本居宣長『古事記伝』(現代語訳)41

 

 

大長谷若建命。坐2長谷朝倉宮1治2天下1也。天皇。娶2大日下王之妹。若日下部王1。<无子。>又娶2都夫良意富美之女。韓比賣1。生御子。白髮命。次妹若帶比賣命。<二柱。>故爲2白髮太子之御名代1。定2白髮部1。又定2長谷部舍人1。又定2河瀬舍人1也。

 

訓読:オオハツセのワカタケのミコト、ハツセのアサクラのミヤにましましてアメノシタしろしめしき。このスメラミコト、オオクサカのミコのいも、ワカクサカベのミコにみあいましき。<ミコましまさず。>またツブラオオミがむすめ、カラヒメをめしてウミませるミコ、シラカのミコト。つぎにワカタラシヒメのミコト。<ふたばしら。>かれシラカのミコのミコトのみなしろとして、シラカベをさだめたまいき。またハツセベのトネリをさだめたまい、またカワセのトネリをさだめたまいき。

 

口語訳:大長谷の若建命は、長谷の朝倉の宮に住んで、天下を治めた。この天皇は大日下王の妹、若日下部王を娶った。<子はない。>また都夫良意富美の娘、韓比賣を娶って生んだ子が白髮命。次に妹の若帶比賣命。<二人である。>白髮太子の御名代として、白髮部を定めた。また長谷部の舍人を定め、河瀬の舍人を定めた。

 

大長谷若建命(おおはつせのわかたけのみこと)。「若建」という名は、ここで初めて出た。○この天皇の後の漢風諡号は、雄略天皇という。○長谷(はつせ)は和名抄に「大和国城上郡、長谷【はつせ】郷」、延喜式神名帳には「同郡、長谷山口神社」もある。遠つ飛鳥の宮の段で、輕太子の歌に「許母理久能波都世能夜麻能(こもりくのはつせのやまの)」、この段に「長谷の山の口」、書紀の継体の巻の歌に「キョ(くさかんむりに呂)母リ(口+利)矩能ハ(たけかんむりに斯)都細能カ(加の下に可)婆ユ(まだれに臾)(こもりくのはつせのかわゆ)」、万葉には巻一(45)に「隱口乃泊瀬山者(こもりくのはつせのやまは)云々」を初めとして、巻々にたいへん多く、後世の歌も多く、古来名高い土地である。名の意味は思い付かない。【あるいはこの川は大和国の中心を流れており、その初めの瀬の意味か。川上はさらに遠いが、国中ではこの地が上流である。これを「長谷」と書くのは地形からであろう。この地名は中昔以来「はせ」とも言う。今の世では専ら「はせ」と言う。】○朝倉宮(あさくらのみや)。書紀に「十一月壬子朔甲子、天皇は有司(役人)に命じて、泊瀬の朝倉に壇を設けさせ、天皇位に就いた。ついに宮を定めた」とある。新撰姓氏録の秦の忌寸の條に「・・・大泊瀬の稚武天皇の御世に・・・諸々の秦氏を使って、八丈の大藏を宮のそばに建て、その貢物を納めた。そこでその地を長谷朝倉の宮と言う。この時初めて大藏の官員を置き、酒で長官とした」とあり、宮の名の理由はこれである。ただし書紀によるときは、もとからの地名のようにも聞こえる。どうだろうか。【「朝倉」という地名は方々にある。中巻の玉垣の宮の段に曙立王に与えた名、「倭者師木登美豊朝倉曙立の王」というのも地名か、別に由縁があるのか。斉明天皇の行宮の名も「朝倉の橘の廣庭の宮」と言った。「朝」というのは何の意味だろうか。かの熊野の高倉下の故事によって言ったのか。さらに考察の必要がある。また和名抄に「校倉は『あせくら』」とあるのは、朝倉が転じたもので、同じではないか。】この大宮は帝王編年記に「城上郡の磐坂谷である」とあり、大和志に「黒崎、岩坂の二村の間にある」と言っている。○大日下王(おおくさかのみこ)。前に出た。○若日下部王(わかくさかべのみこ)【延佳本に「部」の字がないのは、さかしらに除いたものだろう。そのことは前に言った。】も前に出た。【伝卅五の八葉】安康天皇が大日下王のもとへ根の臣を遣わして、この天皇のためにこの女王を呼んだことは、その段に見える。【伝四十の初め。○書紀の履中の巻に「次の妃幡梭皇女は中帯姫皇女を生んだ。七年、草香の幡梭の皇女を立てて皇后とした」とあるのは、たいへん納得できない。これはこの記で應神天皇の子に「幡日之若郎女」があるので、それではないかとも思ったが、幡日之若郎女は仁徳天皇の御子が紛れ込んだことは、前に述べた通りだ。思うに允恭天皇の御子に橘大郎女があって、この若日下王も、書紀のこの巻に「またの名は橘姫」とあるから、それからの紛れで、允恭天皇の子の橘大郎女ではないか。また中帯姫皇女は大日下王の妃だから、その縁で紛れたのか。とにかく、この若日下王が履中天皇の妃になったと書紀にあるのは、伝えの紛れであって、中帯姫皇女の母皇后は別の女王だろう。】○都夫良意富美(つぶらおおみ)、韓比賣(からひめ)は、共に前に出た。書紀の清寧の巻の「元年春正月・・・葛城の韓媛を尊んで皇太夫人とした」とある。○白髮命(しらかのみこと)【「白髪」の「か」は通常濁って言うが、清音である。証拠がある。万葉巻十七(3922)に「之路髪(しろかみ)」とも見える。】書紀の清寧の巻に「白髪武廣國押稚日本根子(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこ)天皇は、大泊瀬の幼武天皇の第三子である。母は葛城の韓媛と言う。天皇は生まれながらにして白髪があった。云々」と見える。名の由来はこれである。○若帯比賣命(わかたらしひめのみこと)。名の意味には特別なことはない。書紀にいわく、「元年春三月庚戌朔壬子、草香の幡梭の皇女【またの名は橘姫】を立てて皇后にした。この月、三妃を立てた。初めの后が葛城の圓大臣の娘、韓媛と言い、白髪武廣國押稚日本根子天皇と稚足姫皇女【またの名は栲幡娘姫皇女(たくはたのいらつめ)】、この皇女は伊勢の大神を祀った。次に吉備の上道の臣の娘、稚媛【一本にいわく、吉備の窪屋の娘】は二男を生んだ。上を磐城皇子、下を星川の稚宮皇子と言う。【後の文に見える。】次に春日の和珥臣深目(ふかめ)の娘、童女君が春日の大娘皇女を生んだ。【またの名は高橋の皇女】・・・【稚媛のことは七年のところにこの年吉備の上道臣田狹(たさ)が云々】」とある。磐城の皇子は、この記にも近つ飛鳥の宮の段に、石木王とあるのがそうだろう。春日大娘皇女は、この記にも廣高の宮(仁賢天皇)の段に「天皇は大長谷若建天皇の御子、春日大郎女を娶って云々」とあるが、これには漏れている。○白髪太子(しらかのみこのみこと)、書紀に「二十二年春正月己酉朔、白髪皇子を皇太子とした」とある。○御名代(みなしろ)は前に出た。【伝卅五の十葉】○白髪部(しらかべ)のことも上記の御名代のところで言った。孝徳紀に「白髪部連」、天武紀に「白髪部造」などが見える。【続日本紀卅八に「白髪部を改めて眞髪部(まかみべ)とした」とあるのは、光仁天皇の名に触れるためである。新撰姓氏録に「眞髪部」が見える。】○長谷部舎人(はつせべのとねり)は、天皇自身の御名代である。新撰姓氏録に「長谷部造」という姓も見える。書紀の武烈の巻に「天皇の旧例によって、小泊瀬の舎人を置き、万代にその名を忘れがたくした」とある。【これもその天皇の御名代である。】「舎人」のことは前に出た。【伝卅三の五十四葉】○河瀬舍人(かわせのとねり)。書紀に「十一年夏五月、近江栗太郡が『白いウ(廬+鳥、茲+鳥)が谷上の浜におります』と言ってきた、そこで川瀬の舎人を置いた」とある。これは珍しいことだったから、後世に語り伝えようとして、一群の舎人の名にして遺したのである。【その意味だったら、河瀬とだけ言ったのでは縁遠いようだが、そうなるのも理由があってのことだろう。師(賀茂真淵)は「川の魚を守る人を言う」と言ったが、それではここに縁がなく、舎人にも関係がない。】天武紀に「川瀬舎人造」という姓も見える。【新撰姓氏録に「川瀬」という姓もある。旧事紀にも「川瀬造」というのがある。】

 

此時呉人參渡來。其呉人安=置3於2呉原1。故號2其地1謂2呉原1也。

 

訓読:このときにクレビトまいわたりきつ。そのクレビトをクレハラにおきたまいき。かれそこをクレハラとはいうなり。

 

口語訳:この頃、呉人が渡来した。そこでその呉人を呉原に住まわせた。それでその地を呉原という。

 

此時(このとき)は、中巻の明の宮の段に「この御世に云々」などがあるのにならって読む。○呉人(くれびと)、「呉」は唐國のうちの国名だ、【その王は「呉太伯」というのから起こって、周代にも聞こえた国である。】昔唐の国が漢代の後に魏・呉・蜀と三つに分かれ、三国と言った。その後また南朝・北朝といって二つに別れた頃も、南朝の国はその「呉」の地であった。【魏は漢の後であって、北朝は魏の後である。】この天皇の御世の頃は、その南北朝の頃で、「呉」とは言わなかったが、韓国などでは昔から言ってきたままなお【北朝を漢と言い、】南朝を「呉」と言い習わしたのである。【この南北朝の頃、皇朝からかの国へ、たびたび使いを遣わして通好したことが、唐国の史書には書いてあるが、それには非常に事の紛れがあって、実際の皇朝の御使ではない。その間のことも詳しくは私の「馭戎慨言」で言った。かの国の史書には皇朝から使いを遣わしたことだけが見えて、かの国から使いをよこしたことは一つも見えない。書紀の應神の巻に見える「三十七年云々」、「四十一年云々」のことは、この雄略天皇の御世のことを間違ってその御世のこととして伝えたので、実は應神天皇の頃にはそういうことはなかった。そのことは伝卅三の卅二葉、「呉服」のところで言った。考え合わせよ。呉の国のこともそこで言った。また書紀に仁徳天皇の五十八年に呉国が朝貢してきたこと、またこの天皇の六年呉国が使いをよこして貢献したとあるのも疑わしい。思うに韓国人が偽ってしたことだろう。】それでこのほどやって来た呉の人は、書紀には「呉国の使い」とあるけれども、本当にかの【南朝の】国王が奉った使いではないだろう。【例の韓国人などが偽って、呉国王の使いとして、呉国の人を派遣したのだろう。これらのことも「馭戎慨言」で言った。】○呉原(くれはら)は、書紀に「檜隈野(ひのくまぬ)」とあるから、大和国高市郡である。【今の世に「栗原村」というのがあるのは、「くれ」を「くり」と訛ったのであって、そこだろう。】延喜式神名帳に、「同郡、呉津孫(くれつひこ)神社」というのもある。【この社は、前記の栗原村にあるという。】○安置(おきたまいき)は、暫くとどまる間のことである。【長く留まって、国に帰らなかったのではない。】書紀に「八年春二月、身狹村主(むさのすぐり)青、檜隈の民使(たみのつかい)博徳(はかとこ)を呉の国に遣わした。十年秋九月、身狹村主青が呉から奉った二つの鵞鳥を持って帰った。・・・十二年夏四月、身狹村主青と檜隈の民使博徳が呉に使いをした。十四年春正月、身狹村主青らは呉国の使いと共に、呉から奉った手末(たなすえ)の伎人(てびと)、漢織(あやはとり)・呉織(くれはとり)および衣縫(きぬぬい)の兄媛(えひめ)・弟媛(おとひめ)らを引き連れて、住吉津に泊まった。この月、呉の客の道として、磯齒津路(しはつじ)を通し、名を呉坂とした。三月、臣・連に命じて、呉の使いを迎えさせ、呉人を檜隈野に安置した。そこでそこを呉原という。衣縫いの兄媛を大三輪の神に奉った。弟媛を漢衣縫部(あやのきぬぬいべ)とした。漢織・呉織の衣縫は、飛鳥の衣縫部、伊勢の衣縫部の祖である」とある。【これに八年と十二年の二度使いを遣わしたとあるのは、実は一度だったのが、年が違うので紛れて二度に書かれたものではないか。磯齒津路、呉坂のことは伝卅五の廿葉で言った。漢織・呉織のことは、伝卅三の卅二葉、卅三葉で言った。】

 

初大后坐2日下1之時。自2日下之直越道1。幸=行2河内1。爾登2山上1。望2國内1者。有B上2堅魚1作2舍屋1之家A。天皇令レ問2其家1云。其上2堅魚1作レ舍者。誰家。答白志幾之大縣主家。爾天皇詔者。奴乎。己家。似2天皇之御舍1而造。即遣レ人。令レ燒2其家1之時。其大縣主懼畏。稽首白奴有者。隨レ奴不レ覺而。過作甚畏。故獻2能美之御幣物1。<能美二字以レ音>布チュウ(執の下に糸)2白犬1。著レ鈴而。己族名謂2腰佩1人。令レ取2犬繩1以獻上。故令レ止2其著1レ火。即幸=行2其若日下部王之許1。賜=入2其犬1。令レ詔。是物者。今日得レ道之奇物。故都摩杼比<此四字以レ音>之物云而。賜入也。於レ是若日下部王。令レ奏2天皇1。背レ日幸行之事。甚恐。故己直參上而仕奉。是以還=上=坐2於宮1之時。行=立2其山之坂上1。歌曰。久佐加辨能。許知能夜麻登。多多美許母。幣具理能夜麻能。許知碁知能。夜麻能賀比爾。多知邪加由流。波毘呂久麻加斯。母登爾波。伊久美陀氣淤斐。須惠幣爾波。多斯美陀氣淤斐。伊久美陀氣。伊久美波泥受。多斯美陀氣。多斯爾波韋泥受。能知母久美泥牟。曾能淤母比豆麻。阿波禮。即令レ持2此歌1而。返レ使也。

