本居宣長『古事記伝』(現代語訳)40

 

 

穴穗御子。坐2石上之穴穗宮1。治2天下1也。天皇爲2伊呂弟大長谷王子1而。坂本臣等之祖根臣。遣2大日下王之許1。令レ詔者。汝命之妹若日下王。欲レ婚2大長谷王子1。故可レ貢。爾大日下王。四拜白之。若疑レ有2如レ此大命1故。不レ出レ外以置也。是恐。隨2大命1奉進。然言以白事。其思レ无レ禮。即爲2其妹之禮物1。令レ持2押木之玉縵1而。貢獻。根臣即盜=取2其禮物之玉縵1。讒2大日下王1曰。大日下王者。不レ受2勅命1曰。己妹乎。爲2等族之下席1而。取2横刀之手上1而怒歟。故天皇大怒。殺2大日下王1而。取=持=來2其王之嫡妻長田大郎女1。爲2皇后1。

 

訓読:アナホのミコ、イソノカミのアナホのミヤにましまして、アメノシタしろしめしき。スメラミコトいろとオオハツセのミコのために、サカモトのオミらがおやネのオミを、オオクサカのミコのみもとにつかわして、のらしめたまえらくは、「ながミコトのいもワカクサカのミコを、オオハツセのミコにあわせんとす。かれたてまつるべし」とのらしめたまいき。ここにオオクサカのミコ、よたびおがみてもうしたまわく、「もしかかるオオミコトもあらんかとおもえるゆえに、トにもいださずておきつ。これかしこし。オオミコトのまにまにたてまつらん」ともうしたまいき。しかれどもコトもてもうすことは、いやなしとおもおして、すなわちそのいものイヤジロとして、オシキのタマカヅラをもたしめて、たてまつりき。ネのオミすなわちそのイヤジロのタマカヅラをぬすみとりて、オオクサカのミコをよこしまつりけらく、「オオクサカのミコは、オオミコトをうけたまわらずて、おのがいもや、ひとしウガラのしたむしろにならんといいて、タチのタカミとりしばりていかりましつ」ともうしき。かれスメラミコトいたくいかりまして、オオクサカのミコをころして、そのミコのみむかいめナガタのオオイラツメをとりもちきて、おおぎさきとしたまいき。

 

口語訳:穴穂御子は、石上の穴穂の宮に住んで、天下を治めた。天皇は同母弟の大長谷王子のために、坂本臣らの祖、根臣を大日下王のもとに遣わして、詔を言わせた。「あなたの妹、若日下王を大長谷王子に娶らせたいと思う。奉れ」。大日下王は四度拝んで、「こういうこともあろうかと思って、外にも出さずに置いておりました。たいへんありがたいことです。仰せのままに奉りましょう」と言った。しかし言葉で言うだけでは無礼だと思い、その妹の礼物として、押木の玉縵を持たせて奉った。根臣はその礼物の玉縵が欲しくなり、大日下王を讒言して、「大日下王は勅命を受けません。『私の妹は、等しい身分の者の下席になるものか』と言って、刀の柄に手をかけて、怒っていました」と言った。天皇は大いに怒って、大日下王を殺してしまった。それだけでなく、その嫡妻の長田の大郎女を連れてきて、皇后とした。

 

