本居宣長『古事記伝』(現代語訳)43_2

 

 

袁祁之石巣別命。坐2近飛鳥宮1。治2天下1捌歳也。天皇。娶2石木王之女難波王1。无レ子也。

 

訓読:オケのイワスワケのミコト、チカツアスカのミヤにましまして、やとせアメノシタしろしめしき。このスメラミコト、イワキのミコのみむすめ、ナニワのミコにみあいましき、ミコはましまさざりき。

 

口語訳:袁祁の石巣別命は近つ飛鳥の宮に住んで、八年間天下を治めた。天皇は石木王の娘、難波王を娶ったが、子がなかった。

 

この始めに、真福寺本には「装束別王御子、市邊忍齒王御子」という十三字がある。【「装束」は「伊奢本」の三字を誤ったものだろう。】○石巣別(いわすわけ)という名は、ここを除いて他には見えない。【書紀にも見えない。】名の意味は思い付かない。○この天皇の後の漢風諡号は顕宗天皇と言う。○近飛鳥宮(ちかつあすかのみや)。近つ飛鳥、遠つ飛鳥のことは、若櫻の宮の段【伝卅八の二十七葉】で言った。ところがこの天皇の宮は大和【高市郡】で、遠つ飛鳥の地であるのを、「近つ」と言っている理由は、允恭天皇の遠つ飛鳥の宮に対して言っているのだろう。【允恭天皇の宮を遠つ飛鳥というのは、河内の近つ飛鳥に対してなのを、後には河内にあるのも大和にあるのもその国では単に飛鳥と言い慣れた上で、同じ飛鳥ながら允恭天皇の宮の「遠つ」に対して、この御世のを「近つ」と言うのである。初めの「近つ」、「遠つ」は、場所の遠い、近いで言い、この御代の「近つ」はかの遠つ飛鳥の御代の遠いのに対して言っているので、その意味は異なる。これをはっきりさせないでは思い惑うことになる。】書紀に「元年春正月己巳朔、大臣大連らが申し上げて・・・詔して」公卿百僚を近つ飛鳥の八釣(やつり)の宮に集め、天皇の位に就いた。云々【ある本にいわく、弘計天皇の宮は二箇所にあった。一の宮は少郊にあり、二の宮は池野にある。またある本にいわく、甕栗に宮を構えた。】」とあり、【八釣は地名である。この地のことは伝廿二の六十三葉で言った。帝王編年記にこの宮を「大和国高市郡、龍田郡の宮の西北がこれである」と言い、大和志に「上八釣村である」と言う。】○捌歳(やとせ)。ここにこのように年数を挙げたことは、これ以前にはなかった。【この後には例が多い。師(賀茂真淵)はこの二字は後人の注だと言ったが、そういう気もしない。】○石木王之女(いわきのみこのみむすめ)難波王(なにわのみこ)。書紀に「元年春正月・・・この月、皇后難波の小野王を立てた」とある。この女王は初め難波に住んでいたのだろう。「小野」も地名だろう。【前に引いた書紀の分注にある「少郊」を弘仁私記では「おの」と読んでいる。これと同じ土地か。しかし少郊と書いてあるのはいかがなものか。】石木王は、書紀では雄略天皇の御子に「磐城皇子」がある。【この記にないのは、漏れたのだろう。】これだろう。【この皇子は、同母弟の星川皇子の乱によって、母の吉備の稚媛、また異父兄など、星川皇子とともに焼き殺されたことが清寧の巻の初めに見える。難波の小野王を書紀の分注で「雄朝津間稚子の宿禰の天皇の曽孫、磐城王の孫、丘稚子の王の娘である」とあるのは誤りだろう。允恭天皇の子に「磐城王」というのは、書紀にもこの記にも見えないから、雄略天皇の子なのを伝え誤ったのだろう。難波王を磐城王の子としたのと、孫としたのと、どちらが正しいか、分からない。】書紀の仁賢の巻に「二年秋九月、難波の小野の皇后は、もと不敬だったことを恐れて、みずから死んだ」とあり、分注に「弘計天皇の時云々」とある。【これは得心できないことである。というのは、そういう人でないのが突然天皇になったならそういうこともあるだろうが、億計天皇は初めから皇太子であって、後にその御世になることはかねて知られていたのに、自殺するほど恐れたというのは、当時どうしてそういう不敬をしたものか。自殺するほどの不敬でもなかったのを「恐誅」などという文もどうだろうか。ただこれだけの小さな事で、この天皇が皇后である王を殺すほどのことはないだろう。】

<訳者註:書紀の記載もはっきりしないが、億計皇子が宴席にいて、瓜を取って食おうとすると刀がなかった。そこで弘計天皇が刀を取って、夫人の難波の小野皇后に命じて刀を億計に渡した。夫人は前に行き、立って瓜皿に刀を置いた。この日、酒を汲んで、立ったまま億計を呼んだ。この無礼によって、殺されることを恐れたという。億計と弘計とは「位を互いに譲った」と言うが、実は対立があり、遺族は殺される恐れがあったのではないかと考えられる。兄である億計が弟の弘計より後まで生きるとは考えにくいだろう。>

 

此天皇。求2其父王市邊王之御骨1時。在2淡海國1賤老媼參出白。王子御骨所レ埋者。專吾能知。亦以2其御齒1可レ知。<御齒者。如2三技1押齒坐也。>爾起レ民。堀レ土。求2其御骨1。即獲2其御骨1而。於2其蚊屋野之東山1。作2御陵1葬。以2韓フクロ(代の下に巾)之子等1。令レ守2其陵1。然後持=上2其御骨1也。故還上坐而。召2其老媼1。譽3其不レ失見置知2其地1以。賜レ名號2置目老媼1。仍召=入2宮内1。敦廣慈賜。故其老媼所レ住屋者。近作2宮邊1。毎レ日必召。故鐸懸2大殿戸1。欲レ召2其老媼1之時。必引=鳴2其鐸1。爾作2御歌1。其歌曰。阿佐遲波良。袁陀爾袁須疑弖。毛毛豆多布。奴弖由良久母。於岐米久良斯母。於レ是置目老媼。白僕甚耆老。欲レ退2本國1。故隨レ白退時。天皇見送。歌曰。意岐米母夜。阿布美能於岐米。阿須用理波。美夜麻賀久理弖。美延受加母阿良牟。

