本居宣長『古事記伝』(現代語訳)43_1

 

 

白髮大倭根子命。坐2伊波禮之甕栗宮1。治2天下1也。此天皇。無2皇后1。亦無2御子1。故御名代。定2白髮部1。故天皇崩後。無B可レ治2天下1之王A也。於レ是問2日繼所レ知之王1也。市邊忍齒別王之妹。忍海郎女。亦名飯豊王。坐2葛城忍海之高木角刺宮1也。

 

訓読:シラカのオオヤマトネコのミコト、イワレのミカクリのミヤにましまして、アメノシタしろしめしき。このスメラミコト、おおきさきましまさず、またミコもましまさざりき。かれミナシロとして、シラカベをさだめたまいき。かれスメラミコトかむあがりましてのち、アメノシタしらすべきミコましまさず。ここにひつぎしろしめさんミコをとうに、イチベのオシハワケのミコのいも、オシヌミのイラツメ、またのみなはイイトヨのミコ、カツラギのオシヌミのタカキのツヌサシのミヤにましましき。

 

口語訳:白髮大倭根子命は、伊波禮の甕栗宮に住んで天下を治めた。この天皇には皇后がなく、子もいなかった。そこで御名代として白髮部を定めた。天皇が崩じた後、天下を継ぐものがなかった。そこで日継ぎをしろしめす王として、市邊忍齒別王の妹、忍海郎女またの名は飯豊王が葛城の忍海の高木の角刺宮に住んだ。

 

この初めに、真福寺本には「御子」という二字がある。前の雄略天皇の御子ということだ。【この例のことは、伝卅八の初めで言った。】○大倭根子(おおやまとねこ)という号のことは前に言った。【伝廿一の三十五葉】書紀には「白髪武廣國押稚日本根子(しらかたけひろくにおしわかやまとねこ)天皇」とある。○この天皇の後の漢風諡号は、清寧天皇という。○伊波禮(いわれ)は前に出た。【伝卅八の二葉】○甕栗宮(みかくりのみや)。こう名付けたのは、さぞかし由縁があることだろう。この宮は、帝王編年記に「十市郡白香谷(しらかだに)がそうである」と言っている。【「白香谷」という地名は、今は分からない。】大和志に「池内(いけのうち)の御厨子(みずし)邑」だと言う。書紀に「大泊瀬天皇は、御子たちの中で特に霊異であると思って、二十二年に立てて皇太子とした。二十三年・・・元年春正月戊戌朔壬子、有司に命じて壇場を磐余の甕栗に造らせ、天皇の位に就いた。そこに宮を定めた」とある。○皇后(おおきさき)は「大后」である。【「皇后」と書いた例は前にもあった。伝四十の十二葉】○無は「ましまさず」と読む。次のも同じ。○「無2御子1」。【多くの本に「無」の字がない。なくても構わない。ここは真福寺本、延佳本によった。】○御名代(みなしろ)は前に出た。【伝卅五の十葉】通例はみな「爲2某命御名代1」と「爲(して)」の字がある。ここは「爲」の字があったのがぬけたのか。ただしなくても良い。○「定2白髮部1(しらかべをさだめたまいき)」。このことは朝倉の宮の段に出た。【伝四十一の四葉】二度定められたのか。または一つのことが二度伝えられたのか。○「可レ治2天下1之王(あめのしたしらすべきみこ)」。このとき、天皇の御子は誰もいなかった。○日繼(ひつぎ)は、前に出た。【伝十四の三十七葉】○所知之王也(しらさんみこ)。【真福寺本には「也」の字がない。なくても構わない。】○問は「とうに」と読む。求め尋ねる意味である。○市邊忍齒別王(いちのべのおしはわけのみこ)。前に出た。【伝卅八の四葉】この名は、ここでだけ「別」の字がある。【他のところに出たのには、「別」の字はない。】○忍海郎女(おしぬみのいらつめ)。前に出た。【伝卅八の五葉】「忍海」という名の理由は次の文で明らかだ。前には「青海(あおみの)郎女、またの名は飯豊郎女」とある。【「青」の字は「忍」を誤ったのかとも思えるが、書紀にも「青海」とある。】この皇女のことは、書紀では顕宗の巻に「天皇の姉、飯豊の青皇女」とあり、その巻の初めの分注にも「押磐皇子の御子」とある。これはたいへん紛らわしいことだが、【というのは、この皇女は既に履中の巻で押羽皇子の同母の妹に青海皇女があって、「一にいわく、飯豊皇女」とあるのを、顕宗の巻に至って突然変わって、「その娘」としたことは、ありそうにない。】あれこれ考えて見ると、書紀はこの記の伝えとは異なるので、書紀の伝えで飯豊皇女というのは、履中天皇の子の青海皇女とは別人なのである。【それを青海皇女のところで「一にいわく、飯豊皇女」とある分注は、「青海皇女のまたの名をこうも言う」と言うのではない。これは一説を挙げたので、押羽皇子の御子である飯豊皇女を履中天皇の子で、この青海皇女のことだとする説もある意味だ。その一説は、この記の伝えと同じである。】○忍海(おしぬみ)は、和名抄に「大和国、忍海郡は『おしのみ』」とある。【この郡は葛城の上下郡の間にあって、葛城のうちである。今も忍海村というのがある。】この地名は、書紀の神功の巻の五年のところに見える。○高木角刺宮(たかきのつぬさしのみや)。高木は地名ではない。白檮原の宮の段の歌に「宇陀能多加紀(うだのたかき)」などとあるたぐいで、山を言うのを、【山を「き」と言った例は多い。それは遠つ飛鳥の宮の段の歌に「阿志比紀能」とあるところ、伝卅九の廿三葉で言った通りである。】宮の名にしたのだ。【ここは宮の名と考えるべきだ。】「角刺(つぬさし)」はどういう理由の名か、思い付かない。【あるいはこの宮はもとから高城で、高市にあったのを、その造りざまが尋常でなく、高く秀でたのが角の刺し上ったようだという意味で名付けたのではないか。書紀の歌を考えると、世にも特殊な宮のようである。】このようにこの皇女が、この宮にいたことを言っているのは、このとき天津日嗣ぎを受け継ぐ王を尋ねたところ、男王は全くおらず、ただこの女王だけがいた。特にその宮を挙げて言っていることは、この宮にいて、しばらく天下を治めたという意味を含めた文である。このとき、この姫尊を除いては王がいなかった。そこで天下の臣連、八十伴の緒は、自然と彼女を君と仰いだのだろう。【それを特に一代を立てず、ここに「天下を治めた」とも書かなかった理由は、それがわずかな期間で、一年にも満たないほどだったからか。または女王で天下を治めたというのが、神功皇后は出しゃばって治世を行ったけれども通常の天皇ではなく、だからこの記でも一代を立てず、後の諡号もなお皇后と言って天皇とはしていない。とすると例がなかったとは言えないからであろうか。】これを下文の「其姨飯豊王、聞歡而(そのみおばいいとよのみこ、ききよろこばして)云々」というところに係けて見るべきだ。書紀には、清寧の巻に「三年春正月、・・・秋七月、飯豊皇女は角刺宮で云々」、【このことを何の因みもないのに、ふとここに記したのは、どういうことか。書き方がいかにも拙い。「角刺宮で」ということも用がないように聞こえる。古伝の書に書かれていたのは、ここに由縁があったのを、書紀に選んで記すことによって、何も縁がないようなことになったのだろう。】顕宗の巻に「五年春正月、白髪天皇が崩じた。この月、皇太子億計王は天皇と位を譲り合って、しばらく天下を治めるものがいなかった。そこで天皇の姉、飯豊の青皇女が忍海の角刺宮にいて、政を執り、忍海の飯豊の青の尊と名乗った。その当時の人々は『野麻登陛爾(イ+爾)、瀰我保指母能婆、於尸農瀰能、苣能タ(てへん+施のつくり)萩I儺屡、都奴娑之能瀰野(やまとへに、みがほしものは、おしぬみの、このたかきなる、つぬさしのみや)』と歌った」【「倭方に見欲しきものは、忍海のこの高城なる角刺の宮ぞ」と言う。この歌で、この宮が通常の形でなかったことが分かる。「農」は、紀中の例ではみな「ぬ」の仮名である。】とある。この記と異なる点もある。

 

爾山部連小楯。任2針間國之宰1時。到2其國之人民名志自牟之新室1。樂。於レ是盛樂。酒酣。以次第皆舞(イ+舞)。故燒レ火少子二口。居2竈傍1。令レ舞(イ+舞)2其少子等1。爾其一少子曰。汝兄先舞(イ+舞)。其兄亦曰。汝弟先舞(イ+舞)。如レ此相讓之時。其會人等。咲2其相讓之状1。爾遂兄舞(イ+舞)訖。次弟將レ舞(イ+舞)時。爲レ詠曰。物部之。我夫子之。取佩。於2大刀之手上1。丹盡著。其緒者。載2赤幡1。立2赤幡1。見者五十隱。山三尾之。竹矣。訶岐<此二字以レ音>苅。末押縻魚簀。如レ調2八絃琴1。所=治=賜2天下1。伊邪本和氣天皇之御子。市邊之押齒王之。奴末爾。即小楯連聞驚而、自レ床墮轉而。追=出2其室人等1。其二柱王子。坐2左右膝上1。泣悲而。集2人民1。作2假宮1。坐=置2其假宮1而。貢=上2驛使1。於レ是其姨飯豊王。聞歡而。令レ上レ於レ宮。

 

ここにヤマベのムラジオダテ、ハリマのクニのみこともちにまかれるときに、そのクニのおおみたからなはシジムがニイムロにいたりて、うたげす。ここにさかりにうたげて、なかばなるときに、ついでのままにみなまいす。かれヒタキのわらわふたり、カマのへにいたる。そのわらわどもにまわしむるに、そのひとりのわらわは、「ナセまずまいたまえ」といえば、あにも「ナオトまずまいたまえ」という。かくあいゆずるときに、そのつどえるひとども、そのゆずらうさまをわらいき。かれついにアニまずまいおわりて、つぎにオトまわんとするときに、ながめごとしつらく、「もののふの、わがせこが、とりはける、たちのたかみに、にかきつけ、そのおには、あかはたをたち、あかはたたてて、みゆればいかくる、やまのみおの、たけをもとかきかり、すえおしなびかすなす、やつおのことをしらべたるごと、あめのしたをおさめたまいし、いざほわけのすめらみことのみこ、いちべのおしはわけのみこの、やつこみすえ」とのりたまえば、すなわちオダテのムラジききおどろきて、ゆかよりおちまろびて、そのムロなるひとどもをおいいだして、そのふたばしらのミコを、ひだりみぎりのひざのへにのせまつりて、なきかなしみて、たみどもをつどえて、カリミヤをつくりて、そのカリミヤにませまつりおきて、ハユマヅカイをたてまつりき。ここにそのみおばイイトヨのミコ、ききよろこばして、ミヤにのぼらしめたまいき。

 

口語訳:山部連小楯は針間の国の宰として任地に赴いた時、その国の人、志自牟の新室に至って、宴をした。宴が盛んになった時、人々は順に舞いをした。火を焚く少年が二人、竈の傍に座っていた。その少年たちに舞いをするように命じたところ、一人が「兄まず舞え」と言った。兄は「弟、まず舞え」と言った。そうして相譲るのを見て、集まった人々はみな笑った。そこでついに兄が舞った。次に弟が舞う番になったが、彼は長い詩を読んで、「物部のわが夫子が取り佩いた大刀の手上に、丹を描き付け、その緒には、赤幡を立て、見ていれば隠れる山の三尾の竹を掻き苅り、末を押し靡かせるように、八絃琴の調べを整えて、天下を治めた伊邪本和氣天皇の御子、市邊之押齒王の末であるぞ」と言った。小楯連は聞いて驚き、座席から転げ落ちた。その部屋にいた人たちを追い出して、その二人の王子を左右の膝に載せて、しばし泣いた。そこで人を集めて仮宮を造り、その仮宮に王子たちを於いて、駅使を都に送った。飯豊王は聞いて喜び、二人を宮に上らせた。

 