真福寺本には、この初めに「御子」とある。【前の御世、允恭天皇の御子ということだ。】このことは若櫻の宮の段の初めで言った通りだ。○穴穗御子(あなほのみこ)。段の初めで名を挙げるのに、「御子」と言った例はない。【終わり頃に真福寺本では「某の王」と書いたところはあるが、それらも他の本には「命」と書いてある。】○この天皇の後の漢風諡号は、安康天皇という。○石上(いそのかみ)は、既に出た。【伝十八の五十二葉】○穴穗宮(あなほのみや)。この宮の址地は、帝王編年記に「山邊郡石上左大臣の家の西南、古川(ふるがわ)の南の地がこれである」とあり、大和志に「山邊郡田村にある」と言っている。【田村は丹波市(たんばいち)に近いところである。布留(ふる)村も近く、布留川の南にある。】この天皇は早くからこの地に住んでいたので、穴穗王と言った。書紀にいわく、「四十二年【允恭天皇の年代である。】十二月己巳朔壬午、穴穗皇子は皇位に就いた。・・・すぐに都を石上に遷して、穴穗宮と言う」。○この天皇には子がない。【新撰姓氏録の未定雑姓のなかに、「孔王部首は、穴穗天皇の子孫である」とあるのは納得できない。この記では、天皇に御子がないのはこれが初めてである。書紀ではこれより前に、成務天皇にも子がない。】○坂本臣(さかもとのおみ)は前に出た。【伝廿二の三十三葉】○根臣(ねのおみ)。名の意味は思い付かない。書紀には「根使臣」と書かれている。○大日下王(おおくさかのみこ)は、仁徳天皇の子である。○汝命之妹(ながみことのいも)。いにしえに「某之妹」というのは同母妹である。○若日下王(わかくさかのみこ)。この皇女のことは、さらに朝倉の宮の段に見える。そこで言う。○欲婚は「あわせんとす」と読む。列木の宮(武烈天皇)の段に「・・・手白髪命(たしらかのみこと)に合わせて」とある。○四拜は「よたびおがみて」と読む。後には「八度拜白者(やたびおがみてもうしけるは)」ともある。「拜」というのは書紀の推古の巻に「烏呂餓彌弖菟伽陪摩都羅武(おろがみてつかえまつらん)」とある【弘仁私記に「拜を『おがむ』と言うのは『おれかがむ』ということだ」と言っている。】「ろ」を省いた言で、身をかがめて匍匐することだ。万葉巻三【十三丁】(239)に「四時自物伊波比拜(ししじものいはいおろがみ)」【「四時」は鹿、「伊」は発語である。】とあるのと、巻二【三十五丁】(199)に「鹿自物伊波比伏管(ししじものいはいふしつつ)」、巻三【三十七丁】(379)に「十六自物膝折伏(ししじものひざおりふして)」などあるのを合わせて、その状況を知るべきである。【今の世には、「おがむ」というのは単に手を合わせることと思うのは、仏法の拝から来た誤りである。また尊いものを見ることを「おがむ」と言うのも、中昔まではなかったことだ。】ところで私の友人、長瀬眞幸のいわく、「上代の拜禮の儀は、今の世俗の礼をするというやり方のように、俯して頭を下げ、両の手を付いて拝んだのだろう。神代紀の一書に『彦火々出見尊は海宮で・・・中床ではその両手を押し』と見え、推古紀十二年の詔に『すべて宮門を出入りするには、両手で地を押し、両足を跪いて、閾を越えて行け』と見え、漢ぶみの魏志の皇国伝にも『言葉を伝え、事を説くには、あるいは蹲り、あるいは跪き、両手を地に押し付けて、恭敬とする』と言っている。これらを見ると、手を付くのを敬う印にしたことが分かる。ところが続日本紀に『文武天皇の慶雲元年正月、はじめて百官の跪伏の礼を止めた』とあり、これから朝廷の拝は漢風になったのだろう。けれども同四年十二月の詔に『先年跪伏の礼を止めたが、今聞くと、内外の役所の前で、みな厳粛でなく、進退に無礼であり、述べる言葉も度を失っている。今後は厳に糾弾を加えて、改めてその弊俗を淳風に靡かせよ』とあるのを見ると、上代から習慣としてきた礼は止め難かったのである。官人らさえそうであれば、まして民間の拝みには定めもなく、今に至るまで上代のままに両手をつき跪き伏せる拝みが伝わってきたのである。笏を持って起居して拝むのは、後に漢風を真似たものだ。今の民衆の拝みこそ上古の拜である」と言っている。その通りだろう。【それでも今の世の神を拝む状態は、かの漢風に近いのはなぜかと言うと、昔から僧たちが仏を拝むやり方を教えたままに、神を拝んでいるのである。今も賎しい者は神も合掌して拝んでいるので分かる。】「四度拜」、「八度拜」というのは、跪伏しながら、頭を上げ下げする回数を言う。それを四度することは、上代からの自然の決まりだったのだろう。後の漢風の拝みは再拝といって二度なのを、続日本紀十三に藤原廣嗣が勅使に向かって、「馬から下りて両段再拝して言った。云々」とあるのは、当時は漢風の拝みだったけれども、数はやはり上代のままに四度だったのではないだろうか。【「四拜」と言わず、「兩段再拜」と言うのは、再拝を二度する意味である。】また類聚国史に「延暦十八年春正月丙午朔、皇帝は大極殿で朝を受けた。文武官九品以上、蕃客らは位に応じ、四拜を減らして二拜とし、渤海国使が来たので、手を拍たなかった」とあるのも、この時はなお普通は四拜だったと見える。【渤海国使があったので手を拍つことを止め、四拜も止めたのは、全く漢の流儀に見せるためであり、たいへん味気ない。異国人にはことさら皇大御国の礼儀を見せたかったものである。】その後ついに四拝はおしなべて再拝になったのを、ただ神を拝むときにだけ、後々まで四拝は用いられた。北山抄一の分注に、「本朝の風は四度拝むのを両段再拝という」と見え、伊勢神宮の儀式帳にも諸々の祭の時の儀に「四段拜奉」と多く見える。【小右記に「寛弘二年三月十二日、大原野御社の寝殿の預かり、ハク(けものへんに百)の茂樹宿禰が・・・今日禄を給い、纏頭(祝儀)を貰ったので、両段再拝した。神を拝むようで奇異だった」と見えるのは、そのころ既に神を拝む意外には四拝することはなかったからである。また同記に「長和五年三月十四日、石清水の臨時祭・・・摂政が『御拜は三度か四度か』と聞いた、諸卿は『確かなことは分からない』と答えた。摂政は『宇佐の神宝を奉るときは三度拜を行った』と言う。・・・私は『今日の儀はひとえに神明の儀を用いられる。御幣、東遊などがあるからである』と言った。摂政は『分かった』と言い、四度の拜を行った。云々」とあるのは、宇佐大神を仏のように祀ることがあるから、仏法の拝みならば、三度だろうかと言っての論である。】この段の後には「八度拝んだ」ともある。【これは例の敬いの度で、必ずしも八度と決まったものではないのではないかとも思ったが、既に「四度拜」ともあるから、やはり確かに八度だろう。】それは、四度の拝みを重ねて再びするのである。これもまた恭敬の至りで、上代から自然とそうなっていたのだろう。後々まで神を拝むにはこのやり方があった。伊勢神宮の儀式帳に「八度拜み奉る」とも、「四度拜んで手を四段拍ち、また後四度拜んで手を四段拍ち、終わって退く」【これも合わせて八度拜である。】とも見え、大神宮式にも「再拜兩段、短拍手兩段、膝で退いて、再拜兩段、短拍手兩段、一拜する。終わって退出する」【「一拜」とあるのは、拝みの数ではない。敬いが強いので、終わりに服して退くだけであると荒木田の經雅の神主が言ったとおりだろう。この終わりの一拜は儀式帳にも見える。】江家次第の公卿の勅使の儀にも、「次に使以下は四度拜み、終わって手を拍つ。次にまた四度拜み、また手を拍つ」と見える。【公卿勅使記に記してあるのも同様だ。】中右記に、「寛治八年九月一日、朝早く河原に出て解除(祓え)を行う。これは今月伊勢遷宮の行事があり、潔斎すべきだからである。祓えを終わって十六度拜む。【まず外宮、次に内宮を八度ずつ】これは兼政の説によってである。」【兼政は卜部氏である。】同記に「・・・拜八度。まず四度、次に手を拍つ。次に四度、また手を拍つ。これを兩段再拜という」。【「これを兩段再拜という」とあるのは誤りである。兩段再拜というのは、上に言ったように四度拜のことである。だから八度拜むのは、兩段再拜二度である。】皇大神宮の年中行事に「拜八度、手兩端」というのがある。【伊勢大神宮では、今の世でもこの拝み方をするという。】また宇津保物語に「俊蔭七たびふし拜むに・・・又いといたう歡び起居(たちゐ)七たび拜給ふ」なども見える。大日下王がこうしたのも、喜び敬っていたからである。○疑有は「あらんかとおもえる」と読む。万葉にも疑う意味の「か」と言うところに「疑」の字を書いたところがある。○「不レ出レ外(とにもいださず)」は、若日下王をやんごとないものとして、愛したことを言う、万葉巻九の菟名負處女(うないおとめ)を詠んだ長歌(1809)に、「並居家爾毛不所見虚木綿乃牢而座在者見而師香跡悒憤時之(ならびいるいえにもみえずうつゆうのこもりておればみてしかといぶせんときの)云々」とある。○是恐(これかしこし)。この言のことは上巻で言った。【伝九の廿六葉】○奉進(たてまつらん)。ここまでが大日下王の言った言葉である。いにしえは同母なのを「はらから」と言って、【異母なのは「はらから」とは言わない。それを中昔からは、異母なのもそう言うのは、漢ざまがうつったのである。】特に親しくして、妹は自分の娘のように愛して恵んでいたのだ。だからここの趣きも全く大日下王の娘のようである。應神天皇の御子、宇遅之和紀郎子の同母妹、八田の若郎女を大雀命に与えた状況も同じである。【書紀に見える。】○言以白事は、「こともてもうすことは」と読む。【上の「こと」は、単に軽く言い添えた辞である。「事」の字にこだわってはいけない。】ただ言葉で言うばかりではという意味である。○其の字は、読めない。「者」の字を誤ったのか。【上の「ことは」の「は」である。】○思(おもおして)は、この字が「以」の上にある意味で、大日下王の心に「言以て云々」と思ったのである。○禮物は、師が「いやじろ」と読んだのに従うべきだ。それは遣唐使の時の奉幣の祝詞に「悦己備喜志美禮代乃幣帛乎(よろこびうれしみいやじろのみてぐらを)云々」とあり、師(賀茂真淵)の考察でこの言葉は「次の神賀詞に『神乃禮自利臣能禮自登(かみのいやじりおみのいやじと)云々』と見え、続日本紀の伊勢大神宮への詔にも『禮代(いやじろ)の大幣(おおみてぐら)』とあり、その他にも見える。『いや』は『敬(いやまい)かえり』申すこと、『代』はその奉る物實(ものしろ)である。古事記に・・・崇神天皇紀に『倭の香山(かぐやま)の土を取って領巾(ひれ)に包み、祈ってこれは倭国の物實と言って帰った。物實、これを『ものしろ』と言う』とあるのがそうだ」と言った通りだ。また神賀詞のところの頭書に「『るし』が縮まって『り』になったもので、『禮自利』は『禮(いや)の印』ということだ」とも言った。この説の通りだ。「代」と「自利」は同じことで、共に「禮のしるし」だ。【「し」を濁るのは、神賀詞の「自」の字による。しかし「じり」と読まないで「しろ」と読むのは「代」の字による。】かの「物實(ものしろ)」の「實」も同じ。これは若日下王を大長谷王に奉る禮の實(しるし)の物である。上巻の大山津見神が娘を邇々藝命に与える際、「百取机代之物(ももとりのつくえしろのもの)を持たせて奉った」とあるのもその禮代だ。【伝十六の二十六葉】中巻の訶志比の宮の段の終わりに「名換えの幣(いやじり)」ともある。考え合わせよ。【伝卅一の二十九葉】○押木之玉縵(おしきのたまかづら)は、書紀に「押木珠縵(おしきのたまかづら)、一にいわく、立縵(たちかづら)、またいわく、磐木縵(いわきかづら)」とある。「押木(おしき)」と名付けたのはどういうわけか分からないが、試みに言ってみると、大神宮式の正殿の御餝の金物の中に、「妻塞(つまふたぎ)の押木の打鋪(うちしき)十二口【径は各一寸五分云々】」とある。とすると「押木」というものがあって、その形に作った物ではないだろうか。書紀に「立縵」ともあるのを考えると、その押木の形に作った茎に玉を貫いて立てたのではないか。磐木縵というのも、その状態が巌を立てたように見えるので言うのか。【「木」とはその茎を言うのだろう。】貞観儀式の元日の禮服の制に、「親王四品以上の冠は漆地の金装・・・白玉八顆を櫛形の上に立て、紺玉廿顆を前後の押鬘の上に立てる」と見え、【また「玉を前の押鬘の上に立て」とも「後ろの押鬘の上に立て」とも見える。】また「立玉(たてたま)は茎と台がある。居玉(すえたま)は台があって茎はない」と見える。【禮服の制は、たいていは唐国のを真似たのだが、上記の玉の飾りの様子などは、皇国の上代の縵の制を用いたものと聞こえる。】これに「押鬘」とあるものは、押木と同じかどうか、更に調べる必要がある。「玉を立てる」というのが、茎を着けて立てたものであることは、上記の「立玉は云々」とあるので分かる。大体これらで押木の玉縵の形状を推し測るべきだろうか。【貞観儀式に「押鬘」という名があるので考えれば、押木も同じことではないのか。立玉について「木」と言ったのではないか。それなら大神宮式の押木とは異なる。「押」というのは「圧する」ということで、立玉の茎を立てる料のものを据えて、頭上を圧することを言う名ではないか。】ところでこの玉縵がたいへん貴重で最も美しいものだったことは、書紀の雄略の巻の十四年のところに見えている。すべての縵については、上巻の黒御鬘とあるところで言った。【伝六の十九葉】○讒は「よこしまつり」と読む。催馬楽の葦垣に「太禮加己乃己止乎、於也爾末宇與己之介良之毛(たれかこのことを、おやにもうしけらしも)、・・・安米川知乃可美可美毛、曾宇之多戸、和禮波万宇與己之万宇左春(あめつちのかみがみも、そうしたべ、われはもうよこしもうさず)」【「末宇(まう)」は「申し」であろう。「曾宇之(そうし)」は「證し」である。】万葉巻十二【四丁】(2871)に「人言之讒乎聞而(ひとごとのよこすをききて)」、書紀の應神の巻に「天皇に讒言(よこしもうさく)」、新撰字鏡に「讒は『よこす』」などがある。【続日本紀廿五の詔に「讒治奏」とあるのは、細書の「治」の字(送り仮名)があるから、「しこじ」か。】○己妹乎(おのがいもや)。この「乎」のことは、上巻に「愛我那邇妹命乎(うつくしきあがなにものみことや)とあるところで言った。【伝五の六十四葉】○爲等族之下席は、「ひとしうがらのしたむしろにならん」と読む。【「爲」は「なさめや」と読む語勢だが、「めや」と読む字がないので、そうは読めない。師はここを「ひとしきやからのむしろとらせんや」と読んだが、どうか。「下」を「とる」とは読めない上に、「席をとる」ということはありそうにない。】「族」は、書紀の神代巻に「うがら」と訓注がある。また「親屬(うがらやがら)」、顕宗の巻に「親族(うがらやがら)」、安閑の巻に「同族(うがら)」などもある。【「うがら」と「やがら」の区別は、「うがら」は「生族(うまれから)」、「やがら」は「家族(やから)」の意味か、さらに考える必要がある。「うから」も「やから」も「はらから」もみな「か」は清んで言うけれども、上記の書紀の訓注によると、なずらえてみな濁るべきか、それとも濁って言うのと清んで言うのがあるのか、全部は分からない。「ともがら」は今も濁って言う。万葉巻三の長歌(460)に「親族兄弟(やからはらから)」とある「親族」も「うがら」と読むべきではないだろうか。】ここで「等族」というのは、若日下王と大長谷王とは叔母甥であって、共に天皇の御子であるから、同じ品の族であることを言う。「下席に爲(な)る」というのは、大長谷王の妃になることを言っている。夫婦は交合するとき、婦人を夫の下に敷くので、下に敷かれようという意味だ。【「下席」とは下に敷く意味であって、「上席」に対して言うのではない。】もとよりこれは正しい言葉ではない。単に怒って嘲った、戯れ言である。○曰(もうす)の字は、真福寺本には「白」と書いてある。○横刀(たち)は単に大刀である。前に出た。○手上(たかみ)は上巻に「御刀之手上(みはかしのたかみ)」とある。そこ【伝五の七十六葉】で言った。○取は、師が「とりしばりて」とよんだのに従う。書紀の~武の巻に「撫劔而、雄叫びしていわく、『悔しいことだ、大丈夫が云々』、撫劔、これを『つるぎのたかみとりしばりて』と読む」とあるからである。同巻、また天武の巻で、「按劔」もそう読んでいる。○怒歟(いかりたまう)。「歟」の字は記中で「矣」、「焉」などと同じように用いたところがある。ここもそうだ。【このことは初めの巻で言った。疑って「か」と言うのではない。】根臣のこの悪事がばれて殺されたことは、書紀の雄略の巻で十四年のところに詳しく見えている。○嫡妻は「みむかいめ」と読む。上巻で出た。【伝十の五十八葉】○長田大郎女(ながたのおおいらつめ)は、書紀の雄略の巻に「去來穗別天皇の皇女、中帯姫(なかしひめ)皇女、またの名は長田大郎皇女である。大鷦鷯天皇の子、草香皇子は長田皇女を娶って、眉輪王を生んだ。云々」とある女王で、履中の巻に「次の妃、幡梭皇女は中磯(なかし)皇女を生んだ」とあるのがそうだ。【「中帯」と「中磯」は同じ。】それをこの記で、履中天皇の御子には中磯皇女はなく、允恭天皇の御子に長田大郎女があるのは、履中天皇の御子を允恭天皇の御子と取り違えた伝えの誤りである。【書紀に允恭天皇の御子にも名形大郎皇女があるのは、同じ伝えの誤りを取って記されたもので、「長田」、「名形」と字を変えて書いてあるが、実は履中天皇の御子の長田大郎皇女と同一人物だろう。】もし允恭天皇の子とするなら、天皇【安康】の同母妹であるものを、どうして后にするだろうか。○取持來(とりもちきて)。「持」は軽く言い添えただけで、「以伊都久(もちいつく)」など言うたぐいの「以」と同じである。【師は「持」の字を「將」の誤りとして、「いて」と読んだが、そうではない。】万葉巻十一(2827)に「紅花西有者(くれないのはなにしあれば)、衣袖爾染著持而(ころもでにそめつけもちて)、可行所念(ゆくべくおもおゆ)」【これらの「持」も「以」の意味である。】○皇后は「おおぎさき」と読む。大后とあるのと同じだ。【記中みな大后と書いてあるのを、皇后と書いたのは、ここと甕栗の宮の段にあるのだけである。】このことは中巻の白檮原の宮の段で言った。【伝二十の十葉】○書紀では「元年春二月、天皇は大泊瀬皇子のため、大草香皇子の妹、幡梭皇女を迎えようとして、坂本臣の祖、根使主を使わして大草香皇子に『幡梭皇女を大泊瀬皇子にやってもらえないか』と頼ませた。大草香皇子は『私は重い病気をして癒えない。・・・ただ妹の幡梭皇女が一人なのが心配で、死んでも死にきれない。今陛下がその醜いのもいとわず、女官の数に入れようと言ってくださったのは、はなはだ大恩で、どうして断ることが出来ようか。誠意を表すため、私の宝である押木珠縵【一にいわく、立縵、またいわく、磐木縵】を捧げ、使いの根使主に付けて献げる。願わくば、物が軽く賎しいと思っても、納めて印としてください』と言った。ところが根使主は押木珠縵を見てその麗美なことに感じ、盗んで自分の宝にしようと思い、偽って天皇に『大草香皇子は命を受けませんでした。私に『同族だと言っても、私の妹を妻にすることなど出来るものか』といいました』と言った。縵は自分のものとして、奉らなかった。天皇は大いに怒り、兵を起こして大草香皇子の家を取り囲み、殺してしまった。・・・そして大草香皇子の妻、中帯姫を宮中に入れて妻とした。またついには幡梭皇女を大泊瀬皇子の妻にした。・・・二年春正月癸巳朔己酉、中帯姫命を立てて皇后とし、寵愛はたいへん深かった」とある。

 

自レ此以後。天皇坐2神牀1而。晝寢。爾語2其后1曰。汝有2所思1乎。答曰被2天皇之敦澤1。何有レ所レ思。於レ是其大后先子目弱王。是年七歳。是王。當レ于2其時1而。遊2其殿下1。爾天皇不レ知3其少王遊2殿下1以。詔2大后1言。吾恆有2所思1。何者。汝之子目弱王。成レ人之時。知3吾殺2其父王1者。還爲レ有2邪心1乎。於レ是所レ遊2其殿下1目弱王。聞=取2此言1。便竊伺2天皇之御寢1。取2其傍大刀1。乃打=斬2其天皇之頸1。逃=入2都夫良意富美之家1也。

 

