本居宣長『古事記伝』(現代語訳)38−2

 

古事記伝三十八之巻(柴垣の宮の段)

水齒別命。坐2多治比之柴垣宮1。治2天下1也。此天皇。御身之長九尺二寸半。御齒長一寸廣二分。上下等齊。既如レ貫レ珠。

 

訓読:ミズハワケノミコト、タジヒのシバカキのミヤにましまして、アメノシタしろしめしき。このスメラミコト、ミみのたけココノサカマリフタキイツキダ。ミはながさヒトキひろさフタキダ。かみしもひとしくととのいて、すでにタマをぬけるがごとくなりき。

 

口語訳:水歯別命は、多治比の柴垣の宮に住んで天下を治めた。この天皇は身長が九尺二寸半あり、歯の長さは一寸、広さが二分あった。上下が等しく整って、全く珠を貫いたようだった。

 

真福寺本に、初めに「弟」とある。【前の天皇の弟だったことを言う。】このことは若櫻の宮の段で言った。○この天皇の後の漢風諡號は、反正天皇という。○多治比(たじひ)。この地のことは、若櫻の宮の段に、「多遲比野」とあったところで言った。【前の段の十一葉】○柴垣(しばかき)は、上巻に「青柴垣(あおふしかき)」とあって、「柴を読んで『ふし』と言う」と注してあるのによると、ここもそう読めるが、甕栗の宮の段の歌に「夜幣能斯婆加岐(やえのしばかき)」、また「美古能志婆加岐(みこのしばかき)」などもあるので、やはり「しば」と読んでおく。【普通「しばがき」と「か」を濁って読むが、みな清音の「加」の字を書いているので、清んで読む。】延喜式神名帳【伊勢国鈴鹿郡】に「支婆加支(しばかき)神社」というのが見える。崇峻天皇の宮も「倉椅(くらはし)の柴垣の宮」と言い、書紀の欽明の巻に「泊瀬(はつせ)の柴籬(しばかき)の宮」というのも見える。柴の垣というのは仮の構えなのを、こうあれこれ宮の名にしたのは、どういう理由からであろうか。【この御世の頃になると、天皇の宮の垣は、本当の柴ではない。まして崇峻天皇の御世の頃ではそうでない。とすると、本当の柴ではないけれども、水垣の宮などと同じく、柴垣というのは上代にはみずみずしく美しい方に取って、賞めて言う名だったから、その意味で名付けられたのだろうか。それとも質素であることを示すために、ことさら柴の垣を構築したのか。さらに考察の必要がある。】書紀には「元年冬十月、河内の丹比に都した。これを柴籬の宮と言う」とある。【こう記されたけれども、この天皇は皇子だったときからこの多治比にいたことは、多治比の水齒別命と言ったことで分かる。】この宮のことは、帝王編年記に「丹比郡、今宮坂の上の道の北の空き地がこれである」と記してある。河内志に「丹北郡、柴籬の宮は、松原荘の植田村の廣庭神の祠の東北にある」と言っているのは、よりどころがあるのだろうか。【これは編年記に言っている地と合っているかどうか、さらによく尋ねて見なければならない。】○此天皇(このすめらみこと)。真福寺本には「此」の字がない。○御身之長(みみのたけ)。「長」は「たけ」と読む。高さということだ。○九尺二寸半(ここのさかまりふたきいつきだ)。「尺」を「さか」と言うのは、この字音を取ったものか。それとも元からの古言か。【どちらにせよ古い言である。】「寸」を「き」と言うのは、「刻み」の意味である。万葉に「玉刻春(たまきはる)」と「き」に「刻」を書くのも、【十三の巻(3223?)に「眞刻持(まきもたる)」ともある。】その意味で、「き」というのこそ「きだ」、「きざむ」などの元の語である、「二寸半」は、二寸五分をいうから、この「半」は「いつきだ」と読む。【「なから」と読んでは違ってしまう。】