本居宣長『古事記伝』(現代語訳)42

 

 

又一時天皇登=幸2葛城之山上1。爾大猪出。即天皇以2鳴鏑1。射2其猪1之時。其猪怒而。宇多岐依來。<宇多岐三字以レ音>故天皇畏2其宇多岐1。登=坐2榛上1。爾歌曰。夜須美斯志。和賀意富岐美能。阿蘇婆志斯。志斯能。夜美斯志能。宇多岐加斯古美。和賀爾宜。能煩理斯。阿理袁能。波理能紀能延陀。

 

訓読:またあるときスメラミコトかつらぎのやまのうえにのぼりいでましき。ここにおおきイいでたりき。すなわちスメラミコトなりかぶらをもちて、そのイをいたまえるときに、そのイいかりて、うたきよりく。かれスメラミコトそのうたきをかしこみて、ハリのきのうえにのぼりましき。かれみうたよみしたまわく、「やすみしし、わがおおきみの、あそばしし、ししの、やみししの、うたきかしこみ、わがにげ、のぼりし、ありおの、はりのきのえだ」。

 

歌部分の漢字表記;やすみしし、我が大君の、遊ばしし、猪の、病猪の、唸き畏み、我が逃げ、登りし、在丘の、榛の木の枝

 

口語訳:あるとき天皇が葛城の山に登ったところ、大きな猪が出た。天皇は鳴鏑でその猪を射た。猪は怒って、唸り迫ってきた。天皇は畏れて、榛の木の上に登った。そこで歌って、「やすみしし、吾が大君の狩していた猪の、病んだ猪の、唸りを畏れて、逃げ登った在丘の榛の木の枝」。

 

葛城(かつらぎ)は前に出た。○山上(やまのうえ)は、単に「やま」と読むべきか。○登幸(のぼりいでましき。書紀には「獵」とある。この記にはそうは見えないが、歌に「やみしし」とあるから、狩だろう。○大猪は「おおい」と読む。仁徳天皇の歌に「意富韋古(おおいこ)」とある。【狩には「しし」と言うのが普通だが、ここはそうは読まない。】○鳴鏑(なりかぶら)は上巻に出た。【伝十の四十葉】○宇多岐(うたき)は怒った声だろう。【「岐」は書紀に「枳」を書いているので、清んで読む。記中、「岐」の字は清音にも濁音にも書いてある。このことは初めの巻で言った。出雲風土記の秋鹿郡、大野郷のところに、和加布都奴志(わかふつぬし)命が猪を狩ったことが見え、同郡に大野津神社、宇多貴(うたき)神社と二つが並んでいる。延喜式神名帳にも載っている。これはあるいは猪の「うたき」に因む名ではないだろうか。遠く離れた場所のことだが、言が同じなので引いておいた。】俗言に「うなる」と言う言葉に通っているように聞こえる。○榛。【諸本に「ソウ(木+奏)」と書いているのは誤りだ。ここは真福寺本、延佳本によった。】ここは「はりのき」と読む。【ただ「はり」と読むのは良くない。】今の世に「はんの木」というものである。万葉の歌に「榛」とあるのもこれだ。【みな「はり」と読む。「はぎ」と読んで萩のことと思うのは誤りだ。】契沖いわく、「顯昭は萩と榛を同じものだと言ったが、万葉には草の『はぎ』を『芽』とも『芽子』とも書いてある。木の『はぎ』に『榛』を書いてある。『榛』は『はり』である。『はぎ』というのは『はり木』というものを、『り』の字を略したものである。俗には『はんの木』という。日本紀に『蓁摺衣』というのなどがある。万葉に『衣を染める』と詠んでいることが多い。今も田舎などでは、榛を植えておいて、染める材料にする。萩も『萩が花ずり』と言うことがあるので、顯昭は誤ったのだ。榛は全く芽子ではない。よく万葉を見て判別せよ」と言った通りだ。【ただし言い方に紛らわしいところがある。草の「はぎ」と言うのは萩のこと、木の「はぎ」というのは「はり」のことである。これは紛らわしい。というのは、萩に草であるのと木であるのと二種あって、顯昭が「榛(はぎ)」と言ったのは木である萩のことで、榛をそれに当てたのは誤りだが、契沖はなおこれを「はぎ」と読んで「木のはぎ」と言ったのは、「木の萩」のようにも聞こえて紛らわしい。「榛」と書いたのは「はりの木」であって、萩ではない。「はり」を「はぎ」と言ったことはあったのか、分からない。「はぎ」とも言ったことがあるなら、契沖が言ったように「はり木」の略だろう。それはどうであれ、万葉に「榛」と書いたのは「はり」である。たといえ「はぎ」と読んだとしても、萩のことではない。また万葉の「榛」を「はぎ」と読むべきでない。万葉に詠まれた「榛(はり)」と芽子は、歌の様子が違い、分かれている、榛は衣に摺ることだけを詠んで、花を詠むことはなく、芽子は主として花を詠んでいる。それを師(賀茂真淵)の万葉考別記に、榛も花の咲く芽子も同じだと言っているのは誤りである。巻一(57)に「引馬野爾、仁保布榛原、入亂、衣爾保波勢(ひくまぬに、におうはりはら、いりみだれ、ころもにおわせ)」とあるのも、色よくにおう「はりの木」の木の原に入り交じって衣を摺れということである。巻三(281)に「徃左來左、君社見良目(ゆくさくさ、きみこそみらめ)」とあるのも、榛の木を見ようと言うのではなく、眞野の榛原の地をすべて見ようと言っている。この上の歌(279)に「猪名野(いなぬ)は見せつ、角松原(つぬのまつばら)何時しか見せむ」とあるたぐいだ。「榛」を萩の花のことと取り違えてはならない。巻十四(3435)に「伊可保呂乃、蘇比乃波里波良和我吉奴爾、都伎與良之母與(いかほろの、そいのはりはらわがきぬに、つきよらしもよ)云々」、巻一(18)に「狹野榛能、衣爾著成(さぬはりの、きぬにつくなす)」、この二首などは、「衣に着く」と言った趣などからしても、「榛」は「はり」と読むことが分かる。榛の字の上に「サ」を付けて「蓁」とも書くので、やはり萩だろうかと疑う人もあるだろうが、「蓁」は「榛」と字が通うので書いただけである。】○夜須美斯志(やすみしし)、和賀意富岐美能(わがおおきみの)。前に出た。○阿蘇婆志斯(あそばしし)は射たことを言う。「あそぶ」とは楽しみを主とすることを言うが、【そのことは伝三十の廿四葉で言った。】広くこうとも言う。上巻に「鳥遊(とりのあそび)」とあったのも、鳥を狩ることを言った。【伝十四の十三葉】宇津保物語にも弓を射ることを「あそばす」とある。その他、甕栗の宮の段の歌に、「阿蘇毘久流、志毘賀波多傳爾(あそびくる、しびがはたでに)」、書紀の天智の巻に「于知波志能、都梅能阿素珥爾(うちはしの、うめのあそびに)」、万葉巻三【三十二丁】(347)に「世間之遊道爾(よのなかのあそびに)」、巻五【十七丁】(835)に「烏梅能波奈、家布能阿素毘爾、阿比美都流可母(うめのはな、きょうのあそびに、あいみつるかも)」、(836)「烏梅能波奈、多乎利加射志弖、阿蘇倍等母(うめのはな、たおりかざして、あそべども)」、巻十三【二十八丁】(3324)に「・・・登之而、國見所遊(のぼらして、くにみあそばし)」、拾遺集の【雑下】(552)詞書に、「御碁あそばしける」などもある。【みな今の俗に言う「遊ぶ」のとほぼ同じ意味だ。源氏物語の橋姫の巻に、「琴ならはし、碁うち、偏突(へんづき)など、はかなき御遊びわざにつけても、云々」(偏突は漢字の旁を隠して、偏だけで字が何であるかを当てさせる遊びである)。また「あそぶ」を尊んで「あそばす」というのは、今の世の言も同じだ。それから転じて、今の世には「〜す」ということを尊んで、「〜なさる」とも「〜あそばす」とも言う。】○志斯能は「猪の」である。○夜美斯志能(やみししの)は「病み猪の」で、俗に言う「手負いの猪の」である。書紀にはこの句がない。後に落としたのだろう。○宇多岐加斯古美(うたきかしこみ)は、「宇多岐を畏れて」である。○和賀爾宜(わがにげ)は「わが逃げ」である。○能煩理斯(のぼりし)は「登りし」である。○阿理袁能(ありおの)は師が「荒岳である」と言ったのが良いだろうか。【延佳も「荒峽」とそばに記した。】「荒磯(ありそ)」などの例である。【「荒磯」は「あらいそ」の縮まった形では「あり」と言うが、「荒岳」などは「あらお」と言うはずで、「あり」と言うことはどうかとも思われるが、やはり「荒」をい「あり」と言うべきか。】書紀には下に「宇倍能(うえの)」とある。【契沖は「『在尾の上の』である。万葉巻一(82)にいわく、『在根良、對馬乃渡(ありねよし、つしまのわたり)云々』、この『在根(ありね)』と『ありお』とは同じだろうか。『あって久しい嶺』、『あって久しい尾』ということではないか」と言ったのは誤りだ。万葉の「在根良」は字が誤っている。それに「在」とだけ言って「あって久しい」という意味とするのもどうか。たとえその意味でも、「あって久しい」と言うのは何のためだろうか。】○波理能紀能延陀(はりのきのえだ)は「榛の木の枝」である。書紀には「婆利我曳陀、阿世鳴(はりがえだ、あせを)」とある。この記は「阿勢袁(あせを)」の句が落ちたのだろう。この言はなくてはならない。「阿勢袁」は倭建命の歌に「一松、阿勢袁」と見える。【伝二十八の四十葉】ここもその歌で言ったのと全く同じ意味である。○書紀にいわく、「五年春二月、天皇は葛城山で狩りをした。靈鳥(あやしきとり)が突然やって来て、大きさは雀のよう、尾が長く、地に曳いていた。鳴いて『努力努力(ゆめゆめ)』と言う。そこへ追われた猪が草むらから走り出て、人を追った。狩人は畏れて木に登った。天皇は舎人に命じて、『猛獣は人に逢えばすぐに止まる。迎えて刺すべきだ』と言った。舎人は肝が小さく、木に登って顔色を失っていた。怒った猪は直にやって来て、天皇を襲おうとした。天皇は弓をつがえてこれをとどめ、脚を上げて踏み殺した。そこで狩を止めて、舎人を斬ろうとした。舎人は死に臨んで歌って云々」とある。【この歌を舎人が作ったとしたのは、伝えが異なる。舎人が作ったとする方が優っているようである。「わがおおきみの」と言って、「わがにげのぼりし」と言ったのは、天皇の歌のようではない。ただ「・・・阿西鳴(あせを)」と詠んだのは、この木に登って命が助かった時に詠んだものと聞こえ、死に臨んで詠んだもののようではない。また書紀にはこの歌の次に「皇后云々」のことがある。その中に天皇が「楽しきかな。朕は狩をして善言を得て帰る」とあるのは、非常に漢めいて聞こえ、皇国の上古の人が言うことではない。この天皇などは、どうしてそういうことを言うだろうか。こうしたことをたいへんなことのように言うのは、から国のならいで、いわゆる俳諧ざま(おふざけ)のことだろう。】

 

又一時天皇登=幸2葛城山1之時。百官人等。悉給B著2紅紐1之青摺衣服A。彼時有B其自2所レ向之山尾1。登2山上1人A。既等2天皇之鹵簿1。亦其裝束之状。及人衆。相似不レ傾。爾天皇望令レ問曰。於2茲倭國1。除レ吾亦無レ王。今誰人如レ此而行。即答曰之状亦。如2天皇之命1。於レ是天皇大忿而。矢刺。百官人等。悉矢刺爾。其人等亦皆矢刺。故天皇亦問曰。然告2其名1。爾各告レ名而彈レ矢。於レ是答曰。吾先見レ問故。吾先爲2名告1。吾者。雖2惡事1而一言。雖2善事1而一言。言離之神。葛城一言主之大神者也。天皇於レ是惶畏而白。恐我大神。有2宇都志意美1者<自レ宇下五字以レ音>不レ覺白而。大御刀及弓矢始而。脱2百官人等所レ服衣服1。以拜獻。爾其一言主大神手打受2其捧物1。故天皇之還幸時。其大神滿山末。於2長谷山口1送奉。故是一言主之大神者。彼時所レ顯也。

 

訓読:またあるときスメラミコトかづらきやまにのぼりませるとき、ツカサヅカサのひとども、ことごとにあかひもつけるアオスリのきぬをたまわりてきたりき。そのむかいのやまのおより、やまのうえにのぼるひとあり。すでにスメラミコトのみゆきのつらにひとしく、そのヨソイのさま、またひとどもも、あいにてわかれず。ここにスメラミコトみやらしてとわしめたまわく、「このヤマトのくにに、アレをおきてまたキミはなきを、いまたれぞかくてゆく」ととわしめたまいしかば、こたえもうせるさまも、スメラミコトのごとくなりき。ここにスメラミコトいたくいからして、ヤさしたまいき。ツカサヅカサのひとどもも、ことごとにヤさしければ、かのひとどももみなヤさせり。かれスメラミコトまたとわしめたまわく、「しからばそのナをのらさね。おのもおのもナをのりてヤはなたん」とのりたまいき。ここにこたえもうさく、「アレまずとわえたれば、アレまずなのりせん。アは、マガコトもひとこと、ヨゴトもひとこと。コトサカのかみ。キのヒトコトヌシのオオカミなり」ともうしたまいき。ここにスメラミコトかしこみてもうしたまわく、「かしこしアがオオカミ。うつしおみまさんとは、さとらざりき」ともうして、オオミタチまたユミヤをはじめて、ツカサヅカサのひとどもにけせるきぬをぬがしめて、おろがみてたてまつりき。かれそのヒトコトヌシのオオカミてをうちてそのささげものをうけたまいき。かれスメラミコトのかえりますとき、そのオオカミやまをくだりきまして、ハツセのヤマのクチにおくりまつりき、かれこのヒトコトヌシのオオカミは、そのときにぞあらわれませる。

 

口語訳:あるとき天皇が葛城山に登った時、百官の人々は、すべて紅紐を付けた青摺りの衣を給わって着ていた。その向かいの山に、登る人があった。全く天皇と同じ行幸の列を成しており、装いも人々の様子も、完全に同じだった。そこで天皇は人をやって、「この倭の国に、私を除いて君主はいないのに、誰が私と同じようにして行くのか」と問わせた。するとその答えも、天皇と同じようであった。天皇は非常に怒って、矢をつがえた。百官の人たちもみな矢をつがえた。すると彼の人々も同じように矢をつがえた。そこで天皇は「それならば、まず名を告げよ。それぞれ名を名乗ってから矢を射よう」と言わせた。すると相手は、「私が先に問われたから、まず名乗ろう。私は悪いことも一言、良いことも一言。言離の神、紀の一言主の大神だ」と答えた。天皇はすっかり恐れ入って、「失礼しました。大神。このように現れられるとは思っても見なかったもので」と言い、刀、弓矢を初め、百官に着せた衣を脱がせて、奉った。そこで一言主の大神は手を拍って、その献げ物を納めた。天皇が帰る時には、大神は山を下って、長谷の山口まで送ってきた。その一言主の大神はこのときに現れたのである。