訓読:これよりのち、スメラミコトかむとこにましまして、ヒルミネましき。かれそのきさきとかたらいて、「みましおもおすことありや」とのりたまいければ、「わがオオキミのみうつくしみのふかければ、なにのおもうことかあらん」ともうしたまいき、ここにそのオオギサキのさきのみこマヨワのミコ、ことしナナツになりたまえり。このミコ、そのおりしも、そのトノのもとにあそびませりき。かれスメラミコトそのわかきこのそのトノのもとにあそびませることをしろしめさずて、オオギサキにのりたまわく、「アはつねおもおすことあり。なにとぞいえば、みましのミコ・マヨワのミコ、ひととなりたらんときに、アがそのチチのミコをしせしことをしりなば、かえしてきたなきこころあらんか」とのりたまいき。ここにそのトノのもとにあそびませるマヨワのミコ、このことをききとりて、すなわちスメラミコトのみねませるをうかがいて、そのかたえなるタチをとりて、そのスメラミコトのみくびをうちきりまつりて、ツブラオオミがいえににげいりましき。

 

口語訳:これより後のある日、天皇は神牀にいて、昼寝をしていた。そこでその后と語り合って、「お前は何か思うことがあるか」と聞いた。すると「天皇がこんなに良くしてくださってるんですもの。何も心配事はありませんわ」と答えた。このとき、大后の前の御子、目弱王は七歳だったが、ちょうどその殿の下で遊んでいた。天皇はこの少年が遊んでいることを知らず、大后に「私はいつも悩んでいることがある。何かと言えば、お前の御子の目弱王が成人の時、私がその父王を殺したことを知ったら、かえって邪心があるだろうか」と言った。ここでその殿の下にいた目弱王は、このことを聴き取って、天皇の寝ている隙を伺い、そのそばにあった太刀を取って、天皇の首を切って、都夫良意富美の家に逃げ込んだ。

 

神牀(かむとこ)は、【「牀」の字は旧印本に「材」と書き、他一本、また一本、真福寺本などには「林」と書いてある。みな誤りだ。ここは延佳本によった。】中巻の水垣の宮の段にも「・・・天皇が愁いて、神牀に休んでいた夜、大物主大神が夢に現れて云々」とある。【伝廿三の二十四葉】ただしそれは神の御命を請い願って、潔斎して休んだのだから何でもない。ここは后と昼寝したというのは神牀にふさわしくないから、あるいは「神」の字が誤りではないだろうか。【それで師は「御牀」だろうと言った。それは「寝」とあるから、特に「御牀」と言わなくても通じるところだが、これは昼だから、御牀に寝るのではないところだったから特に言ったのかも知れない。】しかし諸本にみな「神」と書いているうえ、水垣の宮の段にもこの名があるので、ここはもとのままにしておく。「神牀」と考えてつらつら思うに、このときは何事であれ神の命を請い願うことがあって、神牀にいたのを、その齋(いみ)を怠って、昼間から后と寝ていたのは、たいへんあるまじき状態だ。この天皇は大日下王の妃を取ってきて、后にするという不義の行為もあったので、これもこの后を寵愛するあまり、物齋を犯したのであって、この時思い掛けない災いにあって崩じたのは、神の咎めではないだろうか。このことは、さらに考える必要がある。○寝は「みねましき」と読む。次の文に「御寝」と見え、白檮原の宮の段に「御寝坐也(みねましき)」とある、これは次の文を考えると、大后と共に寝ていたのである。○被天皇之敦澤は、「わがおおきみのうつくしみのふかければ」と読む。【また「おおきみのふかきうつくしみをかがうれば」とも読める。万葉巻廿(4321)に「美許等加我布理(みことかがうり)」などもある。】「天皇」は、こういうところでは「わが大君」と言う例である。「敦澤」の字は漢文風である。【「敦」は「あつし」と読む字だが、古文ではやはり「深し」と言うべきだろう。】○先子(さきのみこ)は、前に大日下王によって生んだ子である。○目弱王(まよわのみこ)。名は和名抄の龜貝の類に、「辨色立成にいわく、石炎螺は『まよわ』。楊氏の説も同じ」とあるものによっている。書紀に「中帯姫(なかしひめ)は大草香皇子によって眉輪王を生んだ。母によって罪を免れることができ、常に宮中で養い置かれた」、また雄略の巻の初め【細注】に、「大草香皇子は長田の皇女を娶って、眉輪王を生んだ」などがある。○當于其時而は、「そのおりしも」と読む。○其殿(そのとの)は、天皇が大后と寝て語り合った殿である。○少王は「わかきみこ」と読む。書紀の斉明の巻に建王【そのとき八歳】を「門餓倭柯枳古(あがわかきこ)」と言っている。【天智の巻に「稚子(わかきこ)」という人名も見える。】「おさな子」という程度の意味である。○「吾恆有2所思1(あはつねおもおすことあり)」は、常に心に掛かることがあるということである。上に「汝有2所思1乎(なんじおもおすことありや)」とあるのに対して、「吾は云々」と言ったのだ。○何者は、「なにとぞいえば」と読む。「その思うところは何かといえば」ということだ。○殺(しせし)は、旧印本や他一本などには「弑」と書いてある。それもよい。ここは真福寺本他一本、延佳本などによった。○還(かえして)は、【師は「ついに」と読んだ、それは「遂」の誤字としたのだろうか。】報復するのである。【また「かえりて」とも読める。「かえし」は向こうからこちらへ返すのである。「かえりて」と読むときは、こちらへ返すのである。】○邪心(きたなきこころ)は、前に出た。【伝廿三の七十三葉】若櫻の宮の段に「穢邪心(きたなきこころ)」ともある。【伝卅八の二十一葉】目弱王が父の仇を報いようとしたことは、彼から言えば全くの邪心ではないけれども、【天皇を弑したことはやはり邪心である。特にここは天皇自身の言葉だから、もとからのことで、】天皇の為には邪心である。○爲有は、「あらん」と読む。【「爲」の字は「あらんとす」という意味で「す」に当てて書いたのか。記中にはそう書いた例もある。しかしやはり「あらん」と読むべきだろう。】○聞取(ききとり)は、聞いてこちらへ取って失わないでいることである。【ただ「聞く」というのとは異なる。】これで天皇がその父を殺したことを初めて知ったのである。○竊伺(ひそかにうかがいて)は、若櫻の宮の段に出た。【伝卅八の二十二葉】○傍大刀(かたえなるたち)。いにしえは天皇も常に身に着けていたことは、これでも分かる。【万葉の歌に、副(そ)えの枕詞に「劔刀(つるぎたち)」と言っている。】○都夫良意富美(つぶらおおみ)。書紀には「圓大臣」とある。同履中の巻に「このとき、平群の木菟宿禰(つくのすくね)と蘇我の滿智宿禰(まんちのすくね)、物部の伊苣佛(いこふつ)の大連、圓大使主(つぶらおおみ)は、共に国事を執った【圓を読んで『つぶら』と言う】」とある。この人はどこでも姓を書かないのはなぜか。【いまだ姓を賜らなかったのだろうか。公卿補任に「葛城の圓の使主は、武内宿禰の曽孫、葛城襲津彦の孫、玉田宿禰の子である」とある。】「意富美」という名の例は、明の宮の段に「丸邇之比布禮能意富美(わにのひふれのおおみ)」という人がある。遠つ飛鳥の宮の段に「大前小前宿禰の大臣」【これは「大臣」と書いてあるけれども、大臣ではない。そのことはそこで言った通りだ。】これは一つの号である。それなのに比布禮を書紀に「日觸使主」と書き、大前・小前をこの記に「大臣」と書き、この圓を書紀の履中の巻には「大使主」、雄略の巻には「大臣」と書かれたなどは、みな取り違えたのである。【このうち、比布禮は、丸邇氏は臣の尸だから、意富美は即ち臣だとも言える。臣というのも意富美が縮まった名だからである。またこの圓も建内宿禰の子孫だから「臣」とも言えるだろう。建内宿禰の子孫の氏々は、みな臣の尸だからである。しかし大前・小前は物部氏であって、臣の尸でないから、臣というはずはない。】これら、大臣と意富美、大使主、臣と使主は、よく考えなければ取り違える。この都夫良は臣とは言えるが、大臣になったことは見えないから、大臣ではない。【大臣とあるのは、大前・小前も大臣としたのと同じ混同である。】また使主というのは戎人の号だから、大使主であることもない。【使主に「大」を付けて大使主というのは、例のないことである。新撰姓氏録に「某大使主」という姓が見えるのも、何かの取り違えである。】なお「意富美」というのは、別の一つの号である。【ついでに言っておくと、使主という号は、書紀の應神の巻に「漢使主らに姓を与えて直とした」とあるのは、例の阿知使主の子孫で、漢人である。また新撰姓氏録に使主の尸の姓がしばしば見えるが、みな諸蕃である。とするとこれはもと韓国から出た号か、または皇朝で蕃人のために造られたのか、いずれにしても蕃人の号だ。これを「おみ」と言うのは、書紀の顕宗の巻に「日下部連使主」という人名があって、「使主、これを『おみ』という」と訓注がある。「おみ」というのは韓国語とも聞こえないので、これは皇国で臣の名を使主の読みにも兼ねて用いられたのではないだろうか。臣と口に出して言う言葉は同じだが、戎人のは使主と書く文字で区別したのだろう。これはさらに考察する必要がある。書紀の仲哀の巻に「中臣の烏賊津連(いかつのむらじ)」とある人を、神功の巻では「烏賊津使主(いかつおみ)」と書かれているが、これも「使主」は例の紛れで、臣である。中臣氏は臣の尸ではないので、この「臣」は下に付けて言う号ではなく、「いかつおみ」という名である。この氏には、先祖にも臣という名が系図にしばしば見える。続日本紀卅六にこの人の父の名も「意美佐夜麻(おみさやま)」と見え、この人も「伊賀都臣」と見える。また三代実録や新撰姓氏録などに「雷大臣(いかつおみ)命」とあるのもこの人で、これも臣を大臣に取り違えたものである。大体このように、古い書物に大臣と臣、使主を混同していることが多い。気を付けて見るべきである。「伊加都臣」の「臣」は、姓の尸を名の下に付けて言う臣とも紛れやすい。書紀には允恭の巻にも「烏賊津使主」という人があるが、仲哀・神功の巻にあるのとは別の人である。時代も遠く、仲哀・神功の巻にあるのは重い公卿であり、允恭の巻のは「一舎人」とあるから、同人であるはずがない。それを姓名が同じなので、同人かと疑うのは誤りである。この中臣氏には、この他にも同名の人がしばしば見える。】ところでこの人の家は葛城にあったのだろう。後の文に葛城のことが見え、書紀の雄略の巻には「葛城の圓大臣」【公卿補任にも「葛城の云々」】とあるからである。○書紀の雄略の巻に初めに「三年八月、穴穂天皇は沐浴しようと山の宮に出かけ、樓に登って宴を開いた。心楽しく、皇后と物語をして、『ねえお前、お前は親しくしているが、私は眉輪王が恐い』と言った。眉輪王は幼くて樓の下で遊んでいたが、この言葉を聞き取った。そして穴穂天皇が皇后の膝枕で休んでいたとき、その熟睡しているのを刺して殺した」とある。

 

天皇御年伍拾陸歳。御陵在2菅原之伏見岡1也。

 

訓読:このスメラミコトのみとしイソヂマリムツ。みはかはスガハラのフシミのオカにあり。

 

口語訳:天皇が崩じたとき、五十六歳だった。御陵は菅原の伏見岡にある。

 

伍拾陸歳(いそぢまりむつ)。【「五十」は普通「い」と言うが、このように物の数をはっきり言う時は、「いそ」と読まなくてはならない。】書紀には「三年秋八月甲申朔壬辰、天皇は眉輪王に殺された」とあるだけで、年齢は見えない。【一代要記、編年記などにも五十六とあるのは、この記によるのだろう。】○この間に「某年某月日崩」という例の細注は、この段には諸本ともない。○菅原(すがはら)、前に出た。【伝廿五の六十四葉】○伏見岡(ふしみのおか)。【「伏見の翁というものがこのところの岡に寝て、三年ほど起きなかった。これによってここを伏見という」とう説は、この地名によって作った妄説だ。】書紀に「三年後、菅原伏見陵に葬った」、【三年になるまで葬らなかったのは、書紀には「この天皇は崩じた年の十月に乱が平定され、十一月には雄略天皇が即位した」とあるけれども、乱は数年にわたったのではないだろうか。それでこの葬儀も滞ったのだろう。清輔朝臣の奥義抄にこの御陵のことを「日本紀にいわく、安康天皇が崩じて、菅原の伏見野の中の陵に葬った」と言っているのは、書紀の古い写本に「野中」ということがあったのかとも言えるがそうではない。これは単に後に「伏見の野中の陵」とも言ったことがあるままに、こう言ったのだろう。】諸陵式に「菅原の伏見の西の陵は、石上の穴穂の宮で天下を治めた安康天皇である。大和国添下郡にある。兆域は東西二町、南北三町、守戸三烟」とある。【霊亀元年四月に、この御陵に守陵四戸を当てられたことが続日本紀に見える。】この御陵は大和志に「寶來冢(ほうらいづか)邑にある」と言っている。【ある書に字(あざな)を兵庫山というとある。○諸陵式に「西の陵」とあるのは、垂仁天皇の菅原の伏見の東の陵があるためである。】