 

訓読;はじめおおきさきクサカにましけるとき、クサカのただこえのみちより、カワチにいでましき。かれやまのうえにのぼりまして、くにみしければ、カツオをあげてヤをつくれるいえあり。スメラミコトそのいえをとわしめたまわく、「かのカツオをあげてつくれるヤは、たがいえぞ」ととわしめたまわば、「シキのオオアガタヌシのいえなり」ともうしき。ここにスメラミコトのりたまえるは、「やつこや。おのがいえを、オオキミのミアラカににてつくれり」とのりたまいて、すなわちひとをつかわして、そのいえをやかしめたまうときに、そのオオアガタヌシおじかしこみて、のみもうさく、「やつこにあれば、やつこながらにさとらずて、あやまちつくれり。いとかしこし」ともうしき。かれのみのイヤジリをたてまつる。しろきいぬにヌノをかけて、スズをつけて、おのがウガラなはコシハキというひとに、いぬのつなをとらしてたてまつりき。かれそのヒつくることをやめしめたまいき。すなわちそのワカクサカベのミコのみもとにいでまして、そのいぬをたまいいれて、のらしめたまわく、「このものは、きょうみちにえつるめずらしきものなり。かれツマドイのもの」といいて、たまいいれき。ここにワカクサカベのミコ、スメラミコトにもうさしめたまわく、「ひにそむきていでませること、いとかしこし。かれオノレただにまいのぼりてつかえまつらん」ともうさしめたまいき。ここをもてミヤにかえりのぼりますときに、そのやまのさかのうえにゆきたたして、うたいたまわく、「くさかべの、こちのやまと、たたみこも、へぐりのやまの、こちごちの、やまのかいに、たちざかゆる、はびろくまかし、もとには、いくみだけおい、すえには、たしみだけおい、いくみだけ、いくみはねず、たしみだけ、たしにはいねず、のちもくみねん、そのおもいづま、あわれ」。すなわちこのみうたもたして、かえしつかわしき。

<訳者註:この河内は旧仮名「カフチ」で、「こうち」と読むべきだが、他と区別するため「かわち」と訓読した。>

 

歌部分の漢字表記:日下部の、此方の山と、疊薦、平群の山の、此方此方の、山の峽に、立ち榮ゆる、葉廣熊白檮、本には、いくみ竹生ひ、末方には、たしみ竹生ひ、いくみ竹、いくみは寝ず、たしみ竹、たしには率寝ず、後もくみ寝む、その思ひ妻、あわれ

 

口語訳:初め大后がまだ日下に住んでいた頃、(天皇は)日下の直越の道から、河内に出た。そこで山の上に登って国見をしたところ、屋根の上に堅魚を上げている家があった。天皇が「あの堅魚を上げて造ってある家は誰の家か」と尋ねると、「志幾の大縣主の家です」と答えた。そこで天皇は「奴め。自分の家を天皇の宮に似せて造りおったな」と言い、人をやって火を着けさせようとした。その大縣主は恐れて、叩頭して「賤しい奴でございますから、知らず知らずに誤って造りました。はなはだ畏れ多いことです」と言った。能美の御幣物(謝罪の印)として、白い犬に布を着せ、鈴を着けて、自分の一族で腰佩という者にその犬の縄を持たせて献上した。そこで火を着けさせるのを止めた。若日下部王のところへ行って、その犬を受け入れ、「このものは今日道で得た珍しいものだ。そこで妻問いのものとしよう」と言って、受け取った。若日下部王は、天皇に「日に背を向けて出て来ていらっしゃったことは、畏れ多いことだわ。だから私はすぐに参上してお仕えしましょう」と言った。宮に帰るとき、その山の坂の上に立って、歌って「日下のこちらの山と、畳隠、平群の山の、山の間に立って栄えている葉広熊白檮、そのもとには、いくみ竹が生え、先端にはたしみ竹が生え、いくみ竹、二人で籠もって寝ず、たしみ竹、確かに共寝はせず、後には一緒に寝よう、その愛しい妻、ああ」。そこでこの歌を贈って返した。

 