 

百官人等(つかさつかさのひとども)。こう続けて書く四つの字は、孝徳紀や諸々の祝詞などに見える。いにしえの決まった書き方だったろう。百官は明の宮の段に出た。【伝卅三の五十六葉】○給は「たまわる」と読む。百官人の、受けて着る方から言うのだからである。【「たまいて」と読む時は、天皇の与える方から言う。】○服は「きたり」と読む。【後の文には「きぬ」というのに「衣服」の二字を書いてあるが、ここはそう読むと「きぬ」という言がなく、語が足りないので、「服」の字は離して読むべきである。高津の宮の段に見えるのも「服(きたり)」とある。考え合わせよ。】ここに装束のことを詳細に挙げるのは、後に「その装束のさまは云々」、「百官の人の着ている服を脱がせて」などとあるからだ。○山尾(やまのお)。一般に山に「尾」というのは二つある。一つには高いところを言う。上巻に「谿八谷(たにやたに)」、「峽八尾(おやお)」【これは谷に対して言うのだから、「峽」は高いところであることは分かるだろう。古い書物では、高いところを言う「お」に、「峽」の字を用いることが多い。山の間を言うのではない。「お」は借字である。この「峽八尾」の「お」を書紀では「丘」と書いてある。この字も「お」という意味で広く用いられる。】「高山の尾上」、「坂の御尾」、【この「尾」のことを、伝十の巻で言ったのは違っていた。中卷の水垣の宮の段に「坂之御尾の神」とあるのは、坂の上にある神と聞こえるからである。】万葉に「向峯(むかいお)」、「八峯(やつお)」、「峯之上(おのうえ)」【「峯」の字で書いたのは、高いところだからである。しかし「お」は「峯」に限らない。「おのえ」と言えば峯のことだと思うのは、まだ詳しくない。】など、「岡」の「お」、【「おか」は高いところを「お」と言うのに「か」を付けた名で、「か」は「すみか」、「ありか」などの「か」と同じ、「場所」の意味である。「坂」の「か」も同じだ。だから「丘」の字など、「お」にも「おか」にも通わせて用いた。万葉巻七(1359?)に「向岡(むかつお)」とも書いてある。】これらはみな高いところを指して言う。【「尾」と書いたのは、みな借字である。】もう一つは「尾頭」の「尾」で、鳥獣の尾と同じく、山の裾の引き延ばされたところを言う。【山には「腹」とも「足」とも普通に言う。記中に「御富登(みほと)」などもあるたぐいで、「尾」ともいうのである。】ここはそれである。山の上に対して言うので知るべきである。中巻の白檮原の宮の段に「畝火山の北の方、白檮(かし)の尾の上」、また古今集【春上】の歌に「山櫻わが見に來れば春霞峯にも尾にも立かくしつゝ」、これらは「尾」である。【ところが前述の高いところを言う「お」にも「尾」の字を借りて書くことが多いので、上記の二つは紛らわしくて定かでないようである。よく考えて区別すべきである。】○既(すでに)は「悉く」という意味だ。このことは序の解説で言った。【伝二の十八葉】○鹵簿は【漢宮儀にいわく、「天子の車駕の順序を鹵簿(ろぼ)と言い、兵衛は甲、楯で武装して外におり、前導する。これは簿(順序を書いた帳簿)による。故に鹵簿と言う。」】「みゆきのつら」と読む。天武紀でそう読んでいる。「みゆき」と言うのも古言である。万葉に「吾行(わがゆき)」などもあるので、天皇の行くのを「御行(みゆき)」と言うべきだろう。○装束(よそい)、【真福寺本には「束装」と書いてある。上巻にも書紀の神功の巻の「一にいわく云々」の文にもそうあるから、いにしえにはそうも書いたのだろう。】○不傾は間違いなく写し誤りだ。【師は「傾は揖の誤りだ」として「おろがまず」と読んだが、上の「相似」からの続き具合がすっきりしない。また延佳は「ケイ?(耳+癸)」の誤りだろうと言ったが、納得できない。】その正しい字は定かでない。強いて言わば「頒」の誤りと見て「わかれず」と読むべきではないだろうか。【字の意味は当たらないけれども、「分である」とも注されるので、「無別」の意味で借りることもあるだろう。】他に思い付いたこともないので、取りあえず「わかれず」と読んでおく。なおよく考えるべきである。○望は「みやらして」、【「みやる」というのも古言である。】万葉巻十【十三丁】(1897)に「吾者見將遣君之當波(あれはみやらんきみがあたりは)」、熱田社の寛平縁起の倭建命の歌に「奈留美良乎美也禮波止保志(なるみらをみやればとおし)」とある。○「除レ吾(あれをおきて)」。万葉巻五【二十九丁】(892)に「安禮乎於伎弖人者安良自等(あれをおきてひとはあらじと)」とある。○無王は「きみはなきを」と読む。○誰人(たれぞ)云々、上巻に「誰來2我國1忍々如此物言(たれぞわがくににきてしぬびしぬびかくものいう)」とあるのと似た文である。○「亦如2天皇之命1(またすめらみことのみことのりのごとくなりき)」とは、先方からも同じように咎めたのだろう。○矢刺(やさす)は前に出た。【伝十の三十葉】○其人等(かのひとども)は、向こうの山の尾から登って行く人たちである。○然(しからば)とは、上の答えを受けて言う。○告其名は「そのなをのらさね」と読む。【「その」と言うのも、上の答えを承けて言う。】万葉巻一【七丁】(1)に「名告紗根(なのらさね)」とある。○各(おのもおのも)は、そちらもこちらもということである。○彈は「はなたん」と読む。中巻の水垣の宮の段にもこの字を書いてある。○見問は「とわえたれば」と読む。【「とわえ」は「とはれ」の古言である。】○吾先爲の「先」の字は、ない本がある。ここは真福寺本、延佳本によった。○雖惡事は、「まがことも」と読む。御門祭の祝詞に、「惡事、古語『まがこと』」とある。【「悪」の字にこだわってはいけない。次に引く土佐風土記に「凶事」と書いたのが広くてよく当たっている。悪も凶事のうちだ。】「も」という辞に「雖も」の字の意味を持っている。【この字は意味によって書かれているが、「いえども」と読んだのでは古言でない。また師は「まがこととても」と読んだが、歌のさまを考えると、「とても」というのは古言でない。万葉巻十(1912)に「雖立雖居君之随意(たちてもいてもきみがまにまに)」とある訓では、ここと同じだが、歌のさまを考えればこれは「たつとも・うとも」と読まなければ合わないので、こことは異なる。「事」の下の「而」の字は「雖」の字によった漢文の書き方をしたまでである。】○善事は「よごと」と読む。【「雖」は上と同じ使い方である。】万葉巻廿【六十三丁】(4516)に「新年乃始乃波都波流能家布敷流由伎能伊夜之家餘其騰(あたらしきとしのはじめのはつはるのきょうふるゆきのいやしけよごと)」、これは正月元日に雪が降ったのを吉事(よごと)と言ったのである。【一般に「よごと」と言うのに、「言」と「事」の違いがある。壽詞、賀詞などは言である。事ではない。しかし古い書物では、その字は言と事を通わせて書いている。文によって弁別すべきだ。善事も「善」の字にこだわってはいけない。これも土佐風土記に「吉事」と書いたのが広くてよく当たっている。】この凶事も吉事も一言と言った意味は、次に言う。【ある書に「雄略帝が狩りをした時、神が姿を顕し、帝が『あなたは誰だ』と問うと、神は答えて・・・故に世に一言主の神と言う」、またある書物に「峯に入る者が神の名を問えば、神は答えて『主』と言う。これによって『主』の一言で一言主の神と言う」などと言うのは、「一言主」という名によって作った説と思われ。この記また風土記の説と違う。】○言離は「ことさか」と読む。土佐国風土記に「言放」と書き、書紀の神代巻に「泉津事解之男(よもつことさかのお)」、孝徳の巻に「事瑕之婢(ことさかのめやつこ)とした。事瑕、これを『ことさか』と読む」、これらによる。【上記神代巻の神の名も放(さか)り離れる意味である。「解」の字の意味も通う。孝徳の巻のものは「瑕」の字の意味は分からないが、「ことさか」と言った理由は、上記の神の名と同じに聞こえるので同言である。「瑕」の字は「遐」と通うことがあるから、あるいは遠ざかる意味で書かれたものではないか。】この名を負った理由は、凶事でも吉事でも、この神の一言で解き放たれる意味だろう。とすると字は借字で、「事離(ことさかる)」である。【「事」は凶事、吉事のことである。凶事を解放するのはもちろんだが、吉事を解放するのはどういうことかと思う人もあるだろうが、怒りなどによっては、人の吉事を解き放つこともあるだろう。ただ一言で、凶事も吉事もたちまち解け離れるのは、非常に可畏(かしこ)き大神なのである。】○葛城之(かつらぎの)。【真福寺本には「之」の字がない。】○一言主之大神(ひとことぬしのおおかみ)。名の意味は前の文で分かる。【この神を大物主神とも、事代主神とも言う人があるが、それは定かでないことである。】○宇都志意美(うつしおみ)は、「現大身」であると師が言った通りだ。【「大」は「御」というようなものだ。】書紀にこの時この大神の答えで「現人之神(あらひとがみ)」と言ったのと同じである。【「現人神」とは、顕れて人の姿をした神ということである。】大体に於いて神は隠れていて、現実には見えないのを、ここではその身が実際に見えているのを言う。書紀の神代巻に、「顯見蒼生、これを『うつしきあおひとくさ』と読む」とある。さらに伝六【二十四葉】を考えるべきである。「大」とは尊んで言ったのだ。○有・・・者は「まさんとは」と読む。【「ある」を尊ぶと「ます」と言う。】○注、「宇」の下に「都」の字がある本は誤っている。ここは真福寺本によった。○所服は、師が「けせる」と読んだのが良い。中巻倭建命の歌に「那賀祁勢流(ながけせる)」とある。【伝廿八の九葉】○衣服(きぬ)は、赤紐の付いた青摺り衣のことである。○獻(たてまつり)は、百官人から献げたのではない。天皇が献げたのである。【それを「獻り賜う」と言わないのは古語では通例だ。古語では「奉(まつり)」というのに、「賜う」と連ねて言うことはない。「賜う」というような場面でも「奉る」とだけ言う。】○手打(てをうち)は、ものを得たことを喜ぶ仕草である。書紀の顕宗の巻の室壽の御詞に、「手掌樛亮拍上賜吾常世等(たなそこもやららにうたげためわがとこよたち)」【「宴」というのは、この「拍上」で手を拍ち上げる意味の名である。中巻日代の宮の段、伝廿七の十五葉に詳しく言った。考え合わせよ。】持統の巻に「皇后は天皇の位に就き、公卿、百寮は並んで拝み、手を拍った」、続日本紀廿八に「・・・この日、僧侶たちの進退は法門の趣きに従うことはなく、手を拍って喜ぶことは一般の俗人と変わらなかった」。三代実録卅六に「大極殿が完成し、右大臣が朝堂院の含章堂で宴を催した。落成を祝ったのである。・・・飛騨の工(たくみ)ら、二十人ほどが感に堪えず座を立って手を拍ち、舞う。みんなが大いに笑い歌った」、貞観儀式の踐祚の大嘗會の儀に、【卯日の儀】「國栖は古風を奏すること五成、悠紀國は国風を奏すること四成。次に語部が古詞を奏する。次に隼人司が隼人を率いて・・・風俗の歌舞を奏する。皇太子以下、五位以上は、庭中の版について、跪いて手を拍つこと四度、【度ごとに八遍、神語にいう八開手がこれである。云々】六位以下も同様である」、【その小齋の人はこの限りでない。このことは江次第にも見える。】また春日祭の儀に、「・・・盃三度行き渡り、手を拍って一段終わる」、園并韓神祭の儀に「・・・屬は走り入って、版について申して、『御飯を賜い終わりました』、神祇官は手を拍つこと三段、酒盃三度行き終わると手を拍つこと一段」、【平野祭の儀にも同様にある。】鎭魂祭の儀に「・・・大膳の進、屬以下、共に立って神祇官に賜う。次に大臣以下、大膳の進が終わって版について申して『御飯を賜い終わりました』、共に手を拍つこと三度、【先後のものは「おお」と唱える。】盃を三度、また手を拍つこと一度」、【このことは式にも見える。】北山抄の十一月の辰の日の節會の儀に、「次に白黒の御酒を供する。次に臣下に給う。【名を称えてこれを給う。手を拍ってこれを飲む。】土佐日記の歌に、「おひ風の吹ぬる時は行く舟も、帆手(ほで)打てこそ喜(うれ)しかりけれ」【喜んで手を拍つことを船の帆手に言いかけた。】などとあり、みな楽しく喜ぶ心から拍つのである。またものを受け取るのに拍つことがある。貞観儀式の園韓神の祭の儀に、蘰木綿を賜うところに、「また参議以上、五位以上、諸司の判官以下、召使以上、諸司の史生以下、歌女以上、みな拍手してこれを受ける」、また平野祭の儀に蘰木綿を賜うところに、「・・・皇太子に献げるものを転じて、手を拍って『おお』と称え、受けてこれを着ける。云々」また「九月十一日、伊勢大神宮に幣を奉る儀」に、「忌部がやって来たことを勅する。忌部は『おお』と唱えて殿に上り、跪いて手を拍つこと四段、まず豊受の宮の幣を取って授ける。後に大神宮の幣を取る。【手を拍つことは初めの通り。】みずから持って版に戻る。【弊を取るごとに拍手一段。】」、皇太神宮儀式帳の六月祭の儀に、「すなわち大神宮司は御蘰木綿を持って入り、正道同重跪いて大神宮に向く。命婦は退出する。受け取って親王に奉る。親王は手を拍って木綿を受け取り、蘰に着ける。大神宮司はまた太玉串を取って参り入り、跪いて同じように侍る。命婦はまた退出する。受け取って親王に奉る。親王は手を拍ってみずから取って捧げて参り入る。云々」。【九月祭も同じ。親王は齋内親王である。】これらはものを受け取って喜ぶのではない。ただものを受け取るので手を拍つのである。また貞観儀式の大原野祭の儀に「次に神馬四疋、走馬八疋、神殿の前に牽いてきて並べる。次に神主は祝詞の座について、両段再拝する。大臣以下もともに拝む。祝詞を読み終わって両段再拝して手を拍つ」、平野祭の儀に「・・・皇太子以下、また両段再拝する。手を拍つこと四段」、江家次第の公卿勅使の儀に「次に使以下、拝むこと四度、終わって手を拍つ。次に四拝してまた手を拍つ」などは拝んで拍つのである。【ただしこれらももとはそのことをし終えて、喜ぶ意から出たのかも知れない。またもとから拝むのにも拍つ礼儀だろうか。手を拍つ数が決まったのは、やや後のことだろう。その数のことは、前に引いた大嘗會儀式に「手を拍つこと四度、たびごとに八遍、神語にいわゆる八開手(やひらで)がこれである」と見え、大神宮式に「再拝両段、短拍手(みじかで)両段、膝で退いて再拝両段、丹拍手両段、一拝する」、皇太神宮儀式帳に「四段帆願で、短手二段拍ち、一段拝み、またさらに四段拝んで、短手二段拍って、一段拝んで終わる」、また「四度拝み、手を四段拍ち、また後四度拝んで手を四段拍って終わる」、また「四段拝み、八開手を拍って、短手を一段拍ち、拝んでまたさらに四段拝み、八開手を拍って、短手一段拍ち、即一段拝む」などが見える。「八開手」とは、「四度、たびごとに八遍」とあるのは、八つずつ四度行うことで、合わせて三十二拍つことを言うように聞こえるが、「いわゆる八開手がこれである」と言ったのは、一度に八つずつ拍つことを言い、四度合わせたのを言うのではない。そうすると、八つ拍つのを「八開手」と言うのだ。「短手」とは八開手の半分で、四つ拍つのを言う。だから「短手二段」とあるのは、四つずつ二段で、すなわち八開手の数なのを、八開手と言わないのは、四つずつ二段に切って拍つためだろう。また単に「手四段」とあるのは。短手四段で、合わせて十六である。また上に引いた書に、ただ「手を拍つ」とあるのは短手一段で、四つ拍つのである。「拍手一度」とあるのも同じだ、ただ一つ拍つわけではない。大神宮年中行事に言っている「拜」は、「拝八度、手両端」とある。「端」は段である。これも一段に四つずつで、両段は合わせて八つである。「拝八度」とあるのは、四度拝二段を言ったので、その四度一段ごとに手は八つずつ拍って、合わせて十六である。「今の世もこれによって、四度拝んで手を八つ拍って、膝で退いて、また四度拝、手を八つ拍ち、後の手を拍つ」と荒木田經雅神主は言った。後の手とは、後に拍つのを言う。上記の拝式は、皇太神宮儀式帳に見えるのと同じである。神を拝むのに、手を拍つ数のことは、後世いろいろの説があるけれども、上記の数が正しい。江家次第に「上卿の拍手の作法は、音を立てない。手の先を合わせて、やおら打ち合わせる」とあるのは非常に後の作法で、本意を失ってしまっている。それは音高く大きく拍つのを良くないこととして、形だけを繕ったものである。いかにも音高く、大きく拍つのこそ本の意だろう。この手を拍つことを後の世に「かしわで」と言うのは、「拍」と「柏」と字の形がよく似ているのと、「膳部(かしわで)」のことを思い合わせて、混同した後世の誤りである。手を拍つことを「かしわ手」ということは、いにしえには決してなかったことである。それをなお、膳部のことと引き合わせて言う説などは、たいへんな強説である。から書(ぶみ)の周禮に、九つの拝みを挙げた中に、「振動」という拝みがあって、注に「両手を打ち合わせるのである」と言い、また「今の倭人の拝みは、両手を打ち合わせる。たぶんこれが古道の法なのだろう」などと言っている。】○捧物(ささげもの)。【真福寺本には「捧」の字を「奉」と書いてある。】中昔の書には、捧げ物のことがたくさん見える。物語書に「ほうもち」と字音でも見える。【ただし中昔に言っているのは、みな仏事の時に仏に奉るものの名である。これはたまたまそれに古い名が残ったのである。】○滿山末。「滿」の字は間違いなく写し誤りだ。その字を考えよう。【延佳本に「深」と書いたのは、例のさかしらで改めたのだろう。師は「深山と書くのは後世のことで、古い書物にはない。『みやま』は『眞山』の意味である」と言って、この「滿」の字を「從」の誤りとしたが、意味はそうでも「山の末」というのは、ここには不適切である。そこで思うに、】あるいは「滿」は「降」、【草書体では「滿」と「降」はやや似ている。】「末」は「來」の誤りではなかろうか。【山の上を山の末と言うことは、古い書物に多く、取り立てて言うほどのこともないが、ここはそう言うところではない。】そう思い付いたまま、「山を下り来まして」と読んでおく。○「於2長谷山口1(はつせのやまのくち)」は、大宮に近い辺りまでだろう。【書紀には「來目水(きめがわ)まで」とある。伝えが異なるのである。「於」の字を師は「まで」と読んだ。意味はそういうことだが、やはり字のままに読むべきだろう。】○送奉(おくりまつる)は、一言主大神が、天皇をということだ。○一言主之大神(ひとことぬしのおおかみ)、延喜式神名帳に「大和国葛上郡、葛木坐(かつらぎにます)一言主神社【名神大、月次・相嘗・新嘗】」とあるのがそうだ。【この社は、今は森脇村というところにある。】文徳実録二に「嘉祥三年十月、葛木一言主の神に正三位を授けた」、三代実録二に「貞観元年正月、正三位勲二等、葛木の一言主の神たちに従二位を授けた」、【同書廿四に「肥前国の葛木一言主の神に従五位下を授けた」とも見える。また山代国下鴨の社の内に一言二言三言神社というのがあると言う。続古今集の神祇(716)に賀茂の氏久、「君を祈る、たゞ一言の神の宮、二心なきほどはしるらむ」。土佐国風土記に、「土佐の高賀茂の大社がある。その神の名を一言主尊という。・・・暦録にいわく、雄略天皇が葛城山で狩をして・・・ある説にいわく、そのとき天皇と神と競争して、不遜の言があった。天皇は大いに怒って、土佐に移した。神ながらにして隠れた。そこで祝(ほふり)に代役をさせた。初めは賀茂の地にいて、後にこの社に遷った。ところが高野天皇の宝字八年、・・・國記にいわく、・・・多氏の古事記にいわく・・・大神は答えて、『吾はこれ吉事も一言、凶事も一言、言放之(ことさかの)葛木の一言主の神である』。天皇は非常に驚いて、馬を下りて拝んだ。百官も拝んだ。また天皇の如く、山獣を狩して、言語が相通じたので、おそらくこの時に不恭の言があったのか。論者のいわく云々」ここまでみな風土記の文である。宝字八年云々のことは続日本紀廿五に見え、伝十一に引いた。この風土記の説は高賀茂の神と一言主の神を混同したもので、誤りである。土佐国に遷されたのは高賀茂の神であって、一言主の神ではない。この天皇がこの山に狩りをした時に顕れた様子がよく似ているので、紛れたのである。一言主の神のことは、この記や書紀に見える通りで、放逐される理由がないから、高賀茂の神のことは別の話である。だから釈日本紀の一言主の神のところで、かの風土記を引いているのも誤りだ。このことは伝十一の六十葉でも言った。ところで世に役の君小角(おずぬ)、いわゆる役行者が、呪術で鬼神を使い、葛城山から金峯山に石の橋を渡させることによって、怒って一言主の神を縛ったという故事があり、後撰集以降の歌にもよく詠まれ、歌書にも見えて、人の知るところである。このことは古くは日本霊異記に書かれ、その終わりに「かの一語主大神は、役行者の前に呪術で縛られ、今の世に到るまで解脱しない」と言う。こういうたぐいの説は、神を賎しいものと貶めて、仏の法を尊いものにしようとしての謀であって、例の僧のやからの虚説である。上記の説も小角が自ら作ったのか、それともその流れを汲む連中が造ったことだろう。この一言主の大神は、この天皇でさえ畏れた神で、たいへんに威徳が大であり、尊い大神であるものを、小角のように微賎のものに、どうして制することが出来ようか。とんでもなく畏れ多い妖言である。その小角は、葛城山に長く籠もっていたというのを、その間にこの大神の怒りに触れなかったのは幸運だったというべきだろう。小角のことは続日本紀一に「役小角を、伊豆の島に流した。初め小角は葛城山に住み、呪術で知られた。韓國の連、廣足が師としたが、後にその能を害とし、讒するに妖をもって惑わせた。そこで遠いところに配した。世に相伝えて、小角は鬼神を使役し、水を汲ませ薪を取らせ、命に従わない時は呪術で縛った」とある。「世に相伝えて云々」は確かでないことで、愚かな凡俗の言い合ったことである。これにも一言主のことは見えない。まして小角を讒したのは韓國連廣足なのを、日本霊異記に一言主神が讒したと書いているのはどういうことか。大体これらのことからも、偽り作った話であることは明らかであろう。】○彼時所顯也(そのときにあらわれませる)とは、前に「宇都志意美」と見え、書紀にこの大御神みずから「現人之神」と言った通り、現身が顕れて見えたのを言う。【中巻訶志比の宮の段で、住吉大神のことを「この時にその三柱の大神の名は顕れた」とあるのと同じで、一言主大神という名が初めて現れたことを言うかとも思ったが、これは御名とは書いてないので、そうではないだろう。御社もその時に始まったのかとも思われるが、そうではない。「宇都志意美まさんとは覚らず」と天皇が言ったこと、名や社は、もとからあったような言い方である。】○書紀にいわく、「四年春二月、天皇は葛城山で狩をした。そこへ突然身長の高い人が向こうの谷に現れた。天皇にそっくりである。天皇はそれが神であることが分かったが、さらに『どこの人か』と尋ねた。身長の高い人は『現人神である。まず名乗りなさい。そうしたら私も名乗ろう』と答えた。天皇は『私は幼武尊(わかたけのみこと)である』と答え、身長の高い人は『私は一言主神である』と言った。二人して狩りをして遊び、一頭の鹿を追って相譲って矢を放ち、馬を並べて馳せた。言葉が恭しく、ただの人のようではなかった。この日遅く狩を止めて帰ったが、この神は天皇が來目水に到るまで送った。時の人はみな有徳の天皇だと言い合った」とある。