 

爾大長谷王子。當時童男。即聞2此事1以。慷愾忿怒。乃到2其兄黒日子王之許1曰。人取2天皇1爲2那何1。然其黒日子王。不レ驚而。有2怠緩之心1。於レ是大長谷王詈2其兄1。言一爲2天皇1。一爲2兄弟1。何無2恃心1。聞レ殺2其兄1。不レ驚而怠乎。即握2其衿1控出。拔レ刀打殺。亦到2其兄白日子王1而。告レ状如レ前。緩亦如2黒日子王1。即握2其衿1以。引率來。到2小治田1。堀レ穴而。隨レ立埋者。至2埋レ腰時1。兩目走拔而死。

 

訓読:ここにオオハツセのミコ、そのかみオグナにましける。このことをきかして、うれたみいかりまして、すなわちそのいろせクロヒコのミコのもとにいまして、「ひとスメラミコトをとりまつれり。いかにせん」ともうしたまいき。しかるにそのクロヒコのミコ、うちもおどろかずて、おおろかにおもおせり。ここにオオハツセのミコそのいろせをのりて、「ひとつにはスメラミコトにまし、ひとつにはハラカラにますを、なぞもたのもしげなく、ひとのそのいろせをとりまつれることをききつつ、おどろきもせずておおろかにおもおせる」といいて、すなわちそのコロモのくびをとりてひきいでて、タチをぬきてうちころしたまいき。またそのいろせシロヒコのミコにいまして、さきのごとありさまをつげもうしたまうに、このミコもまたクロビコのミコのごとおおろかにおもおせりしかば、すなわちそのコロモのくびをとりて、ひきいてきて、オハリダにいたりまして、あなをほりて、たちながらにうずみしかば、こしをうずむときにいたりて、ふたつのメはしりぬけてぞみうせたまいぬる。

 

口語訳:大長谷王子は、当時少年だったが、このことを聞いて悲憤慷慨し、その兄、黒日子王のところへ行って、「目弱王が天皇を殺した。どうする」と言った。しかし黒日子王は、別に驚いた様子もなく、適当に受け流していた。そこで大長谷王はその兄を罵って、「一つには天皇であり、一つには兄であるものを、何ら頼もしい判断もせず、その兄を殺されたときいても驚きもせず、いい加減なことを言うか」と襟首をつかんで引き出し、刀を抜いて打ち殺してしまった。また兄の白日子王のところへ行って、前と同じように言った。すると黒日子王も同じように適当に受け流していた。そこで襟首をつかんで率いてきて、小治田に到ると穴を掘って、生きたまま埋めたところ、腰の辺りまで埋めたときに、両の目が飛び出して死んでしまった。

 

童男は「おぐな」と読む。この名のことは中巻の日代の宮の段で言った。【伝廿六の六葉】この御子のこの時の所行を見ると、童の年齢ではないのに、こう言ったのは、「おぐな」とはその年齢に関係なく、童の髪型であるのを言うのだろう。いにしえには、卅歳をすぎてもそういう髪型だった人があるのだろう。【今の世でも相撲取りなどに、年長になっても前髪といって童の形をしているものがあるようなものだ。】この王は、この時は卅歳を超えていただろう、そのことは朝倉の宮の段の終わりで言う。【伝四十二の五十四葉】○此事(このこと)とは、目弱王が天皇を殺したことを言う。○慷愾(うれたみ)。前に出た。【伝卅四の四十葉】○忿怒(いかりまして)。【「忿」の字を真福寺本に「怨」と書いてある。誤りだろう。】○黒日子王(くろびこのみこ)。前に出た。【伝卅九の三葉】「境之」とあるから、境に住んでいたのだろう。○取(とりまつれり)は【師は「殺」の字の誤りだろうと言ったがそうではない。】弑したことを言う。殺すことを「取る」ということは、中巻の水垣の宮の段、【伝廿三の六十葉】また若櫻の宮の段【伝卅八の九葉】で言った通りだ。考えて知るべきだ。○不驚而は師が「うちもおどろかずて」と読んだのが良い。【そう読んでいい語勢のところだ。】○有怠緩之心は、「おおろかにおもおせり」と読む。【師は「なげらなり」と読んだが、意味はそうでも、言葉はどうか。「なげら」という言葉は、中昔の歌などには見える。書紀の天武の巻に「あるいは悪人を見て、倦(おこたりて)不正を隠す」などとあるのに似たことで、「怠緩」の字の意味には当たるだろう。しかしここは「おこたる」などと読むべきでない。】「おおろか」という言葉は、書紀の仁徳の巻の歌に見える。万葉にたくさん見える「意富爾(おおに)」というのも同言である。【「おろそか」、「なおざり」などというのも同意だ。】○詈(のりて)。この言葉は中巻の白檮原の宮の段に見える。【伝十九の八葉】○一は「ひとつには」と読む。続日本紀廿四の詔に「又一爾波(またひとつには)云々」とある。○無恃心は師が「たのもしげなく」と読んだのに従う。「怠乎」というところへ係る言である。○殺(とりまつれる)は、前に「取(とりまつれり)」とあるのに倣って、そう読む。○聞は「ききつつ」と読む。○不驚而はここでは「おどろきもせずて」と読む。○怠乎は、「おおろかにおもおせる」と読む。【「乎」の字は読まない。これを「や」と読むのは誤りである。一般に「何(なぞも)」などとある下は「や」とは言わないものだ、後世の人はその決まりを知らず、「何」、「誰」の下もみな「や」と言うのは誤りである。それは漢文には「何」などの下に「乎」、「耶」などの字があるのを読み慣れた癖だろう。ここに「乎」の字があるのも、単に漢文ざまのことだ。古言で置いたわけではない。】これは上に「怠緩之心」とあるのと同言だが、字を省いて書いたもので、次に「緩」とだけあるのもそうだ。【上に「怠緩之心」と】書き、ここでは「怠」、次には「緩」と書いて、この三つを相照らして同言だと知らせ、一方の省いた書き方も完全な書き方にならわせたものだ。記中、このような書き方はしばしばある。○衿(ころものくび)は、中巻の倭建命の段に「熊曾の衣の衿を取って、剣で胸を刺し通し」とあるのと同じ。そのところを考えよ。【伝廿七の廿一葉で言った。この衿を「ひきおび」と読むのは誤りである。「ひきおび」は、和名抄に「衿帯」とあって、別なのを思い違ったのである。】○白日子王(しろびこのみこ)は、前に出た。【伝卅九の三葉】師はこの「王」の字の下に「之許」の二字を補った。それももっともだが、これは上の「黒日子王之許」と同様なので、省いて書いたのでもあるだろう。この王は上に「八瓜之」とあるから、八瓜に住んでいたのだろう。○告状如前は、「さきのごとありさまつげもうしたまうに」と読む。【「さきのごと」は、前に黒日子王に言ったようにということだ。】○緩亦如黒日子王は「このみこもまたくろびこのみこのごとおおろかにおもおせりしかば」と読む。○小治田(おはりだ)は、大和国高市郡にある。この地のことは、小治田の宮の段で言う。【伝四十四の七十葉】同郡だから、八瓜からは遠くないだろう。○隨立は【「随」の字は、諸本に「堕」とある。それも悪くはない。ここは真福寺本、他一本によった。】「たちながらに」と読む。○「至2埋レ腰時1(こしをうずむときにいたりて)。【「埋」の字は無い本もある。また「此」の字が「至」の上にある本もある。】○兩目(ふたつのめ)は、師は「めふたつながら」と読んだ。それもいい。これはただ「埋む」としか書かれていないが、状況を考えると単に埋めたのではないだろう。大きな石を投げ入れるなどして、たいへんに苦しめ、耐え難いように【俗に言う「石こづめ」に】したのだろう。そうでなければ、単に腰まで埋めただけで目が飛び出るほど耐え難く苦しいことはないだろうからである。【ある人のいわく、「この白日子王を埋めた塚は、今も高市郡野口村にあって、大和志に倭彦王の墓だと言う。今も里人は生きながら埋めた塚だと言い伝えている。倭彦王の墓だと言うのは誤りだ」と言う。どうであろうか。】○書紀の雄略の巻の初めに「この日、大舎人が集まって、天皇に『穴穂天皇が眉輪王に殺された』と言った。天皇は大いに驚いて、甲を着て刀を帯び、兄の八釣の白彦皇子を責めて問うたが、皇子はその害しようとするのを見て黙っていた。天皇は刀を抜いて斬った。さらに黒彦皇子を責め問うたが、この皇子も害しようとするのを見て黙っていた。天皇は忿怒がますます高まり、眉輪王を殺そうと考えたが、眉輪王は『私はもともと天皇の位を求める考えはない。ただ父の仇を討とうと思っただけだ』と言った。坂合の黒彦皇子は深く疑われるのを恐れ、眉輪王と語り合って隙を見て逃げ出し、圓大臣の家に入った」とあるのは、伝えが異なる点がある。【この書紀の文にはいぶかしいところがある。白彦皇子をすぐに殺したという勢いからすると、黒彦皇子もすぐに殺すはずなのに、「忿怒彌盛」とあるにも似ず、どうしてそのまま許しておいて、眉輪王のところに行ったのだろうか。眉輪王もすぐに殺すはずのところを、どうして許しておいて、黒彦皇子と語り合って、共に逃れて圓の大臣の家に入る暇を与えたのだろうか。事の様子が違って聞こえるのは、例の漢文を真似たので、その間に事が違ったのだろう。】

 

亦興レ軍。圍2都夫良意美之家1。爾興レ軍待戰。射出之矢如レ葦來散。於レ是大長谷王。以レ矛爲レ杖。臨2其内1詔。我所2相言1之孃子者。若有2此家1乎。爾都夫良意美聞2此詔命1。自參出。解2所レ佩兵1而。八度拜。白者。先日所2問賜1之女子訶良比賣者。侍。亦副2五處之屯宅1以獻。<所レ謂五村屯宅者。今葛城之五村苑人也。>然其正身所=以3不2參向1者。自2往古1至2今時1。聞2臣連隱1レ於2王宮1。未レ聞3王子隱2於臣之家1。是以思。賤奴意富美者。雖2竭レ力戰1。更無レ可レ勝。然恃レ己。入=坐3于2隨家1之王子者。死而不レ棄。如レ此白而。亦取2其兵1。還入以戰。爾力窮。矢盡。白2其王子1。僕者手悉傷。矢亦盡。今不2得戰1。如何。其王子。答詔然者更無レ可レ爲。今殺レ吾。故以レ刀刺=殺2其王子1。乃切2己頸1以死也。

 

訓読:またイクサをおこして、ツブラオミのいえをかくみたまいき。かれイクサをおこしてまちたたかいて、イいずるヤあしのさかりにちるがごとくなりき。ここにオオハツセのミコ、ほこをつえにつかして、そのうちにのぞみまして、「わがあいいえるオトメは、もしこのいえにありや」とのりたまいき。ここにツブラオミこのオオミコトをききて、みずからまいでて、はけるツワモノをときて、やたびおがみて、もうしけるは、「さきにといたまえるむすめカラヒメは、さもらわん。またいつところのミヤケをそえてたてまつらん。<いわゆるいつところのミヤケは、いまのカヅラキのいつむらのソノビトなり。>しかるにそのムザネまいでてこざるゆえは、いにしえよりいまにいたるまで、オミムラジのミコのミヤにこもることはきけど、ミコのヤツコのいえにこもりませることはいまだきかず。ここをもておもうに、やつこオオミは、ちからをつくしてたたかうとも、さらにエかちまつらじ。しかれどもオノレをたのみて、ヤツコのいえにいりませるミコは、いのちしぬともすてまつらじ」。かくもうして、またそのツワモノをとりて、かえりいりたたかいき。かれちからつき、ヤもつきぬれば、そのミコにもうしけらく、「アはいたておいぬ。ヤもつきぬ。いまはエたたかわじ。いかにせん」。そのミコ、「しからばさらにせんすべなし。われをしせよ」とのりたまいき。かれタチもてそのミコをさししせまつりて、おのがくびをきりみうせにき。