大后(おおきさき)は若日下部王である。書紀に「元年春三月、草香の幡梭姫の皇女を立てて皇后とした」とあるのがそうである。○日下(くさか)は、河内国河内郡に今も日下村がある。伊駒山の西の方である。【白檮原の段に「日下の蓼津」、玉垣の宮の段に「日下の高津池」などとあるのは、和泉の国で別である。そのことは、その所々で言った。】地名の意味は定かでない。【今時「暗がり峠」というのを考えると、あるは「暗坂」ということではないだろうか。師は「低坂」の「ひ」を省いたものだと言ったが、どうだろう。】日下と書く理由も定かでない。【これは「はつせ」を長谷と書き、「さえぐさ」を三枝と書くようなもので、理由があるだろう。考えるにこの地名は暗坂の意味で、それを日下と書くのは、日が下がれば暗いものによってだろうか。さらに考えるべきである、師は「低坂で、その『ひ』を『日』と書き、『く』を省いて、下がるという読みを借りて坂を『下』と書いたのではないか」と言ったが、物遠い考えである。この地名は、書紀には草香と書かれている。あの紀は、地名などの字を多くは旧名によらず、新たに変えて書いている。古くはみな日下と書いたものだ。】新撰姓氏録の日下部宿禰もこの地から出た。河内国にも「日下連」、「日下部連」などがある。兄の大日下王は、この地に大后と共に住んでいたので、この名になった。○日下之直越道(くさかのただごえのみち)は、倭の平群郡から伊駒山の内【南の方】を越えて、河内国に到り、【若江郡を経て】難波に下る道で、【今の世に暗峠と言うのがそうだ。この暗峠を万葉(1747?)にいわゆる「立田山小鞍の嶺」だというのは間違いだ。小鞍の嶺は、龍野越えのことである。今の日下村はこの道ではない。少し北の方だが、「くさか」という名はこの坂から出て、いにしえにはこの坂の辺りも日下と言ったのではないか。この暗峠の道は今も大坂に下る道で、摂津国東生郡の「深江」というところに出て大坂に至る。】この道は近いから「直越え」という。書紀の~武の巻に「更に帰って東に越え、膽駒(いこま)山から中州に入ろうとした」とあるのもこの道のことだ。【次の文には「孔舎衛坂(くさえざか)」とあるのを考えると、「くさか」というのは、もとは「くさえざか」の省かれた名でもあろうか。】万葉巻六に「草香山を越える神社の忌寸、老麻呂の作った歌二首、『難波方潮干乃奈凝委曲見名(なにわがたしおひのなごりよくみてな)云々』、『直超乃此徑爾弖師押照哉難波乃海跡名附家良思裳(たがこえのこのみちにしておしてるやなにわのうみとなづけけらしも)』」、【この二首は日下山の坂道から見渡したさまを詠んだのである。】巻八【十五丁】(1428)に「忍照難波乎過而打靡草香乃山乎暮晩爾吾越來者(おしてるなにわをすぎてうちなびくくさかのやまをゆうくれにわがこえきたれば)云々」などがある。直越えということは、巻十二に【三十九丁】(3185)に「磐城山直越來u(いわきやまただこえきませ)」、巻十七【四十九丁】(4025)に「之乎路可良多太古要久禮婆(しおじからただこえくれば)」などもある。○「幸=行2河内1(かわちにゆきます)」は、若日下部王のいる日下に天皇が行ったことである。○山上(やまのうえ)は日下山の上である。○望國内は「くにみしせれば」と読む。高いところから国内を見渡すのを、いにしえに「國見」と言った。万葉巻一【七丁】(2)に「天乃香具山騰立國見乎爲者(あめのかぐやまのぼりたちくにみをすれば)」、また【十九丁】(38)「高殿乎高知座而上立國見乎爲波(たかどのをたかしりましてのぼりたちくにみをすれば)」、巻三【三十八丁】(382)に「國見爲筑波乃山矣(くにみをすればつくはのやまを)」、巻十【二十二丁】(1971)に「雨間開而國見毛將爲乎(あままあけてくにみもせんを)」など、もっと多い。「みしせれば」は、「みし」は「見」ということを尊んで言う言で、【「見賜う」を「みし賜う」というたぐいだ。古言で、この使い方は多い。「し」は過去形で言う「し」ではなく、助辞の「し」でもない。】「国見し賜えば」という意味だ。万葉巻十九【三十九丁】(4254)に「國看之勢志弖(くにみしせして)」とある。○堅魚(かつお)は、屋根の上の堅魚木である。堅魚という魚は、和名抄に「唐韻にいわく、鰹は大きな鯛である。・・・漢語抄にいわく『かつお』、式文には『堅魚』の二字を用いる」とあるが、漢国の「鰹」は当たらない。「かつお」と言う名は、「かたうお」が縮まったもので、すなわち「堅魚」と書いたのを、【古い書物にはみなこの字を書いている。】後にこの二字を合わせて、こちらで「鰹」の字を作ったのだ。【漢国の鰹の字を当てたのではない。漢国の鰹は鱧で、堅魚とは大きく異なっている。】いにしえに堅魚と言ったのは、この魚の肉を長く裂いて煮て干した、いわゆる鰹節のことで、貞観儀式、延喜式などによく登場するのはみなこれである。【それで「堅魚何斤」とある。貞観儀式に「堅魚一連」ともある。また和名抄の鹽梅類に「本朝式にいわく、堅魚の煮汁は『かつおいろり』」とあるのも、鰹節の煮汁である。】そういうわけで「堅魚」と言う。もともと生魚の名ではない。【今の世でも、海があってこの生魚のある国々でこそ生を「かつお」と良い、鰹節を鰹節と言うが、京などでは普通「かつお」と言うのは鰹節のことである。】屋根の上に置く「かつおぎ」も形が鰹節に似ているための名である。【それをあるいは「加棟木(かとうぎ)」、「固木(かたぎ)」など言い、あるいは「堅魚は水のものだから、その名を付けて火の防ぎだ」などという説があるけれども、みな誤りだ。】貞観儀式に「大嘗祭の正殿一宇、・・・甍に五尺の堅魚木八枚を置き、摶風(はふ)を付ける」とあり、延喜式【大嘗祭】にも同様にある。【「摶風」は「千木」である。延喜式には「高摶風」とある。】皇大神宮儀式帳に「正殿一區・・・堅魚木十枚【長さ書く七尺徑り、一尺七寸】材木ごとに端を金で餝る」とある。このものは、後世には神の宮にだけあるが、上代はそうではなかった。この事件を見れば、天皇の御殿にもあった。大縣主の家にこれを上げたのを咎めたことを思うと、これを置くのは天皇の御殿だけで、【王たちの宮にはどうだったか分からないが、神社にあるのは、神は天皇になずらえて尊んだのだから、論ずるまでもない。】臣や民の家には置いてはならない定めだったのか、それとも置くことは臣民の家まで含めてのことで。【これを置いたことを咎めたのではなく、】その造りざま、置きざまに変わりがあるのをここは【臣の家の堅魚木のようでなく、】天皇の御殿に似せた造り方だったのを咎めたのか。もしそうなら、天皇の御殿のは臣の家とは、たいへん違った状態だっただろう。【この御世の頃にいたって、次第に天皇の宮などは壮麗になって、上代の形をとどめていると言っても、こういうものの形も違って来たのだろう。】その造りざまを咎めたとするなら、ここの「上げ」とは。尋常でなく高く厳めしく造ったのを言い、「上げ」という言を重視するか、また【「上げ」は単に置いて造ったことを言い、特別なことはなくて、】「天皇の御舎に似せて造りおったな」というところに造りざまの異なる意味があるのか。【もし臣民の家にこの堅魚木を置くことは許されないなら、「上げ」は単に置いたことである。造りざまが異なるなら、「上げ」には上記の二つの意味があるだろう。】これらの意味は確かに定めることは出来ない。ところでまた屋根の上にものを置くのは、もとは風防のために棟を押さえ鎮めたのだという説がある。それもありそうなことだ。【ある人のいわく、山城国愛宕郡、雲が畑と言う村の民の家々には、今も「かつう木」というのがあって、風を防ぐそうだ。その他、一般に田舎の草葺きの家に、棟に「烏おどり」というものがあるのも、同じことだと言う。この説は実際にそうだろう。】ただし天皇の御殿にだけあって、臣民の家に置いてはならないものであったとすると、風防ではなくて、【風防だったら、臣民の家は大宮よりも仮のものだから、特にこのものを置かなければならないだろう。】もとから特殊な意味があったのか。もしまた造りざまに違いがあるのなら、もとは風防のためで、貴賤に変わりなくあったのが、世が移り変わって、天皇の御殿のものは自然と飾りになって、非常に壮麗になったのかも知れない。この堅魚木をここでは木と言わないで単に堅魚とあるのは、この時代としては省きすぎたように聞こえるが、これを考えると、屋根の上にこれを置くのは【風防などではなく】魚の名の「かつお」を「勝男」の意味に取って、祝ってその鰹節の形代を造って置いたのであって、本来「堅魚」と言うのでもあるだろう。【それなら「堅魚木」と言うのは、後に「木」を加えて呼ぶ名だろう。】それなら天皇の御殿などのは、特に壮麗だったのが当然だ。これらのことは更によく考えて定めるべきである。○家(いえ)とは、構え全体を言う名、舎屋とは、その中に建てた舎屋である。日下から志幾はやや距離はあるが、この家の堅魚は特にいかめしく、目に立つのでよく見えたのだろう。○其上(かのあげて)の「其」は「かの」と読む。「あの」という意味だ。○答白(もうしき)の「白」の字は、諸本に「曰」とある。ここは真福寺本によった。○志幾之大縣主(しきのおおあがたぬし)。志幾は和名抄に「河内国志紀【しき】郡」とあるのがそうだ。志紀郷もある。この地のことは中巻倭建命の段に出て、そこで言った。【伝廿九の二十四葉】この大縣主は、新撰姓氏録の河内国神別に「大縣主」という姓があり、「天津彦根命の子孫である」とあるのがそうだろう。「大縣主」と言った例は、中巻の伊邪河の宮の段に、「旦波大縣主(たにはのおおあがたぬし)」というのがある。「大」という例などはそこで言った。【伝廿二の四十三葉】ところで「師木縣主」という二氏があって、一つは饒速日命の子孫、【この氏のことは中巻の高岡の宮の段、伝廿一の二葉で言った。】もうひとつは神八井耳命の子孫であるが、あるいはこの二氏の一つでもあろうか。そうならば、神八井耳命の子孫の方だろう。【饒速日命の子孫なのは大和の師木から出ており、神八井耳命の子孫の方はもとから河内の志幾に住んでいた。】それは新撰姓氏録の河内国皇別に、「志紀縣主は、多朝臣と同祖、神八井耳命の子孫である」、また「志紀首は志紀縣主と同祖である云々」とあるからである。【また右京皇別に「志紀首は云々」、和泉国皇別に「志紀縣主は云々」、これらも同じだ。】三代実録六に「河内国志紀郡の人、志紀縣主員成(かずなり?)、同福王(ふくおう?)、同福依(ふくより)ら三人に姓を宿禰とすることを許した。そこで住まいを改めて左京職に就かせた。神八井耳命の子孫で、多朝臣と同祖である」とある。【上記の他に新撰姓氏録に、「大和国神別、志貴連」、「和泉国神別、志貴縣主」などは饒速日命の子孫の方である。】延喜式神名帳に「河内国志紀郡、志貴縣主神社」があるのは、二氏のどちらだろうか。【饒速日命の子孫も、この河内の志幾に由縁があることは、伝廿一で言った通りだ。】ここの大縣主も、「大」というのは「大國造」、「大宿禰」などという例もあるから、上記の志紀縣主のことでもありそうだが、やはり新撰姓氏録に別に「大縣主」があるので、それだろうと思う。天津彦根命の子孫は、河内国に凡河内國造、額田部湯坐連、津夫江連などもあるから、由縁もある。○奴乎(やつこや)、「奴」とは王に対して臣下を言う。つぎにあるのも同じだ。【賤しめて言うのではない。臣を「やつこ」と言うのは、前に述べた通りだ。「奴」の字にこだわるべきでない。】「乎」は「よ」と言うようなものだ。上巻に「愛我那邇妹命乎(うつくしきあがなにものみことや)」、穴穂の宮の段に「己妹乎(おのがいもや)」など、他にもある。○「似2天皇之御舍1而造(おおきみのみあらかににてつくれり)」。この「天皇」は「おおきみ」と読む。ここは諸王までを含んで言うか、【字にこだわるべきでない。天皇と書いたのは、その中の上であるのについて言っている。天皇と諸王は、共に「大君」といって、万事その差は少なく、王と臣はその差が対へん大きかったから、家も王のは天皇と違いはなく宮と言い、臣のは家と言った。だから王の宮の造りざまも、天皇の大宮と大きく違うことはなかっただろうからである。】それとも天皇に限って言うのか、どちらにしても「おおきみ」と読むべきだ。「似」は【「にせて」と読むようだが、その似ている状態について言うから、やはり「にて」と読むのが良い。】堅魚を置くことが臣の家にはないことだったら、これを置いたのが【天皇の御舎に】似ているのである。造りざまに違いがあるのなら、造りざまが似ているのである。【この二つの意味は、上述の通りだ。】○稽首白は、「のみてもうさく」と読む。この言は上巻にあって、そこで言った。【伝十七の五十一葉】○奴有者(やつこにあれば)は、「奴なれば」だ。【すべて「なれば」は「にあれば」の縮まったもので同じである。「なり」は「にあり」である。】「奴」は王に対して言う臣である。【漢文にへりくだって言う「僕」とは違う。】○隨奴は「やつこながら」と読む。「奴であるままに」という意味だ。「隨(ながら)」は天皇を「神ながら」と言うのと同じだ。万葉巻二【三十四丁】(199)に「皇子隨(みこながら)」ともある。○不覺而(さとらずて)とは、王は貴いから、貴いままに覚りもあるのを、臣は賎しいから、賎しいままにこういう差別【堅魚のこと】があるのも覚らなかったということだ。○甚畏(いとかしこし)の「甚」の字を「其」と書いたのは誤りである。ここは真福寺本によった。○能美之御幣物(のみのいやじり)。「のみ」という言葉の意味は、上巻にある「稽首白(のみもうす)」のところで言った。「御幣物」は「いやじり」と読む。その理由は、中巻の訶志比の宮の段に「獻2易名之幣1(なかえのいやじり)」とあるところ【伝卅一の二十九葉】で言った通りだ。穴穂の宮の段に「爲2其妹之禮物1(そのいもうとのいやじりとして)云々」とあるところ【伝四十の八葉】も考え合わせよ。【ここは「御」の字があるから「みてぐら」と読むべきかとも思えるが、やはりそうではない。「御」の字は、天皇に献げるものだから添えたのだろう。また師は「みまい」と読んだが、どうかと思われる。】書紀の允恭の巻に「玉田宿禰は事があるのを恐れ、馬一匹を吾襲(あそ)に授けて、禮幣とした」、この禮幣も「いやじり」と読む。【ただしこれは「まい」と読んでも良い。】○布チュウ(執の下に糸)白犬は、「しろいぬにぬのをかけて」と読む。【「チュウ(執の下に糸)」は字書に「繋である」ともあるから、「かけて」と読む。】これは犬を繋ぐときの布ではない。【繋ぐ縄は別にあって】別に衣を着せるように布を身に纏ったのであろう。【だから「布で犬を」と読むと意味が違ってしまう。たとえチュウは「つなぐ」と読んでも、「犬に布を」と読むべきである。「犬を」と読んではいけない。チュウの字を書いた理由は、纏って身を固めたからだろう。この字にこだわって、繋いだことと思ってはいけない。】犬は和名抄に「兼名苑にいわく、犬一名尨、爾雅集注にいわく、狗は犬の子である。和名『えぬ』また犬と同じ」とある。【これは納得できない書き方である。犬の下に和名を挙げず、狗の下にだけ挙げたのはどうだろうか。またいにしえから「いぬ」というのこそ正しいのに、それをおいて「えぬ」とはどうか。これは狗の和名か。また「犬と同じ」というのも、和名が紛らわしい。】この奉った犬は、後の文に「奇物(めずらしきもの)」とあるから、普通の犬でなく、特に優れた犬【いわゆる逸物】だったのだろう。「のみ」の「いやじり」だったら、当然そうあるべきだ。○「著レ鈴(すずをつけて)」。いにしえには物に鈴を着けることは多かった中に、犬などに着けることは、今の世にもすることだが、非常に古いことである。○族は、書紀の神代巻の註に「うがら」とあるのによって読む。【この訓注によると、「宇賀良(うがら)」、「夜賀良(やがら)」、「波良賀良(はらがら)」など、みな「賀」を濁って読むべきである。「登母賀良(ともがら)」は今も濁って言う。】万葉巻三【三十四丁】(460)に「親族兄弟(うがらはらがら)」とある。【この「親族」は今の本では「やから」と読んでいるが、「うがら」と読むべきである。】○腰佩(こしはき)。続日本紀廿五に「船連腰佩」という同名の人が見える。○若日下部王。【真福寺本、延佳本には「部」の字がない。】○賜入(たまいいれ)。「入」は「奉」を「奉入」ともあり、【万葉巻二(113の詞書)に「奉入歌」、祝詞式に「齋内親王の奉入の時」、天長五年の宣命に「大神の御杖代として奉入たる」、三代実録卅に「進入る」などがある。】「入る」と同じように聞こえる。また「奉出」などもある。【「奉出」の例は、上巻伝十六の廿六葉に出した。】だからこの「入る」は別に読まなくても良いようだが、女王に送ったのだから、少し尊んで言う言葉のように聞こえるので、字の通りに読んでおく。【今の世の言に「申入(もうしいる)」と言い、「進入(すすめいる)」、「贈入(おくりいる)」などと書く「入」も少し尊んで言うように聞こえる。】また【次の文に】「令レ詔(のらしめ)」、「令レ奏(もうさしめ)」などとある「令」の言からすると、このときはまだ天皇は【女王の】宮の内には入っておらず、外にいてのことだから、その内に入れたという意味でもあろう。【「奉入」も入れる意味がある。いずれにせよ「いれ」と読むべきなのを、「たまわり」と読むのは間違いだ。「たまわる」は「被レ賜」で、受ける方から言った言葉で、そちらとこちらの違いがある。】○奇物は、【「あやしき物」とも「くすしき物」とも読めるが、】師が「めずらしきもの」と読んだのが良いように思われる。日本霊異記にも、「奇はめずらしく、またいわく、あやしき」とある。この言は、書紀の神功の巻に「・・・皇后は『希見物(めずらしきもの)也』と言った。希見、これを『めずらし』と言う」とあり、履中の巻に「希見(めずらし)」、崇峻の巻に「そこに萬(よろず)の飼っていた白犬があった、この犬は世に希聞(めずらし)」【「萬」は人の名である。】万葉巻八【四十三丁】(1582)に「希將見(めずらしき)」、巻十【二十一丁】(1962)、巻十一【廿丁(2575)、廿四丁(2623)】にも同様にある。巻十二【三十六丁】(3172)に「目頬志久(めずらしく)」などもある。【これは字は異なるが、意味は「希見」と全く同じだ。】○都摩杼比之物(つまどいのもの)。【「麻」の字を諸本に「摩」と書いている。ここは真福寺本によった。どちらにせよ数の多い方を良いとしたのだ。】万葉巻三【四十八丁】(431)に「倭文幡乃帶解替而フセ(まだれに廬)屋立妻問爲家武(しずはたのおびときかえてふせやたてつまどいしけん)」【冠辞考の「ふせやたて」の説は良くない。ふせ屋は、妻問いのために建てるのである。】巻四【三十七丁】(637)に「嬬問爾(つまどいに)」、巻十六【八丁】(3791)に「妻問迹(つまとうと)」、巻十八【三十四丁】(4127)に「氣奈我伎古良河都麻度比能欲曾(けながきこらがつまどいのよぞ)」、巻十九【二十六丁】(4211)に「玉剋壽毛須底弖相爭爾嬬問爲家留(たまきはるいのちもすててあらそいにつまどいしける)」などがある。「物」は求婚のために贈る物を言う。○「令レ奏(もうさしめ)」は、このとき天皇はまだこの宮の内には入らないで、外にいた間のことだから、人を遣わして奏させたのである。だから「令」と言った。前の「令レ詔」もそうである。【または殿の内には入っていたが、まだ顔を見ないで、場所を隔てていたのでもあろう。それも「令」の意味は同じだ。】○背日は、「ひにそむきて」と読む。「そむく」は「背向」である。東にある倭から西にある河内へ出向くのは、東から出る日を背後にするということだ。中巻の白檮原の宮の段に「日に背いて戦うことは良くない。・・・日を背負って撃とう」とあるたぐいで、そことは前後逆である。【そこは敵と戦うのだから、日を負い持つ意味だった。それはそこで言った通りだが、こちらは背き違う意味だからだ。】後ろにすることはそれもこれも同じことだが、事によって良くも悪くもなるのである。○己直參上(おのれただにまいのぼりて)。「直」は「仕奉」へ掛かって、【「參上」に係るのではない。】天皇は河内へ出ることなく、京の大宮にいて、私を召したなら、直に行くでしょうという意味である。○この間に「弁能誰知能」の五字がある本は誤りである。次の歌の初めの二句の中の言葉が紛れてここにも入ったのである。【「誰」の字は、「許」を誤ったのだ。】○「還=上=坐2於宮1(みやにかえりのぼります)」。「宮」は倭の大宮である。歌を合わせてこの段を考えると、この天皇が女王のもとに通っていたことは初めにあるところだが、この度は上記の(日に背いて)の恐れによって、逢わないで無駄に帰ったのである。このように日に背くことを深く恐れたのは、まぐわいの初めだったからだ。【何となく西の方に向かったのは、恐れるべきではない。また妻問いであれば、後々までいつもそうやって慎み合うべきでもないからだ。】この天皇は、それほど猛々しく、荒い心だったのに、このようにこの女王の諌めに従って、帰ったことをよく考えるべきである。いにしえ人の日に背くことを恐れた程度、またまぐわいの初めをたいへん重視したことは、かの二柱の大神の、みとのまぐわいの初めを思いわたすにも、非常に厳かだったのだ。【なおざりに見過ごしてはならない。】○其山(そのやま)は日下山である。○坂上(さかのうえ)は、直越えの道にある坂の上である。○久佐加辨能(くさかべの)は、「日下部の」である。日下の地名も日下部と言ったことは、この言で分かる。【もと日下部は、日下の地に住んだことから来た部の名なのを、その日下部が住んだことから地名を日下部とも言ったのである。日下部という部がこの地に住んだことは、中巻の伊邪河の宮の段で日下部連のところで言った。伝二十二】○許知能夜麻登(こちのやまと)は、「こっちの山と」である。【「と」は次の平群の山とである。】○多多美許母、幣具理能夜麻能(たたみこも、へぐりのやまの)。この二句は既に中巻の倭建命の歌にも見え、【伝廿八の四十七葉、四十八葉】大和国平群郡の山である。○許知碁知能(こちごちの)は、「こっちこっちの」である。【下の「ご」を濁るのは重なるからである。】これは「をちこち」であるのを「こちごち」と言ったのは、こちらから見てあっちというところは、あっちから見ればまた「こっち」であるから、こちらの「こち」、またあちらの「こち」である。【この説は荒木田久老が、万葉巻の歌にあるのについて言った説で、本当にそうだと思う、それを昔から誰もが「こ」と「を」が通って、ただ「をちこち」という言だと言うのは詳しくない。それでは「をち」と「こち」とが一つになって、差別がない。】「各々」という言葉のようなものだ。【「各々」というのは「己も己も」ということだ。これも「己」というのは自分のことなのを、自分も他人もというのを「己も己も」というのは、自分の己、他人の己である。】万葉巻二【三十八丁】(210)に「槻木之己知碁智乃枝之(つきのきのこちごちのきの)」、また【三十九丁】(213)「百兄槻木虚知期知爾枝刺有如(ももえつきのきこちごちにえださせるごと)」、巻三【二十七丁】(319)に「奈麻余美乃甲斐乃國打縁流駿河能國與己知其智乃國之三中從出立有不盡能高嶺者(なまよみのかいのくにうちよするするがのくにとこちごちのくにのみなかにたてるふじのたかねは)」、【荒木田久老いわく、甲斐の国のこちらと、駿河の国のこちらと、各々こちらである。】巻九【二十一丁】()に「白雲乃立田山乎(しらくものたつたのやまを)・・・許知期智乃花之盛爾(こちごちのはなのさかりに)」などあるのはみなそうだ。ここはこちらの日下部山と向こうの平群の山と各々その「こち」である。【またその日下山のうちの「こちごち」と、平群の山のうちの「こちごち」とで、山の各々の「こちごち」かとも思えるが、やはりそうではあるまい。】○夜麻能賀比爾(やまのかいに)は、「山の峡に」である。【「賀」の字は、「加」であろう。記中、清濁入り乱れることはないから、後に何とも思わず「賀」と「加」とが同じことと思って写し誤ったのだろう。】和名抄に「考聲切韻にいわく、峽は山間の陜いところである。俗に言う『やまのかい』」とある。○多知邪加由流(たちざかゆる)は、【「ざ」を濁るのはいにしえの音便である。古言にこのたぐいは多い。】「立ち栄える」である。書紀の仁徳の巻の大后の歌に、「箇波區ボウ(くさかんむりに奔)珥多知瑳箇踰屡毛毛多羅儒椰素麼能紀破(かわくまにたちさかゆるももたらずやそばのきは)」とある。○波毘呂久麻加斯(はびろくまかし)は「葉広くま白檮」で、中巻の玉垣の宮の段に出た。【伝廿五の廿葉】○母登爾波(もとには)は「本には」で、下の方を言う。【契沖が後の「須惠幣」からすると、今の「母登」の下にも「幣」の字があって、「本辺」になるべきだろうと言ったのは違う。同言を二度いうときに、少し変えて言うのは古歌では普通である。】○伊久美陀氣淤斐(いくみだけおい)の「伊」は、「いり」の「り」を省いたのである。「久美」は師の説に「久麻加斯(くまかし)」の「くま」と同じで、葉が茂っていれば隠り竹(こもりだけ)というのを縮めて、「くみだけ」と言うとある。【冠辞考の「さす竹」の條に見える。その説の中に「はたすゝき久米」ということも例に挙げたのは不適切だ。「はたすゝき」は、四の句の「三穗」に係っている。「御穂」の意味だ。また「伊」を発語としたのもどうか。発語に「い」と言うのは用言に限っている、体言の頭に置いた例はない。ここの「くみ」はもとは用言だが、「くみ竹」という時は体言だから、そう言うときに発語の「い」を置くことはない。】また考えるに、物のあれとこれとが一つに相交わる意味でもあるだろう。【「組」という名も糸を合い交えた意味である。】とすると「伊久美竹」は、葉がよく茂って、あれとこれとが合い入り交ったことである。【俗言にも、事のあれとこれとが煩瑣に交じり合うのを「入り組む」というのも同言である。契沖が「いくみ竹」は竹の名だと言ったのは違う。竹の一種の名ではない。単に茂っていることだ。】「淤斐」は「生い」である。書紀の継体の巻に「以矩美娜開余嚢開(いくみだけよだけ)」とある。○須惠幣爾波(すえへには)は、【真福寺本には「爾」の字がない。】「末方には」である。上の方を言う。【「幣」は清音である。】この本末は、山の峡の下の方、上の方を言う。【「熊白檮」の下の方、上の方ではない。】そのことは後に言う。○多斯美陀氣淤斐(たしみだけおい)は、師の説に「立繁竹生(たちしみだけおい)」だと言う。【冠辞考の「さす竹」の條に見える。】「立」は生い立っている様子を言っていて、万葉巻一【二十三丁】(52)に「春山跡之美佐備立有(はるやまとしみさびたてり)」などとある、「立ち栄える」の「立」も同じだ。【契沖が「たしみ竹」を竹の名だと言ったのは違う。】上の「いくみ竹」とこれとは、二種類の竹ではない。単におおよその竹の様子なのを、このように二つに分けて言うのは、古歌に類例が多い。【万葉巻二(217)に「秋山下部類妹奈用竹乃騰遠依子等(あきやまのしたぶるいもなよたけのとおよるこら)」と言ったたぐいで、これも二人ではなく、一人をこう言っている。】○伊久美陀氣(いくみだけ)。前の「いくみだけおい」はこの句を言うための序であり、この句は次の句を言うための序である。○伊久美波泥受(いくみはねず)。【「美」の下に「陀」の字がある本は、前の句によって誤ったのである。ここは真福寺本、延佳本によった。】「いくみ」の意味は前と同じだ、師の説では「籠もり寝る」である。もう一つの私の考えでは、夫婦が一つに交わって寝るのである。いずれにしても「伊」は「入り」である。【「籠もる」だから、閨の内に入り籠もるのである。「交わる」だから、夫婦が互いに体を入り交わって寝るのである。】「泥受」は「寝ず」である。【契沖いわく、「神代紀で『相與』を『くみど』と読んでいる。伊は発語、陀は『ど』と通じるから、『相與者不レ寝(くみだはねず)』か。あるいは『陀』は衍字で、『與者不レ寝(くみはねず)』か」と言ったのは、おおよそは違わないが、詞の細かな意味が違う。】上巻の「久美度邇興而(くみどにおこして)」とあるところを考え合わせよ。【伝四の卅三葉】○多斯美陀氣(たしみだけ)。序であることは「伊久美陀氣」と同じ。○多斯爾波韋泥受(たしにはいねず)は、契沖が「確かには率寝ず」だと言った通りだ。遠つ飛鳥の宮の段で、太子の歌に「多志陀志爾韋泥弖牟能知波(たしだしにいねてんのちは)」とあるところで言った。考え合わせよ。【伝卅九の二十七葉】○能知母久美泥牟(のちもくみねん)は、「後もくみ寝ん」である。「くみ」の意味は上述した。今度は相見ることもなく空しく帰るが、後には逢おうと言うことである。【「後も」は、今だけでなく後もという意味に言うのではない。これは俗言に「重ねて」ということだ。】この歌は上の件の趣からすると、二つの竹だけが意味があり、「葉廣熊白檮」は無用なようだが、【「いくみ竹」は「いくみ」を言うため、「たしみ竹」は「たしに」を言うためであるが、「白檮(かし)」は下に受ける句がない。】よく考えればそうではない。白檮も葉が非常に茂って、ぎっしりと立つことは、竹と同じようなものであるから、「いくみ」【「はねず」】と言い、「たしに」言う【竹だけではない。】意味は白檮から受けている。また山峡に立ち栄えるというのも、【白檮だけでなく、】竹にも係っている。全体の意味を言えば、山峡の下の方、上の方に立ち栄えて、入り組んだ白檮と竹ということになる。それを白檮を別に離して歌い、山峡と本末も別に歌っているなど、詞の続きが確かでないように聞こえるが、このように言葉を互い違いにして、続け具合のほのかであるのも歌の造り方で、いにしえに例が多く、後世にもそういうたぐいのことは多い。よく考えなければ取り違えるだろう。【師いわく、「『久麻加斯』を詠んだのは、山の本末に竹が生えているのを言うために、まず中の峡にあるものを言っただけである」と言うのは、上記の意味を得られなかったからの強説である。】○曾能淤母比豆麻(そのおもいづま)は、「その思い妻」である。○阿波禮(あわれ)は「哀れ」である。遠つ飛鳥の宮の段で、輕太子の歌にも「淤母比豆麻阿波禮(おもいづまあわれ)」とある。○「令レ持2此歌1而(このうたをもたしめて)」とは、この御世の頃には既に歌を文字に書いて送ることもあり、これもそうだったのか。また師は「御言持(みこともち)」というたぐいで、歌を承って、言って伝え申したのだ。書いたのを持たせたのではないと言ったが、これもあり得ることである。言葉を伝えるのも「持つ」と言うはずだ。上巻に「獻レ歌」とあったのも、神代のことだから言葉を伝えたのである。○返使(かえしつかわしき)。これには二つの読み方がある。一つは「かえしつかわしき」と読んで、日下山から天皇の使いをして女王のもとへ行くのである。「返し」とは、出て来たばかりの方へ遣わすから言う。もう一つは、「つかいをかえしたまいき」と読んで、使いは女王から天皇の方によこす使いである。【それはこの度は、天皇がまだ女王の宮までには至らず、日下山を越える辺りから、かの妻問いの言葉を伝えたところに、その答えとして女王のもとから天皇のやって来るところへ使いをよこして、「日に背いて云々」と言わせたその使いを、この歌を持たせて返したのである。この説に依るときには、上の件のこともこの趣きに見るべきである。】