 

又天皇婚2丸邇之佐都紀臣之女袁杼比賣1。幸=行3于2春日1之時。媛女逢レ道。即見2幸行1而。逃=隱2岡邊1。故作2御歌1。其御歌曰。袁登賣能。伊加久流袁加袁。加那須岐母。伊本知母賀母。須岐波奴流母能。故號2其岡1謂2金スキ(金+且)岡1也。

 

訓読:またスメラミコト、ワニのサツキのオミのむすめオオドヒメをよばいに、カスガにいでませるとき、オトメのみちにあえる。いでましをみて、おかびににげかくりき。かれみうたよみしたまえる。そのみうた、「おとめの、いかくるおかを、かなすきも、いおちもがも、すきばぬるもの」。かれそのおかを、かなすきおかとぞなづけける。

 

歌部分の漢字表記:媛女の、い隱る岡を、金スキ(金+且)も、五百箇も欲も、スキ撥るもの

 

口語訳:天皇が丸邇の佐都紀の臣の娘、袁杼比賣を求めに、春日に行った時、一人の媛女に出会った。女は行幸の列を見ると、すぐに岡のほとりに隠れた。そこで歌って、「媛女の隠れた岡を、金鍬で崩してしまおう。何もかも崩してしまおう」。そこでその岡を金スキの岡という。

 

丸邇(わに)は姓である。前に出た。【伝廿二の四十六葉】○佐都紀臣は名である。「五月」か。臣は尸である。○袁杼比賣。名の意味は分からない。【師は「小戸」で地名ではないだろうかと言ったが、仮名遣いの例で言えば、「門」、「戸」の濁音には「度」を用いて「杼」は用いないので、どうだろうか。】この比賣のことは後にも見える。【書紀で春日大郎皇女を生んだ春日の和珥臣、深目の娘童女の君というのは、父の名と娘の名が、共に伝えが異なるので、同人であろうか。この袁杼比賣も後に見えた様子は采女ではないかと思われ、かの童女の君ももとは采女だったとある。】○春日(かすが)は前に出た。【伝廿一の四十葉】丸邇の臣の本居は丸邇であるが、【この地のことは伝廿三の七十五葉で言った。】春日に行幸したとあるのは、いにしえに春日は広い地名で、丸邇も春日の内だったのである。それで後に「春日之袁杼比賣」とある。○媛女逢道は「おとめのみちにあえる」と詠む。この媛女は誰とも書いてない。【袁杼比賣を言うのではない。】○岡邊は「おかび」と詠む。万葉巻五【十七丁】(838)に「乎加肥爾波、宇具比須奈久母(おかびには、うぐいすなくも)」、巻十七【十八丁】(3946)に「乎加備可良、秋風吹奴(おかびから、あきかぜふきぬ)」などがある。「び」は「べ」と通う音で、同言である。「濱備(はまび)」、「夜麻備(やまび)」、「可波備(かわび)」などもある。○逃隱(にげかくり)は、畏れ恥じてである。○其御歌(そのみうた)。【「御」の字は諸本にない。ここは真福寺本によった。記中こういうところには多くは「御」の字はないが、あるのもいいだろう。】○袁登賣能(おとめの)は「媛女の」である。○伊加久流袁加袁(いかくるおかを)は、「隠れた岡を」で、「い」は発語、【万葉巻一(17)にも「山際、伊隱萬代(やまぎわに、いかくるまで)」とある。】下の「袁」は、「よ」と言うようなものだ。【また普通の「を」として、「須岐波奴流」にかけてみてもいい。後世の心からすると「かくるる岡」とあるべきで、「かくる岡」では言葉が続かないようだが、「かくる」はいにしえは「かくらん」、「かくり」、「かくる」と言って、登る、渡るなどのたぐいの活用だから、「かくるる」とは言わずに後へ続くのである。】○加那須岐母(かなすきも)は【「加那」を「那加」と書いた本は前後写し誤ったのだ。ここは延佳本によった。】「金スキも」である。高津の宮の段の歌に「許久波」【木鍬である。】があって、鍬にも木で出来たものがあるように、スキにも木のものがあるため、金スキという名もあったのだろう。【契沖は「那加須岐」とある本によって「『長スキも』である。『加』は『賀』だろう」と言ったが、誤りである。】○伊本知母賀母(いおちもがも)は、「五百箇も欲しい」である。「ち」は廿(はたち)、百(ももち)、千(ちぢ)などの「ち」で、一つ二つの「つ」と同様、「いおつ」と言うのと同じである。【契沖が「五百千」としたのは良くない。】万葉巻十八【二十三丁】(4101)に「安波妣多麻、伊保知毛我母(あわびたま、いおちもがも)」とある。○須岐波奴流母能(すきばぬるもの)は「スキはねるもの」で、【この「すき」は「すく」とも活用する用言である。】「すきはねるものを」という意味である。契沖が万葉巻五(876)にいわく、「阿麻等夫夜、等利爾母賀母夜、美夜故麻提、意久利摩遠志弖、等比可弊流母能(あまとぶや、とりにもがもや、みやこまで、おくりもうして、とびかえるもの)」の最後の句と同じだと言った通りだ。また考えるに、こういう風に言った「もの」は、「〜しようものを」という意味ではなく、上の「金スキ」や「鳥」を指して言うのではないか。書紀の應神の巻の歌に「吉備那流伊慕塢、阿比瀰菟流莫能(きびなるいもを、あいみつるもの)」、これも同じ使い方か。この他「ものを」と言うのに「もの」とだけ言った例は、若櫻の宮の段の歌に「多都碁母々、母知弖許麻志母能(たつごもも、もちてこましもの)」とあるところで出した。【伝卅八の十二葉】「はぬ」という言は、万葉巻二【二十四丁】(153)に「奥津加伊、痛勿波禰曾、邊津加伊、痛莫波禰曾(おきつかい、いたくなはねそ、へつかい、いたくなはねそ)」とある。○歌全体の意味は、「その媛女をよく見ようと思ったのに、岡の向こうに隠れて見えないのを、悔しく思って、金スキが五百箇も欲しい、この岡の土を鍬き起こして、はねてしまい、崩してやろう」ということで、こうすれば隠れた媛女の姿形が見えるということだ。○金スキ(金+且)岡(かなすきのおか)。【金の字を「全」と書いた本は誤りである。ここは真福寺本、延佳本によった。】この岡は金スキに縁はないけれども、この歌で「加那須岐母云々」と詠んだので、こう名付けたのである。この地は長谷から春日までの間にあるだろう。そのところは定かでない。書紀の崇神の巻に「和珥の武スキ(金+操のつくり)坂」と見える。【この場所が和珥であるのは、「スキ」というのが同じだとの由縁はあるが、同じ地のようでもない。契沖は「金」を「全」と書いた本に依って、「たけすき」と読んで、崇神記を引いてこれは今の金スキではないかと言った。「全」を「たけ」と読む理由があるだろうか。大和志に「全スキ丘は添上郡の櫟本(いちのもと)の村にある」と言って崇神紀を引き、またここの歌を引いて、「那加須岐母(たかすきも)」とした。書紀の「武」の字も「たか」とは読めない。「全」はなおさらである。それに「那」を「た」の仮名としたのもたいへんな強説である。】