 

口語訳:また軍を興して、都夫良意美の家を取り囲んだ。(都夫良意美も)軍を興して待って戦った。射出す矢は葦が盛んに散るようだった。大長谷王は矛を杖にして、その家の中をのぞき込んで「私が言い交わした孃子がいるか」と聞いた。都夫良意美はこの言葉を聞くと、みずから出て来て、武具を解き、八度拝んで、「前に問われた娘、訶良比賣はあなたの妻になります。また五箇所の屯宅を添えて差し上げましょう。<いわゆる五村の屯宅は、今の葛城の五村の苑人である。>しかしながらその本人が出て来ないのは、昔から今に至るまで、臣・連が王宮に逃げ込むことはあっても、王子が臣の家に逃げ込んだことは、聞いたことがありません。このことを思うと、賎しい奴の意富美は、力の限り戦っても、勝つはずはありません。しかしこんな私を頼りにして逃げ込んできた王子を見捨てておかれましょうか」。このように言って、再び武具を身に着け、帰って行って戦った。力が尽き、矢もなくなって、その王子に言った。「私はひどく傷ついた。矢もなくなりました。もはや戦うことは出来ません。どうしますか」。王子は「それならば仕方がない。私を殺せ」と言った。そこで刀を取って王子を殺し、みずから首を刎ねて死んだ。

 

亦興軍(またいくさをおこし)。「亦」は上の件のことがあって、またこのことがある意味である。【軍をまた興したという意味ではない。】○都夫良意美(つぶらおみ)。【旧印本、延佳本には「意」の下に「富」の字がある。ここは真福寺本、また一本、他一本によった。ただし「富」の字があるのは良くないという意味ではなく、次にあるのには諸本にこの字がないのによったのである。】「意富美」を縮めて「意美」とも言ったのだろう。【例の「比布禮能意富美(ひふれのおおみ)」も書紀には「日觸使主(ひふれのおみ)」と書いてあるたぐいだ。】○「爾興レ軍(かれまたいくさをおこして)云々」。「爾」の下に「都夫良意美亦(つぶらおみも)」とあるところを省いたのだ。○待戰(まちたたかう)は、大長谷王の軍を待って戦ったのである。○葦來散(あしのきちる)は、葦の穂が散ってくるのを言う。単に「葦」とだけ言って「穂」と言わないのは、万葉巻廿【十八丁(4331)、廿六丁(4362)、三十四丁(4398)】に「安之我知流(あしがちる)」とあるようなものだ。【堀川百首(968)に「寒蘆、難波がた綱手になびく葦の穗のうらやましくも立のぼるかな」、また(974)「なにはがた葦の穗末に風ふけば立よる浪の花かとぞ見る」とある。】いにしえには海辺などに葦が多く、その穂の散る様子はおびただしかったので、【「難波」の枕詞ともなり、】このように射る矢のたいへん多い譬えにも言った。「來」というのは不適切なように聞こえるのは、誤字だからだろう。【敵の軍の射る矢は、こちらに来るのを喩えたのであれば「來散る」とも言えるだろうか、とも思ったがどうか。】そこでつらつら考えるに、「盛」を誤ったのだろう。【草書体はたいへん近い。】「さかりに」と読む。【師は「華」の誤字としたが、記中「花」を「華」と書いた例はない。「花」の字は形が遠い。また「葦の散る」を誤って「葦」の字を重ねて書いたのを、また誤って一つを「來」としたのか。それとも「葦之散」を誤ったのかなどとも思ったが、そうではない。】射る矢の多いのを物に喩えたのは、万葉巻二(199)に「引放箭之繁計久大雪乃亂而來禮(ひきはなつやのしげけくおおゆきのみだれてきたれ)」、書紀の欽明の巻に「發箭如レ雨(はなつやあめのごとし)」などもある。○爲杖は「みつえにつかして」と読む。○其内(そのうち)は、都夫良意美の家の内である。○臨(のぞみまして)は、上巻の石屋戸の段に「やや戸を出て臨みます時に」とあるのと同じだ。この言の意味はそこで言った。【伝八の六十五葉】このようにたくさん降っている矢を全く恐れない様子は、勇んだ気力のすさまじいさまを見るようである。○所相言之は「あいいえる」と読む。この言は若櫻の宮の段に見えて、そこで言った。【伝卅八の二十一葉】この王は以前にこの都夫良意美の娘を求めたのである。【そのことは後の文に見える。】中昔の歌物語などにも、女を求めることを「物言う」などと言う。○若(もし)と言うのは、今の世の心には不適切に聞こえるだろうが、いにしえの言葉ではこういうところにも言ったのだろう。【上巻の海神の宮の段に「若有何由(もしなにのゆえあるか)」、また「若渡2海中1時(もしわたなかをわたるとき)云々」とあるのも、今は不適切に聞こえる。】中昔以降の言い方をすれば、「若」という言葉を除いた意味である。○「有2此家1乎(このいえにありや)」。「有」の字は諸本同じである。「在」の字を誤ったのか、それとも字にこだわらずに書いたのか。【延佳本に「在」とあるのは、自分勝手に改めたのだろう。】○都夫良意美(つぶらおみ)。延佳本には「意」の下に「富」の字があるが、諸本ともその字はない。【延佳は例のさかしらで加えたものだろう。】このことは上で述べた。○大命(おおみこと)(詔命)は、天皇でなければ出せないようだが、この王は後に天皇になったのだから、後のことからこうも言えるだろう。○參出(まいで)は大長谷王の前に、である。○所佩兵(はけるつわもの)は、大刀、弓矢、矛などを言う。○解(ときて)は、結んでいたのを解き、また手に取っていたものを置くのを兼ねて言う。後の文に「亦取2其兵1(またそのつわものをとり)」ともある。○八度拜(やたびおがみ)のことは前【この段】に「四度拜」とあるところで言った。○先日は「さきに」と読む。【「日」の字は読まない。】○所問賜(といたまえる)は、妻に望んだことを言う。後世にも「妻をとう」と言っている。【「訪(とぶら)う」を「問う」と言うのも、言葉の意味は同じである。】○訶良比賣(からひめ)。朝倉の宮の段に「また都夫良意美の娘、韓比賣(からひめ)を召して」とあるのがそうである。○侍は「さもらわん」と読む。「大前に侍うだろう」という意味で、奉ろうということだ。「侍う」という言葉の意味は上巻で言った。【伝十四の四十三葉】○亦副(またそえて)の「亦」の字を諸本に「立」と書いたのは誤りである。ここは真福寺本によった。○屯宅(みやけ)【旧印本、他一本には「屯」の字が脱けている。真福寺本には屯を長(上の二画が脱けている)に誤っている。ここは延佳本によった。】のことは、中巻の日代の宮の段で、倭の屯家のところで言った。【伝廿六の三十六葉】○獻(たてまつらん)。すべて屯家は朝廷の御料の御田に付いた御倉、その役所などのことなのに、ここで自分の物のようにそれを大長谷王に献げるというのは、書紀の仁徳の巻に額田の大仲彦皇子が「倭の屯田、および屯家を掌ろうとして云々」【その文は日代の宮の段で引いた。】のように、都夫良意美がいにしえから掌ってきたのだろう。孝徳の巻に「・・・屯倉百八十一箇所を献げる」【この文も前に引いた。】などもある。副(そ)えて献げるというのは、訶良比賣を献げるのに添えて奉るのである。○註に「五村の屯宅」【「屯」の字は、旧印本に「長(上の画が一本足りない)」、一本、他一本には「長」、真福寺本には「長(上の画が二本足りない)」と書いているが、みな誤りである。ここは延佳本による。】これは本文のように「五處」とあるべきところに「五村」とあるのは、次にある五村から紛れて写し誤ったのだろう。【師は村の字を「處」に改めた。】「いつところの」と読むべきだ。○葛城之五村苑人也【「苑」の字は旧印本また一本には?(學の下の子を宛の下に置き換えた字)とある。ここは真福寺本、延佳本によった。】「苑人」は御苑に使われていた民である。職員令に「園池司は正(かみ)一人、諸苑の蔬菜、樹菓等を植えることを掌る。佑一人、令史一人、使部六人、直丁一人、園戸」とある園戸すなわち苑人で、家が園池司に属している。これは葛城にあって、苑人の家五村である。それはもと屯家だったのが、後にその民が苑人だったのだ。和名抄に「大和国忍海郡、園人郷」があり、これがこの五村のところだろう。【忍海郷は葛城上下郡の間にあって、葛城の内である。新撰姓氏録の大和国諸蕃に「園人首」があるのも、この地から出た姓だろう。】○正身(むざね)は前に出た。【伝廿八の二十六葉】その本人ということで、訶良比賣のことを言う。○「所=以3不2參向1者(まいでこざるゆえは)」とは、訶良比賣は上げよう。しかしその本人が今ここに出て来ないのはこれこれの理由によるのだから、私の手から上げるわけには行かない。私の死んだ後に自分で娶りなさいということだ。○臣連(おみむらじ)。臣は「おみ」で、【後の世に「おん」と読むのは音便で崩れたので正しくない。また「おんのこ」と読むのは「子」というのを添えたのである。】「大身」の意味である。【朝倉の宮の段に葛城の神が現れたのを「うつしおみ」とあるのも「現身」で、言は同じ。】これは朝廷に仕えている人をはたから尊んで言う名である。【朝廷に仕えている人を「臣」の字は書くけれども、君に対して言う「臣」の意味ではない。君に対して言う臣は「やつこ」と言って、書紀などでもそう読んでいる。このことは伝七の八十葉でも言った。ところが「やつこ」と言うのは次第に賎しい者のようになって、後には君臣も「きみやつこ」とは言わず、「きみおみ」と読むようになった。】氏々の尸の「臣」もこれである。「連」のことは上巻で言った。【伝六の六十八葉】「臣連」と連ねて言うのは、およそ諸々の氏々の中でも、臣と連は都に近く住んで、殊に近しく朝廷に仕える人を言う。だからいにしえに、仕える人を都・鄙を総合して広く言うときは、臣・連・伴造・国造と言う。【伴造・国造のことは、伝七の八十葉以降に言った。】諸国までに及ばないときには臣・連と言う。書紀の雄略の巻から持統の巻まで、巻々に多く見える。【上代の巻々にはこの名が見えないのは、漢ざまに改めて書かれたのである。群卿、百僚、公卿、大夫などとあるのは、みな漢文で、皇朝のいにしえの名ではない。】推古の巻に「天皇記および国記、臣連、伴造、国造、百八十部ならびに公民等の本記」とあり、孝徳の巻に即位の儀を記されたところに、「百官、臣・連・国造・伴造・百八十部が連なって拝んだ」とある。○王(みこ)。いにしえは皇子から諸王まで通じて「みこ」と言って、「王」の字を書いた。【すべていにしえは遠祖まで「おや」と言い、子孫の末々まで通わせて「こ」と言った。だから天皇の子孫も最後まで「御子」と言う。それを後に「親王」という名が出来てからは、「みこ」とは親王のことで、諸王を「おおきみ」と言って「みこ」とは言わないことになった。】天皇をはじめ、皇子、諸王まで「大君」と言って、「王」の字を「おおきみ」と読んだ。【しかしいにしえはその名に付けて「王」と言う時は、「みこ」とだけ言って、「おおきみ」とは言わなかった。ところが後には親王を「みこ」と言うのと別に、もっぱら諸王だけを「王」と言ってそれを「某のおおきみ」と言い、親王と分けるようになった。そもそも「おおきみ」とは天皇をはじめとして言う名であって、特に尊いのが、後には諸王だけの名のようになった。】そんなわけで、「大君」は【諸王に至るまで】みな君の列で、臣の列ではない。【これは異国と大いに異なる。それが後には天皇だけを「君」として、皇太子をはじめとして自ら「臣」と名乗るようになったのは、漢制にうつったのである。いにしえには皇太子はもちろん、諸王といえども臣と名乗る事はなかった。】王(みこ)と臣は君臣の差別があって混じることはなく、万事に尊卑の違いがあった。【それを諸々のことが漢制になって行くままに、次第に臣の家の権威が高くなり、いにしえの君臣の分け隔ては消え失せて、臣が尊く、諸王は威勢がなくて賎しい者になった。だが後々まで「諸王諸臣」と連ねて言うことがあるのは、いにしえの区別が名だけ残っているのである。】目弱王は、皇子の御子だけれども、やはり君の列だから、臣連に対して言っているのである。○隱は「こもる」と読む。上巻に「見て恐れ、天石屋戸を閉ざして刺し籠もった」、書紀の舒明の巻に「・・・于泥備椰摩、虚多智于須家苔、多能彌介茂、氣菟能和區呉能、虚茂邏勢利祁牟(うねびやま、こたちうすけど、たのみかも、けつのわくごの、こもらせりけん)」とある。○王子(みこ)。記中「王」と書いたのも「王子」と書いたのも同じことである。○臣之家(やつこのいえ)。この「臣」は前の臣連と同じだろうから、「おみ」と読むべきだが。臣連の一つを省いて臣とだけ言うのはどうかと思われるので、【あるいは「之」の字は「連」の誤りか。「王宮」には「之」の字はない。】君臣(きみやつこ)の臣か、【いずれでも意味が違うことはない。】しばらく「やつこ」と読んでおく。王には「宮」と言い、臣には「家」と言うのは、これもまたいにしえからの差別だろう。【今の世でも「宮」と言うのは親王、皇子等に限って、臣には言わないのは、いにしえの意が残っているのだ。】○隱於(こもる)。【旧印本、また一本には「於」の字がない。ここは真福寺本、延佳本によった。また真福寺本には「臣之」の「之」がない。】王が臣の家に隠ったのは、輕太子が大前小前宿禰の家に逃げ入ったのを穴穗御子が討ったことと、都夫良意美の家のことと、状況がよく似ている上、時代も同じで近く、この「臣連隱1レ於2王宮1云々」の言葉は、そのとき大前宿禰の言った言葉が、伝えで混同されたのではないか。○是以思(ここをもておもうに)は、臣連が王の宮を頼りに隠れることがあるのは、王は尊くて、仕える人も多く、勢いが強いからである。王が臣連の家を頼りにして隠れる殊がないのは、臣連は賎しく、仕える人も少なく勢いが小さいからである。これを考えれば、という意味だろう。○賤奴は単に「やつこ」と読む。君臣の臣の意味である。このことは白檮原の宮の段に「賤奴(やつこ)」とあるところ【伝十八の三十六葉】で言った。書紀の舒明の巻に「賤臣(やつこ)」とあるのも、臣の意味である。【漢文のように卑下して「賎しい」と言ったのではない。】続日本紀廿五の詔に「王乎奴止成止母奴乎王止云止毛、汝乃爲牟末爾末爾(みこをやつことなすともやつこをみこというとも、みましのせんまにまに)云々」、この「奴」も臣の意味だ。【奴婢の意味ではない。いにしえは言葉が同じであれば、字はどのようにでも書いた。】この詔でも、王は君の列で、臣に対し遙かに違いがあることを悟るべきである。【この詔の意味は、極端にあり得ないことを言って、そんなことでも汝の意のままに、ということだ。王と臣の紛れないことはこのようであった。奈良朝の頃は、何事も漢風になっていった時期だけれども、やはりいにしえの意は残っていたのだ。】ここで「賤奴」と言ったのは都夫良意美自身のことで、これも王に対して臣と言ったのである。【漢文で「私」ということをへりくだって「臣」というのとは違う。思い違ってはならない。よく考えなければ紛れるだろう。】○意富美(おおみ)。前に出た。自分でこう名乗る事は珍しい。○「竭レ力(ちからをつくし)」は、漢文めいた言い方だが、「心をつくす」と言うことは古いので、そうも言っただろう。【師は「ちからのかぎり」と読んだ。】○無可勝は「えかちまつらじ」と読む。○己(おのれ)は「我」と言うようなものだ。○隨家。「隨」の字は間違いなく写し誤りだ。【しかし諸本みな同じである。延佳本にだけ「隱」と書いてあるのは、前の文にならって書いた例のさかしらである。ここは「隱」ではなおさら分からない。】師は「賤」の誤りとした。それも【字の形も遠いから】どうかは分からないが、理屈は通っているので、取りあえず従って「やつこのいえ」と読んでおく。「賤」と「臣」の意味だ。【ただ自らへりくだって言う「臣」ではない。自分のことは既に「己」と言っている。】王が臣である者の家に入ったことである。【上に「未レ聞3王子隱2於臣之家1」とあるのを合わせ考えよ。通例になく臣の家を頼りにして入ったことを憐れんだのである。】○王子(みこ)は目弱王を指す。○死而は、【「而」の字はない本もある。ここは真福寺本、延佳本によった。】「いのちしぬとも」と読む。死ぬことをこう言った例は、書紀の雄略の巻に「伊能致志儺麿志(いのちしなまし)」と見え、万葉にも見える。○「取2其兵1(そのつわものをとりて)」は、上に「解2所レ佩兵1」とあるのを再び身に付けたのだ。○力窮は「ちからつき」と読む。上で力を尽くしと言ったのと合っている。○矢盡は「やもつきぬれば」と読む。○手悉傷は、師が「いたておいぬ」と読んだのに従う。【「手」の字を書いてあるが、「手負い」という言葉によるのである。】白檮原の宮の段に「負2賤奴之痛手1(やつこがいたてをなもおいつる)」、訶志比の宮の段にも「伊多弖淤波受波(いたておわずは)」とある。○無可爲は師が「せんすべなし」と読んだのに従う。この言葉は万葉に多い。○死也(みうせにき)。「也」の字は諸本にない。ここは真福寺本によった。○書紀雄略の巻の初めに、「・・天皇は使いを出してこれを乞うた。大臣は使いを出して『多分人臣が王室に逃げ入ることはあるだろうが、王が臣の家に逃げ入ったことはまだ見ません。坂合の黒彦皇子と眉輪王は深く臣の心を頼って家に逃げ込んできました。どうして送り出すことが出来ましょうか』と言った。天皇はまた兵を興して大臣の家を囲み・・・大臣は装束して軍門の前に進み出、跪拝して『臣は殺されても言うことを聞きません。・・・大王は臣の娘、韓媛と葛城の家の七區を納め、罪の贖いとしてください』。天皇は許さずその家に火を付けて焼いた。大臣は黒彦皇子と眉輪王とともに焼け死んだ。阪合部連贅(にえ)宿禰は皇子の屍を抱いて焼け死んだ。その舎人が遺骸を取り出してみたら、(全部が一つで)区別が付かなかった。それで一つの棺に合わせて、擬本(つきもと)の南の丘に葬った。【擬の字は未詳。多分「槻」だろう。】」とある。【「使いを出してこれを乞う」とは、使いを遣わして目弱王の身柄を要求したのである。韓比賣のことも、この記の伝えと少し違う。】

