本居宣長『古事記伝』(現代語訳)44_4

 

 

天國押波流岐廣庭天皇。坐2師木嶋大宮1。治2天下1也。天皇。娶2檜クマ(土+囘)天皇之御子石比賣命1。生御子。八田王。次沼名倉太玉敷命。次笠縫王。<三柱。>又娶2其弟小石比賣命1。生御子。上王。<一柱。>又娶2春日之日爪臣之女糠子郎女1。生御子。春日山田郎女。次麻呂古王。次宗賀之倉王。<三柱。>又娶2宗賀之稻目宿禰大臣之女岐多斯比賣1。生御子。橘之豊日命。次妹石クマ(土+囘)王。次足取王。次豊御氣炊屋比賣命。次亦麻呂古王。次大宅王。次伊美賀古王。次山代王。次妹大伴王。次櫻井之玄王。次麻奴王。次橘本之若子王。次泥杼王。<十三柱。>又娶2岐多志毘賣命之姨小兄比賣1。生御子。馬木王。次葛城王。次間人穴太部王。次三枝部穴太部王。亦名須賣伊呂杼。次長谷部若雀命。<五柱。>凡此天皇之御子等。并廿五王。此之中沼名倉太玉敷命者。治2天下1。次橘之豊日命。治2天下1。次豊御氣炊屋比賣命。治2天下1。次長谷部之若雀命。治2天下1也。并四王治2天下1也。

 

訓読:アメクニオシハルキヒロニワのスメラミコト、シキシマのオオミヤにましまして、アメノシタしろしめしき。このスメラミコト。ヒノクマのスメラミコトのみこイシヒメのミコトにみあいまして、ウミませるミコ、ヤダのミコ、つぎにヌナクラフトタマシキのミコ、つぎにカサヌイのミコ。<みはしら。>またそのおとオイシヒメのミコトにみあいまして、ウミませるミコ、カミのミコ。<ひとはしら。>またカスガのヒツマのオミのむすめヌカコのイラツメをめして、ウミませるミコ、カスガのヤマダのイラツメ、つぎにマルコのミコ、つぎにソガのクラのミコ。<みはしら。>またソガのイナメノスクネのオオオミのむすめキタシヒメをめして、ウミませるミコ、タチバナのトヨヒのミコト、つぎにいもイワクマのミコ、つぎにアトリのミコ、つぎにトヨミケカシキヤヒメのミコト、つぎにまたマロコのミコ、つぎにオオヤケのミコ、つぎにイミガコのミコ、つぎにヤマシロのミコ、つぎにいもオオトモのミコ、つぎのサクライのユミハリのミコ、つぎにマヌのミコ、つぎにタチバナモトのワクゴのミコ、つぎにトネのミコ。<とおまりみはしら。>またキタシヒメのミコトのおばオエヒメをめして、ウミませるミコ、ウマキのミコ、つぎにカヅラキのミコ、つぎにハシビトアナホベのミコ、つぎにサキクサベのアナホベのミコ、またのみなはスメイロド、つぎにハツセベのワカサザキのミコト。<いつばしら。>すべてこのスメラミコトのみこたち、あわせてハタチマリイツはしら。このなかにヌナクラフトタマシキのミコトは、アメノシタしろしめしき。つぎにタチバナのトヨヒのミコトも、アメノシタしろしめし、つぎにトヨミケカシキヤヒメのミコトも、アメノシタしろしめし、つぎにハツセベのワカサザキのミコトも、アメノシタしろしめしき。あわせてヨハシラなもアメノシタしろしめける。

 

口語訳:天國押波流岐廣庭天皇は師木嶋の大宮に住んで、天下を治めた。この天皇が檜クマ(土+囘)天皇の子、石比賣命を娶って生んだ子は八田王、次に沼名倉太玉敷命、次に笠縫王。<三人である。>またその妹小石比賣命を娶って生んだ子が上王である。<一人である。>また春日の日爪臣の娘、糠子郎女を娶って生んだ子が春日山田郎女、次に麻呂古王、次に宗賀之倉王である。<三人である。>また宗賀之稻目宿禰大臣の娘、岐多斯比賣を娶って生んだ子は、橘之豊日命、次に妹石クマ(土+囘)王、次に足取王、次に豊御氣炊屋比賣命、次にまた麻呂古王、次に大宅王、次に伊美賀古王、次に山代王、次に妹大伴王、次に櫻井之玄王、次に麻奴王、次に橘本之若子王、次に泥杼王であった。<十三人である。>また岐多志毘賣命の姨、小兄比賣を娶って生んだ子は、馬木王、次に葛城王、次に間人穴太部王、次に三枝部穴太部王、またの名を須賣伊呂杼という。次に長谷部若雀命である。<五人である。>この天皇の御子たちは、全部で廿五王いた。この中、沼名倉太玉敷命は天下を治めた。次に橘之豊日命も天下を治め、次に豊御氣炊屋比賣命も天下を治め、次に長谷部之若雀命もまた天下を治めた。あわせて四王が天下を治めた。

 