 

又天皇坐2長谷之百枝槻下1。爲2豊樂1之時。伊勢國之三重采女(女+采)。指=擧2大御盞1以獻。爾其百枝槻葉落。浮於2大御盞1。其采女(女+采)不レ知2落葉浮1レ於レ盞。猶獻2大御酒1。天皇看=行2其浮レ盞之葉1。打=伏2其采女(女+采)1。以レ刀刺=充2其頸1。將レ斬之時。其采女(女采)白2天皇1曰。莫=殺2吾身1。有2應レ白事1。即歌曰。麻岐牟久能。比志呂乃美夜波。阿佐比能。比傳流美夜。由布比能。比賀氣流美夜。多氣能泥能。泥陀流美夜。許能泥能。泥婆布美夜。夜本爾余志。伊岐豆岐能美夜。麻紀佐久。比能美加度。爾比那閇夜爾。淤斐陀弖流。毛毛陀流。都紀賀延波。本都延波。阿米袁淤幣理。那加都延波。阿豆麻袁淤幣理。志豆延波。比那袁於幣理。本都延能。延能宇良婆波。那加都延爾。淤知布良婆閇。那加都延能。延能宇良婆波。斯毛都延爾。淤知布良婆閇。斯豆延能。延能宇良婆波。阿理岐奴能。美幣能古賀。佐佐賀世流。美豆多麻宇岐爾。宇岐志阿夫良。淤知那豆佐比。美那許袁呂。許袁呂爾。許斯母阿夜爾加志古志。多加比加流。比能美古。許登能。加多理碁登母。許袁婆。故獻2此歌1者。赦2其罪1也。

 

訓読:またスメラミコト、ハツセのモモエツキのもとにましまして、とよのあかりきこしめすときに、イセのクニのミエのウネベ、おおみさかずきをささげてたてまつりき。ここにそのモモエツキのハおちて、おおみさかずきにうかべりき。そのウネベおちばのみさかずきにうかべるをしらずて、おおみきたてまつりけるに、スメラミコトそのさかずきにうかべるハをみそなわして、そのウネベをうちふせ、ミハカシをそのくびにさしあてて、きりたまわんとするときに、そのウネベ、スメラミコトにもうしけらく、「アがみをナころしたまいソ。もうすべきことあり」ともうして、すなわちうたいけらく、「まきむくの、ひしろのみやは、あさひの、ひでるみや、ゆうひの、ひがけるみや、たけのねの、ねだるみや、このねの、ねばうみや、やおによし、いきづきのみや、まきさく、ひのみかど、にいなえやに、おいだてる、ももだる、つきがえは、ほつえは、あめをおえり、なかつえは、あずまをおえり、しずえは、ひなをおおえり、ほつえの、えのうらばは、なかつえに、おちふらばえ、なかつえの、えのうらばは、しもつえに、おちふらばえ、しずえの、えのうらばは、ありぎぬの、みえのこが、ささがせる、みずたまうきに、うきしあぶら、おちなずさい、みなこおろ、こしもあやにかしこし、たかひかる、ひのみこ、ことの、かたりごとも、こをば」。かれこのうたをたてまつりしかば、そのつみゆるさえにき。

 

歌部分の漢字表記:纏向の、日代の宮は、朝日の、日照る宮、夕日の、日がける宮、竹の根の、根垂る宮、木の根の、根蔓ふ宮、八百土よし、い築きの宮、眞木さく、檜の御門、新嘗屋に、生ひ立てる、百足る、槻が枝は、上枝は、天を覆へり、中つ枝は、東を覆へり、下枝は、鄙を覆へり、上枝の、枝の末葉は、中つ枝に、落ち觸らばへ、中つ枝の、枝の末葉は、下つ枝に、落ち觸らばへ、下つ枝の、枝の末葉は、あり衣の、三重の子が、指擧せる、瑞玉盞に、浮きし脂、落ちなづさひ、水こをろこをろに、是しも、あやに恐し、高光る、日の御子、事の、語言も、是をば

 

口語訳:また天皇が百枝の槻の下で豊楽をしたとき、伊勢国の三重の采女が大御盃を献げたが。このとき百枝の槻の葉が落ちて、大御盃の中に浮かんだ。その采女は落ち葉が浮かんでいるのを知らずに、盃を献げようとした。天皇は葉が浮いているのを見て、采女を取り押さえ、刀を首に推し当てて、まさに斬ろうとした。その采女は「私を斬らないでください。申し上げることがあります」と言った。その歌に「纏向の日代の宮は、朝日の照る宮、夕日の隠れる宮。竹の根の繁る宮、木の根が根を張る宮。杵築の宮。日の御門、新嘗の屋に生え立つ、百足るの、槻の枝は、上の枝は天を覆い、中の枝は東を覆い、下の枝は田舎を覆っています。上の枝の末の葉は、中の枝に落ち降って、中の枝の枝の末の葉は、下の枝に落ち降り、下の枝の末の葉は、ありぎぬの、三重の子が献げる玉盃に浮いた脂、落ち漂い、みなこおろこおろに、これもとてもめでたく、高光る日の御子を祝福しています。事の語りごともこのようです」。この歌を献げたので、その罪を許した。

 