書紀の孝徳の巻に「二尺半」を「ふたさかあまりいつき」と読んでいるのに従う。【二尺半は、二尺五寸である。】身長が九尺に余りあるのは、あまりに過ぎて本当らしくないが、【あるいは「九」の字が「六」などの誤りかとも思えるが、】書紀に倭建命を「身長一丈(ひとつえ)」、仲哀天皇を「身長十尺(ひとつえ)」とあるのと合わせて思えば、いにしえの丈、尺の量が今のとは違っていて、そうだったのだろう。【いにしえの一尺が今の七寸ほどだったら、九尺余りも一丈も、ありそうだ。さらに次で言う。】○御齒(みは)。和名抄に「説文にいわく、齒は口中の分折した骨である。和名『は』」とある。○長は「ながさ」と読む。【立っているものには「たけ」と言い、そうでないものには「ながさ」と言う。文字は同じだが、皇国の言には違いがある。後世、すべて「たけ」と言うのは違っている。】○一寸(ひとき)。ある書に「齒一寸八分」、また「一寸一分」などともある。○二分は「ふたきだ」と読む。「分」を「きだ」と読む理由は、書紀の景行の巻に、「碩田」という地名が見えて、「これを『おおきだ』と読む」とあるのは、和名抄に「豊後の国、大分【おおいた】」とある地である。【「き」を「い」と言うのは、後の音便である。】これは「きた」に「分」を用いている。「寸分」の「分」だろう。【「寸分」の「分」を「きだ」と読んだ例は見えないが、そうに違いないと思われる。「寸(き)」も刻みの意味なのは、「分」と同じで違いがないようだが、意味は同じでもこうした名は少し違っているので、別の言葉として言う例がよくある。ここの「二分」を師(賀茂真淵)は「ふたわき」と読んだが、たいへんに良くない。】歯の広さが二分だったら、普通の歯と違いはないのに、こうして挙げていったのはどういうわけか。【いにしえの一尺が今の七寸ほどであったら、二分は普通の歯よりも細かかったことになる。】あるいはこれは、却って細いのを良いとしたのではなかろうか。【長さ一寸ほどに広さ二分だったら、特別細くて珍しかったことになる。ものの長さを測るのに、「尋」と言い「束」というのは、元からの古言である。丈、尺、寸、分というのは、漢字によって決めた訓だろうか。しかしすぐには分からない。その量は、いにしえの一尺は今の七寸ほどではないだろうか。このことは、まだ詳しくは考えつかない。今の世の定めは、もっぱら唐代からの定めによるものと思われる。】○上下は、上の歯、下の歯である。○等齊は「ひとしくととのいて」と読む。俗に言う「揃う」である。○既(すでに)は、前にも言ったように、「ことごとく」の意味で、「全く」という意味に通じる。ここは「全く」の意味に近く聞こえる。【師は「宛」などの字を誤ったかと言ったが、そうではない。こういうところに「既に」と言うのは古言である。】○「如レ貫レ珠(たまをつらぬくがごとし)」は、色が白く美禮で、玉のようなのを言う。「貫く」は並んださまについて言うのだろう。【等しく整った形について言うのではないだろうか。いにしえの玉には、細く長くて、管になったのがある。この歯の形はそれに似てはいるが、そうした玉は縦に貫くのであって、横に貫いたことはなく、歯の並んだ形には似ていない。とすると、形の方は単に大雑把に喩えただけで、色が美しいのを主眼として喩えたのだ。この三字は、漢文にもよくある言だが、それを取ったのではないだろう。自然に出てくる譬えだからである。】書紀には「生まれながら歯が一枚の骨のようであり、容姿が美麗であった」とある。【「一枚の骨のようだった」とあるのは、「等齊」と合っている。】水齒別という名は、歯が美麗だったことによる。