真福寺本には初めに「弟」とある。○廣庭天皇(ひろにわのすめらみこと)。段の初めに名を挙げた例は、いずれも「某の命」なのを、このように「天皇」と挙げた例は、中巻に景行天皇、成務天皇、仲哀天皇、この巻に崇峻天皇などだけである。この天皇の後の漢風諡号は欽明天皇という。○師木嶋大宮(しきしまのおおみや)。「師木」は前に出た。【伝廿三の二葉】「嶋」とはすべて周囲の限りがあって、一区画なのを言う名で、【海中に限らない。】秋津嶋というのも、もとは孝安天皇の都の名で、大和のうちの地名だった。應神天皇の都も輕にあるのを輕嶋の明の宮という。このことはさらに詳しくは國號考の秋津嶋の條、師木嶋の條で言っている。だからこれも秋津嶋の宮、輕嶋の宮の例のように、師木の地にあるのを師木嶋と言っているのだ。書紀の敏達の巻にこの天皇を「磯城嶋の天皇」と見え、孝徳の巻にも「磯城嶋の宮で天下を治めた天皇」とある。すべて天皇の宮を「大宮」というのは普通だが、御世御世の段の初めにはみな「坐2某宮1」とあって、「某の大宮」という例は記中にはない。どんなものか。【続日本紀十二、「昔者輕堺原大宮御宇天皇(むかしのかるのさかいばらのおおみやにあめのしたしろしめししすめらみこと)云々」などということはある。】ただこれは特にめでたい御世で、この宮の号は後世まで大倭の大号になったほどだから、殊に大宮と挙げたのではないか。書紀には「元年秋七月、都を倭国の磯城郡磯城嶋に移した。そこで磯城嶋の金刺の宮と名付けた」とある。【大和志にこの宮を「城上郡金屋村の青年、初P川の南にある」と言っている。】○檜クマ天皇(ひのくまのすめらみこと)。【クマの字を旧印本、また一本に「隈」とあるのは、この記の例と違う。ここは真福寺本、延佳本によった。下の石クマのクマも同じ。】○八田王(やたのみこ)。和名抄に「大和国添下郡、矢田郷」、【延喜式神名帳に「矢田坐(やだにます)云々神社」もある。万葉巻十(2331)に「八田乃野(やたのぬ)」と詠んでいるのもこの地である。】この地名である。書紀には「箭田(やた)の珠勝(たまかち、たままさ)の大兄の皇子」とあって、【この「勝」は「かち」と読むのか、「まさ」と読むのか。「勝」をそう読むことは、伝卅三の卅六葉で言った通りだ。】「この御世の十三年夏四月薨じた」とある。○沼名倉太玉敷命(ぬなくらふとたましきのみこと)。書紀に第二子とある。名の意味は中巻の神沼河耳命のところで言った。【伝廿三の六葉】これが称え名になる理由は定かでない。沼名(ぬな)という名の例などは、水垣の宮の段の沼名木之入比賣(ぬなきのいりひめ)命のところで言った。【伝廿三の六葉】「倉」は谷の意味か。【谷を「くら」と言うことは、上巻の闇淤加美(くらおかみ)神のところ、伝五の七十七葉で言った通りだ。】「沼名河」とも天武天皇の名を「淳名原」とも言うのを思えば【「河」とも「原」とも続くから、】「谷」とも言うべきか。書紀神功の巻に【住吉の大神の鎮まった地を】「大津淳名倉之長峽(おおつのぬなくらのながお)」とある「倉」も谷を言うかと思われるからである。しかし称え名になる理由は定かでない。「太玉敷」は称え名である。【兄王の「玉勝」と並んだ名だろう。】○笠縫王(かさぬいのみこ)。書紀の崇神の巻に「笠縫邑」【これを十市郡にあると言うが、確かではない。】がある。この地の名か。忍坂彦人(おさかのひこひと)太子の子にも同名がある。