山部連(やまべのむらじ)は前に出た。【伝卅七の十九葉】○小楯(おだて)は、近い先祖にも「大楯」という名がある。【高津の宮の御世である。】「おだて」というのは明の宮の段の歌に見える。○針間國(はりまのくに)。前に出た。【伝廿一の四十七葉】○宰は「みこともち」と読む。「御命持ち」で、天皇の大命を承り、持って行って、その国の政を行うという意味の名だ。万葉巻二【十四丁】(113)に「君之御言乎、持而加欲波久(きみがみことを、もちてかよわく)」、【これは宰のことではないが、言は同じだ。】巻五【三十一丁】(894)に「勅旨、戴持弖、唐能遠境爾、都加播佐禮(おおみこと、いただきもちて、もろこしのとおきさかいに、つかわされ)」、【これは遣唐使のことである。】巻十七【四十二丁】(4006)に「須賣呂伎能、乎須久爾奈禮婆、美許登母知、多知和可禮奈婆(すめろぎの、おすくになれば、みこともち、たちわかれなば)」【これは宰のことだが、「みこともち」を用言(動詞)に言っている。また同巻(4008)に「於保伎美乃、美許等可之古美、乎須久爾能、許等登理毛知弖(おおきみの、みことかしこみ、おすくにの、こととりもちて)」、これは御命を持ってという意味ではないが、事は同じだ。】などあるようなものだ。「宰」の始まりは定かでない。上代からあったものだろう。書紀の神功の巻に「新羅の宰」、應神の巻に「海人の宰」などがある。「国司」というのもこれだ。仁徳の巻に「遠江國司」、雄略の巻に「任那國司」などがある。いにしえは後世のように、国毎に置かれたものとは見えない。国毎に必ず置いて、後世のように定められたのは、孝徳天皇の御世からのことらしい。【孝徳紀の書き方がはっきりしないために、確かなこととは聞こえないが、大体そのように聞こえる。大化元年八月に「東国等の国司を迎え受けた。そこで国司等に詔して、云々」、これは「東国」とあるけれども、畿内七道、諸国の国司に詔したように聞こえる。天武の巻に「詔して、すべて国司に任ずるものは、畿内・陸奥・長門の国を除いては、みな大山位(だいせんい:大化の改新後の第十一位の冠位)以下の人を任ずる」などがある。後世の書物などに、国造と国司を同じもののように言い、あるいは皇極天皇のときに、国造を国司と改めたと言い、あるいは国造と国司を並べ置いたなどと言うのは、みないにしえのさまを深く考えず、みだりに言った誤りである。後世の書物でいにしえのことを言ったのは、何事もこのたぐいで、たいへん素朴なことばかりである。国造は、前にも述べたように、代々伝えてそのところにいて、動くことはないものだ。国司は時々に人を選んで、朝廷から任ぜられるもので、国造とはたいへん違うものだ。】職員令に「大國守一人・・・介一人・・・大掾一人・・・少掾一人・・・大目一人・・・少目一人・・・史生三人、上國は・・・中國は・・・下國は・・・」。これは国司である。○任は「まかれる」と読む。【「任」を「まけ」と言うのは、「まからせ」ということで、その国へ「罷らせる」ことである。それでこの字を「まけ」と言うのは、都の外の官に限ったことである。ここはその任を受けて行く人のことを言うところだから、「まけ」とは読まず「まかれる」と読むのである。】書紀の孝徳の巻(大化二年三月)に「國司之任(くにのつかさをまかてまけどころに)」【「まけどころ」は天皇が任せたところである。「まかて」は「まかりて」である。】とある読みは、古言によく合っている。○人民は、「おおみたから」と読む。中巻の玉垣の宮の段に「浄公民(きよきおおみたから)」とあるところを考え合わせよ。【伝廿四の五十九葉】○志自牟(しじむ)は、【多くの本で「自」の字を落としている。ここは真福寺本、延佳本によった。】前に出た。【伝四十の四十八葉】○新室(にいむろ)。すべて「むろ」と言うのは、単に「舎(や)」と言うのとは違い、家の内でも奥の方にあって、【「室」の字を書くのもこの意味である。「堂に登って、まだ室に入らず」などと言うのでも分かる。】籠もった屋で、いにしえは土で築いて、塗り込めて【夏は涼しく、冬は暖かで、】寝るところである。【書紀の履中の巻に室を「よどの」とも読んでいる。大和物語に「紀の國のむろの郡にゆく人は、風の寒さも思ひしられじ」とある。今の世に「むろ」というものも、土で塗り込めたのを言う。また後世に母屋(もや)と言うのは身屋(むや)と聞こえるのだが、室屋(むろや)の縮まった形でもあろうか。僧の住む庵を、古今集の詞書きなどで「むろ」と言うのは、「庵室」という「室」の字について言う。】書紀神代巻に「無戸室(うつむろ)」、天武の巻に「御窟殿(みむろどの)」、また「御窟院(みむろのいん)」などがあるのも塗り込めた殿だろう。【和名抄の古い本に「辨色立成にいわく、窖は地室である。一にいわく漆屋(ぬりや)」とある。】なお中巻の白檮原の宮の段に「忍坂の大室」とあるところで言った。【伝十九の二十九葉】万葉巻十一【二丁】(2351)に「新室、壁草苅邇(にいむろの、かきくさかりに)」、【「かき」はすなわち「かべ」である。】また(2352)「新室、踏静子之(にいむろを、ふみしずのこが)」、【「新室を踏みしずむ」という言いかけで、ふみ固めるのを言う。】巻十四【二十六丁】(3506)に、「爾比牟路能(にいむろの)云々」などがある。○樂は「うたげす」と読む。「うたげ」のことや「新室樂(にいむろうたげ)」のことは、中巻の倭建命の段で言った。【伝廿七の十五葉】室を新しく造ると、特に宴楽をしたのだろう。書紀の允恭の巻に、「新室で讌(うたげ)した。天皇みずから琴を弾き、皇后が舞いをした。云々」、落窪物語で、衛門の督が三條の殿に初めて移ったところに、「三日がほどあそびのゝしりて、いと今めかしうおかし」とあるのも、いにしえの新室楽の心映えだろう。ここで言っているのは、【この宴を小楯が特別に行ったように聞こえるだろうが、そうではない。】志自牟が新室楽をするところへ、小楯がたまたま来合わせて、その宴に参加したという意味だ。○盛樂酒酣は、「さかりにうたげて、なかばなるとき」と読む。そのことは倭建命の段で「盛樂、故臨2其酣時1(さかりにうたげたり、かれそのたげなわなるときに)」とあるところで言った。【伝廿七の廿葉】「酣」を「たげなわ」と読むのは「うたげなかば」ということなのを、ここの「酣」は前の「うたげ」という言葉から続くので、単に「なかば」と読んだのである。○以次第は師(賀茂真淵)が「ついでのままに」と読んだのに従う。【「ついで」というのは、やや後に音便で崩れた読み方で、正しくは「つぎて」である。しかしそう言った古言は伝わっていないので、とりあえず普通のように「ついで」と読むべきである。】この「次第」は、集まった人々の貴賤、また老少などによる次第であろう。新室楽にみな舞ったことは、前述の允恭紀と合わせて知るべきだ。○燒火少子は、【「少」の字は、諸本に「小」とある。ここは延佳本によった。「小」と「少」は、古い書物では通わせて用いたことが多いが、これは後に出るのがみな「少」とあるからである。】「ひたきわらわ」と読む。中巻の倭建命の段に「御火燒之老人」とあるところを考え合わせよ。【伝廿七の八十七葉】齋宮式に「火炬少子(ひたきわらわ)二人」、また「およそ齋王が国に到る日、その火炬(ひたき)は当郡の童女を取る」、大炊式に「御火童(みひたきわらわ)四人云々」、主殿式に「火炬小子四人、山城国葛野郡の秦氏の子孫で、事に堪えるものを当てる。年齢が冠婚になると、省に申し出て替えよ」などと見える。いにしえ、火焼きには、多くの場合は少年を当てたのだろう。【上記の式にあるのは、いにしえからのままである。】そのことから、必ずしも童子でなくても、「火燒少子」と言ったのだろう。【後世の車の牛飼童も必ずしも童子ではなかった。年長の者もそう言うことがあった。】この意富祁命、袁祁命は父の押齒王が殺された時に逃げ去ったことがあるのを、その後雄略・清寧の二代を経て、まだ童であるはずはない。「袁祁命、治2天下1八歳、御年參拾捌歳」とあるからには、このときは三十歳のときである。とするとここも火焼きだから少子と言ったので、実際に童だったはずはない。【それを後の文で「坐2左右膝上1」と言い、書紀にも「兩兒」とあるのは、「火燒少子」とあることから紛れた言であろう。もう一つの考えもある。畏れ多いが、試みに言っておこう。まず前に述べたように、雄略天皇の紀年が何かと不審であるから、よく考えると、この二王子は実は押齒王の子ではなく、孫ではないか。押齒王の殺された時に逃げたのは、二柱であろうと一柱であろうと、その一柱はこの意富祁命、袁祁命の父で、丹波、播磨で民間の中に流離して薨じたのではなかろうか。それは名を深く隠して、民間で死んだので、その名も伝わらず、世に知られなかったのだろう。いにしえは子々孫々までも「子」と言ったので、その王の御子たちも、押齒王の子と言って、直接の子のように伝えたのではないだろうか。次の名乗りでも押齒王の子と言わないで、「末」と言ったのも、孫だったためではないか。この考えが正しければ、この二柱の王は、父王が丹波、播磨などを流離する間に生まれたので、このときも実際に童だった可能性がある。この考えに基づくと、飯豊王と両方が書紀の伝えのように押齒王の子であるのを、この記に「二柱の王の姨(おば)」とあるのは、押齒王の孫であるから、本当に姨であることになる。雄略天皇を上記のように、この記の細注によって、在位九十二年とするのも、押齒王の孫とすれば、この時はまだ童で、年紀が違うことはない。ただこの時本当に童だったなら、生まれたのは父王の九十余歳のときにあたるが、いにしえには百余歳でも子があったことは珍しくないから、それは問題ない。上の件の考えは試みに一応挙げておいたが、責任を持ってそうだとは言えない。雄略天皇の御陵を破壊しようとしたこと、また置目嫗のことなどを考えると、押齒王はやはり父だと思われ、祖父だとすると物遠く聞こえる。だからこのことは確かには定めがたい。】○二口は「ふたり」と読む。二人ということだ。書紀にも六口(むたり)、二口(ふたり)、三口(みたり)などが見える。【人の数を「幾口」ということは、「戸口」から出た。】○竈傍は「かまのへ」と読む。これは宴の席の明かりのために火を焼く竈だろう。【「爐」である。というのは、宴楽は、飯を炊く竈のそばでは行わないからである。】○其一少子(そのひとりのわらわ)は、袁祁命について言う。○汝兄(なせ)は、万葉巻十四【十九丁】(3458)に「奈勢能古(なせのこ)」、【これは夫を指して言う。】巻十六【二十九丁】(3885)に「名兄乃君(なせのきみ)」などがある。ここは実の兄王を指して言う。○其兄(そのあに)は意富祁命を言う。○汝弟は「なおと」と読む。万葉巻十七【二十一丁】(3957)に「奈弟乃美許等(なおとのみこと)」とある。【これも弟を指して言っている。】○會人は、師が「つどえるひと」と読んだのに従う。宴楽に集まった人たちである。○「咲2其相讓之状1(そのゆずらうさまをわらいき)」とは、はなはだ賎しい火焼少子のような者が、身分にも似ず人のするような事をしたのを笑ったのである。○遂(ついに)は、兄弟は譲り合ったけれども、最終的に兄がまず舞ったのである。○爲詠曰は「ながめごとしつらく」と読む。「ながめごと」は「長め言」で、声を長く引いて言う詞である。【師は「うたえらく」と読んだ。「うたう」も「ながめ」も同じようだが、この語は歌のようではない。別の種類のものだ。それで歌とは言わない。それを「うたう」と読んでは、歌と区別が付かない。「詠」は字書に「長い言である」と注してある。また「歌である」とも注して、同じことだが、やはり歌と同じではない。】後世にも「樂に詠」ということがある。【字音で「えい」と言う。】ただしそれは朗詠のように、みな詩のような漢言(からこと)である。そのもとは上代からあって、ここの詠のようなものだったであろう。【源氏物語の紅葉賀の巻に、朱雀院の行幸の試楽の時、青海波の舞いのところで詠(よみ)などをしたのは、「これや仏の御迦陵ビン(口+頻)伽(おんかりょうびんが)の聲ならむと聞こゆ」、河海抄に「青海波は・・・ただし小野篁朝臣が詠を作るとは、舞いの中で歌うことである。詠にいわく、『桂殿迎2初歳1、桐樓媚2早春1煎花梅樹下、ゲイ?(虫+京)燕畫梁邊(けいでんしょさいをむかえ、とうろうそうしゅんにこび、せんかばいじゅのもと、ゲイえんかくりょうのへん)』」とある。躰源抄に「コマ(けものへん+百)朝、カン(けものへん+葛)續の教訓抄にいわく、舞いの詠のことは、ある人のいわく、舞樂の曲に詠ということがある。思いを述べる意味である。その心を口で述べるために『囀』とも言う」とある。】○物部は、ここでは師が「もののふ」と読んだのに従う。「もののふ」のこと、また「もののふ」と「もののべ」の違いなどは、中巻の白檮原の宮の段で物部連のところで言った通りだ。【伝十九の六十一葉】上代には、武勇を尊んだので、人を賞めても「もののふ」と言い、朝廷に仕える人々もすべてそう言った。ここに言っているのは賞めてである。【「もののふ」に物部と書いたのでは「もののべ」と紛れるけれども、「ふ」と「べ」は通音で、清濁の違いはあるけれども、近いからいにしえから通わせて書いたのだろう。万葉などにもそう書いたものが多い。ここも「もののべ」でなく「もののふ」であることに間違いはない。非常に古い時代には「もののふ」という名は見えないと師の冠辞考では言っているが、やはりこれも上代からの名と思える。仮名で「もののふ」と書いたところも万葉には多い。】万葉巻一【二十二丁】(50)に「物乃布(もののふ)」、巻三【五十八丁】(478)に「物乃負(もののふ)」、巻十七【三十六丁】(3991)に「物能乃敷(もののふ)」、巻十八【二十一丁】(4094)に「毛能乃布(もののふ)」など、更に多い。○我夫子之(わがせこが)は、ここは人を敬い親しんで言う。書紀の允恭の巻に「和餓勢故餓(わがせこが)」、【これは夫を指して言う。】さらにこの名は万葉に多く見える。その中に人を敬い親しんで言った例も、巻三【十四丁】(247)に「和我世故我(わがせこが)」など、更に多い。「和賀勢(わがせ)」と言うのと同じことだ。○大刀之手上(たちのたかみ)は前に出た。【伝五の七十六葉】○丹盡著の「盡」の字は「畫」を誤ったものだと師が言った通りである。「にかきつけ」と読む。中巻の明の宮の段の歌に「麻用賀岐許邇加伎多禮(まよがきこにかきたれ)」とある「かき」と同じだ。万葉巻七【三十三丁】(1344)に「菅根乎、衣爾書付(すがのねを、きぬにかきつけ)」ともある。弾正式に「およそ畫き餝った大刀は、五位以上にこれを許す」、兵衛式に「丹畫きの細布の甲形、冑形」なども見える。また大神宮式に「須我流(すがれ)の横刀一柄、・・・その鞘は金銀の泥で畫く」とある。○其緒者は「そのおには」と読む。その大刀の緒にはということだ。大刀の緒のことは上巻に見える。【伝十一の七葉】○載赤幡は、「載」の字は師が「裁」の誤りだと言ったのが良い。「あかはたをたち」と読む。「幡」は借字で、赤服である。帛、絹布のたぐい、織った物をすべて「はた」と言う。【このことは前にも言った。古い書物で「はた」には「服」の字を書くことが多い、ここに「幡」を書いたのは、次の「赤幡」と言が同じなので、同じように書いたのだ。いにしえには文字にはこだわらなかったことが多い。思い誤ってはならない。師はこの幡も字のままに読んで、赤幡に裁(つく)りと読んだが、良くない。】書紀に「赤絹」、「赤織絹」などもある。その赤い布を細く裁って、大刀の緒にしたのである。【大刀の緒は細いもので、布を裁って用いるものだから、「裁(たち)」と言ったのだ。玉篇に「裁は裂くのである」と言っている。万葉巻七(1278)に「衣裁吾妹、裏儲、吾爲裁者、差大裁(きぬたつわぎも、うらまけて、わがためたたば、ややおおにたて)」とある。】○「立2赤幡1(あかはたたてて)」、これは字の通り幡である。続日本紀十四に「初めて赤幡を大藏・内藏・大膳・大炊・造酒・主醤等の司に分かち、供御の物の前に立てて標とした」、宮内式に「およそ供奉の雑物を大膳・大炊・造酒等の司に送る者は、みな駄擔の上に小さな緋幡を立てて標識とする」、日本霊異記で泊瀬の朝倉の宮の廿三年、小子部栖輕(ちいさこべすがる)のことを記したところに「栖輕は勅を受けて、後宮から罷り出、緋の蘰を額に着け、赤幡桙を捧げて馬に乗って走って行く云々」などとある。○見者五十隱は「みゆればいかくる」と読む。「見者」は上の「丹畫著云々」を見ればである。「い」は発語、【「五十」と書いたのは借字である。書紀などにも、「い」と言うところによくこう書いている。】朝倉の宮の段の歌に、「袁登賣能、伊加久流袁加袁(おとめの、いかくるおかを)」、【「袁加」は岡である。】万葉巻六【十二丁】(918)に「伊隱去者(いかくろいなば)」とある。○山三尾之(やまのみおの)。山の尾のことは、前【伝四十二の八葉】に言った。「三」は【借字で】「御」である。上巻に「坂之御尾」ともある。○竹矣(たけを)。初めからこの上までの十句は、この「竹」を言うための序である。その続けの意味は、「赤幡を立てて」というところまでは、人の目に立ってよく見えるものを取り集めて言っている。赤い色は特に目に立って、著しく見える物だから、【上の「赤幡を立てて」というところに引いた書物のことを考えよ。】赤い装飾を数々挙げたのだ。竹は葉が茂って籠もったもので、「久美竹(くみだけ)」と言い、「刺竹(さすたけ)の君」と言うのも「隠(こも)り」の意味であることは、冠辞考に見えた通りで、万葉巻十一【四十丁】(2773)に「刺竹、齒隱、吾背子之(さすたけの、はごもりてあれ、わがせこが)」、【この第二句は「はごもりてあれ」と読む。