と言ったのは、意味は違わないが、厳密でない。古言には「言う」を「いわす」、「聞く」を「きかす」などと言う例があって、ここの「せ」はその「す」の活用だから、「いえれこそ」と言うのとは同じでない。継体紀の歌に「倭我彌細麿(わがみせば)」とあるのが「見れば」と言うのとは、言い方が違う、これも古言に「見」を「みし」、「見る」を「みす」という活用で「せ」と言ったので、意味は「見れば」である。準じて解すべきである。師がこの句を「汝が家夫(いえせこ)ぞ」だと解したのは良くない。】○宇知和多須(うちわたす)は「打ち渡す」ことで、向こうを見渡すことである。万葉巻四【五十五丁】(760)に「打渡竹田之原爾(うちわたすたけだのはらに)」、古今集(1007)に「打渡す彼方(おちかた)人に」など、みなそうである。【この他、中昔までも、みな見渡すことに言った。後撰集(570)に「打渡し長き心は八橋の蜘手(くもで)に思ふことは絶(たへ)せじ」、これは橋の端にいて、その橋を見渡す意味で言ったのだ。橋の長いのを見渡したということだ。拾遺集に「舟岡(ふなをか)の野中にたてる女郎花(をみなへし)渡さぬひとはあらじとぞ思ふ」、これも舟の縁にいて、見渡さない人はないだろうと言う。また古歌に「世の中は夢の渡りの浮橋か打渡しつゝ物をこそ思へ」、この二、三の句は、万葉巻の歌に詠んでいる「吉野の夢のわだ」と言うところで、そこに渡した浮橋を「打ち渡し」と言うために言ったのだ。歌の意味は、「世の中の憂わしいままに眺めて、物を思う」と言っている。物思いがあるときは、その状況をつくづくと見渡して眺める、それを「打ち渡しつつ」と言ったのだ。また藤原俊成卿の歌(俊成五社百首:290)に、「都出て伏見を越ゆる明け方は先づ打渡す櫃川(ひつかは)の橋」、これも「まず見渡す」だ。夫木集(夫木抄:10953)に「堀川のせきのゐぐいの打渡しあはでも人に戀わたるかな」、これは人を他所に見て、逢いがたいことを言う。この詞は、中頃までは人がその意味をよく知っていたのを、近世になって知る人もなく、みな誤った解釈をして「遠いことだ」、「長いことだ」などと言う。上記の例の中に、「遠いこと」、「長いこと」を言った例とは思えないことで、その誤りを知るべきである。後撰集にあるのも、長いのは橋のことだ。】○夜賀波延那須(やがはえなす)。「夜」の字を書紀に「那」と書いているのは、「耶」を写し誤ったのだ。【書紀に「那」とあるので、契沖は逆にこの記の「夜」を伝写の誤りか、同韻相通うのかと言い、師も「夜」を「奈」の誤りとしたが、みなかえって誤りだ。これは上の「打ち渡す」を長いことと思い込んだから、書紀が誤っていると気付かなかったのである。この記には、「奈」を仮名に用いたことはない。】この句は、春日祭の祝詞に「・・・王等卿等乎母平久天皇我朝廷爾伊加志夜久波叡能如久仕奉利佐加叡志米賜登(みこたちまえつぎみたちをもたいらけくスメラミコトがみかどのいかしやぐはえのごとくつかえまつりさかえしめたまえと)云々」、平野祭の祝詞にも、「親王等王等臣等百官人等乎母夜守日守爾守賜弖天皇朝廷爾伊夜高爾伊夜廣爾伊賀志夜具波江如久立榮之米令仕奉給登(みこたちおおきみたちおみたちもものつかさのひとたちをもよのまもりひのまもりにまもりたまいてスメラがみかどにいやたかにいやひろにいかしやぐはえのごとくたちさかえしめつかえまつらしめたまえと)云々」とある「夜具波叡能如久(やぐはえのごとく)」と同言である。それは師の祝詞考に、「『伊加志』は、書紀で『嚴』または『重』と書き、諸々の祝詞に『茂』と書いて、盛んに茂って勢いが厳かであることを言う。『夜具波叡』は、『彌木榮(いやごはえ)』である。樹がいやが上にも生え茂っているのを言う。木の多く茂っているところを『林』といい、また『はえ』と言うのもこの『榮(はえ)』である。今の世に遠江の人が、木や草の孫枝が生い茂っているのを『やごばえ』と言うのもこれだ。この言は、古言があるのを用いて喩えたのだ」と言った通りだ。「木(こ)」を「が」とも「ぐ」とも通わせて言ったのだろう。【ただし「やが」あるいは「やぐ」と言うのも、別にそういう言葉があったかも知れない。しかしおおむねの意味は、上記の通りだ。後世の言に「いやがうえ」と言うのも、「彌が上」ではなくて、この「夜賀波延」の訛ったものだろう。】