書紀に「元年・・・正妃武廣國押盾天皇の皇女、石姫を立てて皇后とした。これは二男一女を生んだ。上を箭田珠勝大兄皇子と言い、中の子を譯語田淳名倉太珠敷(おさだのぬなくらふとたましき)尊と言い、下を笠縫皇女という。【またの名は狹田毛(さだけ)皇女という。】」とある。○上王(かみのみこ)。【延佳本に石上王と書いたのは、書紀によって自分勝手に石の字を加えたのだろう。諸本共に「石」の字はない。】和名抄で大和国の葛下郡、宇智郡、吉野郡、城下郡、高市郡などに「賀美(かみ)郷」がある。これらのうちの地名だろう。【新撰姓氏録に「上村主(かみのすぐり)」などいう姓も、これらの地名だろう。】書紀崇峻の巻に「上女王(かみのひめおおきみ)」というのもある。書紀に「二年春三月、五妃を入れた。初めの妃は皇后の妹で、稚綾姫(わかやひめ)皇女と言う。これは石上皇子(いそのかみのみこ)を生んだ」とあるのは、伝えの紛れだろう。【稚綾姫とあるのは、この記には倉之若江王とあって、それは男王であることは檜クマの宮の段で言った通りだ。それを皇女としたのは、小石姫命を誤ったものだろう。また石上皇子も、この記に上王とあるのが正しいだろう。】○春日之日爪臣之女糠子郎女生御子(かすがのひつまのおみのむすめぬかのこのいらつめうみませるみこかすがのやまだのいらつめ)。春日の山田郎女とは廣高の宮の段に見え、【上の「春日」をその段には「丸邇」とあるが、丸邇も春日のうちなので、同じことである。】山田郎女はその天皇【仁賢】の子なのに、またここにこうあるのは、伝えの紛れである。【春日の山田の郎女は、安閑天皇の大后であるから、仁賢天皇の子であることは明らかだ。とするとこの欽明の段の方を誤りと定めるべきだ。】○麻呂古王(まろこのみこ)。【諸本に「古」の字がない。書紀にも麻呂の皇子とある。しかしここは真福寺本に「古」の字があるのによった。その理由は後で言う。】この王も下にある麻呂古王が紛れて重なったのであって、書紀にも「春日の日ツマ(木+爪)臣の娘、糠子というのが春日の山田の皇女と、橘の麻呂の皇子を生んだ」とあるけれども、これも伝えの紛れであることはこの記と同じだ。○宗賀之倉王(そがのくらのみこ)。【諸本で「王」の字を落としている。ここは真福寺本、延佳本によった。】「宗賀」も「倉」も地名で前に出た。この王も小石比賣命の生んだ子であるが、このように紛れたのだ。書紀に「次に皇后の妹があって、日影皇女という。この人は倉皇子を生んだ」とあるのも、母は小石比賣命なのを、誤って別の人物とした伝えで、日影皇女というのは、小石比賣命のまたの名であろう。宣化天皇の巻に、日影皇女という子はいなかったからである。【そのため分注に「ここに皇后の妹と言うのは云々」といって、これを不審がっている。それなのに帝王編年記で、宣化天皇の皇女に同母妹で山下の日影の皇女があるのは、書紀のこの巻によって加えたものだろう。】とするとこの三人の王は、【山田郎女、麻呂古王、倉王。】この記も書紀もともに紛れがあって、山田郎女と麻呂古王は重複した誤り、倉王は母を誤ったものだ。○宗賀之稻目宿禰大臣(そがのいなめのすくねのおおおみ)。「宗賀」は姓で前に出た。【伝廿二の二十五葉】「稻目の宿禰」は新撰姓氏録【田中朝臣、また岸田朝臣の條】に「武内宿禰の五世の孫、稻目宿禰」と見え、また【櫻井朝臣、箭口朝臣の條】「蘇我石川宿禰の四世の孫、稻目宿禰の大臣」など見え、【石川の宿禰は、武内大臣の子である。】公卿補任に「蘇我の稻目の宿禰は満知(まんち)の宿禰の曽孫、韓子(からこ)の孫、高麗(こま)の子である」と見える。【満智(まんち)宿禰は履中記に見える。石川宿禰の子であろう。韓子宿禰は雄略紀に見える。】書紀の宣化の巻では「元年二月蘇我の稻目宿禰を大臣とした」、この巻(欽明)に「三十一年三月、蘇我の大臣、稻目宿禰は薨じた」とある。