本居宣長『古事記伝』(現代語訳)38

 

三十八之巻(若櫻の宮の段)

伊邪本和氣命。坐2伊波禮之若櫻宮1。治2天下1也。此天皇。娶2葛城之曾都毘古之子葦田宿禰之女。名黒比賣命1。生御子。市邊之忍齒王。次御馬王。次妹青海郎女。亦名飯豊郎女。<三柱>

 

訓読:イザホワケのミコト、イワレのワカサクラのミヤにましまして、アメノシタしろしめしき。このスメラミコト、カツラギのソツビコのこアシタのスクネのむすめ、なはクロヒメのミコトにみあいまして、ウミませるミコ、イチノベのオシハのミコ、つぎにミマのミコ、つぎにいもアオミのイラツメ。またのみなはイイトヨのイラツメ。<みばしら>

 

口語訳:伊邪本和氣命は、伊波禮の若櫻宮に住んで、天下を治めた。この天皇が葛城の曾都毘古の子、葦田宿禰の娘、黒比賣命を娶って生んだ御子は、市邊之忍齒王。次に御馬王。次に妹の青海郎女、またの名は飯豊郎女。<三柱である。>

 

旧印本には、この初めに「子」とある。【前の御世、仁徳天皇の子ということだ。】真福寺本には、これから下の終わりまで、御世御世の初めに、大概は「弟の〜命」、「御子〜命」などとある。とすると古い本にはすべてそうあったのを、諸本にその字がないのは、後にみな省いたのだろう。【旧印本にここにだけ「子」とあるのは、たまたま一つだけ残ったのだろう。】とすると、ここも真福寺本によって、いずれもそう書くべきようだが、中巻にはどこにもそういう例がないので、この巻に至ってそう書くのもどうかと思われ、今は中巻の例に従って、諸本に「子」の字がないのによった。後の段もみなこれに倣う。○この天皇、後の漢風諮号は、履中天皇という。○伊波禮(いわれ)は、大和国十市郡である。書紀の~武の巻に、「また兄磯城の軍があった。磐余(いわれ)の邑に布滿(いわめり)」、また「その磐余の地は、元の名は片居(かたい)と言った。また片立(かたたち)とも言う。我が皇軍が仇を破るに及んで、大軍が集合して、そこに滿(いわめり)。それでその地を磐余という。また天皇は先に嚴瓮(いつへ)の粮(おしもの)を嘗めて軍を出して征服した。このとき磯城の八十梟帥(やそたける)がそこに屯聚(いわみ)居た。果たして天皇と大戦し、終に皇軍によって滅ぼされた。そこで磐余と名付けた。屯聚、これを『いわみき』と言う」とある。何にせよ軍が滿聚(いわみ)居たことから来た地名である。【「れ」は「村」の意味である。書紀には村を「阿禮(あれ)」と書いている。この地名は、古い書物にはみな「石村」と書いている。】清寧天皇。継体天皇、用明天皇などもこの地に都を作った。書紀には神功の巻にも、「三年、磐余に都した」とある。そしてこの巻に、「元年春二月壬午朔、皇太子は磐余の稚櫻の宮で即位した」とある。【そのうえまた、「二年冬十月、磐余に都した」とあるのはどういうことか。】継体の巻の歌に「都奴娑播符以簸例能伊開能(つぬさわういわれのいけの)」、万葉巻三【二十一丁】(282)に「角障經石村毛不過(つぬさわういわれもすぎず)」、また【四十三丁】(416)「百傳磐余池尓(ももづたういわれのいけに)」、【「百傳」は「角障」を誤ったものだろう。「いわれ」の枕詞は、書紀や万葉集の歌ではつねに「つぬさわう」である。「百傳」は例がない。】また【四十六丁】(423)「角障經石村之道乎(つぬさわういわれのみちを)」、巻十三【二十九丁】(3325)に「角障經石村山丹(つぬさわういわれのやまに)」などと詠んでいる。延喜式神名帳に「大和国十市郡、石寸山口神社」、【「寸」は「村」の字の偏を省いて書いたものである。この神社を祈年祭、月次祭などの祝詞、三代実録二などに、みな「石寸」と書いてある。いずれも「いわき」と読んでいるのは、偏を省いた書き方を知らないのである。「いわき」という神社はあったことがない。この記の用明天皇の御陵の「石村」も「石寸」と書いている。天武紀に「村主(すぐり)」も「寸主」と書いている。四時祭式、臨時祭式には、この社を「石根」と書いている。「根」も「村」を誤ったのである。三代実録には「石村」とある。】とすると、十市郡にあることは確かである。【高市郡とするのは誤りである。ある人は今の十市郡に石原田村と言うところがある。石原は「いわれ」の名が残ったのではないかと言うが、どうだろう。】○若櫻宮(わかさくらのみや)。この宮の由縁は、書紀の三年のところ、また新撰姓氏録の若櫻部造の條に見えて、その文は後に出る若櫻部の臣のところに引いてある。この宮の跡は、大和志に池内村だとある。どうだろうか。延喜式神名帳に「大和国城上郡、若櫻神社」がある。今は十市郡に属している。【この社は、今の十市郡、櫻井のほとりにある、谷村にあり、白山権現というのがそうだと言う。今思うと、櫻井というところも、若櫻の名が残っているのだろうか。○書紀の神功の巻で「磐余に都した」とあるところに、「これを若櫻の宮と言う」とある細注は、この履中天皇の宮の名を思って、後人がさかしらに書き加えたものである。書紀では「わか」にはすべて「稚」の字を用いて、「若」と書いた例はないので知るべきである。古語拾遺にも神功皇后の御世を「磐余の稚櫻の朝」と言っており、この御世(履中)を「後の磐余の稚櫻の朝」というのは誤りである。】○葛城之曾都毘古(かつらぎのそつびこ)は、前に出た。【伝廿二の三十五葉】○葦田宿禰(あしたのすくね)は、諸陵式に「片岡の葦田の墓は、大和国葛下郡にある」とある地による名である。延喜式神名帳に「同郡、片岡坐(かたおかにます)神社もある。古今集以降の歌に、「片岡の朝原(あしたのはら)」と詠んでいるのが多いが、この地のことである。新撰姓氏録に、大和の国に「葦田の首」という姓もある。この人の父、曾都毘古の里も葛城だから由縁がある。【備後の国に、葦田郷がある。但馬国氣多郡に葦田神社もあるが、それらではない。この名の「葦田」をある人の考えに「『葉田』の誤りである。黒比賣を書紀に『羽田矢代宿禰の娘』とあり、『鳥往来(とりかよう)羽田の汝妹(なにも)』ともあるからだ」と言うのは、かえって誤りだ。その歌は、初めに「羽田の矢代宿禰の娘、黒媛を妃にしようとした云々」のことが見えるが、元年のところに至って、「葦田宿禰の娘、黒媛を立てて皇妃とした」とある。羽田矢代宿禰は武内大臣の子で、曾都毘古の兄である。それは書紀にもこの記にも、「羽田矢代宿禰」とだけあって、羽田宿禰と言った例はなく、文字も書紀には「羽田」とだけあって、「葉田」と書いたことはない。この記にも「波多八代宿禰」と書いている。「黒媛」というのは、他にも例の多い名だから、羽田矢代宿禰の娘とある黒媛と、皇妃に立てた黒媛は、別人かも知れない。また「羽田の汝妹」とあるのから紛れて、葦田宿禰の娘なのを、羽田矢代宿禰の娘と伝えたかも知れない。いずれにせよ、葦田は葉田の誤りではない。思い違ってはならない。】この人の名は、書紀の顕宗の巻の細注にも見える。【「・・・蟻臣(ありのおみ)は、葦田宿禰の子である」と見える。】○黒比賣命(くろひめのみこと)。同名の例が多い。名の意味は、日代の宮の段、「迦具漏比賣(かぐろひめ)」のところで言った。【伝二十六の十二葉】書紀に「元年秋七月己酉朔壬子、葦田宿禰の娘、黒媛を立てて皇妃とした」とある。【弘仁私記に「皇妃は、羽田矢代宿禰の娘である」とあるのは、誤りである。葦田と羽田矢代とが別であるのは、上に言った通りだ。】また「五年秋九月・・・風の音のように、虚空に声があり、『劔刀(つるぎたち)太子(ひつぎのみこ)や』と言った、また『鳥往来(とりかよう)羽田の汝妹(なにも)、羽狹(はさ)に葬り立ちぬ』と・・・急に使いが来て、『皇妃が薨じられた』と言う。・・・十月甲寅朔甲子、皇妃を葬った。云々」とある。【羽田は大和国高市郡の波多であろう。それは母の故郷などで、皇妃も初めその郷里に住んでいたので、「羽田の汝妹」と言ったのだろう。】○市邊之忍齒王(いちのべのおしはのみこ)。市邊は、山城国綴喜郡に、「市野邊村」と言うのが今ある。そこか。また日本霊異記に「河内の市邊井上寺の里」と言うのもある。【河内国志紀郡、國府村のあたりに「市邊の墓」というのもあると言う。】「忍齒(おしは)」は、近つ飛鳥の宮の段に、この王のことを語るのに、「御齒は三枝のように押齒になっていた」とあり、それによる名だ。なおその忍齒のことは、そこ【伝四十三の五十三葉】で言う。書紀の顕宗の巻に、磐坂皇子(いわさかのみこ)ともある。【磐坂は、今大和国城上郡に「磐坂村」があり、これだろう。同郡に大市郷、上市郷があるのを、ある人は市邊もこのあたりかと言ったが、市邊はそうではないだろう。】この王のことは、なお穴穂の宮の段、甕栗の宮の段、近つ飛鳥の宮の段などに見える。書紀に「黒媛を皇妃として、磐坂の市邊の押磐皇子、御馬皇子、青海皇女【一にいわく、飯豊皇女】を生んだ」とある。○御馬王(みまのみこ)。この名は万葉巻五の歌(877?)に「馬」を「美麻」とあるのによって読む。名の由来は考えつかない。書紀の雄略の巻に、この王が捕らえられ殺されたことが見える。【その文は穴穂の宮の段に引く。】○青海郎女(あおみのいらつめ)。「郎」の字は、諸本に「皇」と書いてある。ここは真福寺本、他一本によった。「皇女」ということは、記中に例がないからである。【皇女とは、後人が書紀によってさかしらに改めたものだろう。】この名は地名だろう。その場所は思い付かない。【延喜式神名帳に、「若狭国大飯郡、青海神社」、「越後国頸城郡、青海神社」、「同国蒲原郡、青海神社」、和名抄に、「同郡青海郷は『あおみ』」、「参河国碧海郡は『あおみ』」、「碧海郷は『あおみ』」などがある。新撰姓氏録の右京神別に青海首もある。ある人のいわく、「今若狭国に青浦、青島などというところがある。また大飯郡に飯豊天皇を祀ったという神社もある」。】○飯豊郎女(いいとよのいらつめ)。この「郎」の字も、諸本に「皇」の字を書いてあるのを、今は真福寺本、他一本、および他一本などによった。「飯豊」は鳥の名である。その鳥に由縁がある名だろう。和名抄に「張華の博物志にいわく、キュウ(休+鳥)リュウ?(留+鳥)鳥は、人が手足の爪を切って地に捨てると、たちまちその家に入るので、それを捕らえる。漢語抄にいわく、『いいとよ』」とある。【書紀の皇極の巻に「三年三月、休留(いいとよ)が豊浦大臣の大津の宅の倉で子を生んだ」とあって、細注に「休留は茅鴟(ぼうし)である」とある。釈日本紀に「『いいとよ』は、兼方が考えるに、梟の異名である」と言っている。天武紀に「十年八月、伊勢国が白い茅鵄(いいとよ)を献上した」とある。和名抄に「陸奥国宇陀郡、飯豊郷」延喜式神名帳に「同国白川郡、飯豊比賣神社」、「賀美郡、飯豊神社」、「安積郡、飯豊和氣神社」などがある。】この皇女は、甕栗の宮の段には「忍海郎女(おしみのいらつめ)」ともある。さらにその段で言う。【書紀の異伝のこともそこで言う。】○書紀では、この次に「次の妃、幡梭(はたび)皇女は、中磯(なかし)皇女を生んだ」とあり、「六年春正月、草香の幡梭皇女を立てて皇后とした」とある。この幡梭皇女のことはたいへん紛らわしい。そのことは朝倉の宮の段で言う。○記中、他の例から考えると、この次に忍齒王の御子たちを挙げ、その母も挙げるべきである。顕宗天皇、仁賢天皇の母が見えないのも、事が足りず、例と違う。そこで今仮に、他の例により、書紀の顕宗の巻に基づいて補えば、「市邊忍齒王が葦田宿禰の子、蟻臣の娘、波延比賣(はえひめ)を娶って生んだ子は、居夏比賣(いなつひめ)、次に意富祁王(おおけのみこ)、次に袁祁王(おけのみこ)、次に橘王【四柱】、意富祁王と袁祁王の二柱は、天下を治めた」などとあるべきところである。