 

訓読:このスメラミコト、そのちちみこイチノベのミコのかばねをまぎたまうときに、オウミのクニなるいやしきオミナまいでてもうしつらく、「ミコのみかばねをうずみたりしところは、もはらアレよくしれり。またそのミハをもちてしるべし」ともうしき。<ミハはサキクサなすオシハませりき。>かれたみをたてて、つちをほりて、そのみかばねをまぎて、すなわちそのみかばねをえたまいて、そのカヤヌのひむかしのやまに、ミハカをつくりておさめまつりて、カラフクロがこどもに、そのミハカをもらしめたまいき。さてのちにそのみかばねをもちのぼりたまいき。かれかえりのぼりまして、かのオミナをめして、そのところをわすれずみおきてしれりしことをほめて、オキメオミナというなをたまいき。かくてミヤのうちにめしいれて、あつくひろくめぐみたまいき。かれそのオミナのすむヤをば、みやのへちかくつくりて。ひごとにかならずめしき。かれオオトノのとにヌリテをかけて、そのオミナをめさんとするときは、かならずそのヌリテをひきなしたまいき。かれみうたよみしたまえる、そのみうた、「あさじはら、おだにをすぎて、ももづたう、ぬてゆらくも、おきめくらしも」。ここにオキメオミナ、「アレいたくおいにたれば、もとつくににまからまほし」ともうしき。かれもうせるまにまにやりたまうときに、スメラミコトみおくらして、うたいたまわく、「おきめもや、おうみのおきめ、あすよりは、みやまがくりて、みえずかもあらん」。

 

歌部分の漢字表記:浅茅原、小谷を過ぎて、百傳ふ、鐸響くも、置目來らしも

置目もや、淡海の置目、明日よりは、み山隱りて、見えずかもあらむ

 

口語訳:この天皇は父の市邊王の屍を求めていたとき、近江の国の賎しい老婆がでてきて「王の屍を埋めたところは私がよく知っています。その歯で分かります」と言った。<歯は三枝のような押歯であった。>そこで民を使って土を掘り、その屍を求め得て、蚊屋野の東の山に陵を作って納め、韓フクロの子供に墓守をさせた。その後屍を持って上がった。帰り上って、その老婆を呼び寄せ、場所を忘れずにいたことを賞めて、「置目嫗」という名を与えた。宮の内に召し入れて、厚く広く恵んだ。その老婆の住む家を宮のそばに造り、毎日必ず召した。それで大殿の戸に鐸を掛け、老婆を呼ぶ時は、必ずその鐸を引き鳴らした。歌に詠んで、「浅茅原、小谷を過ぎて、どこまでも伝って行く、鐸の響きで置目が来るよ」と歌った。ところが置目嫗は「私はたいへん年を取ったので、元の国に帰りたいと思います」と言った。そこで言うままに元の国へ遣ったが、天皇は見送って歌った。「置目、ああ。淡海の置目、明日からは山の陰になって、見えなくなる」

 