【一代要記に年六十五歳とある。また駿河国風土記に「u頭郡の烏羽(からすば)の陵は、天國排開廣庭天皇の三十七年庚寅二月、蘇我稻目が薨じた。夢のお告げで骸をここに納めた。その骸は烏の羽の色に似ていた。故にこう名付けた」とあり、また「富士郡の縣畑神社は、蘇我稻目を祭る」などがある。この風土記は今の京(平安京)になってのものである。】○岐多斯比賣(きたしひめ)。この名は書紀では「堅鹽」と書いて訓注に「これを『きたし』と読む」とある。和名抄に「崔禹錫の食經にいわく、石鹽、一名白鹽、また黒鹽とある。今考えるに、俗に黒鹽を堅鹽と呼ぶ。日本紀の私記にいわく、堅鹽は『きたし』というのがこれである」とある。大膳式に「堅鹽千五百顆」などがある。【今の世に「焼き塩」というものだ。】このものに縁があって名になったのだろう。【延喜式神名帳に「大和国城下郡、岐多志太(きたしだ)神社」というのもある。】書紀の推古の巻に「皇大夫人の堅鹽媛を檜隈の大陵に改め葬る。云々」とある。○橘之豊日命(たちばなのとよひのみこと)。書紀に第四子とある。「橘」は地名で、前に言った。「豊日」は称え名だろう。【三代実録七に「大和国の豊日の神」というのが見える。大和志にこの社を山邊郡豊井村にあると言っている。】孝徳天皇も「天萬豊日尊(あめよろずとよひのみこと)」と言う。○石クマ(土+囘)王(いわくまのみこ)。地名だろう。その地はまだ考えつかない。○足取王(あとりのみこ)。この名は書紀に「臘子鳥(あとり)」【本では「子」の字が落ちている。】とあって、鳥の名である。和名抄に「辨色立成にいわく、臈?(比の下に角)鳥は『あとり』、あるいは胡雀という。楊氏の漢語抄にいわく、和名は上と同じ。・・・ある説にいわく、この鳥は群れて飛ぶこと、兵卒が山林に並んでいるようである。ゆえにカツ?(けものへん+葛)子鳥という」とあるのがそうだ。【天武紀に「臘子鳥が空を覆って西南から東北の方へ飛んで行った」、また云々、万葉巻廿(4339)に「久爾米具留阿等利加麻氣利由伎米具利(くにめぐるあとりかまけりゆきめぐり)云々」、「かまけり」は「かまびすしい」である。】この鳥に由縁があって名になったのだろう。○豊御氣炊屋比賣命(とよみけかしきやひめのみこと)。この名はどういう理由があったのだろうか。「厩戸皇子」のたぐいの由縁であろう。【書紀のその巻に「幼い時は額田部皇女といった」とある。】○次亦(つぎにまた)。これは前にも麻呂古王があるので、「また」と言ったのだろう。【この「亦」と言った辞からも、上の麻呂古王の「古」の字がないのは良くないことが分かる。】○麻呂古王(まろこのみこ)。継体天皇の子にも同じ名がある。この名のことは、その段で言った。【伝この巻の十一葉】○大宅王(おおやけのみこ)。地名で、前に出た。【伝廿一の二十六葉】または乳母の姓でもあろうか。【そのことは次に言う。】天武紀にも同名がある。○伊美賀古王(いみがこのみこ)。名の意味は定かでない。書紀には「石上部の皇子」とある。○山代王(やましろのみこ)。乳母の姓か、または地名【山代国に「山代」という地もあることは、伝卅六の十五葉で言った。】か。天武紀に「山背姫王」というのもある。○大伴王(おおとものみこ)。これは乳母の姓に聞こえる。【淳和天皇の名の「大伴」もそうである。桓武天皇の御子たちの名は、男王、女王ともにみな乳母の姓である。】皇子、皇女たちの名に乳母の姓を採って言うことは、伝廿の巻【七葉】で言った。考え合わせよ。ただし上の御代御代には、その例の名は見えない。確かにそれと聞こえるのは、この御世【欽明】の子から見える。次に言うような例だ。【ただしそれより前にも、近い時代には既にあったのだろうか。細かくは分けられないが、地名だといった中にも乳母の姓があるのではないか。