そうでなければ、後に続かない。】などと言うのも、竹の葉には物がよく隠れるからである。とすると世に著しく見える赤い色も、竹の茂っているのに隔てられて見えず、隠れる意味で、竹の茂ることを言うための序であろう。「見者云々」と言ったのは、今まで見えていたのが突然見えなくなることを言う。【赤い装いをして山路を行く様子を言ったので、今までよく見えていたのが竹の向こう側に行ってしまったことを言う。師は上の序を「その緒は赤幡に作って立てて」と読んで、「大刀の緒を竿に付けたのを言ったのだ」と言い、赤幡見ればと読んで、「これは凶徒が赤幡を見て、恐れて山に隠れたということか。そしてその山の御尾の竹と続けたのだ」と言ったが、すべて納得できない。大刀の緒を幡にすることも、理由がなくてはどうかと思う上、凶徒のことはことに理由がない。山を言うためにそうしたことを序にするはずもない。】○訶岐苅(かきかり)。「かき」は「掻き」である。手で行うことは「掻き何々」と言うのは普通のことだ。いにしえのこういう文は、「本(もと)云々」、「末(すえ)云々」というのが普通なので、ここも上に「本」があったのが落ちたのだろう。【師は上の「矣」の字が「本」の誤りかと言ったが、「矣」の字は必ずあるべきところだ。「竹矣訶岐苅」と続けて一句かとも思ったが、この序は竹というのが主眼だから、「竹矣」は別に離して一句と読むのがいいように思える。】○末押縻魚簀は、【「縻」の字は、旧印本、延佳本では「麿」に誤っている。ここは真福寺本、また一本、他一本などによった。「簀」の字は、真福寺本では「セイ(たけかんむりに青)」と書き、一本では簣と書いている。ここは旧印本、延佳本、また一本などによった。】「縻」は「靡」と通う。師は「『魚簀』は字の誤りか、または上下に言葉が落ちたのだろう」と言った。本当にそのように聞こえるけれども、その字も落ちたと思われる言葉も思い付かない。そこでしばらくもとのままにしておいて、強いて読めば、この二字を「如く」の意味の「なす」の借字として、【魚を積んでおく簀を「魚簀(なす)」と言っただろう。そのことは上巻に「拆竹之、登遠々登遠々邇、(さきたけの、とおおとおおに)獻2天之眞魚咋1也(あめのまなくいたてまつらん)」とあるところ、伝十四の七十葉で言った。考え合わせよ。ところで、借字も事によるけれども、こういう聞き慣れないものの名の字を借りて読むことは、万葉にこそあるが、この記ではどうかと思われる。しかしこういう言葉にあやを付けた文では、殊に借字を多く使ったと見え、古い祝詞のたぐいにも珍しい借字が多く、この御詠詞の中でも「赤服」を「赤幡」と書き、発語の「い」にも「五十」と書いている。とするとこの「魚簀」も、いにしえには普通に言ったことを借りて書いたのだろう。】この句は「すえおしなびかすなす」と読む。【用言を受けて「なす」と言った例は、万葉巻一(19)に「衣爾着成(きぬにつくなす)」などがある。】「なびかす」は、万葉巻十七【四十八丁】(4016)に「須々吉於之奈倍(すすきおしなべ)」、巻一【二十一丁】(45)に「楚樹押靡、・・・旗須爲寸、四能乎押靡(しもとおしなべ、・・・はたすすき、しのをおしなべ)」、巻六【十七丁】(940)に「淺茅押靡(あさじおしなべ)」【これらの「靡」もみな巻十七の「奈倍(なべ)」にならって「なべ」と読む。「なみ」と読んでは、自分から靡くことになって、意味が違う。】などとある「なべ」と同じだ。「なべ」は「なびけ」の縮まった形で、「靡かせ」ということだからである。【そういうわけでここは「なす」に続くので「なびかす」と読んだ。】古い書物に「本云々」、「末云々」と言ったのは、書紀のこの時の詞にも「石上云々」と見え、大祓の祝詞にも「天津金木乎、本打切、末打斷弖・・・天津菅曾乎、本苅斷、末苅切弖(あまつかなきを、もとうちきり、すえたちうちて・・・あまつすがそを、もとかりたち、すえかりきりて)」などの例がある。書紀に「石上振之神榲、伐本截末、於2市邊宮1治2天下1(いそのかみふるのかみすぎ、もときりすえおしはらいて、いちのべのみやにあめのしたしろしめたまいし)」とあるのを合わせ考えれば、この「竹矣云々」も一つの喩えで、次の「八弦琴を調べたように」とあるのとは別のことだろう。譬えを幾つも重ねて言ったのは、大祓の祝詞では「科戸之風乃・・・朝之御霧・・・大津邊爾居・・・彼方之繁木本乎(しなとのかぜの・・・あしたのみぎり・・・おおつへにおる・・・おちかたのしげきがもとを)云々」と四つ重ねて言った例がある。【この考えは、もとのままの形で解いたものである。「魚簀」の二字が誤りだとすれば、「組レ簀(あじかくむ)」でもあろうか。和名抄に「?(たけかんむりに甘、下に南の下の部分)は『あじか』、また簀の字を用いる」とある。魚と組の字形は違うが、草書では間違えることもあるだろう。そうなるとこの譬えは、「簀(あじか)を組むのに竹を丸くも四角にもたわめて、気の向くままに使うように、天下を心のままに治めた」という意味だ。次の「如」をこの譬えにもかけて考える。これも一つの考えだ。または魚が「合」の誤りか。草書では魚と合はよく似ている。簀は「笛音」の二字を誤ったか。それなら「合2笛音1(ふえのねにあわせて)」で、笛の音に合わせて琴の調べを整えると言うのである。この考えによると、「竹矣云々」には二つの解釈がある。一つは、「竹矣云々」は初めの考えのように、別の一つの譬えで、笛には関係がない。もう一つは、「竹矣云々」はこの笛と次の琴に作る材料である。琴も竹で作ることは、書紀の継体の歌に「駄開能以矩美娜開、余嚢開、漠等陛嗚苣等爾(イ+爾)都倶リ(口+利)、須衛陛嗚麼、府曳爾(イ+爾)都倶リ(口+利)、府企儺須(たけのいくみだけ、よだけ、もとへをことにつくり、すえへをば、ふえにつくり、ふきなす)云々」とある。「府企(ふき)」は笛、「儺須(なす)」は「鳴らす」で、琴に係る。「いくみ竹」と「よ竹」の二つを言ったのは、「いくみ竹」は琴を作るのに良く、「よ竹」は笛を作るのに良いといった理由があるのだろう。これも一つの考えである。もしまた「魚簀」の下に言葉があったのが脱けたのなら、「編(あむ)なす」などではなかったろうか。「魚簀(まなす)」を編むように竹を並べ連ねて、琴に作ったということである。竹で琴を作るには、幾筋も並べ合わせて作るだろうからである。その意味なら、「魚簀(まなす)編むなす」と言っただけでは、さらに「琴に作る」と言うことがなければ言葉が足りないようだが、そのことは省いて言わないのが古語の例だ。大祓の祝詞に「天津金木乎・・・千座置座爾置足波志弖(あまつかなきを・・・ちくらのおきくらにおきたらわして)」などとあるのも、置座に作ってということを言わないで、直ちに置座のことを言っているのは、ここもそれも同じだ。これも一つの考えである。このように種々の考えはあるが、正しくこれだということは定められないように思われる。】これは試みに言うだけである。さらによく考えて見る必要がある。○八絃琴(やつおのこと)は、東遊歌にも「奈々川乎乃、也川乎乃古止乎、之良部太留(ななつおの、やつおのことを、しらべたる)云々」とある。上代の琴は弦の数が定まっていたことはなかった。古今和歌六帖の琴の歌には、「六(むつ)の緒」と詠んでいる。【その歌(3394)は「六の絃のよりめごとにぞ香はにほふ、彈(ひく)處女子(おとめこ)が袖やふれつる」。】後世の【和琴】も、決まって六弦である。○如調は、「しらべたるごと」と読むべきではなかろうか。【同言ながら、「しらぶ」というのは調子を合わせること、「しらべたる」というのは調子を合わせて、調子が合っていることである。】天下が良く治まっていることを、琴の調べのよく整ったのに譬えたのだ。【この御世の頃には漢の律調のさだもあったのだろうか。まだそのさだがなくても、琴笛などの調べの整っている、整っていないなどの違いは、本来自然にあるべきことである。】出雲国造の神賀詞に「水江玉乃行相爾、明御神登、大八嶋國、所知食天皇命乃(みずのえたまのゆきあいに、あきつみかみと、おおやしまくに、しろしめすすめらみことの)云々」、また「麻蘇比乃、大御鏡乃面乎、意志波留志天、見行事能己登久、明御神能、大八嶋國乎、天地日月等共爾、安久、平久、知行牟(まそいの、おおみかがみのおもを、おしはるして、みそなわすことのごとく、あきつみかみの、おおやしまくにを、あめつちつきひとともに、やすけく、たいらけく、しろしめさん)云々」などのたぐいだ。○「所=治=賜2天下1(あめのしたしろしめしたまえる)」は、押齒王に係ると見る。書紀に「・・・市邊の宮で天下を治めた。云々」とあるからである。【ただしこの記の書き方では、伊邪本和氣天皇に係るようにも見える。】押齒王をこのように言ったのは、青柳種麻呂【筑前国の人で、私の教え子だ。】が「雄略天皇紀にこの皇子を殺すことを謀る前、『天皇は穴穗天皇が先に市邊押磐皇子に天下を伝えようと、後事を託していたので』とあるのから見ると、穴穗天皇の御世から、この皇子に位を伝える定めだったので、かの天皇が崩じて後は、群臣百官がみなこの皇子について、雄略天皇に殺されるまでは、この皇子が天下の政務を執っていたのだろう」という。これは本当にそうだっただろう。穴穗天皇が弑されて後、乱れがあって、この皇子が雄略天皇に殺されるまで、しばらく期間があったと思われ、【このことは伝四十の十九葉にも言った。考え合わせよ。】その間、この皇子が市邊の宮で政務を執っていただろう。それを雄略天皇に恨まれ、殺されて、雄略天皇の御世になったために、この王が天下を治めたことは、世にも伝えられなくなったのだろう。○奴末(やつこみすえ)は、諸本にみなこうあるのを、延佳本にのみ「末奴」とあるのは、書紀に「御裔僕(みすえやつこ)」とあるのによって、改めたものと思われる。【何となく思うと「末奴」とある方がいいようだが、】よく考えると「奴末」とある方が、かえって味があるだろう。「奴は押齒王の末である」という意味なのをこう言ったのは、詞の勢いである。【ここは特に勢いを付けて言うところであって、こうひっくり返して言ったことで、たいへん勢いが良く聞こえる。】だから「押齒王の」といったん読み切るべきである。すべて王は奴と言うものではないが、今は現に志自牟の家で、奴として仕えているからこう言ったのだ。【書紀に「僕」と書いてあるのも、漢文でへりくだっていう意味ではない。へりくだって「僕」などと言うのは漢国である。皇国には、いにしえにはそういうことはなかった。特に王たちにはなおさらである。このことは前に述べた。】直接の子なのを御子と言わないで、末と言ったのは、大雑把に言ったのである。【また前に言ったように、実は孫なのかも知れない。】○床は「あぐら」と読む。○墮轉而(おちまろびて)は、上巻に「轉落(まろびおち)」ともある。これはたいへん驚いたさまで、急に降りようとしてあわてて落ち転んだのである。【王たちの尊かったことは、これでも分かる。】○室人は「むろなるひと」と読む。この宴に集まっていた人たちである。○追出(おいいだし)は、王と普通の人が一緒にいることを畏れ多いと思ってのことである。○左右膝上(ひだりみぎりのひざのへに)とは納得できない言である。というのは、この王たちは、この時実際に童子だったわけではない。また童子だったとしても、上記のような詠詞を口にするほどであれば、膝の上に乗せるほど幼くはない。とするとここは、「火燒少子」という言葉に引かれての文であろう。○泣悲而(なきかなしみて)は、畏れ多いことに、王たちがこのように落ちぶれて、賎しい奴になっていることを悲しんだのである。○人民は、ここでは「たみども」と読む。○坐は「ませまつりて」と読む。【この読みのことは前に言った。】○假宮(かりみや)は前に言った。【伝廿五の卅葉】王はわずかの間も普通の人々と共にいることは畏れ多いので、こうして分けたのである。○驛使(はゆまつかい)は前に出た。【伝廿三の二十八葉】この二柱の王のことを、かくかくしかじかと倭に告げ知らせたのである。【書紀には、小楯みずから参って告げたとある。このときの功によって小楯を賞めたことが、顕宗の巻の元年に見える。】○飯豊王、聞歡而(いいとよのみこ、ききよろこばして)とは、この姫尊がしばらく天下の政務を執っていたからである。【世に天下を治める男王がいなかったときなので、聞いて喜んだのである。】書紀には「五年春正月、白髪天皇が崩じた。・・・冬十一月、飯豊青尊が崩じた。【これによると、白髪天皇が正月に崩じてからその年の十一月まで、この姫尊が政を見ていたのである。だから天皇とは記されず、一代に立てることもなかったけれども、「尊」の字を用いたこと、「崩じた」と言ったこと、「陵」と記されたことなど、この記と意味合いは同じである。この姫尊の年齢のことは、一代要紀に四十五とあり、前皇廟陵記に「紹運録にいわく、皇代暦にいわく飯豊天皇は、諸王の系図に註していない。和銅の奏聞によって入れた。・・・扶桑略記にいわく、この天皇は諸王の系図に載せない。ただし和銅五年に申し上げて日本紀に載せた。甲子年の二月に生まれ、年四十五歳、今考えるに・・・甲子は丙子とすべきである。四十五歳というのは四十八歳と書くべきだ」と言っている。甲子年生まれならば四十九歳である。四十八歳というのも一年違う。思うに、「甲子年二月生まれ」というのは「甲子年十一月に崩じた」というのを誤ったのだろう。とすると四十五というのも違ってはいない。この姫尊は、この記に履中天皇の御子としてあるのによると、書紀の年紀では八十歳以上になり、前に言ったこの記の細注の年紀では百廿三歳以上になる。押齒王の御子で、仁賢天皇の姉だとしても、細注の年紀では百十歳以上であろう。しかしこれはいずれも書紀の方が正しいと思われる。】葛城の埴日(はにひ)の丘の陵に葬った」とある。諸陵式に「埴口(はにくち)の墓は飯豊の皇女である。大和国葛下郡にある。兆域は東西一町、南北一町、守戸五烟」とある。【書紀に「埴日」とあるが、諸陵式には「埴口」とあり、旧事紀にも「埴口」とある。どちらが正しいだろう。】大和志に「埴口の墓は、葛下郡の北、花内村にある。天和中に桑山氏が墓を毀して八幡神の祠を建てた」とある。○宮(みや)は角刺宮を指して言うのだろう。○「令レ上(のぼらしめ)」は二王をである。○書紀には「二年冬十一月、大嘗に供奉する料に、播磨国の司(みこともち)に遣わした山部連の祖、伊與の來目部の小楯が赤石郡の縮見(しじみ)の屯倉の首、忍海部の細目(ほそめ)の新室で、市邊の押磐皇子の子、億計・弘計を見つけた。畏れ奉って、君としようとした。養うことは甚だ謹直で、自分のものを奉った。すなわち柴宮を作って、仮に安置し、駅馬を馳せて申し上げた。天皇はひどく驚いて、久しく思い返して、『良いことだ、うれしいことだ。天は恵みを垂れてこの両児を与えた』と言った。この月小楯を遣わして、節(しるし)を持ち、左右の舎人を率いて、赤石に迎えさせた。事は弘計天皇の紀にある。三年春正月、小楯らは億計・弘計を連れて、摂津国に到った。節(しるし)を持ち、王の青蓋車(みくるま)に乗せて、宮の内に迎え入れた。夏四月、億計王を皇太子とし、弘計王を皇子とした」とあり、顕宗の巻には「白髪天皇の二年冬十一月、播磨の国司・・・ちょうど縮見の屯倉の首が新室の宴を夜通ししていた。そこで天皇(顕宗)は兄の億計王に言って、・・・屯倉首は命じて竈の傍の左右に燭(ともしび)を灯させた。夜が更け、酒は酣になって、居合わせた人々は次々と舞った。屯倉首は小楯に『この秉燭(ひともし)の子らは、人を貴んで自分を賎しくし、人を先にして自分を後にする。恭敬で、事によく従い、退き譲って礼を明らかにする。君子と言うべきだ』と言った。そこで小楯は弦をかき鳴らして、燭を灯している子らに、『立って舞え』と言った。兄弟は互いに譲り合って、長い間立たない。そこで小楯は『何をぐずぐずしている。早く立って舞え』と言った。億計王がまず立って舞った。天皇は次に立って、衣を整え、室壽(むろほぎ)して、・・・壽を終えて、立って歌い、『伊儺武斯廬。粕泝比野儺擬。寐逗愈凱麼。儺弭企於巳陀智。曾能泥播宇世儒(いなむしろ、かわぞいやなぎ、みずゆけば、なぶきおきたち、そのねはうせず)』。小楯は『これは面白い。もう一度聞こう』と言った。天皇はついに殊舞(イ+舞)(たつづのまい)をして、叫んで『倭は、彼彼茅原(そそじはら)、淺茅原、弟日僕是也(おとひやつこ)』と言ったので、小楯はその由を深く奇異に思って、もっと言わせた。天皇は叫んで『石上、振之神榲(ふるのかみすぎ)、伐本截末(もときりすえおしはらいて)、市邊の宮に天の下しろしめたまいし、天萬國萬(あめよろずくによろず)、押磐尊の御裔僕是也(みすえやつこ)』と言った。小楯は大いに驚いて、席を降り悲しんで拝み、屬(うがら)どもを率いて仕え伏した。ここで郡民を使って仮宮を作り安置して、京都に参って二王を迎えるように求めた。白髪天皇は聞いて喜び、嘆いて『私には子がない。この王を日嗣ぎとしよう』と言い、大臣・大連らと策を練った。播磨国司の來目部の小楯を遣わし、節(しるし)を持ち左右の舎人を率いて、赤石に迎えさせた。白髪天皇の三年春正月、天皇は億計王に従って摂津国に到った。臣連を遣わして、節を持ち、王を青蓋車に乗せて、宮の内に迎え入れた。夏四月、億計王を立てて皇太子とし、天皇を立てて皇子とした」とある。「青蓋車」は例の漢文の潤色である。皇朝にはいにしえも今も、そうした漢の制の車があったことはない。その他も、上件の文の中には、うるさい漢文の飾りが多い。【上の件のことを清寧天皇が位にあった間のこととするのは、この記とたいへん違った伝えである。】