御骨は「みかばね」と読む。御屍の意味だ。【そのことは中巻の明の宮の段、伝卅三の六十六葉で言った通りだ。】この御屍は淡海国の久多綿の蚊屋野に埋めたことは、穴穗の宮の段の終わりに見えている。【伝四十の四十二葉】○求(まぎたまう)は、この屍を「土と等しく埋めた」とあって、塚も築かなかったので、その所が知れなかったのである。これは天皇みずから淡海に行って探したのだ。後の文に「還上坐」とあるので分かる。【書紀も同じだ。】○老媼は【媼は説文に「老女の名」とある。】「おみな」と読む。そのことは上巻に「老女(おみな)」とあるところで言った。【伝九の十八葉】この老女は、書紀には「狹々城山の君の祖、倭フクロ(代の下に巾)の宿禰の妹」とある。【倭フクロのことは、後に言う。】この記の伝えは、「賤老媼(いやしきおみな)」とあるから、ただ賎しい民と聞こえる。○參出(まいで)は、天皇の行在所【淡海だろう。】にである。○所埋(うずみたりしところ)は、埋めたところということだ。【この書き方のことは、初めの巻で言った。】○專(もはら)は、自分を除いて他には知っている人はいないと言うことだ。○「亦以2其御齒1可レ知(またそのみはをもちてしるべし)」というのは、「自分はその場所をよく知っているけれども、本当にそうかどうか、なお疑わしいと思ったら、それも御歯で知られる」と言ったのである。【「亦」と言ったのは、それかどうかもまた、という意味だ。】○三枝(さきくさ)は冠辞考の「さきくさ」の條に見える。「さゆり」のことだろう。【「福草」と書くのは「さき」というのに「福」の字を借りたもので、字には意味はない。漢国の瑞草とするのは誤りだ。】白檮原の宮の段に「山由理草」とあるところで言ったのも考え合わせよ。【伝廿の卅一葉】○押齒(おしは)は和名抄に「蒼頡篇にいわく、グ(齒+禺)は歯が重なって生えるのである。グ歯は『おそは』」とあるのがそうだ。冠辞考【おしてるの條】にここを引いて、「襲い重なった歯があるのを言う」とある。「三枝如(な)す」とは、その草の三本の茎の相対するさまに重なった歯だろう。○堀土(つちをほり)は、その老女が教えたところを掘ったのだ。○蚊屋野(かやぬ)は前に出た。【伝四十の三十八葉】○葬は【延佳本に「墓」と書いたのは、自分勝手に改めたのだろう。そのことは後に言う。】「おさめまつりて」と読む。中巻の倭建命の段に「その櫛を取り、御陵を作って治め置いた」とある。○韓フクロは前に出た。【伝四十の三十七葉】○「令レ守2其陵1(そのみはかをまもらしめ)」。書紀に「元年五月、狹々城山君、韓フクロ宿禰云々」【この文も伝四十の卅七葉で引いた。考え合わせよ。倭フクロ宿禰は韓フクロの兄弟ではないだろうか。倭フクロと置目は同母で、韓フクロは異母ではないだろうか。定かでない。】これは後に「陵戸」と言うものである。続日本紀十七の詔に「大御陵守(おおみはかもり)に仕え奉る人ら」とある。この市邊王の御陵のことは、あるいは「近江国蒲生郡日野の内、音羽村にあって、御廟野とも御骨野(みこつの)とも言い、御陵は今もあって内部の石構えが見える。【傍らに薬師堂がある。この御陵の域内へ牛馬を引き入れると、その牛馬は直ちに死ぬと言って、里人は非常に畏れるという。日本紀にはこの御陵は二つ同じように築いたことが記されているが、今は二つはない。一つである。またこの御陵に葬る前、初めに埋めたところは「こぼち塚」と言って、蒲生野にある。この御陵の位置からはやや遠い、と里人は語り伝える。】」と言う。また最近ある人のいわく、【上記の音羽村にあるのは市邊王の墓ではない、それは息長の墓である。】今山城国愛宕郡【の北の端】に久多谷がある。【久多越えといって、近江・若狭へ越えるところだ。村々があって、久多荘と言う。】近江国高嶋郡に和田村があり、若狭国遠敷郡に蚊屋野がある。このところ、山城と近江、若狭、丹波の四国の境で、みな相近く、その蚊屋野というところに塚が二つあって「御子塚」と言う。近江の久多綿の蚊屋野というのはこの地で、この塚こそ市邊王の御陵だと言う。どれが正しいのだろうか、さらに詳しく尋ねて定めるべきである。○「然後持=上2其御骨1也(しかるのちそのみかばねをもちのぼりて)」。前に「作2御陵1葬」とあるから、屍は蚊屋野の御陵に葬ったと思われるのに、またこう言っているのはたいへん納得できないことである。【延佳本に「葬」の字を「墓」に改めたのは、ここの文を見て、骨を倭に持って上ったから、蚊屋野の御陵は本来埋めたところの印だけに作ったものと考えてのことと思われるが、記中御陵はただ御陵と書いているのが通例で、御陵墓と書いた例もなく、骨を持って上るなら倭国で改めて某所に葬ったということがあるはずだろう。そのことが見えず、後世まで、倭国にその墓があることは全く聞いたことがない。「然る後」とあるのに寄れば、一度蚊屋野に葬ったけれども、後にさらに持ち上ってきて、改めて倭に葬ったとも思われるが、それでは特にその倭国の改めて葬った土地を言わなくてはならない。師は「およその骸を蚊屋野に葬って、歯をしるしのために持ち上ったが、または前に埋めた土や衣冠などを葬って、骨を持ち上ったか」と言ったが、それも上記と同じことである。とにかく持ち上ったことだけを記したのは納得できない。他物ならともかく、骨を持ち上って、葬ることもなく、ただ置いてあるということはありそうにない。】