 

本坐2難波宮1之時。坐2大嘗1而。爲2豊明1之時。於2大御酒1宇良宜而。大御寢也。爾其弟墨江中王。欲レ取2天皇1。以火著2大殿1。於レ是倭漢直之祖阿知直。盜出而。乘2御馬1。令レ幸レ於レ倭。故到レ于2多遲比野1而。寤。詔2此間者何處1。爾阿知直白。墨江中王。火著2大殿1。故率逃レ於レ倭。爾天皇歌曰。多遲比怒邇。泥牟登斯理勢婆。多都碁母母。母知弖許麻志母能。泥牟登斯理勢婆。到レ於2波邇賦坂1。望=見2難波宮1。其火猶炳。爾天皇亦歌曰。波邇布邪迦。和賀多知美禮婆。迦藝漏肥能。毛由流伊幣牟良。都麻賀伊幣能阿多理。故到=幸2大坂山口1之時。遇2一女人1。其女人白之。持レ兵人等。多塞2茲山1。自2當岐麻道1迴應2越幸1。爾天皇歌曰。淤富佐迦邇。阿布夜袁登賣袁。美知斗閇婆。多陀邇波能良受。當藝麻知袁能流。故上幸。坐2石上神宮1也。

 

訓読:もとナニワのミヤにまししとき、おおにえにまして、とよのあかりせすときに、オオミキにうらげて、おおみねましき。かれそのみおとスミノエのナカツミコ、スメラミコトをとりまつらんとして、オオトノにひをつけたりき。ここにヤマトノアヤノアタエのおやアチノアタエ、ぬすみいでて、ミマにのせまつりて、ヤマトにいでまさしめき。かれタジヒヌにいたりまして、さめまして、「ここはいずくぞ」とノリたまいき。アチノアタエもうさく、「スミノエのナカツミコ、オオトノにひをつけたまえり。かれいてまつりてヤマトににげゆくなり」ともうしき。ここにスメラミコトみうたわしけらく、「たじひぬに、ねんとしりせば、たつごもも、もちてこましもの、ねんとしりせば」。ハニュウザカにいたりまして、ナニワのミヤをみやりたまえば、そのひなおあかくみえたり。かれまたみうたわしけらく、「はにゅうざか、わがたちみれば、かぎろいの、もゆるいえむら、つまがいえのあたり」。かれオオサカのヤマグチにいたりませるときに、オミナあえり。そのオミナもうさく、「つわものもたるひとども、あまたこのヤマをせきおり。タギマチよりめぐりてこえいでますべし」ともうしき。スメラミコトうたわしけらく、「おおさかに、あうやおとめを、みちとえば、ただにはのらず、たぎまちをのる」。かれのぼりいでまして、イソノカミのミヤにましましき。

 

歌部分の漢字表記:多遲比野に、寝むと知りせば、立薦も、持ちて來ましもの、寝むと知りせば

波邇布坂、我が立ち見れば、かぎろひの、燃ゆる家群、妻が家のあたり

大坂に、遇ふや乙女を、道問へば、直には告らず、當藝麻道を告る

 

口語訳:(天皇が)初め難波の宮にいたとき、大嘗があって、豊の明かりの時、酒に酔って寝ていた。そのとき弟の墨江中王は天皇を殺そうとして、大殿に火を付けた。倭漢直の祖、阿知直が天皇を盗み出し、馬に乗せて、倭に逃げた。多遲比野に到ったとき、目を覚まし、「ここはどこか」と尋ねた。阿知直は、「墨江中王が大殿に火を付けたのです。そこで倭に逃げようと連れて参ったのです」と答えた。そこで天皇は歌って、「多遲比野で寝ると知っていたら、立薦も持って来るのだったなあ」。波邇賦坂に到ったとき、難波の宮を振り返ってみたら、その火がまだ赤々と見えていた。そこで天皇はまた歌って、「波邇賦坂で私が立ち止まって見ていると、かげろうのように燃えている家群、妻の家の辺り」。大坂の山口に到ったとき、一人の女人に出会った。その女人は「武器を持った人が、この山を取り巻いています。當岐麻道から回って越えて行かれませ」と教えた。そこで天皇は歌って、「大坂に遇った乙女は、道を聞けば、一直線の道は答えず、當岐麻道を告げた」。そこで上り出て、石上神宮にいた。

 