 

自レ茲以後。淡海之佐佐紀山君之祖名韓フクロ(代の下に巾)白。淡海之久多<此二字以レ音>綿之蚊屋野。多在2猪鹿1。其立足者。如2荻原1。指擧角者。如2枯樹1。此時相=率2市邊之忍齒王1。幸=行2淡海1。到2其野1者。各異作2假宮1而。宿。爾明旦。未2日出1之時。忍齒王。以2平心1。隨レ乘2御馬1。到=立2大長谷王假宮之傍1而。詔2其大長谷王子之御伴人1。未2寤坐1。早可レ白也。夜既曙訖。可レ幸2獵庭1。乃進レ馬出行。爾侍2其大長谷王之御所1人等白。宇多弖物云王子<宇多弖三字以音>故。應レ愼。亦宜レ堅2御身1。即衣中服レ甲。取=佩2弓矢1。乘レ馬出行。倏(左のつくりの下の犬を火に置き換えた字)忽之間自レ馬往雙。拔レ矢。射=落2其忍齒王1。乃亦切2其身1。入レ於2馬シュク(木+宿)1。與レ土等埋。

 

訓読:これよりのち、オウミのササキヤマのキミのおやナはカラフクロもうさく、「オウミのクタ、ワタノカヤヌに、シシおおかり。そのたてるあしは、ススキハラのごとく、ささげるつぬは、カラキのごとし」ともうしき。このときイチノベのオシハのミコをあいいざないて、オウミにいでまして、そのヌにいたりませば、おのもおのもことにカリミヤをつくりて、やどりましき。かれつとめて、いまだヒもいでぬとに、オシハのミコ、なにのみこころもなく、ミマにのらしながら、オオハツセのミコのカリミヤのへにゆきたたして、そのオオハツセのミコのみともびとにのりたまわく、「いまださめまさぬにこそ。はやくもうすべし。よはすでにあけぬ。カリにはいでますべし」とのりたまいて、すなわちミマをすすめていでましぬ。ここにオオハツセのミコのみもとにさもらうひとども、「うたてものいうミコなれば、みこころしたまえ。ミみをもかためたまうべし」ともうしき。かれミソのうちにヨロイをきまし、ユミヤをとりはかして、ミマにのらしていでまして、たちまちにウマよりゆきならばして、ヤをぬき、そのオシハのミコをいおとして、すなわちまたそのミみをもきりて、ウマブネにいれて、つちとひとしくうずみき。

 

口語訳:これより後、淡海の佐佐紀山の君の祖、韓フクロ(代の下に巾)が「淡海の久多綿之蚊屋野には、猪鹿がたくさんおります。その立って歩く足は薄の原のようで、その角は枯れ木のようです」と言った。そこで市邊の忍齒王を誘って、淡海へ行った。その野に着くと、めいめい別に仮宮を造って宿った。明くる朝、まだ日も出ないうちに、忍齒王は特に何の意図もなく、馬に乗って大長谷王の仮宮のそばへ行き、大長谷王の伴人に「まだ覚めないか。早く言え。夜は明けた。狩に出かけるぞ」と言って、馬を進めて出て行った。大長谷王の御所にいた人々は、「くちうるさい王子だ。気を付けなされ。身を固めて行かれるのがよろしいでしょう」と言った。そこで衣の中に鎧を着け、弓矢を取って、馬で出かけた。すぐに追い付いて馬を並べ、矢を抜いて忍齒王を射落とした。また身を切り刻んで、馬槽に入れて、平らな土のところに埋めた。

 