「那須」は「如く」である。【その詞は、祝詞では「如久」とある。】こう言ったのは、率いてきた諸々のお供たちの、多くて盛大であることを喩えたので、その趣きも上記の祝詞と全く同じである。【祝詞にあるのも、王、臣、百官たちの多く盛大であることを言う。この詞、この歌を初めとして、他にも同様に言った古言があるのを、祝詞に取られたのだろう。】そしてこの時に、見渡した梢で喩えたのだ。そこで上に「打ち渡す」とあるのだ。【この句、書紀の今の本の「那」の字は誤写であることを知らないで、契沖が「長延(ナガハヘ)」として、「縄などを長く延ばしたような、長い道をやって来た」と言い、その他にも「長延」として解する説があるが、正しくない。「延」は「ハヘ」であって、「え」と「へ」とは異なる。】○岐伊理麻韋久禮(きいりまいくれ)は、「来入り参来れ」である。【「まい」を「まいり」の「り」を略したものと言うのは、言葉の本末が違っている。「まいり」は「参入り」だ。「詣でる」は「参出る」で、「まい」と言うのが本来の形である。】中巻の白檮原の宮の段で、「意佐賀加能意富牟廬夜爾比登佐波爾岐伊理袁理(おさかのおおむろやにひとさわにきいりおり)」、万葉巻四【四十六丁】(700)に「不近道之間乎煩參來而(ちかからぬみちのあいだをなずみまいきて)」、また【五十九丁】(779)「持將參來(もちてまいこん)」、巻廿【十丁】(4298)に「安禮波麻爲許牟(あれはまいこん)」などがある。○歌全体の意味は、「あなたが嫉妬してやかましく言ったから、私は大勢のお供を連れて、場所が狭く煩わしいのに、わざわざやって来た」と言ったのである。【「彌木榮(やごはえ)」に喩えて供奉人が多いことを言ったのは、行幸が容易でなく、煩わしいことを言ったのだ。】○所歌は、師が「みうたわしける」と読んだのが良い。用言にも「御」を付けるのは、「御寝(みね)ます」、「御立(みたたす)」などと同様である。○六歌は、「むうた」と読む。【「むつのみうた」と読むようにも思われるが、ここは単なる数を言うのだから、やはり「むうた」と読むべきだ。】六首ということだ。【すべて「歌幾首」ということは、「幾うた」というのが雅言の常である。記中に「二歌」、「三歌」、「四歌」などとある。】上の「山代川を川上り」とある歌から、ここまで七首ある中で、口比賣の歌を除いて六首ある。【その中には、大后と読み交わしたとは言えないものもあるが、それも大后との仲について言うのだから、一緒にしてこう言ったのだ。】書紀にいわく、「明くる日、筒城の宮に到って皇后を呼んだが、皇后は出て来なかった。そこで天皇は歌って・・・また歌って・・・そこで皇后は『天皇は既に八田皇女と見合いしたので、私はその皇女に従って、后となることはないでしょう』と言わせた。そこで天皇は車を帰した。天皇は大后がこのように激しく怒っていても、なお恋い慕った。三十五年夏六月、皇后の磐之媛命は、筒城の宮で薨じた。三十七年冬十一月甲戌朔乙酉、皇后を那羅山に葬った」とある。【諸陵式に、「平城坂の上の墓は磐之媛命である」とある。】○志都歌之返歌(いずうたのかえしうた)。この段の終わりにもこう言ったところがある。そこでは「返歌」を諸本に「歌返」とあるのを、延佳本だけは「返歌」とある。そしてここでは諸本に「返歌」とあるが、真福寺本のみ「歌返」とある。そこで思うに、「歌返」とある方が正しいのだろう。【そうならば、この段の終わりにある方を延佳本に「返歌」と書いたのは、例のさかしらで改めたのだろう。ここで諸本に「返歌」とあるのも、上下を誤ったのだろう。】もし「歌返」なら、「うたいかえし」と読むべきだろうか。しかしやはり「かえしうた」と言うのが適切に聞こえる。また「夷振之上歌(ひなぶりのあげうた)」など言う例にも合うので、ここは取りあえずどちらも「返歌」とあるのに依っておく。「志都歌」というのは、朝倉の宮の段にも二箇所に見える。【いずれも「志都」と書いて、「都」は清音である。「倭文(シヅ)」の「つ」も普通は濁るが、古い書物には「都」を書いて、清音だから、「静(シヅ)」の「つ」も、いにしえは清んで読んだのだろう。】