 

天皇。娶2丸邇之許碁登臣之女都怒郎女1。生御子。甲斐郎女。次都夫良郎女。<二柱>又娶2同臣之女弟比賣1。生御子。財王。次多訶辨郎女。拝四王也。

 

訓読:このスメラミコト、ワニのコゴトのオミのむすめツヌのイラツメをめして、うみませるミコ、カイのイラツメ。つぎにツブラのイラツメ。<ふたはしらなり>またおやじオミのむすめオトヒメをめして、ウミませるミコ、タカラのミコ、つぎにタカベのイラツメ。あわせてよはしらましき。

 

口語訳:この天皇が丸邇の許碁登臣の娘、都怒郎女を娶って生んだ子は、甲斐郎女、次に都夫良郎女。<二柱である。>また同じ臣の娘、弟比賣を娶って生んだ子は、財王、次に多訶辨郎女である。合わせて四柱いた。

 

丸邇(わに)は丸邇臣という姓で、伊邪河の宮の段に出た。【伝廿二の四十六葉】○許碁登臣(こごとのおみ)。名の意味は考えつかない。書紀の神代巻に「興台産靈【これを『こごとむすび』という。】」という神の名もある。新撰姓氏録【布瑠(ふる)宿禰の條】に「天足彦國押人(あまたらしひこくにおしひと)命の七世の孫、米餅搗大使主(たがねつきのおおおみ)命の子孫である。息子木事(こごと)命」とあるのは、この人だろう。【時代も「仁徳天皇の御世」とあるから合っている。】○都怒郎女(つぬのいらつめ)。名の意味は思い付かない。○甲斐郎女(かいのいらつめ)。名の意味は思い付かない。○都夫良郎女(つぶらのいらつめ)。名の意味は思い付かない。継体天皇の御子に、同じ名がある。【書紀ではその母も、丸邇臣氏である。】穴穂の宮の段に、男で「都夫良意富美(つぶらおおみ)」という人がある。書紀にいわく、「元年秋八月、大宅(おおやけ)臣の祖、木事(こごと)の娘、津野媛(つぬひめ)を皇夫人とした。夫人は香火姫(かいひめ)皇女、圓(つぶら)皇女を生んだ」とある。【大宅臣は丸邇臣と同祖の氏だから、同じだろう。】○財王(たからのみこ)。書紀に「皇女」とある。【この記では、皇子、皇女ともに単に「王」と記すのが普通だから、男女はよく分からない。しかしこの天皇の皇女たちは、ほかはみな郎女とあるのに、この御子だけが「王」とあるのはどうした理由によるものか。】中巻の高穴穂の宮の段に、「弟財郎女(おとたからのいらつめ)」というのがあった。名の意味や同名の御子については、そこで言った。【伝廿九の四十八葉】○多訶辨郎女(たかべのいらつめ)。名は地名か。【延喜式神名帳に「大膳職坐(みけのつかさにます)高倍(たかべ)神社」というのがある。】または鳥の名か。【万葉巻三、また巻十一にこの鳥の名が見える。和名抄に「爾雅の集注にいわく、シビ(爾+鳥)は一名沈鳬、顔は鴨に似て、少し背の上に文様がある。漢語抄にいわく、『たかべ』」とある。】書紀には「皇子」とある。伝えか異なるのである。書紀にいわく、「また夫人の妹、弟媛を娶って、生んだ子は財皇女(たからのみこ)、高部皇子(たかべのみこ)」。

 

天皇之御年陸拾歳。御陵在2毛受野1也。

 

訓読:このスメラミコトみとしムソヂ。みはかはモズヌにあり。

 

口語訳:天皇が崩じたとき、六十歳だった。御陵は毛受野にある。

 

天皇之。真福寺本には「之」の字がない。○陸拾歳(むそぢ)。書紀には「六年春正月甲申朔丙午、天皇は眠るように崩じた」とあって、年齢は記されていない。○旧印本、真福寺本他一本には、この間に「丁丑年七月崩」という六字がある。【日が記されていないのは、伝わらなかったのだろうか。】丁丑の年は、書紀では仁徳天皇の六十五年、あるいは允恭天皇の廿六年に当たる。【ただしこの記に「履中天皇が壬申年に崩じた」とあるのによると、丁丑はこの天皇の五年に当たる。】○毛受野(もずぬ)。書紀の允恭の巻にいわく、「五年秋七月、地震があった。葛城の襲津彦の孫、玉田宿禰に命じて、瑞齒別天皇の殯を掌らせた。すなわち地震の夕べに当たる。・・・冬十一月甲戌朔甲申、瑞齒別天皇を耳原陵に葬った」とある。【このように葬礼が数年経って行われたのは、どういう理由によるのだろうか。思うに、書紀に允恭天皇が位に就くことを、臣がしばしば懇ろに勧めたけれども、重い病があり、歩けないからといって固辞した。妃が勧めた言の中に「大王が即位しないでいるうちに、空位のまま年月が経ちました」とあるのを考えれば、実際には允恭天皇が固辞して、まだ即位しない間に、五年経ったので、葬礼が遅くなったのではあるまいか。允恭天皇の即位をこの天皇の崩じた翌年としたのは、伝えが紛れたのだろう。明くる年だったら、「年月が経ちました」とまで言うはずはないだろう。】諸陵式に「百舌鳥耳原の北の陵は、丹比柴籬の宮で天下を治めた反正天皇である。和泉国大鳥郡にある。兆域は東西三町、南北二町、陵戸五烟」とあり、和泉志に「大山陵の北にある。中筋村に属する。今は楯井原(たていはら)の陵と称する。陵の畔に墓があり、鈴冢という」と言っている。【この御陵は、里人は田出井(たでい)山と言う。】

 



もくじ  前へ  次へ
inserted by FC2 system