百枝槻(ももえつき)。「槻」は和名抄に「唐韻にいわく、槻は木の名で、弓に造るのに好適である。和名『つきのき』」【新撰字鏡に「欟は『つき』」とあるのは、槻の字を写し誤ったのか。】とある。師のいわく、今「けやき」という木のたぐいだ。【ある人いわく、「今『つき』とも言い、『白けやき』とも『しで』とも言う。林業に携わる人たちは、『けやき』と『つきの木』とはたいへんよく似ていて、見分けがたいが、削ってみれば分かる。『けやき』は筋が縦にだけある。『つき』は筋が縦横にある」という。】万葉巻二【三十九丁】(213)に「出立、百兄槻木、虚知期知爾、枝刺有如、春葉、茂如(いでたちの、ももえつきのき、こちごちに、えださせるごと、はるのはの、しげきがごと)云々」とある。「百枝」とは枝が多く茂っている中でも、これは次にも「その百枝の葉が落ちて」と言っている言い方からすると、特に大きな木で、長谷の百枝槻として有名だったのではないか。○豊樂(とよのあかり)。前に出た。【伝卅二の五十七葉】。「爲」は「きこしめす」と読む。また「せす」と読んでもよろしい。そのことは前に言った。【伝卅八の九葉】槻の木の下で豊楽をすることは、万葉巻廿【十二丁】(4302詞書)に「家持の荘門の槻の下で宴飲す」と見える。その頃までもあったことだ。その他書紀の天武の巻に「多禰嶋(たねがしま)の人たちを飛鳥寺の西の槻の下に」、持統の巻に「蝦夷の男女二百十三人を飛鳥の西の槻の下に」なども見え、皇極の巻に「法興寺の槻の樹の下で云々」、孝徳の巻に「大槻の樹の下に群臣を集めて、云々」、持統の巻に「隼人の相撲を飛鳥寺の西の槻の下で見た」【この飛鳥寺の西にあった槻も、ことに大きな木であったと聞こえる。】なども見える。○三重采女(女+采)(みえのうねべ)。【ウネベ(女+采)の字は、諸本で「妹」に誤っている。また延佳本で「采女」と書いたのは、例によってさかしらに改めたものである。ここは真福寺本、他一本によった。後にあるのも同じだ。】「三重」は和名抄に「伊勢国、三重郡【みえ】」とあるところだ。この地は前にも出て、そこで言った。【伝廿八の四十葉】この郡に「采女郷」もある。「サイ(女+采)」は「うねべ」と読むべきである。上の郷の名も和名抄に「うねべ」と注してある。古今和歌六帖(歌番不明)に平仮名でも「するがのうねべ」とある。その他古い本に「うねべ」と書いていることが多い。「べ」は「部」の意味だ。「女」の意味ではない。【普通「め」と言うのは、「部」を音便でそう言う。公卿を「かんだちめ」と言うようなものだ。職員令の采女司に「采部六人」とあるのは別で、男であり、采女ではない。これは「采女部」というところを省いたものだ。宮内省式に「大齋(おおいみ)・・・采女司二十八人」とある分注に「官人二人、采部六人、采女二十人」とあるので、別であることが分かる。続日本紀廿六に「采女司の采部、采女の臣、家足」という人が見える。令の集解、簾中抄、拾介抄などに齋宮の諸司に「采部司」とあるのは「采女司」である。取り違えてはならない。】字は、この記ではみな「女+采」と書いてある。いにしえの書き方だろう。【サイ(女+采)の字は、玉篇に「サイ(女+采)女である」とある。後漢書の皇后紀の論に「また美人・宮人・采女の三等を置く。いずれも爵、秩はない。年ごとに賞を賜る。漢の法の常によって、八月に民を数えるのに、中大夫と掖庭丞および相工を洛陽の郷中に遣わし、良家の童女、年十三以上、二十以下で、容姿端麗の者で、法相に合う者を乗せて後宮に帰り、可否を見て選び、登用する。明らかに聘納を慎み、淑哲を求める所以である」という註に「采は選択である。采擇によって名を立てたのである」と言っている。仏ぶみの大智度論に「昔、須陀須摩王があった。・・・朝に車に乗り、諸々のサイ女を率いて、園に入り遊戯する」、晋訳の華厳経に「王が道を得た時、その正殿に采女(女+采)が囲繞し、七宝おのずから至る」などと言う。これらのサイも采女のことのようである。とすると、こちらの古い書物にサイと書いたのもよりどころがあることだ。サイの字は、もと「采女」の二字を一つに合わせた意味だろう。】万葉巻四(507?)にも「駿河のサイ女」と見え、政事要略【廿五】に「昌泰三年、注進興福寺縁起にいわく、「公主命婦、シュ(女+朱)女」【「シュ」はサイ(女+采)を写し誤ったのだろう。】などがある。ところが令や書紀などに「采女」と書かれたことから、後世にはすべてそのように書かれることになった。【後にはサイと書くことを知らないで、延佳がこの記のサイをもみな「采女」に改めたのは、いにしえに暗いのである。】「うねべ」と言うのは、「うなげべ」が縮まったのである。【「なげ」が「ね」に縮まる。】「うなげ」とはものを項に掛けるのを言う。【和名抄に「項は頸の後ろである。和名『うなじ』」。】万葉巻十六【二十七丁】(3875)に「宇奈雅流珠乃(うなげるたまの)」、【神代の歌に「うながせる」とあるのも、「うなげる」を延ばして言ったのである。】書紀の神代巻に「その頸に所嬰(うなげたる)」などとあるのがそうだ。万葉の歌に「玉手襁(糸+強)、畝火山(たまたすき、うねびやま)」と続けたのも、冠辞考の説のように、「嬰(うなげ)」の意味で、「うね」に続けたのだ。この同じ例を見ても、サイの「うね」が「うなげ」であることを知るべきである。【允恭記で「畝火」と言ったのが「采女」と混同されたことも思い合わせるべきである。師の万葉考に。「うねべ」という名を「氏之女(うねめ)」の略転であると言ったのは、たいへん良くない。「うじのめ」を「うねめ」と略転することはどうかと思われる上、「氏之女」ということはありそうにない。女王を除いて、氏の女でない女があるだろうか。】サイは主に御饌に奉仕する者で、項に布を掛けるので「嬰部(うなげべ)」と言う。【御食に仕えるのに、特に布を掛けるのは、「比禮」はもと虫などを追い払うために掛けるものだったので、御食の際などは、特にそのために掛けたのが、後には礼服となった。上代に虫を払うのに「比禮」を振ったことは、上巻伝十の卅七葉で言った通りだ。】大祓の祝詞に「比禮挂伴男(ひれかくるとものお)」とあるのも、もとは采女などを言ったと師が言った通りだ。【サイの「比禮」のことは天武紀に云々、続日本紀三に云々。後に引く。】「女+采」の見えたのは、書紀の仁徳の巻、四十年のところで「采女磐坂媛」がある。これが初めてだが、サイの始まりではない。上代からあったものだろう。【帝王編年記などで、履中天皇の時代から始まったと言っているのは、履中紀に倭の直、吾子籠(あごこ)が妹の日之媛を奉って死罪を許されたところに、「倭直らは采女を奉った。多分この時に始まったのだろう」とあるのを誤解したものである。また倭姫命世記に「采女」が見えるが、信じがたい。】サイが主として御饌のことに仕えたことは次に言う。【書紀の履中の巻に「小墾田の采女に言って、玉田宿禰に酒を奉らせた」、雄略の巻に「倭の采女、日媛に酒を捧げて迎えさせた」などもある。後宮職員令にも、水司と膳司のところに采女がある。】書紀の孝徳の巻に「およそ采女は、郡の少領以上の姉妹および子女で、形容端正な者を奉れ。【從丁一人、從女二人】百戸で采女一人に当てよ。庸布庸米はみな次丁にならう」、後宮職員令に「およそ諸氏は氏ごとに、・・・その采女を奉る者は、郡の少領以上の姉妹およびその娘の形容端正な者、みな中務省に申し出て聞かせよ」、【軍防令に「采女を奉る郡の者は、兵衛を奉る例ではない。」】これらはやや後の定めで、上代にはこのようでなかっただろうが、大体このようであったと思われる。【書紀のこの巻には、百済から采女を奉ったことも見える。】サイは、その姓を呼ばず、その国、その郷で、「某の『女+采』」と呼ぶのが通例だ。【古い書物ではみなそうだ。後まで同じである、源氏物語にも「肥後の采女」などがある。】サイの数は、物の本に見えない。後宮職員令に「宮人」とあって、義解に「婦人の仕官する者の総称である」と書いてある。この中にはサイもいただろう。数は定めがなかったのだろう。同令の水司のところに、「采女六人」、膳司のところに「采女六十人」とある。これは総数ではないだろう。采女司式に、「すべて采女は四十七人、宮城に近い所に住む」、これも総数とは思えない。【続日本紀二に「大宝二年、筑紫の七国、および越後の国に命じて、采女、兵衛の数を数えて奉らせる。ただし陸奥国は奉らせない」これらの国は遠いので、この時までは奉らなかったのだろう。神護景雲二年には「常陸国の筑波の采女、壬生宿禰小家王、上野国の佐位の采女、上野の佐位の朝臣老刀自」などが本国の国造とされ、宝亀二年のところで「因幡国高草の采女、国造浄成女」などが見えるのは、普通にはないことだっただろう。類聚国史に「大同二年五月、諸国に采女を奉らせることを止めた」、また「十一月、諸国に采女を奉らせることを止めた。ただし・・・五位以上に叙して、雑色に当てる者は、采女の名を除く」、また「弘仁四年正月、伊勢国壹志郡、尾張国愛智郡、常陸国信太郡、但馬国養父郡が郡司の子妹、年十六以上、二十以下、容貌端正にして采女がつとまる者をそれぞれ一人奉り、制とした」とある。後世にも台記の久安六年、女御入内の別記、禄法のところに「御前の宿りの采女卅二人云々」とあり。このころも多くあったことが分かる。禁秘御抄には、「陪膳の(膳に仕える)采女は、そうあるべきだ。近代に至って令の勢いが零落して、果てしがない。もっとも沙汰あるべきことだ。云々」】職員令に「采女司は正一人、采女を検校することを掌る。佑一人、令史一人、采部六人、使部十二人、直丁一人」とある。○「指=擧2大御盞1(おおみさかずきをささげ)」【師はここの「盞」を「うき」と読んだ。歌を見るとそれもそうだが、他のところにあるのを考えると、やはり「さかずき」と読むように思われる。】上巻の八千矛神の段にも「その后は大御酒坏(おおみさかずき)を取って、立ち依り指擧げて云々」、【伝十一の四十六葉】中巻の倭建命の段にも「その美夜受比賣は大御酒盞を捧げて奉った」と見える。続日本後紀五、遣唐使に銭を賜うところで、「大使常嗣の朝臣、座を避けて進んで、二声采女を呼んだ。采女は御盃を捧げ、来て陪膳の采女に渡した。常嗣の朝臣は跪いて平声に答えた。天皇はこれに挙げ終わって、行酒を常嗣朝臣に与えた。云々」、四宮記に「陪膳のこと。節會の陪膳は、采女が奉仕する」、また「延長二正廿五、【甲午】院から子の日の宴を大裏に奉られた。天皇は南殿に出て、中務卿親王が座を避けて立って采女を呼んだ、采女は『おお』と唱えて進めた。御酒を陪膳の采女は受けて奉ろうとした。ここで親王は跪いて平声で答えた。天皇は盃を取って飲み終わると『精』と言った」。○「不レ知2落葉浮1レ於レ盞(おちばのさかずきにうかべるをしらずて)」。これは面を伏せ、目より高く佐挙げて奉るので知らなかったのだろう。○猶(なお)は改めるべきなのを改めず、なおそのままであることだ。【俗言で「やはり」と言うことだ。】いにしえは盞に酒を盛って奉ったのである。○看行(みそなわし)のことは、中巻の倭建命の段で言った。【伝廿七の五十三葉】○「打=伏2其采女(女+采)1(そのうねめをうちふせ)云々」は、慎重でなく、おろそかで怠っていたのをたいへん怒ったのである。○「應レ白事(もうすべきこと)」【「白」の字は、旧印本他一本などには「日」に誤っている。延佳本には「曰」と書いてある。ここは真福寺本によった。】○麻岐牟久能(まきむくの)比志呂乃美夜波(ひしろのみやは)は、「纏向の日代の宮は」である。この宮のことは中巻で言った。【伝十六の三葉】これは景行天皇の宮の名なのを、この御世にこう言うのはいぶかしいが、【ここは長谷の槻の下での宴だから、その木を歌うのが当然で、大宮は長谷の朝倉の宮のことを言うはずであって、いにしえの大宮を言うのは納得できない。あるいはこの段のことはすべて景行天皇の御世のことなのを、紛れてこの世のこととしたのかとも思ったが、そうではないだろう。】あるいはこの歌は、「しずえはひなをおえり」というところまでは、景行天皇の御世に、大宮に名高くめでたい槻の木があったのを賞めた歌で、その槻の木を取り出して、今の長谷の百枝槻をそれになぞらえて、その次を新たに作り継いで歌ったものではないだろうか。それとも日代の宮の槻の木が、名高くめでたいために語り伝えた大木なのを、今の百枝槻をそれと言いなして、初めから新たに作ったものでもあるだろう。【契沖がこれを「西国の熊襲・・・なぞらえたのだ」と言ったのは良くない。ただ「その時、膳夫が御盞を忘れたのを咎めなかったことは、この盞に槻の葉が落ちて浮かんだことを知らなかったことと似ているので、かえってめでたいことに詠みなそうとしてのことである」と言ったのは、御盞を「うき」と詠んだことなども由縁があって、おもしろく、そうとも聞こえる。】○阿佐比能(あさひの)、比傳流美夜(ひでるみや)は、「朝日の日照る宮」である。上巻に「ここは朝日の直(ただ)刺す国、夕日の日照る国」とあるところを考え合わせよ。【伝十五の七十八葉】○由布比能(ゆうひの)は「夕日の」である。○比賀氣流美夜(ひがけるみや)は「日陰る宮」である。「がける」は日影の差していたのが、差さなくなって陰になるのを、中昔の歌に「かげろう」と詠み、今の世の言に「かげる」と言う。ところが「が」を濁って「け」を清んで言うのは、いにしえの音便で、こういう例は幾つかある。上巻の豊久士比泥別(とよくじひねわけ)のところ【伝五の十四葉】で言った通りだ。【契沖は「日隠る」だと言った。龍田の風神祭の祝詞にも「夕日乃、日隱處(ゆうひの、ひがくるところ)」とあるけれども、「隠る」を「がける」とは言うはずもないので、ここはやはり「隠る」ではない。またある人は「日影入る」だと言ったが、それは殊に良くない。】○多氣能泥能(たけのねの)は「竹の根の」だ。○泥陀流美夜(ねだるみや)は「根足る宮」である。○許能泥能(このねの)は、「木の根の」である。○泥婆布美夜(ねばうみや)は「根蔓延う宮」である。万葉巻三【五十二丁】(448)に「礒上丹、根蔓室木(いそうえに、ねばうむろのき)とある。この四句は竹・木の根で、土地が堅いことを賞めたのか、もしくは竹の根のように万事満ち足り、木の根のように長く久しいことを言って壽いだのか。○夜本爾余志(やおによし)は「八百土」で、「よし」は助辞である。冠辞考に見える。【契沖が「よし」を「吉し」だと言ったのは、今一歩及ばない説である。】土は数を数えるものではないのに、「八百」と言ったのは、【数とは限らず、量が多いのもそういう風に言うが、これはそうではないだろう。】御垣を築くには粘土を適当な大きさに固めたのを、次々に並べ、積み重ねて築くためだろう。また垣だけでなく、宮全体の土地もそうやって固めたからでもあるだろう。○伊岐豆岐能美夜(いきづきのみや)は「杵築の宮」で、「い」は発語である。杵築とは、杵で搗き固めて築くのを言う。出雲風土記の出雲郡、杵築郷のところに、「天下を造った大神の宮を作ろうと、諸々の皇神たちを集めて宮處を杵築いた。ゆえに『きづき』と言う」とある通りだ。「朝日の」というところからここまでは、日代の宮を賞めたのである。○麻紀佐久(まきさく)は「眞木拆」で、檜の枕詞だ。冠辞考に見える。○比能美加度(ひのみかど)は、「檜の御門」である。【師は「多加比加流、比能美夜比登」とも、万葉巻一(50)に「日之御門(ひのみかど)」ともあるので、檜を日に転じて言いかけたのであって、日の御門だと言った。だがその意味なら、直接に「高光る」と言うべきで、「まきさく」とはどうして言うだろうか、この檜と日のことは、万葉にある日の御門は、日は例の借字と考えられ、巻五(894)に「高光日大御朝庭(たかひかるひのおおみかど)」ともあるが、それはやや後の歌であるから、檜を日に言い換えて詠んだものとも思われ、いにしえには日の御門ということはなかったとも言える。しかし次の歌に「高光る日の宮」とあるから、「日之御門」とも言ったことは疑いない。するといにしえから檜の御門とも日の御門とも言ったが、それぞれ言は異なり、同じ言ではないから、「眞木拆」は単に檜の御門であって、「日」の意味はないのである。】○爾比那閇夜爾(にいなえやに)は、師が「新嘗屋に」だと言ったのが良い。【契沖が上の「に」を前の句の終わりに付けて、「引き並べ屋」かと言ったのは誤りである。】天皇の新嘗を行う御殿である。上巻に「大嘗聞看(きこしめ)す殿」とあるのと同じだ。新嘗のことはそこで詳しく言った。【伝八の六葉】○淤斐陀弖流(おいだてる)は「生い立てる」である。○毛毛陀流(ももだる)は「百足る」である。【これは次の句の「枝」に係っている。】枝がたいへん多く茂って足りていることを言う、應神天皇の歌に「毛々知陀流夜爾波(ももちだるやには)」とあるところを考え合わせよ。【伝卅二の二十九葉】○都紀賀延波(つきがえは)は「槻の枝は」である。【これは全部の枝をまずいって、次に上中下の枝をその枝は云々と、分けて言うのである。】○本都延波(ほつえは)は「秀枝は」で、上の方の枝である。○阿米袁淤幣理(あめをおえり)は「天を覆えり」である。【契沖が「おえり」を「負えり」としたのは誤りである。延佳も師も「覆えり」とした通りだ。延佳が「袁」を「覆う」の「淤」としたのは、仮名遣いを知らない誤りだ。「袁」は「てにをは」である。】「オホヘリ」というところを「ホヘ」を縮めて「へ」と言ったのだ。天を覆うというのは、御殿を「天の御蔭、日の御蔭」というように、天の覆いとなるからである。【「大虚空におほふばかりの袖もがな云々」(引用源不明)】○那加都延波(なかつえは)は、「中つ枝は」である。○阿豆麻袁淤幣理(あずまをおえり)は「吾妻を覆えり」である。東方を吾妻と言うことは、中巻の倭建命の段に見える。【伝廿七の八十二葉】「鄙」というのに東方の国も入っているのを、別に東を挙げたのは、上枝、中枝、下枝と三つに分けて言うためである、すべて歌というものは、それほど事の理を極めて言うものではない。事実に相違せず、理に背くことでさえなければ、言葉がよって来るままに広く言って、詞をあやなすものである。【契沖が本朝に於いては、東国は畿内に次ぐ意味だ。七道を数える時も、東海道を五畿内に次いで言うと言い、古今集の東歌のところでも、豊城命のことなどを引いて、特に東国のことを別に挙げた理由を言ったが、みな誤りだ。】だから「鄙」の他に西の国のことを言わないで東の国をあげたことに、何の意味もない。○志豆延波(しずえは)は「下枝は」である。【次には「しもつえは」とある。】上枝、中枝、下枝は、みな前に出た。○比那袁於幣理(ひなをおえり)は「鄙を覆えり」である。都の外をどこでも「鄙」と言う。書紀神代巻に「あまざかる鄙つ女」とある。【「ひな」という言のもとの意味は、古い説に「日無」と言い、師は「田居中」とも「日の下」とも言ったが、どれも良いようには思えない。】このように天を言い、鄙を言い、東をも言っているのに、都を挙げていないのは、槻の枝が広く遠く覆っていることを言ったのであり、近い都の内はなおさらであるから、遠いところだけを言ったのはおもしろい。【契沖が「ひな」とは下界を言うのだろうか、それなら下界になずらえて、畿内と東海道以外を「ひな」と言ったのだろうと言うのは、みな誤りである。「下界」という理由もなく、東海道を除いて「ひな」でないということも言えない。これは「東」を特別に言ったことからする説だが、かえって良くない。「あめ」を畿内だとするのも良くない。「ひな」を挙げて京を挙げないのは、上記の通りだ。】本都延能(ほつえの)は「秀枝の」である。○延能宇良婆波(えのうらばは)は、「枝の末葉は」である。末を「うれ」とも「うら」とも言うのは通常のことである。○淤知布良婆閇(おちふらばえ)は、「落ち触らばえ」である。【契沖が「落ち降る」である。「降る」を「降らばえ」と言うのは古語であるというのは誤りである。】「ふれ」を「ふらばえ」と言うのは、延ばして活用した言である。【「らばえ」を縮めれば「れ」となる。】万葉巻二【三十一丁】(194)に「上瀬爾、生玉藻者、下瀬爾、流觸經(かみつせに、おうるたまもは、しもつせに、ながれふらばえ)」【この「觸經」を今の本では「ふれふる」と詠んでいるが、ここの句によって「ふらばえ」と読むことが明らかである。またこの万葉に「觸」と書いているので、ここの意味も分かる。「經」は借字である。】○斯毛都延爾(しもつえに)は「下つ枝に」で、「しずえ」と同じだ、【契沖が「前にならうと『毛』は衍字であろう」と言ったのはかえって良くない。それでは「ず」と「つ」の清濁も違う。】このように同じことを再び言う時に、少し変えて言うことは、いにしえの歌に多い。【上巻の八千矛神の歌に「阿理登岐加志弖(ありときかして)・・・阿理登岐許志弖(ありときこして)、云々」などのたぐいだ。】○阿理岐奴能(ありぎぬの)は三重の枕詞で、「鮮衣の」である。このことは玉勝間六の巻で言った。○美幣能古賀(みえのこが)は「三重の子が」で、采女(女+采)みずからのことである。【「三重」に続く意味は表、裏、中重(なかえ)の三重か、何となく三重なのか。万葉巻九に「吾疊、三重乃河原(わがたたみ、みえのかわら)」とも続いている。】○佐佐賀世流(ささがせる)は【「賀」の字を、多くの本で「加」と書いている、ここは真福寺本、延佳本によった。】「指擧(ささが)せる」である。【「ささげる」というところをこう言うのは、「立てる」を「立たせる」、「行ける」を「行かせる」というたぐいの言い方だ。○美豆多麻宇岐爾(みずたまうきに)は「みずみずしい玉盃(たまうき)に」である。【「みず」は玉に係っているのか、盃(うき)に係っているのか、どちらもあり得るだろう。また「玉盃」とは玉の盃か、それとも玉とは盃を賞めて言っただけなのか。】書紀の景行の巻に「十八年八月、的(いくは)の邑に到って、食(みけ)を進めた。この日膳夫たちは盞を忘れた。それで時の人たちは忘れたところを『浮羽(うきは)』と言った。今『的(いくは)』と言うのは訛ったのである。昔筑紫の人々は盞を『うきは』と言った」、筑紫風土記に、「昔景行天皇が国を巡り終えて、都に帰る時、膳司がこの村で御酒盞を怠った。・・・天皇は『酒盞(うき)があればなあ』と言った。【俗語で酒盞を『うき』と言う。】そこで『宇枳波夜(うきはや)の郡』と言う。後の人は誤って『生葉(いくは)郡』と言う」【「怠った」というのは、「忘」を誤ったのだろう。】などがある。盞を「うき」ということはここに見えている。【「うき」ということは、書紀に見えるように筑紫の言葉で、他国では言わない名なのだろうか。ここの他には見えない。ここでその名を言ったのは、契沖が言ったように、景行天皇のその故事を思ってのことではないだろうか。】○宇岐志阿夫良(うきしあぶら)は「浮きし脂」で、神代の初めに「國稚如2浮脂1而多陀用幣琉之時(くにわかくうきあぶらのごときただよえるときに)」とある「浮脂」のようなものをそのまま脂として言ったのだ。そのことは次に言う。【とすると、上の句はこの一句を隔てて「落ちなずさい」へ続いて、この「浮きし」は神代の初めに浮いたということであり、今の御盃に浮いたということではない。思い違えてはならない。契沖はこの意味を知らず、「酒が濃くて脂の凝るのに似ているのを言う」と言ったのは、誤りである。和名抄に「酒膏は『さかあぶら』」と見え、江家次第の大臣家の大饗の條に、「公卿らが参集して、辨少納言の座で少し飲む。これを待ち油という。・・・中の関白の時に、祭殿で待ち膏があった。云々」などということもあるが、これらはここには関係のないことである。思い違えてはならない。ただし酒に「待油」と言うことがあるのは、もとこの歌から出たことなのかどうか、それは知らない。】○淤知那豆佐比(おちなずさい)は、「淤知」は「落ち」、那豆佐比は浮かぶことである。この言は水に浮かぶことも言い、底に沈むのも言い、水を渡るのも言って、水に着くことを言う。【万葉を見ると分かる。玉勝間で詳しく言った。この言は、昔から物知り人の解はみな誤っていた。ここは御盃の酒に浮かんだことで、水ではないが、酒も水のたぐいだから、違っているわけではない。】そのうちでも、浮かんだことを言う例は、万葉巻三【四十八丁】(430)に「黒髪者、吉野川、奥名豆颯(くろかみは、よしぬがわ、おきになずさう)」、巻四【十六丁】(509)に「鳥自物、魚津左比去者(とりじもの、なずさいゆけば)」、【水鳥が水に浮いて行くように、ということだ。】巻十二【十二丁】に「爾保鳥之、奈津柴比來乎(におどりの、なずさいこしを)」など、もっと多い。ここまで三句の意味は、神代の初めに空中に浮かんだ脂が、今この玉盞に落ち浮かんでと、槻の葉の落ち葉を祝って、こう言いなしたのである。【語の続きをよく味わって知るべきである。このところはよく注意しなければ取り違える。】○美那許袁呂。許袁呂爾(みなこおろ、こおろに)は、「水凝ろ凝ろに」である。上の「浮きし脂」と相照らして見るべきだ。上巻に「そこで大神の諸々の命(みこと)を以て、『伊邪那岐命、伊邪那美命の二柱の神は、この多陀用幣流(ただよえる)国を修理固成せよ』と言って天沼矛を授けて言依(ことよ)させた。二柱の神は天浮橋に立って、その沼矛を差し下ろして掻くと、塩が許袁呂許袁呂(こおろこおろ)とかき鳴して、云々」【伝四の十一葉】これは国土が成り始めたことで、たいへんたいへんに尊く、めでたいことなので、今落ち葉が御盞に浮かんだのを、そのことに寄せて祝ったのである。「みな」とはもとの語りに「鹽」とあるのを今は酒であるから、水に変えて言ったのだろう。【あるいは「みな」は「御魚」で、御肴に奉る意味に言ったかとも思ったがそうではない。また契沖は「こおろこおろ」を槻の葉の落ちる音だと言ったが、もとの語りの「鳴し」が借字であることを知らず、鳴ることと思ったことから来る誤りである。「みな」を「皆」だと言ったのも良くない。師も「皆」として、酒も葉も共にということだと言ったが、「皆」と言うべきところではない。】こう言い捨てて、その底に「これが凝って淤能碁呂嶋となったのが、国土の初めだ」という意味を含んだ壽詞である。○許斯母(こしも)は「これしも」である。○阿夜爾加志古志(あやにかしこし)は、ここは尊くめでたい意味を含んでいるようだ。上の句の「しも」という字は軽く、「かえって」という意味を帯びているので、いま盞に落ち葉が浮かんだのを知らずに、そのまま奉った過ちは、かえって尊くめでたいことだ、と言うのである。○許登能、加多理碁登母、許袁婆(ことの、かたりごとも、こおば)は上巻に出た。【伝十一の十六葉】○「獻2此歌1(このうたをささげ)」とは、紙に書いて捧げたように聞こえるけれども、ここの様子を考えればそうではない。ただ歌い上げて聞かせたことを言う。○「赦2其罪1(そのつみをゆるさえき)」。歌の姿も、詠んだ趣きもたいへん勝れているので、厚くめでたことは、もっともな上にももっともだ。