 

故將レ治2天下1之間。平群臣之祖。名志毘臣。立レ于2歌垣1。取2其袁祁命將レ婚之美人手1。其孃子者。菟田首等之女。名者大魚也。爾袁祁命亦立2歌垣1。於レ是志毘臣歌曰。意富美夜能。袁登都波多傳。須美加多夫祁理。如レ此歌而。乞2其歌末1之時。袁祁命歌曰。意富多久美。袁遲那美許曾。須美加多夫祁禮。爾志毘臣亦歌曰。意富岐美能。許許呂袁由良美。淤美能古能。夜幣能斯婆加岐。伊理多多受阿理。於レ是王子亦歌曰。斯本勢能。那袁理袁美禮婆。阿蘇毘久流。志毘賀波多傳爾。都麻多弖理美由。爾志比臣愈怒歌曰。意富岐美能。美古能志婆加岐。夜布士麻理。斯麻理母登本斯。岐禮牟志婆加岐。夜氣牟志婆加岐。爾王子亦歌曰。意布袁余志。斯毘都久阿麻余。斯賀阿禮婆。宇良胡本斯祁牟。志毘都久志毘。如レ此歌而。闘明。各退。明旦之時。意富祁命袁祁命二柱議云。凡朝廷人等者。旦參=赴3於2朝廷1。晝集レ於2志毘門1。亦今者志毘亦寢。亦其門無レ人。故非レ今者。難レ可レ謀。即興レ軍。圍2志毘臣之家1。乃殺也。

 