 

亦一時天皇遊行。到レ於2美和河1之時。河邊有2洗レ衣童女1。其容姿甚麗。天皇問2其童女1。汝者誰子。答白己名謂2引田部赤猪子1。爾令レ詔者。汝不レ嫁レ夫。今將レ喚而。還=坐2於1レ宮。故其赤猪子。仰=待2天皇之命1。既經2八十歳1。於レ是赤猪子以爲。望レ命之間。已經2多年1。姿體痩萎。更無2所恃1。然非レ顯2待情1。不レ忍レ於レ悒而。令レ持2百取之机代物1。參出貢獻。然天皇既忘2先所レ命之事1。問2其赤猪子1曰。汝者誰老女。何由以參來。爾赤猪子答白。其年其月。被2天皇之命1。仰=待2大命1至レ于2今日1。經2八十歳1。今容姿既耆。更無レ所レ恃。然顯=白2己志1。以參出耳。於レ是天皇大驚。吾既忘2先事1。然汝守レ志待レ命。徒過2盛年1。是甚愛悲。心裏欲レ婚。憚2其極老1。不レ得2成婚1而。賜2御歌1。其歌曰。美母呂能。伊都加斯賀母登。加斯賀母登。由由斯伎加母。加志波良袁登賣。又歌曰。比氣多能。和加久流須婆良。和加久閇爾。韋泥弖麻斯母能。淤伊爾祁流加母。爾赤猪子之泣涙。悉濕2其所レ服之丹揩袖1。答2其大御歌1而歌曰。美母呂爾。都久夜多麻加岐。都岐阿麻斯。多爾加母余良牟。加微能美夜比登。又歌曰。久佐迦延能。伊理延能波知須。波那婆知須。微能佐加理毘登。登母志岐呂加母。爾多祿給2其老女1以。返遣也。故此四歌。志都歌也。

 

訓読:またあるときスメラミコトあそばしつつ、ミワガワにいたりませるときに、かわのべにきぬあらうおとめあり。それかおいとよかりき。スメラミコトそのおとめに「いましはたがこぞ」ととわしければ、「おのがなはヒケタベのアカイコともうす」ともうしき。かれのらしめたまえらくは、「いましとつがずてあれ。いまめしてん」とのらしめたまいき。ミヤにかえりましき。かれそのアカイコ、オオキミのミコトをあおぎまちて、すでにヤソトセをへたりき。ここにアカイコおもいけるは、「ミコトをあおぎまつつるあいだに、すでにココダのとしをへて、かおかたちヤサカみかじけてあれば、さらにたのみなし。しかれどもまちつるこころをあらわしもうさずては、いぶせくてエあらじ」とおもいて、モモトリのツクエシロのものをもたしめて、まいでてたてまつりき。しかるにスメラミコトさきにのりたまえることをばはやくわすられて、そのアカイコにとわしけらく、「いましはたれやしオミナぞ。なにすれぞまいきつる」ととわしければ、アカイコもうしけらく、「そのとしのそのつきに、オオキミのミコトをかがふりて、きょうまでオオミコトをあおぎまちて、ヤソトセをへたり。いまはかおすでにおいて、さらにたのみなし。しかはあれどもおのがココロザシをあらわしもうさんとしてこそ、まいでつれ」ともうしき。ここにスメラミコトいたくおどろきまして、「アははやくさきのことをわすれたり。しかるにいましミサオにミコトをまちて、いたずらにミのサカリをすぐししこと、いといとおし」とのりたまいて、めさまくほしくおもおせども、そのいたくおいたるにはばかりて、エめさずて、みうたたまいき。そのみうた、「みもろの、いつかしがもと、かしがもと、ゆゆしきかも、かしはらおとめ」、また、「ひけたの、わかくるすばら、わかくえに、いねてましもの、おいにけるかも」。かれアカイコがなくなみだに、そのけせるニスリのそでとおりてぬれぬ。そのオオミウタにこたえまつるうた、「みもろに、つくやたまかき、つきあまし、たにかもよらん、かみのみやひと」。また、「くさかえにいりえのはちす、はなばちす、みのさかりびと、ともしきろかも」。かれそのオミナにものさわにたまいて、かえしやりたまいき。このようたは、しつうたなり。

 

歌部分の漢字表記:御諸の、嚴白檮がもと、白檮がもと、ゆゆしきかも、白檮原童女

引田の、若栗栖原、若くへに、率寝てましもの、老いにけるかも

御諸に、つくや玉垣、つき餘し、誰にかも依らむ、神の宮人

日下江の、入江の蓮、花蓮、身の盛り人、羨しきろかも

 

