本居宣長『古事記伝』(現代語訳)44_2

 

 

 

廣國押建金日命。坐2勾之金箸宮1治2天下1也。此天皇無2御子1也。御陵在2河内之古市高屋村1也。

 

訓読:ヒロクニオシタケカナヒのミコト、マガリのカナハシのミヤにましまして、アメノシタしろしめしき。このスメラミコトみこましまさざりき。みはかはカワチのフルチのタカヤのムラにあり。

<訳者註:この「河内」は原文「かふち」とあり、「こうち」と読むのが正しいだろうが、他の地名と紛らわしいので「かわち」と読んでおいた。>

 

口語訳:廣國押建金日命は、勾の金箸宮に住んで天下を治めた。この天皇には子がなかった。御陵は河内の古市の高屋村にある。

 

真福寺本には、初めに「御子」とある。○廣國押建金日命(ひろくにおしたけかなひのみこと)。【「命」の字は、真福寺本には「王」とある。】この天皇の後の漢風諡号は安閑天皇という。○勾(まがり)は、大和国【にこの地名があちこちにあったと思われる中で、これは】廣瀬郡だろうか。書紀の崇峻の巻に「廣瀬の勾の原」と見え、和名抄に「大和国廣瀬郡、下句」という郷がある。これは「しもつまがり」と読むべきである。【「句」は「勾」の正字で、説文に「曲である」と言っている。それを「まがり」には「勾」とばかり書いていたので、「句」とは別にあるように思っているのだろう。「口」を省いて「厶」と書く例は、「圓」、「雖」など普通のことで、多くある。伊邪河の宮の段に「當麻の勾の君」がある「勾」は、ここの勾と同じ土地か別のところか、定かでない。】ただしこの宮は、帝王編年記では「大和国高市郡」と言っている。【神明鏡という書物にも「高市郡勾の金橋の宮」と記している。この高市郡にあるというのは、懿徳天皇の都を書紀に「輕の曲峽(まがり)宮」と見え、欽明の巻に「輕の曲(まがり)殿」と見えるのと同地ではないだろうか。大和志にこの金箸の宮を「高市郡曲川(まがりかわ)村」と言い、「曲川村の旧名は曲金」と言っている。この曲川村は輕からは遠く離れて、いにしえは廣瀬郡だったのが、後に高市郡に属したのか。なおよく考えるべきである。】いずれだろうか、定めがたい。この天皇の名は、書紀に「勾の大兄の皇子」とあるから、元からこの地に住んでいたのだろう。【それを書紀に「遷都云々」と記されたのは、例の文である。】○金箸宮(かなはしのみや)。「箸」は「橋」の意味か、それとも箸に由縁があって名付けられたのか、知りがたい。これを書紀には元からの地名のように書かれているけれども、この宮を賞め称えた名のようにも聞こえる。【続日本紀十八に「勾の金崎の宮」とあるのは、「椅」を「崎」に誤ったのである。】書紀に「元年春正月、都を大倭国の勾の金橋に遷した。それを宮の号とした」とある。【「大倭国」とは例のない書き方だ。】○「無2御子1(みこましまさず)」。書紀に「元年三月、有司は天皇のために億計天皇の皇女、春日の山田皇女の結納を納めて、皇后とした。【またの名は山田の赤見の皇女】別に三人の妃を立てた。許勢の男人大臣の娘、紗手媛(さでひめ)、紗手媛の妹香々有媛(かがりひめ)、物部木蓮子(いたび)の大連の娘、宅媛(やかひめ)である。冬十月、天皇は大伴大連金村に勅して『私は四人の妻がいるが、今に至っても子がない。長い世の間に名が絶えてしまうだろう』云々」【山田皇女のことは、継体七年に見え、八年のところには「太子の妃云々」とあるのを、ここに「納采(結納を受け入れる)」と書かれたのは前後が違う。すべてかの記の漢文の潤色の信じがたいことはこのようである。】○この天皇は年齢を記さず、書紀に「二年冬十二月癸酉朔己丑、天皇は金橋の宮で崩じた。このとき年八十であった」とある。○真福寺本、旧印本、また一本などに、ここに「乙卯年三月十二日崩」とある。【旧印本では大字で本文に書いてある。真福寺本また一本では例によって細字にしてある。また真福寺本では「十三日」となっている。旧印本にも「二」の字の横に「三イ(三の間違いかという意味)」と記している。】乙卯年は書紀と合う。【前の御世御世のこの細注の崩の年は、書紀とはみな合わないのに、ここで初めて合ったのは、やや近い頃だからだろう。】月日は合わない。○河内之古市(かわちのふるち)は【諸本に「之」の字がない。ここは真福寺本によった。】和名抄に「河内国古市郡【ふるち】」とある。古市郷もある。【今もある。】書紀の景行の巻に「河内に至り、舊市邑に留まった」、雄略の巻に「河内の国が言った。・・・古市郡」、欽明の巻に「河内の古市に殯した」などが見える。○高屋村(たかやのむら)は延喜式神名帳に「河内国古市郡、高屋神社」がある。この地である。【今も古市に近く並んで高屋村がある。万葉巻九(1706)に「衣手高屋於(ころもでのたかやのうえに)」とあるのはこの高屋か。大和国城上郡にも同名の地があるから、どちらだろうか。分からない。】書紀に「冬十二月・・・この月に天皇を河内舊市の高屋の丘の陵に葬った。皇后春日の山田皇后、および天皇の妹神前の皇女をこの陵に合わせて葬った」、諸陵式に「古市の高屋の丘の陵は勾の金橋の宮で天下乎治めた安閑天皇である。河内国古市郡にある。兆域は東西一町、南北一町五段、陵戸一烟、守戸二烟」とある。大和志に「古市の高屋の丘の陵、古市の高屋の墓は、ともに古井郡の高屋村にある。【墓は春日の山田の皇女である。今は八幡山と言う。安閑帝の陵の隣である。】」と言っている。【これで見ると、合葬とあるのは、同地に葬ったことだろうか。この墓も諸陵式に見える。前皇廟陵記にこの御陵を「あるいは今の高屋村の城山がこれだ。明応中に、畠山尚慶が城を築いたと言う。あるいは近年土地の民が陵を掘って古代の器物を得たという」と言っている。「城を築いた」というのは御陵とは別だろうか。大和志に「高屋城」と挙げて、「古市村にある」と言っている。さらに詳しく記してある。考えて見るべきである。】

 



もくじ  前へ  次へ
inserted by FC2 system