本は、字のまま「もと」と読む。こうしたところは「はじめ」と言うことが多いが、「もと」というのも古言だろう。【今の世の言でも、「初め」とも「本」とも言う。】後々のことを「末」というのに対する言葉である。この上に「天皇」ということがあったようだ。そうでなくては言が足りない感じである。○「坐2難波宮1之時(なにわのみやにまししとき)」は、父の天皇が崩じて後、まだその宮にいたときのことである。○大嘗は前に出た。【伝八の六葉】天皇が崩ずると、皇太子はすぐに皇位に就くから、【即位の禮というのは、後のことである。】「大嘗」と言っている。ただし天皇でなくとも「新嘗聞食(にいなめきこしめす)」ことも上で言った通りだから、皇太子であっても同様だろう。【書紀の皇極の巻に、「天皇が新嘗を行った。この日皇太子も大臣も、それぞれ新嘗を行った」とある。】しかし「大」というのは、天皇の新嘗に限るべきである。○坐(まして)とは、【師(賀茂真淵)は、「大嘗」の下に「宮」の字が落ちたかと言った。それも一応はそう見えるが、よく考えると「宮」とあるのはかえって良くないだろう。】大嘗にいる意味だ。【大嘗の期間にいることを大嘗と言うのである。】たとえば齋(物忌み)している期間を「齋に坐す」と言い、諒闇の間を「諒闇に坐す」と言うようなものだ。○「爲2豊明1(とよのあかりせす)」も前に出た。【伝卅二の五十七葉】これは、大嘗の豊明である。「爲」は「せす」と読む。【「したまう」と言う意味だ。】また「きこしめす」とも読める。○宇良宜(うらげ)は、中巻の明の宮の段で、「天皇は奉られた大御酒にうらげて」とあるところで言った。【伝卅三の四十四葉】○大御寢也(おおみねましき)は、中巻の白檮原の宮の段、玉垣の宮の段などに「御寢坐也(みねましき)」とある。この「坐2大嘗1而云々」のことは、書紀には見えない。○墨江中王(すみのえのなかつみこ)は、前に出た。【伝三十五】○「欲レ取2天皇1(すめらみことをとりまつらんとして)」。「皇」の字は、諸本に「下」と書いてある。今は真福寺本によった。【諸本に「天下」と書いてあるのは、後人が「天皇を取る」という古言を知らず、どうかと思ってさかしらに改めたものだろう。】「取る」とは「殺す」を言う。穴穂の宮の段に「人が天皇を取った。どうするというのだ」とある。「殺す」を「取る」という例は、中巻の水垣の宮の段に出した。考え合わせよ。【伝廿三の六十葉】書紀には、「八十七年春正月、大鷦鷯天皇が崩じた。皇太子が諒闇から出て、まだ皇位に就かない間、羽田矢代宿禰の娘、黒媛を妃にしようとして、納采を既に終えて、住吉仲皇子(すみのえのなかつみこ)を遣わして吉日を告げさせた。この時、仲皇子は太子の名をかたって、黒媛を犯した。この夜、仲皇子は手鈴を黒媛の家に忘れて帰った。明くる日、太子は仲皇子が黒媛を犯したことを知らず、到って室に入り、帳を開いて玉床に入った。そのとき床の頭のところで鈴が鳴った。太子は怪しいと思い、黒媛に『何の鈴か』と尋ねると、『昨日あなたがいらっしゃったとき、お持ちになったではありませんか。どうして私に尋ねるのです』と答えた。太子は仲皇子が自分の名をかたって、黒媛を犯したことを知った。そこで黙って帰った。仲皇子は事が発覚したのを知って、結果を恐れ、太子を殺してしまおうと思い、密かに兵を興して、太子の宮を取り囲んだ」とある。この記と異なる。この記では、天皇を弑する理由を言わないので、単に自ら天皇になろうとして行ったことに聞こえる。○倭漢直(やまとのあやのあたえ)は、中巻の明の宮の段に、単に「漢直」とあって、そこで詳しく言った。【伝卅三の三十九葉】○阿知直(あちのあたえ)。この人のことも、漢直のところで言った。ところでこの氏が「直」の尸になったのは、雄略天皇の御世のことなのに、この人を「直」と言うのはいぶかしい。【書紀には「阿知使主(あちのおみ)」とある。】あるいは後から言ったのではないか。続日本紀、新撰姓氏録などに「阿智王」とあるのも、この人のことである。【延喜式神名帳に、「信濃国伊那郡、阿智神社」がある。】なお終わりの方にも出ている。○盜出(ぬすみでて)とは、天皇を墨江中王の側に知られず、密かに出したことを言う。一般に「ぬすむ」とは、人が決して許さないことを知られないように密かに手に入れるのを言う。水垣の宮の段の歌に、「奴須美斯勢牟登(ぬすみしせんと)」とあるところに言った通りだ。【伝廿三の六十六葉】これは天皇が深く眠っているので、こうしたことを天皇自らも知らなかったのである。【そのことは後に見える。】○多遲比野(たじひぬ)は、和名抄に「河内国丹比【「たじひ」。丹南、丹北とする】」とあるのがそうだ。【この郡の郷の名に丹上、丹下があるのも、丹比の上、丹比の下であろう。】延喜式神名帳に「同郡、丹比神社」もある。反正天皇の「多治比の柴垣の宮」、雄略天皇の御陵、「多治比の高ワシ(亶+鳥)なども、みなこの地である。書紀の孝徳の巻に「丹比坂」、天武の巻に「大津、丹比の両道から、軍が多く集まってきた」【大津は、丹南郡に大津神社がある。】など見える。【今、丹南郡に丹治井村がある。雄略天皇の御陵は丹北郡にあって、その距離はやや遠い。いにしえに丹比と言ったのは、広い地域を指す名だっただろう。今の丹南郡に野田、東野、野々上、野村、向野、野中などという地名があるのは、多遲比野のなごりだろう。】○寤(さめまして)。このところまでは、何も知らず、馬の上ながらも眠っていたのである。○此間は「ここ」と読む。○何處は「いずく」と読む。【「いずこ」というのは後のことである。そのことは前に言った。】初めから事の様子も分かっておらず、夜のことと思われるので、ふと眠りから覚めると、たいへん怪しく、どこだろうかと思ったのである。○率逃は、「いてまつりて、倭ににげゆくなり」と読む。「率」を「いてまつる」と読むことは前【伝卅一の廿四葉】に言った。「逃」の下に「ゆく」という言を添えて読む語のさまだ。問いの言葉と歌によると、「ここは多遲比野です」と答えた言葉もあっただろうが、上の文に譲って、ここは省いたのである。○多遲比怒邇(たじひぬに)は、「丹比野に」だ。○泥牟登斯理勢婆(ねんとしりせば)は、「寝ると知っていたら」である。【「しらば」というところをこのように言うのは、「有らば」を「ありせば」、「成らば」を「なりせば」と言い、また「盡きぬ」を「つきせぬ」、「絶たぬ」を「たえせぬ」などと言うたぐいで、一つの言い方である。】これはこの野で暫く馬をとどめて休んだ時に覚めたのだろう。それでこの野に寝ているように詠んだのである。【実は眠っている間に思いもよらず来たのであって、この野で眠っているのではないからである。】○多都碁母母(たつごもも)は、「防壁(たつごも)も」である。【下の「も」は辞である。】和名抄に「釋名にいわく、縛壁は蓆をもって壁に縛り著けるものである。漢語抄にいわく、防壁は『たつごも』」とあり、皇太神宮儀式帳に「蒲の立薦三張」【止由氣宮儀式帳にも同様に見えて、「三張」は「三枚」とある。】主計式に「防壁一枚、【長さ四丈、広さ七尺】」と見える。これらとここの歌を考え合わせると、蓆を縫い合わせて、屏風のように立てたものと見える。名は、儀式帳に言うように「立薦」の意味だろう。【和名抄の「縛壁」は少し当たっていない。「壁に縛り著けるもの」というのは違う。】○母知弖許麻志母能(もちてこましもの)は、「持って来たものを」である。「ものを」と言うべきなのを「もの」とだけ言う例は、朝倉の宮の段の歌に「須岐婆奴流母能(すきばぬるもの)」、書紀の應神の巻の歌に「阿比瀰菟流莫能(あいみつるもの)」、万葉巻四【十八丁】(516)に「附手u物(つけてましもの)」、巻五【二十五丁】(876)に「等比可弊流母能(とびかえるもの)」など、さらに多い。この句は八言一句なのは、たいへんに珍しい。【万葉にも稀にはある。】三言、五言と二句に読んでも良い。この句は、諸本に字を落とし、あるいは誤りなどして正しくないのを、【それは旧印本、また一本、他一本、延佳本などには「多都碁母碁母知弖、云々」と書き、真福寺本には「多都碁母母、知母許弖麻志乎能」と書いている。みな誤りである。】今はそのうちの一本によった。ただし、一本、他一本に「母能」の「母」の字を「牟(む)」と書いたのは、誤りとは言えない。「もの」を通音で「むの」と言ったことがあるのだろう。【真福寺本でこれを「乎」と書いたのも、「牟」を誤ったものだろう。】しかしそういった例をまだ見ないので、今は例が多い方を取っておく。○泥牟登斯理勢婆(ねんとしりせば)は、【「婆」の字は諸本に「波」と書いてある。ここは真福寺本によった。】上と同じだ。歌全体の意味は、「この野に寝るとあらかじめ知っていたら、周りを囲むのに、防壁を持って来るのに、そんなこととは知らないで、そういうものも持って来なかったなあ」ということだ。○書紀には「この時、平群の木兎(つく)宿禰、物部の大前宿禰、漢直の祖、阿知使主(あちのおみ)の三人は、太子に事情を告げた。太子は信じようとしなかった。そこで三人は太子を助けて、馬に乗せて逃げ去った。一にいわく、太子は酔って起きなかった。そこで大前宿禰が抱えて馬に乗せた」とある。○波邇賦坂(はにゅうざか)は河内国丹南郡である。諸陵式に「埴生坂本陵は、仁賢天皇である。河内国丹北郡にある」と見える。【河内志に、「丹南郡羽曳山は、郡の東南にある。山勢は起伏に富み、石川・古市・錦部三郡に接している。本郡の平尾岳、丹比丘、埴生坂はみなこの山脈に属する。古歌がある」と言って、書紀のこの段を引いている。「古歌」とはここの歌を言う。実際この道は、今もこの山の内を越える。これが埴生坂だろう。この坂を越えれば、東は古市郡である。】書紀の孝徳の巻に丹比坂とあるのも、【前の文を考えると】この坂のことだろう。また推古の巻に來目皇子(くめのみこ)を後に「河内の埴生の山の岡に葬った」とあるのもここだろう。【今、丹北郡の西大塚村のあたりに來目皇子の陵というのがあるけれども、そこは山ではない。埴生山というのも、場所が違うので、語り伝えが誤っているのだろう。】○望見は「みやりたまえば」と読む。熱田神宮の寛平の縁起で、倭建命の歌に「奈留美良乎美也禮波止保志(なるみらをみやればとおし)」、万葉巻十【十三丁】(1897)に「吾者見將遣君之當波(われはみやらんきみがあたりは)」とある。○炳は「あかくみえたり」と読む。【この字は、字書に「火が明るいのである」と見える。】○天皇亦歌、ここは「天皇」という言葉はないのが普通だ。○波邇布邪迦は「埴生坂」である。【この下に「に」という辞を添えて考えるべきである。】○和賀多知美禮婆(わがたちみれば)は、「私が立ってみていると」である。○迦藝漏肥能(かぎろいの)は、「輝く火の」である。この詞のことは、冠辞考に言われている通りだ。【万葉では、この言は色々に読まれているが、ここは単に「輝く火」ということである。なお伝五の巻の、火之迦具土神のところも考え合わせよ。】○毛由流伊幣牟良(もゆるいえむら)は、「燃える家群」で、難波の京の家々である。【木群(こむら)、草群(くさむら)のように、家が群がっているところを「いえむら」と言った。「村」というのもこの意味である。】○都麻賀伊幣能阿多理(つまがいえのあたり)は、【この句は九言だが、中程に「伊」と「阿」がある。万葉巻十五(3689)にも「等波婆伊可尓伊波牟(とわばいかにいわん)」などの句がある。】「妻の家の辺り」だ。書紀には「仲皇子は太子がもう中にいないのを知らず、太子の宮を焼いた。夜もすがら火は消えず、太子は埴生坂に到って醒め、難波を振り返って見て、火が燃えているので大いに驚いた」【「醒め」と言うのは、前と合わない。どういうことだろう。】とあって、歌はない。○大坂は前に出た。【伝廿五の二十四葉】考え合わせよ。○山口は、「やまのくち」と読む。【普通は「やまぐち」と言っているが、】月次祭の祝詞に「山能口坐(やまのくちにます)云々」とあるからだ。ここは河内の方から上る口である。【これを書紀に「飛鳥山の山口」とあるが、「大坂」というのはこの山越えの総称で、飛鳥山というのはその大坂を河内の方から上るところの名だからだ。飛鳥のことは、後に述べるのを考え合わせよ。】○遇一女人は、「おみなあえり」と読む。【「一」の字は、読んではならない。また「女に」と「に」を添えて読むのは、後世の語である。これらのことは、既に述べた。】○兵(つわもの)は兵器である。前に出た。○塞は「せきおり」と読む。【「おり」は「居」で、「おる」と言うのである。】○當岐麻道(たぎまち)は、和名抄に「大和国葛下郡、當麻は『たいま』」とある。【正しくは「たぎま」なのを「たいま」と言うのは、後に音便で崩れたのだ。万葉巻六(1050)に見える「山城の布當」なども「ふたい」と読んでいるが、正しくは「ふたぎ」である。】延喜式神名帳に「同郡、當麻都比古(たぎまつひこ)神社、當麻山口(たぎまのやまのくち)神社」などがある。【當麻寺や當麻村は、世人のよく知っているところである。】書紀の垂仁の巻に「當麻邑」、天武の巻に「當麻の衢」などが見える。この道は河内の石川郡から、大和の葛下郡へ越える山道で、二上山【万葉に歌が多い。】の南にあって、今の世に竹内越えという道である。【上記の大坂の道とこの道とは、河内の古市郡の飛鳥から別れて、この道は南を回り、石川郡を経て山を越え、葛下郡の竹内(たけのうち)というところに出る。】○迴は、師は「もとおりて」と読んだ。古言である。しかしここはやはり「めぐりて」と読むのが良いだろう。○越(こえ)を諸本に「起」と書いているのは誤りである。延佳本に「越と書いてあるべきだ」とあるのに従う。○淤富佐迦邇(おおさかに)は「大坂に」である。○阿布夜袁登賣袁(あうやおとめを)は、「遇うや乙女を」である。【「夜」は助詞。】「乙女に」というところを「を」というのは、いにしえに例が多い。書紀の仁徳の巻の歌に「和例烏斗波輸儺(われをとわすな)」、【「吾に問わすな」だ。】万葉巻十五【二十四丁】(3689)に「伊豆良等和禮乎等波婆伊可爾伊波牟(いずらとわれをとわばいかにいわん)」などがある。またここは、「を」を「よ」の意味と考えても良い。○美知斗閇婆(みちとえば)は、「道問えば」である。【これは大道だから、道筋が分からないのを問うた訳ではない。書紀に「この山に人はいるか。答えていわく、云々」とあるように、行く先に敵などいはしまいかと思って、道の状態を問うたのである。】○多陀邇波能良受(ただにはのらず)は、「直には告げない」で、直接行くべき大坂の道を告げなかったのである。人に物を言い聞かせるのを「告(の)る」というのは古言で、万葉に「告」の字を書いた例が多い。また「謂」の字を書くこともある。○當藝麻知袁能流(たぎまちをのる)は、【「知」は清音。】「當麻道を告る」である。○石上神宮(いそのかみのかみのやしろ)は前に出た。【伝十八の五十二葉以降。】書紀にいわく、「急ぎ馳せて、大坂から倭に向かい、飛鳥山に到って、山口で一人の乙女に出会った。その乙女に『この山に人はいるか』と尋ねると、『武器を持った者が山に満ち溢れていますわ。回って當麻路から越えなさい』と答えた。太子は乙女の言葉を信じて、危ういところを助かったと思い、歌って・・・。そこで更に帰って、共に来た兵を興して龍田山から越えて出た。時に・・・太子は石上の振神宮(ふるのかみのみや)に滞在した」とある。【この少女は當麻道から出よと教えたのに、龍田道から出たことは何か理由があるのだろうか。龍田越えは、今の龍野越えで、大坂道よりも北にある。この記の趣は、少女が行った通り、當麻道を越えたと見えて、どの道からとも言わない。他の道を行ったとすれば、必ずその道を言わなければならないからである。】