口語訳:あるとき、天皇は遊びながら三輪川のほとりに到ると、川のほとりで衣を洗う嬢子がいた。その顔はたいへん美しかった。天皇は「そなたの名は何という」と問わせたところ、「私の名は引田部の赤猪子と言います」と答えた。そこで「あなたは嫁がないでいなさい。すぐに召し抱えましょう」と言わせた。そのまま宮に帰った。その赤猪子は、天皇の命があると思って待ち続けて、八十年が経った。そこで赤猪子は「命を待ち続けて多年を経た。体は痩せ衰え、もう頼むところはない。しかし待ち続けた事情を明らかにしないでは、耐え難い」と思って、百取の机代のものを人に持たせて、宮に出て奉った。しかし天皇は前のことをすっかり忘れていた。その赤猪子に「お前は誰だ。何の由で参ったのか」と聞いた。そこで赤猪子は、「某年某月、天皇は私にお命じになりました。私は大命があると思って今日まで待っておりました。既に八十年という日が経ち、容姿は既に衰え、頼りにするものもありません。それでも私の志を明らかにしないではいられないと思ってやって来たのです」と答えた。天皇は非常に驚いて、「私は前のことをすっかり忘れていた。お前はその約束を忘れず、無駄に盛りの時を過ごしてしまったのか。とても愛しい、悲しいことだなあ」と言った。心の内では一度まぐわいをしたいと思ったが、女がたいへん年老いているので、憚られた。歌を賜って、「三諸の厳白檮のもとの、ゆゆしい白檮乙女」、また歌って、「引田の、若い栗栖原、若ければ率寝るところなのだが、老いてしまったなあ」、また歌って、「三諸に築く玉垣、築き余り、誰を頼りにすればいいのか、神の宮人」。

 