○還上坐(かえりのぼりまし)は天皇が淡海の蚊屋野から倭の京に帰ったのである。○「其不レ失見置知2其地1(そのちをわすれずみおきてしれりしことを)」は、【「不」の上の「其」は読まない。】「その地」とは屍を埋めたところを言う。「不失」は師が「わすれず」と読んだのに従う。「見置」は、【「置」の字は、旧印本、他一本では「眞」に誤っている、真福寺本では「貞」に誤っている。ここは延佳本他一本によった。】確かにそこに目を着け、心を着けて置いたことである。【今の世にも普通に「見ておく」、「聞いておく」などというのも元はその意味なのを、今の世に言う「置く」は軽く聞こえるが、軽い言葉ではない。重い言である。】○置目老媼(おきめおみな)は【「目」の字は、旧印本では「其」に誤っており、一本他一本では「?(くにがまえに又)」に誤っている。ここは真福寺本、延佳本によった。】上の「見置」による名で、「置いた目」という意味だ。【目を置くという意味ではない。】○仍は「かくて」と読む。【「かれ」と読みそうだが、下に近く「故」とあるのと重なって、うるさいからである。この字は中巻の明の宮の段にもあって、伝卅四の九葉で言った。】○敦廣慈賜(あつくひろくめぐみたまいき)。書紀に本紀十の詔に「厚支廣支徳乎蒙而(あつきひろきうつくしみをかがふりて)」、書紀の神代巻に「廣厚稱辭祈啓焉(ひろくあつくたたえことしのみもうさしむ)」、皇太神宮儀式帳に「厚廣多々倍申(あつくひろくたたえもうす)」などもある。【また神代紀に「板則廣厚(いたはひろくあつく)」などもある。】○所住屋は「すむや」と読む。【「所」の字があるので「すめる」と読むようだが、ここは「すめる」というところではない。今の人は、この言葉遣いの区別が付かず、「すむ」と言うのも「すめる」と言うのも同じことと思っている。】○鐸は「ぬりて」と読む。【「て」は普通濁って言うが、清音の字である。書紀でも清音の「底」の字である。】新撰字鏡に「ミン(金+民)は『ぬりて』」【ミンの字は奇妙である。】、政事要略に「鐸は倭訓『塗り手』」などがある。鈴の大きなものを言う。鐸の字は、説文に「大鈴である」と言っているのに当たる。万葉巻十七【四十五丁】(4011)に「之良奴里能鈴(しらぬりのすず)」【「すず」は総称で、そのうち大きなものを「ぬりて」と言う。そこで古い書物に「すず」を「鈴」と書き、「ぬりて」を「鐸」と書いて、鈴とは書かない。】和名抄には「楊氏の漢語抄にいわく、鈴子は『すず』、三禮圖にいわく、鐸は今の鈴である。胴体は銅で作る」とあって、「ぬりて」という名は見えない。【また古語拾遺に「鐵鐸、古語『さなき』」とあるが、「さなき」という名は他に見えない。】○引鳴は、その鐸を掛けた綱の長いのを大殿の内から引いて鳴らすのである。○阿佐遲波良(あさじはら)は浅茅原である。○袁陀爾袁須疑弖(おだにをすぎて)は「小谷を過ぎて」である。小谷はただの谷で、「小」は小野、小川などと言うたぐいだ。【地名にも小初P、小佐保、小筑波などと言う。この小谷は峯谷(おたに)かとも思ったが、「だ」は濁音だからそうではない。】書紀にはこの句は「嗚贈禰嗚須擬(おそねをすぎ)」とある。それなら浅茅原も小谷も地名かとも思われるが、【浅茅原は書紀の崇神の巻に「神淺茅原」、この巻に「彼々茅原(そそのちはら)」、「淺茅原」、神楽歌に「かさの淺茅原」などあるのがそうで、今も城上郡に笠村があり、茅原村がある。「嗚贈禰」は高市郡に「尾曾村」がある。これか。または「曾禰」で、「嗚」は例の「小」でもあるだろう。小谷という地名もあるだろう。】これは実際にその所々を通り過ぎてくるのではない。単に戯れに言ったのだから、その地名を指して言ったとするよりは、ただ野山を経て来るという意味に解してよかろう。【とすると書紀の「嗚贈禰」はどうだろう。字を写し間違ったのではないか。】○毛毛豆多布(ももづたう)は「百伝う」である。中巻の軽嶋の宮の段の歌に見え、そこで言った。【伝卅二の三十三葉】ここは冠辞考に「百もの多くの野山を経て伝えるという意味で、『浅茅原、小谷を過ぎて』と言ったのである。この老婆は宮の辺りにいるのだが、鐸の音がするとやって来るので、戯れに駅路のさまに言ったのだ」とある。または単に鐸の枕詞とも考えられる。【その場合は、多くの野山を経て来る意味はなく、駅路の鈴による枕詞である。】いずれにせよ、駅路は鈴を鳴らして行くものだから、こう戯れて言ったのだ。【契沖が「置目が縄を伝って、何度も足を運ぶ意味だ」と言ったのは、たいへんに誤っている。】万葉巻十四【十七丁】(3439)に「須受我禰乃、波由馬宇馬夜能(すずがねの、はゆまうまやの)」、巻十八【二十七丁】(4110)に「須受可氣奴波由麻久太禮利(すずかけぬはゆまくだれり)」などある。○奴弖由良久母(ぬてゆらくも)は【「て」は清音である。延佳本には「母」の下に「夜」の字がある。ここは諸本によった。】書紀には「母」の下に「與(よ)」の字がある。「鐸鳴も」である。「ぬて」は「ぬりて」の「り」を省いた名だ。【ある人は「ぬて」はもとは百済の言葉だと言った。もしそうなら「ぬりて」もそうなのか、さらに考えるべきである。】「由良久」は玉や鈴などが揺らいで鳴る音である。上巻に「玉緒母由良邇(たまのおもゆらに)」とあるところで言った。【伝七の四葉】「母」は助詞である。【「もよ」、「もや」と言うのも同じ。】