 

於レ是其伊呂弟水齒別命。參赴令レ謁。爾天皇令レ詔。吾疑B汝命。若與2墨江中王1。同心乎A故。不2相言1。答白僕者無2穢邪心1。亦不レ同2墨江中王1。亦令レ詔。然者。今還下而。殺2墨江中王1而。上來。彼時吾必相言。故即還=下2難波1。欺B所レ近=習2墨江中王1之隼人。名曾婆加理A。云若汝從2吾言1者。吾爲2天皇1。汝作2大臣1。治2天下1。那何。曾婆訶理答=白2隨1レ命。爾多祿給2其隼人1曰。然者殺2汝王1也。於レ是曾婆訶理竊伺2己王入1レ厠。以レ矛刺而殺也。故率2曾婆訶理1。上=幸2於1レ倭之時。到2大坂山口1。以爲。曾婆訶理爲レ吾雖レ有2大功1。既殺2己君1。是不レ義。然不レ賽2其功1。可レ謂レ無レ信。既行2其信1。還惶2其情1。故雖レ報2其功1。滅2其正身1。是以詔2曾婆訶理1。今日留2此間1而。先給2大臣位1。明日上幸。留2其山口1。即造2假宮1。忽爲2豊樂1。乃於2其隼人1賜2大臣位1。百官令レ拜。隼人歡喜。以=爲2遂1志。爾詔2其隼人1。今日與2大臣1飮2同盞酒1。共飮之時。隱レ面大鋺盛2其進酒1。於レ是王子先飮。隼人後飮。故其隼人飮時。大鋺覆レ面。爾取=出B置2席下1之劍A。斬2其隼人之頸1。乃明日上幸。故號2其地1謂2近飛鳥1也。上到レ于レ倭詔之。今日留2此間1。爲2祓禊1而。明日參出。將レ拜2神宮1。故號2其地1謂2遠飛鳥1也。故參=出2石上神宮1。令レ奏2天皇1。政既平訖參上侍之。爾召入而相語也。

 

訓読:ここにそのいろどミズハワケのミコト、まいきましてもうさしめたまう。かれスメラミコトのらしめたまわく、「あれナがミコト、もしスミノエのナカツミコと、おやじこころなからんとおもおせば、あいいわじ」とのらしめたまえば、「アはきたなきこころなし。スミノエのナカツミコとおなじこころにもあらず」とこたえもうしき。またのらしめたまわく、「しからば、いまかえりくだりて、スミノエのナカツミコをころして、のぼりきませ。そのときにこそアレかならずあいいわめ」とのらしめたまいき。かれすなわちナニワにかえりくだりまして、スミノエのナカツミコにちかくつかえまつるハヤビト、なはソバカリをあざむきて、「もしいまアがいうこときかば、あれスメラとなり、イマシをオオオミになして、アメノシタしらしめさんとす。いかに」とノリたまいき。ここにソバカリ「ミコトのまにま」ともうしき。かれそのハヤビトにものサワにたまいて、「しからばイマシのキミをとりまつれ」とノリたまいき。ここにソバカリおのがキミのかわやにいりませるをうかがいて、ホコもちてさしてしせまつりき。かれソバカリをいて、ヤマトにのぼりいでますときに、オオサカのヤマのクチにいたりまして、おもおさくは、「ソバカリわがためにおおきイサオあれども、すでにおのがキミをしせまつるは、きたなきしわざなり。しかれどもイサオをむくいずは、いつわりせしになりぬべし。すでにちぎりしごとおこなわば、かえりてそのココロこそかしこけれ。かれそのイサオはむくゆとも、そのムザネをばほろぼしてん」とぞおもおしける。ここをもてソバカリにノリたまわく、「きょうはここにとどまりて、まずオオオミのくらいをたまいて、あすのぼりまさん」とノリたまいて、そのヤマのクチにとどまりまして、すなわちカリミヤをつくりて、にわかにとよのあかりせして、すなわちそのハヤビトにオオオミのくらいをたまいて、ツカサヅカサをしておろがしめたまうに、ハヤビトよろこびて、こころざしとげぬとぞおもいける。ここにそのハヤビトに「きょうオオオミとおやじつきのサケをのみてんとす」とノリたまいて、のますときに、おもかくすオオマリにそのすすむるミキをもりたり。ここにミコまずのみたまいて、ハヤビトのちにのむ。かれそのハヤビトのむときに、オオマリおもてをおおいたりき。かれムシロのしたにおかせるタチをとりいでて、そのハヤビトがくびをきりたまいき。かくしてくるひぞのぼりいでましける。かれそこをチカツアスカとなづく。ヤマトにのぼりいたりましてノリたまわく、「きょうはここにとどまりて、はらいして、あすまいでて、カミのやをおろがまんとす」とノリたまいき。かれそこをトオツアスカとなづけき。かれイソノカミのカミのミヤにまいでて、スメラミコトに「マツリゴトすでにことむけおえてまいのぼりてさもらう」ともうさしめたまいき。かれめしいれてかたらいたまいき。