遊行は、「あそばしつつ」と読む。中巻の白檮原の宮の段に、「七媛女遊=行2於高佐士野1(ななおとめたかさじぬにあそべる)」とあるたぐいだ。○美和河(みわがわ)は初P川の流れである。美和のことは白檮原の宮の段【伝廿】、水垣の宮の段【伝二十三】に出た。万葉巻十【四十八丁】(2222)に「暮不去河蝦鳴成三和河之清瀬音乎聞師吉毛(ゆうさらずかわずなくなるみわがわのきよせのおとをきかくしよしも)」とある。○其容姿甚麗(それかおいとよかりき)の訓のことは、白檮原の宮の段で言った。【伝廿の十四葉】○己名(おのがなは)云々。上巻に邇々藝命が木花之佐久夜毘賣命に「誰女(たがむすめ)」と訊いた答えに、「大山津見の神の娘、名は云々」と言っており、中巻の應神天皇が宮主矢河枝比賣に「汝は誰が子」と訊いた答えにも、「丸邇之比布禮能意富美(わにのひふれのおおみ)の娘、名は云々」と言っている。ところがここには直接に己の名だけを言って、「某の娘」と言わなかったのは、伝えに父の名は漏れたのだろう。「誰子」とあるからには、父の名を言わないではおられまい。○引田部(ひけたべ)は、歌に「比氣多能」とあるのによって読む。【和名抄に讃岐国大内郡に引田郷があるのも「ひけた」と書いてある。】延喜式神名帳に「大和国城上郡、曳田神社」がある。この地による名だろう。【また佐渡国雑太郡に引田部神社がある。】書紀の天武の巻に「三輪の引田の君、難波麻呂(なにわまろ)」という人があり、持統の巻に「引田の朝臣廣目(ひろめ)」、「引田の朝臣少麻呂(すくなまろ)」などという人が見えるのはこの姓か。三代実録五十に「大神朝臣良臣(よしおみ?)・・・大神の引田の朝臣・・・遠祖が同じと言っても派は各々異なる。云々」とある。【この大神の引田の朝臣は、前掲の三輪の引田の君だろう。】これによると、大神朝臣の支流である。【大神朝臣のことは、伝廿三の五十三葉で言った、考え合わせよ。】○赤猪子は、赤猪に由縁があって付けた名だろう。○不嫁夫は「とつがずてあれ」と読む。鎮火祭の祝詞に、「妹背二柱嫁繼給弖(いもせふたばしらとつぎたまいて)」、【「嫁繼」は必ず「とつぎ」と読むべきだ。】和名抄に「セキ(鳥+即)レイ(鳥+令)は、日本紀私記にいわく、『とつぎおのへどり』」、書紀の神代巻に、「交道(とつぎのみち)」、敏達の巻、孝徳の巻に「嫁、また女みずから人に適(とつ)ぐ」などとある。【「とつぐ」というのは漢籍読みのように思うかも知れないが、そうではなく古言である。古言が漢籍の読みに残る、このたぐいのことが多い。これを師は「つましあらずは」と読んだが、その意味ではない。嫁がずして我が命を待てという意味だ。夫(つま)がなければと言ったのではない。ここは「童女」と書いた字のように、まだ幼い女だったと聞こえる。】○「今將レ喚(いまめしてん)。「今」は「今に帰って来よう」といった「今」である。【俗に「やがて」、「追っつけ」、「近いうちに」など言う意味だ。】このときにすぐに召さず、こう言ったのは、まだ童女だったためである。○天皇之命(おおきみのみこと)は、約束通り召す詔命である。後にあるのも同じだ。○仰待(あおぎまちて)は、万葉の歌に「高々に待つ」というのがよくあるのも仰ぐ意味で、この次に同じことを「望む」と書いたのもその意味である。【俗言に首を長くして待つというのも仰ぐ意味で同じ。】○望、これも師の「あおぎまちつる」と読んだのが良い。○多年は「ここだくのとし」と読む。大祓の祝詞に「許々太久乃罪乎(ここだくのつみを)」と見え、万葉巻四【四十四丁】(680)に「幾許雖待(ここだくまてど)」、巻五【十八丁】(844)に「許許陀(ここだ)」、巻十四【七丁】(3373)に「己許太(ここだ)」、巻十七【四十八丁】(4019)に「許己太久母(ここだくも)」、巻十八【六丁】(4036)に「許己太久爾(ここだくに)」など、多数例がある。なおこの言の例は中巻白檮原の宮の段の歌に「許紀志(こきし)」とあるところで詳しく言った。【伝十九の十八葉】○姿體は「かおかたち」と読む。【二字をただ「かお」とも読めるが、ここは「痩萎」と言い、後に「容姿既耆」ともあるから、「かたち」という言もあるはずだという気がする。】○痩萎は「やさかみかじけてあれば」と読む。【「かじけ」の「じ」の仮名は「ヂ」か定かでないが、「しけ」という音に近いので、とりあえず「じ」と読んでおく。】書紀の垂仁の巻に「淳名城稚姫(ぬなきのわかひめ)命の体は非常に痩弱(やさかみよわくして)、祭ることが出来なかった」、天智の巻に「憂悴(かじけたること)極めて甚だしかった」などがあるのによった。○「無2所恃1(たのみなし)」は、召される頼みがないのである。○不忍於悒は、「いぶせくてエあらじ」と読む。「悒」は「いぶせく」と読むこと、その他にも読むべき言などは、中巻の明の宮の段で「無レ悒(いぶかしきことなし)」とあったところで言った。【伝卅二の十九葉】「不忍」は【ここは「たえじ」などと読むと何となく漢籍読みに近く聞こえ、古言とも思えないので、】「えあらじ」と読んだ。【「じ」は「ず」とも読めるが、前に「以爲(おもいけるは)」とあるから、「じ」の方が合っている。】万葉巻四【二十三丁】(543)に「黙然得不在者(もだえあらねば)」などとある意味だからである。○百取之机代物(ももとりのつくえしろのもの)は上巻に見える。【伝十八】○參出(まいで)は皇大宮に、である。○所命は「のりたまえり」と読む。○忘(わすらして)は、万葉巻五【二十五丁】(877)に「和周良志奈牟迦(わすらしなんか)」とある。○誰(たれやし)は、書紀の継体の巻の歌に「駄例夜矢比等母(たれやしひとも)」とある。【「やし」は助辞である。万葉には「たれしの人も」ともある。】○老女は「おみな」と読むことを上巻で言った。【伝九の十八葉】○何由以(なにすれぞ)は、万葉巻廿【十六丁】(4323)に「奈爾須禮曾(なにすれぞ)」とあるのによって読んだ。【今も漢文で「なんすれぞ」と読むことがあるのは、この古言が残ったのである。】○其年其月(そのとしのそのつきに)。「其」は二つ共に「某」である。○被(かがふり)は、万葉巻廿【十五丁】(4321)に「可之古伎夜美許等加我布理(かしこきやみことかがふり)」とある。【「が」を濁り、「ふ」を清んで読む。巻五(892)にも「可賀布利(かがふり)」と書いてある。】○至于今日(きょうまで)【「于」の字は諸本にない。ここは真福寺本によった。】○參出耳(・・・こそまいでつれ)、」この「耳」の字は前を「・・・としてこそ」と読んで、その「こそ」に当たる。このことは伝の初めの巻で言った。【「としてこそ」は、「とてこそ」と言うのと同じ、古言には「とて」とは言わない。】○驚(おどろきまして)の下には「曰」の字などがあるはずだが、脱けたのだろう。○守志は「みさおに」と読む。【「操」の字は字書に「守るところである」とも「念を持つことだ」とも注してある。】日本霊異記に「風は『みさお』」、また「氣調は『みさお』」などがある。拾遺集【雑下】(543)に、「三ツ瀬川渡るみさおもなかりけり云々」とある。【「竿」に懸けて詠んだ歌である。】○盛年は、師が「みのさかり」と読んだのによる。このことはさらに次の歌のところで言う。○愛悲は、【「愛」の字は諸本で「受」に誤っている。延佳本に「憂」とあるのはさかしらに改めたのだろう。ここは真福寺本によった。】「いとおし」と読む。続日本紀廿四の詔に「愧自彌伊等保自彌奈母念須(はずかしみいとおしみなもおもおす)、【これによると同紀四の詔などに「勞彌」とあるのも「いとおしみ」と読むべきである。】さらに物語書などに多い言である。【今の俗言に「いとしい」というのもこの言である。】○心裏欲婚は【「心裏」を上の句に付けて読むのは良くない。記中こういった形の文は多く、一句を四字に書いた例である。】「めさまくほしくおもおせども」と読む。この「欲」は、普通に願い思うのとは意味が違い、「みさお」に大命を待って嫁ぎもせず、無駄に老いたことをいとしく思って、老女のために一度は召して、彼女の心を慰めようと思ったのである。○極老は「いたくおいぬる」と読む。【万葉巻十一に「極太」を「いたく」と読んだ訓があるが、この訓は決めがたい。師は「おいきわれる」と読んだが、どうか。「おいはてたる」と読むべきかとも思ったが、そういうさまの「はて」は古言では例を見ない。万葉巻九(1719)に「船將極(ふねはてん)」などはあるが、それは言い方が違う。】○憚(はばかり)は、歌に「由由斯伎加母」とある意味である。○美母呂能は「御室の」である。すべて神社を言う。【「みむろ」と「みもろ」は通わせて言う。】また三輪山を言うのも普通だから、その意味でもあるだろう。【引田部は三輪山に由縁があるからである。】なお「御室」のことは上巻でも言った。【伝十二の二十七葉】○伊都加斯賀母登(いづかしがもと)は、「厳白檮がもと」である。【この「つ」は濁音だから、「豆」とあるべきところを、「都」と書いているのはいぶかしい。】「伊都(いづ)」は、忌み清めて齋(いつ)く意味である。万葉巻十一【二十八丁】(2656)に「天飛也輕乃社之齋槻(あまとぶやかるのやしろのいわいつき)」とあるのも厳白檮のたぐいだ。【書紀にみな「嚴」と書かれている。】「もと」は単に木のことだと師が言ったのが正しい。【「木」を「もと」と言った例が多い。普通木の下を「木のもと」と言うのとは違う。】大祓の祝詞に「彼方之繁木本(おちかたのしげきがもと)」とあるのなどもそうだ。書紀の垂仁の巻に、「一にいわく・・・天照大神を嚴橿の本に鎮めて祀る」、【これを倭姫命世記に「倭国の伊豆加志の本の宮」とある。しかし地名ではない。ただ厳橿の木のもとだろう。】万葉巻一【十一丁】(9)に「吾瀬子之射立爲兼五可新何本(わがせこがいたたすがねいつかしがもと)」とある。【これに「五」の字を書き、ここの歌に「伊都」と書いてあるので、「伊豆」の「豆」の清濁が疑わしくなるけれども、万葉巻廿に「五手船」を二箇所まで「伊豆船」と書いているから、五は古くは「いづ」と濁っていたのだろう。また上記の二つの「嚴橿が本」は、その木の下を言っており、こことは異なる。取り違えてはならない。】○加斯賀母登(かしがもと)は「白檮がもと」で、上の熊白檮を重ねて言った古歌の通例である。○由由斯伎加母(ゆゆしきかも)は、「ゆゆしき哉」である。上の三句はこの句を言うための序であって、神の社の樹を畏れ憚る意味で続けたのだ。万葉巻四【十八丁】(517)に「神樹爾毛手者觸云乎(かみきにもてはふるとうを)」、また【四十八丁】(712)「味酒呼三輪之祝我忌杉手觸之罪歟君二遇難寸(うまさけをみわのはふりがいわうすぎてふれしつみかきみにあいがたき)」、巻七【四十丁】(1403)に「三幣取神之祝我鎭齋杉原燎木伐殆之國手斧所取奴(みぬさとるかみのはふりがいわうすぎはらたきぎこりほとほとしくにておのとらえぬ)」、これらは神の木を畏れ憚る由である。この歌の意味は、前に「憚2其極老1」とあった意味で、たいへん老いさらばえた様子に憚られて、まぐわいするに堪えなかったのである。【契沖は「志を強く持ったことを賞め称えるのだ」と言った。それももっともだが、それでは「ゆゆし」という言葉の使い方が古言ではなく、後世の言い方である。また「かしはら乙女」という結びの句にも合わない。そのことは次に言う。】いにしえに「ゆゆし」と言うのは、忌み憚られることがあって、それに畏れ憚られることがある。【この歌の序の神木がこれである。】嫌われることがあって、憚られることがある。【この歌の老いたさまを言うたぐいだ。また忌々しいことを言うのもこれである。】この二つから転じて、後には善悪双方に甚だしいのも言う。【「ゆゆしき大事」などと、賞めても言い、悪んでも言うのはみなこれだ。また「いみじき」も「ゆゆしき」と言も意も通って、同じように聞こえる。】万葉巻二【三十三丁】(199)に「桂文忌之伎鴨(かけまくもゆゆしきかも)」、巻三【五十七丁】(475)に「言巻毛齋忌志伎可物(いわまくもゆゆしきかも)」、巻四【十七丁】(515)に「獨宿而絶西紐緒忌見跡(ひとりねてたえにしひもをゆゆしみと)」、巻六【十九丁】(948)に「言巻毛湯々敷有跡(いわまくもゆゆしきありと)」、また【三十六丁】(1020)「繋巻裳湯々石恐(かけまくもゆゆしかしこし)」、巻十【五十四丁】(2275)に「言出而云者忌染(こといでていわばゆゆしみ)」、巻十二【七丁】(2893)に「忌々久毛吾者歎鶴鴨(ゆゆしこもわはなげきつるかも)」、巻十五【七丁】(3603)に「湯種蒔忌々伎美爾故非和多流香母(ゆだねまきゆゆしくきみにこいわたるかも)」、巻十七【四十四丁】(4008)に「許登爾伊泥弖伊波婆由遊思美(ことのいでていわばゆゆしみ)」などがある。○加志波良袁登賣(かしはらおとめ)は「白檮原乙女」である。白檮原は上の嚴白檮の生えたところを言い、句の意味は「たいへん老いた容貌が忌々しくも憚られること、嚴白檮のような乙女よ」と言うのである。【契沖の説のように、「由由斯伎加母」を志を固く持って、守ったことを賞めたのだとすると、この句に合わない。というのは、上の序を取って、ただ「かしはら乙女」と言ったのは、その嚴白檮に喩えて、そのような乙女という意味なのを、賞めた意味とするなら、「ゆゆし」という言葉は白檮の色が変わらず常葉であることなどを賞めればこそ、それに喩えて「かしはらおとめ」とは言わないだろう。白檮を「ゆゆし」と言うのは、恐れ憚る意味であるのを、それに喩えてどうして直接に「かしはらおとめ」と言うだろうか。序からの続きの意味と、歌全体の意が異なるのは普通だが、これは直接「かしはら乙女」と結んだのだから、序からの続きの意味と同じでなくては合わない。】老媼を「おとめ」と言ったのは、まぐわいしようと思ったことについての歌だからである。○比氣多能(ひけたの)は「引田の」である。○和加久流須婆良(わかくるすばら)は、「若栗栖原」である。次の句の「和加久閇」を言うための序である。この老媼の里の引田に、栗林があるのによって言ったのだろう。栗を多く植えたところを「栗栖」と言った【地名になったところも多い。】「栖」はどういうわけか、この木に限っていうことで【他の木には某原、某園、某生などとは言っても、某栖というのは例を知らない。】理由は思い付かない。【「御栖(みす)」というものはある。田原の御栖、丹波の御栖などが見える。】○和加久閇爾(わかくえに)は、【契沖の厚顔抄には、「久」の字を「加」に改めてあるのは、万葉巻によって改めたのだろう。上の「加」から続いて「加々」とあったのを「久」に誤ることもあるだろうが、諸本みな「久」とあるから、ここはもとのままにしておいた。】契沖いわく、「万葉巻十六(3874)に『所射鹿乎認河邊之和草身若可倍爾佐宿之兒等波母(いゆししをつなぐかわべのわかくさのみのわかかへにさねしこらはも)』とあり、若い時になどの意味か」と言う。【万葉の「和草」は、「和」の下に「加」の字が脱けたのか。いずれにせよ「わか草」だろう。】「久」は「か」と通う音だから、万葉の「若可倍」と同じことに聞こえるが、その意味は思い付かない。【師は「久(く)」は「加留(かる)」の縮まったもの、「閇(へ)」は「方」で、さまと言うのと同じ。「若いさまに」だと言ったが、「かる」の縮まったものというのはどうか。】「閇」はイニシヘ、ムカシヘなどの「ヘ」と同じだろう。とすると【赤猪子が】若かったうちにという意味に聞こえる。書紀の斉明の巻の歌に「伊喩之々乎都那遇何播杯能倭柯矩娑能倭柯倶阿利岐騰(いゆししをつなぐかわべのわかくさのわかくありきと)云々」とある。○韋泥弖麻斯母能(いねてましもの)は、「率寝てましものを」である。○淤伊爾祁流加母(おいにけるかも)は、「老いにける哉」である。○赤猪子之泣涙(あかいこがなくなみだに)は、【こうあっても意味は分かるが】「之(が)」という字が不適切である。「赤猪子泣而涙云々」などとあるところだ。○所服は「けせる」と読む。中巻の倭建命の段に「和賀祁勢流意須比能須蘇爾(わがけせるおすいのすそに)」とあるところを考えよ。【伝廿八の九葉】○丹揩(にすり)。揩り衣のことは、高津の宮の段に「青摺りの衣」とあったところで言った。【伝卅六の四十葉】「揩」の字のこともそこで言った。丹揩は、赤土や黄土で摺ったものである。万葉で黄土も赤土も「はに」と詠んでいる。【和名抄に「埴は・・・和名『はに』」】「はに」というのは色は美しくにおう意味の名で、「光映(は)え土(に)」の意味ではないだろうか。書紀の神代巻に「赭(そおに)」【「そう」は赤いことを言う。】ともある。その色の良い土を使って衣を摺ることは、万葉巻一【二十七丁】(69)に「岸之埴布尓爾仁寳播散麻思呼(きしのはにふににおわさましを)」、巻六【十五丁】(932)に「住吉能岸乃黄土粉二寶比天由香名(すみのえのきしのはにふににおいてゆかな)」などと詠んでいる「におう」とは、黄土に触れて衣にその色が移るのを言う。【巻十(2107)に、「ことさらに衣はすらじ女郎花咲野(さきの)の芽子(はぎ)に丹穗日而將居(においておらん)」、巻十五(3656)に「秋芽子(あきはぎ)に爾保敝流吾裳(におえるわがも)云々」、これらの「におう」も同じ。相照らして知るべきだ。】「土(はに)」で衣を摺ることがあるので、こうも詠むのである。○悉濕は「とおりてぬれぬ」と師が読んだのが良い。万葉巻二【二十丁】(135)に「敷妙乃衣袖者通而沾奴(しきたえのころものそではとおりてぬれぬ)」とある。また巻十五【二十八丁】(3711)に「和我袖波多毛登等保里弖奴禮奴等母(わがそではたもととおりてぬれぬとも)」。○而歌の二字は、真福寺本にはない。【脱けたのだろうか。】○美母呂爾(みもろに)は「御室に」である。○都久夜多麻加岐(つくやたまかき)は、「築くや玉垣」である。【「玉」は賞めて言う言である。「か」は清音で、濁ってはいけない。】「築く」というのは、土を築いた垣で、今の世に言うところの築地である。【「ついじ」は「築土(ついひじ)」ということだ。】いにしえには、神社にも築いた垣があったのだろう。これに二つの意味があるだろう。一つには、御室の周りに垣を築くのである。もう一つは垣を築いて、御室の境界を定めるのである。【この意味だったら、「御室に」は、御室にする意味だ。】○都岐阿麻斯(つきあまし)は、「築き余し」である。上の句が初めに言った方の意味だとすると、垣を築き終えて、その土が残っているのを言う。【契沖が「玉垣を築き始めて、気が回らなくて築き残したのである」と言い、師も「まだ築き終わらないのを言う」と言ったけれども、みな「あまし」と言うのに合わない。】後の意味なら、御室の境界をほど良い程度より広く垣を築いて、その領域が無駄に余ったのである。○多爾加母余良牟(たにかもよらん)は、「誰にかも依らん」である。「誰」を「た」とだけ言うのは、【聞き慣れないようだが】「誰之(たが)」と言うのも同じだ。これは「吾(われ)」を「わ」、「己」おのれ)」を「おの」、「其(それ)」を「そ」、「此(これ)」を「こ」と言うのと同様だ。【契沖が「たれ」の下を略したのだと言ったのは、詳しくない。何となく省いた言い方ではない。】この句は、垣を築く譬えの方は、【初めの意味なら】築き終えて余った土を何にしようか。神の垣の材料だから、他に用いるべきではない、という意味だ。また【後の意味なら】御室用に垣を築いた領域が無駄に余っているのを何に使おうか、という意味だ。それを「誰」と言ったのは歌の方で言う詞で、天皇が「召そう」と約束しておいて【神の御室の材料に喩えた。】、老い果てた身の【無用に余ったことに喩えた。】今は誰に依ろうか、寄る辺もないという意味である。ものに喩えたいにしえの歌は、その譬えのものについての詞と、歌の意味を直接に言った言葉を相交えて言ったことが多い。万葉巻などでも普通である。【いにしえの譬え歌を見ると、この例を知らなかったら、訓に迷うことがある。この歌も譬えの方について言えば「どんなにしようか」とあるべきなのを、「誰に」と言い、「依ろうか」と言っているのは、歌の方の意味である。この歌の意味について契沖が言っているのは誤りである。「実のない心を神が知って後は、寄る辺ない方に喩えたか」というのは納得できない。師が「玉垣を築きかけた宮人は、他のことに依るべきでない、その築き上げるのを待つだけであるというのを、自分に他心あるべきではないことに喩えた」と言ったのも合わない。「垣を築きかけた宮人は、他のことに依るべきでない」というのは縁遠く、「あまし」という言に合わない。】○加微能美夜比登(かみのみやひと)は、【「ひ」は清音である。】「神の宮人」である。これは単に自分を御室の垣を築く人に喩えたのである。【ただし自分の身の喩えは「築き余したもの」にあって、築く人ではないのだが、そう詠んだのは大雑把に言っただけである。】万葉巻七【十一丁】(1133)に「皇祖神之神宮人(すめろぎのかみのみやひと)云々」とある。この歌は初めの歌の返しだと契沖は言った。そういう風に聞こえる。○久佐迦延能(くさかえの)は「日下江の」である。この日下は河内か、和泉国大鳥郡か、二箇所の内のどちらか分からない。特に蓮の多かった江であろう。万葉巻四【二十八丁】(575)にも「草香江之入江爾求食蘆鶴乃(くさかえのいりえにあさるあしたづの)」とある。○伊理延能波知須(いりえのはちす)は、「入江の蓮」である。○波那婆知須(はなばちす)は、「花蓮」である。契沖いわく、花橘、花薄などというようなものだ。○微能佐加理毘登(みのさかりびと)は、「身の盛り人」である。師のいわく、「『身の』を隔てて、『花蓮盛り』と続く」と言った通りだ。【「みの」は単に人の身であって、蓮の実の意味はない。ただし記中、草木の実の仮名に「美」を書かず必ず「微」を使っているのを考えれば、人の身ではなく蓮の実であって、それと無関係に盛り人と言ったのかも知れない。「実の盛り」というのは、どういうことかとも思われるが、蓮は和名抄に「爾雅にいわく。その実は蓮云々」とあるように、もともと実の名である。また「はちす」というのも「蜂房(はちす)」で、実の名であって花だけの名ではない。実も主要なものであるから、実の盛りとも言える。「実の盛り」と言って、「盛り人」と続けたのだ。だが人の身にも「微」の仮名を使ったか、それはまだ考えて見ていないので定めがたい。「身」にも「微」を使ったなら、人の身の方に定めて良い。万葉に「身の若かへに」ともあるからである。】「身の盛り人」は、若く壮んな人を言う。○登母志岐呂加母(ともしきろかも)は、「乏しき哉」の意味で、「ろ」は助辞である。「ろかも」の例は、中巻の明の宮の段で言った。【伝卅二の四十一葉】この「乏しき」は「羨ましき」である。万葉にこの言は多いが、巻一【二十四丁】(55)に「朝毛吉木人乏母亦打山行來跡見良武樹人友師母(あさもよしきひとともしもまつちやまゆくくとみらんきひとともしも)」、巻五【二十二丁】(863)に「麻都良河波多麻斯麻能有良爾和可由都流伊毛良遠美良牟比等能等母斯佐(まつらがわたましまのうらにわかゆつるいもらをみらんひとのともしさ)」、巻六【十八丁】(944)に「嶋隱吾榜來者乏毳倭邊上眞熊野之船(しまがくりわがこぎくればともしかもやまとへのぼるまくまぬのふね)」、巻七【十九丁】(1208)に「妹爾戀余越去者勢能山之妹爾不戀而有之乏左(いもにこいわがこえゆけばせのやまのいもにこいずてあるがともしさ)」、また(1210)「吾妹子爾吾戀行者乏雲並居鴨妹與勢能山(わぎもこにわがこいゆけばともしくもならびおるかもいもとせのやま)」、巻十七【二十七丁】(3971)に「夜麻扶枳能之氣美登毘久々鷺能許惠乎聞良牟伎美波登母之毛(やまびきのしげみとびくくうぐいすのこえをきくらんきみはともしも)」、巻廿【四十一丁】(4425)に「佐伎母利爾由久波多我世登刀布比登乎美流我登毛之佐毛乃母比毛世受(さきもりにゆくはたがせととうひとをみるがともしさものもいもせず)」、これらは正しく「うらやましい」という意味だ。また巻十七【四十丁】の長歌(4000)に「於登能未毛名能未母伎吉底登母之夫流我禰(おとのみもなのみもききてともしぶるがね)」、これは羨ましく思うことを「ともしぶる」と言っている。歌の意味は、後の歌【「ひけたの云々」】に答えて、自分がこんなに年老いていなかったら、召されたであろうにと、若く壮んな人を羨んだのだ。【その意味に取ると、「日下江之」と詠んだのは、若日下王を羨んだようにも見えるが、そういう意味はないだろう。契沖はこの「ともしき」を少ないという意味と、珍しい意味に賞めたのと、両方の意味を兼ねているのかと言ったが、それは合わない。そうすると歌の意味がたいへん縁遠い。これは羨ましいことを「ともし」と言う例を考えないための誤りである。】○多祿給(ものさわにたまいて)は、若櫻の宮の段にも同様にあった。【伝卅八の二十二葉】○志都歌は前に出た。【伝卅六の五十六葉】