訓読;かれアメノシタしろしめしさんとせしほど、ヘグリのオミのおや、なはシビのオミ、ウタガキにたちて、そのオケのミコトのめさんとするおとめのてをとれり。そのおとめは、ウダのオビトらがむすめ、なはオオオといえり。かれオケのミコトもウタガキにたたしき。ここにシビのオミうたいけらく、「おおみやの、おとつはたで、すみかたぶけり」、かくうたいて、そのうたのすえをこうときに、オケのミコトうたいたまわく、「おおたくみ、おじなみこそ、すみかたぶけれ」。かれシビのオミまたうたいけらく、「おおきみの、こころをゆらみ、おみのこの、やえのしばかき、いりたたずあり」。ここにミコまたうたいたまわく、「しおせの、なおりをみれば、あそびくる、しびがはたでに、つまたてりみゆ」。かれシビのオミいよよいかりてうたいけらく、「おおきみの、みこのしばかき、やふじまり、しまりもとおし、きれんしばかき、やけんしばかき」。ここにミコまたうたいたまわく、「おおをよし、しびつくあまよ、しがあれば、うらこおしけん、しびつくしび」。かくうたいて、かがいあかして、あらけましぬ。つとめて、オオケのミコト・オケのミコトふたばしらはかりたまわく、「すべてミカドのひとどもは、あしたにはミカドにまいり、ひるはシビがカドにつどう。かれいまはシビかならずいねん。そのカドにひともなけん。かれいまならずは、はかりがたけん」とはかりて、すなわちイクサをおこして、シビのオミがいえをかくみて、とりたまいき。

 

歌部分の漢字表記:大宮の、彼つ端手、隅傾けり

大匠、拙劣みこそ、隅傾けれ

王の、心を緩み、臣の子の、八重の柴垣、入り立たずあり

潮瀬の、波折りを見れば、遊び來る、鮪が端手に、妻立てり見ゆ

大君の、王子が柴垣、八節結り、結り廻し、切れむ柴垣、燒けむ柴垣

大魚よし、鮪突く海人よ、其があれば、心戀しけむ、鮪突く鮪

 

口語訳:天下を治めようとする間、平群の臣の祖、志毘の臣が歌垣に立って、袁祁命が妻にしようとしていた乙女の手を取った。その乙女は宇陀の首らの娘で、名は大魚といった。袁祁命も歌垣に立った。志毘の臣は「大宮の向こうの方の端は傾いている」と歌い、続きを請うた。袁祁命は「大工の腕が拙いので、隅が傾いている」と歌った。そこで志毘の臣は「王の心が緩いので、臣の子の八重の柴垣のうちに入れないでいる」。袁祁命は「潮の瀬の波が折れ崩れる辺りを見ると、泳いでくる鮪の脇に、自分の妻が見える」。志毘臣はますます怒って、「大君の王子の柴垣は、八節を結び廻らしていても、切れて焼けるだろう」。袁祁命は「大魚の、鮪を鉾で突いて捕ろうとしている海人よ。それが離れていったら、心に恋しく思うだろう。鮪を突く鮪(志毘臣)よ」。このように歌で争い明かして、解散した。早朝、意富祁命と袁祁命の二人の王子は相談して、「朝廷の人たちは、朝には朝廷に参り、昼は志毘臣の家に集まる。今は志毘は寝ているだろう。その門には人もいないだろう。だから今でなくては策略も立てがたい」と言って、軍を興して、志毘の家を囲んで、殺した。

 