○於岐米久良斯母(おきめくらしも)は、「置目来らしも」である。「らし」は推測の言葉である。【「鈴の音を聞いて、置目が来るらしいよ」と推し測って言うのである。この歌は書紀の文では理屈がよく通るが、この記では鐸を引き鳴らすのはこの老女を召すためなのに、その音を聞いてこの老女が来るよと推し測るのは、少し理屈が通っていない。ただしこの鐸を引き鳴らせばいつも間を置かずにやって来るので、その音を聞けばもう老女がやってくると思って、こう読んだのかも知れない。】書紀には「二年二月、『先王が難に逢って、命を落とした。私はその頃非常に幼く、逃げ隠れた。思いも掛けず迎えられ、天下を治めることになったが、先王の骨を広く求めて、誰も知る者はいない』と詔して、言い終わって皇太子億計と一緒に泣いた。耐えられなくなって、この日に老いた人たちを集め、天皇自ら人ごとに問うた。一人の老婆が進み出て、『置目はその骨を埋めたところを知っております。御覧に入れましょう』と言った。【「置目」は老婆の名である。近江国狹々城山の君の祖、倭フクロ(代の下に巾)の宿禰の妹、名を置目と言った。下文に見える。】そこで天皇は皇太子億計と、老婆を連れて近江国來田綿の蚊屋野に行った。掘り出してみると、老婆の言った通りだった。穴に向かって泣き、言葉も深く嘆き悼んだ。いにしえよりこの方、このように残酷なことはない。仲子(なかちこ)の骨は皇子の骨に交じって見分けられない。皇子の乳母が『仲子は上の歯が落ちていた。これで見分けましょう』と言った。それで頭蓋骨は分けられたけれども、その他の四肢の骨は分けられなかった。それで蚊屋野の中に同じ陵を二つ作って、同じように葬った。老婆の置目に詔して、宮の近くに住まわせ、優遇して、足りないことがないようにした。この月に詔して、『老婆は年老いてたいへん体が弱く、歩くにも不便である。縄を引き渡して、それを頼りに出入りさせよ。その縄の端に鐸を懸け、ものを言わなくても、入ってくればそれを引き鳴らせ。そうすればあなたがやって来たと分かるだろう』。そこで老婆は鐸を鳴らしてやって来るようになった。天皇は鐸の音を聞いて、云々」○退時は「やりたまうときに」と読む。許して去らせることを「やる」と言うのは、万葉の歌などに見え、普通にも言うことだ。【また「まけたまうときに」とも読める。「まけ」は「まからせ」の縮まった言で、官に任ずるのを「まけ」と読むのも、他国に罷らせることを言う、京の官ということではない。このことは前にも言った。】○見送(みおくらし)は、出発するところに行って、送ったのである。万葉巻廿【二十八丁】(4375)に「麻都能氣乃、奈美多流美禮波、伊波妣等乃、和例乎美於久流等、多々理之母己呂(まつのけの、なみたるみれば、いわびとの、われをみおくると、たたりしもころ)」とある。○意岐米母夜(おきめもや)は「置目もや」である。「もや」は助辞だ。書紀には「慕與(もよ)」とある。万葉巻二【十一丁】(95)に「吾者毛也(われはもや)」とある。○阿布美能於岐米(おうみのおきめ)は「淡海の置目」である。【契沖が「『淡海の海の奥(おき)』と続けた意味もあるだろう」と行ったのは誤りだ。そういう意味はない。】○阿須用理波(あすよりは)は「明日からは」である。○美夜麻賀久理弖(みやまがくりて)は「御山隠れて」である。「御山」は「眞山」と言ったような意味である。「かくれ」を「かくり」と言うのは、古言の活用である。【契沖が「り」と「れ」は五音が通じていると言ったのは、荒っぽい言い方だ。これは単に通用したのではない。いにしえと今と、言葉の活用が変わったのである。この言は、いにしえは「かくらむ」、「かくり」、「かくる」と活用し、後世は「かくれむ」、「かくれ」、「かくる」、「かくるる」と活用する、このたぐいは他にもある。】上巻の歌に「比賀迦久良婆(ひがかくらば)」、書紀の推古の巻の歌に「訶句理摩須(かくります)」、万葉巻五【十六丁】(827)に「許奴禮我久利弖(こぬれがくりて)」、巻十五【九丁】(3613)に「夜蘇之麻我久里(やそしまがくり)」、また【十二丁】(3627)「久毛爲可久里奴(くもいかくりぬ)」、巻十七【四十五丁】(4011)に「久母我久理(くもがくり)」などが見える。これは山が隔たって見えないのを言う。【山へ入って籠もるわけではない。】○美延受加母阿良牟(みえずかもあらん)は、「見えなくなるだろう」という意味だ。【契沖は続古今集にこの歌を「さゝなみや近江のをとめ明日よりは、み山がくれて見えずもあらなむ」と改めて載せたことを、置目は老婆なのを少女、「見えずかもあらむ」を「見えずもあらなむ」と改めたのは、最もおぼつかぬことだ、と言ったのは、本当にその通りだ。代々の撰集に万葉巻などの古歌を言葉を改めて入れたのには、このたぐいの間違いが多い。中でも、これは「見えずもあらなむ」としたのでは、「見えなくなって欲しい」と願う言で、意味が裏表違っており、意味が分からない歌になる。撰者はこういうことを知らなかったわけではないだろうが、敢えて直そうとしたので、こういうたいへんな誤りも出てくる。】書紀には「二年九月、置目は『私はたいへん年老い、体も弱くなったので、綱をつかんでも歩けない。今は元の国に帰りたいと思います』と言った。天皇はかわいそうに思って、物をたくさん贈り、別れを惜しんで歌って云々」とある。