継体天皇の御子の中に、出雲郎女、神前郎女、茨田郎女、小野郎女など、宣化天皇の御子、若江王などもそれなのかどうか、分からない。】諸陵式に「押坂の内の墓は大伴皇女である。大和国城上郡、押坂陵の域内にある。守戸なし」とある。○櫻井之玄王(さくらいのゆみはりのみこ)。「玄」は「弦」の字の偏を省いて書いたものだ。【いにしえには字の偏を省いて書くことが多かった。前に言った。】持統紀にも「正月上玄(むつきのかみつゆはりのひ)」とある。「ゆみはり【または『ゆはり』とも】」読む。和名抄に【「劉熈の釋名にいわく、弦月は月の半ばを言う。その形は一方は曲がり、一方は直線である。弓に弦を張ったようである。」】「弦は和名『ゆみはり』、上弦と下弦がある」とある。天武紀に「紀の朝臣、弓張」という人が見える。この名は月の上下の弦の間に生まれた由縁などで名付けられたのか。櫻井は地名か。【伝廿二の二十八葉】乳母の姓か。敏達天皇の子にも同じ名がある。書紀には、この王の名は単に「櫻井皇子」とある。【そこで考えるに、この名は書紀の方が正しく、この記は敏達天皇の子の名から紛れて、これも「玄」と伝えたのだろう。同名も場合による。「櫻井」も「玄」も連ねて同じ名になることはありそうにない。】○麻奴王(まぬのみこ)。【「奴」の字を真福寺本で「恕」と書いたのは、「怒」の字を写し誤ったのだろう。記中、「野」の仮名には「奴」を書かず、「怒」を書くのが通例だから、「怒」の方が正しいだろう。この「奴」も「野」の意味に聞こえるからである。】これも地名か、乳母の姓か。【新撰姓氏録に「眞野臣」、「眞野造」などが見える。】この王は、書紀には「肩野(かたぬ)皇女」とある。【河内国に「交野(かたぬ)郡」がある。新撰姓氏録に「肩野連」が見える。また思うに「肩」の字は「間」の字の右端(「門」の右の部分)が落ちたもので、この記と同じではないだろうか。】○橘本之若子王(たちばなもとのわくごのみこ)。橘は地名だと思うが「本」ということは納得がいかない。あるいは橘の樹の下で生まれたのだろうか。○泥杼王(とねのみこ)。この名は不審である。書紀には「舎人皇女」とあるのによれば、「杼泥」を上下写し誤ったのか。しかし「杼」は濁音の仮名だから、どうだろうか。【遠つ飛鳥の宮の段の歌にも、清音であるはずのところに誤って「杼」を書いたところがある。】これは乳母の姓だろう。天武紀に「舎人の糠虫」という人が見え、新撰姓氏録にも「舎人(とね)氏」が見える。書紀の推古の巻に「當麻(たぎま)皇子が播磨に到った時、従っていた妻、舎人姫王が赤石(あかし)で薨じた。そこで赤石の檜笠の丘の上に葬った」とあるのはこの王か、別なのだろうか。書紀に「次に蘇我大臣稻目宿禰の娘、堅鹽媛は七男六女を生んだ。最初が大兄(おおえ)皇子と言い、橘豊日尊である。二に磐隈皇女【またの名は夢(いめ)皇女】、初めて伊勢大神を祀った。後に皇子茨城に犯されて職を解かれた。三に臘子鳥皇子、四に豊御食炊屋姫尊、五に椀子皇子、六に大宅皇女、七に石上部皇子、八に山背皇子、九に大伴皇女、十に櫻井皇子、十一に肩野皇女、十二に橘本稚皇子(たちばなもとわくごのみこ)、十三に舎人皇女である」とある。【「稚」の下に「子」の字が落ちたのだろう。】この記では男王、女王とも同じく「王」と書いて、【これは当時の言い方そのままである。】区別はないのを、書紀によって男女を分けるのである。○姨(おば)は稻目大臣の妹である。【ただし小兄比賣と言い、書紀にも小姉の君とあるのによれば、姉であったかも知れない。】書紀に「堅鹽媛の同母弟」とあるのは伝えが異なるのである。【書紀によって、ここの「姨」の字は「妹」を誤ったのかとも思えるが、いにしえは姉に対して妹は「弟」と言うのが通例だ。「妹」と言った例は一つもない。】