 

口語訳:弟の水齒別命がやって来て、挨拶をした。そこで天皇は「私はお前が墨江中王と同じ心を持っているのではないかと思う。それなら互いにものを言うことはしないでおこう」と言った。王子は、「僕にはそんな汚い気持ちはありません。また墨江中王とは同じ考えではありません」と答えた。そこで「それなら、すぐに帰って、墨江中王を殺せ。それが終わったら、ともに語ろうではないか」と命じた。そこですぐに難波へ引き返し、墨江中王のそばに仕えていた隼人、曾婆加理を欺いて、「もし私の言う通りにすれば、私は天皇になって、お前を大臣として、天下を治めようではないか。どうだ」と言った。曾婆訶理は「仰せのままに」と答えた。そこでその隼人にたくさんのものを与えて、「それならお前の主人を殺せ」と言った。曾婆訶理はおのれの主人の様子を伺って、厠に入ったすきに矛で刺し殺した。そこで曾婆訶理を連れて倭に上って行く途中、大坂の山口に到ったとき、思ったのは、「曾婆訶理は私のために大功を立てたけれども、おのれの主人を殺したのは、義理が立たない。けれどもその功績に報いないのでは、嘘をついたことになる。言った通りのことをしたのであれば、かえってその心が恐ろしい。だからその功績には報いるけれども、その本体は滅ぼしてしまおう」。そこで曾婆訶理に「きょうはここに留まって、まず大臣の位をやろう。それから明日上京しよう」と言った。そこにとどまって、すぐに仮宮を建て、急に豊楽を催した。そこでその隼人に大臣の位を与え、百官に拝ませた。隼人は志が遂げられたと大喜びであった。そこでその隼人に「今日は大臣と同じ酒を飲もう」と言い、共に飲むのに、顔を覆うくらいの大きな盃に酒を盛って出した。王子がまず飲み、隼人が後から飲んだ。隼人が飲むとき、盃が顔を覆った。そのとき蓆の下に隠してあった剣を取り出して、隼人の首を刎ねた。明くる日、倭の地に参った。そこでその地を近つ飛鳥と言う。倭に上って、「今日はここに留まって、祓禊をしてから、明日上ろう。まず神宮を拝もう」と言った。そこでそこを遠つ飛鳥と言う。石上神宮に参り、天皇に「面倒なことは終わりました。もう心配はありません」と報告した。そこで天皇は招き入れて、共に語らった。

 