 

初天皇逢レ難。逃時。求B奪2其御粮1猪甘老人A。是得レ求。喚上而。斬レ於2飛鳥河之河原1。皆斷2其族之膝筋1。是以至レ今。其子孫上2於倭1之日。必自跛也。故能見=志=米=岐2其老所1レ在。<志米岐三字以レ音>故其地謂2志米須1也。

 

訓読:はじめスメラミコトわざわいにあいて、にげまししときに、そのミカレイをとりしイカイのオキナをまぎたまいき。ここにまぎえたるを、よびあげて、アスカガワのカワラにきりて、みなそのウガラのひざのすじをたちたまいき。ここをもていまにいたるまで、そのこどもヤマトにのぼるひ、かならずおのずからアシナエくなり。かれそのオキナのありかをよくみしめき。かれそこをシメスという。

 

口語訳:初め天皇が災いにあって逃げた時、その粮食を奪った猪甘の老人がいたが、それを探して尋ね当て、召し上げて飛鳥の河原で斬った。そのとき一族の者の膝の筋を切った。それで今に至るまで、その子孫が倭へ上ってくる時、足が不自由である。そのためその老人のいたところがよく分かる。それでその地を「志米須」と言う。

 

逢レ難逃時(わざわいにあいてにげまししとき)云々。このことは穴穗の宮の段の終わりに見える。【伝四十の四十三葉】○求(まぎたまいき)の字は「初」の字の上にある意味だ。○喚上(よびあげ)は、京へである。○飛鳥河(あすかがわ)。この地のことは前に言った。【伝卅八の二十七葉】河は書紀の推古の巻にも見え、孝徳の巻に「飛鳥の河の邊の宮」、斉明の巻に「飛鳥川原の宮」、また「飛鳥の川原」などが見える。【川原というのは、今の世に言う川原だけではない。川に近い地を言う。この飛鳥の川原はそのまま地名にもなったのか、川原寺というのもこの川のほとりである。】万葉巻二【三十一丁】(194)に「飛鳥、明日香乃河之、上瀬爾(とぶとりの、あすかのかわの、かみつせに)云々」、巻三【二十九丁】(324)に「明日香能、舊京師者、山高三、河登保志呂之(あすかの、ふるきみやこは、やまたかみ、かわとおしろし)云々」など、巻々に多く、後世まで歌がたいへん多く名高いところである。○斬(きり)は老人をである。○族(うがら)は前に出た。【伝四十一の十七葉】○膝筋(ひざのすじ)は、膝の後ろ【俗に言う「ひっかがみ」】の筋だろう。和名抄に「膝は『ひざ』」、また「筋は『すじ』」とある。書紀の神功の巻に「新羅王のヒン(月+賓)筋(あわたこ)を抜いて云々」【和名抄に「膝カ(骨+可)は師の説に『ひざのかわら』、ヒン(骨+賓)は膝の骨である。『あわたこ』、俗に『あわた』と言う。考えるにヒンと膝カは名は別だが同じ物である」とある。これは今言う膝頭である。】とあるのは筋ではないが、似たことである。○是以(ここをもて)。【諸本には「以是」とある。ここは真福寺本によった。】○至今(いまにいたるまで)。【真福寺本には、「至」の下に「于」の字がある。】○子孫は「こども」と読む。先祖を「おや」と言い、子孫を末々まで「こ」と言うのは古言である。○「上2於倭1之日(やまとにのぼるひ)」。「日」はただ時という意味か。または国から上る道の間はそうでもなく、倭に到る日の意味で「日」と言ったのでもあるだろう。○自跛也(おのずからあしなえくなり)。和名抄に「説文にいわく、蹇は歩行が正しくないことを言う。『あしなえ』と読む。こちらでは『なえく』と言う」と見え、新撰字鏡に「?(馬+蹇)は『あしなえくうま』」ともある。中巻にも見えて言った。【伝廿五の二十三葉】考え合わせよ。咎めを蒙って、先祖の膝筋を立たれたことで、子々孫々までこうなったのを見ても、天皇の威徳の畏るべきことを知るべきである。○其老(そのおきな)の下に「人」の字が落ちたか。○所在(ありか)は「あるところ」である。○見志米岐(みしめき)は書紀の天武の巻に「令レ視=占2應レ都之地(みやこつくるべきちをみしめしむ)」とある「視占」と同じだ。「き」は過去の助詞である。宇津保物語【俊蔭の巻】に「四五百人の兵(つはもの)にて、人ばなれたる處を求むるに、此の山をみしめて、おそろしきいかき者ども、一山にみちて云々」などもある。「志米」は「しめゆう」などという「しめ」と同言で、場所を求めてここと見定める意味である。ここはその見占めた者を誰とも言わないでこう言ったのは、不適当なようだが【それで思うには、これはもと「故其老人、能見=志=米=岐2所在1」と「其老」の二字を上に書く意味で、その老人が人に知られないような場所をよく見占めて隠れていたのではないだろうか。見志米は老人が身を隠すところを見占めたのを、伝えの間に紛れて事が違ったのではないか。もしそうなら「見志米」という言の意味も、天武紀や宇津保物語にあるのとひときわよく合う。】あえて言うなら、その人は誰とも伝わらないが、誰であれこの老人が見つからないように深く隠れていたのを、よく見占めたことと賞めたのではないだろうか。○故其地(かれそこを)。【師は「其」の上に「號」の字が落ちたかと言った。記中の例では、こういうところに多くは「號」の字がある。しかしないところも幾つかある。】これはどこの国とも記していないから、どことも考えられない。○志米須(しめす)。「志米」は前の「見志米」の「志米」であることは論を待たない。「須」は【師は「村」の意味かと言ったが、村を「須」という理由はない。「村主(すぐり)」などを思ったのかと思うが、それは言えない。また「示す」という言葉は「令レ占」で、人に確かに見定めさせる意味で、「しめ」はここの「志米」と同じだが、「す」は「令」の意味だから、ここは「示す」でもない。また書紀の神功の巻に「宝の藏を開いて諸々の珍宝を『示(みしめて)』」とある「しめす」を「みしめ」と読むので、「示す」と「見占め」と同じように思う人もあるだろうが、そうではない。この「示す」は「令レ見」で、人に見せる意味だ。「しめす」と意味は通うが、言葉は異なる。思い違えてはならない。】「栖」か。そうなら見占められた老人の「すみか」ということだ。【「すみか」を「す」と言うのは古言である。上記の「見志米岐」を老人が隠れるところと見占めたところとするなら、この「志米須」もその意味で、「隠れるべき所とみずから占めた栖」という意味である。】ところでこの地は、物の本に見えたことがあるのだろうか。【また今もあって、この故事を語り伝えたところがあるか。】尋ねるべきである。

 

天皇。深怨B殺2其父王1之大長谷天皇A。欲レ報2其靈1。故欲レ毀2其大長谷天皇之御陵1而。遣レ人之時。其伊呂兄意富祁命奏言。破=壞2是御陵1。下レ可レ遣2他人1。專僕自行。如2天皇之御心1破壞以參出。爾天皇。詔然隨レ命宜2幸行1。是以意富祁命自下幸而。少掘2其御陵之傍1。還上。復奏言既掘壞也。爾天皇。異2其早還上1而。詔如何破壞。答白少掘2其陵之傍土1。天皇詔之。欲レ報2父王之仇1。必悉破=壞2其陵1。何少掘乎。答曰。所=以2爲1レ然者。父王之怨。欲レ報2其靈1。是誠理也。然其大長谷天皇者雖レ爲2父之怨1。還爲2我之從父1。亦治2天下1之天皇。是今單取2父仇之志1。悉破B治2天下1之天皇陵A者。後人必誹謗。唯父王之仇。不レ可レ非レ報。故少掘2其陵邊1。既以是恥。足レ示2後世1。如レ此奏者。天皇。答詔之是亦大理。如命可也。

 

訓読:スメラミコト、そのチチミコをころしたまいしオオハツセのスメラミコトをふかくうらみまつりて、そのミタマにむくいんとおもおしき。かれそのオオハツセのスメラミコトのミハカをやぶらんとおもおして、ひとつかわすときに、そのいろせオオケのミコトのもうしたまわく、「そのミハカをやぶらんには、あだしひとをつかわすべからず、もはらアレみずからゆきて、オオキミのミココロのごとやぶりてまいでん」ともうしたまいき。かれスメラミコト、「しからばミコトのまにまにいでませよ」とのりたまいき。ここをもてオオケのミコトみずからくだりいでまして、そのミハカのかたえをすこしほりて、かえりのぼらして、「すでにほりやぶりぬ」ともうしたまいき。ここにスメラミコト、そのはやくかえりのぼりませることをあやしみて、「いかさまにやぶりたまいしぞ」とのりたまえば、「かのミハカのかたえのツチすこしほりつ」ともうしたまいき。スメラミコトのりたまわく、「チチミコのあたをむくいんとおもうなれば、かならずかのミハカをことごとにやぶりてんを、なぞすこしほりたまいしぞ」とのりたまえば、もうしたまわく、「しかしつるゆえは、チチミコのあたを、かのミタマにむくいんとおもおすは、まことにことわりなり。しかれどもかのオオハツツセのスメラミコトは、チチミコのあたにはあれども、かえりてはアがオジにまし、またアメノシタしろしめししスメラミコトにますを、いまひとえにチチミコのあたというココロザシをのみとりて、アメノシタしろしめししスメラミコトのミハカをことごとにやぶりなば、のちのひとかならずそしりまつりてん。ただしチチミコのあたは、むくいずはあるべからず、かれかのミハカのへをすこしほりつ。すでにかくハジみせまつりて、のちのよにしめすにもあえなん」。かくもうしたまいつれば、スメラミコト、「これもまたいとことわりなり。ミコトのごとくてよし」とぞのりたまいける。

 