○小兄比賣(おえひめ)は「兄比賣、弟比賣」という名の例が多く、その兄比賣に「小」の字を添えた名だ。【この姉に「大兄比賣」があったのか。なくとも言うだろう。師(賀茂真淵)は書紀の「小姉」の訓によってこれも「おなね」と読んだが、「なね」を兄と書くのは、この記の書き方ではない。書紀の「小姉」のここの字によって、同じく「おえ」と読むべきだと思う。】○馬木王(うまきのみこ)。書紀には「茨城皇子」とある。「うばら」の「ら」を省いて、「うまき」とも言ったのだろう。【「ば」と「ま」が通うのは普通だが、万葉巻廿(4352)では「いばら」を「うまら」と詠んでいる。】これも乳母の姓だろう。新撰姓氏録に「茨木造」が二氏見えている。○葛城王(かづらきのみこ)。新撰姓氏録に「葛城朝臣」、「葛木忌寸」、「葛木直」などが見える。敏達天皇の子にも同じ名がある。また天智天皇も、初めは葛城皇子といった。その他にも同名がある。○間人穴太部王(はしびとのあなほべのみこ)。【「太」の字は、真福寺本では「大」と書いている。どちらでもよい。】「間人」は「はしびと」と読む。【「はしうど」と読むのは、後に崩れた音便である。】「間」は借字で、【ものの間を「はし」と言うことは例が多い。】「土師人」の意味だ。【「土師」は「はにし」なのを、「に」を省いて言う時は「し」を濁って、「はじ」というのが通例だが、この名に「間」の字を借りて書いているのを見ると、「し」を清んで言うこともあったのだろう。土師のことは伝廿五の六十七葉に言った。】ということは、この名の「間人」は乳母の姓である。新撰姓氏録に「間人宿禰」、「間人造」などが見える。丹後国竹野郡に間人郷もある。穴太部のことは次に言う。この名は、書紀の用明の巻、推古の巻に「穴穗部の間人皇女」ともある。【舒明天皇の子にも間人皇女というのがいる。】これは用明天皇の大后である。諸陵式に「龍田の清水の墓は、間人女王である。大和国平群郡にある。兆域は東西三町、南北三町、墓戸二烟」とある。【天智天皇六年に「小市の丘の上の陵に合葬した」とある間人皇女は舒明天皇の子で、別である。思い違ってはならない。】○三枝部穴太部王(さきくさべのあなほべのみこ)。「三枝部」は乳母の姓である。この姓は前に出た。【伝七の七十九葉】「穴太部」は姉王の名であり、同じくこの王の名になったことを不審に思えるのを、あれこれ考えると、二柱とも同じ地名で、大和国にあり、【この頃になっては、御子たちは京に近い大和国の内に住んだだろうと思われるからである。】姉妹ともにそこに住んでいたことから、共に穴太部の王と言ったのだろう。ただし大和のこの地名は物の本に出て来ない。今も聞こえない。【吉野の奥に「穴太」はあるが、そこではないだろう。】いにしえにあったのだろう。【この地名は穴太部という人たちが住んだことから付いた名である。穴太部のことは伝廿四の廿一葉、沙本の穴太部のところで言った。沙本の穴太部というのも、沙本に住んだ穴太部である。】あるいは安康天皇の穴穗の宮の地を穴太部とも言ったか。【河内の日下を日下部という例がある。】いずれにせよ、この名は地名と思われる。【それともこの二人の名は、どちらも乳母二人の姓を重ねた名か。穴穗部の造という姓も天武紀などに見える。しかし二人の姓を名に負ったなら、三枝部の王とも穴太部の王ともいうことはあっても、二つの姓を一つに負うことはありそうにない。そういう例も見えない。特にこれは二人ともに負っているから、乳母の姓とは言い難い。二人の名がともに復姓かとも思ったが、姉妹の乳母が共に復姓で、共に穴太部氏だということはありそうにないことだ。だからこの名は地名とする以外に考えられない。後の人はよく考えて頂きたい。】この王は、書紀では「デイ(泥の下に土)部(はしびと)の穴穂部の皇子」とある。伝えが異なるのである。