 

天皇幸=行2吉野宮1之時。吉野川之濱。有2童女1。其形姿美麗。故婚2是童女1而。還=坐2於1レ宮。後吏亦幸=行2吉野1之時。留2其童女之所1レ遇於2其處1立2大御呉床1而坐2。其御呉床1。彈2御琴1。令レ爲レ舞(イ+舞)2其孃子1。爾因2其孃子之好舞(イ+舞)1。作2御歌1。其歌曰。阿具良韋能。加微能美弖母知。比久許登爾。麻比須流袁美那。登許余爾母加母。

 

訓読:スメラミコト、エシヌのミヤにいでませるとき、エシヌガワのほとりに、おとめのあえる。それかおよかりき。かれこのおとめをめして、ミヤにかえりましき、のちにさらにまたエシヌにいでませるときに、そのおとめのあえりしところにとどまりましてそこにオオミアグラをたてて、そのミアグラにましまして、みことをひかして、そのおとめにまいせしめたまいき。かれそのおとめよくまえるによりて、みうたよみしたまえる。そのみうた。「あぐらいの、かみのみてもち、ひくことに、まいするおみな、とこよにもかも」。

 

歌部分の漢字表記:呉床居の、神の御手持ち、弾く琴に、舞する女、常世にもがも

 

口語訳:天皇が吉野の宮に行った時、吉野川の浜に一人の童女があった。その顔形は美麗であった。そこでこの童女を召して、宮に帰った。後にまた吉野に行った時、その童女に出会ったところに呉床を組んで、琴を弾き、嬢子に舞を舞わせた。たいへん良い舞いであったので、歌を作った。「あぐらいの、神の御手持ち、弾く琴に、舞いする女、常世にもかも」

 

吉野宮(えしぬのみや)。吉野は中巻、白檮原の宮の段に出た。【伝十八の六十三葉】その宮は、書紀の應神の巻に「十九年冬十月、吉野宮に行幸した」とあるのが、史書に出る初めである。その御世に初めて造られたのか、前の御世からあったのかは分からない。ここは世に知られた場所であるから、御世御世に時々行って遊んだ離宮である。斉明紀に「二年、吉野の宮を造った。五年三月、天皇は吉野宮に行って肆宴(とよのあかり)をした」、天武紀に「天命開別の天皇は十年冬十月、東宮は吉野宮に入った。八年五月、吉野宮に行幸した」、持統紀に「三年正月、天皇は吉野宮に行幸した」と見え、この御世にこの宮に行幸したことが毎年書かれている。万葉巻一【十六丁】(27)に「天皇が吉野宮に行幸した時の御製の歌、淑人乃良跡吉見而好常言師芳野吉見與良人四來三(よきひとのよしとよくみてよしといいしよしぬよくみよよきひとよくみつ)」。これは天武天皇である。【またこの天皇の(25)「三吉野之耳我嶺爾(みよしののみみかのみねに)云々」という長歌も、行幸の時に詠んだものだろう。】また【十八丁】「吉野宮に行幸の時、柿本朝臣人麻呂が作った歌、八隅知之吾大王之所聞食天下爾國者思毛澤二雖有山川之清河内跡御心乎吉野乃國之花散相秋津乃野邊爾宮柱太敷座波(やすみししわごおおきみのきこしめすあめのしたにくにはしもさわにあれどもやまかわのきよきかうちとみこころをよしぬのくにのはなちらうあきづのぬべにみやばしらふとしきませば)云々」、また(38)「安見知之吾大王神長柄神佐備世須登芳野川多藝津河内爾高殿乎高知座而(やすみししわごおおきみかむながらかむさびせすとよしぬがわたぎつかうちにたかとのをたかしりまして)云々」、これらは持統天皇の御世である。巻六【三十一丁】(1005)に「天平八年夏六月、芳野離宮に行幸した時、山部宿禰赤人が詔に応じて作った歌、八隅知之我大王之見給芳野宮者(やすみししわごおおきみのみしたまうよしぬのみやは)云々」、反歌(1006)「自神代芳野宮爾蟻通高所知者山河乎吉三(かみよよりよしぬのみやにありがよいたかしらせるはやまかわをよみ)」、【この行幸のことは続日本紀にも見える。】巻十八【二十二丁】(4098)に「天平感宝元年五月、芳野離宮に行幸した時に儲けた作、多可美久良安麻乃日嗣等天下志良之賣師家類須賣呂伎乃可未能美許等能可之古久母(たかみくらあまのひつぎとあめのしたしらしめけるすめろぎのかみのみことのかしこくも)、波自米多麻比弖多不刀久母佐太米多麻敝流美與之努能許乃於保美夜爾安里我欲比賣之多麻布良之(はじめたまいてとうとくもさだめたまえるみよしぬのこのおおみやにありがよいめしたまうらし)云々」、反歌(4099)「伊爾之敝乎於母保須良之母和期於保伎美余思努乃美夜乎安里我欲比賣須(いにしえをおもおすらしもわごおおきみよしぬのみやをありがよいめす)」。御世御世のこの離宮に行幸した時の歌は、集中に多く見える。○吉野川(えしぬがわ)も白檮原の宮の段に出た。万葉巻一【十九丁】(37)に「雖見飽奴吉野乃河之常滑乃絶事奈久復還見牟(みれどあかぬよしぬのかわのとこなめのたゆることなくまたかえりみん)」、巻九【十五丁】に(1725)「古之賢人之遊兼吉野川原雖見不飽鴨(いにしえのかしこきひとのあそびけんよしぬのかわらみれどあかぬかも)」など、その他にも多い。○有童女は、「おとめのあえる」と読む。【「有」は字に従って読むと良くない。】後の文にも「童女之所レ遇(おとめのあえりしところ)」とある。上巻に「笠沙の御前で麗美人(かおよきおとめ)の遇える」と見え、若櫻の宮の段に、「大坂の山口に出たところ、一人の女の遇える」などとあるたぐいだ。○「其童女之所レ遇(そのおとめのあえりしところ)」、「遇」の字を諸本に「過」と書いたのは誤りだ。ここは真福寺本によった。「所遇」は「遇えりし處」と書く意味だ。【漢文に「所遇」と書く意味ではない。記中この種の書き方は例がある。】前の行幸の時にこの童女の逢ったところを言う。○「於2其處1(そこに)」。「處」の字を諸本に「家」と書いたのは誤りである。ここは真福寺本によった。【延佳本で「その童女の所にとどまって、その家を過ぎ」と読んでいるが、それでは同じことが無駄に重なって、言葉が整わない。「過」は書紀の雄略の巻に「吉備の国にいたって、その家を過(よきり)」、また景行の巻に「道を枉(よきりて)」などが見え、後の物語書などにも「よきる」という言葉があるので、そうも読めるが、やはり語が整わない。このところの文は、真福寺本で明らかである。】○大御呉床(おおみあぐら)。「呉床」は「あぐら」と読む。歌に出ている。中巻の明の宮の段にも出た。【伝卅三の五十六葉】このものについては、上巻に「胡床」とあるところで言った。【伝十三の三十九葉】○阿具良韋能(あぐらいの)は、「呉床座の」で、呉床にいますというようなことだ。○加微能美弖母知(かみのみてもち)は、「神の御手以て」である。神とは、自分で言っている。天皇は自分のことも尊んで言うのが普通だ。「以て」は後には「もて」と言うが、古くは「もち」、「もちて」と言った。このことは初めの巻【六十二葉】で言った。万葉巻六【二十五葉】(973)に「天皇朕宇頭乃御手以掻撫曾禰宜賜打撫曾禰宜賜(すめらわがうづのみてもちかきなでぞねぎたまううちなでぞねぎうたまう)」とある。○比久許登爾(ひくことに)は「弾く琴に」で、弾く琴に合わせての意味だ。○麻比須流袁美那(まいするおみな)は、「舞いする女」だ。○登許余爾母加母(とこよにもかも)は、「常世にも願」である。【万葉巻六の十三葉(920)に、「かも」に「願」の字を書いている。】この「とこよ」は、人が永遠不滅であることを言う。【「よ」は人の年齢である。「とこよ」と言うのに、いろいろある。伝十二の九葉に言った通りだ。】ここはこの嬢子の容姿と舞いを嘆賞して、飽きることがないと思って、このように常世にいつまでも舞っていて欲しいと願ったのである。【ただ嬢子の命だけを願ったのではない。舞いを主眼として言ったのだ。】「もかも」は願う辞で、万葉巻四【二十一丁】(534)に「水空徃雲爾毛欲成高飛鳥爾毛欲成(みそらゆくくもにもかもたかとぶとりにもかも)」などのたぐいは他にも多い。【願う意味の「かも」は普通「がも」と濁っているが、ここに清音の「か」を用いるのは、いにしえは清んだからだ。契沖はこの句を「常世か」である。仙女などではないかと怪しんで思ったのだと言ったのは、たいへんな誤りだ。仙女のことを「常世」とだけ言ったのでは分からない。「か」という疑問の辞を「にもかも」とはどうして言うだろうか。仙女ではないかという意味なら、「常世の嬢子かも」などと言わなくては分からない。】本朝月令に五節の舞いの初めを言った説は、【いわく、「五節の舞は、浄御原天皇の創るところである。天皇は吉野宮に行幸して、日暮し琴を弾いていたところ、興が起こってきた。前岫(岩穴)のところに突然雲気が起こり、高唐の神女のようなものが現れて曲に対応した舞を一人舞い、天矚(天皇の目?)に入った。他人は見ることもなかった。袖を挙げて五つの態様に変じた。故に五節という。・・・その歌に曰く、『乎度綿度茂ド(巛の下に口、一番下に巴)度綿左備須茂可良多萬乎多茂度邇麻岐底乎度綿左備須茂(おとめさびすもからたまをたもとにまきておとめさびすも)』」と江家次第の第十細注、また政事要略廿七、あるいは河海抄などに見える。】はここの故事を取って創ったものと見える。【歌は万葉巻五の長歌(804)に「遠等痘ヌ何遠等桃イ備周等可羅多麻乎多母等爾麻可志(おとめらがおとめさびすとからたまをたもとにまかし)云々」とあるのを取って作ったのである。五節の舞いを天武天皇が創ったことは、続日本紀十五の詔に見えるが、上記の神女のことは見えない。】

 

即幸2阿岐豆野1而。御獵之時。天皇坐2御呉床1。爾アブ(虫+囗の中に又)咋2御腕1。即蜻蛉來。咋2其アブ(虫+囗の中に又)1而。飛。<訓2蜻蛉1云2阿岐豆1>於レ是作2御歌1。其歌曰。美延斯怒能。袁牟漏賀多氣爾。志斯布須登。多禮曾意富麻幣爾。麻袁須。夜須美斯志。和賀淤富岐美能。斯志麻都登。阿具良爾伊麻志。斯漏多閇能。蘇弖岐蘇那布。多古牟良爾。阿牟加岐都岐。曾能阿牟袁。阿岐豆波夜具比。加久能碁登。那爾於波牟登。蘇良美都。夜麻登能久爾袁。阿岐豆志麻登布。故自2其時1。號2其野1謂2阿岐豆野1也。

 

訓読:すなわちアキヅヌにいでまして、ミカリせすときに、スメラミコトみあぐらにましましけるに、アムみただむきをくいけるを、アキヅきて、そのアムをくいて、とびいにき。<セイレイをよみてアキヅという。>ここにみうたよみしたまえる。そのみうた、「みえしぬの、おむろがたけに、ししふすと、たれぞおおまえに、もうす、やすみしし、わがおおきみの、ししまつと、あぐらにいまし、しろたえの、そてきそなう、たこむらに、あむかきつき、そのあむを、あきづはやくい、かくのごと、なにおわんと、そらみつ、やまとのくにを、あきづしまとう」。かれそのときよりぞ、そのヌをアキヅヌとはいいける。

 

歌部分の漢字表記:み吉野の、袁牟漏が嶽に、猪鹿伏すと、誰ぞ大前に、奏す、やすみしし、我が大君の、猪鹿待つと、呉床に坐し、白栲の、衣手著具ふ、手腓に、アブかきつき、そのアブを、蜻蛉早咋ひ、かくの如、名に負はむと、そらみつ、倭の國を、蜻蛉嶋とふ

 

口語訳:阿岐豆野に行って狩をした時、天皇は呉床にいたが、そこへ虻が飛んできて、腕を食った。ところが蜻蛉が飛んできて、その虻を食って飛んで行った。そこで歌を作って、「み吉野の御室が嶽に猪鹿が伏すと、誰か私に言ったのか。やすらかに座っている私の猪鹿を待って呉床にいる私の、衣を着た腕を虻が噛み、その虻を蜻蛉がいち早く食ってしまった。そうやって倭国を『あきづしま』というのだなあ」、その時から、その野を阿岐豆野と言う。

 