「將レ治2天下1之間(あめのしたしろしめさんとせしほど)」。この言は二王にかかっている。だから名を挙げなかった。【この時は、まだ二柱の内のどちらが皇位に就くか決まっていなかったので、名を挙げることは出来なかった。また位に就くのは一柱であるから、王たちを二柱ともに挙げるわけには行かないのである。】この言に二つの意味があるだろう。一つには志毘臣を殺したことに関わっていて、歌垣のことも、志毘臣の威勢が強く、天下を治めようとするこの王たちも畏れず、無礼に振る舞ったことについて言う。もう一つは、単にその時を言っただけで、その間に次のことがあった意味である。○平群臣(へぐりのおみ)は前に出た。【伝廿二の卅葉】○志毘臣(しびのおみ)は、眞鳥大臣の息子である。この臣のこの時のことは、書紀に見え、後に引くようなものである。この件のことは、書紀では武烈の巻の初めに出ており、仁賢天皇が崩じ、その天皇【武烈】が皇太子で、これから天下を治めようとしていた時のことである。この記の伝えと異なる。【この二つの伝えのうち、どちらが正しいだろうか、今は定めがたい。ただ「大伴金村連が賊を平らげて、政を太子に申し上げ、尊の号を奉ろうと請い云々」とあり、請うたことは、この意富祁命と袁祁命の場合にのみ当てはまる。武烈天皇は本来皇太子で、仁賢天皇のただ一人の子であるから、位に就くことは当たり前で、何の理由で煩わしく尊号を請うことがあろうか。】○歌垣(うたがき)は、書紀に「歌場、これを『うたがき』と言う」とある。摂津国風土記に「雄伴郡の波比具利(はいぐり)の岡。この岡に歌垣山がある。昔、男女がこの山に集まって、常に歌垣を催した。それで名とした」、常陸国風土記に「香島郡童女(おとめ)の松原に、いにしえ年少僮子(としわかきうない)があった。【俗に言う『かみのおとこ、かみのおとめ』】男を那賀(なか)の寒田(さむた)の郎子と言い、女を海上(うなかみ)の安是(あぜ)の郎女と言った。ともに顔貌端正で、郷里に輝いていた。名声を互いに聞いて逢いたいものだと思い、慎みを忘れて、月日を経て歌垣に集まり【俗に言う『うたがき』、または『かがい』】出会うことが出来た。その時郎子は歌って・・・嬢子も歌って、云々」とある。これに見えるように、歌垣は「かがい」と全く同じことである。万葉巻九【二十三丁】(1759)に「筑波嶺に登ってチョウ(女+擢のつくり)歌會(かがい)をする日に作る歌、鷲住、筑波乃山之、裳羽服津乃、其津乃上爾、率而、未通女壯士之、往集、加賀布チョウ歌爾、他妻爾、吾毛交牟、吾妻爾、他毛言問、此山乎、牛掃神之、從來、不禁行事叙、今日耳者、目串毛勿見、事毛咎莫。(わしのすむ、つくばのやまの、もはきつの、そのつのうえに、いざないて、おとめおとこの、ゆきつどい、かがうかがいに、ひとづまに、われもまじらん、わがつまに、ひともこととえ、このやまを、うしはくかみの、はじめより、いさめぬわざぞ、きょうのみは、まぐしもなみそ、こともとがむな)。チョウ歌は、東の俗語に『かがい』と言う」と見える。【巻六(1062)に「櫂合之聲所聆(かじのときこゆ)」とある「櫂合」を「かがい」と読むのは誤りである。「合」の字は衍字で、「かじのと」であると師が言った通りである。】歌垣のありさまは、この長歌のようであった。歌垣と言う名の意味は、【「垣」は借字である。書紀に「歌場」と書いたのも、名の意味には当たらない。「場」とは普通歌垣と書く「垣」の字によって書かれたものだろうが、この名はその「事」を言うのであって、その場を言うのではない。】「歌かがい」で、「がい」を縮めて「き」と言うのである。【それでは清濁が違うけれども、「歌」から続くのでいにしえの音便で、上の「か」を濁り、「き」を清んで言うのである。この例は上巻の豊久士比泥別のところで言った通りだ。】「かがい」というのは、上の長歌に「かがう」とあるように、もとは用言(動詞)なのを体言(名詞)にした言葉である。その名はまた「かぐれあい」の縮まった語だろう。万葉巻九【三十四丁】の勝鹿の眞間の娘子を歌う長歌(1807)に「夏蟲之、入火之如、水門入爾、船己具如久、歸香具禮、人乃言時(なつむしの、ひにいるがごと、みなといりに、ふねこぐごとく、よりかぐれ、ひとのいうとき)云々」【「かぐれ」という言葉はこの他には見えないが、妻をよばうことをそう言った古言があったのだろう。】というのがそれである。【チョウ(女+擢のつくり)歌の字は、よく当たっているようには見えないが、いにしえから書いてきた字なのだろう。チョウ歌は、「往来の姿」とも注し、「蛮人の歌である」などと言っているが、「かがい」に用いる理由はない。今の世に「かけあい」と言い、また人とものを言い争うのを「からかう」と言うのなども、「かがい」から転じた言葉ではなかろうか。】とすると歌垣というのは、互いに歌を詠んで「かぐれかわす」意味の言葉だろう。目に弾いた風土記、万葉などによると、歌垣は田舎では山の上でもしたようだが、倭などでは市中でしたのだろう。この時のも書紀によれば海石榴市(つばいち)でのことだ。【万葉巻十二(2951)に「海石榴市之八十衢爾立平之、結紐乎解巻惜毛(つばいちのやそのちまたにたちならし、むすびしひもをとかまくおしも)」、これも歌垣の所で契ったことと思われる。】続日本紀十一に「天平六年二月癸巳朔、天皇は朱雀門に出て歌垣を見た。男女二百四十余人の五品以上で風流あるものは、みな入り混じった。その中で・・・らを頭として本末を唱和した。難波曲(なにわぶり)、倭部曲(やまとべぶり)、浅茅原曲、廣瀬曲、八裳刺曲(やつもさすぶり)の音を、都中の士女をして披露させた。歓を極めて帰った。歌垣を奉った男女らに禄を賜ったが、各々違いがあった」、また三十に「宝亀元年三月庚申、車駕は由義宮(ゆげのみや)に出た。・・・辛卯の日、葛井、船、津、文、武生、藏の六氏の男女二百三十人が歌垣を供え奉った。その服はみな青摺りの細布の衣を着け、紅の長紐を垂らしていた。男女が相並んで、行を分けておもむろに進み、『乎止賣良爾乎止古多智蘇比布美奈良須(おとめらにおとこたちそいふみならす)、爾詩乃美夜古波與呂豆與乃美夜(にしのみやこはよろずよのみや)』と歌った。その歌垣に『布智毛世毛伎與久佐夜氣志波可多我波(ふちもせもきよくさやけしはかたがわ)、知止世乎萬知天須賣流可波可母(ちとせをまちてすめるかわかも)』と歌い、歌曲の折ごとに袂を挙げるのを節とした。その他四首はどれも古詩であった。いちいち載せない。この時、五位以上、内舎人、および女孺に詔して、その歌垣の列に並ばせた。多数の歌が歌われ、河内の大夫従四位上、藤原の朝臣雄田麻呂以下が和舞(イ+舞)を奏した。六氏の歌垣の人に、商布二千段、綿五百屯を賜う」とある。【西の京は河内の弓削で、由義宮とあるのがこれである。博多川もそのあたりにある。この時行幸があって、その宮にとどまったのである。】この続日本紀の頃のは、本当の歌垣ではない。いにしえの歌垣の様子だけをまねて行った、一種の風流芸だろう。○立(たちて)とはその所に行って、そのことに参加するのを言う、「何々に立つ」というたぐいは多い。○袁祁命(おけのみこと)云々。書紀では武烈天皇が皇太子だった時の話である。○將婚は「めさんとする」と読む。そのことは書紀に見え、後に引くようなことである。○美人は「おとめ」と読む。次に嬢子と書いているのと同じことだ。○菟田首等(うだのおびとら)。【「菟」の字は、真福寺本にはエン(くさかんむりに宛)と書き、一本他一本には「苑」と書いている。】この姓は、ここを除くと他には見えない。大和の宇陀から出た氏ではないだろうか。【ただし記中、「宇陀の水取(もいとり)」、「宇陀の酒部」などもみな「宇陀」と書いてあるのに、「菟田」の字は疑わしい。】「等(ら)」は「氏」と言うようなものだ。この父の名が伝わらなかったので、「等」と言ったのだ。○大魚(おおお)。この名のことは論ずることがある。後に言う。この嬢子は、書紀によると物部麁鹿火(あらかい)の大連の娘、影媛である。○志毘臣歌曰(しびのおみうたいけらく)。これは伝えに事の順序の乱れがあり、書紀に太子の「之ホ(衣の間に臼)世能(しおせの)云々」の歌をまずここに挙げたのが正しいだろう。というのは、志毘臣がかの嬢子の手を取って立っているのを見たのだから、まず袁祁命から歌いかけるのが普通だ。志毘臣が先ず詠んだのも、またこの歌【「おおみやの云々」】も、文に合わない。そこでここは下にある「斯本勢能(しおせの)云々」の歌をここに移して、まずこの歌から解く。それについては、ここの文も「爾袁祁命亦立2歌垣1而歌曰(かれおけのみこともうたがきにたたしてうたいたまわく)」とあるところだ。○斯本勢能(しおせの)は、「潮瀬の」である。海には潮の筋があって通るものであり、それを潮瀬という。書紀にはこの句を「一本で『みなと』に替える」とある。○那袁理袁美禮婆(なおりをみれば)は「波折りを見れば」である。「波折り」とは、波の高く立っているところを言う。万葉巻七【十五丁】(1168)に「今日毛可母奥津玉藻者白波之、八重折之於丹、亂而將有(きょうもかもおきつたまもはしらなみの、やえおるがうえに、みだれてあらん)」、巻廿【二十五丁】(4360)に「海原見禮婆、之良奈美乃、夜敝乎流我宇倍爾、安麻乎夫禰波良良爾宇伎弖(うなはらみれば、しらなみの、やえおるがうえに、あまおぶねはららにうきて)」などとある「八重折る」とは、波が重なってたわみ折れる形だ。「波折り」というのもこれである。【この「那袁理」を人がみな「こ」と「お」が通うので、「なごり」と考えているのは誤りだ。】○阿蘇毘久流(あそびくる)は「遊び来る」である。○志毘賀波多傳爾(しびがはたでに)は「鮪の鰭手に」だ。和名抄に「鮪は和名『しび』」、「鰭は和名『はた』、俗に『ひれ』と言う」とある。【「はたで」を契沖が「旗手か」と言い、「旗手を鰭に装って言ったか」などと言うのはみな良くない。単に鮪魚の鰭の意味である。】○都麻多弖理美由(つまたてりみゆ)は「妻立てり見ゆ」である。契沖は「『たてるみゆ』とあるところをこのように言うのは古風である。万葉(1003)にも『恐海爾、船出爲利所見(かしこきうみに、ふなでせりみゆ)』とも、(3672)『安麻能伊射里波、等毛之安敝里見由(あまのいざりは、ともしあえりみゆ)』とも詠んでいる」と言った。この歌は志毘臣をその名によって、魚の鮪に譬えたもので、【上の三句は、単にその魚についての詞である。】第四句は志毘臣の片手を魚の鰭に譬え、結句はその嬢子が志毘臣に寄り添って、その傍らに立っている意味である。だからこの歌は、前の文の「志毘臣は歌垣に立って云々」の様子を見て詠んだものだから、必ずここにあるだろう。【それをこの歌がもとのように後にあったのでは、上を受けた意味も言葉もなく、続きの意味が適切でない。またその次に「志毘臣はいよいよ怒って歌って」とあるのも適切でない。この歌にはさほど怒るような意味はない。師は「魚に譬えたのを怒ったか」と言ったが、もともと志毘という名を持っている人だから、それを志毘と言うのに、何の怒ることがあろうか。またその怒って詠んだ歌も、この歌を受けた部分がないので、次への続きも適切でない。契沖は「あそびくる、しびがはたでに」とあるのを、志毘臣が礼儀もなく、その振る舞いが勢いを成しているのを、鮪がひれをひろげて誇るのにたとえたかと言い、また「つまたてりみゆ」を鮪が袖をひろげて立つ陰に影媛が隠れて立っているのが見えると詠んだのか、または足をつま立って見えるのかなどと言ったのは、みな良くない。】だから「於是志毘臣歌曰」という言葉は、この次にあるべきだ。○意富美夜能(おおみやの)は「大宮の」である。これは袁祁命のことを喩えたので、その御殿を言うので、「宮」と言ったのだ。【「宮」とは王に限って言うことで、臣の家には言わない。そのことは前に言った通りだ。】○袁登都波多傳(おとつはたで)は「彼つ鰭手」である。「鰭手」とは建物の端を言うのだろうと師は言ったが、そうだろう。それなら左右の脇へ張り出した軒などを言うだろう。それとも左右の脇に着いた小屋、または廊などを言ったのでもあるだろう。「彼つ」とは、ざっと眺めて軽く言った言葉で、【こちらに対してあちらという意味ではなく、俗言に「あの」と言う意味だ。】大祓の祝詞に「彼方乃繁木本乎(おちかたのしげきがもとを)」とある「彼方」のたぐいで、そう言った例は多い。【その例は大祓の詞の後釋に引いている。契沖はこの句を「『弟津旗手』か。袁祁王は弟だから、こう装って詠んだのだろう」と言ったが、誤りである。「袁(を)」と「意(お)」の仮名の違いを考えなかったのはどうしてだろう。】○須美加多夫祁理(すみかたぶけり)は「隅傾けり」である。書紀の欽明の巻に「傾子」という人名があり、「これを『かたぶこ』と読む」とある。この歌は王の歌に「鮪が鰭手」とあるのに対して、王の宮の鰭手で答えたもので、【これでも「斯本勢能」の歌はこの前にあることがいよいよ確かである。】王がかの嬢子を得ることが出来ず、一人立って、傍ら寂しく勢いがないのを、その宮の隅が傾き下がって、見苦しくすぼまっているのに喩えて、侮り嘲り、また自分が嬢子を得たことを誇っているのである。【契沖は「旗の頭の風に吹かれる時、傾くのにことよせて」と言ったが、誤りである。旗の頭を「隅」と言うことがあろうか。また師は「この女の心はわが方へ傾いたと言う」と言ったが、それも良くない。】○「乞2其歌末1(そのうたのすえをこう)は、中巻の倭建命の段に「續2御歌」とあるところで言った。考え合わせよ。【伝廿七の八十七葉】○意富多久美(おおたくみ)は「大匠(大工)」である。書紀の舒明の巻に「大宮および大寺を造るのを・・・書直縣(ふみのあたえあがた)を大匠とした」とあり、匠たちの長を言うのだろう。【契沖が「久」の時を「又」と誤った本によって、「大畳だ」と言ってそのことを論じたのは誤りだ。】○袁遲那美許曾(おじなみこそ)は「拙劣みこそ」である。続日本紀卅の詔に、「先乃人波謀乎遲奈之、我方能久都與久謀天、必得天牟止念天(さきのひとははかりごとおじなし、われはよくつよくはかりて、かならずえてんとおもいて)」、仏足石歌に「乎遲奈伎夜、和禮爾於止禮留、比止乎於保美(おじなきや、われにおとれる、ひとをおおみ)」、書紀の雄略の巻に「舎人性懦弱、緑レ樹失レ色(とねりひととなりおじなくして、きにのぼりていろをうしなう)」、欽明の巻に「微弱(おじなし)」、竹取物語に「おぢなき事する船人にもあるかな」などがある。拙く愚かな意味、弱い意味などを兼ねて言う。「み」は風疾み、露繁みなどという「み」である。○須美加多夫祁禮(すみかたぶけれ)は、【「加」の字は、諸本に「賀」とある。ここは真福寺本によった。上にあるのも「加」だからである。】「隅傾けれ」である。歌全体の意味は、宮を作った大匠(大工)の腕が拙かったからこそである、というのだ。【契沖は「畳は木でも石でもないので弱いように、心の惰弱なものとさげすんだのだ」と言い、「おとつはたでの隅が傾いたのでなく、大畳の隅こそ傾いた」と言ったのは、たいへんに強説である。弱い喩えに畳を言うことはありそうにない上、畳の隅の傾くということはとてもありそうにない。】この歌は、志毘臣の歌の末を継いだもので、表面的には元の句の隅の傾いた理由を解釈した様子で、その裏には隅が傾いたのは大匠の腕が拙かっただけで、自分のせいではないという意味を込めて、志毘臣の歌を言い負かしたのである。○爾志毘臣亦歌曰(ここにしびのおみまたうたいけらく)はまた伝えの誤りで、これも袁祁命の歌のように聞こえる。上の歌は単に志毘臣の歌の末を引き継いだのみであったから、また別に詠んで、情を述べたのだ。そこでここは「志毘臣」の三字はないものとして考える。○意富岐美能(おおきみの)は、「王の」である。袁祁命が自らそう言ったのである。自分で「王」と言った例は、前の輕太子の歌のところで言った。【伝卅九の四十九葉】○許許呂袁由良美(こころをゆらみ)は、「心を寛み」である。「ゆら」は「ゆた」と通い、ここは心がせわしくなく、のどかで緩やかに思われる意味で、万葉巻十四【二十六丁】(3503)に「安齊可我多、志保悲乃由多爾、於毛敝良婆、宇家良我波奈乃、伊呂爾弖米也母(あせかがた、しおいのゆたに、おもえらば、うけらがはなの、いろにでめやも)」、この「ゆたに思う」と同意である。「ゆた」と「ゆら」と通うのは、巻七【三十四丁】(1352)に「湯谷絶谷、浮蓴(ゆたにたえたに、うきぬわは)」、巻十一【三丁】(2367)に「大舟之、由多爾將有(おおぶねの、ゆたにあるらん)」など言うのと(3274?)「大舟乃由久良由久良爾(おおぶねのゆくらゆくらに)」と言うのと通い、【「由久良」と「由良」とが通う。】また巻十四【七丁】(3368)に「阿之我利能、刀比能可布知爾、伊豆流湯能、余爾母多欲良爾(あしがりの、といのかうちに、いずるゆの、よにもたよらに)云々」、また【十丁】(3392)「筑波禰乃、伊波毛等杼呂爾、於都流美豆、代爾毛多由良爾、和我於毛波奈久爾(つくばねの、いわもとどろに、おつるみず、よにもたゆらに、わがおもわなくに)」、この「多欲良(たよら)」、「多由良(たゆら)」は【湯または水が】多く、寛い意味で、「ゆた」に通い、上に「多」と言ったのも上記の「絶谷(たゆたに)」と【「たゆた」、「たゆら」】同じであることを考えよ。上の「多由良爾和我於毛波奈久爾」は、巻十四の「由多爾於毛敝良婆」と同意で、ここの「ゆらみ」と意味は同じだ。【「ゆるぶ」、「ゆるやか」、俗言の「ゆったり」、「ゆっくり」、「ゆるりと」、また「ゆだん」などは、もとは同じ言葉である。】「み」は「風を痛み」、「夜を寒み」など言う「み」で、心が寛いので、という意味だ。【あるいはこの「を」と言い、「み」と言うのは、普通に「風を痛み」などと言うのとは違っているか。というのは風を痛みなどと言うのはみな他物のことを言っているのが、ここでは王自らの心を言っているので、その例とは違っているからである。とするとこの「ゆらみ」は、ことさらに心を寛くしたので、自然と寛いのではないのか。それならば「ゆらめ」とあるべきを「み」とあるのは、自然と寛いように聞こえるが、ことさらにするのも「み」、「む」と活用する例は「埋む」、「埋み」、「囲む」、「囲み」、「刻む」、「刻み」、「積む」、「積み」など多い。すると寛くすることを古言には「ゆらむ」、「ゆらみ」とも言ったのだろう。こうも考えたが、やはりどうだろうか。それは心が自分から寛大だったことと、ことさらに寛大にしたこととの違いこそあれ、どちらにしても「寛(ゆた)」の意味は違うことはない。】○淤美能古能(おみのこの)は「臣の子の」で、単に「臣」ということだ。【書紀で、ところどころに臣を「おむのこ」と読んでいるのがこれだ。】書紀の雄略の巻の歌に「飫瀰能古簸(おみのこは)」、天智の巻の童謡に「於彌能古能、野陛能比母騰倶、比騰陛陀爾、伊麻ダ(てへん+施のつくり)藤柯禰波、美古能比母騰矩(おみのこの、やえのひもとく、ひとえだに、いまだとかねば、みこのひもとく)」これも王に対して言っている。ここは志毘臣を指して言う。○夜幣能斯婆加岐は「八重の柴垣」である。【普通は「か」を濁って言うが、古い書物にはみな清音の字を書いてある。】「柴垣」と言えば粗末な垣のように聞こえるだろうが、そうではない。皇太神宮の名にもしばしば見え、賞めた名と思われる。【このことは多治比の柴垣の宮の段で、伝卅八の卅七葉に言った。】ここも堅固な垣の意味である。○伊理多多受阿理(いりたたずあり)は、「入り立たずあり」である。この歌は、前の志毘臣の歌が王の宮のことを詠んだことによって、また志毘臣の家の垣について答えたもので、私が今入り立とうとすれば、あなたが八重の柴垣を結び固めて防ごうとしても、たやすく破って入ることだけれども、私の心は寛大であるから、しばらくとどめて、入り立たないでおく、という意味だ。【契沖も師ももとのまま、これを志毘の歌として、その意味で解いたのは違っている。志毘の歌としては、「伊理多多受阿理」の詞が適切でない。この詞の勢いは、王が詠んださまである。】喩えたのは、その嬢子を私が得ようとすれば、あなたがどんなに防いでもその妨げにはならないが、しばらくなだめてあなたに許しておくぞと言ったのだ。