神楽歌の古本に「・・・次に薦枕(こもまくら)静歌【拍子十、本末それぞれ五】、尻上(しりあげ)【拍子十四、本末それぞれ七】」、また【裏書き】に「以前の宮人・木綿志天(ゆうしで)・前張の三種の静歌をそれぞれ二返、次に琴を取って拍子を打ち、尻挙二返云々」と見え、韓神の歌に、「静韓神(シツからかみ)、早韓神(はやからかみ)」という語もある。「早」に対して「静」というのを見ると、志都歌は、緩やかに歌う歌のことだろう。「返歌」は、古今集の大歌所の神楽歌に、返し物の歌(1081)として、「青柳を片糸に搓(より)て云々」の歌を載せている。この歌は、神楽の青柳という歌である。【古今集で「返し物の歌」というのは、この一首の表題である。袖中抄に、次の「眞金吹(まがねふく)」の歌を連ねて挙げているのは間違いだ。「眞金吹」は、左に注があって、別の歌である。】古今和歌六帖【琴の歌】(3401)に、「吾妻琴(あづまこと)春の調(しらべ)を借しかば返し物とは思はざりけり」、【この歌は伊勢集に「故中務宮の琴を借りて」と詞書きがある。伊勢の答歌も六帖に載っている。】袖中抄は、こうした歌を引いて、「神樂の譜にいわく、『朝倉を吹き返し、催馬楽が拍子を・・・あさくらや木の丸殿に・・・』、この歌は御前の返し歌として、延喜廿一年の勅で定められた。神樂遊びをするときは、『榊の音を振り立てて唱える』、またいわく『星が既に終わって、絲竹を掻き返して朝倉を堪能の歌人によって催させる』とある。私の考えでは、『朝倉』を歌うのを『あさくらかえす』と言い、あるいは『吹き返す』と言い、または『絲竹を掻き返して』と言っている。または『催馬楽拍子』とも言う。【云々。】この『かえす』は、笛も琴も転調するのか、催馬楽拍子というので分かる。云々」【ここまで袖中抄。】江次第の石清水の臨時祭の儀に、「舞人が出て終わると、陪従が反歌して退出」と見えて、(袖中?)抄に「反歌は大比禮(おおひれ)の返しである」とある。源氏物語の若菜の上に、「唱歌の人々御階に召て勝れたる聲のかぎり出して、返り音(こえ)になる、夜の更行(ふけゆ)くまゝに物の調(しらべ)どもなつかしくかはりて、青柳遊び給うほど云々」、注に「かへりこゑになるというのは、呂から律になるのである」とある。體源抄にも「返り声に青柳を歌うというのは、律の声を返り声という」と言っている。【これは、律の声なら何でも返り声と言うのでなく、呂の声が変わって律の声になるのを言う。】またいわく、「『朝倉がへし』と言うのは、朝倉の歌を催馬楽拍子に歌うのを言う。神楽は一越調なのを、催馬楽拍子に琴を調律するのである」と言う。【これも上記の袖中抄に「星が既に終わって」とあるところを見て納得せよ。】これらのことを考えると、調べが変わるのを「返る」と言う。それは物事が上下入れ替わるのを「覆る」と言い、裏表が変わるのを「翻る」というたぐいで、調が変わるのは呂が律に変わるのである。その調を変える間際に歌う歌を返し歌と言う。返し物と言うのもこれである。【上記の「青柳」は、調が律に変わるときに歌う歌なので、返し物と言う。源氏物語に「物のしらべどもなつかしくかはりて」と言っている、呂から律への変化だ。六帖の歌の意味は、春の調べは呂であって、律ではないので、返し物とは思わなかったと言い、借りたものを返さなければならないとは思わなかったと戯れたのだ。袖中抄に「朝倉を御前の返し歌とする」と言ったのも、調が変わるときに歌う歌と決められたので、「朝倉を返す」というのも調を変えてその歌を歌うのを言う。「朝倉がへし」というのがそれだ。その時、音振りも拍子もみな変わると見える。「大比禮(おおひれ)返し」と言うのも、返し歌に大比禮を歌うことだ。】そもそも物の調べや歌う声を呂・律に分けることは、漢国の定めによっており、【ただし皇国ではどういうわけか、呂・律の名が漢国とは反対で、呂というのは漢国の律、律というのは漢国の呂である。漢学の人は、いぶかってはならない。】後の定めであるのに、ここの返し歌を転調することと言うのはどうかと思う人もあるだろうが、呂・律という名こそ後のものではあるが、上代から歌う声にも物の調べなどにも、自然と強い、柔らかいなどの違いはあっただろうから、それを翻して歌うことなどもあって、返し歌と名付けたことに、疑問はない。【そうしたことが上代からあって伝わったのを承けて、のちにもそうした業があるのである。】



もくじ  前へ  次へ
inserted by FC2 system