淡海(おうみ)。前に出た。○佐佐紀山君(ささきのやまのきみ)は、書紀の允恭の巻に「大彦命は阿倍臣、膳臣、阿閇臣、狹々山君・・・すべて七族の始祖である」とある。この記には、大毘古命の末は、阿倍臣だけを挙げている。新撰姓氏録には【左京皇別】「佐々貴山君は、阿倍朝臣と同祖」【摂津の皇別にもこの姓があって、同じようにある。】と見える。延喜式神名帳に「近江国蒲生郡、沙々貴神社」がある。【この社は安土、観音寺山などに近いところである。ある書にいわく、「佐々木神社の祭神は四座で、第一に少彦名命、第二に大鷦鷯尊、第三に狹々城山君、これは大彦命である。第四に宇多の皇子、敦賀親王である」と言っているのはどうだろうか。少彦名命と言うのは、神代紀に「この神は鷦鷯の羽を衣として」とあるのによっての付会か、大鷦鷯尊という名による付会だろう。後の世に宇多源氏の佐々木族は、この地から出たので、敦賀親王はその族が出た後に合わせ祭ったのだろう。】和名抄に「同郡、篠笥(ささげ)郷」があるのはこの地だろう。この氏はこの地に住んでいた山の君である。山君という姓は、中巻の玉垣の宮の段に小月之山君、春日山君などがあるところに言った。考え合わせよ。【伝廿四の廿三葉、廿四葉】また明の宮の段の山部、山守部のところも考えるべきだ。【伝卅三の十四葉、十五葉】書紀の顕宗の巻に「元年五月、狹々城山君、韓フクロ宿禰は、皇子押磐を殺すことを謀ったのに連座して、殺されることになったが、死に臨んで叩頭して言う言葉が極めて哀切だった。天皇は殺すに忍びず、陵戸に当てて守山(やまもり)を兼ねさせた。そこで籍を除き、山部連に隷属させた。ここで倭フクロ宿禰(やまとふくろのすくね)は妹置目(おきめ)の功績によって、本の姓の狹々城山君氏を与えられた」とあり、この記のその段にも、「韓フクロの子にその御陵を守らせた」とある。【とすると韓フクロは、顕宗天皇の御世に至って、佐々紀山君の姓を削られ、陵戸に当てられて山部連に属したのである。守山を兼ねさせたのは、もともと山の君だったからだ。同氏の倭フクロは本のように姓を与えられた。それを私は以前、「この姓は顕宗の巻のことで、韓フクロから始まって、佐々紀は陵の意味で、忍齒王の陵を守ったことによる。山の君は『守山を兼ねさせた』とあるのがそうだ。近江に佐佐紀という地名があるのは、この氏人の住んだところだろう」と考えたのは違っていた。というのは、小月山君も春日山君も、みなその地に住んでいる山の君だから、ここもそうで、かの顕宗の巻に倭フクロにこの姓を与えたのを本姓とあるから、この姓は本からの姓だろう。】続日本紀にこの氏人で蒲生郡司である者も、そうでない者もしばしば見え、【文徳実録にも見え、】三代実録卅二にも「近江国蒲生郡の大領、外正六位上、佐々貴山公是野(これの)に、外従五位下を授けた。米二千斛、穀三千斛を出して国の用を助けたからである」と見える。みな倭フクロの子孫だろう。【後のこの氏の人が倭フクロの子孫であったら、ここで韓フクロをこの氏の祖としたのはどうかと思う人もあるだろうか。某氏の先祖の兄弟姉妹も「祖」という例である。】倭フクロのことは近つ飛鳥の宮の段で言う。○韓フクロ(からふくろ)。書紀の顕宗の巻に、同氏倭フクロ宿禰もある。ともにどういう由縁の名か、考えつかない。○白(もうす)は、大長谷王に言ったのだ。○久多(くた)は定かでない。○綿(わた)は定かでない。【尾張国には延喜式神名帳に、「中嶋郡、久多神社」、「山田郡、綿神社」がある。】○蚊屋野(かやぬ)。定かでない。【愛智郡に蚊野郷はある。】こうして地名を三つ重ねて言うのはどうかと思われるので、久多と綿之蚊屋野と二箇所だろうか。【そうならば、この二箇所を言ったうち、まず蚊屋野で猟をしたのだ。】なおこの地のことは、近つ飛鳥の宮の段で言う。考え合わせよ。【伝四十三の五十四葉】○猪鹿は、師が「しし」と読んだのが良い。朝倉の宮の段の歌に「志斯布須(ししふす)」、また「斯志麻都(ししまつ)」などがある。猟に関しては、猪も鹿も「しし」と言うのが通例だ。その歌のところで言う。【伝四十一の四十八葉】○荻は「すすき」と読む。書紀神功の巻に「幡荻(はたすすき)」、仁徳の巻に「茅荻(ちすすき)」などがあるからである。【「荻」の字は、万葉でも「おぎ」に用い、後世にもそうだが、いにしえは草木などの字は、定まったことがなく、書く人の心によって変わることが多かった、書紀の上記の「荻」は間違いなく「すすき」だから、ここもそうだろう。】また考えるに、ここを書紀には「弱木林(しもとはら)」とあり、景行の巻にも「・・・欺いていわく、『この野には麋鹿(しし)が多い。吐く息は朝霧のようで、葦は茂林(しもとはら)のようである。出て狩をしなさい』」とある。ここの「荻」の字も真福寺本には、「莪」とある。とすると「茂原(しもとはら)」を写し誤ったのでもあるだろう。【「しもと」は師の説に「茂本(しげもと)」で、「本(もと)」とは木を言う。】猪鹿の立つ足を喩えるには、「荻(すすき)」より「弱木(しもと)」の方が似つかわしく聞こえる。こう喩えたのは「多い」ということだ。○指擧は「ささげたる」と読む。書紀の顕宗の巻の「室壽(むろほぎ)」の詞に「牡鹿之角擧而(さおしかのつぬささげて)」とある。○枯樹は、【「樹」の字は、真福寺本また一本、また一本には「松」と書いてある。】「からき」と読む。書紀でもそう読んでいる。【いにしえには「枯」を「から」と言うことが多かった、「加良賀志多紀(からがしたき)」、「枯山(からやま)」、「枯野(からぬ)」等のたぐいだ。】この譬えは、一本の木の上に枝がたくさん立っているのを言う。書紀には「枯樹末(からきのえだ)」とある。○市邊之忍齒王(いちのべのおしはのみこ)。前に出た。【伝卅八の四葉】○相率は「あいいざないて」と読む。○其野(そのぬ)は、蚊屋野である。○各(おのもおのも)は、忍齒王と大長谷王である。○明旦は「つとめて」と読む。【書紀ではこの字を「くるつあした」と読んでいるが、ここはそう読んではいけない。】前夜のことを言って、その明くる朝のことを「つとめて云々」という例だ。【ここも前に「宿(やどります)」と言うのは前夜のことだから、その翌朝である。】○未日出之時(いまだひもいでぬとに)。この「時」は「とに」と読む。書紀の継体の巻の歌に「于魔伊禰矢度爾(イ+爾)(うまいねしとに)」、万葉巻十【六丁】(1822)に「夜之不深刀爾(よのふけぬとに)」、巻十五【卅三丁(3747)、卅四丁(3748)】に「古非之奈奴刀爾(こいしなんとに)」、巻十九【十四丁】(4163)に「左欲布氣奴刀爾(さよふけんとに)」、巻廿【三十三丁】(4395)に「和我可敝流刀禰(わがかえるとね)」などがある。【これらの「と」を「時」の略だと考えるのは間違いだ。これは俗に夜の更けないうちになどと言う「うちに」と同意で、「外に」である。それを俗に「内」と言うのは、こちらを内にし、そちらを外にして言う言葉だ。「外に」というのは、そちらを内にし、こちらを外にして言う言葉で、意味は同じだ。「行く」を「来る」というのも意味が通じるようなものだ。ここは日が出た後を内にして、まだ日が出ない時を外というのである。】○以平心は、【「心」の字を「止」と書いた本は誤りである。ここは真福寺本、延佳本によった。】「なにのみこころもなく」と読む。【師は「うらもなく」と読んだ。それも意味は同じだが、ここには合わない。】何心もなく、ということだ。○傍は「へ」と読む。○到立は「ゆきたたして」と読む、朝倉の宮の段に「行=立2其山之坂上1(そのやまのさかのうえにゆきたたして)」とある。○御伴人(みともびと)。書紀に從(ともびと)、從人(ともびと)、ケン(イ+兼)人(ともびと)などがある。○未寤坐は「いまださめまさぬにこそ」と読む。【師は「いまだおどろきまさぬよ」と読んだが、どうだろう。】大長谷王のことを言ったのである。既に覚めておれば、早く出立すべきなのに、そうでないのは、未だ覚めないからだろうか、という意味だ。○「早可レ白也(はやくもうすべし)」は、私がこう言って出かけたと大長谷王に言えということだ。○曙訖は「あけぬ」と読む。○獵庭(かりにわ)は猟場である。【「某場」という「場(にわ)」を中昔以降は「ば」と言うが、それは「にわ」が音便で崩れたのである。「大庭(おおにわ)」、「馬場(うまにわ)」、「獵場(かりにわ)」のたぐいは、みな「にわ」と言った。】○「乃進レ馬(すなわちうまをすすめて)云々」は、上のように言い捨てて。自分は一人先立って出たのである。○宇多弖物云王子(うたてものいうみこ)とは忍齒王のことを言ったので、大長谷王に物を言ったのである。「宇多弖(うたて)」のことは、上巻に「惡態不止而轉(あしきわざやまずてうたてなり)」とあるところ【伝八の十一葉】で言った。「物言う」というのは古言である。中巻の玉垣の宮の段にも見えて、例はそこで言った。【伝廿五の十一葉】このとき忍齒王の言ったこの言葉を考えると、さほど咎めるような節もないのに、こう言ったのはどういうことか。【上に「以平心」とあるから、異心は全くなかった。しかし大長谷王がまだ覚めないのを、遅いと思って心が急くままに、自然と顔色や声の調子が変わり、「うたて」ある状態に見えたのだろうか。】○應愼は「みこころしたまえ」と読む。○衣中(みそのうちに)は大長谷王の出で立ちである。○甲(よろい)は明の宮の段にも「衣の中に鎧を着け」、また「衣中甲」などがある。【伝卅三の五十九葉】○倏(左のつくりの下の犬を火に置き換えた字)忽之間は「たちまちに」と読む。中巻白檮原の宮の段に「倏(左のつくりの下の犬を火に置き換えた字)忽(にわかに)」とあるところで言った。【伝十八の四十七葉】○「自レ馬(うまより)」【「自」の字は、諸本で「白」に誤っている。ここは真福寺本、延佳本によった。】「自」は「歩(かち)より行く」、「舟より行く」などと言う「自」で、馬に乗って行ったのである。万葉巻十三【二十五丁】(3314)に「人都末乃馬從行爾、己夫之、歩從行者(ひとつまのうまよりゆくに、おのつまの、かちよりゆけば)」とある。○往雙(ゆきならばして)は、忍齒王が馬に乗って立っているところへ追い付いて同じように並んだのだ。【隙間なく近く並んだのではない。矢を射るのだから、少し間はあるはずだ。】○「拔レ矢(やをぬきて)」は、佩用している靫にあるのを取り出してである。○馬シュク(木+宿)は「うまふね」と読む。「シュク」の字は、玉篇に「シュクは櫪である。馬を養う器である」と言っている。和名抄の鞍馬具に「唐韻にいわく、槽は馬槽である。和名は舟と同じ」【「和名は舟と同じ」の文字は、古い写本には「馬舟である」とある。説文に「槽は蓄獣の食器」とある。】また「唐韻にいわく、櫪は馬櫪である。和名『しきいた』」とあるから、「シュク」は「しきいた」と読むようだが、やはりそうではない。【まずシュクが櫪であることは玉篇で分かるだろう。和名抄によれば、櫪は馬を立たせておく下の板だから、「ふね」とは言い難いようだが、ここは屍を入れて埋めたというのだから、板でないことは明白だ。玉篇邇之「馬を養う器」とあるから、板ではないだろう。板だったら器とは言えない。とすると櫪にも色々ある中に、和名抄で「しきいた」と書いたのは、板であるものについて言い、ここに行ったのは槽の形につくったものだろう。それならその槽の形のものは馬舟と言うべきで、「しきいた」とは言えないからである。】○入(いれ)は忍齒王の屍をである。○「與レ土等(つちとひとしく)」とは、【王を葬るときには、高い山を築いて、その中に葬るのだが、これは少しも地を築き上げることなく、穴を掘って平地と等しい高さに埋めたのを言う。「土」は「地」の意味である。○書紀の雄略の巻の初めに「冬十月、天皇は穴穗天皇がかつて市邊押磐皇子に世を継がせようと後のことを仰せ付けたことを恨んで、人を遣わして市邊押磐皇子に偽って狩に誘って、『近江の狹々城山君、韓フクロが今近江の來田綿の蚊屋野には猪鹿が多い、ささげる角は枯樹の末のようで、集まった足は弱本林のよう、吐く息は朝霧のようですと言う。皇子、孟冬(かんなづき)の作陰(すず)しい頃、狩りをして野遊びしよう』と言わせた。市邊押磐皇子は誘いに乗って出かけた。ここで大泊瀬天皇は弓を構えて、『猪がいた』と叫んで市邊押磐皇子を射殺した。皇子の帳内(とねり)、佐伯部の賣輪(うるわ)は屍を抱き、あわてて何をすることも出来なかった。転び呼び叫んで、頭と足の間を行き来した。天皇はみな殺した。この月、御馬(みま)皇子は以前から三輪君の身狹(むさ)と親しかったので、交わりを結ぼうとして出かけた。ところが三輪の磐井のあたりで不意に軍勢に出会い、反撃した。ほどなく捕らえられ、殺されるとき、井を指して詛って、『この水は百姓だけが飲む。王者は飲むことが出来ない』と言った」とある。【御馬皇子は、忍齒王の同母弟である。】忍齒王を殺した理由が、この記とは伝えが異なる。

 

於レ是市邊王之王子等。意富祁王袁祁王。<二柱。>聞2此亂1而。逃去。故到2山代苅羽井1。食2御粮1之時。面黥老人來。奪2其粮1。爾其二王言。不レ惜レ粮然。汝者誰人答曰。我者山代之猪甘也。故逃=渡2玖須婆之河1。至2針間國1。入2其國人名志自牟之家1。隱レ身。役(イ+殳)レ於2馬甘牛甘1也。

 

訓読:ここにイチベのオシハのミコのミコ、オオケのミコ・オケのミコ、<ふたばしら>このみだれをきかして、にげさりましき。かれヤマシロのカリハイにいたりまして、ミカレイきこしめすときに、メさけるオキナきて、そのミカレイをとりき。かれそのふたばしらのミコ、「カレイはおしまぬを、いましはたれぞ」とのりたまえば、「アはヤマシロのイカイなり」ともうしき。かれクスバのカワににげわたりて、ハリマのくににいたりまし、そのくにびとナはシジムがいえにいりまして、みをかくして、ウマカイ・ウシカイにぞつかわえける。