伊呂弟(いろど)は、中巻の伊邪河の宮の段に、「同母弟」とあるのがそうだ。【伝廿二の七十二葉】穴穂の宮の段にも見える。また「伊呂勢(いろせ)」、「伊呂泥(いろね)」、「伊呂毛(いろも)」などとも言う。なお上巻に「伊呂妹(いろも)」とあるところで詳しく言った。【伝十三の六十三葉】○水齒別命(みずはわけのみこと)は、前に出た。【伝三十五】○參赴は「まいきまして」と読む。中巻の白檮原の宮の段に見える。【伝十九の五十七葉】石上神宮にいた天皇のところへやって来たのである。○令謁は「もうさしめたまう」と読む。【師は「ものもうさせたまう」と読んだ。「物申す」というのも古言だが、ここはそう言ってはいけない。】まず人をやって、参って来たことを言わせたのである。【中昔の言い方で「消息(しょうそこ)す」と良い、今の世では「案内を請う」という状態である。その案内を請うのに「ものもう」と言うのは、「物申す」ということだ。】○令詔(のらしめたまわく)は、【真福寺本に「令」の字がないのは、落ちたのである。】人を出して言わせたのである。○同心乎は「おやじこころならんかと」と読む。【師は「ひとつこころならん」と読んだが、どうだろう。】気持ちを合わせて組みするのを、古言で「おやじこころ」と言ったのだろう。続日本紀廿五の詔に、「今聞仁仲麻呂止同心之天、竊朕乎掃止謀家利(いまきくにナカマロとおやじこころにして、ひそかにあれをはらわんとはかりけり)」、廿六の詔に、「逆惡伎仲麻呂止同心之天、朝廷乎動之傾【無止】謀天(きたなきナカマロとおやじこころにして、みかどをうごかしかたむけ【んと】はかりて)」【この二つとも「心」の下に「爾(に)」という辞がないので、他の読み方があるのか。しかし今は思い付かない。「くみして」などと読むのもどうかと思う。また「心を同じくして」と読むのも漢文読みめいている。】と見え、中昔の言葉にも多い。【源氏物語の玉鬘の巻に、「同じ心にいきほひをかはすべきこと」云々、また「まれまれのはらからは、此の監(げん)に同じ心ならずとて、中たがひにたり」などとある。今の世に、字音で「同心(どうしん)す」と言うのも、いにしえから「おやじ心」と言ってきた言によるもので、「大根(おおね)」を「だいこん」と言うようなものだ。】ところで「同」を「おやじ」と言うのも古言である。天智紀の童謡に、「於野兒弘爾(イ+爾)農倶(おやじおにぬく)(同じ緒に貫く)」、万葉巻十四【廿丁】(3464)に「於夜自麻久良波(おやじまくらは)」、巻十七【三十一丁】(3978)に「妹毛吾毛許己呂波於夜自(いももわれもこころはおやじ)」、また【四十二丁】(4006)「於夜自得伎波爾(おやじときはに)」、巻十九【十一丁】(4154)に「此間毛於夜自等(ここもおやじと)」などがある。○疑は、師が「おもおす」と読んだのがよい。【漢文の書き方で「疑」の字は書いてあるけれども、自分が疑っていることを「うたがう」と言っては良くない。これらはこちらの文と漢文との違いである。「〜とおもおす」と言うのであり、疑っている意味である。】○「不2相言1(あいいわじ)」は、穴穂の宮の段に「我所相言之嬢子者(わがあいいえるおとめは)云々」、万葉巻十一【卅丁】(2680)に「相言始而者(あいいいそめてば)」、また【四十二丁】(2799)「相言而遣都(あいいいてやりつ)」、続日本紀卅四の詔に、「其人等乃和美安美應爲久相言部(そのひとどものにこみやすみすべくあいいえ)」などがある。人にあって、互いにものを言うことである。中昔には、これを「あいことす」とも言った。【伊勢物語に、「もはらあひごともえせで」、俊頼朝臣の無名抄(俊頼髄脳のことか)に「そのほどにきたる人は、いかにもあひごとをだにせざるなり」などが見える。】○答白(こたえもうしたまいき)。「白」の字は、真福寺本では「曰」と書いている。○穢邪心は、「きたなきこころ」と読む。上巻、また中巻の水垣の宮の段に、「邪心」とあるところで言った通りだ。【伝廿三の七十三葉】○不同は、「おやじきこころにもあらず」と読む。【「心」の字は、前にあるので、省いて書いている。】○所近習は、「ちかくつかえまつる」と読む。書紀の仁徳の巻に「近習舎人(ちかくつかんまつるとねり)」、推古の巻、舒明の巻に「近習者(つこうまつるもの)」とある。○隼人(はやびと)。前に出た。【伝十六の卅八葉、伝十七の五十二葉。】これは勇猛な者なので、皇子たちにも就いて、仕えていた者があるのだろう。○曾婆加理(そばかり)。【この名は、以下に五度出たときは、「加」の字はみな「訶」とある。ここだけが「加」なのは、後に誤ったのではないだろうか。】名の意味は思い付かない。【師は「十量」の意味かと言った。しかし「十」は三十、四十などと言う時にこそ「そ」と言うが、直接にそう読むことは見えない。】書紀には「刺領巾(さすひれ)」とある。○從は「きかば」と読む。○天皇は、ここは「すめら」と読む。古言である。【天皇と書いて、「おおきみ」と読むのが良い場合もある。「すめらみこと」と読んで良い場合もある。そのところの書きぶりによる。】○大臣(おおおみ)は、前に出た。【伝廿九の五十葉】この曾婆訶理は、「臣」でさえないのに、こう言ったのは欺いているからだ。○答白(もうしき)。「白」の字は、諸本に「曰」とある。ここでは真福寺本によった。○随命は、「みことのまにま」と読む。万葉巻十八【二十九丁】(4113)に「官乃末爾末(つかさのまにま)」、巻廿【十八丁】(4331)に「大王乃美許等能麻爾末(おおきみのみことのまにま)」などがある。○多祿給は、師が「ものさわにたまいて」とよんだのに従う。書紀の欽明の巻に「賞祿(たまものす:たまいものす)」、皇極の巻、孝徳の巻には、「給祿(ものをたまう)」、天智の巻に「賜2爵祿1(かづけものをたまう)」などが見え、いにしえの宣命に「大御物賜(おおみものたまう)」などある、いわゆる「禄」である。後世には字音で「ろく」という。令に祿令がある。【こちらでの「禄」の字の使い方は、漢籍では滅多に見ない。孝徳紀(大化二年正月)に「重2其祿1、所=以2爲1レ民也(ろくをおもくするは、たみのためにするゆえなり)」と言っているのは、漢籍風に書いたのである。】○汝王は、「いましのきみ」と読む。彼が仕えている王で、墨江中王のことである。○己王(おのがきみ)。この「王」も「きみ」と読む。次の文に「己君」とあるのと同じ。○「入1レ厠(かわやにいる)というのは、前に出た。【伝廿七の五葉】○竊伺は、二字を「うかがいて」と読む。中巻水垣の宮の段の歌に「宇迦々波久斯良爾登(うかがわくしらにと)」とある。○殺は「しせまつりき」と読む。「殺」を「しせ」と読むことは、前に出た。○大坂山口(おおさかのやまのくち)は、前に出たのと同じ。○大功は、「おおきいさお」と読む。【こういう場合の「大」は、後世の言なら「ゆゆしき」とも「いみじき」とも読めるが、万葉などには、こうした意味には「ゆゆしき」と言った例はなく、「いみじき」という言もないので、「おおき」と読んでおく。】中王を殺したことである。○既(すでに)は、こうしたところに用いることが、いにしえの語なのだろう。序に「已因レ訓(すでにクンによりて)云々」とあるところは、悉く、全くの意味だ。【伝二の十八葉で言った。考え合わせよ。】ここもその意味で、紛れもなく、全くという意味だ。次に出るのも同じ。書紀の継体の巻に、「全壊無色(すでにそこないてみにくし)」などもある。○不義は、「きたなきしわざなり」と読む。書紀の神代巻に「黒心」、「濁心」、「惡心」などを「きたなき心」と読み、続日本紀の宣命に「逆」、「惡」、「邪」などの字をそう読むところが多い。「逆穢心(きたなきこころ)」などもある。一般に上代には、義に背いて邪逆(よこさま)に悪いことを、「きたなし」と言った。○然(しかれども)は、ここは「しかりとて」と読んでも勢いが良いけれども、「とて」という辞は、【鎭火祭の祝詞に一つあるだけで、】古くは万葉などにも見えないので、取りあえず「しかれども」と読んでおく。○不賽は、「むくいずは」と読む。【「賽」は報である。】○可謂無信は、「いつわりせしになりぬべし」と読む。【「大臣にしてやろう」と言った語が、嘘になると思ったのである。】ここの語は「不義」と言い、「無信」といっているなど、言も意も漢籍めいているのは、このころ既に漢籍の意が移り始めて、そうした論法ができてきたのだろう。このように物の理を綿密に分けて、あれを思いこれを考えて思いを述べるのは、上代のまっすぐな心とは違う。【全く漢意による語だったら、不義は「ことわりならず」と読み、無信は「まことなし」と読んでも良いが、やはり読める限りは、古意、古言によるべきである。】○既(すでに)は、前と同じ。「全く」ということだ。○行其信は「ちぎりおきしごとおこなわば」と読む。【また「まことをたてなば」とも読む。】「初めの約束通り行ったから」ということだ。○惶其情は、【「そのこころこそかしこけれ」と読む。】曾婆訶理の心を恐れたのである。それは曾婆訶理の心に、「私を大臣にしたのは、勇猛だからで、私は己の主人を弑して不義であるのに、こうして称賛するのは、実際は不義でない証拠である」とでも思うだろうか、と思ったのである。そう思うからには、先に「私が天皇になり」と言ったことなどを、天皇【履中】に言うことも考えられる。そうなったら、私【水齒別命】にとってもたいへんなことだと恐れたのである。それで「還(かえりて)」と言った。【賞めながらも悪く思うことなので、「却って」ということだ、この「還」を師は「また」と読んだ。語のありさまからすると「また」と読むのが優っているが、意味はそうでない。】中巻の日代の宮の段に、「天皇はその御子の建(たけ)く荒い情を惶みて」ともある。【これは「惶レ情」とある例だ。】○正身(むざね)は前に出た。【伝廿八の二十六葉】ここは曾婆訶理の身をいう。○滅(ほろぼしてん)。「殺す」と言わないで「滅ぼす」と言ったのは意味があるのか。「この人が生きてこの世にあるならば、先に『私が天皇になり』と言ったことを本当だと思って、天皇にそのことを漏らすことがあるだろう」と恐れたから、その身を亡ぼしてしまおうと考えたのだ。【この段の意味をよく味わうと、曾婆訶理を殺したことは、その不義を咎めたからではない。その心を恐れて、口を塞いだのである。そうでなければ「その心を恐れ」とあるのに合わない。