即幸(すなわちいでまし)は、前の段と同じ時のことである。○阿岐豆野(あきづぬ)は吉野の内にある。【大和志に「川上荘の西河(にじこう)村にある」と言っている。その通りだろう。契沖が「今は下市と言うところだ」と言ったのはどうだろう。】万葉巻一【十八丁】(36)に「御心乎吉野乃國之花散相秋津乃野邊爾宮柱太敷座波(みこころをよしぬのくにのはなちらうあきづのぬべにみやばしらふとしりませば)云々」、巻六【十丁】(907)に「三芳野之蜻蛉乃宮者(みよしぬのあきづのみやは)」。また(811)「三吉野之秋津乃川之(みよしぬのあきづのかわの)」、巻十【五十六丁】(2292)に「テイ(虫+廷)野之(あきづぬの)」、巻十二【二十四丁】(3065)に「三吉野之蜻乃小野爾(みよしぬのあきづのおぬに)」など、この他にもたくさん見える。【後世の歌に「かげらふの小野」と詠むのもこの野のことで、後に蜻蛉を「かげろう」と言ったことによって誤った名である。】○御獵之時は、「みかりせすときに」と読む。「せす」は「し賜う」と言うようなことだ。万葉巻一【十九丁】(38)に「神佐備世須登(かむさびせすと)」、また【二十一丁】(45)「多日夜取世須(たびやどりせす)」など、他にも多い。巻六【十四丁】(926)に「安見知之和期大王波見芳野乃飽津之小野笶野上者跡見居置而御山者射目立渡朝獵爾十六履起之夕狩爾十里フミ(足+搨のつくり)立馬並而御獵曾立爲春之茂野爾(やすみししわごおおきみはみよしぬのあきづのおぬのぬのへにはとみすえおきてみやまにはいめたてわたしてあさがりにししふみおこしゆうがりにとりふみたてうまなべてみかりぞたたすはるのしげぬに)」。【これは神亀二年五月、吉野離宮に行幸した時の歌である。】○アブ(アム)は、【延佳本にボウ(亡の下に虫二つ)と書かれたのはさかしらに改めたのである。今は諸本のままに引いておいた。】「虻」である。書紀には虻ともボウとも書かれている。【虻とボウは同じ字である。】和名抄に「説文にいわく、ボウは人を噛む飛ぶ虫である。和名『あぶ』」とある。アムは字書には見えないが、皇国でいにしえに書き慣れた字だったのだろう。そういうたぐいは多い。【師いわく、「ボウ(くにがまえに亡ぶ)と亡は同じだから、虻をアムと書いたのか」と言った。ボウ(くにがまえに亡ぶ)と亡とが同じだということはまだ考えられない。そういうことがあれば、この説のようになるだろう。字書を考えると、「罔」、「网」、「?(冂に又)」などは同じだと言う理由があり、亡も通わせて書いたのだろうか。新撰字鏡に「モウ?(冂にメ)は『ぬかが』」、また「虻とモウ?(虫+盲)は同じ。『ぬかが』」とあり、アムと虻とが通うところがあるからだろう。】○腕(ただむき)は、和名抄に「陸詞の切韻にいわく、腕は手腕である。和名『ただむき』、一にいわく、『うで』」と見え、上巻の歌に「斯路伎多陀牟伎(しろきただむき)」、高津の宮の段の歌にも「斯漏多陀牟岐(しろただむき)」とある。歌に依るなら、「たこむら」とも読める。○蜻蛉(あきづ)は書紀の~武の巻にも見える。和名抄には「蜻蛉は和名『かげろう』」とあり、「あきづ」という名は載せない。【いにしえは「あきづ」と言ったのを、やや後になって「かげろう」と言うようになったのだろう。ただ万葉巻に「かぎろい」というのに、「蜻テイ(虫+廷)」、「玉蜻」などの字を借りて書いているので、その当時から「かげろう」と言ったのだろう。「かげろう」と言うのは「かぎろい」が訛ったのである。ある人が言うには、今も陸奥の仙台南部などでは「あきづ」と言うそうだ。】今の世に「とんぼ」という虫だ。【この虫に種々あって、種々の名がある。歌に「かげろふのあるかなきか」などと詠んでいるのは、もと虫の名のかげろうではない。それは漢文に陽炎と言い、歌に「糸ゆう」と言うもののことなのを、この虫の名と混同して、蜻蛉の一種で特に細く小さく、微かなのを言うと思い込んで、歌にもそう詠むこととなった誤りである。】○飛は「とびき」とだけ言ったのでは、何となく言葉が足りない気分がするから、「とびいにき」と読んでおく。書紀に「將去(もていぬ)」とある。○書紀にいわく、「四年秋八月辛卯朔戊申、吉野宮に行幸した。庚戌、河上の小野に行って、狩人に命じて獣を並べ、自分で射ようとした。待っている時、虻が飛んできて天皇の臂を食った。ところが蜻蛉が急にやって来て、その虻を食わえて飛び去った。天皇は詔を思い付き、群臣に『私のために蜻蛉を賞めて歌を詠め』と言った。群臣は歌が詠めなかったので、天皇が自ら詠んで云々」とある。○美延斯怒能(みえしぬの)は「御吉野の」である。書紀には「野麻等能(やまとの)」とある。袁牟漏賀多氣爾(おむろがたけに)は、【「牟」の下にもう一つ「牟」を重ねて書いた本は誤りである。「た」は清音である。書紀には濁音の「陀」を書いてあるが、この歌の中に「陀」の字が多く、みな清音のところだから、ここもそうである。世に「某が嶽」と言うのは、みな「た」を濁っているが、いにしえはみな清んで言った。】書紀には「鳴武羅能陀該爾(イ+爾)(おむらがたけに)」と書いてある。大和志に「小牟漏岳(おむろがたけ)は、國栖(くず)荘、小村(おむら)の上の方にある。青峯が高く聳え、谷の水は麓にほとばしる。山中に祠がある」という。これかどうか、よく調べる必要がある。【契沖が「地名か」と言ったのは良い。斉明紀に「乎武例我禹坏爾(おむれがうえに)」とあるのを引いて弘仁私記に「小山(おむれ)之上也」と言ったのを引いて言っているのは合わない。「多氣(たけ)」とあるから、地名であることは疑問の余地がない。夫木集十二(4738)に「御獵(みかり)するをむらの嵩(たけ)にすむ鹿はうちとけがたきねをやなくらむ」とある。】○志斯布須登(ししふすと)は。「猪鹿伏すと」である。「ふす」とは隠れていることを言う。狩については、猪鹿などのたぐいをすべて「しし」と言う。書紀神代巻では、獣もそう読んでいる。【「兄は弟の弓を持って山に入り、獣(しし)を求めたが、獣(しし)の乾いた跡さえ見つけることが出来なかった」。】○多禮曾意富麻幣爾(たれぞおおまえに)は、「誰ぞ大前に」である。「たれか」と言うべきところを「たれぞ」と言うのは、万葉巻十四【廿丁】(3460)に「多禮曾許能屋能戸於曾夫流(たれぞこのやのとおそぶる)」、催馬楽の淺水に、「多禮曾古乃名加比止太天々美毛止乃加太知世宇曾己之止不良比爾久留也(たれぞこのなかびとたててみもとのかたちしょうそこしとぶらいにくるや)」【いろは歌にも「わが世たれぞ常ならむ」とある。】などがある。大前は天皇の前である。【祝詞などに「大前」とあるのを「ふとまえ」と読むのが誤りであることは、この歌で分かる。】○麻袁須(もうす)は、【三言一句】「申す」である。この二句は書紀には「タ(てへん+施のつくり)例柯擧能居登、飫ホウ(なべぶたに臼、下に衣の足)麿陛爾(イ+爾)、麻鳴須(たれかこのこと、おおまえに、もうす)一本に『飫ホウ麿陛爾(イ+爾)麻鳴須』を『飫ホウ枳彌爾(イ+爾)麻鳴須(おおきみにもうす)』と替える」とある。師が言うには、「ここは紀の方が優っている。字が落ちたのではないか」という。【本当にそうだ。この記では「たれぞ」の下に「許能許登(このこと)」の四字があるはずだ。しかしもとのままでも意味は通じる。】○夜須美斯志和賀淤富岐美能(やすみししわがおおきみの)は、「安見しし吾大君の」である。この言は中巻に出た。【伝廿八の十一葉】天皇は、自分でも「大君」と言うことはもちろんだが、「わが」とみずから言ったのは、どうかと思われるが、やはりそう言うこともあるのだろう。【「朕大君(われおおきみ)」という意味に取るのは他の例と違う。】○斯志麻都登(ししまつと)は「猪鹿待つと」である。万葉巻七【二十八丁】(1292)に「袖纒上宍待我背(そでまきあげてししまつわがせ)」とある。○阿具良爾伊麻志(あぐらにいまし)は「呉床にいまし」である。○斯漏多閇能(しろたえの)は、「白服の」である。「白たえ」のことは冠辞考に見える。○蘇弖岐蘇那布(そてきそなう)は、【「弖」は濁音だから「傳」と書くべきなのに、清音の「弖」をかいたのは、古くは清んで言ったのだろうか。万葉にも「弖」を書いたところがある。しかし多くは「蘇泥」、「蘇田」、「蘇デ(泥の下に土)」など、濁音の字を書いてある。】契沖いわく「袖著具う」だと言う。その通りだ。【また思うに、古言に「見賜う」を「みそなわす」と言うのは、「見し行わす」と言うのを縮めたので、そのことは前に述べた。とするとこれもその例で、「着し行う」を縮めた言でもあろうか。それなら「着賜う」という意味だ。万葉巻五(892)に「布可多衣安里能許等其等伎曾倍騰毛(ぬのかたきぬありのことごときそえども)」、これは「着装えども」の意味か。巻十七(3921)に「加吉都播多衣爾須里都氣麻須良雄乃服曾比獵須流月者伎爾家里(かきつばたきぬにすりつけますらおのきそいかりするつきはきにけり)」、これは着装って猟をするのである。「服」の字を書いているので分かる。「競い猟する」と考えるのは誤りだ。これらはこことは意味が異なるが、言葉が似ているので引いた。】「着具う」は、袖だけではないが、袖と言ったのは、手のことを言うためである。ところで【「やすみしし」から】ここまでの六句は、書紀には「飫ホウ(なべぶたに臼、下に衣の足)枳瀰ハ(たけかんむりに斯)賊據鳴枳カ(舟+可)斯題タ(てへん+施のつくり)麿々枳能阿娯羅爾(イ+爾)陀々伺(おおきみはそこをきかしてたままきのあぐらにたたし)【一本には「陀々伺」を「伊麻伺(いまし)」に替える。】施都魔枳能阿娯羅に(イ+爾)陀々伺斯々魔都登倭我伊麻西麼佐謂麻都登倭我陀々西麼(しつまきのあぐらにたたしししまつとわがいませばさいまつとわがたたせば)」とある。【「佐謂麻都登」は「真猪待つと」である。】これも書紀の方が優って聞こえる。【この記にあるのは、「おおまえにもうす」のところ、何となく言が足りない感じである。】○多古牟良爾(たこむらに)は、「手腓に」である。腕は足の腓と同じなので、手の腓である。和名抄に「陸詞にいわく、腓は脚の腓である。『こむら』」とある。【説文に「腓はセン(月+瑞のつくり)である」と言っている、センも「こむら」と読む。】新撰字鏡には、「セン(月+專)は脛の腹である。『こむら』」とある。書紀にはこの句が「陀倶符羅爾(たくふらに)」とある。○阿牟加岐都岐(あむかきつき)は、「虻掻きつき」である。書紀には下の「岐」の下に「都」の字がある。○曾能阿牟袁(そのあむを)は、「その虻を」である。○阿岐豆波夜具比(あきづはやくい)は【「く」は清音なのに、ここで濁音の「具」を書いたのは、後に誤ったのだろう。書紀に「倶」とあるのが正しい。師は即「倶」の誤りとして改めたが、記中に「倶」を仮名に用いた例はない。】「蜻蛉速咋い」である。「咋って」と「て」を補って見るべきである。【谷川氏いわく、「蜻蛉に『かつむし』という名がある」と言うのは「勝虫」で、この歌による名だろう。】○加久能碁登(かくのごと)は、「如レ此」である。【「碁」は諸本に「基」とある。ここは真福寺本によった。】万葉巻廿【十三丁】(4304)に「夜麻夫伎乃花能左香利爾可久乃其等伎美乎見麻久波知登世爾母我母(やまぶきのはなのさかりにかくのごときみをみまくはちとせにもがも)」とある。○那爾於波牟登(なにおわんと)は、「名に負わんと」である。【「と」は後世に「とて」という意味だ。】○蘇良美都(そらみつ)は「虚空見つ」で、倭の枕詞である。前に出た。【傳三十七】○夜麻登能久爾袁(やまとのくにを)は「倭の国を」である。○阿岐豆志麻登布(あきづしまとう)は、「蜻蛉嶋と言う」である。【「とう」は「という」である。】蜻蛉嶋のことは、國號考で詳しく言った。万葉巻一【七丁】(2)に「怜何國曾蜻嶋八間跡能國者(うましくにぞあきづしまやまとのくには)」など、さらに多い。この【「かくのごと」から】歌の全体の意味は、「蜻蛉が云々して、倭国の名を自分の名に負い、このように朕に仕えて功績を立てようとする、そのためにいにしえから倭国を蜻蛉嶋と言うのだなあ」と言ったのである。【いにしえから倭国を蜻蛉嶋ということは、今このように蜻蛉が朕に仕えて功績を立て、国の名を自分に負おうとしたためだと言うのも同じことである。これは実際にそうだというわけではないけれども、たまたまこの虫の名が国名と同じだから、その功績を賞めようとして言ったので、これは歌では普通のことだ。】この五句は、書紀には「波賦武志謀飫ホウ(なべぶたに臼、下に衣の足)枳瀰爾(イ+爾)麿都羅符儺我柯陀播於柯武婀岐豆斯麻野麻登(はうむしもおおきみにまつらうながかたはおかんあきづしまやまと)」とあって、【これは「汝が形は置かん」とあるのを考えると、この地を蜻蛉野と名付けて、その名を残し置こうという意味に聞こえるのに、結尾の「蜻蛉嶋」というのは納得できない。伝えの誤りではないだろうか。契沖はこれに二つの説を言ったけれども、共に通じがたい説である。】「一本にいわく」として細注に挙げられたのは、この記と全く同じである。【ただし「とう」は「という」とある。】○「故自2其時1(かれそのときより)云々」。これ以前の名は「河上小野」と言ったのだろう。書紀にそう見える。【今の世にも「川上荘」というところだ。師は「この野を今初めてこう名付けたように書かれたのはどうか。この時のことによって、自然と蜻蛉野と言ったのだろう」と言った。この記の趣ではそうだろう。書紀の歌では「汝の形を置こう」とあるので、この時に名付けたようである。】書紀にいわく、「よって賞めてこの地を蜻蛉野と名付けた」とある。

 



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