 

口語訳:市邊王の王子ら、意富祁王・袁祁王<二人>は、この乱を聞くと、逃げ去った。山代の苅羽井に着くと、食事を取ろうとした。すると顔に入れ墨のある老人がやって来て、彼らの旅の食糧を奪った。二人の王子は「食糧は惜しまないが、あなたは誰だ」と聞くと、「わしは山代の猪飼だ」と答えた。更に逃げて玖須婆の川を逃げ渡り、針間の国に到ると、その国の人で名を志自牟という者の家に入り、身を隠して、馬飼・牛飼として使われた。

 

意富祁王(おおけのみこ)。【諸本に「富」の字がない。真福寺本にもここにはこの字がないが、下に二箇所にこの字がある。だから本はあったのを後人が書紀によってさかしらに除いたものだろう。真福寺本にないところがあるのは、脱けたものか。】袁祁王(おけのみこ)。書紀には億計尊(おけのみこと)・弘計尊(おけのみこと)とある。「億」はすなわち「意富」である。「意」とだけあっても「大」の意味で、「お」に対していった例は伊邪河の宮の段に「意祁都比賣命(おけつひめのみこと)」、「袁祁都比賣命(をけつひめのみこと)」【これも姉妹の名である。】などがある。【いにしえは、「お」と「を」の発音が違ったので、このようになる。後世「お」と「を」が同じ音になった今の世の心で疑うべきでない。これらのなからしても、いにしえに「お」と「を」の音が異なっていたことは分かるだろう。】名の意味は大笥、小笥か。書紀の顕宗の巻にいわく、「弘計天皇は大兄去來穗別天皇の孫である。市邊押磐皇子の子である。母をハエ(くさかんむりに夷)媛という。細書にいわく、これを『はえ』という。譜第にいわく、市邊押磐皇子は蟻臣(ありのおみ)の娘ハエ媛を娶って、三男二女を生んだ。その第一に居夏姫(いなつひめ)という。二に億計王またの名は嶋稚子(しまのわくご)、またの名は大石尊という。その三は弘計王、またの名は來目稚子(くまえのわくご)・・・蟻臣は葦田宿禰の子である」。仁賢の巻に「億計天皇、諱は大脚(おおし)、字(あざな)は嶋郎(しまのわくご)、弘計天皇の同母兄である。細書にいわく、またの名は大爲(おおし)。他の天皇には諱を書かない。この天皇に至って、一人だけ書くのは、旧本によっただけである」とある。【「大脚」、「大爲」、「大石」は字が変わるだけで、みな同じ「おおし」である。また嶋稚子と嶋郎も同じだ、「郎」の字は「わくご」と読む。大脚も嶋郎も単にまたの名なのだが、諱といい字(あざな)と言っているのは、漢風に書いただけである。いにしえにはないことだ。袁祁王のまたの名が來目稚子とあるが、万葉巻三(307)に「皮爲酢寸久米能若子我伊座家留三穗乃石室者雖見不飽鴨(はたすすきくめのわくごがいましけるみほのいわやはみれどあかぬかも)」とある「皮すすき」は、「三穗」に係る枕詞である。この歌は端書によると紀伊国である。ところが袁祁王は紀伊にいたことが出ていないので、この「久米の若子」は、別人ではないかとも思われるが、やはりこの御子であろうか。播磨より前に紀の国にいたことがあるのが、二記にはそのことが漏れたのではないか。なお定かでない。また同巻(434)に、「風早の美保の浦廻の白つゝじ見れども不怜(さぶし)なき人思へば、見津々々四久米能若子我伊觸家武礒之草根乃干巻惜裳(みつみつしくめのわくごがいふりけんいそのくさねのかれまくおしも)」、これも紀国の三穂の石屋当たりの海辺で詠んだものだろう。端書きは乱れた誤りである。万葉の同巻に「生石村の主、眞人の歌、大汝小彦名乃將座志都乃石室者幾代將經(おおなむじすくなびこなのいましけるしつのいわやはいくよへにけん)」とあり、ある説に「この志都の石室は、今播磨国にある石の宝殿というもので、その前に社があって生石子(おうしこ)と言う」と言っている。この説について私が以前考えたのは、かの「三穗の石室」の歌と、この「志都の石室」の歌とは、互いに末の句が入れ違ったもので、久米の若子がいたのは、播磨の志都の石屋だろう。生石子と言うのも、兄王の「大石」という名に由縁がある。と思ったのは誤りであろう。かの「石の宝殿」というものを「志都の石室」というのももともと違う、それは人が入れるようなものではない。】袁祁王はこの記のこの命の段には、「袁祁之石巣別命(おけのいわすわけのみこと)」とある。○「聞2此亂1(このみだれをきかして)」は、近江国での乱を聞いたのである。○逃去(にげさり)。書紀によると、御馬王までが殺されたので、この二人の御子たちも尋ねられることになるだろうから、いち早く逃げ出したのである。○苅羽井は、延喜式神名帳に「山城国綴喜郡、樺井月(かにばいのつき)神社」、【続日本紀、続日本後紀、三代実録、臨時祭式などには単に「樺井神社」とある。】万葉巻廿【四十八丁】(4456)に「・・・山背國から・・・報贈の歌、麻須良乎等、於毛敝流母能乎、多知波吉弖、可爾波乃多爲爾、世理曾都美家流(ますらおと、おもえるものを、たちはきて、かにはのために、せりぞつみける)」、雑式に「およそ山城国樺井の渡瀬は云々」とあるのなどがそうだ。【「かりは」を後に「かには」と言ったのだ。今は「かばい」と言っている。伊邪河の宮の段に見える人名の「苅幡(かりはた)」も同国相楽郡である。それも和名抄には「蟹幡」とあって「かむはた」と注されている。今は「かばた」と言う。その苅幡と苅羽井とは隣郡だから、もとは一つのところだったかも知れない。地理をよく尋ねて考えるべきだ。俊成五社百首(105)に「俊成卿、しづのめが加婆多(かばた)の原につむ芹もたがためにとて袖ぬらすらむ」、これはかの万葉の歌によって芹を詠んだものだが、「加婆多」とあるのは少し勘違いである。「カハタ」と「かには」、「かばた」が同じためだろうか。】○食御粮之時【多くの本に「時」の字がない。ここは真福寺本、延佳本によった。】は、師が「みかれいきこしめすときに」と読んだのが良い。中巻の倭建命の段にも「足柄の坂本に到って御粮(みかれい)食(きこしめす)ところ云々」とある。「粮」のことはそこで言った。【伝廿七の七十七葉】○面黥老人は、【諸本に「人」の字を「入」と書いたのは良くない。ここは真福寺本によった。】「めさけるおきな」と師が読んだのに従う。中巻の白檮原の宮の段に、「黥利目(さけるとめ)」、また歌に「那杼佐祁流斗米(などさけるとめ)」とある。黥のことはそのところを考え合わせよ。【伝廿の廿七葉】書紀の履中の巻に「阿曇連濱子(はまこ)に・・・しかし大恩を発して、死を免れさせ、墨をいれた。目に黥をしたので、当時の人々は阿曇目といった」、また「天皇は淡路嶋で狩りをした。この日、河内の飼(うまかい)部らは、駕に従って、轡を取った。これより前、飼部らの黥(めさきのきず)がまだ癒えていなかった。すると嶋にいた伊弉諾神が祝(ほふり)に託かって、『血が臭くて叶わん』と言った。そこで卜うと、『飼部らの黥の気がたまらん』と出た。そこでこれより後は、飼部の黥を止めた」、雄略の巻に「鳥官(とりのつかさ)の鳥が菟田の人の犬に食い殺された。天皇は怒って、面を黥(きざ)んで鳥養部(とりかいべ)とした」とある。【黥の刑は上代からあったのか、または上記の履中紀に「当時の人々は阿曇目と言った」とあるから、この時から始まったのかとも思われるのは、どういうことだろうか。同じその時に飼部の黥をやめたのは、馬飼部に限ったことだろう。ここの猪甘、雄略紀の鳥養部など、まだあるからである。ここの猪甘、上記の履中紀、雄略紀などを合わせ考えると、「黥者」をみな「某の飼部」とされたと見える。ただし諸飼部がみな黥者ばかりではなかっただろう。「黥」を「面黥」とも書き、「ひたいきざむ」とも「めさく」とも言うが、「面」と言い、「額」と言い、「目」と言うのは、みな同じことである。また「めさく」と言うのも、実際に目を裂くのではない。目の辺りを刻んだのである。】この老人のことは、また遠つ飛鳥の宮の段に出ている。○不惜粮然は、「かれいはおしまぬを」と読む。【「然」の字は、粮を惜しんで言うのではないが、という意味で書いたのである。「を」というところにその意味はある。雅語ではこういうところは「を」と言うのが通例だ。】○猪甘(いかい)。「甘」は養うのである。【「養」に「甘」の字を書くことは、中巻の玉垣の宮の段、鳥甘部のところ、伝廿五の卅九葉で言った。】いにしえは身分の高い者も低い者も獣肉を食っていたから、そのために猪も飼っていたのだ。【中昔以降は獣肉を食うことがなくなったから、猪と言えば野生の猪だけで、それは漢国で「野猪」と言う、崇峻紀には「山猪」とある。人の家で飼っている猪は「豕(いのこ)」で、俗に「ぶた」と言う「テイ(けいがしらに比の間に矢)」も同じものだ。豕を「いのこ」と言うのは単に猪という意味で、鹿を「かこ」と言い、馬を「こま」と言うのと同じである、猪の子というのではない。猪の子は「豚」の字である。】「赤猪」が上巻に見え、【伝十の十六葉】「白猪」が中巻倭建命の段に見え、【伝廿八の二十四葉】「偉能古(いのこ)」が書紀の武烈の巻の歌に見える。【これも単に猪である。猪の子ではない。】猪を飼っていたのは、続日本紀十一の「天平四年七月、畿内の百姓に詔して、猪四十頭を山野に放ち、命を全うさせた」とあるのでも分かる。書紀の天智の巻に「猪槽(いかうふね)」が見え、仁徳の巻に「猪甘津(いかいづ)」という地名も見え、【この地は摂津国東生郡である。】新撰姓氏録に「猪甘首」という姓も見える。「猪甘」というのは、公の猪を飼う職業である。【個人的にこれを業としているのではない。】山代の国に猪を飼っておく牧(き)等があって、それに仕えていたのだろう。○玖須婆之河(くすばのかわ)。中巻の水垣の宮の段に見える。考え合わせよ。【伝廿三の七十八葉】苅羽井を経てここに至るには、いにしえに山代国を経て西国に至る大道で、【この道は今もある。】この渡りを向こう側へ渡れば、摂津国島上郡である。○針間國(はりまのくに)。前に出た。○志自牟は、書紀に「縮見(しじむ)の屯倉の首、忍海部造、細目(ほそめ)」とあり、地名なのをここに「名」とあるのは、そこの屯倉首だったから、自然と名のようにも伝わったのだろう。【後世なら「志自牟殿」というところだ。そう言ったら名のようにも聞こえる。】その地は書紀に「播磨国赤石(あかし)郡」と見え、和名抄には「同国、美嚢(みなぎ)郡、志深【しじみ】郷」とある。【摂津国の有馬から播磨の姫路へ出る「丹生の山田越」というところに、今も志深というところがあると言う。】○馬甘(うまかい)、中巻の息長帯姫命の段に見える。【伝三十の六十一葉】○牛甘(うしかい)。これらは志自牟の家の牛馬を飼う者を言う。【後世の車の牛飼童のたぐいではない。】書紀の天武の巻に「都努(つぬ)臣、牛甘(うしかい)」という人の名も見える。○書紀の顕宗の巻に「穴穗天皇の三年十月、天皇の父市邊押磐皇子、帳内(とねり)佐伯部の仲子(なかつこ)が蚊屋野で大泊瀬天皇に殺され、同じ穴に葬られた。天皇と億計王は、父が射殺されたと聞くと、恐れて逃げ隠れた。帳内の日下部連使主(おみ)はその子、吾田彦とひそかに天皇と億計王を丹波国余社(よさ)郡に逃がした。使主は名を変えて田疾來(たとく)と名乗り、なお殺されるのではないかと播磨国に入り、縮見山の石室に入って、みずから首をくくって死んだ。天皇は使主の行方を知らず、兄億計王に進めて播磨国赤石郡に行き、共に名を変えて丹波少子(たにはのわらわ)として、縮見屯倉の首に仕えた。吾田彦は最後まで離れることなく仕えた」とある。

 



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