○書紀には上記の「意富美夜能云々」、「意富多久美云々」の歌がなく、「斯本勢能云々」の歌の次に「鮪は答えて、『飫瀰能古能、耶陛能迫麦k、瑜屡世登耶瀰古(おおきもの、やえのからかき、ゆるせとやみこ)』」【「おみのこ」は志毘がみずから言った。「やえの韓垣」は自分の家の垣が堅いことを言い、その嬢子を堅く占領していることを誇っている。そのように己が堅く占領した嬢子を、王が私に許せと言うのか、それは思いもよらない。叶わないことだと詠んだのである。】という歌がある。この記にも「意富多久美云々」の歌の次にこの志毘臣の歌があったのが、伝える内に落ちたのか。もしそれなら、「許許呂袁由良美」の歌はその答えである。【「許許呂袁由良美」の歌を志毘の歌としたのも、そういう紛れのためではないか。】書紀には上の歌の次に「太子は歌って『飫ホ(衣の間に臼)陀チ(てへん+致)嗚、多黎播枳多チ弖、農博登慕、須衛波陀志弖謀、阿波夢登茄於謀賦(おおだちを、たれはきたちて、ぬかずとも、すえはたしても、あわんとぞおもう)』【「大横刀を垂れ佩きたちて、抜かずとも」とは、嬢子に心を掛けながら、しばらく会えないでいることの譬えである。契沖は第三の句を「鮪が影媛のそばを退かずとも」と言ったのは誤りだ。「農」は「ぬ」の仮名である。】という歌があるのは、この「許許呂袁由良美」の歌の、伝えが異なるのである。【その意味で、「おおたちを云々」は前後の歌に縁がないから、この記の「こころをゆらみ」の方が正しいだろう。】詞はみな違うが、意は通うからである。その次に「鮪臣が答えて『飫ホ(衣の間に臼)枳瀰能耶陛能矩瀰麦k、煤X梅騰謀、儺嗚阿摩之弭爾(イ+爾)、煤X農倶彌柯枳(おおきみのやえのくみかき、かかめども、なおあましびに、かかぬくみかき)』【「王の八重の組垣は造めども、汝よ海鮪に作らぬ組垣」である。汝王よ、八重の組み垣を造り固めたように、この嬢子を堅く深く閉じ込めて占領しようと思うけれども、その嬢子はすでにこの海鮪(あましび)が手に入れたから、占領しようとしても無理なことはかわいそうだと嘲ったのである。契沖がこの「組み垣」を、自分の家の垣を「韓垣」と言い、朝廷のを「組垣」と言ったのは話が逆で、君臣の道が地を替えたのだと言ったのは、漢意である。そんな意味があったはずはない。】という歌がある。この記にもこの歌があったのが、落ちたのではないか。【それなら「許許呂袁由良美」の歌の答えだ。「飫ホ陀チ嗚」の歌には縁もなく、意味も遠い。】○爾志比臣愈怒(かれしびのおみいよよいかりて)云々は、皇子が「大匠云々」と詠んで己の歌【「大宮の彼つ鰭手云々」】にけちをつけたのが気に入らなかった上に、またこう【「大君の心を寛み云々」】詠んだので、ますます怒ったのである。【それをもとのように「斯本勢能云々」の歌がこの上にあったのでは、「いよよ怒りて」という理由が分からない。】もし上に引いた書紀の歌もここにもあったのが落ちたのなら、この言は「耶陛能矩瀰麦k云々」の歌の前にあっただろう。○意富岐美能(おおきみの)は前と同じ。○美古能志婆加岐(みこのしばかき)は、【「おおきみ」も「みこ」も同じことなのを、重ねて言ったのだ。天皇の御子というのではない。】「王の柴垣」で、王の宮の垣である。前の王の歌に志毘の家の垣を詠んでいたので、こう答えたのである。○夜布士麻理(やふじまり)は、「八節締まり」である。「夜布」は、契沖が「十府の菅薦(すがごも)など言うようなものだ」と言う通りだ。【ただし「府」の字を書いたのは納得できない。「とふの菅薦」は「陸奥のとふの菅薦七ふには、きみをねさせて三ふに吾寝む」という歌(夫木和歌抄:13475)がこれである。】垣に言ったのは、八段に結んだからである。【薦の「とふ」も同じ。】ただし「夜」は例の「彌(いや)」の意味でもあるだろう。貞観儀式の大嘗祭の條に「次に稻實殿の地を鎮める。・・・その院は方十六丈、柴で垣を作る【高さ四尺、しもと(木+若)で結わえる。四節。】」とある。この「四節」で「布」は「節」であることを知るべきである。万葉巻十四【二十八丁】(3524)に「麻乎其母能、布能末知可久弖(まおごもの、ふのみちかくて)」【「眞小薦の節のみ近くて」である。編んでいる節の間が近いのをいう。】などもある。「士麻理(しまり)」は、【「夜布」に続いているので「じ」を濁る。】結び固めたことである。「結ぶ」を「しまる」と言うのは、続日本紀四の詔に「彌務爾彌結爾(いやつとめにいやしまりに)」、廿六の詔に「u須u須勤結理、奉侍止之天奈毛(ますますつとめしまり、つかえまつれとしてなも)」、類聚国史の弘仁十四年十一月の詔に、「日夜忘事無久、務米志麻理、伊佐乎志久奉仕流爾依弖(よるひるわするることなく、つとめしまり、いさおしくつかえまつるによりて)」【この「志麻理」によって、続日本紀の「結」の字も「しまり」と読むことは明らかである。】などがある。今の世にも言う言葉である。【ただし今の俗言で「しまる」とは堅まることで、堅めることを「しめる」と言うのだが、古言の「しまる」は堅めることを言って、今の「しめる」に当たる。それを契沖が「夜布士麻理」を垣の結び目が締まるのだと言ったのは違っている。結び目を「しむるなり」と言うのが正しい。】「縛る」というのともとは同じ言葉だ。【万葉巻十二(3193)に「玉勝間嶋熊山(たまかつましまくまやま)」と続けたのも、籠を結い固める意味である。】○斯麻理母登本斯(しまりもとおし)は、「結び廻らし」である。「もとおし」は前に出た。【伝卅一の四十二葉】垣を結い廻らして堅めたのを言う。この下に「たりとも」という語を付けて考えるべきである。○岐禮牟志婆加岐(きれんしばかき)は、【下の「岐」の字を諸本に「氣」と書いているのは、次の「夜氣」と紛れて誤ったのだ。ここは真福寺本によった。】「切れん柴垣」である。【契沖が「編んでいる縄が切れるのだろう」と言ったのは良くない。縄でなく、垣が切れるのである。】○夜氣牟志婆加岐(やけんしばかき)は「焼けん柴垣」である。歌全体の意味は、王の宮の垣をいかに堅く廻らしても、私が切れば切れるだろう。焼けば焼けるだろう。何の堅いことがあろうか、と怒りにまかせて言ったのである。【契沖はこの歌を「謀反して大宮を打ち破り、焼き滅ぼそうと思う心をあらわしたのか」と言った。その意味で詠んだのではない。しかし本来朝廷を恐れず、軽んじ侮って無視したに等しい心は、この歌と共に現れて著しい。】喩えた心は、前の王の歌【「私は今心が寛いので、今でこそその嬢子をお前に許しておくが、後には志を果たして得ることになるだろう」という意味がこもっているのに、それ】を怒って、「王がたとえ後にこの嬢子を得て、いかに堅く守り防いだとしても、私はそれを許しはしない。容易に取り返すものを」というのだろう。この歌は、書紀にはかの鮪臣が王の「八重の隠垣云々」の歌の次に、「太子は歌って『於彌能姑能、耶賦能之魔柯枳、始陀騰余瀰、那爲我與釐據魔、耶黎夢之魔柯枳(おみのこの、やふのしばかき、したとよみ、ないがよりこば、やれんしばかき)【一本に「耶賦能之魔柯枳」を「耶陛迫麦k(やえからかき)」に替える】』」とある。【第三句から下は、「下響み、地震(ない)が震り来れば破れん柴垣」である。この歌は詞の異なるところがあるが、この記の「美古能志婆加岐云々」と同じ歌である。】伝えが異なる。ただしこの記の伝えも、前に志毘臣の歌に「耶陛能矩瀰麦k云々」の歌が脱けているのなら、この歌は王の歌だろう。【どちらが正しいか、すぐには決められない。】この件は、贈答した歌たちの間に、この記も書紀もともに伝えの紛れがあると見え、あるいは作者が変わり、あるいは順序が乱れ、または落ちたのかと思われるなど、不適切なことが互いにあるのを、よく考え正そうとして、心の及ぶ限り言ったけれども、やはり確かにこうだと言えるものではない。さらによく考えるべきであろう。○爾王子亦歌曰(ここにみこまたうたいたまわく)。これは志毘臣と歌を贈り交わしたのでなく、それとは別に嬢子に対して詠んだ歌である。○意布袁余志(おおおよし)は「大魚よ」で、鮪(しび)の枕詞で、冠辞考に見える。【ただし「布」を「本」の誤りとして改めたのは良くない。契沖も言ったように、「ほう」を縮めて「ふ」になったのである。中巻の白檮原の宮の段の歌に「大石」を「オヒシ」と詠んだたぐいである。それも「ホヒ」が縮まって「ヒ」になっている。ここも同じ。また「オホ」を通わせて「オフ」と言ったのでもあるだろう。「凡河内(オホシカフチ)」の「オフシ」は、和名抄に丹後の郷名「凡海」を「オフシアマ」とあるから、「オフシ」なのを、書紀などには「大河内」とも書かれ、続日本紀四十に「凡」と「大押」と通うことも見え、書紀の雄略の巻にある「紀の大磐宿禰」を顕宗の巻では「生磐宿禰」とある。これらは「オホ」と「オフ」が通う例である。○この段の嬢子の名を「大魚」とあるのは、ここの枕詞の「オフヲ」を嬢子の名を詠んだものと誤解して、言い伝えたのではないだろうか。女子の名に「大魚」は似つかわしくないように思われるからである。これは試みに言っておくだけである。】○斯毘都久阿麻余(しびつくあまよ)は「鮪を突く海人よ」である。鮪は、その喉を突いて取ると言う。万葉巻十九【二十九丁】(4218)に「鮪衝等、海人之燭有、伊射里火之(しびつくと、あまのともせる、いざりひの)」とある。【巻六(938)に「鮪釣(しびつる)」とも詠んでいる。】「よ」は呼び出す辞である。【これはその者に向かって直接呼び出すのではない。漠然と大方の者を呼ぶのである。海人に対して呼ぶ辞としては、次の「斯賀」という言葉に合わない。】○斯賀阿禮婆(しがあれば)は「あなたが荒れれば」である。「斯賀」のことは前に言った。【伝卅六の十六葉】「荒れる」とは【普通に言う荒れることではない。】遠ざかることを言う。万葉巻二【二十九丁】(180)に「住鳥毛荒備勿行(すむとりもあらびなゆきそ)」、巻十一【四十六丁】(2822)に「不肯縁、荒振妹爾、戀乍曾居(よりあえず、あらぶるいもに、こいつつぞいる)」など、更に多い。疎く離れて、よってこないことである。○宇良胡本斯祁牟(うらこおしけん)は、「心裏恋しいだろう」である。「うら」は「うら悲しい」、「うら寂しい」などの「うら」で、心を言う。万葉巻十四【二十五丁】(3495)に「宇良毛等奈久毛(うらもとなくも)」というのも「心もとない」ことである。また「恋しい」を古歌では「コホシ」と言った例が多い。書紀の斉明の巻の皇太子の歌に「枳瀰我梅能、姑ホ(衣の間に臼)之枳舸羅爾(イ+爾)(きみがめの、こほしきからに)」、万葉巻五【十七丁】(834)に「毛々等利能、己惠能古保志枳(ももとりの、こえのこほしき)」、【また二十五丁】(875)「伊加婆加利、故保斯苦阿利家武(いかばかり、こほしくありけん)」巻十七【三十七丁】(3993)に「曾己乎之母、宇良胡非之美等(そこをしも、うらこいしみと)」、また【四十四丁】(4010)「宇良故非之、和賀勢能伎美波(うらこいし、わがせのきみは)」などがある。この「祁牟」は「からん」の意味である。○志毘都久志毘(しびつくしび)は、「鮪衝く鮪」である。この歌の第二句は、鮪魚を捕ろうとする海人は、鮪魚のあたりに心を掛けて慕いよるものだから、それをこの嬢子が志毘臣に慕いよるのに譬え、【だから「衝く」という動作には意味はない。単に鮪を捕る海人の様子に譬えただけである。それを契沖も師も、この句を海人が鮪を衝くように志毘臣を殺したなら、という風に解いたのは、この「衝く」という言葉になずんで、考え違ったものである。この喩えの意味は、よく考えなければ紛れるだろう。一首の意味をよく考えて覚るべきである。】「斯賀阿禮婆云々」は喩えを離れて直接に言ったので、【「斯賀」とは海人に喩えたものを指して「それが」ということだから、嬢子のことではあるが、嬢子に向かって「汝が」というのとは異なる。それでは「斯賀」と言った他の例とは違う。】その海人の鮪の辺りに慕いよるように、あなた【嬢子】が志毘臣に従い寄って、私に遠く離れるならば、私はあなたを恋しく思うだろうということだ。【契沖も師も、「あれば」を「あるならば」の意味としたのは、得心が行かない。それではこの句が無駄に余って、何の意味もない。それに「あるならば」なら「あらば」と言わなければ、下の「けむ」に合わないだろう。また「うらこほしけむ」を契沖が「汝を殺せば、今でこそ君臣の礼を乱して憎いけれども、恋しく思い出すこともあるだろう」ということになる、と言ったのも誤りだ。それでは「斯賀阿禮婆」からの続きはどう解釈できるというのか。志毘臣を恋しく思い出す理由があるだろうか。師は「私が志毘臣を殺して嬢子を得るから、鮪は嬢子を恋しく思うだろうということだ」と言ったが、それも納得できない。いずれの説も「海人よ、しがあれば」という語に合っていない。みな「鮪衝く」を志毘臣を殺すことの譬えと思ったからの誤りである。】ところで「志毘都久志毘」と再び言って結んだのは、古歌の格で、この嬢子が志毘臣に慕いよることを返す返す恨めしく、鬱陶しく思う心が見える。【この「志毘都久」も海人が鮪魚の辺りへ慕いよる意味だ。下の「志毘」は、また「志毘都久」と重ねて言うところを、「都久」を省いた詞である。契沖は「終わりに『袁』の字が落ちたのか。『鮪衝く鮪を』だろう」と言ったが、「袁」が落ちたのではないけれども、意味はそういうこととしても良い。】書紀に「太子が影媛に贈った歌に『擧騰我瀰爾(イ+爾)、枳謂屡箇ゲ(日+豈)比謎、タ(てへん+施のつくり)摩儺羅麼、阿我ホ(衣の間に臼)屡タ(てへん+施のつくり)摩能、婀波寐之羅陀魔(ことがみに、きいるかげひめ、たまならば、あがほるたまの、あわびしらたま)』」【「琴頭に来居る影媛、玉ならば、吾が欲する玉の鰒白玉」である。「来居る」までは「影」の序である。】とあるのは、この歌【「おおおよし云々」】の異伝である。【詞はみな異なるが、嬢子を思っている様子は同じである。】次に「鮪臣が影媛のために答えて『於ホ(衣の間に臼)枳瀰能、瀰於寐能之都波タ(てへん+施のつくり)、夢須寐タ(こざとへん+施のつくり)黎、タ(こざとへん+施のつくり)黎耶始比登謀、阿避於謀波儺倶爾(イ+爾)(おおきみの、みおびのしつはた、むすびたれ、たれやしひとも、あいおもわなくに)』」【「王の御帯の倭文服結び垂れ、誰やし人も相思わなくに」である。上の句は「誰」の序であるだけで、歌の意味は「私は鮪の臣を措いては、他に誰をも思わない」と言っている。】とある。【この記の伝えには、この答えの歌はない。あったのが落ちたのかも知れない。】この歌は志毘臣が思ったままに詠んだのだが、嬢子の心も実際そうだっただろう。それはこの次の「このとき影媛は云々」の文や、二首の歌【「いすのかみ云々」、「あをによし云々」】で分かる。○如此歌而(かくうたいて)は、上記の王の歌、志毘臣の歌を合わせて言う。○闘明は「かがいあかして」【「かがい」は用言(動詞)である。】と読む。「闘」の字は、旧印本や延佳本では「開」と書き、真福寺本には「闕」と書いてある。ここは一本、また一本によった。【これは「開」の字も夜の明けるのに関係があるから、それによって「あけぼの」、あるいは「あかとき」などと読むべきかとも思ったが、やはり「開明」とは書きそうにない。「闘」の字が良いように思う。というのは、「かがい」は男女が歌を詠み交わし、互いに挑み争う意味があるから、「闘」とも言うだろう。「闕」と書いたのも「闘」を誤ったものだろう。「開」の字からは形が遠い。「かがい」は万葉に「かがう」と用言にも言うから、「闘」を用言に「かがい」と読むべきである。】互いに歌を詠み交わし、挑み争って、夜を明かしたのである。○各退は「あらけましぬ」と読む。「あらく」とは、集まった者が各々分かれて散らばるのを言う。書紀の神代巻【黄泉の段】に「・・・即ち散去(あらけ)ぬ」、斉明の巻に「散(あらけ)た卒(いくさ)を誘い集めた」などとある。【前の「疎く離れる」のを「荒る」というのと、もとは同じである。また俗言にものの間を広くするのを「あらく」と言うのも意味は同じである。】○明旦之時は「つとめて」と読む。そのことは穴穂の宮の段に「明旦(つとめて)」とあるところ【伝四十の四十葉】で言った。翌朝のことである。○意富祁命(おおけのみこと)。「富」の字のあるなしについては、前に言った。【伝四十の四十四葉】○二柱(ふたはしら)。この二字を諸本で分注にしたのは誤りである。ここは延佳本で大きな字で書いてあるのによった。○朝廷(みかど)。「廷」の字は、真福寺本他一本には「庭」を書いてある。【記中の朝廷の廷の字は、真福寺本ではみな「庭」と書いてある。万葉などにもそう書いたところがある。いにしえはそうも書いたのだろう。】○志毘門(しびがかど)。「門」は家を言う。皇大宮も「朝廷(みかど)」【「御門」の意味だ。】というように、臣の家も内々でなく外向きのことには門と言う。また詔の言葉などに、家筋のことを「氏門(うじかど)」、「家門(いえかど)」または単に「門(かど)」とも言う。【今の世でも家筋のことを門というのは普通のことだ。】ここの言葉は、志毘臣の威勢の甚だしいのを言う。その様子は書紀に見える。○亦今者。「亦」の字は誤りだろう。【真福寺本、他一本には「弖」とある。それも誤りである。延佳本にはこの字がないが、例のさかしらで除いたのだろう。】師は「余」ではないかと言った。そうでもあるだろう。いずれにせよ「かれ」と言うところだ。○亦寢(かならずいねたらん)。【「亦」の字は延佳本に「必」と書いてある。これも自分勝手に書いたもののようでもあるが、「かならず」と言うところではある。】志毘臣は昨夜夜通しかがい明かしたのだから、眠くて今は寝ているだろうと言うのである。○亦其門無人(そのかどにひともなけん)。朝の内は臣・連・八十伴緒みな朝廷に参る時だからである。○難可謀は、「はかりがたけん」と読む。【「けん」は「からん」の意味だ。】○乃殺也【真福寺本に「乃」の字がない。それは前の「臣之家」の「之」を誤って「乃」と書いてあるから、それと混同してここは落ちたのだろう。それはどちらにせよ、この字は読まない。】は「とりたまいき」と読む。殺すことを「とる」と言うことは前に言った。【伝廿三の六十葉】○書紀の武烈の巻に「億計天皇が崩じた。大臣の平群の眞鳥の臣は国政を専断して日本の王になろうとして、太子のためと偽って宮を作り、みずから住んだ。事を行う度に驕慢で、臣の節は全くなかった。太子は物部麁鹿火(もののべのあらかい)の娘、影媛を召そうとして仲人を影媛の家に遣わして約束を交わした。影媛は既に眞鳥の大臣の息子、鮪【鮪、これを『しび』と言う】に通じていて、太子の求めに違うことを恐れ、『私は海石榴市(つばいち)の巷で待っています』と答えた。そこで太子は約束の所に出ようとして、近く侍っていた舎人を平群大臣の家に遣わし、太子の命令だとして官馬を求めた。大臣は戯れて偽り、『官馬は誰のために飼うのでしょう。仰せのままに』と言って、久しく出さなかった。太子は悩んだが顔色に出さず、ついに約束の所へ行って歌場(うたかき)の中に立ち、影媛の袖を取って立っていた。ところが鮪臣がやって来て、太子と影媛の間に立った。太子は影媛の袖を放した。鮪臣の方を向いて、『之ホ(衣の間に臼)世能(しおせの)云々』、鮪は答えて『飫瀰能古能、耶陛能迫麦k(おみのこの、やえのからかき)云々』と歌った。太子は『飫ホ(衣の間に臼)陀チ(てへん+致)嗚(おおたちを)云々』、鮪臣は答えて『飫ホ(衣の間に臼)枳瀰能耶陛能(おおきみのやえの)云々』、太子は『於彌能姑能耶賦能(おみのこのやふの)云々』、太子が影媛に贈った歌に、『擧騰我瀰爾(イ+爾)(ことがみに)云々』、鮪臣が影媛のために答えた歌、『於ホ(衣の間に臼)枳瀰能(おおきみの)云々』。太子は初めて鮪臣が既に影媛を得ていたことを知り、父子の無礼な振る舞いを知って、たいへん怒り、その夜大伴金村の連の家に行き、兵を集めて策を練り、大伴連が数千の兵を率いて道を遮り、鮪臣を乃樂山(ならやま)で殺した。【一本にいわく、鮪が影媛の家に宿った時、その夜に殺した。】このとき影媛は云々」とある。