【これはこの記の方が正しいだろう。兄弟が全く同じ名であることはありそうにないからである。ことに「デイ部」は乳母の姓だからなおさらである。この「デイ部」は「はしびと」なのを本に「はせつかべ」と読んで、傍らに「丈部」と書いているのは大きな間違いである。丈部とは大きく異なる。天武紀などに見える姓の「デイ部」も同じだ。】敏達紀、用明記などに単に「穴穗部皇子」とあるのもこの王である。崇峻の巻で、蘇我の馬子に殺された。○須賣伊呂杼(すめいろど)。日代の宮の段に「須賣伊呂大中日子王」というのがある。浮穴の宮の段に「蠅伊呂泥」、「蠅伊呂杼」というのがある。名の意味はそのところに言った通りだ。【伝廿一の十四葉、伝廿六の十二葉】○長谷部若雀命(はつせべのわかさざきのみこと)。【「雀」の字を旧印本で「鷦鷯」と書いたのは後世の人のしわざであることは、大雀命の段で言った通りだ。】「長谷部」は乳母の姓である。長谷部君が前に見える。【伝二十二】また新撰姓氏録に「長谷部造」もある。「若雀」が武烈天皇の名【小長谷の若雀の命】とそっくりなのは、その】名と間違えて伝えたのではないだろうか。書紀には「泊瀬部皇子」とあるのが正しいだろう。【その巻にも泊瀬部の天皇とあり、若雀という名は見えない。】この御子は書紀では第十二子となっている。○廿五王(はたちまりいつはしら)。記中、このように子が多い場合は、この下に細書で「男王幾柱、女王幾柱」と男女の内訳が書いてあるのが通例だが、ここにはその注がない。ここは男王十六柱、女王九柱である。○次長谷部之云々。この御子が天下を治めたのは、炊屋比賣命より先だが、ここは上に挙げた順序によって、次に挙げたのである。【真福寺本には、この下の「天下」の下に「也」の字がある。上の三人の「治天下」の下にはその字はないが、ここは終結だからあるのも良かろう。】○并四王云々。およそ御世御世の間に、同じ天皇の御子たちのうち、四柱もの御子が天下を治めた例は、この天皇【と、近い時代の後水尾天皇の御子たち、明正天皇、後光明天皇、後西院天皇、靈元天皇の四柱と】のみであった。非常に珍しいことなので、特にこう書いたのだろう。○この天皇は年齢を記さず、御陵も書かない。【例の細注もない。】書紀に「三十二年夏四月戊寅朔壬辰、天皇は病に倒れた。この月、天皇は寝ているうちについに崩じた。時に年若干」とある。ある書に年六十二と言う。○御陵は書紀に「三十二年・・・河内古市で殯した。九月、檜隈坂合陵に葬った。【推古の巻に、「廿八年冬十月、砂礫で檜隈陵の上を葺いた。すなわち域外に土を積んで山を造り、氏々に仰せて、大きな柱を土の山の上に立てた。このとき、倭の漢の坂上直の建てた柱が勝れて大きく高かった。そこで世の人は、大柱の直と呼んだ」。】諸陵式に「檜隈の坂合の陵は、磯城嶋の金刺の宮で天下を治めた欽明天皇である。大和国高市郡にある。兆域は東西四町、南北四町、陵戸五烟」とある。この御陵は、大和志に「高市郡平田村にある。俗に梅山という。傍らに翁仲(翁の石像)が二体ある」という。【荒木田久老いわく、「この御陵は丘から平田村へ行く間、道の北の方である。陵の上はすっかり砂礫で覆われている。その山の中程に、石人が四つ立っている。一つは男の形で、裾をあげて陰部を顕わにしている。一つは女の形で、左右の乳を隠し、これも陰部を顕わにしている。二つとも、頭に見慣れない怪しいものを被っている。他の一つは法師に似た形、一つは猿に似ている。四つとも高さ四尺ほどある。怪しいものだ。どういう由縁のものかは知らないが、あるいは天鈿女命の俳優(わざおぎ)の形で、御陵の霊魂を招き寄せる意図であろうか」という。】

 

 



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