口語訳:天皇は父王を殺した大長谷天皇を深く恨んで、その霊に報復しようと思った。そこで大長谷天皇の御陵を破壊しようと思い、人を派遣しようとしたとき、その兄の意富祁命が『他の人を遣ってはなりません。僕が自ら行って、天皇の心のままに破壊して参ります』と言った。そこで天皇は兄の言葉のままに行かせた。意富祁命は行って、少し御陵のそばを掘り、帰り上って、『既に掘り毀しました』と言った。天皇はその早く帰ったのを不思議に思い、『どんな風に毀したか』と聞いた。兄は『陵のほとりの土を少し掘りました』と答えた。天皇は『父の仇に報いようとすれば、陵を全く崩してしまわなければならないだろう。なぜ少し掘っただけにしたのだ』と言った。『そうした理由は、大長谷天皇は父の仇ではありますが、私にとっては叔父であり、また天下を治めた天皇であるのを、父の仇という考えだけで、陵を全く崩してしまったら、後の人は必ずそしるでしょう。ただし父の仇を討たないわけには行きません。そこで陵の周辺を少し掘りました。既にこのように恥を見せた上は、後の世に示すことにもなるでしょう』と言った。すると天皇は『それもそうだ。言った通りでよろしい』と言った。

 

其靈(そのみたま)は、大長谷天皇の御霊である。いまはその現身はこの世にないので、その霊に報いようとしたのである。和名抄に「靈は日本紀にいわく、『みたま』、あるいは『みかげ』と言い、魂魄の二字を用いることがある」とある。続日本紀廿八の詔に、「御世々々乃、先乃、皇我御靈乃(みよみよの、さきの、すめらがみたまの)云々」、廿九の詔に「開闢已來、御宇天皇御靈(あめつちのはじめよりこなた、あめのしたしろしめししすめらみことのみたま)云々」。○毀は「やぶる」と読む。この同じことが下文に何度も出ているが、多くは「破壊」と書き、また「壊」とも「破」とも書いてある。みな同じように読む。【師はどれもみな「あばたす」と読んだ。それは鎭火祭の祝詞に「吾乎見阿波多志給比津(あれをみあわたしたまいつ)」とあるのによったので、その考に「阿波多志」は「荒し破る」という言で、「あばれ」、「あばら」、「あばく」などと言うたぐいだ、と言った。しかし「阿波多志」は「顕わにする」という意味で、「荒し破る」の意味ではない。「あばる」、「あばら」、「あばく」などもみな「あらわな」意味、「顕わにする」意味である。荒れる意味、荒らす意味と考えるのは俗な考えである。ここも御陵をあばき顕わにしようというのではなく、高く築いた山を毀し破ろうとしたのである。だから「破壊」と書く。書紀に「骨を砕き、投げ散らそう」とあるのは、例の潤色の文と思われる。】「やぶる」と言うのは、あらゆることに言う。【今の世の意識では、塚などを毀すことを「やぶる」と言うのはどうかとも思われるだろうが、そうではない。】こうして御陵を毀そうとしたのは、父王の屍を平坦な、土と等しい高さに埋めたのに報いようとしたからである。○遣は「つかわす」と読む。【遣わし賜うと読むのは俗な言い方である。「つかわす」と言うのに「賜う」という言葉を添えることはない。】○意富祁命(おおけのみこと)。【諸本に「富」の字がない。ここは延佳本によった。次にあるのも同じだ。】○「下レ可レ遣2他人1(あだしひとをつかわすべからず)」は他人では大御心の通りではないだろうという意味で言ったので、裏には少し掘っただけにしようと思ったからである。○專(もはら)は他人を交えず、唯一人でと言うことだ。【ただし御従人や役夫などもなくてと言うのではない。このことを取り扱うのに、他人を交えないことである。】○天皇。ここは「おおきみ」と読む。○參出(まいでん)は、「還り参り入ろう」ということだ。【師は「出」の字を「來」かと言ったが、「出」でよい。「參出」は「參入」と言うのと同じことだ。】○隨命宜幸行(みことのまにまにいでませ)とは、天皇の詔だが、意富祁命は兄であるから、敬って「命(みこと)」、また「幸行(いでませ)」と言ったのである。○下幸而(くだりいでまして)は【多くの本に「而」の字がない。ここは真福寺本、延佳本によった。】大長谷天皇の御陵は河内国丹比郡にある。○傍は、ここは「かたえ」と読む。○少掘(すこしほりて)。ここは破壊と言わず、「掘る」と言ったのは、意富祁命には破壊しようという気がなかったからだろう。【次の答えに言っているのも同じ。】○既(すでに)とはたいへん早く還り上って、破壊するほどの時間もなかったのに、「早既に破壞した」という意味で、天皇が必ず怪しむだろうことをこちらからも促して言ったのである。○「異2其早還上1(そのはやくかえりのぼるをあやしみて)」は、天皇の御陵などはたいへん大きく、広く高く築いたものであるから、どんなに多くの人を使っても、容易に時間も掛けずに破壊するものではないのに、余り早く帰ってきたから、怪しんだのである。○如何は「いかさまに」と読む。【俗言に「どのように」という意味だ。】○悉破壞(ことごとにやぶる)とは築き上げたものを残さず破壊して、平地にするのを言う。【これはかの父王を土と等しい高さに埋めた報いにそうしようと思ったからである。】○答曰(もうしたまわく)。【師は「曰」の字を「白」ではないかと言った。実際、上にあるのも「答白」である。】○「爲レ然(しかしつる)」は少し掘って止めたことを言う。○怨、ここは「あた」と読む。次のも同じ。【字書に「仇である」という意味だ。】○父之怨。何度も出たので「王」の字を省いている。読むには「ちちみこ」と読む。「御陵」の「御」の字を省いて「陵」と書いたのも同じである。○還は「かえりては」と読む。仇であるのと逆にという意味だ。○從父(おじ)は父の従兄弟を言う。大長谷天皇は市邊王の従父兄弟だからである。【父の「いとこ」は、爾雅の釋親に「父の從コン(日の下に弟)弟を從祖父とする」と言っているのがそれである。「コン」は「昆」と同じ。従祖父とは親から別れた父という意味だ。そういうことだからここは「從祖父」と書くべきだが、「祖」の字を省いて「從父」と書いたのだろう。しかし「従父某」という名はあちこち見えるが、「従父」という名は見えない。元来父の「いとこ」をそう言ったことはない。和名抄に「從母は爾雅にいわく、母の姉妹を從母という。『ははかたのおば』」とあるのによれば、父の兄弟を従父とは言うだろうが、それもここには合わない。】父の「いとこ」をいにしえには何と言っただろうか。和名抄にも見えないが、今考えるとそれもいにしえには広く通わせて「おじ」と言ったのではないか。そういう例がある。倭迹迹日百襲姫命は孝靈天皇の子で崇神天皇の大叔母であるのを、書紀の崇神の巻に天皇の叔母とある。それにならって、ここも「おじ」と読む。○取(とりて)は「取り崩して」である。○唯は「ただし」と読む。後世の文に「但し」の字をそう読んで、意味を転じて言うところに置くが、ここもその意味である。古言だろう。【「猶」を「なおし」と読むことがあるたぐいで、「唯」を「ただし」と読むこともあるだろう。】○以是恥は「かくはじみせまつりてあれば」と読む。【字の通りに読むのは漢文風である。】人を辱めることを「恥見す」と言うのは古言である。上巻に「令見辱吾(あれにはじみせつ)」とある。ここは少しでも御陵を掘ったのは、大長谷天皇に恥を見せたことである。○「示2後世1(のちのよにしめす)」とは市邊王を殺したことで御陵を掘られたことを後世まで見せて知らせることを言う。○足は「あえなん」と読む。【俗言に「これでよい」、「それでよい」と言う意味だ。】「云々するに足る」、「云々するに足りない」というのは漢文で、皇国の言葉ではない。【この記は古語のままに書くことに務めていると言っても、やはり時々はこういう漢文ぶりも交じっている。】字の通りに読んではいけない。○是亦大理(これもまたいとことわりなり)とは、天皇が父王の仇を報いようとするのを意富祁命が「誠に理(ことわり)である」と言ったのに応じて、「是亦」と言ったのである。「是」とは意富祁命が今言ったことを指して言う。「大」という言葉を加えて、「大理」と言ったのは、非常に感心したからで、自分が思っていたことよりその理が優っていたからである。○如命可也は「みことのごとくてよし」と読む。「命」は意富祁命の言ったことである。【「よし」と言うのに「可」の字を書いたのは、漢国で臣下の言ったことを王が聞き入れ許して「可」と言うのがそうだ。「制曰可(みことのりしていわく、か)」など、漢籍によく見える。書紀にも見えて「よし」と読む。】○書紀には「二年秋八月、天皇は・・・『その陵を毀し、骨を投げ散らそう。いまこの報いを行わなければ、また不孝だろう』。皇太子億計はすすり泣いて答えられなかった。諫めて『なりません。大泊瀬天皇は正統であり、天下を治め、華夷(みやこひな)も尊敬していた天皇の身です。わが父の先の王は、天皇の子と言っても難に逢い、天皇の位に上りませんでした。これから見ると、尊卑は明らかです。それを敢えて墓を破ったら、誰を主人として天の霊に仕えるでしょうか。これは毀すべきでないことの一つです。また天皇と億計は、白髪天皇の寵愛に逢わなかったら、宝位に上れたでしょうか。大泊瀬天皇は白髪天皇の父です。億計は聞いています。・・・陛下は国を治めて徳行は天下に聞こえています。それなのに御陵を毀し、華裔(みやこひな)に見せたら、億計は国に臨み、百姓を養うことが出来ないのではないかと恐れます。その毀すべきでないことの二つであります』と言った。天皇は『よろしい』と言い、その役を止めた」とある。