「これは不義だ」と言ったのは、「賞めるべき所行ではない」と言ったので、殺してしまおうという理由を言ったのではない。勘違いしてはならない。】書紀とは、伝えの趣が違うだろう。○先(まず)は、倭に至る前にまずということである。○大臣位(おおおみのくらい)。大臣は「位」ではないのだが、それを「位」というのは古言である。【官と位が分かれて後の考えからするとどうかと思うだろうが、それは後世の考え方である。】いにしえは、位はその官であって、別ではなかった。まして大臣は、いにしえは官ではなかった。【このことは前に詳しく言った。】称え名であるが、そこにもその位があった。書紀の皇極の巻に「擬2大臣位1(おおおみのくらいになずらう)」、天智の巻に「大織冠と大臣の位を授けた」、続日本紀廿五の詔に「右大臣の位を授け賜う」、卅一の詔に「太政大臣の位に上げた」など、官と位が別になった世になってからですら、やはり古言のままにこう言った。【三代実録卅三に「大将の位を辱(かたじけなく)する」なども見え、物語文などにも官を「〜の位」と言うことが多い。】○上幸(のぼりいでます)は、倭国に上るのである。○其山口(そのやまのくち)は、前に言ったところで、大坂の河内から上る口である。○假宮(かりみや)は、前に出た。【伝廿五の卅葉】○忽は、師が「にわかに」と読んだのが良い。○爲は「せして」と読む。「し賜いて」という意味の古言である。万葉巻十九【三十九丁】(4254)に「國看之勢志弖(くにみしせして)」【「看之」は「看(み)」で、国見をし賜いてということだ。】また【四十二丁】(4266)「豊宴見爲今日者(とよのあかりみしせすきょうは)」とある。【この「見爲」を「みしせす」と師が読んだのは良い。今の本の読みは誤っている。】○百官(つかさづかさ)は、前に出た。【伝卅三の五十六葉】このとき水齒別命はまだ天皇ではないのだが、このようにしたのは「私が天皇になり」と欺いたためで、大臣の位を与えたのと同じだ。○「令レ拜(おろがしめたまう)」は、いにしえのしきたりだっただろう。後に江家次第に、「太政大臣を任ずること。・・・新任の大臣がまず本家に到る。公卿以下は中門の外に並ぶ。主人が南の階の東の柱に立つ。尊者は中門の外から入り、再拝が終わって云々」、また新任の大臣の大饗のところに、「群卿は中門の外を徘徊する。主人は南の階を降りて、南の下の方に立つ。尊者以下は、中門から入って階の前に並んで立つ。再拝が終わって云々」などがある。これに相当するのだろうか。【ただしこれらは大饗に因む拝みか。】○「飮2同盞酒1(おやじつきのさけをのみてん)」は、豊楽の酒である。○「隱レ面大鋺(おもてをかくすおおまり)」は、傾けて酒を飲むとき、顔を隠すほど大きな椀を言う。「鋺」は、書紀の神代巻に「玉鋺(たままり)」、皇太神宮儀式帳に「水眞利三百口」、新撰字鏡に「鋺は『かなまり』」、宇津保物語に「天人のよそほひしたる女、山中より出來(いでき)て、銀のかなまりを持て、水を汲(くみ)ありく」、和名抄の金器類に、「金鋺は、日本霊異記にいわく、その器はみな鋺とする。俗に言う『かなまり』。思うに、鋺の字は出所が未詳である。古語に『椀』を『まり』と良い、それを金椀にも当てはめたのだ」とある。【「鋺」の字は実際は当たっていない。「椀」である。しかし古い書物にはみな「鋺」と書いている。いにしえには偏を変えて書いている例が多い。鞍を「クラ(木+安)」、鉾を「桙」と書いたたぐいである。怪しむほどのことではない。】○進は「すすむる」と読む。進めたのである。○「覆レ面」は、飲むときに盃が傾くので、顔を隠したのである。○「置2席下1(むしろのしたにおかせる)」は、隼人を斬ろうとして、あらかじめ隠して置いたのだ。【このとき、面を隠すほど大きな鋺を用いたのも、この大刀を取り出すのを隼人がめざとく見つけて、逃れることを危ぶんで、大刀を取り出すのを見せないための準備であった。】「席」は「むしろ」と読む。【書紀の垂仁の巻、顕宗の巻、斉明の巻などに「しきい」と読んでいる。それも古言と聞こえるが、】書紀の仁徳の巻の歌に「椰須武志呂(やすむしろ)」とあり、和名抄に「『筵』は和名『むしろ』、『席』の訓は同上」とある。○頸は、【旧印本には「頭」とある。】上巻にも「その子、迦具土神の頸を切って」、【伝五の七十一葉】穴穂の宮の段にも「天皇の頸を打ち斬って」とある。○明日。ここは「くるひ」と読む。その理由は上巻に「來日」とあるところ【伝十の卅九葉】で言った。【前にもある「明日」は「あす」と読んだが、ここは地の文であるから「あす」とは読まない。】○上幸は倭国に上ることである。○其地(そこ)とは、隼人の頸を切った土地で、大坂の山口である。【倭に上って後の地を言うのではない。】○近飛鳥(ちかつあすか)。書紀に「大坂から倭に向かうときに、飛鳥山に到る」、和名抄に「河内国安宿(あすか)郡は、『あすかべ』」、【この郡の名は、飛鳥部の造の氏の人が住んだところから来た。その飛鳥部という氏は、この飛鳥に住んでいたことから来たので、郡の名ももとは飛鳥だった。飛鳥部の造は、新撰姓氏録の河内国諸蕃の中に見える。】延喜式神名帳で同郡に「飛鳥戸(あすかべ)神社」がある。今は古市郡に飛鳥村があって、この社もそこにある。【このあたりが昔は安宿郡の内だったのだろう。大坂は、中巻伝廿五の廿四葉で言ったように、今の世に穴蒸越えという坂道で、河内の飛鳥村を経て、大和に越えるから、この近つ飛鳥は、今の飛鳥村の辺りだろう。】○「留2此間1(ここにとどまりて)云々」、こう言ったのは、遠つ飛鳥の地でのことである。○祓禊は「はらい」と読む。【また「みそぎ」と読んでも良い。】これは石上神宮を拝むためだろう。そうでなくても、人を斬って穢れたのだから、何となくと言うこともあるだろう。○遠飛鳥は大和国高市郡で、延喜式神名帳に「飛鳥坐(あすかにます)神社」、「飛鳥山口坐(あすかのやまのくちにます)神社」、「飛鳥川上坐(あすかのかわかみにます)神社」などがある地で、允恭天皇の遠つ飛鳥の宮、顕宗天皇、舒明天皇、皇極天皇、斉明天皇、天武天皇などの都も、みなこの飛鳥で、隠れもない地である。さらに近つ飛鳥の宮の段に、飛鳥川とあるところでも言う。【伝四十三の六十一葉】名の意味は、二つともここに見えるように、「明日」と言ったのによる。【単に「明日」と言ったからと言って、地名になることは少しどうかと思われるだろうが、これは何となく言っただけではない。河内でもここでも、すぐその日に報告に行くべきところを、延期して明日にしたのだが、二箇所全く同じ起源なのは珍しいことだからである。】「か」は「ありか」、「すみか」などの「か」と同じく、「處」の意味だろう。この名は、二箇所ともに、この水齒別命の世になって、特に名付けられたのだろう。【この王はまだ天皇ではないので、容易に地名を変更できる立場ではない。自分の世になって、こういう重い意味があることから、後に名付けたのだろう。】とすると、近い、遠いというのは、丹比の柴垣の宮から近いか遠いかで名付けたのだ。【以前は難波から上る道の順序で、近い方、遠い方を言ったのかと思ったが、そうではなかった。○顕宗天皇の都も、この遠つ飛鳥なのに、近つ飛鳥と言うのは紛らわしい。そのことはその段で言う。】この地名を「飛鳥」と書く理由は、書紀の天武天皇の巻に「十五年、改元して朱鳥元年とした。そこで宮の名を『飛鳥浄御原の宮』と改めた」【この飛鳥は「とぶとりの」と読む。これを「あすか」と読むのは間違いである。その理由は、「朱鳥」の瑞祥が現れたのを愛でて、年号もそう改め、大宮の名にもその朱鳥を取って、「飛ぶ鳥の」と名付けたからである。「あすか」というのはもとからの地名だから、ことさら「宮の名を改めて」などという理由がないことを思うべきである。】とあって、大宮の号を「飛鳥」ということから、その地名にも冠して「飛鳥の明日香」と言い、ついにはその枕詞の字をすべての地名にも添えて書いたもので、「かすが」を「春日」と書くのと同じだ。【古い歌に、「春日のかすが」と言っているのは、「春日の霞む」という意味で続けているのだが、その枕詞の「春日」という字をそのまま地名としたのだ。明日香を「飛鳥」と書くのも同じ例だ。】○政既平訖。「平訖」は「ことむけおえて」と読む。中巻の水垣の宮の段に、「和=平2所遣之國政1而覆奏(まけつるくにのまつりごとことむけてかえりこともうす)」とあって、そこで言った。【伝廿三の八十四葉】考え合わせよ。また倭建命の段にも「所遣之政遂、應覆奏(まけのまつりごととげて、かえりこともうしたまうべし)」とある。ここは天皇の命を受けて、墨江中王を殺すことを「政」と言った。○侍之(さもらう)。この言のことは上巻伝十四【四十三葉】で言った。考え合わせよ。中巻の玉垣の宮の段に「登岐士玖能、迦玖能木實持、參上侍(ときじくの、かくのこのみもちて、まいのぼりてさもらう)」ともあった。○相語は、「かたらいたまいき」と読む。○書紀にいわく、「瑞齒別(みずはわけ)皇子は、太子がいないことを知って、尋ねてやって来た。しかし太子は弟の心を疑って、召し入れようとはしなかった。そこで瑞齒別皇子は人をやって、『私には黒心(汚い心)があるわけではありません。ただ太子がいないのでやって来たのです』。そこでその弟王に人をやって、『私は仲皇子の反逆を恐れ、一人ここに避けた。どうしてお前を疑わずにいられようか。・・・お前に本当に黒心がないと言うならば、難波に帰って仲皇子を殺せ。それから逢おうではないか』と言った。瑞齒別皇子は太子に『・・・忠実な人をください。私が太子を欺いていないことをお見せしましょう』と言った、そこで木菟宿禰を添えて遣わした。瑞齒別皇子は・・・難波に到って、仲皇子の消息を伺った。仲皇子は、太子は既に逃げたと思って備えがなかった。ところが近習の隼人、刺領布(さしひれ)というのがいた。瑞齒別皇子は刺領布を密かに呼んで、『私のために皇子を殺せ。お前に必ず報いてやる』と言い、錦の衣、褌を脱いで与えた。刺領布はその相談を信じ、矛で仲皇子が厠に入ったのを殺した。すぐに瑞齒別皇子に報告したが、木菟宿禰は瑞齒別皇子に『刺領布は人のために己の主君を殺しました。それは私のために大功があると言っても、己の主君に慈愛の念がないのでは、生きていることが出来ましょうか』と言った。そこで刺領布を殺した。その日に倭に向かい、夜半に石上に到って復命した。そこで(太子は)弟王を呼んで、篤く恵み、村合いの屯倉を与えた」とある。