 

於レ是二柱王子等。各相=讓2天下1。意富祁命讓2其弟袁祁命1曰。住レ於2針間志自牟家1時。汝命不レ顯レ名者。更非B臨2天下1之君A。是既汝命之功。故吾雖レ兄猶汝命先治2天下1而。堅讓。故不2得辭1而。袁祁命。先治2天下1也。

 

訓読:ここにふたばしらのミコたち、かたみにアメノシタをゆずりたまいて、オオケのミコトそのみおとオケのミコトにゆずりたまわく、「ハリマのシジムがいえにすめるしときに、ながミコトなをあらわしたまわざらましかば、さらにアメノシタしらしめさんキミとはならざらましを、すでにながミコトのいさおにぞありける。かれわれコノカミにはあれども、なおながミコトまずアメノシタしろしめてよ」といいて、かたくゆずりたまいき。かれえいなみたまわずて、オケのミコト、まずアメノシタしろしめしける。

 

口語訳:二人の王子たちは、天下を相譲った。意富祁命はその弟袁祁命に「針間の志自牟の家にいた時、あなたが名を顕さなかったら天下を治める君にはならなかった。これは全くあなたの手柄だ。だから私は兄ではあるが、やはりあなたが天下を治めるべきだ」と言って、堅く譲った。それで否みも出来ず、袁祁命がまず天下を治めた。

 

各は師が「かたみに」と読んだのに従う。○意富祁命(おおけのみこと)【ここには真福寺本にも「富」の字がある。】云々。これより前に何度も相譲った言葉があるのを、前の「各相讓」というのに込めて省き、ここではその終わりに言ったことだけを挙げている。○非臨の間に「爲」などの字が落ちたか。【「非」は「不」の意味で用いている。このことは初めの巻で言った。】○既(すでに)は「全く」と言うような意味である。書紀の継体の巻では「全」を「すでに」と読んでいる。参照せよ。この上に「このように天下を治めるようになったのは」ということを加えて考えよ。○先治(まずしろしめよ)。この次にも「先治」とある。「先」とあるのに注意せよ。「私は天下を治めない」というのでなく、「私も治めるけれども、袁祁命がまず」という意味だ。○「不2得辭1而(えいなみたまわずて)」は、何度も譲り合った上に、こう言ったので、ついに否みもできなかったのである。書紀の顕宗の巻には、「白髪天皇が崩じた。この月に皇太子の億計王は天皇と位を譲り合い、久しく皇位に着かなかった。そこで天皇の姉、飯豊の青の皇女が忍海の角刺宮で朝政を執った。・・・冬十一月、飯豊青尊は崩御した。十二月百官が大いに集い、皇太子億計は天皇の璽(しるし)を取って、天皇の座に置いた。拝んで諸臣の位について、『この天皇の位には、功績のある人が就くべきだ。貴い血筋を顕して迎えられたのは、みな弟の謀である』と言った。天下を天皇に譲ったのである。天皇は弟であるからと言って、位に就かなかった。また白髪天皇がまず兄を天皇にしようと皇太子に立てたので、堅く辞退して・・・皇太子億計は・・・天皇はついになすべき事を知らず、兄の意に逆らわないで許した。しかし座には着かなかった。元年春正月、大臣・大連らは申し上げて・・・詔して・・・」【白髪天皇の御世から、袁祁命が位に就くまでの間のことは、この記と書紀と伝えの異なる点が多い。この記の伝えは、意富祁命と袁祁命を針間から迎えたのは、白髪天皇が崩じて後のことで、飯豊王が政務を執っていたときの話なのに、書紀の伝えは二王を迎えたのは白髪天皇の在位中で、兄王を皇太子、弟王も皇子としている。また飯豊王のことも、この岐では白髪天皇が崩じて、天津日嗣の王がなかったので、女王ではあるがしばらく政務を執ったのである。それを書紀の伝えでは、白髪天皇が崩じて、皇太子の意祁命が皇位を継ぐべきだったが、弟に譲って位に就かないで、ずいぶん時間が経ったのでので、この間女王が政務を見たのである。これらは伝えの趣が異なっている。】○この白髪天皇は年齢がなく、御陵を記さない。これより前には例のないことだ。【この後には記さない例もある。】書紀に「五年春正月・・・冬十一月庚午朔戊寅、河内の坂門原(さかどのはら)陵に葬った」、諸陵式に「河内の坂門原陵は磐余の甕栗宮で天下を治めた清寧天皇である。河内国古市郡にある。兆域は東西二町、南北二町、陵戸五烟」とある。【帝王編年記に「河内国高安郡、椎田原の陵に葬った」とあるのは誤りだろう。】河内誌に「古市郡西浦村にある。称して白髪山陵と言う。傍らに円丘があり、后白髪と言っている」と言う。【前皇廟陵記には、「あるいは今の平野の山中観音堂の上、大きな松の木が生えているところだという」と言っている。】

 

 



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