 

爾大后歌其歌曰。夜麻登能。許能多氣知爾。古陀加流。伊知能都加佐。爾比那閇夜爾。淤斐陀弖流。波毘呂。由都麻都婆岐。曾賀波能。比呂理伊麻志。曾能波那能。弖理伊麻須。多加比加流。比能美古爾。登余美岐。多弖麻都良勢。許登能。加多理碁登母。許袁婆。即天皇歌曰。毛毛志紀能。淤富美夜比登波。宇豆良登理。比禮登理加氣弖。麻那婆志良。袁由岐阿閇。爾波須受米。宇受須麻理韋弖。祁布母加母。佐加美豆久良斯。多加比加流。比能美夜比登。許登能。加多理碁登母。許袁婆。此三歌者。天語歌也。故於2此豊樂1。譽2其三重采女(女+采)1而。給2多祿1也。

 

訓読:ここにオオギサキのうたわしけるそのみうた、「やまとの、このたけちに、こだかる、いちのつかさ、にいなえやに、おいだてる、はびろ、ゆつまつばき、そがはの、てりいまし、たかひかる、ひのみこに、とよみき、たてまつらせ、ことの、かたりごとも、こをば」。すなわちスメラミコトうたわしけらく、「ももしきの、おおみやひとは、うずらとり、ひれとりかけて、まなばしら、おゆきあえ、にわすずめ、うずすまりいて、きょうもかも、さかみづくらし、たかひかる、ひのみやひと、ことの、かたりごとも、こをば」。このみうたは、あまことうたなり。かれこのトヨノアカリに、そのミエのウネベをほめて、ものさわにたまいき。

 

歌部分の漢字表記:倭の、この高市に、小高る、市の高處、新嘗屋に、生ひたてる、葉廣、五百箇眞椿、其が葉の、廣り坐し、その花の、照り坐す、高光る、日の御子に、豊御酒、獻らせ、事の、語言も、是をば

ももしきの、大宮人は、鶉鳥、領巾取り懸けて、鶺鴒、尾行き合え、庭雀、うずすまり居て、今日もかも、酒みづくらし、高光る、日の宮人、事の、語言も、是をば

 

口語訳:そこで大后は歌って「倭のこの高市に、小高い市の司、新嘗屋に生え立つ五百箇の椿、その葉が広がっている、その花が光っている、高光る日の御子に、豊御酒を奉れ、事の語りごともこのようです」。天皇も歌って、「ももしきの、大宮人は鶉のように領布を取り懸けて、鶺鴒よりそえ。庭雀が集まって、今日こそ酒を飲む日だ、高光る、日の宮人、事の、語りごともこのようです」。この三歌は天語歌である。そこでその三重の采女を賞めて、多くのものを賜った。

 

大后(おおぎさき)は若日下王である。○夜麻登能(やまとの)は「倭の」である。○許能多氣知爾(このたけちに)は、「この高市に」である。師は「これは高市郡を言うのではない。京を賞めて言う言葉だ」と言った。「市」とは四方から人の集まるところを言うのだから、【物売りなどが集まる場所だけを言うのではない。】京を賞めて「高市」とも言うはずだ。神代に、高天原でも「八十萬神を天の高市に集めて」とあり、人の集まるところを言う名である。大和国の高市郡も神武天皇の畝火の宮による名だろう。【この郡の名は高市御縣というところがあるのを見ると、大和国の高市郡も、底から出た名のように見えるけれども、そうではなく、その御縣は高市の内の御縣の意味で、高市はやはり京による名であろう。この高市を契沖は「朝倉の宮があったところだ」と言ったが、後世の「市」という名にこだわって、市というものがあると見た誤りである。大和志にこの高市を「城上郡柳本村」としたのも、例によって信じがたい。】○古陀加流(こだかる)は「小高る」である。【「こだかかる」と言うべきなのを同じ音が重なる時は一つは省く例で、こう言うのである。】山などのように高いところではなく、平らな地の高いところなので、「小高る」と言う。今の世の言でも普通に言うことである。【契沖も師も、「木高る」だと言ったが、記中、「木」には「許」の字だけを書き、「小」には「古」を書いている。】○伊知能都加佐(いちのつかさ)は「市の高いところ」を言う。師は「『つかさ』とは最も高いところを言う」、契沖は「万葉に『山のつかさ』、『野のつかさ』、『岸のつかさ』などと詠んでいる。高いところを言うのだろう。『水のかさ』などと言うのも『つかさ』の上を略したものだろう」と言う。すべて「つかさ」というのは、もとは最も高いところを言う名から出たのだろう。【それを契沖が「つかさどる意味で、高い方を言うのだろう」と言うのは、言葉の本末が違っている。つかさどると言うのは、宮司から言う言で、末の方である。「水のかさ」など、物のかさと言うのは、「つかさ」から出た言葉だろう。「かさが高い」、「かさがない」などと普通に言う。】「野山司(ぬやまづかさ)」が万葉巻十【四十三丁】(2203)に見え、「野豆加佐(ぬづかさ)」が巻十七【十一丁】(3915)、巻廿【廿丁】(4316)に見え、「涯之官(きしのつかさ)」が巻四【廿丁】(529)に見える。みなその高いところを言ったと聞こえる。この市も上述の高市である。【物を売る市を言うのではない。】○爾比那閇夜爾(にいなえやに)は、上の歌と同じだ。これも大宮の内で天皇が新嘗を食べる殿であるのを、上の歌と句を変えてこう詠んだのだろう。【高市の中で小高く最も高いところは大宮だろうからである。最も高いところでなくても、大宮をこう言うのが普通だ。】○淤斐陀弖流(おいだてる)。これからの三句は、高津の宮の段の大后の歌に出た。【伝卅六の十七葉】○曾賀波能(そがはの)は「その葉の」である。これから四句も、高津の宮の段の歌に出た。ただしそれは「斯賀波那能、弖理伊麻斯、芝賀波能、比呂理伊麻須波(しがはなの、てりいまし、しがはの、ひろりいますは)」とある。【伝卅六の十八葉】○多加比加流、比能美古爾(たかひかる、ひのみこに)。前に出た。○登余美岐、多弖麻都良勢(とよみき、たてまつらせ)。上巻の須勢理毘賣命の歌に見える。【伝十一の五十二葉】これは上に「比能美古爾」とあるから、人に献げよと言ったのである。○毛毛志紀能(ももしきの)は大宮の枕詞で、冠辞考に見える。○淤富美夜比登波(おおみやひとは)は「大宮人は」で、大宮に仕える人たちを言う。【「宮人」と言う時、「ひ」は清音である。後世に濁って言うのは、いにしえと違う。】○宇豆良登理(うずらとり)は、【延佳本に「宇」の字を「可」と書いたのは、例のなまさかしらに改めた誤りである。記中には「可」の字を仮名に用いたことはない。諸本みな「宇」とある。】「鶉鳥」である。【普通は「うずら」とだけ言って「鳥」とは言わないが、普通には言わない名でも、「某鳥」、「某魚」、「某の木」など添えて言うことも、記中に「和邇魚」、万葉に「鴨鳥」などという例が多い。】和名抄に「鶉は、和名『うずら』」とある。【ある説に「うずら」は韓国語である。今朝鮮でも「もずら」と言うと言っている。皇国の言葉がそちらにも移ったのだろう。延佳本にこれを「可豆良(かずら)」と書いたのを用い、師も「蔓」として、「とり」を「取り掛け」の意味だとしたのは誤りである。それほど仮名のことを重要視して言ったのに似ず、この記の仮名遣いの例も考えなかったのはどういうことか。それに「蔓」では、次の二つの鳥の名を挙げて、装ったのとも違う。】○比禮登理加氣弖(ひれとりかけて)は、「領巾取り掛けて」である。「領巾」と言うもののもとの意味は、上巻に「蛇比禮」とあるところで言った通りだ。【伝十の卅七葉】これを振ることは、書紀の欽明の巻に「柯羅倶爾能、基能陪爾(イ+爾)陀致底、於譜磨故幡、比例甫羅(口+羅)須母(からくにの、きのへにたちて、おおばこは、ひれふらすも)云々」、万葉巻五【二十三丁】(868)に「麻都良我多、佐欲比賣能故何、比例布利斯(まつらがた、さよひめのこが、ひれふりし)云々」などが見え、いにしえの女はみなこれを掛けた物と思われ、書紀の崇神の巻に「埴安彦の妻、吾田媛が香山の土を取って領巾に包み、云々」、万葉巻十三【八丁】に「濱菜摘、海部處女等、纓有、領巾文光蟹(はまなつむ、あまおとめども、うながせる、ひれもてるがに)云々」などが見える。皇大神宮儀式帳に「生絹の御比禮八端【須蘇の長さそれぞれ五尺、巾二幅】」とあり、外宮の儀式帳にも「生キヌ(糸+施のつくり)の比禮四具、【長さそれぞれ二尺五寸、巾は幅に従う】」とある。色はすべて白かったのだろうか。万葉の歌(2822、2823)に「栲領巾乃白(たくひれのしら)」とも(1694)「細比礼乃鷺(たくひれのさぎ)」とも続けて詠んでいる。和名抄に「領布は婦人の項の上の飾りである。日本紀私記にいわく、『ひれ』」とある。書紀の天武の巻に「十一年三月、詔にいわく・・・『また膳夫、采女らの手襁(糸+強)(たすき)、肩巾(ひれ)はすべて着ることなし』」、続日本紀三に「慶雲二年四月、これより前に諸国の采女の肩巾(ひれ)田、令によってこれをとどめたが、ここに至って旧に復し」、縫殿式の年中御服の中宮の料に、「領布四條の料、沙三丈六尺、【別に九尺】」、北山抄の内宴の條に、「陪膳の女蔵人の比禮の料の羅のこと、旧年織部司に言って、人ごとに一丈三尺」などが見える。【式の中に「ヒ(巾+皮)」とあるのも「ひれ」のように聞こえるけれどどうだろう。よく尋ねて見るべきだ。漢籍などに見えるヒ(巾+皮)は、「ひれ」ではない。思い違ってはならない。】枕草子にも采女の装束に比禮を掛けたことが見える。大殿祭の祝詞に、「比禮懸伴緒(ひれかくるとものお)云々」、大祓の祝詞にも同様にある。この上に鶉鳥というのは、契沖が、鶉の斑が肩から胸まであるのを領巾を掛けた様子に似ているので言った、と言う通りだ。【この鳥は項から胸にかけて白い斑がある。領巾を掛けた様子がそれに似ているのだろう。】○麻那婆志良(まなばしら)は「鶺鴒」の一名と言う。和名抄にはこの名は見えない。【「和名『にわくなふり』、日本紀私記にいわく、『とつぎおしえどり』」とだけある。】新撰字鏡に「ショ(且+鳥)は『みさご』、また『まなばしら』」、また「リュウ(立+鳥)は『つつまなばしら』」などあるが、いずれも定かでない。○袁由岐阿閇(おゆきあえ)は「尾行き合え」である。「合え」は「合わせ」の縮まった言で、「合い」というのとは違う。【すべて「ヒ」と活用する言を「ヘ」というのは、「令(せ)」の意味であるのが多い。「集い」を「つどえ」と言うのは「つどわせ」であり、「添い」を「そえ」と言うのは「添わせ」であり、「浮かび」を「うかべ」と言うのは「浮かばせ」である。この類は多い。】この「行き合え」は、あちらとこちらから向かい合って行き合うのではない。並んで連なっているのを良い、鵲の行き合う間、などという行き合うと同じだ。「まなばしら」という鳥の群れている尾のたくさん並んでいるのを喩えたので、領巾を掛けた宮女たちが、多数並んでいる裳の、後方に長く引かれたのが、並んで連なっている様を言ったのだ。【あるいは上は女、こちらは男で、裾を引いて坐っている様かとも思ったが、そうではないだろう。というのは上の「比禮登理加氣」のところに「弖」とあって、この「由岐阿閇」のところには「弖」という辞がないのは、上から一連で女と男を並べて言った様ではない。それに男と女が入り混じって宴をするはずはない。とするとこれは女官たちの様を言ったのであって、男の官人たちの様子ではない。この句は、契沖いわく「鶺鴒は尾を引いてよく勇敢に行くから、宮女が裳の裾を長く引いても躓かず、よく振る舞うのに喩えたか」と言ったのは、たいへんな誤りだ。これは次の句に「いて」とあるのに、良く行く喩えは理由がない。尾を引いて良く行くのを「尾行き敢え」とはどうして言うだろうか。そんなまずい語はあるはずもない。】○爾波須受米(にわすずめ)は「庭雀」である。【雀は庭に降りて群がっているものだから、庭雀と言ったのだろう。】これも次の句の序であることは、上の二つの例のようなものである。○宇受須麻理韋弖(うずすまりいて)は、「群すまりいて」である。「うず」は群がることで、上巻に「宇士多加禮(うじたかれ)」とある「宇士に通い【「じ」と「ず」は特に親しく、通音である。】同じだ。「宇士」のことは、そこで言ったのを考えて知るべきだ。【伝6の十三葉】あの「蛆」もたくさん群がっている意味の名だろう。【小さい虫を俗に「うず虫」というのも、「うじ虫」というのと同じだ。】「すまり」は書紀に「八坂瓊の五百箇御統、御統、これを『みすまる』と言う」【これは玉をたくさん連ねて集め寄せたのを言う。万葉巻十(2012)、また巻十八(4105)に「白玉の五百箇集い」と詠んでいるのもこれである。】とあるのと同言で、多く相集っているのを言う。するとこの句は、「庭雀のように多く集まって」と言ったのだ。【契沖は「『す』と『く』とは同韻だから、『蹲っている』という意味だ」と言い、師も「『受』は『豆』の誤りで、『うずくまり』だ」として、祝詞の「集侍(うごなわり)」を引いて、同言だと言ったが、みな誤りである。うずくまっていることの喩えには、庭雀は似つかわしくない。また婦人が蹲っていることもあるはずもないことだ。それに「集侍」も蹲っていることではない。】○祁布母加母(きょうもかも)は、契沖が「今日か」だと言った。この詞は古い歌にある例はみなそうで、二つの「も」はともに助辞である。○佐加美豆久良斯(さかみずくらし)は、万葉巻十八【十一丁】(4059)に「多知婆奈能、之多泥流爾波爾、等能多弖天、佐可彌豆伎伊麻須、和我於保伎美可母(たちばなの、したでるにわに、とのだてて、さかみずきいます、わがおおきみかも)」、また【三十丁】(4116)「左加美都伎安蘇比奈具禮止(さかみずきあそびなぐれど)云々」、巻十九【卅九丁】(4254)に「酒見附、榮流今日之、安夜爾貴左(さかみずき、さかゆるきょうの、あやにとうとさ)」などがあって、宴のことである。そういう言葉の意味は、師は「万葉巻廿(4340)に『美豆久白玉(みずくしらたま)』などとある『美豆久』と同じで、沈酔、淵酔などというようなものだ」と言った。考えるに、万葉巻十八【二十一丁】(4094)に「海行者、美都久屍(うみゆかば、みずくかばね)」【続日本紀の天平廿一年の詔にも、この語がある。】とあるのなども、水に漬かることだから、酒に漬かる意味で言うのか。【俗言でも、酒を非常に好んで、たびたび飲むのを酒に漬かっていると言う。】また思うに、延喜式神名帳に「造酒司坐酒殿(さけのつかさにますさかどの)神二座、酒彌豆男(さかみずお)神は酒を造る才があって、酒を造らせた。そこで麻呂を与えて『酒看都子(さかみずこ)』と言い、山鹿比唐与えて『酒看都女(さかみずめ)』と言う。それで『酒看都』を氏とした」【この文、印本は誤字がある。ここは古い本によった。】などとある「酒美豆(さかみず)」はすなわち酒のことで、そういう意味と、栄え水のことだろう。それを「さけ」と言うのは、「水」を省いた名だろう。【師いわく、酒と言う名は、「栄え」ということだ。酒を飲めば、心が栄える意味である。】そうして酒宴することを「さかみずく」というのは、栄水飽(さかみずあく)で、酒を飽きるまで飲み、楽しむことを言うのではないだろうか。「らし」は推し測る意味である。○比能美夜比登(ひのみやひと)は「日の宮人」で、上記の大宮人である。天皇は日の御子であって、万事を日神になずらえて言う例で、大宮も日の宮と言う。万葉巻一(50)に「日之御門(ひのみかど)」、巻五に(894)「高光日御朝庭(たかひかるひのみかど)」などもある。この宮人は、宮女たちを言ったのである。○この歌をここに入れたのはいぶかしい。というのは、「祁布母加母」【「加」は「歟(か)」で、疑問の辞である。】と言い、「良斯」【推し測る辞である。】と言っているのは、目の当たりにした情景を詠んでいるのでないから、この槻の下での豊楽にいて、同時に詠んだとは聞こえないからである。【あるいはこの豊楽に、宮女たちが隔てをして、彼方で宴する気配を聞いて、こちらから推し測って詠んだのかとも思ったが、それではやはり「今日もかも」とある言が通じない。】それで思うに、これはある時後宮で女たちの豊楽があったのを、別殿から思いやって詠んだので、上の歌とは別の時の歌が、紛れてここに出たのではないだろうか。【その紛れた理由は、後にこの三首が樂府で同じく天語歌に属したので、上の二首に引かれて、この歌もここに入って伝わってきたのだろう。そういう例がある。神代巻の「あまざかる云々」のうたが「あめなるやおとたなばたの云々」の歌と同じ時の歌になって伝わったのも,同じ夷振の部にあるのから紛れたのである。このことは、その歌のところ、伝十三で言った。考え合わせよ。】○天語歌(あまことうた)は【朝廷を天とした例は、万葉巻の歌に「ひさかたの京(みやこ)」とも詠み、京人を「天人(あめひと)」とも詠むから、公(朝廷)の宴の歌なので言ったのかとも思われるがそうではない。師は「高光る日の御子」という語があるので名付けたと言ったが、それも良くない。】「餘語歌(あまりことうた)」であろう。三歌みな終わりに「許登能、加多理碁登母、許袁婆(ことの、かたりごとも、こをば)」と言う句が付いているが、これは歌の意味の外で余っている言葉だからである。【上巻にもこの語の余った歌はしばしばあったが、それは神代の歌で、別に「神語」と言って伝わっているから、ことは違うのではないだろうか。新撰姓氏録に「天語の連」という姓も見えるが、どういう由縁の姓か分からない。続日本紀八に「海語の連」とあるのと同じ姓か。】○「譽2其三重采女(女+采)1而(そのみえのうねべをほめて)」は、【旧印本他一本には「而」の字がない。ここは真福寺本、延佳本などによった。】上でたいへんめでたい歌を詠んで壽ぎ奉ったのを賞めたのである。○給多祿也(ものさわにたまいき)。若櫻の宮の段にも「多祿給(ものさわにたまいて)」とある。「祿」のことはそこで言った、【伝卅八の二十二葉】後世に至るまで、伊勢国の三重郡には采女郷というのがあり、もっぱらこの「女+采」がこの歌を詠んで、たいへん賞められたことが非常に名高かったからだろう。たいへん尊いことである。【今の世にも采女村というのがある。】