 

故天皇崩。即意富祁命知2天津日繼1。天皇。御年參拾捌歳。治2天下1八歳。御陵在2片岡之石坏岡上1也。

 

訓読:かれスメラミコトかむあがりまして、すなわちオオケのミコトあまつひつぎしろしめしき。スメラミコト、みとしミソジマリヤツ。やとせアメノシタしろしめしき。ミハカはカタオカのイワツキのオカのへにあり。

 

口語訳:天皇が崩じた。すぐに意富祁命が後を継いだ。天皇は三十八歳だった。天下を治めたのは八年である。御陵は片岡の石坏の岡のあたりにある。

 

天皇崩は、書紀に「三年夏四月丙辰朔庚辰、天皇は八釣の宮で崩じた」とある。○意富祁命(おおけのみこと)。【多くの本に「富」の字がない。ここは真福寺本、延佳本によった。】○天津日繼(あまつひつぎ)【「繼」の字は、真福寺本には「績」と書いてある。】上巻に見える。【伝十四の三十七葉】○參拾捌歳(みそじまりやつ)。書紀には年齢は見えない。ある書には三十一、ある書には四十八としてある。○治天下八歳(やとせあめのしたしろしめしき)。初めにもそうあったのを、再び記したのはどうか。記中にその例もない。【師は後人の書き加えたものと言った。】○片岡(かたおか)は前に出た。【伝廿一の六十葉】○石坏岡(いわつきのおか)。【旧印本他一本などでは「坏岡」の二字を落としている。ここは真福寺本、延佳本によった。】書紀の仁賢の巻に「元年冬十月丁未朔己酉、弘計天皇を傍丘(かたおか)の磐杯(いわつき)の丘の陵に葬った」、諸陵式に「傍丘の磐杯の丘の南の陵は、近つ飛鳥の八釣の宮で天下を治めた顕宗天皇である。大和国葛下郡にある。兆域は東西二町、南北三町、陵戸一烟、守戸三烟」とある。【「南の陵」とは、後に「北の陵」もあるから言う。】大和志に「傍丘の磐杯の丘の南の陵は、昔、葛下郡の今市村にあった。宝永年間に陵は崩れて、民の暮らすところになった」と言っている。【畏れ多いことである。ある書に平野村にあると言い、またある書に平野村の北にあり、字(あざな)を片岡山と言うとあるのは、武烈天皇の御陵か。紛らわしい。よく尋ねて見るべきである。】

 

 



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