 

天皇於レ是以2阿知直1。始任2藏官1。亦給2粮地1。亦此御世。於2若櫻部臣等1。賜2若櫻部名1。又比賣陀君等。賜レ姓謂2比賣陀之君1也。亦定2伊波禮部1也。

 

訓読:スメラミコトここにアチのアタエを、はじめてクラのツカサにめしたまい、またたどころをたまいき。またこのみよに、ワカサクラベのオミらに、ワカサクラベというなをたまい、またヒメダのキミらに、ヒメダのキミというかばねをたまいき。またイワレベをさだめたまいき。

 

口語訳:天皇は阿知直をはじめて藏官とし、田を与えた。またこの御世、若櫻部臣らに「若櫻部」という名を与え、比賣陀君らに「比賣陀之君」という姓を与えた。また伊波禮部を定めた。

 

天皇於是(すめらみことここに)とあるのは、「この世」とあるべきところだが、それを後に言って、ここにはこう言っている。これは阿知の直を称賛したのが、初めに難を救ったことを賞めたのであり、その功績は天皇自身のことなので、特に天皇と記したのではないだろうか。○「任2藏官1(くらのつかさにめしたまい)」。書紀にはただ「六年春正月、初めて藏の職を置いた。そこで藏部の名を定めた」とあり、阿知の直をこの官に任じたことは見えない。古語拾遺に【神武天皇の段に「この時、帝と神の道はまだ遠くなかった。同殿共床、これを普通のこととした。したがって神物と官物とはまだ区別していなかった。宮の内に倉を建てて、齋藏(いみくら)と称した。齋部(いんべ)氏を永くその職に任じた」とある。】「後の磐余稚櫻の朝に至るまで、三韓の貢献は世に絶えることがなかった。年々(奉る物が)絶えることがなく、齋藏の傍らにさらに内藏を建てて官物を分けて納めた。そこで阿知使主(あちのおみ)と百済の博士王仁(わに)に掌らせ、その出納を記す人に、はじめて藏部を定めた」とあり、【この御世に王仁がいたことは疑わしい。伝卅三に言った通りだ。】「長谷の朝倉の朝に至って、秦氏は・・・これより後、諸国の貢朝は年々増え、満ち溢れた。そこで新しく蔵を建てて、蘇我萬智(そがのまんち)宿禰にその三蔵を掌らせた。【齋藏・内藏・大藏】秦氏がその物を出すときは、東西文氏がその簿に考えて記した。それで漢氏に姓を与えて、内藏・大藏とした。秦・漢の二氏は内の藏・大藏の鍵を掌り、藏部のもとになった」とある。【東西(やまと・かわち)の文氏は、東は倭の文の直で阿知の直の末、西は河内の文の直で王仁の末である。この二氏のことは、伝卅三の二十九葉で言った。漢氏は阿知の直の子孫の氏を広く言ったもので、漢の直である。倭の文の直も、漢の直の一つの流れである。漢の直のことは、伝卅三の卅九葉で言った。考え合わせるべきである。】新撰姓氏録に【摂津諸蕃】「藏人は、阿智の王の子孫である」、【阿智の王は、即ち阿智の直である。】また【右京諸蕃、漢】「内の藏の宿禰は、都賀の直の四世の孫、東人直の子孫である」。【伝卅三に引いた文の通りだ。】とすると、阿智の直から始めて、子孫に至るまで、藏の官に任ぜられたのであろう。大藏のことは、書紀の清寧の巻に「・・・星川の皇子は・・・遂に大藏の官を取って、外門を施錠して固め、難に備えて、勢いを恣にし、官物を費やして、云々」、欽明の巻に「大津父(おおつち)を寵愛して、・・・大蔵省に拝し」、また「大藏の橡を秦の伴の造とした」、天智の巻に「八年十二月、大藏に災いがあった。十年十一月、近江の宮に災いがあった。大蔵省の三倉から出た」、持統の巻に「難波の大藏」などが見える。職員令に「大藏の省は、卿の一人が諸国の調および銭金、金銀、珠玉、銅、鉄骨、角、歯、羽毛、漆、帳幕などの出納、權衝(秤の釣り合い)、度量、売買の估價(物の値段)、諸方の貢献の雑物などを掌る。大輔一人、少輔一人、少丞二人、大祿一人、少祿二人、史生六人、大主鑰二人、少主鑰二人、藏人六十人、價長四人云々」、内藏寮は「頭一人、金、銀、珠玉、寶器、錦、綾、サイ(糸+采)氈、褥、諸蕃の奉る奇異の物、年料の供進の御服、および勅用のものごとを掌る。助一人、允一人、大屬一人、少屬一人、大主鑰二人。藏人四十人云々」とある。【なお延喜の大蔵式、内藏の寮式に見える。和名抄に、「大蔵省は、『おおくらのつかさ』、内藏寮は『うちのくらのつかさ』」とある。内の藏を後世、ただ「くら」と言うのは、大藏に対してこれを単に藏とのみ言ったものである。物語書などでも、「くらづかさ」と言ったのは、内藏寮のことだ。藏部(くらびと)と言うのは、漢国にも「稟人、倉人」がある。しかしそれを取ってこちらでも言うのではない。「くらびと」というのはたいへん古い。自然と合ったのである。○後世に藏人(くろうど)と言うのは、日本紀略に「弘仁元年三月、正四位下左中将、巨勢の朝臣野足(のたり)、従四位下中務大輔、藤原の朝臣冬嗣(ふゆつぐ)は、共に藏人の頭になった、大舎人の大允(だいいん)清原の眞人夏野(なつの)と、右近の將監朝野宿禰鹿取(かとり)は共に藏人になった」とあるのが始めてである。職原抄に「藏人所は、嵯峨天皇の御世に、弘仁年中、はじめてこれを置いた。他の朝の侍中、内侍等の職に模したのか。云々」、なお詳しく書いてある。これは天皇のそばに仕える職で、藏のことには預からないのに、藏人と言うのは、いにしえの藏人から出た名だろう。それはいにしえに内藏の出納などを掌っていた人は、おのずから天皇の前に近く親しく仕えていたので、その名によるのだろう。高津の宮の段に「倉人女」という名が見え、大后に親しく近づいたものと見える。倉人女のことは、伝卅六に見える。】○粮地は、師が「たどころ」と読んだのによる。書紀の清寧の巻に「また田地を漢彦(あやひこ)に与えた」、孝徳の巻に「田地を与えた」、また「田荘(たどころ)」などとあるのと、同じ様子に聞こえるからである。【師は「かきべ」とも読んだが、それは顕宗の巻に「民地(かきどころ)」、また巻々に「部曲」とあるのを「うじやつこ」とも「かきのたみ」とも読むので、「かき」とはその率いる民を言う名に聞こえるから、ここには合わない。】○「於2若櫻部臣等1(わかさくらべのおみらに)云々」。書紀に「三年冬十一月、天皇は兩枝船(ふたまたぶね)を磐余の市磯(いちし)の池に浮かべて、皇后と分かれ乗って、遊んだ。膳部(かしわでべ)の臣、余磯(あれし)が奉った酒の大盞に、桜の花が散って浮かんだ。天皇はこれを奇異なこととして、物部の長眞膽(ながまい)の連を呼んで、『この花はその季節でないのに散ってきた。どこの花なのか、あなたが調べてきなさい』と言った。そこでこの長眞膽の連は一人花を尋ねて、掖上(わきがみ)の室(むろ)の山に尋ね当てて奉った。天皇はとても珍しいと考え、大宮の名とした。磐余の稚櫻の宮というのはこの由縁である。この日、長眞膽連のもとの姓を改めて、稚櫻部の造と言う。また膳部の臣、余磯の名を改めて、稚櫻部の臣という」とある。【新撰姓氏録に「若櫻部の造は、饒速日命の三世の孫、出雲色男(いずもしこお)の四世の孫、物部の長眞膽連が始め去來穂別(いざほわけ)天皇、諡は履中が、兩枝船を磐余の市磯の池に浮かべたとき、皇妃と分かれて船に乗って遊んでいたが、膳の臣、余磯が奉った酒に、櫻の花が飛んできて盞に浮かんだ。天皇はこれを奇異なこととして、物部の長眞膽連を呼んで、尋ね求めさせた。ついに掖上の室の山でこれを発見し、奉った。天皇はこれを喜び、余磯に稚櫻部の姓を与えた」とあるのは、書紀の文で記したのだ。しかし、これは若櫻部の條なのに、余磯に姓を与えたことだけを記し、長眞膽連に若櫻部の姓を与えたことは書いていないのは、誤りである。また「若櫻部造は、速日命の十世の孫、止知尼(とちね)の大連の子孫である。履中天皇の御世に、櫻の花を採って奉った。そこで物部の姓を改めて、若櫻部の造という姓を与えた」ともある。「速」の上に「饒」の字が脱けているのだろう。】大宮の名の「若櫻」の由縁もここに見えている。【「若」とは、桜の花の美しさを称賛して言う。(藤原)清正集(13)に「いつしかと植て見たれば若櫻、さかずて春のすぎぬべきかな」と詠んだのは、若木の桜と聞こえる。ここはそれではない。】このとき、若櫻部と姓を賜った二氏のうち、臣の方は新撰姓氏録【右京皇別】に「若櫻部朝臣は、阿倍朝臣と同氏である。大彦命の孫、伊波我牟都加利(いわがむつかり)命の子孫である」とあるのがそうである。【牟都加利命は、膳(かしわで)の臣の祖である。膳臣のことは、伝廿二の八葉で言った。】氏人は、天武紀に「稚櫻部臣、五百瀬(いおせ)」というのが見える。【「百」の字を「十」と書いたところがあるのは、誤りである。この人は持統紀にも見える。】「同御世、十三年十一月、若櫻部の臣に、朝臣の姓を与えた」、続日本紀廿五に「若櫻部朝臣上麻呂(うえまろ)、若櫻部朝臣伊毛(いも)」などと言う人が見える。これは書紀にも、初めて余磯に名を賜うところで、「姓」と言わず「號(な)」と言い、この記にも「名を賜う」とあるのは、【この記の「名」の字を師は「君」の誤りだと言ったが、「君」は根拠がない。】初め与えたのは姓でなく名だったのを、子孫が相継ぐうちに、ついに姓になったのだろう。【ここに「若櫻部の臣らに」とあるのは、これより前にも既に「若櫻部臣」といったのがあったように聞こえるだろうが、そうではない。後の名で言うのは、普通のことである。】○比賣陀之君等(ひめだのきみらに)云々。【師のいわく、「ここは『比賣陀の某等』と人名だろうに、『君』とあるのは誤りか」と言うが、それは当たらない。「若櫻部臣らに」とあるのと同じだ。】「賜姓謂云々」は、「〜というかばねをたまいき」と読む。続日本紀廿七の詔に「物部浄之乃朝臣止云姓袁授末津流止勅(ものべのきよしのあそみというかばねをさずけまつるとのりたまう)」とあるのがそう読むよりどころである。【いずれもこれに倣って読む。】この氏は、日代の宮の段に「祖」と見えるが、この記の他には書紀にも新撰姓氏録にも見えない。伝廿二【六十八葉】に言った通りだ。しかしながらここに特に挙げたのは、【若櫻部のようにこれも、】「比賣陀」という由縁のあったのが、伝わらなかったのだろう。「之君」の「君」の字を諸本に「名」と書いているのは、【前の「若櫻部の名」の「名」になぞらえて、】写し誤ったのだ。今は延佳本によった。○伊波禮部(いわれべ)は、宮地の「石村(いわれ)」に依った部だろう。

 

天皇之御年陸拾肆歳。御陵在2毛受1也。

 

訓読:このスメラミコトのみとしムソヂマリヨツ。みはかはモズにあり。

 

口語訳:天皇が崩じたとき、六十四歳であった。御陵は毛受にある。

 

陸拾肆歳(むそじまりよつ)。書紀には「六年三月壬午朔丙申、天皇は病を得て、稚櫻宮に崩じた。【時に年七十】」とあり、【仁徳天皇の三十一年に「立てて皇太子とした。時に年十五」とあるのに依れば、七十五歳であるはずなのに、七十とあるのは違っている。七十とあるのが正しいなら、かの三十一年は八才になる。】○旧印本、真福寺本、また一本などには、この間に例の如く、「壬申年正月三日崩」という八字がある。【あるいは細注、あるいは大字に書いてある。】壬申年は、書紀では仁徳天皇の六十年、また允恭天皇の二十一年に当たり、月も日も合わないのは、それぞれ一つの伝えであろう。【ただしこの記で仁徳天皇を「丁卯年に崩じた」とあるのによると、壬申の年は、この天皇の五年になる。仁徳天皇の崩じた年を元年として数えると、六年に当たり、書紀に六年とあるのは合っている。】○毛受(もず)。【延佳本では「毛受野」とあるのは、次の御陵にならって、補ったものだろう。しかしここは諸本に「野」がないのによった。いにしえにこのあたりの地の様子は、一方は「野」と言える様子で、ここはそうは言えない地であって、変わったのかも知れない。この記はいにしえの伝えのまま書いたもので、一般にこういうことは精細である。】書紀に「冬十月己酉朔壬子、百舌鳥の耳原の陵に葬った」、諸陵式に「百舌鳥の耳原の南陵は、磐余稚櫻の宮で天下を治めた履中天皇である。和泉国大鳥郡にある。兆域は東西四町、南北五町、陵戸五烟」とある。和泉志に、「大山陵の南、上石津村にある。陵のそばに墓がある。龜冢(銅亀山古墳?)、乳岡冢(乳の岡古墳)、飲酒冢(酒呑塚か)などの名がある」と言っている。【「大山陵」というのは仁徳天皇の陵であることはその段で言った。この御陵はその南方にあって、上石津村の北の方である。】



もくじ  前へ  次へ
inserted by FC2 system