 

是豊樂之日。亦春日之袁杼比賣。獻2大御酒1之時。天皇歌曰。美那曾曾久。淤美能袁登賣。本陀理登良須母。本陀理斗理。加多久斗良勢。斯多賀多久。夜賀多久斗良勢。本陀理斗良須古。此者宇岐歌也。爾袁杼比賣獻レ歌。其歌曰。夜須美斯志。和賀淤富岐美能。阿佐斗爾波。伊余理陀多志。由布斗爾波。伊余理陀多須。和岐豆岐賀。斯多能。伊多爾母賀。阿世袁。此者志都歌也。

 

訓読:このトヨノアカリのひ、またカスガのオドヒメ、おおみきたてまつるときに、スメラミコトうたいたまえる、「みなそそく、おみのおとめ、ほだりとらすも、ほだりとり、かたくとらせ、したがたく、やがたくとらせ、ほだりとらすこ」。こはうきうたなり。ここにオドヒメうたたてまつれる、そのうた、「やすみしし、わがおおきみの、あさとには、いよりだたし、ゆうとには、いよりだたす、わきづきがしたの、いたにもが、あせを」。こはしつうたなり。

 

歌部分の漢字表記:水灌く、臣の嬢子、秀樽(缶+尊)取らすも、秀樽取り、堅く取らせ、下堅く、彌堅く取らせ、秀樽取らす子

やすみしし、我が大君の、朝とには、い倚り立たし、夕とには、い倚り立たす、脇机が下の、板にもが、あせを

 

口語訳:この豊楽の日、また春日の袁杼比賣が大御酒を奉った時、天皇は歌って「水注ぐ、臣の媛女、銚子を取るのも、しっかり取らせ、しっかりと取らせ、銚子を取る子」。この歌は浮き歌である。その袁杼比賣は歌を献げて、「安らかに天下を治めていらっしゃいます我が大君が、朝戸にはより立ち、夕戸にもより立つ、脇机の板にもなりましょうか。あせを」この歌は志都歌である。

 

是豊樂(このとよのあかり)は、上の長谷の百枝槻の下でのことである。○袁杼比賣(おどひめ)は、前に出た。【伝この巻の十八葉】これも采女ではないだろうか。【そのことは前に言った。】○美那曾曾久(みなそそく)は【「久」は清音だ。】「水そそぐ」で、次の句の「淤」に係る枕詞である。冠辞考に見える。【またその「みなそこふ」の條も考え合わせよ。水の中にあることを「そそぐ」と言うのは、少しどうかと思われるだろうが、水に浸っていることも「そそぐ」と言う。だからこれはいつも水に浸っている意味である。】「淤」に続くのは、「魚」の意味である。魚は「宇袁(うを)」なのを、「淤」と言うのは、上の「曾曾久」の「久」の韻が「宇」であって、長く引いて歌えば「久宇淤(くうお)」となる、その「宇淤」は「袁(を)」に縮まるから、自然と「魚」と聞こえるのである。【魚の「宇」を省いて「袁」と言うのは普通だが、これは韻の「宇」から続いているからなおさらだ。この「淤」に続くことには、種々の説があるけれども、どれも良くない。契沖は仁徳紀の歌について、「『於瀰(おみ)』の『於』は『阿』と通じて、『阿瀰』という鳥だ。またいにしえはそのまま『於瀰』と言っただろうから、水の下に潜って経る『於瀰』と続けたか」と言い、「みなくゞるあみのはがひの云々」という歌を引いたが、「あみ」という鳥は聞いたことがない。それは万葉巻三に(443)「牽留鳥(ひくあみ)」ということがあるのを、鳥の名と勘違いしたものだろう。「留鳥」は網のことで、鳥を留めるという意味で書いたのである。ある人は言を隔てて「處女」の「袁」に係ると言い、あるいは「大海の魚」に続くと言ったがみな良くない。またある人は「宇乎の反は於だから、仮名の理由は明らかだ」と言ったが、宇乎の反は「乎(を)」でこそあれ、「於(お)」ではない。それを「於」だと思ったのは、「於」と「乎」の所属を知らない誤りだ。また師は仁徳紀の「於」の字も「弘」に改め、ここの「淤」の字も「泓」にあらためて解いたけれども、この記では「泓」の字を仮名に用いたことはない。それにこの記も書紀も、打ち合わせたように同じ言葉を同じように写し誤ったはずもないので、とにかく強説である。師が古い書物の字を誤りとして改めた中には、このたぐいの行き過ぎた誤りが多い、注意して見るべきである。】○淤美能袁登賣(おみのおとめ)は、【多くの本に「袁」の字がないのは落ちたのである。ここは真福寺本、延佳本によった。】契沖が「臣の嬢子」であると言ったのが良い。書紀の武烈の巻の歌に「飫瀰能古(おみのこ)」、【臣の子である。】万葉巻三【卅五丁】(369)に「臣之壯士(おみのおとこ)」などあるたぐいの名である。【師のいわく、「淤」の字は「泓」の誤りで、「麻績(おみ)の少女」である。「女(おみな)」というのも麻績女ということだと言ったのは違う。麻(お)を績(う)むことを特に職業とする女なら麻績の少女と言うだろうが、すべての女をどうして言うだろう。女という名を麻を績むための名だとは、契沖も言ったが、これもまた誤りである。「女(をんな)」の「袁」は「嫗(おみな)」の「淤」に対して言い、「淤」は「大」、「袁」は小の意味であって、「麻」の意味ではない。万葉の「臣之壯士」に対しても、これは「臣の少女」であることは明らかである。】これは袁杼比賣のことを言う。○本陀理登良須母(ほだりとらすも)は、【この「本」の字は、この歌に三つある。延佳本にはみな「太」と書いているのは、例によってさかしらに改めたものだ。諸本みな「本」とある。】「秀錘謔轤キも」である。「吹iたり)」はもともと酒を盃に注ぎ入れる器である。【説文に「尊は酒を注ぐ器」とあるので知るべきである。尊と吹A樽は同じだ。こちらで「たり」と言うものも、いにしえは酒を注ぐ器だったので、この字を書いたのである。とするといにしえの垂ヘ、後世に瓶子(へいじ)、銚子などを使うように用いた器である。それを後世には樽は酒を入れておく器になり、注ぐ器ではなくなった。また瓶子は、和名抄に「かめ」とあって、いにしえは酒を注ぐ器ではなかった。銚子は「さしなべ」とあって、酒の器ではない。それがこの二つは後世には酒を注ぐ器になった。みないにしえと後世と、その形も使い方も移り変わったのである。】「たり」という名の意味は「垂れる」であって、その口から酒が垂れて出る意味だろう。【後世には「たる」と言うのは転じたもので、鳴鏑をいにしえは「なりかぶら」と言ったのが、後には「なるかぶら」と言い、椽もいにしえは「たりき」と言ったのを、後世には「たるき」と言うたぐいである。】和名抄には漆器類に「辨色立成にいわく、樽は、字を垂ニも書く。説文に見える。考えるに和名はないようだ」とあり、延喜式にも酒垂ヘたいへん稀に見えるだけだ。【これを見ると、いにしえに「たり」といった名は、中頃京畿では消え失せて、田舎にだけ残ったのが、後にまた広く普及したのだろうか。】「秀」とはその形の丈高いのを言うのだろう。「登良須」は「取る」を延ばした言い方、「母」は【万葉(824他)に「うぐひす鳴くも」などと言うたぐいの「も」である。】この嬢子が垂取り持ったさまを見て言った言葉である。【契沖はこの句を解しかねて、あるいは「本陀理」とは相撲のことではないかと言い、続く語句もみな相撲のこととして解いたのは、言うに足りぬ誤りである。師は延佳本で本を太に改めて「絡ダ(土+朶)(たたり)<糸のもつれを防ぐ道具>」としたのによって解いたのも誤りだ。これが決して「たたり」ではないことを言うには、「太」の字は記中でおよそ仮名に使ったことがないのを、中巻にただ一箇所にあり、濁音に用いている。書紀や万葉でも、濁音にこそ用いているが、清音には用いたことがない。またここは豊楽で、酒を献げるところなのに、糸の道具の「たたり」を取ることを詠む理由がない。「たたり」は立てて置いて糸を懸ける器具であって、手に取って使うものではないのに、「取らん」というのも似つかわしくない。】○本陀理斗理(ほだりとり)は、【「本」の字は旧印本で「夫」に誤っている。またの一本、他一本では「大」に誤っている。ここは真福寺本によった。また「斗」の字はここから続く四つを諸本共に「計」に誤っているのを、ここでは延佳本、契沖本によった。「取る」の仮名は、この上では「登」を用い、記中多くは「登」だが、中巻の明の宮の段の歌では、「斗理」とも「斗良牟」ともあるから、「斗」の字で間違いはない。】「秀錘謔閨vである。ここから嬢子を賞めて、戒めた詞である。○加多久斗良勢(かたくとらせ)は「堅く取れ」だ。この「堅く」は、書紀のこの巻(雄略)の歌に「・・・飫ホ(なべぶたに臼、衣の下の部分)枳瀰爾、柯タ(てへん+施のつくり)倶都柯陪麻都羅武騰(おおきみに、かたくつかえまつらん)云々」とある「柯タ(てへん+施のつくり)倶」と同意で、怠ることなく励む意味である。○斯多賀多久(したがたく)は【諸本みな「賀」のところに、もう一つ「加」の字がある。ここは真福寺本に「加」の字がないのによった。】「下堅く」である。【師は「斯」を上の句に付け、次の句の「夜」をこの句に付けて、「誰が堅くや」としたが、良くない。契沖も「夜」をこの句に付けた。】○夜賀多久斗良勢(やがたくとらせ)は「上堅く取れ」か。「うわ」は「わ」に縮まるが、【「わ」の行と「や」の行を】通わせて「や」とも言ったのではないだろうか。【「さわぐ」、「さやぐ」など、「わ」と「や」とが通う例もある。】「屋」【屋根である。】も「上」の意味か。また「いやが上」と言うのも「上が上」ということで、「彌(いや)」も「上」という意味ではないだろうか。【それとも「夜」の字は「麻」の誤りで、「眞堅く」か、または「禰(いや)」でいよいよ堅くということか、しかし「下堅く」とあるから、「上」ともあるように思われる。】更に考えるべきである。【師はここまでの三句を解いて、「堅く取るのは、誰のため。我がために堅く思い定めよ」という意味だと言ったが、それでは句の使い方が調子が悪く、詞のさまもその意味には聞こえない。それにここはそういう意味を詠むところではない。】この下上は、垂フ下の方、上の方である。その形が長いので、下と上に手を添えて取り持つものだからである。○本陀理斗良須古(ほだりとらすこ)。「古」は「子」で、袁杼比賣を指し、「秀錘謔轤キ子」と言っている。○歌全体の意味は、袁杼比賣が大御盞に盛る酒の樽を取り持ったさまの、正しく美しいのを見て感じ入り、賞めたのである。垂フ下、上を堅く取れと言ったのは、いよいよ浄い心で勤めてよく仕えよ、怠ってはならないと、垂取るのに託して、すべて仕え奉ることを戒めたのである。こう戒めたのは、すなわち賞めたことである。【何事でも良いことを賞めようとして、いよいよ善くせよと戒め励ますことは、常にあることだ。】○宇岐歌(うきうた)はどういう由縁のある名か、思い付かない。師は「酒盞(うき)歌」だと言ったが、それは上の三重の采女(女+采)の歌ならそうも言うだろうが、この歌には縁がない。あるいは声の調子の浮き沈みで「浮き歌」だろうか。【それなら次の志都歌は「沈み歌」かとも思ったが、そちらはやはり前に言ったように「徐歌」だろう。】○阿佐斗爾波(あさとには)。「斗」の字は諸本で「計」に【真福寺本では「許」に】誤っている。ここは次の「由布斗」にならって改めた。「斗」であることは間違いないからである。【記中、「計」の字は仮名に用いたことがなく、「計」とあるのはみな「許」もしくは「斗」の誤りである。だから「計」と書いたのに基づく説はみな当たらない。】「朝戸には」である。○伊余理陀多志(いよりだたし)は、「い」は発語で、「倚り立たし」である。万葉巻十七【三十一丁】(3877)に「安之可伎能、保加爾母伎美我、余里多々志(あしかきの、ほかにもきみが、よりたたし)」とある。○由布斗爾波(ゆうとには)は、【「斗」の字は、真福寺本、延佳本では「計」に誤っている。ここは旧印本、また一本、他一本によった。】「夕戸には」である。「朝戸には云々」、「夕戸には云々」とあるのは、朝の戸、夕の戸の二つがあるのではない。万葉巻二【三十二丁】(196)に「朝宮乎、忘賜哉、夕宮乎、背賜哉(あさみやを、わすれたまえや、ゆうみやを、そむきたまえや)」【単に朝夕いる宮ということだ。】と言うのと同じ言い方で、朝に戸を開く時には云々、夕に戸を閉じる時には云々ということで、それはただ「朝夕は」と言う意味だ。朝夕とはいつもいつも常にいるという意味になる。【俗言で「朝も晩も」と言うようなものだ。】だから「戸」に用はないけれども、戸は朝夕に開け閉めするものだから、朝夕を言うために御殿の座の辺りの様子で言うのである。【契沖は「朝異(あさけ)、夕異(ゆうけ)」として、「『朝に異に』と言った詞である。『夕異』も同じ。毎朝、毎夕を言う」と言い、師は「朝影、夕影」だと言って、万葉巻一に「朝庭(あしたにわ)、夕庭(ゆうべにわ)」とあるのも、ここをよりどころに、「あさけにわ、ゆうけにわ」と読んだ。またあり人は「朝食、夕食だ」と言ったが、みな違っている。】○和岐豆岐賀(わきづきが)は、師が「『脇机』で、脇息のことだ。和名抄の坐臥の具に『几は西京雑記にいわく、漢の決まりで、天子は玉几、公侯はみな竹や木を几とする。和名『おしまづき』。ところが、几の属にはまた脇息の名がある。出所は未詳である』とある」と言った通りだ。【「おしまづき」は「押座几(おしいましづくえ)」ということで、すなわち脇息である。脇息という名も、漢籍の戦国策などに見える。後撰集の歌(1377)に、「脇息をおさへて坐(まさ)へ、云々」、小右記には「腋息」ともある。これは「脇」と「腋」を同じことと思って書いたのだろう。】書紀の斉明の巻に「夾膝自斷(おしまづき、みずからおれぬ)」、また「案机之脚、无故自斷(おしまづきのあし、ゆえなくしてみずからおれぬ)」、天武の巻に「高市皇子意か、小錦異常の大夫立ちに賜う・・・および机(おしまづき)の杖、ただ小錦の三階には机を賜らなかった」などがある。「わきづき」というのこそ上代からの名だったのを、後には「おしまづき」と言い、また後には脇息と言うのである。【契沖がこの句を、「和」の字を旧印本に誤って「知」と書いたのによって、「千木槻(ちきづき)」としたのは、論ずるに足りない。】「脇机」は座っていてよりかかるものなのに、「余理陀多須」とあるのはどうかと思われるだろうが、そう言う形も「立たす」と言うのだろう。【「立つ」と「座る」を対立して考えれば、座っているのを「立つ」とは言うはずもないが、その形については、座っているのも立つと言うのだろう。ものの形の高いのを「立つ」と言うのが通例で、人の座った形も高いものだから、そういうことも問題はない。いにしえには立ってよりかかる脇机もあって、それだろうかとも思ったが、やはりそうではないだろう。】○斯多能(したの)は「下の」である。○伊多爾母賀(いたにもが)は「板にもがな」ということで、その板にもなりたいものだという詞である。契沖が「万葉巻十一(2693)にいわく、『如是許、戀乍不有者、朝爾日爾、妹之將履、地爾有申尾(かくばかり、こいつつあらずは、あさにひに、いまがふむらん、つちにあらましを)』、この歌に似ている」と言った。巻八(1455)に「玉切、命向、戀從者、公之三舶乃、梶柄母我(たまきはる、いのちにむかい、こいんゆは、きみがみふねの、かじつかにもが)」など言ったたぐいは、もっと多い。師が「下の板と言ったのは脇机の板である」と言った通りだ、枠机は押して腕の下にあるものだから「下」と言ったのだ。【あるいは思うに、いにしえの脇机には、脚の下にも板があって、それを言ったのではないか。もしそれなら上の板を措いて下にあるのを言ったのは、身をへりくだる意味があるのだろうか。しかしやはり師の説こそいにしえの意にかなうだろう。】○阿世袁(あせを)は、「吾が兄よ」である、師がすなわち脇机を言うと言った通りだ。倭建命の歌に「一つ松、吾兄(あせ)を」とあるのと同じだ。この言のことはそこで言った。【伝廿八の四十葉】ここでこう言ったのは、天皇の身近なものを羨む意味がある。○歌全体の意味は、天皇の朝夕に常によりそっていて、脇の下にある脇机の板にもなって、大御身に近く親しく仕えようというのである。○志都歌(しつうた)は、高津の宮の段に出た。【伝卅六の五十七葉】

 

天皇。御年壹佰貳拾肆歳。御陵在2河内之多治比高ワシ(亶+鳥)1也。

 

訓読:このスメラミコト、みとしモモチマリハタチヨツ。みはかはカワチのタジヒのタカワシにあり。

 

口語訳:この天皇の崩じた時は、百二十四歳であった。御陵は河内の多治比の高ワシ(亶+鳥)にある。

 

壹佰貳拾肆歳(ももちまりはたちよつ)。書紀には「二十三年秋七月辛丑朔、天皇が病になった、八月庚午朔丙子、天皇の病が重くなり、百寮の人々は別れを惜しみ嘆きながら、大殿で崩じた」とあって、年齢は見えない。【允恭の巻に七年に生まれたと見えるのによると、崩じた年は六十二歳となり、この記と非常に違う。帝王編年記には「雄略天皇の崩じた年は百四。この天皇が百四まで生きたかどうかは疑いがある。というのは天皇は安康天皇の同母弟である。またこの年百四年というのは、仁徳天皇の六十四年、丙子に当たるが、父允恭天皇は、仁徳の六十二年に生まれている。そうするとわずかに三歳、子供を産む年ではない。暦録にいわく、百二十四と言っている。そうするといよいよ父の前に生まれている」と言っている。これに「百四」とあるのはどの記に見えるのか。あるいは書紀の古い写本にあったのか。】ある書には九十三歳とある。○旧印本、真福寺本、また一本にこの間に「己巳八月九日崩也」という例の細注がある。己巳の年は書紀では仁賢天皇の二年である。【この天皇の紀年はたいへんいぶかしい。書紀も信じがたいところがあるのは、大后の若日下王は仁徳天皇の皇女であるのを、安康天皇の元年に大長谷王のために求めたとあるが、その年は大長谷王は卅七歳に当たり、若日下王は六十余歳になっていただろう。父の天皇が崩じた時に生まれたとしても、五十六歳だから、妻に求めるような年齢ではない。またこの天皇は允恭天皇の七年に生まれて、位に就くこと二十三年で崩じたとすれば、あの引田部の赤猪子のことなども年数が合わないからである。そこでここは書紀の紀年を離れて、この記の代々の細注に基づいて考えると、仁徳天皇が丁卯の年に崩じたとあるのは、即位五十五年である。履中天皇が壬申年に崩じたとあるのは、仁徳天皇の六十年である。反正天皇が丁卯年に崩じたとあるのは、書紀では仁徳天皇の六十五年である。允恭天皇が壬申年に崩じたとある年は、書紀では仁徳天皇の八十二年である。雄略天皇が己巳の年に崩じたとあるのは、書紀では仁賢天皇の二年であるが、この年紀によって、この天皇の年が百四歳とすると、仁徳天皇の五十四年に生まれたので、父の允恭天皇の五十歳の時である。安康天皇の段には細注がないので、取りあえず書紀によって、その御世が三年だったとすると、次に雄略天皇の元年は年齢が三十三の時で、書紀では仁徳天皇の八十六年という年で、それから己巳の年までは、在位九十二年である。この年紀によれば仁徳天皇や允恭天皇の御世は、書紀とはたいへん縮まって、年数が大きく違うけれども、それは書紀にこだわるべきではない。かの紀に継体天皇は廿五年に崩じたとあり、分注に「ある本にいわく、二十八年甲寅」とあって、やや近い御世でさえ、なおこのように異なる伝えがあるからには、ましてそれ以前のことはどうだか分かるだろう。この記の分注も上に言ったように、古い伝えの一つと思われ、上の紀年による時は、仁徳天皇の崩じた年から、安康天皇の元年まで三十年に満たないから、大后の若日下王の年齢も違わず、またこの天皇の御世が長かったので、赤猪子の話も年の数が合う。安康天皇が崩じた時、この天皇が「童男(おぐな)」とあるのは、どんな説によっても合わないが、「おぐな」という名は必ずしも年齢に関係がないことは伝四十の廿一葉で言った通りだから、これもまた違いはない。しかし上述の細注の紀年によっても、非常に違うことがある。意富祁命、袁祁命は、父の忍齒王が殺された時、倭から逃れたことが出ているが、もしこの天皇の御世が九十二年経っていたなら、清寧天皇の崩じた時は百余歳にもなっていただろうからである。このことはさらに次の段で論じる。】○河内之多治比(かわちのたじひ)。前に出た。【伝卅八の十一葉】○高ワシ(亶+鳥)(たかわし)は、【ワシの字は旧印本で「嶋」に誤っている、また一本、他一本では「?(西の下に土+鳥)」に誤っている。ここは真福寺本、延佳本によった。旧事紀にも「ワシ」とある。新撰字鏡に「鷲は『わし』」和名抄に「チョウ(周+鳥)は和名『おおわし』、鷲は『こわし』」とあって、ワシは鷂のたぐいと見えるから、「わし」ではないが、いにしえにこの字も用いたのだろう。】書紀の清寧の巻に「元年十月癸巳朔辛丑、大泊瀬天皇を丹比の高鷲の原の陵に葬った」、諸陵式に「丹比の高鷲原の陵は、泊瀬の朝倉の宮で天下を治めた雄略天皇である。河内国丹比郡にある。兆域は東西三町、南北三町、陵戸四烟」と見える、河内志に、「丹北郡の嶋泉村にある」とある。【「隼人の墓は高鷲原陵の北にある云々」と言っている。この隼人のことは、書紀の清寧の巻に見える。この御陵は俗に丸山というそうである。志紀郡と丹南郡の境に近いところである。】

 

 



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